あれだけの突風が吹き荒んでいた石橋を渡り切り、それから岩だらけで地獄なんじゃないかと疑いたくなる岩場を抜けた先、まるで南国の海が太陽の光を反射させてキラキラと水面を輝かせていたんだ。
「うゎー…綺麗だー」
思わず間抜けな口調で呟いたものの、石橋を渡ったところで降ろしてくれ歩かせてくれと言って暴れる俺を、白い悪魔は残念そうな仕方なさそうな表情をして、それでも希望通り降ろしてくれたから、自分の足で歩いて殺伐とした岩だらけの道を抜けたところでこの絶景だ。
ビックリしたって罰なんか当たらないだろ?
『なんだ、今日は海の機嫌が良さそうだな』
腕を組んでおやっと言った感じで白い整った綺麗な眉を跳ね上げた大悪魔に、薄汚れてるんじゃないのか?と聞きたくなるくすんだ灰色の猫が物珍しそうに猫手で口許に触れながら頷いている。
『いつもは北の海も逃げ出すほど荒れておられるのに…ご主人、機嫌が良いのかい?』
『オレか?』
俺のことなんかまるで無視した一匹の小さな猫と、その飼い主…って言い方が正しいかは別として、灰色猫のご主人である白い大悪魔レヴィアタンは腰に手を添えて首を傾げている。その仕種から、どうやらいつもはこんなに穏やかでも凪いでもいないんだなーってのが判った。
断崖絶壁のように突き出している部分に突っ立っているからなのか、時折、気持ち程度に吹いてくる風は、強い陽射しの南国に唯一の救いのような清涼とした心地良さで、そう言えば俺、魔界に来てから季節感を感じたことなんかなかったなぁ。
あれから随分と時間が経ってしまったように感じるけど、向こうはまだ夏なのかな。
あんまり色んなことが有り過ぎたし、気付けば目まぐるしく環境が変わっていたから、こんな風にゆっくりと景色を眺めることもしてなかったんだ。
でも、そう言えばベヒモスのところは穏やかだったっけ。
あのお茶目なナリをしたお人好しのカバは、今でも元気でいるのかな。
『海は即ちご主人そのものだよ。ご主人がご機嫌なら海もご機嫌だ』
灰色猫が何を当たり前なことを、とでも言いたそうな口調で『うにゃーん』と呟けば。
『ああ…』
そんなモンなのかと自分の領土であるくせにレヴィアタンは気のない感じで灰色猫に返事をしていたんだけど…
「わぁ?!」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのは、懐かしいカバだのなんだのに思いを馳せて、海をぼんやりと眺めていた俺にいきなりレヴィアタンのヤツが抱き着いてきたからだッ。 な、なんなんだよ、いったい。
『どうしたんだ?ボーッとしてさ。オレの領土に見惚れてるのか?』
嬉しそうな声なんか出しちゃってさ。
ニヤニヤと意地悪そうに笑いながら覗き込んでくる黄金色の綺麗な双眸は、いつも以上の上機嫌で、そんな瞳に見つめられてそんな仕草をされて、図らずも胸がドキドキしていることは絶対コイツには内緒にしてやるんだ。
「ああ、とっても綺麗だよなッ!沖縄の海にいるみたいだ♪」
でも、素直な気持ちはちゃんと伝えてやる。
だって、ここは本当に母さんと最後に旅行した沖縄の海に似ているんだから…
『オキナワ?ふーん、中間地にある場所なのか?』
俺の色気もクソもない鬱陶しいぐらい黒い髪が海風に揺れるのを、まるで風に嫉妬でもしているように頬を寄せて押さえつけて、レヴィアタンは機嫌が良さそうに聞いてきた。
「うん。まだ母さんが生きていた頃に旅行で行った場所なんだ。小さな島みたいな県なんだけど、人の好さそうなひとたちがたくさん居て昼間の海はそりゃあとても綺麗なんだけど、夜はもっと綺麗だったよ。満天の星空と月明かりがとても綺麗な砂浜に静かな海があって…俺、すごく好きな場所になってた」
夢見るように思い出すあの美しい南国の島は、今もそのままゆるやかな時間が流れているんだろうか…
「いつか、レヴィアタンと一緒に行きたいなぁ」
よほど俺は幸せそうな顔をしていたのか、レヴィアタンは大悪魔のくせにきょとんとした顔をしていたが、それでも今まで見たどの顔よりも穏やかな表情を浮かべてにんまりと笑っているんだ。
『そうか。それはとても美しくて穏やかな島なんだろう。オレも見てみたいな』
白い悪魔は俺の頭に頬を寄せたままで、自分が統べる領地を、今はとても穏やかに凪いでいる海を見詰めたままで、心からそう思っているのか、まるで俺の意思を正確に感じ取ったように呟いたんだ。
穏やかな海を見ていて、ふと俺は、ベヒモスの言ったレヴィの嫉妬の始まりについて思い出していた。
どうして、レヴィは海が嫌いなんだろう。
荒れ狂う海も、穏やかな海も、何もかもがこんなに綺麗で奥深くて、人間では到底敵わない神秘的な領域だってのに、支配者であるレヴィアタンは仕方なく統治しているなんて海が可哀想だよなぁ。
「…なぁ、レヴィアタン。どうしてお前は海が嫌いなんだ?」
俺の頭に頬を寄せ自分が統べている領地を改めて見詰め返しているようだったレヴィアタンは、俺の問い掛けにちょっと驚いたような表情をして顔を上げると、それから徐に顔を覗き込んできたんだ。
う、なんか俺、ヘンなこととか言ったっけ?
『どうしてそんなことを聞くんだ?』
どうしてって…
「だってさ、そりゃあ大地も神秘的で素晴らしいことがたくさんあるだろうとは思うんだけど、でも、海だって捨てたモンじゃないと思うんだ。綺麗さも残酷さも全部一抱えにして黙ってそこに居てくれる大事な存在なのに、その海を統治しているレヴィアタンが嫌っているなんて、海が可哀想だって思ったんだよ」
不思議な表情を浮かべて覗き込んでくる黄金色の双眸を見詰めて、俺はできるだけ自分の気持ちが伝わっていればいいのにと思いながらそう言った。
ザザンッ…と、眼下に広がる凪いだ海が、ほんの少し漣を作り出したみたいだった。
『海が可哀想か…お兄さんが言いそうな台詞だねぇ』
ご主人であるレヴィアタンと俺のラブラブ(?)な時間の時は、忠実な使い魔である灰色猫は見て見ぬふりで黙って傍らに控えているんだけど、たまに思い出したように合いの手を入れてくるのは、自らのご主人が何を言ったらいいのか判らないと言った困惑した表情を浮かべて突っ立っちまったからなんだろう。
灰色猫の合いの手で漸く我に返ったのか、レヴィアタンはコホンッと咳払いをして唇を尖らせて俺を見下ろしてきた。
『別に海を嫌っているわけじゃないさ』
「でも、一週間も暴れたんだろ?」
間髪入れずに言い返したら、レヴィアタンは『うッ』と言葉を詰まらせて、それからバツが悪そうに真っ白な髪を掻き揚げて溜め息を吐いた。
『お喋りなベヒモスめ…まあ、いいか。確かにオレは自分が統べるのが大地じゃなかったことに腹を立てて暴れたけれど、でもだからと言って海が嫌いだったってワケじゃないぜ』
「え?」
だって、レヴィアタンは大地をこよなく愛していたから、海に追いやられたって言って怒って暴れたんだろ?だったら、やっぱり海が嫌いだってことじゃないのか??
俺の疑問は充分承知しているのか、やれやれと溜め息を吐いたレヴィアタンは、その眼差しを漣を立てる海に向けて、暫く何かを考えているようだったけど話してくれる気になったみたいだった。
『どうしてオレが大地に執着したかと言うとさ。いずれその地に人間が誕生するって知ってたからなんだよ』
「ええ?」
え、しか言ってないけど、確かに思わずえ?って言いたくなってしまった。
どこまで悪魔って物知りなんだろう。
やっぱり、悪魔に不可能のないレヴィだからの成せる業なんだろうか。
『オレの特技の一つに未来を夢見ることができるってのがあるんだ。勿論、自分のことはよくわからないし、それは細やかな事でもあるワケなんだが、その時は人間の誕生を知る夢を見たんだ』
す、すげー!どこら辺が細やかなんだろう…悪魔の細やかがいまいちちょっと判らなくなってきた。
『オレは別に大地や海がどうこうってワケじゃなかったんだよ。オレはさ、こう見えても人間って生き物が好きなんだよ』
それは唐突な告白だったから、俺は思わず言葉も出せずにポカンッとそんなレヴィアタンを見詰めてしまった。随分と間抜け面だったんだろうけど、レヴィアタンはちょっと困ったような表情をしてそんな俺を見下ろすと苦笑して、それから溜め息を吐くみたいに言ったんだ。
『人間の持つ健気さも悍ましさも我儘も身勝手も、何もかもがオレたち悪魔にしてみたらたった一瞬の時間しか生きないくせにやたら一生懸命でさ、そんな想いがとても儚くて、だからこそオレはそれらを見ることが好きだった。夢で見たその気持ちが強くて、オレはそんな人間が生きる大地に憧れて…そうだな、きっとアレは憧れの気持ちだったに違いない。大地を手に入れれば、いつだって人間を見ることができるって思ったんだろう』
海から吹き上げてきた風に真っ白な髪がパッと舞い上がって、人間にはない綺麗に整った横顔を見せて海の遠くを見詰める白い悪魔に、俺は言葉もなくついつい見惚れてしまった。
そんな遠い昔から、レヴィアタンは人間を見続けていたんだなぁ。
だからこそ、何処かの偉い人がレヴィアタンを世界の支えに決めてしまったのかなって思うよ。
レヴィアタンは大地に憧れた…って言っているけど、本当はそうじゃないんじゃないかな。海の神様のなれの果てだって言う大悪魔ではあるんだけど、本当はレヴィアタンは人間に憧れていたんじゃないのかな。
『でもさ、気付いたら海を統治しても人間の世界を覗けるんだよ。バカみたいに暴れて損したって今は思ってる。なんせ、お前が海を好きって言うんだ。今は海を統治していて良かったって思ってるんだぜ』
ニヤッと笑って俺を見下ろしてくるレヴィアタンに、海を統べる大悪魔に、俺はなんだか嬉しくってニッコリ笑ってその腕に抱き着いてしまった。
「うん、俺は海が大好きだよ!ベヒモスも言ってたけど、人間は殆どのひとが海を好きなんだよ。だから、この広い海を治めているレヴィアタンのことをきっと人間は大好きだと思うよ。だから、何処かに居るエライ人はレヴィアタンを海の王様にしたんだろうな。レヴィが海の王様でよかった」
うん、心からそう思う。
ルシフェルを見ていて悪魔は少なからず人間のことが好きなんだろうなって思うことはあったけど、それは気紛れな興味本位ってヤツで、レヴィアタンほど人間を好きでいてくれる悪魔なんて絶対に何処にもいないと思うんだ。
レヴィアタンだからこそ海を支配して、その心の均衡が世界を支える礎になっているんだって、今なら素直に信じるができる。
そんなこと、きっとレヴィアタンにしかできないと思うから。
『そうかな…オレがこのまま海を治めていても本当にいいのかな』
ビックリしたように俺を見下ろしていたレヴィアタンはちょっと苦笑して、それからふとそんなことを呟くと、海からの風に真っ白な髪を弄ばれながら、ここではない何処か遠くに想いを馳せるように海の彼方を見詰めたみたいだった。
不意に哀しげな横顔を見せられて、正直俺はドキッとしていた。
俺様で傲岸不遜で横柄で傲慢で嘘吐きで乱暴で最強の白い大悪魔なくせに、どうしてそんな風に心許無い頼りなげな、哀しい顔をするんだろう。
あの威風堂々とした態度はどうしたんだよ。
何か言わないと、何か言って、この白い悪魔をここに留めて護らないと。
どうしてそんなことを思ったのかよく判らなかったけど、確かに俺はそんなことを考えて、焦ったように抱き締める腕に力を込めていた。
そんな俺の仕草で不意にレヴィアタンが気付いたみたいで、瞬きをした白い悪魔が俺を見下ろして、何か口を開こうとした時。
『何を仰ってるんだい、ご主人。この海をご主人以外の誰が治められるって言うんだ。さあ、風も出てきたし、お兄さんの身体に障ると悪い。とっとと城に戻ろうよ』
腕を組んで何を馬鹿なことをとでも言いたそうな不機嫌な灰色猫にキッパリと言い切られ、レヴィアタンは面食らったみたいな顔をしたけど、俺もその通りだとムッとしてそんなとぼけた白い悪魔に言ってやった。
「そうだよ!レヴィアタンは傲岸不遜で横柄で傲慢で嘘吐きで乱暴で最強の白い悪魔なんだから、お前以外にこの人間にとってとても重要な海を任せられるヤツなんかいないよッ!!」
思わずの力説に、『なんだその悪しざまな言われようは…』とちょっと絶句したレヴィアタンは、すぐにバツが悪そうな顔をして片腕に俺をぶら下げたままで頭を掻きながらやれやれと溜め息を吐いたみたいだ。
『なんとなく感傷に浸ってみたんだが、オレの恋人と使い魔は全然オレに優しくない』
唇を尖らせて悪態を吐くレヴィアタンに、『んなことは知ったことじゃありません』とでも言いたそうな薄汚れているように見える灰色の猫に促されて、俺たちは白い悪魔の城に戻ることになったんだけど…でも俺は、やっぱりレヴィには弱音を吐いて欲しくないと身勝手な人間らしく思ってしまった。
だってそうだろ?
世界最強の無敵のレヴィアタンがこの海を、そして世界を護ってくれているんだ。それ以外の悪魔なんか考えることなんてできないよ。
悪魔と言えば何もかも真っ黒なはずなのに、何もかも正反対の真っ白な大悪魔様はふと俺を見下ろして、それから悪態も吐かずになんだか嬉しそうに笑っている。
その顔を見て、俺は漸く随分と悩んで揺れ動いていた気持ちに踏ん切りをつけて、決心することができたんだ。
リリスと言う王妃様のいるこの海の王様の、愛人になろうって。
人間をそんなに好きでいてくれるこの大悪魔の心の均衡を俺で保つことができるのなら、レヴィアタンが言ったようにたった一瞬の時間の中に過ぎないんだけど、レヴィアタンの愛人になるのも辛くない。
その代り、いつかきっとリリスを愛して、そして俺を愛して欲しい。
俺がいなくなっても哀しまないように、ちゃんと、自分の恋心を理解できるように、長い時間をきっと共に過ごして来たに違いないリリスへの愛を自覚できるように。
レヴィアタンが哀しまないのなら、きっと俺は傷付いたりしない。
いつかリリスとも話をしよう。
何故だか判らないけれど、彼女なら判ってくれるような気がするんだ。
なあ、レヴィ…それが俺の、愛の証だ。