10  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 立ち寄ったブティックは酷い有様だった。
 中立の立場にある『旅人』である妖魔がオーナーを勤めるブティックは、確かに何か、人間ならざるものに荒らされた気配が濃厚に漂っていた。
 警察が来るよりも先に、結界を張っている室内に立ち入ったアシュリーは、どうやら遠き異国の旅人の仕業に違いないとは思いながらも、何か鳩尾の辺りに引っ掛かるものを感じて垂れた双眸を細めながら周囲の気配を窺っている。

「おっどろいたわね!遠き異国の旅人の仕業にしては、規模が小さいと思わない?」

 オーナー室から出てきた、ホットパンツから素足を惜しげもなく晒す、強気なアーモンドアイがチャーミングな美しい娘が、肩口で綺麗に摘み揃えられた黒髪を優雅に揺らしながら肩を竦めて賛同を求めた。
 だが、声を掛けられたはずの金髪の大男は、微かに発光する非常灯の明かりでも充分認識できる室内を見渡しながら、訝しげに眉根を寄せている。

「…ふーん?あんたがそんな難しい顔をするなんて珍しいじゃない。何か気になった?」

「エレーネ…不思議だと思わない?」

 弾け飛んだ電球の残骸を晒す天井は打ちっぱなしのコンクリートが接げて無残なものだし、床に突き刺さった鉄製のドアは激しい力でもって投げ出されたことを雄弁に物語っている。
 …と言うことは、だ。

「この惨状、明らかに何かを狙っていたんだよ」

「あら、随分と進歩したようね。その辺に気付くなんて、昔のあんたからじゃ到底考えられないもの」

「ハイハイ、姐さんの嫌味なんてどーでもイイですよ。コイツは参ったね。どうやら、遠き異国の旅人に別の何かが絡んでる」

 両手を呆れたように上げて溜め息を吐いたアシュリーは、微かに残る、何者かの気配をその鋭敏な嗅覚で感じ取ろうとでもしているようだったが…エレーネは肩を竦めてクスッと笑うのだ。

「厄介になっちゃったなーって思ってるでしょ?」

「う…バレた?」

 顰めていた眉をパッと上げると、クスクス笑うエレーネにウィンクなどして見せる。

「顔に書いてあるもの。あんたは感情が面に出やすいのが玉に瑕ね」

「ほっといてくれる?」

 人気の途絶えた廃墟と化したブティックの一室で、白い息を吐き出しながら笑うアシュリーとエレーネの奇妙なデコボココンビを物珍しげに見ているオーナー、妖魔であるタスクは腕を組んで事の成り行きを見守っていた。
 相手は『旅人』が派遣したギルドの処刑人たちだ、ここにデュークでもいてくれるのなら好んで戦ってみたい相手でもあるが、今は大人しく指示に従うしかなさそうだ。
 只ならぬ気配を宿した小柄な娘は真冬だと言うのにホットパンツにヘソ出しルックと言う、見るからに寒そうな、それ故の身軽さでもって大柄な金髪男を見上げている。
 だが…

(奇妙な氣を持った男ねぇ…何かしら?アタシたち、そうね、そこの姐さんとも少し違うわね)

 実力は恐らく計り知れないだろう小娘の皮を被った化け物よりも、その傍らで、その大柄な体躯からは想像もできないほどひっそりと佇んで状況判断をしている煌く金髪の異国の顔立ちをした男の方が気になったタスクは、腕を組んだままでその素性を探ろうとでもするかのようにコッソリと窺っている。

「それにしてもヘンねぇ!ここには色んな氣が入り乱れていて思うように掴めないわ」

 エレーネが面倒臭そうに息を吐くと、アシュリーが仕方なさそうに肩を竦めたのだが…ふと、金髪の垂れ目が憎めない大男は、何かを感じたようにハッと顔を上げたのだ。

「…?どうしたの??」

 小生意気そうなアーモンドアイをすっと細めると、微かな殺気を漲らせた不似合いな娘はオフホワイトのコートを着て呆然と突っ立っている相棒を見上げると、その見事な柳眉をそっと顰めた。

「…光ちゃん?」

 ふと漏れた呟きに、タスクの眉が僅かに動いた。

(光ちゃん?)

「あの人間の坊やがどうしたって言うの?」

 ぼんやりと中空に漂っていた双眸にゆっくりと生気が戻ってくると、ハッとしたようにアシュリーは周囲を見渡したのだ。

「光ちゃんの気配がする!どう言うワケ!?」

「なんですって?…ちょっと!タスクとか言ったっけ?ここで遠き異国の旅人と遣り合ったのはどんなヤツだった!?」

 驚くことに、『旅人』が差し向けたはずの処刑人であるエレーネの、そのキツイ印象の綺麗な顔が一瞬だが引き攣るように青褪めて、振り返るなりかなり失礼に問い質してきたのだ。
 そんな顔、『旅人』でも恐れる実力者たちが見せるなんて…タスクは滅多に拝めないものを見てしまった代償として、自らが隠し持っている秘密を口にしなければいけなくなってしまった。
 だが、勿論この姑息な妖魔が易々と口を割るわけがない。

「綺麗な顔をした妖魔だったわ。でも、見たことのない顔だったから余所者じゃないかしらね」

「…人間はいなかったのか?」

 ふと、それまで驚愕したように目を見開いて電球の弾け飛んだ無残な電灯の残骸を見上げていた大男は、ゆっくりと目線を下げると、まるで身内に得体の知れない狂気を宿し持っているような胡乱な目付きで睨んできたのだ。
 それが人にモノを尋ねるときの態度なのかと、できれば言ってやりたいタスクだったが、やれやれと眉根を寄せて首を左右に振った。

「残念ながら人間はいなかったわ。でもね、ここは人間でも入れるブティックなのよ。人間の気配がしてもおかしくないじゃない」

「違うね」

 ふと、タスクの言葉を全面的に否定するようにアシュリーは呟いた。
 その、さっきまであれほど殺意を浮かべていた碧の双眸には、愛しげな、誰かを想っているやわらかな感情が浮いていて、ブティックのオーナーである妖魔を驚かせた。

(人間に惚れてる妖魔?なによ、おかしいのはデュークだけじゃなかったのね。何か、嫌な病でも流行ってんのかしら)

 けして口に出せないことを思いながらもタスクは、アシュリーの確信に近い何かを物語る台詞に肩を竦めるだけだった。

「光ちゃんはね、こんなところには来ないワケ。何よりあのひとには似合わないし」

「或いは調査でここを訪れたのか。ここには妖魔の匂いがぷんぷんするもの」

 クスクスとエレーネが笑う。
 その嫌味的な笑みには、根が優しいオカマのタスクでもムッとしてしまう。

「ちょっとぉ!失礼こいちゃうわねぇ。こう見えても雑誌にだって載ったお洒落なお店だったのよ!…あぁ~ん、こんなになっちゃってぇ。保険の件もあるからそろそろ警察を呼びたいんだけど、まだ何かあるのかしら??」

 店内を見渡しながらガックリと派手に項垂れて恨めしげな目付きで言い募るタスクに、エレーネは肩を竦めながら相棒の大男を見上げた。
 オフホワイトのコートに身を包んでいてでさえ、どこか寒そうに身体を強張らせている金髪に憎めない垂れ目の大男は、切なそうに店内を見渡している。

(光ちゃん…そんな”まさか”だよね?)

 柄にもなくハラハラしているアシュリーのそんな態度に、業を煮やしたようなエレーネはグイッと腕を引っ張って彼を現実に引き戻すのだ。

「そろそろ行くわよ。ここにいたってあんたの気持ちを漫ろにするんじゃ意味がない。氣が消えないうちに追いかけるんでね。早くおし!」

「エレーネ、でもオレは…」

「でももクソもないの!行くよッ」

 腕を引っ掴むようにしてエレーネはもはや瓦礫と化した店舗を省みることもなく立ち去ろうとするが…金髪に碧眼の、異国の顔立ちをした大男だけは名残惜しそうに振り返っている。
 僅か数日離れているだけで、どうしてこんなに心が千切れてしまいそうなほどの焦燥感を感じてしまうのだろう。
 アシュリーにはそれが判らなかった。
 1人荒れ果てた店内に取り残されたタスクは、やれやれと腰に手を当ててどこから片付けるものかと思案に暮れながら溜め息を吐いていたが、ふと、静かな風のように現れて旋風のように立ち去っていった2人のその後姿の消えた出入り口を見詰めて不安げに綺麗に剃った眉を寄せた。
 『旅人』の命令さえ背いてでもここに残って氣の流れを追いたそうに見えたあのオフホワイトのコートに身を包んだ大男は、風変わりな気配を持ちながらも、明らかに妖魔の側に立つべき者だった。
 それなのに、いったい誰にそれほどまで心を砕いているのだろう?
 どうしてそれほどまで、人間に想いを寄せられるのだろう…

(光ちゃん…そう言えば、デュークが連れていたあの子も確か、光太郎とか言ってたわね)

 一瞬、ディープブルーの綺麗な顔立ちをした妖魔と、風変わりな気配を持つ金髪碧眼の垂れ目の大男が対峙する場面が脳裏を掠め、タスクはブルブルッと首を左右に振って寒くもないのに我が身を抱き締めるのだ。
 余計な好奇心は我が身をも滅ぼす…長いこと生き続けた妖魔の直感に、タスクは素直に従うことにして携帯電話を取り出すと溜め息を吐いて通話ボタンを押すのだった。 

◇ ◆ ◇

「光太郎のフィンランド人の恋人!?」
 鈴が転がるような可愛らしい声音で呼ばわれて、それでなくても『光太郎』と言うキーワードに敏感になっているアシュリーは、ハッとしたように声のした背後を振り返った。
 視線をぐっと下げた先にいたのは、ミニスカートにピンクのブーツでセーターの上からコートを取り敢えず羽織った感じで飛び出してきた、と言わんとばかりの出で立ちをした少女が驚いたように目を見開いて立っていたのだ。

「えーっと…確かすみれ?」

「あ、うん。そうそう!アシュリーって言うんでしょ?どうしてこんなところにいるの??」

「どうしてって…」

 スタスタと歩いてきたすみれにエレーネが訝しそうな表情をして背後から手の甲を抓ってくる。

(この娘はだれ?)

 と言葉に出さずに態度で表す乱暴な姐さんに、取り敢えず少し待っててもらうことにして、アシュリーは切迫したような表情をしているすみれの顔を見下ろした。
 アイツは勝気なヤツなんだ…と、光太郎が仲間の話をするときに常に出てきた彼女の雰囲気は、勝気で男勝りなじゃじゃ馬娘、と言った印象が色濃いアシュリーは、いや、現にその姿を見たときもそう感じていたのに…今日の彼女はその顔に疲労の影を落としている。
 恐らく、随分と寝ていないんじゃないだろうか。
 一見すればいつもと変わりなくも見えるのだが、どこか心許無い、不安に寄せられた綺麗な柳眉がアシュリーに只ならぬ焦燥感を呼び起こした。

「何か、あったワケ?」

 首を傾げて、憎めない垂れ目の大男を見上げたすみれの瞳から、ぽろりと一滴の涙が零れ落ちたとき、アシュリーの中で渦巻く不安が形を成して胸元を締め付けてきた。
 嫌な予感の時ほど、よく当たるものだ。

「こ、光太郎が…あ、ごめんなさい。彼女がいたのね」

 思わずよろけるようにして近付こうとしたすみれは、彼の大きな身体の背後で仕方なく待ちぼうけを食らっている小柄な少女に気付いて、ハッとしたように頬に零れた涙を拭いながら一歩、後退った。
 一瞬きつく睨まれたような気がしたアシュリーは、それでも微妙なニュアンスで言葉を止めてしまったすみれの華奢な両肩をグッと掴んで、焦ったように詰め寄るのだ。

「光太郎!?光ちゃんが、光ちゃんに何かあったのか!?」

「あ、痛ッ…」

 もどかしさに思わず力が入ってしまったのか、すみれが辛そうに可愛い顔を歪めてしまう。
 夜明け前の眠りについた街とは言え、これでは何らかの犯罪現場のようでそのうち警察でも来られたら厄介以上の何ものでもないと知るエレーネが、呆れたように溜め息を吐きながら見た目やんわりとアシュリーの腕を掴んでにっこり笑うのだ。

「女の子にそんな乱暴したら駄目じゃない。何があったのか、順を追って聞かなくちゃ」

 優しげな口調とは裏腹の強い力でもってアシュリーの腕をはがしたエレーネの、その尤もそうな口振りに漸く我を忘れかけていた大男は叱られた大型犬のようにシュンッと我に返ったのか唇を尖らせた。

「あたしはエレーネって言うの。このでっかい垂れ目男の保護者みたいなものね。だから彼女なんかじゃないわ」

 ニコッと笑って、保護者にしては若すぎる彼女を訝しそうに眉を寄せるすみれは、それでもどうやらこの寒々しい姿をした少女の言うことは的外れではないのだろうと、大人しくなったアシュリーを見て感じ取ったのかすみれは慌てたように頷いたのだ。
 何よりも、光太郎の身を案じているのが手に取るように判る金髪碧眼の大男のその、憎めない垂れ目が焦りに暗く沈んでいれば、嫌でも信じざるを得ないのだが。

「光太郎がいなくなったの!つ、連れ去られたって…アリストアさんが教えて下さって」

「アリストア?」

 あの胡散臭いヴァンパイアが?…ふと、アシュリーの眉間に深い縦ジワが寄った。
 光太郎を狙う者は全てが敵だと認識しているアシュリーは、ついでのように、あの日光太郎を襲って重症を負わせたヴァンパイアを調べていたのだ。
 教会でエクソシストとヴァンパイアハンターを生業にしていると言う、なんとも胡散臭いヴァンパイアがわざわざどうしてすみれにそんなことを教えたのだろう?これには裏でもあるのだろうか…アシュリーが無言のままで思いを巡らせている間に、すみれは切迫したようにエレーネの冷えた両手を掴んで泣き出しそうな顔をして縋るように言った。
 頼れる全てにあたって、悉く相手にされなかったのだ。
 縋れるものにはなんにでも縋りたい、その態度が、アシュリーとエレーネに何か只ならぬ…そう、自分たちの側に在る者の気配を感じ取っていた。
 そっと目線を交えてきたエレーネに頷いて、驚くほど冷静にアシュリーはすみれを見下ろした。

「あ、あなたたちは信じてくれないかもしれないけど…魔物が、魔物が光太郎を攫ってしまったの!何とかしたいんだけど、頼れる人もいなくて…」

 うぅ…と、泣き出してしまう彼女を見下ろすアシュリーは、思わず、ギリッと奥歯を噛み締めた。
 やはり、あの時感じた心を引き千切られてしまいそうな予感は間違いではなかったのだ。
 遠き異国の旅人と互角に、或いは上回ったのか、それだけの戦闘をして小規模で抑えきった妖魔が…恐らく、光太郎を連れ去った犯人に違いはないのだろう。

「あのタヌキ妖魔め!」

 ニヤリと、腹に一物隠したような侮れない仏頂面のおネェ言葉の妖魔を思い出しながら、唇の端を捲り上げて笑うアシュリーが吐き捨てるように呟くと、泣き出してしまったすみれを労わるように抱き締めていたエレーネが目線を向けてくる。

《どちらにしても、遠き異国の旅人と渡り合ったその妖魔、見つけ出さないとお話にならないようね》

 脳内に響いた声はエレーネが持つ精神感応術の一種で、幸いなことにすみれには聞こえない仕組みになっている。
 アシュリーは募る焦燥感に押し潰されそうになりながらも、彼女の真摯な双眸を見詰め返して感情を押し殺すように瞼を閉じると頷くしかなかった。

《自らに害を与えた妖魔を、遠き異国の旅人が放っておくはずないもの。ソイツを見つけ出せば遠き異国の旅人も捕獲できるってワケね》

 「大丈夫よ」と囁きながらすみれを労わる反面を見せながら、脳内には計算高い台詞が送られてくる。エレーネらしい遣り方に苦笑すらできず、アシュリーは吐き出した白い息が吸い込まれる、スモッグに汚されてしまった夜明けの空を見上げていた。
 いつからか汚されてしまった空は、青空を隠して途方に暮れて立ち竦んでいるようにすら見える。
 それはまるで鏡のように、取り残されて呆然と立ち尽くす身体ばかり大きくなってしまった少年のような垂れ目の大男に似ていて、冷たい風に舞い上がる金髪はそのままでアシュリーは泣きたくなっていた。
 あの愛しいひとを手離してしまったら自分は…今度こそ後戻りできない場所まで堕ちてしまうのだろう。
 確信めいた思いを胸に、それでも、あのひとを助けに行きたいと思っていた。
 どんな姿になって…たとえ変わり果てた姿になっていたとしても、それでも、アシュリーは光太郎を見つけ出して、その大きな胸の中に抱き締めてもう離しはしないのに…と、開いた両の掌に呆然と目線を落としていた彼は、まるで早鐘のようにドクドクと耳元でがなり立てる煩い音を掻き消そうとでもするように拳に握って、白くなるまで握り締めていた。
 渦巻く身内の、深い深い深淵に隠し持っていたどす黒いうねりを感じながら、アシュリーはほの暗い双眸を細めて静かに笑うのだ。
 何も心配いらない。
 不安になることなど何もない。
 だって…そう、だってね。
 あのひとは他の誰のものでもない、自分のものなのだから…と。
 温かな血の通うものが見れば一瞬で凍り付いてしまいそうな冷たい微笑に、すみれを宥めていたエレーネは、肌寒い何かを感じ取ったように華奢な人間の少女の温もりに縋ろうとしているようだった。
 あの日のように…忌まわしい結果にならなければいいのだが、と、エレーネは養い子の行く末を案じていた。