第二部 12.予感 -永遠の闇の国の物語-

 たゆたう夢の中で幸福な気持ちを噛み締めていた光太郎は、ふと、誰かに呼ばれたような気がして振り返っていた。しかし、声の主は姿を見せず、目の前で獅子面の魔物が静かに佇んでいる。
 だから、光太郎は声の主を捜すこともせずに、目の前にいるその魔物に破顔して、抑えきれない涙をポロリとひとしずく、頬に零しながらその巨体の魔物に抱き付いていた。
 もう離れないよと呟いても、獅子面の魔物であるシューは何も言わず、光太郎を見ているようで見ていないような、なんとも言えない不思議な表情をして、それでも優しく抱き締めてくれた。
 その腕の温かさに、やっと闇の国に帰れたのだとホッとしたその時、嬉しくて嬉しくて、思わずギュッと抱き締める光太郎の耳元で、誰かが酷く怒鳴る声がする。
 その時になって漸く、光太郎は幸福な夢から目を覚まして、自分が置かれている状況を脳が把握するまでの短い間、寝惚け眼を彷徨わせて、今度こそ本当に声の主を捜すことにしたようだ。

『やっと起きたか』

「もう、殺されちゃったのかってビックリしたよ~」

 彷徨わせていた視線が漸く生気を取り戻した時、ホッとしたような安堵の声音で、光太郎を覗き込んでいる蜥蜴の大親分のような顔と、花も恥らうような天使の美貌を持つ顔を見つけて、それで光太郎はここが何処で、自分が何をしているのか脳が理解したのだった。

(なんだ…夢だったんだ。でも、そりゃそうだよな。あのシューが優しく俺を抱き締めてくれるなんて、そんなこと有り得ないんだから、気付けよ俺ってさ)

 残念そうに眉を寄せるのをどう受け取ったのか、蜥蜴の大親分のバッシュが、その完璧なポーカーフェイスでは判り辛いが、どうも困惑したような顔をして首を傾げているのだ。

『おいおい、大丈夫か?ユリウスに何かされたのか??』

「んもう!バッシュってばデリカシーがないんだからッ」

 綺麗な桜色の唇を尖らせるアリスが眉を寄せて、それから徐にバッシュの脇腹にエルボーを食らわせたのだが、このままでは彼らがヘンな誤解をしてしまうと気付いたのか、光太郎は慌てて起き上がった。

「だ、大丈夫だよ!その、なんか草臥れて眠ったみたいだ」

 エヘヘヘッと笑って頭を掻く光太郎を見ながら、アリスは綺麗な柳眉をソッと顰めると、可愛い顔を曇らせて小首を傾げて見せた。

「そうだよね~、馬で飛ばした挙句に入城早々にあのユリウスを受け入れたんだもん。疲れて眠っちゃうよね~。彼ってストイックっぽく見えるけど、アレで案外タフそうだしぃ。ところで、身体は大丈夫?」

 人差し指で桜色の唇を押さえて眉を寄せるアリスに、その時になって漸く彼が何を言いたいのか判ったのだろう、バッシュは表情を固くして、そうか、光太郎は…と、何かを悟ったように口を噤んでしまった。が、噤まれたままでは大問題なのが光太郎である。

「ああッッ、アリスッッ!何か勘違いしてるみたいだけど、俺、その、ユリウスとしてないから!!身体も大丈夫だし、ピンピンしてるよッ」

 懸念したとおり、思い切り誤解されてしまっている光太郎は、顔を真っ赤にして首を左右に振りながら、開いた両手を左右に振ってジタバタと完全否定を心掛ける。心掛けるのだが、却ってその態度が、更なる疑惑を呼んで、アリスはらしくもなく神妙な顔付きをしてバッシュを見た。

「ほら~、バッシュが余計なこと言うから光太郎が恥ずかしがってるじゃないッ」

『俺か?!』

 ギョッとしたように目をむくバッシュは、あからさまにお前のせいだろうがと言いたそうな胡乱な目付きをしたが、そんな2人に思い切り焦りまくっている光太郎は、取り敢えずベッドから飛び降りて、ピンピンしている証拠を見せようとその場で飛び跳ねた。

「ほらほら!元気だろ?!だから、ホントに大丈夫なんだってッッ」

「むー?」

『…大丈夫そうだな』

 アリスは必死の光太郎の顔を同じ目線から覗き込みながら疑い深そうに眉を寄せたけれど、元気そうに飛び跳ねている光太郎を見たバッシュは、少しホッとしたように頷いている。

「もう!ホントに大丈夫なんだよ、アリスってば…って、そう言えば、2人ともどうしたんだい?」

 ホントかなぁ~と、遂に光太郎のシャツをバッとたくし上げてしまった。

『うお?!』

 何故か思わず両手で双眸を押さえるバッシュの前で、素肌を晒す光太郎を繁々と見詰めたアリスは、それで漸くホッとしたようにニッコリ笑った。

「ホントだ。じゃ、大丈夫だねー」

「…最初からそう言ってるよ」

 思わずガックリしそうになった光太郎だが、性別はいたって健全な男の子である。素肌の胸元を見られたからと言って、赤面するような性質ではない。だから、両目を押さえてしまったバッシュの行動こそ、本当は不思議で仕方ないのだが、この際無視したアリスがクスクスと鼻先で笑うのだ。

「判ってるんだけどぉ。身体に負担があるようじゃ、あんまり話したくないと思っちゃったんだよね~。ね?バッシュ」

『…まぁな』

 着衣の乱れを直す光太郎に気付いて、漸く両手を離したバッシュが、ヤレヤレと言いたげな仏頂面で頷いているから、光太郎の眉がソッと顰められてしまう。

「何か…あったんだね」

 そんな態度をアリスとバッシュが取ると言うことは、何か起こっているのだろうと、まだ知り合って間もないと言うのに、光太郎には直感のようにそれが判った。
 だから、胸が高鳴る。
 それは不安でもあるし、微かな期待も…

「この砦に魔軍が来るんだって!」

 アリスが嬉しそうな顔をして光太郎の両手を握ると、光太郎は一瞬、自分が何を聞いたのか良く判らないように双眸を見開いたが、それでも理性の光を取り戻すと、まるで信じられないとでも言うように、いや、信じたいのに信じられない、そんなもどかしい表情をして視線を彷徨わせてしまう。

「え?え?…それ、は、その。どう言うこと?」

 両手を確りとアリスに握られたまま、信じられないと動揺したように呟く光太郎のその態度は、あまりにも多くのことが起こり過ぎて、まだ少年だと言うのにたくさんの経験を一気にしてしまったのだから、それは仕方ないとバッシュは胸が痛んだ。

『さっき、スゲー剣幕で早馬が来てな。もう、すぐそこまで魔軍の一行が迫ってるらしいんだ。その数、凡そ300ってんだから、そりゃ、沈黙の主まで居るんだから大騒動だな』

「この砦の兵士って、結界を頼りきってるから50もいないんだよね。篭城しても、せいぜい1週間ぐらいが限度だと思うし?ラスタランからのここまでの距離って、実際には3週間ぐらいはかかるから…援軍は3週間来ないってワケでしょ?だったら、勝機もあるかもしれないんだよ!」

 ブンブンッと両手を振って嬉々とするアリスと、ワクワクしているようなバッシュを虚ろに見比べていた光太郎は、その話を聞いて、漸く、その内容が脳裏に到達したようだった。

「そ、それって…闇の国から助けが来てるってこと?」

『だから、そう言ってるだろ?』

「帰れるかもしれないんだよ!光太郎♪」

 バッシュとアリスが同時に応えると、光太郎は、何故か今まで必死に踏ん張っていたはずの足許から、地面が消えてなくなるような錯覚を感じて、クラリと眩暈がしてしまった。

『おい、光太郎?!』

 思わず…と言った感じでバッシュが両手を差し出したが、倒れる寸前でハッと我に返った光太郎が、大丈夫だと呟いて、それから、なんだかまるで、夢の中にでもいるような頼りないふわふわした気持ちに、支えてくれる2人に頭を掻きながらエヘヘッと笑ってしまう。

「大丈夫、大丈夫なんだけど…俺、俺たち、ちゃんと闇の国に帰れるのかな?」

 それは切なる願い。
 夢にまで見たシューとの再会…があるのなら、いや、それがたとえシンナでもゼィでも、誰だったとしても、あの懐かしい闇の国の住人たちの許に帰ることができるのなら、それは信じられないほどの幸せだった。

「帰れるよ!大丈夫。でも、僕たちも何か作戦を考えないとね」

『ああ、それを言う為にここに来たんだ。さっき、凄い剣幕でユリウスが出て行ったからな』

「歩いてた神官を捕まえて、この部屋に入れて♪ってお願いしたら、入れてくれたんだよね~」

 バッシュとアリスが交互に喋るのを、まるで夢の中にいるように遠く聞いていた光太郎は、完全にその話を信じることができたのか、表情を引き締めて頷いたのだ。

「そっか。バッシュたちが言うのなら間違いないね。だったら、俺たちも速やかに脱出する為に作戦を練ろう…って、ところでケルトはどうしたの?」

 キュッと唇を噛み締めて呟いた光太郎は、だが、この場に小さな少年の姿がないことに今更ながら気付いて、それから困惑したように眉を寄せてしまった。

「ケルトは具合が悪いから部屋で寝かせてるよ。ほら、その時が来たら体力が勝負でしょ~?」

「あ、そっか。ケルト、大丈夫かな?」

 たとえば、2週間も時間がかかるとすれば、その間は心理戦に突入もし兼ねない。その場合、アリスが言うように体力と精神力が問われることになるだろう。何より、ここは戦場に変わるのだから、小さな身体で具合が悪いケルトでは、負担は計り知れないかもしれない。

『一応、神官が薬湯を飲ませたからな。暫く安静にしてりゃ、大丈夫だそうだ』

 バッシュが安心させるように光太郎の肩を叩くと、仲間の安否を何より気遣う、彼らが忠誠を誓っている主は(本人はそう呼ばれることを嫌がってはいるのだが)、ホッとしたように頷いた。

「それじゃ、俺たちだけで考えよう」

『ああ』

 漸く生気を取り戻したように生き生きとした表情で、良く晴れた夜空のような双眸をキラキラさせて、バッシュが嘗て魔城で目にしたあの明るさを取り戻した光太郎の、最近は翳りを見せていた瞳に勇気付けられたようにバッシュが大きく頷く傍らでアリスも楽しげに頷いて口を開くのだ。

「もっちろん♪まずは、ここじゃなくて、僕たちに宛がわれてる部屋に行こうよ。ここは落ち着かないしぃ~」

 どうせ、ラスタラン最強とも謳われる、魔軍ですら一目置く暗黒騎士は今は光太郎どころではないだろう。いつ、この部屋に戻って来るかは判らないが、恐らく当分は戻って来ないと踏んで、アリスは居心地の悪い部屋から今すぐにでも出たそうな雰囲気だ。
 憂鬱そうなアリスに、バッシュと顔を見合わせた光太郎は、それもそうだと頷くと、ユリウスの部屋から脱出することにした。

Ψ

「魔軍がこの砦に押し寄せているだと?どう言うことだ!」

 少年神官が立ち去った後、まるで入れ替わるようにして兵士が進言に来た事の次第を耳にして、烈火の如き乱暴な足取りで荒々しく両手で扉を開いて室内に足を踏み入れた暗黒騎士は、常に黙して主の傍らに在るはずだったのに、その時は砦すらも揺るがすのではないかと耳を疑うほどの大音声で激昂している。

「だ、団長殿!」

 驚いた早馬の兵士は、それでも、彼の直属の上官であるユリウスの激しい憤りを目にし、慌てて平伏しながらも事の重要さに身体の芯が引き締まるような思いに駆られてしまった。

「ユリウスか。この砦を魔軍は挙って回避したがるものを…敢えて挑むと言うことは、お前の見立てどおり、あの者はどうも魔軍にとって貴重な存在のようだな」

 砦内にある広い謁見の間は、ズラリと壁に並んだ蝋燭の灯りで真昼のような明るさだった。
 その長い緋毛氈の敷かれた上を真っ直ぐに行ったところに設置されている玉座に座した沈黙の主が、肘掛に頬杖をついて溜め息を吐きながら、猛然とした勢いで、漆黒の外套を跳ね除けるようにして大股で風を蹴るように歩いてくる暗黒騎士をチラリと見た。
 その眼前に騎士の礼に則った片膝をつく早馬の兵士は、慌てたように腰を低くしたままで傍らに退き、ユリウスにその場を明け渡した。

「…」

 忌々しそうに舌打ちするユリウスの有り得ない姿に、第二の砦に従軍していたユリウスの手の者である兵士は、頭を垂れたままで驚愕に目を見開いた。
 影のように、空気のように、物言わぬ存在として主の背後を護る暗黒騎士の、その態度は、恐らく誰の目にも明らかなように、感情も顕わに苛々しているようだ。冷静沈着を絵に描いたような、存在感こそあるものの、気配など空気のように感じさせることもなかったユリウスは、いったいどうしてしまったのかと、兵士は恐る恐る頭をを上げて、自らの直属の主である暗黒騎士を盗み見た。

 フードの奥深くにかんばせを隠してしまっている沈黙の主は、それでもクスッと笑って、そんなユリウスの気持ちを手に取るように理解しているようである。

「だが、手離す気などさらさらないんだろう?ユリウス」

「…無論。そして、この砦で主を危険に晒す気もありません」

 私情に揺れる心を抱えながらも、やはり暗黒騎士の第一は沈黙の主でラスタランの復興なのだろう、件の王はフードに隠れる目蓋を閉じて、そんな片腕にやれやれと軽い溜め息を吐いた。

「兵は神速を貴ぶ…と申します。何よりもまずは戦略を練るべきです」

 尤もな進言にも頷いて、沈黙の主は瞑目した。
 何か勝機を見ての行動か、はたまた、愚考の果ての行動か…何れにせよ、魔族がここに、彼らが大切にしている人間とは別の獲物がいることを、四方や知っての行動ではないだろうと沈黙の主は考えていた。
 しかし…ふと、フードの奥、隠れてしまいそうな双眸を開くと、茶色い髪の隙間から透けて見える漆黒の鉄仮面の奥、激昂に燃える紅蓮の双眸がひたと自分を見据えていることに気付いた。
 ご決断を…と迫るのか。
 いや、或いは…
 沈黙の主は苦笑して、そして、目線を落としてしまう。
 この砦には色褪せることもなく古の術法が張り巡らされている。その力は、魔王とて手出しできないほどではあるが、しかし、あくまでも結界は結界であって、ともすれば綻びとてあるやもしれない。
 ラスタランの城にも同じように張り巡らされた古の術法は、長らく、魔族の侵略を食い止めてくれている。しかし、兵力の差から、魔城に攻め込むにも今一歩で後退しなくてはいけなくなる。
 一進一退の攻防戦は、こうして続いている。
 今回の魔軍の侵攻は、もし、その作戦が成功することがあれば、それは即ちラスタランの命運を決めることになる。
 沈黙の主は額に嫌な汗が浮かぶのを感じていた。
 目線を戻せば、未だ変わらぬ双眸で暗黒騎士は見詰めてくる。その眦は僅かに上がり、責めるような双眸は、物言わぬ威圧感すら漂わせているのだ。

「判った。まずは斥候を出すべきだな」

「御意…主よ、この砦の兵士の掌握も必要かと」

「指揮はユリウスに一任する」

「は!」

 漸く求めていた言葉を聞いて、暗黒の騎士は一礼すると、外套を翻して来た時と同じ荒々しさで謁見の間を後にしようとして足を止めた。
 ふと、沈黙の主の眉が寄る。

「この場にディリアス殿の姿が見えませぬが…」

 兵を掌握するとなると、この砦を支配している事実上の主の不在は、抜け目ない沈黙の主の片腕の不興を買ったようだ。

「ああ、有無。ヤツは砦の結界を強固にする為、上にいるようだ」

「…なるほど。では、失礼します」

 そう言って、今度こそ本当に、荒々しい足取りで謁見の間を後にするユリウスを、沈黙の主は見送っていた。
 だが、ふと。
 沈黙の主はその背中を見送りながら、嘗てないほどの不安を感じていた。
 何がそうさせるのか、それは定かではなかったが、沈黙の主は溜め息を吐いて背凭れに背中を預けた。
 そんな沈黙の主の鎮座ます謁見の間を後にするユリウスの後を追って、早馬で報せを持参した兵士が追い縋ると、既に寡黙に戻ってしまった暗黒騎士はチラリとも目線をくれることもなく歩調も緩めない。
 あれは錯覚だったのではないか…と、兵士が自身を疑ったとしてもおかしくないほど、今のユリウスは冷静そのものである。
 無類の戦好き…と言うワケではないのだろうが、戦場を愛馬で駆け抜ける漆黒の風のようなユリウスは、戦場にあっても冷静で、無言のまま血溝をクッキリと刻む剣を片手に魔物を斬り殺す様は見ていて寒気がするほどだ。
 対峙する魔物の殆どが、その威圧感に気圧され、闘争心さえ凍りつかせて戦場の露となってしまう。
 あの、魔軍の副将であり、戦場の鬼女と恐れられるシンナでさえ、一瞬竦んだように怯え、その隙を突いたユリウスの剣にあわや腹を刺されるところだったのだから…どれほど、この物言わぬ影のような男は深い闇を身内に抱え持っているのだろうか。
 そのただならぬ威圧感とちりちりと空気を焼くような殺気に息を呑みながらも、彼の忠実な部下である兵士は暗黒騎士の指示を待っているようだ。

「…ご苦労だった。お前には悪いが、その足で斥候の任に当たってくれ。あと数名与える」

 砦内の兵士の掌握に向かうユリウスは、重く閉ざしていた口を開いて、畏まるように後をついてくる兵士に指示を出した。

「ハッ!」

 緊張していた兵士は飛び上がらんばかりに驚いたが、すぐに与えられた任務を受け、来た道を引き返すようにして戻って行った。
 誰もいなくなったひっそりとした砦内は、これから凄まじく遽しくなるだろう。
 ユリウスは戦に向ける想いとは裏腹の部分で、僅かに舌打ちし、漆黒の鉄仮面の奥で滾るように燃える紅蓮の双眸を細めていた。
 恐らく、その混乱に乗じて、彼の愛する宝は仲間の魔物どもの悪知恵を借りて、この砦から脱出を試みるに違いない。
 無垢な優しい心を持つ宝だけれど、その、魔物どもを想う心が発動すれば、姑息で、誰もが恐れる暗黒騎士である自分さえ易々と騙そうとするあざとさがあるのだから。
 この腕をすり抜けて行ってしまうのか…
 ふと、ユリウスは掌を見下ろした。
 この手は、幾人もの人間や魔物どもの血で染まっている。もしかすると、未だに滴り落ちているかもしれない…そんな幻視を見せるほど、彼は数え切れない生きものの生命を奪っていた。そんなもの、気にも留めたことのないユリウスだったが、今は寒気すら覚えて眉根を寄せる。
 この血塗られた手で、あの優しい笑みに揺れる頬に触れたとしても、あの少年はひっそりと掌を重ねてくるに違いない…だがそれは。

(憐れみなのか…)

 そこまで考えて、ちぐはぐな想いに心臓が掻き毟られるような痛みを覚えたユリウスは、見下ろしていた掌を拳に握り締めた。
 光太郎を手放してしまったら…今度こそ自分は、這い上がれない奈落の底に堕ちてしまうのか。
 まるで不可視の掌がそっと心臓を掴んだような、得も言えぬ不愉快さに色の抜けてしまった眉を顰めると、どうすることもできないもどかしさに歯噛みする思いで、ギリッと唇を噛み締めるのだった。

第二部 11.漆黒の愛 -永遠の闇の国の物語-

 ユリウスに抱き上げられたままで入城した砦内は、第二の砦とは比べられないほど豪華でありながら、何処か荘厳で静謐な静けさがあった。たとえるならばそれは、まるで神殿か何か、その類の雰囲気そのものだ。
 思わずキョロキョロと呆気に取られたように見渡す光太郎に、ユリウスは苦笑したようだったが、行く手に沈黙の主を迎え入れて更に、彼の右腕でもある暗黒騎士を招き入れようとするディリアスの姿を認めると、途端に厳しい目付きになってしまう。
 魔物は勿論のこと、人間すらも容易には信用しないそれはユリウスの悪癖ではあるのだが、件の大神官は気にした様子もなく、恭しく長いローブの袖の袂に手を隠し、頭を下げながら組んだ両腕を上げて神官の礼をした。
 寡黙な暗黒騎士は軽く頭を下げただけだったが、長い顎鬚を持つ大神官は、まるで物珍しそうにユリウスに抱き上げられている光太郎を見詰めた。その視線に気付いたのか、暗黒騎士は感情を飲み込む鉄仮面の向こうで、僅かに眉を顰めたようだった。

「早馬の報せにありました、貴殿の宝物でございますな。お待ちしておりました、奥に部屋を用意してありますれば、どうぞごゆるりとお寛ぎ下さい」

 彼が何か口を開くよりも前に、そう言って初老の大神官は恭しく頭を垂れるのだが、目敏いユリウスはその神官の双眸に、一瞬宿る好色そうな光を見逃さなかった。
 だからこそ、寡黙でストイックな暗黒騎士はこの神官を毛嫌っていた。
 神官の地位にありながら、世俗の垢に塗れたこの男を、どうしても信用できないユリウスは、ムッとしたように眉根を寄せるものの、数少ない神官の生き残りを無碍にもできず、彼は仕方なく無言で遣り過ごそうとした。
 だが…

「部屋を用意してくれてるのか?ああ、よかった。俺、馬に乗ってばかりだったから疲れてたんだよな。たぶん、あれだけ飛ばしたんだからユリウスだってきっと疲れてるに決まってるんだから、休めるのは助かるよ。有難うございます!」

 ニコッと屈託なく笑って抱き上げた少年がそう言ってしまえば、頑なな暗黒騎士と言えど、思わず頬の緊張を緩めたとしても致し方ない。

「なんと、まぁ…素晴らしい宝物でございますな」

 初老の大神官はホッホッと笑って、「そうだな」と屈託のない少年に呟く暗黒騎士に思わず…と言ったように口を開いてしまった。それでなくても、どうやらこの禍々しい騎士は自分を嫌っているようなのだから、悪態のひとつも聞けるものとばかり思っていた大神官は、その暗黒の鉄化面の向こうから、四方や嬉しげな言葉を聞けるとは思わずに驚愕してしまった。
 いや、だが勿論、その声音は低く、くぐもっているし、不機嫌そうなのには変わりはないのだが…

「そうだ。唯一無二の私の宝だ。丁重に持て成すように」

 それまではムッツリと口を噤んだまま、何も言わないのが暗黒騎士の禍々しさの所以のようであったのに、驚くことに、彼は大神官の言葉に返答を返したのだ。
 これは驚かずにはいられない。
 だが、やはり暗黒騎士はそれだけを言っただけで、その後は口を噤み、ただ、腕の中にある少年を愛しそうに鉄化面の奥から見詰め、大神官をまるで無視して宛がわれた部屋に姿を消してしまった。
 取り残されたように立ち尽くした大神官は、数年前に見た暗黒騎士の雰囲気が、こうもガラリと変わってしまったのは、やはり腕の中にあった、あの魔族と共に在ったと言う人間の影響だろうかと首を傾げていた。
 確かに、腕に在った人間の少年は不思議な雰囲気を醸していた。
 ともすれば不安そうな光が揺れる双眸をしているくせに、何処か無頓着で、そして何かを身内に孕んでいる危うさを持っていた。それなのに、少年は直向な双眸をして純粋に微笑むのだ。
 神に仕える神官よりも純粋で、またとない光のような存在であるとディリアスは確信めいたものを感じていた。
 身内に禍々しさを抱えている暗黒騎士にはこれほど似合わない存在だと言うのに、彼は少年を手離す気などさらさらないのだろう。
 しかし、何れにせよ。
 その変貌が人間と魔族の間にどのような変化を生むのか、大神官ディリアスは興味深そうに考えるのだった。

Ψ

「ベッドだー」

 ユリウスの腕から漸く解放された光太郎は、ホッとしたようにやわらくスプリングの利いたベッドに飛び乗りながら、ふかふかの枕に頬を埋めて嬉しそうだ。その様子を無言で見ていたユリウスは、だが、何も言わずに苦笑して、頭部をスッポリと覆う鉄仮面を外しながら首を左右に振った。
 色の抜けてしまった真っ白な髪と紅蓮の双眸、高い鼻梁に秀でた額、酷薄そうに見える薄い唇も何もかも、そうしていれば見蕩れてしまうほど整った異国の顔立ちをしたユリウスを、草臥れた身体をベッドに横たえたままで、光太郎は物珍しそうにじっと見詰めていた。
 彼がトラウマのように抱えているその右半分の火傷の痕を目にしたとしても、やはり寡黙で意志の強そうな暗黒騎士はカッコイイんだよなぁと光太郎は半ば閉じそうになる目蓋を必死に開けながら考えていた。
 黒甲冑を珍しく脱いだユリウスは、甲冑の下に着込んでいる黒い衣装も同じように脱ぎ捨てた。
 こちらに背を向けてはいるものの、その背中を無残に走るケロイド状の火傷の痕は痛々しくて、もう痛くないと言った彼の言葉を思い出したとしても、やはり光太郎の眉は寄ってしまう。
 何よりも、その背中には、火傷の上から無数に刀傷の痕や鏃の傷痕があるのだから…その凄惨さには思わず泣き出しそうになってしまう。

「どうした、気持ち悪いのか?」

 横顔を見せるユリウスは紅蓮の瞳を動かしただけで光太郎を見て、眉を寄せる少年を鼻先で笑いながらそんなことを呟くから、魔族に心を砕く風変わりな人間の少年は、その心根と同じようにユリウスにも心を砕いて、ムッと唇を尖らせると、彼が欲しいと思う言葉をすらすらと口にしてしまう。

「そんなんじゃないって前も言ったのにさー、ユリウスってちょっと人を疑いすぎだよ。ユリウスは痛くないって言うけど、やっぱり痛そうに見えるんだ。俺、痛いの嫌いだから」

 唇を尖らせて悪態を吐くくせに、それでも労わるように双眸を細める光太郎を見下ろして、背を向けていたユリウスは向き直ると、胸元から腰に這う火傷の痕を晒しながらベッドを軋らせて、横たわる光太郎の傍らに腕をつき、その驚いたように見上げてくる顔を見下ろした。

「もう痛まん…と、オレも言ったはずだが?」

「うん、判ってるけど、でも…」

「もう黙るんだ」

 そう言って、ユリウスは屈み込むようにして、ケロイド状に引き攣る右端の唇を歪めるように笑いながら、やわらかい光太郎の唇に口付けを落とした。
 ビックリしたように、良く晴れた夜空のような双眸を見開きはしたものの、男同士のキスに慣らされてしまっている少年は、仕方なさそうに目蓋を閉じて口付けを受け入れた。
 その経緯を僅かに耳にしただけのユリウスにしてみれば、それはユリウスの愛を、大人しく受け入れているようにしか思えない行動だった。
 だが、その先を促せば、愚図るようにして嫌がるのだから…彼にとっての光太郎は、全く稀有な存在であることに変わりはない。
 男を知る身体であることをセスの嫌味で承知しているつもりだったが、いざ、その身体に触れようとすると、まるで初心な娘のように頬を染めて嫌がる光太郎の仕種に、ユリウスは彼の身体を知る全ての生き物に対して歯軋りしたくなるほどの嫉妬を感じていた。
 自分がもう少し早く第二の砦に行っていたら…いや、何よりも、誰よりも早くその存在に気付くことができていたのなら、誰に穢されることもなく、真綿に包むようにして優しく抱き締めたものを。
 ユリウスは捕虜の扱いを知っていた。
 奴隷や年端も行かぬ少年を、戦にあっては足手纏いでしかない彼らを、男娼として戦地に送り込むことを持ちかけたのは、他ならぬユリウスだった。捕虜として捕らえた者たちを、それは魔族であれ、それに加担する人間であれ、自由にしてもよいと許したのも彼なのだ。
 だから、必然的に光太郎が何をされたのか、知らないワケではない。
 憤りと醜い嫉妬と…ワケの判らぬ衝動に突き動かされるように熱く濡れた口腔を貪るユリウスの、鍛え上げられた筋肉質の背中に縋るように抱き付いた光太郎は、溺れるひとのように夢中で無残な火傷の痕で引き攣れたような皮膚に爪を立ててしまう。
 ハッとして腕を離そうとするが、それでも窒息してしまう恐怖には到底太刀打ちできずに縋るように抱き締めるその目尻から涙が零れたとき、漸く激情に翻弄する唇と舌から解放されて、光太郎は上気した頬と潤んだ瞳のまま苦しげに喘いだ。その首筋に、ユリウスの濡れた唇を感じて、思わず恐怖に目を見開き、それでも、覚えている快感に震えるように目蓋を閉じてしまう。
 覆い被さってくるユリウスの男らしい胸板を押し戻そうにも、力強い腕に阻まれてしまうと、自分が非力な人間になってしまったような気がして悔しかったが、何故、こんなにも抵抗できないんだろうと光太郎は不思議で仕方なかった。
 嫌だと言って跳ね除けてしまえればいいのに…そうしないのは、恐らく、脳裏に一瞬浮かぶバッシュやアリス、そしてケルトの安否を気遣ってしまうからなのだろう。
 いや…恐らく、それだけではない。
 弱気な自分は、確かに痛みには弱いのだから、最初に犯された時の苦痛を思い出して身動きが取れなくなってしまう…と言うのが、抵抗できない最大の要因だった。
 目蓋を閉じて我慢すれば、挿入の痛みに耐えさえすれば、激情に翻弄されるまま時間が過ぎて、何時しか嵐のような夜が終わってくれる。第二の砦の地下牢で覚えさせられた対処方法を、知らないうちに実行してしまう自分には嫌気がさすし、メチャクチャに当り散らしたい気分にもなる。それでも生き残る為なのだから…と、当てもなく自分に言い聞かせて、光太郎は青褪めたままでユリウスの愛撫を受け入れようとした。
 だが、不意にユリウスは口付けていた鎖骨から唇を離してしまう。

「…?」

 恐る恐る目蓋を開くと、そこには自分を覗き込む紅蓮の双眸があって、光太郎は驚いたように目を瞠ってしまった。

「お前は…こう言う行為は苦手なんだな」

「え?!…違うよ、俺。い、嫌なんかじゃないよ!」

 怒られるのだとばかり、あの地下牢での出来事があまりに鮮烈で惨たらしかったばかりに、殴られるんだと竦んでしまったような、怯えた双眸で見上げたまま必死で首を左右に振る少年の双眸を見下ろして、ユリウスはだが、ケロイド状に引き攣る右唇の端を歪めるようにして笑った。

「手酷い仕打ちを受けたんだろう?」

「!」

 覗き込む紅蓮の双眸を見詰めながら、もしかしたらユリウスは…この酷薄そうな雰囲気を醸しているはずの暗黒の騎士は、性行為に怯えている自分の必死の虚栄を見破ってしまっているのではないか…それが判って、それ以上は先に進むことを躊躇っているのではないかと、光太郎は散々酷い目に遭っていると言うのに、信じようとしている自分に驚いてしまった。
 きっと、今日、この場所でユリウスに抱かれてしまうのだろうけど、せめて、心の奥深いところに傷痕を残していることを、どうか知っていてもらえるのなら、少しはマシなんだろうと光太郎は悲しそうに微笑んだ。

「俺、痛いのは嫌なんだ。ほんの少しでいいから、優しくしてくれたら我慢できるから、その…殴らないで欲しいんだ」

 殴られることを覚悟しているのか、自分でも驚くほど震えている手でユリウスの腕を掴む光太郎は、そんな情けない台詞を言いたくはなかったが、もしかしたらユリウスなら聞き届けてくれるんじゃないかと、淡い期待をして必死で言い募ってみる。
 ふと、ユリウスの紅蓮の双眸が燃え滾る業火のように光り、表情こそ変わらないのに、光太郎は背筋に冷たいものを感じて竦みあがってしまった。
 どうやら自分は、踏み込んではいけない地雷原に入り込んでしまったようだと、その瞳の色を見て逃げ出したくなっていた。
 殆ど無表情だと言うのに、まるで虫けらでも見るような、淡々とした静けさは、なまじ表情の変化がないからこそ、その残酷さが浮き彫りになったように、酷薄そうな残忍さが垣間見えて息を呑んでしまう。

「ご…ごめんなさい。余計なこと…」

 思わず掴んでいる腕に力を込めながら震えたように見上げる光太郎にハッと気付いたのか、黒髪の少年の向こう側にいる何かに…恐らく、彼を散々痛めつけたに違いない第二の砦の連中を、垣間見ていたユリウスは怯える光太郎の頬を、嘗て光太郎がそうしたように、優しくソッと包み込んでいた。

「オレは愛する者を殴る趣味はない」

 ハッキリそう言ってから、真っ白な髪を持つ紅蓮の双眸の、あれほど忌み嫌っていた醜い火傷の痕を、光太郎の前でだけは隠すこともしない暗黒騎士はフッと笑ってから、少年の上から身体を退けて、そのままその傍らに寝転んでしまった。

「そして、オレは愛する者に嫌がることを強要する気もない…お前の話を聞かせてくれ」

「…え?」

 傍らに寝転んでしまった白髪の男を、光太郎は驚いたように目を見開いていて見詰めてしまったが、不意に安堵したような嬉しそうな顔でニコッと笑った。
 その笑顔は、遠い昔に目にした太陽のように眩しくてあたたかくて、ユリウスは柄にもなく笑ってしまった。

(そうだ、その顔が見たい)

 思うだけで声には出さず、ユリウスは横になったまま頬杖をついて、嬉しそうに笑って自分を見上げてくる晴れた夜空のような双眸を見下ろしながら、口許に笑みを浮かべ伸ばした指先で漆黒の前髪に触れた。

「俺の話…?って、何を話そうかな。いろいろあるよ。俺ってさ、ここじゃない世界から来たから、珍しい話をたくさんできるんだ。えーっとたとえばね」

 敢えて魔族たちの話には触れずに、それでも楽しそうに話す光太郎の信頼した安堵した表情を見下ろしているユリウスは、それが真実の感情であることを知っているから、「そうか」と呟いて、お喋り好きな少年の愉快な話に耳を傾けることにした。

Ψ

 乗馬の経験のない光太郎は馬での移動に草臥れていたのか、はたまた、極度の緊張を強いていたのか…いずれにしても、夢中になっていたはずの話し声が途切れ途切れになって、何年振りかに笑うユリウスの胸元で何時の間にか安らかな寝息を立て始めていた。
 彼がどれほど性交渉に怯えて竦んでいたのか、痛いほどよく判ったユリウスは、信頼したように寝息を立てる少年の髪に、戦場の死神だと恐れられている彼は目蓋を閉じてその安らかな眠りを妨げないように静かに唇を落としていた。
 この腕の中の温もりが、嫌だと言うのなら抱き締めるだけでいい。
 傍にいて、困ったように笑う顔を見詰め、その唇にキスするだけでも至福ではないか。
 元来、この醜い火傷を負ってからと言うもの、ユリウスにはあまり性欲の本能がなかった。
 希に暴走しそうなほど凶悪になった場合…たとえば血臭の漂う戦場から舞い戻った時などは、引き裂くように名も知らぬ人間を抱くこともあったが、必ず最後は斬り殺していた。その衝動は、血のざわめきを鎮めるためでもあるが、何より、この醜い身体に抱かれることを拒む男や女が憎々しく、そしてそんなことに傷付いている自分自身が忌々しくて、その秘密を知る全てをこの世から抹殺したくなってしまうのだ。
 不思議と、光太郎に対してだけは、その感情は少しも沸き起こらない。それどころか、こうして醜い火傷の痕を晒していたとしても、何ら負い目を感じることも、ましてや自分を恥じることもないのだ。
 それはとても奇妙な感覚だった。
 光太郎にだけは自然と自分の姿を晒してしまう。そして、そうしている自分こそが真実で、鉄仮面に全てを隠してしまっている自分を疎ましく思うほどなのだ。
 いったい何が、自分をこうも変えてしまっているのか…ユリウスには判らなかった。
 愛…などと言う陳腐な言葉で纏めてしまえるのなら、この感情を抱く自分はどれほど気楽になれるだろうか。だが、そんな割り切った言葉が教えてくれることは、あまりにも儚くて、愚かな過ちばかりである。
 遠い昔、この髪と同じ色の髪と双眸を持つ娘がいた。
 愛と言う言葉を信じていた、まだ火傷を負ってもいなかった頃の青年は、髪の色も瞳の色も元のままで、希望に満ち溢れた笑みを浮かべて、その娘に腕を差し伸ばしていた。
 彼女は微笑みながら、そんな青年を見詰めては、ふと困惑したように小首を傾げて、それから悲しそうに俯いてその腕を掴むことはなかった。
 あの娘は、ユリウスの愛に応えることなく、彼の髪と瞳の色が変わってしまったあの遠い日に、静かに逝ってしまった。
 その心に何もかもを隠してしまって、違う誰かを見詰め続けていたあの娘を、欲しいと思っていたはずだったのに…心とは不思議なものだとユリウスは考えていた。
 あれほど欲しいと切望して、それ以来、何者にも心を動かされはしなかったはずなのに、今の彼は、魔物に心を砕く不思議な少年にこれほど固執してしまっている…それは、あの娘が同じように違う誰かに心を砕いていたから、その影響なのだろうかと、ままならない心を持て余しながら考えるユリウスはしかし、苦笑して首を左右に振ってしまう。
 あの娘がけしてしなかった行為を、この少年が与えてしまうから、自分はこの少年に執着して、そしてとうとう手離せなくなってしまったのかもしれない。
 ユリウスの心を蕩かしてしまった、あのやわらかな優しさ。
 差し伸ばされた指先のあたたかさを忘れられない。
 痛みに弱いと言って眉根を寄せた、今にも泣き出しそうな表情は、だからこそ、痛みを知る者が見せる掛け値なしの真実の心遣いだった。
 人を疑うことしか知らないこの火傷を負った醜い外見と同じく醜く荒んでしまった心で蔑むように見下せば、大抵の人間も魔物も、ましてや愛した娘ですら嫌悪するように眉を寄せ、牙をむき、背を向けるしかなかったと言うのに、そのどの行為も表情も見せることなく、痛ましいような、悲しいような、ユリウスの人間性の全てを慮る表情をして「心は痛い」のだと言って、泣くことなど、いや感情の全てなど当の昔に忘れていた自分を悲しいと言って頬に触れてきたあの掌の温もりを、恐らく、ユリウスは永遠に忘れることはないだろうと思う。
 安らかな寝息を立てて傍らで眠るのなら、それだけで十分だと、これ以上はない充足感に満たされて死神だと恐れられる男は、胸元にある暖かな温もりを今一度、確かめるように抱き締めていた。
 僅かに身動いだものの、目覚める気配はなく、何かを呟いてクスクスと笑った光太郎は、幸せそうにユリウスに応えるように抱き締め返してきた。
 そんなささやかな行為にどれほど彼が救われているのか、やはり判らない光太郎は、ユリウスの内に眠る情欲の熾火に僅かに炎を燈しはしたものの、それはか細く爆ぜて、ゆっくりとしたあたたかさに変わってしまった。
 草臥れていたのだろう、ぐっすりと眠ってしまった少年を起こさないように、その髪を、目蓋を、そして頬を辿るように唇を落としていたユリウスは、ふと、微かに木製の扉を叩く音に気付いて上体を起こした。

「誰だ?」

 誰何に、扉を叩いていた少年神官は一瞬、怯んだように怯えた気配をさせたが、外側から恭しくも慌てたように用件を述べた。

「お休みのところを申し訳ありません!沈黙の主様がユリウス様をお呼びでございます」

 束の間の安息だったが、それでも随分と英気を養えたユリウスは、その言葉に「すぐに行く」と応えて、それから、悪魔だ死神だと恐れられる暗黒騎士に怯えた少年神官の足音が遠ざかるのを聞きながら、「うーん」と寝言を言って身動ぐ少年の寝顔を見下ろしていた。
 その火傷の痕が舐める口許に微かな笑みを浮かべて、ユリウスは光太郎の顔の傍らに片手をついてベッドを軋らせると、屈み込むようにしてその唇に口付けを落とした。
 戦場の死神と恐れられる彼のその表情は、あまりに穏やかでやわらかく、見る者をハッとさせてしまうほど美しかったが、唇を半開きにして夢の世界に泳ぐ光太郎はとうとう、その事実を知ることはない。
 その寝顔を食い入るように見下ろしていたユリウスは、眠りにつく愛しい者の、今は目蓋の裏に隠されてしまったあの良く晴れた夜空のような、キラキラと煌く希望に満ちた双眸を曇らせたくないと考え、そしてその時初めて、国の為だけではなく、腕にあるこの愛しいたった独りの人間の為だけに、この世界を手に入れ、彼を苦しめる全てのものを排除した世界を築きたいと、壮大で荒唐無稽の夢を見てしまった。

第二部 10.烈火の傷痕 -永遠の闇の国の物語-

 森の中を駆け抜けていた魔軍の副将は、ふと、草の汁や泥に汚れた足を止め、刺青が這う頬に金の髪を零しながら、空色の双眸を細めて眼前に佇む砦を見上げていた。
 その砦は第二の砦として、ラスタランに程近い魔軍の治める砦であるはずだった。だが、今は狡猾な沈黙の主の指揮の下、ラスタラン側に落ちてしまった。
 更にラスタランに近い第一の砦は、忌々しい結界に護られ魔軍の手から奪われてしまっている。抜け目のない男である沈黙の主は、何よりもラスタランに近い砦を落とし、生き残っていた神官どもを総動員して、古の結界で魔軍を遠ざけてしまった。
 あの砦が手に入れば…恐らくはもう少しでも、この戦況は魔軍に有利であったはずなのに、僅かなミスで敵将に奪われてしまった。シンナは唇を噛み締める。
 その様を、ゼィとともに指を咥えて見ているしかなかった、あの壮絶な敗北感、もう二度と味わいたくはないと思っていたはずなのに…
 今目の前のこの砦にあるはずの、魔軍の太陽を、またしてもむざむざと人間に奪われてしまった。そのミスを招いてしまった自分の不甲斐なさに、シンナは頭の芯が焼け付くほどの憤りを感じていた。
 ここに、確かに光太郎はいるはずだ。
 ふと、目線を戻したシンナには確信めいた思いがあった。何故ならそれは、彼が残す気配がこの場所には充満しているからだ。
 遠い昔に人間として生きる道を捨ててしまったディハールの鋭敏な嗅覚に、光太郎が残した匂いと、そして胸が痛くなるような想いが感覚として残されているのを嗅ぎ取る力を持つシンナだからこそ、この砦に光太郎がいると確信できているのだ。
 さて、どのようにして侵入するべきか…
 小柄な少女は鬱蒼と生い茂る腰丈ほどの木々の隙間に身を潜めながら、その内部を熟知してはいても、今はどのような変貌を遂げているのかも判らない砦への侵入方法を考えていた。
 と。
 数人の衛兵らしき人間どもが、見張りがてらの散歩にでも出てきたのか、暢気なお喋りなどしながらぶらぶらと城門から出てきたではないか。

(コイツらを使わない手はないわねン)

 だが、そうは言ってもどうやって使うべきか…決まっている、誰かひとり殺して成りすませばいいのだ。
 そこまでシンナが考えてニヤッと笑った時だった。

「地下牢の魔物ども、今夜にも嬲り殺しなんだとよ」

「ああ、もう用はねーしなぁ」

「いらん食い扶持はさっさと始末しねーと、俺たちが上に喧しく言われるんだ」

 口々に忌々しげに言い合う人間たちの会話を聞いて、シンナは竦みあがってしまった。
 今、なんと言った?

(地下牢の魔物どもを嬲り殺すですってン?)

 その捕虜の中には、自分を暗い淵からなんの見返りもないのに、微笑んで救い出してくれたあの優しい光も含まれているのではないか…いや、含まれているのだろう。
 裏切り者の人間を、人間どもは許さなかったに違いない。
 どんなに辛い目に遭っているのか…想像すれば胸が痛むが、シンナはキュッと唇を噛み締めて、魔軍が築いた堅牢な城壁に小便を垂れる人間の見張り兵たちを睨んだ。
 自分の顔は既に割れているのだが、人間などは思い込みの生き物でしかない。
 シンナは慌てて血染めの白い甲冑を脱ぎ捨てると、顔を泥で汚し、それから、腿に挿していた鞘から短刀を引き抜くと、腕と脇腹を斬ったのだ。一瞬、顔を顰めはしたものの、すぐに身体中の刺青を発光させたていた。一瞬、サァッと光が渦巻いたが、立ちションに夢中な人間どもが気付くことはなかった。
 彼らが気持ちよく用を足した後、何気なく振り返ったちょうどその時、ふらふらと森から現れた人影にハッとした連中は、素早く腰に佩いた鞘から抜刀して身構えた。
 慌てたように戦闘態勢に入ろうとした小柄なディハール族の者は、それでも傷付き疲弊しているのか、肩で息をしながら脇腹を押さえ、ジリジリと後退しようとしている。
 最強と謳われるディハールの逃げ出そうとしている姿に、見張り兵たちは一瞬目線を交えたが、それからニヤッと笑ったようだった。

「おい、見ろよ。ディハールの生き残りだぞ」

「ここまでのこのこ来やがって。この砦が沈黙の主様のモノになっていると知らなかったんだな」

「おもしれーじゃねーか。捕まえようぜ」

 口々に囁きあっているその声が、傷付き疲弊したふりをしているディハール族の耳に、まさか届いているとは知る由もない、憐れな人間どもに茶色の髪を持つシンナは俯き加減にニヤッと笑った。

(そうよン、疲弊してるディハール族なんてそうそういないんだから、早くお城の中に入れてちょーだいなン)

 その相貌は確かにシンナではあるのだが、髪型と色の変化、そして瞳の色の変化で、自分たちが捕らえようとしている人物が、まさか魔軍の副将だとは思ってもいないのだろう、ニヤニヤ笑って近付いてくる見張り兵たちに、シンナは手にしていた短刀を振り翳した。

 「おっと」…とかなんとか、両手を挙げるようにして軽くかわしながら笑った人間の顔を、一瞬、忌々しそうに睨みはしたが、不意に怯えたような顔をしてシンナは『やめて』と呟いた。
 その少女らしい声に、見張り兵たちの内に渦巻く欲望に火を付けてしまったのか、なんとも嫌な目付きをしてゴクリと咽喉仏が上下に動く。

(何時見ても嫌なモンねン。でも、今は仕方がないわン…ゼィ、ごめんねン)

 胸の奥にいつでも大切に仕舞っている愛おしい顔を思い出して、しかし、シンナは強い意志を双眸に秘めて、怯えたような表情を彼らに向けるのだ。そうすれば、単純な見張り兵たちは傷付いた物珍しいディハールを捕らえるだろうし、万が一にも犯されたにしても、捕虜の行き着く先は地下牢だと決まっている。
 あの光を取り戻せるのなら、どうとでもなれる。
 シンナは3人の見張り兵と対峙しながら、白い布を血に染める脇腹を押さえて、この世界にたったひとつしかないやわらかな光を取り戻すために、大地を踏み締める足に力を込めていた。

Ψ

「お前ら、何をしている?」

 怯えるディハール族に襲い掛かろうと見張り兵たちが行動を起こしたまさにその時、低くはあったが、腹の底に響くような声音には、その場に居た誰もが金縛りにあったように動けなくなってしまった。
 魔軍の副将であるシンナですら、一瞬目を瞠ったぐらいなのだ。だが、すぐに怯えたディハールを演じて、人間どもと同じように竦んだふりをした。
 こんなところでバレてしまっては、これまでの努力が全て水の泡になってしまう。

「こ、これは…エルローゼ様」

 見張りの独りが慌てたように片膝を折り、胸に拳を当てる騎士の礼をしたが、他の2人は逃げ出そうとするディハールに剣を突き付けたままだが、恐縮しているのはよく判る。

(エルローゼ?…ってン、ふーん、コイツがあのン)

 シンナと同じような純白の甲冑に身を包みながらも、鎧すら押し上げるような豊満な胸を持つ、まるで美の女神の彫像がそのまま人間になったような、美しい女戦士は野蛮な見張りどもに一瞥をくれただけて、脇腹と腕から血を流す、ガクガクと足が震えている、今にも倒れそうなディハール族に目線を向けた。

「魔族の残党か。地下牢に入れておけ」

 呟くように言ったが、ふと、その黄金色の豊かな髪に包まれた華奢な頤を持つ顔の中、印象的な菫色の双眸が獰猛な肉食獣のように細められ、不満そうな見張り兵たちをジロリと睨むと、撓る鞭のような声音で言うのだ。

「四方や…不埒なことを考えていたワケでもあるまい。地下牢に放り込んでおけ!」

「は、はは!」

「承知致しましたッ」

 たかが女、されど女…シンナは脇腹を押さえたまま、肩で浅く息を吐きながら、魔城でも噂の女戦士の威風堂々した、男勝りの風貌に見蕩れていた。ここにシューが居れば、喝采の尻上りの口笛が響いたことだろう。
 思わず唇の端に笑みを刻みかけたシンナはだが、すぐに痛みに顔を歪めた。それは、鋭い菫色の双眸が自分を捉えた瞬間の逃げの一手…だけと言うワケではなかったのだろうが、絶妙のタイミングで目線を逸らすことに成功した。

「異なことだが、まぁいい。高潔なるディハールが自害もせずに身を晒すのも面白いじゃないか」

 ぽってりとした妖艶な唇に笑みを浮かべた麗しの女戦士は、それでもつまらなさそうに蜂蜜色の髪を掻き揚げるとさっさと砦内に消えてしまった。
 その後ろ姿を見送っていた3人の人間たちは、詰めていた溜め息を吐き出して緊張を緩めたようだった。

「やはりエルローゼ様は迫力がある」

 誰かが呟くと、声も出せずに頷く連中を見遣りながら、シンナはそれでも内心は穏やかではなかった。
 まるで女神のような麗しさを持つ、噂に違わぬ美麗な女戦士を目の当たりにして、ムシャクシャしている…と言った方が的確な表現なのか、何れにせよ、砦内に入り込むことに成功したシンナは、そんな見張り兵たちに言ったのだ。

『早いところ地下牢に入れてくれないかしらン。脇腹が痛いのよねン』

「へ?」

 思わず呆気に取られる見張り兵たちに、先ほどまで確かに怯えて竦んでいたはずの魔族の残党であるディハールは、まるで何事もなかったかのように腕を組んだまま、勝気な表情でニヤリと笑っていた。

Ψ

『…ッ!』

 首を傾げている人間どもに引っ立てられて、魔族の捕虜たちが押し込められた地下牢に投げ込まれたシンナは、後ろ手に縛られていたばかりに受身を取れなかったものの、慌ててその身体を支えるように伸ばされた魔物たちの腕によって倒れることはなかった。
 が。

『痛いわねン!もっと丁寧に扱いなさいよンッ』

 口喧しいディハールの厳しい声に怯えたように、人間の見張り兵たちは慌てて地下牢から姿を消した…と言うのも、この地下牢には魔族では第一の砦、人間たちは第五の砦と呼ぶその場所に張り巡らされた結界と同じように、魔族から力を奪う古の結界が張り巡らされているのだ。その中にあっても、元来は人間であるディハールは、特殊な刺青によって魔力を手に入れた経緯からか、その結界の効力が効いていないのだ。とすれば、最強を謳うディハールが、どうも何故かいきなり元気を取り戻しているのだから、たかが見張り兵如きでは太刀打ちできないのだから、さっさと逃げ出すことにしたのだろう。

『…ったくン、失礼しちゃうわねン』

 プリプリと腹を立てているシンナは、魔物の一匹が驚いたように目を見開いて自分をマジマジと見詰めているのに気付いた。いや、よくよく見れば、その場に居る全員が、信じられないものでも見るような目付きで凝視しているのだから、シンナが思わず噴出したとしても仕方ない。
 人間どもの曇った目は騙せても、流石に魔族たちは騙せなかったと言うことだ。

『なんてツラで見てるのよン?』

 両腕を戒めていた縄を、まるでナイフのような爪で切ってもらって、血の滲む手首を擦りながらニヤッと笑っておどけたように肩を竦めて軽口を叩くシンナの、闇の国に在って知らぬ者など居ないその声に、魔物たちの間でどよめくような歓声が上がった。

『…し、シンナ様!やっぱりシンナ様だッ』

『シンナ様ッッ』

 魔物たちは俄かに活気付いて喜んでシンナを見詰めていたが、ふと、すぐにみんなが目線を交えたのを彼らを統べる魔軍の副将が見逃すはずがない。

『なにン?どうしたのン??…ねぇ、光太郎は何処にいるのン』

 眉をソッと顰めたものの、ハッと気付いたようにシンナが周囲を見渡した。これだけの魔物の中に在っても、きっとこんな場合、誰よりも先にあの元気な人間は自分に駆け寄ってくるはずなのに…それを期待していたのに。
 期待外れは嫌な予感を呼び寄せる。

『し、シンナ様!光太郎はここにはいないでやすッ』

『もしかして…階上にいるのン?』

 切羽詰ったような仲間の声に、人間だから、光太郎はここではなく、奴隷として人間たちに扱き使われているのだろうか…そう考えただけで、シンナは目の奥が真っ赤になったような気がして、奥歯をギリッと噛み締めた。
 だが、魔軍の副将が思うほどに…物事の流れは複雑だった。

『シンナ様!こんなところに居てはダメっすよッ。光太郎はここにはいないんでやす!!』

『どうか、光太郎を助けてくださいッ!!!』

『俺たちじゃどうすることもできないんですッ!シンナ様、お願いしますッッ』

 まるで凄まじい形相をした魔物たちは、呆気に取られているシンナを鉄格子まで追い詰めるようにして詰め寄ると、まるで懇願するように口々に言い合うのだ。現実的に泣いている魔物もいて、シンナの胸に嫌な予感が浮かんでいた。

『何か…あったのねン?』

 それまで喧々囂々と言い募っていた魔物たちはふと静まると、お互いに目線を交えて、それから代表するように犬のような頭部を持つ魔物が進み出て、シンナの前に片膝を折るようにして、床に両の拳を突きながら顔を上げて言った。

『…光太郎は、その前の牢獄に入れられていました』

『…そうン』

 背後にある、今は無人の牢を肩越しに見遣って、その内部でどれほど辛く寂しい思いをしたんだろうと、想像するだけで脳みそが焼き切れそうな気がしたが、シンナはその怒りをグッと抑えて、何が起こったのか、どうしてこれほどまでに魔物たちが嘆き悲しんでいるのか、その理由を聞かねばならないと思っていた。それこそが、自分が犯してしまった過ちへの罪であり、罰なのだから…

『俺たちは尋問を受けてボコボコに殴られました…光太郎も、人間を裏切った裏切り者だと言って、酷く殴られていました』

『…ッ』

 シンナは言葉も出せずにグッと唇を噛み締めたが、頷いて、先を促すように琥珀色の双眸を向けた。

『それから…漸く、傷が癒えた晩でした』

 崇高なるディハールの一族であるシンナは、その瞬間、何故か猛烈な吐き気がして、耳の横の方でドクドクと煩いほど脈打つ音がして、目の前が真っ赤になってしまうような錯覚がした。だが、それは幻覚ではなく、確かにシンナの双眸は戦場に在るときのように、滴るような紅蓮に染め上がっていた。
 でも、そんな…いや、そんなはずはない。幾らなんでも、光太郎はまだ子供だし、何より人間なのだから私たち魔物のような扱いは受けるはずがない。
 シンナはそう思い込もうとした、思い込んで、大丈夫だと自分に言い聞かせながら笑うことに失敗した。
 その顔を、静かに涙を流している魔物たちが見詰めている。
 何時の間にか…誰もが黙り込み、そして、静かに泣いているのだ。
 魔族にはそれほどまでの悲しみはない。
 何か、大切なものを亡くす時だけに、魔族は悲しみに打ち震えて慟哭する。だが、今、目の前にいる魔物たちはどうだろう。
 声もなく、慟哭するでもなく、ただただ、どうすることもできなかった自分たちを戒めるように滔々と涙を零しているのだ。

『何が…あったのン?』

 がなり立てるように激しく脈打つ心臓の音が煩くて、噛み切れるほど唇を噛んでいるシンナは、自分の思い込みの甘さを痛いほど思い知ることになる。

『光太郎は…俺たちの大事な光太郎は、人間どもに犯されました』

 その瞬間だった。
 シンナの中の何かが弾け飛んで、茶色だった髪の色は燃えるように真っ赤になって逆立ち、その双眸も白目までが真っ赤に染め上がってしまっていた。ガシャンッと鉄格子を後ろ手に掴んで怒りを静めようとするシンナは、だが、先を促すように泣いている魔物どもを紅蓮の双眸に捉えて、刃のような牙の覗く唇を捲って、睨むように見据えた。

『光太郎は最初、必死で抵抗したんですッ。なのに、あの野郎ども…俺たちの命をたてにしやがってッ』

 そんなシンナの変貌ぶりに一瞬だけ怯んだ犬面の魔物は、それでも、この場で殺されてしまっても構わないとでも言うようにそう言って、悔しそうに地下牢の、土がむき出しの床に拳を撃ち付けて吐き出すようにして泣いていた。
 炎までも口から吐き出しそうなほど怒り狂っているシンナは、光太郎の優しさに付け入った人間どもを片っ端から血祭りに上げたいと心底思った。だが、それは、その場に居る魔物ども全ての願いでもあった。

『あの野郎ども…何人も何人も…容赦がなくて。最初、光太郎は死ぬんだと思っていたんですが、アイツは必死で我慢して生き抜いてくれました。シンナ様!どうか落ち着いてくださいッ。それでも、アイツは死にませんでした。今でもシュー様たちに逢いたいと、必死で頑張ってくれてますッッ』

 犬面の魔物は散々泣いた真っ赤な双眸を向けながら、しかし、ここで怒りに狂っても始まらないことを、既に学んでいるから、そんなことよりも大事なことがあるのだと必死でシンナの怒りを静めようとしていた。

『……そうン』

 戦闘部族であるディハールの相好は、既に怒りに打ち切れて戦闘態勢に入っているが、それでもシンナの心の何処かがホッと安心したようだった。
 どんなに汚されて、嘆き悲しむほどの辱めを受けたに違いないのに、それでも光太郎は自分たちに逢いたい…少なくとも、シューに逢いたいと、あの小さな身体で頑張っているのだろう。 

『それなら…大丈夫ン。光太郎は、きっと強いものン』

 それでも怒りの治まらないシンナの髪は逆立ち真っ赤なままだったが、掴んだ際に変形してしまった鉄格子から両手を離したシンナに、涙をグイッと腕で拭っている魔物たちは頷きながらすぐに口々に言ったのだ。

『ここの頭領の野郎が光太郎を、連れて行きやがったんですッ…しかし、その時、バッシュも一緒でして』

『バッシュ?!…あのドサクサでバッシュが来ていたのン?!』

 真っ赤だった双眸に、幾分か理性の光を取り戻したシンナが驚きに見開いた目を細めると、泣き腫らして散々計画を練っていたのか、白目を赤く充血させた魔物たちは力強く頷いた。
 大隊長のバッシュが居るのなら…シンナは幾分かホッとはしたものの、だが、この砦の地下牢に張られた結界を見る限りでは、バッシュとて自由の身…と言うワケではなさそうだ。

『ここから一緒に生きて出て、闇の国に帰ろうと…光太郎と約束したんですが、シンナ様が来て下さって本当に良かった』

 傷付いている魔物の1人が言うと、同じく腕を吊っている魔物が大きく頷いた。

『光太郎は連れて行かれる前に、俺たちのところに来たんでやんす。その時、自分は第五の砦に行く…と言ってやした!』

 出立の日に、光太郎はユリウスに頼み込んで仲間にお別れを言いに来ていた。
 その時はユリウスや護衛兵などに見守られていたので、口に出しては言えなかったが、バッシュから魔族は読唇術に優れていると聞いていたので、泣いているふりをして、光太郎は口パクで「俺たちは第五の砦に行くから」と短く伝えていたのだ。
 正体の知れない者が砦に近付いている、それが仲間なら、伝えて欲しいと考えたのだろう。そして、その光太郎の企みは、こうして実を結んだようだ。

『第五の砦ン…』

 それは人間たちがそう呼ぶ、魔族にとっては第一の砦のことだ。

『どうしてまた…光太郎はそんなところにン?』

『アッシたちも詳しくは判らねぇでやすが、あの暗黒騎士が連れて行ったんでやんす』

『暗黒騎士…?え、あの沈黙の主の片腕の…ってことはン、沈黙の主が来たと言うことなのン?!』

 魔物たちは確かに詳細なことは知らなかった。
 だが、セスに可愛い男娼を奪われた人間どもが、毎日愚痴を零しに来ていた時に、みんな同じ話をしていたことを、魔物たちは覚えていた。
 確かにセスは最初、光太郎を酷く抱いたらしいが、その後、何故か沈黙の主が来て、その時同行していた悪名高い暗黒騎士が光太郎に懸想し自分のモノにして連れ去った…らしいこと。そのことは、残念ながら別れに来た沈んだ顔をする光太郎を易々と抱き上げた態度から、魔物たちにも判っていた。
 不気味な暗黒騎士の腕の中、泣き出しそうな顔をする光太郎は最後まで自分たちを見てくれていた。だが、それを暗黒騎士は許さずに、光太郎をすっぽりと外套で隠してしまったのだ。その様子から、魔物たちは人間どもの言っていたことは、強ち嘘ではなかったのだと確信した。
 そして、その後、怒り狂ったセスが捕虜となっている自分たちを皆殺しにしようとしたのだが、またしても邪魔が入った…

『それが、あのエルローゼねン。ったく、この砦はどうなってるのン?』

 漸く、落ち着きを取り戻したシンナは全身の刺青を光らせて、剥がれていた化けの皮をもう一度被り直すと、茶髪に琥珀色の双眸と言う、ディハールに有り勝ちな風貌に戻ってから、呆気に取られたように腕を組んで唇を尖らせた。
 今の最大の問題はエルローゼだろうが、暗黒騎士はもっと厄介だろう。
 戦場で何度も対峙したが、その凄まじい殺気と気迫は、流石のシンナですら一瞬、尻込んで戦意を喪失しかかったことがあるぐらいなのだ。できれば、真っ向勝負は御免こうむりたい。
 だが、そうは問屋が卸してはくれないのだろう。
 光太郎の優しさと直向さ、そしてやわらかな心が、恐らく暗黒騎士の頑なな心までも蕩かしてしまったのか…

『罪作りねン』

 うんもう、と思わず溜め息を吐いて思い出す黒髪の少年の笑みは、シンナの心の奥深く、深淵に蹲る兇気すら穏やかに抱き締めて、何も心配いらないと包み込んでくれたのだから、人間の暗黒騎士が手離したくないと考えたとしても、それは無理もないことだとクスッと笑った。

『シンナ様…どうか、お早く光太郎を追ってくだせい!バッシュがお供にいますが、それでもラスタランに入られちまったら、バッシュの身もどうなることか…』

『どうか、シンナ様。お願いです、光太郎を、俺たちの光太郎を闇の国に取り戻してくださいッ』

 無理もないことだと笑ったが、だが勿論、こちらとて手離す気などさらさらない。
 切望するように口々に言い募る魔物たちの想いに、シンナはすぐに応えてやりたいと思っていた。自分ひとりでなら、こんな地下牢を脱出するのは何でもないことだ…だが、この人数を連れて行くとなると、問題は山のように発生するだろう。
 シンナの思いを誤ることなく受け止めた魔物たちは、すぐさま、魔物らしい明るい笑い声を上げた。

『何を悩んでお出でですか、シンナ様。あなたお独りでしたら、こんな地下牢、すぐにでも脱出できます』 

『俺たちのことは任せてくだせい!』

『光太郎は命懸けで俺たちを守ってくれた!今度は俺たちがそうする番だッ』

 そうだそうだと頷く魔物たちは、だが、その役目が自分たちにできないことは残念そうだったが、それでも命など惜しくないと、意気込んでシンナに注目した。件のシンナは顎を引いて、目線だけを上げて何事かを考えているようだったが、そんな連中に意味有りげにニヤッと笑うのだ。

『何を言ってるのよン、アンタたちはン。光太郎と約束したんでしょン?ここから生きて出るって…まぁ、一緒にってのは守れないけどねン』

 力強く笑うシンナの双眸に秘められた思惑に、魔物たちは困惑したように目線を交えて、それからソッと眉を寄せたようだった。
 光太郎にとって、魔城が、そして、シューが世界の全てだったに違いない。そんななか、見知らぬ人間に連れ去られ、ましてや行ったこともないラスタランになど、不安で不安で仕方ないだろうとシンナは唇を噛んだ。
 開いていた掌を震えるほど握り締めて、シンナは虚空を睨んでいた。
 あの輝くような笑顔は消えていないのか…それだけが唯一の希望だから、どうか待って
いて欲しいと思う。
 もう二度と、魔物たちの腕の中から出したりはしないから…魔城に閉じ込めて、もう二度と人間どもに傷付けさせたりしないから、だから、どうか…私たちが在る闇の国に戻って来てね、と、シンナは目蓋を閉じて願っていた。

第二部 9.紅蓮の焔 -永遠の闇の国の物語-

 約束の刻限が近付いて、光太郎たちの一行はゴクリと息を呑んだ。
 来た時と同じように漆黒の外套を纏っている黒騎士のユリウスを筆頭に、フードを目深に被っていて素性の判らない沈黙の主がその名の通り、沈黙して立っていた。
 馬を与えられたバッシュは幼いケルトを前に乗せると、傍らの馬にひらりと跨った、人間の支配する国で貴族の息子として育ったアリスの華麗な手綱捌きに、蜥蜴面では表情の読めないポーカーフェイスの眉をヒョイッと上げて見せた。
 彼らが逃げ出すことに懸念…するはずもないユリウスは、唯ひとり、傍にさえ在ればそれでいい、漆黒の髪を持つ少年の身体を軽々と抱き上げると、眉を寄せる光太郎は馬上の人となっていた。

(…シュー。俺、もっと遠くに行ってしまうよ)

 寂しくて、悲しくて…気付いたら鼻の奥がツンとして、泣きそうになっている自分に気付いて慌てて頭を左右に振った光太郎は、男は涙を易々と見せてはいけない、と言った獅子面の魔物の顔を思い浮かべて溜め息を吐いた。
 泣くわけにいかない。
 自分が決めたことなのだから、このまま永遠に離れることになったとしても…

(それは嫌だ。絶対に俺、あの懐かしい闇の国に戻ってみせる!)

 キュッと下唇を噛んで、強い表情で決意する光太郎を、愛馬の手綱を掴んでいるユリウスは、感情も何もかも全て吸い込んで、夥しい殺気しか纏っていない暗黒の鉄仮面の奥からひっそりと見下ろしていた。

(何を考えている。残す魔物の安否か…それとも、お前を救出すべく迫る魔物の安否か?)

 ユリウスは気付いていた。
 何もかも全て、この儚げな少年が必死で吐いた嘘など、地獄の底から甦らざるを得なかったユリウスには、造作もなく見抜ける可愛らしい嘘などお見通しだった。
 だが、それでも、腕のうちに抱いてしまったぬくもりを、今更失うつもりなどさらさらなかった。

「お前を、何者にも渡しはしない」

「…え?」

 ポツリと、自分を見下ろす鉄化面の向こう、くぐもった声音に小首を傾げて見上げてくる少年に、その直向な眼差しに、ユリウスの強張って固まってしまった心も、その殺意に揺らぐ双眸すら、ふと和んで、頬の緊張まで緩んでしまう。

「いや、気にするな」

 ふと笑うユリウスに、光太郎は不安そうに首を傾げたが、それでも小さく笑って「うん」と頷いた。

(ラスタランの都に入ってしまえば、魔物とて容易に手出しはできないだろう)

 そうすれば、ユリウスの杞憂は消えてしまう。いや、必ずしも消えると言うわけではないのだが、暫くは光太郎を手許において、崩れ去る世界の均衡と同じように、何れ手離してしまうだろう呪われたこの魂を今暫くは引き留めておけるだろう。

(だが…)

 今は容易には動けない。
 足手纏いを3人も抱え、ラスタランの希望である沈黙の主も同行する今、すぐさまラスタランの都に戻るには危険すぎるのだ。

「では、出立する」

 沈黙の主が厳かに、見送るもののいない砦を振り返ることもなく、彼は暗黒の馬に跨る最大の腹心に呟いた。
 時が来たと、光太郎はギュッと目蓋を閉じて、馬の鬣に噛り付いた。
 まだ、この場所は闇の国に近かった…漆黒の馬が嘶いて地面を掻くと、一行は初めはゆっくりと、次第に速度を増して暗黒の森を走り抜ける。
 遠くになる懐かしくて大好きなの国に、光太郎は心を引き千切られる想いで強制的に別れを告げねばならなかった。
 何度も泣きそうになって、それでも唇を噛んで心の痛みに耐えようとする健気な少年に、お供のバッシュはそっと眉を寄せていた。
 助けてやりたい、助けてやりたいのに、首を戒める忌々しい首輪が、バッシュから魔物としての魔力や力を奪い去ってしまっていた。

(流石に、オレひとりで得体の知れない沈黙の主は勿論、このユリウスとか言う男を相手するのはしんどいけどよ。光太郎を逃がすぐらいはできるのになぁ)

 力さえ戻れば…しかし、それはどうすることもできなかった。
 黙々と馬を駆る一行は、その日のうちに目指す第五の砦に到達することができた。
 砦…とは言っても、セスが護る第二の砦とは様相を大きく異ならせている。
 セスの砦が要塞とすれば、第五の砦は瀟洒な古城と言った趣だ。
 この砦の周辺には魔物を寄せ付けない結界が、高等神官たちによって張り巡らされていた。だから魔軍も怯んで襲うことはない。
 つまり、ユリウスが選んだ砦は、魔物にとっては難攻不落の難所だったのだ。
 唯一懸念されるバッシュは、今や死神にやんわりと首を掴まれているような首輪のおかげで、皮肉にも魔力も力も失っているせいか、その結界内に易々と入り込むことができた。だが、ひとたび、その首輪を外して真の力を取り戻してしまえば、結界の効力が発動し、その身体は粉微塵に吹っ飛んでしまうだろう。
 嘶く馬から降りたユリウスに抱えるようにして降ろしてもらった光太郎は、恭しく出迎えるこの砦を任されている初老の神官に、暗黒騎士と沈黙の主が何かを指示するなか、今来たばかりの道を途方に暮れたように見詰めていた。

(どこまで来てしまったんだろう)

 闇の国が支配する世界を、知っているようで、実は全然知らない、あの魔城の中が世界の全てだった光太郎には、ここが何処で、魔城との距離も、ラスタランとの距離もさっぱり判らなかった。

『光太郎、おい、大丈夫か?』

「あ、バッシュ。うん、ちょっとお尻が痛いけどね」

 アハハハッと笑ったら、蜥蜴面の魔物はホッとしたように吐息したようだ。

「なんだろね、あの人たち。すっごい飛ばしちゃって。見て、手に肉刺ができちゃった!」

 ブーッとぶーたれるように唇を尖らせた可愛らしいアリスが2人の間に割り込むようにして両手を広げると、バッシュはこの野郎とよく見ないと判らないのだが鼻に皺を寄せるたが、光太郎はビックリしたように真っ赤になっている手を覗き込んだ。

「うっわー…痛そうだな。後で手当てしてもらおうよ」

 ソッと眉を寄せる光太郎に、アリスはくすぐったいような気持ちになって、「え~、それほどでもないしぃ」と雪白の頬を染めて微笑んだ。
 具合の悪そうなケルトに気付いて、光太郎がその様子を見ようと上体を屈めたその時。

『!』

 不意にその身体は強い力で抱き上げられてしまった。

「わわ?!」

「何をしている?来るんだ」

 黒の篭手に覆われた掌で顎を掴まれ、腰を抱かれたまま驚いたように目を見開いた光太郎の双眸の先に、鉄化面の向こうに揺らめくようにして、滴る鮮血のような紅蓮の双眸が見詰め返していた。

「ゆ、ユリウス。う、うん、判った」

 素直に頷いたものの、ハタと気付いた光太郎は、紅蓮に燃えるような双眸を鉄仮面の向こうに見据えて、慌てたように口を開いた。

「ユリウス!ちょ、ちょっと待って」

「…どうした?」

 丁度目の高さまで降ろして抱え直すユリウスに、光太郎はその肩に手を添えながら首を傾げてみせた。その小動物のような仕種に、どれほど暗黒騎士の心が癒されているか、この場に居る誰しもが理解などしていないだろう。

「アリスが手を怪我しているんだ。それと、ケルトも具合が悪そうだし…できたら治療と、それから少し休みたいんだけど、ダメかな?」

「構わん。アリスとケルトは医務の神官に任せよう。魔隊長は…元気そうだがな」

 ユリウスは即答したが、チラッと鉄化面の奥から蜥蜴の親分を見ると、皮肉げな口調の語尾で笑った。

『ピンピンしてて悪かったな』

 バッシュが苛々したように腕を組んで顎を突き出すと、ユリウスは首を左右に振ってニヤッと笑ったようだ。

「そうでなくては困るだろ?お前は光太郎を護ると言う使命があるのだからな」

 バッシュはムッとしたように牙をむいたが、暗黒の騎士にとってそんなものは蚊でも止まった程度のどうでもいいことなのだ。

「では、入城するぞ」

 バタバタと砦から現れた神官の装束に身を包んだ少年たちが、ユリウスや沈黙の主、バッシュとアリスの馬を慌てたように砦の内部に設置されている厩に引き連れて行ってしまった。

(へー、この砦はまるでお城みたいなんだな)

 ユリウスに抱き上げられたまま、彼の肩に手を添えてキョロキョロと潜り抜ける砦を興味津々の眼差しで見渡す光太郎は、その造りに驚いているようだった。
 ともすれば小さな城のような建造物は、ぐるりと城壁に囲まれて、唯一の出入り口は今し方後にした城門しかないようだ。

(攻め込まれたら終わりっぽいけど…)

「この砦には結界が張ってある。易々と攻め込めまいよ」

 光太郎の考えなど見通しているのか、ドキッとしたように見詰めてくる光太郎の顔を、鉄仮面の向こうからユリウスは紅蓮の双眸を細めて見返した。
 これだけ感情が読み取れてしまう少年なのだ、苦い嘘の匂いも嗅ぎ分けたのだが…不思議と怒る気がしないのは、ソッと肩に添えられた掌のぬくもりが、心の奥底にポッカリと口を開いた、底知れぬどす黒い闇に穏やかなぬくもりを与えているからなのか。

「そ、そうなんだ。あれ?でも結界って…」

 そこまで呟いた時、前を行く沈黙の主に、先ほど出迎えた初老の神官が恭しく頭を垂れて口上を述べた。

「沈黙の主よ、よくぞご無事で参られました。伝達を受けた際には御身を案じるあまり…」

「下手な口上は良い。ディリアス、それよりも戦況はどうだ?」

 長身の沈黙の主がサッと片手を上げて疎ましげに制すると、ディリアスと呼ばれた神官はハハッと畏まって組んだ腕を上げるようにして頭を下げた。

「戦況は芳しくはありませぬが、何分、黎明の期に入りますれば、魔物どもの動向も今暫くは落ち着くかと…」

「なるほど!一進一退に変わらんと言うことか」

 低い声で唸るように呟いた沈黙の主は、フード付きの漆黒の外套の裾を翻して、うんざりしたように歩調を速めて城内に姿を消してしまった。

「ひぃ!」

「あわわわッッ?!」

 光太郎が訝しそうに眉を顰めて沈黙の主の背中を見送っていると、不意に背後から悲痛な声が上がって、驚いたようにユリウスの肩から身を乗り出すようにして少年は背後を振り返った。振り返ったその先には、普段は魔物など見たこともないのだろう、長旅に草臥れているだろう沈黙の主の腹心にして暗黒騎士の身の回りの世話にと恭しく馳せ参じた神官たちが、バッシュを見て悲鳴を上げたのだ。

「失礼しちゃうなぁ。バッシュはこう見えても、ちっともおっかなくないのにさッ」

 思わず神にその身を捧げた神官ですら頬を染めてしまうほど、愛らしく可憐なアリスが腰に手を当てて唇を尖らせると、件の蜥蜴の親分のような魔物はやれやれと溜め息を吐いた。

『お前だけだ。んなこと言うのは、絶対に!お前だけだ』

 こん畜生とバッシュが思っているのが手に取るようによく判るから、さらにアリスは増長して胸まで張って顎を突き出した。

「僕みたいなカッワイイ子に手も出せないんだから、神官さまなんて食べたりしないでショ」

『~お前なぁ』

 首を戒めるこの忌々しい首輪さえなければ、今すぐアリスなど片手で絞め殺してやるものを…と、バッシュが思っているかどうかは謎だったが、常にポーカーフェイスであるはずの蜥蜴面は、アリスを前にすると自慢の無表情も功を奏さなくなってしまう。
 歯噛みするバッシュに向かって、光太郎は思わずプッと噴出して、ケラケラと笑ってしまった。

「バカなことばっかり言ってたら、ケルトに笑われるって」

 バッシュたちの傍らで青い顔をしてはいるものの、困ったように眉を寄せている小さな少年は、そんな風に光太郎に振られてしまって、さらに困惑したような顔をしてしまう。

『…ケルトをなぁ、困らせるワケにはいかん』

 フンッと鼻を鳴らして外方向くバッシュに、アリスがムゥッと眉を寄せたその時だった。
 ふと、苦笑が漏れたのは。
 思わずバッシュたちが振り返ると、光太郎を抱き上げたままのユリウスが肩越しにチラリと見遣って、苦笑していたのだ。
 冷たい鉄仮面は一見すると紅蓮の双眸しか覗かないためか、重々しい威圧感と殺気と、人間らしい感情などは皆無で、恐ろしさしか印象を与えないのだが、今のユリウスは仕方ない連中だとでも思っているのか、鮮血の滴るような紅蓮の双眸を細めて笑っているように見えるのだ。
 だからこそ、仮面の持つ、物言わぬ威圧が今は薄らいで、バッシュたちはバカ話に花を咲かせることもできたのだろうが…

「この砦にも、そう長くは留まらん。無駄口を叩かずに部屋に行け」

 口調は然程不機嫌でもなく、あれほど魔物を憎悪し、寄らばその腰に下げた剣の露にしていたにも拘らず、その気配は鳴りを潜め、国に待つ部下が見れば驚きに卒倒するほど、暗黒の騎士は穏やかに命じたのだ。

『あー、そうだな。こんなことしてても疲れは取れねぇ。行くぞ、アリス、ケルト』

「そーだ、ケルト具合が悪いんだったっけ?神官さま、僕たちの部屋ってどこなの~?」

 漸くハッと我に返ったバッシュは、剣呑に頷いて、苛々したように言ったが、まるきり無視のアリスが具合の悪そうな青い顔をしたケルトを気遣いながら、今でも怯えている神官たちに花が綻ぶように笑って小首を傾げた。
 だいたい、こうすればどんな頑なな心の持ち主でも、頬を緩めて大概の我侭は聞いてくれる。
 アリスが取得している処世術だ。
 そんな連中を見ていた光太郎は、抑えきれないようにうぷぷぷっと笑っている。
 ビクビクと怯えている神官たちに促されて、やれやれと肩を叩くアリスと、腰を拳で叩いているバッシュ、その蜥蜴の親分の甲冑のうえから纏った外套を確り掴んでいるが具合の悪そうなケルトがぞろぞろとついて城内に入ってしまうのを、矢張り光太郎を抱えたままの暗黒騎士は見送るままで行動を起こそうとしない。
 目許に涙を浮かべて、久し振りに笑っていた光太郎は、ふと、そんなユリウスの態度を怪訝に思ったのか、訝しそうに首を傾げて見下ろした。

「!」

 思わずハッとしたのは、笑っている光太郎の顔を、ユリウスの紅蓮の双眸がじっと見詰めていたのだ。

「な、なんだよ?」

「オレに捕らえられてから、その様な顔を見るのは初めてだからな」

 ふと呟くように言われて、光太郎はキョトンッとしてしまった。

「あれ?そうかな…俺、バッシュたちといるといつも笑ってるような気がするんだけど」

 アリスが加わってからと言うもの、確かによく笑うようになったよなぁ…と光太郎は考えたが、だが、矢張り闇の国から遠いところに来てしまった不安から、いや、それ以前に、目の前に居るこの魔族にとって脅威でしかない暗黒騎士に対して警戒していないと言えば嘘になってしまう。
 だからこそ、彼の前で笑うことは殆どなかったのではないかと合点がいった。

「それは、その…仕方ないと思うんだ。俺にとっては故郷みたいに大切な場所だから。その場所から遠いところに来たのに、笑ってなんかいられないよ」

 それは尤もな理由だったし、光太郎の場合、問答無用の理不尽な強引さで連れて来られてしまったのだ。不安を感じてソッと眉を顰めたとしても、ユリウスが腹立たしく思うのは筋違いと言うものだ。
 何より、だからと言ってユリウスが腹を立てているのかと言えば、けしてそうではなかった。
 今の言葉は切々として、本心から出た本音だと逸早く気付いていたからだ。

「だが、お前は笑え」

「…」

 悲しそうに眉を顰めて見下ろす光太郎の頬に、暗黒の篭手を嵌めた手の甲を当てて、僅かに覗く紅蓮の双眸を細めたユリウスは言った。

「お前は今後、ラスタランにその身を置くことになる。オレの傍で、お前は寵姫として傍に仕えるのだ」

 ユリウスの声音は低かったが、そこには絶対的な支配を意味する腹の底が痺れるような威圧を含んでいるようだった。
 光太郎は溜め息を吐いた。

「チョウキ…ってなんだよ?アンタの言ってることって、たまに判らないんだよなぁ」

 何か重要な言葉であることは確かなのだが、その前の、ユリウスの言った「ラスタランにその身を置くことになる」の台詞に、果てしなく落ち込みそうになっていた光太郎の、それは精一杯の強がりだった。
 それが判っているのかいないのか、ユリウスは真摯な双眸をフッと緩めて、手の甲で撫でていた頬から手を離し、改めてその頤を掴んで不安に揺れる顔を覗き込んだ。

「オレの傍で笑い、その顔をオレにだけ向けておかなければならない…と言うことだ」

「んな、無茶な」

 何を言ってんだか…と、光太郎は頬の緊張をちょっと緩めて、思わずクスッと笑ってしまった。
 たとえラスタランに行っても闇の国を思う心…いや、獅子面の魔将軍であるシューを想う心はけして忘れないだろう。そんな自分がユリウスに微笑みかけない…と言うワケはないだろうが、ユリウスにだけ見せるなんて器用な芸当はできないと言うのが、率直な気持ちだ。
 たとえ、敵軍にある最強の敵だったとしても、傷付いたアリスやケルト、ましてやバッシュを気遣うこの男を、光太郎は内心では嫌いになれないでいた。
 だから、笑えと言えば笑うのだろうが、自分だけにしろと言うのは無茶な命令だと思った。

「ユリウスも面白いこと言うよなー、そんなのできるワケないだろ?」

 ケタケタと笑う光太郎を、どこか眩しそうに見詰めていたユリウスは、目蓋を閉じてフッと笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
 仕方なく抱き上げられたままだとは言えクスクス笑う光太郎は気付かなかった。
 自分を抱えた男がその腕に力を込め、漆黒の鉄化面の奥で、滴るように濡れる紅蓮の双眸を細めて嗤ったことを。
 たとえ、光太郎が泣き喚いて懇願したとしても、ラスタランに足を踏み入れたその瞬間から、その身体も心も何もかも全てに自由など与えはしないと、仄暗く揺れる欲望と強い意志を秘めた紅蓮の双眸の奥で、チカリと瞬く不吉な光の存在に…

第二部 8.時空の木霊  -永遠の闇の国の物語-

 魔天に閃く雷光は、雨の気配さえないのに天上の怒りを具現化したように雷鳴を轟かせていた。
 耳を劈く女の悲鳴のような響きすら、此の世を統べる者にとっては何の慰めにもなっていない。
 魔王は瞼を閉じている。
 豊かな漆黒の髪が気だるげに頬に落ち、憂鬱な陰を落としていた。
 彼は夢想する。
 一度はこの手に堕ちた力の源であるはずの人間を、世界の全てを奪った者が連れ去った事実。
 だが、その無垢なる魂を、誰よりも案じている忠実な己の部下の憔悴した顔。
 魔獣と成り果ててもなお、高潔な魂の持ち主である彼は、やはり、純粋で無垢な魂に惹かれてしまうのだろうか。

『それが全ての過ちとも知らず』

 魔王の酷薄そうな薄い唇から、ふと、冷たい冷気を伴う言葉がポツリと零れる。
 瞼を閉じたまま、魔王は未だ夢想の中で旅を続ける。
 森を駆け抜ける忠誠を誓った小さな身体は、降り出している雨に濡れ、何処か虚ろな影が雷鳴に浮かび上がっては消えていく。
 瞳を真っ赤に染め上げて、降り頻る雨の雫なのか、それとも、暖かなぬくもりを持つ涙なのか、頬を濡らす雫に気付きもしない魔物の存在に、魔王は口許を歪めて微笑む。
 場面は一転して闇の中。
 魔王は夢想の中で立ち竦む。

『…なるほど』

 やはり、瞼を閉じたままの魔王の口許から、冷たいブリザードのように冷徹な声音が零れ落ちた。
 いきとし生ける者が耳にすれば、血潮が廻る熱い鼓動すらも瞬時に凍り付いてしまうほど、彼の声音は冷ややかで、そして冷淡だった。
 慣れ親しんだ闇の中、その無音の空間の中で魔王は、美しすぎる貌に微笑を浮かべた。
 奪われた無垢なる魂の白い輝きを求めて思考を巡らすも、結局、この闇の中でその手掛かりすらも消え去ってしまうのだ。
 彼を奪った者は、恐らく、魔王と同じ種族に属するものか、或いは、同等の力を秘めているのだろう。
 魔王と同等の力を秘めたる者を、彼は未だ嘗て、1人しか知らない。
 その者は、本来有るべく力の存在すらも気付かずに、淡々と闇の国で生きている…はずである。

『やはり、そうか』

 最大の脅威は取り除いたと思っていたのだが…魔王は嗤う。
 閉じていた瞼をゆっくりと開き、暗い恨みを宿した紫紺の双眸を瞬かせて、魔王は嗤う。
 そうでなければ、何もかもが色のない無意味なものに堕ちるのだから。

『沈黙の主よ、其方か』

 だからこそ…と、魔王は愉しげに嗤う。
 だからこそ、嬲り甲斐があるのだと。
 魔王は暗黒の氣を全身に纏いながら、地獄の底よりも冷たく暗澹たる殺意を孕んだ紫紺の双眸で、外界に開けたバルコニーから暗雲が覆い尽くした世界を睨み据えていた。

Ψ

 一旦、後宮に引き下がったものの、やはり何処か判然としない面持ちで眉間に皺を寄せる光太郎に気付いて、アリスが訝しげに首を傾げた。

「光太郎ってば、どうしたのさ?眉間に皺が寄ってるゾ」

 眉間を軽く指先で弾かれて、アイタッとおどけてみせた光太郎だったが、エヘヘッと笑って弾かれた場所を擦りながらも、やはり浮かない顔で一同を見渡した。
 光太郎に与えられた部屋…ではなく、漆黒騎士であるユリウスに宛がわれた部屋に揃った、魔軍の大隊長のバッシュ、元男娼で今はお付きの従者に昇格したアリスとケルトが、そんな光太郎に注目する。

「あのさ、ちょっとヘンだと思わないかい」

「え?何がですか??」

 ケルトがキョトンと小首を傾げると、アリスも訝しそうに眉を顰める。
 だが、魔軍の大隊長であるバッシュだけが、そんな光太郎に腕を組んで片目を閉じて見せた。

『やっぱ、気付いたか』

 その仕種から、どうやらバッシュは光太郎が何を言いたいのか気付いたようだった。

「え?なになに??バッシュには判っちゃったの?う~、それって超ムカツクんですけどぉ」

 『なんで俺が気付いたらお前がムカツクんだよ』と、バッシュが傍らで可愛らしい唇を尖らせている、小生意気な人間にうんざりしていると、彼らの主である光太郎が神妙な面持ちで頷いた。

「なぜ、ユリウスは俺たちに嘘を言ったんだろう」

 その台詞に、事態を飲み込めていないケルトが困惑したように眉を顰めた。
 アリスですら、物分りの良い魔獣にムカムカしながらも、やはりその台詞には困惑したように顔色を曇らせている。

『俺たちは第五の砦だとハッキリ聞いたのにな。何故、ラスタランの城に戻るなんて言ったんだろうな』

「第五の砦って、やっぱり城のことじゃないんだよね?」

 バッシュに確認するように聞くと、蜥蜴の親分のような魔物は頷いた。

「あの場に俺たちがいたことに気付いたんだから、俺たちが話の内容を聞いていたと判ってるはずなのに、何故嘘なんか言ったんだろう」

『まさか、本気であの言い訳を信じた…ってワケじゃなさそーだしな』

 バッシュがうんざりしたように笑いながら片目を瞑ると、やはり、神妙な面持ちのままで光太郎は頷いた。

「あのユリウスは、抜け目のない人だと思うんだ。だからこそ、俺はあの嘘が気になって仕方ないんだよ」

 しょんぼりと俯く光太郎に、アリスは困惑した顔のままで首を傾げた。
 それから、何かに閃いたように頤に当てていた指先で光太郎を指差すのだ。

「あの場にいた、誰かを警戒したとか?」

『はぁ?…なんだよ、あの場って言ったら胸糞悪いセスだろ?それに俺とお前とケルトに光太郎じゃねーか。警戒するも何も、みんな関係者だぞ。意味ねーだろ』

 バーカと言って頭を叩かれたアリスは、ムキッと腹を立てて思い切り魔物の尻にキックを喰らわせた。

 思わずバッシュが『イテッ』と声を出すと、してやったりのアリスがにんまり笑うその傍らで、考え込んでいたケルトがおずおずと口を開く。

「もしかしたら…本当はラスタランの城に戻ると言っておいて、やっぱり第五の砦に行くってことじゃないですか?もしかすると、その反対かもしれないですけど…」

「なるほど、撹乱するってことか。でも、どうして俺たちにそんなことするんだろう」

 ケルトの話に頷いていた光太郎は、それでも、やはり何か腑に落ちない顔をして首を傾げてしまう。

『まあ、何れにせよ。蛇が出るかジャが出るかってなモンだろ』

「そうそう。どちらにしても、何処に連れて行かれるのか判らないのは変わりないワケでショ。だったら、逃げ出すのは今しかないってことじゃない?」

 組んでいた腕を解いて腰に当てたバッシュがやれやれと呟くと、肩を竦めるアリスがそれに同意したように頷いて口を挟んだ。
 それを聞いて、光太郎は唇を噛んだ。
 その仕種に、ケルトが少し驚いたように眉を顰めるから、光太郎は慌てて不審そうな顔付きをする3人に首を振って両手を挙げた。

「いや、違うんだよ。バッシュやアリスが言ってることは尤もなんだよね。でも、今度逃げ出してるのが見付かったら命の保障がないんだ」

 それは、恐らくバッシュもアリスもケルトも、みんな三者三様、同じようなことは考えていたに違いない。だが、光太郎の心を慮って、殺されても彼をこの砦から逃がしたいと言う信念が、その言葉を言わせなかったのだ。

「俺は…死んでもシューに逢いたいって思ってる。もしかしたら、ここに向かってくれているのがシューだとしたら、俺は…やっぱり逃げ出してシューに逢いたいんだよ」

 その気持ちは痛いほど判る。
 自分たちの命を救おうとしてくれている、いや事実、男娼などと言う穢れた身分から解放してくれた光太郎の、それは唯一の弱音だから、バッシュもアリスもケルトも、言葉を失くして小さな人間の少年を見詰めていた。

「でも…俺はそれは違うと思うんだ」

 ポツリと光太郎が呟いた。
 その意味が判らなくて、首を傾げるバッシュと、顔を見合わせるアリスとケルトを、顔を上げた光太郎は見詰めながら笑って頷くのだ。

「うん、やっぱり違うよ。だってさ、ここで逃げ出したら、逢う前に殺されてしまうかもしれないだろ?それだと、今までの努力が水の泡になってしまうと思うんだ」

 ポロッと頬に一粒の雫が零れ落ちたが、それでも光太郎は泣き言を言わない。
 それは揺ぎ無い、光太郎の決意なのだ。

「捕虜は少なければ少ない方がいい。シューには、取り残されてしまうここの地下牢の魔物たちを救い出して欲しい」

 そこで漸く、バッシュはハッとした。
 恐らく、暗黒騎士であるユリウスと沈黙の主が砦を後にすれば、真っ先にセスの怒りの矛先は地下牢の囚われの魔物たちに向くだろうと言うことに、光太郎は気付いたのだ。
 あれほど、無茶をしてでも逃げ出そうとしていた光太郎が、ここにきて、いきなり逃げないと宣言したその理由を知ってしまったバッシュは、ふと目線を伏せてしまう。
 この優しさが、バッシュには不思議で仕方なかった。
 だが、だからこそ、自分の命を預けてもいいと思ったのも事実である。
 生れ落ちたときはまだ平和で、それでも、誰かのために何かをするだとか、自分の為に何かをしてくれる人だとか、そんな奇特な者は1人としていなかった。
 平和な時ですらそうだったのだから、戦況の激しい今この時に、心を砕いてくれる者などいるはずもない。
 なのに、光太郎は違うのだ。
 ただ、『仲間』の為だけに心を砕いて命すら賭けてくれる光太郎の存在は、魔物の荒んだ心に射し込むやわらかな光だった。

(おかしなもんだ。魔物に光だなんて…)

 それでも、このあたたかな光を護る為ならば、やはり自分は、今の光太郎のように心を砕くのだろう。

『第五の砦だろうがラスタランの本拠地だろうが、何処へだってついて行くさ。嫌だって言われてもな。勿論だ!』

 光太郎の心に気付いたバッシュの態度は、それでも殊の外明るく、鎧に隠した鱗に覆われた胸板をドンッと拳で叩きながらウィンクなどしてくれる。

「バッシュ…ありがとう」

 嬉しそうに笑う光太郎に、慌てたようにアリスとケルトもそれに参戦する。
 魔物の安否を気遣う習性のないアリスとケルトにとって、魔物に対する光太郎の優しさの意味を理解するには時間が必要だった。しかし、光太郎が何を決意したのかは良く理解できた2人だ、自己犠牲の精神は有り得ないとさえ思っていたのだが、今の光太郎を見ていると胸が痛くなるほど協力したくて堪らなくなる。
 だからこそ、両の拳を握って頷くのだ。

「僕だって、光太郎について行くつもりだし!」

「はい、僕も」

 何処へだって、光太郎となら怖くないと2人の眼差しが訴えている。
 3人の力強い仲間を得て、光太郎は心の底から「ありがとう」と呟いた。

Ψ

 魔物すら恐れる闇の国の魔将軍は戻らない小さな少年を想って、己が主の支配する魔城の空中庭園から眼下を見下ろして溜め息を吐いていた。
 威風堂々とした雄々しい魔将軍には似つかわしくない態度ではあったが、見回りの衛兵がその姿を見咎めたとしても、何も言わずにソッと姿を隠してしまった。
 魔物たちは誰もが魔将軍の不機嫌の理由を理解していた。
 彼らだって、少年の不在に心が塞ぎ込んでしまっているのだし、何より不安でもあった。
 この空中庭園で、彼は養い子を亡くしていた。
 あれ以来、訪れることもなかったのは、しつこく付き纏う光太郎の存在が、彼の心を癒していたからだ。
 本人がいれば、たとえ口が裂けてでもけして言うことなどないだろうが、今はその少年がいないのだ。

(あいつ、無鉄砲なヤツだからな。無茶をしていなければいいんだが…)

 何度目かの溜め息が零れたとき、同じく魔将軍の地位にある旧知の友が声を掛けた。

『また此処か。辛気臭い顔をしておるではないか。シューらしくもない』

 最近、顔色の悪い友は、何処か草臥れたような表情をして溜め息を吐いた。

『ゼィか…鬱陶しいんなら放っとけよ』

 獅子の頭部を持つ魔獣の将軍は、ギロリと、闇の国にあってもハッとするほど美しい顔をしている、底知れぬ魔力を持つ友を目線だけで見下ろした。
 腰に両手を当てて、クックックッと嗤うゼィは、仕方なさそうに首を左右に振る。

『まぁ…同じく塞ぎ込んでいる私に言われたところで、少しも応えなどするまいよ』

『…まだ、戻らないのか?』

 それは、ゼィが心から信頼を寄せている、そして愛している者を心配する傍ら、副将軍の地位にあるその者の吉報を心待ちにしているシューにとって、落胆を隠せない問い掛けだった。

『今は待つしかあるまい』

 見事な柳眉の下、キリリとした双眸で暗夜を切り裂く雷光を睨み据えるゼィを目線だけで見下ろしていたシューは、やはり同じ痛みを持つ仲間の気持ちを痛いほど感じて、無言のまま目線を戻した。
 眼下から、遠くへ。
 もしかしたら、この闇しかない世界の何処かに囚われてしまった、大事な存在の気配を感じ取ろうとでもしたのか、シューは寂しげにピンッと伸びている髭を震わせた。
 見事な鬣が吹き抜けていく風に煽られて逆立つが、雄々しい魔将軍はらしくもない表情を獅子の面に張り付かせて、そうして、遠くを眺めている。
 光太郎がいなくなってから、彼がよく浮かべるようになった表情だ。
 寂しそうな、腹立たしそうな、見る者を遣る瀬無い気持ちにさせてしまう、複雑な表情を一言で表すとするならば…

(恐らく切ないのであろうな。シューらしくもない…いや、シューだからこそ持ち得る感情なのか)

 ゼィは睨んでいた虚空からふと目線を伏せて、傍らで無言のまま遠くを見詰め続ける古くからの友人のその態度を、寂しそうにソッと目線だけで見詰めていた。
 自分でさえ、シンナの不在をこれほど不安に思っているのだ。
 傍に在れば在るほど、その不在に対する不安は色濃く形作られ、その想いに慣れ親しんでいる自分でさえも耐えられないと感じているのに、そんな感情などとうの昔に忘れてしまったシューには衝撃的で、不安で不安で居てもたっても居られないのではないかと思っていた。
 だが、シューは殊の外冷静で、淡々と日々の仕事をこなしていた。
 しかし、時折ふと、何処かにその姿を隠してしまうことにゼィは気付き、そして今日、その姿を見つけたのだ。

(シューだからこそ、耐えておるのだな)

 この場所は魔獣のシューにとって神聖な場所なのだろう。
 彼はここにいる時だけ、本来の彼の姿に戻るのだ。
 仮面のように獅子面に感情を隠す、喜怒哀楽も冗談のように浮かべて肩を竦める友は、今この時、寂しいと全身で物語っている。
 あの小さな少年は、不思議なほどシューを怖がることもなく、大好きだと憚ることもなくべったりとくっ付いていた。その存在を鬱陶しそうにしながらも、心の何処かで受け入れていたのだろう、魔獣の心の微妙な変化に、それでもゼィは口許を綻ばせた。

(それでいい。シューよ、だからこそ、我らは強くなるのだ)

 瘴気を孕んだ不吉な風に青紫の風変わりな色合いを持つ髪を遊ばせて、ゼィは目線を伏せた。
 眼下に広がる無限の闇のような魔の森は、心に開いた穴のように、ポッカリと虚ろに凄惨な姿を晒している。この広い闇の世界の何処にいても、お互いを信じる心さえあるのなら、魔物たちは生きていけるのかもしれない。
 そんな途方もない夢物語に期待しながら、諦めたように溜め息を吐くゼィは気付かなかった。
 シューの双眸が寂しがって落ち込んでいるのではないことに。
 燃え滾る憎悪と、危険な気配を孕んで、いっそ世界など破滅してしまえとまるで呪詛するように睨み付けている事実に。
 できるなら…と、シューはうっそりと歯噛みする。
 今すぐ飛び出して、光太郎を攫ってしまった愚かな人間に、もう殺してくれと叫びだすまで、いや叫んだとしても、生きることを恨めしく思うほどの苦痛を味わわせてやりたいと思っていた。
 たとえ舌を食い千切って自ら自害したとしても、その息の根は止めず、じわじわと死ぬ恐怖と苦痛を味わわせてやるものを…
 拳が震えるほど握り締めた掌から、ポタッと雫が零れ落ちる。
 魔物であったとしても、零れ落ちる赤い液体に、ゼィはとうとう気付かなかった。

第二部 7.惑う蝶の夢  -永遠の闇の国の物語-

 ゆらゆらと揺らめくオレンジの灯火が作り出す陰影に、誘われるように吸い寄せられた小さな蛾が、その翅に炎を燈してジジジ…ッと燃えながらポトリと落ちてしまった。
 その儚げな姿に双眸を細めていたユリウスは、眉間に皺を寄せて、見るからに不機嫌そうに歯軋りしているのだろう、自らの主に目線を移すと事の成り行きを今一度確認した。
 遠い昔から密談に使用されていたらしい狭い広間は、黒天鵝絨に全面の壁を覆われ、入り込むべき入り口すらも、内からも外からも見つかり難い仕様になっているようだ。なぜならそれは、この部屋のいたるところに秘密の通路が隠されてあるからに違いない。
 ユリウスはひっそりと値踏みし、殊の外落ち着いた仕種で鼻に皺を寄せたようだ。

(なるほど、これならば少々の声も外には漏れぬだろうよ)

 驚くほど厳重な設備は、現在、沈黙の主の居城となっている朽ち掛けたラスタランの城よりも上等で、戦場で魔物どもに皆殺しの番人と恐れられているユリウスは、その完全に外界から遮断するような鉄仮面の裏に感情をひっそりと隠すと、忌々しそうにニヤッと口許を歪めた。

(…何時の間にこれだけの改修をしたのか。はてさて愚問だが、この豪奢たる砦で何を企む?)

 忌々しそうに舌打ちする沈黙の主の傍ら、本来ならば影のように自分が寄り添っているはずの場所にのうのうと陣取って、さも真摯に眉を寄せているセスを見詰めながら、それでもユリウスの感情が揺れることはない。
 鉄仮面は、彼を不利にもすれば、時に絶大な効果で有利にすることもある。
 いつもながら、どこに在っても物言わぬ影のようにひっそりと佇んでいる漆黒の騎士に、絶対的な信頼を寄せる自らの家臣に、沈黙の主は目深に被ったフードの奥からキラリと光る双眸で胡乱気に呟いた。

「どう思う、ユリウス」

「…何れにせよ、城に戻るべきです」

「矢張りな…判ってはいるんだが。ったく、厄介なことだ」

 伝令の報せによれば、沈黙の主がラスタランの都をコソリと抜け出した深夜、魔物どもの動向にも変化があったようだ。どうやら、何かを求めている一団が、夜の闇に乗じて行動を起こしたらしい…その数や、誰が率いているのかまでは判らないが、猛然とこの第二の砦に迫っていると言う。

(まあ、この砦のこと。難攻不落とまでは言わずとも、暫くは持つだろうが…主を留め置くわけにもいくまい)

 どうせ、風変わりな人間を見定めてからすぐにでも出立する予定だったのだ。

 ユリウスはたとえこの砦の戦士たちを総動員したとしても、闇夜に暗躍する数も武力も想像の域を出ない敵の手によって、おめおめと沈黙の主を急場に追い込むなどとはこれっぽっちも考えることすらしなかった。
却って派手に動けばそれだけ闇に慣れている魔物に気付かれてしまうだろう、それならばいっそ、少人数で砦を離脱し、第五の砦まで一気に駆けて夜明けを待った方がいいのではないか…ユリウスの思惑は即ち実行で、こうなってしまったら彼の言葉は主の言葉になる、と言うことを、ラスタランに従軍する者たちが知らないことはない。
 もちろん、傍らで様子を伺うセスも然り…なのだが。

「ユリウス、仕方ない。お前のプランを聞こう」

「…ハッ」

 冷たい鉄仮面の奥の紅蓮の双眸を細めて頭を垂れる黒甲冑の騎士に、セスは忌々しげな視線をコソリと向けていた。
 もう間もなく、あの方がお出ましになると言うのに…どこに密偵が潜んでいたのか、早馬の伝令は驚くほどの的確さで事態を主に告げやがったのだ。
 セスにしては面白くない。

(…何が魔物だ。魔物のような低級な連中がこの砦のことに気付くはずがねぇだろーが。それに、シンナが護っていたとは言え、あんなたかがガキ1匹に、魔物が躍起になるワケねぇっての!…恐らくあのお方の手の者がこの砦に向かっておられるのだろう。チッ、万事休すってヤツだッッ)

 ユリウスの低い声音が淡々と計画を話す傍らで、セスが溜め息を吐いていた。
 何もかもが巧くいく、もちろん、そんなワケがないことを知らないセスでもない。
 これから蛻の殻になってしまった砦の中に、あの方の手の者を導きながら…はてさて、どの様な言い訳を試みようかと、セスの心はどんよりと曇っていた。

Ψ

「…」

 第三の広間は外からでは容易に出入り口を見つけ出すことのできない仕様になっているらしく、だが、それ故の隠し通路のようなものも幾つかあった。
 本来なら密談に使用されるべき場所であるのだから、何時誰が攻め込んできてもいいように、縦横無尽に逃げ出すための秘密の通路が隠されているカラクリ部屋のような場所である。
 と、光太郎はアリスに説明を受けていた。
 その存在こそ知ってはいたものの、そんな仕組みになっているなどとはこれっぽっちも知らなかったケルトは目をまん丸にして驚いて聞いている。その傍らで、魔軍の大隊長であるバッシュも興味深そうに耳を傾けていた。
 それは丁度、早馬の伝令が居合わせている沈黙の主、漆黒の黒騎士、セスに向かって伝達を伝えている最中の出来事である。
 だからこそ、ヒソヒソコソコソと話をしている3人を無視して、光太郎は秘密の通路から覗き見ることのできる室内を見渡しながら、呆然と双眸を見開いていた。

(誰かが…この砦に向かってるだって?それって…それってまさか)

 胸がドキンッと高鳴って、思わずハッと我に返ってしまう。
 誰もいなければきっと、高鳴る心臓の辺りをギュッと掴みながら、そうであって欲しいと必死に願って座り込んでしまっていただろう。
 シューであってくれたらいいのに。
 この砦に猛然と向かっているその魔物が、どうか、シューであってくれたらいいのに。
 声に出すことなど勿論できないでいる光太郎の気持ちを知っているのか、バッシュは動揺したように落ち着かない光太郎の肩を、突然乱暴にグイッと抱いて引き寄せると、色気のない黒髪に鱗に覆われた頬を寄せながらぶっきら棒に言うのだ。

『ほらな?大丈夫だって言っただろ。きっと、シュー様が迎えに来て下さるんだ』

「…そうであって欲しいって、思っちゃってるんだよね。ハハハ…危険だって判ってるのに」

 面白くもないのに態と笑う光太郎の声は何処か虚ろで、それから引き攣ったように痛々しかった。
 逢いたい想いと、逢いたくないと言う隠せない感情。
 その、まだ幼い少年の身体の中で渦巻く感情は切なくて、独りで立っているのだって本当はやっとに違いないだろうに、毅然とする光太郎の態度には何時も感心していたバッシュでも、この時だけは何も言わずに引き寄せた腕に勇気付けるようにギュッと力を込めてやった。

「…ありがとう、バッシュ。ありがとう…でも、ごめん。俺、ちょっとだけ弱くなってもいい?」

 頼りなく震えてしまう肩を隠さずに、光太郎は鱗に覆われた胸元を隠す甲冑に額を寄せると、我が身に起こってしまったあまりに悲惨なことを走馬灯のように思い出しながら、それでも、シューに逢いたい気持ちを抑えることができず、それを励ましてくれる蜥蜴の親分のようなバッシュに囁くように呟いていた。
 それは、アリスやケルト、ましてやバッシュですら今まで聞いたことのない、光太郎の偽らざる初めての弱音だった。
 この砦で暮らしてきた彼らには判らない感情で深く結びついている光太郎とバッシュの絆は、恐らくアリスやケルトが思う以上の何かがあって、だからこそ、前向きで直向な少年が両肩を震わせながらも、縋り付くように額を押し付けて震える睫毛に縁取られた瞼を閉じて願う気持ちを、魔物であるバッシュは受け止めてしまうのだろう。

『いいぜ。おう!当たり前だろ?』

「…ありがとう」

 アリスとケルトはソッと目線を交えると、光太郎が落ち着くまで静かに口を噤むことにした。
 何時もは煩いアリスも、この時はツンッと外方向きながらも、別に不機嫌そうでもなく見て見ぬ振りを決め込んでいるようだった。

「…バッシュ、俺は酷いヤツなんだ。ここは敵陣で、危険がそこらじゅうにゴロゴロしてるって言うのに、シューに逢いたいんだよ。口先では危険だから来ないでって言ってるくせに……違うんだ。本当は今すぐにでもここに来て、助けて欲しい。シューに思い切り抱きつきたい。どんなことをしてでもシューに逢いたい…そんなこと、平気で考えているんだ」

『…』

 バッシュは黙って聞いていた。
 心の奥底に渦巻いているはずのドロドロの醜い何かを、こんな小さな身体の中で必死に抑え込んでいたに違いない光太郎の、その涙ぐましい努力が、魔物である自分たち仲間を想う気持ちだと知っているから、バッシュは何も言わずにその震える肩をギュッと抱いた。

「シューに逢いたい、シューに逢いたい!俺、どうにかなってしまいそうなほど、シューが好きなんだよ」

 両手で顔を覆いながら、初めて本音で吐き出すその弱い気持ちを聞いて、バッシュは薄暗い秘密の通路の天井を見上げた。

『…バッカだなぁ、光太郎は。そんなの当たり前だろ?逢いたいから、頑張って生きるって決めたんじゃねーか。だったらさ、お前は弱くなんかないんだよ。そう言うこと、ちゃんと口に出して言ってもいいんだぜ?大丈夫、ちゃんと俺は聞いてるからな』

 顔を覆っていたはずの両手が揺らいで、信じられないように涙に濡れた双眸を開いた光太郎は、おずおずとバッシュを見上げた。
 今まで、必死に泣かないように頑張っていた光太郎は、シューの言葉を未だに信じているように、涙を堪えながら蜥蜴の親分のようなバッシュを見詰めている。その眼差しに、バッシュの心はズキリと痛んだ。

(こんな世知辛い世の中じゃなけりゃ、光太郎だって普通の子供のように陽気に笑って…こんな風に、必死に心を隠す必要なんてないってのになぁ…畜生ッ!どうして…ああ、どうして戦争なんて起きやがるんだッ)

『シュー様に逢うんだろ?ここに向かっているのがシュー様なら、敵陣なんて屁の河童さ!あの方は敵陣の中を風のように走り回ってバッサバッサ斬り倒していくんだ。危険なんか思う暇なんざあの方には一切ないに決まってんだろ。だから、シュー様だって、お前に逢いたくて仕方ないんだよ。それなのに、光太郎が逢いたくないなんて言う方が、シュー様はヘコんじまうんだぜ?』

「バッシュ…」

 蜥蜴面でニヤリッと笑うバッシュを見上げて、光太郎はポロリ…ッと頬に涙を一滴零した。
 キラリと光る涙は、まるで尊い宝石か何かのようにホロホロと頬を滑って、そして音もなく床に零れ落ちてしまった。
 一瞬、慌てたようにバッシュが掌を差し出したけれど、ほんの少しタイミングが合わずに、涙は冷たい床に吸い込まれてしまう。

「…ありがとう。俺は…バッシュと仲間になれて本当によかった。ずっと、感謝してるよ」

『うはっ!よせやいッ。俺は当然のことを言ってるだけなんだ。礼なんか言われる筋合いはないねッッ』

 盛大に照れたように首筋を掻くバッシュに、ふと、それまで黙って事の成り行きを窺っていたアリスがクスッと笑ったようだった。
 それで漸く、ハッと我に返った光太郎は、アリスとケルトが無言のままで微笑んでいるのを見て照れ臭そうにエヘへッと笑って頭を掻いている。
 とんだ醜態を晒してしまった…とは思ってもいないのだろう、少しだけ調子を取り戻した光太郎に、アリスとケルトは顔を見合わせて、次いでホッとしたように肩を竦めたり、涙ぐんだりしてそれぞれの仕種で気持ちを表現しているようだ。

「アリスやケルトにも迷惑をかけちゃったね。ごめん」

「謝ることってないし?大丈夫ならそれでいいんじゃないのぉ~??」

 なんでもないことのように肩を竦めるアリスに、彼らしいその優しさを秘めた態度に、照れ臭さが払拭された光太郎が嬉しそうにはにかんだ。

「アリス、ありがとう。もう大丈夫だよ」

 「どう致しまして」と外方向くアリスの傍らで、何も言わずに涙ぐんだまま笑っているケルトにも、光太郎は素直に礼を言った。その言葉に、吃驚したケルトは慌てて首を左右に振ると、ホッとしたように「どう致しまして」とアリスの口真似でおどけて見せた。
 優しい人たちに囲まれて、自分だけが妙に意地を張っていたんだなぁ…と、光太郎はそれまでの意固地さを少しだけ恥じたようだった。
 この想いを、どうか忘れないでいようと思う。

「…それにしても。バッシュってば見直しちゃったかもぉ」

 クスッと鼻先で笑いながら双眸を蠱惑的に細めるアリスに、バッシュは不気味そうに首を竦めて『勘弁してくれ』と呟いたようだった。

「でもぉ…早くシューに逢えるといいね、光太郎」

 心底嫌そうに首を竦める失礼な蜥蜴の親分のような魔物に唇を尖らせながらも、アリスは綺麗な深緑色の双眸を細めて囁くようにして呟いた。

「…うん。俺、絶対にもう一度、生きてシューと逢うんだ。せっかく、シューがここに助けに来てくれているんなら、俺も頑張らないとね。なんか、俄然ヤル気が出てきちゃったよ♪」

 はにかんで、いつもの調子を取り戻した光太郎が拳を握り締めるガッツポーズなどをやらかしてしまえば、呆れたようなアリスに「現金だなぁ」と笑われて、バッシュは引き攣った笑みをどうやら浮かべながらこめかみを押さえるし、ケルトは安心したようにケラケラと笑っている。
 和やかな雰囲気を取り戻した一行が落ち着きを取り戻そうとした正にその時だった、堅く口を閉ざしているはずの鉄製の扉がガタンッと凶悪な音を響かせて開いたのは。
 まるで地獄のような不吉な影は、息を飲む彼らを見据えてその深遠の闇に飲み込もうとでもするかのように、ゆったりと音もなくその一歩を踏み出したのだった。

Ψ

「…ここで何をしている?」

 それは、恐らく地獄から吹き上げてくる冷たい亡者の恨めしげな声のようでもあったし、砂漠を吹き荒れる砂嵐のように猛々しい怒りのようでもあった。 

「セス!こんなところに鼠が徘徊しているぞ。これはどう言うことだ?」

「きゃあ!」

「イタッ!」

 まるで疾風の素早さで近付いたユリウスは誰もが行動を起こす暇すら与えずに、グイッとアリスと光太郎の首根っこを引っ掴んで引き摺るようにして、慌てて入って来た青褪めるセスの前に放り出すようにして突き出した。
 ハッとしたように立ち上がったバッシュが猛然と立ち向かおうとしたその時、首のチョーカーがジクリと熱を帯びたように彼から力を吸い取ったようだった。そのお陰で、バッシュはその場にへたり込むと、悔しそうに冷たい石造りの床に両の拳を打ち付けながら漆黒の騎士を睨み付けた。

「こ、これは…」

「妾の管理もできないようでは先が思い遣られる。私の寵姫を唆した罪は万死に値するだろう」

 冷たい風のように、低い声音で淡々と見据える鉄仮面の向こうの紅蓮に滾る双眸は、光太郎が逃げ出したことに腹を立てているのか、或いは、もっと底知れぬ何かに激しい憤りを感じているのか、何れにせよユリウスの怒りは納まる気配もなかった。

「も、申し訳ありません、ユリウス殿!これは何かの…アリスっ」

 間違いであって欲しいと言う思いで吐き出しかけた台詞は、だが、悔しそうに唇を噛み締める美しい花のかんばせを持つ愛妾の姿を捉えると、怒りを通り越して青褪めてしまうセスはその名を呼ぶので精一杯のようだ。

「この狭い砦で後宮だの何だのと現を抜かす暇があるのなら、せいぜい、前線にでも出てその鈍った根性を叩き直すのだなッ」

 平身低頭するかの如く、肩膝を付いて騎士の最敬礼をするセスに向かってアリスの華奢な身体を投げ付けた。

「!」

 声もなく倒れ込む最愛の愛妾の身体を、それでもセスはハッとしたようにして受け止めようとしたが、何よりも己の保身を第一とする野心だらけの男は、差し出そうとした腕を反対に、その身体を突き放すようにして突き飛ばしたのだ。

「アリス!…クソッ!なせ!!離せよッッ」

 ユリウスに首根っこを引っ掴まれたままで思わず声を上げた光太郎は、全身全霊を込めたような胡乱な目付きで黒騎士と隊長職にある男とを交互に見据えながら、ジタバタと暴れて罵るように悪態を吐いた。

「無論、お前も罰を受けるのだ。寵姫とは言え、私は甘くないぞ」 

 ユリウスは鉄化面の向こうの紅蓮の双眸を凶悪に薄っすらと細めると、引っ掴んでいる身体をグイッと引き寄せながら、囁くようにして苦々しげに吐き捨てた。
 光太郎が望むところだと、その、本来なら逃げ出してしまいたくなる凶暴そうな瞳を見据えていると、冷たい床に突き飛ばされていたアリスが、どうやら切ってしまったのだろう口許から血を零しながらゆっくりと上半身を起こして口を開いた。

「お待ちください、ユリウス様」

 真摯な双眸は、それまで光太郎たちが目にしてきたどの表情とも違い、あまりに静かで切なくて、光太郎は嫌な予感が脳裏を掠めるのを感じていた。

「光太郎様を唆したのは確かにわたしです。だから、光太郎様は何も悪くありません。どうぞ、罰するのならばこのわたしの首で、お許しください」

 こうなることは判っていた。
 ふと、アリスの決意を秘めた表情を見た瞬間、光太郎の脳裏に先ほど彼が言った言葉が蘇ってきた。

(光太郎を逃がしちゃえば、唯じゃすまないだろうね)

 アリスは確かにそう言っていた。
 そんな覚悟を、知り合ったばかりの自分のために決め込んで、一緒にここまで付き合ってくれたのだ。
 もしかしたら、セスは、自分を寵愛しているのだから守ってくれるかもしれない…そんな浅はかな想いを、きっとアリスは考えてもいなかっただろうと、光太郎は一瞬で感じ取っていた。

「なるほど、流石はコーネリアス家の子息だな。潔い覚悟だ。その志に免じて…その首で赦してやる」

「有難うございます」

 クッとセスは唇を噛み締めたようだったが、それでも、我が身可愛さの保身では、アリスを助けてやろうなどと言う気持ちは一瞬だって持ち合わせてはいないらしく、この酷い男は最後まで愛妾を想いつつも主に忠実に従う良き家臣を演じる気でいるようだった。

『アリスッ!!』

 覚悟を決めているように瞼を閉じて項垂れるアリスに、黒騎士の無情の一刀が閃くようにして掲げられるのとバッシュの悲痛な叫びはほぼ同時だった。
 ユリウスの、腰に佩いた鞘から引き抜かれた剣にはクッキリと血溝が刻まれていて、明り取りにチラチラと燃える松明の炎が反射すると、それは禍々しさにいっそう磨きをかけてギラリと刀身を光らせた。それを真横で見ていた光太郎はゴクリと息を呑んだ。
 その人殺しの兇器は、死を覚悟したアリスの熱い血潮を今か今かと待ち望んでいるかのように一瞬揮え、それまで言葉もなく絶句していた光太郎の脳裏に熱い何かを閃かせた。

(このままだったらアリスが死んでしまうッ)

 微かにハッとしたようなユリウスはその鉄化面の向こうの顔を僅かにだが歪め、怯えたように双眸を見開くだけで何もできずに唇を震わせているケルトと忌々しそうに歯噛みしているバッシュの目の前で、無情の黒騎士は上着だけを残すようにして身じろぐとその頑強な戒めから無理矢理逃れる少年を再度捕まえるために腕を伸ばそうとした。
 その一瞬できた隙で、意を決している少年を背後に光太郎は転がるようにして立ち塞がったのだ。

「どうしてアリスが首を刎ねられないといけないんだよ!?そもそも、唆したのはアリスじゃない。この俺だ!」

 殆ど無茶苦茶ではあるのだが、それでも上半身裸のままの滑稽な姿で言い張る少年の背後で、唇を切ってしまっているアリスは、思わず泣きそうになりながらもまるで自嘲するような笑みを微かに浮かべた。

「ダメだよ、光太郎。せっかく、僕が責任を取っているんだからそんなこと言ったら…」

「煩いよ、アリス!君は黙ってろッ。だいたい、どうして俺はあんな狭い部屋の中にいないといけないんだよ!?もしかしたら、寂しくなってアンタを捜すために、たまたま通りかかったアリスに出してくれってお願いしたのかもしれないじゃないかッ!それだけで、アンタは俺たちを殺すのかよ!!」

 一瞬、シンと静まり返った秘密の通路内で、未だに名前も知らない暗黒騎士を見据える光太郎だけがムッとしたように肩で息をしている。
 捲くし立てるように言い張る光太郎のエキサイトした姿は、今まで、どんな場面にも直面してきたバッシュですら見たことがないほど、激怒していることは間違いない。

「言い訳も言い分も何も聞いてくれないのか?!そんなの、悪政を布く暴君と何も変わりないよッ。アンタ、俺に傍にいろって言ったよな?それはどう言う意味だったんだ?!殺すためなのか!それなら、悪いのは俺なんだから、アリスじゃない。アリスの首を刎ねるのなら、今ここで俺の首を刎ねればいいんだッ」

『光太郎、お前…何を言い出しやがるんだ』

 オロオロと、成す術もなく状況を見守るしかないバッシュでも、一瞬、光太郎が何を言い出したのかと思わず口を開かずにはいられなかった。シューを愛しているのに、どうしてユリウスを求めるようなことを言うのか…そこまで考えて、まるで自分を見ようとしない光太郎の姿には懸命な意思が浮かんでいて、その時に漸く色恋沙汰に鈍いバッシュにも光太郎が何をしようとしているのか理解できたようだった。

「……それは、真か?」

 どちらを指して言っているのかいまいち判断に困った光太郎だったが、自分に都合のいい方、つまり前者の方だと勝手に考えて頷いた。

「そうだよ!アリスは親切で俺を出してくれたんだ。こんな、ワケの判らないところにまた閉じ込められて、アンタもいないし…寂しくて寂しくて…泣いていたらアリスが助けてくれたんだ。彼は俺の恩人なのに、アリスを殺すなら俺は一生、アンタなんか大嫌いになってやるッ」

 ポカンッと、事の成り行きを唖然として見守っていたセスが、今まで見てきた光太郎の態度からでは到底、嘘だろと言わずにはいられないほど嘘臭い台詞に呆気に取られている傍らで、光太郎が脱ぎ捨てた上着を握り締めたままのユリウスは暫し無言で立ち尽くしていたが、微かに息を吐き出しながらポツリと呟いたのだ。

「では、何故ここに魔軍の大隊長がいるのだ?」

『そりゃあ、光太郎の希望で俺はお付きの従者になってるからな。ソイツが行くところには何処へだってついて行くさ』

 漸く調子を取り戻したバッシュがフンッと鼻を鳴らして外方向くと、アリスが溜め息を吐きながら首を左右に振ったのだ。

「ケルトは僕に脅されて、彼らのお手伝いをしただけだし?」

 ウンウンッと思い切り頭を上下させて頷く光太郎を無言で見下ろしたまま、それでもユリウスは暫く何事かを考えているようだったが、根負けしたように溜め息を吐いた。

「…それをオレに信じろと?」

「そうだよ…俺、この砦に来てやっと安心できる、信じられる人を見つけたんだ。いろんなヤツに散々酷い目に遭って、でもアンタは違ってた。俺はアンタは信じてるんだ。だから、アンタも俺を信じて欲しい」

 みんなを守るために…光太郎は必死に考えながら、一生懸命慣れない嘘を吐いていた。だが、健気で直向なその姿は、強ち嘘に見えないほど迫真に迫っている。

「それに…アンタがいないと寂しい」

 直向に見据えていた光太郎は、ふと、心の奥深いところでたゆたうあたたかな想い人への気持ちを抱き締めるように俯いて、ポツリと呟いた。
 思わずと言った感じで零れ落ちたその台詞を誰に向けて言ったのか、真相を知っているバッシュとアリスは内心で、光太郎はもしかしたら底知れぬヤツかもしれない…と思ったかどうかは定かではないが、少なくとも、拳を握り締めたことは確かだった。
 グッジョブ、光太郎!…である。

「そうか。では、オレの早合点だったんだな?」

 黒篭手に覆われた掌を伸ばして頬を包むと俯く光太郎の顔を上げながら呟くユリウスに、今にも泣き出しそうにふにゃっと眉を寄せてしまう光太郎は彼を見上げたままでコクリと素直に頷いた。

「オレを愛しているか?」

「…愛しているかどうかはまだ判らないけど、アンタのことは好きだよ」

 愛している…と言えば、ユリウスは疑っていたに違いない。だが、光太郎はユリウスが求めていた答えをすんなりと口にしたことで、彼の信用を勝ち得ることができたのだった。

「判った。今回はお前を信じよう。だが、二度とこんな紛らわしいことはするな。今より半刻ほど後に、ラスタランの城に戻る。城で今回と同じような振る舞いをすれば、敵情を探ろうとしているのではないかと嫌疑をかけられても仕方ないのだからな」

 一瞬、ギクリとする光太郎だったが、ユリウスには内緒でソッと眉を寄せていた。

(さっきは確かに、第五の砦に向かうって言ってたのに…第五の砦がラスタラン城なのか??)

 その答えが出ることはなかったが、それでもなんとか急場は凌げたのだとホッと安心した光太郎は、頬からユリウスの掌が離れると同時にその場にへたり込んでしまった。

「光太郎!大丈夫??」

「光太郎さん!」

『おい、確りしろよ!?』

 それぞれが銘々に声をかけてくれるから、光太郎は照れ臭そうにエヘヘッと笑って「大丈夫だよ」と呟いた。
 ちょっと吃驚しただけだからとおどけて見せる光太郎にホッと安心した一同の傍らで、その様子を興味深そうに見詰めていた漆黒の騎士は、人間からも魔物からも愛される…ましてや、他者を信じることなどとっくの昔に忘れていたはずの自分の心すら、ガッチリと掴んで離さない不思議な少年に近付くと、キョトンと見上げる光太郎に溜め息を吐きながら手にしていた上着を着せてやる。

「あ…」

 そう言えば上着を脱いでしまっていたんだと慌てる光太郎を尻目に、ユリウスは無言でその身体を浚うようにして抱き上げた。
 ムッとしているバッシュはしかし、ここで騒いでしまえば元の木阿弥にもなり兼ねないと、ギリッと奥歯を噛み締めながらも、殊更なんでもないことのように目線を泳がせている。

「お前は誰にでも優しいんだな」

「へ??」

 抱き上げられてキョトンッと見下ろす光太郎は、鉄化面の向こう、紅蓮に燃え立つ双眸がそれほど怒りを孕んでいないことに気付いて小首を傾げた。
 この暗黒騎士は、いったい何を言っているんだろう。
 まるで無害な小動物のようなあどけなさで見下ろしてくる光太郎に、ふと、地獄の番人だなんだと恐れられている自分に物怖じもしないその姿に、ユリウスは嬉しくなって微笑を浮かべてしまう。だが、冷徹な鉄仮面はその穏やかな気持ちすらも吸い込んで、冷たく松明の炎を反射させていた。

「だが、それでいい。オレは多くは望まない。お前が傍にいれば、それでいい」

 誰にともなく零れ落ちる呟きに、光太郎が目を丸くすると、らしくもない自分の台詞に照れたのか、ユリウスは抱き上げていた少年の身体を秘密の通路の上に下ろすと、何も言わずに踵を返そうとした。
 その後姿に、光太郎は慌てて声をかけた。

「あ、待ってよ!俺、アンタの名前を知らないんだッ」

 思わずアリスとバッシュがすっ転びそうになって、胸を撫で下ろしていたケルトですらギョッとしたような目付きをする気配すらも感じずに、光太郎は真剣そのものでピタリと足を止めてしまった漆黒の外套を纏った背中を見詰めていた。

「…名乗っていなかったか?」

「うん、聞いてない。あ、俺は光太郎って言うんだ」

 先に名乗らないと失礼だよなぁ…と、慌てて自己紹介してエヘッと笑う光太郎を、肩越しに振り返っていたユリウスは面食らったような表情をしたが、鉄化面の向こうでは誰も気付かなかった。

「……オレはユリウスだ、光太郎」

 フッと、声音が少し変化して、光太郎はユリウスと名乗ったこの黒騎士が、微かに笑ったんだと気付いた。

「そっか、じゃあユリウス。俺のお願いを聞いてくれる?」

 寵姫らしく…と言っても、その名称の意味すら知らない光太郎は、先ほどユリウスが自分に凄んできた時に言ったニュアンスから、恐らく彼のモノだと言う意味合いなのだろうと思い込んで、それならば少しの我侭ぐらい聞いて貰おうと口を開いたのだ。

「なんだ?」

 それでも黒騎士は、健気に見上げてくる最愛の所有物を見下ろして、この物怖じもしないどこか鷹揚な少年が、自分に何を強請るのかと興味深そうに頷いた。
 魔族の捕虜を逃がせとでも言うのかと、訝しげに眉を顰めて身構えていたが…

「その、アリスを俺の従者?…って言うのかな、それにして欲しいんだ」

「え?」

「それと、ケルトも」

 自分たちの名前を突然出されて吃驚する2人の前で、光太郎はニコッと笑ってユリウスを見上げた。
 どうやら、この砦では誰もが恐れていたあのセスが、平伏するほどの黒騎士なのだから、きっとこのユリウスと言う鉄化面の男はそれなりに高い地位に在るんだろうと、光太郎は確信してお強請りをしてみたのだ。
 案の定、セスはギョッとしたように一瞬目を見開いたが、寵愛している可愛い男娼を目の前で掻っ攫われるなんて冗談じゃないと思ったのか、高血圧らしくカッと頭に血を昇らせたように光太郎を睨んだが、彼が何か口を開く前に拍子抜けしているユリウスが事も無げに頷いた。

「そんなことか…構わん。魔軍の大隊長と男娼2人、それをお前が望むのなら引き受けてやる」

「ユリウス、ありがとう!」

 パァッと嬉しそうに破顔する光太郎を、一瞬だが眩しそうに双眸を細めたユリウスはしかし、微かに咳払いでもするような仕種をして、今度こそ本当に踵を返すとさっさと第三の広間に戻ってしまった。

「よかったね、アリスにケルト!」

「こ、光太郎…どうして?僕はだって……ッ」

 アリスが信じられないとでも言うように深緑色の綺麗な双眸を見開いていると、その台詞を遮るようにして野太い声が地獄の底から響くように覆い被さった。

「そうだ、こん畜生!アリスは俺の愛妾だぞ。勝手なことをされては困るッ」

 さっきは死ねと全身で物語っていたくせに、彼の命が助かれば、すぐにでも自分のモノだと主張するセスは乱暴にアリスの腕を掴んで引き寄せた。

「この淫乱が男なしで生きられると思っているのか?馬鹿馬鹿しいッ!」

 グイッと尻を掴みながら下卑た笑みを浮かべるセスに、バッシュが胸糞悪いものでも見たように鱗に覆われた鼻に皺を寄せて、グッと牙をむこうとした正にその時だった。
 ボグッ!!
 何か、筋肉に打ち付けたような鈍い音を響かせて、アリスの華奢な拳がセスの頬にクリティカルヒットしていた。

「~ざけんなッ!この変態エロジジィッッ!!光太郎のおかげでやっと本音が言えて清々するしぃー!」

 ギョッとしたのは確かにバッシュも光太郎もケルトも同じだったが、それよりも酷いショックを受けていたのは、頬の痛みなどこれっぽっちも感じていないセスだった。

「なな…何を、アリス?お前、何を言って…」

「僕が本気でアンタを愛してるとでも思ったのぉ??バッカじゃない!他の子たちがうんざりしてるから、どーせここには長い僕が代わりをしてただけだし?愛してるなんて…ゾッとすること言わないでよッッ」

 光太郎の従者に昇格したのなら、もうセスなどどうでもいい存在なのだ。
 常々、腹の底で滾らせていた思いをぶちまけると、へたり込んでしまっているセスを忌々しそうに見下ろして、その天使よりも麗しい華のかんばせに憎々しげな皺を寄せていたアリスは、まるで曇り空から太陽が覗いたような元気な笑顔をいっぱいに浮かべて、晴々とした顔で光太郎を振り返った。

「あー、スッキリした!さ、こんな鬱陶しい場所なんかにいないで、一旦後宮に戻ろうよ」

「う、うん」

 コクリと光太郎が頷こうとしたその時、苛立たしげにカッと頭に血を昇らせたセスが、ギリギリと奥歯を噛み締めながらアリスに掴みかかろうとした…が。

「セス!何をしている!?主のお呼びだ…なんだ、まだいたのか。あと半刻ほどで出立だ、準備をして部屋で待機していろ。セス!主を待たせるつもりか、急げッ」

 鉄製の扉から顔を覗かせたユリウスが苛立たしそうに声をかけて、その場にまだ光太郎たちが留まっている事に気付いたのか、はたまた、セスの愛妾を取り上げてしまった光太郎に難癖でもつけようとしている気配でも察したのか、的確に指示を出してから、暗黒騎士はゆったりとした殺気を纏いながら、まだグズグズしているこの砦の隊長を顎をしゃくるようにして冷徹な声音で呼び付けたのだ。

「う、は、ハッ!」

 忌々しそうに光太郎たちを燃え上がる双眸で見据えはしたものの、セスは暗黒騎士の消えた扉にドカドカッと荒々しい足取りで消えてしまった。その後姿に、アリスは思い切りあっかんべーっと舌を出してやった。

「あー!もうホント、スッキリした♪光太郎ってばやるじゃん」

「エヘへ♪これで、その…たぶん、アリスたちは自由になったんだよ。君たちの好きな場所に戻るべきだと思う」

 それを聞いて、バッシュは『なるほど』と頷いた。
 晴れて【男娼】などと言う忌々しい立場から離脱できたのだから、光太郎は好きな場所に行ってもいいと言っているのだ。その為に、彼は彼なりに考えて、ユリウスに恥を忍んで頼み込んだのだろう。
 照れ臭そうにはにかむ光太郎を見詰めていたアリスとケルトは顔を見合わせたが、アリスがクスッと笑ってウィンクした。

「なに、言っちゃってるワケぇ?僕たちは光太郎の従者なんでショ??一緒に行くに決まってるじゃん。闇の国でも何処へでも」

 クスクスと笑うアリスに、ケルトも破顔して嬉しそうに頷いている。
 どうせ…ラスタランの家に戻ったとしても、不名誉な立場にあった自分など、けして誰も受け入れてなどくれはしないとアリスが思うように、既にデルアドールの何処にも居場所を失くしてしまったケルトも、ここを出てしまえば独りぼっちになってしまうのだ。それならば、光太郎が心を寄せる闇の国に行くのも悪くないと思っていた。
 いや、光太郎が想いを寄せている闇の国だからこそ、行きたい…と、素直にアリスもケルトも思っていた。

『ぐはー…また厄介者を背負い込んじまったって、シュー様にどやされるな』

 蜥蜴の親分のようなバッシュがガックリと項垂れてしまうと、アリスがケラケラと笑いながら、そんな魔物の背中をバシンッと思い切り叩くのだ。

「男のクセにウジウジしない!魔将軍シューに、僕からもバッシュを叱らないで♪ってお願いしてあげるしぃ」

『う、うるせー!!お前なんかにお願いされたら、シュー様から俺が殺されるわッ』

「なにそれ、ひっどーい」

 ブゥッと唇を尖らせるアリスと、目をむいて怒るバッシュに呆れたように眉を跳ね上げていた光太郎は、傍らで自分を見上げている幼いケルトの嬉しそうな双眸に気付いて、彼はエヘヘッと笑った。

「これで闇の国も、楽しくなりそうだよ♪」

「そうなるように、頑張ります♪」

 既に心は闇の国に戻ってしまっている光太郎に、ケルトは嬉しそうに頷いている。
 何はともあれ、窮地を脱した一行の心は、見ることのなくなってしまった闇の国には似つかわしくない太陽のように輝いていた。
 暫く、第二の砦に朗らかな笑い声が響き渡っていた。

第二部 6.陰の中の光  -永遠の闇の国の物語-

 漆黒の騎士、ユリウスに宛がわれた部屋はセスの塒よりも幾らか狭かったが、それでもこんなご時勢ではそれなりに豪奢なものだった。その点に全く気付いていない光太郎は、まるで閉じ込めるようにして外から鍵をかけて出て行ってしまった、この部屋の今の主の顔を胡乱な気分で思い浮かべながら唇を噛んでいた。
 ベッドから降りてウロウロと室内を歩き回ったところで充分な考えなど思いつきもしないが、それでも何かしていないと居ても立ってもいられない、そんな焦燥感に襲われている。
 今、この部屋の外で沈黙の主とセス、そして漆黒の騎士であるユリウスが何を話しているのか…知りたい。
 その純粋な思いが、何より、その話し合いの結果がどれほど甚大なダメージを魔物たちに与えてしまうのか、考えるだけで胃の辺りがキリキリと痛み出すのだ。

「…なんとかしなくっちゃなぁ。せっかく敵陣の真っ只中に入り込めたんだ、少しでも何か情報を盗んでから闇の国に帰らないと。何よりも、こんなところに閉じ込められてるってのも冗談じゃないし」

 元来から向こうっ気の強い光太郎のこと、こんな場所でジッとしているような性格ではない。
 窓は相変わらずビル3階分は高い位置にあるし、先ほどから何度も試してはいるものの、一向に開く気配もない扉にはうんざりして思わず蹴りを入れてしまって、思わぬ痛みに蹲りそうになって溜め息を吐いてしまった。

「はぁ…何やってんだろ、俺」

 思わずガックリと肩を落として寝ることもなかったベッドにへたり込んでしまう。
 抱き締めてきていたユリウスが、ポカンッとしている光太郎の柔らかな唇にキスした丁度その時、外からノックされて「主のお呼びです」と声をかけられた途端、それまでの甘い雰囲気など何処吹く風で、暗黒の騎士は言葉もなく立ち上がると出て行ってしまったのだ。
 光太郎に声を掛けることもなく、厳しい、まるで何かを強烈に呪ってでもいるかのような火傷の舐める相貌を鉄化面の裏に隠しながら…ユリウスは行ってしまった。
 その後ろ姿が何故か不穏に感じてしまって、光太郎は追い縋るように扉に近付いたものの、ピシャリと目の前で閉じてしまった重厚な扉は、カチリと外から鍵の掛かる冷たい音を響かせていた。

「こんな砦の中で、俺が何処に逃げるって言うんだよ!?…ホント、アイツって変わったヤツだ…って、あれ?そう言えば俺、アイツの名前を聞いてないや」

 サメザメと悲観に暮れて腹立たしそうにブチブチと悪態を吐いていた光太郎は、パチクリと目を見開いて、それから唐突に上体を起こして首を傾げてしまう。
 よくよく考えれば、沈黙の主だと勘違いしていたままで結局、光太郎はユリウスの名前すら聞いてはいなかったのだ。あまりに多くのことが起こりすぎて、そんな大事なことを忘れてしまっていた。
 驚くほど無残な火傷の痕は、あの黒甲冑の騎士が言うほど醜い…と気になるよりも寧ろ、そのあまりの痛々しさに正直光太郎は言葉が出なかった。
 憎々しげに自分を見下ろした紅蓮の双眸が怖くなかった…と言えば嘘になるし、全身に広がった炎の苦痛に死ぬよりも酷い体験をしたに違いない彼の、全身を纏うあの狂気のような殺気からは逃げ出したかった。
 それでも。
 ふと、光太郎はベッドの縁に腰掛けたままで目線を伏せた。
 それでも、全身で拒絶しているはずのユリウスの、そのルビーのように澄んでいる紅蓮の双眸の奥に、見え隠れしていたあの光が、頼りなげな寂しさだったとしたら、それが自分の思い違いでないのだとしたら、光太郎は放ってはおけなかった。
 自分はそんなに出来た人間じゃない、できれば、ユリウスから逃げ出してシューの元に少しでも早く帰りたいとすら思っている。

「…偽善、ってヤツなのかな」

 それでも、あの白髪と紅蓮の双眸を持つ悪鬼のように世界中を憎んでいるようなあの黒騎士の瞳に見詰められてしまうと、逃げ出しそうになる足が勝手に止まってしまうのだ。
 立ち止まって、せめて自分ぐらいは踏み止まって、どんどん闇に堕ちていきそうなあの漆黒の騎士の腕を、確りと掴んでいてやらなければ…そんな思いが、光太郎の怯みそうになる膝を奮い立たせていた。
 どうすることも出来ない、侭ならない思いに溜め息を吐いたその時だった。

『光太郎!おい、ここに居るのか!?』

「バッシュ!?」

 聞き慣れた声にハッと顔を上げた少年は、転がるようにしてベッドから降りると慌てて重厚な扉が口を閉ざす、この部屋の唯一の出入り口に走り寄っていた。

「バッシュだろ!?ここにいるよ!」

 慌ててドンドンッと両手で扉を叩くと、向こう側からケルトの声が「やっぱりここだった!」と、ちょっと嬉しそうに響いている。

「ケルトも居るのか?よかった、みんな無事だったんだね」

 別にあの黒騎士が何かすると言うわけではなかったのだが、それでも元気そうな皆の声を聞けば、光太郎はホッと息を吐いてしまう。

「ここだよ、ホラやっぱり!早く早く、早く開けてあげてくださいッ」

「んも~、判ってるよ。そんな、せっつかないで欲しいね」

 プリプリしたようなアリスの声も聞こえて、一緒に彼も来てくれたのかとホッとしたのも束の間、ハタと彼と致してしまった性行為を思い出した光太郎は顔を真っ赤にしてしまった。

『だー!!ゴチャゴチャうるせーなッ。叩き壊せばいーだろーがッッ』

「あん!もう、ちょっと短気すぎッ。魔物は引っ込んでてよね!」

『なんだと、この人間が!!』

「もーう!!光太郎さんが待ってるんだから早くしてよーッッ」

 ギャアギャアと扉の外で言い合うアリスとバッシュと、それらの仲裁をきっとビクビクしてるに違いないと言うのに、一番幼いケルトがしているのだから、光太郎は思わず苦笑してしまった。
 待っててくれる人がいる…その思いが、じんわりと胸の奥に広がって、光太郎は自分と彼らを隔てている扉にソッと手を当てると、幸せそうに笑って瞼を閉じた。
 きっと、バッシュが『待っていてくれる人がいると勇気付けられる』って言うのは、こう言うことなのだろうと、今更ながら思っていた。

「もう!ホントに煩い連中なんだからッッ…っと、ホラ、黙ってても鍵なんだから開くに決まってるじゃない」

 不貞腐れたアリスの言葉に被さるようにして、重々しい扉から軽快に響くカチャリッと鍵の開く音に、光太郎がホッとするのも束の間、乱暴に開いた先から飛び込んで来た小さな身体と鱗と甲冑に覆われた大きな身体に人間の少年は埋もれてしまっていた。

『光太郎~、良かった俺、お前が黒騎士に喰われたんじゃないかって心配で心配で!』

「ずっと捜していました!ボク、ボク…ぅえーん」

 ギュウギュウと抱き締められて呆気に取られていた光太郎は、それでも自分の身を何よりも、ましてや我が身よりも心配してくれているバッシュやケルトの優しさにじんわりと嬉しさがこみ上げて、そんな長時間離れていたわけでもないのにもう随分と長いこと、彼らに会っていなかったような気がして大きな背中と小さな背中に両腕を回して静かに瞼を閉じていた。

「ありがとう、心配かけてごめん」

 抱き付かれた勢いで思い切り床に尻餅をついてしまった格好で抱き締めている光太郎を、オンオンと泣いている蜥蜴の親分と蜂蜜色の髪を持つ小さな少年の後ろから腕を組んで呆れた顔をするアリスが肩を竦めて見せるのだ。

「大袈裟なんだから~。でもね、こーゆうこと見付かったら、たぶんきっと処刑だね」

「ええ!?」

 アリスにも御礼をしようと顔を上げた光太郎は、その物騒な台詞にギョッと目を見開いて信じられないとでも言うように首を左右に振って見せた。

「冗談でも脅しでもないよ~。そんなの面倒臭いし?僕が言うワケないでしょ。あの黒騎士って言うのは沈黙の主さまの右腕、つまり戦場で皆殺しのナントカって言われてるぐらい怖いひとなの。そのお気に入りを脱走させちゃうんだもん、バッシュもケルトも、モチロン僕だって処刑ぐらいされると思うけど?」

「ま、マジで!?」

「マジマジ、大マジ♪」

 キャハッと笑うアリスに、殺されそうなのに何がそんなに楽しいんだよ!?と、光太郎がアワアワと面食らいながら蒼褪めていると、双眸を真っ赤にしたままで上半身を起こしたバッシュがガオッと吼えるようにしてそんな光太郎に食って掛かったのだ。

『殺されることなんか怖くねぇよ!!俺は、光太郎を助けるって決めたんだからなッ』

「ぼ、ボクも!こんなところで一生を終えるのなら、光太郎さんのお役に立ちたかったんですッッ」

 ケルトまでもが小さな身体を起こしてポロポロと水晶のような涙をマシュマロのように柔らかそうな頬に零しながら、光太郎の身を案じて恐怖を乗り越えてここに来たのだと訴えるのだ。
 驚きと嬉しさと不安の綯い交ぜした複雑な表情で眉を顰める光太郎に、アリスは呆れを通り越して「感動的じゃない」と悪態を吐きながらも肩を竦めて苦笑した。そんな彼でさえ、無謀を冒して彼らに加担しているのだから、その口調とは裏腹の優しさが垣間見えてしまうのは仕方がないことだ。

「…バッシュ、ケルト、それからアリスも。こんな俺の為にありがとう」

 掛け値なしで呟くように礼を言う光太郎のその素直な謝辞に、どこかこそばゆいような表情をする魔物と幼い少年がはにかむ背後で、仏頂面で唇を尖らせるアリスがフンッと外方向いてしまう。その耳元が、雪白の頬と同じぐらい真っ赤に染まっていることに気付かない、それほど無神経ではない光太郎は有り難さと嬉しさに思わず泣いてしまいそうになっていた。

『…さて、これからどうするかな?』

 漸く本当に光太郎が無事なのだと理解したバッシュが、本来の魔族の大隊長としての顔を覗かせて立ち上がると、その腕に支えられるようにして同じように立ち上がった光太郎は深刻な表情をして頷いた。

「ここに、沈黙の主が来てるみたいだから…懸念してたような、南の砦への攻撃はまだ始まっていないんじゃないかな?」

「ご名答」

 アリスが思わずと言ったように口笛を吹いてから、この何の取り得もなさそうなただの少年の思わぬ洞察力に感服しながらも、アリスも綺麗に整った眉を顰めて可憐な唇を尖らせた。

「わざわざあの黒騎士まで引き連れてだから…光太郎のこと、結構気にしてたみたいだね~」

「え?…何故だろ??」

 思わずドキッとしたようにアリスを見ると、彼は肩を竦めながら首を左右に振って返した。

「知らないよ。セス様も詳しいことはたとえ閨でも漏らしてくれないしさぁ…どちらにしても、ここにずっといるってのも拙いんじゃない?」

『だな。ついさっき、酷い剣幕であの不気味な暗黒騎士が出て行ったばっかりだが、いつ戻ってくるか判らないし…取り敢えず、あのふざけた後宮とやらに一旦戻らないか?』

「うん、賛成」

「俺もだ」

「ボ、ボクも!」

 話を聞いているだけでなんの案も出せずにオロオロしていたケルトが賛同すると、アリスは呆れたように軽く溜め息を吐くし、いつからそんなに仲良くなったのか、バッシュは蜂蜜色の髪に鱗に覆われた掌を置いて無表情で乱暴に掻き回すし、そんな姿を見詰めながら光太郎は、嬉しくてクスクスと笑っていた。
 こうして、難攻不落…と言うワケでもない黒騎士ユリウスの部屋からの大脱走劇は、そのままこの砦の今の主であるセスが後宮と呼ぶ砦の中心に位置する部屋へと持ち越されることになったのだ。

Ψ

 深い森の中を、馬の足で3日は掛かる第二の砦へ赴く行程を、シンナは野兎のような敏捷さで只管走っていた。時折、深い森の古木に凭れては、顎を伝う汗を片手で乱暴に拭いながら、その空を閉じ込めたような透明な瞳で前方を、行く手にあるはずの第二の砦を睨みつけていた。
 光太郎は、自分は白兵戦に向いているから行ってもいいかと聞いたとき、あんな戦場の最中で、聞けば戦すら知らない平和な世界から来た少年は、ほんの一瞬、寂しそうによく晴れた夜空のような双眸を揺らめかせただけで、それでも力強く頷いてくれた。

「気をつけて」

 と、戦場に躍り出るシンナに彼は言った。
 誰も、家族ですら特出した能力のあるシンナを疎ましく思い、満月の夜に闇の国の深い森に幼い子供を捨てたのだ。その時ですら誰も、「気をつけて」などと、その身を案じる言葉など与えてはくれなかった。
 母ですら、何かおぞましいものでも見るような目付きで、早く低級魔物に喰われてしまえばいいと呪ったぐらいなのに…あの少年は。

(光太郎はあたしに笑い掛けてくれたン)

 ハァハァと荒く肩で息をしながら古木に片手を付いて咽喉元を押さえるシンナは、ふと、雑草の茂る足許に目線を落とした。
 小さな花が、まるでその頼りなげな存在を精一杯主張しようとでも言うように、草の中に埋まるようにして健気に咲いていた。
 薄紅の小さな花は、押し合い圧し合いの雑草の中でその存在すらも消えてしまいそうなほど頼りなかったが、それでも懸命に生きている。私を見てね、と、咲き誇っている。
 誰の為でもないこの人生が、もしかして、自分が思うほどに必要があるのだとしたら、それはきっと光太郎が生きて一緒に過ごす時間の中にこそ光り輝くんじゃないだろうか。
 シンナは風に揺れる可憐な花を見下ろして、一瞬だが、その強さが光太郎に重なったような気がした。

「花を見て、光太郎と思うなんてどうかしてるわン」

 花を見下ろしたままでクスッと笑うと、思い直したように双眸を閉じて考えていた。

(そうよン。この命が誰の役にも立たないものだったとしても、光太郎は、光太郎だけはきちんとあたしの存在を見詰めていてくれるン。そう思えるから、あたしは生きていけるン)

 ああ、だから。
 ふと、シンナは俯いたままで可憐な花を見下ろして思う。

(あたしはこんなにも光太郎を、【魔王の贄】にしたくないと思っていたのねン)

 誰でもない、あのゼィですら理解できない深い闇の発端を、どこか遠くの世界から無理矢理連れて来られてしまったあの少年は、容易く見出してしまった。そのことを、恐らく光太郎自身は気付いてもいないのだろうが、彼の言葉がどれほどシンナを救ったか。

「俺はここにいるから。だからきっと、独りぼっちだなんて思わないでね」

 他の誰かが言えば、いや、言ってくれる人など誰もいないのに…だからこそシンナにとって光太郎が掛け値なしの優しさでくれたその言葉は、唯一無二の宝物となっていた。

(何れ、きっと気付くわン。ゼィも魔王様も…そして、シュー。あなたもン)

 手離せない心の拠り所は、あの血臭と砂埃の舞う戦場で、驚くほどあっさりと消えてしまった。
 それも、全て自分の不注意で。
 このまま助けに行って、もし、最悪の事態が起こっていたとしたら…城では魔王が真の力を取り戻し世界をますます暗黒の世界へと導いてくださるに違いない。
 でも、じゃあ自分は?
 他の誰でもない、「気をつけて」と「ここにいるから、どうか独りぼっちだと思わないで」と言ってくれた、あの優しい少年を亡くしてしまった自分は?
 考えるだけで何か判らない、凄まじい熱さがカッと頭に昇ってきた。
 目の前が一瞬、真っ赤に染まったような気がしてギリギリとシンナは歯軋りしていた。

「ねぇ、光太郎ン。あなたが死んでしまったら、あたし、独りぼっちじゃないン」

 古木にギリギリと爪を立てながらシンナは、まるで心を何処かに置き忘れてきた人のように惚けた顔をして、そのくせ、その双眸だけは真っ赤にギラギラと鈍い光を放って激しい殺意を滴らせている。
 助けなきゃ…シンナはまるで何かに憑かれたように幾度となくその言葉を復唱しては、華奢な身体には似合わない咆哮を上げて走り出した。
 振り返りなどしない。
 ただ只管前を見詰めて。
 必ず魔城に、そして自分たちの許に、あの優しい光を取り戻さなくては。
 シンナは思っていた。
 人間にくれてやるわけにはいかないのだと。

Ψ

 ユリウスの部屋から大脱出に成功した光太郎一行は、取り敢えず、ケルトに与えられた小さな部屋で身体を寄せ合って作戦会議なるものをしていた。

「せっかく敵陣の真っ只中にいるんだから、逃げ出すことばかり考えてるのは良くないと思うんだよね」

 光太郎が尤もそうにそう言うと、バッシュが呆れたように蜥蜴顔を顰めている。

『逃げること以外に何かしようなんて思ってるとな、また捕まっちまうんだぜ』

「それは判るけど」

 間髪入れずに指摘されてしまえば、光太郎は敢え無くしょんぼりする他に術はない。
 とは言え、その場にいるのが光太郎とバッシュだけだったならばそのまま逃げ出す方向で話は進んでいたに違いないだろうが、ここにはケルトもいれば、何より面白いことには目のないアリスまでいるのだ。

「えー、でもぉ。光太郎の言うとおりだと思うけどなぁ。せっかくなんだし、沈黙の主さまがいらっしゃってるんだから内偵してみたらぁ??」

『お前なぁ、他人事だと思って茶化してんじゃねぇぞ!』

「おっかなーい!他人事ではあるけど、ただ単に興味本位だけで自分の地位を脅かしてまでお手伝いしようなんて思わないよーだ」

 べーッと舌を出して思い切りあっかんべーをするアリスに、無表情にしか見えない蜥蜴の親玉は頬を引き攣らせながらそれでも、どうやら笑っているようだ。
 その顔がかなり怖かったのか、ケルトが蒼褪めたままで言葉をなくしている。

「あー!もう、喧嘩するなって。取り敢えず、結論から言ってもやっぱり少しは敵情も探る必要があると思うんだよ。どこかにきっと綻びとかあると思うから、そこから逃げ出せるんじゃないかな」

「光太郎の方が絶対!バッシュより!頭いいよね~♪」

『うるせー、人間が!』

「魔物に凄まれたって怖くないもーん」

 どんなに言っても反りが合わないのか、歯軋りするバッシュとツーンッと外方向いているアリスは互いにいがみ合いながらも、それでも結局は光太郎の提案に乗っかる形となるのだった。

「沈黙の主さまたちがいるのは、たぶんこの砦でその昔、外交に使われていた謁見の間だと思うんだよねぇ」

 どこを偵察に行くかで議論となって、結局、この砦では一番古参のアリスが提案を出した。

「少人数ですから第三の間も考えられませんか?」

「あ、それも有り得るかも~。セス様って陰険だから、規定通りのことしたがらないもんね」

 あれほど嫌がらせばかりしていたアリスが、ケルトに対して極々自然に接している姿を見て、光太郎は自分がいなかった僅かの間に一体何が起こったんだろうと首を傾げてしまう。そう思ってしまえるほど、アリスはケルトに優しいし、ケルトはバッシュに懐いてて、バッシュは相変わらずアリスといがみ合うがケルトのことは気に入っているように見えるのだ。
 だが、どちらにしても光太郎にとってはアリスとバッシュのことを抜きにして言えば、とても理想的な関係図が出来上がっているような気がしてホッとしていた。

「ん~…じゃあさ、こうしよう。二手に分かれるんだよ」

 腕を組んでムーッと悩んでいた光太郎は、ポンッと右拳を左掌に打ちつけながら頷いて見せた。

『…俺は光太郎と行くからな。絶対行くからな。何が何でも行くからな。嫌だって言っても行くからな』

 思った以上の押しの強さで光太郎に抱き付いたバッシュは、同じ砦内にいながら黒騎士に掻っ攫われてしまったあの時のことを思い出して身震いすると、絶対に離れないぞとでも言うようにギューッと抱き締める腕に力を込めて言い募る。

「く、くるし…よ、ちょ、バッシュ、わかた」

 なぜかカタコトになりながらその大きな背中を軽く叩いてギブアップする光太郎を、信じられないとでも言うように首を左右に振って『もう離れないんだからなー!!』と泣き出しそうなバッシュに、アリスが呆れたように肩を竦めながら溜め息を吐いた。

「んもう、図体でかいくせに子供なんだから…って、ん?」

 ふと、呆れていたアリスが傍らを見ると、零れそうな大きな瞳の愛らしいケルトまでがその双眸にいっぱいに涙を溜めて、今にも泣きだしそうにえぐえぐと嗚咽を噛み殺しているようだ。

「え?え?なに??ケルトまで一緒に行くとか言いだ…ッ」

「ボクも!ボクも光太郎さんのお供をしたいです!」

 同じく光太郎のその身体にガバッと抱きついてこちらは本気で泣いているケルトに、アリスは一瞬言葉をなくし、それから憤りを抑えようとでもするかのようにハァァァッと溜め息を吐いて、それから困惑したようにあわあわしている光太郎に向かって陽気にニコッと笑うのだ。

「僕も光太郎くんのお供がしたいな♪」

「…って、ちょ!それじゃ二手に分かれられないじゃないかぁ!」

 慌てて光太郎が抱きつく魔物と幼い少年に成すがままにされながら思わずと言った感じで叫んでしまうと、アリスはシレッとした顔をして小指で耳など掃除している。

「えー、仕方ないじゃーん!じゃぁ、僕一人でどっちか一方に行こうか??」

「それはダメだよ!…あう~、もう仕方ないなぁ。じゃあ、みんなで行こう」

 仕方なさそうに決断する光太郎の情けなさそうな顔を覗き込みながら、アリスが呆れたように鼻先で笑った。

「最初からそうしておくべきだったと僕は思っていたよ」

「後先の忠告ありがとう」

 フフーンッと笑うだけで、ぎゅうぎゅうと抱きついてくるバッシュとケルトから救ってくれると言う気持ちはなさそうなアリスに、ちょっと意地悪な気持ちになった光太郎がそう言ってシニカルに笑うと、少女のような面立ちの少年はちょっとポカンとして面食らった顔をするのだった。
 当初の提案通りになったとは言え、幾分か効率の悪い方向で決定した隠密行動はこうして実行される運びとなった。
 夜はまだ、これからである。

第二部 5.夜に啼く漆黒の鳥  -永遠の闇の国の物語-

「趣味悪ぅ~、僕を呼んだのは自分のセックスシーンを見せるため?」

 こんな何もないはずの砦の部屋には珍しく、趣味の良い女神像の影から姿を現したアリスは呆れたように腕を組んで溜め息を吐いた。

「ククク…可愛いアリスちゃんに楽しんでもらいたいのさ」

「バカばっかり」

 ツンッと外方向くアリスに向かって、淫らに腰を蠢かしてメイド姿の光太郎を鳴かせるセスは、咽喉の奥で小気味良さそうに笑っている。
 敏感になっている襞の部分を撫で擦られて、悲鳴のような声を上げながら光太郎は、背後に立っているのだろうアリスの視線を感じて全身を真っ赤にしていた。

「い、…嫌だ!…んぁッ…リス、見るなよぉ!」

 嫌々するようにサラサラの絹糸のような黒髪のウィッグを揺らして、身じろぐ様は可憐で淫らで、だからこそ内壁の蠢きに気を良くしたセスは華奢な腰を引き寄せると太い怒張で敏感な内壁をグリグリと擦って更に光太郎を鳴かせるのだ。

「…で?僕は何をしたらいいの、セス様。このまま見てればいいの?それとも、自慰でもしてよっか??」

 どうでも良さそうに溜め息をつきながら組んでいた腕を腰に当てて、悪趣味な当主を困ったように眉を顰めて見つめている。

「ここに挿れろ」

「…!」

 瞬間、セスの長大な陰茎を含まされて、先走りがとろとろと零れる後孔の襞を捲るようにして太い指先で穿たれると、光太郎の背中がビクンッと波打って、まるで信じられないものでも見るような目付きで自分を支配している男を睨み付けた。

「じょ、冗談!ムリに…ん!…決まって…ぁ」

「アリス、挿れるんだ」

 グイッと、光太郎の必死の訴えなどまるで無視して、自らの股間部を跨いで上半身を倒しているメイドの秘部を、これでもかと言うほど捲り上げると、彼は絹を裂くような悲鳴を上げた。

「裂けちゃうじゃない」

 恐らく、待ち受けているだろう凄惨な場面など目にしたくもないアリスは、まだ始まってもいないのに噎せ返る血の匂いを感じたような気がして長い睫毛に縁取られた瞼を閉じた。

「何を言ってるんだ、アリス?コイツのケツが使い物にならなくなったからってどうなるって言うんだ。いいから、早く来い。俺は、お前を抱きたいんだ」

 荒く息を吐き出しながらニヤッと嗤うセスは、必死に抵抗して嫌がる光太郎の双丘をもみしだくようにして内部で凶悪に蠢いている自らの陰茎で突き上げた。その行為に前立腺を刺激された光太郎は、唇の端から蝋燭の明かりに煌く唾液を零しながら悦楽に身震いする。

「何を躊躇ってるんだ、アリス。見ろよ…ッ、コイツは男に抱かれて喜んでるんだ。遠慮なんかしてやるな」

「…僕を2人で犯せばいいじゃない」

 そう、セスの長大な陰茎だけで翻弄されているような光太郎だ、アリスまでその身体に受け入れてしまえば流石の光太郎でもぶっ倒れてしまうに違いない。
 その点、ふと、アリスは趣味の悪いセスを軽く睨み付けた。
 アリスは散々、セスや兵士たちの手によって酷いことをされ続けてきた。だからこそ、今ではなんでも受け入れることができるようになっているのだ。
 経験の浅い光太郎では到底無理だろう。

「お前を?そんな勿体無いことできるかよ。遊ぶには丁度いい…クッ!そんなに締め付けるなよ。ククク…玩具があるんだぜ?来いよ、アリス。すぐだ」

 無理だと知っているから、セスはわざと腰をグラインドさせながら自分を誘うんだろう。
 溜め息を吐いて、アリスは音もなく近づくと、主人とメイド姿の少年が睦みあうベッドを軋らせた。

「や、…嫌だ、…そんな、アリ…ッ!…ひぃ」

 必死に抵抗して、その顔には快楽と恐怖がベットリと張り付いていて、それでなくても嗜虐心を思い切り刺激すると言うのに…光太郎は馬鹿な子だとアリスは唇を噛んだ。

「…凄く痛いけど、我慢せずに声を出した方が楽だよ」

「?…ぅあ!?…ッア…ぃ…ひぃあぁぁぁッ!!」

 ゆっくりとその華奢な背中に伸し掛かるようにしながら呟くアリスに、一瞬、怪訝そうに視線を向けた光太郎は、それでなくてもめいいっぱい開かされて悲鳴を上げている後孔に、さらに指よりも太い陰茎を挿入されてこれ以上はないぐらい双眸を見開くと、夜のしじまを切り裂くような絶叫を上げて激痛に硬直してしまう。

「ひ…ぃ…ぅく、…ィ~~~ッ」

 その後はもう声もなくて、先走りを撒き散らしながら2本の雄が鬩ぎあう後孔の痛みは半端じゃなくて、今まで味わった苦痛の中でも群を抜いて光太郎を苦しめた。

「…ゃ、ア…ン。いい…もち、い…ッ」

 光太郎の身体を慮ればそれほど動きたくないのに、教え込まれた身体は驚くほど快楽に弱くて、モジモジと腰を揺するようにして、狭くて滑る内壁に、何よりも太くてゴツゴツした陰茎に擦り寄るとアリスは雪白の頬に朱を散らして悦んだ。

「ククク…そうだぜ、アリス。快楽を味わうんだ」

 光太郎を犯しながら快楽に頬を染めて没頭してしまう人形のようなアリスの顎を捉えると、セスは瑞々しい果物のようなアリスの口唇に唇を重ねるて、ねっとりとした舌を挿し込んで口中を思う様味わった。
 その口付けにも素直に従いながら欲望に忠実に従うアリスの可愛い仕種に満足して、その時になって漸く、セスは息も絶え絶えと言ったように、快楽さえ追えないでいる虫の息の光太郎に気付いてニヤリと嗤うのだ。

(そうだ、主が来る前に気絶でもするんだな。死にはしないんだ、気軽に意識を失っとけ。お前に目覚められてちゃ迷惑なんだよ…あのお方がもう少し早く連絡さえ寄越してりゃ、主に報せたりしなかったんだがなぁ)

 忌々しそうに舌打ちしたセスは、額にビッシリと嫌な汗を浮かべてぐったりしている光太郎の腰を掴むと、まるで腸壁を突き破ろうとでもするかのような激しさで責め立てた。

「ヒ…っ、ふ…ひ、あ…アア…ッ」

 思い出したように小さな声が上がるだけで、力も失くしてぐったりした身体はセスとアリスに犯されても力なく揺れるだけで、抵抗らしい抵抗もしてこない。だが、後孔だけは意識あるように痛みに窄まろうとしては、その瞬間を突き立てられて収斂を繰り返す。その行為がセスたちを悦ばせているなどと言うことには、もちろん意識も覚束なくなっている光太郎に気付けるはずもない。血液と精液を零す後孔を激しく蹂躙される感触に力なく悲鳴を上げるしかなかった。

(まあ、俺は楽しめるからいいんだがな)

 クククッと咽喉の奥で嗤っていると、可憐に打ち震える夢のように綺麗なアリスが、身体の下で息も絶え絶えにセスに凭れている光太郎を激しく犯しながら甘えるように、強請るように口付けをせがんで擦り寄ってくる。

「ん…んぁ、セス様…アン!…んん」

「アリス…もっとだ、アリス」

 光太郎の身体を挟むようにして、二匹の雄が互いの口唇を貪りながら甘い吐息を漏らしている。
 突き立てながらイッてしまうアリスの腰がふるふると快楽に震えて、白濁がぐぷっ…と粘着質な音を立てて零れても、それでもセスは許そうとはせずに更に深くアリスの腰を引き寄せて光太郎の後孔を貫かせた。

(も…い、やだ。…やめ…ッッ)

 声にならない悲鳴を上げる光太郎になど微塵の憐憫も見せずに、セスは愛妾の腰を抱くようにして、まるで彼を犯しているような甘美な快楽に溺れながら、いつ果てるともなく光太郎を犯し続けるのだった。

Ψ

「これが、風変わりな人間か?」

 夜半過ぎに、予定よりも早く到着した沈黙の主は目深に被った漆黒のフードはそのままに、ベッドで力なく横たわるメイド姿の少年を見下ろしていた。
 ぐったりとした顔には血の気がなく、何よりも、紺色のスカートの裾から伸びた華奢な足には、なぜか血液と精液がこびり付いている。

「ハ!折角ご足労を願ったのですが、主よ。どうも、私の誤認だったようで…」

 セスが、彼にしては珍しく恐縮したように頭を垂れている。
 感情の読み取れない無表情で意識をなくした光太郎を見下ろしていた沈黙の主は、傍らで恐縮しているセスをチラリと見遣ると、ヤレヤレと溜め息を吐いたのだ。

「単なる男好きの小僧でして…魔物と共にあるなどと言って我らを謀ったようでございます」

 セスが口から出任せの言い訳を試みると、主はどうでも良さそうに片手を上げて黙らせた。

「言い訳はいい、セス。どうも、無駄足だったようだな。戻るぞ」

 そう言ってさっさと部屋から出て行こうとする主の背中をニヤリと北叟笑んだセスが見送る傍ら、ふと、彼はベッドサイドに立っている鉄仮面の男に気付いて眉を寄せるのだ。

「…ディア」

 ふと、その仮面の向こうから呟かれた不明瞭な言葉を聞き取ることはできなかったが、彼が熱心に光太郎を見詰めていることに気付いて一抹の不安を覚える。

「ユリウス殿、何か…?」

 セスの問い掛けもまるで無視して、この不気味な鉄仮面の男は暗い仮面の向こうから光る双眸でただただ、淡々と光太郎を見下ろしているのだ。

「ユリウス!戻るぞ…何をしている?」

 一旦は部屋を出た沈黙の主は、いつも影のように寄り添っている片腕の不在に気付いたのか、戻ってくるなり突っ立っている忠実な部下を見つけて訝しそうに眉を寄せた。その声で漸くハッと我に返った鉄仮面の男は、胡散臭そうな目付きをしている主に気付いて居住まいを正した。
 取り繕う、などと言うことは一切しなかったが、それでも、鉄化面の男ユリウスは尊い沈黙の主に片膝を付く騎士の最敬礼をして、そのフードの奥に隠れた相貌を見上げると低い声音で言うのだ。

「主よ。必要ないのであればこの少年、私が貰い受けても宜しいでしょうか?」

(なんだと!?)

 表情にこそ出さなかったが、セスはギョッとしたようにユリウスを盗み見た。
 どこをどう見て光太郎の今の姿が、この朴念仁のような男の心を動かしたと言うのだ。
 散々犯されて穢された少年は、心身ともに傷付き疲れ果てたように眠っている。
 セスのユリウスに対する認識は、孤高で気高いと言うものだった。
 何処かの貴族の出身だと言う噂があるにも拘らず、そんな噂はどこ吹く風で、寡黙にして主以外の何者も目に入らないと言った風情の彼は、心底から国の復興だけを望んでいるのではないかと実しやかに囁かれていた。
 セスのように野蛮な男にしてみたら、どこか鼻をつく存在になりうるはずなのだが、どう言ったわけかセスはユリウスにだけは関わり合いたくないと思っている。
 いや寧ろ、恐らくセスにしてみたら一生認めはしないだろうが、彼はユリウスの存在に怯えていたのだ。
 不気味な鉄仮面に隠された素顔は主すらも見たことがないのではと言われていて、音もなく近付き、そして戦場にあれば凄まじい殺気に魔物どもは蹴散らされてしまう。
 皆殺し…の言葉がとてもよく似合う、不気味な黒甲冑の騎士なのだ。

(性欲なんざ、ねーんじゃねぇかと思っていたんだがなぁ…)

 思わぬ誤算にセスは内心で舌打ちしていたが、何よりも、国の頂点に立つ男が恐らくそれを拒絶するだろうと高を括っていた。

「…お前が何かに興味を示すとは珍しいな。だが、コレはもう使い物にはならんだろう。よく似た者を用意してやるぞ」

 沈黙の主がこの黒甲冑の男を大事にしていると言うあの噂は、強ち嘘でもなかったようだなと、目の前で繰り広げられる絶対的な信頼を寄せる主従関係をセスは冷ややかな眼差しでコソリと観察していた。

「いえ、主。私はこれが欲しい」

 そう呟いて、片膝を付いている黒甲冑の鉄仮面の騎士は、ふと肩越しにベッドでぐったりと横たわっている光太郎を見ているようだ。
 その熱心さに面食らったような沈黙の主は、ゆったりと腕を組むと高圧的な眼差しをしてふざけたメイド姿の少年を見下ろした。

「ふん、よかろう。身体の相性もあるだろうから今夜はここに泊まることにしよう。セス、用意をしておけ。明日の朝早く発つからな」

「あ、ハハッ!」

 その言葉を聞いて、セスはますます渋い顔になる。
 案の定、沈黙の主は穢されて投げ捨てられたような少年には一切興味を示すことはなかった。そこまではセスの思惑通りだったと言うのに…よりによって何故、影のように寄り添っているだけであるはずの主に忠実な騎士が興味を示すのだ。
 ギリッと、奥歯を噛んで盗み見た不気味な鉄仮面の騎士ユリウスは、主の言っていることをいまいち理解していなかったのか、訝しそうに首を傾げている。
 沈黙の主はそれだけを言うと、呆れたように肩を竦めてセスの部屋から出ると大広間まで堂々とした足取りで戻って行った。

「…ユリウス殿」

 希望した少年を手に入れた寡黙な鉄仮面の騎士がどの様な表情をしているのか窺い知ることは出来ないが、またしてもベッドサイドに突っ立ってウィッグの長い黒髪を持ち上げてジッと見下ろしている。その漆黒の外套を纏った背にセスが声を掛けると、彼は振り返りもせずに短く「なんだ?」と気のない返事を返してきた。
 その態度は下級の部下に対するものなのだから致し方ないことではあるが、まんまと獲物を掻っ攫われてしまったセスとしては面白くない。

「その小僧は男に抱かれることを何よりの悦びだと思っている淫乱です。どうぞ、毎夜激しく抱いてやってください」

「…それは真か?」

 はい、と軽く答えて肩を竦めたセスは、人の悪い笑みをニヤリと浮かべて顎をしゃくるようにして光太郎を指し示した。

「今日も、主がご来臨されると言っているのにこの様ですよ。恐らく、主が仰ったのは今夜、貴殿が彼を抱かれると思われたのでしょう」

「…」

 ユリウスは何を考えているのか、その思考を仮面の裏側に隠したままでムッツリと黙り込んでしまった。

(ふん、やはりお綺麗な騎士殿は薄汚れた小僧などに興味はないんだろうよ。おおかた、物珍しさで言ってみたんだろう)

 セスはニヤニヤと笑いながら、これからユリウスが「やはり、これはいらない」と言い出すのを、親切にゆっくりと待ってやることにしたようだ。

「ソイツは魔物とも寝るような奴ですぜ。確か、バッシュとか言う…ああ、魔族の大隊長の地位にある魔物ですかね。暴れていたので今は地下牢にいますが…ヤツがいないと夜も眠れないそうなんで、ソイツを引き取ってくださるのなら、あの魔物もお連れ下さい」

 矢継ぎ早の駄目押しを言って、さてどう出るかな、この戦好きの不気味な黒騎士はと、セスは半ば面白半分で様子を窺っていた。

「…なるほど。貴様が主に報告したのは強ち嘘でもないと言うことか」

「と、仰ると?」

 セスが内心でフンッと鼻先で笑うと、ユリウスは弄んでいる漆黒の黒髪をそのままに、どうやらニヤリと笑ったようだった。

「大隊長が可愛がっている小僧か…なるほど。だが、まあいい。ところで、セス」

「なんでしょう?」

 少年の黒髪のウィッグから手を離したユリウスは、その時になって漸く、彼はセスに振り返ったのだ。

「この衣装は必要ない。彼が普段着ている服装に戻して、部屋に連れてくるように」

「…ハッ」

 内心でチッと舌打ちしたセスの気持ちを、まるで見透かしたように腕を組んだ黒騎士は、仮面の向こうから意味ありげに嗤うのだ。

「案ずるな。そのバッシュとやらも、オレが連れて行ってやる」

「…!」

 不意にハッと顔を上げるセスに、ユリウスは仮面の奥の双眸を一瞬キラリと光らせて、口許にどうやら皮肉気な笑みを浮かべているのだろう、そう言い残してサッサと部屋を後にした。
 その後ろ姿を言葉もなく呆気に取られて見送っていたセスは、唐突に我に返ると、途端にムカついたようだった。

「なんだ、アイツは。とんだ猫被りじゃねーか!」

 畜生!と吐き捨てて、セスがキャビネットを蹴り上げる頃、完全に意識を失っている光太郎は辛そうな溜め息を零していた。

Ψ

 散々痛めつけられた身体は、それでも慣れてきたのか、随分と回復は早くなってきたようだ。
 セスが沈黙の主やユリウスの相手をしている間に幾らか回復していたのか、寝かされていたベッドの上でふと意識を取り戻した。
 ぼんやりする意識を必死で覚醒させながら、光太郎は背筋を貫くようにして脳天を直撃する痛みに一瞬息を呑んでから、恐る恐る身体を起こそうとしてギョッとした。
 てっきり、セスの部屋にいると思い込んでいたのだ。
 なのに、今見渡した部屋は彼の部屋よりも幾分か豪華だったし、何よりも、目の前に無言で突っ立っている黒甲冑を着た不気味な騎士を見ればギョッとしても仕方がないだろう。
 怯え…というよりも寧ろ、そのあまりにもあからさまに怪しげな格好に吃驚して声を出せないでいる、漸く上半身を起こした光太郎が目をパチクリさせていると、黒甲冑の男ユリウスはボンヤリでもしていたのか、ハッと気付いて目を覚ましている少年を見下ろした。

「目覚めたのか」

「…あんたは誰だ?」

 それでなくても衰えた体力ではダッシュで逃げ出すこともできず、光太郎は警戒しながら大きなベッドの上を後退ろうとして、ふと自分がいつもの服を着ていることに気付いた。

(あのふざけたメイド服じゃなくなってる!…よかった)

 ホッとしたのも束の間、ガチャッ…と鎧を鳴らして近付いてきた黒騎士にハッと気付いたときには、既に光太郎の顎は掴まれて上向かされている。
 意志の強さを秘めた良く晴れた夜空のような双眸を、どんな表情で見下ろしているのか、全ての感情を仮面の裏に隠してしまった男は無言で見下ろしていた。

「誰なんだよ!?やめろよ、俺に触るなッ…!」

 身体の自由が半分以上奪われている状態では凄んでみたところでお笑い種なのだが、それでも光太郎は嫌々するように首を左右に振ってユリウスの手を疎んだ。しかし、感情の読めない騎士は冷徹な力強さで持って少年の身体を慮ることもなく突き放した。

「ふん、矢張り気のせいだったな」

「…イテテッ。何が、何が気のせいなんだよ?って言うか、あんた、ホント誰なんだ??」

 ベッドの上に突き飛ばされるようにして倒れ込んだ光太郎は、それでなくても痛む身体を庇うようにして起こしながら、いったい今度は自分の身の上に何が起こったのかと苛々したように首を傾げている。この砦に来て初めて見る顔に、その時になって漸く光太郎がハッとしてポンッと左の掌に右拳を打ち付けた。

「そっか、あんたが沈黙の主なんだな!」

「…いや、オレは」

「あんたに話があるんだ!地下牢に閉じ込められている魔物を解放して欲しい。それが駄目なら、せめて綺麗なシーツとキチンとしたご飯を与えて欲しいんだッ」

 勝手に勘違いした光太郎は身体が悲鳴を上げるのも厭わずに、訝しげに立っているユリウスの胸元に縋るようにして掴み掛かりながら言ったのだ。

「魔城に囚われてる人間の兵士たちはちゃんと持て成されてるよ!そりゃあ、場所は地下牢なんだけど…でも!ちゃんと清潔なシーツと美味しいベノムのご飯と、綺麗な空気が入るように通風孔だってあるんだ。でも、ここの地下牢は最低だよ。魔物にだって感情はあるんだ。ほんの少しでもいいから、ちゃんとした場所で休ませて欲しいんだよ!」

 矢継ぎ早に言って懇願する光太郎を、黒騎士は無言で見下ろしていた。
 反応を示さない鉄仮面の騎士に、焦れた光太郎はどうして判ってくれないんだろうと困惑したように眉根を寄せて首を傾げてしまう。

「沈黙の主!俺は…ッ」

 そこまで言いかけて、光太郎は言葉を飲み込んだ。
 素早い仕種でユリウスに顎を掴まれて上向かされた先、鉄化面の向こう側から、まるで怒りを滴らせたような紅蓮の双眸が睨み据えていたからだ。

「魔物に…慈悲を与えろと?」

 腹の底から、いやまるで、地獄の底から搾り出したような低い声音で吐き捨てられて、彼の地雷原に足を踏み入れてしまったことに今更気付いた光太郎は、どうすることもできずにコクリと息を呑んだ。
 だが。

「そうだよ!慈悲とか、そんな偉そうなもんじゃなくていいんだ。ただ、ちょっとの優しさだよ。ほんのちょっとの、相手を思い遣る優しさなんだ。魔物にできるのに、どうして人間ができないんだよ!」

 それが悔しくて、同じ人間なのにどうして、魔物が持つあの泣きたくなるほど温かな優しさを持つことができないんだろう。
 光太郎はたとえここで殴られたとしても、それを訴え続けようと覚悟を決めていたのだ。

「…ふん。面白いことを言う小僧だな。己の立場と言うものを理解していないのか?」

「判るもんか!俺は俺だ、それ以上でもそれ以下でもない」

 強く顎を掴まれてその双眸を覗き込まれながらも光太郎は、負けるもんかと震え出しそうな両足を内心で叱咤して目線は逸らさない。
 その意志の強さに、ふと、ユリウスは何か面白いものでも見つけたような仕種をした。なぜならそれは、じっと覗き込んでいる、その紅蓮の双眸が一瞬細められたからだ。

「そうか、なるほど。セスの報告は矢張り間違いではなかったのだな」

「セス?」

「…貴様は、人間でありながら魔物を擁護する。その根底にあるものはなんだ?」

 なんだと聞かれても…難しいことが判るはずもなくて、光太郎は頭をフル回転させながらシックリくる言葉を探していた。その言葉を叩きつけてやって、晴れて魔物たちを解放してやるんだと意気込みながら。

「答えられないのか?所詮そんなものだ。情けなど自分の為にも、ましてや人の為にもならん」

 顎を掴んでいた手を離して息を吐いたユリウスは、仮面の奥から紅蓮の双眸で一瞬光太郎を睨んでから視線を逸らしてしまった。

「でも、情けのないヤツなんかクソ食らえだ!日本には人情って言葉があるんだぞ。あんたらには判らないだろうけどな!」

 フンッと、一方的で身勝手なことを言われてカチンときた光太郎はそう言い放つと、ベッドの上に胡坐を掻いて座りながら鉄化面の騎士を見上げた。

「どうして判ってくれないんだ!?魔物たちは、みんなちゃんと優しいのに。捕まえた人間たちを、ここにいる人間たちみたいに殺そうとしたり…その、ヘンなことしようとしたりはしなかったよ。それどころか、傷付いてる人たちの手当てまでしてたんだ!」

「煩い、小僧!」

「…ッ」

 ヒュッと咽喉が鳴って、光太郎は首を締め付けられながらベッドに押し倒されてしまった。

 突然、嵐のように襲ってきた漆黒の手甲に成す術もなく押し倒されて、それでもハッと我に返ると慌ててその手から逃げようと暴れるのだが、黒騎士の力は尋常じゃなく強かった。
 息苦しくなって顔を真っ赤にする光太郎を覗き込みながら、ユリウスはゆっくりと空いている方の手で自らの顔を覆っている仮面に手をかけたのだ。

「見るがいい。オレの顔に刻み込まれた魔物との長い確執の理由を」

「…ッぁ!」

 伸し掛かるようにしてベッドに押さえつけたままの光太郎の眼前で、ゆっくりと仮面を忌々しそうに剥ぎ取った黒騎士の素顔を見て、光太郎は言葉をなくしてしまった。
 その顔は、鮮やかな白髪に縁取られ憎しみに濡れたように光る紅蓮の双眸、高い鼻梁に酷薄そうな薄い唇…そして、その整った顔の右半分を舐めるようにして這う火傷の痕。
 唇も溶けたようにケロイド状になっていて、ともすれば目を背けたくなるほど酷い有様だった。

「この顔になってなお、このオレに魔物に優しくなれと言うのか?ふん、だが顔などどうでもいい。この傷がついたあの日、国が一夜にして滅亡する様をまざまざと見せ付けられたあの日…それをオレに忘れろとでも言うのか、貴様はッ」

 恐らく彼は、その火傷の痕から察するに、命辛々で生き延びたに違いない。
 そうしてその目で、燃え盛る自らが忠誠を誓う国が滅んでいく様を見せ付けられてしまったのか。
 顔から首に掛けて舐めるように這う火傷の痕は、そのまま身体にも延びているのだろう。
 光太郎は首を絞められて気が遠くなりながらも、鉛のように重くなる腕をノロノロと上げて、ビクッと肩を揺らす黒騎士の火傷を負った頬に、伸ばした掌をソッと当てていた。まだ、痛んでいるのかもしれないと躊躇するから、その手つきはとても優しかった。

「何をするんだ?」

 震えそうになる声を必死で冷静に保って、ユリウスは視線を逸らすこともしない見上げてくる漆黒の双眸を見詰め、それから居た堪れないように目線を伏せてしまった。
 それまでの怒りがまるで嘘のように引いて行くのは、誰もがその傷痕を見るとあからさまに嫌そうに顔を背けるか、哀れっぽい眼差しをしてから申し訳なさそうにソッと目線を逸らしていたと言うのに、光太郎は嫌がるどころか、まるで怯まずに一心に自分を見上げてくるのだ。
 少なからず、自分はこの顔に劣等感を持ってしまっていたのだなと、その時になってユリウスは認めたくはなかった心理を仕方なく受け入れて眉根を寄せた。

「…痛い?」

 訊ねられて、ユリウスは悔しそうに瞼を閉じた。

「今はもう、痛まん」

「そうか…でも、きっと。心は痛いんだよな?」

 ハッとしたように瞼を開くと、光太郎が今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 言葉にしてしまえばどれも嘘っぽく聞こえてしまう、でも、言葉に出さなければ伝わらない想いもある。
 心を伝える為に、だから、言葉はあるのだと言うのに、人間は言葉の遣い方を驚くほど簡単に間違えてしまう。
 間違えないように、そんなことあるはずがないように、光太郎は躊躇わずに思いを言葉にしていた。
 隠さなければいけない思いもあれば、口に出さなければいけない想いもある。そんな難しいことは判らなかったが、それでも、光太郎は今心にある思いは言葉にしようと思ったのだ。

「痛くて痛くて仕方ないよな?でも、あんたは大人だから。泣くこともできないから、余計に苦しくて痛いんだよな」

 ふと呟いた光太郎の顔をマジマジと覗き込んで、ユリウスは眉間に皺を寄せて鼻先が触れ合うほど顔を寄せて言い放つのだ。
 この忌まわしい顔を見て、そろそろ我慢も限界ではないのかと。

「何を綺麗ごとを。貴様、この顔を醜いと思っているんだろう」

「醜い…とか、よく判んないよ。そんなことよりも、痛そうで辛いよ。だって俺、痛いの嫌だからな」

 眉を寄せてムッと唇を突き出した光太郎は、ユリウスの頬に触れた掌はそのままに、どうしてこの分らず屋は判ってくれないんだろうと首を傾げている。いつの間にか首を絞めていたはずのユリウスの大きな掌も光太郎の頬を捉えていて、気付けば2人ともお互いの頬に触れ合って、まるでキスをする寸前の恋人同士のようではないか。
 そんなこと、気付けるはずもない2人だが。

「今はもう痛まん、と言っただろうが」

「そうは言うけど、痛そうだよ」

 心配そうに見上げてくる瞳は不安に揺れて、一瞬、ベッドで横たわっていたときに感じたあの感覚が、もしや誤りではなかったのかとユリウスは動揺して、そして思い出していた。
 優しかった、あの漆黒の瞳を…
 今目の前にいる少年は、ベッドで力なく倒れていた少女のような儚さは微塵も感じ取れない。それどころか、忘れかけていた心の在り処を暴き出しそうなほど真摯で純粋な、その強さが眩くて…ユリウスはもしやと、儚い希望を見出しそうになっている自分に驚いていた。

「痛みはしないさ、その証拠を見せてやろう…」

 そう言って、ふと、ユリウスはきょとんとしている光太郎の唇に、自らのケロイドで右半分が引き攣れている唇を押し当てた。嫌がって逃げればそれでもいいと思っていたが、光太郎は吃驚して双眸を見開くだけで、別に逃げ出そうとはしなかった。
 もう、この国に連れ去られてきてからと言うもの、男が男にキスをしたり抱き締めたりすることに妙なところで免疫ができてしまっていたのだ。
 軽い口付けは、やがて息が上がるぐらい深いものになったが、ユリウスがそれ以上の行
為に進もうとした段階で、漸く光太郎がむずがるようにして嫌がった。

「…なぜ、嫌がるんだ?お前は男が好きで、抱かれることが好きなんだろ?」

「ハァ!?なに、言ってんだよ!!?」

 きょとんっとして首を傾げるユリウスに、光太郎はガバッと身体を起こしながら黒騎士の胸倉を掴んでグイグイッと引っ張った。

「む、無理矢理、その、エッチなことはイロイロされたけど…でも!!男が好きだとか、その、エッチが好きだとかそんなことはだなッ!」

 そこまで言って、唐突にハッとする。
 そうだ、自分はシューが好きなんだと。それもやはり男好きになってしまうんだろうか?と、光太郎が蒼褪めて頭を抱える頃には、ユリウスはどうやらセスにハメられたかとムッとしたものの、胸倉を掴んだままで考え込んでいる物怖じしない、不思議な雰囲気を持った少年を見下ろしてフッと笑った。
 独特な雰囲気を、そうあるように漂わせていたユリウスに、唯一物怖じせずに触れ合ってきたのは後にも先にもこの少年ぐらいだろう。忌まわしいこの顔を見ても、怯むどころか痛々しそうに傷を気遣ってくる人間など…ましてや魔物にだって、在り得はしないのだ。
 沈黙の主でさえ、例外ではなかった。
 ユリウスはあの忌々しい日からもうずっと、仮面に傷も、そして心すら隠して生きてきたと言うのに…
 セスにまんまと騙されはしたが、手に入れた少年は世にも得がたいものだったかもしれないと、ユリウスはもう一度、信じることにしたようだった。

「男好きではないのか、そうか。では、今からオレを好きになれ」

「はぁ?」

 首を傾げる光太郎に、自分の素顔を見ても物怖じすらせず、痛みを分かち合うように辛い表情をした掛け値なしの優しさを、人の好意を信じることに臆病になっていた頑ななユリウスが受け入れようとしているのだ。その事実にもちろん気付けるはずもない光太郎は、何を言われたんだろうとポカンッとして首を傾げてしまった。
 その間抜け面を覗き込みながら、ユリウスはクスクスと笑って柔らかな口唇に唇を押し当てるのだ。

「好きにならずとも、もう手放しはしないがな」

 懐かしい太陽の匂いがする黒髪と、晴れた夜空のような優しい双眸を持つ少年は吃驚したように目を見開いていたが、右半分に醜い火傷の痕を晒す漆黒の甲冑に身を包んだ青年はその身体を愛しそうに抱き締めた。
 とんでもないことになっちゃったんじゃないの、俺!?と、光太郎が動揺して慌てふためくのは、それから暫く後のことになる。

第二部 4.落日の遊戯  -永遠の闇の国の物語-

「うーん…ここから飛び降りるってワケには…」

「いきませんよ!」

『行くわけがねぇ!何考えてんだ!?』

「わー!」

 ビルで例えるならば丁度3階程度の高さに設置された窓から顔を覗かせていた光太郎は、不意に背後からニョッキリと伸びてきた2対の腕に絡め取られるようにして後方にスッ転んでしまった。

「いたたた…冗談だってば」

 腰を擦る光太郎は胡乱な目付きで腕を組んで見下ろしていた蜥蜴の親分バッシュと、心配そうにハラハラと口許に華奢な指先を当てて眉を顰めているケルトを見上げてバツが悪そうにエヘヘと笑っている。

『お前の冗談はハッキリ言って冗談に聞こえないから胆が冷える…って、確かシュー様に言われなかったか?』

「う!」

「さっきも木に飛び移ろうとしてたじゃないですか!落ちたらどうするんです!?仮に無事に飛び降りられたとしても、これから日が暮れて外は危ないんですよッ!!」

「うう!!」

 光太郎は300ポイントは下らないクリティカルヒットを一身に受けて、そのままガックリと石造りの床に両手をついて項垂れてしまった。その表情は今にも泣き出しそうだったが、心底からガックリしているのは、実はバッシュたちの方だと言うことに光太郎は未だに気付いていない。

「ちぇー、こんな砦なのにさ。中庭があるのにここが3階だなんて誰が信じるんだよ?冗談か何かかと思って、ちょびっと外を覗いただけじゃないか」

 唇を尖らせて逆に逆ギレで悪態を吐く光太郎を、だが、漸く本調子に戻ってくれたとバッシュはやれやれと溜め息を吐いた。
 光太郎はこうでなくてはお話にならない。
 何事も前向きに、何があってもどうにかなるさの根性で…そんな風に、周囲を気にして頑張って生きている光太郎を、魔物たちは大好きなのだから。

「ちょびっとって…さっきから窓ばかり見て、ボクたちの隙を狙っては飛び降りよう飛び降りようってしてるじゃないですか!もし落ちてしまったらと思ったら…うえーん」

 ハラハラしている未だ幼いケルトは、今にも泣き出しそうに大きな瞳に涙をいっぱいに溜めていたが、それでも小さな身体ではその衝撃の数々を受け止めるには、魔物たちほどの図太さはまだ培われてはいないようだ。
 小さな身体を丸めるようにして泣き出してしまったケルトに、ギョッとした光太郎は慌てて起き上がると床に座り込むようにしてそのあどけない顔を覗きこんだ。

「うわー、ごめん!ケルト、だから泣かないで。えーっと、えーっと…俺、好きな人がいるんだけど」

 その突然の告白に、思わずケルトが不思議そうな顔をして涙で濡れた拳の隙間からちょこんっと光太郎を見下ろした。
 その背後でバッシュが、『また始まるかもしれない…』と、僅かな期待を胸に、だが必ず起こるのだろう光太郎ワールドの顛末を見届けようと腕を組んで見守っている。

「その人がね、男は3回しか泣いたらダメだって言うんだ。そんなのホントは無理なのに…おかしいだろ?でも、そう言われてしまうと、頑張らなきゃって気持ちがこうウワーッと動くんだよね。だって、人間は魔物じゃないから、ホッとしても嬉しくても、思わず泣いてしまうから頑張らないとって…でも俺、そんなのおかしいって思うんだよね。やっぱ、城に戻ったら一度そのことについてキッチリと話し合わないといけないよね。うん、やっぱりダメだ。話し合おう」

 自分で言って、結局その台詞はケルトに言ったワケではやっぱりなかったのかと、バッシュが呆れて溜め息を吐いてしまうほど、光太郎は納得したように頷いている。その姿が面白かったのか、泣いていたはずのケルトがクスクスと笑っている。

「やっぱりおかしいよね?安心しても嬉しくても、泣いたらダメなんて。だって、人間には言葉に出来ないほどの感情ってあるんだよ。言葉が詰まって出てこなくて、苦しくて苦しくて…だから、その苦しさを和らげるために涙って零れるのに…もうね、きっと生理現象なんだよ。おしっこと一緒なのにさ、やっぱシューっておかしいよね」

 プリプリと腹を立て出した光太郎に、漸く俯いていたはずのケルトの顔は上がっていて、クスクスからケタケタと泣き声の代わりに笑い声が上がっている。その様子にやっとホッとしたように光太郎が微笑むのを『お前の方がよほどおかしい』と蒼褪めて思っていた魔物のバッシュは見逃さなかった。
 不器用な光太郎なりの冗談だったのか…いや、本気なのだろうが、ケルトが笑ったことに安心したんだろう。光太郎とはそう言う人間なのだ。
 一頻り笑っていたケルトは落ち着いたのか、にこっと花が綻ぶように笑って覗き込んでくる光太郎を見下ろした。

「ボクも、光太郎さんのお好きな方が仰るように、泣かないように頑張ります」

「うん!ここにいる間は一緒に頑張ろう」

「はい!」

 元気よく頷く人間の少年たちを、バッシュは蜥蜴面からでは到底想像もできないが、困惑したように顔を顰めて額にうっすらと汗を浮かべている。シューが光太郎に対してだけは、異常にハラハラしていた気持ちが、何となく今は判るような気がする。

「あの…シューって。もしかして光太郎さんの好きな人と言うのは、魔将軍のシューではないですよね?」

 笑っていたケルトの表情が不意に一瞬曇って、その空色の水晶玉のような大きな瞳に翳りが浮かんだ。小さいながらも元気なケルトのその表情を見ていた光太郎は、僅かに眉を寄せるのだ。
 この世界の住人がどれほど魔物を憎んでいるのか、光太郎はここに来て思い知っていた。恐らく、人間たちの住んでいるラスタランの国に行けば、ここ以上に嫌と言うほど思い知ることになるのだろう。
 でも、と光太郎は思う。

(俺からしてみたら、ここに来た方が地獄みたいな日々だった…でも、どっちが悪いのかなんて、何が悪いのかなんて俺には判らない)

 しょんぼりと眉を寄せた光太郎は、それでも自らの気持ちを偽ることはどうしてもできなくて、眉を顰めて凝視してくるケルトの強い双眸を受け止めながら微笑んだ。

「うん、そうだよ。俺は魔将軍のシューが好きなんだ」

 相手にはされていないけどねと困ったように笑ったら、ケルトは困惑したような表情を少しだけ緩めて、それから溜め息を吐いた。
 その表情も仕種も、まるで年相応の少年からは見受けられないほど大人びていて、光太郎にはそれがとても哀しかった。

(こんな砦に閉じ込められていれば仕方ないのかな…この砦、ホントむかつくよなー)

「なんとかできたらいいのに」

「え?」

「あ、いやなんでもないんだ」

 小首を傾げるケルトに慌てたように首を左右に振って取り繕うようにアハハハと笑う光太郎を、腕を組んだままで黙して見守るバッシュは内心で『また何か企んでるな』と思って溜め息を吐いていた。

「…ボクの国は魔将軍シューの手によって滅ぶところまで追い詰められていました」

 ポツリとケルトが呟いて、光太郎はソッと眉を顰めた。
 先の戦を思えば激しい激戦が繰り広げられたのだろう、シューは確かに光太郎には優しいが、魔軍を勝利に導く将軍である。大方、予想されるように容赦などはしなかったのではないか。

『…そーか、お前の国はデルアドールだな。シュー様が追い詰めた国と言えばそこしかない。ん?でも、デルアドールとラスタランは敵対していなかったか?』

「ご存知でしたか」

 ケルトはバッシュの言葉に首肯しながら小さく笑った。
 その表情はとても哀しかったが、光太郎は何も言えずに唇を噛み締めるしかなかった。
 戦争は常に何かを遺して往く。
 それはけして拭えない深い傷痕を残して…どうすることもできない、やり場のない怒りに、それでも言葉すら出ない自分のちっぽけな存在にいっそ泣きたくなっていた。

「今一歩のところで、どう言ったわけかラスタラン国が救いの手を差し伸べてくれたんだそうです。大人たちがそう言っていました。だからボクは…この国には逆らえない」

 俯いた顔に表情はなく、零れ落ちる蜂蜜色の髪が少し疲れた色を宿す頬に影を落として、幼すぎるケルトをさらに小さく見せていた。

『故郷に恩義を感じて?ガキのくせにたいした根性だな』

「ボクだって!…ホントはこんなのは嫌です。でも何もできないから…これぐらいしかできないから」

 キュッと唇を噛み締めたケルトは、この時は珍しく怯えることもなく蜥蜴の親玉のようなバッシュを軽く睨んで見上げると、その大きな空色の水晶玉のような瞳から今にも涙が零れそうだった。
 何もできなくて…その気持ちはいつも光太郎が感じているものだった。
 そうか、ケルトも同じ思いを噛み締めていたのか。

『ガキは何もしなくていいんだよ。大人しく家にいて、大人が帰ってきたら笑って抱きついてやりゃハッピーじゃねーか』

「え?」

 キョトンとしたような顔で腕を組んだまま首を傾げているバッシュを、悔しそうに俯いていたケルトは弾かれたように見上げると、呆然としたように見詰めている。
 何を言われたのか、理解できないと言いたそうな表情は、子供らしさを取り戻して戸惑う子犬のようだった。

『シュー様が、まだソーズが小さかった頃によく仰ってたからな。お前が待っててくれたらハッピーだってね。俺なんかは家族とかいないからよく判らねぇけどよ』

「あのシューが??」

 驚いたようにバッシュを見上げる光太郎に、蜥蜴の親玉のような魔物はニヤッと唇の端を捲り上げるようにして笑った。

『驚いただろ?』

「うんうん、驚いたよ」

 吃驚したように目を丸くする光太郎に気をよくしたバッシュは、腕を組み直すと上機嫌で肩を竦めて見せた。

『シュー様はソーズを大事になさっておいでだったからな』

「そうなんだ」

 その一言に、なぜか、光太郎は打ちのめされたような気がした。
 心のどこかでは判っているのだがそれでも、仄暗い嫉妬が胸の奥で燻ってしまう。
 恐らくあの空中庭園で、大事に抱えられていたあの亡骸が、シューが大事に想っていたソーズなんだろう。光太郎は口に出せない思いが咽喉許までせり上がってくるのを必死に耐えながら、そんな自分の浅ましい想いなど消えてなくなってしまえばいいのにと思っていた。
 ソーズはどんな魔物だったのだろう…自分のように、こんな風に穢れてはいなかったんだろう。
 考えれば考えるほど暗い方向に突っ走りそうで、必死で明るいことを考えようとしても失敗ばかりしている。そんな光太郎の傍らで、腕を組んだままでバッシュが呟いた。

『シュー様にとっては、血は繋がらなくても大事な家族だったからな。家族ってのはそんなモンなんだろ?』

「あの魔将軍が…」

 傍らで呆然と聞いていたケルトは俄かには信じられないとでも言うように見開いていた双眸をゆっくりと床に落として、何か言いたくて、だが言葉にできなくて首を左右に振るのだ。

『でもな、俺もシュー様には賛成なんだぜ。戦から戻って来ると待機組とかいるワケだが、やっぱこう待っててくれるヤツがいるってのは幸せだからな』

 ニヤニヤと蜥蜴顔で笑うバッシュに、光太郎は珍しく彼が饒舌になっているなと思ったが、どうやらこの魔物は【誰かが待っている】と言うことに対して深い執着があるようだ。

(そう言えば、戦の前にもバッシュは俺にそんなことを言ってたっけ)

 それは恐らく、彼が言うようにバッシュには待っててくれる家族がいないのだろう。
 シューとソーズの関係をどうやら間近で見ていたに違いないバッシュは、いつしか彼もその関係に憧れるようになっていったのだろう。
 だが、家族なんてものはすぐに手に入るようにみえて、実はその繋がりは深くて貴重で、けして容易く手に入れることのできるものではないのだ。それを思い知ったバッシュは、だからこそ、哀しくなるほどの孤独を抱き締めながら憧れて憧れて…未だに執着している。
 だから光太郎に忠告したのだろう。
 せめてお前は、シュー様のために城で待っててやれと。
 大切な者を亡くしてしまった魔獣であるシューの心は、まるで散々ハリケーンに見舞われた大地のように荒れ果ててしまっているに違いないのだから、せめてお前は…

(なのに、俺ってばのこのこ着いて来てこの様だもんなぁ…よく、バッシュに呆れられなかったと思う。感謝しなくちゃ、うん)

 今さら後悔してもどうしようもないのだが、後悔と言うよりは寧ろバッシュに対して申し訳なく思いながら決意した。その光太郎の傍らで、ケルトがしょんぼりと眉を八の字に寄せて唇を突き出している。

「ボクは、家族に男娼でもなんでもしてお国の為に頑張れって言われました。そんな風に、ボクも、誰かを待っていたかった…それだったら、もしかしたら、幸せだったかもしれないのに」

「ケルト…」

 どんな経緯でこの砦に来ることになったのか…恐らく、ケルトのいた国と沈黙の主の住まうラスタラン国は敵対していたと言うから、戦争のドサクサで幼いケルトはラスタラン兵の手に掛かってしまったのだろう。
 あの戦場で、光太郎がそうであったように。

「バッカみたーい。なに、面白くもない話をしてるのさ。脱走の相談だったらまだ面白かったのになぁ」

 何か言おうとして躊躇っているその背後から、TPOというものをまるで無視した暢気な声が呆れたようにそんなことを言ったから、バッシュは思わず身構えて、光太郎はむっとしたように眉を寄せて背後を振り返った。
 その声には聞き覚えがある。
 ムーッとして振り返った先、光太郎はその姿を見て唖然としてしまった。
 まるでどこの国の姫君が迷い込んできたのかと目を疑いたくなるほど、この寂れた砦にあっても輝きを失わない美しい少年が、吃驚している光太郎を見下ろして胡乱な目付きで溜め息を吐いている。
 ひらひらとした軽い印象の服の裾を揺らしながら、細身の身体をしっとりと覆う薄絹に包まれた少年は、幾つもの腕輪を嵌めた華奢な腕を組んで廊下で座り込んでいる光太郎とケルト、そしてその傍らで威嚇する魔物を順に見遣っている。
 さすがにバッシュには微かに怯んでいるようにも見えるが、相変わらず堂々とした態度でツンと取り澄ましている。

「…アリスか、吃驚した」

「えー?どーして吃驚するワケぇ?まさか僕を忘れちゃったとか??ひどぉーい」

 さほど傷付いてもいないくせにわざとらしく眉を顰めて大袈裟に言った後、アリスはクスクス笑いながら光太郎の陰に隠れようと身体を縮めているケルトを鼻先で笑った。

「早速、新人に取り入っちゃってるの?光太郎は挿れると可愛いけど、その他は普通だしぃ?取り入ってもどーしようもないんじゃない?あ、それとも挿れてみたいとか?」

「はぁ?何、言ってんだよ。お前こそ、そんなひらひらした服着てどこ行くんだ?まさか、それが普段着とか言うなよ?気色わる」

「なにそれ、酷ッ」

 さほど堪えてもいない光太郎に見事な柳眉は険を含んだように寄せられているが、案の定、さほど気にした風もなく音もなく歩いて来たアリスは光太郎の服を掴んで怯えたように俯いているケルトの前で腰を下ろすと、その顎を繊細そうな指先でクイッと上向かせながらクスクスと悪魔の微笑を浮かべた。

「どうしちゃったの?そんな顔してぇ…僕に挿れた時はもっと嬉しそうにしてたじゃない。あ、でもその後だったっけ?セス様の太いのでお尻が裂けちゃったのって…それでも何度も何度も突っ込まれて血塗れで…」

『うるせー人間だな。なんだお前は、淫乱予備軍か?』

「淫乱予備軍~?なにそれ。僕はホントのことしか言わないもん♪」

 クスッと鼻先で笑って蒼褪めたケルトから指先を外したアリスは立ち上がると、まるで花に惑う蝶のようにふらふらとバッシュの前まで歩いて行った。上から下まで興味深そうにジロジロと観察していたアリスは、濡れたように艶めく唇をペロリと舐めてふふふっと笑った。

「ケルトは挿れられるたびに切れちゃって、後宮総取締役としては後始末が大変なんだよねぇ」

『ふん、どんな大役かと思えば雑用係かよ』

 バッシュはアリスのとっておきの流し目も意に介した風もなく、呆れたような馬鹿にしたような蜥蜴面で肩を竦めている。

「そうだよ♪嫌になっちゃうぐらい雑用係。ケルトの後始末は大変だけどぉ…今はセス様、僕に夢中だしぃ?もう心配は要らないけどねー」

『そんなの俺の知ったことか…って、気持ち悪ぃヤツだな』

「なにそれ、酷ッ」

 光太郎に言ったのと全く同じことを言いながらも、アリスは興味津々と言った様子でバッシュをジロジロと大きな双眸で不躾に観察しているのだ。見られることに慣れていない蜥蜴の魔物は、いちいち癪に障るのか、苛々したように小柄なアリスを見下ろしている。
 だが、彼の首を締め付ける一見ただの革のベルトのようなチョーカーが、彼の実力を縛り付けて戒めているせいで、思うように力が出せないでいるのだ。こんな小煩い蝿は片手で払い飛ばしたい気分なのだが…

「決めた!魔物なんて初めてだし面白そー♪だから、今から挿れていーよ♪」

 ガバッと抱き付いたアリスに光太郎はギョッとして、ケルトは瞠目してあまりの驚きに掴んでいた服を放してしまった。抱き付かれた当の蜥蜴の親分としては、それでなくても完璧なポーカーフェイスでは何を考えているのか読み取ることは不可能だったが、少なくとも後世の為に首の骨ぐらいは圧し折ってやっていた方がアリスの為にもいいのかもしれないと思っているに違いないが定かではない。

「アリスってヘンなヤツだよなー」

 ヤレヤレと光太郎が溜め息を吐くと、抱きつかれたままでバッシュがそんな光太郎を振り返りながら頷いた。

『光太郎、俺は間違っていたよ。コイツは淫乱予備軍じゃない。バカだ、ただのバカ』

「なに、それ。ひどぉーい。せっかくこの僕が挿れてもいいよって言ってあげてるのに!」

『バカじゃない、大バカだ』

「あははは、もうバッシュ真面目な顔して冗談言わないでよ」

 とうとう光太郎が噴出してしまうと、途端にアリスはムッとしたように唇を尖らせてしまった。
 ハラハラしたように事の顛末を見守るしかないケルトとしては、どうして良いのか判らないと言いたげに眉が寄っている。

『極めて真面目だぞ、俺は』

 表情に然して変化を見せないから余計に笑えてしまう光太郎がうぷぷっと笑っていると、アリスは「失礼しちゃうなぁ」と唇を尖らせたままでプリプリと腹を立てながらもクスッと口許に笑みを浮かべた。その様子は、この砦に来て初めてケルトが目にしたアリスの態度だった。
 いつもは常に癇癪玉を持ち合わせているかのようにピリピリしていて、気付けばいつもケルトは先ほどのように虐められているし、他の子たちもその毒舌の毒牙に掛かって麻痺しているような状態だったのに、こと光太郎に関わってしまった後のアリスは牙の抜けた猫のようになってしまった。ご自慢の毒舌も光太郎やバッシュの前では色褪せてしまい、ともすれば年相応のただの少年に見えるから不思議だ。

(…光太郎さんとバッシュさんて本当に不思議な人たちだ)

 ケルトがそう思っても仕方がないほど、あのアリスが、唇を尖らせながらもクスクスと笑っているのだから。そんな笑顔を、ケルトはここに来て一度も見たことがなかった。
 どこか虚ろな表情をしているかと思ったら、小馬鹿にしたようにか、呆れたようにしか笑った顔は見たことがない。

「あーあ、魔物と犯るのも楽しいと思ったのになぁ!そーだ、僕。セス様に言われてここに来たんだっけ」

 疲れたように溜め息を吐いた後、退屈そうにアリスは嫌なことでも思い出したと言いたそうに眉を寄せると首を左右に振った。

「どこ捜してもいないんだもん。徘徊しすぎー」

「あいてッ」

 鼻先をピンッと弾かれて痛そうに眉を寄せる光太郎をクスクスと笑ってから、鼻面を押さえる少年の顔を覗きこむと軽い上目遣いでおどけたように唇を尖らせた。

「セス様が光太郎に部屋に来いってさ。沈黙の主様が夜明け前に到着なさるからー、その前に抱きたいんだって。あの人、好きものだしぃ」

「うはー、断ることは…無理か」

「そゆこと。地下牢の魔物を思うならね」

 驚くことに、アリスはどうやら何かを盾にして相手の自由を奪うと言うことを、どうやら毛嫌っているようだ。光太郎に釘を刺すように言ってはいるものの、その深い深緑色の瞳は不機嫌そうに翳っている。

「アリスってセスの取り扱いに慣れてるんだろ?」

「なに、そのどーでも良さそうな言い方」

「一緒についてきて♪」

「いやーん、何言っちゃってんの?」

 うんざりしたように項垂れてしまう光太郎を心配そうに気遣うバッシュとケルトを見比べながら、そのくせ、当の本人はいたって仕方なさそうに冗談を言うような始末だ。

「僕の見解はそこの魔物と一緒。ちょっと間違っちゃってたみたい」

「何が?」

 あーあ、またエッチなことしないといけないのかーと、バッシュやケルトを気遣いながらも、ちょっとうんざりしたように溜め息を吐いていた光太郎が首を傾げると、アリスは片手を腰に当てて片手で光太郎を指差しながらビシリと言ったのだ。

「君ってさ、きっと大物になると思うよ。うん、間違いない」

「はぁ??」

 光太郎は指差されたままで間抜けな声を出していた。

Ψ

 居心地は、正直言ってよくはない。
 寧ろ、悪い。
 アリスにせがまれても首を縦に振らなくて良かったと、光太郎は心底思いながら溜め息を吐いて自分が座っている場所を見下ろした。
 そこはこの砦を支配している男が塒にしている部屋で、連日の激戦だったらしいと言うのに、調度品は整っている。今、自分が腰掛けているベッドですら、スプリングが効いていて横になればぐっすり眠れるだろう。
 連日連夜苛まれた身体が受けたダメージは思った以上に酷かったのか、それとも風呂場で致してしまったのがいけなかったのか…いずれにしろ、主のいない部屋のベッドの上に腰掛けていると強烈な睡魔が襲ってくる。
 アリスは、セスはこんな風にひらひらした服が好きだから絶対に着るべきだと断固として言い張っていたが、別に気に入られたいワケじゃないから絶対に嫌だと言って断わったら、彼は少しだけ眉を寄せて不安そうな表情をしていた。

《じゃあ、せめて気に障るようなことをしたり、言ったりしたら駄目だからね》

 と、忠告してくれたがそんな心配必要ないのになと思っていたが、妙にそれに頷いているバッシュを見ていたらムカッとしてしまったのはなぜだろう?

「それじゃまるで、俺が誰にでも食って掛かってるみたいじゃないかー」

 待っていてもこの部屋の主が戻ってくる気配もなく、そろそろ痺れを切らしてしまった光太郎は思い切り伸びをすると、そのままふかふかのベッドにダイブしてしまった。
 自分の性格をいまいち把握できていない向こう見ずの光太郎は、軽い欠伸をしてから、久し振りに柔らかな寝具に横たわって思わずうとうとしていた。
 それがいけなかったのかもしれない。
 そうしてうとうとしていた光太郎は、気付けばいつの間にか熟睡してしまっていた。
 よほど疲れていたのか、すぐに寝息を立て始めた光太郎の今の状態では、たとえ身体中を触られても槍が飛んできても、全く気付かないだろう。
 光太郎が寝入ってしまって暫くすると、ふと、この部屋の木製のドアが少し軋んで押し開けられた。
 入ってきたのはもちろんこの部屋の主…ではなく、奇妙な衣装を片手に持って、腰に片手を当てたアリスだった。

「んもー、やっぱり寝ちゃってる。こう言うところ、ちょっと無防備だよね」

 呆れたような不機嫌そうな顔をして可愛い唇を尖らせた、天使のようにあどけない麗しさを持っているアリスは首を左右に振りながらベッドで熟睡を決め込んでいる光太郎の傍らまで歩いて行くと、途端に悪魔の微笑でニヤリと笑うのだ。

「この僕の申し出を断わるなんていい度胸だよね?うふふ、でも大丈夫だよ。僕がちゃぁーんとセス様が気に入るようにしてあ・げ・る♪」

 何も知らずに寝入ってしまっている光太郎を見下ろして、嫣然と悪魔の微笑でクスクス笑うアリスは、それから徐に眠れる子羊の服を剥ぎ取りに掛かったのだ。

Ψ

 セスは途中で捕まった策士の一人に的確な指示を与えた後、差し迫る刻限を気にしながら足早に自室に戻っていた。
 待たせているはずの下級兵士たちの慰み者は、どこにでもいる平凡そうな子供だった。
 この砦には常に男娼として子供が送り込まれてくるが、そのどれもがハッと目を引く華やかさを持っていたから、殊更あの魔物を慕う奇妙な人間の少年は平凡以外の何者でもないように思えて仕方がなかった。
 それでも…と、セスはニヤリと笑う。
 魔物どもが絹にでも包んでるんじゃないかと聞きたくなるほど大事にしている、あの、魔軍にあってしても強烈な印象を叩きつける有翼の蜥蜴面をした大隊長すらも、まるで赤子のようにあの少年の前では鳴りを潜めている。それどころか、大事な人だと言って憚らない。
 ましてや彼は、魔軍の副将シンナの愛馬ティターニアに乗っていた。

(黒髪は確かに不気味だが…あの目付きはいい。もう少し年を取れば、充分兵士としても遣えるだろう…が)

 セスは光太郎の持つ意志の強さを認めながら、戦場の血生臭い風に刻まれた皺を歪めると、うっそりと笑うのだ。

(何よりも腰に来る。奇妙なヤツだ、まるで穢れを知らないとでも言うような真っ直ぐな眼差しを持ちながら、どこか諦めたような退廃的な艶を持っている)

 それはともすれば、見る者を惹き付けて止まないかも知れないし、或いは憎しみすら抱かせてしまうかもしれない。そのアンバランスさが、彼を風にすら立ち向かえるほど強い心を持つ少年時代に留めているのかも知れないが…

(俺の場合は…後者だな。メチャクチャにしてやるのも面白い。わざわざお出で戴く主には申し訳ないが、散々遊んだ後に必要とあればあの方に引き渡しても俺に損はねぇしなぁ)

 セスはククク…と咽喉の奥で笑い、漸く辿り着いた自室の扉を勢いよく押し開いた。
 セスに抱かれる少年の殆どは男との経験…というよりも寧ろ、性行為そのものに免疫のない者たちばかりだった。だからこそ、誰もが皆、蒼褪めた相貌をして訪れるこの砦の主を、魔物でも見るような目付きで迎え入れる。
 その目付きが堪らなく好くて、ゾクゾクと身体の芯を疼かせてくれるから、セスはその瞬間が堪らなく好きだった。
 あの強い双眸を持つ少年ですら、それは恐らく例外ではないだろう。
 どの様に怯えた目付きで自分を見るのか、それを考えると今から股間部に熱が集中するのを感じていた。
 が。

「…なんてヤツだ」

 セスは見渡しても見付からない光太郎の姿を求めて寝室に行き当たり、広いベッドでぐっすりと熟睡している少年を見下ろして呆気に取られたようにポカンと口を開けてしまった。それから次いで、バツが悪そうに苛々して前髪を掻き上げたのだ。
 怯えるわけでもなく、かと言ってその雰囲気とは裏腹に諦めていると言うわけでもない暢気な態度で、光太郎は安らかにスヤスヤと眠っているのだから堪らない。
 そしてその格好。

「いや、確かに俺は好きだがな」

 そう言って、腰に両手を当てて見下ろすセスの眼前で、柔らかなメイドの衣装に身を包んだ光太郎が安らかな顔をして寝返りを打った。
 男しかいないこの砦になぜメイドの衣装があるのか…それは、男娼として働くことになったアリスが冗談半分で郷里から持参してきたものだった。彼の屋敷で働いていたメイドの衣装で、何かの役に立つかもしれないと思ったアリスの思惑通りになったのかならないのか、何れにせよ、セスの眦は下がっている。どうやら成功しているようだ。

「おら、起きろ。小僧、寝込みを襲われてーのか?」

「へ…ん?…あれ、ここは…あ!」

 小突く勢いで叩き起こされた光太郎は、寝惚け眼を擦りながら、自分がどこにいるのか認識できずに暫くぼんやりと視線を彷徨わせていたが、ふとセスの顔を見た瞬間、漸く彼の瞳に理性の光が戻ってきた。慌てたようにガバッと起き上がって、それから奇妙な感触に我が身を見下ろして更にギョッとした。

「な、なんだこれ!?」

「メイドの格好だろ?なんだ、俺を悦ばせようとでも思ってたのか。殊勝な心構えじゃねーか、ん?」

「そんなんじゃないよ!…どうしてこんな格好してるんだろ??」

 ベッドの上に起き上がった光太郎は、ご丁寧に長い漆黒のウィッグまで付けられて、勝気そうなメイドさんそのものではないか。
 さらっと絹糸のような黒髪は、その勝気そうな良く晴れた夜空のような双眸に似合っていて、確かにセスでなくても思わず萌えってしまうのは致し方ない。
 困惑した顔をして眉を寄せていた光太郎は、どうやら心当たりがあるのか、溜め息を吐きながら自分を見下ろしているセスを見上げた。
 心外ではあるが、今はこのままでいるしかないだろう。
 ここで「こんな服着てられるかー!」と言って脱ぎ捨ててしまえば、それこそセスを喜ばせるに違いない。

「こんな野暮な砦には珍しく可愛いメイドじゃねーか。ご主人様にご奉仕するんだろ?」

「…はい、ご主人さま」

 それは些細な切欠に過ぎなかったが、セスが嗾けた遊びに、光太郎はうんざりしながら乗ることにしたようだ。そもそも、またしてもエッチなことをしないといけない、とは判っていても、その切欠がいつも作れないでいるのだ。そのせいで、毎回痛い思いをしなければいけなくなるのなら、どんなに恥ずかしくても相手の思惑に乗るように見せかけながら流れを掴まなければいけないと思った。
 その浅はかな思惑すらも、百戦錬磨のセスに見抜かれていることなど知る由もなく。

「じゃあ、まずはその可愛いお口でおしゃぶりでもしてもらうかな」

「…ッ!…は、はい」

 光太郎は主をセスとしながらも、ベッドの上にちょこんと座ったままで身動ぎすらもできないでいる。散々教え込まれた身体は欲望には反応するが、屈辱的な言葉には羞恥と怒りで反応するようにできているらしい。
 反抗的な双眸で睨み上げられて、セスは図らずも背筋がゾクゾクするのを感じていた。
 今からこの、勝気な双眸を持つ恐れ気のない少年を屈服させるのだ。
 今までに見てきた少年たちよりも遥かに、どうやらセスを喜ばせてくれそうだ。

「どうした?返事ばかりで行動が伴っていないぜ。魔物どもに媚びる人間はやっぱり魔物に似て嘘吐きなのか?」

「そんなこと!…あるわけないです。すぐに、ご主人さまッ」

 半ばヤケクソのように膝立ちでにじり寄った光太郎は、目線の高さにセスの股間を捕らえて一瞬だけ逡巡したが、それでも唇を噛み締めると躊躇いながら下穿きをゆっくりとずらしたていた。
 既に硬くそそり立っているその長大な血管を浮かべる赤黒い陰茎の勢いにギョッとしたように目を見開いたが、それでもそっと手を這わせると、舌を出して舐めようとして、また躊躇うように瞼を閉じて溜め息を吐いた。
 そのあまりにも嫌そうな態度を見下ろしながら、セスはもう頂点まで昇り詰めてしまってるんではないかと思いたくなるほど背筋に競り上がってくるゾクゾク感を思う様味わっている。

(クックック…言葉ではなんと言っても、嫌なんだろうなぁ。その顔が、どれほど扇情的か思いもしないんだろうよ)

「どーした、やめたいのか?」

 クイッと、嫌そうに瞼を閉じて溜め息を吐く光太郎の顔を上向かせたセスが殊更嫌味っぽく言ってやると、メイドの姿になっている少年とも少女ともつかぬ存在はムキッと腹を立てたように薄っすらと朱色に染めた眦を釣り上げて睨み返した。

「んなわけねーだろ!…じゃなかった、そんなワケないです。ご主人さま、喜んで」

 あからさまに嫌そうなのにどこが喜んでるんだと、内心でニタニタ変態オヤジ丸出しで嗤っているセスは、それはそれはと薄ら笑いを浮かべて黒髪のウィッグを撫でてやった。
 はぁぁぁ…っと、思い切り溜め息を吐いた光太郎は観念したのか、目の前で勃ち上がっている凶悪な陰茎の濡れそぼる先端をちろりと舐めた。
 しょっぱい味が口腔内に広がって一瞬眉を顰めたが、それでも瞼を閉じて意を決したように先端をぱくんと咥えると、チュバチュバと音を立てながら吸ったり、その血管の浮く幹を舐め上げたりと、たどたどしく拙い舌戯に励んでいる。その間もまだ幼い手淫は快楽の在り処を知ることもなく、必死と形容する以外にないような荒っぽさで扱いていたが、その意に反することもなく光太郎の口許を濡らしていた透明な液体が溢れ出て指先をしとどに濡らしていった。
 透明な液体は舌を出して舐め上げる先端から溢れ出て、口許を濡らしていたそれは顎に伝うと、ボタボタとベッドのシーツに零れ落ちている。
 無心に舌を這わせるその長い黒髪が揺れ、その可憐な仕種にうっとりと目を細めるセスが不意に撫でていたウィッグを乱暴に引っ掴むと股間から顔を上げさせた。

「…ッ!」

 どんな仕組みで装着させられているのか、セスの力でも外れなかったウィッグはそのまま髪を引っ張るのと同じ痛みを与えたのか、伸ばした舌先に唾液が銀の糸を引くように陰茎から剥がされた光太郎は、それでも痛みを堪えるように片目を閉じてこの砦の、そして自らの支配者を見上げた。

「おしゃぶりは下手なようだな?何を教わってきたんだ」

「う、うう…ごめんなさい、ご主人さま」

「スカートを捲り上げて、ご主人様によく見えるように膝立ちになれ」

「…ッ」

 唾液と先走りに濡れそぼった口許を悔しそうに歪めながらも、光太郎はおずおずと紺色のオーソドックスなメイド服のスカートを掴んだ。目尻に浮かぶのは悔しさからか、それともただの生理的な涙なのか…

「ハッ!よくできたメイドじゃねーか。いい眺めだ」

「…」

 思ったとおり、光太郎の下肢に下着はなかった。
 恐らく、あの性悪な小悪魔が寝込みを襲ってこんな服を着せたのだろう。あれほど断わったのに…唇を噛み締めて、頬を朱色に染めて羞恥に恥らう光太郎はご丁寧に下着まで奪っていった小悪魔の顔を思い出していた。
 覚えてろよ…と思ったわけではないはずだ。
 漸く薄っすらと生え揃った草叢から、先ほどの行為で興奮してしまった薄桃色の陰茎がふるっと震えて勃ち上がっている。
 確かにそれは、扇情的でセスの嗜虐心を大いに煽っていた。

「ご主人様のが欲しいのか。おしゃぶりだけで感じまくってるメイドさん?」

「う…は、はい。ご主人様が欲しいです」

「…いい返事だなぁ。こいつぁ、兵士どもが夢中になるはずだ」

 え?とでも言いたそうに、羞恥に目許を染めた光太郎が泣き出しそうな表情で見返すと、その顔にまたゾクゾクと煽られたセスはククク…と咽喉の奥で嗤いながらギシッとベッドを軋ませて近付いた。ギクッとしたように後退りそうになって、それでも踏み止まった光太郎は伸ばされたセスの掌に頬を捉えられてギュッと瞼を閉じた。
 瞼を閉じる瞬間に目に入ってしまった、その凶悪なほど大きく張り詰めた凶器が、今から襲い掛かろうとしているのだと思うと泣きたくなった。
 こんなことしたいワケじゃないのに、ただ、シューの許に帰りたいだけなのに…どうして。
 何度も呟きそうになって飲み込んでいた言葉がまたしても脳内に木霊して、掴まれた頬を強引に引っ張られて思わず倒れそうになった光太郎はだが、すぐにぬるっとした感触が唇を這って躊躇いがちに口を開いていた。
 強要されて覚えた濃厚な口付けは、何度しても好きになるものではなかった。

「ん…は、ふ…んぅ…ッ」

 ピチャピチャと犬が水を飲むような音を響かせながら濃厚な口付けを交わして、小刻みに震える指で持ち上げているスカートから覗く華奢な太股の付け根で勃ち上がる陰茎に長大な赤黒い、血管を浮かび上がらせた凶悪な陰茎が摺り寄せられていた。その後方では、セスの節くれ立った剣を握る無骨な指先が、先走りを絡めてひっそりと息衝く蕾に潜り込んでいく。

「んん!…ふぁ…ッ、…ア…ん」

「…はっ、キスはうめーな。のめり込みそうだぜ、この俺がな」

 自らの手練に自信があるのか、唾液に濡れる光太郎の唇をベロッと舐めたセスはニヤリと嗤ってそんなことを呟いたが、光太郎の耳にその呟きは届いていたが意味を成してはいなかった。
 葡萄でも潰すような音を響かせて狭い肛道を探る指先に、翻弄されるように身悶える身体を引き寄せると、そのまま覆い被さるようにしてベッドへとダイブする。

「俺のはでかいからな、キレても逃げるなよ」

「あ…ひぃ…や、痛いのは…嫌だッ」

 身体を捩って逃げ出そうとする光太郎を容易く押さえ込んで、恐怖に蒼褪める光太郎の双眸を食い入るように睨み据えながらセスは、その時になって漸く本音を晒す女装の少年の足を大きく割り開いて肩へと担ぎ上げた。
 スカートから伸びたすらりとした足が恐怖に震えながら宙を蹴り、抵抗するように揺らめく腰に、そのキスの合間に弄虐されて綻んでいる花に長大な陰茎が押し当てられる。

「ひぅ!…やだよォ…怖…いやあッ…ああ!!」

 双眸を見開いて、生理的な涙が頬を伝っても気にすることも出来ない光太郎は、ぬぐぐぐ…ッと強引に花弁を散らすようにして狭い肛道に潜り込んでくるその圧倒的な圧迫感に、本能が恐怖を感じてシーツやらスカートやらを無意識に握り締めていた。

「クッ!…思ったよりも狭いな。もう少し進んだら…ちっ、切れちまえばいいんだがな」

「や!嫌だ…うぁ!…あ、あ…ひぃ」

 太いカリの部分が強引に押し開いても、誘うように収斂するくせに、思い出したように拒絶する内壁に阻まれて、なかなか思うように突き進むことができない。無理に花開かされた後孔の健気な抵抗は、だが、主の身体を傷付ける結果となっていた。

「ひ…ヒ、い…うぅ~…ッ」

 快楽よりも苦痛が押し寄せて、光太郎は我を忘れてハラハラと薄紅に染まる頬に涙を零していた。
 セスが念じたとおり、無理に突き進めば身体は悲鳴を上げて、程なくして後孔の抵抗が緩んだ…というよりも寧ろ、ピシッと儚い音を立てて切れてしまった部分から、溢れ出した鮮血の滑りを借りて動きがスムーズになったと言うべきか。
 それでも最後まで咥え込ませるまで随分と時間を要して、セスは半ば腹立たしそうに失神寸前の光太郎の頬を軽く叩いた。ハッと意識を取り戻すとズ…ッと腰を進めて、その痛みに顔を歪める様を堪能しながら根気よく挿入を続けていた。
 メイドの衣装が似合っているせいか、処女を犯しているような倒錯した気分に陥りながらもセスは、乱暴に腰を揺すって自らの長大な一物を捻じ込んでいった。

「…ふ~、全部入ったぜ。おいおい、まさか気を失ってるんじゃねーだろーな?」

 セスが本気で殴れば頬骨など砕けてしまうに違いないが、軽く叩いても真っ赤になる光太郎の頬などお構いなしに、乱暴に腰を突き上げながらも失神しかけているその頬を叩いたのだ。

「…ぅ…あ、アア…ぃ、痛…ぁ……ッ」

「クソ、面白くねーな。そーだ、お前。上に乗れや」

「…!!や、む、ムリ…ぅああ!」

 それでなくても切れて悲鳴を上げる狭い後孔を問答無用で犯されていると言うのに、こんな状態で初めての体位など無理に決まっている。だが、もちろん、光太郎など魔物ぐらいにしか思っていないセスが許してくれるはずもなく、容赦なく抱え上げられたままお互いが反転するような形でセスの身体を跨ぐことになった。

「ハハハッ!まるでそうしてると、ホントに女みたいだな。挿れられてるところこそケツだがよ」

「ひ!…や、いやだぁ…痛、いたい…指、指挿れんなよッ!…うぁ!!」

 巨大な陰茎でぴっちりと蓋をしたようにそれ以上は一分の隙もない蕾に、更に指を捻じ込んで抉じ開けようとしているセスの態度に恐怖を覚えた光太郎がその厚い胸元を拳で叩いたとしても、屁でもないと言った感じで熱心に指を蠢かしている。
 光太郎の意思に反して柔らかく蕩けた蕾はセスの先走りと鮮血に促されるようにして、無骨な兵士の指先さえも咥え込もうと貪欲にひくついていた。

「ん…んふ…ひぁ!…アア…」

「ククク…それでいい、さあ隠れてないで出て来い」

「…?」

 誰に言ってるのか判らずに眉を顰める光太郎をまるで無視して、セスは腰を蠢かしながら一頻り光太郎を鳴かせ、指先で押し広げるようにして淫蕩な娼婦のように淫らにひくつく花開いた後孔を弄虐している。

「コイツの胎内は…ッ、柔らかく吸い付いてくるぜ。ふん、もう試した後か?」

「ひぁ!…ぅんん…れに、誰に言って…?……やぁ!」

 グリッと柔らかな内壁を擦り上げられて、光太郎はあられもない嬌声を上げていた。漸く痛みの中に快楽を見出したのか、それまで緊張したように突っ張っていた腿から力が抜けたのか、がくんっと上体を倒してしまった光太郎が自らもセスの長大な陰茎に内壁を擦り付けようとでもするかのようにゆらゆらと腰を淫らに揺らめかせて喘いでいる。
 その光太郎の敏感な襞を、長大で凶悪な陰茎を捻じ込ませたままで、さらに広げるようにして指先で捲る仕種に身も世もなくメイド姿の少年は扇情的に咽び泣いた。
 その姿を、物陰からひっそりと見詰めながら誰かが、そっと唇を噛み締める。
 その気配を感じてセスが、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべていた…

第二部 3.孤独の砦  -永遠の闇の国の物語-

 そわそわと歩き回る獅子頭の将軍を、この世ならざる美しいかんばせを持つ、同じく魔の国の将軍は腕を組んだまま、眉を顰めて観察している。かと言って、何か言うつもりは端からないようだ。
 その姿よりも、美しき魔将軍が顔にこそ出さないものの、心を痛めているのはそんなことではない。

『だー!!クソッ、何だこの睨みあいは!!』

 獅子面の魔将軍、シューは停滞してしまったラスタランと魔の国の攻防戦に苛々したように咆哮したが、美しき魔将軍、ゼィは呆れたように溜め息を吐いてそんな知己を見詰めていた。

『何より、お前の目付きが気に食わん。言いたいことがあるならさっさと言え!』

 ブスッと唇を捲り上げて威嚇するように牙を剥くシューに、ゼィはフンッと鼻先で嗤って肩を竦めた。
 あからさまな八つ当たりなのだが、古くからの友人は然して気に留めた風もない。

『致し方ない。こちらとて迂闊に動くべきではないことぐらい、知らぬ其方でもあるまい』

『うーるせーよッ!ゼィ。俺はそんなこた聞いちゃいねぇ。なんでシンナのことを聞かない?』

 内に秘めてしまうのは美しい魔将軍の悪い癖で、それを知っているシューは、ともすれば威風堂々とした立派な鬣に埋もれてしまいそうな丸みを帯びた耳を伏せるようにして、金色の双眸を細めながら古くからの友人を見た。

『シンナ?ああ…そう言えば姿が見えぬな。おおかた何処かで息でも抜いているのだろうよ』

 明らかに嘘臭いゼィの台詞に、シューはあのなぁ…と言いながら、この頑固で寂しがり屋の友人にこめかみを押さえながら溜め息を吐いた。

『…済まないと思ってるんだぜ。こんなことになっちまって。だからお前、また人間なんかに関わったらとんでもねぇって恨んでるんだろうな』

『いや…ふふふ、まさかだよ。シュー』

 その思ってもいなかった台詞に、シューは一瞬驚愕したように金色の双眸を見開いたが、次いで、すぐにゼィが何を言いたいのか理解したように胡乱な目付きになってしまった。

『楽しんでるのか?冗談じゃねーな』

 ククク…と咽喉の奥で嗤うゼィは、腕を組んだままで顎を引くと上目遣いでそんなシューを睨み付けた。
 深い紫の双眸は、それでも少しは憂いを湛えているとでも言うのか…?

『楽しんでいるだと?それこそ、まさかだよ。シュー』

 ゼィが一体何を言いたいのか判らなくなったシューは、溜め息を吐いて肩を竦めた。
 これほどまで長い間傍にいた仲だが、時にこの知己の考えていることが判らなくなってしまうことがある。恐らくそれはシンナも同じなのだろう。だからあのお転婆は、其の侭ならない想いに癇癪を起こして痴話喧嘩へと発展していくのだろうなぁと、シューはうんざりしたように考えていた。

『人間は嫌いだよ』

 ふと、目線を落として呟くようにゼィが言って、シューはチラリとそんな冷たい美貌を持つ魔将軍を見た。

『恨んでいない、憎んでいないと言えば嘘になる。もちろん、私は今でも人間は好まぬ。だが、光太郎は別ではないか』

『ゼィ?』

 人間嫌いで悪名高いゼィの、その台詞は容易に信じられる言葉ではなかった。我が耳を疑ったシューが、あれほど贄の儀式をしろと魔王に迫っていたゼィの、その嘘とも本気ともつかない言葉に眉を顰めたのだ。

『私とて、自分がどうかしてしまったのではないかと思っている。だがな、シュー。シンナが、あれが選んだのだよ。シンナが選んでしまったのなら、私はもう何も言えなくなってしまうのだ』

 お前がかよ!?…と、思わず叫びそうになってしまったシューだったが、そんな獅子面の魔将軍の間抜け面を見たゼィが、口許に微かな笑みを浮かべて首を左右に振ったので何も言えなくなってしまった。

『惚れた方の負けなのだから…即ちそう言うことだよ、シュー』

『ゼィ…おめー、やっぱりシンナのことを。じゃあ、何で無碍にするんだ?』

『無碍?』

 何を言い出すんだとでも言うように、ゼィはムッとした顔をした。

『私を無碍にしているのはシンナの方だ。これほどまでに心を砕いていると言うのに、あれはまるで私を無視している。そうして、とうとう人間などを追って行ってしまった!』

『いや、だからそれは俺のせいで…』

『お前が言い出したのだぞ、シュー。シンナは私よりもあの人間を取ったのだ。ふん!それほどまでに特別なのだよ光太郎と言う人間は。だから私に何が言える?教えて貰いたいものだな』

 冷たい、無表情のその奥で、これほどまでに熱い激情を隠していたのかと瞠目するシューに、怒りの治まらないゼィはムカムカしているように腕を組んだままで唇を噛んだ。

『シンナは一度とて私を省みただろうか?あれこそ、私のことなど…ッ』

 不意にゼィが言葉を飲み込んで、シューはハッとしたように冷たい美貌の魔将軍を見た。

『ゼィ?そう言えばお前、顔色が悪いな。大丈夫なのか…?』

 大きな掌でゼィの冷たい頬を掴んで上向かせたシューに、冷酷だと謳われる魔将軍は悔しそうに眉を寄せて言い募るのだ。

『少し疲れたのかもしれん。だが、其方のその半分でも、シンナが私を想ってくれればいいのだがな』

『…済まんな、ゼィ。俺にはその気持ちが判らねぇ』

『なんだと、シュー?』

 獅子面将軍の大きな掌を厭いながら振り払ったゼィは、少し蒼褪めた相貌でニヤリと嗤うのだ。

『これは面白いな。お前には判るはずだよ。それが今でないのなら、何れ間もなくだろうよ』

 はぁ?と眉間に皺を寄せる獅子の顔を見て、ゼィはふふふと笑って首を左右に振った。
 昔ながらの友人の鈍感さに、ゼィは改めて親しみが込み上げてきたのだ。
 ああ、その半分でも…ゼィはそこまで考えて首を左右に振った。
 シンナが鈍感ならそれでもいい、なのにあのディハールの戦士は、鋭すぎるぐらい鋭い鋭敏な感性を持ちながら、まるでゼィを無視しているとしか思えないような行動を起こすのだ。
 それが判らない…ゼィは唇を噛み締めた。
 何度身体を重ねても、繋ぎとめておけない自由の翼を持つシンナ。

『惚れた方の負け…か。致し方あるまいなぁ』

 やれやれと先端の尖った長い耳をへにょっと垂らしたゼィが、認めてしまったのは自分なのだからと仕方なさそうに溜め息を吐くのを、やっぱりシューは良く判らないと言うように首を傾げている。

『さて、はねっかえりの副将と、好奇心旺盛な魔王の贄が戻るまで、今暫し城を護っていようではないか』

 困惑して首を傾げている長身の獅子面将軍の背中を思い切り叩いたゼィの台詞に、グヘッと思わず呻いてしまったシューはニヤニヤと笑っている冷酷で美しい魔将軍を呆れたように見詰めてしまう。

『怒ってんだな、お前』

『当たり前だ。私を無視して勝手な行動を取るシンナが悪い。戻ってきたならば、説教をしてやらねばならん』

 フンッと外方向いていたゼィが、ニヤ~ッと笑いながら少し上にある獅子面将軍の顔を目線だけで見上げるのだ。

『もちろん、無鉄砲な贄もだがな』

 ふふふっと嗤うゼィに、今更ながらシューは感謝していた。
 こう言う会話で、ゼィはゼィなりに、シューの不安な気持ちを和らげようとしているのだ。
 それが判っているからこそ、思う以上に冷たくはないゼィを気に入って、こうして長らく傍にいた。

『…お手柔らかに』

 だから殊更、なんでもないことのようにシューは肩を竦めた。
 心の奥深いところで渦巻く不安など、有りはしないとでも言うように。
 同じように不安を抱え込んでいるに違いないゼィと、全てを分かち合うように。
 そうしながら、シューとゼィはこの闇の世界で生きてきたのだ。

Ψ

 ぴちゃん…ぴちゃん。
 広い石造りの浴室に水滴の跳ねる音が響き渡って、光太郎は湯気の中でぼんやりと天井を見上げていた。
 あの後、牢屋から出されたバッシュの首に華奢な意匠の鉄のチョーカーのようなものを嵌めたセスが、肩に光太郎を担いだまま蜥蜴の親分のような魔兵を引き連れて地下牢を後にすると、光太郎をこの部屋に投げ込んでからバッシュと共に姿を消してしまった。
 何が起こったのか目を白黒させる全裸の少年は、湯気の濛々とするその場所が浴室であることに気付いて、下半身の不快感を洗い流そうと、ワケの判らないままひたひたと歩いて浴槽の縁まで行くと、座り込んで木桶で熱い湯を汲み出して被った。

「…どうしたらいいんだろ」

 バッシュまで連れて行かれて、いきなり独りぼっちになってしまった不安に、唐突に光太郎は立ち上がると慌てたようにして扉に近付いた。もしかしたらセスは、バッシュをどうにかしようとしているのではないだろうか…いきなり湧き上がった不安に、それでなくてもあの蜥蜴の親分のような魔兵は大隊長と言う地位にあるのだ、セスの残酷な拷問を受けているかもしれない。
 不安にかられて把手を引っ掴むと同時に、光太郎が力を入れる前に扉が押し開かれてしまった。

「わわわ!?」

「うわ!?…って、何してるのさッ」

 片手に柔らかそうなタオルや服やら、身体を洗う道具なんかを持った光太郎とほぼ同い年ぐらいの少年が、思わず尻餅をついてしまった光太郎を見下ろして呆れたような顔をしていた。
 柔らかそうな栗色の髪をした少年は、少しきつい印象を与える美少年だ。
 浴室のぬくもりで、白い頬は仄かに色付いて、ともすればその年齢には似合わない色気のようなものまで漂わせている。だが、そんな機微に疎い光太郎にしてみたら、とても可愛らしい子だなと言う印象しかないが。

「セス様に言われて来たんだけど、何?新しい男娼くんなワケ?」

 少年は倒れている光太郎の腕を掴んで起こすのを手伝ってやると、テキパキと手にしていた服やタオルを脇に置かれた籠に投げ込んで、何やら怪しい道具の入った籠を片手に片膝を付いて屈み込むと、浴槽の湯加減を見ながら振り返って小首を傾げる。
 その双眸は、確かに性格はきつそうだが光太郎に対する敵意のようなものは見受けられない。

「えっと…よく判らないんだけど」

 男娼の真似事のようなことはしていたのだが、正確にそうなのかと言われると答えはノーだ。
 だから、この見知らぬ少年にどのような自己紹介をしたらいいのか光太郎には判らなかった。

「えー?判らなくてこの砦に来たの??ふーん、ヘンなの。ま、いっか。僕には関係ないもんね」

 短パンに生成りのタンクトップのような上着を着ただけで、極めて質素な出で立ちの少年はだが、ハッとするほど品があると光太郎は瞠目してしまった。

「あー、でも。それもちょっと違うかなぁ。この僕がいるってのにセス様ったら、また男娼をお召しになるんだもん。ムカツイちゃうよね。それが…君みたいな子だし」

 ヘラのようなものを取り出したり、何やら奇妙な液体の入った小瓶を取り出したりしながら唇を尖らせる少年に、光太郎は手持ち無沙汰で突っ立っていたが、恐る恐る近寄るとその傍らにペタリと座り込んで小首を傾げるのだ。

「えっと、俺。男娼になるの?」

「え?なんで、それを僕に聞くの?!なんだか、ヘンな子だね。あれ?もしかして君かな、魔族と一緒に捕まった捕虜で、下級兵士たちの慰み者になってる人間って」

「あ、うん。それ、俺だ」

 噂になっている可哀相なはずの人間の子に対する意識が、光太郎を見て少し変わった少年は困惑したように眉を寄せた。

「嘘でしょ?魔族と一緒にいたなんて。どーせ、あの性欲バカたちがなんやかんや理由をつけて、何処からか連れてこられちゃったんでしょ?」

「え?ううん、違うよ。俺、魔族とずっと一緒にいたんだ。闇の国に戻りたいんだけど…捕まってしまって」

 唇を噛み締めて俯く少年を、ふんわりと柔らかい栗色の髪を持つ、大きな双眸の少年はその瞳をこれ以上はないぐらい大きく見開いて、信じられないとでも言うように首を左右に振ったのだ。

「え、え??なに言っちゃってるの??闇の国に戻りたいって…君、人間なんでしょ??」

 両手で困惑したように頬を押さえる少年に、光太郎は小首を傾げながら頷いた。
 何をそんなに驚いているんだろうと、光太郎こそ不思議そうな顔をしている。

「人間だけど?あ、君には判らないかもね。俺、魔族とずっと一緒にいたから、魔物たちといた方がいいんだ」

 こんなことを言えば、あのセスや兵士たちのように、奇妙なものでも見るような目付きをされて気味悪がられるんだろうと、光太郎は判っていたがそれでも言わずにはいられなかった。
 バッシュも誰もいないこんな所で、たとえ同じ人間の少年と一緒にいたとしても、なんだろうか、この落ち着かない不安感は…
 まるでもう、光太郎は人間と言うよりは寧ろ、魔族に一番近い存在になりつつあったのか、人間といてもホッとできないのだ。
 そんな様子を感じ取っているのかいないのか、少年は大きな双眸でジッと、心許無さそうに俯いて、まるで迷子になってしまった子犬のように心細そうな困惑の表情で俯いている光太郎を見詰めていた。
 が…

「ふーん、そうなんだ。でも残念だね、ここから逃げ出すなんて、たぶん無理だし」

 少年は別に気味悪がるでも、侮蔑するような目付きをするでもなく、どうでも良さそうな態度でそう言うと、スポンジに石鹸を滑らせて泡立て始めた。

「あれ?君は変な顔しないんだね。ここに来てから、俺が魔物と一緒にいたいって言うとみんな酷い顔したり笑ったり、殴ったりされたからさー」

 ブーッと唇を突き出すようにして悪態をつく光太郎を、栗色の髪の少年はクスクスと笑いながらその腕を取って洗い始めた。

「そりゃ、仕方ないよ。みんな魔物が嫌いだしぃ」

「うん、それはもう判ったんだけど…って、俺、自分で洗うよ」

 頷きながら、取られた腕を引っ込めようとする光太郎の動きをニッコリ笑って封じ込めた少年は、鼻歌でも歌いだしそうなウットリした綺麗な顔で笑っている。

「これは僕のお仕事なの。城から男娼になる子が送られてくるでしょ?そうしたら、こうして僕が身体を清めてあげて、いつでもセス様が抱けるように肛門の始末とかするんだよ」

「う、うえぇぇ?!そ、そんなことされなくても自分で…」

「あははは♪自分で肛門の中まで洗えないでしょ?はい、背中洗うよ」

 こここ!?と、光太郎が酷く慌てていると、少年はお構いなしに背中を洗い、それから後ろから抱き締めるようにして光太郎の前を洗い出した。その悪戯なスポンジは、柔らかな感触で、まだ幼い陰茎までも捕らえてしまう。

「ひゃ!…ッ、…んん」

 やわやわと揉みこむようにして陰茎から冷たい石造りの床にコロンと転がる二つの果実まで洗う少年の手管に、光太郎は成す術もなく顔を真っ赤にして膝頭をあわせて抵抗しようとした。

「だーめ!ちゃんと洗っとかないと…うーんと、えい!」

 ニコッと笑った少年がモジモジと身体を丸める光太郎の背中を押して、前のめりに押し倒すと、ギョッとする光太郎に伸し掛かりながらふふふっと笑うのだ。

「後ろも洗わないと…って、あれ?なに、さっきまで何か咥えてた??」

「や!…嫌だってッ、離せよ!…ッ」

 スポンジで華奢な陰茎を弄びながら、ソープの滑りを借りて窄まっている可憐な蕾にほっそりした指先を潜り込ませようとしていた少年は、光太郎の胎内が柔らかく潤んで、とろりとした液体が溢れているのに気付いて小首を傾げた。
 その言葉に、羞恥に頬を染めた光太郎はギュッと双眸を閉じて激しく首を左右に振る。
 そう、たった今まで兵士の慰み者になっていたのだ、そのときのことを思い出して、彼の貞淑な蕾は淫蕩に溺れた娼婦のように艶かしく収斂した。

「あー、そっか。下級兵士の男娼にされちゃってたんだよね?それでこうなのか。うーん…でも、君って経験少ないでしょー」

「あ、当たり前だよ!こ…んん!指抜けってッ!こんなの、…ここに来て初めてだッ!」

 くちゅくちゅと指を二本に増やして掻き回すその淫靡な指遣いに、光太郎は湯気のぬくもりとは違う別の熱で頬を火照らせながら、嫌々するように首を左右に振って両手で抵抗しようとしている。

(なんでもない、普通の子っぽいのになー♪)

「やっぱりーふふ。ねぇねぇ」

 身体を押し付けるようにして少年は覆い被さって、その耳元に薄紅色の艶やかな唇を押し当てて囁くと、光太郎は目元を染めながら潤んだ双眸で首を傾げた。

「なに…?」

「挿れてみていい?」

「なな!?…それって…」

 目を白黒させる光太郎に、少年はクスクスと淫蕩に蕩けた蜜のような微笑を浮かべて、光太郎をドキドキさせた。淫らな指先は相変わらず胎内で蠢くし、スポンジとソープの滑りで陰茎はふるふると可憐に震えている。
 眩暈のような快楽の中でも、光太郎は唇を噛み締めて涙目で訴えた。

「い、嫌だぞ!俺、本当はこんな…って!ゆ、指を抜けってばッ」

「えー、嫌~。だってココ、くちゅくちゅしてて柔らかくて、何か食べたいよって吸い付いてくるもん」

「そんな!…んッ」

 切なげに悶える光太郎の媚態にペロリと紅い舌で唇を舐めた少年は、光太郎を鳴かせていた指を引き抜くと、同じように淫らに頬を染めながらズボンの前を寛げて、勃ち上がった陰茎を取り出して物欲しげに収斂を繰り返す蕾に見せ付けるようにして擦り付けた。
 くちゅくちゅと淫らな粘着質の音を響かせるカウパー液の滲み出る陰茎の硬い感触に、光太郎の背筋が波立った。無理矢理時間をかけて覚え込まされた蕾は、頭で考えるよりも素直に欲しいと訴えている。

「あんな連中に犯されるのってどうだった?僕ってさぁ、ホラ可愛いでしょ?だからセス様、離してくれないんだよね♪抓み食いとかしてみたいけど、バレちゃったら怖いしぃ。だからねー、こうして男娼くんたちと遊んでるんだ♪いつもは挿れさせるんだよね、だってその方が面白いでしょ?男に挿れる味を覚えさせて、セス様に犯されるんだよ?それで頭がイっちゃう子もいるけど、嵌っちゃう子もいるんだよねぇ。ま、どっちの子も見てて楽しいけどぉ…でも、どうしてかな?君には突っ込んで見たいって思っちゃった」

 キャハッと、まるで他人事みたいに呟いて、いや確かに他人事ではあるのだが、光太郎は信じられないとでも言いたげな表情をして悪趣味な少年を肩越しに見上げた。だが、うっとりするほど綺麗な顔で微笑まれてしまって、どうしていいのか判らなくなった。
 くちゅん、くちゅ…と、淫らな音を出して蕾の皺を伸ばすように擦り付けられる陰茎に、またしても始まった光太郎の華奢な陰茎に施すスポンジとソープの弄虐に、もう自分が何をしているのか、何をされているのか茹ってしまった脳味噌では考えられない。

「や…あぁ、ん…ふ…んん」

 気持ち良さそうにうっとりとする光太郎は、この砦に来て初めて受ける、痛いだけではないセックスに幼い身体は驚くほど素直に蕩けてゆく。

「うそ!いや~、可愛い♪」

 切なげに喘ぐ光太郎の、熱で微かに色付いた乳首を空いている方の手で捏ねくりながら、その年齢からでは考えられないほど淫らな表情をした少年は、嬉しそうに甘い声を漏らす組み敷いた少年の首筋に痕が残らないように吸い付いた。

「あ…あぅん!…ん、…ア!…ぅぅ…ン」

 光太郎は気付いていなかったが、蕾を捕らえて擦り付けられているはずの陰茎に、自ら厭らしく腰を揺らめかせて擦り付けていたのだ。

「ふふ…もう、いつ挿れちゃっても平気だよね♪」

 楽しそうに少年が呟くと、光太郎はワケも判らずに頷いていた。
 うんうん、早く。
 ねえ、早く入れて。
 言葉には出ていなかったが、甘えるような仕種が少年を欲しいと訴えている。
 そんな気持ち、光太郎はここに来るまで知らなかった。暴かれていくような気持ちと、早くこの熱を散らして欲しいと思う気持ちとが幼い身体で鬩ぎあって、もう、どうにかなってしまいそうだ。

「ねえ、挿れてって言って?アリスのおちんちん、挿れてって言って♪」

 くちゅくちゅと蕾を先端で弄りながら、はち切れんばかりに勃ち上がって、精嚢から送られてきた精液でいっぱいになった先端部分が、もう限界だとばかりにパクパクしている鈴口を爪先で引っ掻きながら囁くと、光太郎は開けっ放して閉じることを忘れてしまった唇の端から唾液を零しながら耐えられないとでも言いたそうに首を左右に振った。

「ねえ、言わないと…このまんまだよ」

 クスッと少年が笑う。
 自分も毎夜、セスにそうして弄虐されているのだが、彼の気持ちが少し判ったような気がして嬉しくなった。
 こと、今まで見たどんな男娼よりも、光太郎は可愛いと思ったのだ。
 パッと見たときはどこにでもいそうな少年だったのに、一皮向けば、驚くほど淫らで清廉で、そのアンバランスさが堪らなく愛らしかった。恐らく、彼の勘に狂いがなければ、きっと自分の立場を脅かすのはこの少年かもしれないと、天使のようにあどけない愛らしさを持つ淫靡な少年、アリスは考えていた。

「ハ…うぅ…、ア…あァ…ッ」

 握り拳を作って石造りの床に両手を這わせた光太郎は、まるで犬のように四つん這いにされたまま腰を高く持ち上げられて、それでも判らずに溜め息を零している。
 ぽたぽた…っと、唾液が床に零れ落ちる。

「言わないの?言わないと…このままやめちゃうよ?」

「あ!…や、嫌だッ…ぉ願い、…やめな…ッ」

「じゃあ、言って」

 クスクスと笑う天使の微笑を浮かべる悪魔に、光太郎はハラハラと泣きながら首を緩く左右に振るのだ。

「リス…の、ん…ちんを…」

「えー、やだぁ。聞こえなーい」

「…はぁ、…んッ」

 涙目で唇を噛み締めたのは、先端部分の括れをぐにぐにと揉み込まれたからだ。

「アリス…の、…お…ちんち…挿れて…」

 溜め息のような甘い声に、アリスは満足したようにニッコリと天使の微笑を浮かべると、それまで忙しなく可憐に打ち震える蕾を擦っていた陰茎をずぶっと音を立てて挿し込んだ。挿入は突発的で、驚くほど呆気なかった。
 だが、硬く撓る鞭のような先端部分で、ごりごりと柔らかな内壁を擦り上げられると、それだけで光太郎は達ってしまいそうになった。だが無論、この天使の顔をした
 小悪魔がそう簡単に許してくれるはずもなく、すぐさま陰茎の根元を押さえ込んで射精を堰き止めてしまう。

「あ!?…んで、それじゃ…ひゃぁ!」

 達けない…と呟きかけたとき、不意にアリスの陰茎が光太郎の精嚢の裏に当たる部分、前立腺が隠れている部分をグリグリと突き上げたのだ。

「あ、ココが好いんだ♪…ッ。あ、すご!ぬるぬるして狭くて熱くて…すごーい!気持ちいい♪」

 アリスはまるで、食べたことのないお菓子を前にしてはしゃいでいる子供のように笑いながら、貪欲に身体の下で切なげに震えるしなやかな肢体を味わった。

「も…達きたい、イかせて…ッ!」

 メチャクチャな気分を味わいながら、押し寄せてくる快楽の波に飲み込まれそうになって、光太郎は不安に駆られたようにぎこちなく哀願した。だが、アリスは知っていて知らない素振りで、それどころか、不意に膝頭に腕を差し込むと、よいしょと抱え上げるようにして光太郎を自分の膝の上に座らせたのだ。

「ひゃぁぁ!…あ、…ヤ…いやぁ…」

 涙を飛び散らせて嫌々と頭を左右に振る光太郎の、その漆黒の髪に唇を寄せたアリスは、嬉しそうにニコニコと笑った。
 重力に従ってグッと下がってきた重みに、結合部がぶじゅっと音を立てて先走りを蕾から吐き出していた。それで余計に繋がりが深くなって、光太郎はあられもない声を上げて鳴いた。
 大股を開かされて身体を揺すられながら、気付けば根元から手が離れたおかげで光太郎の華奢な陰茎は溜まりに溜まっていた白濁を間欠泉のようにして突き上げられる衝撃で噴き零している。

「いやーん、やらしい♪ねぇねぇ、気持ちい~い?」

「ん…うん、…もち、い…もっと、…アリス、もっと…」

 自分ではもう何を言ってるのか判ってもいない光太郎の、その切ない哀願に、不意にそれまでお茶らけたように快楽を追っていたアリスが、切羽詰ったように息を詰めた。

「ん、僕も。気持ちいい。でもね、もイクよ?」

「いや!…まだ、もっと…もっと」

 貪欲に貪るように腰を擦り付けてくる光太郎の求めに、アリスは驚いたように瞠目していた。ペロリと舌なめずりをしながら、アリスはそれでも可笑しそうにケラケラと笑うのだ。

「もっとって…じゃあ、今夜セス様に抱いて貰いなよ♪僕はもう、大満足だしぃ。セス様もそのおつもりみたいだしぃ」

 そう言いながら、アリスは光太郎のことなどお構いなしにガンガンと突き上げて、切なそうに身震いするその胎内に思い切りぶちまけていた。身体の奥深い部分にマグマのような熱を持つ精液を注ぎ込まれて、最後の残滓までも注ぎ込もうとするようなアリスの動きに、陰茎で胎内を掻き回される刺激に光太郎もびゅくんっと白濁を飛び散らせていた。

「ぅあッ!あ…ア…んん…ん」

 腰を揺するようにして擦り付けてくる貪欲さに、アリスは肩で息をしながら快楽に震えている光太郎の身体を抱き締めてクスクスと笑った。

「気持ちよかった♪ねね、またこんな風に遊ぼうね」

「あ…んー…」

 同じように肩で息をする光太郎は、とろんとした双眸で天井を見詰めながら、どう答えたらいいんだろうと思考の纏まらない頭で考えていた。

「あ!」

 そんな光太郎をまたしても背後から押し倒すように床に這わせて、まだ収斂を繰り返してヒクつく蕾からアリスはぐぷっと粘着質な音をさせて陰茎を引き抜いた。ごぷ…と、アリスの形を覚えていた蕾はすぐには閉じずに、彼の放った白濁をとろりと零している。

「うわー、君の胎内って真っ赤!それにセーエキが零れてすごいエッチ♪ヒクヒクしてる、まだ食べたそう…セス様のは大きいからきっと食べ応えあると思うよ、よかったね♪」

 クスクス笑われても、それが何を言ってるのか、ボーっとした頭では考えられない。
 冷たい石造りの床に頬を押し付けるようにして腰を掲げた姿態で弛緩している光太郎に伸し掛かりながら、アリスは柔らかな唇を光太郎の半開きの唇に押し付けて囁いた。

「僕、アリスって言うの。ねね、君は?」

「…あー…光太郎」

「そっか、光太郎って言うんだ♪じゃ、胎内の始末しよっか」

「へあ?」

 ぼんやりと目線だけでアリスを見た光太郎の、その双眸がギョッとしたように見開かれたときには、彼の繊細そうな指先が、たった今自らが吐き出した白濁を絡め取っていた。
 まだ快楽の余韻で収斂する蕾をさらに蹂躙されて、そして、アリスが持ってきていた道具箱にあるヘラのようなもので掻き出される時には、既に光太郎は何度目かの精を放って失神したように意識を手離していた。

Ψ

 ハッと気付いた時には見知らぬ部屋に寝かされていた。
 天蓋付きのベッドはやけにゴージャスで、ピンクの薄絹がさらさらと風に揺れて、女の子だったら夢見心地で目覚めるような空間だった。が、光太郎は男の子だ。

「なな!?えーっと…」

 ガバッと起き上がってはみたものの、眩暈に襲われてクラクラとへたり込んでしまった。頭を押さえてここはどこだろうと顔を上げると、神妙な面持ちをした蜥蜴の親分、バッシュがそんな光太郎を覗き込んでいた。

『よかった、気が付いたんだな。光太郎、風呂場で逆上せたって聞いてよ…』
「へ?逆上せって…あ!」

 ハッとして真っ赤になったまま俯く光太郎を、バッシュは訝しそうな表情をして首を傾げている。
 思えば、アリスとか名乗った少年にいいように弄ばれて、今でも蕾が何かを咥え込んでいるような錯覚がして真っ赤になったのだ。
 それにしてもあの少年は、一体何者だったのか…

『大丈夫か?』

 手の甲は鱗に覆われているものの、掌は人間の持つ柔らかさがあって、その柔らかな掌で額を包んでくれるバッシュに、真っ赤になったままで光太郎はニコッと慌てて笑ったのだ。

「う、うん。大丈夫だよ…ところで、ここってどこなんだろう?」

『あ?ああ、なんか後宮なんだってさ。一国の城でもあるまいし、あのセスとか言う隊長は国王にでもなったつもりかねぇ?こんな砦で後宮もクソもないんだが…光太郎の他に10人ほどの男娼がいるらしいぜ』

「そうなんだ」

 漸く落ち着いてきた気分に溜め息を吐いて、光太郎は改めて部屋の中を見渡した。
 調度品はそんなになかったが、室内自体は整っていて綺麗だった。
 殺風景ではあるが、誰かがこの部屋を毎日掃除でもしているんだろうか?

『さっき、セスの奴が来やがってな。夜明け前に主がお出ましするそうだぜ』

「え?主って…沈黙の主のことかな?」

『そうだ。はぁ…ジャが出るかヘビが出るかってなもんだが、参ったよな。畜生!このクソッタレなチョーカーが外せたらいいんだが』

 ベッドサイドに腰掛けた有翼の魔物は、首にピッタリと嵌った鉄のような金属の輪を苛々したように引っ張っている。どうやらそれは、何らかの魔法か何かが施されているのか、本来バッシュたちが持っている魔力を発揮できないように抑えこんでいるようだ。

『そうすりゃ、お前1人ぐらい抱えて逃げ出せるんだけど…』

「いや、それはダメだよ。見つかったらバッシュが殺される。それなら、なんとか堂々と逃げ出せる方法を見つけようよ」

『堂々とねぇ…』

 突拍子もない光太郎の申し出に、バッシュは呆れたように肩を竦めてしまう。

「時間なら、夜明け前までまだたっぷりあるじゃないか。頑張ろうよ、バッシュ」

 ニコッと笑って陽気にウィンクする光太郎を、バッシュは呆れたようにポカンッとしていたが、気を取り直して頷いた。

『…ああ、まあそうだなー』

「みんなも待ってると思うし…じゃあ、まずは偵察だよ!」

『…って、お前さっきまでへたばってたのに、大丈夫なのか?』

 グッと拳を握って宣言するように言った光太郎は、まだフラフラするものの、気合いでそれを吹き飛ばしてベッドから降りるとバッシュを振り返った。

「こんなの屁!でもないね。それよりも、あの地下牢で待ってるみんなの方がもっと辛いんだ。バッシュには付き合わせて悪いけど、頑張ろう」

 幾分か大人びた雰囲気を醸し出す様になった光太郎を、双眸を細めて見詰めていたバッシュは、やれやれと溜め息を吐きながら首を左右に振るのだ。大人びた…とは言っても、まだまだあどけなさを残す発想は子供そのもので、だが、だからこそバッシュはそんな光太郎が大好きだった。

『だな。まずはこの部屋から出られるかが問題なんだけどよ…』

 ふと、バッシュは扉付近に何かの気配を感じて、「どうかしたの?」と首を傾げて問い掛けてくる光太郎に片手で制するような仕種をしてから、人間よりも優れいている聴覚でもって気配を窺っている。

(2…3…いや、それ以上だな。なんだ、この気配は?)

 耳を欹てるバッシュの傍まで寄ると、不安に揺れる双眸でそんな蜥蜴の親分を見上げる光太郎は、こんな時だったがやっと見知った顔に会えてホッとしていた。
 バッシュがいれば何とかなる、相変わらずそんな思いが光太郎にはあるようだ。
 そんな光太郎には気付かないバッシュは、様子を窺うような仕種を見せるくせに、まるで襲い掛かろうという、本来生き物の持っている殺気すらないその奇妙な気配に眉を顰めている。
 ハッキリ言って、気色が悪いのだ。

『様子を窺っていてもどうにもならないな。向こうから来ないならこっちから行ってやらぁ』

「ば、バッシュ?」

 ズカズカと大股で部屋を横切る元来から待つことを信条としていない好戦的なバッシュの後を着いて、光太郎も慌ててその背中を追いかけた。
 不意に把手に手をかけたバッシュは、開くかどうか判らなかったが物は試しだとばかりに内側に引いたのだ。

「きゃー!」

「いやーん!」

 扉は思ったよりもすんなりと開いて、それに釣られるようにしてドタドタと何かが部屋に雪崩れ込んできた。

『なんだ、コイツらは?!』

 訝しそうに眉間に皺を寄せるバッシュの声で、雪崩れ込んだ何か、数人の少年たちが「いたーい!」と打ち付けた場所を擦りながら身体を起こすと、顔を上げて今度は別の声を上げた。

「きゃー!!」

「魔物だーッ!!」

 明らかに黄色かった声が悲鳴に変わって、ワラワラと逃げ惑う少年たちに、バッシュは呆気に取られたような不機嫌そうな顔をして絶句している。こんな場合、どうしたらいいんだと彼の服を掴んでソッと後ろから覗いている光太郎を見下ろしてパクパクと口を開いているが声が出ない。
 バッシュにしては珍しく、驚いているようだ。

「あれ?後宮の子たちかな??」

「わーん、食べられてしまいますぅ…あれ?あなた、もしかして人間??」

 頭を押さえて泣き出していた、光太郎よりも随分と幼い少年が、独り取り残されて途方に暮れたように観念していたが、光太郎の声に気付いて恐る恐る顔を上げてキョトンとした。

「うん、俺は光太郎って言うんだ。こっちはバッシュって言う魔物なんだけど、大丈夫。彼は人間を食べたりはしないよ」

「ほ、ホント?本当に食べない?」

 くすんくすんと泣いている少年は、ビクビクと怯えながら蜥蜴の親分のようなバッシュを見上げている。それでなくても目付きの悪さは擢んでているバッシュのこと、初めて見る魔物にしては兇悪すぎたが、自分と少しも変わらない人間の少年が親しげに寄り添っているのを見ると、腰を抜かしていた少年も恐る恐るではあるが身体の緊張を解き始めたようだ。

『お前を喰うぐらいなら木の皮でも喰ってる方がマシだ』

 フンッと外方向くバッシュにビクッとする少年を見て、光太郎は困ったように眉を寄せてそんな蜥蜴の親分を見上げるのだ。

「もうー、どーしてバッシュはそんなこと言うかなぁ?またこの子、怯えちゃったじゃないか」

『知るか』

 人間なんか知ったことかと外方向いてツーンとしているバッシュに、やれやれと肩を竦めて苦笑した光太郎は、どうしたらいいのか判らないと言った感じでバッシュと光太郎を交互に見比べている少年にニコッと笑いかけた。

「ごめんね、そんなに悪い魔物じゃないんだけど。人間を見ると条件反射で意地悪になるんだよ。でも、大丈夫食べたりしないから」

 柔らかく笑いかけられて、バッシュは怖いけど、光太郎は気になる少年はビクビクしながらも瞼を擦って涙を拭った。

「う、うん。えっと、こんにちは。ボク、ケルトって言います」

 へたり込むようにして座ったままでぺこんと頭を下げる少年ケルトに、光太郎はニッコリ笑って「よろしく」と言いながら腰の抜けている少年の腕を掴んで立ち上がらせてやった。

「どうして怖いのに、こんな所に来たんだい?」

 不思議そうに光太郎が小首を傾げると、ケルトはバッシュを気にしながらモジモジと俯いてしまう。
 そのウジウジした態度にバッシュは苛々したが、その気配を敏感に感じ取った少年は声を詰まらせて怯えてしまった。

「もー、バッシュってば~!!」

 ムキィと怒ってバッシュを部屋に押し込んだ光太郎は、ヒクヒックと今にも泣き出しそうな少年に怖がらないでねと言って笑いかけた。

「もう、大丈夫だよ。バッシュってば参っちゃうね、あははは」

 何とか取り繕おうとする光太郎に、怯えたようなケルトは同じ人間だと言う安堵感からピッタリとくっ付いてきた。

「みんなが!あの、みんなが珍しい人がいるから見に行こうって。ボク、来たくなかったのに」

(そうだろうなぁ…バッシュであれだけ怖がってるんだ、シューに会ったら卒倒するかも)

 ピタッとくっ付いてふにゃぁと泣き出しそうなケルトは、どう見てもまだ10歳そこそこのあどけない少年だ。こんな子供が、まさか男娼なんてことは…あるんだろうなと、光太郎は暗い気持ちになっていた。
 この年齢になっている自分でさえも、男に犯された経験は暗い陰になって心の奥深いところに根付いている、ましてやこんなあどけなさを残す子供なのだ…この子は、こんなところにいても凹んでいたりしないのだろうか。
 不憫で仕方ない心の葛藤を押し殺して、そんなはずはないと知っている光太郎は小さく笑って頷いていた。

「大丈夫だよ」

 何が?とか聞かれてしまうと困るのだが、思わず呟いてしまった言葉に、ケルトはキョトンッとして小首を傾げた。それから、泣きそうな表情のままで愛らしくコクリと頷いた。

「はい、ここに来てよかったと思います。光太郎さんと…あの、バッシュさんに逢えました。バッシュさんは魔物ですけど、怖くありませんでした。良かった…です」

 ヒックとしゃくり上げたのは、扉の隙間からジーッと見詰めてくる縦割れの凶暴そうな双眸に気付いたからだったのだが、扉の向こうのバッシュがフンッと鼻を鳴らして『子供のクセにおべんちゃらなんて言うな』と言ったのを聞いて、ケルトは怯えながらもキョトンッとしてしまった。今まで、どんなに怯えていても確りしろだとか、男の子なんだからと言って毅然とするように言われてきていたケルトは、そんなバッシュの飾らない言葉に目を丸くしたのだ。

「あー、もう。バッシュのことは、この際気にしないで…」

「いいえ!バッシュさんに言われて、ボク良かったです。いつも男の子だから我慢しなさいって言われてきました。確りしたことを言いなさいって…でも、バッシュさんは言うなって言ってくれました…ボク、ボク、ホントは怖いです」

 ふにゃっと顔を歪めたケルトは、シクシクと泣きながら光太郎に抱きついた。
 何かを我慢していたように泣くケルトの肩を優しく抱き締めてやりながら、光太郎はそうか、バッシュでも良いことを言うんだなぁと感心してしまった。
 少し酷いようだが、今見直してしまったと言った感じだが、当のバッシュは扉の向こう側で『ガキなんだから怖くて当たり前だろーが』と、何でそんな当たり前なことも判らないんだ、これだからは人間どもはと憤懣遣るかたなさそうに腕を組んで鼻で息を吐き出している。

「ごめんね、バッシュはああ見えても良い魔物なんだよ」

 泣きじゃくるケルトにオロオロしたように慰めようとする光太郎を、少年はポロポロ泣きながら鼻を啜って頷いた。

「バッシュさんは怖いですけど、ボクは大丈夫です。だから出て来てください」

「ホントに?だったら…えーっと、バッシュ?」

『別に取って喰うってワケじゃねーのに、どうして人間は見た目だけで魔物を毛嫌うんだろうな?そんな風にされると、どうも思ってない時でも殺して遣りたくなるぜ』

「バッシュ!」

 穏やかじゃないことを言いながら姿を現すバッシュに、矢張りケルトは怯えたが、それでも精一杯頑張ってニコッと泣き笑いのような顔をした。

「あの、光太郎さんとバッシュさんは初めてこちらに来たんですよね?ボク、よかったらこの後宮をご案内します」

「え、いいの?」

 光太郎が驚いたように眉を上げると、はにかんだようにニコッと笑ったケルトは頷いて、それからビクッとしたようにバッシュを見上げた。よく見ると、矢張り蒼褪めている。

 バッシュは面白くなさそうに舌打ちしたが、それでも慣れてくれなんて思ってもいないからもう気にもしていない。

「はい。ボクもまだここに来て3ヶ月ほどですけど、少しは知っていますから」

 柔らかく笑うケルトは、サラサラの金髪で、空色の大きな瞳がキラキラしていてとても可愛らしい少年だ。まだ、漸く10歳になったばかりぐらいの少年を、光太郎の背後から見下ろしていたバッシュは、こんな年端も行かぬ子供までも慰み者にしているのかと、人間どもの持つ限りない欲望に吐き気さえ覚えていた。

「そっか、それじゃあ助かるな。じゃあ、色々教えて貰おうよバッシュ」

『ああ…』

 頷く魔物に、ケルトはまだ慣れていないように怯えた双眸で見上げていたが、自分と同じ人間であるはずの光太郎が、困惑しながらもニコッと笑いながらバッシュを見上げて、まるで信頼を寄せきった無防備な表情で接しているのを見ている間に、少しずつ心の蟠りのようなものが解きほぐれていくのを感じていた。そうしてジーッと根気よくムスッとして睨み返してくるバッシュを見ているうちに、漸くその凶暴そうな目付きに慣れてきたようだった。そうして慣れてくるとバッシュと言う魔物は、大人が言うほど凶悪で残虐的な生き物ではないように思えた。
 この極悪な環境下で信じられるものなど何もない砦で、初めて出会ったはずなのに、ケルトは太陽に似た花が咲き誇るように笑う光太郎を、どうしても疑えなくなっていることにも気付いていた。だからこそ、その彼がこれほどまでに信頼しているバッシュと言う魔物が、ここにいる大人たちよりも随分と信用できるのではないかと思い始めていた。
 ならば、まずは自分が馴染まなければ…ケルトはそれでも恐ろしさに震える心を叱咤して、バッシュを見上げると、朝の静けさの中で咲き綻ぶ花のように微笑みかけていた。
 そんな風に人間に笑いかけられたのは光太郎だけだったから、バッシュは呆気に取られたような、困惑したような顔をしてポカンと見下ろしてしまった。
 バッシュのその態度にケルトもキョトンとしたが、次いで、思った以上に怖くない魔物にやっとパァッと表情を明るくしたのだ。

「ボク、いろいろ教えますよ!ここに来てずっと1人でしたから、光太郎さんやバッシュさんに逢えて本当に良かった!宜しくお願いしますッ」

 ペコンッと頭を下げて宜しくされてしまった光太郎とバッシュだったが、光太郎は嬉しそうに宜しくされて、バッシュは困惑したように何を宜しくされているんだろうと首を傾げてしまった。だが、そんな2人のことにもお構いなしで、やっと打ち解けられたケルトはニコニコ笑っている。もともとは明るい少年だったのだろうと思った光太郎は、矢張り彼も、1人で心許無かったのだろうと思うと、こんな小さな身体でたった独りこんな場所に連れてこられて、どんなに心細かっただろうとそっと眉を寄せて唇を噛んでしまう。
 年の離れた可愛い弟ができたような気分になった光太郎と、厄介なものを背負い込んでしまったと思ったバッシュの腕を取ったケルトは、嬉しそうにニコニコと笑っている。

「ボク、頑張ります!」

 ふっくらした頬があどけない少年は、恐怖心から漸く解放された安堵感で、本来持っている陽気さを垣間見せてニコッと微笑んだ。光太郎とはまた違う柔らかで優しい微笑みに、魔物は子供には罪はないからなぁと、光太郎の傍にいることを許してやる気になっていた。
 しかし、矢張り厄介者を背負い込んでしまったと言う思いは消えない。
 人間は信用できないからなと、年端も行かぬ子供に警戒心を抜くことはなかった。
 そんなバッシュを見ながら、光太郎が「そんなに考えてると鱗が禿げてしまうよ」と思っているかどうかは別としても、後宮での光太郎とバッシュの短い生活は、こうして始まったのだった。