第二部 22  -悪魔の樹-

 海王レヴィアタンが治める海は何事もないように凪いでいて、俺は遠い昔に家族で行った沖縄の海を思い出していた。
 あれだけの突風が吹き荒んでいた石橋を渡り切り、それから岩だらけで地獄なんじゃないかと疑いたくなる岩場を抜けた先、まるで南国の海が太陽の光を反射させてキラキラと水面を輝かせていたんだ。

「うゎー…綺麗だー」

 思わず間抜けな口調で呟いたものの、石橋を渡ったところで降ろしてくれ歩かせてくれと言って暴れる俺を、白い悪魔は残念そうな仕方なさそうな表情をして、それでも希望通り降ろしてくれたから、自分の足で歩いて殺伐とした岩だらけの道を抜けたところでこの絶景だ。
 ビックリしたって罰なんか当たらないだろ?

『なんだ、今日は海の機嫌が良さそうだな』

 腕を組んでおやっと言った感じで白い整った綺麗な眉を跳ね上げた大悪魔に、薄汚れてるんじゃないのか?と聞きたくなるくすんだ灰色の猫が物珍しそうに猫手で口許に触れながら頷いている。

『いつもは北の海も逃げ出すほど荒れておられるのに…ご主人、機嫌が良いのかい?』

『オレか?』

 俺のことなんかまるで無視した一匹の小さな猫と、その飼い主…って言い方が正しいかは別として、灰色猫のご主人である白い大悪魔レヴィアタンは腰に手を添えて首を傾げている。その仕種から、どうやらいつもはこんなに穏やかでも凪いでもいないんだなーってのが判った。
 断崖絶壁のように突き出している部分に突っ立っているからなのか、時折、気持ち程度に吹いてくる風は、強い陽射しの南国に唯一の救いのような清涼とした心地良さで、そう言えば俺、魔界に来てから季節感を感じたことなんかなかったなぁ。
 あれから随分と時間が経ってしまったように感じるけど、向こうはまだ夏なのかな。
 あんまり色んなことが有り過ぎたし、気付けば目まぐるしく環境が変わっていたから、こんな風にゆっくりと景色を眺めることもしてなかったんだ。
 でも、そう言えばベヒモスのところは穏やかだったっけ。
 あのお茶目なナリをしたお人好しのカバは、今でも元気でいるのかな。

『海は即ちご主人そのものだよ。ご主人がご機嫌なら海もご機嫌だ』

 灰色猫が何を当たり前なことを、とでも言いたそうな口調で『うにゃーん』と呟けば。

『ああ…』

 そんなモンなのかと自分の領土であるくせにレヴィアタンは気のない感じで灰色猫に返事をしていたんだけど…

「わぁ?!」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのは、懐かしいカバだのなんだのに思いを馳せて、海をぼんやりと眺めていた俺にいきなりレヴィアタンのヤツが抱き着いてきたからだッ。  な、なんなんだよ、いったい。

『どうしたんだ?ボーッとしてさ。オレの領土に見惚れてるのか?』

 嬉しそうな声なんか出しちゃってさ。
 ニヤニヤと意地悪そうに笑いながら覗き込んでくる黄金色の綺麗な双眸は、いつも以上の上機嫌で、そんな瞳に見つめられてそんな仕草をされて、図らずも胸がドキドキしていることは絶対コイツには内緒にしてやるんだ。

「ああ、とっても綺麗だよなッ!沖縄の海にいるみたいだ♪」

 でも、素直な気持ちはちゃんと伝えてやる。
 だって、ここは本当に母さんと最後に旅行した沖縄の海に似ているんだから…

『オキナワ?ふーん、中間地にある場所なのか?』

 俺の色気もクソもない鬱陶しいぐらい黒い髪が海風に揺れるのを、まるで風に嫉妬でもしているように頬を寄せて押さえつけて、レヴィアタンは機嫌が良さそうに聞いてきた。

「うん。まだ母さんが生きていた頃に旅行で行った場所なんだ。小さな島みたいな県なんだけど、人の好さそうなひとたちがたくさん居て昼間の海はそりゃあとても綺麗なんだけど、夜はもっと綺麗だったよ。満天の星空と月明かりがとても綺麗な砂浜に静かな海があって…俺、すごく好きな場所になってた」

 夢見るように思い出すあの美しい南国の島は、今もそのままゆるやかな時間が流れているんだろうか…

「いつか、レヴィアタンと一緒に行きたいなぁ」

 よほど俺は幸せそうな顔をしていたのか、レヴィアタンは大悪魔のくせにきょとんとした顔をしていたが、それでも今まで見たどの顔よりも穏やかな表情を浮かべてにんまりと笑っているんだ。

『そうか。それはとても美しくて穏やかな島なんだろう。オレも見てみたいな』

 白い悪魔は俺の頭に頬を寄せたままで、自分が統べる領地を、今はとても穏やかに凪いでいる海を見詰めたままで、心からそう思っているのか、まるで俺の意思を正確に感じ取ったように呟いたんだ。
 穏やかな海を見ていて、ふと俺は、ベヒモスの言ったレヴィの嫉妬の始まりについて思い出していた。
 どうして、レヴィは海が嫌いなんだろう。
 荒れ狂う海も、穏やかな海も、何もかもがこんなに綺麗で奥深くて、人間では到底敵わない神秘的な領域だってのに、支配者であるレヴィアタンは仕方なく統治しているなんて海が可哀想だよなぁ。

「…なぁ、レヴィアタン。どうしてお前は海が嫌いなんだ?」

 俺の頭に頬を寄せ自分が統べている領地を改めて見詰め返しているようだったレヴィアタンは、俺の問い掛けにちょっと驚いたような表情をして顔を上げると、それから徐に顔を覗き込んできたんだ。
 う、なんか俺、ヘンなこととか言ったっけ?

『どうしてそんなことを聞くんだ?』

 どうしてって…

「だってさ、そりゃあ大地も神秘的で素晴らしいことがたくさんあるだろうとは思うんだけど、でも、海だって捨てたモンじゃないと思うんだ。綺麗さも残酷さも全部一抱えにして黙ってそこに居てくれる大事な存在なのに、その海を統治しているレヴィアタンが嫌っているなんて、海が可哀想だって思ったんだよ」

 不思議な表情を浮かべて覗き込んでくる黄金色の双眸を見詰めて、俺はできるだけ自分の気持ちが伝わっていればいいのにと思いながらそう言った。
 ザザンッ…と、眼下に広がる凪いだ海が、ほんの少し漣を作り出したみたいだった。

『海が可哀想か…お兄さんが言いそうな台詞だねぇ』

 ご主人であるレヴィアタンと俺のラブラブ(?)な時間の時は、忠実な使い魔である灰色猫は見て見ぬふりで黙って傍らに控えているんだけど、たまに思い出したように合いの手を入れてくるのは、自らのご主人が何を言ったらいいのか判らないと言った困惑した表情を浮かべて突っ立っちまったからなんだろう。
 灰色猫の合いの手で漸く我に返ったのか、レヴィアタンはコホンッと咳払いをして唇を尖らせて俺を見下ろしてきた。

『別に海を嫌っているわけじゃないさ』

「でも、一週間も暴れたんだろ?」

 間髪入れずに言い返したら、レヴィアタンは『うッ』と言葉を詰まらせて、それからバツが悪そうに真っ白な髪を掻き揚げて溜め息を吐いた。

『お喋りなベヒモスめ…まあ、いいか。確かにオレは自分が統べるのが大地じゃなかったことに腹を立てて暴れたけれど、でもだからと言って海が嫌いだったってワケじゃないぜ』

「え?」

 だって、レヴィアタンは大地をこよなく愛していたから、海に追いやられたって言って怒って暴れたんだろ?だったら、やっぱり海が嫌いだってことじゃないのか??
 俺の疑問は充分承知しているのか、やれやれと溜め息を吐いたレヴィアタンは、その眼差しを漣を立てる海に向けて、暫く何かを考えているようだったけど話してくれる気になったみたいだった。

『どうしてオレが大地に執着したかと言うとさ。いずれその地に人間が誕生するって知ってたからなんだよ』

「ええ?」

 え、しか言ってないけど、確かに思わずえ?って言いたくなってしまった。
 どこまで悪魔って物知りなんだろう。
 やっぱり、悪魔に不可能のないレヴィだからの成せる業なんだろうか。

『オレの特技の一つに未来を夢見ることができるってのがあるんだ。勿論、自分のことはよくわからないし、それは細やかな事でもあるワケなんだが、その時は人間の誕生を知る夢を見たんだ』

 す、すげー!どこら辺が細やかなんだろう…悪魔の細やかがいまいちちょっと判らなくなってきた。

『オレは別に大地や海がどうこうってワケじゃなかったんだよ。オレはさ、こう見えても人間って生き物が好きなんだよ』

 それは唐突な告白だったから、俺は思わず言葉も出せずにポカンッとそんなレヴィアタンを見詰めてしまった。随分と間抜け面だったんだろうけど、レヴィアタンはちょっと困ったような表情をしてそんな俺を見下ろすと苦笑して、それから溜め息を吐くみたいに言ったんだ。

『人間の持つ健気さも悍ましさも我儘も身勝手も、何もかもがオレたち悪魔にしてみたらたった一瞬の時間しか生きないくせにやたら一生懸命でさ、そんな想いがとても儚くて、だからこそオレはそれらを見ることが好きだった。夢で見たその気持ちが強くて、オレはそんな人間が生きる大地に憧れて…そうだな、きっとアレは憧れの気持ちだったに違いない。大地を手に入れれば、いつだって人間を見ることができるって思ったんだろう』

 海から吹き上げてきた風に真っ白な髪がパッと舞い上がって、人間にはない綺麗に整った横顔を見せて海の遠くを見詰める白い悪魔に、俺は言葉もなくついつい見惚れてしまった。
 そんな遠い昔から、レヴィアタンは人間を見続けていたんだなぁ。
 だからこそ、何処かの偉い人がレヴィアタンを世界の支えに決めてしまったのかなって思うよ。
 レヴィアタンは大地に憧れた…って言っているけど、本当はそうじゃないんじゃないかな。海の神様のなれの果てだって言う大悪魔ではあるんだけど、本当はレヴィアタンは人間に憧れていたんじゃないのかな。

『でもさ、気付いたら海を統治しても人間の世界を覗けるんだよ。バカみたいに暴れて損したって今は思ってる。なんせ、お前が海を好きって言うんだ。今は海を統治していて良かったって思ってるんだぜ』

 ニヤッと笑って俺を見下ろしてくるレヴィアタンに、海を統べる大悪魔に、俺はなんだか嬉しくってニッコリ笑ってその腕に抱き着いてしまった。

「うん、俺は海が大好きだよ!ベヒモスも言ってたけど、人間は殆どのひとが海を好きなんだよ。だから、この広い海を治めているレヴィアタンのことをきっと人間は大好きだと思うよ。だから、何処かに居るエライ人はレヴィアタンを海の王様にしたんだろうな。レヴィが海の王様でよかった」

 うん、心からそう思う。
 ルシフェルを見ていて悪魔は少なからず人間のことが好きなんだろうなって思うことはあったけど、それは気紛れな興味本位ってヤツで、レヴィアタンほど人間を好きでいてくれる悪魔なんて絶対に何処にもいないと思うんだ。
 レヴィアタンだからこそ海を支配して、その心の均衡が世界を支える礎になっているんだって、今なら素直に信じるができる。
 そんなこと、きっとレヴィアタンにしかできないと思うから。

『そうかな…オレがこのまま海を治めていても本当にいいのかな』

 ビックリしたように俺を見下ろしていたレヴィアタンはちょっと苦笑して、それからふとそんなことを呟くと、海からの風に真っ白な髪を弄ばれながら、ここではない何処か遠くに想いを馳せるように海の彼方を見詰めたみたいだった。
 不意に哀しげな横顔を見せられて、正直俺はドキッとしていた。
 俺様で傲岸不遜で横柄で傲慢で嘘吐きで乱暴で最強の白い大悪魔なくせに、どうしてそんな風に心許無い頼りなげな、哀しい顔をするんだろう。
 あの威風堂々とした態度はどうしたんだよ。
 何か言わないと、何か言って、この白い悪魔をここに留めて護らないと。
 どうしてそんなことを思ったのかよく判らなかったけど、確かに俺はそんなことを考えて、焦ったように抱き締める腕に力を込めていた。
 そんな俺の仕草で不意にレヴィアタンが気付いたみたいで、瞬きをした白い悪魔が俺を見下ろして、何か口を開こうとした時。

『何を仰ってるんだい、ご主人。この海をご主人以外の誰が治められるって言うんだ。さあ、風も出てきたし、お兄さんの身体に障ると悪い。とっとと城に戻ろうよ』

 腕を組んで何を馬鹿なことをとでも言いたそうな不機嫌な灰色猫にキッパリと言い切られ、レヴィアタンは面食らったみたいな顔をしたけど、俺もその通りだとムッとしてそんなとぼけた白い悪魔に言ってやった。

「そうだよ!レヴィアタンは傲岸不遜で横柄で傲慢で嘘吐きで乱暴で最強の白い悪魔なんだから、お前以外にこの人間にとってとても重要な海を任せられるヤツなんかいないよッ!!」

 思わずの力説に、『なんだその悪しざまな言われようは…』とちょっと絶句したレヴィアタンは、すぐにバツが悪そうな顔をして片腕に俺をぶら下げたままで頭を掻きながらやれやれと溜め息を吐いたみたいだ。

『なんとなく感傷に浸ってみたんだが、オレの恋人と使い魔は全然オレに優しくない』

 唇を尖らせて悪態を吐くレヴィアタンに、『んなことは知ったことじゃありません』とでも言いたそうな薄汚れているように見える灰色の猫に促されて、俺たちは白い悪魔の城に戻ることになったんだけど…でも俺は、やっぱりレヴィには弱音を吐いて欲しくないと身勝手な人間らしく思ってしまった。
 だってそうだろ?
 世界最強の無敵のレヴィアタンがこの海を、そして世界を護ってくれているんだ。それ以外の悪魔なんか考えることなんてできないよ。
 悪魔と言えば何もかも真っ黒なはずなのに、何もかも正反対の真っ白な大悪魔様はふと俺を見下ろして、それから悪態も吐かずになんだか嬉しそうに笑っている。
 その顔を見て、俺は漸く随分と悩んで揺れ動いていた気持ちに踏ん切りをつけて、決心することができたんだ。
 リリスと言う王妃様のいるこの海の王様の、愛人になろうって。
 人間をそんなに好きでいてくれるこの大悪魔の心の均衡を俺で保つことができるのなら、レヴィアタンが言ったようにたった一瞬の時間の中に過ぎないんだけど、レヴィアタンの愛人になるのも辛くない。
 その代り、いつかきっとリリスを愛して、そして俺を愛して欲しい。
 俺がいなくなっても哀しまないように、ちゃんと、自分の恋心を理解できるように、長い時間をきっと共に過ごして来たに違いないリリスへの愛を自覚できるように。
 レヴィアタンが哀しまないのなら、きっと俺は傷付いたりしない。
 いつかリリスとも話をしよう。
 何故だか判らないけれど、彼女なら判ってくれるような気がするんだ。
 なあ、レヴィ…それが俺の、愛の証だ。

第二部 21  -悪魔の樹-

 恋をしよう…と望んでから、最初の間は、レヴィアタンは俺を片時も離そうとしなかったんだけど、何処にも行かないと判ると、漸く、独りになる時間をくれるようになった。
 俺はあの日から、毎晩、レヴィアタンと白の部屋で遅くまで語り明かして、戯れにキスをしては、クスクスと笑いあって、穏やかで優しい時間を過ごしていたんだ。もしかしたらこのまま、本当にレヴィアタンと恋をして、幸せに暮らせるんじゃないか…とか、身勝手なことを考え始めていた矢先、やっぱり運命ってのは何処までも残酷で、そして、当たり前のことなんだけど、現実と言うものを叩きつけてくれた。
 それは、リリスの存在。
 彼女はそれほど俺たちのことを構っているようではなかったけれど、ふとしたときに、俺と一緒にいるレヴィアタンを呼び、彼は至極当然と言った感じで、俺を置き去りにして彼女の許に行ってしまう。そうすると、一晩でも二晩でも、長い時には一週間も逢わないこともあって、俺は独りの時間をハラハラと零れ落ちる花びらを見上げたまま、何時間もそうしてぼんやりとレヴィアタンの帰りを待つんだ。
 そんなある日、やっぱりリリスに呼ばれたまま、何日も部屋に戻って来ないレヴィアタンを待ちながら、手持ち無沙汰に天井を見上げていたら、木製の扉が申し訳なさそうに開いて、まさかあの傲慢不遜の白い悪魔がそんな登場の仕方をするはずもないから、誰だろうと訝しんで視線を天井から戻したら、そこには薄汚れた灰色の猫が、やたら荒んだツラをして俺をのっそりと見詰めていた。

「灰色猫…」

 少しやつれたように見えるのは目の錯覚なんかじゃないと思う。

『お兄さん…まだ、灰色猫はそこに行ってはダメなのかい?』

 木製の扉を猫手で掴んだまま、まるで途方に暮れたように二本足で立ち尽くしている灰色の猫は、そうは言ったものの、どうしたらいいのか判らないと言った複雑な表情をして、透明感のある澄んだ黄金色の双眸で俺を見たんだけど、すぐに視線を落としてまうんだ。
 その姿が儚いし、何よりも痛ましくて、俺はどれほどこの優しい使い魔を傷付けてしまったんだろうと、ズキリと胸が痛むのを感じていた。

「…とんでもないよ、灰色猫。俺が悪かったんだ。灰色猫は何時だって俺の為に猫力を尽くして頑張ってくれていたのに。俺の身勝手な我が儘で、どれほど灰色猫を傷付けてしまったんだろう。ごめんな」

 そう言いながらベッドから降り立って、慌てて灰色猫のところに行こうとしたんだけど、それよりも早く薄汚れた印象しかない灰色の猫は二本足でダッシュで走ってくると、嬉しそうに『にゃあ』と鳴いて飛びついて来たんだ。

『お兄さん!やっと許してくれるんだね』

「許すも許さないもないよ。どうでもいいことだったのに、俺は灰色猫を疑ってしまったんだ」

 飛びついてきた小さな身体を抱き締めたら、心に染み入るようなぬくもりが両腕に広がって、やっぱり、どんなに酷い仕打ちを受けたとしても、きっと俺は、灰色猫だけは嫌いにはなれないんだろうなぁと確信した。

「それなのに、灰色猫はそんな俺を見捨てずにいてくれたんだ。有難う」

 ギュッと抱き締めたら、灰色の小さな猫はわざと苦しそうなふりをしたけれど、それはこの、レヴィアタンの風変わりな使い魔が見せる照れ隠しなんだ。

『…お兄さん。ここは魔界にも匹敵するとても危険な場所だよ。礼なんて口にしてはダメだ。灰色猫はご主人からお兄さんをくれぐれもと頼まれているからね。これはただの命令に従っているだけのことだよ』

 なんてグダグダと言いながらも、灰色猫は嬉しそうにゴロゴロと咽喉を鳴らしている。
 尤もらしいことなんだけど、そんな態度で言われてもお前、可愛いだけで耳になんか入らないよ。
 リリスの許に行ってしまった浮気な恋人の帰りを、今か今かと待ち続けるような真似もどうかしてるなぁと思っていた矢先に灰色猫が来てくれたんだ。俺は嬉しくて仕方なかったし、この機会に謝れたこと、感謝できたことでちょっと気分が晴れやかになった。

「灰色猫が居れば安心だよな」

 うん、と頷くと、何やら良くない気配でも感じ取ったのか、灰色猫は俺の腕の中から顔を上げて『にゃあ』と鳴いた。

『何やら良くない予感がするよ。お兄さんは何を企んでるんだい?』

「企むってほどのことでもないよ。その、一緒にその辺をぶらつかないか?」

 俺の申し出に、灰色猫は大きな目をくるりとさせて、それから仕方なさそうに小さく笑ったみたいだ。
 レヴィアタンの剛健な使い魔どもの中でも極めて珍しい灰色猫は、そんな風に仕方なさそうに笑っては、たかが人間でしかない俺の願いをなんとしてでも聞いてくれようとする。そんな灰色猫に絶望して、信じられなくなっていた俺はどうかしているよ。
 それもこれもあの、薄情な白い悪魔のせいなんだ。

「こんな部屋に閉じ篭ってるのもどうかしてるしさ、この城の主はまだ当分は戻って来ないみたいだし。灰色猫が居れば安心だから、ちょっと探検でもしないか?」

 俺のお誘いを、灰色猫は勿論だとでも言うように双眸を細めて『にゃあ』と鳴いてくれた。
 そうして、俺たちは白の部屋を抜け出して…って別に閉じ込められているワケでもないんだけど、レヴィアタンが支配する心の領域を探検にすることにした。

 俺が知っているレヴィはのほほんっとしていて、どこら辺が大悪魔なんだと、本当に疑っちまうぐらいお人好しそうな気の優しいヤツだって思っていた。その思いは今でも変わることはないんだけど、灰色猫と旅をするレヴィアタンの心の領域は、ルシフェルが言っていたように薄汚れた雰囲気だし、陰惨としていて殺伐とした、凡そレヴィからでは窺い知ることもできないほどの不気味さが漂っていた。
 大悪魔だと言わしめる所以のような、レヴィアタンが使役する屈強そうな使い魔たちが行き交う城の中では、それこそ、俺や灰色猫は浮きに浮きまくっているものの、それなりに地位を与えられているのか、そんな凶悪で凶暴そうで、頑強な体躯を有している悪魔のような使い魔たちは、俺のことはジロリと見るくせに、灰色猫には慌てたように視線を逸らすんだ。
 この小さな猫の何処にそんな迫力が隠れているんだろう。
 思わず呆気に取られたように、傍らを二足歩行でテクテクと歩いている、御伽噺から抜け出してきたような人語を操る不思議な猫を見下ろしてしまった。
 俺の服の裾を猫手で掴んで、嬉しそうに口許に笑みを浮かべている灰色猫は、ふと、そんな俺の視線に気付いて、ピンッと張っている髭を微かに震わせた。

『どうかしたのかい、お兄さん。もう、疲れたかい?』

 小首を傾げる灰色猫に、こんな陰気で、殺伐とした殺気が渦巻く薄暗い城内の中にいるってのに、俺はなんだか楽しくなって、「なんでもない」と首を左右に振って見せた。
 レヴィアタンのいない白の部屋はとても寂しくて、何処か寒いような気がするから、あの部屋に戻っても嫌なことばかり考えているか、眠るぐらいしかすることがないんだ。もう、戻るなんて冗談じゃない。

「いや、なんつーか。やっぱ灰色猫は最強だなぁって」

『猫が最強なのかい?面白いことを言うねぇ』

 やっと傍にいることができると、全身で喜びを物語っている灰色猫は、今後は一瞬たりとも傍から離れるものかと思っているみたいで、俺の服の裾を放す気は全然ないみたいだ。別にそれが嫌かと言うと、実はそうでもない。
 たまに歩き難いかな…とは思うものの、絶妙のタイミングでヒョイッと避けてくれるから、邪魔になることもないし、何より、灰色猫の存在はどんな場所にいてもホッとできるんだ。だから、俺のほうこそ、離れたいなんて思わない。

「レヴィアタンの居城ってのは広いんだなぁ。天井も凄く高いし…つーか、悪魔の城なのにステンドグラスとかあるんだな」

 城だってのに、まるで教会のような巨大で見事なステンドグラスがあって、年代モノの価値のある代物なんだろうけど、俺にはそれが判らないから綺麗だなぁと見上げることぐらいしかできない。ステンドグラスは確かに綺麗なんだけど、こうも寂れたような、所々が壊れかけてるような、荒涼とした城ではせっかくのステンドグラスも台無しみたいだ。

『何を言ってるんだい、お兄さん。ステンドグラスは天使よりも悪魔により良く似合うんだよ』

 本気なのか嘘なのか、よく判らない表情をして見上げた灰色猫は鼻先でクスッと笑った。

「そうなのか?」

 美術系に全く疎い俺は首を傾げると、一見、荒れ果てたようにしか見えない石造りの城の中、荘厳とした雰囲気で彩るステンドグラスをもう一度見上げて、そう言われてみれば、城内はこんなに荒んでいるのに、ステンドグラスは一欠けらも壊れていないんだから、これはこれで綺麗なのかと、全く自己主張の欠片もなく納得してしまう俺がいる。

『ご主人はね、心をどこかに置き忘れてきたんだろうねぇ。だから、悪魔が大切にするべき心の領域ですら荒んで、こんな風に荒れ果てて…これは即ちご主人の心を忠実に表しているんだよ』

「そうなんだ…あの薄情な白い悪魔は、いったい何処に心を置き忘れてきたんだろうな?俺がただの人間じゃなきゃ、見つけ出してやるのにな」

 あはははっと笑って灰色猫を見下ろしたら、薄汚れた灰色の猫は、心の奥底まで見透かしてしまいそうなほど透明度の高い、水晶玉みたいな黄金色の双眸をやわらかく細めて笑っているから、ちょっとキョトンッとしてしまった。

「な、なんだよ?」

『…お兄さんはただの人間でいいんだよ。特別なモノになってしまったら、今度はお兄さんが、その綺麗な心を忘れてしまうからね』

「は?」

 呆気に取られて首を傾げる俺に、灰色猫は『うにゃ』っと笑って、なんでもねってのとでも言いたげに首を左右に振りやがるから、思わず抱き上げて身体をぶらんぶらんさせてしまいそうになった。
 ヤバイヤバイ、薄汚れた猫のように見えても、コイツはれっきとした大悪魔の使い魔なんだから、そんな、沽券に関わることをしちゃいかんだろ。

「ま、いっか。それにしたって、海王レヴィアタン様の居城はとんでもないことになってるんだな…あ、そーだ。確か、何処かに海があるんだよな?領域を繋げてるとか言ってたから、灰色猫!海を見に行こうよ」

 ポンッと拳で掌を叩いて名案を思いついたってのに、灰色猫は不意にゆったりとしていた歩調を止めて、その反動で思わず後ろにすっ転びそうになった俺は、怪訝そうな目付きをして小さな猫を見下ろしたんだ。

『ダメだよ、お兄さん。今はご主人が不在だから。海が見たいのなら、ご主人に見せて貰うべきだ』

 その領域には立ち入り禁止だと、言外に灰色猫が言っているような気がしたら、俺は反論せずに残念そうに眉を八の字みたいに寄せるしかない。

「仕方ないか。灰色猫に無理を言っても悪いしな。今度、レヴィアタンが戻ったらお強請りしてみるよ」

 ニカッと笑ってウィンクしたら、灰色猫は聞き分けの良い俺を見上げて、それはそれは胡散臭そうなツラをしやがったんだ。
 おい、こら。なんだ、その目付きは。

『聞き分けの良いお兄さんて言うのは…不気味だ』

 思い切り動揺したようにピンッと尖っている耳を伏せる灰色猫に、できれば蹴りでもくれてやろうかと口をへの字にした時、背後でクスクスと笑う声がして、俺たちはハッと振り返っていた。

『ただ今戻りましたのよ、灰色猫。今頃、レヴィアタン様は光太郎様を捜していらっしゃることでしょうね。お前が連れ出したと知れば、激怒なさりますわよ』

 見事なアルカイックスマイルを浮かべている高級なビスクドールのように品のある、古風なゴスロリ調のドレスに身を包んだリリスが冷やかな口調で言うと、灰色猫は不機嫌そうにムッとして大きな黄金色の双眸を細めてしまった。
 クスクスと笑いながら、その双眸は全く笑わずに俺を見上げてくるリリス…そりゃ、そんな目付きをされても仕方ないよな。きっと、リリスだってレヴィアタンを愛しているに違いないんだから、最愛の伴侶が人間の、それも見てくれも平凡な男のガキに現を抜かしてるんじゃ、奥さんとしては腹立たしくて仕方ないと思う。俺がリリスの立場だってそうなんだから、彼女を責めることはできないよ。

「いいんだよ。俺が誘って散歩してるんだ。灰色猫は何も悪くないよ」

 年の頃は10歳ぐらいの美少女は、灰色猫を庇おうとする俺を、桜桃のような唇に薄笑いを浮かべて双眸をすぅっと細めながら見詰めてきた。

『あら、そうでしたの?それでは、レヴィアタン様は灰色猫をお叱りにはなりませんわね。ところで…先ほど、何を強請ると仰っていらしたの?』

 思わずそれは…と答えそうになる俺の前に、スッと身体を割り込ませた灰色猫は、自分よりも背の高い、気品のあるリリスの顔を確りと見上げたままでハッキリと言い切ったんだ。

『リリス様には関係のないことでございますよ。これはお兄さんとご主人の問題です。口を挟まれては、それこそご主人の気に障るのではないですか』

 綺麗な面立ちは時に禍々しいほど醜くなると言うけど、この時のリリスの表情はまさにそれだった。
 思わず絶句する俺の前で、リリスは冷徹な双眸をグッと細めて、見事な柳眉も歪んで、まるで残忍そうな顔付きをしてキッと灰色猫を睨み据えたんだ。
 それにも怯まずに、灰色猫はフンッと鼻を鳴らしている。
 なんだ、この一触即発は。

「ち、ちょっと待ってくれよ。喧嘩とかするなよ…」

 弱虫毛虫の小心者の人間としては、かたや海王であり大悪魔レヴィアタンの妻である少女と、かたや屈強そうな悪魔も逃げ出す大悪魔レヴィアタンの使い魔が殺気を漲らせて睨み合いなんかしているんだ、怯えながら止めるしかないだろ。
 冷や汗を噴出している俺を双方とも胡乱な目付きで振り返って、やっぱり同時に口を開いてくれた。

『あら、喧嘩などしていませんわよ』

『喧嘩なんかするワケないよ、お兄さん』

 これは立派な果し合いだ…とか言うんじゃないだろうなと、ヒヤヒヤしていたら、先に切り上げたのはリリスのほうだった。

『あら?レヴィアタン様が呼んでいらっしゃるわ。わたくしはもう行きます…今度、お暇でしたらお話をなさいませんか?無論、灰色猫は呼びませんが』

 チラリと冷酷そうな双眸で灰色猫を見たリリスは、それでも確りと俺の顔を見上げてそんな誘いを口にするんだけど…俺としては、灰色猫がいないこんな陰気で物悲しい場所にはいたくないから、それを丁重に断った。
 すると、灰色猫は何故か、フンッと鼻で息を吐き出して…って、お前、どれほどリリスを嫌ってるんだよと、そのあからさまな態度に呆れてしまうと言うか、またしてもハラハラとしてしまった。
 頼むから、人間の心臓なんてひ弱なんだから、これ以上ヒヤヒヤさせないでくれよ。
 ガックリとへたり込みそうになる俺の前で、ひっそりと微笑んだリリスは、漆黒の闇に溶け込みながらポツリと言ったんだ。

『そうですか。しかし、何れ貴方は…きっとわたくしとお話をしますわよ』

 謎めいた微笑を残して、夢のように綺麗な美少女は闇の中に溶けてしまった。
 さ、流石は大悪魔レヴィアタンの妻だと豪語するだけはある。
 思わずガックリと肩を落としそうになったんだけど、初めて目の当たりにしたリリスの存在に、バクバクする胸の辺りを掴んで溜め息を吐いた。
 凄みも一流なら、あの残忍そうな酷薄そうな表情は殺気すら漲らせて、灰色猫じゃなかったら裸足で逃げ出していたと思う。猫一匹殺すことなんか造作もないんだぞ、と威嚇してるみたいで、俺は思わず灰色猫を抱き上げて、そのままダッシュで逃げ出したかったってのが本音だ。
 でも、そんなリリスの、あの意味深な台詞と謎めいた微笑。
 一抹の不安が胸に残ったけれど、俺は、灰色猫を見下ろして首を傾げるぐらいしかできなかった。
 俺を見上げた灰色猫の、何処か不安そうな表情が、暫く目に焼きついていた。

 城の散策にもそろそろ飽いて、そうだ、城の前に広がっていた白い花が咲き乱れる花畑に行こうと、乗り気じゃない灰色猫の腕を引っ張って歩き出したところで、俺は何かに思い切り鼻面をぶつけてしまった。
 そりゃ、確かに前をよく見ていなかった俺も悪い、悪いとは思うけど廊下の真ん中で突っ立てるヤツはもっと悪い!
 誰だ、こん畜生?!

『何処に行っていたんだ?!』

 思い切り睨んでやろうと、忘れかけていた鼻っ柱の強さ全開で見上げようとした矢先、鼻腔を擽る甘い桃のような、嗅ぎ慣れた匂いにハッとして顔を上げたら、髪も眉も睫毛ですら真っ白な、綺麗な面立ちの悪魔が不機嫌そうに眉を寄せて立っていた。
 腕とか組んで、本気で怒ってるのか?
 だって、お前…

「あれ?リリスを呼んだんじゃなかったのか??」

 赤くなった鼻先を擦りながら首を傾げたら、レヴィアタンはムッとしたままでそんな俺の腕を掴んで、それから、赤くなっている鼻先をペロッと舐めてきたんだ!

「おわわわッ?!」

 思わず素っ頓狂な声を出したら、それで漸く気が済んだのか、白い大悪魔様は満足そうにニヤリと笑ってくださった。なんなんだよ。

『リリスはどうでもいい。何をしてたんだ?』

 俺の顔を覗き込んで、嬉しそうに笑うレヴィアタンを見てしまえば、なんだよお前はと思っていた気持ちも萎えちまって、灰色猫に呆れられるんだけど、長い時間捨てられていたワリには呆気なく許せる気持ちになるってのは、やっぱさ、惚れた弱みってヤツだ。
 結局、惚れた方が負けなのか。
 そんなこと考えたら、早くレヴィをメロメロにしてみたいなぁ。
 まぁ、今の俺じゃリリスには到底敵わないだろーけどさ、ふん。

「城の中を散歩してたんだよ、灰色猫を誘ってさ。怖い使い魔ばっかの人外魔境だと独りじゃおっかないし」

『散歩だと?城を歩きたいんだったら、どうしてオレに言わないんだ。何処へだって連れて行ってやるぞ。何処に行きたいんだ??』

 そりゃぁ、城の外に出て、俺が暮らしていた人間の世界に行きたいけど、そんなことを言ってしまったら、漸く恋をする気になっているレヴィアタンの逆鱗に触れちまうだろうから、俺は冗談でもそんなことは言わない。

「そうだなぁ…ここと繋がってるって言う、海を見たいな」

『なんだ、そんなことか』

 そう言った途端、レヴィアタンはヒョイッと俺を横抱きに抱きあげて、ギョッとする俺が掴んでいた灰色猫の腕を離させると、ヤツはさっさと宙に!空中に浮きやがったんだっ。

『灰色猫、お前もついて来い』

『承知しているよ、ご主人』

 にゃあっと可愛く鳴いて同じく浮かぶ灰色猫にヒョイッと眉を上げたレヴィアタンは、フンッと鼻先で笑って、それから、呆気に取られている腕の中の俺を見下ろすと、雪白の頬を染めて嬉しそうにニカッと笑いながら俺の頬にキスしてきたんだ。

『オレの領土が気になるんだろ?そうかそうか。それは良い傾向だ』

「…は?」

 海を見たいって言っただけで、別に俺、レヴィアタンが支配している領土とか全然興味ないんだけど…とは、流石に喜んでいる大悪魔様を前にしては言えない。言えたとしても、言えないだろ、この場合。

『お前はオレと恋をするって言ったよな?』

 嬉しそうにニヤニヤと笑っているレヴィアタンに、何か、ちょっと不気味なものを感じながら、俺は訝しそうに眉を顰めて「うん」と頷いていた。

「ああ、恋をしてるよ」

『だったら、早く愛に変えてくれよ。待ち遠しいんだ』

「はぁ??」

 今日のレヴィアタンはどうしたんだろう?
 俺の頬に口付けながら、レヴィアタンはそんなことを言うんだ。
 リリスを愛してるくせに、愛を知らないくせに、物珍しさだけで俺を傍に置こうとか簡単に考えたくせに、この大悪魔様は何を言ってるんだ。

「俺が愛に変えても、レヴィアタンが愛を知らなかったら、何も変わらないじゃないか」

『それなんだよなー』

 俺を抱き締めたまま宙に浮いていたレヴィアタンは、それからゆっくりと上昇して、ステンドグラスが囲む高い天井付近まで来ると、今度はそのままスィーッと前進して、階段も廊下も何もないのに、中央に外に向かってバルコニーがあるみたいなんだけど、その前が僅かに広くなっている場所に着地したんだ。

『光太郎に愛して欲しいのに、オレがそれを知らなければ、愛されてるのかどうかも判らないんだよな。じっくり恋をするしかないのか』

 不満そうにブツブツと悪態を吐きながら、呆れる俺を抱き上げたままで、レヴィアタンは自然とガラスの扉が開くと同時に外に出たんだ。
 広がる海を予想したのに、そこには長い空中回廊があって、レヴィアタンはスタスタとお供に灰色猫を従えて、下を見ればゾッとするほど高い場所にある石造りの橋を渡るんだ…けど、確かに宙に浮くこともできるレヴィアタンは平気かもしれないけど、ただの人間としては、手すりも左右を囲む柵もない場所をスタスタ歩かれてしまうと、腹の底の辺りがズンズンして、生きた心地がしない。
 時折突風が含んだけど、確かにレヴィアタンはビクともしない。ビクともしないけど、マントのようなコートのような漆黒の外套が大きな音を立てて翻ったりするから、俺は慌てて胸元をギュッと掴んでいた。

『この胸の奥があたたかいのは恋ってヤツじゃないかと思うんだ。何処にいても、何をしていても、お前はちゃんと眠っているのかとか、食事は摂っているかとか…気になって気になって、刃向かう悪魔どもを殺してる最中でも気になって仕方ないんだ。これはやっぱり、恋だと思うぞ』

 ククク…ッと、邪悪な顔をして笑いながらも、レヴィアタンは切なそうに溜め息を吐いた。
 …そうか、今までふらりと何処かに行っていたのは、何か悪巧みを企てていた悪魔を殺しに行っていたのか。
 浮気だとか、リリスと愛し合ってるのかとか…そんなこと考えて凹んでいた俺としては、勘違いで良かったんだろうけど、どれほどレヴィアタンが血に餓えた悪魔かってのが判ってちょっと青褪めた。
 確かに、レヴィではないんだなぁ。
 レヴィじゃなくて、邪悪を絵に描いたように恐ろしい大悪魔であるはずのレヴィアタンなんだけど、胸の中に湧き起こる奇妙な衝動だとか、ドキドキだとか、相手の行動に一喜一憂することだとか…それから、切なさの意味が判らずに、邪悪なツラして笑っているくせに途方に暮れたような、そんな可愛い顔もするから、それでも俺は、やっぱりレヴィアタンのことも好きなんだなと思う。
 これは、レヴィにもレヴィアタンにも内緒の俺の心だ。

『任せとけよ、恋はもうすぐ、ちゃんと理解してやるからな』

 大悪魔として生れ落ちた時から、きっと負けず嫌いだったんだろうなぁ。
 真っ白な髪を突風に遊ばせて、肩に垂らした飾り髪もパタパタと風に遊ばれてるのに、レヴィアタンは大自然にも逆らうような叛逆心を胸の内に秘めたまま、他愛のない恋を勝ち取ることに心を傾けて、そうして満ち足りたような、満足そうな顔をして笑っている。
 俺の恋心はとっくに手に入れてるのに、それに気付かずに…必死に、自分の中に眠っている恋心を探してるんだなぁ。
 その姿が、俺には眩しくて、それからスゲー…可愛かったんだ。
 だから思わず、プッと笑ったとしても仕方ないと思うぞ。

『む!笑ったな…ふん、そうやって余裕をこいてるとな、今にオレに愛されて大変なことになるんだぞ』

 レヴィアタンは子供みたいにムッとしたみたいだったけど、それでもすぐに偉そうなツラをして俺を抱き上げている腕に力を込めたんだ。

「大変な…って、何か起こるのか?!」

 それは拙い。
 そう言えば、ルシフェルが言ってたな。レヴィアタンの心は世界に繋がっているから、白い悪魔の気持ち次第で、俺たちが住む世界はどうにでもなるんだ!
 そ、それはいかんぞ、マジで。
 と言うことはだ、レヴィアタンは恋とか愛を知ってしまったらダメなんじゃないか?だから、エライ人がミカエルとか言う天使を遣ってレヴィアタンの中にある俺の記憶を消させたのか?!そうなのか!!?
 頭をグルグルさせる俺が半泣きで見上げると、それこそ大変なことが起こってしまったみたいな顔をしたレヴィアタンはでも、すぐに先端の尖っている耳をへにょっと垂れて、呆れたように下唇を突き出して顎を上げたんだ。

『天変地異…とかじゃないぞ。一応、言っておくけどな。そんなことじゃない、大変なことだ』

「だから、大変なことってなんだよ?!」

『…内緒だ』

 ニヤリと犬歯をむいて嗤う大悪魔のツラを見上げたまま、俺が青褪めないはずはない。
 あわわわと、泡食っている俺とニヤニヤ嗤っているレヴィアタンの背後で、はぁ…っと溜め息を吐いた灰色猫が『にゃあ』と鳴いた。

『取り敢えず、お兄さんが想像しているようなことではないよ。ご主人の大変なことって言うのは…』

『言ったらお前でも殺すからな』

 即座にジロッと睨むレヴィアタンに、灰色猫はビクッとして首を竦めたけど、あんまり心配している俺のことを慮って、控え目な口調で言ってくれた。

『ご主人の大変なことって言うのは、非常に簡単なことだよ』

「簡単…?」

 なんだ、そりゃ?
 思わず眉を顰めて首を傾げる俺に、主に忠実な使い魔に満足したのか、レヴィアタンはニカッと笑って頷くと、足取りも軽く、奈落のように深い場所に架かっている石橋をスタスタと渡るんだから、頭の片隅には引っ掛かるものの、考えることもできずに俺は慌ててレヴィアタンに抱き付いていた。

第二部 20  -悪魔の樹-

 俺をお姫様抱っこしたままで暫くそうして、俺からの頬へのキスを受け入れていたレヴィアタンは、ちょっと嬉しそうに照れ笑いをして、それからゆっくりと歩き出した。

「?…何処に行くんだ??」

 予告もなしに歩き出したレヴィアタンに、俺は思わずその首に噛り付くようにして両腕を回してしまったけど、ヤツは大して気に留めた風もなく長い足でスタスタと回廊を闊歩しているんだ。

『何処って、白の部屋だ』

「白の部屋?…ってなんだ??」

 ここはレヴィアタンの心の領域で、俺が知る場所ではないんだから、名称を言われたって判るかってんだ。
 呆れたように溜め息を吐いたその時だった。

『レヴィアタン様。お話は終わりましたの?』

 ふと、凛とした声音が響いて、それまで誰に呼び止められたって止まることもなさそうなほど、我が道を歩いていたレヴィアタンは、その声を聞いた途端にピタリと足を止めてしまった。

『リリス』

 レヴィアタンが、まるでレヴィが浮かべるようなもの静かな表情で微笑むと、ゴスロリ御用達みたいな暗黒色のドレスに身を包んだ人形みたいに整った、綺麗な面立ちの美少女は口許に笑みを浮かべてちょこんっと頭を下げた。

『リリス、今夜は白の部屋に居るからな。お前の身に何かあっては一大事だから、お前は紅蓮の部屋に入っていろよ?』

『畏まりましたわ、レヴィアタン様』

『絶対だぞ。オレにとって、お前の不在は何よりの苦痛だ。判っているな?』

『勿論ですわ』

 …そんな会話を、レヴィアタンは不安そうな表情で、リリスはうっとりと幸せそうな表情で交わしてやがる。それを、俺はただぼんやりと聞き流すしかないのか…と言ったら、勿論、そんなワケはない。
 だから俺は、慌ててレヴィアタンの腕から逃れるようにして降りようとしながら、そのジャラジャラと宝石だとかが飾る胸元を手で突っ張りながら言ったんだ。

「いや、俺は独りで大丈夫だ。だから、レヴィアタンはリリスと一緒に…」

『はぁ?何を言ってるんだ。お前がいるのに、どうしてオレがリリスと一緒にいないといけないんだ?』

 慌てる俺の語尾に被さるようにして、レヴィアタンは訝しそうな、不機嫌そうな口調で唇を尖らせるから、俺は困惑してリリスを見下ろしたんだけど、綺麗な面立ちにアルカイックスマイルを浮かべている美少女は、なんでもないことのように瞬きをするだけだ。

「でも…レヴィアタンは言ったじゃないか。リリスが不在だと何より苦痛だって」

『そりゃ、そうは言ったが。お前が傍にいないのも苦痛だ』

 釈然としない様子で唇を尖らせるレヴィアタンに、やばい、コイツはまた何か勘違いをしてると、俺が思ったとしても仕方ないだろ。
 そんな風に俺を大切そうに言ってくれても、それはリリスよりは比重は軽いと思うんだ。
 ただ、レヴィアタンの場合は妙なところで嫉妬するから、俺が独りでも大丈夫だと言ったことに、何か疑っているんだと思う。
 それはやっぱり、色々と言っても、ルシフェルの存在を疑いっ放しなんだろうなぁ。

「でも…」

 目の前に薄い微笑を浮かべる、この場合は海の王の奥さんなんだから王妃さまとでも言うのか、彼女がいるのに、何時までも甘えたようにレヴィアタンの胸の中にいるのは嫌なんだ。
 俺にだってプライドってのがあるんだぞ。
 愛人なんて冗談じゃないんだから、幾らレヴィアタンが疑ったとしても、俺はどうしてもこの離れ難い腕の中から抜け出さないといけないんだ。
 あれやこれやと画策する俺に、レヴィアタンは愈々頭に来たのか、苛々したように逃げ出そうとする身体をギュッと抱き締めやがったんだ。

『…お気遣いは結構ですのよ。わたくしのことはご心配なく』

 そう言ってひっそりと微笑んだ美少女は、まるで闇に溶けるようにして姿を消してしまった。
 後には静まり返った回廊と、気配を窺っていたけど、何故か満足したように頷くレヴィアタンと、動揺して困惑したように眉を寄せている俺が残されたんだ。

『よし、リリスは紅蓮の部屋に篭ったな。あそこなら安全なんだ。何時だってアイツのことは意識するようにしているんだが、偶に途切れる時がある。そんな時はああして、紅蓮の部屋に篭らせるのさ。ここには忠誠心の欠片もない使い魔が五万といるからな』

 唇の端を捲るようにして、レヴィアタンは邪悪な顔をしてニヤッと笑ったけど、俺はその顔を無表情に見上げるので精一杯だった。
 だってさ、そうじゃなかったら今にも涙が盛り上がって、それからポロポロと堰を切ったように頬に零してしまいそうだったから…リリスを想うレヴィアタンの心は知っているけど、やっぱり目の前で、あからさまに愛を語られるのは正直、辛いんだ。
 レヴィアタンは愛を知らないと俺に言ったけど、地獄の業火で焼かれなかったからそれは真実なんだろうけど、でも、レヴィアタンは気付いていないだけなんだ。
 何時か、俺を好きだと言ってくれたその感情を本当に理解した時、レヴィアタンはリリスの存在に気付き、今まで以上に彼女を愛するに決まってる。
 その時でも俺がいたとしたら…俺はどうするだろう。
 何ができるんだろう…それを考えると、胸が張り裂けそうなほど辛い。
 俺、やっぱりこのまま、元の人間の世界に帰った方が幸せじゃないかと思うんだ。
 レヴィも、ルシフェルも、灰色猫も、魔界も…何もかも、今までのことは俺こそ全て忘れて、何も知らない時に戻って、極平凡に何時も通りの暮らしを取り戻せば、俺は幸せになると思う。
 本当にそうか?と聞かれると、ハッキリ言って、それは判らない。
 でも、それでも、こんな風にリリスのことで嬉しそうに笑うレヴィの顔を見たくない。
 レヴィの微笑みは何時だって俺に向いていて欲しかった…それは今となっては儚い希望でしかないんだけど、俺はそれでも必死にそれを願い、叶わないことを知っているから、自嘲して俯くことぐらいしかできない。
 そうして、俺は下唇を噛み締めた。

『少し触ったら、お前が嬉しそうに笑って…だから、オレはどんどん大胆になって、お前にキスするのが楽しくて嬉しくて、初めて幸せだと感じたんだ』

 天井の辺りからハラハラと零れ落ちる薄桃色の花びらが散る純白のベッドに俺を下ろしながら、レヴィアタンは照れたように笑ってそんなことをポツリと呟いた。
 白の部屋…と呼んだ場所は、気絶した最初の日に入れられていた、あの真っ白な部屋だった。

「そうだったんだ」

 俺を見下ろす古風な漆黒の衣装に身を包んでいる白い髪の悪魔を見上げて頷くと、ヤツは暫く何も言わず、見上げる俺をジッと見下ろしていた。
 あんまり見詰められることに慣れていない俺は…って、レヴィの時は、ジッと見詰められても嬉しいと言うか、恥ずかしいとか思ったこともないのに、どうしてだろう?同じ顔で同じ声だって言うのに、レヴィアタンのキリリとした男らしい透明感のある黄金色の双眸に見詰められると、所在無い気持ちになって、ふと、迷子になった子供みたいに不安で、それから、落ち着かずにギクシャクと目線を逸らしてしまうんだ。

『それなのに、お前は急にオレから離れて人間の世界に戻ると言いやがる。話を聞けば、魔界には愛した悪魔を追って来たって言うじゃないか。スゲー、頭が熱くなって、そのふざけた悪魔は何処のどいつだって苛々したけど…それよりも、お前がボロボロ泣くのが許せなくて、そんな、馬鹿な悪魔の為に泣くぐらいなら、どうしてオレの為に泣かないんだって思ってな』

 目線を逸らして俯いてしまう俺の顎を掴んで、無骨な仕種ではあるんだけど、レヴィアタンとしてはとても優しい手付きで上向かせたりする。
 だから俺は、ちょっとムッとした顔をして、俺の顔を静かに見詰めている見慣れているはずなのに、まるで知らない悪魔の顔を見上げて唇を尖らせたんだ。

「俺はレヴィアタンのためだけに泣いてたんだ!」

『オレを追って魔界に来たってことなのか?お前のことを、オレは知らないんだ…その、名前もな』

 レヴィアタンはハッとしたように一瞬目を瞠ってから、バツが悪そうな顔をして、それから申し訳なさそうに歯切れが悪くそんなことを呟いた。
 そんなふざけたことを抜かしながらも俺から目を逸らさない白い悪魔に、俺は思い切りポカーンッとして、それから情けなくて、泣きたい気持ちでハァと溜め息を吐いた。

「ガーン…今のはちょっとショックだ。俺、瀬戸内光太郎、光太郎だよ。レヴィアタン」

 実際にすげーショックだったけど、それでも、心の何処かでは、ああそうか、コイツは同じ顔と声をしていても、レヴィではないんだって判っていたから、まるで初対面の相手にそうするように、俺は確りとレヴィアタンの双眸を見詰めて自己紹介をした。

『光太郎って言うのか♪そうかそうか…って、あれ?光太郎??オレはその名前を何処かで…』

 途端にパッと嬉しそうに、まるで子供みたいにニカッと笑って頷いたレヴィアタンは、でもすぐにソッと眉根を寄せて、何かを思い出そうとするように首を傾げたんだけど…

『何処だっけ?忘れたな』

「ぶ!」

 あっけらかんと諦めやがったから、俺は期待していたぶん、思い切り脱力して吹き出してしまった。

『どうしたんだ?』

 俺の顎を掴んだままで首を傾げるレヴィアタンに、俺は殆ど涙目で。

「なんでもないよッ」

 と悪態を吐いてやった。そうすると、レヴィアタンは不機嫌そうに眉根をさらに寄せて、俺の顎から手を離すと、ベッドに押し倒すようにして覆い被さって来ると唇を尖らせるんだ。

『なんでもないこともないだろ?光太郎、怒ってるじゃねーか。なんだよ、言えよ』

「なんでもないって言ってるだろ?最初に逢った日に、ちゃんと名乗ってたのにな、俺」

 レヴィアタンにベッドに押さえ付けられてしまった俺は、諦めたように溜め息を吐いて、豪華な宝石なんかがジャラジャラしている胸元を、軽く押し返そうと掌を当てて恨めしげに睨んでやった。

『ゲ、そうだったのか。いや、それはスマン』

「…もう、いいよ。でも、今度は忘れないでくれよ」

 本気ですまなさそうに謝るから、俺は、そんな白い悪魔が可愛いなぁと思って、仕方なく苦笑したんだ。
 すると、レヴィアタンは、ちょっとムッとしたように頷くんだ。

『ああ、忘れたりするもんか』

 そう言って、薄情なくせに、思い切り俺のことなんか忘れてるくせに、ベッドを軋らせて、レヴィアタンは白い睫毛の縁取る目蓋を閉じてソッとやわらかく口付けてくる。
 甘い言葉には絶対に騙されないと、ちゃんと理解しているし、レヴィアタンには最愛のリリスがいることも判っている。
 でも俺は…それでも、大好きなレヴィのぬくもりが忘れられなくて、ぎこちなく口付けてくる温かい唇に応えていた。
 押し返そうと当てていた掌の力を抜いて、それから、俺は目蓋を閉じると、縋るようにレヴィアタンの背中に両腕を回したんだ。
 貪欲に貪るキスは、何故だろう?2人とも、まるで今まで水を与えられなかった砂漠の旅人みたいに、お互いの存在に餓えてでもいたかのように、抱き締めあって、湿った音を響かせながら、長い長いキスを愉しんだ。
 だって俺、ずっと、レヴィに焦がれていたんだよ。
 もうずっと、逢いたくて逢いたくて、思い出して欲しくて…望まないアスタロトとの、そのえっちも、ルシフェルとのキスでも、どんなものでも癒されることのない心の渇望は、只管レヴィだけを求め続けていたんだ。たとえそれが、レヴィアタンだったとしても、俺は白い悪魔がくれる全てを受け入れたかった。
 ハラハラと零れ落ちる甘い匂いに頭はクラクラするんだけど、それが匂いのせいなのか、それとも、大好きなレヴィの甘いキスに酔わされてるだけなのか、どちらにしても、溺れる人のように縋りつく俺の上着を性急な仕種でたくし上げ、外気に震える素肌に軌跡を残すみたいに指先を滑らせていく。

「…ん」

 小さく吐息を吐くと、レヴィアタンは含みきれずに口許から零してしまった唾液を舌先で舐め取って、涙の雫を結ぶ目許にキスをした。

『オレは…お前を待っていたんだな』

 ふと呟いたレヴィアタンの言葉に、震える目蓋を開いて見上げた俺を、白い悪魔はまるで悪魔らしくない、俺があんなに望んでいたレヴィの優しい双眸で見下ろしていた。
 これはレヴィじゃないって判ってるのに、それなのに、どうしてこんなに泣けてくるんだろう。
 抱いて欲しいと、望んでしまうんだろう。
 レヴィは最初からいなかったのに。
 レヴィはレヴィアタンと言う悪魔の仮初めの姿で、どんなに望んでも、もうこの両腕の中に戻ってくることはないのに…今、目の前にいるこの悪魔は、俺の知らない大悪魔なのに、俺はどうしても彼に抱いて欲しいと望んでしまうんだ。

「れ、レヴィ…」

 俺は恐る恐るその名を呼んだ。
 レヴィアタンは特に気にした様子もなく静かに笑って、それから、まるで許しを請うような仕種で目蓋を閉じると、俺の首筋に唇を落とした。
 どんな悪魔に触れられても辛いだけだったのに、まるで雷に打たれたような、電流に触れたように全身が痺れて、俺はビクンッと身体を震わせていた。

「…ぁ…ッ」

 声なんか出すつもりじゃなかった。
 でも、レヴィアタンが辿る指先は、どれも記憶に残る甘美な軌跡で、まるで俺の全てを知り尽くしているみたいに、白い悪魔は俺の快楽のポイントを確実に弾き出していった。
 唇で、指先で…それから熱く滑る舌先で、俺でさえ知らないような快楽の部位を見つけ出して、まるで一度描いた地図を辿るような正確さで、レヴィアタンは俺を狂わせていく。
 快楽に目許を染めて、俺は何時の間にか全裸に近い姿になって、どうしても揺らめいてしまう腰を止めることもできずに、強請るようにレヴィアタンの腰に腰を摺り寄せると言う恥ずかしい姿まで晒してしまったんだ。
 後で思い出せば赤面モノの甘い声も、箍が外れたように口から零れ落ちてしまう。

「や、…あ、あぅ……それは、ダ!…んぅ~ッッ」

 レヴィアタンの熱い口腔に、遂に張り詰めたようにして痛いほど勃起している陰茎が捕らえられてしまって、俺はどうしていいのか判らなくて首を左右に振りながら、我武者羅にレヴィアタンの白い頭髪を掴んでいた。
 それだけでイキそうなのに、レヴィアタンはそれを許さず、根元はガッチリ掴んでままで追い詰めるみたいに鈴口に滲む粘る涙を啜り、滑る舌先で弱い場所ばかりを攻めてくるから、俺は声も出せずに、勿論、イクことすらできずにビクビクと身体を震わせてしまうんだ。
 もう少しであられもない声を上げそうになって、俺は涙をボロボロ零しながら、両手で口を覆って首を左右に振っていた。
 不意にべとべとに濡れそぼった陰茎から唇を離したレヴィアタンは、まるで悪魔のように…って、実際は悪魔の中の悪魔なんだけど、蠱惑的な笑みを口許に浮かべ、濡れた唇をペロリと真っ赤な舌で舐めながら、伸び上がるようにして俺の胸元に頬を寄せると、とても愉しげにクククッと嗤うんだ。
 喘ぐように大きく息を吐く俺は、甘い匂いと快楽に酔い痴れて、まるで惚けたようにそんな綺麗なレヴィアタンの顔を頬に朱を散らして見詰めていた。

『オレを、愛してると言え。そうすれば、イカせてやる』

 レヴィアタンはまるで絶対的な口調でそんな馬鹿みたいなことを言い放って、唆すように双眸を細めて見詰めているから…俺は蕩けてしまいそうな顔をしてヒッソリと呟いた。

「あ、愛してる…レヴィ」

 そんな簡単なことで、俺を許してくれるのか?
 だったら俺は、何度でも…

『レヴィアタンだ、光太郎。ちゃんと、レヴィアタンを愛してると言うんだ。お前の口で』

 執拗に言い募るレヴィアタンの声に、ハラハラと落ちてくる媚薬のように甘ったるい匂いに、酔い痴れている俺の思考回路はとても妖しくて、揺れる腰を止めることもできずに、うっとりと呟いたんだ。

「レヴィアタンを、俺は愛してるよ……ひぁ?!」

 呟いた瞬間、レヴィアタンは満足したようにニヤッと嗤って、それから唐突に唾液と先走りで濡れそぼっている肛門に指を突き入れたんだ!その瞬間、脳天を貫くような快感が背骨を駆け上がって、俺は思い切りビュクッと白濁とした粘る精液を撒き散らしていた。

「んぁ…ぁ、う…ん、んん……」

 長らく性行為から遠退いていたせいか、射精は長く続いて、俺は鈴口から間欠泉みたいに精液を拭き零すたび度に腰を揺すっていた。その間も、レヴィアタンは長い指先で、俺の胎内にある秘められた箇所を執拗に探っているみたいで、でも、ちょうど、睾丸の裏あたりにある、しこりのような部位を指先で突かれた瞬間、あれだけ感じていたと言うのに、一瞬、気が遠くなりそうになって、俺はさらに精液が漏れるような感触に泣き出しそうになっていた。

「や、嫌だ…も、あ!…ッ……ひ」

 嫌々するように頭を振っていたら、頬を摺り寄せていたレヴィアタンは、不意に俺の乳首をベロリと舐めて、それから口に含むと、滑る口腔内で舌先で転がすように弄ぶから、俺は気がおかしくなりそうになってしまった。
 こんな行為を、俺はレヴィとしたことがない。
 レヴィとのエッチは、とても優しくて、何時も俺を労わってくれて…そして、愛されていると実感できていた。でも、これはなんと言うか、快楽に突き落とされて、怖くて怖くて、縋るものはもうレヴィアタンしかいないから、無我夢中で救いを求めるしかない…まるで愛し合うと言うよりも、淫靡な暴力で従わされてるみたいだ。
 逆らえない、絶対的な力に屈服してしまうような…こんなエッチを、俺は知らないし、知らないから怖かった。
 不意に、ガタガタと震え出した俺に気付いたのか、レヴィアタンは含んでいた乳首から唇を離して、不思議そうな顔をして俺を覗き込んできた。
 この悪魔は、愛する心を持っていないから、エッチもただの支配する道具でしかないのかもしれない。
 そんなのは嫌だ、たとえレヴィアタンが悪魔だからと言って、快楽で支配されるのなんか絶対に嫌だ。
 ただ、俺は愛して欲しいだけなのに…

『どうしたんだ?なぜ、泣いてる??』

 どう見ても、悦楽に酔い痴れて泣いているのではないと、確り確認したレヴィアタンは、不意に俺の後腔にある指先を蠢かして、快楽に酔えば泣かなくなるとでも思っているみたいに、唆して突き落とそうとでもするように刺激してくる。でもそれは却って俺を追い詰めるだけで、震えながら泣く俺は唇を噛み締めて…その時になって漸く、レヴィアタンは事態の深刻さに気付いたみたいだった。
 エッチの最中で相手に泣かれたことなんかないのか、唇を噛み切って泣いている俺に、慌てて後腔に挿入していた指を引き抜いて、レヴィアタンは腕の中に俺を抱き締めたんだ。

「う…ひぃ…っく。ひ…うっ…うぅ……ッ」

 声も出せずに泣きじゃくる俺に驚いて、それから、オロオロしたように抱き締めてくるレヴィアタンの胸の鼓動は少し早かったけど、その音を聞いている間に、俺の中の絶望感のようなものがほんの少しだけど、薄れてきたような気がしていた。

『お前は…光太郎は、本当はオレのことが嫌いなのか?』

 どうして、この大悪魔の脳みそはすぐにそう言う結論を弾き出すのか良く判らないんだけど、俺は泣きじゃくりながらレヴィアタンに抱きついて、激しく首を左右に振ったんだ。

『では、何故…オレとセックスするのが嫌なのか?』

 エッチの最中で逃げ出されたんだから、そう考えるのは仕方ないよな。
 それは少なからず、レヴィアタンの沽券を傷付けたのは確かだと思う。
 でも、俺は謝らない。

「こ…なの、ヘンだ。…ひ…っく。だって、まるで、…うぅ……俺、俺のほうこそ、ひっ…く…っ…あ、愛されてない、…ッ」

 泣いているからうまく言葉に出せないけど、でも、伝えたいことは言えたと思う。
 もっと、もっと愛されたいよ、レヴィ。
 前みたいに優しく愛おしそうに抱いて欲しい。
 そうすれば俺、男同士なんて負い目にも感じずに、こんな愛もあるんだなぁと、あっけらかんとお前を愛せるのに。
 これじゃまるで、愛欲に溺れて、それがないと生きていけない…それこそ、レヴィアタンの性奴隷じゃないか。
 愛も心もない、ただの性奴隷だ。
 レヴィアタンは先端の尖った耳を萎えたように垂らして、呆気に取られたようにポカンッと覗き込んできた。
 胸元に顔を埋める、俺の涙と鼻水でグチャグチャになった顔を顎を掴んで上げさせて、そんな俺を繁々と眺めていたレヴィアタンは、継いで、少し逡巡したように初めて目線を泳がせて、それから耳は垂れたままで困った顔をしながら俺の額にキスしてきたんだ。
 それから目蓋に、頬に、唇にキスをして…口許に笑みを浮かべながら俺を抱き締めてゴロンッと横になってしまった。

「…ッ、う…っく……ッ」

 嗚咽がなかなか引っ込まなくて、俺は涙で歪む視界の中、綺麗な黄金色の双眸を見ようとして何度も瞬きを繰り返した。そんな俺の汗で張り付いた前髪を掻き揚げて、頬を濡らす涙をそのままの指先で拭っているレヴィアタンは、やれやれと溜め息を吐いたみたいだ。

『そうか…オレが悪いんだな。人間の奴隷を好奇心で抱いた時、奴らは悦んでもっととせがんできたんだ。だから、こうすれば、光太郎は気持ちがいいんだろうと思った』

 俺は首を左右に振った。
 でも、聡い大悪魔は、俺が何を言いたいのか、もう気付いているみたいだ。

『だがそうだな、それもすぐに飽きて捨てたが、ソイツは他の悪魔にも慰み者にされていた。それを悦んで、だから、アイツは性奴隷になったんだ。これは快楽でお前を従わせようとしているのに違いないんだろう』

 だが、とレヴィアタンは溜め息を吐いた。

『オレはこの方法しか知らない。快楽の虜にして、お前を縛り付けることでしか、オレは光太郎を傍に置けないんだ』

 それはまるで、悲痛な叫びみたいだった。
 俺が喜ぶだろうと思って、たくさんの快楽を与えてくれるレヴィアタンは、確かに俺を愛してくれているんだろう。でも、愛し合うってことは、もっとお互いを求め合うものなんだ。
 こんな風に一方的に快楽ばかりを与えて、俺が覚えるのはレヴィアタンじゃない、悦楽に溺れる肉欲ばかりだ。
 それを伝えたくて、俺はゴシゴシと拳に握った片手で涙を拭って、まだ嗚咽の残るままで言ったんだ。

「じゃ、じゃあ…まず今夜は、一緒に…ひ…っく、…抱きあって、寝よう」

 お互いで抱き締めあって、ぬくもりを感じて、それから…安心して眠ろうよ、レヴィ。

「き、キス…も、たくさん、ッ…しよう」

 啄ばむようなキスを幾つもして、やわらかな気持ちを共有して、自然とお互いを求めてみようよ。
 最初に戻って、恋をしようよ。
 愛してくれるのはそれからでも構わないから…レヴィ、どうか、もう一度最初から恋をしよう。
 俺たちは早急に求め合い過ぎたんだ、だから、お互いをあまりに知らなさ過ぎて、戸惑って、絶望して、勘違いして、立ち竦んで…大事な何かを見落としてしまったんだろう。
 たとえレヴィアタンの心の中にリリスと言う愛が居座っていても、俺は、できるだけそれすらもひっくるめて、ちゃんとお前を愛せるように頑張るから、だから、最初は恋をしようよ。

「レヴィアタン…恋を、しよう」

 レヴィアタンの金色の双眸を見詰めたままで、俺は必死でそう言っていた。
 この心が届くなら、レヴィに聞いてもらいたい。
 お前ともう一度、恋をしたい。

『オレと恋をするのか?』

 何故か、怒り出すかと思っていたレヴィアタンは、白磁の頬にほんのりと朱を散らして、嬉しそうにニッと笑ったりするから…俺も嬉しくなって、エヘヘッと笑ったんだ。

「うん。恋をするんだ。胸が高鳴ってドキドキしてさ…夜も眠れなくなるんだぜ?」

 なんとか、漸くまともに言葉が出せるようになって言うと、レヴィアタンは嬉しそうに笑った。
 何がそんなに楽しいんだと聞きたくなるぐらい、悪魔の中の悪魔であるはずの、不可能はない白い悪魔は嬉しそうに笑っているんだ。

『そうか…お前はオレと恋をするんだな』

「うん」

 するんじゃないよ、レヴィ。
 もう、恋をしてるんだよ。
 愛を知らないと言った白い悪魔は、まるで満ち足りたような表情をして、ソッと俺を抱き締めて安堵したみたいに目蓋を閉じた。
 それは羽毛のような柔らかさで、その時、俺はこの城に来て初めて、レヴィアタンに愛されていると感じていた。
 その抱擁は、それほどあたたかくて、優しくて、俺には重要だった。
 レヴィアタンの背中に腕を回して、俺もそれに精一杯応えていた。
 愛しいと物語る腕のぬくもりが、レヴィアタンから伝わって、俺は改めて、レヴィに恋をしてしまった。

第二部 19  -悪魔の樹-

 軽くウィンクして立ち去ろうとしたルシフェルはふと振り返ると、俺に『オレには理由は判らないけど、灰色猫は許してやれよ』と言って、片手を振りながらレヴィアタンの居城を後にしてしまった。
 なんの問題も解決したワケじゃないけど、それでも俺の心は少しでも気分が晴れたし、なかなか降ろしてくれないレヴィアタンを見上げたら、ヤツはバツが悪そうな顔をして目線を逸らすけど、俺がニコッと笑ったら、ハッとしたように振り向いて、それから暫くジーッと見詰めていた。

「…なんだよ?」

 あんまりマジマジと見られるから、訝しそうに眉を潜めた俺が首を傾げると、レヴィアタンはムッツリと不機嫌そうに唇を尖らせやがった。

『…この城に来て、やっと笑ったなと思ったんだ』

「…」

 ああ、そうか。
 俺、初日からイキナリ衝撃を受けまくって、ここに来て笑うことも忘れていたんだ。
 妻帯者を好きになるなんか、なんつーか、信じられない気分だったし…何より、レヴィに裏切られたことが信じられなくて、それから、許せなかったんだ。
 それで苛々してたし…でも、違うな。
 愛はたったひとつだとか…そんなの、有り得るはずもないのに、そんな安っぽい言葉を馬鹿みたいに信じていた自分が滑稽で哀れで、本当に腹立たしかったのは自分自身だったんだと思う。
 誰でもない、俺自身を許せなかった。
 悪魔だったのに、甘い言葉を鵜呑みにして…俺って馬鹿だよなぁ。
 これだけ男前のレヴィアタンなのに、彼女とか、奥さんとかいないはずがないのにさ。
 他にも五万と彼女とかいて当たり前なのに、俺が何よりも傷付いたのは、この広い城の中で、レヴィアタンの伴侶はたった一人しかいなかったんだ。
 誰に聞いても、レヴィアタンに一番近いのはリリスで、彼女以外には誰もいないと言っていた。 その事実に俺は傷付いて、それから独りで泣いた。
 たった独り、心から愛した人がいて、そんな人がいるのに…でも、よく考えてみたら、俺の一生なんかレヴィアタンたちにしてみたら瞬きの間に違いないんだろう。だったら、ほんのささやかな楽しみだったのかもしれない。
 だから、レヴィは魔界での暮らしを一言も言わなかったし、俺が魔界に着いていくことを拒んだんだと思う。
 ほんの僅かな間の、ちょっとしたお遊びだったのか。
 はは、また馬鹿みたいにドツボにハマッてんな俺!

『ベヒモスのところでは太陽みたいに楽しそうに笑ってやがったのに…どうして、ここじゃ笑わないんだってムシャクシャしたんだよッ』

 ブツブツと悪態を吐くレヴィアタンを、俺は悲しくなった面持ちで見上げていた。
 だってそれは、俺はまだリリスの存在を知らなかったから。
 お前にキスされたり、頬擦りされたり、抱き締められることが本当に嬉しくて、幸せで仕方なかったんだ。これがレヴィだったらって思いもしたけど、この優しい甘い匂いが記憶に残ってるから、それだけでも嬉しかったんだよ。

『だからその…悪かったな。殴ったりして。オレのこと、嫌いになっちまってるだろうけど、オレは悪魔の中でも一番凶暴なんだよ。手が早くて、使い魔も何匹も殺っちまうんだけど…でも、お前にはちゃんと手加減してたんだぞ?これでも、気遣ってたんだ!』

 レヴィアタンにしてみたら、最大限の譲歩だったんだと思う。
 人間如きに大悪魔様が頭を下げるなんて…いや、実際には下げたりしていないけど、謝ることだって大譲歩だと思っても当然だと思う。人間なんてゴミ屑みたいにしか考えていない連中なんだ。
 だから俺はニッコリ笑うと、リリスを想うレヴィアタンの姿を目蓋の裏に隠して、白い悪魔の頬に両手を添えると、そのまま懐かしい、少しカサツイた唇に唇を重ねていた。
 吃驚するレヴィアタンに、目蓋を開いて、それから俺は小さく笑った。
 何度でも、お前が望むのなら何度でも笑ってやるよ。

「俺、レヴィアタンを嫌ったりしていないよ。だって、俺が愛した悪魔は、レヴィ、お前だから」

 ポロッと涙が零れた。
 ニッコリ笑ったままで、俺はポロポロと頬に幾つも涙の雫を零して、俺は胸の内をその言葉に託して心を吐露していた。
 きっと、この大悪魔は信じてはくれないだろうけど、それでもいいんだ。
 この想いだけは伝えないと…ルシフェルも言ってたじゃないか。
 せめて、その想いとやらを遂げてみせろってさ。
 遂げることなんかはできないだろうけど、伝えることはきっとできる。
 リリスと生きていく長い時間の中で、どうか、この邂逅を忘れないでくれ。何時か、ふとした瞬間でもいいから、俺がいたことを思い出して、少しでいいから懐かしんでくれ。
 それだけで、俺の心の奥でひっそりと蹲っている恋心が、少しでも報われると思うんだ。

『なんだと?オレを愛していたと言うのか??しかし、お前は人間だし、オレはお前に逢った記憶すらない…何を言ってるんだ』

 それは、レヴィアタンにとっても寝耳に水だったに違いないけど、お前はただ、忘れてるだけなんだよ。俺と過ごした僅かな日々だとか、俺の身体に残した幾つもの愛情の証だとか…全部、綺麗サッパリ忘れてるに過ぎないんだ。
 でも、俺が嘘を吐いて、ルシフェルと何かを企んでると思い込んでいるだろうけど、それでもいい。
 それでもいいから、俺を確りと見ていてくれ。

「嘘じゃないよ…俺、あの魔城で初めてレヴィアタンを見た日から、もうずっと恋焦がれていたんだ。レヴィに逢いたくて逢いたくて仕方なかった。だから、レヴィアタンの奴隷になれたときは凄く嬉しかったんだ、本当だぜ?」

 半分は本当だし、半分は願望だったけど、あの魔城で久し振りにレヴィに逢った時のことを思い出したら、それこそドキドキと胸が高鳴るから、聞こえちまうんじゃないかって、慌てて胸を押さえて顔を真っ赤にしてニコッと笑ったんだ。
 あの日の俺は、こんなことがあるとか全然判らなくて、レヴィに逢えただけで凄く嬉しかった。その気持ちを思い出したら、自然と顔が綻んでいた。
 そんな俺を、レヴィアタンは何か言いたそうに開きかけた口を閉ざして、眩しそうに双眸を細めて見下ろしていた。

「その後は…すぐにヴィーニーと交換されちゃったけどな」

 トホホホッと頭を掻いたら、レヴィアタンはすぐにムッとしたように顔を顰めて、それから、抱き締めている俺の身体をもっと引き寄せて、真っ白な睫毛が縁取る目蓋を閉じると、ルシフェルがそうしたように頬に頬を寄せて、腹立たしそうにコソリと呟いたんだ。

『アレは最大の不覚だったと今も後悔しているんだ。長かったけれど、漸く辿り着けたような気がする』

 レヴィアタンが何を言おうとしているのか判らなくて、俺はあの甘い匂いに包まれて、うっとしりしながらその声に耳を傾けていた。
 どんな内容でも、たとえそれがリリスのことでも、今の俺にはどれも優しく聞こえたに違いない。
 だってさ、今、レヴィアタンがこんなに近くにいるんだ。
 腕を伸ばせば抱き締めることも、キスをすることもできる距離に、あの白い悪魔の真っ白の髪と眉毛、スッキリした鼻筋に、男らしく引き結ばれた唇まであって、それだけで、凄く幸せな気分になれる俺は、安上がりな高校生なんだよ。畜生。

『オレも…そうだな、オレも一目惚れだったんだろう』

「それは嘘だ。だって、俺のことなんか一度も見なかったじゃないか」

 ムッとして唇を尖らせたら、レヴィアタンのヤツは照れたみたいに真っ白な頬に朱を散らして、俺の額に自分の額を擦り付けてきたんだ。

『馬鹿だな!嘘を吐けば、オレは地獄の業火で焼かれるんだ。まぁ、黙って聞いてろよ。大悪魔が人間に告るなんて、大事件なんだぞ』

「そうなのか?じゃぁ、その光栄に浴して黙ってるよ」

 間近にあるレヴィアタンの顔を見詰めるだけでドキドキしてるなんて内緒にして、俺も頬を赤くしてクスクスと笑った。
 大悪魔のレヴィアタン様が何を告白してくれるのか、楽しみだからこれ以上は何も言わずに聞いておくことにしよう。

『改まると居心地が悪いもんだな…まぁ、その。お前がオレに手料理を進めた時だよ』

「食い物か…」

 やっぱり白い蜥蜴に餌付けしておいてよかったとか、俺が密かに拳を握り締めていると、レヴィアタンはどうもそうじゃなかったらしく、コホンッと咳払いなんかしやがった。

『違う。お前の顔だ』

「へ?」

『お前が、オレに向かって笑った顔だ。あの顔を見たとき、手離したモノの価値に気付いて後悔した。その後に、お前を取り戻そうと、誰の所有物になったのか捜し回っていた矢先に…お前の主人はルゥだと言うじゃないか。オレは思い切り凹んだよ。勝ち目もないし、何より、どうしてオレが手に入れたいものは何時も別の悪魔の所有物なんだって腹立たしかった』

 それだって、最初は自分の手の中にあったのに…と、レヴィアタンは悔しそうに吐き捨てた。
 俺としては、あんまり驚きすぎて、どんな顔をしたらいいのか判らなかった。
 俺が凹んで悲しんでいた時に、レヴィアタンは俺を取り戻そうと躍起になってくれていたって言うのか?それがもし本当だとしたら、俺は、リリスの存在を判っているのに、俺はあんまり嬉しくて、もうこのまま死んでもいいかもしれないとさえ思ってしまった。

『ベヒモスは生きた人間は食わない。だから、混沌の森にお前を隠すことにしたんだ。暫くは、ルゥの目を誤魔化すこともできるだろうと思ってな。ベヒモスとの遣り取りは…お前に本心を知られたくないと思った、悪魔の照れ隠しだ。ベヒモスもそれに気付いたんだろう。あんなこと言いやがって…ッ。あの森でお前を眺めている日々は楽しかった。太陽みたいにコロコロよく笑って、だから、オレのお前への想いは募る一方だったってワケだ』

 …そうか、ベヒモスも役者だったワケだ。気付いてたんなら、早く言ってくれよ!
 あんな、慰め方をされたら、本当にレヴィに捨てられたって思っても仕方ないじゃないか!!
 はぁ…そうか、レヴィアタンは俺をもうずっと、好きだって想ってくれていたんだ。
 コイツなりに画策して、俺を手に入れようとしてくれてたんだな…それで、どうしてもダメだったから、とうとうこの領域まで連れ去ってくれたんだ。
 俺はまた、いや、今度は嬉しくてポロッと泣いてしまった。
 レヴィアタンはギョッとしたみたいだったけど、俺が泣きながら嬉しそうに笑っている顔を見て、ちょっとホッとしたような表情をして頬を摺り寄せてきた。

『お前は笑っている方がいい。泣かれると、どうすればいいのか判らないんだ。誰かを、その、な?愛したことがないんだよ、オレは。だから、優しくすることも判らない』

 それはレヴィの本心なんだと思う。
 じゃなければ、ルシフェルとの契約どおり、今頃レヴィアタンは地獄の炎に包まれているはずだから。
 でも、それだと話がおかしくなる。
 リリスは奥さんなのに、彼女を愛していないと言うのか?愛することが判らないまま、リリスを妻にして、長い時間をずっと一緒に過ごしているのか?…そんなことは、有り得ない。
 あの笑みは、確かに信じあって、心を許した相手にだけ向ける、愛情の表情だった。

『湯治の泉にいるルゥを見かけて、取り敢えず、まずは話し合いで譲って貰えるように頼むことにしたんだよ。で、話が纏まらなければ、別の方法をだな…ッ』

 レヴィアタンの顔が俄かに曇って、ハッとしたら、俺には熱は感じられなかったのに、レヴィアタンの腕が青い炎に包まれていたんだ。ビッシリと額に脂汗が滲んで、その苦しみ方は半端じゃないみたいだけど、でも、けして俺を取り落としもせず、尚且つ、絶対に口を割ろうともしないレヴィアタンに、俺は思わずプッと噴出しちまった。
 酷いヤツだと思うだろうけど、そうまでして隠したがっていることを、俺はとっくの昔に知っているんだ。なんか、レヴィアタンが可愛く見えるんだよ。

「違うだろ?レヴィアタンは端っから喧嘩を吹っ掛けるつもりで斬り付けたんだろ??」

 思わず上目遣いで見ながら、ウプププと笑ったら、ちょっと拍子抜けしたような白い悪魔は先端の尖った耳を項垂れたように垂れたけど、すぐにバツが悪そうに唇を尖らせたんだ。
 そんな仕種も凄く可愛いよ。

『なんだ、知ってたのか。ま、そうだよな。あのルゥが口にしないはずがないか。オレたち悪魔に話し合いなんてないからな。欲しいものは交換か、力尽くで奪い取るしかないんだ。ルゥの場合は、見守り続けている魂より他に欲しいものなんて何もないようなヤツだから、そんなヤツがアスタロトと何かで交換してまでも手に入れたお前を、絶対に手放すはずがないと思ったんだ。だから、まぁ、その…先手必勝ってこといで斬り付けて攻撃したワケだ』

 真実を話し出すと、レヴィアタンの腕を焼いていた青い炎は一瞬で消えてしまった。そうすると、傷も綺麗に癒えるから、地獄の業火ってのは怖いもんだなと思う。
 この大悪魔ですら成す術もなく、燃えているしかないんだから…
 でもそうか、そんな事情だったんだ。
 ルシフェルがそのことをどう思っているか、話してしまったら、またレヴィアタンは呆気に取られちまうんだろうなぁ。

「でも、斬り付けるのは穏やかじゃないよな。ルシフェルが死んだらどうするんだ??」

 眉を顰めて心配そうに見上げたのは、旧知の友を死なせてしまえば、心に深い闇を…ルシフェルが言ったことが本当なら、あんなに綺麗な一面の白い花畑を創造できる心があるはずなのに、レヴィアタンの心を投影した居城は、とても陰気で殺伐とした雰囲気が充満している。と言うことはだ、レヴィアタンの心には、俺なんかじゃ計り知ることのできない深い闇が蹲っているんだ。
 その闇に、さらに闇を重ねて、どこまで堕ちようってんだよ、馬鹿なヤツだ。

『ルゥは死んだりしないさ。オレもそうだぜ。身動きが取れなくなればソイツの負け、だから、ソイツの持ち物は勝者のものになるってワケ』

「なるほど…物騒だけど、命までは奪わないんだからいいのか。それが悪魔の遣り方なら仕方ないな」

 溜め息を吐いたら、ちょっとだけ、レヴィアタンは不機嫌そうに、何もかも見透かしてしまいそうな透明感のある黄金色の瞳で俺を覗き込んできた。
 う、ドキッとするじゃねーか!

『なんだよ、やっぱルゥが心配なんだな。オレを想ってるようなことを言って、本当は、やっぱりルゥが好きなんじゃないのか?!』

 どうしてそう言う結論に達するのか、やっぱり大悪魔様の心の中までは窺い知ることはできないけど、俺は呆れたように溜め息を吐いて言い返してやった。

「ルシフェルを死なせてしまったら、アイツは友達なんだろ?レヴィが寂しくなると思っただけだよ。それでお前、ちゃんと立ち直れるのかな…ってさ、悪魔の遣り方とか知らなかったし」

 まぁ、少なからず、あのお人好しの悪魔がいなくなるのは、俺自身だって寂しいとは思うけどな。

『…へー、じゃあオレのことを考えて、ってワケだな?』

「はぁ?そんなこと、当たり前だろ」

 レヴィアタンは何を言ってるんだと眉を顰めたら、白い悪魔は、なんと言うか、凄く綺麗な顔立ちをしているくせに、ガキ大将みたいな憎めないツラをしてニヤッと笑ったんだ。

『そうかそうか、じゃぁ、いいんだ』

 そう言って、俺の頬に思い切り頬擦りしてくるから吃驚して、また俺は目を瞠るしかない。
 7つの大罪の嫉妬を司る悪魔は、俺には理解不能の感情を持ち合わせてるみたいだ。
 愛を知らないと言った大悪魔は、少しずつ、俺に興味を持って、何時か俺が目の前からいなくなるときまでに愛を覚えたら、リリスが傍に居るんだから寂しくないだろうなと思う。
 愛を知るために、レヴィアタンが俺を選んだのなら…俺は、甘んじてそれを受け入れるしかない。
 優しいレヴィを心から愛しているけど、あれは【悪魔の樹】が見せた幻影だったとしたら、大悪魔であるレヴィアタンこそが真実なのだから、俺はこれからゆっくりともう一度、あの夢のように幸福な日々を築いていくしかないんだ。
 嬉しそうに笑って頬擦りをしてくるレヴィアタンに、俺は目蓋を閉じると、その白磁のような頬に口付けた。
 愛しているよ、と、言葉にできない想いを込めて。
 何時か、この想いが凍てついたレヴィアタンの心に届くように…

第二部 18  -悪魔の樹-

『レヴィアタンはいるか?!』

 俺が泣き止むのを待っていたルシフェルは、それから、不意に城内に響き渡るような大音声で薄情な白い悪魔を呼ばわった。
 思わずキーンッと耳鳴りのする頭を抱えて目を白黒させる俺にはお構いなしに、ルシフェルは綺麗な顔を壮絶に歪めて、影になっている場所、その暗黒を睨み据えている。
 その一言だけで、ルシフェルは他には何も言わなかったけど、それでも、今までに見たこともないぐらいには激しく怒っているみたいなんだ。
 どうして、ルシフェルも灰色猫も、こんなにも俺のことを想ってくれているのに、絶対に吐いてはいけない嘘を吐くんだろう。
 レヴィには俺がいないとダメだとか言って、本当は最愛のリリスがいるんだから、今の俺が、アイツの役に立つはずがないじゃないか。
 世界がおかしくなったのは、リリスと些細な喧嘩でもして、それがレヴィアタンの心に障っただけなんじゃないのか?

『…黙って入り込んだワリには、堂々とした態度だな?』

 ムスッと不機嫌そうに腕を組んだ白い悪魔が、ルシフェルが睨み据えていた暗闇からのっそりと姿を現した。何時からそこにいたのか、一部始終を見られていたのかとハッとした俺がレヴィアタンを見ると、そんな俺の、ささやかに怯えた表情を見て、一瞬だけど、眉を潜めた白い悪魔は、それから忌々しそうに舌打ちなんかするんだ。

『あ・た・り・ま・え・だ、この野郎。コレはオレのモノだと言った筈だぞ?お前が勝手にベヒモスのところに置きやがったから、仕方なく預けていたってのに、今度はこれかよ?なんてことをしてくれたんだ』

 わざとらしく区切った言い方は、どうも挑発しているようにも聞こえるんだけど…ハラハラしたように胸元を掴んでルシフェルを見上げると、ヤツはそんな俺なんか気にした様子もなく、見事な柳眉を顰めてフンッと鼻なんか鳴らしやがるんだ。
 あわわわ、それでなくても散々この目で見てきたんだ。凶暴で冷淡なレヴィアタンのことだから、きっと馬鹿にするなって怒り出すぞ!
 血を見る…と、俺が息を飲んだときだった。

『別に黙って連れ出したワケじゃないさ。中間地に帰ると言ったから、中間地に連れて来てやっただけだろ?』

 俺の心配は大きく的を外して、殊の外冷静にフンッと外方向くレヴィアタンが素っ気無く言うと、ルシフェルは『へー、そうかい』と言ってから、わざとらしく白い悪魔の冷静さにポカンと呆気に取られていた俺の頬に頬を寄せながらニヤッと笑ったんだ。

『じゃぁ、ご主人が迎えに来たんだ。連れて帰ってもいいんだよな?』

『…』

 あんなにどうでもよさそうに素っ気無かったくせに、ルシフェルがそう言うと、レヴィアタンはバッと振り返って、それから燃えるような激しい目付きをして、旧知の友であるはずの傲慢な悪魔を睨み据えたんだ。
 そんなものは蚊でも止まったぐらいにしか感じなかったのか、ルシフェルは素知らぬ顔をして俺の唇にチュッと音を立ててキスをすると、クスクスと、けして双眸は笑っていないってのに、薄笑いなんか浮かべるんだ!正直、超怖ぇぇぇ!!
 なんか、物言わぬ攻防とでも言うのか、目に見えない不可視の火花が炸裂しているように感じるのは俺だけじゃないはずだ!

『待たせちまったな。じゃ、帰ろうか?』

「る、ルシフェル…?」

 あっさりとそんなことを言ってくれるルシフェルの間近にある端正な顔を、俺は殆ど無意識に見上げていた。
 こんな寂しい場所から、俺、本当に帰れるんだろうか。
 我慢して今日までここにいたんだけど…もう、リリスと仲良くしているレヴィアタンを見たくないんだ。
 大事にしていた想い出までも破壊されたみたいで心が引き千切れてしまいそうだったけど、それでも、俺の中にあるレヴィへの恋心は消えてくれないから、ここにいるのはとても辛い。
 だから、俺は救いを求めるような眼差しをしていたんだと思う。
 ルシフェルの名前を呼んだ瞬間、俺たちの背後にあった幾つものシャンデリアが音を立ててガシャンガシャンッと崩れ落ち始めたんだ!
 とても豪華な品々で、ハッとした時には、回廊の端に飾られている綺麗な絵画が彫られた壷までが弾け飛んで、俺は思わず首を竦めてしまった。

『誰が連れ出していいって言ったんだ?』

 暗黒の冷気…とでも言うのか、今まで感じたこともないほどの殺意のようなオーラを感じて、俺は思わずゴクリと息を呑んでいた。
 な、なな…レヴィアタンはどうしたんだろう。

『…なんだと?』

 対をなす、魔界の実力者たちは、お互いの力量を知っているのだろうに、それでも、一歩も退かずに睨み合いを続けている。

『ここはオレの領域だ。たとえ、ルゥの所有物でも、オレの領域に入ったのなら、主の許しがなければ出て行けないことは承知済みのはずだろ?』

『あー、判ってるぜ?だから、連れて帰るってちゃんと報告してるだろ?』

 俺を抱きあげたままで肩を竦めるルシフェルに、レヴィアタンは酷く極悪な面構えをしてニヤッと笑ったんだ。

『ダメだね。そんな態度じゃな。どうしても連れて帰るって言うのなら…ルゥの大事な魂とやらを寄越せ』

 たぶん、最初から狙いはルシフェルの掛け替えのない宝物だったんだろう。
 その事実に、俺の心は今更ながら傷付いて、涙の代わりに溜め息が零れていた。
 俺はただの囮にすぎなかったってワケだ。

『!』

 その魂の所有者が俺であることを、実はレヴィアタンは知らないんだ。
 まさか、そんな条件を出すとは思ってもいなかったルシフェルは、一瞬言葉を飲み込んだが、次いで、不意にその目線を落としてしまった。
 その目線は、ひっそりと俺を見詰めている。
 判ってるんだ、そんな眼差しで見なくても。
 ルシフェルは傲慢で尊大な大悪魔のクセに、どうしたワケか、俺を気に入ってくれている。だから、今の言葉に誰よりも俺が傷付いている事実に、やっぱり誰よりも先に気付いてくれたんだと思う。

『…判った、オレの大切な魂をくれてやる。その代わり、お前は今後一切、その魂の持ち主に嘘は吐くな』

「!」

 ルシフェルの申し出に、驚いたように目を瞠る俺が口を開く前に、腕を組んで胡散臭そうなツラをするレヴィアタンが口を開いていた。

『なんだと?ソイツを連れ出す条件に、さらにお前が条件をつけるのか?』

『そーだよ。オレが大事に見守っている魂は、コイツだからな』

 そう言って、俺を軽々と抱き上げているルシフェルは、その両腕を差し出すようにしてレヴィアタンに掲げて見せたんだ!
 俺は思わずギョッとして、慌てたようにルシフェルの顔を見た。

『?!』

 でも、同じように驚いたツラをするレヴィアタンが、唖然として掲げられている俺を、金色の双眸で見詰めてきた。

『判ったか。あと、ムカついてもコイツを殴るんじゃねーぞ。今度、少しでも頬が、いや身体のどの部分でも、殴られているのを目にしたら、今度こそお前の心が崩壊しようがどうしようが、ここで一戦交えてやる!』

 一瞬だけ、名残惜しそうに俺を見たルシフェルは、それから呆気に取られているレヴィアタンの、ジャラジャラと宝石やらなんやらが飾る胸元に、俺の身体を押し付けやがったんだ。
 勿論、冗談じゃないと思っているレヴィアタンが俺を抱きとめてくれるワケもないから、ルシフェルが腕を離したと同時に、襲ってくるだろう痛みを覚悟して俺はギュッと目蓋を閉じていた…けど、その衝撃は訪れなかった。
 それどころか、焦ったツラをしているレヴィアタンの顔が間近にあって、却って違った意味で俺の心臓は高鳴ってしまった。
 こんな状況なのに、高鳴る俺の心臓って…いや、もうちょっと自重しろよ、俺。

「る、ルシフェル!…お前まで俺を騙すのかよ」

 胸を高鳴らせている場合ではないんだ。
 ここに置いて行かれるなんて予想外だったから、俺は、リリスに微笑むレヴィアタンの顔ばかり思い出して、腕に抱き止めて貰っておきながら、嫌だと暴れて、スッと身体を離したルシフェルを恨めしそうに睨んでやった。
 そうすると、傲慢な悪魔はらしくもなく爽やかな笑みをニッコリ浮かべて言いやがったんだ。

『誰もお前を連れ出してやる…なんて約束はしてないぜ?そもそも、お前が選んでここに来たんだろ。だったら、最後まで、その想いとやらを遂げてみせろよ』

 それは…リリスがいるのに無理に決まってるじゃねーか。あれは、まだレヴィアタンに伴侶がいるなんて知らなかったから、俺はきっと、レヴィを愛し続けると豪語できたんだ。
 酷いよ、ルシフェル。
 誰か他に想い人がいる相手に、自分の想いを遂げるなんて…俺はそんな酷いことはできない。きっと誰かが傷付くし、そして、それ以上に、自分自身が傷付くに決まっている。
 あの深い愛に満ちている2人の間に、どうして、人間の俺が介入できるって言うんだ。
 ここから、どうか、連れ出して欲しい…

『せめてレヴィアタンに聞いてみろよ。ソイツはたった今、オレと契約を結んだんだ。二度と、お前に嘘は言わないし、殴ることもしないんだぜ?』

 ルシフェルは腕を組んだままニヤニヤと笑った。
 その台詞に、何か言いたそうな表情で俺を見下ろしていたレヴィアタンは、ハッと我に返って、それからバツの悪そうなツラをしてギッとルシフェルを睨んだみたいだったけど…それでも、俺を抱きとめてくれた腕の力は抜かなかった。
 どうやら、磨かれた床に激突しなくてもすみそうだ。
 ホッと息を吐いたと同時に、そう言えば…レヴィアタンは、一方的とは言え、契約したんだ。いや、違うな。一方的じゃない、レヴィアタンが進んで契約を持ち出したんだから、この場合は、非は我侭な白い悪魔にあると思うぞ。うん。
 俺が、傲慢で尊大で、誰の言うことにも耳を貸さないほど唯我独尊的な大悪魔だと言うのに、心を傾けて大事にしていた魂だと知ったレヴィアタンは、旧知の友を睨みながらも、少し動揺しているようだった。

『…オレは、冗談のつもりだったんだ。何千年も前から、お前が嬉しそうに話していた魂を見たいと、そう思っただけなんだ』

 それは、あれほど我侭なレヴィアタンからは想像できない台詞だった。
 本気で喧嘩をしても、何があっても、やっぱりレヴィアタンにとってルシフェルは好敵手であり、大事な親友なんだろう。
 動揺したように、愕然としたような表情で自分を見詰める黄金色の双眸を見詰め返して、ルシフェルはそれでもクスッと笑ったみたいだ。
 何ものにも替え難い宝だと…ルシフェルはレヴィアタンに語っていたそうだ。
 その宝を、まさかこんな風に、いともアッサリと自分に寄越すとは思っていなかったのか、だから余計に動揺して、どうしたらいいのか判らないと、その気持ちが手に取るように良く判った。

『じゃぁ、破棄するか?それで、光太郎もオレに返せるのか??』

『!』

 ハッとしたように、レヴィアタンは反射的に俺を抱き締めた。
 あれほど、機嫌が悪ければ殴ったり、気に食わなかったら突き放していたくせに、まるで俺のことを…手離せないと言ってるみたいじゃないか。
 そんなのはズルイんだぞ。
 今更、僅かでも俺を喜ばせようとか…思ってるワケはないんだけど、それでも俺は喜んで、そして酷く傷付くんだ。
 リリスがいるのに…その傍らに俺を置くつもりなのか?
 俺は、古い考え方かもしれないけど、一夫一婦制を重んじてるんだぞ。
 誰か他の人がいるのに、ソイツに寄り添えるほど、俺の心臓には毛は生えてないんだぜ。

『嘘はダメだぞ、レヴィ。オレが大事にしている魂を手離せないだろうと踏んで、交換条件に出したつもりなんだろうが…お生憎さまだな。オレにとってその魂は全てで、その魂が悲しむことをオレが望むと思うのか?冗談じゃない。そんな姿を見るぐらいならくれてやるよ』

 ルシフェルの俺の中にある魂を想う気持ちは、愛だとか恋だとかを超越していて、何よりも最優先だと前に言っていたことを思い出した。それなら、どうして…ここにいることをこんなに嫌がっている俺を残して行くんだと、前の俺ならそう思ったに違いない。
 でも、それは違う。
 ルシフェルは契約を持ちかけたレヴィアタンを巧く利用して、俺が有利になる契約を結んでしまったんだ。破棄することもできるんだろうけど、何故か、レヴィアタンはそれに頷かなかった。

『だから、オレに代わって、ちゃんと大事にしてやってくれよ。オレが見守り続けた魂なんだ。お前なんかの薄汚れた心の領域に置いて行くのは忍びないんだがな』

 最後は本気で嫌そうに言い放ったルシフェルだったけど、レヴィアタンはそれには何も言わなかった。
 それよりも、自分とルシフェルが求めたモノが一緒で、今ではそれが自分の手許にあることに、静かに驚いているみたいなんだ。

『…別にオレは、お前の大事にしている魂が欲しかったワケじゃない。オレは…オレは、その、コイツを気に入ったんだよ』

 まるで語尾は消え入るような掠れた声で呟いて、それから、まるで高血圧のひとみたいに、レヴィアタンは急に牙をむいて怒鳴ったんだ。

『ああ、そーだよ!ルシフェルの言うとおりだッ。オレはお前の大事な魂なんか、これっぽっちも興味はない。ただオレは…コイツが欲しいんだ!』

「!」

 悔しそうに歯噛みしているレヴィアタンを見上げて、俺の双眸は咳を切ったみたいにポロポロと涙を零してしまった。
 その声も、表情も、髪の色も何もかも…全部レヴィなんだけど、心だけがレヴィアタンと言う海の魔物で、俺のことを知らない大悪魔のはずなのに、まるでレヴィみたいに俺を欲しいと言ってくれた。
 たとえ、心の中にリリスと言う大切な存在を隠していたとしても、今だけは、俺は素直に嬉しいと思って泣けて泣けて仕方なかった。
 でも、いつか…俺はリリスよりも先に、お前の前から去る日がくると思う。
 レヴィに誓った永遠なんか、本当は俺のほうこそ嘘だったんだけど…それでも、この目蓋が閉じて、もう二度と目覚めないその時まで、きっと、俺はレヴィとレヴィアタンを忘れないと思う。
 その次の器に魂が入ったとしても、それはもう今の俺ではないから、俺に永遠なんてないんだけど…それでもレヴィ、瀬戸内光太郎で在り続ける間は、精一杯、お前を忘れずに愛し続けるからな。
 たとえお前が、リリスを愛するその片手間で、俺を気に掛けてくれているだけでもいいんだ。
 俺はきっと、忘れないから。

『あーあ、畜生。人間に告る日がくるとはなぁ…まぁ、その人間はオレのことを毛嫌ってんだけどな!』

 フンッと外方向くレヴィアタンに、ルシフェルはクスクスと笑った。
 毛嫌っているヤツが、嬉しくて泣いたりするかよ…って俺も思うんだけど、それでも何も言えずに鼻を啜ってしまう。

『殴ってたんだろ?そりゃ、嫌われて当然だ。これからは精一杯、大事にしてやれよ』

『オレの愛情表現は暴力だ!…どうやって大事にしたらいいのか、判らねーよ』

 冗談めかして言って、それは照れ隠しだったのか、知ってるくせに聞くんじゃねぇと言いたそうにルシフェルに噛み付いたけど、そんなもの、蚊が止まったほどには…って、ルシフェルはどれほどレヴィアタンを歯牙にもかけず、あしらってんだと呆れてしまった。それでも、2人は旧知の友で、それはこれからも永遠に続くんだろうなぁと思ったら、ちょっと羨ましかった。
 そして俺は、やっぱりリリスが羨ましいなぁと思うんだ。
 どうして俺は、人間だったんだろう。
 リリスよりも先にレヴィに、レヴィアタンに逢っていたら、もう少し、この運命は変わっていたかもしれないのに…俺は悪態を吐きあう2人を交互に見詰めながら、諦めたように溜め息を吐いていた。

第二部 17  -悪魔の樹-

 ふと、目が覚めたら豪華な天蓋付きでふかふかしたベッドの上で寝かされていた。
 定まらない焦点を必死で合わそうとして暫く彷徨わせていた視界は、すぐにグニャリと歪んで、陰気な城内では不似合いなほど真っ白な室内の中で、俺は羽毛の柔らかな布団を被って洩れそうになる嗚咽を噛み殺した。
 誰もいないところに行って声を上げて泣きたいのに、そんなこともできない小心者の俺は、ただ唇を噛み締めて、何処かも判らないこんな明るい場所で独りで泣くことぐらいしかできないなんて…どうかしてる。
 俺もどうかしているけど、レヴィも十分、どうかしてると思う。
 ちょっと、傍目にはロリコン…?て疑っちまうのは致し方ないとしても、あんな冴え冴えとした綺麗な子を、心の領域だと言う安息の場所に隠しているくせに、俺に構うなんかホント、どうかしてると思う。
 でも、そこまで考えて、俺はグズグズと鼻を啜りながら気付いたんだ。

「あ、そうか。レヴィはちょっとした退屈凌ぎで俺たちの世界に来たんだったな」

 それを、灰色猫がお節介を焼いて【悪魔の樹】の契約で、俺と出逢わせたんだったっけ。
 なんだ、どちらにしても、悪魔の気紛れに巻き込まれたってだけじゃねーか。
 泣き腫らした目を擦りながら上半身を起こした俺は、ハラハラと天井の辺りから零れ落ちている霧が結晶したような花びらを眺めていた。
 花びらははらはらと零れ落ちると、純白の布団の上に落ちるか落ちないかのところで淡いピンクにパッと霧散して、甘い桃のような匂いを散らしているんだ。
 それは懐かしいレヴィの匂いだったから嫌じゃないけど、今は吐き気がするほど嗅ぎたくない。
 冗談半分の気紛れに付き合えるほど、人間の寿命は長くないんだから…こんな酔狂な遊びはナシにして、もう俺を元の世界に帰してくれないかな。
 レヴィアタンは勘違いしているんだ。
 記憶の中におぼろげに残っている俺の存在が気になるだけなんだから、あの綺麗なリリスの傍にずっといて、俺を人間が暮らす世界に捨ててくれたらいいのに…そこまで考えてたら、途端にまた「うっ」と言葉に詰まって、そのまま泣きたくなってしまう。

『お兄さん!』

 バンッと木製の重々しい重厚感のある扉が外側から開いて、鼻の頭を真っ赤にして、目許からポロポロと涙を零している俺は驚いて顔を上げたけど、俺以上にショックを受けて、息を呑んだ灰色猫は一瞬立ち止まったけど、それでもすぐに脱兎のような素早さでベッドに這い上がると、ふかふかの猫手でギュッと俺を抱き締めてきたんだ。

『お兄さん!心配したんだよ、こんな場所に閉じ込められて…ベヒモス様が案じられていたとおりになってしまった!』

「灰色猫…」

 心配そうに見上げてくる薄汚れた灰色の猫は、金色の双眸を悲しそうに細めながら俺を見上げてくるけど、今のドロドロに腐った根性に成り下がっちまっている俺は、その顔を見るのも、柔らかい身体に触れるのも嫌で、唇を噛み締めて振り払ったんだ…とは言っても、何時だって俺のことばかり考えてくれている灰色猫を突き飛ばせないほどには、コイツを恨んでいないのも確かだ。
 邪険に、それでも静かに疎まれた事態に、灰色猫はベッドの上にちょこんと尻餅をついたような格好で耳を伏せて驚いているみたいだったけど、途端にハッとして、それから寂しそうにピンッと張っていた髭が萎えたみたいに垂れてしまう。

『お兄さん…』

「ごめん…灰色猫。今はお前の顔も見たくないんだ」

『どうしてだい、お兄さん。レヴィアタン様に何か、酷いことをされてしまったのかい?』

 酷いこと…なのか、それとも、本当は他愛のないことなのか…俺には判らないし、今更、そんなことはどうでもよかった。
 ただ、少なからず、こんな風に俺を案じてくれる灰色猫も、やっぱり悪魔の使い魔で、優しい素振りで俺を騙していたんだと思ったら、できればもう、何も信じずにここから逃げ出せたらいいのにと思ってしまう。
 俺は滔々と涙を零したままで、何も言わずに首を左右に振るしかない。
 信じていた…ああ、きっと、ルシフェルもベヒモスも、みんな知っていて黙っていたんだ。
 ちっぽけな人間の小さな恋心を、ただ、アイツ等は嘲笑うことをせずに、俺が諦めるまで見守っていたに過ぎないんだ。
 【約束の花】なんて嘘っぱっちで…だから、何時まで経ってもルシフェルは【魔の森】に行こうとしなかったじゃないか。
 あっさり騙されてる俺って…もう、泣きたいだけ泣いたから、涙も出ないよ。
 グスッと鼻を啜ったら、灰色猫は居た堪れないような顔をして、寂しそうに『にゃあ』と鳴いた。

『お兄さん。どうか、よくお聞き。ここはレヴィアタン様の心の領域ではあるけれど、あのお方はけして安息など求められてはいないんだよ。だから、ここは魔界と寸分変わりない。油断してはダメだよ』

 それだけ言うと、灰色猫は逡巡して、それから諦めたみたいに肩を落としてベッドから降りてしまった。
 どうしても、今の俺が自分の声を聞いていないと、ちゃんと判っていたんだ。
 去っていこうとするその後ろ姿には不安があったし、今、すぐにでも呼び止めて「レヴィに奥さんがいた!」と言って、全部を灰色猫のせいにして、それから、あの小さな猫に慰めて欲しい…なんて、弱虫毛虫の俺は縋りそうになる気持ちを叱咤して、灰色猫を呼び止めなかった。
 この場所でも、いや、本当はこの魔界の何処でも、信じられるヤツなんかいなかったんだ。
 何を信じて…どうして俺、悪魔なんか信じてしまったんだろう。
 まるで穏やかだった気持ちが一変して、俺は全てが、この暗黒で陰気なレヴィの居城みたいに空虚で、陰惨な魔界みたいだと思った。
 もう、何も信じない。
 だって、全ては嘘だったんだから…

 偽りに塗り固められたような幸せだった日々すらも封印して、それからの俺は気持ちの持ち方を変えることにしたんだ。
 何処に行っていたのか、ある日、ふらりと戻ってきた白い悪魔は上機嫌で俺を抱き寄せて、『ただいま』とかおざなりな挨拶をして、気が済むまでキスをした。俺は、ドロドロに恨んでいたから、その舌先を噛んでそれに抵抗したけど、不意に激怒したレヴィアタンに殴られてしまったんだ。
 レヴィアタンはハッとしたように慌てて殴った拳を引っ込めたけど、それでも俺は、だからと言ってそれに反抗なんかしなかった。
 口許から流れる血を拳で拭って、俺はそのまま目線を落としていた。
 もともと、レヴィアタンと言う悪魔は凶暴で嘘吐きで、悪魔らしい悪魔なんだとリリスが教えてくれた。
 だから、レヴィからでは考えられないんだけど…って、アレは【悪魔の樹】の契約のおかげで穏やかになっていたってだけで、レヴィこそが最大の嘘だったのに、馬鹿な俺は嘘のアイツを愛してしまったんだ。本性であるレヴィアタンは冷酷で凶暴だから、気に入らなければ必然的に手が出るんだけど、それでも頭の何処かに人間は脆いと学んでいるのか、ハッとしたように一発殴っただけで止めてしまう。
 この城で暮らす多くの使い魔は、最初の日にリリスが言ったように一矢報いてやろうって考えている連中ばかりだから、そんなレヴィアタンの態度にコソリと驚いているみたいだ。
 それでも、レヴィアタンが帰って来てからと言うもの、日々生傷を作っている俺を見て、こんな傷で済んでいるのは俺ぐらいだって、リリスは嘆息して首を左右に振っていた。
 たぶん、奥方としては愛人が大事にされるのが辛いんだろうな。
 でも、さすがに正妻だと言うだけあって、レヴィアタンはリリスだけは殴らないみたいだ。
 そりゃ、そうだよな。
 何度目かに殴られて、ぶれる頭を落ち着かせようと中庭…なんかあるんだ、さすが灰色猫が魔界みたいなものだと言っただけあって、ここでもおかしな空間が広がっているんだろう。俺はだだっ広い中庭に入り込むと、噴水のある場所にへたり込んで、噴水の水に浸した布で頬を冷やしながら休んでいた。
 アイツは俺を殴ると、決まって後味の悪そうな顔をするくせに、そのまま何も言わずにやっぱりふらりと姿を消してしまう。その日もそうだったから、俺が逃げるみたいにして中庭に腰を落ち着けて、ジンジンと痛む頬を押さえていたら、小さな笑い声がしてハッと姿を隠したんだ。
 俺がその茂みにいることを知っているのかいないのか、いずれにしても、レヴィアタンとリリスはお互いに信じあったように目線を交えて、それから優しそうに微笑んでいた。
 リリスの陶器のようにすべらかで綺麗な頬に指先を伸ばして、レヴィアタンは見たこともないほど穏やかな、まるでレヴィがそこにいるようなツラをしてリリスを見詰めていた。
 そんなツラをしてしまうほど、リリスを信じて、それから…愛しているんだから、人間の奴隷なんかとは比べようもないのにさ。
 リリスは要らない心配をしているに過ぎないんだよ。
 あの日の2人の姿を見てから、いや、正確にはあの日のリリスを見詰めるレヴィアタンのツラを見てから、俺の心は更に頑なになって、レヴィアタンと言う白い悪魔に笑いかけることはなくなっていた。
 レヴィアタンにはそれが気に入らないのか、以前よりも不機嫌そうなツラをして…そうだ、この心の領域とか言う場所に来てから、レヴィアタンの笑っている顔を見ることがなくなったと思う。
 ふらりと戻って来たあの日に、冗談めかして『ただいま』と言って、嬉しそうに俺にキスをしたあの日以来、俺はレヴィアタンの笑顔を見ていない。
 その反動みたいに、リリスに微笑みかける白い悪魔を目にすることはあったけど、それでも、俺はもうそれを視界に入れないようにしていた。
 もし、そう言うことを認めてしまったら、我慢しているモノが堰を切って、忽ち俺は声を上げて泣いてしまうと思うから。
 俺は人間の奴隷…なんだけど、一応、レヴィアタン様の愛人の称号らしきものを貰っているせいか、他の使い魔たちから手を出されることはなかったけど、やっぱり奴隷に変わりはないから下働きとして扱き使われている。
 今日も、何時もみたいに使い魔の独りに手渡された山のような書物を抱えて、ふらふらと廊下を歩いているんだけど…この居城にはレヴィアタンの使い魔が山ほどいるんだが、そのどれもが屈強そうな悪魔たちに見える。そうしてみると、灰色猫はレヴィアタンの使い魔の中でも一風変わっているんだなと判った。
 邪険に振り払ってしまったあの日から、とうとう姿を見ることのなくなった灰色の薄汚れた猫が懐かしくて、俺は極端に多い書物を落とさないように必死で図書館に運びながら、そっと双眸を細めて寂しがっていた。
 だから、前なんか全然、これっぽっちも見ていなかった。
 それが悪かったんだろう、イキナリ、何かにぶつかってしまってすっ転んだ俺はバラバラと幾つもの価値のある書籍を全部落としてしまったんだ。

「わわ!ご、ごめんなさいッ」

 性的な意味での手出しはされないものの、この城にいる連中は誰もが荒くれているから、こんな失態をすると問答無用で暴力による制裁を受けるもんだから、俺はギュッと目蓋を閉じて慌てて飛んでくるだろう拳の衝撃を覚悟した…んだけど、それはなかなか襲ってこなかったんだ。
 何か、時間差とか、新手の嫌がらせかと思って閉じていた目蓋を開いたら…

「る、ルシフェル…」

 ハッと目を瞠ったのは、どーせ、俺を騙した大悪魔の独りなんだから、完全無視を決め込めばよかったのにさ、なんとも言えない双眸を見てしまったからだ。
 悔しそうな、切なそうな…それでいて、静かに怒り狂っている双眸の奥には、何千年も生きて来たに違いない、底知れぬ何かを秘めて淡々とした炎が燃えているみたいだった。

『…だから、言っただろ?白い悪魔に逢うなってさ。こんな薄汚いところに閉じ込められちまって。心の領域は、それを持つ悪魔の性分で形成されているんだ。お前は…こんなところにいるべきじゃない』

 静かだけど、確実に怒っているのが判る口調に、それでも俺は、ソッと目線を伏せるぐらいしかできないでいた。
 大悪魔に俺が不似合いだってことは判っているんだけど…今は、どんな悪魔だって信じたくない。
 何を信じても、結局は全てが嘘なんだ。
 黙りこんでいる俺に、ルシフェルは小さく溜め息を吐いた。

『灰色猫が泣き付いてきたぞ。お前、灰色猫まで拒絶して、どうするつもりなんだ?』

 その言葉にも、俺は何も答えなかった。
 これはもう、レヴィアタンで培った悪魔の対処方法だ。
 何も言わなければ、大概の悪魔も使い魔も焦れて殴るか、殴らなくてもすぐに興味を失くして放っておいてくれる。殴っても、俺の反応がなければそのまま捨てて行くんだ。
 ルシフェルだって悪魔に変わりはないんだから、さっさと何処へでも行っちまえ。

『オレも無視するのか。何があったのか知らないが、今のお前の魂はなんだ。まるで…』

 どーせ、薄汚くなってるとでも言うんだろ?
 いいよ、どんな魂でも。
 何が純粋だよ、人間の魂に純粋もクソもあるかってんだ。
 この胡散臭い大悪魔も、早く何処かに行けばいいんだ。俺のこと、心配しているようなツラをして、平気で騙していたくせに。
 どうして、言ってくれなかったんだ。
 レヴィアタンには既に想い人がいる…ってさ。

『まるで、力を失って、今にも消えてしまいそうだ。こんな終わらせ方をするために見守っていたんじゃないぞッ』

 ギリッと、ルシフェルは奥歯を噛み締めたみたいに鼻に皺を寄せて、なまじ綺麗な顔立ちだから、その激怒したツラはレヴィアタンよりも壮絶に見えた。
 青褪めて、声もなく見上げる俺を見下ろしていたルシフェルは、ふと、その表情を和ませて溜め息を吐いたんだ。

『お前、もうレヴィアタンを愛していないのか?あんなに光り輝いていたのに…見ているオレをあんなにも幸せにしてくれていたのに…』

 何があったんだと、傲慢で身勝手なはずの大悪魔は、ひっそりと呟いた。
 千年以上も前から俺を見守っているなんて…それだって嘘に決まっている。
 何もかも嘘で、そうして、信じ込んでいる人間を見て嘲笑っていたに違いない。

「ルシフェル様、俺に何か御用ですか?御用がなければ、もう行っても構いませんか」

 努めて、冷静に、淡々と言った。
 ルシフェルの双眸を見据えて言ったのなら天晴れなモンなんだけど、小心者の弱虫な俺は、わざとらしく落ちている書物に手を伸ばして、忙しいんだから、構うなと全身で物語ったつもりだった。
 でも俺は、大悪魔を甘く見ていたんだ。

『なるほど。お前がそう言う態度に出るなら、オレにも考えがある。人間は恩知らずが多いんだな!』

 キッパリ言い切って、どうして、俺が悪く言われるんだよ?!
 騙していたくせに、馬鹿みたいに信じて、レヴィを愛し続けていた俺を見て、嘲笑っていたくせに!
 冷淡な眼差しで俺を見下ろすルシフェルをキッと睨み据えて、俺は口を開こうとした。
 騙したのはお前たちじゃないか!…でも、俺はそうしなかった。
 睨み据えただけで、言葉が出なかったんだ。
 ルシフェルが何かしたとか、そう言うことじゃない。
 ただ、俺は唇を噛んで、ルシフェルの暗黒の双眸から目線を外し、やっぱり落ちている本を拾おうとした。その腕を、焦れたようにルシフェルは掴んでいた。

「?!」

 大概の悪魔は、そんな風に小生意気に睨む人間の奴隷の相手なんかしない。
 それは、レヴィアタンもそうだったし、アスタロトもそうだった。
 でも、ルシフェルは違ったんだ。
 俺の腕を掴んで、問答無用で立ち上がらせると、驚愕に目を瞠る俺が慌てて暴れるのを見越していたのか、そのまま抱き上げたんだ。
 間近で見るルシフェルの表情は激しく怒り狂ってるのが手に取るように判るけど、俺が睨んだ行為で、何故かほんの少しなんだけどホッとしているみたいだった。
 俺が、何もかも全て諦めて、心を閉ざしていると悟られてしまったんだな…

『こんなに頬が腫れて…光太郎さ、殴られてるんだろ?』

 軽々と俺を抱き上げているルシフェルは、そうして、冷たい指先で俺の頬に触れてきた。
 それを疎んで顔を振ればいいのに、ここに来て、久し振りに触れた温かい心遣いに、馬鹿な俺はまたしてもまんまと騙されて、ポロッと涙を零してしまった。
 どうして、レヴィは俺に永遠を求めたんだろう。
 どうして、レヴィは俺に愛を求めたんだろう。

「ルシフェル…どうして、悪魔はみんな嘘吐きなんだろう」

 ポロポロ泣きながら、思わず言ってしまった台詞に、傲慢が服を着ているはずの大悪魔はハッとしたような顔をして、それから、何処か痛いような…切なそうに双眸を細めて、やわらかく俺を抱き締めてくれたんだ。

『どんな嘘を吐かれたんだ?だが、その嘘は、お前の心を砕くぐらいには強烈だったんだろうな』

 それが許せないと、ルシフェルはそうして、魔界の貴族とは思えないほど、忌々しげに舌打ちをした。
 誰も信じたくないし、灰色猫ですら拒絶したのに…魔界に君臨するこの大悪魔を、少しでも信じようとか思ったワケでもない。できれば、このまま元の世界に戻してくれればいいのにと思ったんだ。
 身体を縮めるようにして背中を丸めた俺を、ルシフェルは何も言えずに抱き上げた腕に力を入れた。
 両手で双眸を覆うようにして、声も出せずに泣く俺の頭に頬を寄せるルシフェルは、そうして無言で俺の静かな嗚咽を聞いているみたいだった。

第二部 16  -悪魔の樹-

 急に無口になって俯いてしまった俺に焦れたのか、レヴィアタンは暫く無言で俺を見下ろしていたけど、苛々したように『チッ』と舌打ちしたみたいだった。

『…そんな悪魔のことは忘れてしまえばいい』

 忌々しそうにポツリと呟いたレヴィアタンの顔を見上げて、その時になって漸く、俺は海の大悪魔が悲しそうな表情をしているのに気付いたんだ。てっきり、不機嫌そうにイラついた、何時ものあの表情だとばかり思っていたから、却って吃驚してしまった。
 その表情は、とてもレヴィに良く似ていて、だから、忘れようとする俺の心が揺らいでしまう。

「ああ、もう忘れようと決心したよ。だから、俺は元の世界に戻る」

 決意を秘めてそう言ったつもりだったのに、未練がましい俺の心が本人の気持ちを無視
して、涙腺を弱くしてしまうから…ポロッと頬に涙が零れてしまった。
 レヴィアタンはソッと真っ白の眉を顰めて、俺の頬に零れ落ちた涙を指先で掬った。

『中間地に戻るのか?』

 俺たちが住んでいる世界をここでは【中間地】と言うのなら、俺はそうだと頷いて、この網膜に確りと忘れなければならない大悪魔の顔を刻み込むつもりで見詰めていた。
 もう二度と、俺がこの大悪魔に出逢うことはないだろうし、愛した優しいあの白い悪魔に回り逢うこともないんだろうなぁ…何時か、そんなことはないかもしれないし、その時の俺はもう、今の俺ではないんだけど、いつか、俺が生まれ変わって、もう一度レヴィに出逢えることがあるのなら、今度こそ、俺はこの愛しい温もりを手離したりなんかしない。
 ジャラジャラと胸元を飾る宝飾品を避けるようにして、俺はレヴィアタンの胸元をギュッと掴んでいた。
 さようなら…口にすれば簡単な5文字の言葉なのに、どうして、強張ったみたいに口が開かないんだろう。
 心が拒絶するんだろう…

『そうか…お前は面白い人間だった。オレが中間地まで連れて行ってやるよ』

 そう言って、レヴィアタンは俺をギュッと抱き締めて、天高く舞い上がろうとするから、俺は苦笑しながら最後の悪態を吐いてやった。

「断る。どーせ、また嘘なんだろ?俺、ベヒモスに戻してもらうからいいよ」

『…悪魔は薄情で嘘吐きだが、今度は本気だ。オレだって、そんなに薄情ばかりじゃないんだぜ?』

 レヴィアタンは、ここに来て初めて、俺に向かって静かに笑った。
 どの顔も、本当は悪魔なんだから信じられない、胡散臭さがあるんだけど、それでも、これで最後なんだから、もう一度ぐらいは騙されてやってもいい…とか思うから、ルシフェルから悪魔に骨までしゃぶられるんだと悪態を吐かれるのかもな。
 それでも、俺は…もう少し、この大悪魔の傍にいたかったんだ。
 プッと笑って、俺は目蓋を閉じると、レヴィアタンの胸元に頬を寄せて、その逞しい背中に両腕を回して、何処へでも連れて行けと態度で応えることにした。
 レヴィと一緒なら、何処へだって行けると、信じていたあの頃のように。
 俺は、この嘘吐きで薄情な…懐かしい、あの甘い香りで包んでくれる、この大悪魔とも何処へでも行ってやろうと思ったんだ。
 俺の意思を間違えることなく受け止めたレヴィアタンは、縋るように抱きついている俺の身体をギュッと抱き締めて、天高く舞い上がり、眩暈のする速度で俺の知らない場所まで飛んで行った。

 寒さこそ感じなかったものの、重力は感じていたから、ジェットコースターか何かに乗った後のようにフラフラする頭が漸くスッキリしてきたころ、レヴィアタンはゆっくりと着地したみたいだった。
 ギュッと閉じていた目蓋を開いて目を開けたら、そこは、一面に真っ白な花が咲いた小高い丘のようなところで、ああ…俺、とうとう天国まで来てしまったのかと思ったぐらいだ。

『ここは魔界と天界との間の場所だ』

「…げ。それが中間地なら、俺の住んでいる場所とは違う…って、お前、また騙したな」

 ハッとして胡乱な目付きで白い悪魔を見上げると、ヤツはフンッと鼻を鳴らしたけど、すぐにニヤッと笑って不貞腐れている俺の顔を覗き込んできやがったんだ。

『騙してなんかないぜ?ちゃんと、中間地に連れて行ってやるって言っただろ?』

 それはそうだけど…俺は溜め息を吐いて、それから抱き締める腕の力を緩めたレヴィアタンから身体を離しながら、やわらかい、優しい甘い匂いのする花が咲き乱れる一面の白を見渡してみた。
 その甘い匂いは桃のような、レヴィの匂いに良く似ていて、ここで一生を過ごしても悪くないなぁ…なんて、恐ろしいことを考えてしまった俺はハッとして、慌てて頭を左右に振っていた。
 それでも、一面の白は、傍らに腕を組んだ姿勢で肩を並べる漆黒の衣装の白い悪魔を想起させるから、こんな場所でレヴィの記憶だけを宝物にして生きていけたら、それはそれで幸せだろうなと考えた。

「ま、いーや。ここは綺麗だし、懐かしい匂いがするから、迎えが来るまでここにいるよ。レヴィアタン、有難う」

 双眸を細めて同じように一面の白を見渡していたレヴィアタンは、途端にムッとした顔をしてそんな俺を見下ろしてきたから、首を傾げるしかない。
 なんで、そんな顔で俺を見るんだ?

『迎えなんか来るかよ。誰が来るんだ?お前を捨てた悪魔か??』

「いや、そうじゃないけど…たぶん、灰色猫が来てくれると思う」

 俺の台詞に明らかに馬鹿にしたみたいに腰に手を当てて、レヴィアタンは鼻先で笑ったみたいだ。
 むむ、なんでそんな顔をするんだよ?さっきから、いくら大悪魔だからって失礼だぞ。
 何か言ってやろうと開きかけた口を、俺は唖然として閉じるしかなかった。
 何故ならそれは、レヴィアタンが悪魔らしい邪悪な顔をして笑ったからだ。

『灰色猫だと?この場所に?…ここはルシフェルですら入ることはできないんだぜ』

「…なんだと?」

 内心で、灰色猫が駄目なら、問答無用で、あの傲慢でお節介なもう1人の大悪魔が来るだろうって、勝手に高を括っていたから、俺はレヴィアタンの邪悪な顔を見上げて訝しむように眉を寄せた。
 すると、真っ白いイメージの大悪魔様は、愈々、邪悪さにより磨きをかけて、ニヤッと笑ってくれたんだ。

『この場所は中間地に張り巡らせたオレの領域なのさ。オレが許した者以外は立ち入れない。たとえそれが、大悪魔だとしても、一歩でも立ち入れば地獄の業火に焼かれるだろうよ』

「なな…?!なんで、そんな怖いこと…」

 呆気に取られたようにポカンッとしたら、レヴィアタンは小馬鹿にしたような目付きで俺を見下ろして、フンッと鼻を鳴らしたんだ。

『大悪魔ともなれば心の平安が必要なのさ。ルシフェルもこんな領域を持ってるんだぜ?』

 知らなかったのかよと馬鹿にしてるみたいだけどなぁ…俺がいつ、こんな所に連れて来てくれと言ったんだよ?

「だからって、俺が来る理由がないだろ?お前、また騙したな」

『だから、騙してないって言ってるだろ?中間地に連れて行ってやるって言ったんだ。ご覧の通り、ここは魔界と天界の中間地だ。ま、オレの領域ってだけだけどな』

 ふふーんっと勝ち誇った顔で笑いやがって!!その【お前の領域】ってのが大問題なんだろ!
 思い切り睨み据えてやったけど、レヴィアタンは蚊に刺されたほどにも感じていないのか、俺のことなんか華麗に無視して説明なんか始めやがった。
 なんてヤツだ!こんなヤツが、本当にあのレヴィと同一人物だって言うのか?!

『向こうに城が見えるだろ?アレがオレの本来の居城ってヤツさ。んで、その城から向こうに海がある。オレが支配している領域を繋げているんだ』

 ホント、誰か嘘だって言ってくれ。

「レヴィアタンはルシフェルより傲慢だ」

 思わず泣きそうになりながら言ったら、ヤツはちょっとムッとしたような顔をして俺をジロリと見下ろしたけど、それでも機嫌は良いのかニッと笑いやがる。

『なんとでも言え。確かにお前の言うように灰色猫はオレの使い魔だからな、ここに入ることは許されてる。だが、お前を連れ出そうとすればアイツは燃えて消える。それだけは覚えておけよ』

 そんなことを言って腕を組むレヴィアタンのしてやったりの顔を見上げて、その時になって漸く、俺はどうして自分がこんな危険極まりないところに連れて来られたのかと首を傾げたんだ。

「あのさぁ…どうして、お前は俺をこんなところに連れて来たんだ?レヴィアタンにとって俺は目障りじゃなかったのか?」

『スッゲー目障りだな』

 ぐ…なんか、面と向かって言われると、思わず殴りたくなるんだけどよ。
 せっかく、レヴィを忘れる決意をしたってのに、こんなところに閉じ込められていたら、レヴィを忘れるなんて絶対にできない。目の前に張本人がいるってのに、忘れられるかってんだ。

「あ、そうか。灰色猫とかに助けてもらおうってのがいけないんだ。俺が自分で出ればいいのか」

『…どうやって出るんだ?』

 ポンッと掌を拳で打って頷く俺に、腕を組んだままのレヴィアタンはキョトンッとした顔で見下ろしてきた。
 そう言えば、そうか。
 どうやって出られるんだ…

「…って!なんで、こんなところに閉じ込めるんだよ?!おかしいだろッッ」

 思わず納得するところだったぞ。
 そーだ、そもそもどうして俺はこのレヴィアタンの領域なんかに閉じ込められないといけないんだ?!根本的に間違ってるだろ!
 食って掛かるように胡乱な目付きで見上げてくる俺を、レヴィアタンのヤツは参ったとでも言いたそうに、先端の尖った耳を垂らしてプッと噴出しやがったんだッ。

『全く面白いヤツだな、お前は!…そんな面白いヤツがオレの傍にいないなんて冗談じゃない。それなら、誰にも邪魔されない場所に連れ去っただけだ』

 声を立てて笑ったレヴィアタンは、そうして、至極当然そうにそんなことを抜かしやがった。
 面白いから傍に置くだって?
 胸のずっとずっと深いところにある大切な想いを抱えている俺を、ただ面白いから、この地獄のような檻に閉じ込めるって言うのか?
 何処まで酷いヤツなんだ。

「嫌だ。そんなのは、嫌だ。今すぐ俺を、俺が住んでいた場所に戻せよッ!」

 ギッと睨みつけて、身構えて牙をむく俺に、それまで楽しそうに笑っていたレヴィアタンは、ゆっくりと表情を大悪魔らしい冷酷な微笑に変えて言った。
 それはまるで、最後通牒のような冷やかさで…

『嫌だと?人間如きに選ぶ権利があるとでも思っているのか』

 背筋を凍った掌が撫で上げる錯覚に眩暈がした。

 どんなにもがいても足掻いても、レヴィアタンは俺を外に出す気も、勿論、元の場所に戻す気もさらさらないらしく、ニヤニヤ笑ったままで自分の城に連れて来たんだ。
 ルシフェルの件でいつもあんなに嫌がっていたくせに、どうして、イキナリ俺に構い出したのか判らない不気味さもあるし、連れて来られた城が、レヴィアタンの華やかな綺麗さにはあんまり不似合いな不気味な陰鬱さを醸しているのにも驚いて、俺は暫く声も出なかった。

『お帰りなさいませ、レヴィアタン様…その人間は奴隷ですか?人間嫌いのレヴィアタン様が珍しいですわね』

 不気味に軋る大きな扉が内側から開いて、ちょこんっと、ゴシック調のダークなドレスに身を包んだ少女が姿を現すと、ジタバタする俺の首根っこを掴んで笑っているレヴィアタンに、彼女は淡々とした口調で声をかけた。

『いや、奴隷じゃない』

『では?』

 レヴィアタンのご機嫌さも訝しいのか、城に似つかわしいほど不気味な雰囲気の、長いストレートの黒髪を持つ顔色の悪い少女はソッと柳眉を顰めたようだ。
 お願いだから、こっちを見ないでくれ。

『…そうだな』

 レヴィアタンも彼女の視線に促されたみたいにして、暴れて逃げようとする俺を見下ろしたみたいだったが、シックリくる言い回しがないのか、笑ったままで口を噤んでしまった。

『まさか、お客様…と仰るわけでもありませんよね?』

 ふと、溜め息を吐いた不気味な人形のように綺麗な…いや、なんか知らないが、不気味な人形ってみんなちょっとゾッとするぐらい綺麗じゃないか?そんなことはないのかもしれないけど、この子はゾッとするほど綺麗なんだよ。
 柳眉を顰めたままで、突然の闖入者である俺を繁々と観察しているみたいだ…う、怖い。
 こんな、10歳かそこらの女の子に怯える俺って…

『客でもないな』

『…』

 ガックリする俺を2人で見下ろすな!
 だいたい、誰なんだ、この子は?
 レヴィのヤツ、そう言えば魔界での自分の暮らしとか口にしなかったよな。
 微妙なところで、やっぱり忘れられるぐらいなんだから俺、信用とかされてなかったんだろうな。
 ふと、寂しくて暴れるのをやめた俺が目線を落とすと、レヴィアタンは首根っこを掴んだ腕はそのままで、片手で顎を擦りながら『うーむ』と悩んでいるみたいだ。

「ただの玩具だろ?」

 フンッと、寂しくて悲しくて、俺が憎まれ口を叩くと、それでも大悪魔様は不機嫌にもならずに肩を竦めたりするんだ。

『玩具ってワケでもない。そうだなぁ…愛人ってとこか?』

「はぁ?!」

『!』

 素っ頓狂な声を上げる俺と、無表情のままで眉を顰める少女に見上げられて、馬鹿げたことを口にした張本人であるレヴィアタンは楽しそうに笑ってから、首根っこを掴んでいる俺を城の中に投げ飛ばしやがったんだ!

「うわっっ…とと、何すんだよ?!」

『人間の愛人ですの…?』

 突然のことに思わずすっ転んで強かに額を磨き上げられた床でぶつけてしまった俺はガバッと上半身を起こすと、入り口付近にいるだろうレヴィアタンを睨みつけようとしたんだけど、音もなく扉を閉ざした城内は蝋燭の明かりだけで薄暗く、ギョッとしている俺を取り囲むようにして何時の間にかレヴィアタンと少女は俺を見下ろしていたけど、大悪魔様は屈み込んでそんな風に呆気に取られている俺の顎を掴んだんだ。
 それはあっと言う間の出来事で、扉が閉じたことにも、少女とレヴィアタンが傍にいたことも、ましてや顎を捕まれたことにでさえ気付けない俺が呆然としていると、大悪魔様は何が楽しいのか、クスクスと笑った。
 その笑い方は確かにレヴィなんだけど、そんなことにも気付けないほどたらりと汗を垂らす俺の顔を覗き込んで、少女は胡散臭そうにレヴィアタンを見詰めた。

『それにしても…もっと、こう』

 人間の愛人と言うことには然程気にした様子もない少女は、俺の容姿が気になって仕方ないといった風情だ。
 悪かったな、平凡を絵に描いたようなヤツで。
 ホント、こんなところ、来なきゃよかった…って、騙されて連れて来られたんだけどよ。

『リリス、これの世話はお前に任せるからな』

『畏まりましたわ、レヴィアタン様』

 俺の顎から手を離したレヴィアタンが立ち上がって上機嫌で命じると、小柄な少女はコクリと頷いて静かな口調でそれに応え、へたり込んでいる俺の腕を掴んで引き上げやがった!
 ど、どこにそんな力があるんだと、呆気なく引き起こされた俺が呆然と少女を見下ろしていると、レヴィアタンは満足したのか、何も言わずに闇に溶けるようにして消えてしまった。

「あ!ちょ、待て!この野郎ッッ…って、行っちまったのか?」

 何処に行きやがったんだ、あの野郎。
 こんなところに俺を閉じ込めて、いったい何のつもりなんだ。
 ブスッと立ち直った俺が伸ばしていた腕を引っ込めた時、ジッと見上げてくる漆黒の瞳に気付いて、俺は何故かギクッとしてしまった。

「え…っと?」

『わたくしの名前はリリスですわ。あなたは?』

「こ、光太郎。瀬戸内光太郎だけど…その、レヴィアタンの言った愛人って、アレ、嘘だからな。悪魔は平気で嘘を吐くんだろ?だから、あれは大嘘だ」

 どうしてそんな言い訳を必死に言おうとしたのか、決まってるだろ?見ればまだ年端も行かない女の子に、男でありながら愛人ですと紹介されて、どんな気持ちになると思う。
 なのに、俺の必死の言い訳なんか何処吹く風で、彼女は別に気にした風でもなく首を左右に振りやがったんだ。

『愛人であろうとなんであろうと、レヴィアタン様がそう仰ったのなら、あなたはレヴィアタン様の愛人ですのよ』

「う、だから、それは…」

『なんにせよ、それはレヴィアタン様のお心遣いなのです』

「え?」

 少女は酷く真摯な双眸をして俺を見上げてきた。
 真っ白な頬には生気がなく、冷たい白磁のようなすべらかな肌に、キリリとした見事な柳眉、その下には暗黒の海の底のように何かを秘めた輝きを持つ双眸が煌いていた。その部分だけ生きている証のように、熟れきらない苺のような瑞々しい唇の隙間から真珠色の歯が覗いて、どうやら彼女はひっそりと笑ったみたいだ。
 でも、その双眸だけはまるで拒絶するみたいに笑みを浮かべることはないから、何処か背筋が寒くなる表情に、気付けば俺は自分を抱き締めるようにして腕を擦っていた。

『ここはレヴィアタン様の心の領域。ですが、この城に仕えるのはレヴィアタン様に戦いを挑み、何れも敗北し使い魔に成り下がっている悪魔たちですわ。彼らは常に一矢報いることばかりを考えている痴れ者どもですの。レヴィアタン様は常に争いを好みます。ですから、平安を保つはずのこの場所にすら、あの御方は自らに害を成す者すら置いてしまわれる』

 俺の前ではあれほど穏やかそうに見えたレヴィの隠された素顔を見たような気がして、俺の心臓はキュッと竦んだみたいに痛んだ。
 どうして、レヴィは…いや、レヴィアタンはそんなに自分を戒めてるんだろう。
 大地を統べることができなかったことが、それほどまでにアイツの心に深い闇を刻み込んだのかな。

『好戦者と言うのは、同時に好色ですらあります。人間を憎む彼らは、人間の奴隷を見れば好きにしてしまう。たとえ、あなたが人間の奴隷として連れて来られたとしても、レヴィアタン様が【愛人】と仰るならば、誰も手出しはしないでしょう』

「…なんだ、そう言うことだったのか」

 だから、レヴィアタンはこのリリスと言う少女に俺を紹介する時、あんなに悩んでいたんだな。
 どう言うべきか…その地位によっては、俺の命運は決まっていたってワケか。
 なんか、魔界にしろ、この中間地(…この場合はやっぱり魔界なのか?)にしろ、とんでもない所には変わりない。
 俺、こんな場所で生きていけるのかな。
 それなら…そこまで考えて、そうかと思い至った。
 ベヒモスが大事にしていたあの【混沌の森】、あの森はベヒモスにとっての心の平安を保つべき領域だったんだろうな。だから、来る者をあの意思を持つ捩れた木の枝で阻んでいたのか。
 まだ、ベヒモスの領域にいる方が随分と気楽だったよなぁ…
 はぁ、と溜め息を吐いていたら、リリスはそんな俺をやっぱり繁々と観察しているみたいだ。
 大きな深い色を持つ瞳で見据えられると、どうも居心地が悪いんだけど…なんだろう?敵愾心とかそんなモンでもなさそうだし、かと言って、馴れ合う気なんかさらさらないと思っているのも手に取るようによく判る。
 リリスは何が言いたいんだ?

『これからはあなたのお世話はわたくしがします。この城の女主人でもありますから』

 リリスはキッパリと言い放った。
 そうは言われても…俺は何となく頷くことぐらいしかできない。

「へ?あ、ああ、そうなのか。宜しく」

 頭を掻きながら頷く俺に、彼女は薄笑い…こう言うのを、アルカイックスマイルって言うんだよな。
 暢気なツラをして見下ろす俺を、リリスは物憂げな瞳をしてそんなアルカイックスマイルで微笑んだ。

『愛人ではない…とあなたは仰いますが。恐らく、それこそが嘘でしょう』

「そ、そんなワケないって。俺、男だし。それは本当に…ッ」

『いいえ』

 リリスは完璧な美しさを持つ少女で、そんな子から首を振ってキッパリ言われてしまうと、根が単純な俺は二の句が告げられなくなっちまう。
 どれだけ、弱いんだ俺!

『あのレヴィアタン様が人間如きに心を砕くはずがありませんわ…ですが、あなたを見つめるレヴィアタン様の眼差しには、愛がありましたもの』

「…!」

 この場合、俺は喜ぶべきなんだろうか?
 何もかも投げ出しても一緒にいたいと思う白い悪魔は、今、すっかり俺のことなんか忘れて魔界でデカイ面をしてる大悪魔様を気取りやがって、少しも俺を見ようとはしなかった。
 なのに、アイツを忘れる決心をした、今更、アイツが俺に振り返っただと?
 そんなの…

「性質の悪い冗談だ。俺のことなんか、アイツはなんとも思っちゃいない」

 ならどうして、俺を思い出してくれないんだ?
 こんな幼い少女すら気付くほど、俺を愛しいと想ってくれるのなら、どうして、レヴィは俺を思い出さないんだ?!

「君はまだ小さいから、思い過ごしただけだよ」

 幼い子供に言い聞かせるみたいに呟いたら、彼女は仕方なさそうに小さく溜め息を吐いた。

『そうなのですか?ですが、わたくしの思い過ごしではけしてありませんわ。でなければどうして、あなたをレヴィアタン様はわたくしに任せられましたの?』

「え?それは、その…君がこの城の女主人だからって…」

 キリリとした双眸に見詰められてしまうと、やっぱり、なんか居心地が悪いんだよなぁ。
 俺はまた手持ち無沙汰で頭を掻きながら俯いたら、古風なドレスに…ってどう見てもゴスロリのドレスだろ。膝丈までのフリルの裾から伸びた足には白いタイツを穿いていて、ちょこんとした黒のエナメルの靴が上品にすら見える彼女は、やれやれと溜め息を吐いたみたいだ。
 まぁ、この年で、レヴィアタンの城を任されてるってぐらいなんだから、本当は相当な力とか持っている子なんだろうけど、見た目にコロッと騙されるごく普通の高校生をあんまり苛めないでくれよ。

『そうですわ。わたしくはレヴィアタン様の妻であり、この城の女主人ですのよ』

 人形のように綺麗なリリスが言った。
 俺は、今聞いたことが、俺の空耳か、幻聴であって欲しいと思った。
 でも、声が出ない。
 何を言ったらいいんだろう?
 ただ、頭の片隅の遠い何処かで、納得するような声も聞こえていた。
 ああ、だから。
 レヴィは綺麗に俺を忘れることもできたし、レヴィアタンとして俺を突き放すこともできたんだ。今だって、思い出すことすらない。
 こうして、心の平安を保つ領域に大切なひとを隠して…俺は気付いたらポロポロと泣いていた。
 見開いた目から幾つも涙が零れ落ちるのに、不思議なことに、俺は悲しいとか思えないんだ。

『そのわたくしにあなたを任せると言うのは、とても重要なことですのよ。なぜなら…』

 リリスはその後も何かを言っているみたいだったけど、何を聞いたのか、何を言っているのか、頭がショートしたみたいに正常な思考回路じゃなくなっている。何を考えて、どう答えていいのかが判らないんだ。
 俺だけを大事にするとか言ってあの野郎…やっぱり嘘吐きだったんじゃねーか。
 ただ、グルグルと立ち尽くしている磨かれた石造りの床が回っているような錯覚がして、俺は眩暈を感じていた。
 猛烈な吐き気は、もう一瞬だってこの場所にいたくないと訴えているのに、走り出すことも、腕を上げることすらできない、まるで金縛りにでもあったみたいに身動きが取れなかった。
 アイツには…レヴィには大切にしている奥さんがいたんだ。
 だからアイツは、俺を【愛人】って紹介したんだろう。
 なんだ、アイツにとっては俺なんかただの遊びだったんじゃないか。
 何が、永遠だ。
 俺にばかり求めて、お前の永遠って何だったんだよ。
 悪魔なんか信じなければよかった。
 悪魔なんか…愛さなきゃよかった。
 悪魔なんか…そこで、俺の意識はぷっつりと途絶えてしまった。

第二部 15  -悪魔の樹-

 ルシフェルがいなくなってから静まり返った森は、それでも、水汲みの度にレヴィに逢っている俺を嘲笑うかのように、淡々とした時の流れの中で穏やかだった。
 ベヒモスは何時ものカバに戻って俺の相手なんかしようともしないし、気付けばゴロリと寝ている始末だ。
 俺は途方に暮れたようにデカいカバの魔物の背中を見ていたけど、どちらにしても毎日の日課になっている今日の分の水を汲みにいかなければならない。その道すがらで、あの白い蜥蜴に逢うんだ。それはそれで、望むところだとか思うから、ルシフェルに睨まれるんだろうなぁ。
 どっかで『あの野郎…』って言ってそうな姿が想像できて、俺は思わず首を竦めたくなった。
 でも、ベヒモスはレヴィに逢うべきだって言うんだ。
 アイツはもう、俺のレヴィじゃなくて、底意地の悪い海の魔物レヴィアタンだって言うのに、それでも、ベヒモスはそうして俺がレヴィアタンにコッソリ逢っていることを快く思っているみたいで、却ってこっぱずかしくなるのは仕方ない。
 結局、意志薄弱の俺はソワソワしたように水桶を引っ掴むと、水辺の木の枝で微睡む白い蜥蜴に逢いたくて歩き出していた。
 そんな後ろ姿を、ゴロリと寝返りを打った巨体のカバは、何を考えているのか相変わらず判らない小さな目をして見送ってくれた。
 何時の間にか、すっかりこの世界…ベヒモスたちは魔界って言ってるこの空間の生活にも馴染んじまって、俺、ちゃんと日本に戻ったら普通の生活ができるかな?
 一抹の不安もあるんだけど、それ以上に、夏休みを完全に放棄している俺の安否を、やっぱり茜も父さんも心配しているに違いない。
 …俺、こんな性格じゃなかったのに。
 亡くなる前に母さんに頼まれたから、俺にとっては家族が第一で、自分の楽しみとか何時も後回しにしていて、茜のことばかり思い遣っていたってのに…俺は今、レヴィの記憶を取り戻したいばかりに、こんな遠いところまで来てしまった。
 茜たち、ちゃんと飯とか食ってるかな?父さんはちゃんと靴下を見つけてるか…ああ、思い出したら心配が止まらなくなる。
 アイツら、俺がいないと何にもできないからなぁ…
 はぁ、と溜め息を吐いていたら、ふと頭上から、聞き慣れた声が降ってきた。

『今日は浮かない顔だな』

 気付いたら何時もの小川に来ていて、やっぱり何時ものところで長くなっている白蜥蜴は、暢気なツラして俺を見下ろしている。
 大きな瞳が憎めないんだけど、全部お前のせいなんだからな。
 いや、全部ってのは語弊があるな、そもそも俺があの女子とキスとかしたから、こんな結果になったワケで…って、落ち込んでどーする、俺!
 いや、やっぱり全部、レヴィが悪い。
 ちゃんと俺のこと、覚えてさえいれば全てがうまくいったのに…違う、こんなに、心が壊れてしまいそうなほど悲しくなんかならなかったのに。
 俺は、お前が居るだけで幸せだったんだから…

『…?』

 ちょっとギョッとしたような顔をする白蜥蜴に、そんなに悲しそうな顔をしていたのかと気付いたら、急に恥ずかしくなって、今は俺のことなんかこれっぽっちも知らない大悪魔からフイッと目線を逸らしてしまった。
 ムッと引き結んだ口許を綻ばす気にもなれなくて、俺はその場に膝をつくと、無言のままで木桶を冷たい水に浸していた。
 1日に何度か逢う白蜥蜴を、最近は無視することもなかったんだけど、あんなことがあったからとか、そんなワケじゃなくて、何となく口を開きたくなくて黙り込んでいたら…

「?!」

 不意に背後から伸びてきたガッチリと逞しい二の腕に抱き締められて、俺は何が起こったのかと目を白黒させて、ムッとする桃のような甘い香りに包まれていた。

『無視するなどいい度胸じゃねーか…何があったんだ?』

 何もかも知り尽くしているようなツラしてさ、一番肝心なことはスッカリ忘れてやがるくせに、何を偉そうに言ってるんだよ。

「なんでもないし、お前には関係ない」

 慌てて腕から逃れようとしたけど、俺を抱き締める腕の力強さは知っているから、諦めたみたいに抵抗するのをやめて吐き捨てたら、何時だってカッと頭に血を昇らせるくせに、レヴィアタンは何かを考えているような気配を漂わせていた。
 いいから、早く離して欲しい。
 じゃないと…俺は…この腕に縋り付いて泣いてしまいそうだ。

『関係ない…ね。お前になくてもオレにはある』

「はぁ?…ッ」

 胡乱な目付きで振り向こうとした矢先、不意に覆い被さるようにして覗き込んでいた白い悪魔は、問答無用で俺に口付けてきた。
 舌を絡めあって求め合うような濃厚な口付けは、忘れていた官能を刺激して、俺の身体はビクンッと震えてしまった。忘れていたワケじゃない、考えないようにしていたんだ。
 身体を辿る指先も、俺を酔わせる激しくて優しい舌も、愛しいと身体に残していくあの唇の感触も…何もかも、レヴィが俺に焼き付けた痕跡。忘れたくても、忘れられるはずがない。
 でも、そうして俺の身体の隅々にまで自分の存在を刻んで覚えさせたくせに、当の本人であるレヴィ自身が忘れてるんだから、笑うってよりもいっそ、泣きたくなるよな。
 愛しくて…思わず抱き締めてくる腕に縋りつきそうになった俺は、乱暴なくせに知り尽くしたキスをするレヴィに一瞬だけ流されそうになったんだけど、それでもギュッと目蓋を閉じて弱気になる意志に叱咤すると、掴んだ腕を振り払っていた。

「…ッめろよ!何すんだ?!」

『…』

 そんな態度を取られるとも思っていなかったのか、完全に油断していたレヴィアタンの腕から逃げ出した俺が荒く息を吐いて濡れた口許を片手で拭いながらキッと睨んだら、大悪魔は一瞬、ちょっとポカンッとしたように俺を見た。
 そんな目付きをして、それから徐に、それまで俺の顎を捕らえていたはずの掌を見下ろしたんだ。
 暫くそうしていたくせに、不意にレヴィアタンは、ムッとしたように顔を顰めやがった。

『オレに逆らうのか?』

「お前はもう、俺のご主人様じゃない。俺のご主人は…ベヒモスだ」

 間髪入れずにこの理不尽野郎に悪態を吐いてやるつもりだったのに、ふと、俺の語尾は頼りなく小さくなっちまった。
 最初にキスをしてから、レヴィアタンは少し変わったような気がする。
 ジッと俺を見ているかと思ったら、今みたいに戯れに口付けてくる。そのキスに、ついつい俺は何もかも許してしまって、甘い桃のような匂いに包まれて幸福を感じていた。
 抱き締めてくるレヴィの背中に腕を回すと、その実感が幸せだった。
 キスをせずに抱き締めるだけの時もあって、その時はほんのちょっぴりなんだけど、レヴィアタンも機嫌が良さそうに笑って俺の頬に頬を摺り寄せてきた。
 嗅ぎ慣れた甘い匂いが嬉しくて、俺はレヴィアタンに思い切り抱き付いていた。
 だからこそ、レヴィアタンは今回の俺の態度に驚いたし、ムカついたんだろう。
 レヴィとは違う甘くて優しい時間に溺れてしまえたら、俺はもっと、違った意味でも諦めることができて、このレヴィアタンでもいいと思ったに違いない。
 でも、駄目なんだ。
 お前には何も判らないだろうな。
 俺にとって、どれほどレヴィが大事で、ささやかな幸せだったかってこと。

『なるほどね。ルシフェルの気配がしたからな…お前の主人はベヒモスじゃない。ルゥなんだろ!』

 イラッとしているのは、その冷やかな無表情からでも読み取れた。
 レヴィアタンは本気で怒ると、まるでスッと仮面でもつけたような無表情になるんだ。
 何故か、レヴィアタンはルシフェルのことになると完全に腹を立てるんだよな。あの完璧な悪友が、俺なんかに夢中になっている…と、レヴィアタンのヤツは本気で思い込んでるんだ!
 それが、許せないんだろう。
 拙い、また向こうの世界に影響が出る。
 駄目なんだって判ってるんだけど、だからって、俺はどうしても今、レヴィアタンのご機嫌
取りとかできる心境じゃない。

「ルシフェルじゃないし、ベヒモスでもない。俺には心に決めてるヤツがいるんだ。ソイツに逢いたくて逢いたくて…ここに来たんだよ」

 本当は、こんな話はするべきじゃないんだってこと、俺はよく判っているつもりだ。
 でも、どうしても、聞いて欲しかったんだ。
 心から、お前のこと大好きだよってさ。

『…へえ?アスタロトか?!』

 思わずブッと噴出しそうになった俺は、そう言えばそんなヤツもいたっけなぁと、そんな薄情なことを考えながらちょっと苦笑して、レヴィアタンを上目遣いに見詰めながら首を左右に振った。
 いるんだけどなぁ、目の前に。

『違うのか?どんなヤツだ、お前が心に決めた悪魔と言うのは』

「それは…」

 お前だよ!…って言えたら楽なのに。
 こんなこと考えてるから、ルシフェルにレヴィに逢うなって言われたんだろうなぁ。
 海の魔物レヴィアタンの心の均衡は世界を支配しているから…

『オレは大悪魔だ。知らない悪魔はいねーんだよ。名前を言え。魔界なんかに人間を捨て去ったヤツのツラを拝んでやる』

 馬鹿にしたように鼻先で笑うレヴィアタンに、俺は何も言えずに、ただヒッソリと苦笑してるしかない。
 だって、言えるわけないよな。
 その豪語してる大悪魔さまだよ、なんてさ。

『…お前を捨てた悪魔に取り成してやってもいいんだぞ?大概の悪魔はオレを無視できねーからな』

 フンッと鼻を鳴らしながらも、やたら食い下がるレヴィアタンの魂胆なんか、本当は見え見えなんだよ。
 そうやって俺が信用して教えたら、その悪魔に何か悪さでもするんだろ?

「いいんだ。何らかの事情で、ソイツは俺を迎えに来れないんだよ。だったら、この場所でソイツを待ち続けるのが、俺の愛だ」

 冗談のつもりで、いや、半分以上は本気でそんな恥ずかしい台詞を笑いながら言ったのに、ふと、レヴィアタンの額にビシッと血管が浮いたみたいだった。
 表情こそ変わらないってのにさ、何が気に障ったのか、レヴィアタンは無表情のままで怒っているんだ。 

『…人間の分際で、大した口をきくじゃないか。捨てた悪魔を待ち続けるのか?』

「捨てられた…とは限らないだろ?何か事情があるんだよ、たとえば…たとえば、記憶をなくしてしまったとか…」

 万感の思いで口にした途端、レヴィアタンは酷く腹立たしそうに腕を組むと、馬鹿にした
感じで顎を上げて俺を目線だけで見下ろしてきやがった。

『悪魔は薄情で嘘吐きなんだよ。んな事情なんかあるかよ。お前はソイツに捨てられたんだ。ノコノコと魔界まで来て性奴隷になった人間を、いいザマだって笑ってるに決まってんだろ…ッ!』

 そこまで言って、それは聞き慣れた悪態だったけど、俺の心臓は貫かれたように痛んだ、だからレヴィアタンは、涙を零した俺にギョッとして語尾を引っ込めたんだと思う。
 俺は馬鹿なんだ。
 これはレヴィじゃない、レヴィが言ったワケじゃないって判ってるのに、レヴィの声でそんなことを言われてしまったから、まるでそう思ってるんだと言われたみたいで心臓が握り潰されたように痛かった。
 レヴィを疑ったことなんかこれっぽっちもないけど、悪魔の言葉は冷たすぎるよ。

『な、泣くほどのことか?おい、泣くな!泣くなってッ』

 ポロポロ、ポロポロ…頬に零れ落ちる涙の雫をとめることなんかできそうもないから、俺が諦めたように唇を噛んで俯くと、焦れたような、焦ったようなレヴィアタンが腕を掴んで、それから、何を思ったのかいきなり抱き締めてきたんだ。
 愛しいあの甘い匂いに包まれながら、それでも突き付けられた現実はあまりにも残酷で、この腕ですらレヴィではないんだと思ったら悲しくて居た堪れなくて、もう放っておいてくれ。

「わ…かってる、俺が馬鹿だから…ずっと、信じて…それだってもう、どうでもいいのに。放してくれ、もう放っておいてくれ!気紛れに俺の相手なんかするなよッ!」

 思い切りレヴィアタンの身体をドンッと突き放して、俺はボロボロ涙を零しながらそう叫ぶと、そのまま森の中に向かって走り出していた。
 振り返れば大好きなレヴィの面差しを持つ白い悪魔がいて、どんな思い付きの悪戯だったのか、少しでも優しいふりをしてくれる。でもそれは、冷酷な悪魔が見せる残酷な幻にすぎないってこと、ちゃんと俺は知っているんだ。
 レヴィじゃないのに、どうして俺、レヴィアタンに期待なんかしてしまったんだろう。
 同じ顔で、同じ双眸をして、紡ぎ出す言葉は全く違う悪態ばかりで…恋しい、レヴィが凄く恋しいよ。
 俺はもう、どうにかなってしまいそうだ。
 逃げるようにして走り込んだ森の中で、俺は泣きながらトボトボと歩いていた。
 そんな俺の行く手を遮っている捻じ曲がった歪な枝たちは、申し訳なさそうなほどひっそりと離れていって、道を空けてくれていた。
 有難うと呟こうとした瞬間、まるで突風に攫われるような錯覚を感じるほど唐突に、激しい何かに抱き竦められて、アッと言う間に空の高いところまで連れ去られてしまった。
 思わず泣いていたのも忘れるぐらい驚愕に呆気に取られている俺の耳元に、憤懣遣るかたないとでも言いたそうな、怒気を孕んだ声が聞こえた。

『オレが、何時、何処でお前の相手をしようと、オレの勝手だ。人間如きが指図するんじゃねぇーよッ』

 それがどれほど理不尽なことなのか理解しようともしないから、だから、大悪魔のクセに7つの大罪に入れられちまうんだよ。
 レヴィアタンには心ってモノが理解できないんだ。

「あー、そーだよ!俺はただの人間だ。何処にでもいる、平凡な人間だよッ。そんなの、お前に言われなくても判ってる。特別なんて思ってない、だから、愛されなくても仕方ないんだ…」

 寒さを感じさせない外套にスッポリと俺を包み込んでいるその宝飾品がジャラジャラと飾り立てている胸元を、駄々を捏ねる子供みたいに拳で殴っても、レヴィアタンには蚊が止まったほどにも、痛みなんて感じてないだろう。それでも、ここから落ちて死んだって構うもんかとか、半ばヤケッパチに叫んで泣きながら暴れる俺を、大悪魔様はどんな顔で見てるんだろう…と、チラッと考えていたら、片手で抱き締めるようにして俺の動きを封じ込めたまま、もう片方の手で俺の顎を引っ掴んで上向かせやがった。
 自分の顔を見ろ、とでも言わんとばかりの態度に、俺の中の反発心がムクリと起き上がって、知らず、薄情な悪魔を睨んでいた。

「・・・ッ!」

『そんなにその悪魔を愛していたのか?ソイツこそ、戯れに、気紛れにお前の相手をしただけじゃねーか!オレは違うッ』

 そう言ってレヴィアタンは、ハッと息を呑むような顔をした。
 涙腺が壊れちまって、ボロボロ泣いている俺は、その言葉に一瞬胸の奥は熱くなったけど、でも、もう都合のいい幻聴とか聞きたくないんだと、首を左右に振って目蓋を閉じてしまった。

『…そうだ、オレは違う。どうして、そんな簡単なことに気付かなかったんだ』

 独り言みたいに呟いて、レヴィアタンはニッと、満足したように笑ったみたいだった。
 掴んだ手で俯きそうになる俺の顔を上げて、目蓋を閉じたまま泣いている頬に口付けて、目蓋にキスして、それからまるで、震えるようにレヴィアタンは俺の唇に口唇を重ねてきた。
 涙でしょっぱいキスは、この魔界に来て初めて、俺に本当のあたたかさをくれた。
 そのキスだけで、俺はもう、縋るようにして心の奥に大切に仕舞っていた想いを捨て去る決心ができた。
 俺はレヴィを…もう、諦めよう。 
 もう、ここにも、何処にもレヴィはいないんだ。
 長い時間を待ち続けても、レヴィアタンは思い出すこともなければ、解決の糸口なんかこれっぽっちも見付からなかった。あの魔女の話は、落ち込む俺を見兼ねたルシフェルの、優しい嘘だったに違いない。
 そうじゃなければ、どうして、何時まで経っても魔の森に赴こうとしないんだ。
 それが判って、そして、レヴィアタンの態度に傷付いて、もう、俺の心はヘトヘトで疲れ切ってしまってるんだ。
 このキスが最後だ。
 心から愛して、大好きな悪魔であるはずの、知らない悪魔の…さよならのキス。
 俺はレヴィアタンに抱き竦められて、口付けを受け入れながら、その事実に眩暈を覚え、そうして受け入れるしかないと諦めてしまった。

第二部 14  -悪魔の樹-

 暫く目を閉じていたルシフェルは、それでもすぐにパチッと目を覚まして身体を起こすと、うんざりしたようにブスッと膨れっ面をしたんだ。
 まぁ、どんな顔をしたって、魔界でも最強だと謳われる美貌に遜色はないんだけどさ。

『そーだ、忘れるところだった。南の神々にツラを貸せと言われていたんだっけ』

 溜め息を吐きながら俺を立ち上がらせた傲慢な大悪魔様は、それからやれやれと首を左右に振りながら自分も木製の椅子から重い腰を上げたんだ。

『南の神々…?』

 ふと、カバ面のベヒモスが訝しそう…に見える顔付きで問い返すと、ルシフェルは肩を竦めながら頷いた。

『レヴィの心の均衡の変化が、世界中に影響を及ぼしているんだ。真夏であるはずの日本列島が雨に濡れ、雨季に恵まれるインドが旱魃の被害にやられてる…となれば、神々も黙っているワケにはいかないんだろ』

 え?それはいったいどう言う…
 長らく向こうを留守にしているから、日本の状況とかまるで判らなかった。
 真夏なのに雨が降り続いてるのか?
 茜や父さんはどうしてるだろう…
 俺はドキリとする胸を押さえて、冷たい美貌のルシフェルの思い切りうんざりしている顔を見上げると、事の真意を見極めようとしたんだけど…俺なんかが何か判るはずもないんだよな。
 仕方なく、ベヒモスたちの会話にハラハラしながら耳を傾けているしかないってワケだ。

『…なるほど。とは言え、そもそもの事の発端は神と天使の責任じゃねーか。どうしてお前さんが呼ばれる羽目になったんだ』

『連中の常套手段は知ってるだろ?んで、悪魔が呼ばれるワケだが、レヴィに一番近い兄弟悪魔は混沌の森からお出ましにならない…となれば、そのトバッチリを受けるのは何時だってオレじゃねーか。今更だ、ベヒモス』

 肩を竦めるルシフェルの胡乱な目付きに睨まれたとしても、無害なカバの悪魔はケロッとしたモンで、暫く何事かを考えているように小さな目を細めていたんだけど、凄まじく嫌そうな顔付きをして吐き出すみたいに言った。

『なるほど。大方、神の御大将様はどこぞに雲隠れして、天使は自慢の魅力で逃げ切ったか』

『そーなんじゃねーのか?んで、引き篭もりの兄弟悪魔に代わって、なんでもこなす大親友の悪魔様がご指名されたってワケだ。面倒臭ぇ』 

 心底嫌そうに美麗な顔を顰めるルシフェルに、珍しくベヒモスは、申し訳なさそうな声音を出した。

『すまんな』

 その表情も、いつもは飄々としているってのに、何処か和らいでいるように見える。だからなのか、ルシフェルはそれ以上は悪態らしい悪態も、嫌味らしい嫌味も言わずに、どうでも良さそうな顔をしたんだ。

『その台詞は是非ともレヴィから聞きたいもんだな。全てが終わった暁には』

 ただ、そんな憎まれ口はついでのように言ったんだけどさ。

『あ、そーだ。光太郎』

「へ?」

 突然名前を呼ばれて、俺は間抜けな声で応じてしまったんだけど、ルシフェルのヤツはそんなこと気にも留めた様子もなく、ちょっとムスッとした顔で言ったんだ。

『オレか灰色猫が戻るまで、魔界から出ようとか思うなよ』

 思うなよ…ってなぁ。

「はぁ?何を言ってんだよ。俺が1人で魔界から出られるワケがないだろ」

 呆れたように眉を潜めたら、ルシフェルのヤツは『そうか、こう言う言い方もあるか』とかなんとか、ワケの判らないことを呟いた後、まぁ、どうでもいいんだけど…みたいな感じで頭を掻きながら言いやがるワケだ。

『じゃぁ、これならどうだ?オレか灰色猫が戻るまで、白い悪魔に近付こうとか思うなよ』

 絶対近付くだろうと確信を持った言い草で指なんかさされて言われちまうと、受けて立ちたい気分にはなるんだけど、見慣れた悪友の見慣れない表情には、満更、その忠告が冗談ではないことが良く判った。

「…どうして、レヴィに近付いたら悪いんだよ」

 それでも反発心がムクムクと沸き起こって…つーか、この森に棲み付いた白い蜥蜴に逢えないなんて、そりゃ、レヴィを愛してる俺には酷なことだと、ムッと下唇を突き出すようにしてルシフェルを睨んだら、ヤツはそれこそ、うんざりしたように顔を顰めやがったんだ。
 なんだよ、ベヒモスの時とえれー違いじゃねーか。

『あのなぁ…お前はこの全世界の情勢をまるで判っちゃいない人間だから仕方ないとしてもだ。アイツの心の均衡が世界を支えているんだ。今のアイツの心は、まるで波に揺れる木の葉みたいにちっぽけになっちまってんだよ。些細な波にも転覆しかねない…だから、神や天使に付け入る隙を与えるようなザマになるんだ』

 ルシフェルはそう言って、何処か悔しそうな顔をして目線を伏せてしまった。
 それは、旧知の仲だからこそ浮かべられる表情なんだろうけど…俺、こんな時なのに、まるでレヴィの癖が移っちまったみたいに、その、嫉妬なんかしてしまった。
 俺はレヴィのことを何も知らない。
 ルシフェルのように、アイツの何もかもを知っていることもないし、助けてやることもできないんだ。

『お前の存在がレヴィに影響を与えているのは嫌でも判る。これ以上続けば、レヴィも世界もどうなるか…』

「…俺の存在が全部ダメにしちまうんだな」

 ルシフェルの言葉尻に被せるようにして、俺はそう呟いていた。
 もうこれ以上、そんな話は聞きたくなかったし、その話を聞いてしまうと、こうしてここに居ることの意味がなくなってしまうんじゃないか…いや違う、こうしてここに居てしまったことで、世界がおかしくなって、何より、レヴィがおかしくなっていると認めてしまうことになるんじゃないかと、不安になったんだ。

『いや、そんなことはないんだ。オレが言いたいのは…』

「ごめん、ルシフェル。俺は、きっと自分のことしか考えていなかったんだ。レヴィのこととか、本当は何も考えてなかったんだ」

 唇を噛み締めたら、ルシフェルは一瞬遣る瀬無さそうな顔をしたんだけど、不意に腹立たしそうにムッとした顔をしやがった。

『ああ、そーだよ!全部お前が悪い。お前がレヴィを好きになったのが、そもそもの間違いなんだ』

『ルシフェル…』

 ベヒモスが何か言いたそうにその名を呼んでも、ルシフェルは聞く耳を持とうとは思ってもいないみたいだ。それどころか、俺の両腕を掴んで、そのあまりにも整っていて却って怖い綺麗な顔で睨み据えてくるんだから、普通の高校生で太刀打ちなんかできるはずがない。
 別に…甘い言葉が欲しかったワケじゃない。ただ、お前のせいではないよと、言って欲しかっただけなんだ。
 それも十分、甘ちゃんな考えか。

『千年以上の永い時間の中でずっと見守ってやってたのに、よりによって自分から災厄に近付くなんかどうかしてるんだよ!』

「ええ??」

 青褪めたままでルシフェルを見上げながらも、その言葉にギョッとする俺に、傲慢な大悪魔は、それからすぐに切なそうな顔をしてしまった。

『さっさと手に入れちまえば良かったんだ。でも、手に入れるとかそんなこと、どうでもいいほど、オレはこの魂が大事だったんだよ』

 誰に言うでもなく呟いたルシフェルの、その心の奥深いところでも見透かしてしまいそうな漆黒の双眸は、俺を通り越した何かを真摯に見詰めているみたいだった。

『灰色猫からレヴィの相手がお前だと教えられた時の、オレの動揺が判るかよ?愛だとかそんなモン、全部超越しちまった感情で、オレはお前を見守ってたんだぞ』

 話の成り行きがヘンな方向に進んでるのは俺にもよく判ったんだけど、その台詞を聞いて、俺は漸く、なぜルシフェルがあの高校に居たのか判ったような気がする。
 話し始めたのは灰色猫がお願いしたって言うあの時からなんだけど、それ以前から、ルシフェルである篠沢と俺は保育園からずっと一緒だったんだ。
 いつも同じクラスだったことも、今となっては不思議じゃなかったんだなと思う。
 何故だかずっと不思議に思っていたんだけど、篠沢とは随分前から知り合いのような気がして仕方なかったんだ。
 不思議だったんだよ、なぜ灰色猫がお願いする前からルシフェルともあろう大悪魔が、あんな普通の高校にいたのか。
 ああ、そうだったのか…ルシフェルは俺を見守ってくれていたのか。

「ルシフェル…」

 困惑したように眉を潜めたら、大悪魔は、その時になって漸くハッとしたように我に返ったみたいだった。
 それでも、もう口にしてしまったんだからと、どこか開き直ったヤケッパチの表情をしてフンッと鼻で息を吐き出しやがる。

『これで判ったかよ。オレ様の想いはレヴィのいる海よりも深くて、ベヒモスが総べる大地よりも寛大なんだぜ』

 それから、俺が嫌がることなんか百も承知で、ルシフェルは掴んでいた腕を引き寄せると、そのまま俺を抱き締めたんだ。

『だが、まぁね』

 例の調子でニヤッと笑っているんだろう、ルシフェルはフフンッとしたように言った。

『言っただろ?オレの想いは愛だとか恋だとか、そんなモンは遥かに凌駕しちまってるんだ。だから、お前がこのまま永遠でもレヴィと共に在るとしても、それはそれでいいんだぜ』

「…へ?」

 驚いたように抱きすくめられたままで眉を跳ね上げたら、ベヒモスのヤツがやれやれとでも言うようにカバ面を左右に振る気配がした。
 普通、悪魔は執念深いモンだと思う。
 特にこんな大悪魔なら、他の悪魔に取られるぐらいなら…って、俺を殺してもおかしくないんじゃないのか。だってさ、信じられないんだけど、ルシフェルのヤツは千年以上も前から、ずっと俺を見守っていたんだ。そんな執着心があるのに、どうして俺の心がレヴィに向かってしまっても許せるんだろう。

『じゃなかったらさ。オレ、お前が色んなヤツと恋をして愛し合ってる姿なんか見守っていられるかよ』

 ウハハハッと笑うルシフェルに、そう言われてみればそうだなと、単純に考えてしまったんだけどそれでも俺は釈然としないまま、大人しくルシフェルに抱き締められていた。
 なんだか判らないんだけど、レヴィのあの情熱的な抱擁とは違う、ルシフェルの腕にはホッと安心できる優しさがあるんだ。恋に狂うレヴィとの抱擁とは違って、近親者…親だとか兄弟だとか、そんなひとが寄せてくれる無償の愛のようなあたたかさがルシフェルの腕にはあるんだ…って、俺、何を思ってるんだろ。

『ただ、見守っていたかったんだ。あんまり純粋すぎて、綺麗な魂が消失するその瞬間まで、見ていたかったんだ。まさか、そんな純粋な魂がレヴィアタンと愛し合うなんか思ってもいなかったけどよ』

「俺は…純粋じゃねーよ」

 現に、ルシフェルに嫉妬もしたし、レヴィに関してはヤキモキのし通しなんだ。
 あの天使みたいに綺麗なヴィーニーにも、俺は醜い嫉妬をしていた。
 その思いが伝わったのか、俺を抱き締めたままでルシフェルのヤツはクスッと笑ったんだ。
 なんだ、そんなことかよ…と、その気配が物語っている。

『嫉妬はレヴィアタンの専売特許じゃねーか。一緒にいて、そんな気になっただけさ…なんつってな。人間なんだ、嫉妬もすれば憎むことだってある。純粋ってのは、そんなんじゃねーんだよ。でもまぁ、人間であるお前は知らなくてもいいんだけどな』

 俺から身体を離したルシフェルは、まるで慈しむような、そんなツラでずっと、俺を見守ってくれていたんだなぁ…と思うと、胸の奥深いところが温かくなるような気がした。

『レヴィの愛でもっと大きくなれよ。でも、今はまだダメだ。お前を受け止めるには、アイツは何も理解していないからな。だから、オレは南の神々の許に話し合いに行くんだ。ベヒモス!』

 俺から身体を完全に離してしまったルシフェルは、そう言ってからカバ面で暢気にお座りをしているベヒモスに声を掛けた。
 カバ面の悪魔は『なんだよ』とでも言いたそうに、そんな傲慢が服を着ているはずの大悪魔を見遣るんだ。

『ここらに結界でも何でも張って、白い蜥蜴を追い出しちまえ』

 ニヤッと笑うルシフェルに、ベヒモスは肩を竦めるだけで何も言わなかった。
 そんな態度に、『ま、好きにするといいさ』とでも思っているんだろう、ルシフェルはニヤニヤ笑ったままでウィンクなんかすると、俺たちに向かって『アディオス!』と投げキスなんかして、そのまま空間に滲むようにして、溶け込むように姿を消してしまったんだ。
 その姿を見送って、取り残されたようにポツンッと突っ立っている俺に、盛大な溜め息を吐いたベヒモスが物静かに声を掛けてきた。

『…そんなワケだが。結界でも張るか?』

「そんなの、俺には判らないよ。でもさ、レヴィの心の均衡が世界を支えてるんだっけ?だったらさ、ここから追い出しちまったほうがヤバイんじゃねーのか?」

『ご名答』

 判りきってたんだろうな、ベヒモスのヤツはそう言うと、大きな口をパカッと開いて…どうやら欠伸をしやがったらしい。

『じゃあ、オレは寝るからよ。お前は好きにしてればいい』

 それは暗にレヴィに逢えと言ってるんだろうか…あれほど、ルシフェルが止めたのに?
 ま、そんなワケないよな、と自分に言い聞かせていたら、ゴロンッと横になったベヒモスが閉じていた片目をちょこっと開けて、ジロリと俺を見たんだ。

『悪魔と言ってもレヴィは母なる海を司る神の成れの果てなんだ。アイツが暴れれば天変地異が起こる。お前が傍にいる間はそんなこた起こらなかった。今、お前は何処に居るんだ?』

 こんな所に居て、何をしてる?…と、その胡乱な小さな目は物語っている。
 だからと言って、今の現状を聞いてしまった俺に、いったい何ができるって言うんだ。
 グズグズしてしまう俺に、目蓋を閉じてしまったカバは、それでもポツポツと話し始めたんだ。

『ルシフェルのヤツが秘密を打ち明けたからなぁ…ここらでオレもひとつ、レヴィの秘密…と言うほどのモノでもねーんだが。ヤツの嫉妬深さについて話してやろう』

「本当か?」

 レヴィについてなら、何でも知りたい。
 数千年以上生きているレヴィの全てを知るには、俺には時間が足らないだろうけど…それでも、レヴィのことは知っておきたいんだ。

『生れ落ちたオレたち兄弟は大地を任せられることになったんだが、2人の巨体では大地が海に沈むと考えた神々が、オレたちを大地と海に分けたんだ。レヴィはてっきり自分が大地を受け継ぐものだとばかり思っていたからな、海を任された時は酷く驚いてそして激怒したよ。暴れて暴れて、一週間も暴れたが、その決定は覆されることはなかった。それからだな、レヴィの嫉妬心が強くなったのは』

「レヴィは…どうしてそんなに大地を欲しがったんだろう」

 首を傾げると、ベヒモスは口許の端を捲るようにしてフフフッと笑ったみたいだった。

『自分が望むものは全て他の悪魔が手にしてしまったんだ。大悪魔にとっては最大の屈辱だったんだろう。だから、アイツは今でも嫉妬心の塊さ』

「んー…答えになってないよ、ベヒモス。どうして、レヴィは大地を欲しがったんだ?」

 ゴロリと寝返りを打つカバの巨体を見詰めていたら、大地にそれほど執着も見せていないようなベヒモスは、丸くて平らな手(?)で尻の辺りを掻いている。

『レヴィは誰よりも執着心が強いヤツでな。生れ落ちた大地をこよなく愛していたんだ。どうして、ベヒモスは大地に残るのに、自分は海に追いやられるんだと。その嫉妬の始まりはオレだったんだろう』

 愛しい兄弟だけど、その兄弟に一番嫉妬してるってワケか。
 だから、他の兄弟は7つの大罪にその名を挙げられなかったのに、よりによってレヴィだけが挙げられる羽目になったのは、そんな理由だったのか。
 馬鹿だよなぁ、レヴィは。

「俺にはよく判らないけど、俺は海も好きだけどな」

『人間は海が好きだな。みんなそうだ。今ではもう、レヴィも諦めてしまってはいるけれど、それでも、時々は嫉妬しに来るんだ』

 そう言って、ベヒモスは愉快そうに笑うんだ。

「悪魔って単純じゃないんだなぁ。もっとさ、臨機応変さを持てばいいのに」

 俺が溜め息を吐きながら木製の椅子に腰掛けて頬杖をつくと、カバ面の悪魔は身体を揺すって笑っていたくせに、いきなり鼾なんか掻きやがるから…この寝つきの良さはレヴィに通じるものがあるから、やっぱりコイツ等は兄弟なんだなと思ってしまう。

『まぁ、レヴィに嫉妬心があったおかげで、お前たち人間が住む世界ができたと言っても過言じゃねーんだけどよ』

「へ?」

 眠ってるものだとばかり思っていたベヒモスの台詞に、ギョッとした俺が間抜けな声を出すと、カバの悪魔は横になったままで言うんだ。

『アイツが7日間暴れたおかげで、お前たちの住んでいるあの世界は天変地異のオンパレードになって、生き物の住める環境ができたんだぜ。俗に言う創世記ってヤツさ』

 そんなことを言ってから、『なんつってな』と笑うベヒモスの態度に、どこまでが本当なんだか疑っちまっても仕方ないと思うぞ。
 ったく、これだから悪魔は信用できないとか言われるんだよ、俺たち人間に。
 まぁ、ベヒモスにとってはそんなことすらどうでもいいことなんだろうけどな。
 俺は溜め息を吐いて、曲がりくねった奇妙な枝が重なり合うようにして腕を広げる空を見上げた。
 答えなんか何処にもないんだけど、何かを求めるようにして見上げた空には、珍しい鳥が一声鳴いて、何処か遠くに飛んで行ってしまった。

第二部 13  -悪魔の樹-

「は?」

 いや、悪魔がこれだけわっさり居るんだから、天使がいてもおかしくはないんだけど…でも、どうして天使がレヴィの記憶を奪ったりしたんだ?

『性悪のミカエルってヤツがいてな。レヴィに惚れ抜いてるんだが、何処で噂を聞いたのか、アイツがお前にメロメロだってのを知ったらしく、怒り狂って何らかの方法で記憶を消した…ってのがだいたいの真相だ』

「は、はぁ?」

 コーヒーカップをテーブルのソーサーに戻して、ルシフェルはこの時初めて、眉根を寄せて心底嫌そうな顔をしたんだ。

『北の神々を騙して…おおかた、それだけが理由じゃないんだろうけど。それは、人間である光太郎には関係ないことだからヨシとして、神がミカエルを利用したってワケだ』

 この傲慢が服を着ているような悪魔が心底嫌がっているぐらいだから、その天使は本当にいい性格をしているんだろうなぁと思う。

「なんか、よく判らなくなってきた」

『それも仕方ない。人間には理解し難いことだ。ルシフェル、もっと判り易く話してやれよ』

 混乱している俺が頭でも抱えそうに見えたのか、ベヒモスは、ないくせに、肩なんかどこにもないくせに竦めるような仕種をして面長い顔を振ったんだ。
 頭の悪い人間で悪かったな。
 独りで腐ってると、ルシフェルは鼻にしわを寄せて真珠色の歯をむいた。
 まぁ、どんな顔でも様になるからいいんだけど。

『つまりだ、大天使ミカエルは利用されたんだよ。大方、神と呼ばれるヤツに命じられてレヴィの中のお前の記憶を消したんだろうな。アイツに大悪魔の記憶を消すような力はないしな。小憎らしい人間の記憶など消し去りたいミカエルにしてみれば渡りに船だったワケだ。だが…何故、神はよりによってレヴィが大事にしているお前の記憶を消させたんだろう?』

 唯一、その部分が判らないんだと、語尾はまるで独り言のように呟くルシフェルに、ベヒモスと灰色猫は顔を見合わせた。
 俺はと言うと、どんな顔をしたらいいのか判らなくて唇を尖らせるしかなかった。
 だいたい、そりゃな、確かに俺なんかよりも神々しいに決まっているミカエルのほうが、遥かに大悪魔のレヴィアタンにはお似合いだと思う。
 それでも。
 俺はキュッと唇を噛み締めた。
 だからと言って、勝手にアイツの中にある俺の記憶を消すってのは許せない。
 神だって…冗談じゃないとは思うけど、そんなヤツがいるんなら、どうして俺から大事なレヴィを奪おうとするんだよ。
 神様なんだろ?
 そんなの、人でなしだと思う。
 …あ、神なんだから人じゃないか。

『…何を考えてんのかだいたい判るけど、突っ込んでやんねーからな』

 俺の傍らの椅子に座って頬杖をついているルシフェル…悪友の篠沢は冷ややかな目付きで俺を見て、フンッと鼻先で笑いやがる。

『まぁ、何を考えてるのかなんてこた、闇に生きるオレたちには判らなくても当然だが、だからってオレたちの運命を勝手に弄られるのは気持ちのいいもんじゃねーよなぁ?』

 長くて綺麗な髪を掻き揚げるようにして不敵に笑うルシフェルに、ベヒモスは何を考えているのかよく判らない小さな瞳で大悪魔を見下ろした。

『気に食わんな。レヴィの記憶なんざどうでもいいが…悪かった。オレが悪かったからそんな目で睨むな』

 ベヒモスは胡乱な目付きでジトッと大きなカバ面を見上げる俺に、心底嫌そうに長い顔を左右に振って言ったんだ。

『なんだ、ベヒモス。アンタも光太郎には弱いんだな。レヴィと兄弟だ、嗜好が似てんのか?』

 呆れたようにニヤッと笑うルシフェルが言った言葉に、ベヒモスは更に嫌そうな顔をした。
 あんまり感情の読めない表情しか浮かべないベヒモスにしては、今日は比較的、ころころとよく感情が表に出てる方だと思う。
 …嫌な顔ってのには引っ掛かるけどな。

『神の介入は気に食わん。それを、恐らく北の神々は気付いていないのだろう』

 ベヒモスが呟くように言うと、ご名答とでも言うように、ルシフェルが疲れたように頷いた。
 ああ、そうだ。
 ルシフェルのヤツ、なんだか凄く草臥れてるみたいなんだよなぁ。
 どうしたんだ?

『それはとても気になりますね。灰色猫が、ちょっと探りに行ってきます』

 それまで黙って成り行きを見守っていた灰色猫が、スクッと立ち上がると、まるで滲むように揺らいだかと思うとボワンッとドライアイスみたいな煙を噴出させて、気付いたら灰色の小汚い猫がちまっと座っていた。

『ルシフェル様が動かれますと、四方の神々も黙ってはおられますまい。この灰色猫でしたら、幾らでも探れます』

『ああ、そうだな。行ってくれ。それでなくてもミカエルのヤツをひっ捕まえようとしたら、この様だ。北の神々には聖戦を吹っ掛けられるは、西の神々には説教喰らうわ。全くいいことがひとつもない』

 頷いた灰色猫がペコンッと頭を下げて風を切るような音を残してその場から消えると、憤懣遣るかたなさそうにせっかく綺麗な下唇を突き出して、忌々しそうにルシフェルのヤツは袖を捲り上げて腕を見せてきた。
 その思うよりもガッシリしている腕には鋭い爪で抉ったような傷跡が3本走っている。

「うわ、酷い…」

『酷いんだよ!あの野郎ども、容赦を知らねーからな!!背中にもあるんだぞ。聖戦で受けた聖痕はなかなか治らないんだ。仕方ないから湯治をしてたら、今度はレヴィのヤツが襲い掛かってきやがってッ』

「へ?レヴィが??」

 ポカンッとすると、ベヒモスはクックックッと声を出さずに笑って、お茶をパカッと開いた口に流し込んだ。

『お前を寄越せと言いやがったんだ』

「え?」

 ドキッと胸が高鳴って、期待なんかしてもダメだと判っているんだけど、それでもレヴィが俺を寄越せと言ったその真相を聞きたかった。
 また、傷付くのかもしれないけど、それでも、俺の心はレヴィの他愛ない言葉を求めているんだ。

『…なんだよ、嬉しそうな顔しやがってさ。ふん、ま、その顔を見れたんだ。入浴中に襲われた甲斐はあったってワケだ』

「う、ごめん」

 そうだ、喜んでばかりもいられないか。
 ルシフェルが草臥れた顔をしているのは、神様たちと戦ったからなんだ。
 あんな酷い傷を受けて養生してるところを、そんな理由で襲われたんだ。そりゃ、ルシフェルでなくても怒るよな。

『お前が謝るこたない。この恨みはレヴィの記憶が戻ってから、思う様晴らさせてもらうから気にするな』

 綺麗な顔でニッコリと笑うルシフェルは、笑ってるんだけど湯気が出るほど怒ってるのがよく判るから、悪いんだけど。ここはレヴィにその責任は取って貰うことにした。
 たぶん、仏頂面で風呂に入ってるところを、後ろから襲われたんだろうなぁ…ん?襲われた??

「…って、もしかして。殴られたとか??」

『斬りつけられたんだよ。殴るなんて可愛いことすると思うか、あの嫉妬深い悪魔が』

 どれだけ腹を立ててるのか、未知数の怒りは笑いしか生まないのか、額に血管を浮かべたルシフェルはアハハハッと笑ったけど、次いで、すぐに下唇を突き出して頬杖をついたんだ。

「いや、ホント、ごめん」

 なんか、誰か謝ってやらないと、ルシフェルが可哀想な気がしてきたぞ。

『それで?大方お前のことだ、もちろん反撃したんだろうな?』

 黙って聞いていたベヒモスがニヤニヤ笑って(いるように見える顔をして)そう言うと、ルシフェルはキッとそんなカバ面の悪魔を睨み付けると、当たり前だとでも言わんとばかりにフンッと鼻で息を吐き出して拳を握って見せたんだ。

『武器がなかったからな。仕方ないから殴り返してやって、ちゃんとやるかよと言ってやった』

 一瞬、ちょっとガックリしそうになったら、ルシフェルに胡乱な目付きで睨まれてしまった。

『記憶のないアイツのモノになって嬉しいのかよ。ああ、そーですか。じゃあ、今からでもくれてやるって言ってやるよ』

「いや、そんなつもりじゃ…」

 思わず言い訳する俺に、何をされても構わないんならオレは知らないからなと言う表情をされたら、流石にそれ以上は何も言えなくなってしまう。

『惨劇が見えるな』

 ボソッとベヒモスが言うと、バリバリと頭を掻いたルシフェルは苛々したように言い返す。

『そーだよ。湯治の泉を破壊する寸前で止められたんだッ。あの野郎、さっさと海に還りやがったから、そこでもまたオレが怒られたんだぞ。んで、後始末までする羽目になったんだ!!なんだよオレ、どれだけトバッチリ食うんだよッ』

「ルシフェル、ホント、ごめん」

 なんか、ホント、謝ってやらないと…

『謝るんならここに座れ』

 下唇を突き出すようにしてムッとしているルシフェルにキッと睨まれて、膝の上を指してそんなこと言われると…

「は?嫌だよ」

 思わず言ってしまうじゃないか。

『どれだけオレがお前たちのせいで…』

「う、はいはい」

 ベヒモスもいるから嫌だったんだけど、仕方ないから座ってやったら、ルシフェルのヤツは人の悪い笑みをニヤッと浮かべながら『そうじゃないだろ?普通座れって言ったら跨ぐんだよ』とか言いやがるから、できれば一発殴ってやりたいと思ったんだけど、でも、俺たちの為に尽力を尽くしてくれているコイツにそれはあんまりだと自分に言い聞かせて、嫌々向かい合うようにして座ると。

『はぁ、草臥れた』

 俺の両腕を掴むと、ギョッとする俺の胸元の辺りに額を摺り寄せるようにして長い溜め息を吐いたんだ。
 その姿は、どうやら本当に草臥れてるみたいだった。
 そうだよな、姿を消していた間ずっと、神様たちと戦ったり喧嘩したり、その権現であるはずのレヴィにまで襲われてたんだ、ルシフェルじゃなかったら草臥れすぎて死んでるんじゃないか。

「…大丈夫か?」

『大丈夫じゃねーよ!いいか、よく聞け。このオレ様が何が悲しくて北の神々と聖戦するわ西の神々に説教されるわ、ましてやクソレヴィなんかに襲われなきゃならなくなったと思うんだ?それもこれも全部!お前が悪いんだぞッ』

 キッと上目遣いで睨まれてしまって、そのせいもあるんだけど、その言葉の意味が判らなくてドキッとしてしまった。

「え?!」

 お、俺が悪いって…どう言うことだ??

『ったく、何にも知らねーんだから、人間ってのは』

 上目遣いで睨んでいた目線を、草臥れたように伏せて、ルシフェルは仕方なさそうに溜め息を吐いた。

『それでも、憎めないから見守るんだろうがよ』

 ベヒモスが我関せずだったくせにポツリと呟いて、沈下しないルシフェルの怒りに油を注ぐ。
 やめ、頼むから、ヘンなこと言って煽るなよ~

『あー、そーだよ!だいたい、隙がありすぎるんだ、お前には。誰にでもキスされやがって…だから、大事な記憶すら奪われてしまうんだ』

 指を突きつけるようにして悪態を吐くルシフェルに、キス…と聞いてレヴィを思い出して顔を赤らめはしたものの、ハッと目を見開いた。
 キスだって?

『心当たりがあるって面だな?』

 ベヒモスの問いかけに、無意識に頷いていた。

「まさか、あの時の…」

 隣町にある女子高の制服を着た、あの…

『思い出したか、バカめ。そーだよ、その女がミカエルだ』

 やれやれと溜め息を吐くルシフェルに、あんなキスのせいで大切なものを失くしてしまった俺は自分の不甲斐なさに唇を噛み締めて、ヘトヘトになるまで原因の究明に走り回ってくれた悪魔に素直に謝っていた。

「…ごめん」

『お、素直じゃん。人間はそうでないとな。ところでさ、知ってるか?』

「?」

 機嫌よくパッと表情を明るくしたルシフェルは、次いで、訝しそうに首を傾げる俺の顔を覗き込みながらニヤッと笑ったんだ。

『悪魔ってのは草臥れると、もの凄くセックスしたくなるんだぜ』

「なぬ!?」

 ギョッとして思わず浮き上がろうとする俺の腰をガッチリ掴んだルシフェルのヤツは、更に上機嫌そうにニヤニヤと笑いやがるんだ!

『ここに、ちょーど手頃な尻があるワケだ』

 腰を掴んでいた両手をそのまま僅かに浮いている尻にまわして、ギュッと掴まれたりするから俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。

「ななな…何言ってるんだよ。おま、そんな面でそんなこと言ってくれるなよッ」

『どんな面で言おうがオレの勝手だ!…が、まぁね』

 ニヤッと笑っていたルシフェルはでも、尻を掴んでいた手を離して俺を抱き締めてきたんだ。

『今回は止めといてやる。レヴィの執着は嫌になるぐらいよく知ってるし。癇癪起こされてもたまったもんじゃねーからな。だから、今回はこうしてろ』

 そう言って、心底ヘトヘトなんだろう、俺の肩に頬を寄せるようにして凭れると、目蓋を閉じたんだ。

「…え?」

 呆気に取られてポカンとしたけど、ルシフェルはそのままの姿勢でもう一度言った。

『オレはメチャクチャ草臥れてるんだ。だから、このままこうしてろ』

「?…判った」

 長い溜め息を吐いて目蓋を閉じているルシフェルに肩を貸したまま、俺は優しい悪友の背中に腕を回して抱き締めたんだ。
 できれば、少しでも疲れを癒せたらとか、思うんだけど、人間の俺にはそんな特異な力とかないから、抱き締めるので精一杯だ。
 ありがとう、ルシフェル。
 口は悪いんだけど、本当は大悪魔のくせにいいヤツなんだよな、ルシフェルって。
 もし、レヴィより先にあっていたら、もしかしたら…今まで考えたこともなかったんだけど、俺はコイツのことを好きになってたんじゃないかなぁと思う。
 恥ずかしいし、すぐからかいやがるから、コイツには言ってやらないけどな。
 長い髪が柔らかな風に揺れて、スゥスゥと規則正しい寝息が聞こえてきた。
 余程草臥れていたんだろう、ルシフェルは眠ってしまったようだった。

『悪魔は情が深いんだ。だから、未練も残せば執着もする』

「え?」

『黙れ、ベヒモス』

 眠ってるとばかり思っていたルシフェルが目蓋を閉じたままで言うから、俺はギョッとしたんだけど、ベヒモスはクックックッと咽喉の奥で笑って、もうそれ以上は何も言わなかった。
 訝しがる俺を無視して、ルシフェルは今度こそ本当に眠り込んでしまった。
 静かな森に、漸く安息のひと時が訪れたんだ。