17  -EVIL EYE-

 カタラギに半ば抱かれるような形で、まるで空気を自分のものにしてしまっている真っ赤な髪のエヴィルハンターに連れられて、きっと安河が苦戦してるに違いないあの場所に戻って来た。
 カタラギのヤツは俺が教えなくても、間違うことなくその場所に行ったから…って、こら。
 お前、やっぱり最初から見てたんだな?
 だったらさぁ…せめてエヴィルに襲われる前に助けてくれよ。
 不満そうな目付きで睨んだら、真っ赤な髪の派手なエヴィルハンター様は俺の視線に気付いたのか、不機嫌そうに唇なんか尖らせて言いやがったんだ。

「エヴィルの気配を追ってきたんだよ。お前についてたからな」

 それが本当なのか嘘なのかは判らなかったけど、今はそんなことを探ってる場合じゃない。
 いや、疑ったのは俺だけど…コホン。この際、自分の非は無視しよう。
 カタラギの腕の中から身体を乗り出して、俺は思わず安河!…と、叫びそうになったんだけど、その口は自然と閉じてしまう。
 まるで何事もなかったかのように静まり返ったアスファルトには、風に白いコートの裾を靡かせて立つ、一人の男を除いては何一つ変わったところなんかなかったんだ。
 安河は…キョロキョロしていたら、なんだか、カタラギは嫌そうな顔をして顔を顰めたりしているのに気付いて、俺は首を傾げてしまった。
 いや、今はカタラギどころじゃないぞ!

「…あれ?カタラギ??」

 指先にやたら長い爪を持っているのか、色素の薄い唇でフッと息を吹きかけていた彼は、俺を抱きかかえたままでアスファルトに直撃する勢いで降り立った俺たちを見て、吃驚もせずにキョトンッと眠そうな半目で首を傾げた。
 カタラギの知り合いなのか?
 不意に見上げたら、カタラギはバツが悪そうな顔をして肩を竦めたりした。

「よぉ、キサラギ。なんだ、戻って来てたのか」

「お言葉ですが。僕が戻ってきてはいけない理由とかあるワケですか?」

 カタラギと同じぐらいの長身なんだけど、カタラギよりもほっそりした体型の彼、キサラギは、ムッとしたように唇を尖らせて腰に手を当てると、大人しく抱きかかえられている俺を見てまたしてもキョトンッとしたみたいだ。
 でも、たぶん。
 俺も驚くほどポカンッとしていたに違いない。
 だって、このキサラギってヤツは、何もかもが真っ白なんだ!
 髪も、眉毛も、睫毛も、肌も!
 そして、右目だけが金色のオッドアイなんだけど、その左目も真っ白なんだから吃驚しても仕方ないだろ?!
 …って言っても、虹彩が真っ白で瞳孔部分は真っ黒なんだけど。
「ふぅん、彼がカタラギのハートを射止めた彼女か」

 興味深そうに繁々と俺を見るキサラギから、唐突にハッとしたようなカタラギは、まるでクソガキみたいに慌てて背後に俺を隠してしまった…いや、待て。確かに長身だし、でかいガタイのカタラギの背後に回されたら全く見えなくなるけどよ、俺はそれどころじゃないんだ!
 たぶん、カタラギの知り合いって事は、コイツもきっとエヴィルハンターに違いない…と言うことはだ!安河の安否を知っていてもおかしくないだろ?!

「コイツはお前にはやらんッ…って、こらこら!」

 やっぱりクソガキみたいに口を尖らせて言い募っていたカタラギは、慌てて背中を掴みながら顔を覗かせようとする俺にやんわりとパンチなんかくれてきやがるから、反撃しそうになっちまった。
 いや、いかん。
 カタラギなんか相手にしてる場合じゃないんだよ、俺は!

「あの!…キサラギ?さん!ここでエヴィルに襲われてたヤツがいたと思うんだけど、そいつ、どうなったか知りませんか??!」

「え?」

 腕を組んで思わず笑っていた真っ白なエヴィルハンターは、キョトンッとして俺を見詰めてきた。
 やっぱり、ドキリとするほど綺麗なんだけど、その双眸は思う以上に冴え冴えとしていて、カタラギのように気安く話せる雰囲気ではまるでなかった。
 キョトンっとするのがクセなのか、もしかすると、じっと凝視してるのを見ると目が相当悪いのかもしれない。いや、気のせいかもしれないけど、何となくそう思ってしまうんだよね。

「あ、そーか。キサラギがここに居るってことは、エヴィルを狩ったワケか。んじゃ、ここに居た安河っつークソガキがヌッ倒れてなかったか?」

 思わず見蕩れてしまう俺を横抱きに抱え上げてしまって、てめーこそクソガキのくせにそんな聞き方でキサラギに安河のことを訊いてくれた。
 どーも、俺が聞いただけだと答えてくれそうな雰囲気じゃなかったんだよな。
 ってことは、カタラギが居て正解だったのか…なんか、ムカツクけど、一応感謝しておこう。

「ヤスカワ?…さぁ、名前は知らないけど。人間は居たよ。エヴィルに囲まれてね。僕が来た時には喰われる寸前だった」

 楽しそうに笑って言うから、俺は思わずジタバタしてカタラギの腕の拘束を、外せるワケもないのに暴れながら言ったんだ。

「く、喰われる寸前って…じゃあ、安河は?!安河はどうなったんだ??!」

「…どうって」

 楽しそうな雰囲気がガラリと変わって、冴え冴えとした双眸のままでまたしてもキョトンッとしたキサラギは、不平そうに唇を尖らせるんだ。
 うう、まるでカタラギがもう一人居るみたいだ。
 容姿とか物言いとかはまるで別人だけど…なんか、雰囲気とかがソックリなんだよ。

「仕方ないから救急車を呼んで病院に運んでもらったよ。聖和総合病院だけど、たぶんあの程度なら2、3日の検査入院で退院できるんじゃないかな」

 それを聞いて、俺は心底からホッと息を吐き出してしまった。

「そ、そっか。じゃあ、安河は無事なんだな?」

 念を押すように尋ねたら、キサラギはますます不満そうに下唇を突き出して、剣呑なオーラを纏いながら言うんだ。

「そう言ってるじゃないか」

「そっか…そうなんだ。良かった~、俺、安河が死んだりしたらどうしようかって思ってたんだ。キサラギさん、有難う!」

 ホッと息をついて思い切り笑って礼を言ったら、途端に真っ白なエヴィルハンターは電流でも受けたような表情をして固まってしまった。
 あれ?俺、なんか悪いこととかしたか??
 確かにムッツリ不機嫌そうなカタラギに小脇に抱えられてるような姿勢で礼を言われても嬉しかないだろうけど、だからってそんな表情はあんまりじゃないか。
 呆気に取られている俺を荷物みたいに手軽に抱えている無言だったカタラギが、唐突に嫌~ぁな表情をして舌打ちなんかしやがったんだ。

「マズイ」

 ん?
 何が不味いんだと、素っ頓狂なことを思っていたら、不意に純白のエヴィルハンターが思わず見蕩れる綺麗な顔を破顔させたりするから、意味もなくギョッとしていると、そんな俺に向かって両手を差し出したりするんだ。

「君、可愛いよね。僕に?この僕にありがとうだなんて、笑って言えるから可愛い。うん、カタラギが彼女に欲しがるワケだ」

 言ってることと、やってることが全く食い違っているように思うのは俺の気のせいだろうか…

「あのな、キサラギ。何を聞いてたか知らんが、コイツはオレのモノ!オレの大事な女なんだ、お前でもやんねーよ!」

 ムッとして眉根を寄せる真っ赤な髪の派手なエヴィルハンターは、最強だって嘯いてるくせに、間合いも十分ある純白の綺麗なエヴィルハンターを警戒して、とうとう俺を両腕で抱き締めやがったんだ。
 なんか、猫か犬の扱いだよな。

「…えー」

「なんだよ、そのあからさまに不服そうな声はッ」

 あのカタラギが圧されてる…いや、それも十分楽しめるんだけど、それ以前にどーしてキサラギが俺に興味なんか持ったんだ?…って、当たり前か。
 アレだよ、アレ!
 どうも久し振りに会ったっぽい2人だもんな、きっとカタラギをからかって遊んでるに違いないよ。
 安河が無事だと知って余裕になっている俺は、親友そうな2人の様子を、暢気にも高みの見物と洒落込むことにしたんだ。

「なんだ、もうセックスはしたの?」

 真っ白な目は、瞳孔だけが黒くて、なのに、右目はカタラギと同じような邪眼の金色をしているから、それがガラス玉みたいにとても綺麗で、俺は思わず頷きそうになってハッとした。
 やばい、これはまた、あの時のカタラギの質問と同じ状況だ。
 邪眼でなんでも話させようなんっつーのはな、卑怯なんだぞ。
 ムッとして口を噤んだら、キサラギのヤツは両手を差し出したままでやたら吃驚したみたいに双眸を見開いてキョトンッとしたんだ。

「なんでか知らねーけど、コイツに邪眼は効かねーよ」

 カタラギが勝ち誇ったようにフフンッとして、ムッとしたままの俺の頭に顎を乗せると、懐くみたいにグリグリしやがるから、痛い痛い!

「でも、セックスはしてるに決まってんだろ?オレの女だし。オレたち愛し合ってるからな」

 でも、確りそれは言いやがるんだな。
 語弊があるぞ!俺たちは愛し合ってなんかない…って、そっか俺、さっき成り行きとは言えカタラギ相手に愛の告白なんかをやらかしちまったんだ。
 今更青褪めてひえぇぇ~っと言っても後の祭りなんだけど、何か衝撃を受けたような顔をしていたキサラギは、それから伸ばしていた腕を組むと、片手を顎に当ててフムフムと独りで納得したように頷いてるんだ。
 あれ?もしかして、なんかまた、カタラギみたいに曲解したんじゃ…

「邪眼が効かないのか。ふーん、珍しいなぁ。でも、セックスぐらいなら今時、小学生でもしてるんじゃないの?そんなの意味ない。証拠はあるかい?」

 小学生って!
 思わず開いた口が塞がらない俺だけど、驚くべき部分が間違ってるんだから放っておくとして、証拠ってなんだ?まさか、愛し合ってるなんつー証拠とか言うんじゃ…

「証拠?証拠ねぇ」

 と、カタラギはそう言った途端、俺の身体をクルリと反転させて、ギョッとしたままの俺の唇に、少しカサツイた薄い唇を合わせてきたんだ。そうされると、何故か俺の身体は条件反射みたいに、そのキスに応えようとかしやがるんだぜ?信じられるかよ!
 それも邪眼の力とかそんなんじゃなくて…うぅ、どうも俺の脳みそは、すっかりカタラギの女だって自覚とかしちまってるんじゃないかと思う。
 家族とか、大事なひととか守りたいから、それなら、カタラギの女でいることは有益じゃないか…って、考えての行動なら天晴れなんだけど、たぶんきっと、済し崩しにカタラギを受け入れてしまったんだ。
 あの愛の言葉が、俺の中の何かを吹っ切らせたんだと思う。
 目蓋を閉じて、口腔を探る肉厚の舌に自分の舌を絡めて拙い仕種で応えると、カタラギはちょっと嬉しそうに浅い口付けを濃厚なものに変えていく。
 溺れるみたいにカタラギの背中に腕を回せば、覆い被さるように俺を抱き締める。
 そんなキスを嫌じゃないとか、恐ろしいことを考えていたら、キサラギはキョトンとしたままで首を左右に振ったんだ。

「ふぅん、なるほどね。どうやら、確かにカタラギの女みたいだ。じゃあ、仕方ない。僕は退散するよ」

「…って、諦めねーのかよッ」

 思わず舌を引き抜いてキサラギを睨むカタラギの頬に、俺はうっとりしたままで指先を伸ばすと、歯をむいているその口許に唇を寄せて、ペロッと舌先で舐めたんだ。
 もっと、もっとキスしたい。
 溺れるみたいにカタラギに抱きついて、クラクラするようなキスがしたいんだ…
 後になったら顔面真っ赤にしてのた打ち回るに違いないのに、そんな風にキスを強請る俺を満足そうに見下ろしたカタラギは、薄い唇に笑みを浮かべて俺の目蓋にキスしたりした。

「諦めないよ。脈がないほど燃えるしね」

 クスクス笑って驚異的な跳躍で飛び上がったキサラギは、驚くことに、そのまま闇に溶け込むようにして消えてしまったんだ。
 白いのに、まるで不似合いなはずの黒に馴染むように溶けてしまったのに俺は、それに気付けもせずにカタラギに夢中になっていた。
 だから、件の真っ赤な髪をした派手なエヴィルハンターは嬉しそうにニヤッと笑って。

「今夜はイケそうだな」

 なんて、なんとも色っぽくないことをのたまいやがったんだ。
 でもまぁ、俺も俺なんだけどさ。
 全くもって、トホホホ…だ。

16  -EVIL EYE-

 ビルとビルが鬩ぎ合う薄暗い路地裏で、俺はコンクリートの壁に片手を付いて背中を丸めるようにして荒く息を吐き出していた。
 咽喉が奇妙な音を出して、息遣いは酷く荒い。
 苦しい、スゲー苦しいんだけど、それ以上に残酷な場所に安河を残してきてしまったんだから、俺はなんとしてもカタラギを見つけないといけないんだ。
 捜せばいいとか言いやがって!…本当に、アイツは何処にいるんだよ。
 こめかみから零れ落ちた汗は頬を伝って顎から落ちるから、俺はそれを片手で拭いながら、キッと薄暗い路地裏を睨みつけたんだ。
 俺の身体はカタラギの女になってから、エヴィルを引き寄せるようになっているはずなんだ。だから、安河と一緒の時も現れたに違いない。
 それじゃあ、今だって、こんな薄暗い絶好の場所に俺と言う餌を撒けばエヴィルは現れるだろうし、カタラギじゃないにしても、誰か近くにいるハンターが来てくれるんじゃないかと思う。
 日本には7人しかいないエヴィルハンターだから、遭遇する確立は低いだろうけど…でも、今の俺はその砂粒ほどの確立にも縋りたかった。
 さあ、来い!エヴィル、絶好の餌だぞ。
 意を決して狭くて薄汚くてジメジメした路地裏に足を踏み入れた。
 踏み入れたのに、何時まで経ってもエヴィルは現れない。ジリジリと無駄に時間ばかりが消費されて…って、それでも、本当はほんの数分だったに違いないのに、俺には永遠にだって感じられていた。

「やい!エヴィルどもッッ。ここに餌がいるんだぞ!出て来いよッッ」

 しーん…カサリと小さな風がゴミを散らしたぐらいで、俺の声に応答するヤツは1匹もいない。
 こうしている間にも、安河はあの不気味な粘液のエヴィルに襲われているに違いないのに…俺は、無力だ。何もできない。
 あんな風に身体を奪われても、件のカタラギすら、俺なんか相手にしないのに…それなのに、安河は馬鹿だ。こんな俺なんか相手にしなければ、たとえエヴィルに襲われるにしても、今じゃなかったはずだ。
 ポロ…ッと涙が零れ落ちて、零れ落ちてしまうと、まるで堰を切ったみたいにポロポロと涙

が止まらなくて、そんなに弱気じゃないはずなのに、俺は唇を噛んで声も出せずに泣いてしまった。
 平凡を望み過ぎて、手に入れた友人である安河を犠牲にすることで、俺は『普通』に生きていると思い込もうとしていたんだ。そんな馬鹿みたいなこと考えて、俺は安河の友達になったはずじゃないのに。
 仕方なさそうに笑う顔だとか、嫌がっているくせに、それでも、俺に付き合ってくれる優しさだとか気安さが、凄く好きだったんだ。
 その安河を、俺は利用していたのか…嫌だ。
 こんなことは考えたくない、それだとまるで、もう安河が死んだと決め付けてるみたいじゃねーか!

「クッソー!!カタラギぃーーーッッ!!!これだけ捜してんだッ!何処にいるんだよ、出て来いよッッ」

 頬に涙を零したままで、なんつーか、手当たり次第に何もかも壊してしまいたいような、当り散らしたい感情が爆発したみたいに俺は叫んでいた。
 不況ばかりのせいってワケじゃなく、静まり返ったビル群に俺の声は虚しく木霊するだけで、誰にも届かなかったみたいに路地裏は静寂を取り戻しやがるから…俺はギリッと唇を噛み締めた。
 俺が弱くなくて、カタラギたちみたいに強いハンターだったら、こんな悔しい思いとかしなくてもよかったのに!
 俺は、俺は…!
 目線を落とした砂利だらけのアスファルトは寂しげで、俺はギュッと目蓋を閉じていた。
 と。
 首筋にボタリと何かが落ちてきた。 
 この感触を、俺が忘れるはずがない。
 ボタ…ボタ…ッと首筋や制服の肩を濡らしている、これは…
 恐る恐る落としていた目線を頭上に向けて、俺は息を呑んだ。
 そこには巨大な鳥のような姿をしたエヴィルが、燃えるような真っ赤な双眸で俺を睨み据えるようにして見下ろしていたからだ。
 鋭く尖った嘴の端から零れる粘液のような唾液は、美味そうな獲物を見つけて、狂喜している化け物の意思表示なんだろう。
 今からお前を食うぞ…なんて、ゾッとしない想像に眩暈を覚えながら、俺はジリッと後退った。
 背後は路地裏の行き止まりだし、目の前の化け物の身体の下を潜って走り抜ける自信は勿論ない。そんなに抜け目があるはずもないし、図体のデカいエヴィルは賢いからな。
 ゴクッと息を呑んだ瞬間、まるで待ち構えていたかのように鳥型のエヴィルが襲い掛かってきたんだ。
 目蓋を閉じる前に見た鳥らしい足の先端の兇器の、禍々しいまでの鋭さは、切れ味のよさを物語っているみたいに硬質に電灯の明かりを反射させていた。
 きっと、この風圧が覆い被さった瞬間、俺はあの爪に切り裂かれるに違いない。
 両手を庇うようにしてあげた瞬間だった、俺は鋭い凶悪な爪に引き裂かれることはなかった、でもその代わりに、夥しい何かがビシャッと全身に叩きつけられたんだ!
 独特の生臭い匂いは、前にも嗅いだことがある。
 これはたぶん、間違えることのない血だ。
 しかもまだ生きていた名残りを漂わせるように温かくて、全身を自分のものじゃない血液で濡らしたまま、冷えていく血液のせいか、それとも新たな敵の出現に怯えているからなのか、俺は震える身体を持て余すようにして顔を上げた。
 どうせ、あの時のOLの姉ちゃんエヴィルのように、また巨大なエヴィルが現れたんだろうと思った。でも、それならそれで、誰かハンターが嗅ぎ付けてやって来てくれるんじゃないかとか、そんな甘いことを考えてなかったと言えば嘘になる。
 だから、俺は期待していた。
 巨大なエヴィルを…なのに。

「元気にしてたか?」

 緊迫しているってのにあっけらかんと能天気そうにそんなことを言ってのけて、片手の日本刀で肩を叩きながら、もう片方の鉤爪のある片手で震える俺の身体を引き寄せると、カタラギはエヴィルの血に塗れた身体を頭の天辺から繁々と見ているみたいだ。
 元気にしてたか…だと?

「俺は!お前を捜したんだぞッ、なのに何処にもいなくて…何してるんだよ!自分の女が助けを求めてるのにどうして姿を見せないんだッッ」

 俺はむずがるガキみたいに両手を伸ばして、そのデカいガタイの胸元を突っ張りながら、眉を寄せてギッと睨み付けながら叫んでいた。
 そんな風にして、必死にその腕から逃れようとする俺の身体をガッチリと引き寄せたままで、カタラギはフンッと鼻を鳴らしやがった。

「光太郎のためじゃないからさ」

「…は?」

 何を言ってるんだ、カタラギは?
 漸く逢えたのに、相変わらず何か理不尽な物言いに眉が寄る。
 これだけ捜し回って、漸く見つけ出したんだ…と言うか、見つけ出したのは俺じゃなくてカタラギなんだけど、それでもコイツは素知らぬ振りして外方向くのかよ。

「だってさ、お前。ヘンな野郎の為に駆けずり回ってるじゃねーか。んなの、オレの知ったことかよ」

 冷めた双眸で繁々と俺を見下ろしているカタラギは、思い切り不機嫌そうな顔をしている。
 その顔を見上げて俺は…

「な、なな…おま、もしかしてずっと見てたのか?」

 …って、おいおい。
 まさか、あの廃工場の時みたいに『今来たんだ』はないだろうけど、ずっと見ていたって言うのか?
 だったら、せめてエヴィルに襲われる前に助けてくれよ。
 思わず半泣きで睨む俺を見下ろしたまま、カタラギは面白くないと全身で物語りながらも、素直じゃないツラをしてニヤッと笑うんだ。

「途中からな。オレだってお前がいるんじゃねーかと、毎晩、この辺りを捜してたんだぜ?今だってそうだったんだ。なのに光太郎ときたら、ヘンな野郎と楽しげに話しなんかしやがってさ。ムカツクに決まってるだろ」

 それでも、言葉を言い終わる頃にはガキみたいに唇は尖ってる。
 半分以上、呆れ果てて見上げていた俺は、唐突にハッとして、それから、あれだけ嫌がって逃げようとしていたカタラギの腕を掴んで身体を寄せたんだ。

「あ!そーだ、こんなこと言い合ってる場合じゃなかったッ。頼む!お願いだから、一緒に来て安河を助けて欲しいんだ」

「やだね」

 間髪入れない返答は判っているつもりだったけど、それでも引き下がるワケにはいかないから、俺はさらに身体を寄せて、まるで他人事…事実そうではあるんだけど、みたいなツラをして見下ろしてくるカタラギを見上げていた。

「安河は俺の友達なんだ!友達を助けてくれるなら、俺、何でもする。約束するから…」

「…信じらんねーな。人間は簡単に嘘を吐く」

 吐き捨てるように言うくせに、身体を寄せる俺を片腕で抱き締めたまま、カタラギは必死な俺の顔を愉しんでいるのか、繁々と覗き込んでくるけど、そんなこと気に留める余裕もない。
 だから俺は、掴んでいたカタラギの腕から手を離して、ニヤニヤと意地悪そうなツラをしてオッドアイの双眸を細めているカタラギの頬に両手を添えて…それから、その、やっぱり覚悟は決めないといけないと思う。
 だから俺は、ギュッと両目を閉じると、意を決してその薄い唇に口付けたんだ。

「…これで、本気だって判ってくれよ。これ以上は、今はダメだ。安河を助けてくれてからじゃないと…」

 俺は、たぶんこの時までに自分からキスしたことはなかったと思う。
 男が男にキスするなんて『うぎゃー』としか言いようがないんだぞ。
 確かに、俺だってぶつけるようにして唇に唇を押し付けただけとは言え、内心で『うぎゃー』とのた打ち回ったんだ。だからこそ、俺が真剣だって判って欲しかった。
 …なのに。

「キスもセックスも、オレの女なら当然だろ?どうして、わざわざ当たり前のことでオレがくだらねーエヴィル狩りなんかしなきゃいけねーんだよ」

 とかあっさり抜かしやがるんだ。
 俺は思わず呆気に取られてカタラギを見上げていた。
 いや、もしかしたら、カタラギの言うとおりなのかもしれない。
 カタラギにしてみたら俺なんか、気が向けば何をしても構わない…殺すことだって許されている存在なんだから、その俺が何をしたってそんなの当たり前になっちまうのか。
 じゃ、じゃぁ、俺の取り柄ってなんなんだ?!

「…じゃあ、どうしたらいいんだ?どうすれば、カタラギは俺が本気だって判ってくれるんだよ?」

 あわあわと脳内では思考回路が破裂寸前になりながら、俺は平然としている小憎たらしいカタラギの胸元を引っ掴んで言い募った。
 言い募って俺は…
 俺ができることは……

「そうだなぁ…って!お前、何してんだ」

 俺が口付けた唇をペロリと舐めながらニヤニヤ笑っていたカタラギは、不意にギョッとしたようにして力を込めようとしていた俺の口に手を差し込んできたんだ。
 思わずハッとしたけど、気付いたらカタラギの手を噛んでいた。

「…だ、だって!お前は何をしても信じてくれないじゃないか。だったら、死ねば信じてくれるだろ?それだったら、何時だって死んでやるよッ」

 俺が噛んだ手はさほどダメージを与えていないのか、暴れるようにして、戒めているような腕から逃げようとする身体を易々と片手で封じ込めやがって、カタラギは忌々しそうな、腹立たしそうなツラをして歯型から薄っすらと血の滲む箇所をペロッと舐める。

「バッカじゃねーの?んなに大事なヤツなのかよ。だったら、オレは絶対に…」

 鼻に皺を寄せて、まるで見たこともないような険悪なツラで吐き捨てようとする語尾に被せて、俺は叫ぶように口走っていた。

「違う!死ぬのはお前の為だ。だって、そうしないと信じてくれないんだろ?安河は確かに大事な友人だ、それを判って貰えるなら、俺は死んだっていいよ」

 だってよー、ちゃんと判って欲しいんだ。
 俺、安河に恋愛感情なんか持ったことはないし、いや、それ自体、考えているカタラギがどうかしてるだろ。
 スゲー真剣なのに、カタラギは何を言っても信じてくれない。
 勿論、本気で死ぬ気とかないんだけど、少しでも俺の心意気ってのを判ってくれればいいとか、考えてたってのに…まさか、カタラギが手を犠牲にするとか思わなかった。
 ただ、信じて欲しいだけなのに…犠牲にした手にはそれほど関心を示さずに、何か面白いものでも見るような目付きをして、カタラギのヤツは平然とした口調で言った。

「別にさ。誰も死ねとは言ってないだろ?オレを信じさせるのにいちいち死んでたら、命が幾つあっても足らねーじゃん。まぁ、そうだなぁ…お前からのキスは初めてだったしな、じゃあ、カタラギ愛してるって言えよ。ちゃんと、感情もたっぷり込めてな?」

 少なからず、俺を死なせないと思っているカタラギの意思に動揺していた俺は、不意にその口から飛び出したふざけた台詞に目をむいてしまった。
 あ、愛してるだと?!
 死ぬ覚悟でいた俺に、なんだよ、そのふざけた要求は??!!
 …ってか、俺。
 そんな言葉、まともに言ったことねーぞ?!
 顔が一気に茹蛸みたいに真っ赤になっちまった。
 その一部始終を、カタラギはスゲー楽しそうにじっくりと拝んでやがるから…うぅ、時間がないのは良く判ってるんだけど、それでも、なかなか言い出せないのは、その言葉は心の奥底に仕舞いこんでいて、何時か、大切な時に然るべき覚悟を決めて言うべき言葉だと思っていたからだ。
 こんな時に、こんな場所で言うべき言葉じゃないだろ。
 でも、本当は簡単なことだと思う。
 嘘で言えばいいんだから…なのに、どうしてだろう?俺はその言葉はとても大切で、こんなことで言ってはいけないような気持ちになっている。
 でも、それをカタラギは要求しているし、安河を救うためなら…俺の感情は無視しないといけないんだよな。
 …。
 ……。
 ………。
 カタラギの大馬鹿野郎。
 こんな時に、こんなに大事な言葉を言わせて、カタラギなんか大嫌いだ。
 俺はムッとしたままで、覗きこんでくるカタラギの右目が金色のオッドアイを見詰めながら、顔を真っ赤にしたままで不機嫌に口を開いた。

「…カタラギ、愛してるよ。俺、お前のこと、大好きだ」

 ワクワクしてるように覗き込んで待ち構えていたカタラギは、そんな風に、ムッとしたままで言ったはずなのに、それでも、俺にとってはとても大切な言葉だったから、驚くほど心が篭ってしまった愛の告白を聞くなり、不意にすっ呆けたようなツラをして身体を起こしやがったんだ。

「へー、それは知らなかったな。てっきり思い切り嫌われてるんだとばかり思ってたよ。まぁ、そんなに愛されちゃってるんなら仕方ねーな。助けてやるよ、安河って言ったっけ?そのお友達を」

 そのくせ、確り俺の背中に回している腕の力を抜くつもりはないらしい。
 こんな形で、ワケの判らないまま愛の告白をやらかしてしまった俺は、だからと言ってカタラギを好きなのかと言うと…実はよく判らない。
 そりゃぁもう、あんなことやこんなことも犯っちゃってるワケなんだが、それでも、俺はカタラギに要求されたままに口にした愛の言葉が本物だなんて思っちゃいない。
 カタラギは何か勘違いして…何時もの曲解で満足してるみたいだけど、俺は嫌だ。
 でも今は、約束を破らないカタラギの言葉を受け入れるしかないんだけどさ。

「カタラギ、有難う!」

 今は、俺の心なんかどうだっていい。
 良かった!安河、待ってろよ。

「どー致しまして。ま、それなりの見返りは要求するけど」

 俺が嬉しくて満面の笑みで感謝してるってのに、どうしてコイツはこんな風に、水を差すんだ。
 うぅ~、ホントはできれば殴りたい。
 思い切り噛み付いたってへっちゃらなツラしてるカタラギに、俺のへなちょこパンチがどこまで効くか判らないけど、それでもできれば殴りたい。
 だけどさ、これは俺が言い出したことなんだし、今は安河救出が最優先なんだから大目に見て頷くしかないワケだ。

「う…わ、判った」

 顔は湯気が出そうなほど真っ赤だったけどな!

15  -EVIL EYE-

 もうじき夕暮れが迫るラーメン屋までの道のりを、俺と安河は他愛のない話をしながらぶらぶらと歩いていた。
 普通にエヴィルと言う化け物が徘徊する夕暮れともなると、何処の家もピシャリと窓を閉めて、何事もない夜を祈るようにして電気も切って息を潜めて過ごしている…のかと思ったら、意外と何処も団欒の明かりが灯っているし、笑い声だって聞こえるんだから不思議だよな。
 ぼんやりと歩き慣れた道を進みながら左右に立ち並ぶ家々を見ていたら、安河のヤツが首を傾げて長い前髪の向こうから俺を見下ろしてきた。

「家が、どうかしたのか?」

「あ、えーっと…」

 そうか、俺。
 まだ、安河にエヴィルのこととかエヴィルハンターのこととか知らないって教えてないんだった。
 でも、何故か…それを言うのは気が咎めてしまう。
 だってさ、じゃあ、どうして思い出したんだって聞かれたら、俺のことだから、たぶんポロリと本当のこととか言っちゃいそうなんだよなぁ。
 それは、拙い。
 極めて拙い。
 だから、なんとなく…って感じでタハハハッと笑って頭を掻いたんだ。

「エヴィルとかいるのに、みんな平気で窓とか開けてるだろ?怖くないのかとか思ってさ」

「…?エヴィルは明かりが嫌いだから、電気さえ点けていれば窓を開けていても平気だ。それに、最近はハンターが徘徊してるから、小さな家なんかは襲わないよ」

 明かりが嫌いなら、ビルとか電気を点けていれば寄って来ないんじゃないのか?…あ、そうか、だから残業してビルの中にいるのか。
 馬鹿だな、俺。
 でもそれってさ、極当たり前のことなんだろうな。
 安河でさえ一瞬、訝しそうに眉を寄せたんだから…う、俺ってば何処まで墓穴を掘るんだ。

「そ、そーだよな!当たり前だよな、そんなこと。俺ってばうっかりしてたよ、アハハハ」

 アハハハ…ッと、馬鹿みたいに取り繕いながらも俺は、ふと、安河の台詞で引っ掛かるものを感じた。
 いや、胸の辺りがドキリとした、とでも言うべきか。

「…最近、ハンターがうろついてるのか?」

「ああ。ネットで検索するとガセが多いんだけど、よく出没しているって噂にあるよ。エヴィルハンターは気紛れだからさ、そんなに姿を見せることもなかったんだけどな。まるで…」

 そこまで言って、安河は首を傾げて見せた。
 長い前髪に双眸が隠れてしまうから、実際は何を考えてるのかいまいち判らない。今だって安河がどんな表情を浮かべているのか、気配だけで感じないといけないもんだから、他の連中は安河を倦厭しちまうんだろう。
 付き合ってみると、案外気安くて、いいヤツなんだけどな… 

「まるで何かを探してるみたいだ」

「え?」

 ドキッとした。
 そのハンターってのが、何も全てカタラギってワケじゃないのに、それでも俺の胸はトクンッと普段よりも強く鼓動したみたいだった。

「…?ハンターって言うぐらいだから、エヴィルを探しているんじゃないか?狩り過ぎて、あまり姿を見せなくなったのかもな」

 スッと顔色が変わる俺なんかさらりと無視して、軽く言ってのけた安河に、下手に動揺してしまった俺はバツが悪かったんだけど、まぁ、安河にしてみればただの話題じゃないか。そりゃ、さらりと受け流すに決まってるよな。
 それにヘンに反応して、根掘り葉掘り聞くと、またもや俺は、とんでもない墓穴を掘るってワケだ。
 よし、だいぶ学習してきたぞ…とか拳を握る辺り、ガックリしちまうよな、マジで。

「相羽も…エヴィルハンターが気になるのか?」

 ふと、安河が口許に静かな笑みを浮かべて聞いてきたりするから、俺はその仕種に見蕩れてしまった。
 なんつーか、こんな風に、長い前髪で鋭さすらある双眸が隠れちまうせいか、口許に静かな笑みを浮かべる安河の表情が大好きなんだ。

「相羽も…って、じゃあ、安河も気になるのか?」

「え?いや、俺はそうでもない。他の連中が、特に女子とかは気になってるみたいだからさ」

 女子と一緒かい!…と突っ込まなかったのは、何故か俺は女子受けがいいからだ。 いや、兵藤みたいに黄色い声を上げて追いかけられる…ってそんな受けじゃねーぞ、悔しいけどさ。
 なんか、気軽に話し易いみたいなんだよなー
 だから、自然と女子から声を掛けられる、そうなると、話題にも事欠かないってワケだ。暗に、安河はそれを口にしたに過ぎないってワケ。

「そうだなー、なんか理想のハンターとかいるみたいだぞ。俺もよく聞いてないから判らないけどさ」

 …ってのは嘘だ。
 女子どもが兵藤以上に熱くなる話題…ってのが、エヴィルハンターで、それは少なからず、男子の間でも人気があったりする。
 日本には7人のエヴィルハンターがいるらしくて、その中でも大人気なのがスメラギって言う、あの緑の電気野郎なんだけど、それを押し遣るほどの爆人気がカタラギだった。
 あのヘンタイが…女子どもと野郎どもの人を見る目がないのは、きっとガキだからだ。そう、信じたい。
 これでOLのお姉ちゃんたちにも人気があるとかだったら、俺は爆死するだろうな。
 いや、マジで。
 いや、そもそも姿も見せないエヴィルハンターだって聞いたのに、どうして『カタラギ』だの『スメラギ』だの名前が知れてるんだ?もしかしたら、あの派手な連中のことだから、まさかとは思うけど、自分たちで宣伝してたりして。
 それだったらちょっと笑える。
 ま、んなこたないだろーけどさ。

「相羽?その…ごめん。気に障ること言ってしまったな」

 ムッツリと黙り込んでしまった俺に居た堪れないみたいに、申し訳なさそうに呟いた安河にハッと気付いて、いかんいかん、俺が凹んでムカッとしてるのは安河のせいじゃないんだ。
 あのクソッタレなカタラギなんだよ。
 でも、これは言えないから辛いよな。

「いや、違う違う!別に安河の台詞にムカついたってワケじゃないんだ。だったら何なんだって思うだろうけど、なんか、女子とか、野郎もだけどさー、ヘンなのを好きになるよな」

「…相羽はエヴィルハンターが嫌いなのか?」

 大嫌いだ!!…と言えれば天晴れだけどさ、流石にそこまで嫌ってるワケでもないし、関わり合いたくないだけだ。

「んー、そこまで熱狂はしないよ。気にはなるけど」

「はは、同感だな」

 安河がちょっとはにかむように笑うから、俺も釣られて笑ったんだけど…その表情はすぐに引き攣ってしまった。
 だ、だって…今、安河の背後にゆらゆらしてる、アレは、あの影は…

「や、安河!」

 危ないっと、差し出した腕を掴んだのは安河の方で、その表情は今までに見たこともないほど険しく歪んでいた。

「…相羽、囲まれてる」

 俺を引き寄せた安河は忌々しそうに舌打ちして周囲を見渡している…んだけど、こんな時なのに、安河の知られざる部分を新発見、とかふざけたことを考えてるほどには余裕があったのか、俺も安河の背後に揺らめく靄のような影を睨みつけていた。

「こんな時こそ、エヴィルハンターが呼ばれて飛び出てくれないと困るよな!」

「…」

 けしておちゃらけてるつもりはないんだけど、安河の制服をギュッと握り締めたままで抱き付いてしまっている俺は、その時になって漸くハッと我に返った。
 あんまり、カタラギとか兵藤に抱かれることが多くなったせいか、男同士だってのに平気で安河に抱きついてしまっていた。
 安河にしてみたら「うげ」だろうけどさ、この場合は、それでも離れるよりも固まっているほうがいいんだろうか?うう、判らん!

「安河、ごめん!俺がラーメンとか誘ったから…」

 心の何処かで、こうなることは判っていたと思う。それでも、俺は安河と少しでも一緒にいたかったし、平凡を味わっていたかったんだ。
 だから、こんな非日常なことに、俺が安河を巻き込んでしまった。

「馬鹿だな」

 ふと、安河は仕方なさそうな表情をして、そんな俺を笑ったみたいだった。
 俺の身体をグッと抱き寄せながら、素早い仕種で…って、あのボーっとしてる安河からは想像もできない素早さで、鞄から何かを取り出した。
 それは、エヴィルを傷付けることはできないまでも、唯一撃退できる物質で作られた折畳み式の警棒のようなモノらしい。
 奇妙な光沢を放つ刀身を持つ警棒の柄を握り締めて、安河が長い前髪の隙間から、鋭さすら漂わせる双眸でギッと闇から這い出てくるような不気味なエヴィルを睨み据えると、ヤツらは一瞬だけど怯んだみたいだった。
 それでもすぐに緑色の臭気を放つ粘液を撒き散らして飛び掛ってきた!
 人型の成り損ないのようなエヴィルを、安河は握り締めていた警棒で振り払うようにして投げ飛ばしたんだ。
 『グギャ』っと、ヘンな声を出してベシャッとアスファルトに叩きつけられたエヴィルが『ギーギー』と呻くと、まるで色めき立ったように仲間のエヴィルたちが口々に金切り声を上げ始めたんだ。

「な、なんだ、これ…」

「拙いな」

 思わず耳を覆いたくなった俺の傍らで、小さな舌打ちをした安河は、それからポツリと呟いた。
 確かに、拙いと思う。
 エヴィルたちが『ギーギー』と鳴けば、まるでそれに呼応するように闇の中からズルリと一匹、また一匹と緑の粘液の塊みたいなモノが溢れ出して来るんだ。
 そのうち、何処にも逃げ道とかなくなるんじゃないか…そう思ったときだった。

「相羽、お前は逃げろ」

 こんな時だって言うのに、淡々とした口調で安河は言った。

「…は?!な、何言ってるんだよッ。そしたらお前、たった独りじゃないか!嫌だぞ、絶対に一緒にいるからなッッ」

 そんな理不尽なこと、こんな状況に巻き込んだのは俺なのに、それなのに安河をたった独りぼっちで残して行くなんて、そんなのできるワケがない!こんな時だってのに、安河は何を言ってるんだ。

「見ろ。あそこだけエヴィルが避けてるだろ?1人なら通れる。俺は…この武器がある。相羽には足があるだろ?助けを呼んできてくれ」

 ギュッと抱き付いたままで離れようとしない俺を困ったように見下ろしていた安河は、ほんのちょっぴりだけど嬉しそうな表情をして、それから、すぐに声を潜めて目線だけで促しながら言った。

「相羽は…武器を持っていないから。俺はバイトの時にもエヴィルに襲われた経験があるんだ。だから、大丈夫だ」

 そんな風に言って、俺をその気にさせようとしている安河を、俺はたぶん、これ以上はないぐらい不安そうな顔で見上げたんだと思う。
 あの何を考えてるのかいまいち良く判らない表情でボーっとしている安河からはとても想像とかできないような、真摯な表情で俺を見下ろして、それから飛んでくる緑の粘液を警棒で振り払いながら、安河は必死に言い募るんだ。
 どうも、今の世の中だと、安河が持っているような武器を持つことは当たり前になっているみたいで、だからこそ、武器すらも持たずにいる俺の身の上を心配してくれているのは良く判る。こんなヘンなヤツ、放っておけば安河だけならきっと、逃げ切れたに違いない。
 『俺』と言う足手纏いに、安河が困惑しているのはすぐに判った。
 …だから、俺は。

「判った!俺、知ってるエヴィルハンターがいるから、ソイツを呼んでくるッ。だから、お願いだから安河、絶対に死ぬんじゃないぞッッ」

「相羽?!」

 俺が知っているハンターは勿論カタラギだけど、アイツに会って、お願いなんかしてみろ。必ず何かを要求してくるに決まってる。
 そんなこと、判りきっているんだけど…それでも俺は、キュッと唇を噛み締めると、驚いたように目を瞠る安河を、断腸の思いでその場に残して、緑の粘液が嫌そうに避けている電信柱の脇を擦り抜けて走り出していた。
 カタラギが俺の身体を欲しいと言うのならくれてやるし、何だって言うことも聞いてやる。
 だから、お願いだから、安河を助けて欲しい。
 俺が平凡な日常と唯一の繋がりだと感じている安河の存在を、ここで失ってしまったら、俺はきっとどうにかなってしまうと思う。だから、俺は、カタラギがいそうな場所を目指して、エヴィルが徘徊していそうな場所ばかり選んで、走って走って走り続けたんだ。
 何処か遠い空の上にいる偉い人、お願いだ。
 どうか、お願いだから、俺をカタラギのところまで連れて行ってくれ!

14  -EVIL EYE-

 そう言えば、昼飯も兵藤と食うようになって、安河と一緒にいることが少なくなったよな~と気付いた俺は、それから、兵藤王子は牙をむいて「死ね、相羽」と威嚇する女子どもに返して、何時も通り、ボーッとしてる安河を連行して学食で昼飯を食ったんだ。
 学食にもラーメンはあるけど、俺が誘っている近所の【山小屋】は九州の濃厚な豚骨に辛子高菜をどっさり入れると激ウマだから、こんなところで済ますのは勿体無い。
 だから敢えてそれを言わなかったし、安河に至っては気付いてもいないみたいだった。
 俺が兵藤と昼休みを一緒にしている間は、安河は何処に雲隠れしていたのか、俺が兵藤の誘いを断って学校中を走り回ったってのに、学食にもいないし、何処にもいないみたいだった。
 でもたぶん、それは俺の捜す行動力が追いつかなかったんだと思う。
 やっぱり、何時もみたいにフラッと何処かに行こうとする安河の腕をギュッと掴んだら、相変わらず俺だと知ってるくせに居た堪れないみたいに長い前髪の向こうで動揺するツラにニッと笑って、敢え無く連行される安河と連行する俺を見送って、女子に囲まれた兵藤はちょっとムッとした顔をしていた。
 なんで、ヤツにそんなツラをされないといけないのかは疑問だが、そもそも、昼まで一緒にいなくてもいいんだよな、と、最近気付いたってワケだ。
 恙無く授業を終わらせた俺たちは、約束通り、ラーメン屋に向かって歩き出していた。
 夜の闇に怯えるようになった兵藤は、仕方なさそうに俺たちを見送っていたけど、そそくさと女子に誘われるまま自宅に向けてダッシュしたみたいだ。
 …って、アイツ。さすがエヴィルだからなのか、高級マンションに独り暮らしなんだぜ?
 親父の会社の社宅で親子3人で暮らしてる俺からしてみたら、エヴィルのクセに生意気だぞ!…ってさ、どっかのガキ大将みたいなこと言いたくなっちまったよ。
 ま、それはさておき、俺たちは他愛ない会話を楽しんでいた…って、一方的に俺が喋ってるんだけど、安河も適当なところで相槌を打ってくれるから、話が弾むって言うのかな?言葉数は少ないんだけど、けして聞いていないワケでもないし、やっぱ、コイツといると楽しいんだ。

「そうだ、安河の家って何処だっけ?」

「え…?」

 唐突に話を変えたせいか、安河はちょっと面食らったような顔をした。
 だってよー、知られざる安河の生態、その2とか知りたいじゃん。

「やっぱ、兵藤みたいに独り暮らししてんのか?高級マンション??」

「はは…そんなんじゃないよ。でも、独り暮らしだ」

 やっぱりか、いいよなー。

「そうだよなー!やっぱ、独り暮らしって楽しいだろ?俺も独り暮らししてみたいよ」

 何気なくそんなことを言ったら、安河はちょっと口許に笑みを浮かべただけで、スッと目線を伏せてしまった。だから、およ?っと首を傾げてその顔を覗き込めば、ドキッとするほど真摯な双眸が揺れる前髪の向こうにあって驚いた。

「ど、どうしたんだよ?」

「え?…ああ、独り暮らしも良し悪しって思ってたんだ」

 思わず返事が戻ってきて、ますます俺は驚いてしまう。
 安河がこんな表情をするときって、決まって曖昧にはぐらかされるから、俺はまた勝手に一方的な話を展開する…ってのがお決まりのパターンだったってのに、でも、だからって悪い気はしないな。
 却って、いい気分だ。
 ほんの少しだけど、安河が懐いてきたみたいで嬉しい。

「そりゃ、自炊とかしないといけないし…でも、自由な時間とかあるだろ?やっぱ、その辺が魅力的だよな!」

 気分良く相槌を打ったら、安河はちょっとキョトンッとした顔をしたけど、すぐに「そうだな」と言って笑ったみたいだ。
 それ以上は何も言わないし、それぐらいの会話だったけど、これはこれで俺たちの間で何かが発展してるんじゃないかって期待してもいいと思うんだよな。
 うははは。

「…もし、相羽が独り暮らしをしたいなら、その…」

 あまり自分から発言しない安河がポツリと呟いたから、肩を並べて歩いていた俺はん?とその鬱陶しい前髪に隠れている双眸を見ようと顔を上げた。顔を上げて、またちょっと面食らってしまったんだ。
 だってよー、あの安河が照れてるみたいに頬を染めてるんだから、ビックリしない方がどうかしてると思う。

「うん」

 頷いたら、よほど照れてるのか、ジッと見上げる俺の目線を避けるように…って言うか、安河は何時も目線をふいっと外すんだけど、今回もそうして目線を泳がせてから、後頭部を掻いた。

「いや、そんな大袈裟なことじゃないんだ。もし、よければ、ウチに来ればいいって…」

「へ?」

 思わず目をまん丸にしてすっ呆けた声を出しちまったけど…でも、ビックリするどころじゃないぞ!
 あの安河が、日曜日ですら一緒に遊ぶこともしない安河が、いきなりそう言うことをすっ飛ばして同居のお誘いなんかしてきたんだから、驚かない方がどうかしてる…いや、マジで。

「…でも、相羽には兵藤がいるから。俺よりも兵藤との方が楽しいだろうな」

 不意に自嘲的に笑って、今のは聞かなかったことにして欲しいとか言いやがるから、俺が思わずムンズッと安河の腕を両手で掴んで足を止めると、その反動で、長身の安河も足を止めざるを得ない。
 ギョッとする顔を覗き込んで、もう、逃がしてやらないからな!

「ホントか?!ホンットーに、俺が行ってもいいのか??」

「…え?あ、ああ。別に、俺は独りだし。誰に迷惑をかけるってワケでもないから…その、相羽さえよければ」

 思わずだったんだ。
 安河がさらにハッと目を瞠ったのは、うっかり、満面の笑みを浮かべちまったせいだと思う。
 だってさ、なんか、漸く本当に安河が心を開いてくれたみたいで嬉しいんだ。
 俺、エヴィルハンターとかエヴィルとかに翻弄ばっかされて、自分を見失いそうになっていたけど、こうして安河が友達をしてくれるから、漸く繋ぎ止められてるんだと思う。
 その安河が気安くこんなことを言ってくれたんだから、少しでも俺のこと、認めてくれたんだよな?
 うん、嬉しい。

「今度、日曜日じゃない日でいいからさ。泊まりに行ってもいいか?」

「…別に、土日でもいいよ」

 その台詞に、もう、今日の安河は俺に泣けと言ってるんだろうか…って、疑っても仕方ないだろ?
 日曜日は駄目だと、何百回も断られたってのにさ。

「日曜日は何時も駄目だったんじゃないのか?」

 慌てて首を傾げたら、足を止めている安河は吹いてくる夕暮れの風に前髪を揺らしたままそんな俺を見下ろすと、キリリとしている双眸をフッと和ませたみたいだった。

「日曜日…俺、早くからいないんだ。相羽がそれでもいいのなら、日曜日でもいいよ」

「…あ!もしかして、安河?」

 何となく思い当たってハッとしたら、安河はちょっとバツが悪そうに苦笑して頷いた。

「バイト…してるんだ。その、学校には内緒で」

「やっぱり!」

 俺たちが通ってる高校はバイト厳禁!…だったりする。
 だから、安河は日曜日は駄目だと言うだけで、曖昧にはぐらかしていたんだ。
 どーして気付かなかったんだ、俺。
 思わずガックリしそうになったけど、でも、それで今までの謎が一気に晴れたような気がする…って、あくまでも気がするだけなんだぞ?
 だってさー、何時もフラッと何処に行くのか、まるで掴みどころのない雲みたいな雰囲気には変わりないもんな。

「安河がバイトかー…全然想像がつかん!」

「…失礼だぞ」

 安河がらしくもなくクスッと笑ったりするから、俺も釣られたようにエヘヘヘッと笑ってしまった。

「とは言っても、こんな無愛想だからさ。知り合いの倉庫の管理とか整理とか手伝ってるんだ」

「…そうだったんだ。やっぱ作業着とか着るのか?」

「いや、倉庫内は暑いから。Tシャツにジーパンだ」

「へぇぇぇ」

 素直に感動した。
 それで、高校生のわりには、安河はガタイがいいんだ。
 本気になればヤンゾーどもなんかぶん投げられそうなほど、体育の時に見た安河の上半身は程よく筋肉がついていて、どんな筋トレしてんだろうって、羨ましかったんだよな。
 そうか、倉庫の整理って言うぐらいだから、重いものとかも持ってるんだろうなぁ。

「それじゃ、今度の土日にお邪魔しよっかな♪」

 今までの会話からどうしてそんな流れになるのか判らないのが俺流の会話だ…とかなんとか、自分に言い聞かせたりして、安河の腕を掴んだままでニヘッと笑って見上げたら、そんな俺を呆れたように見下ろしていた安河は、ちょっと口許に笑みを浮かべて頷いたみたいだった。

「ああ」

「お泊りセットを持っていくよ」

 お泊りセット…って自分で言っておきながら、何故か気恥ずかしくなってしまうってのに、安河は別段気にも留めずに、やっぱり頷くだけだ。

「さすがに独り暮らしする!ってイキナリ押しかける…ってのも悪いし。いや、それ以前に、俺んち、母さんが異常に心配性だから。独り暮らしができるか激しく謎なんだよな」

 嬉しさに調子に乗ってそんなことを言ったら、安河は「そうなのか」と呟いた後、少し何かを考えているみたいにフイッと視線を逸らして、それからぽつりと言ったんだ。

「…お袋さん。俺の家に来るのも心配するんじゃないのか?」

「友達んちに遊びに行くのまでは止めないって」

 さすがになぁー

「そうか…じゃあ、独り暮らしの気分を味わうつもりで、気が向いたら泊まりに来ればいい」

「ホントか?!じゃ、お泊りセットを置いてってもいいか?」

「ああ」

 俺がこれほど喜ぶとか夢にも思わなかったのか、ちょっと面食らったけど、それでも安河も嬉しそうに笑ってくれた。
 俺には良く判らないし、安河自身が口にしたワケじゃないから自信もないけど、もしかすると独り暮らしってのは、相当寂しいんじゃないかって思う。
 兵藤の場合は王子様だから、何時も誰かしら女子とか遊びに行ってるみたいだから平気だろうけど、安河は本人も自覚してるぐらい無愛想で取っ付き難いところがあるから、きっと知り合い以外では友達とか、遊びに来るヤツも少ないんじゃないかって思うんだよな。
 それなら、俺、しつこくストーカーまがいに付き纏ってた甲斐あって、堂々と安河の友達第一号として、今度の土日にお泊り決定だ!
 なんか、嫌なことばっかりだったけど、少しずつ、俺にもツキが回ってきたんじゃないかなぁ…とか、思っても少しぐらいはいいよな?

13  -EVIL EYE-

 狭い個室に男2人分の荒い息が響いて、俺はへたり込むように便座に座っていた。
 粘液と精液に濡れた太腿を少し動かすと、にちゃっと湿った音を立てるから、どんな有様か見るのも嫌で眉を寄せた俺は、満足そうに覆い被さってこようとする兵藤の身体を両手を突っ張るようにして押し遣った。
 終わった後までベタベタすんじゃねぇ!!

「ひっでーなぁ…俺とお前の仲なのに」

「何、言ってんだよ!尻で犯るのに慣れるように、お前は手伝ってるだけじゃねーかッ。それだけの仲なのに、どーして終わった後までベタベタされないといけないんだ」

 ムッと唇を尖らせる俺を、ゆっくりと上体を起こした兵藤は、何か意味深な目付きでニヤッと笑ったけど、それ以上は何も言わなかった。

「…じゃ、キスもなしってワケか」

 いや、言った。

「当たり前だろ!…どうでもいいけど、服は持ってきてるんだろーなぁ」

「やれやれ。俺は相羽の便利くんに成り下がっちまったぜ」

 ま、得な部分もあるからいいけどよ…とかなんとか、ブツブツ言いながら、個室の上の部分に設置されている棚みたいなところに、隠すように置いている紙袋を引っ掴んで俺に手渡してきた。
 俺がホッとして中を覗こうとしたら、それよりも早く、紙袋に手を突っ込んだ兵藤が、わざわざ買って来たんだろう、水に流せるウェットティッシュを2個取り出して封を破った。

「そのまんま…ってワケにもいかねーだろ?拭いてやるから大人しくしてろ」

「ゲッ!い、いいよッ。自分でするから!!」

 熱い掌で太腿を掴まれて、俺はギョッとして慌てて兵藤の腕を掴んだ。
 イッたばかりの身体はまだ敏感だし、何より、これ以上煽られたら本気で腰が抜けちまう。
 兵藤にもそれが判ったのか、ちょっと肩を竦めてから、ウェットティッシュを紙袋に戻してから唇を尖らせた。

「んじゃ、俺は何をしたらいいんだ?」

「何を…って、先に教室に戻っててくれ。もし、2時間目もフケそうだったら、テキトーにうまいこと言っててくれよ。その先生にも人気のツラしてさ」

「…ヘイヘイ。俺はやっぱ相羽の便利くんだ」

 そのくせ、満更でもないようなヘンなツラしてさ、馬鹿なことばっかり言ってないでさっさと出て行けよ!ここは狭いんだぞ。
 身支度を整えてから、兵藤は個室から出ようと鍵を開けようとして、その手を止めた。

「なんだよ?」

「…まぁ、大丈夫だとは思うけど。何かあったら、保健室で休めよ」

 言外に、この個室でくたばるなと言ってるんだってことは判ったから、俺は思い切り脱力したままで頷いていた。でも、今は少し休みたい。
 だから、早く出て行け。

「目に毒だな。そんな姿、カタラギが見たら今度こそ、俺は本気で殺されるだろーな」

 そんなふざけたことを抜かして、兵藤は個室を後にした。俺が鍵を掛けた後も、名残惜しそうにドアの前に居たみたいだったけど、それでも暫くするとその気配も消えて、殆ど使用されることのなくなった北側校舎の廊下には生徒の声もしないし、束の間の静寂が訪れたんだ。
 ホッとして目蓋を閉じたら…どうしてだろう?ぽろりと涙が一滴、頬を零れ落ちた。
 兵藤に抱かれるのは、最初を入れて3回目だ。
 カタラギに逢うことは、あの後は一度もないんだけど…って、案の定、心配性の母さんから夜間外出禁止令が発令されて、外に出ることがなくなったから、エヴィルに遭遇することもなければ、それとワンセットで姿を見せるカタラギに逢うこともなかったってワケだ。
 カタラギとかエヴィルのことで相談できるのって兵藤ぐらいだったから、俺は、一番最初にカタラギに抱かれた時の恐怖を吐露していた。2度目は意識がなかったから良かったものの、それでも下半身には歩く度に痛みがあった。
 俺は怖くて仕方ないんだ。
 今度、カタラギに捕まったら、やっぱりまた犯られるんだろうなぁ…と、もう半ばヤケクソで机に懐いたまま泣き言を言った俺に、暫く何かを考えていた兵藤は顎を擦っていたけど、ポツリと言った。

『じゃぁさー、男に慣れるってのはどうだ?』

『へ?』

 冗談じゃねーぞと胡乱な目付きで睨んだら、兵藤は何時もの小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべで首を振ったんだ。

『言葉が悪かったな。尻で犯るのに慣れたら、んなに身体がガタガタになることもねーんじゃねーの?』

『…』

 それはつまり、尻を誰かに犯されて慣れるってことなんだろ…

『じ、冗談じゃねぇ!』

 顔を真っ赤にしてギッと睨み据えながら食って掛かったら、兵藤はどうでも良さそうなツラをして、バリバリと頭を掻いていた。

『ま、俺は別にどうだっていいんだ。泣いても笑ってもカタラギに犯られるのは目に見えてるしな。お前はエヴィルハンターが望んだ女だし。何れ犯られる時にさ、慣れてないとまた切れて、痛い思いをするのは相羽なんだぜ』

 俺じゃないと言ってニヤッと笑う兵藤に、思わず回し蹴りしたい気分は山々だったけど、今の世の中、エヴィルハンターは警察や公務員よりも権力を持っていて、大臣並みに自由が許されてるんだ…って、いやそれ以上か。満更、兵藤が言っているのも嘘じゃないから青褪めてしまう。
 カタラギがその気になれば、俺は問答無用でヤツの家(…俺の記憶の中ではその道順は綺麗サッパリ忘れてるけど、あの隠れ家らしき部屋?)に縛り付けられて、生涯奴隷みたいな扱いを受けても文句も言えないような、そんな特権をハンターであるあの連中は持ってるんだぜ。信じられるかよ。

『カタラギってよぉ、なんつーか、ガタイもデカければウェイトもありそうだろ?ナニもデカいんじゃねーの??慣らしとかないと、相羽の尻なんか何回か突っ込まれただけで裂けて、使いモンにならなくなると思うぜ。お前のアソコってさ、狭くて、まだまだ硬いからな』

『…裂け…ひぃぃぃ』

 聞きたくない、聞きたくないぞ!
 思わず耳を押さえて泣きそうになった俺は、最初の日にカタラギに貫かれてガタガタになった記憶の残る部位が今更ながらジンッと疼いた気がして、悲鳴を上げそうになった。
 カタラギは…兵藤たちに散々犯された俺を…と言うか一部を、繁々と眺めて、『優しくすればイケるのか』と聞いていた。それは、たぶん、これからもずっと抱くから、俺がイカないと意味がないとでも思っている発言なんだろう。と言うことはだ、俺はやっぱり、このままずっとカタラギに犯られることになるワケだ。

『…慣れるって、どうやったら慣れるんだ?』

 悲壮感の漂うツラをして兵藤を見上げたら、ヤツはこの上ない悪魔みたいなツラをして、ニヤッと笑って言ったんだ。

『事情を知ってるのは俺だろ?俺と犯るんだよ、相羽。大丈夫、俺は酷くはしないぜ』

 そう言われて、何となく済し崩しに契約したワケなんだけど…そう、これは契約なんだ。
 カタラギに抱かれても痛いだけで、これっぽっちも良くはなれない。優しくされればイケそうな気もしたけど、実際、意識がないときに抱かれても、やっぱり歩く度に痛みがあった…でも、あれは兵藤たちに輪姦された後だったからなのか。
 …そんなことを考えながら便座に座っていた。
 兵藤に抱かれるのも慣れてきたのか、今はもう、歩く度に痛むことはなくなった。
 と言うことはだ、これでカタラギに犯られても、俺はもう大丈夫じゃないかと思うんだ。
 いくら兵藤がエヴィルだと言っても、当の本人が何一つ情報を持っていないのなら、俺は夜の闇に立ち向かうしかない。
 闇に怯えてばかりいても、どうして、エヴィルに関することを全て忘れてしまったのか、その俺の中に蹲る謎を解明することなんかできるはずがない。
 もう、怖くないと思う。 
 カタラギを避けて夜の街を歩くのは、たぶん、不可能だ。
 昼間にどんなに街を歩き回ってもカタラギに逢うことはなかった。
 夜こそカタラギが支配する世界であり、あの派手な男は、自在に夜の闇を味方につけてエヴィルどもを狩りまくってんだろうから…俺を見つけ出すのなんか朝飯前だ。
 …ってことはないのか?兵藤に連れ去られた時も、来るの遅かったし。
 アイツ、自分の女だとかなんだとか嘯きやがって、肝心な時に遅れたら、俺死んでたかもしれないんだぞ!
 激しく頭にきて苛々しながらふと、散々なことになっている下半身を見下ろしたら、頭に上っていたはずの血が一気に冷めて、俺は泣きたいような気持ちになって、兵藤が渡してくれた紙袋から取り出したウェットティッシュでベトベトに汚している粘液だとか精液だとかを始末することにした。
 何が悲しくてこんなことしなきゃいけないんだ?
 ベトベトに、散々汚れていた下半身を拭った後、便座から立ち上がって蓋を開けてウェットティッシュを始末すると、悲しいかな、俺はそれを跨ぐように足を開いて、タンクに向かい合うような形で座ると下腹部にグッと力を入れた。
 ごぷ…っと、嫌な音を立てて兵藤が吐き出した精液と粘液が、水の音を響かせて零れ落ちた。
 それが情けなくて、何処から歯車が狂ったんだろう…と、向かい合ったタンクに片腕を乗せて、それに顔を伏せながら、俺は恐る恐る自分の指先で、さっきまで兵藤を咥え込んでいた、熱を持って腫れぼったい肛門に触ってみた。

「…ッ」

 ビクンッと身体が震えるけど、俺はそれを敢えて無視して、唇を噛み締めながら触れていた指先を潜り込ませたんだ。
 これはカタラギがしていた行為なんだけど、2度目に兵藤に抱かれた後、アイツもこうやって掻き出せと言ったんだ。勿論、カタラギ同様、兵藤も実践して教えてくれたけどな。
 奥のほうに蟠っていたモノも、座っている姿勢のおかげで下がってきていたから、すぐに殆どを掻き出すことができた。その度に、まるで自慰でもしてるような気持ちに陥って、気付いたら痛いぐらい勃起していて…って俺、どれだけ淫乱なんだ。
 アレだけ犯ったってのに、まだ勃つんだから、男ってヤツは。
 俺、男なのに…どうして、こんなことばっかり覚えなくちゃいけないんだ。
 そうだ、全部、カタラギが悪い!
 グッと唇を噛み締めて立ち上がった俺は、レバーを引いて水を流した。
 この水と同じぐらい、全部流れて、何処かに行っちまえばいいんだ。
 兵藤が用意していた学生服…アイツはいったい、何着学生服を持ってんだ?
 恐るべしエヴィル!…とか思っていたら、不意に、掛け方が悪かったのか、カチャン…ッと鍵が開いてドアが尻に当たって吃驚した。
 着替えた服は紙袋にぶち込んで、兵藤が回収し易いように元の棚に戻した後だったから、俺は既に服は身に着けていた。
 だから、慌てて振り返った先に安河がボーッと突っ立っていた時でも、なんとか(違った意味で)平静を保てたんだ。いや、思い切り動揺はしたけどな。

「や、安河?!どうして…」

 ここに?と聞こうとしたら、長い前髪の隙間から感情の窺えない双眸をして俺を見下ろした安河は、キョトンッとしたように首を傾げたみたいだった。

「…おかしいな」

 ポツリと呟いたから、今度は俺が首を傾げる番だ。

「はぁ?何がおかしいんだ??」

「あ、いや。ここ、人はいないって思ってたから…」

 ハッとしたように俺を見下ろした安河に、ははーん、さてはコイツもサボりに来たな。
 こんなボーッとしてる安河でも、たまにフラッといなくなって、気付いたら戻って来るようなことがあるんだから驚くけど、そりゃ、コイツだってサボるよな。
 …しかし、兵藤と犯ってる時に来られなくてよかった。
 俺、安河にだけは、今のこんな情けない姿は見せたくないんだよな。

「えっと…その……」

 気まずそうに目線を泳がせる安河に気付いて、俺は慌てて個室を明け渡してやることにした。
 個室なんて他にもあるワケだが、安河にとっても、サボりのテリトリーってのがあるんだろう…って、なんじゃそりゃ。

「悪い!俺、すぐ出るから。ちょっと腹壊しちゃってさ。他のトイレだと人が多いだろ?ゲリピーとか、笑われたくないんだ」

 アハハハッて陽気に笑ったら、安河は慌てたように出ようとする俺の腕を掴んだ、掴んで、手にしていたものがポトリと落ちる。

「あ」

 思わずと言った感じで慌てる安河の、のんびりとした動作より素早く、俺は落し物を拾っていた。

「お前…タバコとか吸うのか?」

 安河の知られざる素顔を見たような気がして、何となく、安河は悪いこととか何もしていないような、お綺麗なイメージを勝手に作り上げていただけに、胸の奥が微妙に痛んでしまった。
 いや、そうだよな。
 安河にだって秘密のひとつやふたつぐらいあるさ。
 お綺麗なイメージは、俺の勝手な妄想だ。
 却って、なんだか空気みたいに掴みどころのなかった安河がグッと身近になったような気がして、俺は嬉しくなっていた。

「…まぁ、気晴らしに」

 気まずそうに目線を泳がせて、後頭部を掻く安河に、俺はニッと笑ってそのガタイに似て厚い胸板を拳でドンッと軽く叩いてやった。

「んじゃ、拾ったヤツに一割な」

 ウィンクとかしてやったら、ハッとしたように安河は俺を見た後、何時もはナマケモノみたいに動作が鈍いくせに、その時は素早い仕種でバッと、前後に振っていた俺の手から煙草の箱を奪い取ったんだ。

「…あ、その、ごめん。相羽こそ、煙草とか吸うのか?」

「いや…実は吸えないんだ。ちょっと、どんなモンか試してみようって」

「それなら、相羽は吸わない方がいい。こんなの、ただのまやかしだ」

 そう言って、安河は表情こそ変えずに、ギュッと箱を握り潰してしまった。

「わ!バッカ、お前…あーあ。これだって何百円もするんだろ?損させちゃったな」

「え…?あ、いいんだ。こんなの」

 慌てて握り潰す手を掴んだら、安河はやっぱりハッとしたみたいな顔をして、それから、ちょっと照れたように俯いてしまった。
 何時もの安河にホッとしたから、握っている手を離したくなかった。

「…相羽、何かあった?」

「え?!」

 首を傾げるようにして俺を見下ろしてくる安河の、鬱陶しいほど伸びている前髪が、空気の入れ替えだと言って兵藤が開けて行った窓から吹く風にサッと揺れた。その時、不意にドキッとするほど真摯な双眸が覗いて、こう言うヤツだから、俺は入学した時から安河を気に入ったんだ。

「最近、よく授業をサボるし…それに、顔色もよくない」

 片手は俺が掴んでいるから、もう片方の腕を上げて、安河は自然な仕種で俺の頬をやわらかく包んでくれた。
 その瞬間、思わず俺は泣きそうになって、だから安河もちょっと驚いたように目を瞠ったんだ。

「や…その、なんでもないんだ」

 声を上げて泣きたかった。
 なんだか、安河なら何もかも理解して、そうして全部でも受け入れてくれそうな気がしたんだ…そんなこと、あるはずないって判ってるんだけど。
 男が男に抱かれてるのなんかおかしいと言って、きっと安河だって嫌なツラして去っていくに違いない。
 だから俺は、精一杯平気なツラしてさ、なんでもないんだと笑うしかないだろ?

「サボり虫がウズウズしてんだよな」

 アハハハッと弾けたように笑ったら、それでも安河は、いまいち納得してないみたいなツラをして、でもそれ以上突っ込むこともせずに「そうか」と言って頷いた。
 そんな辛気臭い雰囲気を振り払おうと、俺は頬に触れている安河のもう片方の手も掴んで、ギュッと握り締めながら言ったんだ。

「な?煙草、損させちまったお詫びに、今度こそラーメン奢るよ!今日の帰りってヒマか?」

 陽気に笑って、鬱陶しい前髪に隠れる双眸を覗き込んだら、安河はちょっと嬉しそうに頷いたんだ。

「…ああ」

 そう言って、でも奢らなくてもいいと言う安河に、そうは問屋が卸しませんと笑ったら、口許に静かな笑みが浮かんだ。
 俺の非日常的学校生活の、コイツだけが正常だと思う。
 安河に嫌われてしまったら、俺、どうなるんだろう。
 一抹の不安は胸の奥に隠して、俺も笑って、安河を見上げていた。

12  -EVIL EYE-

 世界中がエヴィルと言う化け物を当たり前に受け入れていることを、何故か俺は知らなくて、登校途中の女子とかが黄色い声を上げながら噂してるのを耳にしても、どうしても信じることができない。
 だいたい、どうして俺だけが忘れてるんだ?
 世界には68億人も人がいるんだから、そのうちの何人かは俺みたいにエヴィルのこともヤツ等を狩るハンターの存在も、何かがあって終わってしまった『クリスタルガーディアン計画』のことも、何もかもさっぱり忘れてるヤツとかいるのかな。
 居るだろうとは思うけど、俺の周囲にはそれらしいヤツは独りだっていない。それどころか、信じ難いってのに、エヴィルそのものは、俺の傍にはいるんだよなぁ…
 はぁ…と溜め息を吐いていたら。

「ッ?!」

 下駄箱に靴を入れて上履きを取り出そうとする俺の背後から、イキナリグイーッと身体を押し付けるようにして声を掛けてくるヤツがいる。

「あ・い・ば・くん♪」

「…ぐるじ…おま、バカだろ?!」

 長身のクラスメイトはニヤニヤ笑いながら薄っぺらい学生鞄を片手に、俺を下駄箱でプレスしようとしやがる!な、何を考えてるんだ、コイツは。
 下駄箱に押し付けられて苦しがる俺を丸っきり無視のソイツ…クラスメイトなのにエヴィルと言う、女子には王子様扱いされる兵藤要だ。

「なんだよ、沈んだ顔してさ。朝っぱらからシケてんなよ!パァッといこうぜ♪」

 いいよなぁ、悩みのないエヴィルは。
 思わず呆れ果ててモノも言えないくなりそうな俺に覆い被さるようにして、兵藤は背後からギュウッと抱き締めてきたんだ。
 もうすぐ予鈴がなる、遅刻野郎どもを除いて生徒も先生の影も鳴りを潜めた玄関で、兵藤は俺の耳の後ろをベロッと舐めてきた。

「…ん!」

 くすぐったいようなヘンな気分になって思わず声が出そうになったけど、慌てて唇を噛み締めると、面白がるように俺を両腕に閉じ込めたエヴィルはクスクスと笑った。

「1時間目は自習だってさ。フケるだろ?」

「…ああ」

 頷くと、満足そうに笑う兵藤に腕を引かれて、俺はムッツリと頬を赤くしたままで大人しく北側校舎の2階にある、誰も使わないトイレの個室に連れ込まれた。

「…んぅ!…ン……ッ」

 長身の兵藤と狭い個室の中で抱き合うのも一苦労だってのに、ヤツはすぐに貪るようにして俺の口を塞ぐと、長い舌を絡める濃厚なキスをしながら、シャツをたくし上げるようにして素肌を弄ると、キスに反応する敏感な乳首をキュッと抓みやがったんだ!

「…や、……よけ、なことッ、すんな!」

「駄目だって、相羽。こう言うことにも慣れないとな」

「…ッ!」

 キスの合間にニヤニヤ笑う兵藤をムカつきながら見上げたけど、俺はそれ以上は何も言わずにフイッと目線を逸らしていた。
 こんなこと、本当はしたくないんだ。
 でも…

「ほら、相羽。どうする?昨日はできなかったけど、今日はコレ、舐めてみる?」

 わざとらしくジッパーの音を響かせてチャックを下ろした兵藤は、相変わらずデカいペニスを取り出して、半勃ちしているそれを軽く扱いて見せながら言ったんだ。

「うぅ…」

 舐めるのか、それ?舐めるモンなのか??
 向かい合うようにして狭い個室にいる俺は、俺の腿の付け根辺りで揺れるそれを見下ろして、この上ないく嫌なものを見てしまったように溜め息を吐いてしまった。

「まぁ、別に後ろを慣らすのにコレを舐める必要はないと思うけどさ。でも、痛いのが嫌なら舐めておいた方がスムーズかもな。カタラギのは見たことないから判んねーけど、舐めてやったら喜んですぐに終わるかもしれないぜ」

 声音はニヤついているからいまいち信用できないんだけど、俺はそれでも、蓋の閉まっている便座に腰を下ろすと、丁度目の前で兵藤の手に支えられて揺れている、半勃ちから少し硬度を増したみたいなペニスを見詰めていた。

「うっわ、マジでヤバイな。スゲー、エロイ気分になる♪」

 やっぱ、愉しんでるだけじゃねーかと胡乱な目付きで見上げたら、俺はどっちでもいいよなツラをして見下ろしてくるから、内心で『嫌だ』を連呼しながらも、俺はもう一度溜め息を吐いて、ギュッと目を閉じると兵藤のペニスに舌を伸ばした。
 口を開けて舌を伸ばして、舌先が触れるか触れないかで…

「そんなんじゃ駄目だって言ったろ?」

 興奮に目許を染めた兵藤はペロッと下唇を真っ赤な舌で舐めると、俺の後頭部を掴んで一気に股間を押し付けてきた!

「…んぐぅッ?!…ぐ……んぅッ」

 咽喉の奥を犯す質量と重量を持つペニスのムッとした雄の匂いが鼻腔に洩れて、俺は吐き気を催したってのに、兵藤はまるで意に介した風もなく、荒い息を吐きながらグイグイと腰を前後に揺らすんだ。
 その度に咽喉の奥を突かれて、俺は生理的なものと息苦しさとで目尻に涙を溜めながら、目蓋は閉じたままで必死に教えられたとおり、舌を蠢かしてペニスに唾液を擦りつけた。

「…はぁ、イイ感じだ。その泣き顔もそそるし、カタラギが目を付けるのも頷けるな」

 眉間に皺を寄せて、必死で口腔を犯すペニスに出て行って欲しくて、頬に一滴涙を零しながら奉仕する俺の頭を、今度はゆっくりと撫で、それから空いている方の手で口いっぱいに自分を含んでいる俺の頬に、含みきれずに顎へと滴る唾液を指先に絡めて塗りこめるようにして撫でるんだ。

「ん、…ふ……ん、ん…ッ」

 鼻から抜けるような声を出してペニスを必死に舐めている俺の頬を撫でる兵藤は、何が楽しいのかふと、俺の肌蹴たシャツから覗く乳首に指先を這わせたんだ。

「ふ…ッッ?!」

 ギョッとして目を開いて兵藤を見上げたら、ヤツは目許を染めて、それでなくても綺麗な顔が、ドキッとするほど淫靡に彩られていて、俺はペニスを咥えてるって言う情けない格好をしてるってのに、目の遣りどころに困って目線を泳がせてしまった。
 そんな俺に、兵藤の声が降ってきた。

「そうだ、その気になるのにさ。相羽もオナッてみたらどーよ?」

「んぶっ?!…ふんッ、ふんッ」

 思わず歯を当てそうになったけど、あまりのことに目を見開いて兵藤を見上げると、嫌だと言って首を左右に振ったのに、ヤツはそれこそ悪魔…もとい、エヴィルの本性みたいなツラをしてニタリと笑ったんだ。

「その方が、早く慣れると思うぜ?」

「…ぅ…んぅ…」

 グリッと口の中のペニスが暴れて、俺は切なげに鼻から息を吐くしかない。
 どうやら兵藤は、そうでもしないと、この顎が草臥れる行為を延々と続けるぞと脅してるみたいだ。
 俺は片手で兵藤のペニスを支えながら、空いてる方の手でチャックを下ろすと、トランクスの中に手を突っ込んでヤケクソで握ろうとして…ビビッた。
 だって、信じられるかよ。こんな屈辱的な行為を強いられてるってのに、俺、勃起してるんだ。

「苦しいよ~って顔覗かせてんじゃん。出してやれよ、ホラ」

 唆すように腰を揺らされて、俺はもう、後頭部に兵藤の手はないってのに、自分から舌先を絡めてヤツのペニスにむしゃぶりついていた。

「んぅ…ぁ……んぶ」

 直に触れたペニスに思わず口を離しそうになって、もう一度やんわりと後頭部を押さえられ、俺は仕方なく勃起して、先走りの涙を零しているペニスを、ぬちゃっと粘る音を立てて扱いていた。
 どれだけ興奮してるのか、もう前後の見境とかなく上下に擦りながら、爪の先で鈴口を引っかくと、腰にズンッと来る快感にビクンッと身体が震える。
 自慰行為とかあんまりしたことがないってのに、何が悲しくて男のモノを咥えながら自分のペニスを扱かないといけないんだー…と、悲しいはずなのに、俺は思いきり興奮してて、兵藤のペニスの先端をぢゅっと吸って、にちゅにちゅと音をさせて扱く手の速度を上げていた。

(も、どーなってんだ、俺…もち、イイッッ…)

「ぅあ!…んぅ、あ、…あッ!…ク…イクぅッッ」

 思考回路が馬鹿になったみたいに夢中で扱いていた腰に意識が集中して、俺は思わず咥えていた兵藤のペニスから口を外すと、伸びる唾液を唇に滴らせたまま歯を食い縛って、びゅくんっと白濁を吐き出してしまった。 
 思い切り吐き出して、余韻に身体を震わせていたら、兵藤のクスクスと笑う悪魔の声がした。
 羞恥に顔を真っ赤にしてハッと顔を上げたら、ビュッと熱くて粘る白濁とした粘液が顔中に飛び散って、慌てて目蓋を閉じていた俺はムッとする雄の匂いに眉を寄せてしまった。

「イク…ってちゃんと言うんだな。AVみたくて、エロかった」

 最後は自分で扱いたのか、俺の頭に片手を置いたまま、狙いを定めるみたいにペニスを掴んで淫らな笑みを浮かべている兵藤が、んなことを言うから、俺はドロッとした精液を顎から滴らせながら唇を尖らせただけで何も言わなかった。
 まさか言えるワケがない、カタラギに『言え』と言われてから、そんなにしたこともなかった自慰で『イク』と言えるように練習してるなんてな…俺、もしかして脳みそ腐ってんのかな。

「エロかった…じゃねーよ!どうしてくれんだ、顔にぶっ掛けやがって…んぐッッ」

「騒ぐなよ。誰か来たら困るんだろ?それより、舐めて大きくしろよ。ここからが本番だろ?」

 兵藤の唆すような声が、ふと、俺を不安にさせた。
 顔の青臭い精液を腕で拭おうとしていたら、問答無用で乱暴に突っ込まれて、一度イッて少し小さくなっていたペニスは、それでも口腔の滑りを感じるとすぐにグンッと硬度を増して、すぐに俺の咽喉を圧迫した。
 最後までする気なんかサラサラないんだろう、すぐに引き抜かれたペニスを必死で追っていた俺の舌に、唾液の細い糸がツゥ…ッとのびて、兵藤は尻上りの口笛を吹いた。

「…っとーに、エロイな、相羽。俺、その顔でもイキそう」

 ニヤッと笑って、仕方なくトイレットペーパーで顔を拭って胡乱な目付きで睨んでる俺を、欲情した双眸で繁々と見下ろしていた兵藤は、すぐに顎をしゃくりやがるから…悔しいけど俺は、本来はコレが目的なんだからと自分に言い聞かせて、ノロノロと立ち上がると、性悪なエヴィルに背中を向けた。
 便器を跨ぐようにして給水タンクを掴んだら、殆ど同時に、兵藤は乱暴な…と言うか、性急な仕種で俺のズボンを一気に引き摺り下ろしたんだ!

「…ッ」

 冷やりとした空気を素肌に感じて、思わず身震いする俺の尻の肉を掴んだ兵藤は、何も言わずにグイッと割り開いた。
 本来ならそんな場所、絶対に人目に晒すことなんかないって思っていたのに…俺はギュッと目蓋を閉じると同時に、唇を噛み締めてその衝撃を覚悟した。
 けど…

「…ぁ」

 想像していた衝撃はなく、昼間は100%の力が出せないとかで、鳴りを潜めているエヴィルの本性の一部だけ垣間見せる兵藤の、人間では有り得ない長い舌が、粘る粘液に塗れたまま、ずちゅ…っと、肛門を貫いて直腸を犯したんだ。
 ペニスと違ってゴツゴツした感触がなくて、まるで何か、軟体の生き物に直腸内を這い回られてるような奇妙な感触は、それでもすぐに、俺の快楽のポイントを見つけて攻めるから、自然と甘えるような声が出て恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうになる。
 もう、誰か俺を殺してくれ。

「…ぅあ!…ゃ、あ……んッ」

 長い…もう別の生き物と化している舌が犯す肛門に、その唾液の滑りを借りて、兵藤はゆっくりと指を挿入してきた。
 直腸の内部を思う様、蹂躙される感触に身震いしている俺の、睾丸の裏のあたりにある前立腺に触れられた瞬間、俺のペニスは完全に勃起してぶるんっと震える。

「ひぁ!…ぅあ……ッ」

 思わず揺れる腰を抑えることができず、俺は縋りついたタンクを掴む指先に力を入れていた。

「…カタラギにこれぐらい解してもらえりゃ、んなにキツクねーんじゃねーか?」

「や!ひぃ…ッッ!んんッ」

 ビュルッと舌と指を同時に引き抜かれて便座の蓋に白濁の粘液を撒き散らしてイッた俺の尻を片手で掴んで、兵藤は笑みを含んだ声でそんなことを言うと、空いている方の手で既に勃起してそそり立っているペニスを掴んで扱いたみたいだった。
 大量の粘液を滴らせる肛門に灼熱の鉄の棒をオブラートで包んでいるような、硬い感触で擦られると、俺は必死で首を左右に振っていた。
 もう、頭はショート寸前で、自分がどんな痴態を演じてるのかも判らなくて、口の端からよだれを零しながら半端な目付きをして背後を振り返ろうとした。
 でも、できなかった。

「…!!」

 一気に貫かれた衝撃に、残っていた精液がビュッと飛び出して、もう何度目の絶頂なのかも判らないまま、俺は兵藤に揺すられるに任せて脱力していた…のに、兵藤を咥え込んでいる肛門の感覚だけは嫌にリアルで、生々しい息遣いに煽られたように、男に犯されている事実をまざまざと思い知らされた。
 自分が選んだことでも、これで良かったのか、本当は何も判らないんだ。
 狭い個室の中、便座に体重を預けるようにして高々と片足を抱え上げられた俺は、湿った音を立てて出入りする張り詰めた怒張に追い上げられるようにして、気付いたら自分で腰を振っていた。
 もっと、もっと奥を突いてくれ…そう言っているみたいで、脳内では羞恥にやめてくれ!と叫び出しそうなのに、目許を染めて口許からよだれを垂らしてるような情けないツラしてんじゃ、説得力も何もあったもんじゃない。
 程なくして、兵藤が低く呻くと、大量の溶岩みたいに熱い精液がドプ…ッと直腸内を満たして、俺は反射的に射精していた。

11  -EVIL EYE-

『今朝未明、巨大なエヴィルを確認した防衛庁では…』

 相変わらず、朝のニュースは信じられないような内容を展開して、トーストにバターすら付け忘れている俺が呆気に取られたように見詰める先、淡々とした表情のアナウンサーは起こったことを事実として無機質に報道していた。

「最近は毎朝欠かさずにニュースを観るようになったのね。感心だわ」

 心配性の代名詞みたいな母さんは、汚れた皿をまとめながら、少し嬉しそうに双眸を細めている。
 その傍らで、まだ食ってる暢気な親父が、「ああ!まだ食べてるよ~」と情けない声を出して母さんが手にしている皿をせがみながら…って、どれだけ手が焼けるんだ、この中年は。

「この間、エヴィルに襲われたんだって?もうね、お母さんから連絡があったとき、お父さんは死ぬかと思ったよ」

 うるうると、嘘泣き全開の中年サラリーマンを腐った目で見返す俺に、母さんは手にした皿をテーブルに戻しながらひっそりと眉を顰めた。

「無事だったから良かったけれど…もう、夜遅くに外に出ては駄目よ。この間もお父さんが書類を忘れたからって、あなたは届けに行ってくれたけど…もう、届けなくてもいいからね」

「うん、僕もそう思う。光太郎は優しいから、お父さんは甘えないようにするよ」

 何処にでもある平凡な朝の食卓風景なんだろうけど、キリリとした母さんとへぼーんっとしてる親父を見ていると、だからこそ、あのテレビの中の出来事は何かの特撮映画で、俺とは関係ない世界で起こって…いて欲しいと願ってしまう。
 そんなの顔色にだって出さずに、俺は溜め息を吐いて肩を竦めるんだ。

「書類忘れたから持って来いって言っときながら、散々な言い様だよな!」

 唇を尖らせて、反抗期みたいに悪態を吐いたら、親父はキョトンッとしたような顔をして、立っている母さんと顔を見合わせやがった。
 なんなんだよ!あのなぁ、俺はあの書類を持って行ったばかりに、カタラギに…ッ!
 ムッと眉を寄せると、母さんは出勤前の身支度があるのか、エプロンを外しながら困ったような顔をして言ったんだ。

「おかしなことを言うのね、光太郎。お父さんが書類を忘れたわ…ってお母さんが言ったら、自分が持って行くって言い出したのよ?」

「へ?」

 なんだって?俺、そんなことを言った覚えはないぞ。
 泊まり込みで会社に居た親父は最近、漸く休暇が取れて戻って来ていた。戻ってきたら文句を言ってやろうと思っていたのに…書類を届けるなんて俺、言った覚えはない。

「親父から電話があったじゃないか」

 そうだ、確かそれで、書類を持って来いって言われて、俺は渋々親父の会社に向かった…はずなのに、どうしてだろう?あのOLエヴィルに襲われる前の記憶がない。
 ないってのは語弊だ、断片的にしか思い出せない。
 困惑したように眉を寄せる俺に、母さんはキョトンッとしている親父と目線を合わせると、やっぱりひっそりと眉を潜めて小首を傾げたんだ。

「そうよ。それで、私がもう夜も遅いし、エヴィルに襲われては大変だから明日にでも…と言ったら、お父さんもそれに納得していたんだけど、光太郎、あなたがどうしても行くって言って譲らなかったのよ?」

「…」

 そんなことを言った覚えはない…と言うか、会話をした記憶すらないから、言ったのかもしれないし言わなかったのかもしれない。正直、自信がない。
 不安に眉を寄せて目線を下げたら、不意に近付いてきた母さんは、困ったような顔をして俺の額に掌を押し当てた。

「…エヴィルに襲われたとき、頭を打ったんじゃないの?やっぱり、ちゃんと病院に連れて行くべきだったわ。私がもっと確り…ッ」

 母さんの心配性が発症したみたいで、俺は慌てて笑いながら学生鞄代わりのスポーツバッグを引っ掴んで立ち上がると、心配そうに眉を寄せている母さんに明るい調子で言った。

「ちょっとビビッて気絶しただけだよ!すぐにハンターが来てくれたし、前の件はちょっとうっかり忘れただけだって。物忘れの酷さは親父譲りだもんな」

「酷いなぁ~、光太郎は」

 どうやら本気で凹んでるみたいな中年親父はこの際無視なんだけど、額に当てられた掌からやんわりと逃げ出したら、母さんは払われた掌をギュッと握って、やっぱり心配そうな顔をして俺を見詰めるから…うぅ、俺、母さんのこの目に弱いんだよなぁ。
 ホントにさ、どれだけ過保護なんだよ。
 ビビッて気絶とか冗談じゃねぇと思うけど、兵藤のクソ馬鹿がんなことを抜け抜けと報告しやがったから、母さんはホッとして頭からその話を信じてるんだよな。
 心配性のくせに何処か抜けていて、まぁ、だからこそへぼーん親父ともうまくやっていけるんだろう。

「気絶だけで大した怪我もなかったんだし、母さんは心配しすぎだよ」

 ある場所は非常に拙いことにはなっていたけど、それもボチボチとは治ったみたいで、もう普通に堅い椅子に腰掛けてても辛くない。
 陽気に言って、学校に行くからと片手を振ったら、母さんはまだ納得していないみたいだったけど、親父の暢気な「行ってらっしゃい」の声に背中を押されて、俺はそそくさと薮蛇にならないように家を後にした。

10  -EVIL EYE-

「兵藤!」

 始業まで、まだ暫く時間がある教室は今日も変わることなく賑やかだったけど、ひとつ何時もと違うのは、あの女子に囲まれてるのが当然だというツラをした兵藤が、今日に限って嫌なものでも見るみたいに顔を顰めやがって俺を見たことだ。
 朝の挨拶もそこそこで、俺は慌てて兵藤の腕を掴むと廊下に引き摺り出していた。
 背後で女子の「死ね、相羽」のドスの効いたブーイングに気圧されてたら、兵藤の「大事な用事があるんだ、ごめんねハニー」の台詞にブーイングは黄色い悲鳴に変わって朝から気が滅入っちまった。

「さすがエヴィルだな。なんか、魅力を撒き散らしてんのか?」

 呆れたように聞いたら、兵藤のヤツは肩を竦めただけでそれには応えなかった。

「俺のことなんかどうでもいいだろ?ったくよー、まさか相羽がエヴィルハンターの女だったとは盲点だったぜ」

「ゲゲッ!その話こそどうでもいい!!それより、お前に訊きたいことがあるんだッ」

 アワアワと慌てまくる俺を怪訝そうに眉を顰めて見下ろしていた兵藤は、それでもどうやら、朝はただの人間なのか、いや、人間の皮を被っているだけなのか…どちらにしても、特に気にしたようでもなく、どうでも良さそうに首を傾げて顎をしゃくった。

「なんだよ?」

「エヴィルってなんなんだ?!俺、あんな化け物とか、お前みたいなヤツだとか、今回初めて見たんだぞ!なのに、新聞とかニュースじゃ普通に話題になってるじゃないか。なんか、スゲー変だぞ」

「…」

 兵藤のヤツは思い切り胡散臭そうな顔をして俺を見下ろしていたけど、次いで、すぐにハハーンッと何かを思い付いたみたいだった。
 いや、なんでもいいから、判りやすく説明してくれ。

「お前さぁ、俺がエヴィルだからってバカにしてんだろ?どうでもいいけどよ、学校じゃ俺がエヴィルだってことは内緒にしておけよ。じゃねーと、警察とか出動されたら、俺、お前の傍にいられなくなるからな」

 最後は嫌そうに顔を顰める兵藤は、そっか、あの時カタラギから絶対的な命令を受けたんだっけ。

 『夜明けから夕暮れまでオレの女を護れ』…だっけ、ホント、あのバカは一度でも死ぬような目に遭えば目が醒めるんじゃないかと思うんだけど、ああ言う、妄想系のヤツに限って、一度だってそんな目に遭わないから不公平だよな。

「バカにしてるワケじゃねーよ!目が覚めたら、今まで気付きもしなかったことが当たり前に生活の一部になってるんだぞ?!これが驚かずにいられるかよッ」

「…カタラギってハンターに目を付けられるぐらいは、相羽って素直なヤツだからな。嘘は吐いてねーとは思うんだけどよ、それでも悪い。ちょっと保健室行くか??」

 心底呆れたように眉を寄せながら、兵藤の方こそバカにしたみたいに腕を組んで俺を見下ろしてくる。

「…え?じゃぁ、エヴィルとか本当に普通にいるのか?」

 信じられなくて、俺が不安そうに眉を顰めて見上げたからなのか、一瞬、信じられないとでも言いたそうな顔をした兵藤は、それでも組んでいた腕を解くと、ワケが判らないってなツラをして頭を掻いた。

「目の前にいるだろ。いや、でも相羽がそこまで言うってことは、本気なんだな。でも、変だな。あれだけ問題になって大騒ぎして、漸くエヴィルを害獣として認知する方向で普通の生活に戻ったってのに、あの騒動をお前は知らないって言うのか??」

「…う、うん。なんでだろ?スッポリと記憶がないみたいだ」

「はぁ?」

 今度ばかりは兵藤も驚いたのか、ギョッとしたように俺を見下ろして、それから不審そうに唇を突き出したんだ。

「ああ、でもそうか。それでなんとなく判った。夕暮れから夜明けまでがエヴィルの出没する時間帯なんだ。だから人間どもはなるべく、その時間帯は避けるようにしてる。残業とかでも、会社に泊まるのが当たり前になってるだろ?なのに、どうしてお前は平気で夕暮れでも歩いて帰ったりしてるのかって不思議だったんだ」

 俺の説明で、兵藤は納得したみたいだった。
 納得して、途端に難しい顔をして腕組みをした。

「でも、だとすると、ちょっと大変だな」

「…ああ、エヴィルのこともハンターのこともまるで知らないんだ」

「エヴィルってのはさ、何処か別の次元から来た異形の生物だと、この間、専門家がそんなこと言ってたぜ。今の世の中、エヴィルの専門家ってな連中がいるんだ、普通にどうかしてるよな?ま、そんなこたどうでもいい。俺自身、気付いたらエヴィルだったワケだし、自分が何者かとか考えたこともねーんだけど。エヴィルには二通りあって、簡単に言えば人間の形をしてるかしていないかなんだが。俺は前者の方だ」

 頷いて説明を始めてくれた兵藤は、自分の存在理由なんか考えたこともないのか、全くどうでもよさそうな口調で淡々と話してる。
 つまり、エヴィルと呼ばれる化け物は、ある日突然、この日本に姿を現したってことだ。
 別の次元…ってのは、異世界とか、そんなレベルの話なのかな?うぅ、なんかよく判らないぞ。

「普通に人間も襲えば家畜も襲う、共食いだってする悪食のエヴィルに手を焼いた各国の政府は…」

「せ、世界中にいるのか?!」

 てっきり日本限定の特産物なのかと思っていたら、思わぬ兵藤の台詞に、俺は思い切り仰天してしまった。

「そこまで覚えてないのかよ…」

 こりゃ、相当な重症だとでも思ったのか、それまで面倒臭そうに話していた兵藤は、何を思ったのか、少し身を入れて話すことにしたみたいだ。
 それまでホント、遣る瀬無いほどテキトーに喋ってたからな、コイツ。

「勿論、日本に現れたとほぼ同時に世界中のいたる場所で目撃されるようになったワケだ。事態を重く見た各国の政府はエヴィル狩りをするために、特殊部隊だとか、軍まで駆り出したんだけど、俺たちには人間の武器は全く効かねーんだよ」

 廊下の窓辺に凭れながら、兵藤はできるだけ詳しく話してくれているみたいだ。
 エヴィル本人からエヴィルのことについて聞くってのもヘンな話しだけど、それでも、今、事情を知っているのは兵藤ぐらいだから、ここは悔しくともコイツを頼るしかないだろ。

「動きを止めて捕獲するぐらいはできるがな。でも、すぐに逃げ出す。靄とか霧に変化できるからさ。んで、世界中が知恵を集めて行ったのが【クリスタルガーディアン計画】ってヤツだ」

「…クリスタルガーディアン計画?」

 そうだと頷いて、それから、兵藤のヤツはどうして自分がこんな歴史の勉強みたいなことを、本来なら知っていて然るべきヤツに話さなくちゃいけないんだ?と、唐突に思い出したみたいに不機嫌になった。
 とは言え、もうすぐ授業が始まるんだから、最後までちゃんと話してくれよ!

「んな、喰いつきそうな顔で睨むなよ。えーっと、つまりだ、昨夜会ったあのハンターみたいな連中を創り出すって計画だったらしいぜ」

 でも、実は自分もよく知らないんだと断って、兵藤は眉を寄せて頷いているみたいだった。

「ヘンだよな。人間の武器はどれも役に立たなかったのに、ハンターたちは平気で俺たちを狩れるんだぜ?よく考えたこともなかったけど、【クリスタルガーディアン計画】ってのは、いったい何だったんだろうな?」

「…何だったんだろうな、って、もしかしてもう、その計画は実行されていないのか?」

 俺が首を傾げると、一瞬バカにしたみたいに眉間に皺を寄せた兵藤は、俺の顔を見てからハッとして、それから苦虫でも噛み潰したみたいな顔をしやがった。

「奇妙なモンだな。もう、何年も前に終わった出来事を、その時代に生きてるヤツに一から説明しなきゃいけないんだ。ま、相羽が必死な形相をしていなかったら、打ん殴ってやるところだけどな」

 兵藤がそんな憎まれ口を言って、俺がムッと唇を尖らせたその時、間もなく授業が始まるぞってな予鈴が、教室に入れクソが、みたいな調子で流れてきた。
 ああ、もっと訊きたいことは山ほどあるってのに!

「ちょうど10年ぐらい前かな。なんか、研究を行っていた施設が吹っ飛ぶような事件が世界中で起こって、それで【クリスタルガーディアン計画】は失敗とかで、そのまま中止されちまったんだ。言っとくけど、俺は原因までは知らないからな。その時の不用になった連中が、賞金欲しさのハンターってのになったんだろ?俺が知ってるのはそんなモンだ」

「そうだったのか…」

 呟いて、これで全部だからもう話はないぞって感じで、肩を竦めて教室に入ろうとする兵藤を見て、俺は慌てて声を掛けた。

「そうだ。兵藤!俺を家まで送ってくれたんだろ?」

 大変なことが起こり過ぎて脳細胞が死滅しそうだったけど、ふと思い出して、聞いてみることにしたんだけど…

「あ?アレはカタラギに押し付けられたんだよ」

「え?」

 ちょっとドキッとした。
 朝にヘンなこと考えたって、別にバレるワケじゃないんだが、カタラギの名前が出て、つい悪戯を見付かった子供みたいなバツの悪さで居心地が悪くなった。

「自分が行けば胡散臭いって疑われるから、お前行け…ってよ。どれほどエヴィル扱いが悪ぃんだ、あのハンター!…お前の母ちゃん、驚きすぎて卒倒するんじゃないかって思ったよ。なんせエヴィルに襲われたんだから、そりゃビビルよな」

「でも、服とか…」

 シャツは切り裂かれていたし、下半身はドロドロになっていたはずだ。
 うぅ…今日、母さんに会いたくない。

「だから、俺が呼ばれたんだろ?」

  そろそろ本気で面倒臭くなったのか…って、まぁ、予鈴も鳴ったから、いつ先生が来てもおかしくないんだから落ち着いていられないのかもな。

「俺の服だろ?そんで、後は消毒、包帯、ウェットティッシュ。なければ買ってでも持って来いって言われて、仕方なくオレンジ頭の…スメラギとか言ったっけ?アイツに送ってもらったんだ」

 じゃねーと、俺、他のエヴィルに狙われてるからなと、言って、兵藤は嫌そうな顔をして溜め息を吐いた。

「服って…お前が着替えさせてくれたのか?」

「は?んなワケないだろ。俺が行ったとき、お前意識がなくて。カタラギが嬉しそうに抱いてたっけ。確実に1回はイッてるみたいだったから、嬉しかったんだろ?お前、アイツに犯られたとき、萎えてイケなかったって言ってたモンな」

「ぎゃー」

 思わず声を上げて両耳を押さえそうになる俺に、兵藤は何を泡食ってんだと馬鹿にしたような、どうでもいいような目付きをして見下ろしてきたけど、やれやれと溜め息を吐いたみたいだった。

「酷い状態だった下半身とか、アイツ、嬉しそうな顔してウェットティッシュで拭ってたし。綺麗にしてたぞ。腕にも包帯巻いてさ、ハンターのあんな姿、初めて見たよ。俺に手渡す時もかなり渋ってたけど、スメラギに諭されて渋々って感じだった。まぁ、お前も大変なヤツに見込まれたよな」

 …その話を聞いて、俺、いったいどんな顔をしたら良かったんだろう。
 あれだけ俺のことなんかお構いなしで自分勝手な男なのに、カタラギはどんな顔をして俺の世話をしたんだ。
 意識のない俺を犯すなんてサイテーなヤツではあるけど…俺は手首に巻かれた包帯にソッと触れた。

「何はともあれ、一件落着だろ?じゃ、俺はもう教室に戻るぞ」

「あ、ああ!俺も一緒に行くよッ。それと、その、有難うな」

 肩を竦める兵藤に礼を言ったら、ヤツはちょっとキョトンとした顔をしたけど、すぐにニヤッと笑うと「どう致しまして」と言って教室に入ろうとするから、俺もヤツの後を追うようにして教室に入ったんだ。
 自分の机の上にスポーツバッグを投げ出しながら、俺は兵藤から聞いた、本当なら信じられないような話を思い出して考えていた。
 10年前にそんな大騒動が起こったってのに…どうして俺は、覚えていないんだろう?
 今の話を聞いたからって、コレが漫画とか映画だったら、チカチカッと脳裏に閃く朧げな映像だとか記憶だとかが意味深に思い出されるんだろうけど、そんなモンが全然浮かんでこないんだから…俺、忘れたとかそんなんじゃなくて、実は本当に知らないんじゃないかって気がしてきた。
 エヴィルもハンターも、2日前に見た、あのOLの化け物と大型の化け物と、あとカタラギたちが初めてだったんだ。その気持ちは今も変わらない。
 でも、なんなんだろう、この違和感は。
 上の空で1時限目を終えた俺が、女子に囲まれてニヤついているなんちゃってエヴィルっぽい兵藤に呆れ果てて、手持ち無沙汰で机に懐いていると、不意に影が差したから不思議に思って顔を上げた。
 そうしたら…

「あ、安河。その、っはよ」

 エヘッと笑っても、安河はニコリともしない。
 いや、勿論そう言うヤツだし、ボサボサにのびてる前髪の隙間から覗く双眸では表情とか判らないんだけど、それでも、安河は小さく「っはよ」と応えてくれた。

「昨日はごめんな。なんか、ゴタゴタしててさ」

「相羽…昨日、襲われたって?」

 ハッとして、咄嗟に机に懐いていた上体を起こして安河の顔を見上げたら、案の定、ヤツはちょっと申し訳なさそうな表情で恐縮してるみたいだ。

「べ、別に安河のせいじゃないぞ。夜に呼びつける親父がクソなんだ」

「…でも。俺、後悔した」

 ポツンと呟く安河に、なんつーのか、胸の奥が久し振りにじんわりと暖かくなって、俺は嬉しい気持ちでニヘラッと笑ってしまった。

「あの時、無理にでも引き留めとけば…って、ごめん」

 デカイ図体のわりに、全然穏やかで、他人を気遣う優しさを持っている安河を、『キモイ変態』呼ばわりする女子の方が、俺には鬼に見えて仕方ねーんだけど、今はそんなこたどうでもいいか。
 ただ、あのあんまり感情表現が上手くない安河が、言葉少なにポツポツと俺の身体を案じてくれてるなんか信じられるかよ。
 そりゃ、スゲー嬉しいさ。

「だから、ホント、全然お前のせいじゃないんだって!それどころか俺、エヴィルを見たんだぜ」

 この最後の台詞に、安河がどんな反応を示すのか、俺としてはドキドキの一瞬だった。
 日常会話っぽく、ちゃんとみんながエヴィルの話をするのか純粋に知りたかったし、もしかしたら別の意味で襲われたとか言われたんだったら、今すぐダッシュで教室から逃げ出さねーと普通に嫌だろ。

「そっか。でも、相羽。2組の松崎とか…クラスメートも殺されたんだ。エヴィルは危ない」

 真摯に呟く声を聞いて、うげ、やっぱマジでみんなエヴィルを知っているんだと思ったら、なんかますます取り残されたような気分になってムカついたんだけど…そうか、松崎たちはエヴィルに殺されたことになったのか。
 その現場に俺はいたのに…どうして警察とか、事情聴取に来ないんだ?
 そこまで考えて、俺は唐突にハッとした。
 カタラギが言っていたあの言葉を思い出したからだ。

『オレたちが何を破壊しても、何を自分のモノにしても、誰も何も言わない。それどころか、喜んでソイツの人権すら無視するんだぜ』

 もしかしたら、俺はそこに存在していなかったことになったんじゃないのか?
 政府が雇っているハンターの特権で、カタラギは俺を自分のモノにしたから、たとえ凄惨な殺害現場に俺が立ち尽くしていたとしても、俺が罪に問われることはないし、ましてや保護してもらえることもないってワケだ。
 その考えに、俺はゾッとした。
 思わず青褪めて、カタカタと身体を震わせてしまう俺を見て、安河はエヴィルの恐怖を思い出させてしまったと誤解したのか、慌てて、不器用に俺を気遣おうとしてくれた。
 そんな安河の態度に、やっぱり俺は絆されて、ああ、このささやかな幸せがあれば、どんな形でもこの学校に通えるのなら、それはそれでいいかとか、親父譲りの順応力で諦めることにした。
 アイツに見初められた時から、俺の運命は捻じ曲がって、歪んでしまったんだ。

「安河さ、心配してくれたんだ?」

 青褪めていたはずの俺が意地悪くニヤニヤ笑って見上げたら、下唇を突き出すような表情をして、見え難い双眸でじっと俺を見下ろしていた安河は頷いたようだった。

「ラーメン食いに行く約束したから…」

 なんだ、ただ律儀ってだけかよ!
 思わずガックリしそうになって、それから唐突に俺はハッとした。
 何を考えてるんだ、俺。律儀にでも気遣ってくれてるってのに、感謝こそすれ、どうして期待外れにガックリしてるんだ。
 って、期待ってなんだよ?!

「気を付けるよ。ありがと、安河」

 連日の疲れもあってか、思い切り項垂れてガックリする俺を、安河は不思議そうに見下ろしていた。
 何時もの日常が始まるのかもしれない。
 ただ、日常に潜む非日常的な出来事に用心しながら、これからは生きていくべきなんだろう。
 でも…ふと、俺は思う。
 どうして、世界中の誰もが知っていることを、俺だけが忘れてしまっているんだろう。
 どうして、今まで俺は無事でいられたんだろう。
 カタラギと回り逢ったあの瞬間から、俺の世界は見事に反転して、安河と話すこのささやかな安らぎを噛み締めながら、夜の闇に怯えて生きていかなくてはいけないんだ。
 エヴィルの存在を覚えていたら、もしかしたら、夜の行動は控えたかもしれないし、カタラギと出逢うこともなかったんじゃないかって思う。
 これが運命なのだとしたら、それはとても過酷で、その運命を紡ぎ出す何者かを俺はひっそりと恨むに違いない。
 ごく普通の、当たり前だった日常生活に戻りたいとここで叫んでみても、たぶんきっと、変な目で見られて病院送りになると思う。だって、この非日常こそが日常で、俺が普通だと思っていた日常が非日常になるんだから。
 グルリと眩暈がする。
 忘れているのなら、そのままがよかった。
 気付かなければよかった。
 絶望したみたいに、俺は溜め息を吐く。

 こうして、俺の非日常的な生活は、目の眩むような痛みを伴ってスタートした。

9  -EVIL EYE-

 気付いたら、今度はベッドの上に横になっていた。
 ピチュピチュと、明るくなっているカーテンの向こうの世界から鳥の声がして、耳鳴りがする重い頭では思考回路もまだハッキリしていないけど、どう見てもそこは俺の部屋で、見慣れた天井が視界に広がっている。

「…俺、どうやって帰ってきたんだ?」

 掠れて拉げたような声が出て、軽く咳払いをしたらどうにかまともな声が出せたんだけど…ふと筋肉痛に軋む腕を持ち上げて前髪を掻き揚げようとしたら、目に飛び込んできた白い包帯を見て、漸くハッキリと意識を取り戻せた。
 グハッ、拙い!
 こんなの母さんに見られたら、何があったんだと根掘り葉掘り聞かれた挙句、暫く夜間の行動が禁止されちまう…って、別に夜間に出歩かなくていい理由ができるんだ。何、焦ってんだよ俺。
 いや、そうだ!
 俺にとっては正当な理由だけど、あのカタラギはそうじゃない。
 イキナリ家に押しかけてきて、母さんとか親父に危害を加えるかもしれない。そうなると俺的に非常に拙い。だから、夜間の出歩きを禁止されたら大問題じゃねーか!
 …と、なんか必死に理由をつけてるようでバツが悪いけど、ギシッと軋むような身体を起こして、俺は溜め息を吐きながら、感覚が乏しい足を床に下ろして顔を顰めてしまった。
 何処も彼処も痛い。
 こんな身体で学校に行けるかな…いや、根性で行こうとしてるんだから、スゲーよな。
 だってさ、兵藤に聞きたいことがたくさんあるんだ。
 あの時はてっきり悪夢だとばかり思っていたのに、放課後に兵藤が言ったはずの言葉が耳から離れない。
 あのエヴィルとかって化け物…世間に浸透してるって言うのか?
 どうして、俺はそんなスゲーことを知らないんだ?
 よく判らなくて…でも、何か知ってるはずだと考えようとしたら頭がズキズキする。
 顔を顰めながら何気なく触れた下腹部にギクッとした…だってさ、気持ち的には目立つほどでもないんだけど、やっぱり少し、膨らんでいるような気がする。
 と言うことはだ、意識を失くした俺を、カタラギは抱いたんだろうか。
 俺の胎内からエヴィルが放った精を憎々しげに掻き出したあの、燃えるように熱い指先で、意識を失くしたままの身体を、隈なく辿って抱き締めたのか。何か香でも焚き染めているのか、カタラギは独特の匂いがした。その匂いに抱き締められて、突き上げられながら俺、夢の世界にいたなんて。
 目が眩むような淫靡な光景を想像して…って、何を考えてるんだと、唐突にハッとして顔を真っ赤にしたら…おい、信じられるかよ。
 ま…ぁな、朝の生理現象なんだからそう言うことだって起こって当たり前だよな、まさか、そんな馬鹿なこととかないとは思うけど、カタラギの温もりとか匂いとか、貫かれた時の痛みとか…そんなモンを思い出して、まさか勃起したなんてこたねーよな。何、考えてるんだ俺!アハハハッ。
 ……なんか、非常に拙いことになってると思うぞ。
 あんまり、カタラギから『オレの女』を連発されて、脳内で妙な具合で捻じ曲がって、カタラギみたいに曲解しようとしてるんじゃねーだろうな?
 具合の悪さは昨日の朝よりも酷かったけど、それでも鬱々と部屋で寝転んでるのも落ち着かないし、何より、母さんに適当な言い訳でも考えないと、最後には学校にだって行かせて貰えなくなるぞ。
 うんざりするほど面倒臭いんだけどさ、俺は溜め息を吐きながらノロノロと制服に着替えると、重くなる足を引き摺りながら階段を下りてダイニングに行った…けど、母さんはいなかった。
 ふと、朝食の用意がされたテーブルの上を見ると、几帳面な母さんらしい綺麗な字で書置きがあった。

『光太郎へ。昨日はエヴィルに襲われて大変だったそうね。たまたまハンターが通りかかったから良かったものの、気をつけなくちゃ駄目よ。もし、学校に行けるようなら、兵藤くんにちゃんとお礼を言いなさいよ。お母さん、仕事に行くからね。今日は遅くなるけど、暫くは夜間の外出禁止よ。判った?じゃあ、行ってきます』

 …思わずポカンッとしちまった。
 あの冷静沈着で、物静かで、幽霊とか信じない母さんが書置きに『エヴィル』とか『ハンター』とか、何を書いてるんだと目を疑って、俺は実に5回も読み直してしまった。
 早く家を出ないと遅刻は免れないってのに俺は、慌ててリビングに行くと、テレビのリモコンを引っ手繰るように手にして、慌てて電源を入れたんだ。

[…で大型のエヴィルが出現し、機動隊が出動する騒ぎがありました。兼ねてから話題となっていたハンターの出現により、一時は危機的状況に陥っていたにも拘らず、捕獲に成功しました。次のニュースです…]

 見慣れたキャスターが聞き慣れない台詞を連発して、俺は呆然と立ち尽くしながら、母さんがソファに置いて行った新聞を引っ掴んで開いてみたんだ。
 確かに、新聞にも小さな記事が出ている…って、おい、待てよ。
 どうして、あんな怪物が暴れたってのに、一面じゃないんだ?!
 何が、どうなっているのか、まるで判らない。
 カタラギに出会って、一夜明けたら『エヴィル』は当たり前のように、生活の一部みたいにして普通に報道されている。まるで日常茶飯事のことだから、そんなに気に留めることもない…みたいな、なんだよ、この泥棒が出たぐらいですみたいな扱い方は。
 ネトゲばっかやってるからって、これは異常だ。

「学校…そうだ、学校に行こう。そんで、兵藤をつかまえないと」

 アイツは正真正銘のエヴィルだ。
 でも、そこまで考えて俺は違和感を覚えた。
 そうだ、学校にまで入り込んでいるほど、エヴィルの存在は浸透しているじゃないか。
 どうして俺、そんな大切なことに気付かなかったんだろう。
 カタラギと出会ってから、何かが微妙に歯車を狂わせたみたいに、チグハグな気分になる。
 何もかもがシックリいっているようなのに、何処かが微妙におかしくて、何か大事なことを見失っているような心許無い気分になるんだ。
 俺は学生鞄代わりのスポーツバッグを引っ掴むと、知らず乱暴にドアを閉めて鍵をかけて、痛む身体を忘れたみたいに走り出していた。

8  -EVIL EYE-

 相変わらず、一件落着したカタラギの仲間の2人は、変形する身体を持て余している兵藤を、まるで荷物でも扱うようにヒョイッと小脇に抱えて、来た時と同じように音もなく滲むようにして去ってしまった。
 面白そうだからと、夜の静寂に殺されないように、兵藤は自宅に無事に送り届けられることになったらしい。
 らしい…のはどうでもいいんだけど、今はこの目の前でマジマジと俺を品定めしているカタラギが大問題だ。

「は、早く腕の縄を切ってくれよ」

「…」

 あくまでも、そんなにも観察したいのか、一箇所を。
 それって視姦って言う、立派な変態行為なんだぞ。
 変態行為に立派もクソもねーけどな。

「昨日もカタラギに縛られたから、もう手首、ガタガタなんだけど…」

 どうでもいいとカタラギが思ってることは重々承知の上だけど、擦り切れて鬱血だけじゃなく、もう血が滲んでいる手首には感覚がない。いや、手首だけじゃない、腕も痺れて麻痺したみたいになってる。
 溜め息を吐いてカタラギを見詰めたら、真っ赤な髪の派手な男は、感情を窺わせない目付きで俺を見据えてきたんだ。
 そんな目付きをされてしまうと、腹の底に鉛でも飲み込まされたみたいに、落ち着かない気分になってくる。

「…優しく抱けば、イクんだよな?」

「今日は…もう、無理だと思う。俺、本当に具合が悪いんだ。昨日から眩暈ばかりがして…」

「イクんだよな?」

 聞いちゃいないのか。
 この野郎…と、散々恨めしく思ったけど、俺は目蓋を閉じて渋々頷いた。

「イケると…思う」

「そっか…じゃぁさ、これからイクときはちゃんとオレに言うんだぞ」

「…」

 ニヤッとカタラギが笑いながら、絶対的な命令口調でそんなことを言いやがった。
 俺…忘れてると思うけど、れっきとした男なんだぞ。
 男が、男に抱かれてイケるなんて屈辱的な台詞を吐かされた挙句、AV女優みたいに「イッちゃう~」と言えというのか?

「……」

 もう言葉も出ないほど疲弊してしまった俺は、ニヤニヤ笑いながら近付いてくるカタラギの顔をただ見詰めることぐらいしかできない。もう少し元気が残ってたら、たぶん、間違えることなく「お前、ホントはバカだろ?」って言えてたんだけどなぁ…
 無言で満足そうに笑いながら近付いてきた真っ赤な髪の派手な男は、頭上高くに腕を縛られている俺を暫く繁々と見下ろしていたけど、唐突に覆い被さるようにして抱き締めてきたんだ。

「?!…ぅあ!」

 思わず声が出たのは、俺を抱き締めながら、袖を捲り上げた硬いレザー系の黒コートの質感に怯える俺なんか無視して、カタラギが太い指を突然肛門に挿入したからだ!

「…ぁ、…い、…ッ…うぅ」

 それでなくても大柄な体躯で、覆い被さるようにして抱き締められるだけでも十分迫力があるのにさぁ、片方の尻の肉を掴んで割り開くようにしながら、突っ込んでいる太い指でグリグリと内壁を擦りまくる。ヘンな話、兵藤たちの精液のおかげで挿入の衝撃は半減できたものの、指で突き上げるようにして挿し込んで、抉るように掻き回して引き抜こうとする行為には、思わず嗚咽みたいな喘ぎ声が噛み締めた唇から洩れてしまう。

「…」

 熱心に覆い被さって、たぶん、自分が苛んでいる箇所を凝視してるに違いないカタラギは、手持ち無沙汰のように俺の肩の辺りを甘噛みした。

「ん…ッ……やめ、…くるし……ッ」

 ジュブッ…と、粘着質な音を響かせる肛門から、カタラギが指を抜き差しする度に、ゴプ…っと白濁が溢れ出して、ガクガク震えている足の内股に不快感を伴って伝い落ちているのが判る。
 ギシッと軋むように手首に食い込むように突っ張る縄に体重が一瞬かかったから、、閃くような痛みに唇を噛んで、齎される快感と苦痛に脳内が混乱したように何も考えられない。
 抱き締められた身体が熱を持って…

「!」

 信じられないことに、俺は痛いほど勃起してた。
 両目を見開く俺なんかお構いなしで、カタラギは指をくの字に曲げて、直腸内を隈なく辿るように掻き回している。
 散々弄ばれて熱を持って腫れぼったくなっている肛門は、それでも、少しも感覚を鈍らせることなく、脳天を貫くような快楽と痛みを訴えかけていた。

「…あ、あ…ゃ、う……ぁん!」

 逃げ出すことも縋ることもできずに、俺は生理的な涙をポロポロ頬に零しながら、もう許してくれと懇願するように抱き締めてくるカタラギに必死に身体を摺り寄せた。

「…エヴィルのセーエキなんか全部掻き出してやる」

 摺り寄せる俺の身体を両腕の中に閉じ込めてギュッと抱き締めるカタラギのその台詞を聞いて、その時になって漸く、この大柄な体躯の男がどうしてそこまで俺の下半身に執着しているのか判ったような気がした。
 たぶん、エヴィルに汚されたことが腹立たしくて仕方ないんだろう。
 それは、何故か、少なからず俺の心にチクッと痛みを走らせた。

「せっかくたっぷり注いだ俺の子種を薄めやがって!…ホント、今頃後悔だ。やっぱこの手で殺しとくべきだったッ」

「…こ、だね?おま、…俺、男だから……お前の子とか、生めないぞ?」

 俺が胸に感じた痛みの原因だと思い込んだ理由とは違った、ただ単に自分が吐き出したものを勝手に薄めた(?)エヴィルどもに腹を立てていただけだと言う理由に呆れたんだけど…そう言えば、カタラギは昨日も、痛みで死にそうな俺にそんなことを言ってた。
 肛門を指で犯されてその気になってる俺はどうかしてると思うけど、それでも、快楽に何度も足の力が抜けそうになるのを耐えながら…って、実際はカタラギにガッチリと抱き締められているんだから、足の力が抜けても腕に体重がかかることはない。だからって、それでも俺の自尊心がそれを許さないから必死に足に力を入れながら、肩で荒く息を吐いて呆れたように呟いたら、カタラギはどうも、鼻先で笑ったみたいなんだ。

「何言ってんだよ?そんなの当たり前だろ。光太郎の身体の奥深くに、オレの女だってさぁ、証を刻み込むんだよ」

 苛々したように呟くからには、この行為に何か特別な理由があるんだろう。
 エヴィルも、エヴィルハンターのこともこれっぽっちも知らない俺には理解不能だけど、いや、そもそも俺のことを自分の女だなんて豪語しちまうようなカタラギと、それを受け入れてるコイツの仲間の頭の中も十分、理解不能なんだけど、どうもこの状況から抜け出せるのは、この派手な真っ赤な髪の男が俺に飽きてからなんだろうなぁと、ちょっと絶望してしまった。

「…ん……んぅ!」

 直腸内を探って兵藤たちが残していた精液を掻き出してしまったのか、カタラギは乱暴に指を抜き去った。その衝撃に、もう少しでイキそうになった俺は、それでも決定的な刺激には達していなかったのか、身体を震わせて目蓋を閉じたんだ。

「ふ……ぅん…はぁ…」

 肩で息をしていたら、覆い被さったままで、どうやらカタラギはニヤッと笑ったみたいだ。

「優しく解してやったからな、入れられそうだろ?」

「!」

 思わずポカンッとして、俺は閉じていた目蓋を開いてしまった。
 これだけ執着してるんだから、カタラギがまた俺を抱くんだろうと言うことは判ってたつもりだった。でも、最初の時でさえ無造作に突っ込んできたこの男が、俺の身体を気遣ってるのか?しかも、優しくしたらって言葉、あれは本気で言ってたのか?

「…腕、解いてくれよ」

「やだね」

 間髪入れずに断るのはどうかしてるぞ。
 俺が暴れるって、思い込んでるのかな?その気になれば、俺なんか片手でだって押さえつけられるくせに。

「こんなだと俺、カタラギに抱きつくこともできないんだけど…」

 これからエッチするんなら、この体勢は絶対にキツイ。
 それに、よく考えたら、これで2回目だってのに、またしても腕を縛られてるなんてさ…これじゃ、傍目から見ても、自分的にも、強姦されてるみたいだ。
 男の俺としてはその方が、合意よりも何万倍も諦めることができて少しでも心が軽くなるんだけど…でも、なんかもう、どうでもよくなった気持ちもあるから、身体がキツイよりはいいと思ったんだよな。
 でも、俺のその言葉をカタラギはまたしても曲解したらしく、声がニヤついた響きを含んでいる。

「今夜はイケそうだな」

 どこまで俺がイクことに執着してるんだか…目に見えないナイフなのか、それとも空気なのか、よく判らないけどカタラギが指先を翳しただけで、頑丈な縄がブツッと切れて、俺の身体は重力に従ってガクンッと落ちそうになった。
 でも、落ちないのは勿論、カタラギが片方の腕で力強く俺を抱き締めてるからで…それと、俺自身が、自由になった力の入らない痺れ切った腕をなんとかのばして、カタラギの背中に両腕を回したからだ。
 でも…結局俺はイケなかった。
 昨日から散々痛めつけられた身体はもう限界で、それ以上に、俺のメンタルな部分もダメージを受けていたのか、俺が思う以上に、やわな意識は腕の縄が解かれたと同時にぷっつりと途切れてしまったんだ。