執着する者 1  -The Watcher-

 長くジョエルを悩ませていた悪夢に終止符が打たれた夜、グリフィンはビルの崩壊と共にこの世を去った。
 心因性の精神異常と言うものは、その原因となる根本が打ち砕かれれば、僅かずつだが改善へと向かい始める…と言うことを、ジョエルはその身をもって知ることとなった。
 あの夜から彼を悩ませる悪夢は少しずつ鳴りを潜め、相変わらず通い続けている精神科の担当医ポリーも、改善の兆しにホッと胸を撫で下ろしているようだ。
 だがしかし、何かを得れば何かを失う、と言う普遍の原理に則るように、ジョエルは平穏な日々と引き換えに左足の自由を失うことになった。
 職場への復帰を望む声も多くあったが、あまりにも長い間グリフィンの執拗な執着に苛まれ続けた彼は、その引き金ともなった職場への復帰は断念せざるを得ず、その申し出を断った。
 今日も左足を引き摺るようにして出掛けた然して美味くもないベトナム料理店で遅い昼食を済ませ、ジョエルは街角のドラグストアで牛乳を買って帰途についた。長らく彼を煩わせていた病は彼の記憶を蝕み、思った通りの行動を起こさせないようにしていた。だから、決められた時間に家に戻ると言うことが出来ないでいた。

(おかしなもんだ。先生の所には迷わずに行けるってのにな…)

 年代物のアパルトマンの階段を足を引き摺るようにして昇りながら、彼は疲れたように溜め息を吐いてそんなことを考えていた。
 ポリーは、ここに迷わずに辿り着けるのだから、それは所謂改善の証で、全快に向かっているのだと安心させてくれている…が、どうも彼には何か胸に引っ掛かるものを感じて仕方なかった。

(なんだって言うんだ、畜生ッ…)

 不安感も彼の病の1つで、けしてそれは拭えるものではないのだが、時折こうして頭を擡げてはジョエルを苦しめていた。

(大丈夫だ、もうヤツはいない)

 思い込みは俺の悪い癖だ、そう考えて、まるで永遠にも続くかと思われた長い階段を(いや、実際には3階程度なのだが、足を傷めた彼にはその長さはまるで凶器にも等しく感じられたに違いない)、漸くの思いで昇って一息吐くと、傷む足を擦りながら扉の前に立った。
 ふと、安物のドアの下に何かが挟まっているのに気付いて、僅かに眉が寄る。
 こう言う時は、なぜか決まって良くない報せだったりするものだ。
 ジョエルは疲れきった頬に暗い影を落として、長いこと逡巡していたが、諦めたように双眸を閉じて震える指先で挟まっているカードを、それでも躊躇して迷いながらも乱暴に引き抜いた。

「ったく、なんだって言うんだ」

 カタカタと震えている自分の指先にか、それともその質素な白いカードにか、或いはその両方にか、どちらにしろ吐いた悪態は情けないほど弱々しかった。
 彼が思っている程には、心に受けた衝撃は改善への道になど進んではいないようだ。
 ことに、犯罪の匂いがするものに対しては特に。
 真っ白なカードは悪夢を呼び起こし、ジョエルは唇を噛み締めながら閉じられていたカードを開いた。
 開いて…

 ギクッとした。
 誰かの悪い冗談か、或いはこれは長く見続けた悪夢の後遺症で、まるで現実のように感じているだけで夢の続きを見ているだけではないのだろうか…
 その言葉を忘れたわけじゃない。
 忘れられるわけがない。
 その言葉の傍らに、ましてやポリー女医の写真などが貼られていたとなれば…
 ハッとした。
 錆付いた脳味噌をフル回転させて、ジョエルは何が起こっているのか理解しようとしていた。
 と、突然部屋の中からけたたましいベルが鳴って、抱え込みそうになる頭痛から逃れようとでもするかのように手探りで開けたドアに転ぶようにして入り込んだジョエルは、どんどん重くなる頭を抱えながら受話器に手を伸ばしていた。
 殆ど無意識のうちに誰何した受話器の向こうで。

『久し振りだな、覚えているか?』

 ゾワッと背筋に悪寒が走り、肌が泡立つような錯覚を覚えて倒れそうになる。
 半分以上腰が砕けたような格好で床にへたり込みながら、そのくせ受話器を握り締めた指先の力は抜けず、投げ出してしまうことも出来ないでいた。
 死んだはずだ。
 いや、それともそれは、それこそが自分に都合の良い夢だっただけではないのだろうか…
 ふとそんな嫌な予感がして、眩暈がした。

『まさか忘れたとか言うなよ。つれないヤツだ』

 受話器の向こうで含んだような笑い声。
 震える唇はかさついて、咽喉の奥は渇き切ってヒリヒリし、まともに声が出せないでいる。
 そんなジョエルの反応を知ってか知らずか、声の主は囁くように、唆すように嘯くのだった。

『元気にしていたかい、ジョエル?おかげさまでオレも元気かな』

「先生に何をした」

 言葉尻に被さるようにして絞り出た声は掠れて、あまりにも弱々しかったがそれに気付くこともないジョエルの動揺に声の主は何がおかしいのか、或いは嬉しいのか、クスクスと笑っている。

『別に何も。ただ、一緒にダンスを踊っただけさ』

 不意に人の気配がして、そうして、今更になってジョエルはハッとした。
 受話器から聞こえている声なのか、それともそれは…

「ッ!!…ぅ、ぐ、グリフィンッ」

 首の後に鋭い痛みを覚えて、ふと意識が遠ざかる。
 遠ざかる意識の中でクラクラしながら振り返った背後に、彼は立っていた。
 あの美しかった顔の、右の頬に火傷の跡を晒した青年は携帯電話を片手に握り締めて、口許に満足そうな笑みすら浮かべ、失神しようとするジョエルを愛おしそうに見下ろしていた。

「ちゃんと覚えているようだな。当たり前か」

 火傷の跡さえ彼の美しさを損なうことはなく、嫣然と微笑む地獄の底から甦った青年グリフィンは、恐れているのか、それともまだ過去の罪悪感に囚われているままなのか必死に腕を伸ばそうとするジョエルの、その傍らまで歩を進めるとその身体を抱え上げるのだった。

「今度こそ、ちゃんと話そうじゃないか」

 声にならない声で女医の安否を気遣うジョエルの耳元に語り掛けて、グリフィンはそのままアパルトマンを後にした。
 その腕の中に、手に入れたくて仕方なかった大事な宝物を壊さないように抱きかかえて、もう二度と戻らない部屋を一瞥することもなく来たときと同じように風のように姿を消してしまった。

 ピチャ…ピチャン…
 静まり返った部屋に聞き慣れない音が響いていた。
 耳を打つ水の音は、何処か遠くの方からなのか、それともごく近くから聞こえてくるものなのか、ジョエルはハッキリとしない意識を無理に覚醒させようと、重い身体を起こそうとして失敗していた。

(ここは…どこだ?俺はいったい…)

 上半身を両肘で支えるようにして起こしたジョエルは、両手で頭を抱え込むようにして自分の置かれている状況を理解しようとしたが、彼の病が強情にそれを阻んでいる。
 チャン…ピチャン…
 またしても耳を打つ水の音に、今度こそハッキリと意識を取り戻したジョエルは、不意に意識を失う直前に起こった出来事を思い出してハッとした。

(先生!…ああ、そうだ。グリフィンのヤツが生きていて、そうか、クソッ!ヤツが生きて…ああ、なんてこった)

 それでなくても弱ってしまっている精神に拍車をかけるような出来事に、ジョエルの頭は傍目からもハッキリと判るように錯乱してしまっていた。その耳に、追い討ちをかけるような水の音。
 水の音。
 水の音。

「やめてくれ!」

 思わず錯乱して叫ぶと、不意に耳障りな水の音が止んで、奥の部屋から誰かが姿を現した。
 そう、忘れたくても忘れられない、あの日、確かに自分が解放されたと思ったあの日、この目の前の男はこの世から去ったはずではなかったか?
 絶望した眼差しで見上げるジョエルの前で、長身の、えらくハンサムな顔に忌々しい火傷の跡が残る男は、いとも優雅に笑ってそんな彼を見下ろしている。

「目が醒めたのか?」

 見間違えることのないその顔立ちと、彼があの日、命辛々で逃げ出したことを物語るように頬にある火傷の跡を晒して、あの日がけして精神錯乱から見た幻覚ではないことを物語っていた。
 と言うことは、この目の前の光景も幻覚や幻と言ったものではないのだろう…
 ジョエルは眩暈を覚えていた。
 激しい頭痛は耳鳴りを伴っていた。

「口が利けなくなったわけじゃないんだろ?」

 おどけたようにグリフィンは笑って、それから思いついたようにパンッと掌を打ち合わせた。そう言ったいちいちの仕種にも、ジョエルはビクッとして身体を竦めてしまう。以前よりも良くなったはずの病は、驚くべきことに更に悪化して彼を苦しめているようだ。
 グリフィンが怖い。
 それはまるで無条件のようにジョエルの心を蝕み続けている。
 怖いはずはない。
 ”あの日”に全てを決別したはずだったのに…

「そうだ、お前にいいものを見せてやるよ」

「…グリフィン、生きて、生きていたのか…?」

 咽喉の奥がカラカラに渇いて、喜ぶ青年とは対照的に動揺を隠し切れていないジョエルが、ベッドの上で微かに震えながら言葉を吐き出していた。

「ご覧の通り。おかげさまで傷跡は残ったけど、ピンピンしているよ」

 鼻歌交じりに部屋の奥に消えながら呟いた言葉に、ジョエルは絶望感を覚えて目の前が真っ暗になるような感覚に陥ってしまった。
 あの悪夢が、また悪夢が甦るのだろうか…
 先生とダンスを踊っただけだと?
 そうしながらお前は、ただ俺の関心を惹きたいためだけに先生を、もしかして先生を殺したのか…?
 思わず身体の感覚がガクッと抜け落ちてしまったような気分を苦々しく味わいながら、ジョエルはそれでも渾身の力を込めて身体を起こした。身体を起こして彼は、グリフィンの消えた部屋にフラフラと重い左足を引き摺りながら歩いて行った。
 歩いて行って、突然姿を現したグリフィンにぶつかってよろけた所を、虫も殺せないような穏やかな表情をした殺人鬼が躊躇もなく抱き留めた。

「うッ、はな…せッ!」

「いいものを見せるって言っただろう?見ろよ、ポリー先生だ。素敵だろ?」

 グリフィンの差し出した写真を見て、見た瞬間、ジョエルはこれ以上にないほど目をむいて、それから顔を背けてしまった。
 グリフィンの差し出した写真には、両目を銀色のテープに覆われ、口許から真っ赤な血を溢し、身体中は鋭利な刃物で切り刻まれて腹部から内臓がはみ出した彼女は、大きな真っ赤な椅子に足を組んで座らされていた。
 真っ白なドレスが目に痛くて、それを汚すどす黒い血潮が、既に彼女がこの世ならざる者になってしまったことを物語っているようだった。
 赤黒い腸の断片がだらりと垂れ、その写真を見ただけで、噎せ返るような血の匂いが記憶の中にまざまざと甦ってきて吐き気を催したジョエルが、グリフィンの腕の中でもがいても彼が思うよりも強い力で抱きすくめたせいでガタガタと身体が震え出してしまった。

「ああ、こんな物はもういいか。さて、あの時の話しの続きをしよう」

「う…ぐッ…話しだと?なんの話しがあるって言うんだ!?」

 これ以上俺に何を求めると言うんだ?
 無残な最後を遂げてしまったポリーの断末魔の写真を投げ捨てたグリフィンが、クスクスと笑いながら睨みつけてくるジョエルの双眸を覗き込んだ。

「首の傷を見てみろよ。あの時は油断したけど、今度は大丈夫だ。さあ、話そうじゃないか」

 グリフィンの首には確かに、あの日ジョエルが隙をついて刺したナイフの傷痕が残っていた。
 不意にヒョイッと抱き上げられて、ジョエルはギョッとしたように目をむいた。

「やめろ!下ろせ、下ろしてくれッ」

 混乱する頭を抱えながら、無様に暴れるジョエルの身体を容易く抱え上げたグリフィンは、笑みの形を崩さない整った唇を歪めてそんな彼をベッドの上に投げ出した。

「なんでこんな…どうして俺なんだ?ポリー先生は関係ないじゃないか、これは俺とお前の問題じゃないのか?」

「うん、そうだな。それにいちいち首を突っ込んできたポリーが悪いだろ。あの時もそうだった…違うか?」

「うう…それをお前が言うのか?」

 ジョエルは、昔愛した女性を思い出して、汗で張り付いた前髪を掻き揚げることも忘れたようにグリフィンの飄々とした顔を見上げている。憎らしいぐらい飄々としていながら、そのくせ、子供のような癇癪を起こすこともジョエルは知っていた。
 なのに、どうして今、これほどまでにグリフィンに怯えているのだろう…
 それは自分が、FBIを辞めてしまっているからなのか?
 纏まらない思考に苛々しながら、胸を締め付けるような苦い思い出を思うジョエルの顔を、グリフィンは興味深そうにジロジロと覗き込んでくる。

「あの勢いはどうしたんだ?わざわざシカゴまで来てやったってのに、歓迎すらしないなんてつれないヤツだ」

 グリフィンが平然とした表情でそんなことをしゃあしゃあと言うのを、ジョエルは眩暈にも似た感覚を覚えながら俯いた。
 大丈夫だ、俺の部屋は仲間が監視してくれている、きっといなくなった俺をさがして、いや、グリフィンの姿を見て捜査するに違いない。そうすればポリー先生の亡骸も見つけ出して、今度こそ本当にグリフィンからおさらばできる…淡い願望だったのかもしれない。
 そんなジョエルの様子を見て、その心の内までも感じ取ったのか、グリフィンがニヤニヤ笑いながらギシリとベッドを軋ませて圧し掛かってきた。

「そうそう!FBIのお仲間は来ないぜ?同じ轍は踏む気がないんでね、ポリーと一緒にお前は吹っ飛んじまったことになってるからな」

「なッ!」

 思わずカッと見開いた双眸の先に、思ったよりも近くにある綺麗なグリフィンの顔にギクッとしてしまった。
 ベッドを軋らせながら押さえ付けるようにして圧し掛かってくる恐怖に、ジョエルの身体はガタガタと子供のように震えだす。

「驚いた?これでもう、お前は死人の仲間入りだ。はっはっは!おめでとう」

 やたら陽気に笑うグリフィンに、ジョエルは額にビッシリと汗を浮かべながらその顔を睨みつけた。
 ああ、お願いだから誰か…これは悪い夢なんだと言ってくれ。
 ポリー先生を…吹っ飛ばしたのか?
 それは恐らく、グリフィンなりの『仕返し』だったに過ぎないのだろう。
 だが、ジョエルにしてみれば…

「ポリー先生に酷いことをして、俺を死人に仕立て上げて、何が目的なんだ?お前は、何がしたいんだ」

 咽喉の奥が渇いて、思うように声が出ない。
 咳払いしようとして、唐突に首筋を強い力で掴まれてしまった。

「ヒッ!」

 図らずも声が漏れて、ジョエルは信じられないものでも見るような目をしてグリフィンの顔を見上げた。その顔は、あの車に乗っているときに見た、駄々を捏ねる子供のような仏頂面だった。

「ポリーに酷いことをした、だと?オレはどうだ!?この火傷を見ろよ!あの女を逃がすためにお前がつけたこの火傷の痕を!」

 グイッとベッドに押し付けるようにして首を締め付けてくるグリフィンの強硬な手を、それでもジョエルは外せずにいた。地獄から甦ったこの悪魔に、いっそ殺されてしまえば楽になれるかもしれない…そんな浅はかな思いが脳裏に浮かんだせいかもしれない。
 散々喚きながら首をグイグイと絞めていたグリフィンは、唐突に大人しくなって、労わるようにジョエルの咽喉許に頬を摺り寄せてきた。激しく咽込むジョエルの胸が苦しげに上下して、唇を歪めて喘ぐ姿を肩で息をしながら眺めていたグリフィンは気が済んだのか、不意に身体を起こして汗で額に張り付いた前髪を優しく掻き揚げてやりながら、ジョエルの鼻先に鼻が触れ合いそうなほど顔を近付けて囁くように言った。

「だからオレは考えたんだ。世界中でオレにとってお前がたった一人の存在であるように、お前にとってもオレはたった一人の存在だろ?」

 息が交じり合うほど近付いて話すのは、グリフィンにとって取って置きの秘密らしく、ジョエルはおぞましさに死にたくなっていた。

「そうだろ?」

 ”あの時”のようにしつこく聞いてくるグリフィンに、ぐったりして思考回路もまともに動かなくなっているジョエルに、反発する力など残っているはずがなかった。

「ああ、そうだ…」

「やっぱりな!だからオレは考えたんだ、オレも今は死んだことになってるからな。一緒に死んじまえば一件落着ってことさ」

 だからってポリー先生を…開きかけた唇は震えるだけで、思うように言葉にならなかった。
 満足そうに笑いながらジョエルの上から退いて傍らに寝転んだグリフィンは、首を絞められて窒息する金魚のようにハァハァと荒い息を繰り返す男を大事そうに見つめた。

「…この足は、オレが撃った銃弾が貫いた傷が原因?」

 ふと、太股に触れてくる熱い掌の感触に気付いて、ジョエルはだるそうに頷いた。熱い掌で暫く撫でるようにして擦っていたグリフィンは、ガバッと起き上がってジョエルをビクつかせると、子供のようにキラキラした目でベルトに手をかけたのだ。
 カチャカチャとベルトに手をかけて外されながら、もう逆らえないでいるジョエルは訝しげに眉を寄せてグリフィンを見上げる。

「何をするんだ?」

 俺を殺してくれるのか?
 声にならない願いを込めて呟いた言葉に返ってきた答えは、ジョエルをギョッとさせるには充分すぎるほど充分なものだった。

「傷跡を見せてくれ」

「なぜだ?」

 至極尤もなクエスチョンを、グリフィンはウキウキしたように無視して、いそいそとベルトを引き抜いてジッパーを下ろしにかかる。その手を慌てて止めようとして、ジョエルはグリフィンに首を押さえ付けられてしまった。

「ぐぅッ…」

 死ぬことなどもう怖くはないと言うのに、どうしてだろう、抵抗できないとは…それは恐らく、痛みの恐怖に本能が従っているに過ぎないのだろうが。
 チキチキ…ッと音を立ててジーパンのチャックが下ろされ、あっと言う間に咳き込むジョエルは下半身をトランクス一枚にされてしまう。
 左足の太股に残された傷跡は、グリフィンが撃った銃弾に穿たれて痛々しいケロイド状の引き攣れを晒している。その太股を、汗でしっとりと湿った熱い掌がゆっくりと撫で擦り、ジョエルはなぜかジッとしていることが出来ないような奇妙な感覚を覚えて目を閉じた。
 だがそうすれば、余計に五感が冴え渡りグリフィンの行動が逐一判ってしまう。
 もう雨の日ぐらいにしか痛みはないが、それでも傷口に直接触れて、指先でその窪んだ部分を擦られるように触られてしまうと、微かな疼痛を感じたような気になってジョエルの眉が寄った。

「痛いのか?」

 傷口から目を離さずに、もちろん、傷口から指先を離そうともせずに尋ねるグリフィンを、だるくてガックリと項垂れたように片手の甲を額に乗せてジョエルは奇妙な目で見ながら首を左右に振った。

「いや、もう痛まん」

「どんな気分だった?」

 矢継ぎ早に聞いてくる質問は、良く聞けばまるで脈絡が無いように感じる。

「何がだ?」

 恐らく尋ねられる内容は判っているが、この図体だけは大きくなっている心がまるでガキのグリフィンは、答えを先に言えば怒り出すだろうから、尋ね返すと言う懸命な手段に出た。

「オレに撃たれた時に決まってるだろ。オレが撃った銃から飛び出した銃弾がお前の肉にめり込んで、肉を引き千切りながら貫かれていくその時の感想は?」

「痛いし、打ん殴ってやりたいと思うに決まってるだろ」

 何を言い出してるんだコイツは?と、怪訝そうに眉を顰めたジョエルは、食い入るように窪みになっている傷跡に指を擦り付けているグリフィンの姿を見て、不意にゾッとした。
 そうだ、コイツは頭がおかしい。もう一度俺の足に弾丸を打ち込んでやろうとでも思い始めたのか?
 不安になって眉を寄せたままグリフィンを睨んでいると、彼はそんな気などないのか、それとも全く別のことを考えているのか、どちらにしろグリフィンは執拗にジョエルの足を撫で傷跡を指先で擦っている。

「そうだな、血がたくさん出るし。本来ならこんなところに何か突っ込まれるなんてことはないんだからな…」

「何を言ってるんだ?」

 不審に思って益々眉を寄せるジョエルの目の前で、不意にグリフィンが左足を持ち上げるといきなり形の良い口唇を傷口に押し付けたのだ。

「な、何をするんだ!?」

 突発的な出来事に、薬にやられた頭はすぐに対応できないでいる。
 それでも悲鳴のような声を上げたのは、このグリフィンと言う恐ろしい殺人鬼に股を食い千切られるのかと怯えたからだ。

「…うッ!?」

 ギクッとしたのは、動かない足の傷口を、まるで軟体動物のような、別の生き物のように滑った舌先で舐められたからだ。

「やめ…ッ」

 ろ、と言いたくて、言えずに必死で上体を起こしたジョエルはグリフィンの髪を掴むことぐらいしかできなかった。そんなあまりにもささやかな抵抗など何の効力も与えられずに、グリフィンは丁寧にケロイドの引き攣れ部分から窪みまでを舐めている。
 唾液に濡れそぼった傷口は電灯の明かりの下でヌラヌラと光っている。それだけ濡れそぼっていると言うのに、グリフィンは執拗にケロイドの一筋一筋を丁寧に舐めていく。

(こ、これはいったいなんなんだ?何かの儀式なのか…ッ)

 グリフィンは丁寧にケロイドの部分を舌先で舐めながら、指先で窪みをグイグイと押すようにして擦ってくる。すると、唐突になぜか、ジョエルの身体の奥にビリッと電流でも走ったような感覚が襲ってきて身体がビクンッと震えた。
 何が起こっているのか、萎えかけた脳味噌では理解できない。

「ぐ、グリフィン…」

 消え入りそうな声に漸く我に返ったグリフィンは、肩に担ぐようにして抱え上げた太股から唇を離すと、戸惑ったように見上げてくるジョエルの顔を見下ろして呆気に取られた様な顔をした。

「…勃ってるのか?」

「なんだと!?」

 ギョッとして自分の下腹部を見ると、トランクスを押し上げるようにして勃ち上がりかけたモノが見えた。それでなくてもグリフィンの突拍子もない行為に動揺していたと言うのに、今度は自分の身の上に起こった事態に戸惑わなくてはならなくなった。

「なぜだ、こんな…ッ」

 女を抱かなくなって久しいとは言え、どうしてあんな奇妙な行為で欲情してしまったのか?薬のせいで、その辺の部分はスッカリ萎えているもんだとばかり思っていただけに、ハンマーで頭を殴られたぐらいには驚いている。
 慌てたように両手で隠そうとするジョエルの腕を掴んで、グリフィンは何か面白い玩具でも見つけた子供のように双眸を輝かせて圧し掛かってきた。

「判っていたんだ。この世界中でお前だけがこのオレを受け入れることができるってな!はっはっは、こんな早く実行に移せるなんて、ありがとう神様!」

「な、何を言ってるんだ…お、俺は、俺はちがッ」

 悪魔のような殺人鬼が神を語るとは甚だ馬鹿らしいことではあるが、今はそんなことを暢気に考えている場合ではない。なぜならそれは、グリフィンの口唇が自分の唇を塞ぐようにして降ってきたからだ。
 まるで男と女が交わすソレのように、肉厚の舌に歯列を割り開かれて情欲をそそるような口付けにジョエルは怯えたような目をして、反射的にグリフィンに抱きついていた。どうしてそんなことをしたのか理解できなかったが、ジョエルのそんな態度に気をよくしたグリフィンは益々濃厚に舌を絡めては吸う仕種を繰り返して深いキスを愉しんだ。

「こ、これは…ぅ…なんだ…ッ!?」

 口唇を無理に引き剥がしながら呟くジョエルの頭には、男同士でキスはおかしいとか、年下の男にいいように扱われている事実だとか、その相手がなぜ殺人鬼のグリフィンなんだとか、そう言った実に現実的な観念が抜け落ちていた。今目の前で繰り広げられているこの行為自体に、ジョエルの頭はバーストしてしまいそうになっているからだ。
 そんなジョエルの甘く濡れて戦慄く唇に舌を這わせながら、グリフィンは今まで見たこともないような上機嫌で、差し詰め墓場で会ったあの時、素直に従ったときに見せた嬉しそうな表情を浮かべて、足の間に割り込んでいた身体をずらしながらトランクスに手をかけた。

「セックスだよ!もうこれは、生まれる時から決まっていたことなんだぜ。だからオレは、女どもを殺しながらずっと考えていたんだ。オレを受け入れても壊れない存在を!」

「セ…何を言っているんだ、お前は。俺は男だ、受け入れるべき対象じゃないだろう」

「傷口を舐められて感じたのはその証拠じゃないのか?」

 グッと言葉に詰まって息を呑むジョエルの狼狽えたように揺れる瞳を覗き込んで、グリフィンはしたり顔でその首筋に舌を這わせる。咽喉仏は唾液を嚥下して上下に動き、その動きを舌で追いながら浮き上がった鎖骨に這わせると、女を知っている身体が快楽の在処を知ってヒクリと戦慄いた。
 男の即物的な欲求は即ち形となって現れるが、未だに事の重大さを理解できないでいるジョエルは溜め息を零しながらグリフィンの黒い艶やかな髪を引っ張った。

「やめろ…お前の相手は俺じゃない」

「そうか、じゃあ実行してみよう。それで違っていたらそれまでだ。うん、簡単なことじゃないか」

 少し顔を上げたグリフィンは、どうでもいいことのように眉をヒョイッと上げて、肩を竦めるとそんなことを軽い口調で言った。

「…違っていたら、俺を、俺を殺してくれるのか?」

 あの時、死を感じたあの時は確かに、生きることに目覚めていた。
 薬漬けの毎日にうんざりして、それでも、こんな自分でもまだ何かの役に立つことはあるんだと、皮肉にもグリフィンを追いかける日々で生気を取り戻していた。
 だが今は、頼るべき女医も死に、仲間たちは既にジョエルの葬式も済ませているかもしれない。
 そんな絶望の中で、どうして生きていけと言うのか…ましてや、この冷酷で頭のおかしい殺人鬼に犯されるというのに。

「…」

 顔を上げていたグリフィンは不意に、その切れ長の美しい双眸を細めて、まるで残酷な遊びに取り憑かれた子供のような目をして見下ろしてきた。そして、ふと馬鹿にしたような苦笑を浮かべてジョエルにキスをしたのだ。

「ああ、殺してやるさ」

 そんなはずがある訳ないと確信している双眸は揺らぐこともなく、グリフィンは上体を起こして膝立ちになると、着ていたシャツを引き千切るようにして脱ぎ捨てた。その身体は、何をしてそこまで鍛え上げたのか、程よくついた筋肉に覆われて驚くほどスタイルが良かった。

「オレが教えてやる、男同士も捨てたモンじゃないぜ?」

 ニヤッと笑った頬の引き攣れが、痛々しく歪んで、その顔に兇悪の影を落とした。
 グリフィンが怒っているんだろうと、ジョエルは観念して瞼を閉じた。