死人返り 12  -死人遊戯-

 暗い道なき道を突き進む僕たちの行く手には、永遠に続くんじゃないかってぐらい真っ暗な森が何処までも続いていた。
 そろそろ、何かの兆しでもあればいいのに…って、そうじゃない。もう、あんな動く死体を見たいワケじゃないんだけど、これから先はうじゃうじゃいるって聞いているから、それは覚悟しなくちゃいけないんだよな。
 うう、オカルト物は本当に苦手なのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 そうだ、これは全部僕が悪いんだ。
 何でも卒なくこなして、誰からも愛される弟に嫉妬して、邪険に振り解いてしまったあの指先…もう一度握れるのなら、僕は何度だって握るし、どんなことだってしてみせる。
 そう決心して、この波埜神寄島に来たのに…弱音を吐くんだからどうしようもない。
 僕は駄目なヤツなんだ。

「くっれーな!さっきからどんより雲を背負ってんじゃねーよ。んなことしてたら、知ってるか?死霊鬼に魂を喰われた連中はそんな陰気さが大好物なんだぜ。うじゃうじゃ出てくるんじゃねーのか??」

 だって、そんなこと言ったって…僕は今更気付いてしまったんだ。
 もし、匡太郎を救ったら、翠祈、お前はどうなってしまうんだい?
 僕は…確かに弟も大切だ。でも、こうして何の見返りもなく手助けしてくれる翠祈を、もしかしたら、見殺しにしてしまうんじゃないかって不安で仕方ない、なんて、コイツに言っても笑われるだけなんだろうけど。
 うんざりしたように肩越しに振り返る翠祈がペロリと真っ赤な舌で下唇を舐めるその仕種を、下唇を突き出して胡乱な目付きで見上げる僕を、彼は大袈裟に溜め息を吐いて肩なんか竦めるんだ。
 でも、そこで僕はまたしても唐突にハッとしてしまうんだ。
 僕は、人のことなんか気にする性格じゃなかった。
 僕はとても冷たい人間で、いつも、陽気で明るくて誰にでも好かれる匡太郎に醜い嫉妬ばかりして、全部上出来の弟が悪いと思い込んで生きてきたような、最低な人間だった。はずなのに、こんな嫌味ばっかで、でも、確実に僕の願いを聞き届けてくれている翠祈を、匡太郎から優しさを取ったらこんな感じかなぁ…と、思えてしまう荒神を心配しているなんて。
 僕を知る人が見たら、きっとビックリしてしまうだろうな。

「…あの」

 思わず前を行く翠祈の服を掴んだから、頭をバリバリと掻いていた荒ぶる神様は、「なんだよ」と胡散臭そうな目付きをして見下ろしてきた。
 僕は、何を言おうとしたんだろう。
 翠祈、匡太郎の謎が解けてしまったら、お前はどうなるの?
 そんなこと、本気で聞こうとしたのかな。
 剣呑とした、匡太郎では今まで見たこともない冷やかな双眸は、まるで虫けらでも見るような翠祈の標準装備の目つきだから、もう慣れてしまった。
 慣れちゃったから、僕はその目を見詰め返して頭を振ることしかできない。

「ごめん、なんでもない」

「?」

 ああ?ヘンなヤツだなー、とでも思ったんだろうな、翠祈は肩を竦めるとそれ以上は何も言わなかった。
 でも、僕は…やっぱり、匡太郎も翠祈も心配だ。
 この島に来てからあまりに多くのことが起こりすぎたから、僕の頭は許容範囲を大幅に超えて、何が何だか判らなくなってしまったのかもしれない。
 僕はこんな性格じゃない…でも、ほんの少しでも、こんな性格が変われるのなら、僕は変わってみたいと思ってる。

「翠祈、やっぱりさ…ッ」

 服を掴んだ手はそのままで、紫魂の槍を杖替わりに歩いていた僕は、やっぱり意を決して口を開き掛けたんだけど、前方を睨みつけたままでサッと身を翻して僕の口を塞ぐと素早くしゃがみ込んでしまった翠祈に目を白黒させてしまった。
 な、何が起こったんだ?!

「見ろよ。御大将さまの御殿だ」

 ニヤッと嗤う翠祈の双眸は、スゥッと細められていて、これから始まるかもしれない阿鼻叫喚の地獄絵図を楽しみにしている…なんて顔をしてるんだ!
 それでなくてもオカルト物が大の苦手の僕なのに、翠祈のその顔付きにだって思わずガクガクブルブルしそうなのに、うぅ~、僕、本当に大丈夫かな。
 両手を祈るように組んで、情けないんだけど、思わず滝涙を零しそうな僕は翠祈の傍らで恐る恐る草の茂みからその先を覗いた。
 覗いて、思わず上がりそうになる悲鳴を必死で飲み込んだ。
 そんな僕を、翠祈は片方の眉を器用に上げて、やればできるなぐらいの気安さで鼻先で笑うんだから…酷いんだけど、今の僕は言い返す気力もない。
 だって…
 草の茂みから先は一段低くなっていて、さらに坂道のように続く窪地にあるその建物は、年代を物語る古さで、篝火の炎が作り出す陰影にゆらゆらと不気味に浮かび上がっていた。
 その周辺を、もう、形すら留めていない死体や蒸気のような靄、人間の形を留めていても腐り果てた皮膚が垂れる手に握り締めた日本刀は、どれも炎の光を受けて凶悪にギラギラと鈍く光っているんだ。

「すす…翠祈!どうしよう、武器とか持ってるよッッ」

 思わず片腕で翠祈の腕を掴んだ僕は、今見てしまった、信じられない光景に思わずどもりながら訴えたんだけど、荒ぶる神様である翠祈は、殊更気にした様子もなくニヤッと笑うんだ。
 どーして笑えるんだよ、こんな状況なのに!

「おもしれーじゃねーか。日本刀なんざ振り回してチャンバラごっこでも始めますか?数百年ぶりに腕が鳴るぜ」

 そんな犬歯が匡太郎にあったかな?と首を傾げる僕の前で、なんだか、ゾクゾクしてるような顔付きでニィッと犬歯を覗かせて嗤う翠祈の、その壮絶な表情に、目の前の不気味な死体が蠢く屋敷との相乗効果で、いよいよ僕は頭がクラクラしてきた。
 いや、倒れちゃダメだ。
 それどころじゃないんだから…自分に言い聞かせても、ペロリ…っと真っ赤な舌で下唇を舐める翠祈に、青褪めた顔をしたままで僕は口を開いていた。

「うん、期待してるから」

 今の僕に言えることなんかそれぐらいしかない。

 そんな僕に、翠祈は呆れたような顔をして見下ろしてくるんだけど…だってさ、翠祈みたいに荒神なんて言う存在だと、少々の不思議現象でもなんでもどんとこいで、平気でやってのけちゃいそうな雰囲気があるじゃないか。でも、僕は違うんだ、上出来の弟に嫉妬して、その弟を死なせちゃうぐらいには情けない人間でしかないんだから…
 言い募る僕の頭を抱えるようにして口を片手で塞ぎながら、翠祈は片時も陰惨で禍々しい雰囲気の渦巻く古びた館から目を逸らさずに、低い声でボソボソと呟いたんだ。

「あんたなぁ~、なんの為に壱太の妹に紫魂の槍を貰ったんだ?そりゃ、なんだ。ただの飾りの棒っきれかよ?」

 何もかも飲み込んで、人の恐怖ですら好物とでも言わんとばかりの、ゆっくりと襲い掛かる前の猛獣のような顔からは、どうしても想像できない軽口で僕を諌める翠祈に…うぅ~、判ってるんだよ。判ってるんだけど、一度自覚してしまった恐怖ってのはどうしても拭い去れるものじゃないし、それに、どう考えても槍と日本刀じゃ分が悪いのはこっちじゃないか?!

「それでなくても、剣道とかしたことがないんだ。ちゃんと戦えるか、不安に思っても仕方ないじゃないか」

 塞がれた口からじゃくぐもった声しか出せないけど、それでも必死に抵抗してみる。
 肩に凭れさせている紫魂の槍は物言わぬ影のようにひっそりとしていて、絶対に、勝てる自信がないって言い切れる自分が悲しくなってしまうよ。

「紫魂の槍とただの日本刀じゃ天と地よりも差があるって言っといてやるよ。さて、こんなところでグズグズ言ってても埒があかねーな」

 そう言うなり立ち上がった翠祈に腕を掴まれて、必然的に一緒に立ち上がらなくちゃいけなくなった僕なんだけど、もう、草の汁とか…言いたくはないんだけど、死人たちから付着したなんとも言えない異臭を放つ腐った体液だとかが付いてしまったスニーカーで、蹴るようにして歩き出す翠祈に連れられてワケも判らずに歩き出してしまった。

「ちょ、何処に行くんだよ?!」

「決まってんだろ?こんな時化た場所に時化たツラしたあんたといたって面白くもおかしくもねぇ。あの館の裏手に回るんだ。それで、入り込めそうな隙を見つけるのさ。判ったか?この間抜け」

 振り返りもせずに、真っ直ぐに前を見詰めたままで、グングン進む翠祈に腕を掴まれて、行き着く先に何が待っているのかは判らないけど…ひとつだけ、今の僕に判ることがある。
 それは、翠祈がいれば、やっぱり大丈夫なんじゃないかと言うこと。
 他力本願なこと考えているかもしれないんだけど、それでも、こうして匡太郎の面立ちをした、でも全く似ても似つかない雰囲気を纏った、強い腕の持ち主には不安の欠片もないんだ。
 その強い心が掴まれた腕から流れ込んでくるみたいで、僕は、何故かホッと安心してしまっていた。
 たとえ動く死人が居ても、魂だけになって無念に彷徨う幽霊がいたとしても…なんだか、翠祈なら鼻先で笑って、その全てを蹴散らしてくれそうな気がする。実際に鉢合わせすれば、本当にその現場を見ることになると思うんだけど、だから僕は、この翠祈と言う名の荒神を信じていた。

◇ ◆ ◇

 こんな風に強い腕に掴まれて真っ暗な山の中を歩いていると、不意に思い出す記憶がある。
 それは遠い昔、僕がまだ幼い時、家族で行ったキャンプ場の真夜中のトイレで、道に迷ってしまって遭難しそうになったときの記憶。
 あれはただの思い込みの幻だ…って、思い出す度に自嘲してたんだけど、どうしたんだろう?今日の僕はやけにリアルにあの時の記憶を思い出しているんだ。
 ハァハァと慣れない山道で上がってしまう息のリズムが、静かな闇に妙に響いて、僕の鼓膜を刺激しているから、ちょうどこんな風に途方に暮れて歩いていたあの日を思い出してしまうのかもしれない。
 とぼとぼと泣きながら歩く僕の前に、一匹の大きな真っ黒い犬がいた。
 その目は真っ赤で、僕は泣きながら腰が抜けてしまって、近付いてくる野犬から逃げることもできずに嫌々するように首を左右に振るので精一杯だった。
 声も出せない、そんな恐怖に、脆い幼い心はとっくの昔に限界だったのに…犬が。

『なに、泣いてんだよ。この間抜け』

 と言ったんだ。
 そう、その犬は喋ったんだ。
 常識的に…幼い僕にだって判ってた筈なのに、犬が喋るはずないって…でも、幼い僕はその素っ気無い無感情な声に救われて、あんなに怖くて仕方なかった大きな黒い犬に必死で抱きつきながらわーわー泣いてしまった。
 怖かった怖かった、そればかりが頭の中をグルグル回って、でも、犬はそんな僕を疎ましがって振り払う…なんてことはしなかった。仕方なさそうな、どうでもよさそうな、そんな無頓着さでしがみ付いてくる幼い人間の心が静まるまで、じっと待っていてくれた。

『来い、お前を人間どもの許に帰してやる。時化たツラしたガキのお守りなんざ、オレの趣味じゃねーんだがな。仕方ねぇ。泣かれるのはもっとうんざりだ』

 ブツブツと悪態を吐く、まるで山に棲む鬼か何かみたいに真っ黒で大きくて不気味な犬なのに、僕はホッと安心してしまって、この犬と一緒にいれば何も怖くない…とか、本気で信じ込んでしまっていたんだよな。
 何か、不思議な生き物であることは確かだったんだろうけど、それでもその犬は、僕が不安に落ち込んではしないかと、ピンッと尖った黒い耳を伏せるようにして、やんわりとした表情…ってのもヘンな話なんだけど、強面からは想像できない、ただの気を許している犬みたいな真っ赤な目をして僕の様子を伺っていた。
 子供心に僕は、この犬はそんなに邪悪な悪い犬じゃないと思っていた。そんな悪い犬なら、今頃僕は、犬のお腹の中にいるはずだもの…と、やわらかくてふかふかしている、でも剛毛な犬の背中を確り掴んで考えていたのを覚えている。
 グズグズ泣いている僕を叱咤しながら、山の麓を目指す黒い犬の背中は、僕を励ましてくれていた。

「ワンちゃん、ありがとう」

 だから僕は、グズグズ鼻を啜りながら、いつも母さんからちゃんと有難うって言えないといけないと教わっていたから、両親と弟の許に帰してくれようとしているその黒い犬に、心を込めて感謝の言葉を言ったんだ。
 すると犬は、ふとゆったり歩いていた足を止めて、不思議そうに見下ろす僕を大きな顔で見上げてきた。

『…ワンちゃんかよ。ちッ。礼なんざ言われる筋合いじゃねぇーよ』

「あのね、お母さんが。ちゃんとお礼を言いなさいっていうんだ」

『へー』

 どうでもいいことのように呟くのに犬は、その場にどっかりと腰を下ろして、何故か歩き出そうとしなかったんだ。だけど僕は、それをちっともおかしいことだとかは思わなくて、この大きな黒い犬は、そうか、僕の話を聞こうとしてくれてるんだとか…都合よく考えちゃったんだよなぁ。
 思い出したら、僕はなんてお目出度いんだろう。
 犬は、もしかしたらただ単に、ワンちゃんって呼ばれたことに腹を立てただけかもしれないって言うのに。

「でも、僕ね。ありがとうって言葉好きなんだ。だって、ありがとうって言ったら、みんな笑ってくれるんだよ。だから僕、嬉しくなるんだ」

 そう言ってニコッと笑ったら、大きな犬は鼻をピスピスさせて、真っ赤な…猫じゃないのにガラス玉みたいな目を細めて見上げてきた。

「だから、ワンちゃんもありがとう。すごく怖かったけど、ワンちゃんが一緒にいてくれるから、僕は何も怖くないよ」

 そう言って、僕はあたたかな大きな犬の身体を抱き締めていた。
 犬は身動ぐことも、厭うことも、振り払うこともせずに、抱かれることに甘んじているみたいだった。だから調子に乗ってしまった僕は身体を離すと、その犬の頭を撫でながら、額と額を摺り寄せながらそのガラス玉みたいな双眸を覗き込んだ。

「ワンちゃん、ありがとう」

 ニコッとそのままもう一度笑ったら、犬はちょっと呆れたような顔をしながらも、僕の顔をべろんっと長い舌で舐めたんだ。
 擽ったくて声を立てて笑っても、犬はじっと僕の顔を見ていた。
 あの犬が、そのとき何を感じて、何を思ったのか僕には判らない。
 でも僕は、その瞬間から、あの犬を好きになって、できればずっと一緒にいたいと思っていた。
 別れの時はあっと言う間に訪れてしまったけれど、でも、もっと傍に居たいと言って愚図る僕を、犬は頭で背中をグイグイ押しながら、約束どおり家族の許に帰してくれたんだっけ。
 あの頃はまだ弟に嫉妬することもなかったし、両親にも愛されていたから、家族の顔を見て一気に我慢していたものが溢れ出しちゃって、どうしたワケか、僕はすっかり犬の記憶をなくしてしまったんだ。
 あの黒くて大きな犬が、その後どうなったのか僕には判らない。
 ただ、いつもあの犬を思い出す度に寂しさが込み上げていた。
 もう、逢えないんだろうけど…あの犬に、また逢えたら…
 ふと、僕は忘れていた記憶を思い出して、こめかみの辺りに人差し指をあてて「ん?」と眉を寄せていた。
 ワンちゃんワンちゃんと言っていた僕に、黒い犬は苛々したように何か言った。
 あれ?何を言ったんだったっけ??

『ワンちゃんじゃねぇ!オレは…だ。何度言ったら判るんだ、この間抜けッ』

 なんだったろう?
 犬の声が頭の中に木霊するのに、肝心の部分が思い出せないなんて。
 なんだか、奥歯に物が挟まっているみたいな苛立たしさに眉を潜めたその時だった…不意に、頭の中にある、ガラスみたいなものでできているような何かが、パンッと音を立てて割れたような錯覚がした。錯覚がして何度か瞬きをしたら、あれほど思い出せなかった言葉が頭の中に鮮やかに甦ってきたんだ。
 そうだ、あの犬が言ったのは…

「…あれは」

 ポツリと呟いたら、翠祈は怪訝そうに一瞬肩越しに僕を見たみたいだったけど、ちょっと先は真っ暗な闇だから確認するのも苦労してしまう。
 だから、その背中を見詰めて、僕は呟いていた。
 片手に持つ、紫魂の槍の柄を握り締めて…僕の記憶違いじゃないのなら…もしかして。

「ワンちゃんは、お前だったんだね。翠祈」

 ふと、翠祈の歩調が緩まり、唐突にピタリと止まってしまった。

「は?ワンちゃんだと??何を言ってんだ」

 そう言いながらも、いつもなら小馬鹿にしたような目で僕を見下ろしてからかうくせに、翠祈はそうはしなかった。断固として前を向いたまま、頑なに素知らぬふりを決め込もうとしているんだ。

「ワンちゃんこそ、何度も僕は光太郎だよって言っても、絶対に間抜けって…そう呼び続けていたよね」

 懐かしくて、嬉しくて…あれほど逢いたいと思っていたあの犬は、そうか、翠祈がとり憑いて生かされていたただの犬だったんだ。でも、僕にとっては掛け替えのない、幸せな時間をくれた犬。

「翠祈は知ってるかい?僕、お前のおかげで動物を凄く好きになったんだ。だから、独りぼっちでも辛くなかったよ」

 両親の愛は、いつしかなんでもこなせる弟に期待を込めて向けられてしまって、僕はなんでも中途半端な凡人だったから、家の中でも外でも、いつも疎外感を感じていた。
 でもその度に、僕は色んな動物に励まされて、癒されて…こうして、生きることができたんだと思う。

「何も怖くなかったんだよ」

 ふと、翠祈は溜め息を吐いたみたいだった。
 匡太郎の持つやわらかな色素の薄い髪を掻き揚げるようにして、後ろ頭をバリバリ掻きながら、不貞腐れたように足許を見詰める翠祈は、それから唸るような声を出したんだ。

「…~ったく。オレはワンちゃんじゃねぇ。翠祈だって何度言ったら判るんだ、この間抜け」

 うん、この台詞だ。
 怖くて怖くて、情けないけど、死ぬほど怖かったあの山の中で、黒いあの大きな犬だけが僕の味方で、僕の傍から離れずに、ずっと一緒にいてくれた。失っていた記憶は時間が過ぎる毎に、少しずつ思い出していたから、嫌なことだとか、逃げ出したいことがある度に、僕は自分に言い聞かせていた。
 大丈夫、僕には黒い大きな犬がいる、って。
 だから、何も怖くないって思っていた。

「あの山を降りてからのあんたは、見るに耐えない変貌を遂げやがって。こんな根暗になりやがってさ、どれだけオレが…いや、なんでもねーよ。そんなのは昔話だ。今は壱太の件が優先なんだろ?」

 大きな溜め息をひとつ零してから、翠祈は漸く僕に振り返ってくれた。振り返って、ギョッとしたみたいだった。
 だって、僕は嬉しかったんだ。
 弟も死んで、生き返って、何がなんだか判らないまま、不安ばかりが襲っていて縋るものもなくて、僕はどうしていいのか判らなかった。こんな時に、あのワンちゃんが…いや、翠祈は戻ってきてくれたんだ。
 僕が手離してしまった、一番の友達は、まるであの頃のままの口の悪さで、今僕の目の前にいる。
 それが、堪らなく嬉しかった。
 だから、僕はあの頃のようにニコッと笑ったまま、ポロポロと泣いていた。

「翠祈、戻ってきてくれてありがとう」

 ビックリしたような顔をしていた翠祈は、それから、途端にムッとしたような顔をしたんだ。
そんな顔のまま、腕を伸ばして僕の後ろ頭を乱暴に掴むと、その胸に僕の泣き顔を押し付けてしまった。
 心臓の音は聞こえないけど…普通の人よりも体温も随分と低いんだけど、あの頃のワンちゃんのような温かさだった。
 もう、離れたくないよと言って、僕はギュッと服を掴んでポロポロと泣いていた。
 翠祈はあの時の真っ黒い大きな犬みたいに、何も言わずに、暫くそうして抱き締めてくれていたんだ。