17.手探りの気持ち  -Crimson Hearts-

 『タオ』の本部がある地区から戻ってきたスピカの顔色は悪かった。
 土気色とか、病気の顔色じゃない。
 何処か青褪めていて、僅かに震えているような…
 
「血の匂いがする。どうして、アタシが出掛けた後は決まって血の匂いがするの?」

 当たり前か。
 どんなに綺麗に片付けたとしても、何よりも血の匂いに敏感な『タオ』のメンバーであるスピカが、あの惨劇を想像しないはずがない。
 怒ってるんだ、激しく。
 そうだ、那智は一度怒られた方がいい。
 絶対、反省なんかしないだろうけど。

「さぁ?何故だろうなぁ。判らんなぁ」

 すっ呆ける那智なんか初めて見るから、俺がポカンとして、同じように立たされている傍らのご主人さまを見上げたら、お黙んなさいとでも言いたそうに、チラッと目線をくれただけで視線は『Voyage』の女主人に戻った。
 いやまぁ、あの浅羽那智が立たされてるってのもヘンな話しだけど、その那智を立たせている、小柄なスピカの度胸も大したモンだと思う。
 最初は新参者の俺が残飯でも撒き散らしたと思って呼び付けたんだろうと高を括っていたってのに、実際は俺を呼びつけた後、スピカは苛々したように那智すらも怒鳴りつけたんだ。
 スピカにとってこの店は、それほど大事なんだろうと思う。
 でも、それだと那智を雇っている時点で終了だと思うぞ。

「出たわね。ニヤニヤ笑うだけかすっ呆けるか、いずれにしてもアンタがここで人を殺したってのだけは判るわ」

「…」

「はぁ…そこで呆れてるぽちちゃん!」

 ニヤニヤ笑う那智の姿を見て、スピカは俺のご主人をよく理解してるなぁと呆れてしまった。
 でもすぐに鋭い声で名前を呼ばれ…って、もう、俺の名前はぽちで定着しちまったのか。自分の本当の名前も忘れちまいそうだ。

「はいッ」

 思わず背筋なんか正してしまうのは、脳内で考えているのとは裏腹で、小柄で女性だとは言え、スピカが撒き散らしている怒気のオーラは、チンケなコソ泥では到底太刀打ちできないほど、身の引き締まるような厳しさがあった。

「アンタがついてれば少しでも大人しいと思ったのに。ちゃんと、手綱は握ってないと駄目でしょう」

「へ?」

 手綱…って、思い切り握られてるのは俺の方だってのに、思わずヘンな声を出してしまったら、俺の傍らで退屈そうにニヤニヤ笑っている那智は、ふと、俺の腰に腕を回してきて、ハッとした時にはまるで荷物でも扱うような気軽さでヒョイッと小脇に抱え上げられてしまった。

「どーでもいーけどさぁ。ちゃんと掃除はしたし?スピカ、怒りすぎ。ワケ判んねっての」

 俺を小脇に抱えたままで黒エプロンを脱ぎながらニヤァ~ッと笑ってそんな身勝手なことをほざく那智に、スピカの額にビシッと血管が浮き上がる。口許は笑っている分、それが凄みを増してやたら怖い。
 どうして、『タオ』のメンバーはみんな笑って怒るんだろう。
 那智もそうだ、最近はめっきりと鳴りを潜めちまったけど、最初に出会った頃はモノは投げるは部屋は破壊するは…でも、そんな時ですらニヤニヤ笑っていて、だから余計に不気味だったし恐ろしかった。
 こうして見てみると、どうも、『タオ』の連中は笑って怒るクセがあるみたいだ。
 あれ?でも、俺たちのボスは笑いながら怒らないよな。
 ただ無表情に怒ってるんだ。
 それはそれで、腹の底が冷えあがるように怖いんだがな…

「で、すぐゲロするんだから。ったくもう、この店で人殺しはするなって、条件に入れておけばよかった」

 2人の会話を片手で抱えられたままで聞いている俺の前で、気だるそうに木製の椅子に腰掛けているスピカは溜め息を吐いたけど、『Voyage』の女主人の頭痛の元凶である俺のご主人は、相変わらずニヤニヤ笑いながら肩なんか竦めて見せた。

「もう条件変更はできません」

 こんな時ばっかりやたら丁寧語を使う那智には、そりゃぁ…もし俺が那智ぐらい強かったとしたら、思わず回し蹴りしたくなるほどには、イラッとするけどな。
 勿論、スピカもそうだったのか、眉根を寄せて胡乱な目付きで睨みはしたが、次の那智の台詞で驚くほどキョトンッとしてしまった。

「だいたいさぁ…敵が多すぎるスピカが悪い。オレ、ちゃんと用心棒もしてるワケよ?」

「…ふぅん、そうだったの。お腹が空いてるから殺ってるワケじゃないのね」

「違う。ちゃーんと、用心棒をしてるってなぁー?だからさぁ…」

 呆気に取られているスピカに、ニヤニヤ笑う那智はここぞとばかりに言ったんだ。

「牛乳をくれ」

「また牛乳を追加しろって?いいわ、好きなだけ持って行きなさい。それと、カウンターの下に今日の報酬を置いてあるわ」

 シュッと風を切るような音をさせてマッチを擦ったスピカは、細長い煙草に火を点けると、何処か痛いような表情をして口に咥えたまま片手でマッチを消して、片手で髪を掻き揚げながら溜め息を吐いた。
 どうも、もうどうでもいいと思ったようだ。
 まぁ…那智の耳に念仏とでも言うか、自分がこうだと思うと梃子でも意思を変えない『タオ』のお客さんネゴシエーターの気質を十分熟知しているんだろう、無駄な時間の浪費を避けたんだな。
 俺なんかの場合だと、那智と言い合ってしまって、気付いたら何時間も押し問答をすることもあった。
 苛々して夢中になっている俺が時間を忘れるのはよしとしても、どうして、ただニヤニヤ笑ってるだけで、別に話の内容なんかこれっぽっちも気にしていない那智まで、時間を忘れて言い合ってるんだ?!
 …と驚いたこともあったけど、那智の場合、俺が納得するまで何時間でも話に付き合ってくれるんだよな。
 大抵の人間がイラッとして喧嘩をするか、黙り込むかで話は決着するってのに、那智の場合は違う。  俺が納得するまで話を聞くくせに、かと言ってお喋りかと言えばそれも違う。
 今は独りになりたいと思っていたら、突然、ふらりと町に出て行ってしまったり、傍にいて欲しいと思うと、驚くことに、しつこいぐらい構ってくれる…よくよく考えると、もしかして浅羽那智って気の利くヤツなんじゃないかって最近はよく思う。
 そう言うのって嫌いじゃないから、ちょっと蛍都が羨ましいよなぁ。
 いや、ちょっとじゃない。
 凄く羨ましい。

「やった。今日はコレで終わりだってさー。んじゃ、ぽち。帰るかー?」

「おわり?!へ、俺は何もしてッッ…ふぐぐぐ」

「したよな?ちゃーんと用心棒の手助けをしたよなぁ?何言ってんだか判んねーよ、ぽち」

 那智は相変わらずニヤニヤ笑ってるけど、焦ってスピカを見たら、彼女はどうでも良さそうに頬杖をついて鼻先でクスクスと笑っていた。
 どうも、女主人がよしと思ってるんなら、俺がとやかく言っても仕方ないか。
 口を塞ぐ那智を胡乱な目付きで睨んでも、俺のご主人にしてみたらそんな飼い犬の不平なんか屁でもないんだろうなぁ。

「いいのよ。ぽちちゃんは店の掃除をしてくれた。誰かさんと違ってちゃんと働いてくれたじゃない」

「スピカは酷いしー」

 ニヤァッと笑って不機嫌そうな那智をまるで無視するスピカの、そのまるで見ていたような言い方に俺はギクッとした。
 だって、スピカはこの店よりも随分と離れた地区に行っていたはずだ。
 それなのに、掃除のことを知っているのはおかしい。
 確かに、那智も重いテーブルを運んだりと手伝いはしたものの、それは食餌が終わってからだ。解体後の目を覆いたくなる光景と匂いに吐きそうになりながら始末する俺を、なんとも不思議そうに見ていたのが印象的だったけど…それを、スピカは知らないはずだ。
 すわ、盗聴器、もしくは監視カメラがあるのかと、そっと店内を見回した時、彼女が事も無げに秘密を暴露した。

「酷くない。アンタの場合、血痕がいたるところに残ってて、その分、いつもアタシが大変だったんだよ。今日は綺麗になってるじゃない。それは偏にぽちちゃんの功績よ」

 なるほど、そうだよな。
 今日が初めてなワケがないんだから、以前も殺して、それなりに掃除はしてても散らかし放題にしてた前科があるんだな…って、でも待てよ。
 那智は食餌に関して以外は潔癖じゃないかと思うほど、綺麗好きなんだぞ。
 ニヤニヤ笑いながら掃除する姿に何度俺が青褪めたか判らないけど、それでも、陰鬱が支配しているような灰色の町で、那智はいつも鼻歌なんか歌いながら、楽しそうにニヤニヤ笑って掃除したり洗濯したりしているのに…

「俺…じゃないよ。那智は綺麗好きだ」

 ポツリと呟いたら、少し気になる咳をしたスピカは、那智の小脇に抱えられたままの俺を物珍しそうに見ていたけど、やっぱりどうでも良さそうに鼻先で笑うんだ。

「じゃあ、ウチでは手を抜いてるのね」

「家は綺麗にしないとぽちが病気になるだろ~?」

「へ?」

「犬は弱いし~?ここに来る連中にそんな繊細なヤツなんかいないワケよ」

「だからって誰が手を抜いていいって言った?」

 気が短いのか長いのか、よく判らないスピカは煙草をふかしながら胡乱な目付きで睨んだみたいだ。
 そんなの、やっぱり屁でもない那智はニヤニヤ笑ったままで、特に気にした様子はない…ってか、少しは気にしないといけないだろ。曲がりなりにも、雇い主なんだぞ。
 俺がハラハラしていると、スピカはそれ以上の問答はやっぱり避けるつもりなのか、苦笑するように鼻先で笑ってから、小脇に俺を抱えたままで、殆ど何もかも完全無視で…って、用は全て終わったとでも思っているんだろう、鼻歌なんか歌いながらカウンターの下に置いてある…そうか、こうやって調達してたのかと感心する俺すらも無視して紙袋を抱えてスタスタと歩いて店内を横切って出て行こうとする那智に、やっぱり気になる咳をして言ったんだ。

「久し振りに本部に顔をお出しなさいってさ。下弦が誘ってたわよ」

「…はーん」

 気のない返事…なのかどうか判らない、曖昧な態度の那智に、スピカは呆れたような顔をしたものの、どうでも良さそうに長い年月を物語るような光沢のあるテーブルに片肘をつくと、掌に側頭部を押し付けて疲れたような溜め息を吐いたみたいだ。

「…蛍都が退院するんでしょ。処分を考えてるから、アンタに話があるんじゃない?」

「…」

 ふと、足を止めた那智は身体ごとスピカに振り返って、相変わらずのニヤニヤ笑いの双眸をスッと細めると、キッと睨んだみたいだった。
 みたいだ…と俺が言うのは、どうも荷物みたいに抱えられてるんじゃ、どんな展開が起こっているのか詳細に見ることができないんだよ。

「アタシを睨んでもどうしようもないわ。ドジを踏んだアンタの相棒が悪いのよ。足まで失くして、この碌でもないクソッタレな世界で、せいぜい、守ってやるといいわ」

 嫌味なのか本気なのか…スピカは咳をして、それからジリジリと燃えた灰をポトリと床に落とすと、双眸を細めながら片手に持っている煙草を咥えて深々と毒の煙を吸い込んだ。
 身体中を侵す灰に満たされて、まるで満たされることなんかこれっぽっちもないと思い込んでいるような目付きをして那智を見詰めたけれど、俺のご主人はそうして、暫く立ち尽くしているみたいだったけど、まるで諦めたようにニヤニヤ笑いながら袋を持っている片手を挙げて、シンと静まる店内にまるで置き去りにされたみたいにして取り残されたようなスピカに別れを告げだ。
 物言わぬ別れは、何故か物悲しさを漂わせていた。

「…那智」

 俺がポツリと、忘れたみたいに小脇に抱えたままでいる那智を見上げて呟いたら、物思いに沈んでいたんだろう、俺のご主人はハッとしたようにニヤニヤ笑って見下ろしてきた。

「なに?ぽちは腹でも減ったかぁ??」

「そうじゃない。スピカ…」

「蛍都のこと?ぽちは蛍都が気になるのか~??」

 それはアンタだろ…とは言わずに、一旦グッと堪えた俺は、見下ろしてくるニヤニヤ笑いを見上げて首を左右に振りながら言ったんだ。

「蛍都じゃない。スピカ…何処か身体が悪いんじゃないか?」

 そりゃ、蛍都のことだってスッゲー気になるさ。気になるな、って方がどうかしてるだろ。
 それでも、あの湿ったような咳の方が気になる。
 あんな寂れた、誰も訪れないんじゃないかと思うほど寂しい店で、独りぼっちで切り盛りしているあの女主人は、気になる咳をしながら煙草をふかしていた。そうして、物言わぬまま死ぬんだろう。
 この世界ではそれが当たり前で、だから、誰も他人の身体のことなんか気をつけることもない。それどころか、自分自身が生きていくのも必死な世の中なんだから、こんなこと考えている俺の方がどうかしてるんだろうなぁ…
 でも俺は、あの寂しそうな目をしていた、俺たちの雇い主を嫌いにはなれないから、その身を気遣ってしまうんだ。

「…」

 思わず溜め息を吐いた俺を、那智はニヤニヤ笑いながら見下ろしている。
 それに気付いて、俺は訝しそうに眉を寄せて那智を見上げた。

「ぽちはさぁ~、ちょっとヘン。でも、オレはそれでいいと思ってるんだぜー」

「…はぁ?」

 思わず呆気に取られてポカンとしたけど、那智のヤツは咽喉の奥でクックックッと笑いながら、目蓋を閉じて首を左右に振ったんだ。

「スピカはビョーキだし」

「病気?…もう、治らないのか??」

「それはオレが関与する問題じゃないだろ。だってさぁ、スピカが自分で決めてることだし?口出しできないワケよ」

 なんだか、良く判らないんだが、そこには『タオ』に関わる連中だけが知る決まりがあるのか、或いは、スピカを想うからこそ、ソッとしておこうとする、それは那智の優しさなのか…いずれにしても、その中に俺が立ち入れる領域はないってことだ。
 となれば、俺が言うべきことは1つしかないだろ?

「そうか。じゃ、どうでもいいけど降ろしてくれ」

 そろそろ抱えられてるのもうんざりだぞ。
 と言うか、どれだけ力持ちなんだ。
 片手には物資のしこたま入った袋だろ?片手には俺だ。
 それでなくてもまだ夕暮れではないのか、それにしたって、人影がないワケじゃないんだ。
 両手が塞がってて、あの浅羽那智を殺れるって、絶好の好機だとか思って無謀な誰かがバカみたいに襲ってこないとも限らないだろう。
 俺はそれが不安で仕方ないんだ。
 あの浅羽那智に限ってそんなこと、有り得ないとは思っているんだけど…用心に越したことはない。

「はーん?どうしてぽちを降ろすんだぁ??」

「…どうしてって、決まってるだろ。俺は歩けるんだ」

「ぽちは二足歩行できるもんなぁ」

「…」

 噛み合わない会話にはもう慣れっこなんだけど、恐らく俺を下ろす気なんかこれっぽっちもないんだろう。那智は鼻先で笑うようにして、ニヤニヤしてる。

「蛍都もさぁ、昔は二足歩行できたのに。今は歩けないんだぜー?笑っちゃうよなぁ」

「…」

 いや、笑い事じゃないだろ。
 真剣にどうかしてるぞと見上げると、那智は感情を窺わせないニヤニヤ笑いを浮かべたままで、殆どどうでも良さそうに肩なんか竦めている。
 コイツの場合、本当に蛍都を愛してるんだろうかと心配になる。
 そう言えば、ベントレーもそんなことを言ってたっけ。
 恋人同士だってのにさ、何処か一本、線を引いたみたいに割り切った関係…そのくせ、毎晩身体を求め合って、愛を確認しているのか、それとも、ただのスポーツだとでも思っているのか、得体の知れない那智らしく、その愛し方もやっぱり不思議で、得体が知れないんだよな。
 それでも、心の奥で何時も思い浮かべてるに違いないほど、そんな愛し方でもきっと心から大切に想っているんだろう、そんな存在である蛍都を、俺はまた暗い嫉妬を胸の奥にひっそりと隠しながら、羨ましいと感じていた。
 どんな愛し方でも、スピカが言ったように、こんなクソッタレで碌でもない世界ではどうってこたない、その愛し方でもいいから、心の何処か片隅に、俺を入れてくれないかな。
 犬、としてではなく、ひとりの人間として…そこまで考えて、俺は那智の横顔を盗み見ながら、自嘲的に笑うしかなかった。
 負け犬として生き長らえた人間には、那智の扱いは当然なのかもしれない。
 犬、でもいいから、その心の中に俺を入れて、どうかほんの少しでも長く、忘れないでいて欲しい。
 妹と、義理の両親を死なせてしまった俺のこれは儚い夢なんだ。
 あのオレンジパーカーの男を捜して、いや、そうじゃなくても…蛍都が帰ってくるその前までに、何処か決意を秘めた双眸を持つ、あの悲しい女のように、俺もヒッソリと死のう。
 その時、ほんの少しでも那智が、寂しいと感じてくれたら、きっとそれだけで俺は満足できる。
 そしてそれは。
 あの日この世界に引き留めてくれた…希望だ。

 この想いは空回りしてあなたに届きません。
 この声はこんなにもあなたに届くのに。
 この心だけ取り残されたように独りぼっちです。

16.Voyageの謎  -Crimson Hearts-

 店の雰囲気を見事にぶち壊している俺に、スピカは「似合うわねぇ」と、強ち冗談とも思えない口調で言ってから、奥に引っ込んでしまった。
 これから、集金した金をタオに届けるんだそうだ。
 どうやら戻れるのは夜半になりそうだと言って、『Voyage』の女主人だと言うのに、今日は那智と俺に任せるからと彼女はふらふら出て行ってしまった。
 こんなウェイターなり立ての俺と那智とで、どうやって店なんか切りもりできるってんだ?
 正直な話、俺はウェイターなんかしたことがない。
 今まではしがないコソ泥で生計を立てていたし、まともな仕事なんかしたことがないから、俺は不安そうに那智を見上げていた。
 当の那智はと言えば、慣れたものなのか、別にどうってことない面でニヤニヤ笑っていて、それどころか、非常に嬉しそうにさえ見える。

「お、俺は何をしたらいいんだ?」

 結局、根負けして口を開いたら、仕込んでいた料理を一通り作り終えて一段落着いていたのか、満足そうな那智は目線だけ動かして俺を見下ろしてきた。

「ん~?ぽち、ミルク好きだろ。お座りして飲めばいい」

「は?」

 思わず呆気に取られてポカンとしたら、背後の棚に無造作に置かれている酒瓶のひとつを引っ手繰って、那智は勝手に無造作に瓶のまま呷ったんだ。
 う、それは不味いんじゃないか?
 動揺して目を丸くしていたら、那智は呆然としている俺に気付いて、それから「ああ…」と呟いたかと思うと、カウンターの下にちんまりと置かれているらしい、旧式の冷蔵庫から涼しげな音を響かせて瓶入りの牛乳を取り出して差し出してきたんだ。
 さぁ、これを飲めと言いたいんだろうけど…いや、だから、そうじゃないだろ。

「売り物に手を付けていいのか?」

 呆れたような、訝しそうに眉を寄せて聞いたら、那智こそニヤニヤ笑いながら訝しそうに首を傾げやがったんだ。

「はーん?ここ、スピカのお店だし?別に、何がどうなろうと知ったことかよ。スピカに雇われる時にさぁ、自由にしてていいって契約したんだよ。だから、オレが良ければ何でもいいんじゃね?」

「そう言う問題だろうか…」

「どーゆー問題がお気に入りなワケ?どうでもいいけどさぁ、ご主人さまがお座りって言ってんだ、ぽちは大人しくお座りすれば?」

 ニヤニヤ笑ったままでカウンター越しに牛乳瓶を押し付けてくる那智の手から、俺は恐る恐るその真っ白な液体を満たす瓶を受け取った。
 確かに牛乳は好きだけど、だからと言って、こう毎日飲まされてもなぁ…は、いかん。
 那智菌に頭を侵されるところだったが、そう言う問題じゃない。

「コーヒー以外も飲めるんだな」

 牛乳の白い液体を眺めながら、そう言えばと、普通のモノはコーヒー以外口にできないとニヤニヤ言っていたのを思い出して聞いてみた。
  
「はぁ?これもコーヒーだし?酸化したコーヒーは酒と同じになるみたいなんだよなぁ」

 オレにとってはと那智がどうでも良さそうに答えたから、どうやら売り物に手を付けているのは俺の牛乳だけだったのか…
 てことは、古くなったコーヒーを飲めば酒を飲んだ時のように酔うってことなのか。とか、そんなどうでもいいことを考えてガックリしたことは言うまでもない。

「開店はいつなんだ?」

 お座りと言われて、家にいる時みたいに床に直に座るのも気が引けて、俺は咎められるだろうとは思ったけど椅子に腰を下ろした。
 だが、那智は俺が考えている以上には、お座りにたいした意味を持っているワケではなかったんだろう。何故なら、俺にとってお座りってのは床に直で座るんだとばかり思っていたんだけど、那智はお座り=ただ座ると考えているようなんだ。
 だから、お叱りはなかった。
 それどころか、カウンターに両肘を着いて、「んー?」と俺の顔を覗き込んできたんだ。
 もちろん、ニヤニヤ笑いながら。

「ぽちはさぁ、開店が気になるワケ?」

「…当たり前だろ」

 何の為の店番だよ。
 たまに那智は、やっぱ、どっかおかしいんじゃないかと思うようなことを言う。

「そーなのかぁ?ま、どうでもいいんだけどさぁ。お客は気が向いたらそのうち来るでしょ?」

「…」

 どれほど適当に店番しているんだ、コイツは。
 俺がいない時は、こんな調子で勝手に酒を呑んでぶらぶら時間を潰してたのか?
 それで、あの気だるそうなスピカはよく怒らないなぁ。
 瓶の牛乳を飲みながら…うん、やっぱり本物の牛乳は美味いな。毎日飲まされてるから、骨太になってて骨折とか滅多にしないんじゃないかと思うぐらいだけど、毎日でもいいかもしれない。

「なんだよ?」

 ふと、ニヤニヤ笑っている那智と目が合った。
 相変わらず胡散臭く笑うんだけど、なんとなく、いつもとは違うような気がして首を傾げたら、那智はなんでもないようにニヤーッと笑って酒瓶を呷ったんだ。

「別にぃ?ただ、ぽちはさぁ。牛乳飲む時、本当に嬉しそうな顔をするなぁって思ったワケ」

「え?」

 目蓋を閉じて笑う那智を見ていて、俺はふと思う。
 もしかして、毎日牛乳を飲ませていたのは単なる嫌がらせだとかそんなものじゃなく、俺が嬉しそうに飲んでいたから、よほど好きなんだろうと気を遣っていた…とか?
 はは、いや、そんなまさか。
 この浅羽那智様が、俺のご主人さまと豪語する、この天下のネゴシエーターが俺なんかに気を遣うだと?
 ホント、冗談も大概にしやがれってんだ。
 でも、冗談にならないのが那智の、那智たる所以なんだよなぁ。

「う…嫌いじゃないし。それに、アンタがいつもくれるじゃないか」

「はーん?そりゃそうでしょーが。ぽちが大好きなら、好きなものを与えるのがご主人さまの醍醐味なんじゃね?」

 ニヤァ~ッと笑っているところを見ると、やっぱりかと思ってしまう。
 最強のネゴシエーターのくせに、こんな寂れた酒場でバイトしたり、自分こそ犬みたいに無頓着なくせに、那智はそこそこ、俺を大事にしてくれているんだ。
 面映いような、胸がくすぐったいような気がして、俺は思わず俯いてしまう。

「その、有難う」

 で、口をへの字にして礼を言うんだ。
 そんな俺の態度を理解できない鈍感なご主人様がニヤニヤ笑いながら首を傾げたその時、古い扉だと言うのに唐突に扉が蹴るようにして開けられた。
 バターンッと大きな音が店内に響いて、思わず反射的に椅子から飛び降りて身構えてしまう俺の傍らに、何時の間にか来ていた那智がニヤァ~ッと、何か邪な笑みを浮かべて入り口を見た。

「スピカ!そろそろ店をたたむ準備はできたかよッ!!」

 巨体を重そうにのっしのっしと歩く大男を先頭に、どやどやと下卑た野次を飛ばしながら数人の男たちが店内に雪崩れ込んできた。
 気だるげな双眸の女主人を捜していた大男は、那智と俺の存在に気付いてピクリと眉を震わせた。
 そうだ、那智がいる。
 那智に気付けば誰も何もできない。
 思わずホッとする俺の耳には、ゲラゲラと笑う耳障りな声が響いていた。

「なんだ、スピカのヤツめ。恐れをなして用心棒でも雇ったのか?それもこんなふざけたヤツをッッ」

「ギャハハハ!バッカじゃねーの?見ろよ、胸にぽちって書いてあんぜ!」

「かっわいいじゃん!コイツ、貰ってこうぜ」

 那智なんかよりもっと性質の悪いニヤニヤ笑いを浮かべて…いや、那智以上に性質の悪いニヤニヤはないんだけど、それでも、嫌悪感が背筋を走る嫌な笑い方をして、男たちが口々にそんなことを言いやがるから、向こうっ気なんかこれっぽっちも持ち合わせちゃいない、ケチなコソ泥の俺だってムッとしたよ。

「おいおい、睨んでるぜ?こんなチビとそっちの細っこいのを雇って、スピカのヤツは何を考えてるんだ?」

 ギャハハハッと笑う男たちは、ニヤニヤ笑いながら一歩踏み出して、自然と背後に俺を庇うように前に出た那智に気付いていないようだった。
 エプロンをしてしまうと邪魔になるベルトに差した二対の鞘から覗く柄が、よく見れば左右に突き出しているんだけど、頭からバカにしている男たちは気付いてもいないようだ。

「…」

 那智が無言でニヤニヤ笑っているのを、気に障ったのか、仲間の一人がペッと床に唾棄して額に血管を浮かべた。
 どうも、こう言う手合いに多い、血の気の多いヤツみたいだな。

「なんだぁ?お前、ニヤニヤしやがって。舐めてんのか?」

「…」

 それでも那智はニヤニヤ笑っている。
 けして美味そうではないけれど、今夜はご馳走だなぁ…とでも思っているのか、その笑みは早く戦いたくてウズウズしているように見えるんだけど…どうして仕掛けないんだろう。
 そこまで考えて、漸く俺はハッとしたんだ。
 那智が、那智らしくもなく間合いを取っている。
 その理由は、きっと俺なんだと気付いた。
 那智は殺戮を好むけど、そうなると見境がなくなるのか、気付けば血の海になるから飼い犬である俺を汚すと面倒だと考えているに違いない。

「ああ?なんだ、コイツ。気に喰わねぇなぁ…」

「殺っちまえ。スピカの腰抜けが用意した用心棒なんざ、たかが知れてる。ちょうどいい、暇潰しになるだろ?」

 スピカが帰って来るまでここで待つ気でいた男たちは、ニヤニヤ笑って無言で立ち尽くしている、脱色し過ぎで茶色になっている髪の、前髪から覗く仄暗い光を宿した双眸を持つ男を、暇潰しに遊んでやろうとでも思っているんだ。
 その相手が、誰だかも知らないで…
 俺は、那智の身体から気付かない程度で漏れ始めた殺気を感じ取って、思わず立ち竦んでしまった。
 その態度が、大男たちには自分たちに怯えていると受け取ったんだろう。
 下卑た声を上げて、仲間と目線を交わしながら馬鹿笑いなんかしやがった。
 その瞬間だった。
 風を切る音をさせただけで、薄暗いランプの明かりを反射させて、煌く人殺しの刃が閃いた。
 音もなく、ともすれば身動きすらしていないのではないかと思わせる那智の両手には、何時の間にか日本刀が握られていた。
 その日本刀は2本とも、鮮血を滴らせている。
 …と言うことは。

「なんだ、なんだ…な、ん?」

 一瞬の出来事は、何時だってやられた相手には、自分の身の上に起こった出来事を理解する暇など与えないんだ。
 那智に喧嘩を吹っ掛けていた男もそうだったんだろう。
 その身体に、そう、その巨体に…真っ赤な何かで大きなバツ印が浮かび上がった。
 浮かび上がると同時に、意識するよりも早く、クロスするようにしてズ…ッとずれた。
 そう、ずれたんだ。
 こんな碌でもない世界で生きていながらも俺は、喧嘩や人殺しに弱くて、思わずギュッと目蓋を閉じてしまった。
 何が起こったのか、見なくても判る。
 断末魔は仲間の息を呑む気配に勿論消されるワケもなく、店内に響き渡っていた。

「こ、れ…ぎゃあああああぁぁぁッッッ!」

 一瞬の出来事だった。
 たった一瞬の出来事で、顔に返り血を浴びてニヤニヤ笑っている浅羽那智は、あの屈強そうな大男の身体を二刀で両断していたんだ。
 ピクピクと動く腕を踏みつけて、その時漸く那智が行動らしい行動を起こした。
 刀から滴る鮮血をべろりと舐めたんだ。

「あのさぁ、舐めるってのはこういうことを言ってんのかぁ??」

「野郎…よくも弟をッ」

 中でも一番の巨体の大男が、ゆらりと殺気を纏って身を乗り出した。
 その腕には既に武器が装着されているんだけど、文字通り、鉄のグローブを改造している、スパイクだらけで肘までもありそうなそれを装着して、醜悪な顔で憎々しげに那智を見下ろしたんだ。
 他の仲間も血に飢えた猛獣みたいに興奮して、それぞれの武器を手にして那智を睨み据えた。
 その時、それまで潜んでいた狂気のような殺気が噴出して、慣れていない俺と、相手の何人かがビクリと竦み上がってしまった。
 流石は奴らのボスなのか、スパイクグローブの男だけはギクリとしたものの、面白うそうにニヤッと笑ったんだ。

「どうやら、腕に覚えはあるようじゃねーか。弟の仇、存分に取らせて貰うぞッ」

「…ぽちさぁ」

 一瞬、思わず呆気に取られるほど暢気な口調で尋ねてきた那智に、俺は思わず頷いていた。
 声の調子とは裏腹の殺気に、凍り付いて動けないんだ。

「な、なんだよ?」

「これからコイツら始末するワケじゃね?だったらさぁ、オレ、また店内を汚しちまうワケ。掃除、一緒にしような?」

 ニヤニヤと那智が笑う。
 その態度を、無謀な男たちは挑発と受け取ったようだった。
 いや、確かに挑発に見える…見えるんだけど、那智の場合、これは真剣そのものの発言なんだ。

「…ッ、バカにしやがってッッ」

 案の定、男たちは一斉に飛び掛った。
 天井こそ高いがこの狭い店内で、大男4人に囲まれて、しかもそれぞれ腕には凶悪な武器を持ってるんだ。
 流石の那智だってヤバイ、これはヤバイぞ。
 チンケなコソ泥の俺に何ができるってワケでもねーんだけど、それでも何かしないと、このまま那智が殺られるのを黙ってなんか見てられるかよッ!
 カウンターの向こう側に回って武器になりそうな肉切り包丁を引っ掴んで、囲まれた那智を助けようと振り返った俺の目の前で、惨劇は繰り広げられていた。

「ぎゃッ!」

 短い悲鳴を上げる男のナックルを装着した腕が肩から吹っ飛んだかと思うと、もう片方で殴りかかっていた男の顔半分が弾け飛んだ。
 血飛沫が吹き上がる中を、那智は絶命の断末魔を上げる男たちの身体を蹴りながら、ニヤニヤを猛烈に凶悪な笑みに変えて、振り下ろされるスパイクだらけのグローブを片方の日本刀で受け止め、羽交い絞めにしてくる背後の男を逆手に持った日本刀で貫いた。
 耳を劈くような金属音を響かせた防御は、拳の重さを物語っていると思う。
 戦うことが嬉しくてしょうがないと言った感じで、声を立てて笑う那智を見て、肉切り包丁を両手で持ったままの俺は、心底から、ああ、那智は本当に浅羽那智なんだなぁと実感していた。
 今までが今までだったから、呆気に取られて見入っている目の前で、那智は貫いた日本刀の柄を持ち替えて、そのまま上に引き裂きやがった。
 あらゆる動脈を引き裂いた結果、夥しい血飛沫が吹き上がり、断末魔を上げた男がふらふらとよろめくと、生きていた名残のように、鼓動するように鮮血が吹き上がったけど、そのまま仰向けに倒れてしまった。
 その時でさえ、平然とガッシリした体躯の大男の渾身の一撃をたった一本の細い日本刀で受け止めたままで、ニヤニヤと笑ってるんだ。

「…き、貴様、いったい何者なんだ!?」

「あっはっは!知らなくていーよ、うぜーなぁ。どーせ死ぬんだし?お前には必要ないってワケ」

 久し振りに爽快に笑う那智が、背後の役目を終えた日本刀を返す手で振り下ろそうとすると、一瞬早く大男は那智の身体を弾いて背後に飛び退いて危険を回避した。
 その一連の出来事は、僅か数秒の出来事だと言って、いったい誰が信じてくれるんだ。

「…なんだかなぁ、あんまり役に立たねーな。コイツらさぁ」

 那智は肉塊に、或いは身体の一部を欠損した死体を踏み躙りながらそう言うと、片手に持つ日本刀から滴るまだ熱の冷めない鮮血を目蓋を閉じて舐めた。その隙を突いて大男が一撃を繰り出したが、那智は造作もなくそれを片方の日本刀で受け止め、それから受け流した。
 そうして、隙を作る大男の腹を思い切り膝蹴りしたんだ!
 あのガタイのおっさんに比べれば細い足だし、いまいち効いちゃいないだろうとハラハラしながら、肉切り包丁の柄を握り締めて見守る俺の前で、大男は巨体をくの字にして「ゲェッ」と胃液を吐き出した。
 腹には鎖やら鉄板やらで防御してるってのに、那智のクリティカルがヒットしたって言うのか?
 それとも、わざと蹴り上げて、あの鉄板やら鎖やらでクリティカルを狙ったのか…?

「アンタもあんまり役に立たねーなぁ?なに?スピカに金でも貸したのかぁ??」

 じゃぁ、返ってこねーよと笑って、那智は体勢を崩すおっさんに日本刀を振り下ろした!…んだけど、おっさんも素直にやられる気はないらしく、スパイクの腕で受け止めた。
 鋭い金属音で、どれだけの力が圧し掛かっているのか判るような気がする。
 あくまで喧嘩に無縁の俺の感想だから、気がするだけなんだけどな。
 形勢逆転の状態で受け止める日本刀をギリギリと押し遣りながら、大男は眼前に迫る悪魔に目を見開いた。

「お、お前は、もしや…浅羽那智か?!」

「ぽちは那智って呼んでんだぜー」

 可愛いよなぁと、どうでもいいことをケロッと言いながら那智は、一旦、巨体を押し遣って体勢を整えると、ニヤニヤと笑って身構えた。
 頬の返り血が顎から零れ落ちている。

「あれ?ぽち、なに包丁とか持ってんだぁ??」

 顎を拭いながらニヤニヤ笑って俺に気付いた那智は、そんなどうでもいいことを、戦いの最中だって言うのに言いやがるんだ。
 どうだっていいだろ!…と口に出す前に、大男のグローブが那智に振り下ろされるけど、那智はそれを難なく受け止めた。その攻防に足技まで繰り出すんだけど、見ているうちに、どちらが優勢かよく判る。
 これは喧嘩に疎い俺にだってよく判った。
 何故なら、おっさんは肩で息をしているのに、那智は少しも呼吸を乱していないんだ。
 驚異的な体力に俺が更に呆気に取られていると、ブンッと風を切るようにして繰り出される拳を僅かに避けた那智はニヤニヤ笑いながら、その場でいきなり飛び上がると、空中で一回転するようにして驚く俺の傍らのカウンターに降り立ったんだ。

「ぽちさぁ、それ危険だから。だから、オレに寄越せってば」

「この店の天井が高かったからよかったものの、アンタ、戦う時は状況をよく考えて…」

「はぁ?ちゃんと目測はしてたぜ~」

 そう言われてみればそうかと、現に、ちゃんと俺の目の前のカウンターの上に着地してんだからいいのか。
 屈み込みながら首を傾げる那智に、そんなことを考えながら俺は言われるままに、差し出された手に肉切り包丁を渡したんだ。

「ち、畜生…ハァ、ハァッ」

 既に肩で息をしてる時点で、この戦闘の勝敗は判り切っているような気がするのに、ニヤニヤ笑う余裕の那智は許してやる気なんかさらさらないみたいだった。

「畜生じゃねーよ。それはこっちの台詞だし?あーあ、またスピカに怒られる」

 うんざりしたように、日本刀で肩を叩いてニヤニヤしている那智は、まるで何かのついでのように肉切り包丁をヒュッと投げたんだ。
 ハッとした時には、回転を早めた包丁は凄まじい早さで、おっさんの首を刎ねていた…と思う。
 鮮血を吹き上げて、大男はきっと、何が起こったのか判らないまま死んだに違いない。
 暫くふらふらと動いていたけど、グルンッと目玉が上を向くと同時に首が転げ落ち、頚動脈を切断した首から生命の名残りすら吹き飛ばすように鮮血が迸り、その反動で巨体は大きな振動を起こしてぶっ倒れてしまった。 
 あんまり速度が速かったから、避けることも逃げることも考える余裕さえないんだから、首も刎ね飛ばされなかったんだと思う。

「スピカに内緒でさぁ、掃除しよーぜ?」

 あまりの出来事に声すらも上げ忘れて呆然と立ち尽くす俺なんかお構いなしに、那智のヤツはカウンターから血塗れの床にゆっくりと降り立つと、振り返ってニヤッと笑った。
 木製の床にじくじくと広がる血の海と、累々と横たわる死体、鼻を突く異臭に眉を寄せる
 俺の目の前には、返り血を浴びてニヤニヤ笑う那智がいる。

「…その死体はどうするんだ?」

 まさかゴミ捨て場に投げ捨てるワケが…あるか。
 だいたい、この町にあるゴミ捨て場はいつも何かしらの死体が投げ込まれているから、一種独特の死臭が染み付いている。いまさら、それが4体増えたところで、誰も機動警備隊に通報しようなんて物好きはいないからな。

「喰える分は喰いたいかなぁ~、腹も減ったしさぁ」

 言うが早いか、まだ温かさを残す腕を拾い上げて口に持って行くと、那智は歯を立てて肉を食い千切って租借した。
 何度見ても、慣れるもんじゃねーよなぁと思う。
 俺が青褪めて見詰める先、租借していた那智が急にヘンな顔をしたかと思ったら、ぶぇっと吐き出してしまった。床に吐き出して、噎せたように咳き込むその口許が、ニタッと笑ったから、やっぱり反射的にゾッとしてしまう。

「コイツ、薬やってたな。薬はダメだ。これはもう喰えねーなぁ」

 口許にこびり付く血を片腕で拭いながら、ふと気付いたように、両手に持っている日本刀に付着した血液をビュッと風を切るようにして振り落としてから、腰に佩いている鞘に納めたんだ。

「…じゃ、もう用無しってことか?」

「とは限らないし?オレさぁ、すげー腹が減ってるんだよなぁ」

「人間以外に喰えないのは辛いな」

 ポツリと呟いたら、他に良さそうな死体を選んで口に運んでいた那智は、「ん?」と言いたそうな顔をして俺を振り返ったんだ。

「別に普通の飯が喰えないってさぁ、苦労したこたないし?お、これはイケる。今の時代、人口は増える一方で、喰うのに困ることもないってワケ」

 那智は、そんなに観察とかしたくはないんだけど、食餌をするとき、肉を喰うと骨の周りにある筋や健なんかも綺麗に喰って、それから、どれほど歯が丈夫なんだか判らないんだが、骨まで噛み砕いてしまう。かと言って、それを夢中で貪るってこともなく、何かのついでのように片手に持って別のことをしながら喰うんだ。
 小さな部位、たとえば指なんかは無造作に口に放り込んでしまう。

「那智は増え過ぎる人口を抑えるために、そう言う身体になってしまったのかもしれないな」

 取り敢えず、那智の食餌が終わるまで、その辺の片付けを始めながら言ったら、黒エプロンのネゴシエーターは片手に人体の一部を持って、しかもそれを喰いながらニヤニヤ笑うんだ。
 血溜まりに立ち尽くして人肉を喰らいながら笑うんだから、悪夢…のようだとは思うけど、何故か、それしか喰えない身体になってしまっている那智を、怖いとか気持ち悪いとか思えないでいた。
 却って、悲しいとすら思ってしまうんだ。
 俺も大概、どうかしてるとは思うけどな。

「はーん?よく判らねーなぁ。気付いた時には人間を喰ってたんだから、何故こうなったとか、考えたこともないワケよ」

「そうか」

 調理場に回ってゴミ箱用のビニール袋を見つけた俺は、カウンターを回って店内に戻ると、そこら中に飛び散っている、嘗ては大男たちだった亡骸を拾い集めた。
 比較的大きなビニール袋が10枚分になりそうなソイツ等は、那智が喰い易いように壁に突き刺さっていた肉切り包丁を取って来て勝手に解体を始めてるから、余計に数を増やしている。
 そうか、なんとなく判った。
 那智が開店時間を全く気にしないワケが。
 気にしていないんじゃない、こんな連中が来るもんだから、オープンしていても客の方が来ないんだ。
 那智にしてみれば、これは絶好の食餌タイムだし、うっかり足を踏み入れた客は、たとえ開店時間だったとしてもダッシュで逃げ出すだろうから…那智が言っていたように「気が向いた客がそのうち」来るんだろう。
 …なんつーか、その、先が思いやられると思うのは、俺だけなんだろうか。

 足許に広がる闇は何処までも暗くて。
 その先を見ようとしても無理だった。
 無理ならそれで諦めればいいものを。
 どうして覗き込みたいと思うのか。
 不思議だと首を傾げれば。
 闇なんか見なくてもいいと笑う声がする。
 光が満ち溢れるように心を満たすから。
 オレは。
 暫くその笑い声を聞いておこうと思う。

 いや、違う。

 ずっと、永遠でもいいから聞いていたいと切望する。
 足許にある無限のような闇が。
 気にならなくなっていた。

15.幸せなこと  -Crimson Hearts-

 那智はニヤニヤ笑いながらも不思議そうに首を傾げ、それでも別に気にしてもいないのか、首を振りながら予め仕込んでいたんだろう、鍋に火を入れた。
 俺は首輪をしたままだし、このままブラブラ突っ立っていてもなんだし…ってことで、勝手にカウンター席に腰掛けたんだ。
 頬杖をついて、砂岩ビルでいつも見ている見慣れた光景をぼんやり眺めていたら、那智のヤツがニヤァ~ッと笑って目線だけを向けてきやがったから…う、また何かとんでもない事実が飛び出すぞ。
 なんか俺、だいぶ身構えるのが上手くなったような気がする。
 いや、身構える必要なんかないんじゃないかとか、脳内で突っ込む自分を軽く無視して、ハラハラしながらそんな那智を見返した。

「な、なんだよ?」

「なんだよじゃねっての。ぽちはさぁ、ご主人さま働かせて、自分はお座りしてんのかぁ??」

「は?」

 それがあんまり間抜けな顔に見えたんだろ、那智のヤツはハッハッ…と声を出して笑ってから、首を左右に振って漆黒のエプロンで両手を拭う…ワケもなく、ヘンなところで潔癖症っぽいコイツは、キチンと布巾で手を拭いながら言ったんだ。

「だからさぁ、は?じゃねっての。ぽちはさぁ、今日からウェイターになるんだぜー」

 それがもう、本当に嬉しいんだろう。
 何がそんなに嬉しいんだよと聞きたくなるほど、那智のヤツは盛大にニヤニヤ、ニヤニヤ笑って喜んでるから…俺はその思考回路にやっぱり追い付けずに呆気に取られてしまうんだ。
 つーかさ、やっぱり、那智の方が全然犬っぽいと思うんだけどなぁ。

「わ、判った。でも、犬でも雇って貰えるのか?」

 まぁ、働かざる者喰うべからずだし?
 バイトでもさせて貰えりゃ、何もせずに一日中家にいるよりは遥かにマシってモンだから、俺は歓迎なんだけどよ。
 あの気だるげな美人のねーちゃんがOKしてくれるのか、問題はその辺りにあるワケだし、どーせまた那智の行き当たりばったりの思い付きだとは思うんだけどさ。

「はーん?…どだろね、どーせスピカの趣味のお店だしぃ??別にいーんじゃね」

「…なんだよ、その遣る瀬無いほどのどーでもよさそうな口調は」

 思わずガックリと年月を物語る床に膝を着きそうになりながら突っ込むと、泣く子も黙る天下の浅羽那智様は片手を腰に当てて、ニヤニヤ笑ってどうでも良さそうに唇を尖らせやがる。
 どうでもいいけど、器用な表情をするよなぁ。

「実際、どーでもいいでショ、んなこと。オレがバイトしてんのにー…ぽちが傍にいなくてどーするワケ?」

「…今まで、家にいたけどよ」

「そんな言い訳聞きません」

「……言い訳じゃない。事実だ」

 ああ、なんだこの不毛な会話は。
 取り敢えず判ることと言えば、仕込みなんかとっくの昔に終わってて、開店準備も恙無くすませちまった那智が、どうしても俺をウェイターにすると決めてるってことだな。
 しない?…とか聞くんじゃないんだ、コイツの場合は。
 オレがバイトをする⇒ぽちが家にいる…いや、そりゃいかん。
 オレがバイトする⇒ぽちも一緒にいるべき…うん、それだ!
 実際、那智の脳内なんかそんな単純明快な答えしかないに違いない。
 実際に聞いてみた。

「はぁ?んなこと、当然だろ」

 いや、聞くなよって気もするけど、案の定の返答に、もう、那智の性格にすっかり馴染んじまった俺の反応なんか決まってら。
 両拳を握って、『ヨシ!』とガッツポーズだろ。

「…つまり、これはアンタなりのジョークだったんだな?」

「??」

「散歩だとか言って連れ出して、蛍都に会わせるふりをして、詰まるところ、ウェイターにするのが目的だったんだな」

 途端、那智がニヤァ~っと笑って俺を見た。
 うん、たぶん、この反応は図星だったな。
 でも嘘が下手な那智は、ニヤニヤ笑いながら瞼を閉じて肩なんぞ竦めやがった。

「まぁね~。半分は当たり。でも、蛍都には本気で会わせる予定だったんだけどさぁ。クソ看護師」

 最後の一言はホント、さらっとした口調で本音を言って、那智はそれでも嬉しそうだ。
 犬なんか冗談じゃない…って思ってたんだけど、俺はどうしてかな、那智が「ぽち」と呼ぶのはそれほど嫌な気がしない。
 それは、このクソッタレで碌でもない街の中で、唯一、しゃがんで俺を見下ろして、ニヤニヤ(それはそれで十分怪しいんだけどな)笑いながら嬉しそうに拾い上げてくれた、この理解し難い思考回路の持ち主を、俺がそれほど嫌っていない証なんだろうけど。
 まるで貼り付けたような笑みはいつも絶えないから、那智の感情の起伏がよく判らない。
 こんな風に偶に、全開で嬉しいそうにしている時だとか、強烈に激怒している時ぐらいしか、那智の感情は判らない。
 微妙な感情のニュアンスを見事に隠して、この灰色の街に溶け込んでしまった那智のあやふやな実体を、チンケなコソ泥上がりの犬の鼻なんかじゃとうてい嗅ぎ分けることなんかできるワケないか。
 諦めて肩を竦めたら、いつの間に傍まで来ていたのか、那智のヤツがガバッと抱きついてきたりするから俺の心臓は跳ね上がっちまった!
 いちいち、動作が静か過ぎるくせに派手なんだよなぁ。

「で、ウェイターぽちはこれからお客さんのさぁ、皿を片付けるワケよ」

「あ、ああ。判った」

 バクバクする心臓を抱えたままで、間近まで迫っているニヤニヤ笑いに頷くと、脱色を重ね過ぎて傷んだ前髪の間から、心の奥底まで覗き込んでしまうんじゃないかと思えるほど、一途な目付きをしていた那智は嬉しそうにニヤニヤニヤニヤ笑った。
 どうやら、愛犬が素直に指示に従ったのが嬉しくて仕方ないようだ。
 …つくづく、ヘンなヤツだ。

「楽しみだなぁ~、ぽちに手を出そうとするヤツがオレの晩飯ね♪」

「は!?」

「殺すか殺されるかなんだから、別にいいけどね。いつからぽちちゃんを雇うことになったの?アタシじゃなくてアンタが」

 咥えタバコの気だるげなねーちゃん…こと、スピカが、呆れたように古めかしい木製のドアを軋らせて店内に入りながらぼやいた。
 どうやら、集金は恙無く終わったようだ。
 膨らんだ黒いバックを、年月の経過とともに染み込んだ食べ物の染みとか飲み物の染みとかで、奇妙な光沢を放つテーブルに投げ出して、疲れたように椅子に腰を下ろすと髪を掻き揚げながら溜め息を吐いた。

「はーん?そりゃ当たり前でしょ?オレがバイトをするってこたぁ、イコールぽちが傍にいて当然。そう決まってるってワケ」

 アンタの脳内完結の方向でな。
 抱き付かれたままで口からエクトプラズムでも吐きそうなほどうんざりしている俺と、これ以上はないほど嬉しそうにニヤニヤ笑っている那智を交互に見ていたスピカは、ただただ、どうでもよさそうに咥えていた煙草を指先で挟んでふぅーっと紫煙を吐き出した。

「那智は一度決めると煩いからねぇ。いいわよ、ぽちちゃんウェイター決定ね」

「早ッ!」

「そうでなくっちゃなぁ、スピカ」

 やっぱり那智は嬉しそうだ。
 何がそんなに嬉しいんだろう?

「那智さぁ、アンタ、何がそんなに嬉しいんだ?」

 それは素朴な疑問だった。
 俺が傍に居ようといまいと、那智はあんまり気にしている風には思えなかった。
 仕事を見せてやるとか、犬には自由がないとストレスが溜まるとか、ワケの判らん理由で俺を連れ回すのは好きなようだけど、傍に居ると嬉しいとか、そんな場面は一度も見たことがない。
 だから、俺は首を傾げるしかないワケだ。

「決まってるだろ~?ぽち、ウェイターなんだぜ??ワンコでウェイターでぽちなんてさぁ。楽しいじゃねーか♪」

「…はぁ??」

 それはそれは嬉しそうにニヤニヤニヤニヤァッと力いっぱい笑われて、俺は思い切り後ずさってしまった。
 だって、なんだよ、その理由は!?
 勿論、那智の腕に阻まれてるワケだから、気持ち後ずさった程度なんだけどよ、それでも俺は、どんな顔をしたらいいのか判らずに、呆気に取られてポカンッと自分の飼い主を見上げていた。
 すると、クックック…っと、咳き込むように気だるげなスピカが静かに笑ったんだ。
 煙草を指に挟んで髪を掻き揚げながら、何が面白いのか、困ったように笑っている。
 那智は、そんなスピカを華麗に無視して(それはそれでなんてヤツだ)、どこから取り出したのか、嬉しそうに唖然としている俺にお揃いらしい黒のエプロンを着せやがった。
 ひとつ違うのは、その胸元に黄色のアップリケで『ぽち』と書いてあることだ。
 ご丁寧に犬の顔付きだ。

 恐るべし、天下の浅羽那智!

 …はぁ。

 目に見える全てが。
 幸福の欠片なら。
 きっと、この瞼が閉じてしまったとしても。
 その在り処が判ることでしょう。
 私は手探りでその欠片を集め。
 ひとつずつ嵌め込んで。
 大切なあなたに贈ります。
 散らばってしまった私のこの心を。
 大切なあなたに贈ります。

14.秘密  -Crimson Hearts-

 那智はそれから、機嫌よくニヤニヤ笑いを浮かべたままでジャンクフードとドリンクの入っている紙袋俺から引っ手繰って投げ捨てると(あーあ、相変わらず勿体無いことをするヤツだ)、俺の手をまたしても握り直すと、問答無用でどこかを目指すような足取りで歩き出したんだ。
 それこそ、うっかりしていたら鼻歌でも歌いだすんじゃないかと思うほど、ご機嫌の那智に、俺は呆れながらその背中を追って首を傾げるしかない。

「これから何処に行くんだ?家とは反対方向みたいだけど…」

「はーん?散歩だろー、楽しもうぜ~♪」

 全く意味不明の言葉にだって、そろそろ慣れればいいのに、俺は相変わらず溜め息を吐きながら那智に付き合ってしまうんだろう。それでも、存外、嫌な気分でもないのは俺も那智ウィルスに感染してしまったのかもしれないなー
 那智に連れられてどこまでも歩いていると、何故か、過去がフラッシュバックして俺は眩暈がした。
 那智、アンタは俺に、この町のことを知らないだろうと言った。確かに、俺はこの町のことなんざ、これっぽっちも知らなかったし、知ろうとも思っていなかった。
 でもな、アンタは知らないだろうけど、俺はこの町のことをよく知っているよ。
 ボスに拾われた日も、こんな薄曇の日で、雨が降らないだけでもラッキーだなんて、お目出度いことを言っていたなぁ…
 俺をメチャクチャにした頭領は、妹がゴミ屑のように死んだ日に、ゲラゲラ笑いながら俺をゴミ屑のように捨てた。散々犯された身体はどこも傷だらけで、尻からはまるで女の生理みたいにたらたらと血が零れていた。ボロボロになった上着一枚で放り出したのは、できればそのままくたばっちまえばいいと思っていたんだろう。そんな姿でも俺は、抜け殻…とまではいかなくても、ただただ、妹の死体であったとしても、会いたくて、ただ会いたくて、曇天の空が広がる灰色の町をフラフラと歩いていた。
 ああ、今日は雨が降らなくてラッキーだなぁ…とか、馬鹿みたいに暢気に思いながら。
 薬に溺れたジャンキーだとでも思ったのか、そんな俺を、町に巣食う荒くれどもは笑っていたし、中には、連れ込んで犯そうとしたヤツもいた。
 俺がソイツらに散々輪姦されなかったのは、偏に、スバルのおかげだった。
 ボスは、俺を連れ込んだヤツの部屋のドアを、堂々と蹴破って入ってきた。
 ベッドの上でぼんやりしている俺の目の前で、ボスはソイツを殴り殺したんだ。
 その姿を見て俺は、どうして…このまま死なせてくれないんだろうと恨んだもんだ。
 この汚い身体を、汚らしく強姦されて殺されるなら自業自得じゃねーかと、無表情で見下ろすスバルに半ば自棄っぱちに叫んでいた。
 どうして助けたんだ、死にたかったのに!…ってな。
 そうしたらボスは、憐れむでもなく嫌悪するでもなく、握った拳にじっとりと付着した鮮血を拭いながら溜め息を吐いて、それから、まるで無表情の淡々とした双眸で俺を見下ろすと、「俺の場所に来るか?」って聞いてきたんだ。
 コイツは何を言ってるんだ?頭がおかしいのかと思ったよ。
 そうしてボスは、「全て、自分の意思で動け」と言い放ったんだ。
 踵を返して歩き出したボスに、俺は暫くポカンッとしていたんだけど、壊れた人形みたいに思考回路とかまともじゃなかったから、どんな気持ちの変化だったのか、俺は釣られるようにしてボスの後を追っていた。
 コイツなら、もしかしたら、この地獄のような世界から開放してくれるかもしれない…そんな馬鹿げた妄想に突き動かされて、腕を差し伸べるでもなく、救い出してくれるってワケでもないのに、俺はボスの後を追って行ったんだ。
 ボスの部屋に入って、俺の抱えていた願いのような思いが、全くの幻想で、意地汚い妄想だったと思い知ったのは、それからすぐだった。
 ボスは俺の襤褸切れのようになった上着を引き剥がすと、そのまま、セミダブルのベッドに突き飛ばしたんだ。覆い被さってくる男の体臭に、こうなることは判っていたくせに、俺はめいいっぱい両目を見開いて、それからガチガチと歯の根が合わないほど震えて、ボロボロ泣きながらボスに抱かれていた。
 まだ、傷だってうまく塞がっていなかったから、俺の尻はボスのモノに耐えられなくて、また真っ赤な血をタラタラと零していたけど、ボスは、スバルはその行為をやめてはくれなかった。
 そこで俺は、なんだ、この身体を差し出せばなんでも思いのままだったんじゃねーかと、激しく身体を揺すられながら、ボロボロ泣いて死んでいった妹に申し訳なくて申し訳なくて、このままスバルが俺を殺してくれたらいいのにと思っていた。
 でも結局、俺はボスに飼われることになったんだけど…はは、ボスはおかしなことを言ったよな。
 犬ではなかったかもしれないけど、アンタだって十分、俺を人間扱いなんかしていなかったじゃねーか。
 犬扱いではあるけど、那智の方が余程、俺個人の感情を尊重して人間らしく扱ってくれている。
 ああ…だから。
 俺は那智とのこの甘ったれた生活が不思議で、そうして、守りたいと思ってしまったんだろう。
 那智だけが、俺を人間として扱ってくれていたんだ。

「今更、気付いたって遅いのに」

「はーん?何が??」

「いや、なんでもないんだ。那智、ありがとう」

「はぁー??」

 言っておかないと、人間は驚くほどあっさりとどうにでもなってしまえるから、言える時に伝えたい気持ちは伝えておかないと。
 たとえちょっと、ニヤニヤ笑いの那智が呆気に取られたようにニヤニヤしていても、だがな。

「ぽちはさぁ、たま~にヘンなこと言うのな?まぁ、オレは別に気にならないんだけどさー」

 大いに気になっていそうな台詞に、思わず笑いそうになったら、唐突に那智の足が止まって、思わずその漆黒のコートの背中に鼻をぶつけるところだった。

「ど、どうしたんだ!?」

 いったい何事が起きたのかと首を傾げていたら、ニヤニヤ笑っていた那智がチラッと目線だけで俺を見下ろして、空いている方の腕を伸ばすと、古惚けた店を指差したんだ。
 風化しそうなほど寂れてしまった木製の看板は、歳月の風雨に晒されて、今にもボロボロと壊れてしまいそうなほど痛んでいて、漸く読めるのは『Voyage』の文字だった。

「この店がどうしたんだ?」

「入ってみれば判るし?」

「…そうか」

 入れと言われれば、入るしかないだろうな普通は。
 別に特に変わった店、と言うワケでもないんだが…その、雰囲気が、確かにニヤニヤ嬉しそうに笑っている那智が贔屓にしているだけあって、雰囲気があまりにもやばそうだったんだ。
 チンケなコソ泥の勘、とでも言えばいいのか、取り敢えず、ここはヤバイから逃げろと、俺の脳内の警鐘は喧しいぐらいがなりたてている。
 それでも、ウキウキしたように俺の腕を引いて那智が行くのなら、こんなクソッタレで禄でもない町から唯一、腕を差し伸ばして救い上げてくれた那智が行くのなら、俺だって行かないワケにはいかないだろう。
 ゴクッと、息を呑んで重い足を引き摺るようにして、那智が開けた木製の扉から中に入ってみたんだ。

「いらっしゃい、悪いけどまだ…って、なんだ、那智か」

「何だってのは何だ。スピカは酷いしー」

「あっははは!遅刻寸前のあんたに言われたかないわよ」

 気さくに名前を呼び合う仲なのか、退廃した町に良く似合う、気だるげな美女はぽってりした可愛らしい唇を尖らせて、それでもクスクスと笑っている。

「遅刻寸前?何か約束でもあったんじゃ…」

「あら?可愛い連れね。この子が噂の『ぽち』ちゃん?」

「あー、まあ、そう」

 いつもより歯切れが悪く頷いた薄ら笑いのネゴシエーターに、黒のエプロンを差し出したスピカと言う美女に気を取られてる間に、那智はコートを脱ぐとそのエプロンを身につけたんだ。
 何をしてるんだ?
 思わず動揺したって罰なんか当たりゃしないとは思うんだが、それでも俺は、目を白黒させてそんな、気だるげな美人のスピカと、漆黒のエプロンに派手なTシャツ、古惚けたジーンズ姿のネゴシエーターを交互に見遣るぐらいしかできなかった。

「どうってことない、どこにでもいそうなワンちゃんねぇ」

「んなのは勝手だし?それよりスピカ、開店までまだ時間あるぜ~?取立て行ったら??」

 気のない薄ら笑いの那智はカウンターの向こう側に入り込むと、シンクに煙草の灰を捨てる、どうもかなり行儀が悪いらしいスピカを追い出そうとでもするように肩で押しやると神経質そうにジャブジャブと水で手を洗い始めたんだ。
 どうも、あのアンティークな砂岩色のビルでよく見掛けるその行為から、那智のヤツは本格的な料理を始めるようだ…けど、なぜ?
 呆気に取られてポカンとしていると、煙草を指先で挟んだままの手で、取れかけた緩やかなパーマの髪を掻き揚げるようにして、面倒臭そうにカウンターから追い出された豊満なボディのスピカは、そんな俺に気付くと、面白い玩具でも見るような見定めるような、強かな目付きをしてクスッと鼻先で笑いやがったんだ。
 だから俺も、思わずムッとするしかなかったと、思うんだけど。

「何が起こったのかちっとも判らない…ってツラしてんのね。那智さえ良ければ、この子はあたしがお世話してもいいんだけどなぁ♪」

「ダメ、スピカはお呼びじゃねっての」

「んま!酷い言われようね。…でも、那智がそこまで肩入れしてるのなら、そうね。あたしはお呼びじゃないわ」

 スピカは鼻先でクスクス笑うと、面倒臭そうに髪を掻き揚げてふらふらと渋みのある木製のドアからクソッタレで碌でもない町に、まるで無頓着に出て行った。
 ど、どう言う事なんだ?
 いや、それよりもまずはだ、あのふらふらしてる美人をこんなクソッタレな町に放り出してもいいのか!?

「那智!彼女、出て行ったけど…大丈夫なのか!?」

「はーん?タオのメンバーの中でも凄腕のスピカが外を歩いたからってさぁ、襲い掛かるのは潜りの余所者ってワケ」

 それにオレ、別にソイツらが殺られたって興味ねーし…と、何故か不気味なほど嬉しそうにニヤニヤ笑いながら仕込みに勤しむ那智に絶句しながらも、それでも俺は、オロオロとそんな那智とスピカの出て行った木製のドアを交互に見詰めてしまった。

「説明が欲しいんだけどよ…」

 そりゃ、そうだろ。
 いきなり散歩に連れ出されて、いきなりヘンな店に連れ込まれて、その店の(どうやら)女主人らしいヤツはふらふら出て行くし、俺の飼い主様は至福の顔をして仕込みに勤しんでるんだ、誰かこの状況を説明してくれと、叫び出さないだけ天晴れだと思ってくれ。

「はーん?まぁ、簡単に言えばさぁ…バイトしてるんだ」

「…は?」

 はい?
 それこそ『タオ』でも最強と謳われる、泣く子も黙る浅羽那智様が…こともあろうにバイトだと?
 恐らく、金も物資もうざるほど持ってるに違いない、あの浅羽那智が…バイト?
 誰か、悪い夢だと言って起こしてくれ。

「そうやってまた、俺を騙すんだろ?騙されてやらないからな」

 思わず青褪めてその場にぶっ倒れそうになりながらも、いや、ちょっと待て、これは那智特有の悪い冗談に違いないと思い至った俺は、ちょっとムッとしたように眉を寄せて言ってやったんだけど、俺の飼い主様は平然としたニヤニヤ笑いで肩なんか竦めて下さった。

「はぁ?どーしてオレがぽちを騙すワケ??」

「…」

 ああ、そうだ。
 那智は今までで俺を騙したことなんか一度もない。
 却って、俺に騙されてるぐらいなんだから、この一番有害なはずなのに無害な姿でジャガイモの皮を剥いているこの『タオ』最強のネゴシエーターは、本気で自分はバイトをしているのだとゲロってるんだ。
 許されるなら俺は、その場にガックリと跪きたくなっていた。

「…うん、まぁ、そう言うことにしてだ。どうしてアンタともあろうヤツがバイトなんかしてるんだ?」

「んー?ぽちの餌代稼ぎ」

「え?」

 突然、話題の中心が自分になって、俺は動揺したように那智を見上げた。
 件の飼い主様は、鼻歌なんか歌いながら、綺麗に剥いたジャガイモをシンクに置いてあるザルの中に投げ込んで、返す手でニンジンを掴んだりしやがるから、相変わらずあの砂岩色のビルで見慣れた光景に、雨にずぶ濡れで紙袋を抱えて帰ってくる那智の姿がオーバーラップして、俺は眩暈がしていた。
 俺の…ためだって言うのか?
 そんな、馬鹿な。

「だって、アンタは凄腕のネゴシエーターだから…わざわざ餌代なんか稼がなくても」

「そうも言ってらんないんだよね。だって、オレは人間喰っときゃ生き長らえるけどさぁ。ぽちは違うでしょ?飯を喰わないと死んじまう。それは嫌だし~」

 那智はニヤニヤ笑いながら、スライサーで綺麗にニンジンを裸に剥いていく。
 そのこなれた手付きを見ていると、どうやら随分と長いこと、調理に携わっていた経験があるように思える。
 ああ、なるほど。
 こうしてバイトしながら那智は、蛍都と一緒に生きてきたんだろう。

「嘘だな。アンタの手付きは昨日今日のモノじゃない…蛍都のためなんだろ?」

「蛍都?いやぁ??アイツはなんでも自分で喰うよ。たまにはオレも作るけどさぁ、オレの作る飯は不味いっつって、だいたいここに来てたみたいだし」

「…」

 那智の飯は旨い。
 きっと毎日食べていたに違いない蛍都に、俺は少なからず嫉妬していた。それなのに、当の蛍都は那智の飯を不味いと言って、外に出ていたって言うんだから…自己嫌悪だ。

「オレがさぁ、持って帰ってた材料とかガスボンベとか…出所はココってワケ」

「あ、ああ。そうだったのか」

「ぽちが可愛い顔して知りたいってさぁ、珍しく付いて回ってたし?だから連れて来た。ストレス発散できたか??」

 ニヤァ~ッと笑う顔さえなけりゃ、ああ、那智は俺のことをちゃんと考えてくれていたのかと感動もできるんだけど、いまいち、その顔があるばっかりに感動が半減しちまう。

「う…まぁな!」

 …つって、本当はかなり照れているんだが。
 那智はまるで、遠い昔に義母さんが読んでくれた絵本に出てきた魔法使いみたいだ。
 魔法の杖を一振りすれば、あら不思議、望んだものは思いのまま…そんなこと、あるはずがないと知ってしまった汚れた俺が、こんなことを言うのもなんなんだけど。

「やっぱり、魔法なんかないんだな」

「魔法~??ぽちは面白いこと言うんだなぁ」

 はっは…っと瞼を閉じる、あの独特の笑い方をする那智を見詰めながら、俺は心から思っていた。

「ああ、魔法なんかない。いつだって、望むものは努力しないと手に入らないって判ったんだ」

「へぇ?」

 アンタでさえ、俺のために無駄に身体を動かして何かを勝ち得ている。
 俺は、ずっと、強くさえあればなんだって願いは叶うと思っていたんだ。
 でも、そうじゃない。
 そうじゃないことを、たった今、俺はアンタに教えてもらった。
 誰もが恐れる浅羽那智…それがアンタの素顔であるはずなのに、俺は…
 俺は…那智が好きだ。
 そんな那智を、好きだと思う。
 許されない想いに唇を噛んだ。
 苦い味がパッと、胸の奥に広がっていた。

 どうか…言葉に惑わされないでください。
 どうか…この胸の奥に蹲る想いを感じてください。
 どうか…忘れないでください。
 どうか…僕を傍に置いてください。
 どうか…

13.過去からの  -Crimson Hearts-

 公園は壊れかけたブランコがポツンとあるぐらいで、他には公園らしいものなんて何もなかった。
 と言うよりも寧ろ、そこは広大な植物園…とでも言えば、思うよりシックリくるような気がするんだけど…なんとも言えないな。
 那智はどうも、暇さえあればこの公園もどきに足を運んでいるのか、歩き慣れた様子で闊歩する姿が獰猛な野生の肉食獣が、本来在るべき姿に戻って伸び伸びしているような一瞬の錯覚を垣間見せていた。
 俺の腕を掴んだままで、嬉しそうに見えるのは気のせいなのか…どちらにしても、今の俺はそんな那智に従順に従う犬でしかないんだろう。12.てのひら  -Crimson Hearts-

「ここはさぁ…もともと、大きな会社があった場所で、ちょうどこの辺りは植物園だったらしーぜ~」

 不意に正面を向いたままで那智が、物珍しさにキョロキョロしている俺に、そんなトリビアを披露してくれたりするから、面食らったままでポカンッと見上げてしまえば、俺の主人はどうでも良さそうに肩なんか竦めやがった。

「そのなれの果てってヤツか?」

「…ってワケでもねーんじゃねーか?よく、知らねーんだよなぁ。つーか、これは蛍都の受け売りってヤツさー」

「…へえ」

 そうか、ここはもしかしたら、那智と蛍都の思い出の場所か何かなのかもな。
 んな、野暮なことを聞けるほど、俺の心臓はまだ頑丈じゃないらしい。

「蛍都はここが嫌いなんだってさぁ。だから、オレはこの場所が好き」

「え?」

 ふと、違和感を覚えて顔を上げてみたんだけど、今にも雫を零そうとしているような曇天の空をバックに、那智は脱色し過ぎて痛んでしまった黄褐色の髪を鬱陶しそうに掻き揚げながら、口元に微妙な笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。
 違和感は胸の奥で蟠ってくれず、どうも、早急に答えとして弾き出たいようだ。

「…那智は、もしかしたら蛍都が嫌いなのか?」

 いや、勿論そんなはずはない。
 俺は何を言ってるんだ。

「いや、悪い。そんなはずがあるワケないな。蛍都は那智の恋人なんだから」

 こうして腕を掴んでいるのは、本当は蛍都でなければならないのに、その言葉はきっと、この穏やかな関係に慣れ親しんでしまった俺の…嫉妬なんだろうなぁ。
 気恥ずかしくて、バツが悪そうに苦笑したら、那智は口許に相変わらず微妙な笑みを浮かべたままで、ポカンッとそんな俺を見下ろしてくるから、ますます居た堪れなくなっちまうんだけども。

「どうして、そう思ったんだぁ?鉄虎もベントレさまも、そんなこと言ったことないし。なぁ?」

 那智の口から出てくる知人はいつも鉄虎かベントレーだから、無類の殺人好きには友達と呼べる人間が少ないんだなぁと思った。
 まあ、こんなクソッタレな禄でもない街で、友達もクソもないんだけどな。

「いや、なんとなくだけど。いつも、那智は蛍都のことを話すとき、複雑そうな顔をしてるからさ」

 まさか突っ込まれるとは思ってもいなかったから、俺はシドロモドロで弁明をする羽目になった。これからは、できるだけ無駄口は叩かないでおこうと思う、うん。

「ぽちはー…可愛いだけじゃなくて、たまにドキッとするほど鋭いしー、でも、残念。ブー、ハズレ~」

「はは、やっぱりな」

 そりゃ、そうだ。
 ベントレーだって言っていたじゃないか、那智は蛍都を宝物のように大事にしてるって。
 心の底から惚れてるように見えて、毎日セックスしてたような関係なのにさ、俺はどうかしてるよ。

「蛍都のことは好きだし?」

 口許に浮かべた薄ら笑いに感情は読み取れなかったけど、ふと、目線を落としてしまう那智の横顔は、恋焦がれている蛍都のことを思い浮かべているのか、胸をギュッと鷲掴みにされるような錯覚を覚えちまうほど、切なげに見えた。
 ああ、ベントレーの言うとおりだ。
 那智は本当に、蛍都のことが好きなんだなぁ。
 俺が割り込める余地なんてこれっぽっちもねーや。
 ま、当たり前か…って俺!いい、今何を考えてたんだ!?

「早く、蛍都が帰ってきたらいいな!」

 照れ臭さを誤魔化すように笑って言ったら、那智のヤツは微かに俯いたままで、目線だけをキロッと向けて薄ら笑いをニヤァッと浮かべたまま肩を竦めるだけで何も言わなかった。
 確りと握り締めているはずの那智の腕が、そんなはずはないのに、唐突に頼りないような気がして、俺はいつかこの腕を放さなければいけない時がくるんだろうと、甘ったれそうになる気持ちにもう一度、改めて言い聞かせるように腕を掴む手に力を込めた。
 那智がそんな俺を訝しそうに見下ろしてきたんだけど…オレンジのパーカー男を見つけ出すのが先か、蛍都が帰ってくるのが先か…どちらにしても、俺はあのアンティークな砂岩色のビルから出て行く決意を固めていたんだ。
 勿論、那智には内緒なんだけどな。
 訝しそうに眉を顰めながらもニヤニヤと笑っている那智を見上げて、俺は仕方なさそうに苦笑していた。
 この気持ちは、那智に悟られてはいけない。
 那智は、それほどまでに想っている蛍都と、きっと幸せになるんだ。
 だから、俺はここにいてはいけない。
 そんなこと、誰かに言われなくてもよく判っている。
 僅かな間でも、幸せな日々をくれた那智に感謝しているんだ。だから、今度は那智が幸せになってくれればと思っているよ。

「あ、そーだ。この先にタオの連中の1人が出してる店があるからさぁ、何か買って来てやるってなぁ?大人しく待ってろよー」

 那智は不意に思いついたように頷いて、それだけ言うと、サッサと手を離して歩き出してしまった。
 慌てて追いかけようとして、どうして俺はそんな行動を起こそうとしたんだと、弱気になりそうな自分に叱咤しながら、大人しく待っていようと思ったんだ。
 腕が離れたぐらいで不安になってどうするんだ。何れ、俺はこのクソッタレな禄でもない灰色の町で死ぬんだから、何を恐れることがあるって言うんだ。
 あの頃の俺なら、きっと逃げ出そうとしていたに違いない。この場所にたった独りで残されて、生き延びられる自信なんかありゃしないからさ。でも、今の俺は違う。
 この場所で、那智が好きだと言うこの場所で死ぬのも悪くないなって思ってるからな。
 ただ、那智の好きな場所で死ぬのは、汚すみたいで忍びないんだけど…

「この公園はさー、タオの私有地なワケよ。だから、死のうと思ってもダメなワケ。ぽち、残念だったなぁ?」

 ぶらぶら歩きながらニヤァッと笑って端的言ってのけた那智は、どうやら、この植物園のなれの果ては『タオ』の持ち物で、タオのメンバーは既に那智のペットのことを承知しているから誰も手を出さない、無論、他所から入り込んでくるヤツもいない、だからお前は死ねないよ…と言いたかったようだ。
 あんまり俺が死にたがっていたから、那智なりに、実は心配してくれているのかと、ヘンに胸の辺りがこそばゆくて何故か、俺は照れてしまっていた。

「判ってるさ。さっさと何か買って来てくれよ。俺、腹がペコペコだ」

「リョーカイ♪犬は素直が一番だ」

 ニタァッと笑いながら行ってしまう那智の不気味な後ろ姿を青褪めたままで見送った後、俺は取り敢えずするべきこともないし、仕方なくこの辺りをフラフラ探索でもすることにした。
 思ったとおり、この場所は公園と言うよりも巨大な植物園のようだ。
 それも、ガラスなんかで覆われた温室型ではなく、開放的な野天式になっている。
 それにしてもたいしたもんだな、酸性の強くなった雨に晒されて、大半は枯れてしまっているけど、それでも頑張って枝をめいいっぱい広げながら生きようとしている植物があるんだ。
 『生きよう』としている植物の姿に、『死ぬこと』ばかり考えている俺は、その力強さに自嘲的に笑うしかなかった。
 それでも、下の方は少しずつ枯れてるんだな…そう思って、俺が名前も知らない植物に手を伸ばしたときだった。
 ハッとした時には遅かったんだ!
 しまった!俺としたことが…那智の傍に居過ぎたせいで、すっかり感覚が鈍っちまった。
 常に命を狙われるような町に暮らして、些細な気配にでさえ敏感だったのに、まんまと背後を取られるなんてどうかしてる。
 気付いた時には羽交い絞めにされて、咽喉許に鋭利なナイフを突き付けられると言う、なんとも絶体絶命的な状況に落ち込んでいた。

「…うッ…く、クソッ!……ッッ」

「…」

 背後から襲いかかってきたソイツは無言で、だから余計に、俺はソイツに殺されるんだろうと観念していた。
 生きることには疲れていたし、この場所で死ぬのならそれも仕方ない…ただ、最後にもう一度だけ、那智に逢いたかった…なんて、どこまでも今の俺は女々しくて甘ったれなんだろう。

「?」

 不意に抵抗していた腕の力を抜いて、俺はスパイクの付いた首輪の上の、脈打つ頚動脈を覆う皮膚にナイフの冷たい感触を感じたままで、観念して瞼を閉じていた。その行動が予想外だったのか、俺を羽交い絞めにしている不審者は、微かに動揺しているようだ。

「…お前!もしかして、ギアか!?」

「え?」

 その時だったんだ、ソイツが、あまりにも懐かしい名前で呼んだのは。ハッと双眸を見開いて、首筋にあるナイフすら忘れて振り返ろうとしたら、ソイツは焦ったようにギラつく兇器を引っ込めると、それから驚くほどの力強さで腕を掴んできた。
 この感触は…ああ、忘れもしない。
 俺を、俺のことを…メカに強いから、『ギア』と呼んでいた懐かしい仲間。
 いや、仲間なんて呼ぶのもおこがましい。

「ぼ、ボス…ッ」

 そうだ、俺がずっと所属していたグループの、紛れもない、今のボスだった。
 俺はケチなコソ泥でしかないけど、先代のボスが惨殺されてから抜擢されたこの現頭領は『タオ』ですら一目置くような、ストリートではそれなりに名の知れたグループを統括している。そこまで伸し上げたのもこのボスだし、最初はチンケなコソ泥集団だったんだけど、何時の間にか、俺の所属していたグループは大きくなっていたっけ。
 たった一人の力…と言っても過言ではないほど、今のボスは強い。
 先代のボスに襤褸切れのように捨てられた俺を、この人は、憐れむでもなく、嫌悪するでもなく、ただ、そう、ただ淡々とした眼差しで見下ろして、自分の場所に来るかと言ってくれた。
 全て、自分の意思で動けと、俺が聞いたそれが、ボスの第一声だった。
 そんなボスと暮らすようになって、どうしてこの人が俺なんかを選んだのかは良く判らないけど、まあ、体の良い小間使いにはちょうど良かったんだろうと思う。
 腕を差し伸べてくれたワケでも、救い出そうとしてくれたワケでもなくて…なんとなく、魂の抜けた抜け殻のようだった俺は、言われるままにボスの後を追っていた。
 そうして、ボスと暮らすようになったんだけど…あの日も、居住を共にすることを許してくれていたボスの遣いで、俺は買い物に出ていた。
 その帰り道に暴漢に襲われて…俺は。
 ああ、拙い!俺、何一つ連絡らしいこともしていなかったッ。
 いや、できれば、このまま出逢わずに逃げ出せていたのなら、それはそれで楽だったのかもしれないんだけど…

「あ、す、スミマセンでした!実は…」

「よかった!お前、無事だったんだな?」

 ボスはそれだけを言うと、感極まったように力強く掴んでいた腕を引き寄せて、抱きしめてくれた。
 その感触は、長いこと身体に染み込んだ習性のように俺の中で忘れもしない、従順と言う言葉を思い出させるのに十分だった。

「心配をさせてしまってスミマセン。俺、買い物の帰り道で…」

「あのまま音信不通になっちまっただろ?心配したんだ。お前は逃げ出すようなヤツだとは思っていなかったからな。何か、もしや殺されたんじゃないかと思っていたんだが…ああ、よかった」

 色気もクソもない俺の黒い髪に頬を摺り寄せるようにして、ボスは抱き締める腕に力を込めて、心底からホッとしたように溜め息すら吐いてくれた。
 日頃は冷静が服を着て歩いているんじゃないかってほど落ち着いていて、何事にも動じないボスには、凡そ人間らしい感情なんか持ち合わせてはいないんじゃないかって、グループのメンバーどもはそんなことをほざいていたけど…俺は知っている、どれほどこのボスが、感情的になるかを。
 生易しい奇麗事なんか吹き飛ばしちまうような、荒々しい気性の持ち主だってことを…

「帰り道でどうした?何かに襲われたのか??」

「はい…油断したせいで、脇腹を刺されました」

「なんだと?」

 ボスは俺が毎日死にたがっていることを知っている、だからこそ、こうして腹を刺されながらも生きて立っている俺の姿に訝しげに眉を顰めたに違いない。
 毎夜、組み敷かれるベッドの中で、ボスの激情に煽られるままに死ねたらいいと、睦言よりも甘ったるく、戯言よりも真摯に囁いていたのを覚えている。
 それでも俺は、やっぱり死ねないでいるんだ。

「怪我をしたのか?お前…今まで何処に…ッ!!」

 ハッとした時には遅かった。
 不意に風を切るような鋭い音を響かせて、俺を掴むボスの腕が吹っ飛ぶんじゃないかって思ったけど、流石はボスだ。寸でのところでサッと腕を引っ込めたから、腕を犠牲にすることはなかった。
 ボスはあくまでも冷静だったけど、軽く突き飛ばされた俺はよろけるようにして、バクバクしている心臓を押さえながら振り返った。
 その場所に突っ立っていたのは…決まってる。
 唯一、口にすることができるコーヒーを2本と在り来たりのジャンクフードを小脇に抱えて、鈍い光を放つ凶悪なほど綺麗な日本刀の柄を掴んで立っているのは、他の誰でもない浅羽那智だ。
 俺に、この場所で待っていろと言い付けて何処かに姿を消していた、俺の今のご主人だ。
 貼り付けたような笑みには誤魔化しきれない、険悪なオーラを身に纏った那智は、全身で『不機嫌です』と物語っている。
 だから余計に、俺の心臓は激しく脈打っている。

「…誰だぁ?オレのぽちに気安く触んなよってなぁ?」

 唇を尖らせて、そのくせ、気安さを求められない笑みを口許に浮かべたままで、那智は唯一口にできるまともな飲料物であるコーヒーの缶を無造作にジャンクフードの納まった紙袋に突っ込むと、それをそのまま俺に投げて寄越したんだ。 どうやら、臨戦態勢に入りたいらしい。
 いかん!それはダメだッ。

「な、那智!この人は違うんだッ。俺の…」

「ぽちの知り合いでも関係ねーよ?オレは、自分のモノに気安く触ってくれた、お礼をしたいだけさ」

「ぽち…だと?それに、アンタは浅羽那智じゃないか。これは、どう言うことなんだ?!」

 ボスが冷静の仮面の裏で動揺しているのが手に取るようによく判る。
 事実、俺だって那智が俺を拾って、そのままずっと飼い続けているのには動揺しまくっているんだ、それは仕方ないことだと思う。

「は、話せば長くなるんですけど…」

「話す必要なんて一切ないし?どうして、ぽちはコイツに懐いてるワケ??」

 ムスッとしているのは、飼い犬が主人である自分よりも、見知らぬ男に尻尾を振っている(ように見えるのは那智だけなんだけど)ことが、どうも随分と気に食わないようだ。
 不機嫌のオーラを纏った漆黒のコートにTシャツ、在り来たりなジーンズと言った出で立ちの那智は、片手に凶悪なほど仄かに発光しているんじゃないかと思わせる、人殺しの武器なのにとても綺麗な日本刀を握り締めて薄ら笑いながらムスッとしている。

「…そうか。お前がタオの連中といるところを見た、と情報があってここに来たんだが。ギアを拾ったのは浅羽那智だったのか」

「はーん?ギアなんてヤツは知らないね。ぽちはくたばり掛けていた野良犬ってだけでさぁ、飼い主がいないんなら、拾ってやるのが当たり前ってなー」

 肩を竦める那智に、相変わらず、平静の仮面を被ったボスは、それでも那智の全身から無造作に溢れ出る殺気のような気配に、明らかに動揺しているんだろう、何度も乾いた唇を舐めながら間合いを取っているようだ。

「野良犬?どう言うことだ。タオの一員である浅羽、アンタなら、俺のことも『L(エッレ)』のことも知らないワケではないだろう。ギアは、ソイツは『L』のボスである俺、スバルの所有物だ」

 タオの頭領、下弦でさえも一目置いている『L』のボスであるスバルは、どうも那智のことを知っているような口振りだ。いや、誰だって、この町に住んでいるヤツなら那智のことを知らないとなるとモグリか逃亡者だって相場は決まっているんだけど、そういう意味じゃなくて、ボスは那智のことを識っているようなんだ。

「はーん…『L』のことも、スバルのことも知ってるけどさぁ、ギアなんてヤツは知らねーし?そもそも、ソイツは人間なんだろー?ぽちは犬だろ。スバルも『L』も関係ねっての」

 鞘から引き抜かれてギラギラと凶悪に輝く刀身の刀背で軽々しく肩なんか叩きながら、どうでもいいんだとでも言いたそうに那智は不機嫌そうな薄ら笑いを浮かべている。

「…ギアは人間だ。勿論、そこにいるソイツも人間だろう?何を言っているんだ」

 訝しそうに眉を顰めたボスと、それでなくても、今にも飛び掛りそうな獰猛な野生の肉食獣のような那智の雰囲気に、ハラハラしてその場に立ち尽くしていた俺は、慌てて2人の間に割り込んでいた。
 いや、割り込んだからと言って何かできるってワケでもないんだが、何か言わないと大変なことが起こりそうな気がしていたんだ。

「ボス!俺は、今は浅羽那智に飼われている犬なんです。どう言うワケで俺が犬に見えるのか判らないんですが、取り敢えず、今は那智の犬なんです。俺は…『L』に帰ることはできないと思います」

 那智が帰れと言うのなら、いや、蛍都が退院してきたとしても、俺は『L』に、ボスの許に戻る気はなかった。
 だって俺は、那智に触れてしまったから。
 見返りもなく、傍に置いてくれる、温かくて優しい…人殺しなのに冗談じゃないって笑えるんだけど、それでも、掛け替えのない優しさを知ってしまったから、ボスの許には戻れない。いや、戻りたくない。
 身体を差し出す代わりに得られる安住?…そんなのもう、クソ食らえだ。
 ボスにはきっと、判りはしないだろうけど。

「何を言っているんだ、ギア。浅羽はお前を馬鹿にしているんじゃないのか?犬だと??どう言う了見だ」

 ボスが、あれほど冷静だったボスが、不意にギッと双眸に殺意を滾らせて、軽々しく笑いながら一部の隙も見せない、戦闘のスペシャリストと言っても過言にはならないだろう那智と、あの浅羽那智と、対峙するんだから…やっぱり、ボスはすげーと思っちまう。
 最後の台詞が自分に向けられたと気付いているのかいないのか、どちらにしても、どうやら自分の大事な飼い犬を横取りされそうになっていることにだけは敏感に感じ取ったのか、那智は不機嫌に殺意のオブラートを纏って狩りをする態勢に入ったようだった。
 ああ、だからそれはダメだって!

「ば、馬鹿になんかされてないんですよ、ボス!どう言うワケか、那智には俺が、本当にモノを言う犬に見えてるんです。それに、那智は俺にとっては命の恩人なんです。だから、彼が飽きるまで何処にも行くつもりはありません」

 ハッキリと言い切ったんだけど、蛍都が帰ってくるまで…ってのも、ちゃんと言っておくべきだったかなと思いはしたものの、それ以上は何も言わなかった、と言うか、言えなかった。

「…さっすが、オレのぽち!飼い犬はお利口さんが一番だよなぁ?今日はローストビーフのご馳走かなぁ」

 それまで、あれほど殺気を撒き散らしていた那智のヤツが、一気に殺意をかなぐり捨てたのか、嬉しそうにニタァッと笑って背後から抱きついたりするから、出掛かった言葉だって咽喉の奥に引っ込んじまうよ。

「だいたいさぁ、ぽち嫌がってるんだし。空気読めよ」

「…!」

 グッと息を呑んだボスに、那智は薄ら笑いを張り付かせた表情のままで、冷え冷えとする眼光で『L』のボスを睨み据えたんだ。

「今は殺してやらない。でも…この次はねーかもなぁー?そう言うこと、ちゃんと理解して帰ればいいんじゃね?」

 那智の吐き捨てるような台詞なんか、もう聞いてはいなかったんだろう。
 ボスは、まるで食い入るように、俺の真意を見極めようとでもするようにマジマジと凝視していたけど、応える術を持っていない俺が居た堪れなくて目線を伏せると、何かを感じ取ったのか、それとも、勝手に都合よく解釈したのか、何れにせよボスは、左手の中に何かを握り締めたままでゆっくりと間合いを取りながら、じわじわと後退を始めていた。
 その立ち去り際にハッキリと言い残して行ったんだけど。

「ギア、お前はきっと後悔する」

「ボス…」

「後悔?ナニ言ってんだか判んねっての。とっとと失せろよ」

 それがいったい何を意味するのか俺には判らなかったけど、那智には何か理解できたのか、片手で俺を抱き締めたままで一気に興味が失せたのか、肩を竦めながらどうでもいいことのように吐き捨てたんだ。
 植物園もどきの公園から完全にボスの気配が消えて、俺はどうして、あの時差し伸ばされたボスの腕を掴まなかったんだろうと、目線を伏せて自嘲的に笑うしかなかった。
 那智には蛍都がいる。
 俺の存在は、いつかきっと那智に迷惑をかけちまうんだろう。
 その時…ああ、そうだ。
 ボスが言うとおりに俺は、きっと後悔するに違いない。

「アイツ…スバルってさぁ、もともとタオの一員なんだぜ」

「ボスがタオの一員だって!?」

 唐突に那智のヤツがそんなことを言い出したりするから、思わずギョッとして見上げたら、那智のヤツはフンッと鼻を鳴らしてどうでもよさそうだ。
 いや、那智にしてみたら全てがどうでもいいことなんだろうけど…

「じゃないと、『L』のボスになんかなれるかっての。大方、下弦が何かを命じでもしたんじゃね?あの古狸の遣りそうなことだし。まあ、今日は新発見だったけどなー」

「は?」

「ぽちがさぁ、『L』なんて言う下らねー組織のメンバーで『ギア』って名前だったってこと」

「コソ泥だって、言っただろ?それにギアって言うのは通り名で本当の名前は…」

「はーん?『L』はコソ泥集団じゃないし?ま、名前とかどうでもいいんだけどさぁ」

 だって、ぽちはぽちだしーと、那智らしい気だるげな口調で不機嫌そうにそう言ってから、漆黒の外套に身を包んだ、派手なTシャツにジーンズ姿と言うスパンキーなネゴシエーターはニヤニヤと薄ら笑いながら身体を離した。そこで漸く俺は、ずっと那智が抱き締めていたことに気付いたんだ。
 壊れた人形みたいにボスに抱かれていたあの頃でさえ、夜以外の時に触れられると鳥肌が立って、息ができなくなっていたのに…俺は、那智だけには免疫があるようだ。
 それはたぶん、那智にセクシャルなモノを感じないからだろう。
 たとえ、蛍都と毎晩抱き合って寝ていると聞いたとしても、どうしても、それが信じられないぐらい浅羽那智はストイックなハンサムなんだよ。
 でも、なるほど。
 ちゃんと、ボスの台詞は聞いていたんだな。俺のことを野良犬だと言いながらも、ちゃんと『ギア』と言う名があったことをは認めてくれたんだ。

「そんな…じゃあ、もしかしたら。7年前のあの事件は…」

「あぁ?…あー、そう言えば。確かスバルが潜り込んだコソ泥集団がいたっけなぁ?そこのお山の大将が証人で、生きたまま捕まえろとか命じられてたっけ」

「え!?じゃあ、ボスはネゴシエーターだったのか!?」

「だった、じゃない。今も、ネゴシエーター」

 初耳だった。
 物言わぬ影のように静かで、そのくせ絶大な存在感でグループの連中に慕われていたスバルと言う青年は、あのクソッタレの頭領が死んでから、すぐに次のボスの座に君臨したんだけど、誰もがそれに否は唱えなかったし、却って大歓迎だった。
 そのボスが、俺たちが憎んでいる集団の一員だったなんて。
 そりゃあ、『タオ』は魅力的だし、誰もが憧れていたから一員になりたいと思っていたさ。
 でも、根本のところでは、仲間をメンバーの一員にしてやると甘い言葉で誘っては、集団で弄り殺すだけが目的だと知っていたから、そんな最強ファミリーに憧れながらも俺たちのような下っ端は、『タオ』と言うこの町の巨大組織を憎んでいた。
 その話は、もちろん、タオの連中に知られるワケにはいかなかったから、密やかにグループ内でだけ話していた。その輪の中に、スバルもいたのに…ボスは、何も言わずに、那智とはまた違った静かな笑みを浮かべたままで黙って聞いていたっけ。
 どんな思いで聞いていたんだ?
 クソッ!

「大方、俺たち雑魚がほざいてろとでも思ってたんだろうな」

「ぽちは雑魚じゃないぜ~?」

「…あぁ?」

「犬でしょ?ワン!ってさぁー」

 思わずその場に蹲りたくなったものの、それでも俺は、屈託なく、ニヤニヤ笑っている最強のネゴシエーターに、仕方なくボディブローを食らわせるしかなかった。
 もちろん、悪乗りをする那智は素直にボディブローを食らいながらも、ニヤァッと笑って楽しそうだ。
 確かにだ、ヒットなんかしてるワケじゃないんだろうけど、少しぐらい痛そうな顔をしてくれよ。
 だがまあ、このタオが支配する(していない場所なんてもう、この街の何処にもないんだけど)所有地で、組織の頂点に立つ『下弦』ですら一目置いている、お客さんネゴシエーターに平気でボディブローなんか食らわせることができるのは、恐らく、鉄虎やベントレー、そして蛍都ぐらいだろうと思う。
 そんな錚々たるメンバーの末席にでも名を連ねることを許されるのだとしたら、それはそれだけでもいいんじゃねーのかと思ってしまう辺り、俺もこのクソッタレな禄でもない世界に順応しちまったと言うワケか。
 那智の傍にいることは心地いい。
 だけど、俺はあくまで犬でしかない。
 犬は従順に従わなければ捨てられる…友人や、肉親や、仲間や、恋人のような確信は何一つない。
 言われなくても判っているよ、ボス。
 きっと俺は、後悔する。

 …だけどな、ボス。
 俺だって大人しく後悔ばかりするワケじゃないんだ。
 人間なんだから考えて、ちゃんと行動してみせるさ。
 それまでの僅かな間、俺はこの幻のような甘ったれた生活を満喫してるだけなんだ。
 そう、ちゃんと判っている。
 ここは俺のいる場所じゃない。

 縋り付く指先に未来を見ていた。
 迷信に揺れる双眸を瞬かせて。
 世界が回る。
 まるで無頓着に。
 全てを信じる余裕さえないのに。
 呆然と立ち尽くす、僕がいる。

12.てのひら  -Crimson Hearts-

 那智に連れられて行った古惚けた灰色の病院は、どこか物悲しくて、俯き加減の入院患者や冷めた目をした看護婦、遽しく怯えているような医者以外に眼を惹くものなど何もなかった。
 こんな鬱陶しい場所でいったいどれだけ長いこと、蛍都はくすんだ個室に閉じ込められているんだろう。
 それを考えるだけでも、彼の置かれている状況の不安定さが浮き彫りされるようで、那智のヤツに悪態のひとつでも吐きたくなったとしても、それは仕方ないように思えてきた。
 看護婦は一瞬、壮絶にムッとしながらニヤニヤと笑っている那智のツラに怯えたようだったけど、(それは誰だって怯えるけど)それでも面倒臭そうに綺麗な細い眉を顰めて胡散臭そうに黒コートの男を見上げて言い放ったんだ。

「何度も言ってるじゃないですか。蛍都さんは月曜日以外は面会謝絶。何故ならそれは、リハビリを集中的に行っていてお疲れだからですよ」

 カルテか何か、もしかしたら医師の指示書なのか、取り敢えず何かを挟んでいるバインダーを大事そうに胸に抱えた、目許に泣き黒子のあるキツイ印象の美人な看護婦は、その表情のまま冷たくあしらった。
 それで怯んでいたら、この場所に浅羽那智なんて言う、凄腕のネゴシエーターは存在していなかったと思う。
 那智はムスーッと、歩道で見れば即死ものの仏頂面で笑ったまま下唇を突き出すと、陰険そうな美人の看護婦の顔を覗き込みながら、あの独特の口調で食って掛かった。

「別にさぁ、蛍都が疲れてようがオレには関係ないし?だから逢う、それだけなのに止めるワケ?」

「凄んでもダメですよ。先生から許可がない限りは、たとえ浅羽さん、貴方でも蛍都さんに逢わせる訳にはいかないんです」

 こんな荒んでぶっ壊れてしまったろくでもない町の看護婦だ、少々の荒くれ者どもの凄味にいちいち反応していたら身体が持たないんだろう。天晴れと言うかなんと言うか、女だってのに看護婦さんは呆れるぐらい那智を相手にしていない。
 どうやらその看護婦と那智は顔見知りのようで、蛍都が入院した当初から、もう随分と遣り合っているってのが手に取るように判ったってのはよく判る。
 ああ、だからベントレーが「そら見ろ」ってな顔してるんだな。
 見ものだとかなんだとか言いながら、本当は最初から会えないことを知っていたんだろう。
 腕を掴まれたままじゃ何とも言えない俺は、背後で何が面白いのか、ニヤニヤ笑ってるベントレーをチラッと肩越しに振り返ったら、ヤツは肩を竦めて今の状況を楽しんでいるようだった。
 …ったく、止めないとそのうち那智のことだ、いきなり殺しちまうかもしれないじゃないか。
 でも俺のそんな心配は杞憂に過ぎず、百戦錬磨の看護婦でも一瞬は怯えた那智の眼光に、それでも怯まなかったナイスバディの陰険そうなおねえちゃん看護婦は、ペンの先で頭を掻きながらシレッとした顔をして言ったんだ。

「何度来られても返事は一緒、面会謝絶ですよ。逢いたいのなら、また月曜日にお越し下さい。では、失礼します」

「って、ちょっとまだ話が…ッ」

「…もう、それぐらいにしておけよ、那智。看護婦さん、困ってるじゃないか」

「アレのどこが困ってるって?ちっくしょー、また断られちまった」

 それがいったい何度目なのか判らないけど、それでも、その台詞からあの看護婦が相当手強い存在であることは確かなようだ。
 どーせ利かん気を出してそのまま看護婦は無視でヅカヅカと病室にでも行くんだろうと、ちょっとばかし高を括っていたってのに、那智はしょんぼりしたように口許に例のニヤニヤ笑いを貼り付けて、迷子になった犬のように途方に暮れた目をして俺を見下ろしてきたんだ。

「どうしよう?」

「どうしよう…って、このまま散歩して帰るべきだと思うけど」

 いつもの那智だったら絶対に唯我独尊であるはずなのに、今日の那智は看護婦に牽制されたぐらいで凹んで沈んでるんだ。呆気に取られてポカンとしたまま、動揺しながら返事をするしかない俺が居てもおかしくないと思うんだけどな。
 そこで笑っているベントレーに押し付けちまうぞ、この野郎。

「…今度の月曜日かぁ。つまんねーの!来週末には蛍都も帰ってくるしなぁ?意味ないっての」

「来週末に帰ってくるんだし、月曜もあるんだろ?いいんじゃないのか??」

「…ぽちはさぁ、ホンットに可愛いだけで無防備だよなぁ!」

「はぁ?」

 しょんぼりした那智の怒りの矛先が俺に向いたようだったけど、なんだってそんなことぐらいで怒られなきゃならないんだよ?蛍都とは来週末に会えるんだし、それ以前に来週の月曜日に会えばいいんじゃないか。

「月曜に逢えなかったらどうするんだぁ?来週末には蛍都は帰ってくるんだぜー?」

「別に…いいんじゃないのか?」

「だから無防備って言ってるんだって!」

「??」

 握ってる手に更に力を込めて握り締められれば、確かに那智の怒りってのが良く伝わってくるけど、それだってどうしてそんなに怒っているのかよく判らないんだ。
 いったい、なんだって言うんだ?

「蛍都はさぁ、気に入らないヤツは見境なく殺っちまうしぃー、なぁ?」

「へ?…ああ、それで怒ったのか」

 なんだ、そんなことだったのか。
 じゃあ、話は早いじゃないか。

「それなら大丈夫だ」

 何がだよ?とでも言いたそうに眉間に皺を寄せて見下ろしてくる那智を見上げると、その背後でベントレーが面白そうに高見の見物と洒落込みながら、それでも俺が何を言い出すのか興味津々と言った感じで俺たちを見守っている。

「だって、那智がいるんだろ?さっき、言ってたじゃないか。俺を手離す気はないってさ。だったら、飼い主なんだから殺されないように守ってくれるんだろ?」

 そんなことぐらいで怒るなよって言って首を傾げて笑ってやったら、那智のヤツは眉間に皺を寄せたまま口許には笑みを浮かべるって言う、いつものあの妙ちくりんな表情のまま一瞬、確かに一瞬だけ凍り付いたようになったんだ。
 どうしたって言うんだ?
 訝しげに眉を寄せて首を傾げている俺の前で、那智が凍りついたのとほぼ同時にブーッと思わず息を吐き出したベントレーが、一瞬呆気に取られたような顔をしたが、それでも唐突に腹を抱えて笑い出したんだ!

「な、なんだよ、ベントレー!?」

「なんだもクソもねぇっての!こいつぁいいやッ。戻ってから鉄虎に話すネタができた♪」

「はぁ?何言ってんだよ!?…っつーか、那智も何をボゥッとしてるんだ?」

 ベントレーにあからさまにからかわれてるって言うのによ。

「え?ああ、別にベントレさまなんかどうでもいーよ」

「あんだと、ゴルァァ!!」

 あっさりと相手にされずにベントレーはなんだかムカツイたのか、ムキッと薬でやられたんだろうボロボロの歯をガチガチと鳴らして中指を立てている。すると、カルテを持って忙しなく歩いてきた年配の看護婦さんからギロッと睨まれて、「院内ではお静かに願いますよ!」と言われてちょっとたじろいだようだ。スンマセンと顎を突き出すようにして頭を下げてるから、俺の方が今度は笑ってしまったじゃないか。

「…なんだ、そっかぁ」

 ふと、ニヤニヤしていた那智がニヤァッと笑って俺を見下ろすと、ふふんっと嬉しそうに掴んだ手を上下に振って鼻歌なんか歌いやがるから、力いっぱい振り回されている俺としてはどんな対応をしていいのか判らない。

「な、なんだよ!?」

「そうだよなぁ?別に黙って蛍都に殺らせてる必要なんてないんだし?オレはぽちの飼い主なんだから、ぽちの命はオレのモノだよなぁ」

 とうとう両方とも手を掴まれてしまって、ハッキリ言ってブンブンと病院内で腕を振り回されている俺も振り回している那智の姿も充分人目を引くし、どうかしてると思われるぞ。いや、那智は確かにどうかしているけれども、俺までそんな目で見られるじゃないかー!!…って、ん?そうか、那智は俺の主人なんだから、那智がおかしく見られるのなら俺だっておかしく見られるのか?だったら、仕方ないのか。

「納得してるなよ、そこ!それに、思ってることが口から出てるぞ」

「へ?あ、そうだったか??」

「はぁ…那智が那智ならぽちもぽちか。まあ、案外お前たちっていいコンビなのかもな」

 やれやれとベントレーが「心配して損したぜ」と溜め息を吐きながら首を左右に振る傍らで、それこそ鼻歌を続行しそうな那智は邪悪な笑みに更に磨きをかけて、それでも目を白黒させている俺の掴んだ手をグイッと引っ張って引き寄せると真上から覗き込んできたんだ。

「ぽちはいいこと言うなぁ?一緒にいたいよなー??」

「へ?あ、ああ、そうだな。でも、蛍都が嫌がるんだったらやめておけよ。アンタにとってはとても大切な人なんだからさ、嫌がることはやめておかないと」

「ったく、ぽちはあったま悪いよな?蛍都はオレの嫌がることをしてるんだし?たまには蛍都だって嫌なことされないと判らないんだって」

 もう、別に凹んでもいない那智は、どうやら自分の中に渦巻いていた謎に答えが見つかったのか、ニヤニヤ笑いながらギュッと手を繋いだままで、呆れ果てて開いた口が塞がりませんとでも言いたそうなベントレーに振り返って宣言したんだ。

「よし!今日は気分がいいからぽちはこのまま散歩でも行くよなぁ?ベントレさまはどうしたいワケ?」

「俺はいーよ。今日は鉄虎が珍しく家にいるからさ。土産持って帰る」

「ベントレさまはホンットに鉄虎が好きなんだなー」

 那智が悪気がないようにニヤニヤ笑いながらそんなことを言うと、ベントレーは顔を真っ赤にしてクワッと目を見開くと、ボロボロの歯をガチガチ鳴らして食って掛かるんだ。

「う、うるせーな!仕方ねーだろ、鉄虎は俺の保護者なんだからよぉッ」

 そんな風にしてると照れてるのがバッチリ判るんだけどなぁ、当のベントレーは全く気付いていないようだし、口にした那智ですらよく判ってないみたいだ。

「はーん?まあ、別にどうでもいいし?じゃあ、鉄虎に例の証人のことで話があるって伝えといてくれ」

「…!何か判ったのか?」

「まーねー、殺した分はきっちりカタ付ければいいんだろ?」

「ハッ!それでこそ那智って言っておいてやるよ。んじゃ、ぽち。気を付けて帰れよ」

「帰るんじゃない。散歩だっつってんだろ」

「へーへー」

 いちいち言い直しをさせる那智の上機嫌っぷりに肩を竦めて呆れたベントレーは、それでもちょっと嬉しそうに片方の頬を歪めてニヤッと笑ったんだ。
 その顔は、「まあ、なんかイロイロあるけど一応一件落着でよかったな。今後はどうなっても知らんがな」と言う気持ちをふんだんに染み込ませた複雑なものではあったけれど、それでも俺は、「まあな」とそれに応えて瞼を軽く閉じて開いて見せた。
 肩を竦めたベントレーは首を傾げるような素振りを見せて、那智に手を振るとそのまま別れを告げて病院から灰色の町に出て行ってしまった。

「…ベントレー、行っちまったな。んで、これからどこに行くんだ?」

「んー、ゆっくり町でも歩いてみる?だってさぁ、ぽちはこの町をゆっくり見て回ったこととかないんだろー?」

「まあ…ね。いつも、いつ殺されるかってビクビクしてたからな。ゆっくり、空を見上げることもないよ」

 生まれてから、両親が死んで、この町に住んでいた養父母に引き取られてから、もうずっとだなぁ。
 別に、それを不幸だなんて思ったことはないけど、俺を養ってくれた父さんや母さん、それに紫苑にしてみれば俺が来たことは不幸だったかもしれないけど…

「まぁた、暗くなってるしー」

「え?」

「パッと気分を切り替えればいいワケよ。お散歩してるワケだし?犬にはそれが一番だって」

 那智はそう言うなり、黒いコートの裾を翻して俺と手を繋いだままで憂鬱な病院を後にした。
 なんだか、済し崩しで散歩に出かけることになったワケなんだけども、俺は那智に言われるまでちっとも気付かなかったんだ。
 この町のことを…そんなにゆっくり散策したことなんて正直言って全くない。
 ゆっくり散歩しようなんて、考えたこともないんだ。
 このクソッタレなろくでもない町を、歩き回ったって命を狙われるぐらいで、その恐怖にビクビクしながら散歩しようなんて気持ちはこれっぽっちも起こらない。それどころか、どうやったら盗みに入れるのか、どうやったらうまく逃げられるのか、逃げるための抜け道はどこにある?…とか、そんなことばかり考えながら生きてきたのに、こんな風に誰かと一緒に歩くことがあるなんて思いもしなかった。
 死ぬ恐怖に怯えることもなく、確りと手を掴んでくれている人が傍らにいるなんて…ああ、こんな気持ち、初めてだ。
 雨ばかり降ってて、灰色に濡れた町はいつだって物寂しくて、膝を抱えて嵐が過ぎるのを待つように
 誰かが殺されるのを耳を塞いで過ごした夜もある。
 養父母がいなくなって、妹と2人、俺に失うものなんて何もないって思っていても、ヘンなプライドだけは残っているから、男に連れ込まれそうになっても従うこともできずに、ひもじい思いの方を取って逃げ出した俺を、妹が許してくれるはずなんてないのに。
 それなのに、俺だけこうして那智に守られているのか?
 こんなのは、おかしい。
 こんなのは、おかしいんだ。

「…那智」

「んー?ここを曲がるとさぁ、公園に出るワケよ。今日は曇ってるし、雨が降らないから少しはマシじゃね?」

 ニヤニヤ笑いながら前を向いたままで話す那智を見上げたら、絶対的な力を持つ者だけが見せる自信に溢れた顔をして迷うことなく歩いている。
 その行く手を遮るものなんか、きっとないんだろうなぁ…
 ああ、力が欲しかったなぁ。
 どうせ男に抱かれるんだったのなら、どうしてあの時、そうして金を作らなかったんだろう。
 そうしたら妹が死ぬこともなかったし、頭領に会うことだってなかったかもしれないのに…

「暗いなぁ。少しは周りを見てみたら?ほら」

 そう言ってピタリと足を止めた那智は俯きがちになる俺の顎を捉えると、ハッとした時にはグイッと上げて俺の目を覗き込んできたんだ。

「7年前に会った男だっけ?出会えるかもよ。そう言う可能性だって転がってるのにさぁ、ぽちは可愛いだけで間抜けだもんなぁ?」

「…え?」

 覗き込んでくる、光の加減によっては赤にも見えるその色素の薄い、渦巻く狂気を漲らせた空恐ろしい殺気を抱え込む双眸を覗き込んでいたら、それこそ何もかも見失ってしまいそうになるんだけど、それでも、俺は那智がどうして散歩に連れ出したのか、その理由が判ったような気がしたんだ。

「もしかして、一緒に捜してくれてるのか?」

「そんなつもりは毛頭ないし?」

「は?」

 思わず眉を寄せたら、那智はニヤニヤッと笑って俺の顎から手を離したんだ。
 なんだってんだ?

「散歩なワケよ。その道中で誰かに会えば、それはそれでラッキーだ、ってなぁ?」

「…ぷ。那智はヘンなヤツだ」

「それ、よく言われるんだけど。まあ、ほっとけ!ってなぁー」

 思わず噴出したら、ツーンッと外方向いた那智は、それでも上機嫌で俺の手を引いて公園を目指して歩き出した。その後ろから引っ張られるようにして追いながら、俺は。
 そう、俺は。
 今だけ、そう、ほんの少しだけ、この幸せな気分を味わっていたいって思ったんだ。
 許されるのなら、ほんの少しだけ…

 辿れる道は、そう、棘しかないのなら。
 それすらも運命だと思いながら。
 貴方の優しい姿を追い求めましょう。
 ああ。
 どうして…
 僕はこんなにも、貴方を想い続けるんだろう…

11.散歩の理由  -Crimson Hearts-

 あのドーナツ事件以来、那智がまともに食事をし始めたかと言うと、答えはNO。
 相も変わらず、未だに食事は咽喉を通らないんだそうだ。
 当たり前か、あの後も盛大に吐いてたしな。
 何があったのか知らないけど、那智はそれでも、あの日以来とても不機嫌になることが多くなった。それは本人もどうしていいのか判らない感情の起伏のようでもあるけど…その凶悪な思いと言うものが、手当たり次第に身近にあるものを壊してしまいたい衝動を突き動かしてしまっているんじゃないかって思えるほど、最近の那智は荒っぽくなったし、何より、殺人の回数が増えたような気がする。
 まるで月に狂う人間のように、漸く縋り付いている理性の欠片を弾き飛ばした那智は、ネゴシエーターの仕事の範疇ではない場所でも、平気で人殺しをするようになった。
 そのせいで、随分と命を狙われるようにもなったようだったが、それすらも本人は何処吹く風でサラッと聞き流しながら最も危険だと言われている南地区のろくでもない区域をぶらぶらしては、世の中を拗ねたような顔をして嗤っていた。
 ベントレーのお願いとかで、那智は渋々と言った感じで俺を散歩に誘ったのがついさっきのことで、あれほど仕事に連れて行くと言って躍起になっていたヤツとは思えないほど、苦渋に満ちた笑みは見ていて不気味だった。

「…どうしたんだよ、この間からおかしいぞ?」

 スタスタと淀みなく前を歩く黒コートを掴んで首を傾げると、ニヤニヤと不機嫌そうに笑っている那智は目線だけでチラリと俺を見下ろすと、シレッとした態度で肩を竦めやがったんだ。

「別にぃ?なんでもないさ」

「なんでもない、ってツラじゃないんだけどなぁ。気付いてもいないんだろ?」

 なんだか那智のその態度があまりにも子供っぽすぎて、俺は苦笑を禁じえなかった。
 つーか、プッと噴出して黒コートから手を離しながら、おおかた、不機嫌の固まりになっているんだろう那智の顔を覗き込んだんだ。

「ぽちが悪いんだぜ~」

「へ?俺か??」

「そーだ!…ったく、誰にでも尻尾振るから見ろよぉ。ベントレさままでお気に入りなんだと」

 ははーん…なるほど。
 飼い犬が自分以外の人間に懐いているような仕種が気に喰わないんだな。

「オレには最大限警戒してたくせにさー。ベントレさまには尻尾振るのな」

 ムスッとしてニヤニヤ笑うと言う、なんとも奇妙な表情をしながら肩を竦める黒コートの男は、その図体とは裏腹にあんまり子供っぽくて本気で笑ってしまいそうになる。
 別に俺、ベントレーに懐いてるってワケじゃないんだけどなぁ。
 ただ、ベントレーがこの禄でもない世界では珍しく、あんまりいいヤツだからついつい、話し掛けてしまうってだけでさ。
 その態度がイケナイのか?
 なんだ、那智のヤツ、ホントにガキみたいだ。

「普通、そこで笑うかぁ?ぽちって冷たいしー」

 不機嫌そうにツーンッと外方向く那智にクスクス笑っていたら、そんな俺たちをそれはそれは不気味そうにベントレーが蒼褪めて振り返っていた。

「なんだよー、ベントレさまめ」

「なんでもねぇっての!…ただ、なんつーか。那智が蛍都以外のヤツに懐くなんざ珍しいからな~」

「オレは見世物じゃございません」

 珍しく語尾を伸ばさないキチンとした物言いでキッパリと言い切った那智の表情は、薄ら笑いこそ浮かべているけど、大変機嫌が悪いらしいことは俺じゃなくて、長年の付き合いであるベントレーには逸早く判ったようだった。

「へーへー。んなの、おっかなくて見世物にしようなんて気持ちはこれっぽっちも起きませんよーだ」

「うるせ」

 これまた子供のように唇を尖らせて言い返すベントレーに、薄ら笑いが絶対に違うとは思うんだけど、でも仕種は充分子供っぽく中指を立てた那智が軽くあしらっている。その光景は、こうして傍らで見ているのならそれほど害はないものの、第三者として遠目で見る立場にあるとしたら多分、俺は間違いなくダッシュでこの場から立ち去っていたに違いない。
 それほど、凶悪なオーラを纏っている那智に対抗できるのはベントレーと、あの鉄虎と言う大男だけだと思い知ることができた。
 心底、おっかない。

「でー?これからどこに行くワケ??」

 ご丁寧にぽちまで引っ張り出しやがって、これで下弦のところにでも連れて行きやがったらベントレ様は宙吊りで一週間ね…とでも言いたそうな、凶悪な双眸をスゥッと細めてニヤニヤ笑う那智に、それこそベントレーは蒼褪めながら嫌なものでも見ちまったとでも言いたそうな顔をして目線を逸らすのだ。

「下弦のところじゃねーよ。蛍都から珍しく電話があってよぉ」

「蛍都が?なんでベントレーに??」

 蛍都、の名前だけで敏感に反応する那智を盗み見ながら、それでも、どうして自称なりなんなり、セックスをするほどの仲であると言うのに、蛍都が那智ではなくベントレーに電話を入れたのか俺も興味深くオレンジのツンツン頭の返事を待っていた。

「知るかよ。お前にしろ蛍都にしろ、大方俺を伝言板か何かと勘違いしてんじゃねーのか??」

 フンッと不機嫌そうに外方向くベントレーの、その肩に背後からゆっくりと腕を回した那智が底冷えのする目付きでにやぁ~と笑いながら、左右の色の違う双眸を覗き込んで繊細そうな、人殺しの時には優雅ささえ感じる指先で、ひぇぇぇ~…と息を飲んでいるベントレーの顎を擽った。

「そんなこた聞いちゃいません。蛍都がなんつってたんだぁ?」

「ぅ判ってるよ!こん畜生!!来週末に蛍都が退院するんだろ?それで…那智が犬を飼ってるらしいから、捨てさせろだってよ」

「…え?」

 思わず、言葉が漏れたのは俺だった。
 別に、この生活がいつまでも続くなんざ思っちゃいなかった。
 幸福だと感じる時間は、いつだってあっと言う間に指の隙間から滑り落ちる砂みたいに消えてしまう。
それはどうしても、止めようとして留まってくれるものじゃないってことぐらい、俺だってよく判ってら。
 ポツリと呟いた俺を、ベントレーから邪険に振り払われた那智が足を止めて、ふと、振り返った。
 その顔は、相変わらず何を考えているのか良く判らない、ニヤニヤ笑いのポーカーフェイスだったけど、ベントレーが不機嫌そうにムッツリと黙り込んでいるのを見れば、それはもう那智も知っていることだったんだと判った。
 なんだ、そうか。
 そりゃ、そうだよな。
 ずっと、お互いの身体すら知り尽くしている恋人なんだ、帰宅して見知らぬ男が一緒にいて、それだって不気味なのにましてや自分も眠るだろうベッドまで使用されていると知れば、誰だっていい気分になるワケがない。
 判ってたんだけど、あまりにも突然すぎて、一瞬ワケが判らなくなってしまったんだ。

「蛍都が…帰ってくるのか?」

 ふと訊いたら、ベントレーは外方向いたけど、那智は笑ったままで肩を竦めて見せた。

「そうか、よかった」

「…あーん?」

 ポツリと呟いて俯いたら、那智のヤツが訝しそうに眉を寄せて首を傾げたから、俺は顔を上げると驚くほど爽快に笑ってやったんだ。

「よかったな、那智!やっと好きな人が帰って来るんだろ?なんてツラしてんだよ。もっと喜ばないと」

「ぽち?」

 驚くほど、那智のヤツが動揺しているのが手に取るように判って、そんな初めて見る態度に、なんでだろう俺は、可笑しくってさ。ホントに笑っちゃったんだよ。
 でも、当たり前だろ?
 あんなに目をキラキラさせて、蛍都の名前を聞くだけで嬉しそうな反応を示すアンタに、俺が何を言えるって言うんだ?

「そうだよな、あんな狭い部屋に犬が居座るのもどうかしてると思うぞ。来週末に帰ってくるんだって?それじゃあ、それまでに出て行くように準備しておくよ」

 自分でも驚くほどスラスラと言葉が出ていた。
 感じていた不安は、那智から離れる時間が近付いていたからなのかとか、心のどこか奥の方でぼんやりと考えながら、それでも表面上ではなんでもないことのように振舞えるのは、俺が身に付けた処世術だ。
 なのに、どうして那智のヤツはそんな、寂しそうな顔をするんだろう?
 蛍都が帰ってくることを、きっと誰よりも待ち望んでいたに違いないってのに。
 馬鹿だなぁ、那智。
 俺は気紛れで飼ったんだろ?それも、誰が捨てたかも判らないような野良だったんだ、事情が出来れば捨ててしまっても仕方ない、だって俺は犬じゃないから大丈夫だ。
 これが本当の犬だったら大問題なんだけど、やめてやれよ、可哀相だからな。
 独りになることは慣れてるから、そんな寂しそうな、心配そうなツラなんかするなよ。
 思わず笑っちゃうじゃないか。
 アンタらしくないってね。

「で、これから保健所にでも連れてってくれるのかい。ベントレー?」

「…なんだよ、案外平気そうだな」

 ベントレーがムスッとしたままでそんなことを言うから、俺は呆然と突っ立ったままで何も言おうとしない薄ら笑いの那智の腕を掴んで、その冷たくなっている指先に指を絡めながらニッと笑ったんだ。

「野良だからな。こうしてご主人さまが拾ってくれたお陰で命拾いはしたけどさ、恩義はあっても忠義ってのはないのが野良なんだ」

「そんなもんかよ」

 心配して損したぜ、とでも言いたそうなベントレーから目線を那智に移して、思わず息を飲んでしまった。
 その目付きが、冷ややかに俺を見下ろしてきた那智の目付きが、まるで今にもその腰に下がった鞘から抜刀して、微塵に切り刻んでやろうかとでも企んでいるような殺意を秘めた暗い双眸が、俺の腹を震え上がらせたんだ。
 な、なんだってそんな目付きをするんだよ?
 恩義はあるってちゃんと言っただろ!?

「…ぽちはさぁ、オレから離れるのが嬉しいのかぁ?」

「は?いや、別に」

「じゃあ、どうしてさぁ、そんなに平然としてるワケ?」

「平然って…あのなぁ、那智。アンタが心から大好きな恋人が帰ってくるんだろ?その恋人が、アンタは俺のことを犬だと思っていても、ちゃんとソイツには俺が人間に見えるんだから俺がいちゃ不都合だろうがよ。那智、俺は犬じゃない。人間なんだ」

 ちょうどいい、ここでちゃんと那智に俺が何者なのか判らせてやろう。
 ずっと、那智が犬だと思い込んでいるならそれもいいかと思って放っておいたけど、今回ばかりはちゃんと説明しておかないと、後々那智が苦労するだけだ。
 俺を捨てろって言うぐらいだ、当初感じていたイメージとは違って、蛍都はどうもかなり嫉妬深いと睨んだからな。

「…?」

 ワケが判りませんってな顔をして、そのくせ、食い殺すぞと冗談じゃない冷えた目付きで睨んだままで、那智はそれでも黙って俺の話を聞こうと思ったようだった。
 こんな往来の真ん中でだって、どこでだって気が向けば立ち止まって話をしたがる那智の突拍子も無い行動に、ベントレーはモチロンだが、俺も随分と慣れてきていたし嫌でもなかった。それどころか、今はそれが有り難いとすら思えるから終わってるんじゃないかな、俺。
 それでも、ベントレーだけでもその名は轟いているのか、それにあの浅羽那智が加わったとなれば賑やかだった往来も、急にシンッと静まり返ってしまう。
 それが、那智とベントレーが持つ絶対的な実力の表れなんだろう。

「どこをどう見たら俺が犬なのか良く判らないんだけどな、俺は人間だよ、那智。犬は四つん這いで動くけど、俺はちゃんと2本の足で立ってるだろ?言葉だって喋る。そんな犬がこの世界のどこにいるんだよ?まあ、アンタが俺を下等動物的な扱いをしてるだけならそれでもいいけど、でもそれなら尚更、どうして蛍都が俺を捨てろなんて言ったのか判ってやれるだろ?」

 上手い具合に説明なんか出来ないけど、それでも手を繋いだままで話す俺を見下ろしながら那智は、唐突に不機嫌そうに口許を歪めたんだ。
 あれほど、貼り付けたような笑みしか見たことがない俺の前で、那智は悔しそうに唇をキュッと引き締めた。
 何が起こったのか一瞬判らなくて呆気に取られていたら、俺たちの傍らで話を聞いていたベントレーがヤレヤレと溜め息を吐いたようだった。

「テメーを捨てろと言ったヤツの気持ちを判ってやれか…んなこと、ぽち以外の誰が口にするんだよってなぁー…まあ、いいか。これから行こうと思ってるのは、俺の居住区さ」

「ベントレーの居住区?なんでそんなところに…」

「俺がお前さんを引き取ろうと思っただけだ」

「嫌だ!」

 首を傾げてベントレーと話していた俺の繋いだ手にギュッと力を込めて、那智は駄々を捏ねる子供のようにムッとしたままでオレンジのツンツン頭を睨み付けたんだ。

「もうさぁ、ぽちがなに言ってんだか全然判んねってのにベントレまで妙なこと言いやがってさぁ!そもそも、コイツの飼い主はオレなのに、どうして勝手に話が進んでるんだ??別にオレは、ぽちを手離そうなんざ思っちゃいないし!」

「…蛍都が、どーせ那智は駄々を捏ねるだろうから、そのときはこう言ってくれって言ってた

ぜ。お前が犬を捨てないんなら、俺がお前を捨ててやるってよ。まんま、蛍都の言葉だからな。脚色は一切ナシ!」

「蛍都って男だったのか!?」

「はぁ?当たり前でしょ、蛍都は正真正銘の男だけど??」

 ギョッとして目を見開く俺に、何を今更とでも言いたそうな胡乱な目付きで見下ろしてきた

那智に素っ気無く言われて…って、アンタたちは古くからの知り合いだから当然知ってるだろうけどな、こっちとしては恋人とかセフレだとか聞いてたら誰でも女だって思うじゃないか!
 いや、確かに男にその、だ、抱かれた経験がある俺としてはなんとも言えないんだけど…
いや、何もかも、本当は気紛れな冗談で犯られちまったってだけのことで…って、俺の方が何がなんだかだよ!

「オレを捨てるって?…ふーん…どちらにしたって、できもしないくせに」

「その言葉、そのまま蛍都に言えるのかよ?」

 ベントレーが意地悪く腕を組んでフンッと鼻を鳴らしながら言うと、那智のヤツはウザそうな表情をして鬱陶しそうに脱色し過ぎて黄褐色になっている髪を掻き揚げた。

「言えるさ!ずーっと、蛍都に言われてからなんか引っ掛かってたんだけどさぁ、どうしてオレが犬を飼っちゃダメなんだ??いや、ここで話してたって埒があかないし?もういい、ぽち、おいで」

「は?は?…って、どこに行くんだ!?」

「蛍都のところに決まってる!」

「ええ!?」

 そんな、イキナリ恋敵と対面かよ!!?…って俺、何を言ってるんだ。
 いや、蛍都にしてみたらもしかして、俺と言う存在を疎ましく思ってるぐらいなんだから恋敵と思っていたっておかしくはないと思う。
 手を繋いだままで引き摺られるようにして那智に連行される俺を憐れに思ったのか、いや、それじゃどうしてベントレーのヤツはあんなにホッとしたような嬉しそうな顔をしているんだ??
 必死に救いを求めて目線を向けると、ベントレーのヤツは呆れたように肩を竦めるとそんな俺たちを追って来ながらニヤニヤと笑っている。

「ぽちは蛍都とは初対面だったよなぁ~?第一印象ぶっ壊された時のぽちの顔が見物だぜ」

 明らかに楽しんでいるようなベントレーの言葉なんか耳に入っちゃいねぇ不機嫌のオーラ出しまくりの那智に引き摺られるまま、俺はあわあわと泡食いながらどうするべきなのか最早当てにはならないベントレーに救いを求める術は断たれたと知ったから、それでなくても乏しい脳細胞をフル回転させて大いに考えてみた。
 考えてみて、出てきた答えはひとつしかない。
 出たとこ勝負。
 まあ、そんな感じで一路、町外れの古惚けた病院へと赴くことになっちまった俺の運命は…
 悲惨でないことだけを祈ろう、と、思う。
 うん。

 ここから先に未来はありません。
 と、君が言うのなら。
 ぼくはその未来さえ。
 君の為に手に入れようと思っていた。

10.不安  -Crimson Hearts-

 灰色の町には似合いの雨が降っている。
 もう随分と、長いこと降っているように感じるのは俺の錯覚なんだろうか?
 いや、そんなはずはないな。那智と別れてからベントレーの肩の上に担がれて、オレンジのツンツン頭の行き付けとか言うファーストフードから出てきた時にはもう、泣き出しそうな曇天の空から大粒の雫がポツポツと落ちてきていたから…那智は。
 ふと俺は、いつも座っている場所から見える、窓の外に陰鬱に広がる空を見上げていた。
 夜の帳は雨のせいで思うよりも早く下りてきているし、かと言って、それに怯むほど俺が待っているヤツは臆病者でもなければ腰抜けでもない。
 やたら機嫌の悪かったベントレーが『土産』だと言って寄越したお持ち帰り用に用意されたビニールの袋は無造作に床に転がって、それが却ってこのアンティークな部屋を薄ら寒くしているような気がして、俺は縮こまるように膝を抱えて座りなおした。
 那智は、蛍都がいる病院に行ったきり戻って来ない。
 ベントレーが言うには、面会時間ギリギリまで一緒にいるから、大方、戻って来るのは夜中になるだろうと言っていた。
 確かにそうなのかもしれない。
 いつもはそれなりに賑やかな通りには、既に夜の気配が濃厚になり始めた夕暮れ時には人影もなく、車すらも走らない、一種のゴーストタウンのようになっている。
 仕事が長引いて真夜中に戻って来ることもあった那智は、そんな薄気味の悪い通りを、まるで何事もないかのように鼻歌なんか口ずさみながら足音高く帰って来ることがあった。そんな時は決まって、誰かが犠牲になるワケなんだけど、もうこの近辺に息を潜めている悪党どもは心得ているのか、そんな那智を暗がりに身を潜めてビクビクと見守っているようだった。
 泣く子も黙る浅羽那智。
 その那智を、さらに黙らせることができる蛍都。
 一瞬、脳裏に閃くように掠める嫌な想像に、俺はギュッと瞼を閉じて唇を噛み締めた。
 どうして…こんなに嫌な気分になるんだろう?
 那智を、癒して支えている蛍都のことを考えるだけで?
 もしかしたら蛍都は、やわらかな栗色の髪をしているんじゃないか…色が白くて可憐で、那智がそのやわらかな胸元に頬を埋めれば、まるで女神のように優しく微笑んで、痛んでしまって傷付いた黄褐色の髪に唇を寄せるんだろう。
 そんな妄想が脳裏に浮かべば、それだけで嫌気がさす。
 なぜだろう…そんな自分が嫌で、なぜ自分がそんなことを思ってしまうのか、判らなくて不安になってくる。

「いーじゃねーか。那智は幸せなんだ…」

 もし今、妹が、可愛かったふわふわくるくるの栗色の髪をした紫苑が生きていれば、俺はこんなに不安を感じなかったのか…よく、判らない。
 この世に漸く、何か救いのようなものを見つけ出しちまったせいで俺は、その存在が自分ではない誰かのものだと知ったからこんなに不安になっているのか。

 判らない。
 判らない。 

 心を寄り添いあえる家族が生きてさえいてくれたら、那智の不在をこんなに不安には思ってはいないんだろう。
 俺はきっと、那智を家族のように考えてしまっているのかもしれない。
 あの雨の日、俺はまるで雛鳥のすり込みのように、瞼を開いて見た那智を、あのクソッタレな街角から引き摺り上げてくれたあの腕を、家族のように大事だと思うようになったんだろうなぁ…
 窓の外に広がる夜の帳を下ろして雨に濡れる灰色の町を見詰めながら、俺はちょうどこんな日だったと思い出していた。
 そして、そんな思いにふと囚われそうになった時、まるで俺の妄想から抜け出してきたみたいに漆黒のコートのポケットに無造作に両手を突っ込んで、まるで無頓着に飄々と歩いてきている那智に気付いたんだ。
 少し俯き加減ではあるけれど、別に機嫌がよさそうもないし、俺を見ようともしない。
 どうしたってんだ、那智は?
 いつもなら何処にいたって一目で俺の動向なんか捕らえてしまうはずの那智の、その眼差しは今にもショートしそうな、チカチカと切れかけている街灯が作り出す陰影に隠れて確認することもできない。
 一抹の、不安。
 何が?とか、どうして?とか、聞かれてしまっても判らないんだけど、胸の辺りをギュッと掴まれるような、そのくせ、素っ気無く突き放されるような心許無さに俺は、慌てて膝立ちになると窓ガラスに掌の体温を吸われながらへばりついてしまった。

「那智…?」

 聞こえないって判ってるんだけどな、どうしても呟かずにはいられない俺の口から零れ落ちたその声を、まさかお前、聞こえたなんて言わないでくれよ?
 ふと、名前を呼んだら、那智はまるで返事でもするようにヒョイッと顔を上げたんだ。
 いつものニヤニヤ笑いは相変わらず口許に貼り付けて、そのくせ、どこか不機嫌そうな目付きは凶悪なオーラを垂れ流しにしている。
 この辺りの人影を、いつもより余計に失せさせたのはまさか、那智のその目付きなんじゃなかろうか…と、俺が思ったとしても致し方ないと思う。
 何か、俺は那智を怒らせるようなことでもしてしまったかな?
 ベントレーや鉄虎に蛍都のことを聞いてしまったのがいけなかったのかな…そんな風に、那智に一睨みされただけで竦んでしまう俺は、自分の根性のなさにどうしようもなくて泣きたくなってしまった。
 どうして、胸の辺りが痛いんだろう。
 那智の眼光に怯んでしまったせいなんだろうなぁ、やっぱり。
 胸の辺りが痛くて思わず顔を歪めたままで見下ろした那智は、飽きもせずに降り続ける雨の中で呆然と突っ立っているようだった。
 降り頻る雨にすっかり濡れてしまった前髪の隙間から、物言わぬ影のように、ひっそりと、そのくせ雄弁に語り掛けてくるような目付きをした那智を、俺はどんな顔をして見下ろしたらいいのか判らなかった。
 町の喧騒も、今はそれすらも鳴りを潜めて静寂に静まり返った町に、只管降り続ける雨の音さえも遮断されたこちらの世界から、現実を真っ向から叩きつけられる殺伐とした世界にいる那智を見下ろす俺…まるで、そうだ。
 こうしている今でさえも俺は、那智が与えてくれた安楽な場所で、あれほど殺気だって怯えまくっていた世界から護られるようにして『生きている』と言う事実を、今更ながら気付いてしまった。

(俺は…あれほど死にたいと思っていたこんな薄ら寒い町で、生きているのか)

 硝子に蒸気で手形を残しながら拳を握った俺は、淡々と見上げてくる薄ら笑いのそれこそ不気味としか形容できない男を、見下ろしたままで笑っていた。
 そんなつもりは全くなかったけど、気付いたら口が勝手に動いていた。

「お帰り」

 声のない、唇だけの言葉に、いったい那智が何を感じるのかなんてことはケチなコソ泥の身分じゃ…いや、今はただの野良犬の身分では理解なんかできるはずもないけど、ふと瞬きをした那智は漸く、貼り付けただけの口許の笑みを感情的に歪めて見せた。
 それは、那智らしい不器用な笑い方だった。
 どこかホッとしたような、いつも見せるあの一瞬しかない、ホッとしたような笑顔。

「ただいま」

 俺の真似でもしたのか、声に出さずにそう言った那智はニッコリ笑うと、やっといつものように大型の犬がするような素振りで頭をブルブルッと振って水を弾き飛ばすと、サッサと砂岩色のアンティークなビルの扉を派手に開けて飛び込んだようだった。
 那智には『何故か』だとか『どうして』と言う副詞がまるでない…と、ずっと思っていたし、本人もそのつもりでいるようだった。でも、最近の那智には『何故?』や『どうして?』の言葉が多くなったような気がする。
 那智自身、無意識のうちに呟いているだけなのかもしれないけど、それでも、なんだか今まで無機質のように感じていた那智の感情が、やっと人間らしくなったような気がして少しだけ嬉しかった。

(あれ?なんで俺、そんなことで喜んでるんだ??)

 ハッと我に返ったら、そんな馬鹿げた思想に首を傾げてしまった。
 ちょうど俺が首を傾げたぐらいの時に那智がニヤニヤ笑いながら部屋に入ってきたんだ。
 いつものように盛大に扉を思い切り蹴り開けて…と思えるほど乱暴にドアを開いて入ってきた那智は、窓から見下ろした時には気付かなかったけど相変わらずその脇に買い物袋を抱えていた。

「遅かったな」

 できるだけ気のない風に言ったつもりだったけど、那智にしてみたら俺の感情なんかどうでもいいことなんだろう、瞼を閉じてハッ…と笑っただけだった。

「…ところでさぁ、これってナニ?」

 俺の質問には肩を竦めるだけのくせに、床に転がっているビニールの袋を取り上げてニヤァ~ッと笑ったままで首を傾げてくるから、俺も素っ気無く肩を竦めながら答えてやった。いや、答えてやるだけ俺のほうが優しいと思うぞ。

「ドーナツなんだと。ベントレーの行き付けの店らしくてさ、結構旨かったぞ…って、アンタには関係ないか」

「…ドーナツねぇ」

 どうせ興味なんかないくせに、那智はそれでも紙袋をテーブルに投げ出すとビニール袋からドーナツを一つ取り出して繁々と眺めているようだ。
 粉砂糖を散らしたドーナツは、揚げ立ての時はそりゃあ旨かったけど、今は少しだけしんなりしているようで不味そうとまではいかなくても、旨そうと思える代物でもなくなっていた。
 そのドーナツを何か物珍しいものでも見るような目付きでニヤニヤ笑ってマジマジと見詰めながら、目線だけを動かすと言うヤツらしい芸当でもって俺をチラッと見てから言ったんだ。

「今夜の飯はコレ?」

「え?あ、ああ…そうだけど?」

「ふーん、ベントレさまめ。こんな安上がりしちゃってさぁ、明日は文句を言うべきかぁ?」

「あ!いや、なかなか旨かったって!!いや、マジで」

「ホントにぃ?」

 疑い深そうな目付きでニヤニヤ笑う那智に肝が冷えたが、ここは正念場だと頷いて見せた。脳裏にはどうしても、あのお人好しそうなヴィヴィッドなオレンジのツンツン頭が浮かんで離れないからなぁ。
 ビルに独りで残すのは忍びないんだが、と前置きしてからベントレーは、自分はこれから用事があるから仕事場に向かわないといけないと言って不機嫌そうに行ってしまった。
 ベントレーの不機嫌さは、ある意味、優しさの裏返しだと言うことに気付いたから、あのお人好しに迷惑を掛けるワケにはいかないんだ。

「そもそもだ。飼い犬を他人に預けた那智が悪い。預けた段階で、ソイツが何をやろうと文句を言うのはお門違いだと俺は思うぞ」

 俺が精一杯尤もらしくそう言うと、那智のヤツは口許に貼り付けたような笑みを浮かべたままで、優しい甘い匂いを漂わせる粉砂糖のまぶされたドーナツを見下ろした。

「別にさぁ、預けたかったワケじゃないけどー」

 不貞腐れたように唇を尖らせるワケでもなく、那智はどこか、叱られた子供のような目付きをしてドーナツを見下ろしたままだ。

「コレ、旨かったって?」

「ああ!もう随分昔のことなんだけど、子供の頃、クリスマスにサンタから貰ったドーナツにソックリで旨かった!」

 独り言のような呟きに大きく頷いて俺が笑いながら応えると、暗黒がよく似合うはずのネゴシエーターには絶対に不似合いだと思っているドーナツを手にしたままで、那智は小さく笑ったんだ。

「クリスマスにサンタ?はーん?ぽちはサンタを信じてるのか~」

「別にだ!今も信じてるってワケじゃないぞ。チビの頃に甘いお菓子を貰ったらこんなご時勢だ、誰だってサンタぐらい信じたくなるさ」

「…子供の頃に喰ったって?旨かったかぁ??」

 だから、そう言ってるだろ…と、思わず言ってしまった昔話を鼻先で笑われた気になっていた俺は、顔を真っ赤にしてブツブツと悪態を吐きながらも頷いた。
 恐らく、那智にどんなに説明しても、人肉にしか興味を示すことの出来ない彼には、そのほろほろと甘い、優しいドーナツの味など伝わりはしないんだろうけど…それでも俺は、できる限り那智にその気分を味わって欲しいと思っていた。

「ああ、妹と半分こにしたんだけど。まだちっちゃくて、食べられやしないんだけどさ。あんまり甘くて旨かったから無理に食べさせて泣かせてしまったんだ。そんなことしてしまうぐらい、甘くてホッとする味だったよ」

 アンタには判らないだろうけど…そう思うことが、少しだけ寂しいな。
 もっと那智を身近に感じたいのに感じられない…蛍都は、きっとそんなアンタの全てを受け入れて、やわらかく微笑みながら抱き締めてやるんだろうな。
 俺には到底できない判りあえて、許しあえた者だけが持つ特権のような触れ合い。
 俺は、アンタの過去を知らないから。

「どうやって妹に喰わせたんだ?オレに同じようにしてみろよ」

 唐突にそう言って、那智がドーナツを持つ手を俺の目の前に突き出してきた。
 その顔は、どうも俺を馬鹿にしているとか、茶化しているとか、そう言った感情は微塵も浮かんでいなくて、どうやら本気でその時を再現させて、純粋に見てみたいと思っているようだ。
 俺は呆気に取られながらも仕方なく、那智の差し出したドーナツを受け取って、それを半分に割ると黙ったままでジーッと見詰めてくるずぶ濡れの黒コートの男に近付くと、その口許に歪な形で半分になってしまったドーナツを近付けたんだ。
 こうして妹に食べさせた。
 むずがるようにして嫌がっていた紫苑はでも、その甘い匂いに誘われるようにして嬉しそうに笑いながら食ったっけ。結局、少しも食べられなかったんだけどな…
 ほんの僅かな時間、回想に耽った俺のドーナツを持つ手をガシッと掴んだ那智の動作にハッと我に返ったときには、俺がギョッとするのもお構いなしで、前髪から水滴を零している那智はそのままパクッとドーナツに食いつきやがったんだ!

「なな、那智!アンタ、大丈夫…」

「…ぅ、ぐ…ッッ!…ぅぅ…うん、旨いな」

 脂汗をビッシリと額に浮かべながらも、俺の腕を掴んだままでニヤァ~ッと笑ってモグモグと口を動かせて上目遣いに見上げてくる那智に、「なのか?」と続きそうになった言葉が咽喉をするりと抜けて胃の辺りまで落ちてしまった。
 いったい、何が起こったって言うんだ??

「旨いって…アンタ、なに無理してんだよ!?そんなんじゃ、味だって判らないだろうに。苦しんで食ったって旨かないだろ!?」

「そんなこたないさ。甘くて旨かったし?」

 飄々とそんな風に嘯くけど、俺にはちゃんと判ってるんだぞ。
 その額に光る雫が、雨粒だけのせいじゃないってな。

「ど、どうしたんだよ?ドーナツなんてそんな珍しいもんじゃないし…」

 こんなクソッタレなご時勢でも、ファーストフードは手頃な値段で腹を満たしてくれる、俺たちの最後の砦のような場所だ。那智ほどに稼いでいるのなら、そんな物など口にしなくったっていつものように自慢の手料理を無理してでも食べればいいのに…そもそも、ドーナツなんか無理して食べるもんじゃないだろ!?
 ハラハラしながら俺が見上げたら、掴んだ腕をそのままに、那智は、那智らしくもなくニヤニヤ笑ってそんな俺を見下ろしてくる。

「ぽちがさぁ、子供の頃に喰った味なんだろ?どんなモンかと思ってさ。まあ、キョウミホンイってヤツ??」

「興味本位ってな、アンタ…なに考えてるのか判んないよ」

 あれほど苦しそうにドーナツを食うヤツなんか初めて見たし、きちんと租借して嚥下した那智を見るのも初めてだったから…とは言え、俺が那智と一緒に過ごしだしてから、それほど長い月日が流れたってワケじゃないからな。せいぜい、2ヶ月かそこらだ。
 それで那智の何が判るんだと言われても、言葉に詰まって黙り込むしかないんだけどさ…

「甘い…ぽちの指も甘いなぁ?」

 ペロペロと、まるで巨大な猫科の肉食獣がそうするように俺の指先を舐めていた那智は、不意に舐めるのをやめて、どんな顔をすりゃいいのか判らないでうろたえるしかない困惑した俺の顔を、まるで穴でも開くんじゃないかと言うほど、暫くマジマジと見つめていた。

「…な、なんだよ?」

 わざとぶっきら棒に唇を尖らせたら、那智はそれでもニヤニヤ笑ったままでジーッと俺の顔を食い入るように見詰めていた。
 一抹の、不安。
 まただ。
 また、競り上がってくるこの胸の息苦しさ。
 不安で、不安で…思った以上に俺は、那智に依存しているのかもしれない。 
 こんな風に那智が突拍子もないことを仕出かすのはいつものことだと言うのに、どうしてだろう?今夜はやけに胸の辺りに何かが引っ掛かって、それが却ってこの現状がより一層いつもとは違うんだとでも言うように胸を奇妙な焦燥感が駆り立てて仕方がないんだ。
 いつもと変わりないはずなのに。
 いつも通りのはずなのに。
 いつもと何が違うって言うんだ!

 不安で、不安で…思わず眉を寄せてしまった俺は今にも泣き出しそうな顔をしていたのかもしれない。
 那智が一瞬、ハッとした様な顔をしてから、それからニヤァ~ッと笑いやがったからだ。

「ぽちはさぁ…やっぱ、可愛いのなー」

 そう言って、ずぶ濡れの那智のコートに押し付けられるようにして抱き締められても俺の、胸の中に湧き上がったどす黒い何かは大きなシコリのようになって蟠ったままだ。
 その正体が判らなくて、俺は暗闇を手探りで探るようにしながら必死で答えを探していた。
 手探りで伸ばす指先で那智の黒コートを掴んだとしても、答えなんか見付かるはずもないのに。
 俺は、どうしていいのか判らなくて無性に泣きたくなっていた。
 こんなのは、俺らしくないと言うのに…

 揺れる想いを繋ぎとめる鎖のように。
 あなたの指先が触れる琴線。
 後には戻れないこの道がたとえ棘だったとしても。
 もう、後悔などしない…

9.蛍都  -Crimson Hearts-

 ベントレーに肩に担ぎ上げられたままで街路を進んでいると、意外とこのオレンジのツンツン頭には仲間が多いんだと判った。
 一方的に那智と別れてから俺は、案の定と言うかなんと言うか、やっぱり下ろして貰えないままベントレーと帰路に着くことになったんだ。

「よーう、ベントレー!」

「なんだ、面白いの抱えてんなッ」

 それぞれが勝手に声をかけてはゲラゲラ笑うと、左右の色が違う双眸を細めながら、向こうっ気の強そうなベントレーはニヤッと笑って肩を竦めて見せた。その態度は、那智や鉄虎と一緒にいる時とはガラッと違って、確かにどこか冷酷そうな冷やかさを持っているような気がする。

「手なんか出してんじゃねーぞ?コイツは那智さまの預かりもんだからなぁ」

「…那智だと」

 どうでも良さそうにベントレーが気軽に言えば、馬鹿笑いしていた連中の声がピタリと止んで、違った声音でざわついた。
 そうか、あんな風にニヤニヤ笑ってるだけでちょっと変わったヤツってぐらいにしか思えない那智は、やっぱり誰もが怖れるネゴシエーターなんだなぁと、連中の態度で今更ながら改めて思ったもんだ。
 ヒソヒソと肩を寄せ合うようにして何やら悪巧みでもしているように見える連中に、ベントレーはそれ以上は興味がなさそうに肩を竦めて歩き出した。
 外見こそヒョロリとしていて、どこか臆病そうに見えるんだが、このベントレーって男はやはりあんな化け物みたいな鉄虎や那智と一緒にいるぐらいだ、それなりに肝が据わってるんだろう。外見とは裏腹な印象が付き纏っている。
 外見と内面がこれほど食い違うヤツも珍しい…そんな風に思いながらベントレーのジーンズの腰に無造作に突っ込んでいる二丁の銃を見下ろしていたら、唇を尖らせてると思しきベントレーが何やらブツブツ言っているのが聞こえたんだ。

「…ったくよぉ、なんでもかんでも人のモンに興味を持ちやがって!那智もそうだ。俺の可愛いスパイシーとキラーを遣いやがるしッ」

 どうやら、よほど愛用しているカスタマイズ済みの拳銃を遣われることがムカついているのか、オレンジのツンツン頭をしたベントレーは溜め息を吐いている。

「スパイシーとキラーって…この拳銃のことか?」

「あん?」

 大人しく肩に担がれたままでジーンズの腰に突っ込まれた銃を見下ろしながら俺が言うと、ベントレーは気のない返事を返してきた。

「まーな」

「触っちゃ、やっぱ拙いんだよな?」

「あー?」

 カスタマイズした拳銃…と言うのを、俺は一度しか見たことがない。
 と言うよりも寧ろ、こんな廃頽して荒んじまった町では、何もかもが貴重で容易く手に入るものではない。殊更、武器にいたってもそうだ。拳銃など、盗賊集団の頭領が持っているのを遠目から見たぐらいで、触るチャンスなんてこれっぽっちもなかった。
 もちろん、拳銃を遣われることをこれほど嫌がっているベントレーのことだ、触らせろと言ってはいドウゾなんてこた、口が裂けても言っちゃくれないだろうなぁ。
 半ば諦め交じりで訊いてみたら、ベントレーのヤツは暫く何かを考えているようだったけど、不意に嬉しそうに笑ったようだった。

「?」

 訝しんで眉を顰めたら、オレンジのツンツン頭のネゴシエーターは薬でもやっていたのか、ボロボロになった歯をカチカチ鳴らしながらヒャハハハッと笑っている。

「そーか、そーか!お前も銃に興味があるんだな?鉄虎にしても那智にしても、飛び道具なんざ武器じゃねぇとか言いやがるからなぁ。そのクセ、那智のヤツは俺に無断でスパイシーとキラーを遣いやがるんだ。言ってることとやってる行動が意味判んねっての…お、そーだ!お前にも銃を造ってやろうか?撃ち方とかも教えてやるぜ」

「ホントか?!」

 バッと顔を上げてオレンジの髪を引っ張ったら、ベントレーはニヤニヤ笑いながら快く頷いてくれたんだ。那智や鉄虎の仲間にしては、ベントレーはなかなかいいヤツだと思うぞ。

「手始めにスパイシーを触ってもいいぜ。っつーか、ぽちは礼儀のあるヤツなんだなぁ。俺の周りにいる連中は、断りもなく勝手に触るヤツばっかりでな!…ぽちならいつでも触っていい。なんなら遣ってもいいんだぜ?」

「ホントか?ありがとうな!」

 機嫌が良さそうなベントレーに礼を言って、俺は無造作に覗いているグリップの部分を見下ろしながら、唐突にハタと気づいたんだ。
 どっちがスパイシーで、どっちがキラーなんだ??

「グリップが白い方があるだろ?ソイツがスパイシーって言うんだ。ピリッとキレのあるヤツなんだぜ。あ、それと…ッ!」

 ベントレーの説明の最中にズゥンッと腹に響くような銃声が響き渡って、ギクッとしたようにオレンジのツンツン頭は首を竦めてから言わんこっちゃないと額に片手を当てたみたいだった。発砲した当の犯人である俺としては、吹っ飛ばされそうになった身体をベントレーに受け止められて、ジーンッと両手を痺れさせたまま目を白黒させていた。
 それでもスパイシーを手離さなかったのは天晴れだと言って欲しい。
 飛び出した弾丸は地面に命中すると、乾いた埃を巻き上げている。

「…安全装置を外してるからさぁ、無闇に引き金を引くと今みたいなことになるってワケよ。判ったか?」

「わわ…判った。でも、安全装置を外してたら危ないんじゃないのか?」

「んなワケないだろ。スパイシーとキラーはお利口さんだからな」

 俺を肩に担いだままで平然と歩行を再開したベントレーは、どうやら何よりもこの二丁の拳銃を信頼しているんだろう。確かに、この二丁の拳銃は常に安全装置を外しているわりに、未だにベントレーの身体に風穴を開けてるってワケでもないから、強ちツンツン頭のネゴシエーターの言い分に偽りはないのかもしれないなぁ。

「すげーな!俺、こんなの初めて見たよ。ベントレーは軽く操れちまうんだろうな」

「まーな。ふふん、どーだ」

 見掛けや内面よりも子供染みた様子で胸を張るベントレーに、いったいコイツには幾つの顔があるんだと首を傾げたくなったが我慢することにした。せっかく機嫌がいいんだ、不機嫌になってイロイロ教えて貰えなくなるのも損だしな。
 でも…この銃は違う。
 あの男が持っていた拳銃は、もっとこう、銃身が長かったし口径が小さかったような気がする。まるで、そうだな。ちょっと遊びで持ってるんだけど、本当は肉弾戦の方が好きなんだ、とでも言いそうな雰囲気だったと思う。
 残酷に人体を貫いた指先は真っ赤に脈打つ心臓を掴んだままで…そこまで思い出してゾッとする俺の態度が、勝手に発砲してしまって申し訳なく思って落ち込んでいると受け取ったのか、ベントレーは肩を竦めながら首を左右に振ったんだ。

「ま、気にすんな。誰でも初めてのときは失敗するもんだ」

「なあ、ベントレー?」

「あん?」

「アンタみたいにさ、銃を持ってるヤツってこの町には後何人ぐらいいるんだろう?」

「あーん?…そうだな、あんまり持ってるヤツって見たことがないからさぁ。せいぜい、5~6人ってとこじゃないか?」

 この広い町でも5~6人しか持っていないのか。
 それなら、案外捜し易いのかもしれない。

「ベントレーみたいにさ、銃をカスタマイズしてるヤツって多いのかな?」

「んなワケないって。カスタマイズには金がかかるだろ?俺以外のヤツは誰かから分捕ったか、或いは購入したのをそのまんま遣ってる連中が殆どさ…ってなんだ、まるで誰か捜してるみたいな口調だな」

 ギクッとした。
 案外、このスパンキーで子供っぽい、そのくせどこかお人好しに見えてしまうこのベントレーと言う男は、抜け目のない洞察力を持っているのかもしれない。
 さり気なく聞いていたつもりだったのに…俺は息を呑むようにして首を左右に振ったんだ。

「い、いや。こんなに間近に銃を拝める機会なんてそうそうなかったからさ、つい好奇心で。気に障ったんだったら謝るよ」

「…」

 俺の態度をどう思ったのか、那智とはまた勝手の違うベントレーは比較的体温が高いのか、俺の腰に回した熱っぽい掌で脇腹を擽るように落ち着きなく手遊びをしながら考え込んでいるようだった。
 いや、ちょっと…脇腹は弱いんだけど。
 思わず笑い出しそうになっちまった俺は、慌てて声を噛み殺しながら小刻みに身体を震わせている。

「…やっぱさぁ、ぽちは変わってるんだな。こんなクソッタレな町で謝るだと?そんなことしてたらお前、付け入られて骨の髄までしゃぶられながら殺されるんだぜ」

「え?」

 想像していたのとはちょっと違う、呆れたような溜め息を吐きながらベントレーは心配そうな響きをその声に滲ませたんだ。てっきり、底意地悪く嫌味でも言われるもんだとばかり思っていた俺は、動揺してどう返事をしたらいいのか判らないでいる。

「あ、それで那智なんかにとっ捕まっちまったのか。バッカなヤツだな~!アイツはさぁ、鉄虎に言わせたら執着心の塊なんだってよ。そんなヤツに見込まれたら最後、地獄の底に堕ちたって連れ戻されるんじゃねーか?」

 ヒャッハッハ!…と、なんとも小気味良さそうに笑うベントレーに、俺の頬が引き攣ったのは言うまでもない。いや、確かに那智はちょっとおかしいと思っていた。でも、そんな鉄虎が言うような執着心なんか凡そ持ち合わせていないように思えて仕方ないんだけどなぁ…

「那智はどこか飄々としてて、なんでもすぐに捨てちまうのに、執着心とか有り得ないだろ?」

「あーん?あ、そっか。ぽちは知らないんだな。那智の執着心は蛍都からはじまってるんだ」

「蛍都…」

 また、その名前だ。
 そうだ、那智には恋人がいたんだった。
 ついさっき聞いた名前なのに、こうして改めて聞くとどうしてだろう?胸の辺りがズシリと重くなる。
 嫌な、気分だ。

「那智がタオに入ったのってさぁ、俺よりもっと古いんだよな。俺が那智と知り合った時にはもう、その傍らには蛍都がくっ付いていたからよぉ、経緯とか詳しくは知らないんだけどさ。はじめは蛍都のヤツが那智にべったりで、すげー独占欲だなとか思ってたんだけど、ホントは違ったんだ」

「そうなのか?」

「ああ。蛍都がべったりくっ付いてるんじゃない。ホントは那智が片時も離れなかったんだ。蛍都のヤツはウザがっててさぁ、ふらふら1人で出歩くことを好んでたよ」

「…でも、なんかそれって那智らしいな。アイツってベタベタするの好きそうだし」

 『犬、犬』と言って俺をヌイグルミか何かと勘違いでもしてるみたいにして抱き締めてくる那智の、あの嬉しそうなニヤニヤ笑いを思い出したら自然と笑いが零れてしまって、そんな俺にベントレーは「はて?」とでも言いたそうに首を傾げながら、どうやら眉でも顰めているようだ。

「ベタベタ…とかはしなかったぜ?なんつーか、どこか1本、キッチリと線を引いてるような…そのくせ、お互い離れるわけにはいかないとでも思ってるみたいでさぁ。なんか、見てて肩が凝るような関係だったよ」

「…は?それで恋人同士なのか??」

「そりゃあ、まーな。1日と空けずに、飽きもせずにセックス三昧だったからさぁ。恋人、って呼ばずになんて呼ぶんだ?セフレ?つーか、そんな生易しい関係でもなさそうだったし」

「そ、そーか!そりゃあ、まあそーだな!」

 ベントレーの生々しい発言に、別に免疫がないワケでもないんだけど、なんとなくいつも傍にいた空気みたいにあやふやな存在だった那智が、唐突に生身の実体を持ってしまったような錯覚がして顔が真っ赤になってしまったんだ。
 あの年だ、そりゃあ、セックスぐらいはするだろうな。
 なに、動揺してるんだ俺は。
 きっと、那智のヤツがどこか禁欲的で、凡そ性欲とかないんじゃないかって思えるほど人間離れしてる雰囲気を持っていたから、高を括っちまってたんだろう。

「ズルイよなー。人殺しのが楽しい、みたいなツラしやがってッ」

 小声で毒づいたつもりだったのに、やっぱ耳の傍に顔があれば嫌でもベントレーに気付かれるか。
 いや、もちろん。
 狙ってたんだけどな。

「いや、正直に言えば那智はセックスよりも人殺しの方が達ける!…と豪語はしてたけどよ。蛍都は別なんだってさ。アイツは宝物なんだってよ。ワケ判んねーけどなー」

 聞きたかった台詞を聞いたワケなんだけど、嬉しくないオマケまで聞いてしまった気分だ。
 那智が宝物だと言って大事にしている蛍都…どんな美人なんだろう?
 或いはもしかしたら、アイツを柔らかく包み込む可愛らしい面立ちの少女なのかな…
 ちぇ!そんな可愛い恋人がいるんなら、俺なんか構わずに放っておいてくれてりゃよかったのに!
 ワケもなく腹立たしくてムッツリ黙り込んでしまった俺のことなんかお構いなしで、ベントレーのヤツはどうでも良さそうに肩を竦めたんだ。

「まあ、なんにせよ。蛍都はどうあれ、那智がアイツに夢中ってのは間違いないだろうな。心の底から惚れてるようにも見えるしさ」

「そっか。でも、よかった。那智にはちゃんと、寄り添えて理解してくれる恋人がいるんだから」

 あんな風に奇抜な嗜好の持ち主である那智を、確りと受け止めているひとがいる。
 その存在があるからきっと、今の那智がいるんだろう。
 人間なんてのはいつだって、心に拠り所がないと生きていけないんだ。
 そう言うものを全て見失ってしまった俺が言うのもおかしいんだけど、そうじゃないと、身体が虚ろになって生きているのか死んでいるのかさえ判らなくなってしまう。
 俺の空っぽな身体を抱き締めていた那智が可哀相で仕方なかったんだけど、ああ、でもよかった。
 あのどん底のような街角から図らずも救い上げてくれた那智には感謝してるし、有り難いとも思っていた。その那智が、孤独ばかりを抱えているワケじゃないと判ったんだ。それでいいじゃねーか。
 これで、なんて言ったらおこがましいんだけど、俺も安心してあの男を捜すことができる。

「…まあ、誰よりも理解はしてるだろうな。でもさぁ、よくぽちは平気でそんなことが言えるよな」

「え?」

 俺、何か悪いことを言ってしまったか??
 ベントレーの口調は明らかに不機嫌になっていた。
 何か不味いことでも口走ってしまったかと、ハラハラしていたらベントレーが悔しそうに言ったんだ。

「那智は蛍都しか見ていないんだぜ?なのに、那智の傍にいてお前、よく平気でそんなことが言えるよな」

 ああ…なんだ、そう言うことか。
 それでベントレーは怒っているんだな。
 こんな風に見えても、ベントレーにとっては那智も蛍都も大切な仲間なんだ。
 遠い昔に、確かに俺にもそんな仲間がいたのにな…いつから、こんな風に空虚になってしまったんだろう。

「俺も、判ってるんだ。ついさっきまでは蛍都の存在とか知らなかったからさ、なんとも思っちゃいなかったんだけど…那智の恋人は病院で苦しんでるってのに、俺が傍にいるのはおかしいよな?このまま那智の家に帰るのも気が引けるんだけど…」

 行く場所がないんだ…それは、単純な言い訳に過ぎない。
 何処だって行けるはずだ。
 俺はそうやって生きてきたんだ。
 那智に触れて…この奇妙な関係に甘ったれてるに過ぎない。
 でも、大丈夫だ。

「俺さ、那智に頼んでることがあるんだよ。ソイツが見付かったら、ちゃんと出て行くからそれまでは蛍都に目を瞑っていてもらいたいんだ。身勝手なのは承知だけどさ」

「…~って、ホント。ぽちってなんかワケの判んねーヤツだよな!あんなクソッタレで我が侭な那智なんかに振り回されやがって!!アイツはな、蛍都しか見てないんだぞ!?」

「…?うん、判ってるさ」

 どうしたって言うんだ、ベントレーは。
 薬でもやっていた名残りのギザギザの歯で迂闊にも歯軋りして、癇癪でも起こしそうな雰囲気で腹を立てているベントレーは、抱えている俺の腰に服の上からガブッと噛み付きやがったんだ!

「イテ!イテテッ!いてーよ、ベントレー!!」

「当たり前だ、わざと痛く噛んでるんだからな!!」

「な、どうしたって言うんだよ?!」

「…ちぇ!ぽちは忠犬なんだな。飼い主がよそ見してても、只管ジッと見詰め続けるんだろ?可愛がってくれるその指先だけを待ち侘びてよ。ゾッとしない話じゃねーか!」

 いまいち、ベントレーが何を言いたいのかよく判らない。
 そもそも、俺は犬じゃないんだが…と、那智ウィルスが蔓延してそうなベントレーに幾ら言い募ったところで、どうも堂々巡りにしかならないような気がして、俺は派手なクエスチョンマークを背後に背負ったままで黙り込むしかないように思えた。

「なんかもう、あったまきたな!飯でも喰うか!!行きつけがあるんだ。今夜はそこで我慢しろよ?」

「…う、うん」

 独りでいきなり腹を立てて、それから思い出したように消沈させてしまうベントレーの不気味な行動に、俺は息を呑みながら頷くしかなかった。
 とは言え、俺の腹の虫が盛大に食い物を求めた…ってのが、ベントレーの中の怒りに水をかけて、消火させてしまったのかもしれないけどな。

 四方を薄汚れた、嘗ては白かったのだろう灰色の壁に囲まれた些末な病室に、荒い息が響いていた。
 単調に響く電子の音は、その病室に横たわる者の生命の在り処を知らせているようでもあり、物悲しげに響いている。その音に被さるようにして、二匹の獣の交じり合う淫らな気配がしていた。

「ッ…うぁ…はぁはぁ…ッ」

 静まり返った病室には切なそうに求める声が響いて、荒々しい呼気を繰り返すその口唇に、その身体に、覆い被さるようにして抱き締める男が、うっとりと口付けた。

「…くぅん…っぁ!…あ、…な、那智!」

「蛍都…好きだよ」

「…死に…やがれッ」

 まるで無表情と取れるかもしれない冷めた双眸で、それでも熱く滾る蛍都の内壁を抉るように腰をグラインドさせて楽しむ那智に、蛍都と名前を囁かれた男はニヤリと嗤うと、その耳朶を噛み締めながら嘯いた。
 いや、殺してやろう…と。
 褐色の肌は浅黒く、引き締まったウェストには深い、ともすれば致命傷にもなりかねない傷痕が出鱈目に刻まれている。その膚を確かめるように那智の腕が辿ると、蛍都の男らしい釣り上がり気味の殺意を秘めた双眸がすっと細められて、空いている腕が緩慢な仕種で持ち上がると…

「ッ」

 那智の顔を歪めるほどには強い力でもって、蛍都はその脱色し過ぎて痛んでしまった黄褐色の髪を強引に引っ張ったのだ。
 そんな風に無体に扱われても那智は、まるで貼り付けたような笑みを口許に浮かべたままで、憎らしげに双眸を細めている蛍都に口付けた。
 額に薄っすらと浮かんだ汗も、那智のスレンダーな体躯も、全てが組み敷いている蛍都よりも華奢ではあったが、力強さは互角か、はたまた上回っているに違いない陵辱者を、ベッドのシーツを乱しながら古くからの相棒は唇の端を捲り上げて見詰めている。
 狭い病室に秘めやかな湿った音が響いて、もう何度もそうして那智を受け入れている後孔が淫猥にひくつくと、まるでゴムで出来た輪のように傍若無人に暴れる陰茎を締め上げた。滑る前立腺を亀頭でゴリゴリと擦り上げれば、その時になって漸く蛍都の口許から愉悦に濡れた声が漏れる。
 ねち…っと、カテーテルの埋まった陰茎を震わせながら腰を振る蛍都の根元を、やわやわと掴んだ那智が尿道を犯しているゴムの管を確認でもするかのように揉み込むと、犯されている男は唇の端から透明な唾液を零しながら頭を激しく振ったのだ。

「…ひぁッ!…あッ、…ふゥん…アッ…ッ」

「そんなに頭を振ったらさぁ…また気分、悪くなるし?」

 耳元に囁くようにして呟けば、忌々しそうに眉を顰めた蛍都がニヤッと嗤って、鼻先が触れ合いそうなほど顔を近づけている那智に乱暴なキスをした。

「ふん…ッ、…体調を崩せばッ!…辛いのはお前だ」

「…つれないね、蛍都。こんなに大好きなのにさー」

「なんとでも言え…ッ」

 柔なベッドが悲鳴を上げるようにスプリングを軋らせ、動くことを放棄してしまってから長い不自由な右足を抱え上げられたまま、蛍都は那智の腰に片足を絡めながら更に奥へ、もっともっと…とせがむように唆すように内壁を蠕動させる。その痛いほどの締め付けの合間に、たゆたうようにやわやわと絡み付いてくる滑る腸壁の感触に、那智は目許を染めて亀頭で蛍都の最も奥深い場所を抉るのだ。
 蛍都の熱く滾る前立腺を激しく擦りながら、殆ど抜けてしまいそうなほど腰を引くと、また粘膜をわざと押し開くような虫の這う速度で踏み入った。そうすると、奇妙な排泄感と圧倒的な圧迫感に翻弄されながら蛍都の熟れた内壁が蠢くようにして那智の陰茎に絡みつく。

「ふ…ぅア!…ん、…クゥッ…ぁ」

 くちゅくちゅと粘着質な音を響かせて、那智は先走りで滑る鈴口から力なく垂れたカテーテルのゴム管を抓むと、膀胱に納まっているはずのそれをずるりっと引き抜こうとして蛍都を喘がせた。
 狭い尿道にいっぱいに納まっているゴム管に、まるで嫉妬でもしているかのように那智は、カテーテルを乱暴に出し入れしながら蛍都の耳朶を甘く噛んだ。

「こんなところにこんなモノ咥え込んでさ。どんな気分なワケ?ムカツクんですけど。ここに、突っ込みたいぐらい」

「…ッ!…んな、こと…ッ…んぁ!」

 押し殺したように喘ぐ蛍都はだが、たった今那智に尿道を犯されているような錯覚に眩暈を感じ、出入りするカテーテルのゴム管を求めるようにして腰を振れば、図らずも締まった尻で那智の陰茎を頬張る結果になってしまう。その快楽に漸くうっとりと笑う那智の顔を睨みつけながら蛍都は、そのくせ恍惚とした双眸で誘うようにペロリと唇を舐めた。

「オレのセーエキ飲んでよ、蛍都」

 いつも飲ませているくせに…蛍都はうんざりしたように、誘うように双眸を細めたが、毎回ゴムも着けずに胎内の奥深い場所に砲弾を撃ち込む那智の我が侭に、それでもそれでしか達けなくなってしまった自分を自嘲とも悦楽とも言えない顔で笑いながら、那智を咥え込んでいる襞を押し開くように指先で広げてニヤッと笑った。

「ここは病院だ。思うさま吐き出すといい」

「ゾクゾクするね。大好きだぜー、蛍都」

「ふん」

 ニヤッと笑う那智に唆すような双眸を向ける蛍都は気付かなかった。
 突発的にカテーテルと同時に、胎内の奥深いところに納まっていた陰茎までずるりと引き抜かれて、蛍都がギョッとするよりも早く蛍都の陰茎の先端に那智の鈴口が押し当てられる。

「何を…?」

「飲んでくれるって言ったじゃん」

 那智がご機嫌そうに笑うと、一抹の嫌な予感を抱きながらも蛍都は、まだ那智を咥え込んでいると勘違いでもしているように収斂を繰り返す後孔から先走りをとろり…っと零しながら、両足を大きく割り開いてクスクスと笑って自ら陰茎を支えたのだ。

「いっぱい挿れろよ?」

「蛍都、大好き」

 思わず語尾にハートマークでも飛ばしそうなほどご機嫌に笑いながら那智は、そんな蛍都を片手で抱き締めながら口付けた。

「…んぁ!…ひ…痛ゥ…クッ!」

「…ッ」

 二、三度軽く扱いただけで、蛍都の胎内で悦楽に濡れていた陰茎は大きく膨らむと、その狭い尿管にゴプッと粘着質な音を響かせて白濁の奔流を叩き込んだ。尿道をジリッと焼くような錯覚がして、蛍都は本来なら排泄すべき場所に大量の精液を受け入れてしまい、なんとも言えない疼痛と快楽に口許から唾液をボタボタと零してしまう。
 完結はしていなくとも、どうやら蛍都も達ってしまったようだ。
 後孔が淫猥にひくついて、もうどちらのものとも言えない精液が陰茎の先端からプクリと浮き上がり、そして力なくぼたぼたと蛍都の浅黒い膚を汚していった。

「ぅ…あ、はぁはぁ…」

 ぐったりと弛緩してしまってベッドに倒れ込む蛍都の腕を掴んだ那智は、ガクンッと身体を揺らして見上げてくる色素の薄い双眸を覗き込んだ。
 全裸の蛍都は情事の名残りを艶やかに身に纏っていて、こんなところを彼の主治医が見れば目をむいて怒るか…さもなくば、その色香に惑って彼を犯してしまうだろうと考えて、その有り得ない妄想に那智はクスッと笑ってしまう。
 自分以外の誰かがこの引き締まった男らしい体躯に、性的な意味で触れれば、いやそれ以外でも、この男の身体に触れればその息の根すら止まってしまうだろう。
 浅羽那智が宝物のように大事にしている蛍都は、幾つもの戦場を駆け抜けた鍛え抜かれた褐色の体躯を持つ、色素の薄い髪と双眸の凶悪な殺気を纏った男らしい死神なのだ。けして、男に抱かれて喘ぐような存在ではない。
 その蛍都を、地獄に叩き落したのは…

(オレ)

 那智が貼り付けたような笑みを浮かべた。
 その顔を、蛍都が何よりも嫌っているのを、知らない那智ではない。

「貴様はまたその顔をしやがるんだな。いったい何処で覚えた?」

「忘れた」

「ふん、まあいい」

 まるで何かを見抜こうとでもするかのように双眸を細めた蛍都はだが、掴んでいる那智の腕を厭うように振り払ってベッドに腰掛けると脱ぎ散らかした患者用のガウンを羽織った。

「今日は端から機嫌がよさそうじゃねーか。いったい何があったんだ?」

「はーん?オレ、機嫌がよさそう??」

 自分でも気付いていないのか、身支度を整えた那智は訝しそうに眉を寄せて顎を擦っているが、口許はニヤニヤと笑っている。
 その仕種で、長年の付き合いである蛍都は那智の機嫌のよさを悟っていたが、本人は自分のことをいまいち把握はしていないのだろう。

「それはやっぱり、今日が月曜日だからさぁ」

 ニコッと笑う那智に、蛍都は呆れたような、馬鹿にしたような目付きをして溜め息を吐いた。

「くだらん」

「蛍都に逢えるのは月曜だけだし?蛍都がいるだけでいいワケよ」

「…くだらんな」

 那智の愛の告白をうんざりしたように蛍都は眉根を寄せて吐き捨てた。
 この世から蛍都が消えてしまったら、恐らく那智の存在もなくなってしまうだろう。そう思っているのは那智だけなのか、この狭い病室で曇天の空から降り頻る雨に濡れた灰色の町を見詰める蛍都にとって、その言葉はくだらない足枷であり、捨ててしまいたい重荷だった。
 何度身体を重ねたとしても、それはあくまで性的欲求を満たすための運動であり、それ以外の何ものでもないのだ。

「来週末には退院できるそうだ」

 これ以上、不毛な会話をしていたくない蛍都がどうでも良さそうに呟くと、那智は一瞬ポカンッとしたが、ハッとしたようにして嬉しそうに笑ったのだ。

「マジで?鉄虎たちに報せないとなぁ」

「ヤツらはまだくたばっていないのか?」

「下弦も元気そうだぜぇ?」

 ニヤッと笑って頷く那智に、蛍都は気のない返事をして、それから徐に色素の薄い仄暗い殺気を纏った視線を、目の前に立っている漆黒のコートに身を包んだ暗黒のネゴシエーターに向けた。

「どうでもいいが、那智。臭ぇぞ。何か匂うな。プンプンする」

「え?」

 ギクッとしたように片方の眉をクイッと上げる那智に、蛍都は探るように双眸を細めてみせる。
 人殺しをした…と言っても鋭い蛍都のことだ、だからなんだと言い返されてしまうだろう。
 だが…言わないといけない。
 蛍都が嫌っていると知っていたんだけど。
 那智がほんの一瞬、しょんぼりと目線を落としたことに気付かない蛍都ではない。

「言え」

 顎をクイッと上げて促す愛しい人に、那智は貼り付けたような笑みを浮かべたままで肩を竦めて見せた。

「犬を…飼ったワケ」

「犬だと?お前はまたそんなくだらないことをしているのか。言わなかったか?俺は犬は嫌いだ」

「…判ってるけど」

「俺が戻るまでに捨てておけよ」

 日頃なら蛍都の言葉は即ち絶対で、即座に返事が返ってくると思っていた蛍都はだが、困惑したように笑ったままで固まっている那智に気付いて眉間に皺を寄せた。
 それでなくても長いこと病院に縛り付けられていたのだ、虫の居所はとっくの昔に悪かった。

「俺の機嫌をこれ以上悪くさせる気か?なんなら、その犬は俺が殺してやる。さもなければ、お前の場所に俺が戻らないと言うだけだ」

「それは!…嫌だよ、蛍都」

 ソッと目線を伏せる那智に、それまでの気迫が消え失せていた。
 蛍都だけがこの世界の全て。
 蛍都だけを守らないと。
 蛍都がいなくなってしまえば。
 こんな腐敗した世界などもういらない…
 それは昔からの那智の想いだった。
 それは揺るがないはずの不変の気持ちだった。
 なのに…なぜ?

「判ったか?那智」

「蛍都…でも、犬は弱いし?こんなクソみてーな町に放り出したら死んでしまう」

「知ったことか。その犬と俺、選ぶ権利をくれてやるんだ。さっさと答えろ」

 揺るがない自信に満ち溢れた蛍都の色素の薄い双眸を、弾かれたように見詰める那智の瞳にはいつものふざけた光は微塵も浮かんでいない。
 ああ、でもそうか。
 那智はふと考えた。
 長年連れ添った大事な相棒であり愛しい人と、つい最近、気紛れで拾ったぽちを比べるほうがどうかしている。
 ただ単に、漸く懐いてきたあの犬を、手離してしまうのが惜しいような気がしていたに過ぎないんだろう。

「判ったよ、蛍都。蛍都と比べられるワケないし?ぽちは捨てる」

「…当たり前だ。馬鹿馬鹿しい」

 嫌気がさしたように瞼を閉じた蛍都は、枕代わりにしている大きなクッションに疲れたように凭れてしまった。
 遠い昔の思い出が、那智を素直にさせたのだろう。
 蛍都はふと思った。
 『あの場所』で、那智が拾って可愛がっていたずぶ濡れの野良犬を、気に喰わないから捨てろと言ったのに那智は捨てなかった。その反抗的な態度にカッと頭に血が昇った蛍都は、無言のままでその犬を血祭りに揚げていた。
 仕事から戻ってきた那智は、降り頻る雨の中で呆然と立ち尽くして、口の端から長い舌をだらりと垂らして息絶えている犬を見下ろしていた。泣くことも笑うこともしなかった当時の那智は、何の感情もなさそうに血塗れで死んでいた犬の身体を抱き上げて、暫くそうして雨に濡れていた。

「お前が犬を飼うだと?命を奪うことを何よりの糧にしているお前が?…笑わせるな」

「…判ってるさぁ。ただ、懐いたら可愛いし?蛍都も今度、何か飼ってみれば?」

「お前を飼っているから俺はよかろうよ。それよりも、そろそろ殺したくてウズウズしてるんだぜ?」

 瞼を開いて何事かを企むようにニヤッ…と、腹の底から冷えるような笑みを浮かべる蛍都の、その昔どおりの凄味に鳩尾の辺りをゾワゾワさせながら、那智はワクワクしたようにニヤ~ッと笑った。
 大好きな蛍都との殺戮の日々が戻ってくるのだ。
 どれほど長いこと待ち望んでいたか…その時を夢見るようにニヤニヤと笑う那智の、その胸の奥が微かに痛んだことを、蛍都はもちろん、那智ですら気づかないでいた。

 堕ちていく、錯覚に。
 溺れてしまう…過去に。
 救いを捜し求めて伸ばした指先に。
 無常に触れる、恋しいあなた。

8.こころ  -Crimson Hearts-

 ぽちに別れを告げてから、那智が今にも倒壊する恐れもあるんじゃないかと思わせる、そのボロいビルの二階から砂利だらけのアスファルトに着地したときには、既に取引相手であるSRSの連中は路地に立っていた。
 派手な真っ赤なコートに身を包んだ三人組は、ともすればヘビのように纏わりつく、嫌な目付きをした連中だなぁとぽちは窓枠に手をかけて、眼下の路地を見下ろしながら思っている。

「那智くん、相変わらず美しいねぇ」

 今にも抱き付きそうな勢いで、SRSの先頭に立つ男、恐らくリーダーなのだろうが、彼はコートの裾を翻して立ち上がったなんとも面倒臭そうにニヤニヤ笑いながらぼんやりしている那智に、その黒革の手袋を嵌めた両手を差し出した。が、もちろん、そんなことを気にするような男ではないのが、那智の那智たる所以なのだが。

「鉄虎ぁ、今日の品物ってなに?」

「あ?あー…食料と武器だ」

「はーん…SRSつったら、武器しか能がねーもんなぁ」

 面倒臭そうにまるきり無視した那智が首を左右に振ると、鉄虎がクククッと人の悪い笑みを浮かべ、ベントレーが呆れたように肩を竦めている。
 そんな彼らの態度を別段、気にもとめていないのか、或いは慣れているのか、どちらにしろSRSのリーダー格らしき男は伸ばしていた腕を仕方なく腰に当てると、舐めるような目付きで繁々と久し振りに会う愛しい人を舌なめずりでもしてるんじゃないかと言う勢いで見詰めている。

「今日は那智くんの為に、私が特別にプレゼントを用意したのだよ。ゼヒとも、受け取って貰い…」

 流れるような、腰までもある茶髪を無造作に後ろで束ねている男の、その台詞が終わりもしないと言うのに、那智はぼんやり笑いながらベントレーに言ったのだ。

「借りるぜ?」

「は?」

 ベントレーが首を傾げるよりも早く、ツンツンに立てた髪をヴィヴィッドなオレンジに染めた青年の、その腰に隠されたホルダーから45口径を2丁、素早く引き抜いた那智は電光石火で笑いながら発砲していた。
 それは或いは向かいのビルに、もう一方はまるで見当外れな倒壊寸前のような3つ先のビルに向けて…
 那智はまた驚くことに、そのどの標的にも視線を向けてはいなかった。
 野生の生き物が本能で動いたような、そんな錯覚すらも起こしそうになる一瞬の出来事だった。

「ベントレー、またカスタマイズした?2ミリずれる。うざー」

 声すらも上げる暇などなかったに違いない銃器を携えた男達は、まるで無口にビルからどさりと重い音を立てて落ちてしまった。

「ああ!?また勝手に人の銃を使いやがって!!俺専用なんだからいいの!」

 そんなことを言いながら引っ手繰ろうともせずに額に手を当てるベントレーの腰のホルダーに、那智はキチンと2丁の45口径を戻してやった。

「2ミリもずれると眉間を狙えないし?ま、ベントレさまの腕じゃそれでいーのか」

「…そりゃ、どう言う意味だよ?ああ??」

 シレッとしてニヤニヤ笑う那智を振り返ったベントレーの額に血管が盛り上がっていて、どんな理不尽なことでも仕方なさそうな顔をして受け入れているこのオレンジのツンツンヘアの男には、それほどまでに愛用しているカスタマイズ済みの45口径が大事なのだろうと、ぽちは一部始終を呆気に取られたように見ながら思っていた。

「さすが!…いや、全くお見事。それでこそ私の那智くんだ」

 パンパンパンッと、やたら気障ったらしく手を叩いて喜ばしそうにフッと笑う赤コートの長髪野郎に、ニヤニヤ笑いながら呆れているらしい那智は肩を竦めると、今更気付いたとでも言うように眉をヒョイッと上げたのだ。

「ああ!クルーガー。あれ?お前、SRSにいたっけなぁ??」

「…私はSRSのネゴシエーターどもを総括しているリーダーだ」

 あからさまに馬鹿にしたように聞こえる口調も標準装備の那智だと知っているのか、それでも声音は先程よりもワントーン低くなったような気がする。

「おお、そうか!私としたことがしまった。今回のプレゼントが気に喰わなかったのだね、マイスウィート!」

 大袈裟に額に片手を当てながら胸元を押さえるクルーガーに、ぽちはどんな人種なんだろうアイツはと思いながら、そのとき那智が、いったいどんな顔をしているのか見てやろうと目線を移した。
 呆れたようなうんざりしたようなベントレーの傍らで、何が面白いのか鉄虎がニタニタと笑い、その前で漆黒のコートの腰を両手で掴んで面倒臭そうに突っ立っている那智は何やら企んでいるのか、ニヤニヤニヤニヤ、ある意味何か恐ろしいものを感じてしまう笑みを浮かべている。
 そんな那智に気付いているのかいないのか、それとも那智の心情は即ち自分へと一心に傾けられているとでも思っているのか、大きな勘違い野郎さまは困ったように眉を寄せながら嬉しそうに笑ったのだ。

「この次の取引のときは美味しそうな若者を用意するよ。あのようなところに隠れていたとは…おおかた、ドラッグでもやっていたんだろうね。申し訳ない」

「なー、鉄虎ぁ」

「なんだ?」

「オレはコレも飼ってみたいんだがなぁ…ククク」

「やめとけ」

 同じく内心で「やめとけ」と言ってしまったぽちは、呆れたように自分を見上げているベントレーと目が合ってしまった。その目付きは、那智ってのはこんなヤツなんだが、ちゃんとついて来れてるか?と言いたそうに見える。ぽちは、なぜかそんな風に溜め息を吐きながらも仕方なさそうに那智たちに付き合っているこのベントレーと言う男を、仲間たちが噂していたほど冷酷なヤツではないように思っていた。
 大丈夫だとジェスチャアで示すと、ヤレヤレと言いたそうにベントレーは肩を竦めて首を振っている。

「いや、那智くん!この際だ、どうだね?古めかしい戒律のあるタオなど抜けて、私の許へ来ないかね?君ならば喜んで歓迎するよ。もちろん、ベッドの中まで一緒だ」

「ベッド?」

 ふと、那智が口許に笑みを貼り付けたままで首を傾げると、何かまたしても勘違いしたのか、クルーガーはパッと表情を綻ばせて、またしても嬉しそうに両腕を差し出すのだ。

「モチロンだとも、那智くん!朝も昼も夜も、私は君を離さないだろう。マイハニィ!さあ、私の腕の中へ!!」

 目許の泣き黒子が色気のある、冷たい美貌のクルーガーは、そんな吐きそうな台詞さえ言わなければ一流のネゴシエーターだと良く判る。使用する武器は恐らく、ベントレーと同じで、いや或いは、そのコートの中にえぐい兇器をわっさり抱えているんじゃないかとさえ思えてしまう、胡散臭さだ。
 仲間のSRSの連中すらも蒼褪めて、暴走する自分たちのリーダーに「おいおい」と言っているような有様だ。

「ベッドねぇ…あのさぁ」

 ふと、那智がニヤニヤしながらクルーガーを見詰めた。
 まるで愛の告白でも待っている乙女のように、長髪を優雅に揺らして頬を染める期待に満ち溢れるクルーガーが、そんな那智を熱っぽい眼差しで見つめ返した。
 そんなSRSのリーダーの前でスッと腕を持ち上げた那智は、吃驚するぽちを指差してニッコリ笑ったのだ。

「あそこにぽちを待たせてんだよなぁ。オレ、さっさと帰りたいし?早く荷物を見せろ」

「ぽち…?なんだね、それは」

 ふと、眉間に皺を寄せてギロリと見上げてきたクルーガーに、ぽちは一瞬息を呑んでしまった。
 まるで、そうだまるで、蛇に睨まれた蛙のように身動きすら出来ない威圧感は…彼が、間違えることなく勢力を誇るSRSの、荒くれどもを統括しているボスなのだと言うことを物語っている。
 全身から吹き零れる殺気は舐めるように路地に蟠るが、那智も鉄虎も、ましてやベントレーですらどうでも良さそうな顔をしている。いったい、タオのネゴシエーターはどれだけ凄いんだ!?と、ぽちが思ったかどうかは定かではない。

「首輪をしているようだが…?」

 ムッとするクルーガーに、とうとう噴出してしまった鉄虎が目尻に浮く涙を親指の先で拭いながら肩を竦めると、クックックと笑ってその疑問に応えたのだ。

「お前さんの那智様がお拾いなすった捨て犬さぁ。ぽちっつってなぁ、ええ?そりゃあ、可愛いもんだぜぇ。あれで耳と尻尾がないってのは下手な冗談より性質が悪ぃよなぁ」

「バカだな、鉄虎。あれだからいいんだ。なまじ尻尾があると振って欲しくなっちまうだろぉ?」

 ムッとしたように眉根を寄せてニヤニヤ笑っている那智のと、そのなんとも言えない壮絶な顔付きも意に介さない鉄虎の会話を聞いていたクルーガーは、途端に不機嫌そうなオーラを垂れ流しにして腕を組むと、けして逸らさない双眸に更なる憤りを込めてぽちを睨み据えている。
 その目付きに、もともとただのコソ泥だったぽちに好奇心以外に睨み返すなどと言う度胸があるはずもなく、思わず腰を抜かして失禁でもするところだった。
 それだけの殺意が込められた目付きだったのだ。

「ぽちをさぁ、睨んでじゃねーぞ!この変態クルーガーがよぉ。おめーは那智にだけ血迷っとけばいいんだよ!」

 指を気障ったらしくパチンッと鳴らして、苛立たしそうなリーダーの合図で二人掛かりで持ってきた木箱を思い切り蹴り上げたベントレーが忌々しそうに言うと、那智に血迷っているからこそ不機嫌なクルーガーが殊更嫌そうな顔をして腕を組んだ。

「ベントレーくんは短気が欠点だね」

「うるせーよ!お前に言われたかないね」

「いやぁ?ベントレーはお人好しがいまいちっつーだけだなぁ」

「そうじゃない。ベントレーはぽちに優しいだけさ」

 憎々しげに吐き捨てるクルーガーに牙をむくベントレーの背後で、鉄虎がニヤニヤしながら言うと、那智がオレには冷たいんだぜーとニタァ~ッと笑っている。いったいお前たちは誰の味方なんだとぽちが真剣に悩み出したときには、漸く彼らはネゴシエーターとしての仕事を始めたようだった。

 散々易く叩かれたものの、思う以上の収穫があったのか、SRSのネゴシエーターたちは顔を見合わせると納得して取引を成立させた。その立ち去り際に、抱き締めたそうに名残惜しげにいつまでもうだうだと未練がましく居残っていたクルーガーは、だが、そんな彼をサッサと残した那智がまたしても砂利だらけのアスファルトを蹴って廃ビルにぽちを迎えに行ってしまうと、仕方なさそうに、そして地獄の底から恨めしいと思っているような目付きをして戻って行った。

「クルーガーって言ったっけ?すげーな、俺初めてSRSのネゴシエーターを見たよ」

 身軽な仕種でトンッと窓枠に乗った那智を見上げながら興奮の冷め遣らぬぽちが言うと、那智は何がそれほどぽちの好奇心を満たしているのか判らず、結局どうでも良さそうに肩を竦めてビルの床に降り立った。

「クルーガーに会えて嬉しいワケ?ふーん」

「いや、嬉しいとかそう言うんじゃなくってさ。まだ、グループにいた時、仲間は見たことがあったんだけど俺はてんでダメで、きっと死ぬまでネゴシエーターとは会わないんだろうと思ってたからさ」

「…オレも、ネゴシエーターだけど?」

「ああ、知ってるよ。この町でタオのネゴシエーターの浅羽那智って言ったら、神様と一緒だ」

「神さま?はーん…随分と安っぽい神なんだなぁ」

 那智があの、瞼を閉じる独特の笑みを浮かべたままで肩を竦めてみせた。
 那智にしてみたら、どうして自分がそんな馬鹿げたものに奉られなければいけないのかとでも思っているのだろう、肩を竦めて直接床に腰を下ろしているぽちの傍らにしゃがみ込んだ。

「なに言ってんだよ!那智は強いんだ。俺みたいな底辺を這いつくばって生きいる連中にしてみたら、こうして話してるのだって奇跡じゃないかと思っちまうぐらいなんだぜ」

「…そのワリにはさぁ、最初の頃は思いきり威嚇してたし?何言ってんだか全然判んねーよ」

「し、信じられなかったんだ。あの那智が俺なんかを拾うなんて…つーか、こんな性格とか全然知らなかったしな」

 ブツブツ言うぽちの顔をニヤニヤ笑いながら覗き込んでいる那智に、ぽちは嫌な予感を感じながら眉を寄せて、そんな最強のネゴシエーターを見返した。と言うか、睨み返した。
 なぜか、あれほどクルーガーには恐怖心しか感じなかったと言うのに、那智にはそんな気持ちがこれっぽっちも沸き起こらない。それはきっと、那智が本気の怒りだとか、殺意と言うものを匂わせないからなどと言うことに気付けるほど、ぽちはまだ人生経験が足りてはいない。

「どう言う性格?…ぽちは面白いことばかり言うなぁ」

「面白いのは那智の方だ」

「あ?そうかぁ??」

 ニタァッと笑って擦り寄るようにして近付いてくる那智に、なにやら只ならぬ気配を感じて、ぽちがちょっと後退さった。が、その腕はすぐに掴まれて、ぽちは気付けば那智に抱き締められていた。

「なな、なにすんだ!?」

「本当は喜んでるくせに。犬はこんな風にヨシヨシと構ってもらうと嬉しいんだろ?」

「そりゃ、犬だったらだろ!俺は犬じゃないし…だいたい那智は俺のこと犬とか言いやがるけどなぁ」

「ぽちは犬だし?なに言ってっかわかんね」

 この可愛い犬はどうしてしまったんだろう?どうしてご主人様が可愛がっているのに威嚇してるんだろう…と、那智の張り付けたような笑みの表情からでは読み取れないものの、どうやら困惑していることは確かなようだった。
 そもそも、だがぽちは最初から那智は少し変わっていると思っていた。だから少々珍奇な台詞を言ったとしても、それが那智のモチベーションなら仕方ないのかもしれない、とまで思っていたのだ。だが、どうして那智は自分のことを『犬』だと言ってきかないのか判らない。
 尋ねたところでこの男は、ニヤニヤ笑いながら「犬は犬でしょ?」と言うだけだ。
 那智は満足そうに膝の上に抱え上げた大型犬もどきのぽちの頭をヨシヨシと撫でながら、ちょっと嬉しそうな顔をしている。
 そこでふと、ぽちは思うのだ。
 もしかして那智と言うこの、泣く子も黙るタオ最強のネゴシエーターは、人一倍の寂しがり屋なのかもしれないと。そんな恐ろしい妄想を青褪めながら考えてしまう自分は、いったい何を考えてるんだと危うげな思考を振り払おうと首を微かに振ってしまった。
 それでも。
 ぽちは思う。
 仕事が終わると確かに一直線に家を目指して帰ってきていたこのニヤニヤ笑いの男は、窓辺から見下ろしているぽちの姿を認めると、一瞬、本当に僅か一瞬にすぎないのだが、ホッとした顔をしてニヤァッと笑うのだ。
 那智にとってぽちはただの犬なのかもしれない。
 多くの人間を生きる為に殺している那智にしてみたら、犬と言う傀儡に隠された人間であるぽちを傍に置くことで、長く不在している心の拠り所を見つけたつもりになって自分を慰めてるのかもしれないなぁ…と、そんなことを思っていたぽちは、それから唐突に自分は何を考えているんだろうと激しく照れてしまった。
 ぽちは溜め息を吐いて、それから大人しく那智の血臭の漂う胸元に頬を寄せた。
 つい先ほど、喰らうために殺した人間から溢れ出た夥しい血液の生臭い匂いは、まるで死神のように那智に付き纏っている。
 帰ってきてからすぐに浴室に直行する那智の心は、思うほど冷たいわけではないのか…付き纏う血臭を一番毛嫌っているのは、ともすれば那智だったのかもしれない。
 ぽちは、人間に抱き締められることが何よりも、嫌だった。
 できればソッと、突き放してくれる方が楽なのに、と思っていたのだ。
 なぜならそれは、ぽちは人間が嫌いだったからだ。
 半ば、犯されるようにして関係を結んだ娘は、彼を利用して、そして彼から最愛の養父母を奪って行った。それから孤独になった彼は、薄汚い路地裏を徘徊しながら、それこそ残飯でもなんでも漁って、明日のために必死で足掻きながら生きていた。そうまでして、この荒んで見捨てられた世界にしがみ付いていたのは、彼には養父母が遺した幼い妹がいたからだ。
 妹のために、まともな食事は全て彼女に食べさせて、自分は落ちたものでも誰かが投げ捨てた食べ残しでも、それこそなんでも口にして空腹を満たしながら、ケチな盗みを繰り返して夜に怯えながら妹と肩を寄せ合って生きていた。
 それが、このクソッたれな世界で唯一遺された幸福なのだと、彼は信じて疑っていなかった。それは妹も同じだったのか、瑣末なねぐらで極力目立たないように熾した小さな炎で暖を取りながら、彼の妹は幸せそうに笑っていたから…
 だが…彼の目の前から、驚くほど呆気無く、その幸福は掻き消えてしまった。
 彼は、那智に会うまで属していた強盗集団の頭領に、手酷く犯されたのだ。何が気に食わなかったのか、或いは理由もなく目障りなだけだったのか…いずれにせよ、彼は3日3晩犯され続け、それからほぼ監禁状態で長いこと拘束されていた。
 妹が、お願いだから妹がいるから…帰してくれと泣く彼の前で、強盗集団の頭領はゲラゲラ笑いながら言ったのだ。
 お前の妹は餓死した、と。
 どれほど、あの小さな妹は恐怖に怯えながら空腹に苦しんだんだろう。
 可哀相な妹は、ひもじさを凌ぐために枯れかけた草を食い、落ちている砂利を口にしていたと言う。 
 なぜ、そこまで知っていながら助けてくれなかったんだと出鱈目に暴れて叫んでも、あの男は馬鹿にしたように。

「人間が死ぬところを見たかったからだ」

 と、酒に酔ったまま笑いながらそう言った。
 彼は嘆き悲しんで、ああそうかと、その時になって漸く気付いたのだ。
 自分が嬲り者にされて監禁されたのは、たった1人の小さな妹を死の淵に追いやる為だったのだと。
 自分さえいなかったら…養父母が死ぬことも、妹が死ぬこともなかったに違いないのに。
 彼は一方的に叩きつけられた残酷な仕打ちによって、たったひとつの大切な幸福を奪われ、心まで亡くしてしまったのだ。
 それから彼は、もうずっと、毎日死ぬことばかり考えるようになっていた。
 だが、できることなら、必ずや妹の仇は討ってやらねばと思い、妹が死んでからまるでもう興味がないとでも言うように打ち捨てられた彼は、奥歯を噛み締めてこの腐敗した世界でもう一度死ぬ為に必死で生き続けたのだ。
 だが、妹の時と同じように、強盗集団の頭領も呆気無く死んでしまった。
 その現場を、頭領を付け狙っていた彼は偶然見てしまったのだ。
 ヴィヴィッドなオレンジのパーカーを着た、目深にフードを被った男がブラブラと裏路地を歩いていた。
 強盗の頭領はソイツを獲物にして、今夜の酒代とでも思ったのだろう。
 だが男は、フードの奥に隠れた酷薄そうな薄い唇をニヤッと歪めて、集団で襲いかかる連中を悉く殺してしまった。その素早さは驚くべきもので、手にした特徴的な銃身の長い銃を器用に操りながら、応戦する連中のひとりひとりを、まるでちょっとした体操のように残酷に殺していった。
 ある者は、驚くほど呆気無く、その身体に挿し込まれた腕で心臓をもぎ取られ、ある者は軽く首を圧し折られ…頭領は四肢の自由を奪われると、一番最後に跪いた格好のまま、怯える眼窩に指を捻じ込んだパーカーの男が、断末魔のような悲鳴を上げる頭領の目玉をずるり…っと、眼窩から引き摺りだすと視神経が切れずに血液と一緒に引っ張り出され、ぶつりと千切れた。
 連中を殺しながら笑っているのだろう男を、彼は驚きと、そして恐怖に震えながら見詰めたものだ。
 命辛々逃げ出した彼は、走りながらそれでも笑っている自分に気付いて、とうとう狂ってしまったのかと、どこかでホッと安堵していた。
 翌日、それなりにダウンタウンで名を馳せていた強盗集団の頭領の凄惨な殺害現場の噂は、噂話にすら事欠くような腐敗した町には瞬く間に広がったと言うのに、誰一人として、頭領を殺した人物を知る者はなかった。
 そう、彼ひとりを除いては。
 高い酒代を払ってしまった頭領の死は、少なくとも狂うこともできなかった彼から復讐と言う言葉を奪い、生き残ると言う気力さえ奪い去ってしまったようだった。
 まるで心を亡くした人形のようになってしまった彼を拾ったのが、あの強盗集団を引き継いだ今の頭領だった。ケチなコソ泥をしながら、それでも彼がもう少し生きているのは、あの時頭領を惨殺した男に、できればもう一度会ってみたいと思ったからだ。
 なぜか、よくは判らなかったが、殺人を楽しんでいるような男に、嬲り殺して欲しいと思ったのかもしれない。
 そうでもしないと、生きてここに立っているこの罪深い自分は、恐らくこのまま死んだとしても養父母と妹たちに合わせる顔がないのだ。
 そう思い込んで生きていた、そんな矢先に那智に出会ったのだ。
 自分を抱き締めるこの腕のぬくもりに慣れてしまったら、退き返せないような奇妙な予感がして、ぽちは恐ろしくなっていた。

 そうだ、自分はあの男を捜さなければ。

 もう、7年も前に出会った6人を相手しても怯むこともなかったあの男は、那智までとはいかなくても、それなりに強そうだった。
 恐らくどこかで、或いはネゴシエーターでもしているかもしれない。
 あの当時、ちょうど今の那智ぐらいの年齢だったから、あれから7年ほど老けたとしても、今でも立派に人殺しはしているだろう。

「そうだ、那智」

「んー?大人しくなったなぁ、やっぱ気持ちいいワケ?」

 気付けば延々と頭を撫でてニヤニヤ笑いながら抱き締めていた那智に、ハッとしたぽちは顔を上げると、そのニヤニヤ笑っている顔を覗き込んでいた。
 首を傾げながらも頭を撫でる手は止めないから、どうやら本気で、那智はぽちを誉めていたようだ。
 どうして、あんなに『男』に触れられることに怯えていた自分が、この男の腕は振り払わないんだろう?どうして…グルグル脳内を巡る理不尽な思考を振り払うように、勤めて平静を装ったぽちは『タオ』に属している那智なら、或いはあの男の素性を知っているかもしれないと訊ねることにしたのだ。

「アンタに聞きたいことがあるんだ」

「あーん?嘘吐くかもしれないけど、聞くぐらいならいくらでも」

 ニヤニヤと笑う那智にぽちが思わずムッとすると、最強であるはずのネゴシエーターはニヤァッと笑いながら色気も何もない黒髪に頬を寄せて笑っている。

「7年前に…ある強盗集団のボスが殺されたんだけど、知ってるか?」

 ニヤニヤ笑いながら真正面を見据える那智に気付かないぽちは、たぶんきっと、この町では殺人など日常茶飯事で、常にどこかで小競り合いが発展した殴り合いの喧嘩が頻繁に起こっているのだから、毎夜殺人を繰り返す那智が知っていても覚えているはずがないと覚悟は決めている。
 だが那智は、その頭脳をフル回転させて思い出そうとしていた。
 悲しいかな、あまりに他人に興味がないせいか、彼は昨日の仕事内容すらケロッと忘れてしまうのだ。

「ん~…思い出せないなぁ」

「ヤッパリか…じゃ、じゃあさ、那智ほどには強くないとは思うんだけど。オレンジのパーカー…いや、もう着てないかもしれないけど、特徴のある、銃身の長い銃を持った、強い男を知らないか?」

「オレンジのパーカー?銃身の長い…銃?それから強い男…ねぇ」

「タオにいないか?そんなヤツ。強かったから、たぶんネゴシエーターになってると思うんだけどな」

「ふーん…見つけ出してどーするワケ?知り合いなのかぁ??」

 然して興味もなさそうに呟く那智に、ぽちは一瞬息を飲んで、それから諦めたように溜め息を吐いた。
 那智のぬくもりに慣れてしまっていた事実を見せ付けられたような気がして、ソッと瞼を閉じながら決意していたはずの想いを思い出したのだ。
 こんな世界で生き続けるには、あまりにも悲しいことばかり起こってしまって、その疲れた心にこの不可思議な生き物である那智は、ある意味想像以上にぽちを癒していたのかもしれない。
 その事実が、ぽちに反抗心を芽生えさせてしまう。
 照れ隠しが、萎えた心を奮い起こさせるには十分だった。

「殺してもらうんだ」

「…は?誰に?その男を殺せばいいのかぁ??」

「違うよ!俺を…俺を殺してもらうんだ!」

「…」

 那智は黙り込んで、それから不安になったぽちが顔を上げようとすると、ニタァ~ッと笑っているネゴシエーターに頭をその胸元にを押さえつけられてしまった。

「なな、なにす…ッ」

「その男をさァ、見つけ出してたワケ?7年前から追いかけてるのかぁ。誰かの仇とか?」

「…いや、恩人なんだ」

「へー」

 尻上がりの口笛を吹いた那智にしてみたら、恩人などと言う言葉は彼の辞書の中にはないのか、よく判らないなぁとでも言いたそうに首を傾げている。その瞬間には、彼の脳内から彼を迎え入れたはずの『下弦』に対する恩義などはこれっぽっちも残ってはなかった。
 そんな那智に、ぽちはふと苦笑した。

「おかしいよな?こんなクソッたれな町で、恩人もクソもないとは思うんだけど…俺にとってアイツだけは、殺しても殺したりないぐらい憎んでる男だったから。アイツを、あのパーカーの男がまるであっさり殺してくれたとき、この手でなかったことは口惜しかったけど、それでも仇は討てたと嬉しかった。俺は弱いから」

「…」

 無言で聞いている那智は、何かを考えているかのように顎を少し上げてぽちの黒髪を見下ろしている。何を考えているのか読み取らせないその貼り付けたような微笑の下の、素顔を見てみたいとぽちが思ったとしても仕方がない。

「確かに、あの日アイツが死んでから、生きていく希望もなくなったような気はしたけど…でも、どうせ死ぬんなら、あの男に殺してもらいたいって思うようになったんだ。あのパーカーの男は、人殺しを楽しんでいるようなところがあったからな」

「…なるほど、7年前にオレンジのパーカーを着てて、銃身の長い特徴的な銃を持った、人殺しを楽しんでいる強い男ねぇ。はーん?判った、捜してやるよ」

「本当か!?」

 パッと顔を上げるぽちに、那智はニヤニヤと笑いながら頷いた。

「ソイツがさぁ、ぽちを殺るってんなら話しは別だけど?まあ、捜すぐらいなら簡単だし?鉄虎に聞いてやるよ。鉄虎は物知りだからなぁ」

「…ありがとう、那智」

「嬉しいかぁ?」

「ああ」

 ぽちが大きく頷いて見せると、那智はふと、ニタァッと笑ってその黒い髪をワシワシと掻き回した。
 その仕種は乱暴だったが、どこか優しくて、ぽちは那智に向けていた猜疑心がほろほろと崩れ去っていくような気がしていた。

「なんて言うんだぁ?ぽちがさぁ、嬉しそうにしてるとオレも嬉しいのか?」

「いや、聞かれても俺には判らないよ」

「嬉しいんだろうな。まあ、よく判らないけどさぁ」

 そう言って那智はぽちの腕を掴んで立ち上がった。
 さて、そろそろ帰ろうかとニヤァッと笑いながら、「今夜は何が食いたい?」と聞く那智に眉を顰めたぽちが考え込んだ時、路地から鉄虎の張りのある声が響き渡った。

「那智よぉ。今日は蛍都んとこに行くんだろぉ?ぽちはベントレーが送るってよ」

「ゲッ!俺そんなこと言ってね…ふぐぐぐッ!!」

「あー…」

 素っ気無い鉄虎の語尾に被さるようにしてベントレーが何か喚いていたが、不意にその声がくぐもってしまって、どうやら鉄虎に口を塞がれたんだろうなぁと、ぽちは内心であのオレンジのツンツン頭をご愁傷様だと合掌していた。
 そんなぽちの傍らで、その言葉に顔を上げていた那智は、ニヤニヤ笑ったままで「忘れてた」と呟いたが、その顔は、ぽちが今まで見た以上に、頗るご機嫌で、そして嬉しそうだった。
 そんな見たこともない那智の姿に驚きながら、ぽちはソッと眉を顰めてしまう。

(…ケイト?蛍都って誰だ??)

 聞いてみたい。
 だが、ぽちは那智にしてみたらただの野良犬で、気紛れで飼い始めたにすぎないのだから、恐らく答えてはくれないだろう。
 何故か那智は、真剣にぽちのことを犬だと思っているのだから、ぽちがそんな風に思い悩んだとしても仕方のないことだった。

「用事なんだろ?その、気を付けてな」

 この町で最早那智を殺せるものなどいやしないのだろうが、それでも習慣的な挨拶をしてしまうぽちに、既に行動を起こしていた那智は、その時ハッと、ぽちがいたことを思い出したようだった。
 あれほどベタベタしていた那智の豹変ぶりに吃驚するぽちをさっさと抱きかかえると、さらに慌てる可愛い愛犬をまるで無視して、死神だと恐れられるネゴシエーターは有無も言わさずに走り出すとハードルを飛び越える要領で、まるでそこに地面でもあるかのように軽やかに窓から飛び出したのだ。

「わわ!?」

 慌ててしがみ付くぽちを抱いたままで地面に到着した那智は、もちろん那智ともども重力の餌食となって頭をクラクラさせるぽちの両脇を掴んでベントレーに差し出した。
 それはまるで、本当に犬猫の扱いだった。

「夕食がまだだからさぁ、何か食わせといてくれ」

「あぁ?面倒くせーなー」

 それでもベントレーはなぜか嬉しそうにぽちを受け取っている。
 ぽちにしてみたら那智も長身だが、十分、ベントレーも長身だった。だからと言って、軽々と抱え上げられてしまうと、やはり男としては沽券に関わってしまう。

「お、下ろせよ!」

「あー?うるせーなー。下ろして逃がしてみろ、俺が那智に殺されるんだぜ」

「殺されはしないって…って、もう那智はいないのか」

 ギャーギャー、ベントレーと言い合っていたぽちは、ふと、那智の姿がないことに気付いて少しだけしょんぼりとしてしまった。

「那智はよぉ。町外れに薄汚れた灰色の建物があるだろ?あの病院に行ったのさ」

「病院?那智は病気なのか??」

「んなワケないっての。蛍都に会いに行ってんだよ」

 ぽちは、聞いてみようかと思った。
 もしかしたら、那智は教えてくれなくても、ベントレーたちは教えてくれるかもしれない。
 いや、恐らく那智に「犬だ」と紹介されても「へー」で終わった連中である、犬に教えてやる謂れはないぐらいは平気で言うのではないだろうか。いや、或いはアッサリ教えてくれるのか…ぽちがグルグルと思い悩んでいる間に、鉄虎が「先に帰ってるからな」と言って、サッサと木箱を担ぎ上げて立ち去ってしまった。
 まるで那智と同じように、歩いているのに足音がしていない。

「あのさ、ベントレー」

「あーん?」

 ご丁寧に首輪をしているぽちを物珍しそうに繁々と見ているベントレーは、ともすればやんちゃな子供のような表情をしている。珍しいおもちゃを前に、さてどうしようと考えてでもいるのか。
 彼の左右の色が違う双眸を覗き込んで、ぽちは決意したように口を開いた。

「蛍都って誰だ?」

「あ?お前のご主人様の恋人だよ」

「…は?那智って恋人がいるのか??」

「ああ。週に一回、蛍都の調子が悪いときは月に一回しか会えないけどな。那智が『タオ』に来た時から一緒だったから、もう誰でも知ってるぜ」

「…そうだったのか」

 ぽちはてっきり、那智は孤独なのかと思っていた。
 人間を喰らう特殊な嗜好を持っているがために、那智は人間と過ごすことができなくて、彼を『犬』と見る擬似的な感覚で孤独を癒す為に傍に置いている…と、思っていたのだ。
 だが…

(そうか、那智には寄り添いあう相手がいたのか…)

 ふと、どこかホッとしたような、そのくせどこか物寂しい思いを感じて、ぽちはどうして自分がそんなことを考えているんだろうかと首を傾げる。
 那智に恋人がいる、ただそれだけのことなのに、気にしてしまう自分の行動が判らなかった。
 ベントレーの肩越しに見えた空は、俯きがちな今のぽちの心を表しているかのように、どんよりと曇って今にも泣き出しそうだった。

 少しずつ狂いだした時計の秒針みたいに。
 少しずつ狂いだしていく世界の秩序。
 軋む運命の歯車に。
 飛び乗る勇気すらもなくて…