死人返り 9  -死人遊戯-

「あ、アラガミ?」

 僕が呆然として呟くと、荒神だと名乗った匡太郎は上体を起こしながら腕を組んでフンッと鼻先で笑った。

「あんたたち人間はなんて言うんだ?悪霊?怨霊…か?まあ、なんにせよどれも人間が勝手に創りだした呼び名なんだがな」

 荒神は酷く素っ気無く言い放つと、腕を解いて呆気に取られてどんな顔をしていいのか判らないでいる僕の腕を掴むと、半ば強引に引っ張り上げたんだ!
 生き返った匡太郎は力が強くなったとは思っていたんだけど、なんと言うか、その倍以上は荒神の方が力強いような気がするのは僕の気のせいなのかな…?
 グイッと引っ張り起こされて、それでもよろけてしまうのは首を締められたせいだろうけど…酸素不足になってしまったのかな。もう、何がどうなったのか、考えるのが辛いんだ。
 ふらついて、そのまま荒神の…ううん、匡太郎に凭れるようにして身体を預けた僕を、どんな顔をして見下ろしているのかなんて気にもならなかった。
 そんなことよりも僕は、地面に打ち捨てられたようにして転がっている遺体が気になって凝視していたんだ。
 この遺体は…国安の幼馴染みの姉さんだろう。
 島に来る時の連絡船の中で、国安は彼にしては珍しく神妙な表情をして僕たちに打明けた。

『今年の御霊は幼馴染みの姉貴でさ。惚れた男に捨てられて、そのショックで流産した挙句精神をやっちまってな。狂ったままで自殺したんだ』

 首を吊ってと国安は言っていた。
 僕の首を憎々しげに締め付けてきたか細い腕の女は、首が奇妙な感じに伸びて曲がっていた。
 あれは…あれはきっと首を吊って死んでしまった人の姿だ。
 カタカタと震えながら匡太郎に縋りつく僕の肩を、無言のままで弟は抱き寄せてくれた。
 死んでしまっているとは言え、確かに実体として存在する匡太郎も彼女と同じだと言うのに、安心して小刻みに震える唇を噛み締めて落ち着くことができた。
 でも、この身体には2人の匡太郎がいて…違う、1つの身体に2人の人物が共存しているって言うんだ。凡才でしかないこの僕が、どうしてこんな異常な事態をすんなりと飲み込めるだなんて思ってしまえるのだろう、この荒神と言う僕の知らない人格は。
 死体が勝手に動いてる事実は、匡太郎の存在でなんとなく、大幅に譲歩して信じてみる気にはなったけど…

「オレは悪霊だとか、そんな類かもしれないし違うかもしれない。それを決めるのはあんたなんだぜ、光太郎」

「…」

 僕が震える瞼を押し開きながら匡太郎の瞳を見上げると、その強い光を宿した双眸は澄んでいて、初めて見る表情に戸惑ってしまった。

「ぼ、僕は…」

 言いかけた言葉がなんだったのか…腐敗臭の漂うこの場所で、僕の脳味噌は酔っ払った時のようにハッキリとしない。僕は…?
 僕は何を言おうとしたのだろう。

「まあ、今はそんなことよりも壱太のヤツを見つけて、この島から出る方法を考えないとな」

「え?」

 もう、思考能力の追いつかない僕が訝しく眉を寄せて見上げても、匡太郎の顔をした荒神は、弟とは似ても似つかないような邪悪な顔をして笑ったんだ。

「とんでもない島に迷い込んじまったぜ、全く」

 肩を竦める荒神に抱き締められるようにされている事実に気付かないまま、僕はキョトンとして、馬鹿みたいに惚けたままでそんな大人の顔をした匡太郎を見上げていた。
 匡太郎は荒神なのか、荒神がもともと匡太郎なのか…僕にとって重要なのは、こんな島よりもそのことなのに。

「文献を幾つか覗いたんだけどよ、どれもこれも1つの話題ばかりだ。まあいい、来いよ。あんたにも見せてやる」

 面倒臭そうにそう言い放った荒神は、竦んで怯えてしまっている僕の腕を引っ張って歩き出したんだけど…懐中電灯をどこかに忘れてきたのか、明かりのない山道は少し先はもう闇で、そんな中を真っ直ぐに進んでいる匡太郎が、確かに人間ではないのかもしれないと思っていた。
 見上げても、薄ぼんやりと見える横顔は酷く大人びていて、僕の知らないもう1つの匡太郎の顔がある。心許無い不安を抱き締めながら、僕はそんな匡太郎に導かれるままに山道を進んでいた。
 …昔、僕はこんな経験をしたことがあるような気がする。
 あれは、なんだったんだろう?
 もう、随分と前の話だから、どんな経緯でそうなったのかとかは覚えていないんだけど…確か僕は、こんな風に夜の山で遭難したことがあった。その時は夏で、キャンプに行っていて、トイレだと言って起きた小さな弟について山道に入ったのはいいんだけど…僕は、なぜか僕だけが道に迷っちゃったんだよな。
 弟はお兄ちゃんがいなくなったって言って、泣いて両親の許に帰っていたらしいんだけど、僕は、翌日ケロッとした顔をしてテントに戻ってきていたらしい。
 その間の記憶がとても曖昧で、どうやってテントに戻ったのか、実はあんまり覚えていなかった。
 両親も捜索にあたってくれた人たちも、みんながその不思議を聞いてきたけど、何も覚えていない僕は不安で泣いてしまったんだ。
 でも。
 でも、こんな風に誰かに腕を掴まれて導かれていると、無性にあの山を思い出す。
 正確にはあの山での出来事を…
 僕は誰かに導かれていた。
 あの時も、僕は確かに誰かと一緒に暗くて先の見えない、まるで迷路みたいな山道を、柔らかな感触に導かれて山の中を彷徨っていたんだ。
 あの感触が…いったいなんだったのか、未だに思い出せない。
 あれは、あの感触は…

「匡太郎…?」

 思わず呟いて、ハッとした。
 聞いてどうなるものでもないのに…僕は、なぜかあの時の柔らかな感触は、この荒神なのではないかなんて、馬鹿みたいに考えてしまっていた。
 でも、匡太郎の内に入り込んでしまっている…悪霊になるのかな?荒神は振り返りもせずにズンズンと険しい山道を事も無げに突き進んでいく。天晴れなほど堂々としたその後ろ姿には却って安心すら覚えてしまうから…全く僕ってヤツは。
 そうして強引に腕を引っ張られながら辿り着いた先は、深淵…ではなくて、蝋燭の明かりらしきものの揺らめく炎で内部が明るくなっている洞窟が口を開いていた。

「匡太郎がここに火を灯したのかい?」

「いいや、アイツじゃない。もともと、この島に着いた時に入れ替わってたしな」

「ええ!?」

 てっきり、匡太郎はこの祠で何か性質の悪いモノにとり憑かれてしまったんだろうとばかり思っていた僕は、思わず目を見開いてそんな平然としている荒神を見上げたんだ。彼は、そんな風に驚く僕を尻目にさらに洞窟の奥に僕を導いた。

「驚くのはまだ早いぜ。この島には鬼が棲みついてるんだよ。憑黄泉伝説?はは、そんな話があるのかよ?全く笑わせてくれるな、人間てのは。この島に棲みついたのは神でも仏でもない、ただの死霊鬼と呼ばれる鬼さ」

 肩を竦める匡太郎に僕はなんだか、まるでよくできた冗談でも聞かされたような気がして、思わず吹き出してしまったんだ。

「鬼なんてこの世にはいないよ」

 怖いのは人間だって…お前、言ってたじゃないか。
 僕が心霊番組で怯えていた時に、まるで馬鹿にしたように鼻先で笑いながら、匡太郎は確かにそんなことを口にした。その匡太郎の顔で、鬼なんて言われてもいまいち信じることなんてできないのは仕方ないと思うんだけど…

「そうだな。もともとは人間が持つ欲が生み出した幻にすぎない。だが、一度実体を持ってしまった欲と言う願望は手がつけられない鬼になるんだ。もう、あんまり遠い昔すぎて、人間は忘れちまってるかもしれねーけどな」

 匡太郎の顔をした荒神は、別に怒るでもなく、ましてや気分を悪くしたような素振りを見せるでもなく肩を竦めるだけで、洞窟の奥、高く積み上げられている葛篭のような箱の蓋を持ち上げて中を覗き込んだんだ。
 でも、そんな風に平然とした顔で言われてしまうと、なんだか、あまりにも馬鹿げている御伽噺のような話でも、不思議と信じてしまいそうになるのは…きっと、死んだはずの匡太郎が生きていたこと、その身体には匡太郎のほかに荒神と言う憑依霊がとり憑いていること、死んでいた国安の友達の姉さんが動いていたこと、そしてあの少女の幽霊…そんな出来事が一度に起こってしまったから頭が追いつかなくって、もうなんでも信じてしまいたい気分になっているだけなんだと自分に言い聞かせてみたりした。
 でも、やっぱりちょっと、まるで雲を掴むような話には眉が寄ってしまう。

「…ええっと、それってやっぱり平安時代にあった陰陽師だとか、そう言った類の話なのかな?」

 理解していない仕種が馬鹿にしたとでも思ったのか、ムッとしたように葛篭から顔を上げた荒神は、ペロリと紅い舌先で唇を舐めると、小馬鹿にしたような意地悪そうな顔をしてフンッと鼻先で笑ったんだ。

「さてね?そもそも人間なんてのは、どうとでもなっちまう生き物さ。これは鬼火でございます、と言われて蝋燭を指差されてもそうなのかと信じるだろうし、違うと言われればそう信じる。そのくせ、個性のない生き物のくせに、ヘンなところでは意固地になっちまうってのも人間らしき所以ってヤツだ。だから言ってるだろ?全てはあんた次第だってな」

 まるで取り合ってくれてるようで、その実は冷静に突き放しているような物言いにはやっぱり、温厚だって勘違いされがちな気弱なこの僕でも、ちょっとムッとしてしまう。

「純粋に判らないんだけどな!なんでも知ってる荒神と違って、僕はただの平凡な人間だからね!」

 腰に手を当ててムッとしたまま眉を寄せて唇を尖らせると、荒神のヤツはちょっとポカンとして、それから何がおかしかったのかクックックッと咽喉の奥で笑うんだ。もう、ますますムカツクんだけど!

「平凡ねぇ…非凡なのは生き返った弟の方であって、あんたってワケじゃねーもんな。まあ、いいさ。ちなみにだ、平凡な光太郎くん。オレは確かに荒神の一族ではあるが名前までそうってワケじゃない。翠祈と言う。覚えとけ」

「スイキ?」

 荒神は頷くでもなくそれに応えるでもなく、結局僕と、僕の質問をまるで無視して文献を幾つか取り出したんだ。
 …でも、ハッキリ言って全く良く判らない。
 説明もないし、こうなったからこの現状を受け入れろなんて…荒神である翠祈の方がまるで人間みたいなことをしてるじゃないか。
 それまで、本当にただ怖いだけでビクビクしていたんだけど、僕は少し強い気持ちで翠祈と向き合うことができるような気になったんだ。だって、あんまりにも彼が人間っぽいし、怖いと思うのは匡太郎の顔をして匡太郎とは全く違う性格だってだけで…
 どんな人なのか、判らないことが恐怖ってだけだった。それは今も変わりはないんだけど…

「どう言うことなのか、ちゃんと説明してくれないと判らないよ」

 幾つかの文献を選んでいた翠祈は顔を上げると、困惑したように眉を寄せてる僕を暫くじっと見つめてきた。その、匡太郎の色素の薄い茶色がかった瞳が一瞬だったけど、エメラルドのようにキラリと光って僕はドキッとしてしまう。

「それは…まあ、そうかもしれん。だが、そう言うことはオレじゃない。匡太郎に聞くといい。コイツはコイツで、オレに何か言われるんじゃねぇかってハラハラしてるみてーだからな」

 クックックッと、楽しそうに意地悪く笑った翠祈は、たぶん、学術的には結構重要だと思えるほど古い、手にしていた文献を事も無げにポンッと軽く放ってきたんだ。僕は慌ててそれを両手で受け止めた。

「だ、大事に扱わないと!」

「義理堅いヤツだ」

 肩を竦める翠祈に僕はムッとして、こんなヤツが匡太郎の人格であるはずがない!…と、心の底からそう思えた。兄である僕が見間違えるはずなんかない、コイツは確かに、匡太郎じゃない。

「こんな性格で悪かったね!って、これ…」

 フンッと鼻で息をついて、僕は投げ渡された文献に目を落とした。視線を落として、眉が寄った。
 黴臭い本特有の独特な匂いが鼻を突いたけど、そこには幾つかの何某かの文様や図式、草書体で綴られた文章が並んでいた。

「家系図さ」

 翠祈は腕を組むと、眉を寄せている僕を見てペロリと下唇を舐めたんだ。

「うん。この家系図によると、国安家の一族って言うのは…」

 言葉にしてしまうには憚られる、現代の日本では禁忌の…

「ちょうど今から数百年前、神寄憑島に島流しの途中にでも遭難したんだろう、流れ者が漂着したようだな。ここに住んでいた国安の先祖は、その流れ者を『憑黄泉』と呼んでこの島、つまりこの波埜神寄島に歓迎した…ってのはあくまでも表向きの言い訳で、その流れ者をこの島に閉じ込めたんだろう。喰うものもない流人がこんな寂れた島でどうなったのか、想像しなくても判るだろ?」

 翠祈は岩肌を晒す壁に凭れて腕を組みながら、息を飲んで文献を凝視する僕を見つめながらどうでもいいことのようにそう言った。でも、確かに翠祈にしてみたら、こんな小さな島に細々と息衝いている村で数百年も前に起こった出来事が脈々と受け継がれていることなんかどうでもいいことなんだろうけど…僕にとってこの文献の内容は、とても重要なことなんだ。
 国安の先祖は…そうだったのか。
 だからあの小さな妹は、悲しい魂だけになっても兄の身の上を心配したんだろう。
 急がないと!

「匡太郎…じゃなかった、翠祈!僕の力になってくれないかい?」

 翠祈が何者かなんて、今の僕には理解なんかとてもできていない。
 そもそも、荒神ってのがどんな存在なのかってことも、もう全然判らない。だったら、僕は…
 いつだって悪い方向ばかりに考えていた。
 匡太郎はそんな僕を、何が楽しくて生きているのか判らないと首を傾げていた…それぐらい、僕は楽しく生きてきた思い出なんてない。いつも悪い方向にばかり考えて、ハラハラしながら生きていくのが辛いと思っていたんだ。
 だから、一度ぐらいは信じてみたり、いい方向に考えてみてもいいんじゃないかって思う。
 僕は、匡太郎の姿をした目の前のとても不思議な存在を、僕なりの強い眼差しでたぶん必死に見詰めていた。
 そんな僕を、祠に吹き込んでくる温い風にさらりとした前髪を揺らして見詰め返していた翠祈は、口許にゾッとするほどクリアな微笑を浮かべて、ペロリと紅い舌先で下唇を舐めたんだ。

「そうこなくっちゃ、お兄様。いつだって運が味方してるなんて思わないこった」

 文献なんかを真剣に信じるつもりなんかなかったけど、目の前の翠祈と、あの動く死体、そして少女の物悲しげな魂を見てしまった僕は、信じるなと言われて信じないでいられるほど心臓にそんな剛毛は生えていない。
 なるほど、翠祈の言う通り。
 全ては僕次第なんだ。
 人間らしく生きなくちゃと思う。