悪魔が隣で眠る夜 -悪魔の樹-

りーん。
りーん、りぃーん。

 どこかで澄んだ鈴の音がしている。
 それは遠く、また近くで、まるで寄せてはかえす時の漣のように、ゆるやかに響き渡っていた。
 全体は漆黒の闇だというのに、そこだけがぼんやりとしていて、水もないというのにその足元には幾重にも波紋が広がっている。
 そんな幻。
 そのひとは力なく垂れた掌で、まるで弄ぶように古の鈴を鳴らしている。

■□■

『なんと言う夢を見たのですかッ』

「へ?」

 俺の膝の上で満足そうに咽喉を鳴らして微睡んでいた白蜥蜴は、昨夜、奇妙な夢を見たと言う俺の話を聞いてギョッとしたように目をむいて言った。
 そんな白蜥蜴の動揺がいまいち理解できなくて首を傾げて見下ろしていると、途端に白蜥蜴はボワンッと煙に包まれて、人ならざる絶世の悪魔となって俺の両頬を繊細そうな両手で包んで上向かせると顔を寄せてきた。
 真っ白な睫毛に縁どられた金色の双眸が不安に揺れて、真っ白な眉毛も顰められている。そんな成りを見てしまうと、どうも只事ではないんだろうと、貧弱な人間でしかない俺はゴクリと息を呑んだ。

『ご主人さま、それは死の眷族が齎す禍の夢ではありませんかッ!』

「シノケンゾク?」

 あぁぁ、もう!っと、両手で真っ白な髪を掻き揚げながら、キョトンとしている俺の前で狼狽える白い悪魔の、そんな姿は初めて見るから、俺は正直言ってかなりビビッていた。
 漆黒の外套にじゃらじゃらと古めかしいな宝飾品が下がる赤天鵞絨のようなベストの胸元、肩には飾り髪が一房垂れて、家の中だと言うのにお構いなしの靴も暗黒色のズボンも、どれをとっても一級品であること間違いなしの、やたら古風な出で立ちの先端の尖った長い耳を持つ白い悪魔は、泣く子も黙る海を統べる神にして大悪魔のレヴィアタンだと言うのに、いまいち話の見えていないご主人を前にどうやらかなり動揺しているようだ。
 なんだって言うんだよ。

「ちょっと、まずは落ち着け」

 灰色猫を、いやルゥを…と独りでブツブツ言って取り乱す白い悪魔の、その青褪めた白い頬に、今度は俺が両手を添えて振り向かせる番だ。

『ご主人さま…』
 大悪魔のくせにやたら気弱い表情をして泣きそうな情けない顔をするレヴィに、俺はちょっとよろめきながら…ってそれはいかんのだが、何が彼をそんなに不安にさせているのかを聞きたかった。

「俺の見た夢がそんなに悪かったのか?別に、悪夢ってほどでもなかったんだけど…」

『悪夢は夢魔が見せる一夜の幻影にすぎません。だが死の眷族は違う。彼らが持つ鈴は永劫の罪の証でもあるのですから』

 うん、何を言ってるのかわかるように説明してほしいな。
 俺がにっこり笑って首を傾げると、その姿で漸く我に返ったと言うか落ち着いたと言うか、ともかく自分を取り戻した白い大悪魔はどっかりと床に胡坐を掻いて座ると、俺の両手を掴むと頬からゆっくりと外しながら溜め息を吐いて話し始めた。

『ご主人さま。死の眷族と言うのは闇夜を塒とした暁を見ぬ者。常世の罪を贖う咎人のことを言います…と言っても判り辛いですね。俗に言う死神です』

「あ、なんだ死神か。そう言ってくれた方が判り易い…って、ええッッ?!」

 ご主人さま、最近反応が鈍いです…とかなんとか、酷薄そうな薄い唇を尖らせてブツブツ呟いて、レヴィはやれやれと首を左右に振った。

「じゃあ、俺ってもうすぐ死ぬってことなのか??」

『まさか!』

 思わず口をついて出た言葉に、ギョッとしたレヴィは思い切りキッパリと否定してくれた。

『この大悪魔レヴィアタンの守護するあなたに、たかが死神如きに何ができると言うのですかッ』

 元来、負けん気が強くて嫉妬深く、どんな悪魔よりも暴れん坊で、そして悪魔の中でもほぼ最強を欲しい侭にするレヴィは、人間の常識的に考えて死神と聞けば死期が近いのではと弱気になる俺の握ったままの両手にぐっと力をこめて、それから腹立たしそうに言い放ったんだ。

「…って、レヴィの動揺っぷりにそう思っちゃっただけだよ」

 あれだけ激しく動揺しておいて、なんだ今のその自信満々のキッパリぶりは。
 悪魔すら動揺する死神に思わず死期を悟ってなんで怒られるんだよ。
 ただ、大悪魔から守護されるって…守護って悪魔が使ってもいい台詞なんだろうか。
 やっぱり悪魔に不可能のないレヴィだから使ってもいい言葉なのかなぁ。

『ああ、それは。常しえの鈴を鳴らす夢と聞いたので、少し動揺したのかもしれません』

 少しどころじゃなかっただろ。
 それはグッと飲み込んで、いやでも待てよ。
 死神の夢だったんだよな…

「死神って大きな鎌を持っている骸骨なんだろ?俺の夢に出てきた人は、悲しそうな目をした真っ黒いローブを着た普通の人間みたいだったぞ。それに鎌じゃなくて鈴を持っていたし…」

『ご主人さま。目の前にいるオレはどんな姿に見えますか?もともと、これがオレの本当の姿じゃありません。大海蛇の姿が本来のオレの姿なんですよ?』

「そっか。そう言うことか」

 レヴィが言いたいのは、姿なんてどうとでもなれる。ただ、その本質こそが見抜かなければならない大事なことなんだと言うことなんだろう。

『漆黒のローブで覆い隠すのは淀んだ闇です。闇に喰われて尚、彼らは人の夢に縋り鈴を鳴らすのです』

 苛立たしそうにレヴィはそう呟いた。
 闇に喰われて…その時になって漸く俺は少しゾッとした。
 彼なのか彼女なのか、性別すら超越したその存在は、りぃーんと泣きたくなるような鈴の音を厳かに鳴らし、水はないと言うのに足元に幾重にも波紋を浮かべて歩いていた。でもその波紋が、本当は垂れ流される闇だとしたら、じっとりと獲物を待つ禍々しい狂気だとしたら…そこまで考えて震えたら、不意に甘い桃のような香りに包まれて、それで俺はレヴィに抱き締められたんだと気付いた。

『ああ、もしかして怖がらせてしまいましたか。しかし、大丈夫です!オレは海を統べる大悪魔です。死神如きにあなたをくれてやるつもりはありません』

 体温なんかないんじゃないかと思う大悪魔の胸元は温かくて、俺は大好きな桃のような甘い匂いに包まれながら、嬉しくてすりすりとすり寄ってはみたものの…

「くれてやる…って、やっぱり俺を連れに来ていたってことか?」

 レヴィはレヴィですりすりする俺の態度が嬉しかったのか、色気もクソもない俺の硬い髪に頬擦りなんかしてご満悦しているようだったけれど、ちょっとムッとしたように酷薄そうな薄い唇を尖らせた。

『何かの手違いにしろ何にしろ、確かにその死の眷族はご主人さまを迎えに来たのでしょう』

 やっぱりか。
 と言うことはだ、やっぱり俺の死期が迫ってるってことじゃねーか!

『それは違います』

 レヴィの胸の中でガウッと牙をむく俺に、奴は不貞腐れたように首を振ってやっぱりキッパリと否定してきた。
 俺を見下ろすその黄金色の双眸は、不機嫌そうに冷たかった。
 うう、けして俺に向けている目付きじゃないとわかっても、こう言う眼を見るとレヴィは確かに悪魔も泣き出す大悪魔レヴィアタンなんだなって思うよ。
 これだけの大悪魔だと言うのに、外見は悪魔も泣き出すデビルハンターをパクッたってんだから、流石と言うかなんと言うか…

『ご主人さまは何か勘違いをしていますね。しかし、人間であるご主人さまがそう思うのも仕方がないことです。とは言え、まずは彼の思惑を確かめる必要があります』

 ふと、俺を見下ろすレヴィの双眸がやわらかに細められて、それから少し寂しげな光が揺らいだ。
 名立たる時の王族が持っていたに違いない、華奢な意匠の、それでも十分すぎるぐらい価値のある幾つかの指輪が納まる指を開いて、俺の眼前に掌を翳したレヴィがなんとも悪魔らしくニヤリと笑った時には、俺は両目を瞼の裏に隠してしまっていた。

■□■

『…さま、ご主人さま、どうぞ目を覚ましてください』

 ふと、聞き慣れた愛しい声がして、俺は揺蕩う微睡みの中から意識を取り戻すようにどうにか覚醒したようだった。
 と言うのも、何か薬でも飲まされたような酩酊感が続いていて、目が覚めているのか眠っているのか、いまいちよく判らない心理状態だったりする。

「ぅ…、ここは?」

 脳みそが痺れるような感覚に眩暈を覚えながら、片手で頭を押さえつつ身体を起こす俺を支えるレヴィに聞いてみたら、ヤツは目覚めた俺にホッとしたように安堵の溜め息を吐くと、ことさら何でもない事のようにニッコリ笑って言った。

『ここはご主人さまの夢の中です』

「…は?」

 確かに、悪魔に不可能のないレヴィアタンではあるんだけど、まさか他人の夢の中にまで入れるなんて…って、そうか。悪魔ってヤツは確か眠っている人の夢に入っても悪さをするって悪魔でググッた時に書いてあったもんな。これぐらいはお茶の子さいさいなのか。

『気分は悪くありませんか?吐き気とか頭痛はありませんか?』

 心配そうに覗き込んでくる黄金色の双眸が真摯で、俺は首を左右に振って、そんなレヴィを見上げて笑って見せた。

「ああ、最初は眩暈がしていたけど、今はもう大丈夫だ」

 レヴィはオレが笑うと嬉しそうだし、安心するみたいだ。
 だから、俺の笑顔と言葉でホッとしたのか…とは言っても、心配性で俺に過保護なこの大悪魔様は、それでも少し不安そうに瞬きをして俺をじっと見つめている。

『夢に干渉するのは夢魔或いは夢を司る悪魔の理に基く掟なので、海を統べる悪魔のオレが強引に干渉することによってご主人さまに負担があったと思いますが、死の眷族の誘いがある以上は、こうするより他に術がありませんでした。申し訳ありません』

「だから、今は大丈夫だって。レヴィがそうしたいなら、俺は喜んで受け入れるよ」

 ガラにもなく神妙なツラしてそんなことを言われても、白い悪魔にメロメロな俺なんだから、お前とだったら何処へだって着いて行くし、俺の身体を差し出せと言うのなら切り刻まれて殺されたって平気なんだ。
 そんなちょっとアレな俺に謝ることなんてこれっぽっちもないのにさ。

『ご主人さま!そんなことを仰られると、思わずキスしたくなってしまいます』

 俺をギュウッと抱き締めて、レヴィがもじもじとそんなことを言うもんだから、ついつい俺の顔も真っ赤になってしまうのは仕方ないだろ。

『しかし、キスは今はお預けです。あなたの夢に隠れているふざけた死の眷族を見つけることが先決ですからね』

 名残惜しそうに俺から身体を話したレヴィが青ざめた頬に朱を散らして、『終わってから存分に頂きます』とか何とか嬉しそうにそんなことを言うのを見上げて俺は首を傾げた。

「レヴィが夢に入ることは本来ないことなのか?」

『そうです。オレが夢に介入してしまうと、夢を司る悪魔たちの仕事を奪ってしまうことになり兼ねないんですよ』

 レヴィはちょっと困ったように苦笑して見せた。
 悪魔には悪魔たちの掟があるようなことを以前チラッと聞いたことがあったけど、悪魔とは言え、俺たち人間のようにそれぞれの役目のようなものがあって、それが仕事として生業になっているってことなのかな。
 レヴィは漆黒の闇の中で立ち上がるついでに、そうなのか、と呟く俺の腕を掴んで一緒に立たせてくれながら、この何処までも延々と続いているに違いない、闇の中を見渡しているようだ。

『さて、彼は何処に隠れているのでしょうね?』

 それにしてもおかしなもんだな。
 辺りは一面の闇で、レヴィの足元には水もないと言うのに幾つもの波紋が作られていて、それは歩き出す度に弧を描いて広がっていく。
 そんな有り様が全て見えているんだ、こんなにおかしいことはないと思う。
 これが【夢】だからなのか。
 レヴィの腕を掴んでいないと自分が何処に居て、何処に向かおうとしているのか、方向感覚が全くつかめないから、心許無いし、とても不安になってしまう。
 そんな闇の中で、あの物悲しい眼差しをしたどうやら死の眷族と呼ばれるそのひとは、哀しさと闇しかない俺の夢の中で、澄み渡る風のような優しい鈴の音色を響かせていた。
 自分の足元にはただの闇しかないのに、歩き出したレヴィの足元の波紋が気になっていると、そんな俺に気付いたレヴィは視線の先を追って、ああ、と口を開いた。

『ご主人さま、あなたはこの夢を統べる番人であり人間ですから、足元に渦巻く闇はあなたに呼応することはありません。これは形を成すことができない哀れな魂どものなれの果てですから、悪魔のオレに縋りつこうとしているだけです』

 だから、心配することはありませんと笑いながら言うレヴィの言葉に、俺はこの時になって漸く、背筋に氷水をぶっかけられたような錯覚とともに恐怖のようなものを感じたんだ。

「俺の夢だって言うのにやけに物騒なんだな」

 ポツリと口をついて出た悪態は、でも、レヴィの腕をギュッと掴んでいる様では到底、恰好なんかつけられない。

『ご主人さまの夢ではあるのですが、死の眷族が爪弾く世界でもあるので、あなたのせいではありません』

 白い悪魔は首を左右に振って、もしかしたら指先が震えていたかもしれない俺の色気もクソもない頭に口づけを落としながら、ソッと瞼を閉じて独りぼっちではないんだよと安心させるように呟いたみたいだった。

「…と言うことは、この闇と言うのは、死の眷族、死神が狩ってしまった魂たちだって言うのか?」

 レヴィの桃のような甘い匂いにホッと安心して、その胸元に頬を寄せながら聞いた時、レヴィではない声がそれに応えていた。

<そうでもあるけれど、そうじゃないんだよ>

 ギョッとして顔を上げようとした俺の後頭部に掌を添えて押し留めたまま、白い悪魔は声のする方に剣呑な双眸を向けて、どうやらニヤリと笑ったようだ。

『よう、トート』

 漆黒のローブに身を包んだ死神は哀しげな眼差しのままニッコリと微笑んだ。

■□■

『お前、よくもオレ様のご主人の夢に潜り込んでくれたな。それなりの覚悟はできてるんだろうな?』

 酷薄そうな唇をニヤリと歪めて、白い悪魔はその悪魔たる所以のような口の悪さで、古風な意匠が刻まれた鈴…ではなく俺が見た時とは形が変わっていてベルのようになっているそれを弄びつつ、口元に張り付くような笑みを浮かべる死神に穏やかじゃない口調で言い放った。
 思惑を確かめるって言ってたのにお前、いきなり本題かよ?!と思わず言いたくなったものの、抱き締められている姿勢ではそれも侭ならず、仕方なく俺はレヴィの胸元に頬を寄せたままで事の成り行きを見守ることにした。

<うん、だって彼はとても…でもねぇ、レヴィアタン。もう時間が来てしまったんだよ>

 レヴィの質問に答えているようで応えていないような態度で、死神のトートは笑みを張り付けたままソッと目線を伏せたようだ。
 白い悪魔に阻まれて、なかなか彼を見ることができない俺はそれでもなんとかコッソリ盗み見ていて気付いたんだが、トートの笑みは笑みじゃなくて、もしかしたら彼は感情を表現する方法が判らないんじゃないかと漠然と思っていた。

<時は容赦がないね。降り積もる優しさも何もかも闇に還してしまう。ねぇ、哀しい魂を狩るのが仕事だもの>

『相変わらずふざけたことばかりだな、お前は』

 呆れたように溜め息を吐いて言う白い悪魔に、想像とは遥かに違う死神は相変わらず穏やかそうな笑みを浮かべたままでクスクスと笑っている。

<君は寂しくはないの?辛くはないの?そんな寂しい想いを抱えて、嫉妬深い悪魔は報われない夢を見るの?>

 りん…っと、どこか遠くで鈴がなる音が聞こえた。
 漣のように寄せては返す時のように、それはあまりにおぼろげで寂しい、切ない音色のようだ。
 ふと、見上げる白い悪魔はとても冴え冴えとした双眸で、眼前にひっそりと佇む黒いローブ姿の死神トートを見つめている。
 睨むのでもなく剣呑にあしらうのでもなく、その双眸は単純に淡々としていて、不意に俺は肌寒さを感じて縋りつくようにしてレヴィの胸元を掴んだ。その仕種に気付いたのか、レヴィはふと、表情の伺えない色を浮かべた黄金色の瞳で見下ろしてきた。

『偽物は所詮偽物でしかない。どんなにオレが望んでも、それがオレの思惑通りの操り人形であるならば、これは捜し続けた愛ではないんだろう』

 少し、判っていたような気がする。
 不安に揺れる双眸も、愛しそうに呼ぶ名前も、ここではない何処か遠くで響く鈴の音のように、何処か遠くにいる誰かのために紡がれているものなのだと。

<無責任な夢の代償は大きいだろうね。しかし、君は世界の均衡を担う大切な大悪魔レヴィアタンであるから、今回は大サービスで大目に見てあげようね>

 すいっと、手にした鈴の音を響かせる奇妙なベルを掲げるトートに、レヴィは片手を挙げてその動作を静止した。
 何が起こっているのか、どんな会話なのか…聞かなくても薄々は感じているのだけれど、できればもう少し、このあたたかな胸に護られて眠りたい。

『オレの不安が作り上げてしまった哀しい魂。お前を手離すのはそれでも寂しいよ』

 レヴィの掌が俺の頬を包み込んでくれる。
 ここは大悪魔レヴィアタンの夢の世界。
 どこからが現実で、どこからが彼の夢だったのか…
 じんわりと頬を包んでくれるあたたかさに、自分が泣いていることに気付けないでいた。
 俺は瀬戸内光太郎と言う人間の影であり、レヴィアタンが言えない本音を聞くべき存在にすぎない夢の産物だ。
 ある時、彼は愛するご主人の傍らで眠りにつき、そして夢の世界を泳いでいた。
 そこで蹲る、その時はまだただの闇でしかなかった俺を見付けて、そしてレヴィは戯れに俺に瀬戸内光太郎と言う意識と姿を授けた。

『オレはバカみたいに嫉妬深くて…いつかご主人を殺しかねないと思っていた』

 ふと呟いた言葉に、死神のトートは静かに瞬きする。

<言葉はね…レヴィアタン、とても大切なんだよ。不安があれば、言葉にしなければダメなんだ。想うだけで伝わる気持ちなどあるワケがない。そんなこと、君が一番よく知っているじゃない>

 ああ、どうか悲しまないで欲しい。
 夜毎、訪れて愛してくれた記憶がちゃんとここにはあるから。その想いを胸に抱いて、俺はいつだって眠りにつくことができる。ただの闇でしかなかったちっぽけな俺を、愛してくれた白い悪魔に感謝しているよ。
 あなたが捜しても見つからない愛を俺はちゃんと見つけ出して、その謎を解き明かすことができたのだから、どうか今度は、レヴィアタンが愛する瀬戸内光太郎の中に大切に仕舞われている愛を見つけ出して欲しい。
 見下ろしてくる黄金色の双眸を見詰め返して、偽物でしかない俺ではあるけれど、これはレヴィの夢であるから、人間と悪魔のように想いが伝わらないこともないから、きっとこの気持ちは受け取ってくれたに違いない。
 そう、死神トートでさえも。

<さぁ、レヴィアタン。別れの時だ>

 片手にベルを、そして片手に大きな鎌を持った死神トートは、りーんりーんと鈴の音を打ち鳴らし、水もない床に幾つも波紋を描きながら鎌の柄をぶつけている。
 そうすると全ては闇に包まれて、そうして、ちっぽけな闇にすぎない俺の身体も緩やかに溶け出して、抱き締めてくれるあたたかな白い悪魔のぬくもりを感じながらゆっくりと意識が消えていく。

<不安や悲しみが紡ぎだす魂(想い)を闇に還すのが死神の仕事。死の眷族は夜毎生み出される哀しい魂(想い)を消す咎人>

 ぽつりぽつりと優しい死神の声が聞こえる。
 願わくば、どうかレヴィアタンが俺のことを忘れませんように。
 どうか…

<レヴィアタン。酷い悪魔。アレは君の弱さであり寂しさと言ったもの。そうして、君の心の一部でもあるのだから、きっと忘れてはダメだよ>

『…ああ、判っているさ』

 自らが生み出した儚い想いが掌から消えていく感覚に瞼を閉じて、白い悪魔は白い眉を顰めて苦笑した。
 手の内にあるように思えて、どこか遠いご主人さま、それは自分が悪魔でありご主人が人間であるから、種族の違いで考え方や想い方が違うのかもしれないとレヴィアタンは思っていた。
 たとえば、ご主人を、たとえ学校の同級生と言えども、ましてやルシフェルの目にさえ触れさせたくないと自分が思っていたとしても、人間の光太郎にとってはそれが理解できず、その独占欲と嫉妬深さに困ったように眉を顰める。
 悪魔であれば飽きない人間の奴隷は懐深くに隠して、何者の目にも触れさせず、自分の心の領域に隠すことも当たり前なことだと言うのに。
 愛されているのだろうか…

<レヴィアタン、レヴィアタン。狡猾で大嘘吐きで最強の恐ろしい大悪魔だと言うのに、君はなんて素直で誠実で一途なんだろうね>

『うるせぇッ』

 哀しい目をしたままでクスクスと鼻先で笑うトートをムッとしてジロリと睨みつけたものの、彼はふと目線を落として考える。
 心に過る不安はいつも不確かな形で随分と長く居座るものだ。
 そう感じる度に胸の奥が痛んで、それが【切ない】と言う感情だと知ったのはご主人に出会ってからだ。
 夜は悪魔の忠実な友であり下僕である。
 人間は夜の闇に怯え窓を閉め、明かりが消された闇に震えながら眠りにつくのだろう。だが、その闇と同一である自分に対してご主人はどんな思いで傍らにいるのだろう。
 自分を恐ろしいと感じてはいないだろうか、恐怖していないだろうか、怯えていないだろうか…そうされてしまうと、自分はきっと悪魔であることを後悔するんだろう。
<それが君の弱みなんだねぇ。大悪魔だと言うのに君は人間の心の在り処に子供のように怯えている…ねぇ、人間は存外強いものだよ。レヴィアタン、聞いてごらん。君の愛するご主人さまに>
 韻を踏むように呟くトートは、両手を開いたままで呆然と立ち尽くしているこの世ならざる美しい白い悪魔に、仕方なさそうに微笑んだ。

<愛は何処にあるのかと>
 

■□■

「…い、おい、レヴィ?大丈夫か」

 ふと、悪魔も逃げ出す大悪魔が瞼の裏に隠していた黄金色の双眸を開くと、心配そうに覗き込んでいた漆黒の双眸が安心したように細められた。

「夢の話の途中で彼の思惑を…とか言いながら突然眠るんだから、ビックリしちゃったよ。大丈夫なのか?」

 ホッとしたように横になっている白い悪魔の傍らにゴロンと寝ころんだ、彼の大事なご主人さまは、組んだ両腕の上に顎を乗せてそれでも少し心配そうに尋ねてくる。
 ああ…と、レヴィは間近にある愛しい双眸を見つけてホッとした。

『オレはどれぐらい眠っていましたか?』

「え?…ああ、10分ぐらいかなぁ」

 小首を傾げる姿も愛しいご主人さまの頬を片掌に包んで、レヴィは少し眉を顰めて困ったように微笑んだ。

『オレの傍らでご主人さま、眠ることは怖くありませんか?』

 唐突な問い掛けに、それこそ光太郎はきょとんとしたような顔をして、ついで不審そうな眼差しで不安に揺れる黄金色の双眸を覗き込んでくる。

「どうしたんだよ?何を今さら…」

『今更でもありません。オレは凶暴な悪魔なんですよ?その傍らでご主人さま、あなたは少しも恐ろしいと思わないのですかッ』

 深淵のような夜の帳の落ちる真夜中を想像して、身体を触れ合うことも、奥深くまで繋げることも、巨大な大海蛇の虹色に輝く薄い鰭を掴んで夜明け前の満天の星が降る大空を飛び回ることも、そして何もせずにただ一緒に眠る夜もあった。どんな場面でもその中にはレヴィと言う名の白い悪魔がいて、今更、その大悪魔が傍にいないことなど想像もできないと言うのが光太郎の素直な気持ちだ。
 ギシッとベッドを軋らせて上半身だけ起こして見下ろしてくる白い悪魔は、いったい何をそんなに不安がっているのだろうか。
 切なそうに顰められた真っ白な眉根も、滲むように揺れる黄金色の双眸も、大悪魔のくせに全く威厳を失せさせて、そんな子供っぽい仕草もとても好きだと光太郎は思った。

「そうだなぁ、恐ろしいとは思わないけど。でも、ここからお前が消えていなくなる方が、俺はよほど恐ろしいなぁって思うよ」

 そうしてごろんと仰向けになって、不安そうな悪魔の首に両手を伸ばして抱き着くと、レヴィはどこかホッとしたようにそんな光太郎を抱えると再びごろりと横になってしまった。

『それは、よかった』

 胸の上に光太郎の身体を乗せてギュウッと抱き締めてくるレヴィの体温が嬉しくて思わずにんまりしていた光太郎は、それから徐に思い出したように口を開いた。

「ああ、そうだ。話の途中だったけど、あの夢には続きがあるんだ」

『続きですか?』

 そうそうと頷いて、光太郎は夢の続きを語った。

「黒いマントを着たソイツは、ええと、死神だったっけ?ソイツはへんな奴でさ、ニッコリ笑ってるくせにすごく悲しそうなんだ。なのに、俺に言うんだよ。君はいつも幸せな夢を見ているね。とてもとても幸せそうだけれど、悪魔に憑かれているのにそれで幸せなのかい?ってさ。俺が頷いたら、なんだか最初から判っていたみたいに今度こそ寂しそうじゃない顔をしてニッコリ笑って頷いたんだ。それはよかった。悪魔が常しえに護ってくれる夜はとても貴重だから大切にしろって言うんだよ。何を言ってるのかよく判らないんだけどさ、俺にとってお前が護ってくれる夜よりも、レヴィの存在こそがとても大切で掛け替えがなくて、俺の全てなんだから。いつだって大事で手離すことなんて考えることもできない俺の一番大好きな…って、レヴィ?」

 言葉が遮られてしまったのは、黙って聞いていた白い悪魔が、その桃のような匂いのする胸の中の愛しい人間の身体を思うより強い力で抱き締めたからだ。

『ご主人さま、オレはあなたを愛してよかった』

 溜め息のように零れ落ちた真摯な台詞に、当たり前のことを言っただけの光太郎はキョトンとしたが、すぐに苦笑して、瞼を閉じて震える白い悪魔の青褪めた頬に唇を落とした。

「なんだよ、レヴィ。へんな奴」

 そんな憎まれ口を叩いて、それでも嬉しそうに、引き結ばれた酷薄そうな薄い唇に口付けた。
 初恋のように初心な口づけは、地獄の底から吹き上げる薄ら寒い冷たい風に苛まれる悪魔の氷の心を、途端にパッと氷解し、あたたかな春のぬくもりに包まれるような錯覚を地獄こそ相応しいはずの白い悪魔に齎した。
 その事実を、彼の愛するご主人さまが知ることはなかったが、これがずっと捜し求めていた愛と言うものであるのなら、白い悪魔はこのぬくもり以外はもう何もいらないと思った。

■□■

 なぁ、トート。
 このぬくもりを失ってしまうぐらいなら世界などいらいないんだよ。
 たとえそれが大悪魔のエゴだとしても、胸の中で幸せそうに笑うご主人さまを怯えさせたとしても、それはそれで、もう後悔などしないだろう。

 白い悪魔が隣で安らかに眠る夜、ちっぽけな人間は何者からも護られて、そうして、永遠に続くかもしれない愛について、瞼を閉じて考えるのだった。