孤独の棲み処 (番外編)  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 孤独はよき隣人。
 常に傍らにあるものの、けして近付けない溝があって、だからこそ心地好い存在である。
 何もいらない。
 たった独りで生きることには慣れているのだから。
 それに、空っぽの身体なら幾つだって転がっている。
 そう言うのを夜毎拾って抱き締めれば、幾らか癒されるだろう。
 たとえそれがまやかしであったとしても、血塗れのオレには上等のご褒美だ。

 男は苦い吐息を噛み殺した。
 もう、何度目になるのか…それは曇天の空から今にも零れ落ちそうな涙のように唐突に、だが消え入りそうな溜め息。
 息は白くたなびいて、男はまるで途方に暮れている顔を隠そうとでもするように、コートの襟を立てて冷気を遮った。
 身震いしそうなほど、今日は寒い。
 いや、もちろん…それだけではないのだ、この寒さは。
 寒気、と言うよりは寧ろ、悪寒めいた予感。

「参ったな」

 呟きとともに、溜め息が零れる。
 男は灰色の空には不似合いの金色の髪に、冷めたアイスブルーの瞳で突きつけられている受け入れ難い現実を凝視していた。

「参られても困る。俺だって、十分参ってるんだ」

 唇を、まるで子供のように尖らせているのは…一見すれば、学生にも見間違ってしまうほど、童顔の顔立ちをした異国の青年。
 ああ、だが…と、男は思う。
 ここは日本なのだから、自分の方がよほど異国の顔立ちではないか、と。

(オレ、微妙に混乱してるのかな?)

 そんなどうでもいいことしか思い浮かばないほどには混乱しているのだろうと、男は自らを冷静に分析して溜め息を吐いた。
 いや、なんにせよ…

「取り敢えず、重いし。退いてくれる?」

 流暢な日本語でやんわりと咎められて、青年はたった今気付いたとでも言うように、ハッとしたのか慌てて金髪碧眼の男の上から身体をずらそうとした…が、青年の身体が男の上から退くことはなかった。

「…ッ!?」

 驚いたように双眸を見開いて自らの顔を覗き込んでくる青年の、素直な性格を示すかのように、サラサラのストレートの黒髪に指先を伸ばして、男はその厚い胸に青年の顔を押し付けた。

「ちょっと黙っててよ。こっちも結構、切羽詰ってんだよね」

 突然、空から降ってきた日本人らしい青年は、順応性があるのか、適応力に優れているのか…何れにせよ、言われたことを素直に飲み込んでいるようだ。

(騒がないのか。ヘンな日本人だなー)

 明らかに切羽詰っていると言うのに男は、それでも暢気にそんなことを考える余裕はあるのか、相変わらず溜め息を吐いて、たった今、ビルから悠々と立ち去ろうとする漆黒のベンツを垂れた双眸で憎々しげに睨み据えた。
 恐らく、これだけ密着しているのだから、その胸元に隠し持っている日本では珍しいだろう兇器の存在に気付いているだろうに、日本人らしい青年は声も出さずに寡黙に抱き締められている。
 その従順な仕種が…いや、違うなと男は思う。
 血臭の染み付いてしまったこの穢れた腕の中にあっても、騒ぐことも、暴れることもない小さなぬくもりを、そんな馬鹿なことがあるわけないと言うのに、愛しいと感じていた。
 恐らく、怖ろしくて声を出せないに違いないと言うのに、いったい自分は、いつからこんなにセンチメンタルになったと言うのだ?

(やれやれ、本当に参ったな)

 老若男女問わずに遊び好きな自分の嗜好を恨めしく思いながらも、どーせ今日の仕事は空振りなんだし、折角だからこの飛んで火に入る日本人を美味しく戴いてしまおうか…などと考えて、またひとつ溜め息が零れ落ちる。
 少し早めとは言え、規則正しい心音を響かせる小さなぬくもりを、手離すのは惜しいんだけど…と、男は参ったとでも言うように両目を覆っていた片手を外すと、漸く青年の身体を押し遣ろうとした…が、今度は日本人の青年の方が身体を退かそうとしない。

「…?」

 訝しそうに眉を寄せれば、言おうかどうしようかと逡巡しているようだった青年は、それでも意を決したように真摯な眼差しで男の碧眼を見据えながら口を開くのだ。

「アンタ…殺し屋なのか?」

「…」

 なるほど、やはり胸元の兇器はバレていたと言うわけか。
 しかし、だからと言って、もちろん男が動揺することはない。

「だったら?どうするって言うの??警察でも呼ぶかい」

 それこそ、心臓が凍りつくような底冷えのする冷ややかな双眸で覗き込んでくる瞳を見据えれば、小動物よりもいたいけな、犯罪には無縁に違いないだろう平和ボケした日本人は震え上がるに違いない。十分、計算され尽くしたシチュエーションだったと言うのに、殊の外、青年は怯えてはいないようだ。

(…オレの眼力に怯まない日本人?まさか、嘘でしょ)

 有り得ない出来事に、男はいよいよ、今度こそ本当に動揺しているようだ。
 そんなことはお構いなしで、日本人の青年は、やはり少し悩んでいるような双眸をして目線を伏せてしまう。

(なんだ、コイツ。よく見れば結構可愛い顔してるじゃない。あ、睫毛長い)

 どうせ、時間は有り余ってしまった。
 本日の仕事が不発なら、チャンスは明日でも明後日でも…男にとってチャンスなどありはしない。常に作っていくものなのだから、毎日がチャンスだと思い込んでいる。
 だから、男は、この突然空から、正確にはビルから降ってきたこの日本人の青年をもう少し観察してみようと思ったようだ。
 いや、確かに、平和ボケしている日本人なら、ビルから降ってくることなどけして有り得ないのだが、如何せん男は、遠い国から来たばかりで、日本のことなど実は少しも判ってはいないのだ。

「人を殺すのは…その、辛くないのか?」

「はぁ?急にナニ、言っちゃってるワケ??辛かったら人殺しなんてできないでショ」

 まあ、もちろん普通なら。
 だが、垂れ目の男は呆れたような顔をするだけで、別段気分を害している様子はない。もっと、できればこの珍妙な生き物の動作を観察してやろうと、もしかしたら考えたのかもしれない。

「そうか…でも、俺なら辛いと思う」

「へーぇ。そりゃあ、日本人だし?仕方ないでしょーね」

 殊更、馬鹿にしたように言い放つ異国の暗殺者に、青年は暫く困惑したような顔をしていたが、それでも毅然とした表情をして頷いた。

「いや、悪かった。そうだな、それはアンタの仕事なんだ。よく知りもしないで、口出しして悪かった」

 男の上に馬乗りになった姿では迫力はないものの、それでも、その言葉は男の中で眠る何かに微かに触れたようだった。

「今日は本当に悪かった。仕事の邪魔をしてしまっただろ?その…死ぬなよ」

「…え?」

「日本には、袖触れ合うも他生の縁って言う言葉があるんだ。せっかく、俺はアンタに出逢ったんだし、死んで欲しいとは思わない」

 青年は、優しい双眸でクスッと笑った。
 そんな優しさを感じたのは、両親が死んでから一度もないと、男はまるで遠い気持ちで思い出していた。日本人だと言うのに、青年の双眸は、遠い昔に見た懐かしさに似ている、と男は思う。

「もう一回笑ってよ」

「え?」

 青年の滲むように優しい双眸がふと、真摯さを取り戻して、その時になって漸く身体の上から退こうとしたのに、またしても男の大きな掌がそれを引き止めた。
 そして、呟く。
 どうか…と。

「ダメ?もう一回、今みたいに笑って欲しいんだけど…」

 驚くほど真剣に、男が首を傾げると、日本人の青年は困ったようにソッと眉を顰めてしまう。

「ああ、違う。そうじゃない、そんな顔じゃないんだ」

 自分がどんな顔で笑ったのか、まるで理解できない青年が困惑したように動揺する腕を掴んで、まるで貪欲に餌に貪り付こうとする肉食獣のような獰猛さで噛み付くように言うと、男は唐突に寂しそうな顔をした。

「ダメか。そうだよな、誰だってオレにそんな笑顔はくれない」

 両親だけがくれた、あの幸福だった無上の笑みを、まさか行きずりの他人がくれるわけがない。今見たのは、たまに見る夢の延長、幻覚に過ぎないと男の唇から溜め息が零れた。

「…馬鹿だな。笑顔ぐらい、誰だってくれるさ」

 青年が笑う。
 まるで慈悲深い、滲むような優しさで。
 ああ…と、男は思う。
 それは、きっとこの青年の内面が滲み出ているのだろうと。
 きっと、この青年は怖ろしくお人好しで、だから、こうして闇でしか生きられない、自分のような殺し屋に目を付けられてしまうのだ。

「ねぇ、キスしてもいいかな?」

「へ?いや、ちょっと待ってくれ。どうしてキスなんか…あ、ああ、そうか。アンタ、外国人だもんな。キスは挨拶か」

 突発的なおねだりに動揺したように目を白黒させたのに、この日本人は、どんな思考回路をしているのか、だが男にしては好都合の誤解で納得したように瞼を閉じるから…震えるように、男はそのやわらかな唇に触れるだけのキスをした。
 まるで初心な少年のようなキスに、男は内心で動揺したように舌打ちしたが、瞼を開いた青年があんまり優しく笑うから、それはけして間違いではなかったのだと思った。

「また、逢えない?」

 それは、どんなにベッドを共にしても翌朝にはあっさりと忘れてしまう男にしては珍しい、誘い文句だった。
 自分のことを殺し屋だと気付いているのだから、きっと、断られると言うことは判っている。判っているのに聞いてしまうのは、このぬくもりと優しさを、どうしても手離したくないと言う身勝手な我侭だ。

「…」

 青年は僅かに戸惑ったように男の碧眼を見詰めていたが、下唇を突き出すようにして頷いた。

「そうだな。また、逢ってもいい。だってさ、アンタがちゃんと生きているかどうか、判らないってのも気分悪いしな」

 まるで行きずりの他人なのに、どうして、この日本人はそこまで男の生命を気にかけるのか…男は、この出逢いはきっと、運命なんじゃないかと、未だに信じたこともない胡散臭い言葉を信じかけていた。

(運命か…ああ、それも悪くないな)

 手離してしまった幾つかの大切なものたちを、この時になって男は、忘れ去っていた遠い記憶を鮮やかに思い出していた。
 あんなに優しかった人たちを亡くして、男の心には大きな穴がポッカリと開いていた。
 その穴からは、いつだって凍えてしまいそうなほど冷たい風が吹き出ていて、女たちを抱いては温かくしていると言うのに、寒くて寒くて…安眠することなんかまるでなかった。
 しかし、今…腕の中にこの青年がいるだけだと言うのに、ひとつに繋がっているわけでもないのに、どうしてだろう?男は今、満ち足りた幸福を感じている。
 じんわりと、開いてしまった穴を温めるように包み込んでくるこの感触をなんと言うのか…それを男は知っていた。
 どんなに望んでも、一夜限りの女や男どもではけして感じることはなかった、それは…
 『優しさ』なんだろう。

「俺は、槙村光太郎って言うんだ。アンタは?」

 あの大好きな笑みを浮かべる青年を抱き締めるようにして、男は呟いた。
 充足感に満ち溢れた笑みを浮かべながら…

「オレはアシュリー。アシュリー・シェラードだ。ヨロシク、コウタロウ」

 思いもしなかった。
 人間のぬくもりが、こんなに温かいなんて。
 オレの中には、確かに矛盾なく孤独が居座っている。
 開いた穴の奥底を棲み処にして蹲る孤独。
 だが、それでも。
 オレはきっと、忘れないだろう。
 この出逢いを、そして…あの優しさを。
 それがあれば、オレは生きていける。

─END─

HOLY DOG (番外編)  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

「つまり光ちゃんは、こう言うものじゃなくて有益な情報の方がいいってワケね」

 光太郎が常に人を食ったようなと言う表情をしながらも、オレはどこか不満そうな響きを語尾に宿して掌を握り締めた。

「当たり前だろ」

 何を言ってるんだ、当然じゃないかと、勝気そうな黒い瞳に強い意志を煌かせて、小柄で少年のような相貌の光太郎が不貞腐れたように言う。
 時は12月24日。
 巷ではクリスマスムード一色だというのに…

「全くロマンチックじゃないね。だから恋人の1人もいないんだよ」

 掌の中の小さな犬がくしゃみでもするんじゃないかという様子で所在なさそうに蹲っているから、オレはついつい意地悪く言ってしまうんだよ。

「勝手だろ!だいたい、何だよ。その犬の小物は」

 そうとしか表現のしようがなかったのか、ボキャブラリーの乏しい万年貧乏私立探偵であるオレの愛すべき人は、大きな掌の中にある小さな犬の置き物を、それでも少しは興味があるのか、じっと見つめながら唇を尖らせた。

「これはね。オレの生まれ故郷で〝魔除け〟の意味を持つ小物なんだ。生まれるとすぐに両親が赤ん坊の枕元に置いて、それを生涯持ち続けるんだよ。だからね、オレの故郷の出身者は必ずコレを持ってるんだ」

 掌の中で金色に煌く小さな犬が、公園の唯一の明り取りである街灯の光りを反射している。
 18金のそれは、思ったほど値打ちはない。

「それって両親の形見じゃないか。じゃあ、なおさら受け取れない」

 純粋で一途で、日本人らしい気質を持った光太郎は、そんな風に、殺し屋として生きるオレの過去を尊重してくれる。なけなしの両親の愛と言うものを、思い出せてくれたのも光太郎だ。
 頑なに拒む真摯な双眸を見ていると、だからオレは、思わず笑ってしまうんだ。

「なんだよ?」

 ムッとしたように眉を寄せる光太郎。
 あんまり愛しくて、どうしていいのかわからなくなる。
 …なんてことは、口が裂けても言えないけどね。

「これをクリスマスの夜にいちばん大切な人と交換するんだよ」

 訝しそうに眉を寄せたまま首を傾げるから、プレゼントって意味の重さがちょっとだけ増してしまったかもしれない。気付いたかな。

「クリスマスって、まだあと1日あるじゃないか。それに、俺なんかにくれるものじゃないだろう、それ」

 見当違いなことを呟いて、確信めいて言葉を選ぶ。

「だいたい、野郎からクリスマスにプレゼントをもらったって嬉しくともなんともないんだ。そう言う光りものはセカンドハウスにいるお姉ちゃんにでも持ってってやれよ」

 呆れたように溜め息をついて小さく笑う。
 本気でそう思ってるのかな?
 だったらちょっと、ムカツクんだけど。

「25日は仕事だからね。今日中に渡しておこうと思ったんだけど…聖夜の殺人犯からプレゼントは受け取れない?」

 途端に黙り込むと、光太郎はちょっと俯いてしまう。
 キュッと引き結んだ意志の強そうな口許は、僅かな動揺に少し震えていた。
 オレの職種を非難するのでも嫌悪するでもなく、ただ、良く判らないんだろうな。いつも物問いたそうに見上げてくるだけだから。
 信用して、信じられないでいる。そんな表情だからね。

「別に…そんな意味じゃないけど。そもそも、そんな大切なものをどうして俺なんかにくれるんだよ?違うじゃねーか」

 戸惑いに眉を寄せて唇を尖らせた光太郎は、納得いかないと言いたそうな双眸でオレを見上げてくる。
 その眼が好きなんだ。

「何が違うの?だってオレは光ちゃんの相棒じゃない。光ちゃんはずーっと探偵をするんでしょ?だったらオレもずーっと相棒だから。お近付きのシルシってやつv」

「何がお近付きのしるしだよ。いったい、いつお前が俺の相棒になったんだ!?俺は認めてないぞ」

 相変わらず率直に言ってくれる。
 傷付いちゃうじゃない。
 …なんてね。

「あ、そう。だったら情報もお預けかな?だってそうでしょ。相棒じゃないんだから」

 セコイ手だけど、これが意外と光太郎には効くんだよね。

「…うう。ホント、お前ってヤな奴だよな!…でも、やっぱりそれはもらえないよ」

 あら。
 今回はちょっと強情だ。

「どうして?」

「よくわかんねーけど、いらない」

「何だよそれ」

 ちょっと納得がいかないんですけど。
 仏のアシュリ-さまでも、納得いかなかったらムッとするよ。
 説明を要求するように覗き込めば、途端に不機嫌そうに眉を寄せて視線を外されてしまった。

「いらないっつったら、いらねーんだよ」

 片手でオレの身体を押し退けるようにして道を開くと、光太郎は無言のままで振り返らない。
 どうしちゃったんだろうね、こんな簡単なことなのに。
 何を悩んでるんだろう。
 ふと、光太郎がオレに振り返り、そして握っているオレの拳に目線を向けた。
 暫くジッと見ていたけど、なぜかオレを睨み付けてからフイッと外方向いて行ってしまった。

「……」 

 え~っと。
 成す術がないって日本語があるけど、まさにそんなカンジ。
 …と言うか、今日初めて光太郎って人間のことがわからなくなった。いつもは手に取るようにその考えがわかっちゃうんだけどねぇ。
 う~ん、ちょっとカルチャーショックかな☆

◇ ◆ ◇

 アシュリ-をその場に残して、光太郎はむかっ腹を立てながら広い公園を横切っていた。
 何がそんなに腹立たしいのか、決まっている。
 ワケが判らないことだ。

「どうしてアシュリ-の奴はいつだって突然現れて、ああ言うワケの判らん行動を起こしたがるんだッ」

 自分の好みを知ってるからこそ、何やらワケの判らない行為をするのだろう。
 どうしてバレるのか、光太郎はそのことの方が不思議で仕方なかった。

「…」

 ピタリッ、と足を止める。
 暫く俯いて、足元に転がる小石を眺めながら何事かを考えていた光太郎は、不意に顔を上げると不機嫌そうに口元をへの字に曲げる。

「ヤツが俺の好みを熟知してるってことがムカツクんだよな。ってことはつまり、俺もヤツのことを知ればいいんだよ」

 うん、そうだと1人で納得した光太郎は、何かを思いついたように決心して携帯電話を取り出した。
 使い古した古風な機種は、それでもしっくりと手に馴染む。
 もう押し慣れた登録キーを押してどこかに電話をかける。
 と。
 ほどなくして誰かが出た。

『もしもし?』

「アシュリ-か!?」

『…』

 誰からの番号か知っている分だけスラスラと流暢な日本語で応えた、たった今別れて来たばかりのアシュリ-は、それでもその勢いに面食らっているのか、少し無言になっている。

「もしもし?もしもーし!」

『聞こえてるよ。で?どうしたの。プレゼントを受け取る気になった?』

「お前さ、明日は仕事だって言ってたよな。何時からだ?」

 唐突の質問に暫し沈黙したアシュリ-はしかし、すぐに『PM11:30ぐらいかな…』と答えた。

『それがどうかしたの?』

「明日、夜の11時にこの公園に来い。いいな!」

『うん。でもどうして?』

 それには答えずに電話を切る。
 よし、これで時間ができた、と光太郎は小さな携帯電話に向かって頷くのだった。

◇ ◆ ◇

「これくらいの、金色の犬なんだけど…」

「申し訳ございません、お客さま。そのような商品は当店では取り扱いがございませんので…」

 何軒目かの宝石店からの返事も明るくなかった光太郎は、疲れたように溜め息を吐いて豪奢な硝子張りのドアを押し開けてその店を後にした。

「図書館で調べてもあんな風習の国ってなかったからなぁ。どこか、すっごく小さな村なんだろうな、アシュリ-の生まれ故郷ってヤツは」

 結局、光太郎の出した答えは〝アシュリ-の秘密を探る〟だった。
 聞いた話でしか情報を得ることのできない鉄壁のアシュリ-の秘密、手始めは〝魔除けの金の犬〟だ。
 宝石のようにも見えたあの犬の特徴を言えば、大概の宝石商なら何かを知っているんじゃないかと思ったようだが、やはりそう話は簡単に進まないようだ。

「やれやれ、明日の11時までには何とかしないとなぁ…」

「何をなんとかするのよ?」

 不意に、背後からリンッと転がる鈴のような可愛らしい声で憎たらしく声を掛けられて、光太郎は驚いたように振り返るとその先に見慣れた美人を見つけた。

「すみれ」

「こんな街中で難しい顔してるから、きっと貧乏探偵の光太郎だとは思ったのよね。な~に?今度の依頼は宝石に関わるの?イヴだって言うのに大変ね」

 お喋りな彼女は光太郎の元同級生であり、幼馴染みの御影彰の恋人でもある滝川すみれだ。
 今日はどうやら1人でショッピングを楽しんでいるようだ。

「お前こそ、彰はどうしたんだよ?」

 無粋なことを率直に聞いてくる、無神経なところのある光太郎にすみれは可愛らしくニッコリと笑って小首を傾げる。その仕草は無害な森の小リスのようで、はっきり言って可愛い。

「シ・ゴ・ト・よ!決まってるじゃない。こんな可愛いあたしを放っておくなんて言ったら、あの彰にはそれしかないわ」

 至極当然そうに笑って頷くすみれの、彰はどこに惚れたと言うのか。
 光太郎は高校2年の春からの謎にまたしても首を傾げたくなったが、今はそれどころじゃないことを思い出して肩を竦めて見せた。

「別に仕事ってワケじゃないんだ。ちょっと、個人的に調べてることがあってさ…」

「あら、何よ?今、ヒマしてるから付き合ってあげてもいいわよ」

「断る!…と言いたいところだけど。お前さ、これくらいの金色の犬について知らないか?民俗的なことだと思うんだけど…」

「民俗的で金の犬?」

 ミニスカートからすらりと伸びた長い足をブーツで包んだその出で立ちに、彼女連れの男も振り返るスタイルの良さは、そこらのヘタなアイドルよりアイドルらしくて可愛いと思うのは光太郎だけではないだろう。

(これで性格が良ければなぁ…)

 ピンクのグロスにテカる可愛らしい唇をツンッと尖らせたすみれは、暫く何かを思い出そうとしているように小首を傾げていたが、ニコッと笑って頷いて見せた。

「それならたぶん、富子さんに聞いたら判ると思うわ。あたしの行き付けのブティックのオーナーなの」

「ブティックのオーナーが知ってるのか?」

「富子さんをバカにしちゃダメよ。けっこう、物知りさんなんだから」

 そう言ってすみれはしたり顔で微笑んだ。

◇ ◆ ◇

 瀟洒なブティックのドアを潜ることにやや抵抗感を感じながらも、光太郎は渡瀬富子と紹介されたそのブティックのオーナーと対面することができた。40代半ばの、なるほど、やり手のキャリアウーマンと言った感じでセンスの良いご婦人だ。

「金の犬?あら、それはきっと〝ホーリードッグ〟のことね」

「ホーリードッグ?」

 すみれと共に店内に通され、来客用の応接室の椅子に腰掛けた光太郎が首を傾げて聞き返すと、ウェッジウッドのティーカップに薫り高い紅茶を注ぎながら、彼女は目鼻立ちのすっきりした顔に品の良い笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、それほど有名ではない村の古くから伝わる慣習に、確かそんな話があったわ」

「その村を知ってますか?」

「少しね。フィンランドの北部にある村だったはずよ」

(フィンランド…アシュリ-の生まれ故郷はフィンランドだったのか)

 少しだけ、鉄壁に護られた謎の殺し屋の秘密が暴かれた。
 ほんの、蟻が通る道よりも小さな、蜘蛛の糸程度の僅かな綻びではあるのだが。

「本当はね、その犬は木でできてるのよ。でも、いつの頃からか金で作るようになったらしいわ。詳しい事情は知らないのだけど、いいのかしら?」

「あ、はい。構わないです。それで、本当はどんな意味のあるものなんですか?」

「ええっと…」

 ティーカップをテーブルにそっと置くと、富子はトレーを傍らの椅子に置いて腰掛け、古い記憶を思い出そうとするかのように口許に人差し指を当てて目を閉じた。

「あれね、富子さんの癖なのよ。思い出す時の」

 どうでもいいすみれの情報に苦笑いしながらも、光太郎はせっかく淹れてもらったお茶に口を付けた。砂糖も何も入れていないというのに、芳醇な香りが甘味を残して咽喉を心地よく滑っていく。
 この紅茶は何と言う種類なのだろう?

「思い出したわ。確か、その村に生まれた赤ちゃんにお父さんとお母さんが贈るお守りだったはずよ。不思議な話でね、その村では子供が1人しか生まれないの。そう言う体質なんでしょうね、きっと。それで、お父さんとお母さんの金の犬を溶かして1つの犬に作り直して、生まれてくる赤ちゃんにプレゼントするって言う風習だったはずよ」

「両親の犬を溶かして…って。それじゃあ、とても大切なものなんですね」

「そうね。でも、まだ続きがあるのよ。その犬を交換するって話…確か、クリスマスの夜に交換すると幸福になるって言い伝えじゃなかったかしら?」

「幸福になるんですか?」

「ええ。確かそうよ。お守りだもの、強運になるんじゃないかしら」

「強運…」

 富子が笑うと、光太郎は何かを考え込むように俯いた。

(聖夜の殺人犯からプレゼントは受け取れない?)

 いつもは憎たらしいほど人を食ったような笑みを浮かべているその目が、一瞬だけ不安気に揺れる瞬間だ。気にしていない…と言えば嘘になるけど、人間は人それぞれに生きる道がある。
 たまたまアシュリーの選んだ道は、一般人では理解ができない道ってだけのことだ。
 それだって何かしらの理由があるのかもしれないし…

「聖夜か…」

「え?」

 傍らに座っているすみれが急に黙り込んだ光太郎を訝しそうに見つめていたが、突発的な発言に、今度は困惑したように眉を顰めて首を傾げた。

「悪魔だって逃げ出す夜だ」

「んもう!何を言ってるのよッ」

 訳が判らずに腹を立てるすみれを無視して、光太郎はまたもや突然婦人の手を取ると、思わず強く尋ねていた。

「その犬を手に入れるにはどうしたらいいんでしょう!?」

「コラッ!」

 思い切り、容赦なくすみれに後頭部を叩かれた光太郎が思わずうめいて手を放すと、ビックリしたように目を開いていた富子はクスクスと笑ってティーカップを手にした。

「残念ながら手に入れる方法はないのよ。現地に行くか、レプリカを作るしかないわよね」

「レプリカって…そう言えば金なんだもの。作っちゃえばいいのよ」

 すみれがポンッと拳で掌を叩くと、富子は困ったように柳眉を顰めて首を左右に振った。

「でも、型がね。日本にあるかどうか…あっても作るには日数が必要なのよ。もちろん、槙村さんは明日までに欲しいんでしょう?」

「はい。やっぱり、無理でしょうか」

 少し落胆したように眉を寄せる光太郎に、すみれがムッとしたように唇を尖らせてヘッドロックを仕掛けてくる。

「な、何するんだよ!すみれッ」

 人前で…と言おうとする光太郎の語尾に被さるようにして、彼女は綺麗に整えた眉を逆立てて怒鳴った。

「何を諦めてるのよ、意気地なしね!どうしても欲しいんじゃないの!?だからわざわざ、こうして調べてるんでしょ!大丈夫よ!きっと作ってくれるお店だって見つかるわ。あたしにまっかせなさいッ」

 誰もどうしてもだとか諦めるとかは言っていないのだが、すみれの強気の発言は光太郎を勇気付けるには充分なものだった。

「ありがとう」

 素直に頷く光太郎とお姉さん気取りで満足そうにニッコリ笑うすみれを、微笑ましく交互に見ていた富子は手にしていたソーサーとカップをテーブルに置いて口を開く。

「無理じゃない…って言えば嘘になるけど、そうね。私も知り合いに当たってみましょう。無理かもしれないけれど、諦めるのはその時にしましょうね」

 軽くウィンクして、〝ちょっと待っててね〟と富子は立ち上がるとディスクに行って受話器を取り上げた。
 知り合いの彫金師に訊ねる富子の表情は次第に暗くなり、光太郎とすみれは祈るようにそんな彼女の背中を見つめていた。イライラとしたように身振り手振りで説明していたが、不意に首を左右に振ると溜め息を吐いて受話器を置く。
 格闘すること凡そ30分、色よい返事はあったのだろうか?
 険しい面持ちで振り返った富子は両腕を組むと、神妙な表情のままで息を飲むようにして待っている二人に口を開く。

「OKよ!明日の夜7時までに何とかして頂けるんですってッ」

 途端にニコッと笑う。
 この富子と言う婦人は、ちょっとお茶目で憎めないところもあるようだ。
 二人はパァッと表情を明るくし、お互いに顔を見合わせて頷きあった。
 そして。

「もう!富子さんったら意地悪なんだからッ。でもでも、良かったわね!…光太郎?」

 自分のことのように喜んでいたすみれはしかし、不意に光太郎の表情がいささか曇っていることに気付いて首を傾げた。

「…いや、何でもないんだ。良かった、手に入る。ありがとうございます、渡瀬さん」

 立ち上がると深々と頭を下げて礼を言う光太郎に、富子は何事かに気付いたように彼を見上げて眉を顰めた。

「もしかして、どなたかと、きっとその金の犬をプレゼントする方と待ち合わせをされてるんじゃなくて?」

 顔を起こした光太郎は何も言わずにニコッと笑って見せたが富子は労わるようにソッと微笑んだ。

「お時間、何時なの?」

「…夜の11時です。大丈夫、俺はウンがいいから。きっと間に合うと思います」

 光太郎が頷いて答えると、暫く時間を計算していた富子はすぐに首を左右に振って眉を寄せた。

「いけないわ。お店に届けてもらうと時間のロスね」

「あの。その彫金師さんのアトリエを教えて頂けますか?もし良かったら俺、取りに行きたいんです」

「そうね。その方がいいかもしれないわ。場所は…」

 ディスクに行ってメモに住所を書き込んだ富子がそれを破って手渡しながら、嬉しそうに受け取る光太郎に軽くウィンクして見せた。

「電話を入れておきますね。きっと、その幸せな方と素敵なクリスマスを迎えてね」

 祝福の言葉に、なぜか盛大に照れる光太郎の脇腹を突付いてすみれが苦笑する。
 こうして、〝アシュリ-の秘密を暴く〟と言う志から大いに逸れた光太郎の野望のようなものは、何となく実を結んで形になろうとしていた。
 たとえ多くの人の助けを借りることになっても、光太郎はその〝ホーリードッグ〟と呼ばれる金の犬が欲しかった。
 その希望は間もなく叶えられようとしている。

◇ ◆ ◇

「いつの間にフィンランド出身の恋人ができたのよ?隅におけないんだから…お尻に敷かれちゃうぐらいの優しさを持ってあげるのよ」

 初めて知る光太郎の恋人(?)のことを想うすみれに景気付けられて、見送られたタクシーで彫金師の元に向かった光太郎は、やがてビルの間で小ぢんまりと経営している小さなアトリエに到着した。
 硝子張りの扉から見えるアトリエ内では数人のスタッフがそれぞれに何かの仕事をしていて、声を掛けて入って来た客に気付く者が1人もいないことから、彼らの真剣さが伝わってくる仕事場だと光太郎は感じていた。
 適度の緊張感が行き渡る室内は、なぜかいっそ、気分に開放感が生まれてしまうのは光太郎だけだろうか。

「おや、君が槙村くんかな?渡瀬さんから電話で伺っているよ」

 不意に衝立に囲まれた奥からひょっこりと顔を覗かせた老人は、ずれた眼鏡を指先で押し上げながら光太郎の姿を見止めて温厚そうな双眸を細めて声を掛けてきた。
 空調の整った室内でダッフルコートを脱いで腕に掛けていた光太郎も、その老人に気付いて軽く頭を下げて挨拶をする。

「宿麻先生!〆切は毎分100キロ(!)の速さで後方から追い立てて来てるんすよ!口を動かす時は手も動かす!ハイ、君も先生の所まで行って下さいね」

 木目調のやわらかさで整えられた室内はしかし、きっちりとした機能性に優れていて、貧乏探偵としては自分もこんな事務所に引っ越したいものだと内心で思って小さく苦笑した。そんな光太郎は、そのアトリエには不似合いなほど派手な出で立ちをした青年に促され、奥にいるこのアトリエのオーナーである宿麻静氏と対面した。
 その手には気を利かせた富子が送ってくれたのだろう、プリントアウトされた金の犬の写真があらゆる角度で写っている紙が握られていた。

「あの、この度は急なお願いをしてしまい…」

「ああ、堅苦しい挨拶は抜きにしておくれ。わしゃ、もう歳でなぁ。そう言うのを聞くと肩が凝っちまうんだわ」

 コキコキとわざとらしく大袈裟に肩を上下させ、愛弟子らしき派手な青年に睨まれた宿麻氏は肩を竦めながら舌を出して光太郎に片目を瞑って見せた。
 このひょうきんな老人を光太郎はすぐに気に入った。

「この写真を見たんじゃがな。これは質素な作りに見えて意外に手強い相手じゃぞい。ここら辺りが小器用に表情を付けとる。金の性質を熟知した上での細工物じゃよ」

「難しいですか?」

「うむ、難しいじゃろうな」

 プリントアウトされた紙を眺めながら頷いた老人はしかし、愉快そうに笑って口許を飾る白い髭を扱き、ご機嫌そうにもう一度頷いた。

「じゃが楽しいぞい。ご覧、この綺麗な流線型を。こんなにも小さいくせに、こやつは見事に自分の存在を主張しとるじゃろう」

 ワクワクしている子供のような素直さで作業に取り掛かった宿麻氏に礼を言って、光太郎は青年が用意してくれたパイプ椅子に静かに腰を下ろすと、その工程を見守ることにした。
 時間は泣いても笑っても残り20時間弱しかない。
 後はこの老人に全てを託すしかないのだ。

「槙村さん。今夜は徹夜になるだろうから、何でしたら2階で休んでててもいいッスよ」

 チュインチュインと金を削る音に紛れるようにして例の派手な青年が声を掛けてくれたが、光太郎はそれを丁重に辞退して宿麻氏の傍らに、邪魔にならないように腰掛けて静かに見守った。

「お前さん。これを贈るのは大切な人なんじゃろうな」

 ポツリと老人が呟いて、光太郎は驚いたように目を見張った。

「いいえ、まさか。あんなヤツっ!」

 思わず本音で言ったはずなのに、まるでなぜか見透かすように老人は小さく口許に笑みを浮かべ、手を動かしながら首も左右に動かした。

「いいんじゃよ、恥ずかしがらんでも」

 ふぉえふぉえっと笑う老人の傍らで、小さなストーブが炎を燈している。シュンシュンッと薬缶から湯気が上がり、夜更けの静まり返るアトリエを温もらせているようだった。 
 そんなんじゃないのに…言外に呟いて、老人の向こう側に見える窓に気付いた光太郎は、ちらちらと舞う白い氷に気が付いた。

「雪だ…」

 思わず声が出ると、宿麻氏はふと、ずり下がる眼鏡の縁を押し上げながら窓の外を覗き込むようにして見上げ、皺に埋まった目をショボショボとさせながら金の犬の形にもなっていない塊を抓んで見下ろした。

「ふむふむ、祝福の贈り物じゃ。きっとこの金色のちぃこい犬は、お前さんの大事なお人の所に駆け出して行くんじゃろうて」

 決まりきったように言われて、ソイツは男なんですよとは、さすがの光太郎も口が裂けても言えないなと思った。ただただ苦笑するしかない。
 暫く無言が続いた。
 何もせずに工程を見守っていると、光太郎の脳裏にはあらゆる疑問を叫ぶ声が渦巻くようになった。
 それは…

(どうして俺は、この金の犬が欲しいんだろう…)

 アシュリーがいつも着ているオフホワイト色をしたコートのポケットから取り出した黄金の犬は、豪華なのに、どこか質素で寂しそうだった。
 大きな掌には不似合いなほど小さい犬は、主の思惑を余所に、無頓着にお座りをしていた。
 それだけだったら、きっとこんなに欲しいとは思わないだろう。
 どこかを旅していた殺し屋が、ほんの気紛れで手に入れた土産品に過ぎないだろうと思っていたからだ。

(でも、違ったんだ)

 殺し屋はいつになく優しい双眸をして、遠い昔に死んでしまった両親の形見だと言う代物を、無造作に取り出して『プレゼントだよ』と言ったのだ。

(普通、両親の形見を得体の知れん奴に気安くやるか!?恋人…ってならまだしも、相棒に認めてもいない俺なんかに)

 質屋にでも売っちまったらどうするんだよ…呟きは声にはならず、光太郎は目の前でほんの少し形になった金の犬に同意を求めるように小さく笑った。

(アイツは、言い出したら利かない奴だから。それに、クリスマスに交換するといいことが起こるって言ってたもんな)

 深い意味になど全く気付くことのない光太郎は、純粋に富子たちの言葉を信じていた。
 良いことが起ればいい…純粋な願いにも似た思いは、アシュリーの職種をいまいち理解していない光太郎にとっての、精一杯の理解であるつもりだった。
 【殺し屋】は【死】と常に背中合せで、飄々としているアシュリーにとっては何でもないことでも、平和な日本に生きる光太郎にとってはオブラートに包まれたような現実だ。半透明で、良く判らない、しかし死は確実に理解している。

(あの馬鹿…よりによって聖夜なんかに仕事をしなくてもいいじゃないか。それでなくても危険な仕事だってのに…)

 死ぬかもしれない。もしかしたら、今この時でも。普通の人間よりもその確率が高いことぐらい、平和ボケしている光太郎にだって判る。

(今回だけは金のお犬さまに、この俺さまが仕方なく!その無事を願っててやろう)

 誰に言うともなく心で偉そうに呟いて、光太郎は金の塊を眺めていた。

◇ ◆ ◇

 雪は夜半過ぎから降り出して、夜明け前に珍しく東京に降り積もっていた。
 根性ある宿麻氏はとうとう一睡もすることなく、未だに小さな犬と格闘している。しかし、その長かった戦いも、もう時期終焉を迎えようとしていた。

「昼には溶け出すと思ってたんだけどなぁ…槙村さん、こりゃあ渋滞は必須だぜ」

 派手な助手が窓の外に降り積もりつつある雪を眺めながら、ダッフルコートを持ち上げようとしている光太郎に肩を竦めてそう言った。

「はぁ。まあ、間に合わなかったら走って行きます」

 無謀とも取れる発言だが、皆の手助けでここまで来たのだ、後一息は自分の足で勝ち取らねば申し訳ない。
 律儀な光太郎らしい発言に、昨日会ったばかりの助手は感心したように振り向いて、小さく笑っている童顔の彼にウィンクして見せた。

「頑張れよ」

「ありがとう」

(…でも、マジでヤバイかも。走りには自信あるけど…)

 記録的、とまではいかないにしても、雪は光太郎の思惑を無視するように静かに降り続ている。
 時刻は午後7時を少し回ったところだ。
 車で飛ばして1時間ほどの距離だが、この様子では3時間はかかってしまうかもしれない。
 貧乏探偵にしては珍しく奮発したプレゼントも、今夜渡せなければ全てが無駄になってしまうのだ。あの、苛々するほどのんびりしている殺し屋も、こと、仕事になると人が変わったようになるから時間を過ぎても待っている、なんてことはないだろう。
 外の寒さを物語るように息で曇る窓の外を眺めながら、光太郎は焦燥感を感じて唇をキュッと噛み締めた。

「よっしゃ!できたぞい!ほれ、如月。可愛くらっぴんぐしてやるんじゃぞい」

「はい!」

 助手が手を出そうとしたが、光太郎は慌ててそれを止めると、腕時計を指差して首を左右に振った。

「せっかくの申し出なんですけど、もう時間もないし。それに、そんなこと気にするような奴でもないんです。ありがとうございました!代金は後ほど指定の口座に振り込ませてもらいます!」

 早口で言うと、慌てて金の犬を掴んだ光太郎はそのままアトリエを飛び出してしまった。
 口よりも素直な身体は、本当はすぐにでも駆け出したいと思っていたのだろう。

「あ!槙村さん!コート、コートッ!!…って、行っちゃったよ。ったく、大丈夫ッスかねぇ?」

 助手の如月が黒のダッフルコートを片手に、腰に手を当てて振り返ると、年輪を刻んだ深い皺に埋もれた双眸を閉ざして宿麻氏は静かに微笑んでいた。

「大丈夫じゃよ。マフラーはしとったからの。タクシーを拾うて行くじゃろう」

「だといいんッスけど」

 如月が幾分か心配そうにアトリエの扉に目を向けたが、大きく伸びをして凝りを解す宿麻氏は首を左右に振って軽く運動し、何でもないことのように呟いた。

「愛する者に向ける情熱は、今時分の若者ならば雪すらも溶かすじゃろうて。心配するに及ばんよ」

「愛…って、マジっすか!?マジで言ってるんすか、宿麻先生!?」

 ふぉえっふぉえっと笑ってはぐらかす宿麻氏に、思わず噴き出しそうになっている如月はその顔を覗き込んで真意を読み取ろうとしたが無駄だった。
 年輪を刻んだ皺は伊達や酔狂ではないのだ。

「愛じゃよ、愛!作品にかける愛も忘れてはいかん」

「…仰る通りで。じゃ、次の愛に取り掛かりますか?」

 意地悪く言う如月に、さすがの宿麻氏も参ったと言うように首を左右に大きく振って苦笑した。

「勘弁しておくれ。老体になれば愛は1日1つでいい。身がもたんでなぁ」

 大きな欠伸をして、日本のサンタクロースは2階に続く階段に姿を消すのだった。

◇ ◆ ◇

 思った以上の混み具合で、光太郎は何度も腕時計に視線を走らせながら、苛立たしそうに窓の外の長い車の列を睨み付けていた。

「お客さん。この通りは平日でも混むんですよ。なかなか動いてくれなくて…」

 不機嫌そうな乗客に愛想良く語りかけるドライバーにも、光太郎は上の空の生返事しか返せない。

「雪がいけないんでしょうねぇ。どいつも用心深くて」

 お喋りが好きなのか、ドライバーは遅々として進まない車のハンドルに暢気に凭れ掛かりながら、バックミラーで光太郎の様子を覗っているようだ。
 彼はもう、そんなことすらも気にならなくなっていた。
 時計を見ると、じきに10時30分を回ろうとしている。約束の時間は11時だ。
 間に合わないかもしれない。
 不意にそんな予感が首を擡げ、余計に光太郎をソワソワと落ち着きなくさせてしまう。

 (ここから走ったら、もしかしたら11時に間に合うかも…)

 唐突にそう思うと、光太郎は居ても立ってもいられなくて、窓の外を見た。コートを忘れていることはタクシーに乗った時点で判っている。マフラーと薄い上着だけでしんしんと降り続ける雪の中を、走ってあの約束の公園まで行けるだろうか…?

(…どうせ駄目でもともとだし、行こう)

「すみません、ここでいいです」

「え!?まだ目的地までずいぶんありますよ?」

 親切な運転手が気を利かせて促したが光太郎は小さく笑って首を左右に振ると、なけなしの千円札を数枚渡してタクシーから飛び降りた。
 途端にビュウッと肌を切るように冷たい風が吹き付けて、思わず首を竦めたが、もともとの気性の激しさでまっすぐに前を睨み付けると、とうとう光太郎は走り出した。
 息が驚くほど白く、街路樹をしならせる雪がぼんやりと光る道路は、恋人たちが寒さから逃れようとするように寄り添いあっている。その間を擦り抜けるようにして走りながら、光太郎はどうしてこんなにも自分は必死になれるんだろうかと、純粋に驚いていていた。
 毎日が退屈だった。
 何かに、仕事にも、こんな風に情熱を傾けることなんてなかった。

(アシュリーと出会って、俺は何かが変わったのかな…)

 息苦しさに眉を顰め、肩で息をしながら立ち止まって少し呼吸を整えた光太郎は、ポケットに突っ込んだ手に当たる小さな物体に気付きそれを握り締めると、口許に小さな微笑を浮かべた。

「頼んだぜ、聖なる犬!これでアシュリーと逢えなかったら大笑いだけど、ヤツの手に渡ったら、きっと護ってやってくれよ」

 聖なる犬に殺し屋の安全を託すと言うのも変な話であるが、それで勇気付けられた光太郎はもう一度大きく深呼吸すると走り出す。
 寒さすら感じない、そんな高揚した気分だった。

◇ ◆ ◇

 公園に着いたとき辺りはシンッと静まり返っていて、街灯も明かりを落としていた。
 時刻は11時30分を過ぎ、そろそろ恋人たちは温もりを求めてホテルに入る頃だ。
 間に合わなかった。
 殺し屋であるアシュリーが、依頼主との時間を破るはずもなく、光太郎は肩で息をしながら途方に暮れたように周囲を見渡した。
 いつも、出会う時は決まって座っているベンチには雪が積もっていたが、つい数十分前には誰かが座っていたと思える痕跡がある。

「来ていたのか…そうか、そうだよな」

 暗い公園内、肩で息をしている光太郎は大きく息を吐くと、そのベンチまで歩いて行ってその傍らにしゃがみ込んだ。

「待ってるよなー、このクソ寒いのに。あいつは、そう言うところは律儀だから」

 オフホワイトのコートを来た金髪の大男は驚くほど従順だ。
 長身で甘いマスクの顔立ちは女が、ともすれば男でさえ放ってはおかないほどの美形だと言うのに、どうした拍子でか光太郎を気に入り、日本に来れば滞在中の殆どを共に過ごしている。
 邪険にしても犬のように懐いてくるのだ。
 ふと、思い出したようにポケットから金の犬を取り出した。

「お前のご主人様は、どうやら仕事に行ったみたいだ。残念だったな…ごめん」

 ポツリと呟く。
 指と指の間で、所在なさそうに輝く金の犬は、アシュリーが見せてくれたものよりも強く輝いている、当然だ、新品だから。

(すみれや渡瀬さん、宿麻さんには悪いコトしちゃったなぁ…)

 申し訳なくて俯いてしまう。
 息が白くて、そろそろ冷えだした身体に寒気が襲ってきても、光太郎は立ち上がる気になれなかった。

「お前にも悪いコトしちゃったしな」

 金の犬は無言で何も語らない。
 もし、これでアシュリーに逢えなくなってしまったらどうしよう。
 不意に、何故か唐突にそんなことが脳裏に浮かんでくる。

「なに、考えてるんだ。俺…」

 そんなこと有り得るはずがないじゃないか、と呟いてみても、悪魔のように心に入り込んできた不安は容易に消えてくれそうもない。聖夜に犯す大罪は、やはり許されることもなく、こうして僅かな願いすらも聞き届けてはもらえなかったのだ。 
 金の犬を握り締めて、光太郎は凍える拳に白い息を吐きかけた。

「きっと大丈夫だ。俺はきっと、ヤツの感傷的な部分に毒されちまったんだ!」

 吐き出すようにそう言って、しんしんと雪を降らせている天空を見上げた。
 どうか。
 未だかつて、神仏と言ったものに縋ったことのない光太郎は、ポツリと口を付いて出た言葉に驚いたように目を見開いた。
 しかし。

「許して下さい。どうか、ほんの少しでいいから、あいつに情けをかけてください。どうか、あいつが死にませんように。明日の朝も、あの人を食ったように笑うあいつに会えますように…」

 まるで堰を切ったように言葉は奔流となって口を付くが、現実的に漏れたのは、静かな、淡々とした切なる願いだった。
 雪が一片、また一片と光太郎の暖かな頬に降り注いでは、その温もりに溶けて玉を結び、流れてゆく。まるで、泣いているかのように。
 誰もいない静かな公園で、光太郎の言葉は夜空に吸い込まれ、この世の何処かにいるのかもしれない何者かのところに届くように、その切ない願いはやがて風になった。
 漸く、もう本当にアシュリーがいないのだと自分に言い聞かせて、光太郎は愚図る両足を叱咤しながらのろのろと立ち上がった。
 このまま帰ってもどうせ寒い我が家が待ってるだけなら、ちょっと散歩でもしてみようか…そう思いながら。

◇ ◆ ◇

「何を泣いてるの?」

 不意に背後からかかった聞き慣れた声に、光太郎は最初、信じていなかった。
 寒さからくる幻聴なのだと、都合の良い空耳を無視しようとしたが…

「わ、凄く冷たくなってるじゃない。大丈夫?」

 光太郎を立ち上がらせた人物は、オフホワイトのコートに冷たくなっている身体を包み込むようにして抱き締めてきた。ホッとするような温もりは、それが幻覚でも幻聴でもないことを意味している。

「…って、アシュリー!?お前、どうしてここに…」

「どうしてって…ヘンな人だね。自分で来いって言ったんじゃない」

「そりゃあ、言ったけど…」

 なぜこの時間にここにいるんだ?仕事はどうしたんだ!?
 ぐるぐる脳裏に渦巻く質問は要領を得ず、寒くてかじかんでしまった口も思うように開かない。

「30分過ぎても来ないからさぁ、てっきりフラれたんだとばかり思ってた。で、ちょっと冷えたから缶コーヒーを買いに行ってたんだよ。この公園って不便だよね?缶コーヒーを買うために通りを渡ってさらに歩いて、結局コンビニまで行かないとないんだから…って、どうしたの?」

 自分勝手に不機嫌そうに話すアシュリーの聞き慣れた声と、黒のセーターに包まれた胸から聞こえてくる規則正しい心音は、やがて光太郎に落ち着きを取り戻させ、先ほどの不安を消し去るには充分効果的だった。
 大丈夫、コイツは殺しても死なない。
 その安堵感から溜め息を吐いて、いっそのことこのまま抱きついておこうと、天然カイロのように抱き締めた光太郎をアシュリーは訝しそうに見下ろしてきた。

「なんでもねーよ、ちくしょう!またお前にしてやられた」

「はぁ?」

 訳が判らずに間の抜けた声を出すアシュリーに、光太郎はその胸元から笑いながら顔を上げて、その雪明りにぼんやりと浮かぶ綺麗な顔を見上げて小さく呟いた。

「お前が死ぬんだって思ったんだ。今夜の仕事で」

「? なに言ってるの。死なないよ」

 縁起でもないなぁ、と、同じく微笑みにエメラルドの双眸を細めたアシュリーも、降り注ぐ雪の中から光太郎を見下ろしてくる。

「あの犬がいただろ、まだ持ってるか?」

 唐突に訊ねられて、光太郎を抱き締めるように包んでいるコートのポケットから金の犬を取り出しながら、アシュリーは訝しそうに眉を顰めて頷いた。

「もしかして、やっと受け取る気になった?だから電話してきたの…」

 そこまで言いかけて、アシュリーはちょっとポカンッとした。
 次いで。

「わお。クリスマスの奇跡かな?」

 嬉しそうに微笑んだ。
 光太郎の手に握られている金の犬を見て、の発言だ。

「大事にしろよ。いろんな人の思いが込められてるんだ。お前が幸せになるように、無事でありますように…ってな!」

 先ほどの反動もあってか、やたら不機嫌そうに語尾を強めて言う光太郎を、金の犬ごと抱きすくめたアシュリーが嬉しそうにその頬にキスをした。

「うん。きっといちばん強い思いは光太郎だね。だってここまで届けてくれたじゃないか。コートを着るのも忘れて」

 指摘されて、キスのせいもあるのだが、照れた光太郎は赤くなりながらポリポリと頭を掻いたが、敢えて反論はせずにそ知らぬ顔を決め込んだ。

「大事にするよ。きっと手放したりしない」

 ぎゅっと抱き締められて、何だか自分がそう言われてるような気分になった光太郎は照れ臭そうに鼻の頭を掻いて頷いていたが、それでも冷え切っていた身体にじんわりと広がる温もりに、まあいいかと成すがままにされていた。が。

「ちょっと待て!き、キスだけはヤだぞ!誰が見てるとも限らないだろ!?屋外じゃ…」

「ええー、誰がいるの?こんな雪の中に」

 馬鹿は二人だけ。
 そうは思っても、やはり屋外では抵抗がある。
 そんな風に嫌がる光太郎の気持ちを慮ったかどうかは判らないが、アシュリーは光太郎が驚く暇もないほどの素早さでコートにすっぽりと包み込むと、そのまだ何か言いたそうにしている唇に口付けた。やわらかな唇と舌の感触は、少しだけ光太郎に安心感を与える。
 大丈夫だと。
 もしかしたらアシュリーは、先ほどの光太郎の願いを聞いていたのかもしれない。
 だからこそ、今夜は必要以上に抱き締め、口付けるのだろうか。
 今夜は不思議な夜だと、光太郎は思っていた。

◇ ◆ ◇

 暫くして、胸元に頬を当てていた光太郎は不意にアシュリーを見上げ、ずっと聞きたかった質問を口にした。

「今夜は仕事だったんだろ?」

「うん。でも、ほら。雪でしょ?こんな日は殺し屋だってお休みだよ」

「…そっか。それもそうか」

 あれほど恨めしく思っていた雪が、結局、いちばんの救世主だったというわけだ。

「ずっと心配してくれてたんだね。気付かなかった」

「馬鹿言え。誰がお前の心配なんかするかよ。いいか、俺はいつかきっとお前の謎を暴いてやるんだ。だから、今死なれちゃ困るんだよ。俺さまの為に決まってるだろ?」

 いつもの勢いを取り戻した光太郎が憎まれ口を叩くと、困惑したように口をへの字に曲げていたアシュリーはしかし、不意にぷっと噴き出して、そして苦笑しながら頷いた。

「やっぱり、光ちゃんはそうじゃないとダメだね。ヘンにロマンチックだと、何だかこっちが不安になっちゃうよ」

「なんだよ、それ」

 むすっとして睨むと、アシュリーはもう一度ギュッと抱き締める。

「そのままの光太郎でいいって言ってるだけだよ。オレは幸せだな」

「はぁ?」

 今度は光太郎が間抜けな声を出したが、アシュリーは何でもないよと首を左右に振った。
 そして。
 何時の間にか雪のやんだ深夜の公園で、光太郎とアシュリーは正式に金の犬を交換したのだった。

クリスマスの夜。
彼らは二人きりだった。
でも、きっと暖かかったよね。
この幸福をくれた。

『みんなが幸せでありますように…』

そう願っていた。

金色に輝く、希望のような、小さな犬に願いを込めて。

それはクリスマスの贈り物。

─END─