死人返り 8  -死人遊戯-

 重い音を立ててゴトリと木製の古めかしい棺桶が社の床に置かれた。
 古い建物はどこか黴臭くて、閉鎖された島の憂鬱さを浮き彫りにして象徴しているような社だった。でも、社と言うには神社っぽくもお寺っぽくもなくて…なんて言うのかな?なんだか祭壇のように思えてしまうのは僕の勝手な妄想なのかもしれないけど…と言うのも、僕たちが来るずっと前から、確か一ヶ月ぐらい前だって言ってたような気がするんだけど…そんな前から村の人たちはこの『御霊送り』の準備をしていたらしいんだ。
 篝火が左右にずらっと並んでゆらりと揺れる山の道を歩いて行くと、やっぱり、まるで電気なんか全くない、昔に戻ったかのような古びた建物が炎に照らされて木とか雑草が鬱蒼と生い茂る山の麓にポツンと建っている。そんな光景はどこか物寂しげで忘れ去られているようで…そのくせ存在感があるもんだから恐怖心を嫌でも煽り立ててくれるからたまらない。
 なんてことを考えている間にも、匡太郎と国安は一息つきながら次の段階を話し合っている。
 そんな時でもやっぱり僕は蚊帳の外で、なんだかとても疎外感を感じてしまって…と言うよりも、いったいここにいる僕の価値ってなんなんだろうと悩んでしまうよ。

「これは、古いんだがこの島の地図だ。俺が知る限りだと、この社の裏の道を…今じゃもう、獣道になってるんだけどな。そこを真っ直ぐに行けばすぐに祠に出るはずなんだ」

「はずってのが心配なんだけどな」

 ムスッとして無理やり会話に参加する僕を、国安は呆れたように見たけど、匡太郎はちょっと困ったような顔をして小さく笑った。
 …ほら、まただ。
 また、匡太郎はとても大人っぽい表情をしてる。
 つい最近まで僕が知っていた匡太郎の顔は、照れ臭そうにはにかむような子供っぽい笑顔だったのに…いつから、匡太郎はこんな風に僕の知らない顔をするヤツになってしまったんだろう。
 成長ってこう言うことなのかな?
 だったら少し、寂しいな。
 一抹の不安のようなものを感じて唇をソッと噛む僕に気付かないまま、匡太郎は国安に肩を竦めて見せた。

「どちらにしろ。時間までに戻れないようなら行くのは断念するよ。それでいいよな、光太郎?」

「え?あ、うん」

 素直に頷く僕にクスッと笑った匡太郎は、一瞬だけ、なんとなく冷めた双眸で木製の棺桶を一瞥したようだったけど、それはあくまでも一瞬のことだったから果たして本当に見たんだかどうだかはハッキリしない。でもまさか、あの優しい匡太郎がそんな表情をするワケないよね。
 ヘンな錯覚は匡太郎に失礼だと思ったから、僕はその思いを振り払うように首を左右に振った。

「何してるんだよ、光太郎?行くぞ」

 訝しそうに眉を寄せた匡太郎に促されて、僕は社の倉庫がある場所に向かう国安に別れを告げてから弟の後を追いかけた。
 足が速いから困るんだよな!

「匡太郎、待ってよ」

 慌てて腕を掴むと、匡太郎は少し不機嫌そうな表情をしてそんな僕を見下ろしてきた。
 あれ?気のせいかな、顔色が悪いような気がするんだけど…

「匡太郎?」

「なんでもない」

 僕の表情で何かを感じ取ったのか、勘の良い匡太郎は肩を竦めて笑うと、殊更なんでもないような仕種をして肩を並べてきたんだ。
 山登りなんてするつもりじゃなかったから軽装だったけど…スニーカーだけはいつも土堀のバイトの時に使っているモノだから比較的歩きやすくてよかった。もしかしたら、匡太郎のヤツは履き慣れない靴で足が痛くなったのかな?

「靴擦れとかできたんじゃないのかい?」

 月明かりさえも届かない山の奥、明かりと言えば匡太郎が持っている懐中電灯ぐらいだったから、必然的に僕は弟の腕を掴んでいないと歩くことすら覚束無いってことになる。だから縋るようにしてその腕を掴みながら、僕は匡太郎の顔を覗き込んでいた。
 さっきまで社の明かりで見えていたはずの匡太郎の顔が、懐中電灯の明かりに微かに浮かび上がっていて、さっきまでのようにハッキリとは判らなかったんだけど…まるで別人のような横顔に、僕は思わずドキッとしてしまった。

「大丈夫だよ」

 でも、そう言って笑った匡太郎はやっぱり元のままの匡太郎で…怖い怖いと思っている僕の心が見せた幻だったんだろうか。

「そっか」

 思わず、たぶんホッとした気分も手伝ってか、掴んでいた腕に力を込めて呟いたら、匡太郎のヤツは訝しそうに肩を竦めたけどそれ以上は何も言わなかった。
 暫く進んでいたら、国安が言っていた文献が保管されている【山の祠】らしき場所が見えてきた。
 鬱蒼と生い茂る木々がぬるい風に揺れてカサカサと音を立てるだけでも震え上がるのに、あんな、あんな真っ暗な口をポッカリと開けている洞窟に入んなくちゃいけないのかなぁ…
 怯えてしまう僕の足が意気地もなく震えて止まりがちになると、匡太郎は暫く思案しているようだったけど、洞窟を見て僕を見て、決意したように言ったんだ。

「光太郎はここにいるといいよ。オレが行って来るから…」

「ええ!?」

 それでなくても怖くて仕方ないってのに、こんな所に置いていかれるなんてハッキリ言って絶対に嫌だ!…でも、あそこに入って行くのも怖いし…うう、どうしよう。
 情けないくらいにカタカタと震えてしまう僕を、なんだか少し困ったように見下ろす匡太郎は別に平然とした顔をしてるってのに、僕はなんて不甲斐ない兄貴なんだろう。
 そんなことを考えていたら情けなくなって、ギュッと掴んでいた弟の腕から手を離したんだ。すると、途端に心細くなってしまうのは恐怖心のせいで、唇を噛んでその怖さと言った情けない気持ちを追い出しながら頷いた。

「わ、判ったよ。僕がいても、たぶんどうせ足手纏いにしかならないから…」

「すぐ戻ってくる」

 置いていくことに急に不安になったのか、匡太郎は心配そうに怯える僕を見下ろしていたけど、刻一刻と近付いてくる約束の時間に意を決したように行ってしまった。

「気をつけて!」

 そう言った僕の声はもちろん聞こえてるはずだけど、匡太郎は一度も振り返ることなく行ってしまったんだ。…たぶんきっと、優しい匡太郎は振り返ってしまったらやっぱり僕を連れて行きたくなってしまう気持ちになるんだろうなと思った。
 そうして、いつだって足を引っ張ってしまう僕は、とうとう最愛の弟をこの世に引き止めてしまった原因になっているのかもしれない。そう思うと、やっぱり凄く悲しくなって、怖いと言う気持ちよりもその切なさの方が居た堪れなくなるほど辛かった。
 僕は山道の傍らにしゃがみ込んで、ちょうど体育座りをするようにして腰を下ろすと膝を抱えて空を見上げた。
 満天の星空が見えていた空は、幾重にも伸びた木の枝で遮られてしまって殆ど見えなくなっている。辺りは薄暗いと言うよりも真っ暗で、見えるものはと言えばほんの目と鼻の先ぐらいの周囲ぐらいだったけど、それでも見えないよりも随分と安心できるし落ち着いてもきた。
 そうしたら、やっぱりますますこうしてここにいることが居た堪れなくなってしまったんだ。
 だって僕が、弟のために始めたはずの謎解きの旅が、こんな風に重要な場所に来ているにも関わらず、その弟に解決させようとしてるんだから…僕ってヤツは。
 鼻の奥が急にツキンとして、盛り上がりそうになる涙を慌てて擦っていたら、不意に後ろの茂みがガサリと音を立てて動いたもんだから、僕はドキリとして飛び上がりそうになった。
 でも、そこに人影が見えたから…もしかしたら、国安かも知れない。
 きっと、お目当てだった文献や資料が見つからなくて、仕方なく僕たちを追って来たんだろう。
 声をかけてくれればいいのに…

「国安か?今さ、その。匡太郎が見に行ってくれてるんだ」

 そりゃあ、恥ずかしかったけど本当にことだし、僕は立ち上がってジーンズについた土を払いながらそんな風に声をかけていた。だけど、国安だと思う人影はちっとも反応がなくて、よくよく目を凝らしてみたら左右にゆらゆら揺れているようにも見えたから…僕は思わず幽霊だと思って、情けないけど腰を抜かしてしまった。
 でも、まさかそんなはずがなくて、きっと笑われてしまうかもしれないけど、僕がてっきり幽霊だと勘違いしたその人影は、ちゃんとした実体を持っている人間だったんだ。
 慌てふためいて逃げ出そうとしていた僕は、その人影がゆらりと近付いてきて目視できる範囲まで来た時にはだいぶん余裕が出てきていた。
 その人は少女だったから。
 どうして、こんな所にいるのか判らないけど、その子はちょっと悲しそうな顔をして近付いてきた。

「お兄さん、大丈夫?」

 色の白い少女は真っ白の着物を着ていて、それが闇の中にボウッと浮き上がるから一瞬幽霊だと見間違えてしまったんだと思う。そんな僕の顔も蒼白になっていたのか、彼女は心配そうに小首を傾げていた。

「う、うん、平気だよ。えっと君は…?」

「あたしね、沙夜って言うの。どうしてお兄さんはこの時間にこんな島に来たの?こんなところにいるの?ねえ、今日がなんの日か知らないの?」

「え、ええっと…」

 矢継ぎ早の質問に僕は少し狼狽えながら、その子の必死の表情を見下ろしていたけど、どこかで聞いたことがあるその名前に引っ掛かっていた。そして、その誰かの面影によく似た顔立ちの少女を見つめていたら、よく知っている顔を思い出して…名前も一緒に思い出したんだ。
 国安沙夜。
 国安の死んでしまった2番目の妹…!

「き、君は国安の…!?」

 僕が思わず怯えたように言ったら、彼女の小さな顔が一瞬曇って眉がそっと顰められた。

「え?お兄ちゃんを知ってるの?じゃあ、まさか今年の渡し守って…」

 彼女のボウッと浮かび上がる華奢で可憐な面立ちが、不意に泣き出してしまいそうな表情になって、唇を噛み締めて俯いてしまった。

「あのね、お兄さん」

 僕は、でも。
 あんなに怖いと思っていたはずの幽霊かもしれないその、国安の妹らしき少女を別に怖いとは思っていないことに気付いて少し驚いてしまった。普段通りに接することができるのは、きっと幽霊と言えば額とか口許から血を流しながら恨めしそうな顔をしているって言う、あの定番を予想していたものだから、こんな風に普通の姿で立たれていると、怖がるってことはたぶんどんな人でもできないと思うよ。
 彼女は華奢な眉を寄せて、心配そうな、悲しそうな表情をしたままで僕の顔を覗き込んできたんだ。

「お兄ちゃんを連れて、早くこの島から出て行って!ここは、お兄ちゃんが、お兄ちゃんだけは絶対に来てはいけない島なの…ここに棲みついてるアイツは…」

 そこまで言った時、不意にハッとしたように大きな双眸を見開いた彼女は、それから辛そうに瞼を閉じてまるで闇に溶け込むように消えてしまいながら小さく、か細く呟いたんだ。

「お兄さんも逃げて。ごめんなさい、あたしにはどうすることもできない…」

 風に吹き消されてしまいそうなほどか細い呟きが消えるか消えないかのそんな瀬戸際、不意に冷やりとした冷たい感触が首筋に触れて、ハッとして振り返ろうとした時には既に遅かった。
 突然、凄まじい力で咽喉を締め付けられたんだ!

「うっ!…ッ、ぐぅ…ッ!!」

 ギリギリと引き締められていく冷たい棒のような束が、人間が持つ指先だと知ったのは、苦しさに喘ぐ僕の耳元に途切れがちに聞こえてくる人間の声だった。

「…やしい、悔しいのよ。私を…捨てて、あんな…あんな女と…ああ、悔しいぃ…」

 ゼエゼエと苦しげに喘ぎながら呟く呼気が、なんだかとんでもなく臭くて、それはまるで、腐った魚か何かの腐敗臭のような臭いだった。

「私も…妊娠してたのに…おろして…子供、ああ、悲しい、ああ、悔しい…」

 繰り返される恨みの言葉は恐ろしいし、締め付けられる指の力も半端じゃなくて、何度か気を失いそうになったけど、首を圧迫して握り潰されるような痛みと苦しさは尋常じゃないダメージで失神どころの話じゃないんだ。意識も失えず、それなのにジリジリと絞め殺される恐怖を味わいながらバタバタと暴れてみてもビクともしない女の力に、僕は恥ずかしいとか、そんなことを考えている余裕もなく泣き叫んでいた…んだと思う。
 実際はどんな風になっていたのかは判らないけれど。
 ただただ、苦しくて。
 辛くて、このまま死ぬんじゃないかって恐怖に泣き出してしまいたかった。
 強制的に浮かび上がる涙が頬を伝っている感触で、僕は薄れがちになる意識を感じながら、ああこのまま死んでしまうのかもしれないと思っていたんだ。

「…この野郎」

 不意に低い声がしたかと思うと、急に咽喉からあんなにギリギリと締め付けていた女の細くて信じられないほど力強かった指先が外れると、途端に流れ込んでくる新鮮な空気を貪るように吸い込みながら、あんまり慌てたせいか激しく噎せて咳き込みながら倒れ込んだ僕は首を押さえて蹲るようにして背後を振り返っていた。
 そこで見た光景は…ああ、あんな恐ろしい光景は、もう二度と見たくないと思う。
 首を締められたショックと、その場で繰り広げられている光景の凄惨さに、僕なんかの細い神経は耐えられなかった。
 憎悪に満ちた禍々しい顔で笑う匡太郎が、それでなくても奇妙な方向に捩れている女の首をさらに握り締めながら立っているその光景…嘘なんだって思った。
 僕は悪い夢を見ているんだ。
 ああ、誰か。
 これは嘘なんだって、悪い冗談なんだって言って僕を起こしてよ。
 首を押さえたままで僕は、何時の間にか意識を手離していた。

◇ ◆ ◇

 それでも、女の甲高い断末魔の悲鳴にすぐにハッと意識を取り戻した僕は、匡太郎がギリギリと女の首を握り潰そうとしている姿に少なからずショックを受けてへたり込んでしまっていたんだけど、慌てて首を押さえながら止めるように叫んでいた。

「きょ、匡太郎!殺す気か!?」

 掠れる声が情けないけど、声が出たことに少しホッともした。

「…殺す?バカなヤツだな、あんたは。見てみろよ、コイツはとっくの昔に死んでるじゃねーか」

 まるで匡太郎とは思えない粗暴な口調でそう言って、禍々しくニヤリと笑う弟はペロリと舌で乾く唇を舐めながらゴキッと鈍い音を立てて、とうとう女の首を圧し折ってしまったんだ。思わず目を覆いたくなる凄惨な光景…息苦しさで酷く咳き込みながらガタガタと震える僕の足許に、女の恐怖と恨みと悲しみをべったりと張り付かせた頭がゴトリと重い音を立てて転がってきた。
 血液が噴出すこともなく、鈍い音を立てて転がる女の千切れた首許から流れ出る血液は、どろりと粘っていてどす黒くて、既に腐敗が進んでいるらしく、ムッとする異臭はぬるい風が淀むこの場所にジワジワと広がっていた。女の身体は幾度か小刻みに揺れてから、主をなくして途方に暮れたようにドサリとその場に倒れ込んでしまう。
 恐ろしかった、恐ろしくてガタガタと震えながら見上げた匡太郎の双眸は、まるで別人のように爛々と輝いていて、何が楽しいのか、ニヤニヤと笑いながら転がっていた女の頭に片足を乗せてそんな僕を見下ろしてきたんだ。

「何を怯えてるんだ?コイツはあんたを殺そうとしたんだぜ。当然、始末するのが礼儀だろ?」

 底意地の悪そうな酷く冷徹な双眸で見下ろしてくる匡太郎を、いや、こんなヤツは僕の知っているあの優しい弟であるはずがない。僕は無言のままでそんな匡太郎の姿をした誰かを見上げて睨みつけてやったんだ。

「…なんだよ、その目は。気に食わねーな、その目付きは。助けてもらったくせに礼も言えねーのかよ、あんたは」

「…お、お前は誰だ!?」

 僕の誰何に、匡太郎は女の頭に足を乗せたままでフンッと鼻先で笑ったんだ!

「ご覧の通り、あんたの弟の佐伯匡太郎だろ?」

「違う!」

 思い切りキッパリと否定してやると、匡太郎は一瞬も怯まずに、まるでなんて言うか…あの、社で見せた、あの一瞬虫けらでも見るような冷めた双眸をして見下ろしてきたんだ。
 ま、負けるもんか!
 語尾が震えてる辺りでかなり負けてるんだけど、僕はそれでもまだ苦しくて喘ぎながら匡太郎に言ったんだ。

「な、亡くなった人の頭から足をどかすんだ。冒涜するんじゃないッ」

 僕がそう言うと、匡太郎は一瞬キョトンとして、次いでまるで馬鹿にしたように笑い出したんだ!
 腹を抱えて笑うって言う表現があるのなら、まさにその通りの仕種でゲラゲラと笑う匡太郎は、僕を馬鹿にしてるんだろう。頭から足をどかす気はサラサラないようだった。

「な、何がおかしいんだよ!?」

 僕は悔しくて…いや、違う。そんなんじゃない。何がどうなってしまったのか判らなくて、頭は思い切り混乱しているって言うのに、それでも小馬鹿にしたように見下ろしてくる匡太郎に何があったのか知りたくて食い下がったんだ。
 まさか、あの祠で何かがあったって言うんじゃないだろうな…そんなの、嫌だ。
 匡太郎は、匡太郎はどうなったんだ!?

「これが笑わずにいられるかよ。あんた、ほんッとーにおめでたいな。殺されかかったってのに、その殺そうとしたヤツの亡骸を心配をしてやるんだからな!」

 語気を荒げた匡太郎は、そのまま問答無用で女の頭に乗せた足に力を込めたんだ。
 ミシミシ…ッと骨が軋む音がして、小さくバキッと何かが砕ける音が聞こえた。
 けして気持ちいい音なんかじゃなくて、僕はよろよろと立ち上がると慌ててそんな匡太郎の愚行を止めさせようとしたんだ。

「匡太郎、いけない!今度は何をする気なんだよ!?もう、もういいじゃないか…」

「うるせーな。祠如きで腰を抜かすような女々しいヤツは引っ込んでな」

 とめようとする僕を軽い仕種で難なく払い除けた匡太郎は、制止の甲斐もなく無残にも女の頭を踏み割ってしまったんだ。
 グシャッ…と言うような、なんとも言えない不気味な音を響かせて砕け散った頭からは、腐ってしまっている血液だとか脳漿が八方に飛び散ってしまった。その飛沫が匡太郎のジーンズやスニーカーを汚していた。

「あーあ、せっかくの靴を台無しにしやがって」

 悪態をつきながら、目玉だとかがデロリと飛び出して、伸び切った長い舌が出ている惨い姿になってしまった女の頭部をさして興味もなさそうに冷めた顔をして蹴り上げると、ついでのようにでろんと転がる目玉を踏み潰した。
 もう、その段階では僕は直視していることもできなくて、カタカタと震えながら目を閉じてへたり込んでしまっていた。
 ついさっきまで女の頭部を玩具にしていた足で土と砂利を踏みしめながら近付いてきた匡太郎は、両目をきつく閉じて震えている僕の前で屈み込むと、顎に手をかけてグイッと引き上げたんだ。必然的に上向かされた僕は、それでも目を開けて、あの禍々しいほど邪悪な顔をした匡太郎を見る勇気がなくて逃げるように瞼を閉じていた。

「チッ」

 小さな舌打ちが聞こえて、憎々しげに僕の顎を掴んでいた手を離した匡太郎が身体を起こす気配がして、僕はソッと瞼を押し開いた。

「あんたはいつもそうだな。自分だけお綺麗な顔してさ。まあ、だからオレはあんたが嫌いなんだ」

 吐き捨てるように言った匡太郎の色素の薄い髪をぬるい風が吹き上げて、腐敗臭に眉を寄せる姿はとても大人びていて匡太郎であるのに、まるで別人のような印象を叩きつけてくる。それが悲しくて、僕はへたり込んだままでそんな弟を見上げていた。

「匡太郎…僕のこと、やっぱり嫌いだったんだね」

 現状を理解したら、そんなことを気にしてる場合じゃないことぐらい僕にだって判ったけど、でも、あんなに大好きだと言って懐いてきていた弟の真実の声をとうとう聞いてしまって、僕だって少なからずは動揺していたんだ。
 溜め息をついて項垂れてしまう僕に、ソイツは腕を組んでニヤニヤと笑った。

「いいや、その言葉には語弊がある。匡太郎はあんたが大好きだよ。犯して殺して喰っちまいたいぐらいには、愛してるだろうよ。もともと匡太郎という人間は邪悪で凶暴なヤツだったからさ。よくもまあ、こんな何も知りませんってな顔してるお健全な兄貴の傍にあんなに長くいながら、さっさと犯ることもできなかったって不思議に思ってるんだぜ」

 そう言って笑う匡太郎を、僕はとうとう、生き返ったせいで頭がどうかしちゃったんじゃないかと心配になって眉を寄せてしまった。それとも、もともと匡太郎には二重人格の傾向があったんだろうか?どちらにしても、この状況があんまり有り難くないってことはよく判る。

「こう言ってもまだ、オレが匡太郎じゃないんだと判らないのか?まあ、匡太郎を見ようともしなかったあんたには判らないだろうよ」

 痛いところを鋭利なナイフのような言葉で抉るように切り付けながら、匡太郎のもう1人の人格が僕を汚いものでも見るような目つきをして双眸を細めて睨みつけてくる。

「オレはコイツと契約したのさ。コイツは生き返ることを望み、オレは…人間の身体を手に入れることを望んだ。お互い理想的な取引相手だったってワケさ」

 自分の望みを口にすることを言い淀んだソイツは、一瞬だけ躊躇したようだったけど、それでもそれはどうでもいいことのようにフンッと鼻先で笑いながらそんなことを口にしたんだ。

「な、何を言ってるんだか…もう、全然判らないよ!どうしちゃったんだよ、匡太郎!?」

「…匡太郎は死んだんだよ」

 ポツリと呟かれて、僕はズキンと胸が痛むのを感じた。
 生きている時は、両親に愛されている弟は鬱陶しい以外の何者でもないと思っていたのに…こんな風に言われてしまうと僕は…

「そして、ヤツはオレに願った。なんでも言うことをきくから、どうか生き返らせてくれ。自分をあんたの傍に置かせてくれ…ってな。とんだ執念で、このオレでも退きそうになっちまったよ。俗に言う、ストーカーってヤツだ」

「匡太郎のことを馬鹿にするな!!」

 ムッとして、お茶らけたように僕たちを馬鹿にする、匡太郎に腹が立った。
 いいや、コイツが匡太郎じゃないってのなら、なんだか知らないけど、こんなヤツにイロイロ言われる筋合いなんかこれっぽっちだってないってことじゃないか!
 ムカムカして睨みつけていると、ソイツは組んでいた腕を腰に宛がいながら片目を閉じて笑っている。

「匡太郎をバカにするな…ね。いい感じで兄貴面じゃねーか。死んでくれりゃ御の字だと思っていたあんたがな」

「僕はッ…!」

 そこまで言いかけて、僕は何を口走ろうとしていたんだろう。
 死んでくれたら嬉しい…?そんなこと、願わなかったって言ったら、きっと嘘になる。
 そうだよ、この卑しい僕は両親に愛されて友達がたくさんいる、学校でも人気者の匡太郎に嫉妬して、死んでしまえと思ったことだって、少なからずはあったさ。それはあくまでも言葉のあやで…なんて、言い訳するあたりがダメなんだろうけど。言い訳するってことは、半分以上は本気だったのかもしれない。

「おいおい、まさか本気でそんなこと考えていたのかよ?冗談のつもりだったんだけどな。こりゃあ、匡太郎が泣いてるだろうよ」

「え?」

 僕は弾かれたように顔を上げた。
 てっきり、コイツの性格が出ている時は匡太郎は意識の中で眠っているんだとばかり思い込んでいたから、今の会話が全部匡太郎に聞こえていたってことは…
 匡太郎の姿をした別の誰かなのか、それとも、二重人格が生み出した別の性格なのか…僕にはどちらだか判りもしないけど、ソイツはクックックッとさも楽しそうに咽喉の奥で笑って、ペロリと下唇を舐めたんだ。

「ふん、まさか匡太郎は二重人格で、もう一方の善人な匡太郎はおねんね中だとでも思ってたのか?そんな安っぽいふざけたオカルトもどきなんかと一緒にしてくれるなよ。オレは匡太郎でもなければ、人間でもねぇ…」

 溜め込むようにいったん言葉を切ったソイツは、不安に眉を寄せる僕の傍まで近付いてくると、上体を屈めて覗き込むように顔を近付けて、それこそ悪魔のように捻くれた底意地の悪そうな笑みを浮かべてハッキリと宣言したんだ。

「荒神さ」

 僕が呆気に取られたのは言うまでもないと思う。