11  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 デュークと言う、ディープブルーの仄かに煌く不思議な髪を持つ妖魔は、色んなヤツの感情を真っ向から受け止めては、自分の身内に抱えてひっそりと傷を増やしていくような馬鹿なヤツだと思う。
 人間よりも人間らしい感情の持ち主で、長い睫毛を伏せて、頬に草臥れたような影を作りながら、いったいどれだけの長い時間を過ごし、幾つの傷を心に刻み付けて生きてきたんだろう。
 はかり知ることなんかできない遥かな時間の中で、きっと、デュークは傷付き過ぎて、もう自分が傷付いているのかいないのかも判らなくなっちまったんじゃないかな。
 だから、口先ではシークを罵りながら、その剥き出しの悪意の全てを自分のせいにして、真っ向から受け止めようとか…考えてるんだろうな、コイツのことだから。
 あれから、すぐにデュークは俺を連れてマンションに戻ってきたんだけど、《今日は疲れたね》と呟くように言ってから、まるで死んだように俺を抱き締めたままで眠ってしまった。
 血液の媒介でシークを倒そうとしたんだけど、今一歩のところでアークが取り逃がしちまって、それでも、俺の血液で体力は戻ったんだとばかり思っていたんだけど…大丈夫なのか?
 ぎゅうっと抱き締められているから起き上がることもできないんだけど、それでも、この豪胆なほど強い妖魔にしては珍しく、まるで縋り付くようにして俺の色気もない胸元に顔を埋めるようにして眠っているデュークを見下ろしながら、俺は一抹の不安を感じていた。
 表情こそ、いつも通りの飄々とした感じなんだけど、どこか必死な感じがして、心配で仕方ないんだよ。
 額に浮かんだ汗が、この眠りがけして穏やかなものではない…と言うことを、静かに物語っている。
 心にまたひとつ、傷を隠して、お前ってヤツは何事もなかったような面をして眠るんだな。

「デューク…俺、うまく言えないんだけどさ。それでも、沙弥音は幸せだったんじゃないかと思うよ。僅かな時間だったし、最後はその、悲惨な状況だったのかもしれないけど。それでも、いつもは知らん顔のお前が、必死な顔で助け出してくれたんだ。だからこそ、沙弥音は最後の一瞬に正気を取り戻して、お前に聞いたんだよ。それは、純粋な妖魔であり、この世で最も優しい人生の教師だったお前にしか聞けない最後の質問だったんだ。どんな意味があるにしろ、沙弥音にとってお前は、世界中で一番優しい家族だったんだぞ」

 だからもう、傷付くなよ。
 眠っているデュークの耳に届いてるかどうかまでは判らないけど、いや、判ろうとは思わないんだけど、俺はたとえデュークが聞いていなかったとしても、それでもたどたどしく言ったんだ。
 想いがちゃんと伝わればいいんだけど、考えていることは、言葉にすると誤った表現になったりするから、気持ちを伝えるのは難しいと思う。
 まるで子供みたいにギュッと抱き付いたままで眠っているデュークの頭を抱え込むようにして、俺はその不思議な色合いで仄かに光を放つ髪に頬を寄せていた。
 世界中で一番、優しくて信頼できる家族のような存在だったからこそ、沙弥音はシークでも、ましてやアークでもなく、唯一お前一人に、最後の言葉を遺したんじゃないのか?

【私はシーク様を覚えているでしょうか?】

 きっと、もう虫の息だった沙弥音には時間がなかったに違いない。
 だから、そんな彼女が言いたかったのは、シークへの想い、デュークへの感謝…いろんな思いをちゃんと覚えていることができるのか…何度もデュークを煩わせた同じ質問を、最後に投げかけることで、きっと全てを失ってしまうだろう自分のことを、せめてデュークには覚えていて欲しかったんじゃないのかな。
 俺だったら、そう思って行動しただろう。

《…ボクはそんなに優しい妖魔ではないよ》

「ぐは!お前、起きてたのか?!」

《ちょっと前にね。光太郎の声が聞こえたから》

 物思いに思い切り耽っていたから、俺はあわあわと泡食ったようにしどろもどろで真っ赤になるんだけど、俺を抱き締めて離そうとしない、ディープブルーの仄かに煌く不思議な髪を持った、綺麗な顔立ちの妖魔は人の悪い笑みを浮かべて俺を見詰めてくる。
 そんな風に妖魔らしい笑い方をしながら、そのくせ金色の双眸が、どこか嬉しそうに見えるのが俺の見間違いじゃないとすれば…くそぅ、怒る気も失せちまう。

《…沙弥音の想いは遥か彼方、もうボクでは判らないところに逝ってしまったよ》

 それは、そうなのかもしれないけど…そうしてお前、ほら見ろ、やっぱりそんな風に、平気そうな面して普通に笑うんだろ。そんな風に、悲しい顔ばっかりして、何が楽しいんだ。

「お前はバカだ。大馬鹿な妖魔だ」

 俺は下唇を突き出すようにして悪態を吐いたけど、ふと、嬉しそうに金の双眸を細めて笑ったデュークが力強い腕で俺を抱き締めるもんだから、逃げ出すこともできやしない。

《そうだね、気付きもしなかったよ。ボクは馬鹿なんだ》

 ポツリと呟いた声音の頼りなさに、俺はハッとして綺麗な妖魔の顔を見た。
 まるで今にも消えてしまいそうな覚束無い表情をしているくせに、デュークは俺を抱き締めたままで淡々と笑っているんだ。真っ赤な唇と金の双眸が、俺を不安にさせる。
 何でそんなに不安になるのかは判らないんだけど、それでも、俺は食い入るように、必死に絡み付いているデュークの腕をギュッと掴んでいた。

《光太郎?どうかした??》

 ふと、不思議そうな顔をして見下ろしてきたデュークに、へそ曲がりな俺はムッとしたままで、なんでもねーよと目線を逸らすことぐらいしかできない。
 そんな俺の態度が理解できなかったのか、綺麗な妖魔は《おかしな光太郎だね》とクスクス笑って抱きついてきやがるんだ。
 お前の方が、よほどおかしい妖魔だよ、コンチクショウ。

《…ボクは本当にバカだな》

 クスクス笑っていたデュークは、ふと、小さくポツリと呟いた。

《大切なものばかり見失って、それなのに、ボクはそれに気付きもしなかった》

「…」

《光太郎に言われてハッとしたよ。随分と長いこと、沙弥音はボクに難題を遺していたんだけど。今日ね、なんとなくその答えが判ったような気がするよ。光太郎が気付かせてくれたね》

 男二人で寝てても余裕のあるベッドで、薄暗い室内でも仄かに煌くディープブルーの不思議な髪を持つ、闇夜でも確り見えるんだろう金色の瞳を細めて、デュークはなんとも言えない表情をして俺を見詰めてきたんだ。

「お前はさ、お前が思っている以上に優しい妖魔なんだよ。そんなの、もういい加減気付くに決まってるじゃねーか」

 やれやれと目線を逸らしながら悪態を吐いたら、俺に抱き付いていたデュークは、絡めていた腕を離すと不貞腐れている俺の頬を両手で包み込んできたんだ。思わずギョッとしてデュークを見返したら、頓珍漢な妖魔野郎は不思議そうな顔をして俺をマジマジと見やがるんだ。

《だから、ボクはそんなに優しい妖魔じゃないよ?》

「そう思ってんのはだなぁ、お前だけだっての!」

 思わず鼻筋の通っているその鼻先をグニッと突っついてやったら、デュークのヤツは思わず…と言った感じで寄り目なんかしやがるから、このバカヤローさまは憎めないんだよな。
 …って、何を言ってるんだ?!くぅ…俺様としたことがッ。

《…もう、随分と長いこと生きてしまったからね。ボクには感情らしいものなんてないんだよ。だから、どんなに光太郎がボクを擁護してくれても、ボクの中に僅かに残っているのかもしれないその優しい感情すら、希薄で、指の隙間から擦り抜けてしまうほど心許無いんだ》

 デュークは金色の双眸で俺を見詰めながら、そんな風に、胸がズキリと痛むことを言いやがった。
 何なんだよ、お前は。
 妖魔のくせに、いつもは人間を襲って、その血肉を喰らって生きているくせに、どうしてそんな風に何もかも全てを悟っちまったような顔をしやがるんだ!
 なんか、ムカムカするな。

「あのなぁ、この俺様がお前は優しい妖魔だって言ってんだ。だったらお前は、優しい妖魔なんだよッ」

 渾身の力でデュークの腕をもぎ離した俺は、それから反対にヤツの腕を掴むと、ベッドに懐いている中途半端な妖魔の身体を引き起こしたんだ。
 いや、実際は正真正銘の妖魔なんだろうが、んなもんはこの際無視に決まってら!

《??》

 目を白黒させているデュークを無視して、俺は呆気に取られているふざけた妖魔の顔を見下ろして眉尻を跳ね上げたんだ。

「だいたい、そもそもどーしてテメーが中途半端な妖魔たちの色恋沙汰に振り回されてんだよ?!その段階で、優しいとかんな問題じゃねぇ。とんだ大間抜けじゃねーかッッ!」

 俺が何を怒っているのか、たぶん、このちゃらんぽらんそうな妖魔には判らないと思う。
 それでも俺は、自らが生み出したとは言え、自分勝手な半人前の妖魔たちに、本気で振り回されている正真正銘の妖魔であるはずのデュークの、その献身ぶりが腹立たしくて仕方なかったんだ。
 きっと、デュークは沙弥音も、そしてあの遠い異国の旅人に成り果ててしまったシークすら、心の底でひっそりと愛していたんだろう。愛し過ぎて、二人の空回りする運命の歯車をなんとかしてやりたくて、でもどうすることもできない事実に傷付いて、泣くこともできないから、シークが自分を恨むことを止めることもせずに、一心にその憎しみを受け止めようとしているんだろう。そんな風に考えたら、尚いっそう、俺はムシャクシャして歯軋りだってしたくなっちまうよ。

《だって…光太郎。それはね、全ての原因がボクにあるからだよ》

「お前ってヤツは…またそんなことを抜かしやがってッ」

《違うんだよ》

 そう言って、誰もが恐れる妖魔のくせに、まるで無害な生き物のような双眸で俺を見詰めながら、デュークのヤツはクスッと自嘲するように笑った。

《ボクが、シークを殺してあげてれば良かったんだ》

「…え?」

 ポツリと呟いた台詞に、怒りの冷めやらぬ俺は眉を寄せたままで、デュークの真意を探ろうとしたんだけど…さすが、何百年も生きている妖魔だけあって、その思惑は判らなかった。
 いや、20年かそこらしか生きていない俺が、何百年も、それこそこの世に存在していることが不思議な、人智を超えた超自然の生き物の考えていることが判るとしたら、たぶん、こんな貧乏探偵なんて職業を生業にはしていないと思うぞ。
 デュークは眉間に皺を寄せて胡乱げに見下ろす俺の双眸を、何を考えているのかいまいち掴みどころのない無頓着な金色の双眸で見詰めてくる。

《でもできなかった…ボクは、シークを殺してあげることができなかったんだよ。アークからは散々嗤われてしまったけれど、それでもボクは、シークを殺せなかった》

 どんなに面倒臭くてもアークを消せなかった、と言って寂しそうに笑っていたコイツのことだ、どーせまた奇妙な仏心でも出てるんだろうと、俺は苛々しながらデュークの話を聞いていた。

《だって、シークを殺してしまったら…ボクはまた独りぼっちになってしまうんだ。沙弥音やシークの想いを慮るのなら、ボクのこの行為はとても罪深い。シークの怒りはボクへの罰なんだよ》

「だから、お前はシークに狙われて、その命すら危険に晒しても、アイツを殺さなかったんだな」

《…》

 俺が気付いていないと思っていたのか?
 あの時、アークが取り逃がしたのはわざとだ。それも、デュークの思念を敏感に感じ取る双子のようなアークは、一瞬、怯んだようにデュークを見て、それから慌てたようにペラペラ喋って消えてしまった。
 物言わぬ影のようにひっそりとした双眸で俺を見詰めてくる妖魔に、俺は腹立たしげに鼻に皺を寄せてフンッと鼻で息を吐き出した。

「違うね。お前は独りぼっちになるのが怖いんじゃない。お前は…」

 俺は呟いて、それから見下ろしている綺麗な妖魔の酷薄そうな薄い唇に口付けた。
 デュークは驚いたように目を瞠ったようだったけど、気付いたらキスをしてた俺の方がビビッてんじゃ意味がないんだけどよ。それはもう、ご愛嬌ってモンだ。

「沙弥音を想うシークと、シークを想う沙弥音の感情を失いたくなかったんだよ」

《…え?》

 どれだけ驚いているのかは、キスされたことだとか、俺の台詞とかに思い切り動揺している…って、あの飄々として掴みどころがない、ふざけたピエロの妖魔が動揺なんかしやがるんだ。でも、自分が言ってることが、本当はまるで見当違いな頓珍漢なことを抜かしてるんじゃねぇかって、心配している俺の方がもっと動揺してるんだから、そんなの気になんかしてやれるかよ。

「だから、殺せなかった…んじゃなくて、お前は殺さなかったんだ。敢えて、わざとシークを生かし続けていたんだ。お前がさっき言ったように、長い年月を生きたせいで感情を亡くしてしまったんだろ?だから、シークまで失ってしまったら、お前は愛することも誰かを気遣う心も、何もかも全て失ってしまうんじゃないかって、デューク、お前はそう考えてしまったんじゃねーのか?」

《……ッ》

 デュークは、何故か泣きだしそうに顔を歪めた。
 そんな風に顔を歪めているくせに、デュークは自嘲的な笑みを口許に浮かべやがるんだ。
 その顔は、あまりに辛そうで、そして悲しげだった。

《…恐るべし、探偵さんだね。まるで何もかもお見通し。だからボクは、もうシークを殺すことができるんだろう》

 泣くことができないと言っていたデュークは、心から悲しそうに眉を顰めて、虚ろな笑みを口許に刻んでいた。
 だから、俺は自分の考えが間違っていないと確信することができた。

「でも、そうじゃねーんだよな?」

 苦笑を浮かべた俺が見下ろすと、悲しそうに眉を顰めている妖魔の、金色の双眸が訝しそうに細められたんだ。

《光太郎?》

「そんな顔してもダメだぜ。だから、気付いてるって言ってんだろ?最初は俺もそう思ったんだ。お前は馬鹿なほど優しい妖魔だからな。でも、違うんだよ。根本がまるで違う。お前は、自分の感情の希薄さに気付いていた。だからこそ、シークを生かし続けることで、シークと沙弥音が大切に育んでいた【愛情】と言う感情を残そうとしたんだろ?自分が忘れてしまったら、それこそ、自分が戯れで命を与えてしまったこの哀れで愚かな、悲しい生き物たちの記憶はどうなってしまうんだって…考えちまったんだよな、デューク」

 お前は、気が遠くなるほど長い年月を生き続けてしまったせいで、その行為が本当はどれほど【優しい】のかを忘れてしまったんだよ。その優しさがたくさんの犠牲を生んでしまったのは、恐らく、事実ではあるんだろうけど…それでも俺は、この無垢な妖魔を恨んで見捨てるなんてことはできなかった。
 俺の依頼人、娘を亡くしてしまったお袋さんには申し訳ないんだけど…

「そんなくだらねーこと、何百年も心に抱え続けやがって!…俺は呆気なく死んじまう人間でしかねーけどさ、俺を想ってくれる気持ちがあるんなら、大丈夫だ。デュークの中でちゃんと、沙弥音とシークの想いは生き続けるさ」

 照れ臭くて、気付けば仏頂面でぶっきらぼうに言ってしまっていたんだけど、俺は、そんな風に全身で物悲しさを訴える身体を抱き締めながら、デュークの震える唇に口付けていた。
 優しすぎる妖魔の無垢な想いが沙弥音の許にシークを逝かせてやることもできなかったデュークだけど、その優しさを誰よりもよく知っていたから、沙弥音はデュークにあの言葉を遺したんだろう。

【私はシーク様を忘れないでしょうか?】

 この想いを忘れずにいられるか…愛を知ることのないデュークに、どうか、誰かを愛して欲しいと。
 自分の代わりに、この想いを忘れないで欲しい…私にそれができるのなら、きっとあなたにもできると、これは俺の勝手な解釈なんだけど、短い時間の中で死に逝く沙弥音が必死に考えた、優しい妖魔への別れの言葉だったんだろう。
 その言葉をずっとデュークに、デュークだけに投げ掛けていたのは、その答えを知りたいとか、そんな単純なことじゃなくってさ、その答えをデュークに見つけて欲しかったんだよ。
 忘れるのだと言えば…いや、やるな沙弥音。
 彼女は、デュークがそうは言わないことをちゃんと判っていたんだと思うぜ。
 優しいデュークだから、きっと《忘れないよ》と答えを見つけると踏んでたんだな。中途半端な出来損ないの自分ですら忘れない感情なのだから、正当な妖魔であるデュークが、感情を亡くしてしまうはずがないと、沙弥音は言いたかったに違いない。
 でも、それにはあまりに時間がなさ過ぎた。
 まるでナゾナゾのような言葉を遺して逝った沙弥音の心残りは、きっとシークなんだろうけど、それ以上に、彼女はシークの戯れが生んだ自分を殺すこともなく傍に置いてくれたデュークを直向に信じて、そして遺して逝く悲しい妖魔が心配で仕方なかったんだろう。
 俺の心は必死にアシュリーを求めている…でも、認めたくはないんだが。
 俺は…俺の心は、切なくなるほど、デュークを愛しいとも思うんだ。
 気紛れで残忍で…遣る瀬無いほど優しすぎる腕の中にいるこの妖魔が、俺は愛しくて、長い睫毛に縁取られた目蓋で金色の双眸を隠してしまうデュークの腕に抱かれながら、手に余る感情を持て余したまま、自分がいったい何をしたいのか判らない、取りとめもない思考の中で、溺れるように抱き締めてくるこの腕が全てなんだと思い込もうとしていた。

10  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 立ち寄ったブティックは酷い有様だった。
 中立の立場にある『旅人』である妖魔がオーナーを勤めるブティックは、確かに何か、人間ならざるものに荒らされた気配が濃厚に漂っていた。
 警察が来るよりも先に、結界を張っている室内に立ち入ったアシュリーは、どうやら遠き異国の旅人の仕業に違いないとは思いながらも、何か鳩尾の辺りに引っ掛かるものを感じて垂れた双眸を細めながら周囲の気配を窺っている。

「おっどろいたわね!遠き異国の旅人の仕業にしては、規模が小さいと思わない?」

 オーナー室から出てきた、ホットパンツから素足を惜しげもなく晒す、強気なアーモンドアイがチャーミングな美しい娘が、肩口で綺麗に摘み揃えられた黒髪を優雅に揺らしながら肩を竦めて賛同を求めた。
 だが、声を掛けられたはずの金髪の大男は、微かに発光する非常灯の明かりでも充分認識できる室内を見渡しながら、訝しげに眉根を寄せている。

「…ふーん?あんたがそんな難しい顔をするなんて珍しいじゃない。何か気になった?」

「エレーネ…不思議だと思わない?」

 弾け飛んだ電球の残骸を晒す天井は打ちっぱなしのコンクリートが接げて無残なものだし、床に突き刺さった鉄製のドアは激しい力でもって投げ出されたことを雄弁に物語っている。
 …と言うことは、だ。

「この惨状、明らかに何かを狙っていたんだよ」

「あら、随分と進歩したようね。その辺に気付くなんて、昔のあんたからじゃ到底考えられないもの」

「ハイハイ、姐さんの嫌味なんてどーでもイイですよ。コイツは参ったね。どうやら、遠き異国の旅人に別の何かが絡んでる」

 両手を呆れたように上げて溜め息を吐いたアシュリーは、微かに残る、何者かの気配をその鋭敏な嗅覚で感じ取ろうとでもしているようだったが…エレーネは肩を竦めてクスッと笑うのだ。

「厄介になっちゃったなーって思ってるでしょ?」

「う…バレた?」

 顰めていた眉をパッと上げると、クスクス笑うエレーネにウィンクなどして見せる。

「顔に書いてあるもの。あんたは感情が面に出やすいのが玉に瑕ね」

「ほっといてくれる?」

 人気の途絶えた廃墟と化したブティックの一室で、白い息を吐き出しながら笑うアシュリーとエレーネの奇妙なデコボココンビを物珍しげに見ているオーナー、妖魔であるタスクは腕を組んで事の成り行きを見守っていた。
 相手は『旅人』が派遣したギルドの処刑人たちだ、ここにデュークでもいてくれるのなら好んで戦ってみたい相手でもあるが、今は大人しく指示に従うしかなさそうだ。
 只ならぬ気配を宿した小柄な娘は真冬だと言うのにホットパンツにヘソ出しルックと言う、見るからに寒そうな、それ故の身軽さでもって大柄な金髪男を見上げている。
 だが…

(奇妙な氣を持った男ねぇ…何かしら?アタシたち、そうね、そこの姐さんとも少し違うわね)

 実力は恐らく計り知れないだろう小娘の皮を被った化け物よりも、その傍らで、その大柄な体躯からは想像もできないほどひっそりと佇んで状況判断をしている煌く金髪の異国の顔立ちをした男の方が気になったタスクは、腕を組んだままでその素性を探ろうとでもするかのようにコッソリと窺っている。

「それにしてもヘンねぇ!ここには色んな氣が入り乱れていて思うように掴めないわ」

 エレーネが面倒臭そうに息を吐くと、アシュリーが仕方なさそうに肩を竦めたのだが…ふと、金髪の垂れ目が憎めない大男は、何かを感じたようにハッと顔を上げたのだ。

「…?どうしたの??」

 小生意気そうなアーモンドアイをすっと細めると、微かな殺気を漲らせた不似合いな娘はオフホワイトのコートを着て呆然と突っ立っている相棒を見上げると、その見事な柳眉をそっと顰めた。

「…光ちゃん?」

 ふと漏れた呟きに、タスクの眉が僅かに動いた。

(光ちゃん?)

「あの人間の坊やがどうしたって言うの?」

 ぼんやりと中空に漂っていた双眸にゆっくりと生気が戻ってくると、ハッとしたようにアシュリーは周囲を見渡したのだ。

「光ちゃんの気配がする!どう言うワケ!?」

「なんですって?…ちょっと!タスクとか言ったっけ?ここで遠き異国の旅人と遣り合ったのはどんなヤツだった!?」

 驚くことに、『旅人』が差し向けたはずの処刑人であるエレーネの、そのキツイ印象の綺麗な顔が一瞬だが引き攣るように青褪めて、振り返るなりかなり失礼に問い質してきたのだ。
 そんな顔、『旅人』でも恐れる実力者たちが見せるなんて…タスクは滅多に拝めないものを見てしまった代償として、自らが隠し持っている秘密を口にしなければいけなくなってしまった。
 だが、勿論この姑息な妖魔が易々と口を割るわけがない。

「綺麗な顔をした妖魔だったわ。でも、見たことのない顔だったから余所者じゃないかしらね」

「…人間はいなかったのか?」

 ふと、それまで驚愕したように目を見開いて電球の弾け飛んだ無残な電灯の残骸を見上げていた大男は、ゆっくりと目線を下げると、まるで身内に得体の知れない狂気を宿し持っているような胡乱な目付きで睨んできたのだ。
 それが人にモノを尋ねるときの態度なのかと、できれば言ってやりたいタスクだったが、やれやれと眉根を寄せて首を左右に振った。

「残念ながら人間はいなかったわ。でもね、ここは人間でも入れるブティックなのよ。人間の気配がしてもおかしくないじゃない」

「違うね」

 ふと、タスクの言葉を全面的に否定するようにアシュリーは呟いた。
 その、さっきまであれほど殺意を浮かべていた碧の双眸には、愛しげな、誰かを想っているやわらかな感情が浮いていて、ブティックのオーナーである妖魔を驚かせた。

(人間に惚れてる妖魔?なによ、おかしいのはデュークだけじゃなかったのね。何か、嫌な病でも流行ってんのかしら)

 けして口に出せないことを思いながらもタスクは、アシュリーの確信に近い何かを物語る台詞に肩を竦めるだけだった。

「光ちゃんはね、こんなところには来ないワケ。何よりあのひとには似合わないし」

「或いは調査でここを訪れたのか。ここには妖魔の匂いがぷんぷんするもの」

 クスクスとエレーネが笑う。
 その嫌味的な笑みには、根が優しいオカマのタスクでもムッとしてしまう。

「ちょっとぉ!失礼こいちゃうわねぇ。こう見えても雑誌にだって載ったお洒落なお店だったのよ!…あぁ~ん、こんなになっちゃってぇ。保険の件もあるからそろそろ警察を呼びたいんだけど、まだ何かあるのかしら??」

 店内を見渡しながらガックリと派手に項垂れて恨めしげな目付きで言い募るタスクに、エレーネは肩を竦めながら相棒の大男を見上げた。
 オフホワイトのコートに身を包んでいてでさえ、どこか寒そうに身体を強張らせている金髪に憎めない垂れ目の大男は、切なそうに店内を見渡している。

(光ちゃん…そんな”まさか”だよね?)

 柄にもなくハラハラしているアシュリーのそんな態度に、業を煮やしたようなエレーネはグイッと腕を引っ張って彼を現実に引き戻すのだ。

「そろそろ行くわよ。ここにいたってあんたの気持ちを漫ろにするんじゃ意味がない。氣が消えないうちに追いかけるんでね。早くおし!」

「エレーネ、でもオレは…」

「でももクソもないの!行くよッ」

 腕を引っ掴むようにしてエレーネはもはや瓦礫と化した店舗を省みることもなく立ち去ろうとするが…金髪に碧眼の、異国の顔立ちをした大男だけは名残惜しそうに振り返っている。
 僅か数日離れているだけで、どうしてこんなに心が千切れてしまいそうなほどの焦燥感を感じてしまうのだろう。
 アシュリーにはそれが判らなかった。
 1人荒れ果てた店内に取り残されたタスクは、やれやれと腰に手を当ててどこから片付けるものかと思案に暮れながら溜め息を吐いていたが、ふと、静かな風のように現れて旋風のように立ち去っていった2人のその後姿の消えた出入り口を見詰めて不安げに綺麗に剃った眉を寄せた。
 『旅人』の命令さえ背いてでもここに残って氣の流れを追いたそうに見えたあのオフホワイトのコートに身を包んだ大男は、風変わりな気配を持ちながらも、明らかに妖魔の側に立つべき者だった。
 それなのに、いったい誰にそれほどまで心を砕いているのだろう?
 どうしてそれほどまで、人間に想いを寄せられるのだろう…

(光ちゃん…そう言えば、デュークが連れていたあの子も確か、光太郎とか言ってたわね)

 一瞬、ディープブルーの綺麗な顔立ちをした妖魔と、風変わりな気配を持つ金髪碧眼の垂れ目の大男が対峙する場面が脳裏を掠め、タスクはブルブルッと首を左右に振って寒くもないのに我が身を抱き締めるのだ。
 余計な好奇心は我が身をも滅ぼす…長いこと生き続けた妖魔の直感に、タスクは素直に従うことにして携帯電話を取り出すと溜め息を吐いて通話ボタンを押すのだった。 

◇ ◆ ◇

「光太郎のフィンランド人の恋人!?」
 鈴が転がるような可愛らしい声音で呼ばわれて、それでなくても『光太郎』と言うキーワードに敏感になっているアシュリーは、ハッとしたように声のした背後を振り返った。
 視線をぐっと下げた先にいたのは、ミニスカートにピンクのブーツでセーターの上からコートを取り敢えず羽織った感じで飛び出してきた、と言わんとばかりの出で立ちをした少女が驚いたように目を見開いて立っていたのだ。

「えーっと…確かすみれ?」

「あ、うん。そうそう!アシュリーって言うんでしょ?どうしてこんなところにいるの??」

「どうしてって…」

 スタスタと歩いてきたすみれにエレーネが訝しそうな表情をして背後から手の甲を抓ってくる。

(この娘はだれ?)

 と言葉に出さずに態度で表す乱暴な姐さんに、取り敢えず少し待っててもらうことにして、アシュリーは切迫したような表情をしているすみれの顔を見下ろした。
 アイツは勝気なヤツなんだ…と、光太郎が仲間の話をするときに常に出てきた彼女の雰囲気は、勝気で男勝りなじゃじゃ馬娘、と言った印象が色濃いアシュリーは、いや、現にその姿を見たときもそう感じていたのに…今日の彼女はその顔に疲労の影を落としている。
 恐らく、随分と寝ていないんじゃないだろうか。
 一見すればいつもと変わりなくも見えるのだが、どこか心許無い、不安に寄せられた綺麗な柳眉がアシュリーに只ならぬ焦燥感を呼び起こした。

「何か、あったワケ?」

 首を傾げて、憎めない垂れ目の大男を見上げたすみれの瞳から、ぽろりと一滴の涙が零れ落ちたとき、アシュリーの中で渦巻く不安が形を成して胸元を締め付けてきた。
 嫌な予感の時ほど、よく当たるものだ。

「こ、光太郎が…あ、ごめんなさい。彼女がいたのね」

 思わずよろけるようにして近付こうとしたすみれは、彼の大きな身体の背後で仕方なく待ちぼうけを食らっている小柄な少女に気付いて、ハッとしたように頬に零れた涙を拭いながら一歩、後退った。
 一瞬きつく睨まれたような気がしたアシュリーは、それでも微妙なニュアンスで言葉を止めてしまったすみれの華奢な両肩をグッと掴んで、焦ったように詰め寄るのだ。

「光太郎!?光ちゃんが、光ちゃんに何かあったのか!?」

「あ、痛ッ…」

 もどかしさに思わず力が入ってしまったのか、すみれが辛そうに可愛い顔を歪めてしまう。
 夜明け前の眠りについた街とは言え、これでは何らかの犯罪現場のようでそのうち警察でも来られたら厄介以上の何ものでもないと知るエレーネが、呆れたように溜め息を吐きながら見た目やんわりとアシュリーの腕を掴んでにっこり笑うのだ。

「女の子にそんな乱暴したら駄目じゃない。何があったのか、順を追って聞かなくちゃ」

 優しげな口調とは裏腹の強い力でもってアシュリーの腕をはがしたエレーネの、その尤もそうな口振りに漸く我を忘れかけていた大男は叱られた大型犬のようにシュンッと我に返ったのか唇を尖らせた。

「あたしはエレーネって言うの。このでっかい垂れ目男の保護者みたいなものね。だから彼女なんかじゃないわ」

 ニコッと笑って、保護者にしては若すぎる彼女を訝しそうに眉を寄せるすみれは、それでもどうやらこの寒々しい姿をした少女の言うことは的外れではないのだろうと、大人しくなったアシュリーを見て感じ取ったのかすみれは慌てたように頷いたのだ。
 何よりも、光太郎の身を案じているのが手に取るように判る金髪碧眼の大男のその、憎めない垂れ目が焦りに暗く沈んでいれば、嫌でも信じざるを得ないのだが。

「光太郎がいなくなったの!つ、連れ去られたって…アリストアさんが教えて下さって」

「アリストア?」

 あの胡散臭いヴァンパイアが?…ふと、アシュリーの眉間に深い縦ジワが寄った。
 光太郎を狙う者は全てが敵だと認識しているアシュリーは、ついでのように、あの日光太郎を襲って重症を負わせたヴァンパイアを調べていたのだ。
 教会でエクソシストとヴァンパイアハンターを生業にしていると言う、なんとも胡散臭いヴァンパイアがわざわざどうしてすみれにそんなことを教えたのだろう?これには裏でもあるのだろうか…アシュリーが無言のままで思いを巡らせている間に、すみれは切迫したようにエレーネの冷えた両手を掴んで泣き出しそうな顔をして縋るように言った。
 頼れる全てにあたって、悉く相手にされなかったのだ。
 縋れるものにはなんにでも縋りたい、その態度が、アシュリーとエレーネに何か只ならぬ…そう、自分たちの側に在る者の気配を感じ取っていた。
 そっと目線を交えてきたエレーネに頷いて、驚くほど冷静にアシュリーはすみれを見下ろした。

「あ、あなたたちは信じてくれないかもしれないけど…魔物が、魔物が光太郎を攫ってしまったの!何とかしたいんだけど、頼れる人もいなくて…」

 うぅ…と、泣き出してしまう彼女を見下ろすアシュリーは、思わず、ギリッと奥歯を噛み締めた。
 やはり、あの時感じた心を引き千切られてしまいそうな予感は間違いではなかったのだ。
 遠き異国の旅人と互角に、或いは上回ったのか、それだけの戦闘をして小規模で抑えきった妖魔が…恐らく、光太郎を連れ去った犯人に違いはないのだろう。

「あのタヌキ妖魔め!」

 ニヤリと、腹に一物隠したような侮れない仏頂面のおネェ言葉の妖魔を思い出しながら、唇の端を捲り上げて笑うアシュリーが吐き捨てるように呟くと、泣き出してしまったすみれを労わるように抱き締めていたエレーネが目線を向けてくる。

《どちらにしても、遠き異国の旅人と渡り合ったその妖魔、見つけ出さないとお話にならないようね》

 脳内に響いた声はエレーネが持つ精神感応術の一種で、幸いなことにすみれには聞こえない仕組みになっている。
 アシュリーは募る焦燥感に押し潰されそうになりながらも、彼女の真摯な双眸を見詰め返して感情を押し殺すように瞼を閉じると頷くしかなかった。

《自らに害を与えた妖魔を、遠き異国の旅人が放っておくはずないもの。ソイツを見つけ出せば遠き異国の旅人も捕獲できるってワケね》

 「大丈夫よ」と囁きながらすみれを労わる反面を見せながら、脳内には計算高い台詞が送られてくる。エレーネらしい遣り方に苦笑すらできず、アシュリーは吐き出した白い息が吸い込まれる、スモッグに汚されてしまった夜明けの空を見上げていた。
 いつからか汚されてしまった空は、青空を隠して途方に暮れて立ち竦んでいるようにすら見える。
 それはまるで鏡のように、取り残されて呆然と立ち尽くす身体ばかり大きくなってしまった少年のような垂れ目の大男に似ていて、冷たい風に舞い上がる金髪はそのままでアシュリーは泣きたくなっていた。
 あの愛しいひとを手離してしまったら自分は…今度こそ後戻りできない場所まで堕ちてしまうのだろう。
 確信めいた思いを胸に、それでも、あのひとを助けに行きたいと思っていた。
 どんな姿になって…たとえ変わり果てた姿になっていたとしても、それでも、アシュリーは光太郎を見つけ出して、その大きな胸の中に抱き締めてもう離しはしないのに…と、開いた両の掌に呆然と目線を落としていた彼は、まるで早鐘のようにドクドクと耳元でがなり立てる煩い音を掻き消そうとでもするように拳に握って、白くなるまで握り締めていた。
 渦巻く身内の、深い深い深淵に隠し持っていたどす黒いうねりを感じながら、アシュリーはほの暗い双眸を細めて静かに笑うのだ。
 何も心配いらない。
 不安になることなど何もない。
 だって…そう、だってね。
 あのひとは他の誰のものでもない、自分のものなのだから…と。
 温かな血の通うものが見れば一瞬で凍り付いてしまいそうな冷たい微笑に、すみれを宥めていたエレーネは、肌寒い何かを感じ取ったように華奢な人間の少女の温もりに縋ろうとしているようだった。
 あの日のように…忌まわしい結果にならなければいいのだが、と、エレーネは養い子の行く末を案じていた。

9  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 デュークは電球の弾け飛んだ殺風景な天井を見上げたままで、ポツリポツリと語り始めた。
 貧血を起こしていた俺は、そんなデュークの胸元に凭れたままで、悔しいけど話を聞いてるしかなかったんだ。

《あれは…16世紀の中期か後期ぐらいの頃だったと思うよ。もしかしたらもっと前かもしれないけれど…もう、随分と昔のことだからね、記憶が曖昧なのはご愛嬌だとでも思ってくれる?まあ、もともと、妖魔という生き物には家族という習性を持たないんだ。その当時、妖魔の間では奇妙な現象が流行していてね。血液の媒介で種族を増やす…とか。やっぱり、独りぼっちは寂しいのかな?》

 皮肉げに笑うデュークの話を聞いていて、俺は軽く息を吐きながら「ああ…」と頷いていた。
 俗に言う、あのブラム・ストーカーの吸血鬼が血を吸って仲間にするってことなんだろう。
 強ちウソでもなかったのか…

《ボクはそれに興味がなかった。仲間たちは人間をどんどん仲間にしていたし、それをしないでいるボクを異端の者でも見るような目でみていたけれど。自分たちこそ妖魔の癖にね》

 クスクスと笑いながら、デュークはそれでもどこか寂しそうだった。

《ボクは…人間を仲間にしても無意味なことを知っていたからね。本当は連中だってそうだったのに、それでも心の奥底にいつもポッカリと空いている穴は深くて、吹き上げてくる風は冷たかったから仕方なかったんだと思う。純粋な妖魔は次々と人間を仲間にしては、虚しさに苦しんでいた。そんな馬鹿げた行為が流行していた頃、ボクはあることにとり憑かれていたんだ》

 なんだと思う?…と小首を傾げながら覗き込んでくる金色の双眸をムッとしたままで見返してやった。判るかってんだ。

「判るかよ」

 素っ気無く答えたら、微かに発光するディープブルーの髪を持つ妖魔はクスクスと笑って、それでこそボクの光太郎だとかなんとか呟いていた。

《“創り出すこと”だよ》

「はあ?」

《判らないかな。ボクが、ボク自身が創り出すと言うことだよ。人間をただ仲間にするなんてゾッとしないしね。他の誰かと寝て子供を作るなんてことはもっとゾッとしない。だったら自分で創っちゃおかな~とか、安直に思いついてしまってね》

 困ったな~とでも言いたそうに笑うデュークを、この時になって俺は漸くコイツが、実はとんでもなく強い妖魔で、限りなく我が侭で、半端じゃない間抜けなんだと言うことに気付いたんだ。
 安直に思いついただけで妖魔を創り出すって言うのか!?
 いや、寧ろどうやって創りだしたって言うんだ?
 俺は呆れながらも興味深々でデュークの言葉に耳を傾けていた。

《手始めに創りだしたのがアークだよ。彼にボクは、ボクの持つ力…まあ攻撃力ってヤツかな?それを与えたんだ》

 突拍子もない台詞に俺の思考回路がバーストしそうになった。
 は?今、なんて言ったんだ??
 アークを創りだした?
 アイツとは双子じゃなかったのか??
 クエスチョンマークだらけになる俺の頭なんかお構いなしに、デュークは一方的に話を続けていた。

《これが意外と面倒臭いことに気付いたのは別の妖魔に攻撃された時でね~。結局、ボクは自らの血液を代償にしないと戦うことも出来なくなったんだ》

「…つーことは、アークが死ねばお前も死ぬのか?」

 なんか、ワケの判らん質問だったかもしれないけど、面倒臭い存在のアークを消せないとなると、やっぱりそう思うのが自然なことじゃないかな。

《別に?ボクが死ねばアークも死ぬけど、アークが死んでもボクには攻撃力が戻ってくるってだけのことだよ。ボクがアークを消せなかったのは…他の妖魔と一緒、独りになるのが忍びなくてね》

 照れ臭そうに笑ったのは、長い時間を独りぼっちで過ごしてきたデュークが手に入れたモノは、俺たち人間が考えるよりももっと奥深いものだったからなんだろうと思えた。ただ、それがどれほど貴重なものであるかなんてことは、今の俺では…いや、人間として生きている俺では到底はかり知ることなんてできない領域の問題なんだろうけど。

《調子に乗ったボクは、死にかけた人間を見つけたんだ。雨が降っていて、薄ら寒い午後だった。ペストが流行った後の街はどこも蛻の殻で寂しいぐらい静かで、その時もアークはあの調子でふらふらしていたから、唐突に独りぼっちになったみたいで寂しかったのかな?死にかけた人間に、悪戯に生命力を与えたんだ。やった行為が結局、ボクが笑ってた連中と同じだったかどうかと言うことは今となっても判らないんだけど…それがシークだよ》

 遠い昔の出来事で、記憶が曖昧なんだと釘をさしながらも、デュークのヤツはどうやらその脳裏に当時のことを鮮明に思い出してるようだった。

《ボクたちの性格はそれぞれバラバラでね。アークはボクが創り出したせいかそれこそ顔はソックリだったんだけど、なぜか性格はまるで正反対だった。ボクはどちらかと言うと執着心の強いタイプだけど、アークの場合は闘争心が強いカンジ。恋愛とかよりも喧嘩を優先しちゃうタイプだね。シークの場合は…妖魔のボクが言うのもなんなんだけど、鬼畜とでも言うのかな?》

 言い難そうに言葉を選んでいたデュークは、仕方なさそうにポツリと言ったんだ。

《人間だった時の性格が妖魔の体質にどんな影響力を与えたのかはボクには判らない。ただ、よほど人間の時は女好きだったみたいでねぇ…仲間にした後に放り出すのも忍びなくて、嫌がるアークを説得して傍に置いていたんだけど。シークはいつも古巣に女を連れ込んでいたよ。そのくせ、仲間にするワケでもなく食餌にしては打ち捨てていた。酷いヤツでしょ?》

 クスクスと笑いながらも、デュークの金色の双眸はそれほど愉快ではないと物語っている。
 このデュークと言う妖魔は、どうも妖魔らしくないと思う。
 恐らく、アークに攻撃力を与えた時に妖魔としての本質も手渡してしまったのかもしれない。いや、コイツらはきっと2人で1人なんだろう。妖魔の残虐性と素っ気無さはアークが、妖魔がどこかに持ち合わせている人間を憐れむ優しさのようなものがデュークに残ったんじゃないのかな。
 アークが不思議がっていた俺を好きだという気持ちも、別の固体を生み出してしまった副作用のようなものなんだろう。
 あくまでもこれは、俺の勝手な推測なんだけど…

《そんなある日…あれは、17世紀もそろそろ終焉を迎えていた時だったかな、シークが1人の少女を連れて帰ってきたんだ。日本人かどうかは今となっても判らないけれど…アジア系のその少女は酷く怯えていた。どんな方法で連れてきたのかはだいたい想像はついたけど、それでも結局、ボクには興味がなかったからね。沙弥音と言う名前で食餌にする気だとシークは言っていたよ》

 デュークは言葉を切って何事かに思考を廻らしているようだったけど、不意に小さく苦笑したんだ。

《名前を覚えていたってだけでも目覚しい進化だね…シークは賢い妖魔ではあったけど、とても愚かでもあった。自分の恋心にも気付けなくて》

 誰かを思いやる心なんか、妖魔が持っていちゃおかしいと俺は思う。
 でもそれは、妖魔は残酷かもしれないと言う先入観を持っているからそう思うのであって、本物の妖魔ってヤツには、もしかしたらこんな風に、人間と同じようにいろんな性格のヤツがいるのかもしれないなぁ…

《沙弥音は大人しい素直な娘だったよ。無体に扱われても、奴隷のように過酷な命令を与えられても従順で大人しくて…瞳をキラキラさせながらシークを慕っていた》

 そこでデュークはちょっと考え込んで、頷いた。

《うん、きっと最初から沙弥音はシークを好きだったんだろうね。シークもそれに気付いていたのかな?どんな気紛れだったのか、どこでその方法を聞きつけたのか、ある日シークは沙弥音を仲間にしてしまったんだ》

「仲間…って言うとその、同じ吸血鬼にしたってことか?」

 判り切っていることだったけど、今さらながら聞く俺に、デュークは小さく肩を竦めて見せた。

《吸血鬼…なんて呼ぶのは人間だけだから。はたしてボクがそうだよと言ってもいいのかどうか判らないけどね。面倒くさいから、もうそれでもいいよ》

 この野郎…と俺が思っても仕方ないと思うけど、そんなことぐらいでいちいち話を中断しても面白くないんで、俺はムッとしたまま黙り込んで先を促したんだ。その沈黙をどう受け取ったのか、デュークはでも、別に気にした様子もなく遠い昔話に戻った。

《仲間にしたことをアークは酷く怒っていたようだったけど、シークは丁度良い小間使いができた程度にしか思っていないみたいだった。まあ、現に沙弥音は実によく働いていたよ。シークは金色の髪と白い肌が好みでね、沙弥音は愛する妖魔のために、バカみたいに2日おきに女を調達していた》

 ふと、見上げたデュークの双眸が険悪な光を宿していて、語尾のきつさからもその行為を酷く嫌悪しているんだなと言うことは判った。
 どうでもいいことだとか言いながら、デュークはもしかしたら、その沙弥音と言う少女を結構気に入っていたんじゃないかと思う。
 …と言うか、デュークはもしかしたら、考えたくはないんだがコイツはまあ、簡単に言えば一夫一婦制と言う道徳心を重んじてるんじゃないだろうか?
 いや、全く考えたくはないんだが。

《どんな気分だったんだろうね?好きな男が他の女と戯れるのを傍らで見ているってのは?ボクは実に執着心が強いから、そんなマゾヒスティックなことはお断りだけど》

 フンッと鼻先で笑って、デュークは溜め息をついた。

《きっと、シークはそんな時間がいつまでも続くと信じてしまったんだろうね。沙弥音の無償の愛が、何かを狂わせて、ボクたちが簡単に手に入れてしまう永遠と言う膨大な時間を無意味なものにしてしまったのかな…》

 独り言のように呟いたデュークは、もう弾けて、何の意味もなさない電灯の残骸を見上げていた。
 その胸に去来する思いが、いったいどんなものなのか、俺は知ろうとも思わなければ知りたいとも思わなかった。
 なんだかそれは、とても陰惨で冷たいもののような気がしたからだ。

《あの日も雨で、街はまるで沈黙に支配されてでもいるかのように静かだった。シークは丘の上の館に住む貴族の娘を気に入ってしまって、でもモチロン、その頃はもう人間で言うところの“吸血鬼”の噂は実しやかに流れていたし、ヴァンパイアハンターと言う胡散臭い連中が我が物顔で低級妖魔を狩っていた時代でもあるから、食餌を調達するのはなかなか骨折りだったんだ。そのくせ、シークは怠惰な生活に溺れきっていたからその全てを沙弥音に任せていた》

 語尾を吐き捨てたデュークは少しハッとしたようで、照れ臭そうに前髪を掻き揚げて話を続けた。

《沙弥音も従順にそれに従っていたから、シークが望む娘を手に入れようと、あのバカな娘は考えてしまったんだろうね。シークはモチロン、本当にその娘を手に入れる気なんかなかったんだよ》

 そう言われて、唐突に俺は首を傾げた。
 だっておかしいじゃないか。今までの話だと、沙弥音はシークが欲しがるものは全て手に入れてきたんだろ?だったら、丘の上の貴族の娘だって、気に入れば手に入れる気だってことじゃないか。

「どうして手に入れる気なんかなかったんだ?」

 素朴な疑問に、デュークは金色の双眸を細めて見下ろしてきた。

《さっきも言ったと思うけど、その当時はもうヴァンパイアハンターなんて言う俗な仕事が当たり前の時代だったから、モチロン、その高貴な娘が巷を賑わせている“吸血鬼”に狙われると予め予測していた父親がハンターを雇っていたんだよ》

 それを聞いて俺はなるほどと頷いた。
 ヴァンパイアハンターなんかに煩わされなくても、コイツらなら簡単に人間なんか襲えるんだろう。
 今こうして、俺を労わるこの腕だって、一皮むけば兇器以外の何ものでもないんだ…

《コイツが厄介なハンターでね。良く言えば腕が立つってことなんだろうけど、とんだ狸親爺だったってワケ》

 肩を竦めるデュークから並々ならぬ嫌悪感を感じ取って、なるほど、相当手を焼かされたに違いないんだろう。

《妖魔になって日も浅いし、高々人間上がりの妖魔とも呼べない半人前が創り出した半人前以下の沙弥音なんかが、到底倒せる相手なんかじゃないことをシークもボクたちも知っていたからね。シークの悪い冗談が始まったぐらいにしか思っていなかったんだ…でも、沙弥音は違った》

 言葉を噛み締めるようにいったん思考を閉ざしたデュークは、まるで人間がするように思念の声にあわせてゆっくりと口を開いたんだ。

《アレは無邪気でお人好しでバカな娘だったから、シークの言葉をそのままいつもの要望として受け止めてしまったんだろうね。ボクが行ったときには、沙弥音はもう半死状態だったよ》

 妖魔は死なないと豪語していたデュークに、ふと違和感を覚えて見上げたものの、そこには人間から妖魔になった存在と、最初から妖魔だった存在では何かが違うんだろうと言うことを、俺だってここまで聞けば少しぐらい判るようになってたから敢えて何も口にしなかった。
 でもデュークは、俺がやっぱり理解していないだろうと思ったのか、ちゃんとご丁寧に説明してくれた。ありがとうよ、フンッ。

《ある特殊な条件下でならボクたち妖魔にだって完全なる死があると言うことを言ってなかったね。知りたい?だったらいつか、その時が来たら教えてあげるよ》

 そう言って、デュークは凄く綺麗な顔で微笑んでから先を続けた。

『完全なる死に導くための条件』

 聞きたいような聞きたくないような、こんな強い連中にどんな弱点があるって言うんだ、聞いてもどうせ掴み所のない飄々とした内容に違いない。そうして俺は、また煙に巻かれるんだろう。
 だったら聞かない方がいいや。

《雨が降り出した街は酷く寒くて心細くて、ボクは奇妙な焦燥感に駆り立てられていた。ある種の予感のようなものがボクを焦らせて、そして、別に行く気もなかった丘の上の洋館まで導いたんだろうね。ボクがそこで目にしたのは…》

 一瞬、言葉を区切って、デュークにしては珍しく小さな溜め息を零した。
 口からキチンと『はぁ』と言ったんだ。
 鼻先だけで溜め息を吐くことはあったんだけど…なんと言うか、そう言う小さな変化にもドキッとしてしまう俺がいる。
 今耳にしている話は、もう100年以上も前の話だと言うのに。
 どこかで、あの不気味な化け物に成り果ててしまったシークのヤツが、血塗られたような真っ赤な双眸をぎらつかせながら耳を欹て、闇の中で呼吸しているような気がして知らず強張らせた身体をデュークに寄せていた。
 そんな俺の態度に気付いたのか、デュークのヤツは背中に回していた腕に力を込めて、俺の髪に頬を埋めてきたんだ。

《沙弥音の哀れな姿だったよ…ヴァンパイアハンターって言うのは目下名ばかりの連中で、低級淫魔や、ともすれば偶然姿を現した精霊なんかを捕まえては、性行為に耽るような輩が多くてね》

 そこまで言われて、俺は沙弥音がどんな風になっていたのか想像がついてしまった。
 同じ人間としてそれは、許されないことだろうし、妖魔よりも悪質で顔を上げられなかった。

《なまじ、霊力?とでも言うのかな、そんなものを持っている人間ってのは性質が悪い。ボクが言うのもなんだけど、その力を良い方向性で行使すれば丸く収まるところでも、どうしてなんだろうね、人間と言う生き物は必ずそれを悪用したがるんだ》

 デュークの言いたいことは痛いほどよく判る。
 本来ならその台詞は、妖魔と対峙した人間が声高に叫ぶ正当性であるはずなのに…妖魔に言われちゃ面目ない。

「沙弥音はその…やっぱり…」

 言葉を選ぶ俺に、優しさをチラリと見せるくせに、すぐに妖魔の顔に戻ったデュークは肩を竦めてズバリと言いやがる。

《犯されていたよ。見るも無残なほど出鱈目に。虫の息の沙弥音を見た瞬間…んー、ボクとしては珍しく頭に血が上っちゃった》

 照れ臭そうにポツリと呟くデュークを、頭に頬をくっ付けられている格好じゃ見上げることもできないんで、俺は不思議に思っていた。

《沙弥音は、ボクにしてみたら可愛い妹みたいなものでね。アークやシークとも違う、その、なんて言うか穏やかさがあったんだ。物事を良く聞いてくる子でね、ヒマな午後なんか読書をしてると足許にちょこんと座って「アレはなんですか?」「これはどう言うことですか?」ってね、よく尋ねられて。ボクはぼんやりとそれに受け答えながら永遠に続く退屈な日々を過ごしていた。でも、ボクはその時間がとても好きだったんだよ》

 話を聞いてるだけで浮かんでくる情景は、古い街並みに似合う洋館で、暖炉の前で退屈そうに本を読んでいるコイツの足許に座り込んで、興味津々で見上げている少女…人間のような、いやもしかすると人間よりも人間らしい感情を持っているデュークなら、きっとそれは、愛すべき日々だったに違いない。

《結局、ボクはヴァンパイハンターを名乗る彼の首を圧し折って沙弥音を助けたんだけど…彼女の双眸はもう虚空を見つめてしかいなかったし、うわ言のように呼ぶのはシークだけだった。でも》

 呟くように囁いて、デュークは一旦言葉を切ると、溜め息をついて話を続けた。

《一瞬だけ正気を取り戻した彼女は、光太郎みたいに勝気な黒い瞳をキラキラさせて、最期にボクに言ったんだ。なんて言ったと思う?》

 困ったような口調の質問に俺は首を横に振るだけだった。

《「わたしはシーク様を忘れないでしょうか?」…忘れないかだって?そんなのボクに判るワケないじゃない。でもね、沙弥音は常々ボクに聞いていたんだよ。妖魔は死ねば魂が残らないから転生することもない。でも人間は、生まれ変わることができる。では、人間から妖魔になった者はどうなるんだってね》

 妖魔で、なんでも知っているデュークにすら難解な質問を、俺なんかが答えられるはずもなく、黙ってその先を聞いてることにしたんだ。

《ボクは考えもしなかった。妖魔は消えてしまっても、残される人間は形を変えても生き続ける…光太郎を愛するまで、そんなこと思い出しもしなかったよ。ボクが死ねば、ボクのこの想いはどこにいってしまうんだろう…シークはそれに耐えられなくて遠き異国の旅人に成り果ててしまった。半人前の妖魔が創り出した半人前以下の妖魔に人間の規定が当て嵌まるのだとしたら、沙弥音は次の形に変わって甦る、でも、半人前とは言え、正当なる妖魔が作り出した自分の魂やその想いは、いったいどこに行ってしまうんだろう?》

 ともすれば自分に言い聞かせるように話し続けるデュークの、その身体中からチリッと大気を焼くような奇妙な気配が流れ出していることに俺は気付いた。
 それは殺気?それとも怒り?それとも…まさか、不安?

《シークはね。沙弥音を抱きしめて大急ぎで帰ってきたずぶ濡れのボクを見て、はじめは笑っていたよ。攫ってきた娘を抱きながら、血と精液がこびり付いた哀れな沙弥音の遺体とボクを交互に見比べて、酒に酔っていたのか、それとも、ボクが悪戯に教えた輪廻の仕組みを覚えていたのか、彼はその時、まだ沙弥音が生まれ変わるんだと信じていたようだった。「言うことはない?」と聞いても、肩を竦めて鼻先で笑うだけだったから、ボクは首を左右に振りながら「そう」とだけ答えていた。沙弥音に声が伝わるのは今だけなんだけどって言っても、シークは目先の快楽に溺れちゃっていてね、とうとうその声は沙弥音に届くことはなかったんだ。ほどなくして、妖魔らしく、指先から崩れだした沙弥音の灰は開け放たれた窓から、濡れた街に流れて逝ってしまった。もう、どこに逝ったのかも判らなくて、その後を追うこともできない場所に逝ってしまったんだ》

 そこまで一気に話したデュークは、軽く呼吸を整えると、俺の頭にもっと頬を摺り寄せながら先を続けてくれた。

《その様子を見て、その時になって漸く、あの愚かな妖魔は自分の犯した過ちと失態に気付いたのか、それとも不安になったのか、ボクに詰め寄ってきたんだよね。だから沙弥音がどうなってどうなるのか教えてやったってワケ。でも、気付いたって今さらもう遅いんだよ。そこで、人間上がりの半人前の妖魔が下した結論は、ボクが沙弥音を誑かして丘の上の洋館に行かせたって思い込むこと。本当は好きだったくせにね。手離して初めて気付いても、もう遅いんだ。何もかも遅すぎるんだよ》

 呟いて、溜め息。
 どうしたって言うんだ、デューク。
 妖魔なんだろ?妖魔じゃないか。
 どうしてそんなにもお前は、痛ましそうに話すことができるんだよ。
 そんなの、妖魔らしくないじゃないか…

《ねえ、光太郎。光太郎はいいね、人間だから。想いを抱えたまま何度だって転生することができる…でも、妖魔は違うんだよ。思いを抱えたまま、どこに逝ってしまうんだろう。いや、人間ですら、その想いを抱えられることもなく、どこか遠い場所で彷徨ってしまうことだってあるんだ。いわばルーレットのような確率に縋るしかないってワケ。『死』は矛盾ではないよ。いつだって、ボクたち妖魔に永遠があるように、死にも永遠が付き纏っているんだ。妖魔と死は表裏一体なんだよ。シークはそれに気付くのが遅すぎたんだろうね》

「死に永遠?俺にはよく判らない」

 呟くと、デュークは小さく笑った。
 光太郎はまだ幼いから判らなくても仕方ないんだ…不可視の、声にも思念にもならないような感情がそんな風に語りかけてきたような錯覚がした。
 俺も大概、デュークに感化されつつあると思う。

《死は永遠だよ。『永遠の別れ』だ》

 それは妖魔にも繋がることだと、コイツは言いたいのだろう。
 妖魔の仕組みも、死の仕組みも俺なんかにはよく判らない。
 だが、今回のこの厄介な事件の背景には、それが色濃く染み付いちまってるんだろう。
 シークは沙弥音を恋焦がれて遠き異国の旅人になった。そして、その姿のまま、沙弥音の魂を持っている女性を、或いは男を、或いは動物を…捜しているんだろう。見つかることなんか、きっとないだろうと本能のどこかで知りながら、それを信じることができなくて、最悪の姿になってまでも手離してしまった最愛の宝を捜し続けている…悲しい妖魔の話だ。
 ああ、だからデュークは、コイツは少しでも俺を離そうとしないし、執着しちまってるんだろう。
 妖魔の中に普遍に受け継がれている確信が、コイツを常に不安にさせているんだ。
 愛しあえるのは今だけ、そんな刹那の感情を俺には理解できない。
 寂しいな、と思うし哀れだとも思う。
 だけど。
 ああ、だけど。
 デュークは言わなかったか?
 人間ですら、転生の確率はルーレットのようなモノだ…ってことは、転生しないことだってある、賭けのようなものってことだろ?
 妖魔にしろ人間にしろ、もう一度、逢えるなんて確証はまるでないんだ。
 そんな一瞬の邂逅だからこそ、俺たちは必死でお互いを繋ぎとめようと努力するんじゃないか。
 だからこそシーク、俺はアンタを見逃すわけにはいかない。
 俺は。
 この瞬間を必死で生きているあのお袋さんの願いを、人間として叶えたい。
 たとえそれが、妖魔にとって身勝手な行為だとしても、俺は叶えたいんだ。
 俺は、人間だから。

8  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 長い舌がだらりと垂れて、まるでそれだけが別の生き物みたいに器用に動き回って長い指先の兇器を舐め上げた。
 まるでエルム街の悪夢に登場するクリーチャーの持つ兇器のようなソレに俺が身震いしたことを、動向を敏感に察するデュークがモチロン気付かないはずもなく、ゆっくりと俺を促しながら立ち上がったヤツは剣呑とした表情で醜悪な化け物を見た。
 ピンと尖った大きな耳と人間には有り得ないその鮮紅色の双眸さえなければ、デュークは超美形のモデルか俳優と言っても過言にはならない、充分人間に見える。俺はてっきり、妖魔やヴァンパイアと言った連中はみんなこんな風貌をしているのかと思っていた。
 でも、本当に禍々しい、お伽噺やゲームに現れるあの魔物の正体が、本当はデュークやアリストアのような綺麗な生き物ではないことを、目の前の化け物が克明に教えてくれる。

『…ギギぎ…』

 耳障りな金属を引っ掻くような音がして、それが化け物の口許から出ていることを知るのに数分掛かった時には、ヤツは肥大した頭部を支える筋の浮いた首を奇妙に捻らせて首を傾げると、滑るように光る真紅の双眸で俺たちを一瞥したんだ。

『…ぎぃ…キキキ…で、…デュー…ギシュゥ…』

 何か言おうと言葉にならない声を紡ぐたびに、その唾液なのか何なのか良く判らない分泌物を垂れ流す口許から瘴気のような呼気が吐き出されて、ドライアイスのような煙が宙を漂う。

「…な、んだ、アレ…」

《しー》

 思わず口をついて出た言葉に、デュークの繊細そうな人差し指が制するように口許に触れてきた。

『デュー…くぅぅぅ…きさ…キサキサ…キサマが…なぜぇぇぇッ…こぉこにぃぃ…』

 デュークの名を呼んで、化け物はそれでなくても禍々しい光を放つ双眸に、一種独特な、濡れ光る嫌悪感のようなものを浮かべたんだ。
 この化け物…デュークを知ってるのか?
 壊れたテープレコーダのように同じ言葉を繰り返しながら、やがてそれが、少しずつ明瞭な言葉として発せられるようになる頃には、俺は頭を抱えて蹲りたくなっていた。
 その声が、デュークの直接脳みそに話し掛けてくるようなあの声にでさえ頭が割れるほど痛い拒絶反応が付きまとってるって言うのに、金属を、ともすれば黒板を引っ掻くようなあの不愉快さを伴った声は吐き気がするほど頭にガンガンと響き渡る。
 不意に。
 一瞬だったが、奇妙なズレが生じた。
 ズレ…ってのが何か判らなかったけど、俺は一瞬だったがその声に嫌悪感を持って化け物から目を離した。その時だったんだと思う、気付いたら突き飛ばされていた。

「…ッて!」

 思い切り背後に転がったとほぼ同時に、タスクに受け止められたのか、すぐ真上でヤツの声にならないような悲鳴が聞こえた。
 ハッとした時には、デュークが化け物のまさに振り下ろそうとしていた腕を掴んでいた。その傍らにパタパタ…ッと何かが零れ落ちて、目に見えなくても床に溜まる液体がなんであるのかすぐに判った。
 俺を庇うことに気を取られた一瞬の隙を、狡猾な化け物が見逃すはずもなくて、デュークは生じた隙のせいで左腕をやられていたんだ。ベロンと何かが垂れ下がっていて、それが服の残骸と…皮膚の切れ端だと気付くにはさすがの俺も時間を要してしまった。そんな時間、ありはしないのに。

「デュークッ!」

 自分のせいだ!嫌な汗が背中にびっしりと張り付いて、そのくせやけに寒い室内で冷えていく指先と爪先を感じながら、俺は目の前の惨状が嘘であって欲しいと願いながら名前を叫んでいた。口の中がカラカラになっていて、思うように声にならなかったし、駆け出したい衝動に突き動かされて動こうとしてるのに、タスクにそれを遮られて俺は滅茶苦茶に暴れた。
 でも…

《大丈夫だよ》

 デュークの声音はなぜか平然としていて、お互いで威嚇していたにも関わらず、ヤツは握り締めていた化け物の腕を離すなり背後に飛び退いたんだ。それは化け物も同じで、だがヤツはしたり顔で長い鎌のような爪に付着したデュークの血液を美味そうに紫の長い舌で舐め取っている。

「デューク、ごめん!俺のせいで…」

 いつからそうなったのか良く覚えていないんだけど、俺の涙腺は確か、こんなに脆くなかったはずだ。なのに、今の俺は、デュークの痛々しい腕を見ながら思わず泣きそうになっていた。
 俺さえいなかったら…その言葉がグルグルと脳裏を駆け巡って、アシュリーの時といい今といい、忠告を無視したばっかりにいつも俺は最悪の事態を招いてしまうんだ。
 タスクの腕から身を乗り出すようにしてデュークに触れようとしたら、なぜかヤツはビクッとして、その行為を疎んで嫌がった。

《ボクは大丈夫だよ…でも、光太郎は気持ち悪いかもね》

 ぶっきらぼうにそう言って、油断なく化け物を睨み据えながら、デュークのヤツは腕からべろんと剥げてしまっている服だとか肉だとか皮膚だとかの残骸を毟り取ったんだ!無造作にコンクリの床に投げ捨てて、ビシャッと音を立てて散る自らの肉体の一部に一瞥をくれることもなく、デュークはそれまで折り畳むようにしていた腕を伸ばして肩を回した…ん?折り畳む?
 そこで俺は気付いたんだ。
 触れることを疎んだデュークの真意に。
 デュークの腕は目の前にいる化け物のソレと同じように不気味に長く、滑るような灰色の皮膚に覆われていて血管が青紫に浮き上がっていた。指先の兇器までソックリで、嫌悪感を抱かずにはいられないほど醜悪な姿を晒していたんだ。
 不機嫌そうに眉を寄せるデュークの横顔は拗ねた子供のようで、この緊迫した修羅場には似つかわしくなんかなかったけど、でも、俺はそれでもホッとしたんだ。
 アレは、あの床で鮮血に塗れた肉塊は、アレはデュークの言っていた仮初の姿だったのか。
 だったら大丈夫なのか?
 お前の腕は、剥ぎ取られたんじゃないんだよな?

「デューク、良かった!」

 俺がホッとしてそう言うと、デュークは化け物に成り果てている妖魔を睨み据えながら、それでも呆れたように眉を上げて首を傾げやがったようだった。

《気持ち悪くないの?》

「モチロンだ!そんなことよりもお前に怪我がなくてよかったよ!」

 タスクの馬鹿力を引き剥がすことはできなかったけど、俺は精一杯に身を乗り出してデュークの背中に頷いて見せたけど、それを思念か何かで感じ取ったのか、それまで強張っていた肩から少し力が抜けたようだった。

『…でゅ、デュゥークゥゥゥ…き、キキ…キサマが人間とぉ…共にあるとはなぁぁぁ!!!』

 それまで無言で動向を見守っていた妖魔は、突然壊れかけた人形のような金切り声で大音声を張り上げやがった。
 次の瞬間、妖魔は不可視の力で空気中にある水分を氷の刃に変えて、冷気の波動を投げかけてきやがったんだ!デュークは本性である長い化け物の腕を広げて一振りすると、その波動は霧散するように空気に散ってしまった。

『キキ…きさまハ……にん、…人間を嫌って……人間をぉぉ…』

《うるさいよ。時が経てば時代も変わる、それと同じように妖魔だって嗜好は変わるもんだよ》

 フンッと鼻先で笑うデュークが本性の腕を軽く振って纏わりつく冷気の名残を払うと、妖魔はギリッと歯噛みするようにギザギザの歯をガチガチと鳴らしたが、すぐにニタリと笑った。

《タスク》

 ハッとするよりも先に何かを感じたデュークが行動を起こした、次の瞬間、ガツンと何か固いもの同士がぶつかり合うような音が室内に響き渡った。
 どんな素早さでそれが可能になったのか、人間の動体視力ではとうてい見極めることなんか不可能な素早さで、妖魔はデュークの眼前に迫っていたんだ。図体のでかいその身体のどこに、そんな敏捷さが隠れていたって言うんだ!?
 デュークはそれでもやはり人間には有り得ない可能性で繰り出してきた鍵爪の攻撃を自分の腕で押さえ込んでいた、そしてすぐにその腕を掴んで身動きを封じた…ように見えたけれど、あの凄まじい力でもってしても、妖魔を完全に押さえ込むことは不可能みたいだった。
 それどころか…タスクの息を飲むような気配がして、俺は複雑に交差しているデュークと化け物の対峙を懸命に目で追っていたが、不意に、有り得ない場所に化け物の腕を見つけて絶句しちまったんだ。
 その化け物の腕…それは、デュークの胸を貫いて伸び、俺たちの方に向かって虚空を切
るような仕種をしていた。
 それでなくても蒼白の頬を持つデュークの横顔は、眉根を寄せて額には汗がビッシリと張り付いていた。
 そ、そんなこと、有り得るわけがない。
 デュークが…死ぬ?
 そんな、まさか…

「嫌だ!デューク、嫌だ!死んだらダメだ!!」

 俺は滅茶苦茶に暴れて、一瞬のことで腕の力を緩めてしまっていたタスクの腕から逃れると、ヤツの制止を聞かずに妖魔に殴りかかっていた。硬い肉に俺の拳が鈍い音を立てて減り込んだが、ギシッと軋んだ拳が悲鳴を上げただけで化け物にはイマイチ効いてないよいだった。クソッ!なんだってこう、俺は無力なんだ!
 拳でダメなら足だ!
 俺は回し蹴りと踵落しをお見舞いして臨戦したが、妖魔はやはりビクともしなくて、それどころか俺なんかには目もくれずに、ただ一心に目の前にいるデュークの綺麗な顔を睨みつけながら紫の厭らしい舌で舐めやがったんだ。

《タスク…急いで光太郎を…》

 こめかみから頬に零れた汗が鋭角的な顎を伝い落ちていく。
 充血した双眸はますます凄みを増した鮮紅色に彩られて、こんな緊迫した時だと言うのに、デュークは綺麗だった。言葉をなくしてしまった俺は、背後に近付いてきていたタスクにあっという間に抱きすくめられていた。

「た、タスク!何やってんだよ、お前!?早くデュークを助けるんだッ、俺なんか放って置いていいんだから!早くデュークをっ…」

《ダメよ》

 タスクはキッパリとそう言って油断なく妖魔の動きとデュークの動向に気を配り、俺を抱きすくめたままで首を左右に振りながら後退していく。
 な、何をワケの判らんことを!お前だって妖魔じゃねーか!

《あのデュークが苦戦してんのよ!?アタシが出てどうなるってモンじゃないわ。それどころか、今のアンタみたいに足手纏いになって苦労するに決まってんの!アンタこそ大人しくしてなさい》

 俺は唇を噛んだ。
 タスクの言葉は尤もで、いちいち俺の胸にグサリと突き刺さるから黙って…いるワケがない!んなこた判ってるさ!どーせ俺はひ弱で脆弱な人間だよ。デュークやタスクや目の前の化け物にしてみたら、指先でひねり潰せるぐらいの存在だ。でも、だからって人間を舐めんなッ!
 やってできないことなんかあるワケがねーだろ!?
 俺がもう一度タスクを振り払おうとした時だった。

《大丈夫だよ》

 デュークの声がした。
 あんなに苦しそうなのに、あれほど嫌だった脳内に響く声がいっそ心地よくて、人間なんて現金なモノで、俺はデュークの声音がシッカリしていることに安堵すらしたんだ。
 魔物を睨みつけながらデュークは、真っ赤に濡れたように光る唇の端から、その唇とおんなじぐらい真っ赤な鮮血を一筋零して、俺を安心させるように小さく笑った。

「デューク…」

『…き、きさまハ…おれ、オレノ…さ…サヤネを…』

《グッ》

 俺の言葉に被さるようにして妖魔が金切り声を上げ、デュークの表情が苦悶にギュッと歪んだ。
 貫いた腕をグリッと動かして、だからデュークの胸元からは新しい鮮血が溢れ出していた。

『サヤネをぉぉぉ…殺したオマエがぁぁ!!人間と共にあるだとぉぉぉ!?』

 ふざけるな…とその思念が憎悪を伴って渦巻く殺気として襲いかかる。その瞬間、デュークの真紅の双眸がカッと見開いて、吐き気すら催してしまいそうなその醜悪な妖魔の顔を引き寄せてニヤッと笑いやがったんだ。

『痴れ者シーク』

 不意にデュークの口許から、化け物と成り果てた妖魔と同じ金属を引っ掻くようなあの不愉快な独特の声音が漏れて、俺はなぜかギョッとした。

『あれは優しいが愚かな娘だった。最後までお前を信じた愚かで哀れなあの娘…捨てたのはお前ではなかったか?』

『ぐぅぅぅ…だだ…ダマ、黙れぇぇ!!』

 ズシャッと鈍い音がして、デュークの胸を貫いていた腕が引き抜かれると、夥しい鮮血が辺り一面にパッと散って、紅蓮の花が一瞬だが虚空に咲き誇った。そんな視覚的効果に惑わされていた俺の目の前で、デュークは一瞬だが引き抜かれる腕に誘導されるように前のめりによろけたが、すぐにグッと化け物を見据えて体勢を維持したんだ。
 恐らく、立っていることすら困難に違いないのに…本来ならけして有り得るはずがない部分はポッカリと空洞を晒すように、時折血飛沫がデュークの鼓動にあわせて噴出している。デュークが人間なら…いや、妖魔だとしてもこの深手だ、もう、ダメかもしれない…
 そんなことは嫌だよ、デューク。
 俺はお前が嫌いだけど、死んで欲しいなんて思っちゃいない。
 長くダラリと垂れ下がっている巨大な腕を振り回して言葉にならない音で喚き散らす化け物は、まるで目に見えない戒めに苛まされたように頭を振って暴れていた。地団太を踏んでいるようにも見えるその姿を、デュークは赤金の双眸を僅かに細めて食い入るように見つめている。その双眸が悲しげに見えるのは、苦痛を堪えている顔の、べったりと張り付いている疲労のせいなのか…?

『シーク…下賎にその身を貶めて、探求の末に捜し求めたモノはそんなお粗末なものであったのか?お前の愛した沙弥音の魂は、そんなガラクタでしかなかったのか?』

 デュークは、俺には判らない感情で淡々と呟いた。そして…

『くくく…だからお前は浅はかな猿知恵しかない愚か者だと言うんだ』

 辛辣さに嘲りを込めたその言葉が、妖魔の何を刺激したのか、いや、かなり刺激したに違いないその台詞に、この非常時になんだって逆撫でするようなことをしやがるんだ、お前は!…と怒鳴りたい俺の目の前でヤツはカッと見たくもないほどおぞましい光を放つ双眸を燃え上がらせて、ギッと眦を吊り上げるなり再度デュークに襲い掛かったんだ!

「デューク!」

 あの血の量だと、もう本当に立っているのがやっとに違いないんだ!
 俺はガムシャラに暴れてタスクの腕の戒めを振り解こうと懸命になったし、それをさせまいとするタスクも腹に蹴りを入れる攻撃に眉を顰めながら臨戦しやがったから、俺はただ、ここでこうして指を咥えてデュークが死ぬのを見ていないといけないのか!?
 アイツの次は俺たちなんだッ!ここでボサッと観戦してたって殺られるのが少し延びるってだけのことじゃねーかよ!そんな延命ならお断りだ。俺は精一杯戦って死ぬ方がいい。
 決意した。
 諦めたフリをして一瞬の隙を突こう…ちょうどそう考えた時だった。

《双方そこまで~☆なんちゃって》

 あまりにも緊迫した空気には不似合いの声音が響き渡って、ポカンとする俺の目の前、デュークと化け物の中央の空間からヒョコッと覗いた青い二股に分かれたピエロの帽子。
 あ、あれは…?

『アーク、お前は相変わらず遅い』

 デュークが赤金のようになった双眸でギロッと、中空からヌッと両腕を出して顔を覗かせるふざけたピエロを睨んだ。

《だって面白かったもの。でもまさか、遠き異国の旅人がシークだったなんてね~》

 指先で軽々と妖魔の動きを止めてしまったアークは、血の気の失せたデュークの顎に空いている方の指先を添えてうふふんと笑っている。
 …なんて、場違いで嫌なヤツなんだ。
 俺が呆れたって仕方がないんだろうけど、デュークのヤツは少しホッとしたように息をついた。

《デュークの、伯爵さまの血を汚すワケにはいかない。ここはボクがお相手》

 ニッコリと不気味に微笑んで、アークが指先を回すようにすると妖魔の身体の周りが次第にボウッと発光した。光なのか、それとも空気中の重力が圧縮でもされているのか、空間がグニャリと歪んで妖魔の身体を飲み込むように急速に光が音もなく消えていく。それは一瞬のことで、気付けばアッという間にもとの静寂とした闇が戻ってきていた。
 …なん、だったんだ、いったい?

《ヤバイ。失敗してるかも?ちょっと行ってくる》

 俺が呆気にとられていると、青いピエロは怪訝そうに眉を寄せて暫く虚空を睨んでいたが、ハッとしたように双眸を見開いて慌てたように来た時と同じように唐突に漆黒の闇に滲むように消えてしまった。
 何から何までが一瞬のような出来事で、今までの俺たちの努力はいったい…いや、そんなこたどうでもいい!今はデュークだッ。
 呆れたように溜め息をついたタスクは何時の間にか腕の力を抜いていて、ガクッと冷たいコンクリの床に片方の膝をついて屈み込んでしまったデュークに、俺は思わず駆け寄っていた。

「デューク!おい、デューク!大丈夫か!?」

 額にビッシリと嫌な汗を浮かべているデュークは、釣り上がり気味の切れ長の双眸を僅かに細めて、心配そうに覗き込んでいるだろう俺の顔を見上げて小さく笑いやがったんだ。

《光太郎…心配してくれるの?》

「当たり前だろうが!このヘッポコ妖魔!」

 押さえ込むようにしている胸元は、繊細そうな白い指先を濡らして、吹き出す鮮血が真っ赤に染め上げている。本性を晒してしまった左腕を庇うように身体を傾いでいるデュークは、俺に触れようとして、でもその指先が血塗れになっていることに気付くと苦笑して諦めたんだ。

《アークったらもう!ホントに遅いんだからッ。きっとまた高見の見物してたのよ。根性悪いんだから~》

 タスクがヘトヘトに疲れきったように溜め息をついて俺たちの背後に近付くなり、青いピエロが消えてしまった空間を睨み据えながら悪態をついた。

《アークったら最低。取り逃がしちゃってるよ。馬鹿だね》

《馬鹿はアンタよ》

 呆れたように胸元を抑えているデュークを見下ろしたタスクは溜め息をついて、俺に傍らに退いておくような仕種をしてから屈み込むようにしてその胸元を覗き込んだ。

《全く!自分の血液を代償にするなんて大馬鹿者よ!おまけにおっかない奥様を貰ってるんだから。アタシなんて蹴り5発、パンチ十数発よ?慰謝料でも請求しようかしら》

 ブツブツと本気だとも冗談ともつかない悪態をつきながら、それでも熱心に患部を覗き込むタスクの背後で、俺はハラハラしながらそんな2人を見守っていた。
 そんな俺を、デュークのヤツは真っ赤な口許に笑みを浮かべてジーッと見上げてるんだけど、そんなことに構ってられるかってんだ。

「ど、どうなんだよ?なあ、タスク…」

《やーね、どうして光太郎が死にそうな顔してんのよ?大丈夫、大したことないわ》

 服を掴んでグイグイ引っ張る俺に犬歯をむいて威嚇しながら、タスクはやれやれと呟いて立ち上がるなりそう言ったんだ。へ?こんな重症で、血がたくさん出て、あんなに辛そうにしていたのに大丈夫だと!?エセ診療をしたんじゃねーだろうな?
 こうなったら俺の知り合いの医者を呼んで診てもらった方が…

《大丈夫だよ》

 不意に何度も聞いた台詞が聞こえて、俺はデュークを見た。デュークを見て、ぶったまげた。
 その胸元にポッカリと開いているはずの傷が、あのザックリと抉られていたあの傷跡が、服の下から覗く皮膚に引き攣れたような傷跡を残しているだけで、綺麗さっぱり消えていたんだ。
 俺は思わず屈みこんで、床に膝をついているデュークの服を引っ掴んで乱暴にその胸元を覗き込んでしまった。

「傷が…消えてる?」

《うん。そんな大したことないから、大丈夫だよって言ったでしょ?》

 あっけらかんと言ってるくせに、でも、デュークの顔色は紙のように白い。
 具合が悪くないはずはないって判っているけど、それでも、元気そうなヤツの表情を見ていたらスッと力が抜けちまって、思わずその場にへたり込んでしまった。

《やっぱ、気持ち悪いかな?》

 デュークが心なしか不安そうな表情でそんなこと言って覗き込んできても、俺は相手をしてやれる気にもなれなくて、ただホッとして息をつくしかできなかったんだ。

「や、無事で何より…」

《無事ってワケでもないのよね》

《タスク》

 タスクが散乱してしまっている衣服の残骸を拾い上げながら、本性の腕を晒しているデュークを呆れたように見下ろして呟くと、デュークがムッとしたように名前を呼んだ。

「やっぱり…どっか悪いのか!?」

 俺が慌ててデュークの襟元を締め上げると、タスクがくすくすと鼻先で笑いやがった。

《いいじゃない、奥様なんだから》

 服の残骸を棚に戻して、何やら黒い塊と化したデュークの腕の残骸を拾い上げて始末しながら、タスクは肩を竦めて膝をついている妖魔の反撃の双眸なんかどこ吹く風と言った感じで全く相手にせずに言い放つから、それはどうやら、俺によってどうにかなる類のことらしい。

「なんだよ、デューク。俺でできることなら何だってしてやるぞ?」

《ああ言ってるんだし…》

《やだね》

 デュークが子供のようにプイッと外方向く。
 その顔を引っ掴んで無理矢理こっちを向かせて引き寄せると、俺は歯をむいた。

「何を駄々こねてんだ、このスカンチン妖魔!身体大事に、命大事に!がモットーだろうがよッ」

《それは人間だけでしょ…はぁ》

 デュークは拗ねた子供のように下唇を突き出して言ったが、踏ん張る俺に諦めたように溜め息をつきやがった。なんだ、その態度は。この俺様がわざわざお前なんかの為に一肌脱いでやろうって言ってやってんのに!

《有り難いけどね…ボクは、もう二度と光太郎から血を貰おうとは思っていないもの》

「…血?血が欲しいのか?」

《軽蔑するでしょ?》

 即答に、不安交じりの複雑な感情が交じっていて、それでなくても晒したくもなかった本性を無様に晒してしまってバツが悪いってのに、よりによって血液が欲しいなんてどんな口で言うんだと、デュークの金と赤の微妙な色合いを持つ不思議な双眸が不機嫌そうに物語っている。
 血…血か。
 吸血鬼なんて言うなと言ったデュークは、やっぱり吸血鬼だったのか…

「そらみろ。やっぱり吸血鬼だったんじゃないか!」

 関係ないとは思いながらも、コイツに犯られちまった時のことを思い出して、俺は自分の首筋に触れながら胡乱な目付きでデュークを睨んでやった。

《別に…ボクは吸血鬼じゃありません…なんて言ってないよ?》

 キョトンとしてデュークのヤツが首を傾げるから、俺はよくよく思い出したんだ。
 コイツはなんて言ってたっけ?

(吸血鬼!?よして。吸血鬼になんかするワケないでしょ?)

 …だったっけ?
 うう…ホントだ。コイツは別に自分は吸血鬼じゃない、なんて一言も言ってねぇ。
 探偵業に就いているくせに物覚えの悪い自分の頭を恨めしく思いながら、俺はうるうると涙を堪えてデュークのヤツに言ってやった。

「判った。だったらとっとと俺の血でよけりゃ吸っちまえ!」

 おお!今日の俺はなんて仏様なんだ!
 タスクは呆れたように俺たちの遣り取りを見物していたが、馬鹿らしいと思ったのか、肩を竦めて《事務室に行ってるから好きにしてなさいよ》と言って立ち去ってしまった。
 その後姿を見送っていたデュークは、不意にちょっと意地悪な顔をして俺を見ると小さく笑ったんだ。

《タスクがいなくなったよ。逃げ出すなら今がチャンス!…って思わない?》

 その途端、俺はハッとした。
 そうだ。
 俺はずっと逃げ出すことばかり考えていた。運が良ければ今日だって逃げ出してやるんだって…デュークは血液不足で力が出ないんだろうし、あのおねぇちゃん言葉が様になる妖魔もいない。
 本当だ、全くもって今がチャンスって感じじゃねーか!
 俺は散乱しちまった室内を見渡して外に通じるドアが弾き飛ばされていることを確認すると、それから、傷付いて、外見的には平気そうにしてるくせに、内面的な部分でかなりのダメージを被っている妖魔を見た。
 本性の末端が曝け出されている双眸は、いつも見るあの金の綺麗な瞳じゃなくて、爬虫類が、特にイグアナが持っているだろう、あの金に赤の縁取りのある独特な目で、俺をただ静かに見守っている。
 逃げるか、このままここに残るのか?
 …決まってる。結果なんてたった1つしか弾き出せないのが、人間の無能な頭が弾き出す答えだ。
 それも自分に一番有利な道を選ぶしかない、腐りきった人間の出す答えなんかただ1つ。
 俺が逃げ出そうとしていることを、ずいぶん前からこの妖魔は知っていたんだろう。
 事の成り行きに任せながら、いつかそのチャンスが来たら、俺を手放すつもりでいたのか?
 言葉の端々にあったあの躊躇いのようなものは、いつか俺を手放す時に、自分の理性が収まるだろうかと心配していたんだろう。だから、敢えて自分が傷付いたこの時を狙ったんだろうな。
 馬鹿なヤツだ、お前って。
 もともとヘンなヤツだとは思っていたんだけどな、タスクが言うように馬鹿なのはお前の方だ。
 やれやれと、俺は溜め息をつく。
 溜め息をついて、袖を捲くった腕を差し出した。

 《…光太郎?》

 デュークが、ヤツにしては珍しく困惑したような表情を見せて首を傾げやがるから、俺はその口許に強引に自分の手首を押し付けてやったんだ。

「俺もとことん自分が馬鹿だって思うよ。そら、吸えよ!」

 一瞬、怯んだようにデュークは俺を見たが、それから、クスッと笑って目を閉じると俺の手首に口付けたんだ。

《手首なんか噛まないよ》

「首筋か?いいぞ、ほら」

 そう言って咽喉元を晒すと、デュークは抑えがたい欲求に耐えるように開いた目をもう一度閉じて、それからゴクッと咽喉を鳴らしたんだ。かなり餓えているし、理性の限界も近そうだと鈍い俺にも良く判った。殺されるかもしれない…そんな考えがチラッと脳裏を過ぎりもしたけど、それでも仕方ない。俺はこの妖魔を見捨てられないんだ。

《…ボクは、もう二度と光太郎から血は吸わないって自分に誓ったんだよ。あんなに嫌がることを、愛するヒトに強制するのはよくないって》

 震える吐息が頚動脈のすぐ上の皮膚に触れて、俺はなぜかギクッとした。
 怖い。
 血を吸われることにモチロン慣れているはずもないこの俺が、平気でいるってのもおかしな話だ。ましてや前回吸われた時だって、意識がなかったのが救いだったってのに…
 それでも、ふわりと片腕だけで抱き締められると、デュークのひんやりした身体が沸騰しそうになった俺の意識を冷静に引き戻してくれて、まあ、いいかって思えるように落ち着いた。
 どうせ、1回吸われるも2回吸われるも一緒じゃねーか。
 吸血鬼にならなきゃ…俺はアシュリーと逢える。
 甘い考えかもしれなかったけれど、俺はそれでもやっぱり、デュークを見捨てることもできないんだ。

《ボクは…もう二度と。沙弥音の二の舞を見たくないのに…なんて罪深い》

 そう言って、デュークは目を閉じた。
 泣いてるような仕種に俺はどうしてそうしようと思ったのかよく判らないんだけど、片手を背中に回して、もう片方の手でその頭を抱くようにして首筋に押し付けていたんだ。

《光太郎…ごめんね》

 呟きが終わるか否かの時だった。
 デュークの口許に煌く犬歯が牙をむき、鼻にシワを寄せたヤツは妖魔そのモノのような禍々しい相貌で俺の首筋に喰らいついたんだ!

「…ッ!…ぅ、……ぐッ!…あ、……あぅ!」

 メリメリ…っと、皮膚を切り裂いて肉を貫く刃のような牙は、お目当ての頚動脈を噛み切るようにして切り開くと、溢れ出した鮮血を舌を蠢かして咽喉元に流し込んでいく。その行為は、身体中を切り裂かれるような苦痛と、初めて抱かれた時に感じたあの激しい激痛を思い出させ、俺は歯を食いしばりながらデュークの背中を引っ掻くようにして力任せに抱きついていた。
 漏れる声は苦痛と痛みと…快楽めいたものに犯されていて、なぜか、認めたくはないのに淫らな喘ぎ声そのものだった。
 不意に酩酊感のようなものが襲ってきて、頭の芯が痺れるような、フワフワとした夢見心地に足が地に付かない感じがしたが、そのすぐ後にスパークする閃きのようなモノを感じていた。これは一種の性行為のようで、アリストアが言っていた、官能的なキスの意味を我が身を持って思い知ってしまった。
 官能的な口付けを施すデュークは、一心に何かを見つめるように虚空を睨みつけていて、時折俺の鼓動に合わせて脈打つ血管から牙が外れそうになるのを噛み締め直したりしながら、血液の甘い味を思う様堪能しているようだった。

「…ん、…うぁ……ッ、…あ」

 淫らな快楽に犯されていく脳に比例するように、俺の下半身には失っていくにも関わらず、血液が集まっていた。感じていたんだと思う。
 デュークの牙は収まりがいいように体内で蠢いて、その行為に従うように快楽が官能の灯火を脳裏に打ち込んでいく。冷たい牙は、以前抱かれた時に体内に受け入れたあの、熱い楔を思い起こさせるには充分すぎるほどの刺激だった。

「デュー…」

 呟きかけた名前は結局最後まで言えず、朦朧とする意識のなかで、唇に触れる甘い血の味を感じていた。
 俺は結局、デュークに血を吸われながら、そのまま気絶してしまっていたんだ。

◇ ◆ ◇

 気を失っていたのはそんなに長くはなかった。
 ペロリと傷口を舐められる感触で、霞みのかかった両目を開いて自分がどうなっているのか確認しようと、朦朧とする頭を振ったところで、デュークの聞き慣れた声がしたんだ。

《光太郎?大丈夫?》

「…デューク?大丈夫なのは…ッ、お前の方だ」

 憎まれ口が叩けたのは自分なりに天晴れだと思うけど、喋るたびに咽喉元が引き攣れるような感じがするのは…やっぱりアレが夢じゃなかったってのを物語っているんだろう。オマケのこの頭痛と眩暈は…

《ごめんね、また無理をさせちゃったみたい。見境なくなるね、光太郎の血はとても甘いから》

 そんなゾッとすることを言いやがる元気そうなデュークの腕の中で俺はホッと息をついたけど…ん?両腕がある。ってことは、もう随分と大丈夫なようだな。
 あーあ、これで俺はせっかくの逃げ出すチャンスを失ったってワケか。

《ちょっと残念?でも、ボクは。光太郎が逃げ出さなかったことがとても嬉しくて。思わず犯っちゃいそうになりました》

 エヘッと笑われても困る。
 なんてヤツだ、クソッ!この次は絶対に逃げ出してやるからな!
 そう思いながら、俺はなんか凄く体力を使った後のようにヘトヘトで、抱きかかえてくれているデュークにそのまま体重を預けながら溜め息をついたんだ。それぐらいはさせろよな~、ったく。
 一時はどうなることかと思ったけど、コイツが無事でよかった。
 判らないことだらけで、聞きたいことは山ほどあるし…血をやったんだから情報ぐらいは貰っとかないとな。ギブ&テイクってヤツだ。

《光太郎、ありがと。嬉しかった》

 子犬…と言うにはデカすぎて凶暴すぎるけど、犬のように額を摺り寄せてきてご機嫌に笑うデュークに、俺はくすぐったくて首を竦めながらその片方の袖が引き千切られている服の襟元を引っ掴んだんだ。

「やい、デューク!探偵ってのはギブ&テイクだと相場が決まってるんだ。血をやったんだから、俺の質問に答えろよ!」

 ポカンとしたように、いつもの金色の双眸に戻っているデュークは目を丸くしたが、次いで、ムッとしたように唇を尖らせた。

《なるほど。情報を聞くために血をくれたってワケだね》

「当たり前だろ!?情報のためなら血ぐらい幾らでもくれてやる」

 貧血起こして頭がクラクラしてるけど…

《…命懸けだね》

 デュークは困ったようにちょっと苦笑して、仕方ないなぁ…と呟いた。

《問題はきっと【遠き異国の旅人】のことで、シークの正体ってワケでしょ》

「ああ。なんか…その、お前の知り合いなんだろ?」

 デュークの腕に凭れていないと満足に座ることもできないぐらいの量をくれてやったんだ、それぐらいの価値がある貴重な情報を提供しろよな!…ってか、俺ってばいつもこんな手段で情報をゲットしてるような…気のせいだ。うん、気のせい。

《それにはまず、ボクとアークとシークの関係を話さないとねぇ…》

 いつものピエロのあのふざけた化粧をしていないのにデュークの肌はもともとから綺麗なのか、女の子がどんな手段を使ってでも手に入れたいと思うような染み1つない肌は、吸収した血潮で生気を取り戻しているようだった。

「それと、サヤネだ」

《…そこまで聞いてたの?恐るべし地獄耳。さすがは探偵さん》

 ムッとした不機嫌そうなツラをして、スマートではない厭味を言ってのけたデュークのヤツは、それでもポツポツと話し出した。

《どこから話そうかな?たとえばそうだね、まだ倫敦にガス灯があった時代。19世紀の初頭のお話なんかどう?》

 陽気な語り口調、でも…
 本当に話したくなかったのか、話すという行為を明らかに疎んでいるようなムスッとした表情をして、デュークは遠い昔に起こった、俺には判らない出来事を、思い起こすように懐かしむように双眸を細めたんだ。

《悲しい悲しい妖魔のお話。ねえ、人間の光太郎。覚悟して聞くんだよ》

 そう言ってデュークは、貧血でクラクラする俺に口付けてきた。
 突発的なことでギョッとする俺に、デュークはしてやったりの顔でクスッと笑う。
 クスッと笑って、何かを断ち切るように硝子の弾けた電灯が並ぶ天井を振り仰いで、遠い、俺が生まれるよりももっともっと遠い昔の、誰も知らない妖魔たちの話を始めたんだ…

7  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 臭気が満ちた世界は酷く陰鬱で、風さえも威力を失っているようだ。
 戦の臭いは魔物を呼び寄せ、世界の破滅を予言する。
 海が色を失い、空に枯れた悲鳴が木霊する。
 声が出ない。
 助けてくれと慈悲を請う声。
 助けてくれるなと拒絶する声。
 渇きが満ちた世界に希望などない。
 全てが死の臭い。
 死の声。
 救いなどない。
 覚えておけ。

◆ ◇ ◆

 冬にしては珍しい生温い風が、生臭い匂いを孕んで路地裏を吹き抜けていく。
 漆黒の闇には切れかけた電飾が、所々抜け落ちた看板を馬鹿みたいに彩っている。
 空には星が見えるのか、或いはこの腐敗した街を覆う偽りの光を映し出しているのか、無頓着に夜空がビルの谷間に広がっていた。
 OLは足早にマンションへの近道を急いでいる。
 上司との不倫はバレてはいけない。だからこそ、彼女は昼なお人通りの少ないこの裏路地を、足早に通り過ぎようとしている。
 1日中、世間を騒がせている猟奇的殺人事件の概要は彼女も理解していた。しかし、『自分には関係のないこと』だと割り切っていたOLは、いずれ我が身に降り掛かる災いすらも他人事のように高いヒールで砂利を蹴りつけながら、まるで日中の雑踏に取り残されたような寂れた路地を進んでいる。
 切れかけた電灯がチラチラと研ぎ澄まされた鋭い爪に、鈍い輝きを落としていた。
 シュウシュウ…
 聞き慣れない音が風に混じって聞こえてくる。

「やだ、何かしら?それにここ、とっても臭いわ!」

 ふと立ち止まった彼女は背後の異様な気配を感じ取り、研ぎ澄まされて鋭敏になっている自分に呆れながら悪態を吐いた。

「だいだい、部長も部長だわ!こんな時間に呼び出すなんて失礼しちゃうッ」

 薄暗い路地への恐怖を上司への怒りに換えて、彼女はブツブツと綺麗に口紅を塗った唇をツンと尖らせて悪態を吐くと、綺麗にマニキュアでコーティングした爪を弄りながらマンションを目指す。
 …と。
 闇からズルリッと何かが這い出してきて、長く鋭い爪が電飾の明かりを弾いて不気味に鈍く光っている。

「…?」

 彼女は何度目かの気配を感じて、なんなのよ、もう!と、呟きながらもう一度背後を振り返った。
 振り返った先に立っている異形の化け物を目にした瞬間、彼女は腰が抜けてその場にへたり込んでしまう。薄闇ではハッキリしないが、彼女の座り込んでいる場所が静かに水浸しになっていく。

「ひ…ひ…」

 声にならない悲鳴を聞いて、爬虫類のような、その滴り落ちる鮮血を思わせる濁った双眸を細めると、化け物は人間のものとは思えないほど大きな牙を有した口を大きく広げて威嚇する。

『ギギ…ギシャァ…』

「きゃあああ…ッ!!」

 思わず悲鳴を上げた瞬間、化け物の鈍い光を放つ鋭い爪が容赦なく腹部を貫いた。そのまま引き抜くと同時に引き裂いて内臓を引きずり出すと、周囲に血の匂いが充満して、ムッとする生臭さを心地よさそうにうっとりしながら化け物は爪に付着している肉の塊を貪った。

「あ…ア…ヒィ…」

 自分の引き裂かれて空洞を晒す腹部を信じられないものでも見るように見下ろしていた彼女は、撒き散らされた血液や内臓を拾い集めようとするような仕種をしたが、もはや人間ではない声をあげながら狂ったように頭部を掻き毟る。

『ギギ…ちぃ…ちぃぅおもっとぉ…』

「ヒ、ヒギ…ギィ!!」

 鈍い光を放つ鋭くて大きな爪を振り翳して、化け物は女の首を事も無げに跳ね飛ばした。
 ブシュゥッ!っと噴き上がる鮮血を全身に浴びて化け物が咆哮する。
 そして事切れた女の身体に覆い被さると餓えを癒すかのようにその身体を貪り喰らった。
内蔵を引き出し、胃袋で消化しきれていないものまで噛み砕き、内容物を含んでいる腸を引きずり出して咀嚼するとブシュブシュウッと噛み潰された腸から出た体液が口の端を滴り落ちる。筋肉と脂肪でピンクになっている骨をしゃぶって噛み砕く。
 地獄のような饗宴は、それから暫く続いたのだった。
 生臭い匂いが充満して、偽りの世界は何事もなかったかのように淡々としていた…

◆ ◇ ◆

「遠き異国の旅人?ボクが?まっさかぁ!」

 なんとなく、やっぱりまだ違和感がある口から出る言葉に、俺はなぜか居心地の悪さを感じながら頷いていた。
 デュークのヤツは行き付けの店だからと言って、1件のブティックらしきところに俺を連れてきたんだ。妖魔の仲間が経営している店らしいんだが、お得意さんは妖魔だけじゃなくて、なんと人間の!それも有名人だとかそんな連中も買いに来るってんだから凄いよな。だから、外でお買い物の時はデュークは言葉でちゃんと話すんだそうだ。俺といる時もそうしろよと言ったら、これが結構疲れるんだよね、と言われてしまった。疲れてもいいじゃねーかよ。ふん!
 ブティックなんて貧乏探偵の俺には縁も所縁もないし、なんたってガラじゃねぇんだ。
 ソワソワして背中の辺りがむず痒くなっちまうよ。
 野郎でも専用の服の店なんかあるんだなぁ、ちょっと感心した。
 だってさ、俺なんかドン・キ○ーテだとかユニ○ロにしか服なんか買いにいかねぇもんな。気に入った色のフリースがあれば御の字だし、安ければ安いほどラッキーだったり…情けねぇな俺。
 あ、泣きたくなってきた。
 いや!そんなこたどうだっていい!!
 問題はそんなことじゃねぇ!!

「違うのかよ?」

 胡乱な目付きで腕を組んで睨んでやると、服を選んでいたデュークは灰色のセーターを手に取りながら、肩を竦めて鼻先で笑いやがる。

「あら!デュークが『遠き異国の旅人』なワケないでしょお?オツム弱そーね、今度の彼女ぉ」

 このブティックのオーナーを兼任しているお姉ちゃん言葉がやけにお似合いの店長は、恐らくデュークと同じ属性の住人なんだろう。こうして見ると、デュークやアリストアが言うように俺たちが住んでいるこの世界には本当に闇の住人が多いんだと改めて思い知らされた気分だ。
 俺がムッとして傍らに立つヒョロッと細長いクネクネした長身の店長を睨んでいると、デュークはクスッと笑って灰色のセーターをソイツに投げた。

「またタートルネックぅ?あんたも好きねぇ」

 やれやれと溜め息を吐く店長に、肩を竦めてスタスタと嫌味なほど長い足で店内を動き回る。
 今度はコートかよ!?

「おい!まだ質問に答えてないぞ!」

 コートは店に入る時に店に預けていたから、俺はデュークの薄い黒のセーターの腕を掴んで呼び止めたんだ。

「だから、タスクが言ってるようにボクは『遠き異国の旅人』じゃないよ」

「じゃあ、なんなんだよ?吸血鬼でもないって言うし…お前たちみたいな連中はあとどれぐらいの種類がいるんだ?」

 ムスッとして聞き返すと、デュークはコートが整然と陳列している場所まで俺を導きながら小首を傾げやがる。

「なんだ、『遠き異国の旅人』の実態も知らなくて追っかけてたの?すっごいムチャするね、ボクの奥さんは」

 クスクスと笑う。
 全部がサマになっているからムカツクんですけども…

「ボクはただの『旅人』だよ…って言っても判らないね。うーんと、そうだねぇ。ここで1つ、ボクが光太郎にレクチャーしてあげるよ」

 振り返ってニコッと笑うデュークの笑顔は顔が引き攣るほど恐ろしいものがあるし、コイツに言われたってのがムカツクんだけど、言われてみたら俺は本当にこの件の『犯人』について何も知らないんだ。あまりにもコトが起こり過ぎて、脳内がショート寸前で細やかなことが何もできなかった。つーか、してるヒマもなかったんだっけ。
 アリストアのヤツもいまいち言葉を濁しているようだったし…『遠き異国の旅人』ってヤツはなんなんだ?

「ちょっとデュークぅ…いいのぉ?『旅人』に知れたら厄介じゃない?」

「構わないよ」

 デュークは殊の外あっさりとタスクと呼ばれた店長に頷いて、それから横に立つ俺をチラッと見下ろしたんだ。

「ボクの奥さんに、これ以上危険なコトに首を突っ込んで欲しくないからねぇ」

 誰が奥さんだ、誰が。
 でも今はそれに貝のようにムッツリと口を噤む。何か言って外出禁止になるよりは、今のこの有効な立場を利用しないとな。何やら聞き出せそうな気配もプンプンするし…

「あらやだ!ホントに奥さんだったのぉ?意外ねぇ、デュークはもっとメンクイだと思ってたんだけどぉ」

 余計なお世話だ、不細工で悪かったな。

「アークちゃんよりもあっけらかんとしてんのねぇ、あんた」

「タスク。ねえ、事務所に行ってなよ」

 OKだと呟いたものの、タスクは俺を不躾なほどマジマジと見やがって、それから不機嫌そうにしているデュークを呆れたように見た。

「テキトーに選んじゃいなさいよぉ。お会計の時はアタシを呼んでねぇ」

「OK」

 肩を竦めてタスクを追い散らしたデュークは、それから徐に陳列しているコートに興味を移しやがるから…おいおい、そうじゃねえだろう。

「レクチャーその1。『旅人』と『遠き異国の旅人』の違いについて」

 しかし、デュークのヤツは別に忘れていると言うわけじゃなくて、コートを繁々と物色しながら話し始めた。

「ボクはね、『旅人』と呼ばれる集団に属してるんだよ。そして、その集団から逃亡した連中のコトを『遠き異国の旅人』と言うんだ」

 そう言ってコートを元のハンガーに掛け直したデュークは唐突に俺を振り返ると、鼻先が触れ合うほど近くに顔を寄せながら覗き込んで、目を白黒させている俺にクスッと笑いながら首を傾げてきた。

「ねえ、光太郎。ボクはかっこいい?」

「…はあ?」

 何を突拍子もないこと言い出すんだコイツは。前々から変なヤツだとは思っていたけど、いよいよどこかおかしくなったのか?なんにしたって、春はまだ来ないぞ?

「人間として見たら…ってコトだよ。かっこいい・美形・美しい・綺麗・秀麗・端正…などなど。賛辞の言葉はたくさんあるね。でもそれは、外見上ってコト」

 そう言って身体を起こしたデュークは腕を捲りながら淡々と、まるで今までの惚けっぷりが嘘のような冷静な態度で話すもんだから、この話がどれほど重要なのか、それとも、デュークが、本当はこの話をしたがっていないんじゃないかとか思ってしまった。なぜか、とか良く判らないんだけど…もしかしたら、怒ってるように見えるせいからかな?
 そんなことを考えていると、黒のセーターを肘まで捲り上げたデュークはつっけんどんに目の前にその腕を差し出してきた。

「レクチャーその2。触って確かめてみよう」

「は?」

 首を傾げると、デュークは口元だけで小さく笑って言葉を続ける。

「ボクたちのこの姿はあくまでも仮初めの姿。本来あるべき姿を自制心で抑制をかけて人間に馴染もうとするのが『旅人』。自制心を見失って、本来の姿に戻ってしまった連中のコトを『遠き異国の旅人』って言うんだよ。ほら、触って確かめてみよう」

 ズイッと腕を差し出されて、俺は恐る恐るデュークの見た目よりも逞しい腕に触れてみた。触ってみて、ギョッとする。思わず引っ込めそうになった手をグッと上から押さえられて、俺は直接その感触を味わった。
 本来、人間の持っている腕は筋肉がどんなに付いているヤツでも、ある程度肉に弾力があって柔らかかったりする。でも、このデュークの腕は…
 この腕は…

「硬いでしょ?それに、ちょっとゴツゴツしてる。明らかに人間の腕ではないね」

 はい、終了~と言って、デュークは俺の手を名残惜しそうに離してから、捲くっていた袖を元に戻しながら肩を竦めたんだ。

「妖魔にしろヴァンパイアにしろ、悪魔系の住人が綺麗でかっこいいワケないでしょ?本来の姿が醜いからこそ、自制心により磨きをかけて、愛するヒトの為に綺麗になるんだよ~…なんてね」

 クスッと笑う。
 でもそれは、切なくて、なんて俺が口にしてもサマにならない言葉だけど、ちょっと悲しそうだった。

「光太郎の好きなアシュリーが、妖魔じゃなきゃいいね」

 ポツリと呟かれて、俺はハッとしたようにデュークを見上げたけど、ヤツは不機嫌そうに唇を尖らせてフンッと鼻を鳴らすだけで、それ以上は何も言おうとしない。
 明らかに、そう。確かに、明らかに人間とは違う感触だった。脈動も独特で、薄皮1枚隔てた向こう側にあるものは、何かおぞましくて不気味で…ゴツゴツと硬いワニか何かのような感じだと思う。実際にワニに触ってみてないからなんとも言えないんだけど、視覚的な感じがあんなもんだ。

「レクチャーその3。ボクを嫌いになったでしょ?」

 唐突にそんなことを言われても…俺はなんて言ったらいいのか判らなくて、ムスッとしたままでなんとなく情けなく見える妖魔を見上げた。いつもは、どこにそんな自信があるんだよ!?と聞きたくなるほどの自身過剰屋で、強引’グマイウェイのはずのデュークが、どこかバツが悪そうに、諦めたような顔をしているんだ。出会ってから初めて見る表情にビックリだ。

「妖魔なんて端から信じていなかったんだ!今更綺麗だとか醜いだとか関係あるかっての。肝心なのはハートだろ?ハート!」

「…光太郎って、変わってるね」

 はじめ、酷く驚いたような顔をしていたデュークは、次いで、どこか物悲しげに笑って首を左右に振るから、俺はその頬を両手でガッチリと引っ掴んで顔をグイッと引き寄せてやった!

「良く言われるよ、サンキューな!あんたの本当の姿とやらを見ても俺は驚くぐらいに決まってんだろ!?なんせ、子供の頃からお伽噺やゲームなんかで、魔物と言えば変わった姿をしてるのが殆どだったからな!却ってお前みたいに綺麗な顔をしてるヤツの方がよほどビックリしたよ。そう言うこと判ってないだろ、デューク。お前こそ、人間のことをもっと良く誰かにレクチャーしてもらうんだな!」

 目を白黒させながら、珍しく間抜けな顔をしていたデュークはしかし、突然ギュッと俺を抱き締めてきたんだ!ぎゃあッ!なんで抱き締めるんだよ!?そう言う話をしてるわけじゃないだろうが!
 ぎゃあぎゃあ喚く俺をギュッと抱き締めて、デュークは頬を摺り寄せながら嬉しそうだ。
 冗談じゃないぞ!

「光太郎ってば優しい。ボクを心配して勇気付けてくれるなんて…ボクは最高の伴侶を手に入れました!レクチャーは光太郎にしてもらおうっと」

「ななな…!?なんで話しがその方向に行くんだよ!?」

「さいっこうにイイ気分だから!今日は奮発して現金キャッシュ!カードなんて使わない」

 現金もキャッシュもおんなじ意味だぞ、おい。とか!そんなツッコミどころじゃねーんだ!
 いい加減下ろしてくれよ~
 思わず泣きが入りそうになった時、事務所から騒ぎを人間の数倍は良く聞こえる耳で聞きつけたのか、タスク店長がノソノソと出てきて、抱き合って店内でクルクル回っている俺たちを見つけると呆れたように腕を組んで溜め息を吐いた。首まで左右に振ってくれている、嫌だ、恥ずかしすぎるぞ…

「もう決まったのぉ?」

「あ、タスク。ねえねえ、聞いてよ」

 デュークが嬉しそうに話そうとするその口を、俺は思わず捻り上げたくなった。もちろん、そんなことができていれば今頃俺はここにいないんだけどな…ふんッ。

「今日はキャッシュでお支払い」

 なんだ、そっちの話か…なんてホッとしてる場合じゃないぞ!いい加減下ろせッ!このスカンチン野郎!!

「キャッシュぅ~?いや~ん、やったわねぇ」

 嬉しそうに擦り手をするタスク店長を、コイツも妖魔のくせに人間社会に馴染みまくってるなぁ…と思って呆れちまった。

「それじゃあ、ボクと光太郎の…」

 と、デュークはそこまで言うとハッとしたように周囲に注意を払った。
 すぐに伝染するようにタスクも背後を振り返る。

「チッ」

 デュークにしては珍しく舌打ちなんかして…いや、でもこの気配は。何かゾクッとするようなこの異様な気配は…
 デュークは反射的に俺を床に下ろすと、気配の糸を手繰り寄せるようにして意識を集中しているようだったが、次の瞬間、いきなりパンッ!と音を立てて次々と電気が破裂して室内が一瞬だが真っ暗になった。すぐに予備灯が点灯したが、それも音を立てて破裂したんだ!
 な、何が起こってるんだ!?

《タスク!光太郎を地下室へ》

《了解!》

 突然、脳内に声が響き渡って俺は思わず耳を押さえたけど、緊迫した2人の気配を直接肌で感じている現状では文句も言えない。俺には良く判らないけど、確実に今この時、何かが起こっているんだ!
 連れて行こうとする腕を思いきり振り払って、俺は真っ暗な闇の中、気配だけでデュークを捜しながら叫んだんだ。

「地下室なんか行かないぞ!何か来ようとしてるんだろ!?『遠き異国の旅人』じゃないのか?」

《いけない。それはダメだよ、光太郎》

「何が駄目なんだよ!?」

 見えない暗闇からスッと腕が伸びてきて、少しひんやりする掌が頬を包み込んでくる。

《光太郎は人間だから、暗闇は味方しない。なぜ、『遠き異国の旅人』が暗闇を好むのか…》

《デューク、時間がないわよ》

 判っているよ、と呟くデュークは俺の頬から手を離したんだ。

《人間を狩りやすくする為だよ》

 突き放すようにそう言ってデュークの気配が一瞬消える。

「デューク!」

 叫ぼうとすると、両方の頬をグッと掴まれて何かが顔を覗き込んできた!
 金から血のような鮮紅色に変化する双眸が間近に俺を見据えて、俺は思わず震え上がってしまった。

《地下室に行け、光太郎!ボクにビビッてるようじゃまだまだ甘い》

 ドンッと突き飛ばされて俺は何かに受け止められた。漸く目が闇に馴染んでくると、ディープブルーが仄かに煌く不思議な髪を目印に、鮮紅色の濡れた双眸を持つデュークが店の扉を見据えて立ちはだかっているのが見える。
 何か来る。
 気配がビンビンと肌を刺すような刺激にゾワゾワしながら、俺は確実にこの殺気の持ち主がここに来ようとしていることを感じていた。
 アリストアなんか目じゃない。この感じは…デュークが怒った時に良く似ている。ただ、もっと禍々しいおぞましさをプラスすれば、たぶんもっと良く似てくるような気がする。

《さ、早く!こっちよ!!》

「でゅ、デューク…!」

 名前を呼んでみたけど、あのふざけた妖魔はピクリともせず俺を振り返ることもなかった。
 腕を引かれながら連れて行かれようとする、でも俺は…!
 俺は…あの時、お袋さんと約束したんだ!娘さんの仇は絶対に取るって…ッ!

「デューク!俺だってそれなりに戦えるんだ!アリストアの時は不意打ちみたいなものだったし…今度は心構えもある!」

 腕を振り払ってデュークの腕を掴むと、チラッとだけ深紅の双眸で俺を見ただけで、仕方なさそうに溜め息を吐いた。

《ボクでも、アークかタスクがいないと1匹狩るのが精一杯なんだよ?判る?》

「う…判る!判るとも!おお、もちろんだぜ!!」

《降参しなさいよ、デューク。奥様の気の強さは知ってるんでしょ?》

 諦めなさいと言うタスクに、デュークは肩を竦めた。

《判った…でも、きっと気をつけてね。ボクもできる限り守るから》

「お、おう!」

 頷くと、タスクが苦笑する。このヒョロくてクネクネしてる妖魔が緊迫した時でもどこか抜けてるように思えるのは、やっぱりそのお姉ちゃん言葉のせいなんだろう。
 デュークは少し溜め息を吐いて、それから紅蓮に燃えるような双眸で扉を焦がすんじゃないかと思えるほど禍々しく睨みつけていた。

《アリストアのコトは後で詳しく訊くからね》

「…へ!?」

 ギクッとした瞬間、扉が突然外から内側…つまり俺たちに向かって吹っ飛ばされてきた!!

《!》

「わ!」

 ガンッ!と音を立てて床に叩きつけられた扉は奇妙な形に歪んでいて、その力の凄まじさが良く判る。
 デュークが一瞬早く俺を横抱きにして跳び下がっていなかったら、あの鉄の塊の扉が直撃していたことになる。変形してコンクリートの床に突き刺さっているあの扉の餌食だ…
 俺は、もしかしたら…デュークが言うようにとんでもないことに首を突っ込んじまったんじゃないだろうか?
 生唾をゆっくりと飲み込んだその時、のっそりと化け物が姿を現した。
 巨大な爪を有するガタイの大きなヒルのように滑る肌を持つ化け物…
 これが。
 これが『遠き異国の旅人』なのか…?

6  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 まるで口を閉じた貝のように、いつもはお喋りな男の普段とは違う雰囲気に、彼の相棒である小柄な少女は桜色の唇をツンッと尖らせて見上げていた。
 街の明かりは細かな金粉のように眩い金髪を闇夜に浮かび上がらせて、男がこの世ならざる者の美しさを隠し持つ、得体の知れない存在を際立たせていると彼女は感じている。

「おかしいわよ、アシュリー」

 ポツリと呟く少女の方に、ビルの屋上から恐ろしげもなく地上の光を見下ろしていた男、巨体をオフホワイトのコートに包んだアシュリー=R=シェラードが視線を動かした。

「エレーネ?」

「おかしいのよ。どうしたって言うの?今日のあんたはおかしいわ」

 少女はまるでダンスでも踊るかのように屋上のフェンスにヒョイッと飛び乗ると、心許無い足取りでふらふらと細い柵の上を歩く。

「なにかしら?あの人間の坊やかしらね。そうね、きっとそうだわ」

 考え事をするようにふらふらと柵の上を行ったり来たりする少女エレーネは、漠然としない答えを導き出して首を傾げている。そんな彼女を何か言いたそうに、しかし言葉が見つからないのかアシュリーは苦笑しながらただ見上げていた。危なっかしい少女の行動を咎めるでもなく、アシュリーはポケットに両手を突っ込んで手持ち無沙汰に立っているだけだ。

「鈍感な坊やだものね。あんたが殺し屋だって知っていても離れない。それってまるで恋みたいじゃない?」

 クルクルとダンスを踊るような足取りでフェンスを行き来する小柄な影が、コンクリートで固められた冷たい地面に微かな影を落としている。

「でも違う」

 即座に否定したエレーネは鼻先でクスッと笑って、苦笑する相棒の微かな苛立ちに気付いていた。

「ねえ。どうするの?この世は不思議がいっぱいで戸惑っちゃうのよね。たくさんのことに押し潰されて、人間は何に変化しようとしてるのかしら?その人間を守るために生きてるあたしたちの存在って何かしらね」

 星すらも見えない都会の夜空を振り仰いで、エレーネは白い息を吐き出す自分を不思議そうな顔をして首を傾げた。両手を広げて深呼吸したとしても、その肺は黒く霞むだけだと言うのに。

「ねえ!あんたがただの殺し屋じゃないって知ったら、あの坊やはどうするのかしら?」

「…さあ」

 アシュリーは広い肩を竦めて見せると、ほんの少し、自嘲的に笑ったようだ。

「殺し屋に“ヘン”の文字がオマケにつくだけじゃない?光ちゃんのオレに対する認識なんてそんなモンだし」

「ヘンな殺し屋?もう、ホント、鈍感にもほどがあるわね」

 エレーネはまるで自分が貶されでもしたかのように見事な柳眉を吊り上げると、不意に悲しそうな双眸をしてアシュリーを振り返った。

「でも…妖魔の殺し屋、よりは幾らかマシね。愛する人間に、怯えられてしまうことほど哀しいことはないもの」

 きっとあのヴァンパイアも…途切れた言葉の先を追うようにエレーネを見上げたアシュリーは、彼女が諦めたように溜め息を吐くのを見た。幼い少女の面影を宿す整った風貌には疲れが見え、彼女が年端もいかぬ小娘の表面を持つだけの大人の女だと言うことを物語っているようだ。

「人間に恋をするなんておかしいのよね。あたしもあんたも、だからこんな仕事に就かざるを得なくなっちゃうのよ。妖魔からは爪弾き、でも恋い慕う人間は全くの無頓着…ねえ、それってホントは幸せなことなのかしら?」

「100年考え続けた姐さんに判らないことを、どうしてオレが判るワケ?まあ、なんにせよオレは、光ちゃんが鈍感だろうとなんだろうと、傍にいられたらそれだけで幸せだなんて思わないけどね」

 腕を組んでどうでもよさそうにストーカー紛いの執着心を見せるアシュリーを、エレーネは目を丸くして見ていたが、不意に夜空に木霊するほど高らかに笑った。

「あっははは!同感よ。それ、同感!」

 暫く笑っていたエレーネは肩で息をしながら目許の涙を拭って、夜空に瞬く小さな星の影を見上げて白い息が消えるのを見送った。

「モノにしなくっちゃね、意味はないわ」

「…エレーネ。オレたちが追っているヴァンパイアってのは…最近騒がせてるアレ?」

 言い難そうに訊ねるアシュリーを見下ろしたエレーネは、安定感のない柵の上に腰を屈めた中腰の態勢で座ると、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべてアシュリーの頬を指先で擽った。

「あらあら。あの坊やが追ってるのも確かヴァンパイアだったわね?」

「…」

 頬を弄ぶ指先をそのままに、アシュリーは無言で、ただ口元に皮肉げな笑みを浮かべただけで反論や言い訳を試みる様子はない。
 情報収集は相変わらずヘタで、しかしエレーネにはいつまでも愛おしいアシュリーの仕種だ。
 無口な少年が凶悪な双眸を抱えて自分の前に現れたのは、彼が人間の歳で言うところの8歳の時だった。
 傷だらけで、まるで野生の獣が傷付きながら、敗北に打ちひしがれている…そんな雰囲気を持つにはあまりに幼くて、一度は母として我が子を抱き締めたことのあるエレーネには痛々しくすらあった。
 何に立ち向かい、何がこの少年をこれほどまでに打ちのめしたのか、そしてどう言う経緯でギルドに拾われたのかエレーネには知らされていない。ただただ、途方もなく立ち竦む凶悪な殺意を内に秘めた少年を見守ることしかできなかったと言うのが、ことの次第なのだ。
 現在でさえ、今だ癒えない傷を身内に隠し持つアシュリーの双眸が時折、抑えきれない狂気を覗かせて殺意を滾らせることもあるが、不思議とあの槙村光太郎と言う人間に出会ってからは忽然と鳴りを潜めてしまっている。
 牙を抜かれた野獣の本性は今だ計り知れないが、エレーネはその方がいいのかもしれないとも思うようになっていた。光太郎の性格の愚鈍さが、アシュリーの何かを溶かしているのなら、それは以前の自分に酷似しているから安心と不安が綯い交ぜになる。
 先立たれたら…マイナス思考は身の破滅を暗示する。
 エレーネは心中で首を左右に振ると、ささやかに苛立つアシュリーにうっとりするほど極上の笑みを見せた。

「さあ、どうかしらね?あたしを追ってきて捕まえな。そうしたら、飛びきり上等な情報を教えてあげる」

 スクッと立ち上がったエレーネは吊り上がり気味のアーモンドアイをうっすらと細めて笑うと、徐に両手を広げ、そしてトンッとフェンスを軽く蹴って宙に身体を踊らせた!
 圧倒的な風圧に怯むこともなく空中で一回転したエレーネは、まるでそこに何かあるかのようにスムーズに行動した。ビルの壁に器用に両足をついた彼女は、グッと力を込めてその壁を蹴った。その反動のまま凄まじい勢いで対面するビルの屋上に飛んでいく。
 踊るように舞う彼女は対面のビルの屋上に着地すると、ホットパンツから伸びる素足を惜しげもなく晒しながら腰に片手を当てて、遠目に見えるアシュリーに投げキッスを送る。ウィンクはオマケだ。
 そんな彼女を冷ややかな碧眼で見送っていたアシュリーは小さな溜め息を吐くと、それでも一瞬脳裏を掠める笑顔を思い出して首を左右に振った。

「飛びきり上等の情報を抱えて帰れば、あるいはキス以上の期待ができるのかな…」

 呟いて、なんとなく情けなくなったアシュリーは泣きたくなった。

「ああ。オレってばつくづく働くお兄さんだなぁ…ってマジで思っちゃうよ。尻尾振る狼ってのも悪くないかもね」

 狼に成り下がってもいいと思えるほど、光太郎のどこにそんな魅力があるのか…ハッキリ言って彼には判らなかった。また、判らなくてもいいと思っている。
 敢えて『犬』と言わないところが、彼の下心を如実に物語っている…などと言うことはどうでもいいのだろう。
 アシュリーにとって光太郎は、自分以上の何かなのだ。
 それでいい。

「さってと。エレーネ姐さんをサッサと捕まえて、ヴァンアパイアを召し取ったら極上のご褒美をもらおう」

 今夜はきっと、いつもよりも生臭い夜になるだろう。
 そうして明け方に帰るあのマンションで、少し眠たそうな双眸をした最愛の相棒は、仕方なさそうな顔をしてバスタオルと大き目のシャツを手渡すんだろう。
 風呂に入ってスッキリすれば、嫌なこた全部忘れるって。
 憎めない笑顔のオマケ付きで、そのことを教えてくれたのは光太郎。
 あどけない顔立ちをした、最愛のひと。
 明日の朝、もたらす筈の最高に上等なお土産に、光太郎は飛びきりの笑顔をくれるだろうか?
 どんな顔をするのかな、あのヒトは。
 それは考えただけでもウキウキする、俄然、この後の仕事にヤル気を起こさせてくれるちょっと危険な妄想だ。
 命の重みよりもアシュリーにとって重要なのは、まさにそのことだなどと光太郎が知るのは、もう暫く後のことで、エレーネすらも開いた口が塞がらない間抜けな状況も彼にとってはどこ吹く風で。
 カシャン…と柵を微かに鳴らせて身軽に飛び乗るアシュリーの重さをまるで気にした風もなく、フェンスは細やかに振動している。確かに何かが乗ってはいる様子だが…

「やれやれ。オレってばなんてケナゲ」

 軽く肩を竦めたアシュリーのふざけた独り言は吹き上げる風に掻き消されて夜空に吸い込まれて行く。だがそれよりも一瞬早く、アシュリーの巨体がゆっくりと眼下の小さな光の河にダイブした。
 恐ろしい風圧を心地よさそうに双眸を閉じるアシュリーの見る一瞬の幻がなんであるのか。
 確認できるのは彼本人。
 光の河に吸い込まれて、エレーネは遠い別のビルの屋上で苦笑いしていた。

5  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 夜空に煌く星を散りばめた全てが、どこかに隠れてしまったあのひとだとしたら。
 見つけ出して抱きしめて。
 ああ…もう二度と手離したりはしないのに。
 この胸の奥に滾る想いはなんだろう…?
 欲しい。
 欲しい。
 彼女が欲しい。
 彼女がその身内に隠し持っていた。
 あの甘い血。
 鼓動を脈打つ優しい心。
 握り潰したいほど愛おしくて。
 手に入れたかった…

◆ ◇ ◆

 逃げ出した『旅人』は吸血鬼だった。
 彼は遠い昔に亡くした恋人を捜して捜して…彷徨っていたところをエレーネがアシュリーとはまた別の仲間と捕獲していたのだが、上層部の不手際から取り逃がしてしまったと言うのが事の次第だ。
 『旅人』と呼ばれ、戒律の厳しい妖魔の集団から己の意思で逸れてしまった孤独な妖魔のことを、闇の世界では通常『遠き異国の旅人』と呼んでいる。その彼らの秩序を取り締まるのが、人間の世界では殺し屋を生業としながらもたまにアシュリーが顔を覗かせているギルドの連中だった。
 その素性も正体も一切が不明ではあるが、人間として名前を列席している者はただの一人もいない特殊機関であることは確かだ。
 実際のところ、アシュリーにもよく判ってはいなかった。
 物心もつかないうちに両親を亡くし、妖魔の手によって育てられた彼は、反発するようにその妖魔の許から飛び出してエレーネに拾われ、以来ずっとなんの疑問も持たずに行き場をなくした『旅人』を狩っていた。
 だが、今回のターゲットは自らの強い執念の意思で群れを逸れた『遠き異国の旅人』なのだ。
 群れから逸れた妖魔に自らを戒める戒律はなく、その為、その解放された力は想像を遥かに凌駕し、百戦錬磨の腕を持つエレーネを持ってしても、一瞬に生じる隙を見逃さない限りは捕獲は困難だと言われるほどだ。
 アシュリーは自分が身震いしていることに気付いて苦笑した。

「いけない、いけない。こんなところを光ちゃんに見られたら笑われちゃうね」

 呟いて、アシュリーはどこかの闇に膝を抱えて蹲る孤独に愛されて遠き異国の旅人と成り果てた、悲しい妖魔を思った。
 遠い昔に亡くした恋人は、同じヴァンパイアだったと聞く。
 輪廻の輪から逸れてしまった魂の生まれ変わりは存在しないと言うのに、どうして、その妖魔は『旅人』から抜け出してまでも彼女を捜し続けるのだろうか…?
 誰か別の妖魔を愛せばすむことなのに…そこまで考えて、アシュリーは小さく笑った。

「そんなこと。きっとできるはずもないか」

 別の誰かは所詮別の誰かであって、心から惹かれあって心を寄せた伴侶ではないのだ。その愛しい魂が永遠に失われた事実に生涯を囚われて、彷徨うのも生きる道なのかもしれない。
 妖魔は自殺できない。
 誰か、他人の手に掛かって死ねることを、ただひたすら望んでいるのだろうか…
 必死に生きるのか、必死に死ぬのか…囚われた孤独に押し潰される恐怖を味わいながら、無差別に人間を狩るのには理由があるんだろう。

「誰かの温もりに触れて、それがたとえ彼女じゃなかったとしても、幻想に溺れてしまう道…ってのもゾッとしないね」

 どこか遠くでエレーネの声がして、アシュリーは馬鹿げた妄想から覚醒した。
 オフホワイトのコートは彼の戒め。
 返り血を浴びる度に自分が人間ではない化け物だと思い知るための虚ろな道具に過ぎない。
 彼が愛している人間は、そのコートを見るたびに首を傾げては不思議そうな顔をしていた。
 『殺し屋なのに白系のコートは目立って変だ』と言われても、アシュリーは笑うことしかできなかった。どこまで理解してるんだろうか、この愛しい人は。

「きっと何も理解なんかしていないんだよねぇ。オレの愛しい人は鈍感野郎だから。ま、そんな光ちゃんを愛しちゃったオレもどうかしてるんだろうけど」

「?」

 自己完結して肩を竦める傍らの相棒に、エレーネは不審そうな双眸を向けて柳眉を顰めたが、別に何か言おうとはしなかった。
 風が吹き上げていくビルの頂きで、痩身で小柄なエレーネと大柄な体躯を夜目にも明るい白のコートに隠した長身のアシュリーは、華やかな闇を矛盾なく抱え込んだ空虚な電飾に彩られた虚ろな街を見下ろしていた。
 こんな薄ら寒い街で、孤独を抱き締めて泣く妖魔は…何に癒されてると言うのだろう?
 彼女を亡くした街で…心まで亡くしながら。

◇ ◆ ◇

「ちょ、勇ちゃん!?どうしちゃったって言うの!?」

 すみれは驚きに双眸を見開きながらも、得体の知れない外国人の腕に意識をなくして抱き上げられている勇一を見るなり、手際よく室内に通してベッドに横たわらせた。
 意識を失っているようだがそれほど大した事はないようだと、手首を掴んで腕時計に目線を落としていたすみれはホッとして寝室を後にすると、漆黒の衣服に身体を包んで居間に立っている男に警戒したように両腕を組んで唇を尖らせた。

「で?詳しい事情を話してくれない?」

 むやみやたらに追い出すのではなく、腕に自信のあるすみれは勇一の身の上に起きた事実を知ろうと見知らぬ男と対峙する。

「まあ、落ち着いてください。お嬢さん、私は別に怪しい者ではありませんから…」

 男が優雅に呟くと、彫りの深い顔立ちに電灯が陰影を落として、普通の女性なら腰が抜けるほど端整な顔立ちをした男にも、すみれは怯まずに綺麗な柳眉を寄せて食って掛かる。

「そんなにあからさまに怪しそうなのに、信じろって方がどうかしてるんじゃないかしらね」

 男は面食らったように一瞬だけ驚きに双眸を開いたが、次いで、くっくっく…っと愉快そうに微笑んだ。いちいち全てに格好をつける男に、すみれはあからさまに胡散臭そうな目付きをした。

(コイツ…きっと自分の容姿に自信があるのね。寒気がするわ、ヘンな奴)

 胸中で思って口を噤むすみれのその勝気そうな双眸に、男は強情な娘だと思って欲しくなった…が、今はそれどころではないのだと思い直して、彼は肩を竦めると自己紹介をした。

「私はアリストア=レガーシル。通り掛かりにちょっとしたアクシデントに見舞われましてね。倒れている彼を見つけたのだよ」

「…アリストア=レガーシル?って、もしかしたら立原伯父さまのお知り合いの?」

 強情そうな娘の口から洩れた恩人の名前に反応した男、アリストアは驚いたように色素の薄い双眸を細めてすみれを見た。

「立原氏をご存知で?」

 すみれは幾分かホッとしたように気丈に振舞っていた緊張を解いて頷いた。頷いて、伯父の知り合いに対して失礼な振る舞いをしていることにハッと気付き、慌てたように可愛らしいフリルのクッションを勧めてキッチンへと姿を消した。

「母のお兄さんなんです。良かった、勇ちゃんが知ってる人に助けられて…」

 紅茶を淹れながら応えるすみれに、アリストアは襲わなくて良かったと胸を撫で下ろした。

「気を失う前に、彼がここの住所を言ったのでね。連れて来てみたのだよ」

「ありがとうございます。勇ちゃん…きっとあたしに何か言いたいことがあったのね。取り敢えず、友人たちを呼びたいんですが…」

 花柄のセンスの良いカップに注がれた琥珀のお茶を見つめながら、アリストアはその方がいいだろうと頷いて見せた。

「私は構いませんよ。時に、お嬢さん。君は槙村光太郎をご存知かな?」

「私は滝川すみれです。光太郎が、光太郎に何かあったんですか?」

 震える指先で恋人である彰の番号をプッシュし、呼び出し音を確認してからすみれはアリストアを振り返った。

「…彼は攫われてしまったよ」

 すみれは驚いたように双眸を見開いて絶句したが、何をどう理解しようかと思い悩んだようにこめかみを押さえながら、ちょうど受話器を取った彰に思わず怒鳴ってしまっていた。

「みんな集合よ!場所はあたしの家ッ」

 それで電話を切って子機をテーブルに戻したすみれは、あたたかな温もりを大事そうに両手で包み込んでいる風変わりな外国人に、眉根を寄せて尋ねていた。

「光太郎はどんな奴に攫われたんです!?アイツ、けっこう強いから、そんな簡単に攫われるはずはないんです!」

 滑り込むようにアリストアの前に座ったすみれに、彼は思った以上に臆病そうな彼女の、外見では人間を見極められないことを思い出しながら不安に揺れる双眸を見つめて口を開いた。

「魔物です。…きっと貴女は信じないでしょうがね」

◆ ◇ ◆

《ただいまv》

 赤いピエロは俺の身体を抱き締めると、愛おしいそうに頬擦りをしてきた。
 奥さんは相変わらず逃げ出そうと毎日のように部屋をグッチャグチャにしていて、仕事?…か何か判らない外出先から戻ってくる自称夫は、やっぱり相変わらずの仕種でそんな俺を抱き締めてキスをするんだ。
 もうそんなことには慣れてしまった俺って…かなりヤバイ精神状態だとは思うけど、それだっていつかの隙を狙えるだけの余裕は欲しいと思うからの苦肉の策で。

「…」

《? どうかしたの?》

 ずっと長くいるからだとか、そう言うんじゃなくて、なんかヘンだって肌が感じ取ったんだと思う。
 コイツはデュークか?

「誰だよ、お前」

 赤い衣装に身を包んだピエロはビックリしたようにキョトンとして、それから困ったように眉を寄せると俺の顎に手をかけて覗き込んで来た。金色の双眸は見透かすように俺の心の内側まで覗き込もうとしているようだ。

《何を言ってるの?ボクはデューク。キミの旦那さんでしょう》

 声も、あの憎たらしいほど澄ました喋り方も、人を馬鹿にしたようなポンポンの付いてる二股割れの帽子の裾から覗くディープブルーの髪も、匂いも…気配すら全てデュークなのに、何が違うんだろう?コイツはデュークじゃない。
 口唇に触れた唇のやわらかさも、俺に触れるときの、その鋭い凶器を持つ指先の驚くほど繊細な仕種も、何もかもがデュークなのに…何だろう?

「違う。お前はデュークじゃない。誰だ?アイツの知り合いなのか?俺をからかってんのか?」

 その腕から逃れようと両手でソイツの身体を引き離しながら言うと、赤い衣装のデュークもどきはキョトンとした表情でそんな俺を見下ろしてくるんだ。
 コイツはなんだ?
 別の妖魔が俺を殺しにでも来たって言うのか?だったら、何もデュークの格好をする必要もないだろうに…アイツ、実はそうとう恨まれてるとか?
 有り得そうだから怖いんだよなぁ。

《光太郎?》

「何だよ」

 呼ばれて顔を上げた俺は、思わず目をむいてしまった。
 なぜかって…その。
 突然、キスされたからだ。
 キスなんて慣れてるつもりでいたのに…舌に柔らかく当たる犬歯のような歯の感触を感じたとたん、ビリビリと身体中に電気みたいなものが走った気がして…感じた、んだと思う。
 良く判らないんだけど、腰が抜けそうになって思わずその得体の知れない妖魔に縋り付いてしまった。
 一生の不覚だ!畜生ッ。
 デュークやアシュリーのキスに慣れていると思っていたのは俺の勘違いだったのかもしれない。そう思わせるほど、その鮮烈なキスはそう簡単には忘れられそうもないぐらい強烈だった。

「…ッ!んた、だ、誰なんだよ!?離せッ!離せよ!!」

《ふん。しがみ付いてるのはキミの方》

 鼻先で笑って手を離したソイツからずり落ちた俺は、情けなくも床にそのまま座り込んでしまった。

《これぐらいで感じちゃう。デュークったらどんな調教をしてるの?》

「ち、調教!?ふざけんなッ!」

 腰は萎えてるし、思うように身体に力は入らないし、繰り出した拳の威力なんざ高が知れてるとしても殴らずにはいられなかった。ヘロヘロのパンチはすぐに受け止められて、掴まれた腕ごと引き寄せられて、屈み込む妖魔の金に煌く妖しい双眸に見据えられて咽喉の奥が渇くのを感じた。
 …なんだってこう、妖魔の凄みに怯んじまうんだ、俺よ!
 殺された娘の仇を打ちたいからと娘を殺した奴を捕まえてくれって依頼、辛いぐらいのお袋さんの気持ちに共感して引き受けただけの、ただの変態がらみの依頼だって思っていたんだ。なのに、どうも調べていくうちにこの世ならざる者の仕業なんじゃないかって思うようになって、殺され方の尋常じゃない様にある仮説をたてたんだ。
 つまり、『ヴァンパイアの仕業』じゃないかってな。
 馬鹿みたいで、でも満更じゃなさそうだって言う俺は自分の直感を信じた。
 友人にも相談した。彼らは賛同してくれた。
 こんなことになる前に手を引けとも言われたさ。
 でも俺は…あのお袋さんの、絶望を押し殺しながら娘の仇を討ちたいという悲しいまでの母親の気持ちを踏み躙りたくはなかったんだ。その想いが達成したときにたとえあのお袋さんが亡くなったとしても、それが幸福ならそれでもいいと思う。
 だから…
 たとえ相手が悪魔だとしても、俺は怯むわけにはいかないんだ!
 方法なんか知らないけど、できることはなんだってする。
 それが『私立槙村探偵事務所』のモットーだ!

《!》

 キッと睨み付けた俺はヘロッた足腰に気合をぶち込んで、自力で立つとその腕を振り払った。
 デュークもどきは突然の俺の反撃に少しは驚いたようだったけど、何か面白いものを見つけた猛獣のような獰猛さでニヤッと笑ったんだ。

《面白い。うん、とっても面白いよ》

 不可視の霧のように殺気を撒き散らすソイツの気配は、今や氷のような冷たさで、俺の口許からは事実、それを物語るように吐き出される息が白くなっている。

《ヤってみる?面白そう。ドキドキする》

 ズイッと一歩を踏み締める様にして息を飲む俺に近付いてきたソイツは不意にハッとしたけど、その時はもう遅くて、深紅の衣装に絡みつくように漆黒の袖から伸びた腕がヤツの動きを封じ込めたんだ。

《勝手にドキドキするのはルール違反だよ、アーク》

 頭に直接響くこの声は…

「デューク?」

 思わず口から洩れた言葉に反応するように冷えた大気がユラリッと熱を取り戻して、赤いピエロの背後の空間が陽炎のように揺らめいた。

《なんだか楽しげにさっさと帰るから心配はしてたけど…他人の伴侶に手を出すのはご法度だよ、アーク。『旅人』に申告してもいい?》

《やめて。それはやめて》

 漆黒のシャツを着た、いつもとは違う出で立ちのデュークはディープブルーの髪もそのままの、ごく普通の格好をして揺らめく空間の中から姿を現すと、抱き付いている妖魔の耳元に不機嫌そうに囁いているようだ。そうすると、赤のピエロ、アークとか言う妖魔はデュークと全く同じ顔を引き攣らせて嫌そうに笑っている。
 …なんか、どうも一難は去ったようだ。

《ふん。デュークったら本気で骨抜き。でも楽しいから、いつかまた来ようっと》

 楽しそうにクスクスと笑った後、アークはスルリッとデュークの腕から逃れ、ほんの一瞬指先を動かしただけで青いピエロの衣装に着替えてしまった。
 すっげぇ早業だな。芸能人とかって舞台で着替えの早業があるって聞いたけど、これだと便利なんだろうな。とか、俺がそんな下らないことを考えている間に、アークはチラッとこっちを見てクスッともう一度笑ったんだ。

《デュークのように恋をするつもりはないけど。キミとはゼヒ、拳で勝負してみたいな》

《アーク》

 腕を組んだデュークが胡乱な目付きで不機嫌そうにその名前を呼ぶと、胸の前で小さく降参のポーズをして「はいはい」と言いたげなアークは面倒臭そうな顔をして立ち去ろうとした。
 けど。

「!」

《他人のものってのは興味がわいちゃうんだよねぇ。タフそうだし。ボクもキミを気に入ったよ。だって、ボクとデュークを見分けられたのなんて二人目だものね》

 立ち去り際、頬に掠めるようなキスを残すと、ムスッとしているデュークに舌を出しながらアークは空間に溶け込むようにして姿を消してしまった。
 青いピエロはなんとも恐ろしいが、どうもデュークよりは陽気そうだ。
 拳で勝負とかって部分が引っ掛かるんだけど…

《アークは気紛れだから、いつかまた来るよ。メンドイ》

 肩を竦めて、さっさと床にへたり込んでしまった俺の腕を取って立ち上がらせながら、デュークは本当に面倒臭そうな顔をした。

「デューク。なんで、そんな妙な格好をしてるんだ?」

 いつもの見慣れたピエロの衣装ではないそのホストみたいな格好に両腕を掴んで立ち上がらせてもらいながら首を傾げると、デュークの奴は片方の眉を小器用に釣り上げて憮然とした表情で唇を尖らせた。

《ヘン?これは人間のカッコでしょーが。お店のヒトは誉めてくれたんだけど》

「いや。素直に言えばカッコイイとは思うよ。禍々しさにも磨きがかかってるしな。俺が言いたいのはどうしてそんな格好をしてるかってことだ」

 デュークになると大きな態度に出る俺ってのもなんだかな…とは思うけど、その分、この妖魔が本気で俺を大事にしてるんだなってことはアークの態度で判った。本来なら、俺なんか指先で消しちまうことだってできるんだろう。
 でも、デュークの奴はそんなことはしない。
 指先にある凶器で俺を傷付けないように柔らかく抱き締めたりする仕種とか…ホント、鳥肌もんだよな。
 全く。

《買い物に行こう。高い建物の中は息が詰まるからいけない》

「お前が閉じ込めてるくせに」

《そう。だって、誰にも見せたくないから。でも、光太郎は人間だから、太陽に当ててまっすぐに育てないと》

 人を植物みたいに言うな…とか言ってやりたかったけど、呆れて何か言う気にもなれなかったから俺は黙って頷くことにしたんだ。

《息抜き…って奴だね》

 外に出られる。
 だってそれは、逃げ出せるチャンスじゃないか。
 俺は黒のシャツを着たデュークの背中に腕を回しながら、その胸に頬を寄せた。デュークは奇妙に素直な俺を訝しみながらも、俺の後頭部に片手で触れながら頬を寄せてきた。
 この得体の知れない妖魔の弱点が、ともすれば俺を好きだと言う一瞬の隙だとしたら…逃げ出せる。
 ああ、逃げ出して見せるさ。
 祈るようにそう思っていた。

4  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 ちっくしょう…
 どうやらここはどこかのマンションのようだ。それも、格別高い、高層マンションのようだ。
 どう言う仕掛けなのか、窓には鍵がかかってるってワケでもないのに、なぜか開かない。
 デュークはあの青いピエロと仕事があるからと言って出かけてしまった。
 ヒョイッと肩越しに振り返って《逃げようと思っても無駄だよ。ここは、人間的に言ったら結界?が張ってあるからね》と嬉しそうに言っていた。
 疑問形で聞かれたってなんて答えりゃいいのか判らない俺は、溜め息をついて、自称〝夫〟を見送ってやったさ。

「いってらっしゃい、あなた」

 そう言ったら、ちょっと驚いたような表情をしていた妖魔はすぐにニヤッと笑って、素直なのは好きだよ…とか言いながら肩を竦めると玄関に向かって、まあ、先のようなことを言ったわけだ。
 本気で言うワケがねぇだろ、バカ野郎。
 あの変態ピエロがいない隙に、どんなことがあったって俺は逃げ出さないと…
 アシュリーは…まだ戻ってねぇだろうな。
 アイツのことを思い出したら、俺は唐突に暗くなってしまった。
 俯いて、唇を噛む。
 俺は、けしてアシュリーを嫌っていたわけじゃない。アイツなりの挨拶にしても、キスされたって嫌じゃなかった。デュークにされた時のような嫌悪感が、端からなかった。
まるで昔から知っているような、そんな懐かしい感触が案外好きだったんだ。
 なんだろう、この気持ちは…
 いや、今はそんなことはどうだっていい。
 ここから逃げ出すことが先決だ。
 一晩中抱かれた身体は痛みを強かに訴えてくるが、そんなこともどうでもいい。
 俺は取り敢えず、無駄だと判っていても薄いただのガラスが嵌め込まれた窓に力任せに椅子を投げつけてみた。
 ガァンッと凄まじい音がして椅子が床に転がったけど、窓自体は別に平然と傷1つなく佇んでいる。いったい、どんな強化ガラスだよ。全く。
 何度したって同じだろうから、俺は椅子をサッサと諦めて周囲を見渡した。
 変態ピエロがいなくなって、よくよく部屋を見渡してみると、けっこう、高額を出さないと手に入れることはできないだろうってぐらい高級な、恐らく分譲住宅だってことは判った。
 調度品も添え付けで、マホガニーだとか、俺が咽喉から手が出るほど欲しかった事務用の重厚なテーブルが書斎に備わっていて…おい、なんだよこれは。書斎だと?
 ふざけやがって!
 どうせ俺のアパートはせいぜい良くて3DKだよ!
 クソッ。
 はっ!いやいや、自分の家と比較しちゃいかん。こんなものは、夢なんだ。
 俺が必死で働いて手に入れるなら現実になる、夢なんだ。
 逃げ出せないって判ってるんだろう、デュークは俺を自由にしている。
 服もあるし、財布も家の鍵もそのまんま置いてある。
 ふざけやがって…絶対に逃げ出してやる。
 人間さまを舐めるなよ!

◆ ◇ ◆

 クスッと魔物が笑う。

《デューク?》

 青い衣装に身を包んだピエロが不思議そうに背後の影に振り返ると、真っ赤な衣装の魔物は鮮血に彩られた衣装と同じく真っ赤な唇を優雅な笑みに象って首を微かに振った。
 それでも楽しそうだ。

《ヘンなヒト。デュークはあの人間を手に入れてから、牙が抜けた猛獣のよう》

 そう言って、青いピエロは惜しむように首を左右に振るのだった。

《まるで飼い猫》

 赤のピエロはその挑戦的な台詞にも肩を竦めるだけで何も言い返そうとはしない。

《でも、それもいいかも♪》

 結局、何が言いたいのか。
 青のピエロは蒼白の頬を上気させてクスクスと笑いながら宙に身体を踊らせた。クルンと逆さになって、それでも根性(?)で落ちない二股割れの帽子についたポンポンを揺らしながら、唆すような双眸で赤のピエロに口付けた。

《間接キス。あの人間の味がするよ。昨日は随分と楽しんだ?》

 唇を離した妖魔が嗾けるようにクスッと鼻先で笑って小首を傾げると、その時になって漸く赤い衣装の妖魔はニッコリと見る者の心を魅了してやまない美しい笑みを浮かべて口を開いた。

《アークってば、いつからそんなオヤジ?幻滅しちゃうよ》

 ガタガタと、二人の間で恐怖に震える綺麗な娘は、胸元と首筋から多量の鮮血を滴らせて、もう余命の灯火が消えかけていることを物語っている。恐怖に引き攣った蒼白の頬と、見開いた狂気を宿す双眸が、たとえ助かったとしても、彼女の心に巣食う残酷な悪夢が消えないこともまた、物語っている。

《酷い。オヤジなんて酷い。美味しいからあの人間に持って帰ってあげなよって言うつもりだったけど、もうあげない。デュークにもあげない。これはボクが1人で食べる》

《ご自由に》

 そんな阿婆擦れ…言外の台詞に気付いたのか気付かないのか、プイッと腹を立てたアークは逆さまのままニヤァッと不気味に微笑んで、ヒィッと怯える娘の長い髪を引き掴んでさらに高く舞い上がる。

「き、キャァァァッ!!あ…あ…願い、た、助けて…」

 長い髪を思い切り掴みあげられて、ブチブチと鈍い音を立てて皮膚ごと毟り取られながら無理矢理立ち上がらせられた娘が、無理なことだと判りきっているのに綺麗なピエロに救いの双眸を向けた。ボタボタと大粒の涙を零す娘を哀れむように見下ろしたデュークの金色の双眸には、凡そ感情と言うものは見受けられないが、人間に対するにしては哀れみのフリをしているのも珍しいことだ。

《デューク、骨抜き。うんざり》

 肩を竦めた青のピエロは憎々しげに吐き捨てて、忌々しそうに断末魔のような絶叫を上げる娘を闇の中に隠してしまった。顔だけを宙に浮かした奇妙な青のピエロを見据える深紅の妖魔に、彼はもう一度大きな溜め息をついた。

《あの人間。ヴァンパイアが狙ってるよ》

《ヴァンパイア?》

 不思議そうに小首を傾げると、青の妖魔は暫く何事かを考えているようだったが、ニッコリと笑って頷いた。

《うんとヤキモチを焼くといいよ。それと…イロイロ。あの人間、色んな妖魔が狙ってる。甘い血のせい?それとも…?》

 意味深に呟いて口許に笑みを浮かべたままで宙に浮いた頭を闇にスゥッと消した青のピエロを見送った妖魔、深紅の衣装に身を包んだデュークは暫く訝しそうに腰に手を当てて考え込んでいるようだったが、綺麗な面にうっそりとした微笑を張り付かせてつまらなさそうに思念の声で呟いた。

《アシュリー?》

 つまらなさそうな声音も微笑みも、全ては嫉妬の裏返しで、底知れない殺意が不可視のオーラとなって無気味に裏通りをドライアイスの煙が舐めるように立ち込めた。
 浮浪者は恐怖に溜め息をつき、売春婦は小さな悲鳴をあげて失神する。
 だが、やたらと嫉妬深い不気味な妖魔の姿を見た者は存在せず、彼は煙のような殺意の気配だけを遺して闇に消えた。
 娘の遺した皮膚のこびり付いた自慢の髪だけが、何事もなかったかのように生臭い風に揺れていた。

◆ ◇ ◆

「ああ、クソッ!」

 先ほどから繰り返している行為に、俺は疲れきったようにガックリと床に両手をついて項垂れてしまう。
 破壊された椅子の残骸が散乱して、その他も細々としたもので部屋中は引っ繰り返ったような騒ぎになっている。フンッ!構うもんか。
 俺はそれでも諦めきれなくて立ち上がると、大股で玄関に行ってノブに手をかけた。嫌味たらしく鍵すらもかかっていないそれは、ビクともしないからムカツクんだよな!
 ガチャガチャと回していると、あんなに重かったノブがふわりと軽くなって、俺は呆気に取られながらも慌ててノブに飛びついた、飛びついて回しながらその足で部屋の奥に逃げ出したくなった。
 なぜなら、この脳に直接響く不快な声とも言えない音は…

《おや、奥さん。わざわざお出迎え?》

 そう言ってニッコリと笑った綺麗な顔の不気味なピエロの衣装に身を包んだ妖魔は、人間ならざる金色の瞳をキラキラとさせて部屋に入り込むと、その手で俺を抱きすくめて来やがった!
 ひ、ひえぇぇ~…

《ありゃ、凄いね。逃げようと必死だったんだ?でも無理だった。もう、諦めた?》

 凄惨とした部屋を見渡した後、苦笑しながら覗き込んでくる金色の瞳をキッと睨みつけてやると、ヤツはやれやれと言うように俺をギュウッと抱き締めたままで器用に肩を竦めやがった。

《諦めてないみたい》

 それからクスッと笑う。
 訝しくて睨みつけようとしたら、唐突に、啄むだけの小さなキスをしてきた。
 キスされて…気付いたんだ。
 不意に口に一瞬だけ広がった鉄錆の味。
 思わず吐きたくなるこの味は…アリストアに殴られた時に口いっぱいに広がった、あの、血の味だ。
 コイツ…ッ!!

「人間を襲ってきたのか!?仕事って人間を喰うことなのか!?」

 よくよく見れば唇は真っ赤で、妖魔特有の金の目と、上気した頬は血を吸った後のアリストアに酷似している。俺は恐ろしくなって、その胸元を必死で掴みながら訴えた。
 殺したのか!?人間を…?
 アリストアはなんて言った?彼らの通った後に横たわる遺体は無残だと、確かそう言わなかったか?

「デューク…人間を襲ったのか?」

 見上げる俺を覗き込むようにして冷やかに見下ろしていた金の目の、けして陽気ではないピエロは胡乱な目付きのまま俺の抗議する口に貪るように口付けてきた。

「い、やだ!デューク!やめろッ!ん…むぅ」

 眉を寄せて、イヤイヤするように首を振ってもデュークはやめようとしない。俺の台詞にムカツイたのか、人間ごときに無駄口は叩かせたくないのか…俺は息苦しさと悔しさにギュッと目を閉じながら、生理的に目元に涙を浮かべてそれでも必死で抵抗しようとしていた。

《アリストアって誰?》

 唐突に、頭に響いてきた思念の声にギュッと閉じていた目を見開くと、デュークの剣呑とした不機嫌そうな金の目が間近にあってちょっと驚いた。…どうやらヤツは、俺の人殺し発言にでも、逃げ出そうとしていたことにでもなく、なぜか俺が考えていたアリストアという名前に嫉妬…そう、嫉妬してるんだ。
 口付けながら喋ることのできる思念の声って便利だよな、とか!そんなことはそうだっていいんだ!
 俺は口を無理矢理引き離しながら変態ピエロに喰らいついた。

「なんで、お前がアリストアを知ってるんだよ!?」

《今、考えたでしょ?名前のイメージがね、頭に響いたんだ》

 …ってことは、顔までは浮かばなかったってワケか。
 にしたって、イメージだと?妖魔ってのはなんだってこう…なんでもできるんだ!?

《ねぇ、アリストアって誰?コータローの友達?それとも…ボクの仲間?》

 どっちにしても許さないんだろうな。

「俺の友人知人、全員に嫉妬するつもりかよ?とんだ独占欲だな。そう言うことする野郎ってのはモテないんだぜ?しかも、ストーカーだと嫌われるんだ。判るか?」

《ストーカぁー?どちだっていいよ、別に。変態でもストーカーでも、コータローの好きに呼ぶといい。ボクたち妖魔って生き物はね、一度奥さんに決めたら、二度と手離さないんだよ。死んでも生まれ変わるまで待つんだ。キミたち人間は生まれ変わりを信じていないけどね、妖魔は死の仕組みを熟知してるから待つこともできるんだよ》

 アンビリバボーな発言に目を白黒させながら、俺はそれでも抱き締めてくる身体を精一杯両手を突っ張って引き離しながら睨みつけた。俺の抵抗を楽しんでるんだろう、じゃなきゃ、さっさと抱き締められてるからな。

「死んだ後まで追われるのかよ!?ゴメンだ!」

《契りはもう結んじゃったからね。その首筋の痕は、一生消えないって言ったでしょ?それがボクのものだと言う証。犬になっても猫になっても、ゴキブリになっても虫になっても。どんな姿でも必ず見つけ出して、ずっと一緒にいるから。ボクたちだけが使える、永遠だよ》

 胡乱な目付きをフッと和ませて、デュークは問答無用で俺を抱き締めてきた。俺の色気もない黒髪に頬擦りしながら、デュークは嬉しそうに呟くんだ。

《ああ、どうしてこんなに愛しいんだろう?人間なんて、ただの食餌でしかなかったのに》

 うっとりと呟くデュークに、青褪めた俺は聞かれても構わないと思いながらも、冗談じゃねぇと内心で思っていた。
 抱き締められながら、自由な片腕で首筋に開いている二つの穴を押さえた。
 この疵は、妖魔との永遠を誓う為の証であり、永遠に消えない罪の証でもあるんだ。
 アシュリー!
 俺は怖い!怖いんだ!
 俄かに震えだした俺の肩を慮るように抱き締めるデュークの、人間の血液に潤った温かな身体を感じながら、必死でここにはいないたった1人の名前を心で叫んでいた。
 俺は、俺は人間に戻りたいと思っていた…

◇ ◆ ◇

「アシュリー?」

 若い、16か17ぐらいの娘が細く華奢な腕を伸ばして首筋に抱きつきながら、甘い声音でその名を呼ぶと、物思いに耽っていた金髪の大男はふと思考を遮断されて小さく苦笑した。

「なんだい、エレーネ?」

 垂れた双眸はふとした事で酷く冷たくなることを知っている美しい娘は、クスッと微笑んでその鼻先をピンッと小さく弾いた。

「痛いな」

 困ったように笑うアシュリーに、エレーネは意地悪く鼻に皺を寄せて見せる。

「考え事ばっかり!ちっとも相手をしてくれないんだもの、怒って当然でしょ?」

 小首を傾げる仕種はまるで小動物のような愛らしさがあるが、アシュリーの視線は遠く、彼女を通して誰かを見ているようだ。それを知っているから、娘は鼻先に皺を寄せてツンっとわざと外方向くのだ。

「怒ってるワケ?愛情もないくせに、そうゆうことは一人前だね」

 意地悪く言うアシュリーに、エレーネは漸く調子を取り戻した相棒を嬉しそうに振り返ると、彼の傍から立ち上がった。

「仕事に支障をきたすからよ。人間に現を抜かすのもいいけど、仕事はバリバリこなしてよね」

「ババァは口うるさくていけないね」

「ババァって言ったわね?女性の年をとやかく言うってことは、あんたも立派なおじさんになったってことよ。そのうち、若い人間の坊やから捨てられるかもね。その時になって縁りを戻そうなんて言って来ても相手にしてあげないからね」

 それほど傷付いたのよと、思い知りなさいと言ってフンッと鼻を鳴らして機関銃のように言い募った相変わらずの相棒の仕種に、アシュリーは何年振りかに懐かしく思った。

「師匠に縁りを戻してくれなんて言えないよ。アソコをチョン切られる覚悟でもしないとね」

「言ってくれるじゃない」

 齢100歳は悠に超える若い娘は、ホットパンツから伸びた長い素肌の足を惜しげもなく晒し、誘うような釣り上がり気味の綺麗なアーモンドアイを細めて笑った。
 会えば憎まれ口しか叩かない師弟は、それでも案外気の合う相棒としてはピカイチだ。
 今度の仕事も、それなりに命を張らねばいけないものなんだろう。彼が誰よりも想いを寄せている愛しい人が就いている職業に、自分も似たり寄ったりのことをしているなぁと苦笑して内心で思っていた。
 今度の依頼はズバリ、人間の暗殺ではない。
 人間如きの暗殺なら、この世界から遠く離れていた彼の、この世でたった1人の師匠であり恋人だった娘がこうして傍にいるはずがない。

「今回はナニ?エレーネから逃げ出した男でも殺るワケ?」

「あたしから逃げ出した?冗談じゃないわよ、アシュリー。長らく人間の世界に漬かっていて脳みそまで人間臭くなっちゃったの?馬鹿をお言いでないよ。あのヒトはずっと傍にいてくれてるさ」

 クスッと笑って片手を腰に当てて小首を傾げるエレーネの、冷たい風に揺れる肩口でキッチリと摘み揃えられている黒髪がサラリッと風を孕んだ。
 …剥製にしたあの人間の恋人を未だに想っているのかと、その一途なまでの思いの深さにアシュリーは眩暈がしそうだった。二度と生まれ変わらないように、別の誰かを愛さないように、でも仲間にはしたくなかった人間の恋人を剥製にして自分の館に閉じ込めた哀れな生き物に…いずれ自分もなるのだろうかとアシュリーは溜め息をついた。
 目も開かず、語りかけてもくれない、そんな剥製を傍らに?

「冗談じゃない。オレには無理な話だよ」

 肩を竦める相棒に片目を眇めたエレーネは、それでもそんな仕種をまるで無視して全く別のことを口にした。

「逃げ出した妖魔を殺すのさ。まあ、今回は表の仕事じゃないことは確かだね。裏の仕事よ」

「妖魔ぁ~?面倒臭いなぁ。エレーネ姐さん1人で殺るってのはどう?」

 真夜中のベンチに腰掛けてうんざりしたように背凭れに長い両手を伸ばして凭れるオフホワイトのコートを着た男に、ホットパンツに今は懐かしいチビTに身を包んだ寒そうな娘は鼻先だけで笑って腕を組んだ。

「あたしだってそのつもりだったのよ。あんたがいたら足手纏いだもの」

 なぬ?っと胡乱な目付きで睨むと、エレーネは少し真剣な双眸をしてアシュリーを見た。

「でもね、上がいい機会だからって言うのよ。あんたも昇格するってワケよ。そうしたら、もうホントにあたしの手から離れちゃうのよねぇ。そう思うと、惜しい男じゃない?もう一発ぐらいしちゃおうかしらとも思うワケ」

 アシュリーの独特な物言いは恐らく彼女から引き継がれたものなのだろう、エレーネはまんざら嘘とも言えない口調でそう言うと、上体を屈めるようにして無愛想な表情をした大男に口付けた。

「まあ、一発犯るかどうかは獲物を殺った後の話よね」

 思ったよりも長いキスの後で、エレーネは濡れた唇を舐めながら何でもないことのように呟いた。

「逃げ出した獲物ってナニ?ナニ系の妖魔?」

 うざったそうに訊いてくるアシュリーに、エレーネは殊更何でもないことのようにあっさりと答えた。

「遠き異国の旅人よ。漸く捕まえたって言うのにね、逃がしてんの。馬鹿な連中よねぇ?」

 クスクスと気のない微笑を浮かべるエレーネに、小さく息を飲みながらアシュリーはニッと笑った。

「ゾッとしない依頼だね。俄然、やる気が出ちゃった」

「天邪鬼ね」

 クスッと笑うエレーネの、その夜の闇よりも深い、多くの謎を秘めた漆黒の黒曜石のように煌く双眸が微笑まなかったことを、アシュリーはちゃんと気付いていた。
 一週間で帰られるかなぁ…光ちゃん、怒るだろうなと呟く溜め息は、口中で噛み締めてエレーネには悟らせなかった。
 勤務地は日本。
 喜んでいいのか悪いのか、訝しそうな表情のエレーネを気にすることもなく、とうとうアシュリーは盛大な溜め息を吐くのだった。

3  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

「遠き異国の旅人とは殺人集団のことだよ。それも、我らの属性にある、闇の集団だ。しかし、彼らに実体はなく、その姿を見た者はいないと言う」

 アリストアは淡々と語り、蒸気は勢いを増して薬缶から吹きあがる。
 それだって隙間だらけの事務所だとなんの役にも立っていなくて、暑くなんかないはずなのにやけに汗が額を濡らすんだ。

「彼らの通りすぎた後に横たわる死体は無残だそうだよ。残念ながら私は見たこともなければ、見えたこともないのだがね。しかし、一度は会ってみたいと思っているよ。とても魅力的だからねぇ」

「魅力的だと…?」

 俺は乾いた唇を何度か舐めて、搾り出すように呟いていた。

「全く…相変わらず君は偽善者だね」

「偽善者で悪いかよ?人が死ぬのを笑っていられるほど冷たくないんでね」

 俺は人間なんだ。冗談じゃねぇ。

「君の、相棒だと言ったかな。彼は殺し屋だろう?死臭と血の匂いがプンプンとしていたよ。本人にその気さえあれば、ここいらの人間はひとたまりもないんじゃないのかな。そして、君もそのことは知っているのだろう」

 気障なヴァンパイアはそう言うと、色素の薄い瞳を金色に煌かせて真っ赤な唇をニヤッと釣り上げた。

「それでも離れることをしない君は、充分、冷たいのではないのかね?」

 息と一緒に言葉を飲み込んだ。
 震える拳を握り締めて、俺は唇を噛みながら金色の双眸を睨みつけた。
 何がおかしいのか、アリストアは人ならざる者の表情でうっとりと微笑みやがる。

「君は本当に…いや、そんなことはどうでもいいね。君の追うべきターゲットは『遠き異国の旅人』だ。捜し出せるものなら捜し出してみるといい」

「お前がその一員じゃないと言う証拠がない限り、お前だってターゲットだ」

 俺は漸く、そんな憎まれ口を言った。
 いまいちどころか、全然効いていないんだろう、アリストアは一瞬だけ呆気に取られたような間抜けな顔をしたが、次いで、すぐにおかしそうに笑ったんだ。その時はもう、人を食らう時に見せるあの尋常じゃない妖魔の顔じゃなく、しっかりと人間に化けてやがった。

「わたしは人間を殺さないよ。大切な食餌だからね。愛おしんで、悦楽も苦痛も長引かせてあげるのが愛の深さだ…」

 ちゃっかりと不気味なことまで嘯いて、ヴァンパイアは牧師の顔に戻って慈悲深く微笑んだ。

「さあ、わたしの情報はこの程度だよ。もう行きなさい、ここにいても時間の無駄ではないのかね?」

「…なんであんたは、俺に教えたんだ?狙われたりとかしないのかよ?」

 アリストアは面食らったような表情をしたが、すぐに牧師の慈悲深い表情で俺をまっすぐに見つめてきながら呟くように言った。

「言わなかったかね。わたしも会ってみたいのだよ。その姿なき来訪者に」

 相変わらず気障な台詞を吐いたヴァンパイアの双眸はどこか真剣で、口ほどには茶化してるわけじゃないことを俺は感じたんだ。
 と言うことは、これから俺が駆け回って探す情報の先々にコイツが現れるってワケなんだが、それでもいいかと思った。俺の邪魔をしなければただの牧師だ。
 そう自分に言い聞かせる、とんだ偽善者面に吐き気がしながら。
 目の前にヴァンパイアがいるのに、若い娘の咽喉を食い破る異形の化け物がのうのうと腕を組んで立っているって言うのに、俺はソイツの胸に杭を打つどころか、まるで負け犬のように教会を後にしたんだ。
 俺はいったい、何がしたいんだろう…

◆ ◇ ◆

 指の隙間から零れ落ちる砂のように、儚くも脆い人の魂の逝きつく先を見つめながら、寄せては返す時の波に想いの深さを感じていた。
 遠く愛した日々を口の端に浮かべたところで、物笑いの種にされることは仕方がない。
 死に逝く者が見せる一瞬の輝きのようなこの愛は、闇の底で膝を抱えて蹲る、気弱な生き物に落とされた情けのようなものだったから、いまさら恨む気にもなれなかった。
 今一度、あの輝く姿を見るまでは。
 暗い暗い深淵の底から見上げた空に似た、あの笑顔をみるまでは…

◆ ◇ ◆

 俺はトボトボと街路樹のある歩道を歩いていた。
 冬の匂いを散らつかせる冷たい風に首を竦めながら、微かな温もりをくれるマフラーで口許を覆った。そうでもしないと、噛み締めて白くなってる唇を訝しそうに見られてしまうからだ。
 この街路樹のある通りは恋人たちにけっこう人気があって、肩を寄せ合う連中は不躾な目付きで俺を見るんだ。
 だから俺は顔を隠す。
 たぶん、酷く憔悴してるんじゃねーかな?
 季節は冬だし、痛めた身体はあちこち痛いし…

「あれ、光太郎くん?」

 不意に聞き慣れた声に気付いて振り返ると、真っ白なコートに身を包んだ野崎勇一が茶色の紙袋を抱えて嬉しそうに立っていた。

「良かった、ここで会えて。すみれちゃんに聞いてお見舞いに行ったんだけど誰もいなくて…」

 小走りで近付いてきた勇一の口許には弾む息が白く空に舞いあがってる。

「勇一…ごめん、ちょっと用事でさ」

「もう仕事してもいいの?身体、まだ本調子じゃないんでしょ?」

 眉を顰めて小首を傾げる仕草は、すみれとは違った可愛らしさがある。高校の時も不埒なヤツに告白なんかされてたっけ。俺にとっては冗談じゃないけど、何となくヤツらの気持ちも判らんでもないよ。

「ああ。でももう動ける。ほらなっ!」

 そう言って腕を振り上げて見せると、勇一は少しホッとしたように顰めていた眉を和らげて、小さく微笑むんだ。うん、やっぱりヤツらの気持ちが判る。
 なんか、抱き締めてやりたくなるからな。守りたくなる、うん、そんなカンジ。

「じゃあ、もう大丈夫なんだね。それじゃ、これ。果物。身体にいいと思って」

「おお!サンキューな。あれ?お前、もう帰るのか」

「うん。ちょっと用事もあるし…それじゃあね」

 ニコッと微笑んで勇一は手を振った。
 小さな仕草も可愛くて、女連れの野郎だって振り返ってる。
 あーあ、彼女に耳を引っ張られてるよ。なんつー古典的なことを…
 俺は思わず笑って、それから白くなった息が薄暗くなった青空に吸い込まれて行くのを見上げながら、これからどうしようかと思った。
 依頼人…吸血鬼に娘を殺された未亡人に、なんて報告しよう。
 相手が悪いです。警察には逮捕なんてとても無理でしょう…とか言えねぇしな。
 ああ、どんより。
 俺が肩を落として歩き出した時だった。
 不意に何か、声のようなものが聞こえたんだ。
 勇一が消えた街路樹の通りを折れた裏道、突き刺さる視線のようなもの。
 ゾクッとした。やばい。
 この気配はヤバイんだ!
 条件反射で走り出していた。手にした紙袋がガサガサと耳障りな音を出すけど、俺はお構いなしに通りから入った裏道をめざす。

「こ、光太郎くん!」

 悲痛な勇一の声は、その真っ白なコートに包まれた身体を抱きすくめられた腕の中で不安に鋭く尖っている。恐怖が、可愛い顔を歪めさせていた。
 抱きすくめてるのは変態か…それとも。

◆ ◇ ◆

《あれぇ?獲物が向こうからやってきたよ》

 声じゃない、思念。
 笑ってるように揺れて頭に響いてくる。ハッキリ言って不気味だ。

《面倒臭いなぁ…》

 唐突にすぐ近くで思念の声がして、ハッとした時には遅かった。
 持っていた紙袋が乾いた音を立てて地面に落ちると、中からミカンとネーブルが転がり出てしまう。
 腕を凄まじい力で捩じ上げられ、苦痛に歪む顎を掴まれて上向かされた。
 2人…だったのか!
 覗き込んできた金色の目と俺の目が合った。それは明らかに人間じゃなくて、面倒臭そうな、不機嫌そうな表情をしたピエロは奇妙な化粧を塗りたくった口許を歪めている。チラッと覗いてるのは、牙かもしれない。
 蒼白の顔は化粧で誤魔化して、二つ割れの先端にポンポンの付いた帽子を被って…なるほど、これなら昼間に行動してもバレないって手筈なんだろう。遊園地とか…
 獲物は山ほどいるってワケか。クソッ!

《この子の方が好み~。そっちはデュークにあげるよv》

 勇一を捕まえてる青いピエロが笑ってそう言うと、睨み付ける俺を奇妙な目付きで見下ろしていた赤いピエロが唐突に口付けてきた。
 ぎゃあ!

《デューク!?》

 ギョッとしたように青いピエロが名前を呼ぶと、赤いピエロは暫くして唇を離してペロリと呆然としている俺の口許を舐めてきた。そして、ペコちゃんみたいに自分の唇を舐める。
 アシュリー以外にされるのは初めてだった俺は、目を白黒させて呆気に取られ、恐怖に青褪めている勇一も何が起こったんだと涙に濡れた目で俺たちを見てる。
 一番驚いてるのは青いピエロで、なんで人間なんかに興味を持ってるんだよとでも言いたそうな表情をしてる。人間はただの食餌なのに、とでも思ってるんだろう。

《アーク。ボクはコイツを気に入ったよ。ソイツはキミが楽しむといい。ボクはコイツを可愛がる》

《ヘンなの。デューク、それはヘンだよ》

《ヘンじゃないよ。ボクはこの人間を手許に置きたいんだ。大丈夫。キミの仕事もちゃんと手伝うよ。でも、可愛がるのはコイツだけでいい》

《まるで一目惚れ。デュークらしくもない》

《うん。そうかもね》

 ゾッとする会話をしながら赤いピエロは俺の髪に頬摺りをしてきた。
 そう言えば、あのアリストアも俺を伴侶にするとか気持ち悪ぃこと言ってたよな。なんだって言うんだ、俺よ!いったいどうなってるんだ。

「じ、冗談じゃねぇ!離せッ、離しやがれ!」

 俺が思いきり暴れると、赤いピエロは殊の外、あっさりとその手を離しやがった。

《あらら、デュークったら優しい。ホントにメロメロ?》

《うん。可愛い。ボクを睨んでるよ》

 反動でよろけながらもすぐに態勢を整えて身構える俺を、いつの間に傍に寄ったのか、勇一を片手に抱きかかえた青いピエロが赤いピエロの肩に腕を回してそう言うと、赤いピエロは腕を組んで笑った。
 可愛いとか言うな、気持ち悪い!
 アシュリーにしろ、アリストアにしろ、このピエロにしろ!いったい、コイツらは俺のことをなんだと思ってるんだ!俺は男で、こう見えても20歳になる健康優良児なんだぜ!そりゃ、確かに学生さんですか?と聞かれるぐらいに童顔だけどよ、だからって女に見えるはずもないだろう。俺の顔は立派な男だ!男なんだ!ただ童顔ってだけなんだよう!
 ああもう、泣きそうになるぜ。ちっくしょう!

《人間の男なんか対象外だけど…コイツは違う。あの目付きが腰にくる。食べるだけなんて勿体無い》

《女だったらいいのに。そしたら気紛れデュークの子が見られる》

《うん。初めての子はコイツに産んで欲しかった》

「なに、人を無視して気持ち悪ぃこと言ってやがる!俺は男だ!!」

 そもそも子供だと?
 この化け物たちは子供を作る事ができるのか?
 恐るべし…だ。

《判ってるよ。見れば判る。ねえ、名前はなんて言うの?どんなモノが好き?欲しいものを言って、ぜんぶ集めてあげるから…》

 瞬きしている間に近付いた赤いピエロに抱え上げられて、うっとり細めた金色の双眸で見上げられた俺は声を失った。気持ち悪いし、できることなら思いきり暴れたい。
 でも、その金色の目を見た途端、まるで腰砕けにでもなったように身体に力が入らなくて…声すら出せねぇ。なんてこった…

「ゆ…ゆう…勇一を…はな……し、やがれっ!」

 根性でそう言うと、赤いピエロは驚いたように双眸を見開いて、それから嬉しそうに笑って青いピエロを振り返った。

《聞いた?ボクの力で押さえこんだって言うのに、喋るんだよ!すごいよ、この人間ッ》

《でも危険。やっぱり食べて殺そうよ》

《イヤだ。ボクはコイツを連れて行く》

《判らず屋。相変わらず判らず屋》

《なんとでも》

 ニッコリ笑って赤いピエロは睨み付ける俺の顔をうっとりと覗き込んで来る。気味が…悪いはずの顔はハッとするほど綺麗だ。アリストアもいい顔をしてたけど、人間じゃない連中ってのはどうしてこう、いい顔をしてるんだ?コレで人間を誑かすのか。そうなんだろうな、きっと。

《ボクをきっと、好きになってね。大丈夫。ボクはキミを幸せにするよ》

《まるでプロポーズ。デュークったらご機嫌。珍しい》

 青いピエロは肩を竦めると、ガタガタ震える勇一を胡乱な目付きで見下ろした。
 ヤバイ!助けなきゃ…ッ!

《食欲が失せちゃった。可愛いけど、お前はいらない。ボクは古巣に戻ってる》

 そう言って勇一を突き放した青いピエロは赤いピエロをチラッと見ると、もう一度、肩を竦めて首を左右に振った。

《あんまり犯り過ぎないようにね。人間はすぐに壊れるから》

《うん。大事にする》

《どこかに愛の巣を作って…旅人にはもう戻らないの?》

《ボクは旅人。でも、コイツは仲間にしない。だって、ボクのお嫁さんだから》

《ふぅん。旅は道連れ、世は情け…》

 クスクス笑って青いピエロは闇に消えた。
 呆然とへたり込んでいる勇一には何が起こったのか判っていないみたいだった。
 実際、俺にだって今の状況なんか判らないって!つーか、なんか凄くヤバイ状況のような気がするんですけど…
 ガクガクと震えて、見開いた大きな双眸からは大粒の涙が零れ落ちている。
 こんな時だけど、勇一の方が遥かに可愛い。なのに、どうして俺なんだ!?

《そこの人間は気が触れたか、或いは恐怖に怯えてるだけ。ほら、助かった。だからキミはボクを好きになるんだ》

「どう…どう言う理由からそうなるんだよ?そう言うのを人間は変態って言うけど、わかるか?」

 喋られるようになって、俺は抱き締めてくる赤いピエロを憮然とした表情で見下ろしながらそう言った。なんか、こいつの雰囲気には覚えがあるんだ。凄く身近にいた、誰かの雰囲気にそっくりだ。そう。
 アシュリーに。

《変態?上等だよ。ねえ、なんて名前なの?教えて。キミの口で教えて》

 教える気なんかなかった。
 コイツが、この赤いピエロがその気にさえなればアッサリと口を割らされる事は目に見えてるからな。

《だんまりする?ソイツを殺しちゃうよ。それでもいい?》

「光太郎。俺は光太郎だ」

《コータロー?可愛い名前。ボクはデューク。キミはボクの特別なヒトだから、デュークって呼んでもいいよ》

「判ったよ、デューク。勇一を助けてくれ」

 諦めたように呟くと、ピエロはニッコリ笑った。
 どこから出したのか、真っ黒の外套でフワリッと俺を包んだデュークはその上から抱き締めて、耳元に小さく囁いてきた。本当は声なんか出していない、思念なのにな。

《大丈夫。ボクは愛するヒトの言うことには忠実だから。もっと我が侭を言ってね》

 そのまま、クラリと意識が遠退いた。

「光太郎くん!!」

 悲痛な叫び声を聞いたような気がしたけど、あれは誰の声だったんだろう?
 勇一?
 俺?
 それとも、違う誰かだったのか…

◆ ◇ ◆

 暗闇に湿った音がする。
 俺は両足を大きく割り開かれて、掴まれた足首をギュッと握り締められると、苦痛に少し眉が寄った。
 何時間、そうして受け入れさせられていたのか…もう判らない。
 初めのときは絶叫した。
 身体を裂かれてるような気がして、怖くて怖くて…断末魔のような絶叫を上げた。
 でもピエロは、デュークは許してくれなかった。
 それでも何時間も身体の奥に受け入れてる間に、俺はゆっくりと慣れていった。
 快感も覚えた。
 でも、心だけがとても追い付いてこなかった。
 デュークにキスされて、それに応える。
 愛してると囁かれて、眉を寄せた。
 何が起こってるんだろう?これは夢だ。
 酷い悪夢なんだ。
 俺は信じたくなくて、そのまま気を失った。

◆ ◇ ◆

 気付いたら見知らぬ部屋のベッドの上だった。
 酷い倦怠感が襲ってきて、腰が鈍く痛んだ。
 ああ、そうか。俺、男に犯られたんだ…
 クソッ!
 上半身だけ起こしてシーツを握り締めて悪態を吐くと、忌々しくて舌打ちした。
 脳裏に浮かぶのはアシュリーの顔で、あの垂れた双眸が懐かしかった。

(この一週間だけは絶対に危険なことに関わっちゃダメだからね)

 あの台詞を守っておけば良かった。さすが後に悔いると書いて後悔ってだけのことはある。すっげぇ落ち込みまくり。溜め息ばっかりが出るよ。
 犬に噛まれたと思って…それだって膿んで腐る重症だけど。
 諦めたかった。
 不意に、窓に映った自分の姿にギョッとする。
 全身に散らばる小さな鬱血にもギョッとしたけど、この咽喉もとの小さな二つの傷はなんだろう。恐る恐る触ろうとした腕を背後から掴まれて、思いきり引き寄せられた。

《ごめんね。ムリさせちゃったみたい》

 あの、人を馬鹿にしたような二つ割れの帽子は今は脱いでいて、ディープブルーの髪がほの暗い常夜灯に微かに煌いている。奇妙な、変わった髪の色と金色の瞳は、やっぱり人間じゃないんだろう。
 しかも、化粧が落ちた顔立ちは恐ろしく整っている。釣り上がり気味の鋭い双眸が、俺を写して少しだけ和んだようだ。化粧なんかしなきゃいいのに…と思ってハッとした。何を言ってるんだッ、俺!
 組み敷かれながらキスを強要されても、今度はそれに逆らった。
 もう、冗談じゃねぇ!勇一もいないんだ、なんでコイツの思い通りになってやらなきゃいかんのだ!?
 キュッと真一文字に唇を引き結ぶと、デュークは舌先でチロリッとそんな俺の唇を舐めるだけでそれ以上は何もしなかった。
 けど。

《…ねえ、アシュリーって誰?》

 酷く静かな淡々とした思念で語りかけてくる。

「うえ!?」

 しまった、俺は無意識の内にアイツの名前を呼んでいたんだ!
 思わず変な声を洩らしてしまうと、デュークは面白くなさそうに唇を尖らせた。

《ボクに抱きつきながらキミ、ずっとその名前を呼んでいた。だからムカツイて首筋を噛んじゃった。悪いコトしたとは思ってないよ》

 口許を覆って目を見開く俺を、冷めた目で見下ろしていたデュークはしかし、すぐに俺の鼻先にキスして身体を起こした。

「噛んだって…じゃあ、俺も吸血鬼になったのか!?」

《吸血鬼!?》

 ギョッとしたように俺を振り返ったピエロは、それからすぐに噴き出すと、首を左右に振って両手を降参するように軽く上げながら肩を竦める。

《よして。吸血鬼になんかするワケないでしょ?》

「噛んだって…」

 言ったじゃねぇかよ。
 胡乱な目付きで睨み付けると、そんな俺を見下ろしたデュークは小さく笑った。

《噛んだよ。ボクのお嫁さんって意味でね。その傷痕、消えないよ。アシュリーはなんて言うだろう》

 そのやけに冷やかな双眸は、内側で何かを秘めている。
 暗くて根深い…それはきっと、嫉妬だ。
 アシュリーがヤバイ!

「ち、ちょっと待てよ!俺はあんたのよ、嫁さんにだってなってやる!でも、俺の仲間には手を出すなよッ」

 上半身を起して思ったよりもしっかりと筋肉のついている腕を掴んで必死に言うと、妖魔は感情を窺わせない表情でニッコリ笑って頷いた。

《我が侭を言ってもいいって言ったのはボクだから、光太郎の気持ちを最大限に優先するよ》

 チリッと空気が震える。
 見たことも感じたこともない殺気が空気を焼いてるんだ。
 俺は思わず息を飲んで、握り締めた拳は爪が皮膚に食い込んだ。
 妖魔の腕を掴んでいる腕が震えて、俺は自分の咽喉がこれ以上はないってぐらい渇き切っているのを感じた。ああ、コイツは妖魔なんだ。
 しかも、もしかしたら【遠き異国の旅人】だと呼ばれる集団の1人。
 いやたぶん、絶対にその1人だ。
 自分でも言っていたじゃないか、自分は旅人だと。

《バカな光太郎。キミが震えることなんて何もないのに。ボクはキミをきっと守る。妖魔の約束だけど信じてね》

 震える俺に気付いたのか、デュークはすぐに抱き締めてきた。
 俺が震えてるのは、お前のせいなんだ。
 そんな、無条件で殺気を散らつかせながら抱き締めるなよ。
 俺はお前が怖い。
 いや、この時になって漸く俺は【遠き異国の旅人】を心底から恐ろしいと思ったんだ。こんなヤツがあと何人いるんだ?
 そんな連中を相手にするのか?

《ボクの大事なお嫁さん》

 コイツは知らない。
 俺は、お前たちを狙ってるんだ。
 妖魔のくせに温かな身体を持っているデュークの背中に腕を回す気にはなれなかった。
 ああ、ここにお前がいたらいいのに…
 お前は知っていたんだな。
 俺は目を閉じて、ただ一人の名前を噛み締めるように思っていた。
 アシュリー。
 助けてくれ。

2  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 全治三ヶ月―――俺を診た馴染みの医者はトレーラーにでもぶつかったのかと、呆れたような口調でそう言い渡したらしい。

「肋骨三本、両腕の骨、その他数箇所の骨折だってさ」

 相変わらずの仏頂面で帰って行った医者を見送ったアシュリーは、両手に氷の入ったボウルを持って、つまらなさそうに不貞腐れてそう言った。同居しているせいか、俺の保護者と言う形で医者と話をしたらしい。

「どれぐらいかかるって?」

「少なくとも二ヶ月は安静にしてろって…でも、光ちゃんのことだから、仕事があれば無理するだろうから見張ってろとも言われたよ」

 不服なのは看病することに対してなのか、医者の言うことを端から無視しようとしている俺に対してなのか…恐らく、やっぱり後者なんだろう。

「見張ってなくてもいいって。無茶はしないから…」

「嘘だね。顔にそう書いてあるよ。熱が続くだろうから、頭を冷やさないと…」

 カランッ…と小気味良い音を立てて、アシュリーの長い指先が冷え切った氷水に浸けられた。タオルがしっとりと水分を含んでいく。
 あれから、アシュリーは何も言わない。
 俺から聞くことを待っているのか、聞かれることに怯えているのか…
 俺としては、それら全てのことが嘘のように思えて仕方ないんだ。あの、アシュリーが困惑してるんだからな、驚かない方がどうかしてるって。
 いつも飄々として掴み所のないアシュリー、殺し屋と言う職業も卒なく淡々とこなしてる。
 あのヴァンパイアの言った一言が、いったいどれぐらいアシュリーを困らせているんだろう。

『遠き異国の旅人ってなんだ?』

 簡単に聞けそうなのに…う~ん、なんか聞き辛いんだよなー。

「あ!そう言えば翔太からメールがきてないか?たぶん、添付ファイルで送ってくると思うんだけど…」

 すみれにだけは秘密にしているメルアドは、専ら仕事専用に開放してある。すみれの奴に教えたら最後、訳の判らん画像やメールを送ってきて大変なことになる。
 そんなことはないと思うけど、開発したばかりの新型ウイルスでも送信されたら取り扱いに困ってしまう。俺はそれほど、ネットに詳しいわけじゃないんだ。

『これは本当に優れていてね、送信者のアドレスを判らなくしちゃうのよ!それで、着信と同時に勝手に開いてパソを壊しちゃうから、嫌な奴に送っちゃえ~』

 と、あっけらかんと翔太に言って渡したことがある。でもって、翔太がそれをどうしたかと言うと、それは想像次第だから敢えて何も言わないでおく。うん。

「翔太ぁ~?また、アイツか」

 俺の額に濡れたタオルを置きながら憮然とした口調のアシュリーは、眉間に皺を寄せて唇を尖らせた。
 どうしてこう、翔太とアシュリーは馬が合わないんだろう。きっと、生まれながらの犬猿の仲って奴なのかもしれない。

「たぶん、きっとアレだろうね」

 不服そうにそう言ったけど、極めて平常心を保つようにしてるんだろう、アシュリーはヒョイッと長い腕を伸ばしてサイドボードから小さなモバイルを取り上げた。

「はい。身体に負担がかからないように小さい方に移しておいたよ。こっちの方が早そうだしね」

 殺し屋のクセにパソコンが全く判らないと言うアシュリーは、見様見真似で覚えたから少しぐらいは扱えると威張って弄りたがる。笑っちゃうような奴だ。

「サンキュ」

「お礼なら言葉じゃなくて態度で欲しいね」

 これだよ。

「礼を言ってもらえるだけありがたいと思え」

「つっめたいねー。そんなだったら嫌われちゃうよ?」

 肩を竦めて苦笑したアシュリーは、起ち上がった画面に写し出される新着メールの表記を興味深そうに目で追っている。翔太からのメールは、〝情報〟のタイトルで内容は何も書かれていない、極めてシンプルなものだ。

「…メールってもっとこう、何か書くもんじゃないの?」

 あまりのシンプルさに納得がいかないのか、アシュリーは不服そうに唇を尖らせている。

「いいんだよ、これで。あいつはこう言う性格だから」

「ふぅん」

 いまいちの表情で腕を組んだが興味はもう内容に移ったらしい。ジッとちっこい画面に見入る大男というのは、何となく笑えるから不思議だよな。

「これって、例のヴァンパイアの情報なんでしょ?」

 思わずドキッとした。
 添付ファイルを開こうとマウスを動かす手が一瞬だけ強張ったように止まる。

「?」

 訝しそうに俺の顔を覗き込んでいたアシュリーは、それから何だか不機嫌そうな顔をして何かを納得したように勝手に頷いて立ちあがった。

「オレがいると迷惑だね。そっか、守秘義務ってヤツだ」

 別にそんなつもりはないのだが、勝手に勘違いしたアシュリーは何となくその垂れ目を冷たく細めて俺を見下ろすと、憮然としたままでせまっ苦しいキッチンの方に姿を消してしまった。コーヒーでも煎れるんだろう。
 俺はそんな後ろ姿を無言で見ていた。

◇ ◆ ◇

 結局俺は、何となくファイルを見ることができなかった。
 確かに依頼のヴァンパイアのことだから、何を差し置いても早く見ないといけないんだけど、同じヴァンパイア関連でも【遠き異国の旅人】のことで頭がいっぱいだったんだ。
 それを感じ取っているのか、アシュリーは俺の額に額を擦りつけながら、熱を測るついでに覗き込みながら聞いてきた。

「何か聞きたいって顔してるよ」

「ええ!?」

 ドキッとした。
 そうだ、こいつには俺の考えてることが判っちまうんだ!…う~、厄介なヤツめ。

「べ、別に俺は…」

「ん~、どうなのかなぁ?」

 鼻先を合わせるような近さで覗き込みながら動揺に視線を逸らす俺の顎を掴んで、負担にならない程度にクイッと上げてキスするように問いかけてきた。

「本当は聞きたいんでしょ?あのヴァンパイアの言った【遠き異国の旅人】のことを」

 長い睫毛に縁取られた綺麗なエメラルドの瞳が、どこか寂しそうに、奇妙な光を宿している。
 何でそんな目をするんだ。
 あのヴァンパイアと会話をしていたときも、こんな奇妙な目をしていたっけ。
 聞いてもいいけど、本当は聞いて欲しくない。
 まるでそう言ってるような表情が、なぜか酷く胸を苦しくさせた。

「聞いてもいいよ」

 俺の唇に額を押し付けて、ヤツはうっとりしたように双眸を閉じると、まるで呟くようにごく簡単にそう言った。

「そのかわりキスして」

 唇から俺の胸元に額を落として、心音を聞こうとしているように頬を寄せるアシュリーに俺はいよいよ息苦しくなって、動かせない腕で思いきり突っ撥ねようとしたけど無駄だった。
 当たり前だよな。
 広辞苑四冊分の重さの辞書を平気で三冊軽々と持ち上げるヤツだ、俺が押したぐらいで退けるはずもない。判ってるけど、息苦しいんだっ!
 …でも、それなのに折れた肋骨が疼かないのはどうしてだろう。
 アシュリーの体温は薄いパジャマを通してこんなにハッキリと伝わってきてるっていうのに、不思議とそれほど重さを感じない。
 こいつ…ったく。

「いい加減にしろよ、アシュリー!お前に聞かなくても知りたいことがあれば自分で調べるさ。だから何で俺が…その、き、キスなんかしなくちゃなんねぇんだよッ」

 ふんっと強がって鼻で息をしてやると、アシュリーはちょっと面食らったような顔をして上目遣いに俺を見上げてきたけど、顔を起こすと照れたようにはにかんだ。
 その表情が嬉しそうに見えるのは、やっぱ聞いて欲しくないんだろうな。

「ごめんね、光太郎」

 そう言って、ヤツは頬に口付けた。
 掠めるだけの、ほんの一瞬。

「バーカ」

 俺は敢えて憎まれ口でそう言って、でもそれ以上は口を開かなかった。

◇ ◆ ◇

 医者は二ヶ月だと言ったが、俺は根性で一ヶ月半で身動きが取れるまでに回復させた。まだ動かせば胸は痛むけど、これ以上寝てられるか。

「オレとしてはもう少しベッドにいて欲しかったんだけど…でも、やっぱり元気な光太郎の方が嬉しいよ」

 アシュリーは早速朝刊に目を通してる俺に、ちょっと呆れたような苦笑を洩らしながらそう言った。あったりまえだろ、俺は元気が取り柄なんだ。

「あ、そうだ。これから暫く仕事で家を空けるけど、いいかな?」

「仕事って…」

 ハイネックの黒のセーターを着たアシュリーは捲くっていた袖を下ろしながら、ソファに無造作に投げ出していたオフホワイトのコートを取り上げてあっさりと言った。

「殺しだよ」

 酷く、無頓着に。

「けっこう、面倒な相手でね。時間がかかりそうだから、もしかすると一週間はかかるかもしれない。だからさ、この一週間だけは絶対に危険なことに関わっちゃダメだからね」

 前科のある俺としては思わず言葉を詰まらせたけど、だからってコイツがいない一週間を何もしないで過ごせる訳がない。と言うか、煩いのがいない、丁度いい絶好のチャンスじゃないか!

「そうか!そりゃあ、大変だな!頑張ってこいよ!」

 俺が盛大に激励をしてやると、アシュリーのヤツは憮然とした表情をして大丈夫かなぁ…と言いたそうな目で見下ろしてきた。
 キッチリとコートを着込んだアシュリーは玄関まで歩いていき、不意に、コロンボのようにひょいっと俺を振り返える。
 気にしている垂れ目は、どうかすると優しく見えるから不思議だ。
 殺し屋なのにな。反則だよ。

「これからって…これから行くのか?すぐに?」

「そうだよ。寂しい?」

「バカ言ってんな」

 投げやりに返すとアシュリーのヤツはクスッと笑って、じゃあね、と言って出ていった。
 アイツは、仕事に行く時は必ず【じゃあね】と言う。
 じゃあ、また後でね…の短縮形なんだと本気で信じてる。流暢な日本語を話すくせに、どこか抜けてるヤツなんだ。
 でも俺は、そう言うアイツが嫌いじゃない。
 きっと好きなんだと思う。この【好き】がどんな感情なのかは判らないけれど、俺はきっと、あの殺し屋のことが好きだ。
 俺はアシュリーの出ていったドアを暫く呆然と眺めていたが、唐突に鳴った携帯にビクッとして、慌ててソファに投げてあるダッフルコートから旧式の携帯電話を取り出した。

「もしもし?槙村だけど…」

『光太郎?あったしよ、あたし。すみれよ』

 鈴が転がるように可愛らしい声音でコロコロと呼びかけられて、俺は何故かホッとしたように吐息した。

『どうしたのよ?溜め息なんか吐いちゃって…なぁに?あたしでガッカリしちゃったってカンジね』

 すみれが受話器の向こうでクスクスと笑っている。

「どうしたんだよ?」

『どうしたんだよ…じゃないわよ!一ヶ月ちょっとも連絡を寄越さないで!心配したんだからね。電話しても、あのアシュリーって言うフィンランドの恋人が出るだけじゃない。何かあったんじゃないかと思ってたのよ』

「ん、まあちょっとな。それだけか?」

 恋人の部分を思い切り無視した俺が端的に問い返すと、受話器の向こうのすみれは、きっとあのピンクのグロスにてかってるだろうぽってりした下唇を尖らせながら、怒ったように溜め息を吐いているようだった。

『ねえ、翔太のファイルはもう見たの?』

「あ、それがまだなんだ」

 仕方ないわねぇと、すみれがあの可愛い仕草で小首を傾げている様子が浮かんだ。

『じゃあ、もうそれって用無しだと思うのよね。時間も経っちゃってるし…ねえ、あたしってば知り合いに聞いたんだけど、ヴァンパイアハンターとエクソシストをしている牧師さんがいるらしいのよ。ねぇ、その人とお話したらどうかしら?』

「マジで!?教えてくれよ!その牧師の住所!」

 俺は唐突に現実に戻った。
 そうだ、【遠き異国の旅人】のことだって判るかもしれない!この事件に深く関わってる気もするけど、そのこともその牧師なら知ってるかもしれないし…
 すみれが教えてくれた住所をメモ帳に書き留めて、俺は短く礼を言うと携帯を切ってダッフルコートを片手に家を飛び出した。

◆ ◇ ◆

 彼女の匂いがしていた…
 遠い昔、記憶が覚えている彼女の匂い…
 もう間もなく、この腕に抱ける。
 あの懐かしい身体。
 温かくてぎこちない。
 甘い血の流れる、あの身体…

◆ ◇ ◆

 俺はすみれに教えてもらった住所を手掛かりにその教会を探した…けど、それは案外すぐに見つかった。俺の家から車で数分のところにある、こじんまりとした質素な教会だった。前庭も狭くて、マリア像も建ててない。
 貧乏なのかな。
 貧乏探偵の俺としては妙なところに共感が持てて、早速薄い木のドアを叩くようにノックして反応を待った。

「はい」

 ガチャリッ、ギギギィーーーっと、軋らせながら扉が開いて、年の頃、俺よりも1つか2つぐらい上と思うひょろりとした男が顔を覗かせた。
 痩せた顔は青白くて、まともに飯を食ってるんだろうかと心配になるほどだ。

「え、えっと。あの、わたし立原氏よりご紹介されて来ました、槙原と申します」

「ああ、話は伺っています。さ、お入り下さい」

 そう言って、ひょろりとした男は俺を教会の中へと促した。
 ひんやりとした空気の流れるそこは、神聖で厳かな…と言うイメージはあまりなかった。と言うのも、この教会が清貧だって判るからだ。
 辛いだろうなー、うう、その気持ち判るよ、俺。
 細長い、教会に良くある椅子が対で3列しかない狭い講堂を抜け、懺悔の為の小さな小部屋があるその脇の扉から応接室…と言うか、事務所になっている部屋に通されて待っているように促された。
 どうやらあの牧師がここの主ではなさそうだ。
 雑然とした室内は狭く、俺としては懐かしさでいっぱいになる趣だけど、一般人に言わせると汚くて狭いと言う表現になっちゃうんだろうなぁ、この場合。
 取り急ぎの書類でもあるのか、使い古した旧式のタイプライターで何かを打ち込んでいる先ほどの牧師の使っている机も、古い蔵書が無造作に並べられている埃の被った本棚も、まるで一昔前の映画から抜け出してきたような光景だった。

「どうかいたしましたか?」

 ぼんやりと室内を不躾に見渡す俺の気配に気付いたのか、縁無しの眼鏡をかけた牧師が怪訝そうに声をかけてくる。

「あ、いえ。なんでもないです」

 俺は取り繕うように笑って、傍らでシュンシュンッと蒸気を上げている薬缶と、暖かな温もりを燈す旧式のストーブを何となく見た。
 その時、先ほど俺が入って来た扉が開いて、誰かが室内に入って来たのが判った。座っているのも失礼だろうと思った俺は、慌てて立ち上がるとローマンカラーシャツにジャケットを羽織っているこの教会の主でありエクソシスト、そしてヴァンパイアハンターも兼任していると言う凄い人に挨拶をした。

「あ、この度はお忙しいところを時間を頂いてしまって。私は槙原光…」

 そこまで言ったら、牧師さんは低く笑ったようだ。
 俺は訝しく思いながら顔を上げた。上げて、アッと驚いた。
 そこにいたのは、深夜の裏路地で俺の肋骨と両腕をへし折ってくれた、あのヴァンパイアだったんだ。

◇ ◆ ◇

「とうとう、こんなところにまで来るとはね。光太郎くん」

「あ、あんたは…!」

 俺は上ずる声をなんとか正常に戻そうと努力しながら後退さると、警戒しながらクックッと咽喉で笑うヴァンパイアを睨み据えた。
 まずいな…腕も肋骨も完全ってワケじゃない。こいつと、まともな時でさえ互角じゃなかったこいつと、どこまで渡り合えるだろうか。この身体で。

「ああ、気にしなくてもいいよ。更科くん。君は仕事を続けなさい。光太郎くんも、そんなに力まなくてもすぐにどうこうしようとは思っていないから心配しなくてもいい」

 気障ったらしいヴァンパイア野郎は優雅な身のこなしでそう言うと、手に持っていた聖書と十字架を散らかった机に置いて、警戒している俺に向き直った。

「座りなさい。身体に響くだろう」

 ちっ、やっぱり不調ってヤツはどんなに隠していてもバレるってことか。
 なんてこった、このヴァンパイア野郎はこの日中に外に出ていたって事か?
 不意に、窓から射し込む陽射しに気付いて俺は瞠目した。
 …十字架と聖書と教会と太陽、もしかしたらニンニクも平気だとか言うんじゃねーだろうな。恐るべし、ヴァンパイア。弱点なんかあるのかよ?

「自己紹介がまだだったね。私はアリストア=レガーシル。この教会の牧師をしている」

 そんなの見りゃ判るって。

「おおかた、遠き異国の旅人について聞きに来たのだろう?あの、美しい野獣は何も教えてくれなかったのかい?あれほど、大事にしているように見えたのだがねぇ…」

「大きなお世話だよ。あんたが牧師なんてな、世も末だぜ」

 漸く乾いた口から声を絞り出して、俺は額に嫌な汗を浮かべながら笑ってやった。

「くくく…この世に神がいると、君たち人間は本気で信じているのかい?私は神にはあったことはないが、悪魔にならあったことはある。そう言う世の中だよ、光太郎くん。私が牧師であったとしても、なんら驚くほどの事でもないだろう。さて、君の用件を聞こうか」

 俺はカサカサになった唇を何度も舐めながら、緊張で冷たくなる指先を感じて握り締めていた拳を開いた。
 本気でそんなこと言っているのか?コイツは…
 いや、魔物の言うことだ。

「信じる信じないは君に任せよう。聞きたい事があるのなら早く言うといい。私もそれほど閑ではないのでね」

 人間を食らいに行くのかよ…と聞きそうになったが、俺は敢えてその言葉を飲み込んだ。もし、コイツが本気で『遠き異国の旅人』のことを喋る気なら、それを聞くのも手だ。嘘だとしても、何かしら得るものはあるだろう。
 机の端に軽く腰掛けた姿勢のアリストアは器用に眉を上げると、映画俳優か何かのように口許に薄い笑みを貼りつかせて、促すように片手で椅子を勧める。
 俺は、俺は賭けてみようと思った。
 無言で腰掛けながら、油断なくヴァンパイア野郎の様子を窺う。
 なんでもないことのように、ヤツは肩を軽く竦めた。
 その口から漏れた言葉に、俺の顔色が変わるのはそれからすぐのことだった。