執着する者 2  -The Watcher-

 ジョエルの顔からは血の気が失せ、その顔色は悪かった。
 伏せた目蓋を縁取る睫毛が、電灯の明かりで青白い頬に影を落としている。
 その様を、グリフィンはジョエルの顔の脇に肘を突いて、ジッと覗き込んでいた。
 彼の知っている男は、こんな風に観念するヤツではなかった。ましてや自分に殺してくれと哀願するような、そんな弱い男ではなかったはずだ。
 何かが歯車を狂わせて、グリフィンの胸に焦燥感を掻き立てた。
 しかし…ふと彼は、睫毛を震わせながら唇を結んでいるジョエルを凝視し、フッとその口許を綻ばせた。
 ああ、なんだ。そんなことなのか。
 ジョエルのことなら何でも知っている自分だが、知らないことがあっても不思議ではない。だからこそ、彼を捕らえて、雁字搦めにして、自分だけを見つめる様に仕向けたのではないか。
 彼の近所に住む女も、遠い昔に彼を独占した小憎らしいリサも、そしてポリーでさえ彼を引き止める道具でしかなかった。
 殺してしまえば、もうけして逃れることの出来ない苦悩の闇に堕ち、助けを求める腕をさし伸ばすだろう。 
 それが狙いだったくせに。
 思い出して、思わず噴出しそうになった。
 手に入れたかった大事なものは、年を追うごとに自分自身を苦しめて、薬に溺れながら歪みを生んで壊れかけてきた。できることなら真綿に包んで、そう、誰にも心を見せないのなら、こんな風に大事にしてやりたかったものを。
 FBIと言う仕事に誇りを持って、溌剌と駆け回っていたあの姿が一番好きだった。足を撃ち抜いたとき、しまったと内心で歯軋りしたが、あの時はそうするしか他になかったのだ。
 炎は美しかったな。
 ポツリと心で呟いて、緊張のため冷たくなっているジョエルの頬を優しく片手で包み込んだ。
 大きくて熱い掌が頬に触れたとき、ジョエルはハッとしたように目蓋を開いた。戦慄くように睫毛がピクリと震え、青い双眸が思ったよりも近くにあったグリフィンの顔を捉えた。
 親指がジョエルの唇を擦り、戸惑うように視線を彷徨わせるジョエルをまるで無視して、少し渇いた唇に自らの唇を這わせると、グリフィンは問答無用でその口腔に舌を挿し込んだ。大して抵抗もせずに、ジョエルがそれに応えるように舌を絡めた。
 本当は判っている。
 ずっと見つめ続けてきたのだから間違いなどあるワケがない。
 ジョエルも少なからずグリフィンを愛しているだろうと言うことは。
 ほの暗い光を放つ双眸で、グリフィンはジョエルを見た。
 肘を付いた格好のまま、覆い被さる様にしてジョエルを組み伏せると、何年も水を与えられなかった人のように貪るようにキスを愉しんだ。口付けはだが、不意に離れたかと思うと、頬に舞い降りこめかみへと移り、顔中にキスの雨を降らせながら耳朶へと降りていく。
 そう、もうずっとこうしたかった。
 炎は官能的で、いつもグリフィンの情念を駆り立てていた。
 炎は美しかったな。
 もう一度ポツリと心で呟いて、グリフィンはジョエルの耳朶を唇で弄んだ。

「…ッ」

 熱に浮かされているジョエルにしてみたら、その一つ一つの動作は、この男が与える試練なのだと諦めて、そう思うことで自責を押し込めながら声を噛み殺していた。

「…オレは」

 突然、耳に心地好い低い声が聞こえて、熱に潤んだ青い双眸がグリフィンを見上げた。

「どんなお前でも全て知っておきたいのさ、ジョエル。その権利を与えてくれたんだろ?」

 怪訝そうに眉を寄せた彼の愛しい人は、諦めたように溜め息をついて、それから掠れた声で呟いた。

「俺に決定権なんかあったのか?」

 クスッと笑ったグリフィンは、伸び上がるようにして暗いブロンドが汗で張り付いた額にキスをする。
 上出来の答えに気を良くしたのか、指先で首の付け根を揉みしだいた。

「この手で、お前の肌の感触が知りたいし、オレの腕の中で乱れるお前の姿が見たい。歓喜に震えて悶える姿も、何もかもだ。お前の全てを飲み干して、お前の奥深くへオレを埋めて一つになる。その時のお前の顔を見たい…これはもう抑えられない欲求なんだ」

 ジョエルはぶるっと震えた。
 まるで今そうされたかのように、耳の奥に舌が潜り込んだからだ。

「…ッ、…ぁ」

 あくまでも声を殺そうとする愛しい人に、グリフィンは苦笑しながらカリリ…ッとその耳朶を甘噛みした。

「…ん!」

 ビクンッと身体を震わせて、ジョエルがむずがる子供のように首を竦めると、グリフィンは安心させるように頬にキスをした。官能的な指先が頬に触れ、それから意図したように下へと降りていくと、グリフィンの唇も同じように頬を滑って剥き出しの首筋へと降りていった。
 敏感になった肌はグリフィンの口付けを恐れ、戦慄くように震えたが、吸い上げられて噛み付かれてしまうと散らされた花弁のような痕をつけた。
 器用にシャツのボタンを片手で外しながら、グリフィンは官能的な指先と掌、そして唇でもってジョエルの全身を隈なく愛撫することにしたようだ。半裸に剥かれながらジョエルは、跳ね上がる息を噛み殺しながら、呆然と少し薄汚れた天井を見上げていた。
 これは、これはなんなんだろう…この感触はなんなんだ。
 一つ一つ、まるで罪が暴かれるように、グリフィンの舌と唇と指先で暴かれる性感帯がもたらす快感に、息を詰めながら怯えていた。
 ジョエルの身体をまるで地図を描くように隈なく探り、その快感の在り処や、その全てを脳裏に焼き付けようとでもするかのように、グリフィンは執拗に丹念に愛撫を施していた。
 鎖骨を確かめるように両手の親指で触れ、味わうように唇を落としてキスをした。
 熱い唾液が空気に冷えて冷たい軌跡を肌の上に描いていく様を、ジョエルは熱に浮かされた頭で感じていた。
 一旦灯された快感の焔は消えることなく、まるで全身を嘗め尽くすように広がっていき、身体の中心に到達すると抗えない衝撃を断続的に与えてくる。

「…ッ…ぁぁ…」

 もう駄目だ、このまま自分はグリフィンに食われてしまうんだろう。
 歪んだ陶酔に胸を震わせながら、グリフィンの漆黒の双眸に見つめられて、硬く尖った乳首に歯を立てられただけで、ジョエルのはち切れんばかりに立ち上がった欲望は精を吐き出しそうになった。散々愛撫して、たっぷりと時間をかけるくせにグリフィンは、そうして歓喜に震えながら涙を零す欲望には触れようとしない。 
 身も世もなく泣き出して、どうかイカせてくれと叫びだしそうになるジョエルの身体を、両足を、特に自分が銃弾で穿ってしまった傷跡を執拗に愛撫していたグリフィンは戻ってきて抱き締めると、欲情した双眸で射抜くように見つめてきた。

「お前は美しいよ。そんなこと、考えもしないんだろうな」

 何を馬鹿なことを…熱に浮かされた頭では判っていても言葉にできない。
 そんなことよりも、この浅ましい熱を開放して欲しいと、ジョエルは知らずにグリフィンに腰を擦り付けていた。まだジーパンを脱いでいない厚い生地に、トランクスに包まれた先端に甘美な快感がダイレクトに伝わってジョエルは悲鳴のような声を上げた。

「愛してるよ、ジョエル」

 不意に呟いて、やるせない熱に浮かされているジョエルが不思議そうな顔をするのと、グリフィンがその口唇を荒々しく塞いで窒息しそうなキスをするのは同時だった。
 口付けて、魅惑的な微笑を浮かべるとペロリと唇を舐めた。それは、待ち兼ねていた合図のようで…ジョエルは我知らずにうっとりと見つめていた。
 腰を突き上げるようにするジョエルの下半身からトランクスを剥ぎ取ったグリフィンは、今や開放を待つばかりの欲情には直接触れずに、意地悪でもするかのように付け根の辺りをきつく吸って花弁を散らした。

「…ヒッ!…ッ」

 酷い仕打ちに先端から涙を零しながら、ジョエルは剥ぎ取られかけていたシャツの袖を噛んで声を押し殺した。そしてグリフィンは、その時になって漸く長い責め苦の果てに、ジョエルが待ち望んだ快楽を情熱を込めて与えてやったのだ。

「ひぁ…ぁ…ああ!」

 熱く、驚くほど滑らかでねっとりした口腔で締め付けると、グリフィンは深々と飲み込んで根元に指を宛がうと弄り握ったりしながら吸い付いた。淫らな音を立てながら吸い上げ、リズミカルに輪にした指で扱き上げるだけで、ジョエルの身体はまるで、波打ち際に打ち上げられた魚のようにしなやかにビクビクと跳ね、身悶えた。
 女にしてもらってもこうは感じないだろう。
 なんと言う快感!なんと言う悦楽! 
 大きな波のうねりに飲み込まれそうになって、ジョエルは闇雲にもがいて足掻いた。どうしていいのか判らずに逃げ出そうとして、グリフィンに抑え付けられてしまう。

「う、…あ、…あぁあぁ…ッ」

 目の前がスパークするような快楽に腰が痺れ、気付いた時にはグリフィンの滑らかで熱い口腔に塞き止められていた欲情を吐き出していた。たとえ精を全て吐き出していたとしても、それでもグリフィンはまだジョエルを手放す気はないようで、射精の快感に打ち震える陰茎を思う様しゃぶり、残滓までも吐き出させようとするかのように吸い尽くした。
 目の前がクラクラするような快楽にぐったりと身体を横たえていたジョエルは、いつの間にかウトウトしていたのか、グリフィンの熱い掌が暗いブラウンの髪を撫で、肩口や首筋にキスをされてハッとした。
 気付けばしなやかでスマートなグリフィンの、絹のように滑らかな胸元に背後から抱き締められていた。
 驚いて振り返ろうとするよりも早く、グリフィンの熱い手に顎を攫われて、そのまま上向かされるようにして唇を奪われてしまう。恥ずかしいとか、どんな顔をしたらいいのかなど、そんなことを考える隙さえも与えない敏捷な口付けは、ジョエルに残る羞恥心をも奪い取ってしまった。
 グリフィンは口付けが好きなようだった。
 肌を合わせて感じたのは、グリフィンの執拗な愛撫と情熱的なキス。
 絡めた舌先から溶け出して一つに交じり合い、いつかグリフィンに飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚える濃厚で情熱的な、グリフィンだけが持ち得る魅惑的なキス。
 腰が一気に萎えて、意識すら砕けてしまうような…
 空いているほうの掌で胸元から腹部を撫で擦られて、ジョエルがビクンッと身体を震わせたとき、臀部にグリフィンの獰猛に滾る欲望が押し当てられた。その瞬間、ジョエルの身体中の血液が沸き上がったようになって、耳元でドクドクッと血流が波立つ音が聞こえくると、それでなくても逃げ出せないキスに蕩かされていると言うのにどうしたらいいのか判らなくなってしまう。
 そんな動揺を感じたのか、グリフィンはジョエルの震える耳元に唇を押し当てた。

「お前が欲しい、ジョエル。もう、限界だ」

 この男は、本気で自分を抱こうと言うのだ。
 ああ…目の前がクラクラして、そのくせその瞬間を待ち焦がれている自分の身体に今更ながら眩暈がした。
 耳元に吹き込まれたグリフィンの、欲望に掠れたセクシーな声音さえ、欲情に火をつける。
 臀部に入り口を求めて擦り付けられるグリフィンの欲望は、ドクドクと脈打ち、絹の滑らかさと灼熱の鉄を思わせた。
 甘い溜め息を洩らしたジョエルは、その誘いを受けるように身動きが取り辛い自分の身体を反転させて、グリフィンの口唇に自分から唇を押し付けた。男同士のキスにまだ慣れていないジョエルのキスはぎこちなく、それが却ってグリフィンの欲望を掻き立てた。
 口付けを交わしながら、グリフィンは潤滑油に濡らした長く繊細そうな指先を潜り込ませ、その衝撃で微かにジョエルの身体がずり上がった。
 離れかけた口許から溜め息が漏れて、グリフィンはジョエルを抱えなおすようにして抱き締めると、長い指先で宥めるように胎内を探っていた。その間に擡げるジョエルの欲望に愛撫を加えながら、甘やかすように囁くのだ。

「息を吐け。いい子だから身体の力を抜くんだ」

 どうしたらいいのか判らないで我武者羅にしがみ付いていたジョエルは、耳元に吹き込まれた低い声音に身体を震わせて、言葉通り身体から力を抜こうと息を吐き出した。ジョエルの身体が弛緩した途端、グリフィンの長い指先がズッと奥へと入り込んだ。

「ぅあ!…あ、ああ…ッ」

 何が起こったのか、青の双眸を見開いてグリフィンを凝視したジョエルは、身体の奥に隠されている快楽の在り処を刺激されて、そのあまりの強い衝撃に悲鳴を上げたのだ。グリフィンが宥めるように背中を擦ってやると、絶頂に身悶えて痺れたように快楽の波に浚われるジョエルは、それでも終わらない繊細な指先の愛撫に応えるように腰を揺らめかしていた。それは最早、細い指先の愛撫では満足していない証拠のようで、それを感じたグリフィンがズルッと指を引き抜くと、ジョエルはハッとしたように顔を上げてグリフィンを見た。深いほの暗い双眸に見据えられて、自分の浅ましさに羞恥しながら顔を伏せても、強請るように揺らめく腰は止めることができない。
 不意にグリフィンが圧し掛かってきて、揺らめく腰を掴むとグッと身体を押し進めてきた。

「…ッ!…グゥ、…ひぃ…ぅあッ」

 指の抜かれた身体が物欲しげに収縮を繰り返していたその部位に、唐突にめり込んできた強烈な衝撃は、ジョエルの背中にジットリと汗を滲ませて圧倒する。灼熱の棍棒に抉じ開けられるような痛みは、耐えようとして耐えられるものではない。恐怖と激痛にもう止めてくれと叫びだそうとしても、気付けばジョエルは自らグリフィンを受け入れようと腰を突き出していた。あまりにも巨大な欲望はゆっくりと穿ちながら、ジョエルの胎内を割り広げるように押し進んだ。
 だが、漸く全てを飲み込ませることができたのか、グリフィンは息を吐くと、胎内の奥深い部分で猛々しくも落ち着いたようだった。

「・・・ッ、…ん…ッ」

 ジョエルが挿入の衝撃と痛みに生理的な涙を零しながら抗っていると、グリフィンが抱き締めながらその顔中にキスの雨を降らし、首筋に口付けると、漸くジョエルの緊張が解けて落ち着いたようだった。身体が落ち着けば、グリフィンの与えてくれる愛撫に応えることができるようになって、気付けばジョエルの欲望も激しく滾っていた。
 全てを受け入れるようにジョエルが身体を開いたとき、グリフィンがもうずっと、長いこと待ち望んでいた瞬間が訪れたのだった。ゆっくりと律動を始めるグリフィンの動きに合わせるように、ジョエルの腰がゆらゆらと動き始める。
 もっと、もっと奥へ…強請るように腰を揺らして、もっと激しく、もっと強く、いっそ凶悪なほどの快感を望んで引き抜いては深く突き入れるグリフィンの欲望を、自ら身体を開いて迎え入れたのだ。
 既にグリフィンに身も心も預けてしまったジョエルに、どこにそんな自制心があるのか、愛するという者を抱きながらグリフィンは乱れずにジョエルの身体を思う様味わっている。2人の間にたゆたう快楽はそのうねりを増して、その波がもうそこまで迫っているのを感じたとき、既に溺れたように夢中になっているジョエルは何かに縋り付きたいように両腕を伸ばしてグリフィンを抱き締めていた。
 グリフィンはそんなジョエルの身体を押さえ付けると、その唇に口付けて、そして熱情をぶつけるように首筋に噛み付いた。大きな波に飲み込まれたその瞬間、ジョエルの掠れた悲鳴を覆い隠すように、グリフィンが獣のような咆哮を上げていた。
 身体の奥深い部分に溶岩のような精を注ぎ込まれた瞬間、ジョエルは脳内がスパークして、眩暈を覚えたようにゆっくりと奈落の底に堕ちていった。

 ジョエルが目を覚ましたとき、咽喉の奥がヒリヒリして、カラカラに渇いているのを感じていた。
 粘る唾液を飲み込んで、ゆっくりと覚醒を待っていると、不意にベッドが軋んでハッとした。
 そうだ、自分はグリフィンに抱かれたのだ。
 どんな理由にせよ、年下の、しかも殺人鬼に抱かれたのだ…
 目を開けて見上げると、床に投げ捨てていたシャツを拾って素肌に羽織っていたグリフィンが、そんな気配に気付いて振り返った。閉めたカーテンの隙間から、朝日が眩しいぐらい凶悪な光で射し込んでいる。

「目が覚めたようだな、腹減っただろ?」

「あ、ああ…」

 咽喉に引っかかった言葉を咳払いで直し、ジョエルは伏し目がちに頷いた。
 今更どんな顔をすればいいのか、急に現実に叩き戻されたジョエルは、ノロノロと痛む上半身を起こしながら頷いて見せた。
 そんなジョエルの態度などお構い無しに、グリフィンは機嫌が良さそうにキッチンに消えた。
 時折、鼻歌が聞こえて、お得意のダンスでも踊りながらブレックファストを作っているのだろうか…
 溜め息を吐きながら、ふと、ジョエルは自分が連れて来られた部屋を改めて見渡した。
 そこそこ、感じの良いアパルトマンだ。もちろん、ジョエルの住んでいた部屋に比べれば遥かにグレードは高い。ただ、部屋の散らかりようは自宅と互角だな、とそんなことを考えて苦笑した。
 ベッドには昨夜の情事の名残が嫌でも残っていて、出来るだけ見ないようにしながら、部屋を観察していた。ふと、あの時グリフィンがポリーの写真を持ってきた部屋に目が止まって、恐る恐る起き上がると、左足を引き摺るようにして真っ黒の垂れ幕がしている部屋に入った。
 そこは真っ暗で、手探りで探った先にスイッチがあって、パチンッと音を立てて電灯をつけると一面真っ赤で瞠目してしまう。だがそれは、電球自体が赤いようで、ホッとして辺りを見渡して思わずジョエルは後ずさってしまった。
 壁一面に貼られているのはあらゆる角度から撮られたジョエルだった。
 その殆どはFBI時代のものだったが、なかには牛乳の入った紙袋を抱えて、不安そうな顔をして交差点を横切っている今のまである。

「こ、これは…」

「ジョエル=キャンベルさ」

 ビクッとして振り返ると、片手にシャツを持ったグリフィンが立っていた。

「言っただろう?ずっと見ていたって」

 シャツをジョエルの肩にかけながらグリフィンはそう言うと、ふと目に止まったのだろう、寒そうにヨレヨレのコートの襟を立てて紙袋を抱えて道を急ぐ一枚を指差した。

「この時は2時間迷っていたな。あんな役にも立たない薬はもう飲むなよ?」

 慢性の頭痛はお前のせいじゃないか。
 言葉にしたくても言葉にできず、ジョエルは壁一面に無造作に貼られた写真を、不気味なものでも見る目つきで食い入るように見つめていた。
 確かに自分に固執していたことは知っていた、それは恐ろしいほどの執着心で、果ては自分を抱くほどだと今回で思い知った。

「…お前がいなくなるまでは、自分がこんなにもお前を大切に想っていたなんて思わなかった。いや、それは違うな。お前が掛け替えのない存在だって事は判っていたんだ。だからこそ、リサを殺した。オレたちの間に割り込む者は誰だって許すつもりはない。もちろんポリーも」

 そこまで言って、震えているジョエルに気付いてグリフィンは漆黒の髪を掻き揚げてから、愛しそうに背後からジョエルを抱き締めた。払い除けることもできたのに、その時のジョエルにはそんなことよりも、次々と出てくる贖罪の名前に耳を覆いたくなっていた。

「話が逸れたな。オレはお前が逃げるようにしていなくなったとき、初めて心底から思い知ったよ。オレにとってお前が、どれほど大切な存在だったかって事を」

 抱き締めた腕に力を込めて、グリフィンはジョエルの首筋に顔を埋めると血管の浮いた肌に口付けた。
 どれほど言っても言葉では伝わらないのか、グリフィンが焦れたように首筋を愛撫すると、ジョエルは震えながらグリフィンの髪に頬を寄せる。

「お前はオレの身体の一部なんだ。切って捨てられるもんじゃない。それは恐ろしいほど確実な真実で、オレたちを取り巻く運命と言うものさ。空虚だった日々にお前の存在が現れたあの瞬間、それからの日々はまさに掛け替えのない黄金の日々だった。お前がいなくなるあの瞬間までは…」

 ジョエルの身体を振り向かせて、呆然と立ち尽くしているジョエルを抱き締めながら、グリフィンは顎に手をかけると上向かせて口付けた。
 そう、彼は恐ろしかった。
 自分の住む世界に、”彼”がいなくなったのだ。忽然と、まるで風のように姿を消してしまったジョエル…

「だから追いかけた。追いかけて、シカゴまで来たんだ。ラッキーだったがな」

 濃厚な口付けにジョエルの腰が砕けかけたとき、グリフィンは唇を離してニッコリと笑った。形の良い唇は唾液に濡れて、妖艶に色気を醸し出している。
 だがその台詞は全て、彼のジョエルに対する”愛の告白”だった。
 炎が美しいように、グリフィンの身体の下でのたうつジョエルは炎のように美しかった。

「…それで?俺はお前の相手にはどうだったんだ?」

 抱かれる前に、違っていたら殺してくれと約束したことを思い出して、ジョエルは溜め息を吐きながら呟いた。
 そんなジョエルを、長いこと手に入れたくてできなかったその大切な存在を、グリフィンはこれ以上ないほど大事に抱き締めながら驚いたようにキョトンッとしてそれから笑った。

「そうだな、200%の確率で一致したよ」

 返ってくる答えは凡そ判っていたが、実際に耳にしても、なぜかそれほど嫌な気分はしなかった。
 グリフィンが言うように、200%の確率で一致してしまったのだろうか?
 そんなことを考えて、ジョエルは自嘲気味に微笑んだ。
 そんな、まさか…だ。

「さあ、腹が減っただろ?こっちに来いよ、美味いベーコンがあるんだ。卵はスクランブルでよかったよな?」

 グリフィンは上機嫌でジョエルを誘った。
 漆黒の髪に整った顔立ち、黒みがかった双眸を笑みに揺らしたデイビッド=アレン=グリフィンが差し出すその腕を、ジョエルはただひたすら息を呑んで見つめた。
 人懐こい青年の頬には醜い火傷の痕、笑えば女性を魅了するんだろう。
 朴念仁とも取られがちの元FBI捜査官の左足には、永遠に消えない傷痕。
 逃げ惑うだけ人が死ぬのなら、傍にいればどうなるのだろう?
 薬に犯されて既に破滅の道を辿るしかない、この身体でいいのなら、くれてやるのも悪くはないだろう。
 そうすることで人が死なないのであれば、ジョエルはグリフィンの差し出した手をゆっくりと掴んだ。
 グリフィンの顔がパッと嬉しそうに変わるのを見つめ、覚悟を決めて目蓋を閉じる。
 そうして自分は歩み出すのだろう。
 抱きとめられるその腕の中へ。
 もう二度と後戻りの出来ない、日常の世界へ…

─END─