10  -Forced Encounter-

「よーう!レビン、久し振りだなぁ」

 幾つかの書類を手にしたままで大きく片手を振って注意を引く男に、レビン・ヒュイットは気付いて片手を挙げて見せた。
 背後に従えたヴァル・シャンクリーのようにボサボサの髪に度のきつい眼鏡をかけて、お決まりのネルシャツにジーンズ姿の、凡そFBIに所属するとは思えない出で立ちの男は、ヒョコヒョコと近付いてきて、それから改めてヴァルの姿に気付いたようだ。

「おーっと、これは珍しい顔だね?どなたさん?」

 その前にお前が名乗れと言いたいところだが、ボルチモア本部に入るのは初めてだったヴァルは若干緊張でもしていたのか、肩を竦めて見せる。

「市警のヴァル・シャンクリーだ」

「へぇぇ!市警かぁ、ここいらじゃ珍しい組み合わせだな?おい!」

 陽気に背中をバンバンッと叩かれてうんざりしているようなレビンは、ゴホンッと咳払いして陽気でギークそうな男を渋々と言った感じで呆気に取られているヴァルに紹介した。

「コイツはネットワーク関連のスペシャリストでベニー・バー…」

「そうそう!オレはベニー・バーリンって言うんだ、どーぞヨロシクッ」

 レビンの紹介を遮るようにして握手をする気が全くなかったヴァルの片手を両手で掴んだベニーは、それはそれは嬉しそうにブンブンッと振り回して自己紹介をしてくれた。

「はぁ…どーも」

 なかなか中年のヴァルにしてみると、20代後半の若造の突拍子もない行動には閉口気味にならざるを得ないようだ、が、それは顔見知りでも同じだったようで、ムッツリと不機嫌そうなレビンがヴァルを救出して苛々したように首を傾げて見せた。

「それで、ベニー?何か判ったのか」

「へ?…ああ!例の殺し屋さんのプログラムね」

 ポンッと手を叩いて合点のいったベニーの、そのいちいち大袈裟なジェスチャーにうんざりしているレビンは、殺し屋じゃねーよと呟きながら首を左右に振っている。
 どうやら陽気な性格のレビンでも閉口しているぐらいなのだから、このあからさまにギークな男は驚くほどクレイジーでもあるのだろう。

「今日は出払ってていないんだけど、シャリーンと一緒に調べてみたんだよね。そしたらどうだ!ごく単純なアルゴリズムだってのにさ、これを考えたヤツはなかなかキレるヤツだろうね。いや、寧ろ天才と呼んでもいいんじゃないかと思うよ。判り易く説明すると、動画が流れてるじゃないか?その動画の中には色んな情報が組み込まれているんだよ。だがそれはアップする時に組み込まれるワケだ。Youtubeで言えばコンテンツIDやコンテンツ検証プログラムを使用すれば自動でサクサク削除できるって言うアレだな。ただそれに対応していない動画はYoutubeに削除を申請しないとダメだろ?AVや版権モノならば検出は可能なんだけど、個人がアップする動画は特にコードなんか組み込まれていないワケだから自動で検出して自動で削除するなんてことはできないって思われるワケだ…が、このプログラムはそうじゃない。面倒な申請なんか必要ないし、動画サイト側の意図で削除したように偽装して、何よりすごいのはアップしている相手のOSに忍び込んで対象の動画を自動削除までするってことだ」

 そこで一旦、言葉を切ったバリーは興奮しているようにゴクリと息を呑み、呆気に取られたように聞いているレビンとヴァルに頷いて言葉を続けた。

「動画ってのは自動で判断できない部分があるんだが、このプログラムは何らかのコードを検出する特性を持っているようなんだよ。その情報を自動的に読み取って、その中にある特定のコードを割り出して抽出し判定して自動で削除。ヘンな話、その特定のコードを持った動画をアップしたと同時に削除されてしまうって感じだな。それだけじゃないぜ、さっきも言ったけどさ、このプログラムはアップ中に特定のコードに反応して即座に起動すると、アップしているOS、媒体はなんでもいいんだが、その中に勝手に入り込んで特定コードと同じコードを持つ動画まで削除しちまうんだ。しかも侵入者側の情報は一切残さないから、とんだ高性能のスパイウェアだぞ」

 興奮したようにそこまで話すと、その2人の顔付きに一抹の不安でも覚えたのか、まあ、まずは自分の目で見た方が良いだろうと判断したようで、こっちにおいでおいでと身振り手振りで自室に案内され、レビンとヴァルは薄暗い部屋に所狭しとディスプレイを並べているかなりヘビーで胡散臭いベニーの部屋に、一瞬立ち竦み、そしてやはりうんざりした顔で招き入れられた。

「オレが仮想サーバに同じようなシステムを作って検証してみたんだよ。まあ、見てろよ」

 カタカタと幾つかのキーを叩くとひとつのディスプレイにYoutubeのインターフェースが表示された。そのYoutubeにログインすると、彼は動画のアップを開始した。

「ほら、こっちを見ろよ。例の殺し屋さんのプログラムが反応しただろ?で、検証に入る。コードが特定され削除…すると、アップされた画像はご覧のとおり」

 アップ開始と同時に左側に置かれていたディスプレイの中で何かが起動したらしく、小さな窓が開くと多くのコンピュータ言語がかなりの速度で上に流れていく。その中で特定されたコードが検出されたのか、また幾つかの言語が表示されると、右のディスプレイに表示されているYoutubeにアップされるはずの動画が表示されない。
 ご丁寧に【この動画は著作権…】と言ったアナウンスと砂嵐のオマケ付きで、あたかもYoutubeの規約に引っ掛かったような演出まで用意されているのだ。

「へえ…俺はパソコンのことはよく判らないけど、これは凄いんだろうな」

 ヴァルが感心したように呟くと、ディスプレイの前に腕を組んで立っていたベニーは、なんて当たり前のことを言ってるんだと、驚いたように振り返った。

「ああ!凄いさッ。だが凄いなんてモンじゃない。見ろよ、動画削除だけじゃなく、こっちのOSにもぐり込んでアップされた動画を探しているだろ?この間、僅か数秒なんだぞ。しかもアップした本人は画像が差し替えられたことにすら気付けもしないんじゃないかな」

「なんだって?」

 ワクワクしたようにしてベニー詰め寄られたヴァルが息を呑んでいる傍らで、レビンが眉を顰めてクレイジーなスペシャリストを見ると、彼はニヤッと笑ってレビンに振り返ると楽しそうにコクコクと頷いた。

「そうそう!聞いて驚け。コイツはコッソリと忍び込んでさもその動画ですよってツラさせて、実際は別の動画になってるんだ。見ろよ」

 マウスでカーソルを動画ファイルに置き、クリックして見せるとそこには何の変哲もないおもしろ動画が流された。

「非常に面白いことに、僅か数秒でOS内にあるファイルから傾向を読み取って、Youtubeにアップされている動画をダウンロードして置き換えるんだ。元の動画は完全に削除される。コイツは凄いんだぞ、レビン。このプログラムで一儲けできるぐらいだ。オレはこんな代物を短時間で作り上げたってヤツを是非ともFBIにお招きしたいね」

 ベニーは甚く興奮しているように捲し立てたが、パソコンに関してはチンプンカンプンの2人にはいまいちその凄さが伝わっていないようだ。

「なあ、ベニー。もう少し判り易く説明してくれないか?」

「はあ?!これ以上、どうやって判り易く説明しろって言うんだよッ。あのなぁ、これは完璧なスパイウェアだ。このアルゴリズムの作成者は単純に何らかの動画の削除を目指したんだろうが、情報の検出が難しい動画を自動削除させるプログラムを作り、ましてやなんの痕跡も残さずに他人のOSに忍び込むことができるんだ。今回は判り易く視覚的にお前たちに見せているが、実際は水面下で全てが完結されるんだ。このプログラムを応用すればどうなると思う?しかもだ、このプログラムを組み込むために、例の殺し屋さんは幾つかの企業のサーバにアタックして易々と侵入したってことだ。あながち、オレがFBIに招きたいってのも満更じゃないんだぜ」

 そこまで聞いて、漸くレビンとヴァルは納得したようだった。

「ふーん、なるほどねぇ。例の名無しは企業サーバに侵入したってのに、どの企業も侵入に気付いていないから大騒ぎにもなってない、ってことも問題なんだろうな」

「ああ、そうだ。なんだ、市警さんはよく判ってるじゃないか!内々でどうにかしてるってワケでもなさそうだから、どの企業もクラッキングに気付いていないんだろう」

 ヴァルが感心したように呟くのに被って、ベニーは嬉しそうに笑ってその背中をバンバンッと叩いてきて、ボサボサ頭の市警の刑事を噎せさせた。

「なあ、レビン!頼むよ、このプログラムの作成者に会わせてくれ。少しでいいからさッ」

 レビンはだからコイツに頼むのは嫌だったんだ…と言いたそうな顔をして、この世の終わりのような表情で盛大に溜め息を吐いた。

「…俺がウィルスなのかって聞いたら、ソイツはなんて答えたと思う?【はあ?なんだそれ、よく判んないな。俺はコータローくんの動画の拡散が怖かったから、それを止めるためのプログラムを作ったんだ。それだけだ】って言ったんだぞ。一言一句間違いなく。そんなヤツがお前と仲良くお話をすると思うのか?」

「…ぅぉおおお!スゲーな!拡散が怖くてアップしてられっかよ!じゃなかった、拡散を止める為だけに作ったって?!ますますお話したいです~」

 甘えるように付き纏うベニーに、レビンがいい加減うんざりしたようにその肩を押し遣りながら吐き捨てるように言った。

「ヤツはコータロー君以外に興味なんてないんだよ!つーか、離れろッ!お前はゲイか?!」

 グイグイと肩を押し遣るレビンにそこをなんとかと食い下がるベニー…ボリボリと頭を掻いていたヴァルはやれやれと溜め息を吐いたようだ。

「仲が良いのは結構だが、まだまだやることがあるんだろ?そろそろ時間じゃないのかい」
 ああ…とレビンが頷くと、実際は物分かりの良いベニーはすぐに身体を離して、それから首を傾げて眉を顰めた。
「なんだなんだ、レビン。まだ何処かに行くのかい?相変わらず忙しいヤツだなぁ」

「名無しの名前が判明したんでね、ヤツの素性の洗い出しさ」

「へーえ!名無しの殺し屋さんはなんて名前なんだ?」

「ヒューゴ・レオン・カーソンだそうだ」

 特に気もない仕草で聞いてきたのは、恐らくプライドの高いベニー・バーリンを以てして天才と言わしめる名無しの容疑者に対して、微塵もなかったはずの興味と言うモノを持ったのだろう。

「ヒューゴ・レオン・カーソンだって?」

 ふと眉間に皺を寄せたベニーの仕種にレビンが訝しそうに双眸を細めた。

「何か知っているのか?」

「あ?ああ、いや。どっかでチラッと聞いたような気がしたんだけど。どうも気のせいだったみたいだ」

 顎に片手を添えて伸び始めの無精ひげを擦って考えるような仕草をしたものの、記憶の隅に引っ掛かっているようなモヤッとした塊は出てきそうにないので、ベニーは諦めたように早々に降参して両手を上げた。

「何か思い出したら連絡をくれ」

 はいはいと気のない返事をしたものの、ベニーはヒョイッと肩を竦めて腕を組むと、すぐにでも次の行動を起こそうとする若い捜査官と物珍しい市警の刑事を見据えて口を開いた。

「まあ、今度の件は上にも一応報告はしておくけど…気を付けろよ。そのカーソンとか言う容疑者は、恐らく無知のふりをした曲者だぜ。足許を掬われないように精々注意するんだな」

 レビンとヴァルは一瞬目線を合わせたが、そんなことは一連の流れを見れば百も承知なのだ、行く先に蛇が出るのかジャが出るのか…いずれにしてもレビンは肩を竦めて苦笑しながら旧い友に感謝した。

「ああ、そうするよ」

 ディスプレイの置かれた机に凭れるようにして腕を組んでいるベニーは、そんな彼らにか、それとも何処かに居る誰かにか…どちらにせよ彼は、意地の悪い笑みをニヤリと浮かべて呟くのだ。

「…ったく、とんでもないヤツだから、きっとあらゆる機関は欲しがるだろうな。そうしてこう思うんだ。ヤツが殺人鬼でさえなかったらってね」

 その薄ら寒い笑みにレビンは寒くもないのに腕を擦り、それから首を左右に振って来た時と同じように片手を挙げて別れを告げた。

「今度来る時はベリーのタルトでも持って来いよ!」

 ふざけた調子で声を掛けるベニーを無視した2人の行く先に、蛇が出るのかジャが出るか、いずれにせよ…彼ら行くしかないのだ。

 名無しの殺人鬼ではないかと疑いをかけられている、ストロベリーブロンドにサンタマリア地方産のアクアマリンのような青に近い神秘的なシルバーグレーの双眸を持つヒューゴは、目の前で困ったように微笑んでいる異国の青年…まるで少年のようなあどけない表情の、無垢と言うモノが形作るのだとしたらまさにこんな器になるだろうと思わせる、思わず微笑まずにはいられない容姿の光太郎を嬉しそうに見詰めている。
 最初の質問として訊ねたのは、ずっと観察していたのだからとっくの昔に知り尽くしていることではあるけれど、できれば彼の口から聞きたいと言う欲求に抗えずに聞いてみたことだったが、思う以上に彼を悩ませてしまったらしい。

「僕の好きな食べ物ですよね…うーん、たくさんあるから絞れないけれど。そうですね、僕、甘いモノが大好きなんです!アメリカってお菓子は全部甘いですよね?僕はそれがとても嬉しくて…僕、スニッカーズも好きなんですけど、ミルキーウェイとかツイックスも好きです。でもアーモンドジョイも大好きです」

(ふふ…可愛らしいよな。どんな甘いモノでも喜んで喰うんだよな)

 確かに甘いものに目がない光太郎ではあるけれど、だからと言ってこんな場所で熱弁を奮う必要はないだろうと頭を抱える惟貴の前で、ヒューゴは嬉しそうにうんうんと頷いて聞いているのだが、惟貴はどうもその姿に薄ら寒い気持ちになっていた。
 何が、と言うワケではないのだろうが、本能的な部分で警戒するような感じである。

「市販の菓子なんて百害あって一利なしだってのにさ、それでも嬉しそうに喰っちゃうんだもんなぁ」

 やれやれと溜め息を吐く仕草も様になるハンサムなヒューゴの台詞に、やぱり光太郎はニッコリと笑ったままでゴクリと息を呑んだ。

「ええーっと…その言い方は、やっぱりその…」

 自分が好んで菓子を食べていることを知っているのかと聞きたいような、もちろんさ!と答えられたらどうしようと言うおっかなさが相俟って、その先を言えずにモゴモゴしていると、ヒューゴはそんな光太郎を華麗に無視して口を開いた。

「光太郎はなんでも甘いモノは自販機で買うだろ?あれはさ、やっぱり言葉に自信がないからか?」

「え…」

 少しドキリとしたような顔をして、それから光太郎は徐に俯いてしまう。
 確かに売店を利用せずに自販機に頼ってしまうのは、苦手な英語で相手が不快に思うことを避けているからなのだが、それ以前に少し怖いと言う思いがあることは兄にも言っていない。

「自販機ってのは便利だな。物言わずにお辞儀してりゃモノが落ちてくるって仕組みだ。それで生きていけりゃ楽なんだけど。やがてはそれだけじゃダメだって気付くだろ?気付いた時には何もかも遅かった…なんてことになったら悲惨じゃないか。だったらさ、そうなる前に話しちまえばいいんだよ。言葉は話せば話すほど上達するんだ。黙ってたら馬鹿になるんだぜ。俺みたいにね」

 ハハハッと声を出して笑うヒューゴに光太郎は一瞬呆気に取られたような顔をしていたが、それからふと、納得したように微笑んだ。

「僕、話すことが怖いんです。この言葉で誰かを傷付けないかとか、ちゃんと気持ちが伝わっているのかとか…相手の反応を見るのも怖くて、ダメですね。なかなか踏み出せない」

 語尾は溜め息のように零れ落ちてしまったが、ヒューゴはそんな光太郎を食い入るように見つめていた、が。

「…俺はさ、失敗したことなんてないんだぜ。ただ、何万通りもあるうまくいかない方法で試してるってだけのことさ。頭のいいヤツはなんでも小難しく考えるからいけないね。道理なんてモノはさ、驚くほどあっさりしてんだよ」

 あっけらかんと言い放つヒューゴの双眸は憎めない笑みに揺れていて、それで初めて、光太郎は彼が何を伝えようとしているのか判ったような気持ちになった。
 そしてそれがとても不思議で、同時に何もかもを素直に受け入れたくなっていた。

「ああ、そうか…僕は失敗を懼れていたんだ」

「気持ちだけじゃダメな時だってあるんだ。心で思うだけで伝わればいいなんて、そんなモンは驕りだよ。口に出さなけりゃ、優しさだってなんの意味もなければ価値もない」

 やれやれと肩を竦めるヒューゴに、光太郎はクスッと苦笑して頷いた。
 確かにいちいちヒューゴの言う通りではあるのだけれど、その想いを伝える方法がとても簡単だが難しいなんてことは、きっと言わなくても判っているんだろう。だからこそ彼は、失敗してもいいんだから口に出せばいつか成功することもあると言っているのだろうか。
 誰にも相談できず…ましてや反対を押し切ってまでアメリカに来てしまったのだから、兄に言うことも侭ならなかった光太郎は、四方や一級殺人罪の容疑者から諭されるなど思ってもいなかったが、その言葉は正論で真摯で…静かに心にすとんと降りて来た。

(ああ、本当だ。言葉に出してくれたらこんなに簡単に優しさを受け入れることができるんだ)

 背後で兄やサモンズ捜査官が小さく溜め息を吐いて落胆しているのはよく判るのだが、光太郎はそれでもめげることはなかった。
 聞き出さなければいけない情報は幾つか聞き出したのだから及第点をもらってもいいだろうぐらいの気持ちだし、自分は彼と話をしようと思って此処に来たのだから、今は話すことが仕事だと思っていた。

(何万通りもあるうまくいかない方法で話しているに過ぎないんだよ)

 そう思ってクスッと笑っていて、ふと気付くと、ヒューゴが少し嬉しそうに頬の緊張を緩めて見詰めている。
 この人はどうして、自分を見る時にこんな風に優しい双眸をするんだろうかと光太郎は不思議な気持ちになっていた。
 何十人と言う人間を無情にも惨殺した人物だと言うのに、狂気に彩られた暗い深淵の持ち主だと言うのに、光太郎は彼の心の在り処が判らずに困惑してソッと眉を顰めてしまう。
 犯罪心理学は犯罪者の心理を究明することに特化している心理学だったが、光太郎が目指す臨床心理士は被害者の心のケアに重点を置く。リケット博士の講義でその内容を絡めて発言したに過ぎないのに、その中のどの言葉が彼の残虐性や凶暴性を抑え込んでこんな表情を浮かべさせているのだろうか。
 ともすれば、その全てか真実で、本当は彼は殺人など犯していないのではないか…そこまで考えて光太郎は唇を噛んだ。
 彼はマーカスの殺害現場に居て、駆け付けた警官に両手を上げて薄ら笑っていたんだそうだ。
 ヒューゴは光太郎が自分に愛を告白したのだと言う。
 だから、自分は光太郎を守るのだと。

(ヒューゴの心を動かしたその言葉が、本当は何の意味も成さないと知った時、君はどれほど傷付くんだろう…)

 沈黙は心地好いと学んでいるのか、黙り込む光太郎の仕種にも別に気にした様子もないヒューゴは、思い悩んでソッと眉根を寄せる日本人青年の機微に心を配り、恐ろしいほど上機嫌で見詰め返している。

(ダメだ。こんなこと考えちゃダメなんだ。ヒューゴはたくさんの人を殺して、まだ見つかってない人もいるんだから、俺はその人たちを見つけ出すために此処に来たんだから)

 唇を噛んで止め処なく流れていこうとする思考の波を引き留めて、光太郎は本来の自分の役目に終始しようと心に決めた。
 とは言え、百戦錬磨の惟貴と言えど、彼の重い口を開かせることができなかったのだから、自分が彼の思考に潜入することなど…端から無理な話なのだ。
 それならばたくさん話をして、その話の中に何かの切欠を見つけ出せば、少しずつ物事が進んでいくのではないかと考えていた。それが、光太郎がこの一週間で考え出した戦略だった。
 嬉しそうに首を傾げるヒューゴに口を開きかけたその時、不意にアラームの音が響き、背後に控えていた惟貴が無機質な電子音を停止させて低い声で言った。

「時間だ」

「あ…はい」

「え?!もう??」

 三者三様の声ではあったが、一番不満そうなヒューゴに惟貴は咳払いしながらやれやれと首を左右に振った。

「本来の刻限はとっくに過ぎているんだ。これでも延長した方なんだぞ」

「マジか」

「大丈夫です。また金曜日にお話に来ますから」

 ガックリしたように眉根を顰めたけれど、立ち上がる光太郎がにこやかに屈託なく笑ってそう言うと、ヒューゴは何か言いたそうな表情をして見上げていたものの、困った顔をして溜め息を吐いてしまう。

「それじゃ仕方ないな。また2日間は無意味な日々だ」

「それは違いますよ、ヒューゴ。無意味な日々なんてないです。だって、僕はこの2日間、きっとまたあなたに何を話そうかって考えると思いますから。あなたも僕と何を話そうかって考えればいいんですよ」

 エヘッと笑う光太郎を見上げたままで、仏頂面だったヒューゴはキョトンとして、それからふと、困ったような嬉しそうな、とても複雑な表情をして笑ったようだった。

「そうだな。そう言う時間も悪くないんだろう」

 だが、とヒューゴは暗い思考の片隅で静かに思っていた。
 そうじゃない、と、こんな風に僅かに離れることも嫌だと思うほど、心から必要なこの小さな存在の姿が見えないことなど考えたくもないんだと。
 自分の目が届かない何処かで、得体のしれない異常者に大事な【彼】を奪われるとしたら…

(ゾッとしないからな。まあ、今回は緊急だったから力技でやっちまった感はあるんだけどさ…毎日来るように仕向けるべきか)

 見上げている黒髪のやわらかな表情を持つ少年のような日本人青年は、嬉しそうにニッコリ笑っているが、その癒される雰囲気の光太郎を抱き締められたらいいのにとヒューゴは心から思っていた。
 両手にぬくもりを感じるチャンスは幾らでもあったくせに、そうしなかったのは自分に勇気がなかったからだとややのび過ぎているストロベリーブロンドの前髪が影を落とす、神秘的なシルバーブロンドの双眸を自嘲的に細めて苦笑した。

(いや、そうじゃない。そんなことは考えるな…光太郎には学位が必要なんだ。そのために、FBIを利用することにしたんだから。俺も大概だな)

 やれやれと内心で肩を竦めるヒューゴが沈黙の檻に引き籠ったと判断した惟貴は、資料を抱える光太郎に退室するように合図を送った。当初に決められた合図に気付いた光太郎は、慌てて頷き、それから何事かを考えているようなヒューゴは気付かないだろうがと思いながらも、もう一度微笑んで小さく呟いた。

「では、さようなら」

「さよならじゃないさ。また金曜日」

 俯きがちになっていたヒューゴはすぐに顔を上げて、別れの言葉を告げる優しい日本人青年を見上げて言った。
 その双眸には離れ難い気持ちが滲み出ているのか、彼にしては珍しく【寂しい】と言う感情が揺れているように見える。
 惟貴は一瞬目を瞠ったが、ヒューゴの寂しさはまるで幻のように霧散して、そしてもう興味を失くしたようにふぃっと目線を逸らしてしまった。
 彼にとって重大な名前を暴露し素性を明かしたものの、光太郎から得られたご褒美はほんの細やかなモノだったに違いない。
 だが、その細やかなモノこそがヒューゴが望み、そして手に入れたい何かだったに違いないのだ。

「今日は驚くほどお喋りだったな」

 退室を促そうと資料を抱えたままキョトンとして見上げてくる光太郎の肩を抱いたまま、惟貴が興味を失せた硝子玉のようなシルバーグレイの瞳を見詰めて呟くと、そのあまりにも冷たい双眸のままで自らの精神分析医をチラッと見たヒューゴは嫌味たらしく鼻先で嗤ってみせた。

「俺はいつだってお喋りだよ。ただ、知的な馬鹿との遠回りなお喋りは退屈なだけさ」

 拘束衣に阻まれることがなければ、大袈裟に肩を竦めるジェスチャーでもして、机に頬杖でもついていたのだろうが、ヒューゴはただ吐き捨てるだけだった。
 やれやれと溜め息を吐く惟貴が光太郎を促して退室するその後ろ姿を、感情を失くしたような…綺麗に感情を隠してしまった双眸で、訝しそうに眉を顰めながら兄を見上げていたが、ジッと見つめる自分に気付いて肩越しに微笑む光太郎を見詰めてヒューゴは苦笑した。

(だが、これでいい。そうさ、これでいいんだ。いずれにせよ、ゲームオーバーだ)

 ヒューゴは立ち去ろうとする光太郎の後ろ姿をチラッと見詰めて、そしてゆっくりと瞼を閉じた。
 極めて異例の事態であり、且つ異例の処遇の容疑者は、嘗てないほどの異例の面談をそれでもどうやら満足したように終えたようだった。

9  -Forced Encounter-

 メリーランド州ボルチモアの州立病院精神異常犯罪者病棟の佇まいは簡素ではあるが、整然とした佇まいで白を基調にした色遣いは、何処か不安にさせるモノだと光太郎はソッと眉を顰めた。

「アモウ博士!それとコータロー君。よく来てくれたね」

 サモンズ捜査官は感情の読み取れない暗い双眸で見詰めてきたけれど、光太郎は気にせずに微笑んで差し出された掌に握手した。

「今日は宜しくお願い致します」

 そんな2人の遣り取りを面白くもなさそうに見つめる惟貴に、やや遅れて駆け付けたレビンが慌てたように挨拶をしてきた。

「アモウ博士!電話ではどうも。あの続きなんですが、警官の報告によるとやはりクローゼットのある寝室に忍び込んでいた男がいたそうです。既に逮捕されていますが、何やら支離滅裂なことを口走っているようで、後ほど精神鑑定に回されるようです」

「ああ、やはりそうでしたか…ところでそちらは?」

 期待通りの内容に内心で舌打ちしたい惟貴だったが、ふと、レビンの傍らで面白くもなさそうにボサボサの茶髪を掻きながら、眠たそうなヘーゼルの双眸の男に気付いて訝しげに眉を顰めた。

「ああ!彼は今回の事件に協力してもらっている市警のヴァル・シャンクリー刑事です。ヴァル、こちらは精神分析医のコレタカ・アモウ博士だ」

 名無しの殺人鬼について当局は極めて慎重な対応を取っていると言うのに…いや、惟貴すらヤツの存在をあまり大っぴらにしてはどうなのかと考えているのだ。

「はぁ、豪い綺麗な博士ですね」

「おい!」

 NY市警の刑事はとぼけた口調で感心したように呟いたものの、レビンにドスッと背中を殴られてやれやれと肩を竦めて『すんませんね』とぼやいたようだ。

「ヒュイット捜査官、この事件は隠密での対応…ではありませんでしたか?」

 不機嫌そうに眉根を寄せる惟貴に、飼い慣らされた犬のようなレビンがビクッとしたようだったが、「あーあ、やっぱりな」とヴァルは気のない感じで溜め息を吐いた。

「いえ、アモウ博士。マーカスをフェアリーキル事件に導く切欠を作ったのは彼なんです。今回の件でとても頼りになっていますッ」

 いつもならすぐに引き下がるはずだったが、レビンが自信満々でヴァルを推すから、サモンズは物珍しそうに眉を上げている。

「捜査に協力者はつきものですよ、アモウ博士。そうピリピリすることもないでしょう。さて、そろそろあの怪物が騒ぎ出さんとも限りませんからな。コータロー君、準備はいいかね」

 惟貴たちの会話を傍目で聞いていたサモンズはどうでもよさそうに溜め息を吐いて言ったが、すぐに光太郎に目線を向けて首を傾げて見せたので、少年のように幼い面持ちの日本人青年は大きく頷いてみせた。
 意志の強さを物語る漆黒の双眸はキラキラとして、既に覚悟は決めているのだろう。

「では、アモウ博士」

「承知しています」

 惟貴が吐息のように呟くその背後で、ふとヴァルがコソコソとレビンに耳打ちした。

「まさかあの子供を名無しの殺人鬼に会わせる…とかじゃないよな?」

「…そのまさかだ」

「!」

 ギョッとしたようにレビンを二度見するヴァルに、若いFBI捜査官はマンハッタンからボルチモアまでの道程で説明しておけばよかったとバツが悪そうな顔をするものの、憤懣そうな面持ちで頷いて見せる。

「やれやれ、殺人鬼だけがバケモンじゃねーな」

 光太郎を連れ立って歩き出す惟貴たちの背中を見ながら、ヴァルは何か悍ましいモノでも見てしまった時のような、嫌なモノを感じてバリバリと頭を掻いていたが、レビンに促されて彼らの後を追うことにした。
 この先にいったい何が待ち受けているのかと、ヴァルは背筋が凍るのを感じたようだ。
 重い鉄の扉を開いた先は、以前のように拘束衣に自由を奪われた名無しの殺人鬼が、背凭れに背中も付けずに前のめりになって、何やらブツブツと呟きながら俯いているようだ。
 扉が開いた瞬間にチラッと目線を上げはしたものの、「また、アンタか」と明らかに絶望したような色をアクアマリンのような青に近いシルバーグレーの双眸に浮かべはしたが、特に期待なんかしてないよとでも言いたげにスッと目線を落としてしまった。
 まず惟貴を筆頭に立ち入った一行は、向かって左手に捜査官と刑事、右手に惟貴が配するような椅子が準備されていて、それぞれが指定された椅子に腰掛けている最中、何故か一番最後になってしまった光太郎はふと顔を覗かせて、恐る恐ると覗いた室内の一番奥にストロベリーブロンドの髪を持つ名無しの殺人鬼を見つけた。
 見つけて…光太郎は思わずポカンッと目を瞠った。

「あー!あなたはセントラルパークで会ったッ」

 書類を両手で抱き締めるようにして持っている光太郎が思わず吃驚して声を出すと、それまで不貞腐れたように項垂れていた名無しの殺人鬼はガバッと顔を起こしてマジマジと目の前を凝視したようだ。
 神秘的な透明感のあるアクアマリンのような青に近いシルバーグレーの双眸も、赤みの強いブロンドも、俯いている姿を見れば全て鮮明に思い出せるのは、忘れるはずもない物静かに本を読んでいた、あの綺麗な青年だったのだから。

「ああ、やっぱりそうだ!…あなたはあの時、僕に『Gesundheit』って言ったけれど、僕はその言葉の意味が判りませんでした。それで調べたんですよ。あれはドイツ語でお大事に、って意味だったんですね。あの時吃驚して満足にお礼が言えなかったから僕もちゃんとドイツ語で言いますね」

 光太郎は目の前にいるのは38人以上を殺害してのうのうと逃げ果せていた殺人鬼であることをちゃんと理解していたが、いつかもう一度出逢うことがあった時、ちゃんと言わなければいけないと決めていた言葉をニコッと笑って言った。

「Danke schön!」

 エヘヘッと満足そうに笑う光太郎に目を瞠ったのは何も惟貴たちばかりではない、面食らったように呆気に取られていた名無しはふと、ハッと我に返ったのか、あれほど待ち望んでせっついていたと言うのに、光太郎を前にしてフイッと目線を逸らすと物言わずに外方向いてしまったのだ。

「あれ?僕、何かおかしなこと言いましたか??」

 キョトンッとして首を傾げたものの、まあいっかと自分に言い聞かせると、無遠慮に少年のような日本人青年は名無しの前にあるパイプ椅子に腰を下ろした。

「えーっと、じゃあお話をしましょうか。あなたが僕を指名したのは、こんな経験もない僕なんかに精神分析をして欲しいからじゃないですよね?お話がしたかっただけですよね」

 こちらをチラとも見ようとしない無言の名無しに、それでも光太郎はお構いなしに思っていたことを喋り続けた。
 部屋に入った時、まさかこのアメリカでもっと頑張ろうと言う気持ちにさせてくれた、あの青年が座っているなんて思ってもいなかったから、考えていた言葉が全部消えてしまって、伝えたかった言葉だけが脳内をグルグルしていた。
 そして全てが真っ白になっていることなんて、きっと兄たちですら気付いていないのだから、こうなったらこのままの勢いで話し続けようとしているのだ。
 光太郎だって、少なからず衝撃を受けている。

「僕、この一週間、ずっとあなたのことを考えていました。でもそれは分析したいからとかそう言ったことじゃなくて、あなたは何も喋らないって聞いていたから、どんな内容の話をしようかな~って考えていたんです」

 持ち前の穏やかさで、光太郎はエヘヘッと笑いながら手にしていた書類を机の上に置いた。
 確かに惟貴が言ったように、名無しの殺人鬼は外方向いたままで何一つ口を開こうとしない。その態度に、実際に腹立たしく苛々しているのはサモンズだった。
 光太郎を連れて来れば何でも話すと言っていたはずだ、苛々して口を開こうとすると、向かいに座っている惟貴に目線で牽制されてしまう。
 惟貴には判っていた。
 今、名無しは凄まじい速度でストロベリーブロンドの下の頭蓋骨に収まる脳で、目まぐるしく考えているに違いないのだ。
 彼は今、沈黙の檻の中に引き籠って何事かを目まぐるしく考えている。それは今までの退屈からや関わりたくない人間を遠ざける為に敢えて取っていた強硬な態度ではなく、実際に欲しいモノが目の前にある時にどうしようと悩む、通常の凡人が考える仕草を大袈裟に取っているに過ぎないのだが、その態度は惟貴にひとつの仮説を疑惑として考えさせるに十分だった。

(信じられないことだが、恐らくこの殺人鬼は、光太郎に何らかの愛情を持っているのではないだろうか)

 目線を交わすことができないほど緊張し、その白人種特有の白い頬は、人工の明かりの下でのび過ぎた前髪が落とす影でよく判らないが薄紅色に染まっているように見える。
 唇は微かに震え、シルバーグレーの双眸は真摯に床を見詰めている。
 それらは此処に来て、ただの一度も名無しの殺人鬼と恐れられている男が見せることはなかった感情の発露だった。

「…俺のことを考えていただって?」

 ふと床を睨み付けていたシルバーグレーの、透明度の高い神秘的な双眸をゆっくりと光太郎に向けて彼を凝視し、名無しの殺人鬼の異名を持つ男は呟くように言った。
 その問い掛けにキョトンとしていた光太郎は、それからニコッと屈託なく笑って頷いた。

「はい」

「俺にとってアンタはただの標的かもしれないのに?ねえコータローくん、俺はこの通り拘束されててさ、アンタに近付くこともできないんだよね。でも、幸いなことに口は自由なんだ」

 そう言って、ストロベリーブロンドの髪を持つ男は、美貌の顔を蠱惑的に歪めてチラリと紅い舌で唇を舐めた。

「キスさせてくれよ。ずっと待っていたんだ。フェラでもいいよ。俺のフェラは巧いんだってさ。俺の舌はベルベッドみたいに心地好いらしいぜ…」

 魅惑的に蠱惑的に…それすらも淫靡な表情で笑うシルバーグレーの双眸を細める男は紅い舌でゆっくりと下唇を舐め、一瞬、同じ室内いる男たちは息を呑んだようだった。
 同じ男だったとしても彼の妖艶な仕草に欲情しても仕方ないと言うのに、惟貴が心配するように、まだまだ幼い光太郎はポカンッと呆気に取られたようにそんな男の姿に目を瞠っていたが、それから途端にムッとしたような顔をして唇を尖らせた。

「ちょっと待ってください。今調べますからねッ」

「……へ?」

 机に置いた書類を取り出して付箋の貼られた幾つかの箇所を確認する光太郎を、それこそ間抜けな顔をしてポカンッと見詰める男は、次いで、ほんの少し頬の緊張を緩めたみたいだった。
 その見落としてしまいそうな変化に気付いた惟貴は、それで漸く信じられない仮説が事実ではないかと思うようになってしまう。
 どうやら目の前に居る悪党は、幼気な日本人青年に少なからず愛情を持っているようなのだ。

「うーん…ほらやっぱり!あなたは自分が選んだ被害者にキスやその、えーっと、唾液が付くような行為はしていません。だから、今のは僕をからかう為の嘘ですよね?」

 プリッと頬を膨らませて唇を尖らせる光太郎に、呆気に取られていた男は不意に何かを思いついたような顔をして、それから少し呆れたようにハハッと笑ってしまった。
 あの顔をして甘やかに強請れば、何処かの馬鹿は自分にペニスを与え、ある者は口付けてきた。
 できれば一番逢いたかった光太郎がキスしてくれたら良かったんだが、やはり彼は、男の想像の斜め上を綺麗に突っ走ってくれる。

「ちぇッ!キスはお預けか。参ったな。ああ、本当に参ったよ」

 ご機嫌そうに笑って俯いた男はまたしても沈黙の檻に閉じ篭もりそうになったが、さして残念そうでもなく、すぐに盛大な溜め息を吐いて首を左右に振りながら背凭れに背中を預けた。

「まあ、いいけどさ。ところであのアパートは引き払ったのか?」

 そしてふと、思いついたようにちらりと横目で光太郎を見ると首を傾げた。

「え?あ、それはその、ちょっとまだです」

 そう言えば、自分が住んでいるアパートに関して、兄からこの容疑者が随分と気にしていると聞いていたが、まだアパートにも帰っていないので曖昧に答えた。

「何をやってるんだろうな?正面から堂々と入るサイコも居れば、馬鹿は浮かれて壊れている西の窓から入って来るって言うのにさ」
 男は口調ほどは軽い気持ちでもないんだろう、心配そうにアクアマリンのような青に近い神秘的なシルバーグレーの双眸を細めて唇を尖らせている。

「…西の窓が壊れているって知っているんですか?部屋に入ったことがあるんですか?!」

 兄から聞いていたのはアパートを引き払うことに関してのみだったので、ガタガタし鍵がかかり難くなっている西の窓のことだとか、正面から堂々の発言に光太郎は呆気に取られたように吃驚して目を見開いた。
 その仕種が面白かったのか、ストロベリーブロンドのやや長めの前髪の隙間から、人好きのする双眸をやわらかに細めて彼は肩を竦めて見せた。

「入ったことあるよ。夜遅くに帰宅してシャワーを浴びて、よほど疲れていたのか素肌にバスローブだけでさ、ベッドにもぐり込んで寝息を立てるまでずっと見てたし、キュートなパジャマでベッドにもぐり込んだ後、暑いからってシーツを全部床に落とした時は、風邪を引かないようにってさ、シーツを掛けたりもしたよ」

「!!」

 驚愕に目を見開きながらも、思い出せばまとわりつくシーツが嫌で床に落としたはずなのに、朝になったらきちんと着ていて、ああ自分はなんて律儀なんだろうかとか思った日があったのだから、彼が言っていることは妄想でも思い込みでもないんだろうと、パクパクしている口からは言葉が出てこない。

「寝る前にシャワーを浴びるって言うのがいまいち判らないんだけどさ…日本人はみんなそうなのか?」

 酸欠の金魚のようにパクパクと口を開いてはいるものの、答えられない光太郎などお構いなしに、男は最初から答えなど期待していないような仕草で、思い出したように続けて言うのだ。

「ああ、そうそう!それから出て行く時にさ、【おやすみ夢の中の人、良い夢をね】って頬にキスしたら、コータローくんは寝惚けてて、【ニイチャン?オヤスミナサイ】ってニッコリ笑って言ってたよ」

 ハハハッと笑う男に思い切り顔を真っ赤にした光太郎は俯いてしまうが、背後で聞いていた惟貴は喜んでいいのか困惑するべきなのか、いや、もちろんそこまでの至近距離に迫られていたにも関わらず、警戒心もなく笑っているのだから例のアパートはすぐにでも引き払うべきだと決意したようだ。
 日本語が判らないレビンたちですら、光太郎の危機感の無さに絶句したみたいだ。

「…まあ、訪問者が俺だけならいいんだけどさ。そうもいかないと思うんだ。だったらいっそのことボルチモアに住めばいい。毎日俺に逢いに来いよ」

 顔を真っ赤にしてトホホホッと唇を尖らせている光太郎にニヤニヤしていた男は、それから徐に何でもないことのように素っ気なく言ったが、目線を上げた光太郎はその言葉に顔を赤くしたままで首を左右に振って見せた。

「いいえ、それは駄目です。僕は大学に行かなくてはいけません。だから月曜日と水曜日と金曜日に此処に来ます。たまに日曜日にも来ます。僕には大学があるので仕方ないのです」

 慇懃な口調でそう言って、それから仕方なさそうにニコッと憎めない屈託ない笑みを浮かべるから、男はムッと下唇を突き出すような仕草をしながらも、仕方ないなぁと肩を竦めたみたいだった。

「僕はずっとあなたに聞きたいことがあるんです。質問してもいいですか?」

 話に来たんじゃないのかよ?…と、本来なら皮肉めいて受け応えるところだが、限りある時間でできるだけ長く話したそうな男は、そんな無粋な態度で貴重な時間を失くしたくないのか、肩を竦めるだけで否とは言わない。

「…あの、どうしてあなたは僕のことをそんなに気にかけてくれるんですか?」

 実に率直な質問に惟貴はやれやれと頭を痛めたが、さてキョトンッとしている件の容疑者はなんと回答するだろうか。
 四方や、自分が想定している『愛情があるから』などと言った陳腐な返事でもの給うのだろうか。それならそれで、また一興でもあるが。
 ストロベリーブロンドのややのび過ぎた前髪の隙間からジックリと見詰められて、光太郎は不思議そうに首を傾げて見せたが、彼はこの小さい可愛い生き物は何を言ってんだとでも言いたそうな、一瞬困惑した表情をしたが、それでも名無しの殺人鬼の異名を持つ男は肩を竦めるぐらいだ。

「すべてを今すぐに知ろうとは無理なことさ。雪が解ければ見えてくる」

「…はあ、そうなんですか」

 実際はどうして自分が殺人鬼たちに狙われるようになったのかとか、どうしてサイコキラーである彼が自分を気にかけるのかなどと言った、それらの疑問の何かヒントでも貰えるかと期待していた光太郎は肩を落としてガッカリしたようだったが、その姿を見た男は不意にムッとしたように眉を寄せて唇を尖らせた。

「なんてな…そんなことにも気付けないほど能天気なら、そりゃ多くの殺人鬼にも狙われるだろうよ」

「え?」

 兄からも捜査官たちからも一癖ある凶暴なサイコキラーと聞いていたと言うのに、実際に会ってみると、彼はセントラルパークで会ったことのあるあのとても綺麗な青年だったし、こうして話してみると、拘束衣さえ気にしないでいられたなら…まあ、それは無理なのだが、まるでコーヒーでも飲みながら気軽に話せる何処にでもいる普通の青年のように思える。それは彼の風貌があまりに温和そうで、無害そうに見えるからなのだろう。
 だが、その彼の口から飛び出る言葉は、コーヒーでも飲みながら話すにはとても物騒なものだった。

「だって、アレは俺に対する愛の告白だったんだろ?」

「…ええ?!」

 何がそうなってそう言う風に思い込んだのかとか、アレとは何なのかとか、そう言った主語が全て吹っ飛んだ会話に、光太郎は吃驚した目を見開いてしまった。
 開けっ放しの資料など、最早何の役にも立っていない。
 背後では惟貴とレビンたちが揃ってギョッとしたように固まっている。
 また、大方何か勘違いでもしているんじゃないか…と惟貴は考えた時、ふと、名無しの殺人鬼が気のない風で呟いていた言葉を思い出した。

【何故人間が人間を殺すのか、それはそうしたいと思う欲求があるから。そして勘違い】

 アレは自分に対して自嘲したのか、もしくは光太郎に群がろうとする殺人鬼どもに言い放ったのか…恐らく後者であることは確かなのだが、だがそうだとして、彼らはいったい何を勘違いしたのか。

「?」

 不思議なことに名無しの殺人鬼は光太郎の驚きに、困惑したように眉根を寄せたようだ。
 その仕種は、どうして光太郎がその台詞にこんなに驚いているのか、それ自体が全く判らないと物語っているようだ。

「ああ、なるほど…コータローくんは恥ずかしがり屋だから仕方ないのか。家族に聞かれるのは恥ずかしいものな」

「はぁ…」

 ニコッと笑った男に光太郎は呆気に取られていたが、惟貴はそれでいいと内心で頷いていた。
 事の真相をヤツが語る状況になればいいのだ。

「お前、リケット博士の木曜日の講義に出ていたろ?俺は学がなくってさ、火曜日と木曜日はリケット博士の講義に忍び込むんだ。あの日も講義を受けようと講堂に行ったら、セントラルパークで会ったお前が居たから、その後ろの席に座ったんだ」

 ふと、思い出すのはリケット博士から初めて招かれた犯罪心理学の講義の、あの広い階段式の講堂…そこで光太郎はリケット博士に求められた質問に、自論を展開して答えたのは確かだ。
 だが、あの話の何処で彼は光太郎が愛を告白したと思い込んだのだろう。

「コータローくんはさ、俺が居ることに気付いたからリケット博士の質問を利用してあんな形で愛を告白してくれたんだろ?アレが俺に向けてだと言うことは充分判ったし、嬉しかった。でもあの方法はダメだ。誰のことを言っているのか明確にしないと、勘違いした馬鹿はお前が自分のモノだと思い込むんだ」

 ストロベリーブロンドのややのびた前髪の奥から、ほんの微かな狂気を揺らめかせたシルバーグレーの双眸で光太郎を見詰めながら、それでも男は嬉しそうに呟いていた。その仕種で、光太郎が言った言葉の何かに非常に喜んで、そして勘違いしてしまっていることは容易に判ってしまう。
 だが、その彼にそれは違うと上手に言えるほど、今の光太郎には経験値がなさ過ぎる。
 面食らったように息を呑んでいた光太郎は、この場合はここは見送って彼の話を聞いて、それからベテランの惟貴たちとミーティングするべきだと判断したようだ。
 その背後でレビンは会話を聞きながら、光太郎のアパートに忍び込んでいた男が喚き散らしていたと言う不可解な言葉の意味を、今漸く理解できたようだった。

【アイツはオレのモノなんだッ!アイツがそう言ったんだッ】

 犯人はさらに光太郎は自分に殺して欲しいと望んでいるとも喚いていたそうだが…それはその言葉を受け止めた殺人鬼たちの思考によって様々に変化するのだろう。
 だからこそ慎重で臆病なマーカスでさえ、わざわざ獲物にするには難易度の高い光太郎に目を付けたのだ。
 当初は、4人の犯行で度胸がついたから、さらに難易度の高い光太郎を殺害することに興奮を覚えたのではないか…とプロファイルしていたのだが、同じ大学の同じ講義を受ける相手から、常人では理解できない愛の告白とやらをされたと思ったのなら、居ても立ってもいられずに接触を試みたのだろう。

(恐らく、その時にマーカスはこの名無しに目を付けられたんだろう…と言うことはだ、コータロー君。君は大変なことを仕出かしているぞ)

 数多の殺人鬼は、マーカスも含め光太郎を殺す方向で受け止めているようだが、最悪で最凶の殺人鬼である名無しが殺すのではなく、護ろうと動いていることは不幸中の幸いだろう。

(名無しが愛の告白とやらを曲解したおかげで彼を護っていたからこそ、コータロー君は今日まで生き延びることができたんだろう。だが、その庇護がなければ…)

 そこまで考えてレビンがコクリと息を呑んだその目の前で、まるで生贄に捧げられた子羊のような光太郎は、それでも溜め息のように言葉を漏らして頷いたようだ。

「そうだったのですか…」

「そうだよ」

 穏やかな双眸で真摯に見つめて頷いた男は、それから光太郎を狙う殺人鬼どもに思いを巡らしたのか、不機嫌そうに首を傾げている。

「今回は俺を名指ししなかったことで不特定多数が勘違いするような告白になっちゃったからさ、誰かがスマホで録画してネットに晒し、あっと言う間に広まって無知な馬鹿たちは自分に告白したって勘違いしたみたいだぜ」

「ええ?!」

 何処をどうあのたどたどしい英語のまごまごした回答が愛の告白に繋がったのか、ましてやこのストロベリーブロンドの髪を持つアクアマリンのような青に近い神秘的なシルバーグレイの双眸を持つハンサムな青年のうっかり勘違いだけでも瞠目ものなのに、それだけではなくそれを多くの殺人鬼たちまでもが挙って勘違いしていると言うのだから…どう言うことなのか光太郎は信じられないでいる。

「そんなまさか…」

「まさかじゃない。俺には学がないからさ、スマートな解決策は思い浮かばなかったんだよ。だから取り敢えず自作のプログラムをYoutubeと言った動画コンテンツのサイトに仕込んで、拡散されてしまった動画の自動削除だとか、アップするヤツのPCやスマホに入って関連動画を全て削除するとかの対処をしたんだ。それからあの場に居た犯罪者をリスト化して狙いを絞ったりしていたわけだけどさ」

「…」

 思わずポカンとしたのは、リケット博士の講義に忍び込んだのも学がないから勉強するつもりだった…と言外に匂わせているものの、すぐに行動に移したのだろうその手際の良さは目を瞠るものがある。
 さらに講堂に居ただろう犯罪者たちをリスト化…殺人鬼としての勘なのか、いやそうではないだろう。随分前からリケット博士の講義に忍び込んでいたと見受けられるから、彼はもしかして既に全員の素性を割り出していたのかもしれない。
 その周到な準備に瞠目して、光太郎は二の句が告げられずにいる。

「一番厄介なのは動画を見た連中だ。精神を病んでる連中ならたかが知れてるんだけどさ。殺しを快楽だなんて勘違いしている連中は性質が悪い。まあ、先手先手で立ち回れたから楽に始末できたけど…ちょっと面倒になってさ」

「え?」

 ふと、男が口許に奇妙な笑みを刻んだ。
 普通なら見逃してしまうぐらいの僅かな笑みだったが、不思議と、光太郎はその雰囲気の変化を敏感に感じ取ったようだ。
 だが、男は特に何も言わずに苦笑して肩を竦めるぐらいだ。

「…自作プログラムと言うのはウィルスのようなモノなのか?」

 ふと、レビンが口を挟むと、その時になって漸く、男はそこに光太郎と惟貴以外の人物が居たのかと初めて気づいたように眉を上げ、それから興味もなさそうに首を傾げて見せるのだ。

「はあ?なんだそれ、よく判んないな。俺はコータローくんの動画の拡散が怖かったから、それを止めるためのプログラムを作ったんだ。それだけだ」

「あなたは僕の動画を持っているんですか?」

 レビンに素っ気なく答えた男は、小首を傾げる光太郎には穏やかに頷いて答えた。

「何を言ってるんだ?当たり前だ、俺は馬鹿みたいに大事なモノは拡散しようなんて思わない…それに、何度見てもやっぱりアレは拙いと思っているし」

「拙いですか」

「そう、拙い。どうしてお前は俺の名前を呼ばなかったんだ?」

 ふと、ムスッとしたように話していた男は、赤みを帯びた金髪に人工的な光を反射させながら、不思議そうに首を傾げて無害そうな小動物を思わせる黒髪の日本人を見詰めた。
 その仕種に何故か図らずも胸の辺りがドキリとしたが、その意味が光太郎には判らなくて首を傾げながら眉を寄せてしまう。

「えーっと…でも、僕はあなたの名前を知りません」

「え?」

 不意に拘束されている身体を乗り出して光太郎を食い入るように見つめた男は、キョトンッとしながらもコクコクと頷いている光太郎に呆気に取られた顔をして、それから溜め息を吐きながら天を仰いで背凭れに背中を預けてしまう。

「…ああ、なんだそうか。俺のせいだったのか。セントラルパークで名乗ってれば良かった」

 ガックリしたように呟く男は、それからニコッと笑っている光太郎に目線を向けると、苦笑してやれやれと溜め息を吐いたみたいだった。

「俺はヒューゴだ。ヒューゴ・レオン・カーソン」

 不意に光太郎の背後が賑やかになり、彼が思わず振り返ると、ちょうどレビンがヴァルと連れ立って室内を後にする後ろ姿が鉄の扉の向こうに消えた。そして惟貴がメモに何事かを記入しながらスマホで何処かに連絡し、サモンズも同じように電話連絡に余念がない。
 何が起こったのかと目を白黒させる光太郎は、その時になって漸く、目の前の名無しと呼ばれる殺人鬼が何の衒いもなく自分に素性を明かしたことに気付いたのだ。

「あなたはここで名乗ってもよかったのですか?」

(だって、今まで頑なに素性を明かさなかったのに…こんなに簡単でいいんだろうか)

 光太郎は何故かそれがとても不安になっていた。
 被害者の為、兄や捜査官の為には彼の素性が判ることがどれほど重要か判っている。だが、何か思いがあって素性を隠していたに違いないのに、目の前で機嫌が良さそうに笑っている男は事の重大さに頓着していないように見える。
 光太郎は彼を庇いたくてそう思ったのではないが…この一抹の不安は何処から来るのだろうか。

「別に?コータローくんがこれ以上勘違いするようなことを言うぐらいなら、俺の名前を知っておいてもらうほうが随分と得策なんじゃないかと思っただけさ」

 肩を竦めて笑う彼は、本当にどうでもいいことだとでも思っているようなのだ。

「…はあ、じゃあカーソンさん、ええと」

「ヒューゴでいいよ、コータローくん」
 すぐに言い直されて名無しの殺人鬼と呼ばれるにはあまりにも不似合いな、穏やかそうな人好きのするヒューゴを見詰めて、それから光太郎もニコッと笑った。

「判りました。じゃあ、僕も光太郎でいいですよ」

 その言葉に、ヒューゴは最初面食らったような驚いたような顔をしたが、次いで、まるで花開くような笑顔を浮かべて、それから嬉しそうに頷いたようだった。

「そうか、じゃあ光太郎。今度はお前の話を俺に聞かせてくれないか?」

 驚くことにヒューゴは完璧な日本語の発音で光太郎の名前を呼び、それから、拘束衣を窮屈そうに身動ぎしてニッコリと笑ってみせた。
 まず光太郎はもしかしたら随分と長いこと自分の名を呼ぶことを練習していたのかもしれないヒューゴに驚くべきなのか、それとも、自分の何を聞きたがっているのかそのことに警戒するべきなのかと悩んでいたが、感情の入り乱れる複雑な表情をして、それから彼は降参するように苦笑して頷いたのだ。

「あなたは僕の何を聞きたいんですか?」

 観念したように微笑む光太郎の言葉にヒューゴはニッコリと頷いて、そして約束の時間をより延長したい為と、何より自分が明かした秘密への代償に満足して最初の質問をするのだった。

8  -Forced Encounter-

 FBIが用意したホテルはそこそこ設備の整った機能性のある広い部屋を持つ、港に面したそれなりに豪華そうなホテルだった。

(おおかた、モーテルあたりだろうと踏んでいたんだが、奮発したところを見ると幾許かの罪の意識はあるとみえる)

 その思うより広い室内の窓辺で腕を組んで眼下に広がるクルーザーの浮かぶ港を見下ろして内心で皮肉気に笑う惟貴の背後で、テーブルの上に山積みになっている資料を見下ろして光太郎は若干絶句気味に青褪めている。

「これを一週間で全部読むのか…あれ?容疑者の写真がない」

 幾つかにファイル分けされた資料を片手にほぼ絶望感を感じているようだったが、ふと、手にした書類から写真が剥されていることに気付いて首を傾げた。

「ああ、余計な先入観が入ってはいけないからな。資料にある容疑者の写真は全て剥している」

「そうなんだ…」

 少なからずどんな凶暴な面構えなのだろうかと、覚悟を決めるつもりで見ようと思っていただけに、写真が全て剥されていることには少しガッカリした。
 その割には、まだ耐性がないと言うのに胸元をバックリと割られている血まみれの被害者の写真は確り貼り付けられていて、思わず目を背けそうになってギュッと双眸を閉じ、それからああダメだ…と思い直したように双眸を開いて手にしている書類に目線を落とした。

「人好きのする憎めない顔立ちをしているからな。写真を見て先入観有りでの状態で太刀打ちのできる相手ではないんだよ」

 これから対峙するのは平気な顔でこれらの残忍な行為を行った凶悪犯なのだから、殺された被害者がどんな無念を感じて志し半ばで倒れたのか、きちんとこの目で確かめなければならないのだ。それを覚悟して、遺体すら見つかっていない、何処かでひっそりと殺されてしまった名も無き人を助けるんだと自分で決意したではないか。

「…なんだ。すごいおっかない顔付きの人かと思った」

 資料から目線を上げた光太郎は、恐らく今回の自分のお願いに物静かに怒っているに違いない兄の、その皮肉っぽい笑みを浮かべる顔を見上げて悲しげに微笑んだ。
 少し意地悪をしてしまったかなと惟貴は言葉を詰まらせたが、それでも光太郎は、唐突にムッとした顔をして、やわらかなアイスグレーのセーターの袖を捲りながら資料と格闘することを決意したようだ。
 真剣そのものの真摯な双眸を傍らで見つめながら、惟貴は遠い昔に見失ってしまった記憶にある弟の、その泣き虫だった姿が随分と成長してしまったことに少し残念に思いながらも、いつの間にか意志の強い確りとした芯を持っている男に成長していることに嬉しくもあった。

(私は少し気を遣い過ぎているのかもしれないな…)

 ゆったりとした大き目の椅子を引っ張ってきて、光太郎はその椅子に体育座りをするような形で乗っかると、ファイル分けされている書類に目線を落とした。
 まず光太郎が目を通したのは名無しの殺人鬼の犯行に関しての詳細が纏められた資料だった…が、彼にしてみれば見なければいけない資料はほぼこれのみと言っても過言ではないようだ。
 なぜなら、膨大な資料の殆どがその内容で、その他の生い立ちや素性に関しては全て『unknown』となっていて、何一つとして名無しが名前を有する人間へと繋がるはずの証拠や書類が一切ないのだから。

(まあ、だから名無しの殺人鬼なんだよなぁ…でも、こんなにも綺麗に人間としての証拠を消すことってできるものなのかな?この情報化社会で盗聴国家とか言われるぐらい物騒なアメリカで、DNAも指紋も何一つどこにも登録せずに残さないで、誰も知り合いさえ作らないで生きていけるのか…まるで透明人間みたいだ)

 軽く溜め息を吐いて考え込んでいた光太郎は、その悍ましい事実が綿密に羅列されている資料を捲りながら、何もかもが闇の中に存在しながらも、まるで警察を嘲笑うかのように姿を現して捕まっていると言う名無しの殺人鬼は、何処にでも居るごく平凡な天羽光太郎と言う存在を連れてきたら全部話すと言い切ったそうだ。
 自分の存在のどこにそんな価値があるんだろう…
 日本に居れば、恐らく一生お目にかかることなどないだろう無残で凄惨な猟奇殺人事件の報告書は、あまりに悍ましく胸が悪くなったが、兄の心配を余所にこの事件の全容に隠されている何か、それのどの部分に自分が絡んでいるのか、唇を噛んで必死で読み解こうと読み進めていた光太郎の、ある被害者の書類に通していた目線が止まった。
 年の頃は恐らく15~6歳ぐらいの少年で、身長も体重も殆ど自分と同じで、ただ違うのは彼が白人でありその写真に写し出されている姿が亡骸であると言うことだった。
 しかし彼は明らかに他の被害者とは違う扱いを受けていることは、その埋葬方法に関する詳細な報告書を読めばよく判る。
 この名無しの殺人鬼と言うサイコキラーは、一様に白人を獲物としていて、殺害方法も一貫している。
 まずレイプし開胸術を行い心臓を取り出して殺害、そして彼はその心臓をその場で調理して食している。驚くことに殺害後は入浴し、何食わぬ顔で遺体を放置して立ち去っているのだ。
 レイプに関しては犯人の性的興奮は見受けられず、体液の検出はどの遺体からもなかった。

(この子には体液の痕跡が残っているのか…それに、なんて綺麗に埋葬しているんだろう)

 そう、いったい何人目になるか皆目見当もつかないが、その少年はまるで穏やかな顔をして瞼を閉じ、どす黒く口を開いているはずの胸元は死後丁寧に縫合されているようで、真っ白い純白のシャツとズボンを着用した姿で鳩尾の辺りで指先を組ませて、噎せ返るような何本もの真っ赤な薔薇の中でまるで幸せな夢でも見ているような顔をして眠っているように見える。
 血塗れだったに違いないシーツまで丁寧に替えて、どれほどその少年が特別で、その死を悼んでいるのか光太郎ですら判るほどだった。
 体液の痕跡は…恐らく涙ではないかと記述があった。

(泣いてしまうほど大事だったに違いないのに…どうして名無しは彼を殺してしまったんだろう)

 それは光太郎には理解できない、抗えない衝動だったのか。

「24か。後にも先にも、ヤツが几帳面に死を悼んでいるのはこの少年だけだな」

 無言で光太郎の好きに資料を見せていた惟貴だったが、ふと、捲る指先が止まり、何処か遣る瀬無い表情で見つめている写真に気付いてポツリと呟いた。
 身元が判明していない被害者は全て発見順のナンバーで呼ばれることを知らなかった光太郎は、ああ、そんな風に死後までも辱めを受けることになるのかと、それまであまり考えていなかった名無しの殺人鬼に対して仄かな怒りを覚えたようだった。

「この少年が光太郎に似ている…と言うワケではないのだろうが。何か思い至るところがあるのかもしれないな」

(俺に似ている?そんな、馬鹿な。どう見ても完全に白人だし、それにとても綺麗な顔立ちをしてる)

 兄は母に似て氷の美と称えられるほどハンサムで綺麗な面立ちをしているが、光太郎は父親似だったらしく、初めて会う人は2人が兄弟とは最初から判らないと言う有り様なのだ。
 爽やかな部分はよいのだが、穏やかそうな表情が童顔の甘ったれのように見え、可愛らしいとは表現されても綺麗とは口が裂けても言って貰えそうにない自分が、この眠り姫のように美しい少年に似ているとすれば、それはとんでもなく失礼なことだと思えた。

「勿論、似てるワケがないよ」

 ムッとして吐き捨てる弟の態度に、ふと、惟貴は目を瞠った。
 喧嘩や言い合いを極力避けて、だからこそ穏やかだと評される光太郎の、その逆鱗に何が触れたのかと首を傾げてしまったのだ。
 胸が悪くなるような資料を立て続けに見ているせいで、少し神経が尖ってしまったのだろうか。

「少し休んだらどうだ?根を詰め過ぎてないか。まだ時間はたっぷりあるんだぞ」

「そんなことないよ。たった一週間だから、ちゃんと読まなくちゃ」

 24の資料を逡巡したように彷徨わせて、そして、そのままファイルに収めた光太郎は、それからまた次々とある限りの被害者の書類に目を通した。
 どれも無残に胸元にポッカリと穴をあけ、肋骨が露出し、肺があふれ出ているような感じで写し出されている様は、吐き気すら催す不快なものでしかない。
 だがどの遺体も、麻酔を使用しているためか、穏やかに瞼を閉じて眠っているようだ。
 その異様なギャップが、さらに心の奥に仕舞っているはずの恐怖心を呼び起こしてしまう。
 愛もないセックス…そう、強姦と呼ぶに相応しい性交渉を行い、だが、少なくとも被害者はその時まで幸せであったに違いないことが…それがレイプではないのではないかと思わせるのだが、一種独特の儀式のように性交渉を交わし、躊躇いのない淡々とした手つきで開胸術を行うと、脈打つ心臓を取り出して、その強靭な筋肉の塊を料理して食すのだ。
 被害者は死を感じることもなく絶命するのだが…死を意識できずに死ぬことは辛くはないのだろうか、哀しくはないのだろうか…それなのにどうして、そんな夢見るように幸せそうに微笑んでいるのだろう。
 光太郎は長い溜め息を吐いて、両腿に肱を付いて前のめりになると髪に指先を埋め込んだ。

(普通、被害者は自分が死ぬことを思い知らされて、苦痛に歪んだ顔をしているんじゃないのかな。なのに、此処に居る被害者はみんな、どうして幸せそうな顔をしているんだろう)

 駆け出しですらない臨床心理士見習いの経験値もない光太郎は、まるで化け物のように厄介な犯人に兄ですら手古摺っていると言うのに、どうして自分が名無しの殺人鬼の思考内に入り込むことができるなどと考えてしまったのか、今更になって身震いしてしまう。
 そして、ふと思うのだ。
 兄やサモンズ捜査官は名無しの殺人鬼から情報を引き出すことを望んでいて、この膨大な殺人の記録を読むように指示してきた。
 確かに基礎知識は必要だと思う。
 だが、【彼】が望んでいるのは本当はそんなことではないのではないか。
 天羽光太郎と言う人間を通して、何かを見たい、何かに語りかけたいだけなのではないか…

(ああ、そうか。きっとそれは24なんだ。彼は24にとても執着していて、彼が大事だったから、同じような背格好で犯罪心理学を学んでいる俺に、面会を依頼したんじゃないかな。ただ、話したいだけなんじゃないのかな)

 それは単なるこじ付けでしかない。
 背格好は同じでも、ブロンドでもなければ碧眼でもない、ましてや白人種でもない光太郎の中に24を垣間見ることなど不可能なのだから。
 だが、もしやと考える。
 自分の性格は、お前が思う以上に優しく穏やかで気遣う心を持っていると、思わず赤面モノの褒め言葉をもらうことがよくあるが、24がその性格であるのなら、いつか何処かで触れ合う切欠があったとして、その時にそれを感じたのであれば…名無しの殺人鬼が光太郎に執着することも頷けなくもない。

(もしかすると彼は俺みたいな性格をしていたんじゃないのかな。それだったら、もう一度会いたいと思った時、俺と言う存在は貴重になるもんな)

 誰かの身代わりなど冗談じゃないが、それでも、名も無き被害者たちの無念を晴らす為であるのなら、それも仕方ないと光太郎は溜め息を吐いた。
 ただ、名無しの執着はその話で何となく自分を納得させることはできるが、では、どうして光太郎はその他のシリアルキラーたちに狙われるようになってしまったのだろうか。

(それが判らないんだよなぁ)

 上体を起こしてからドサッと背凭れに背中を預けながら天井を見上げ、光太郎は不満そうに唇を尖らせてプリッと腹立たしそうだ。
 その姿に惟貴が苦笑した。

「どうやら行き詰ったようだな。お兄ちゃんを頼るかい?」

 ベッドに長くなって本を読んでいた兄がニヤニヤ言うのを聞いて、弟はムスッとした顔のままでペロッと舌を出して見せた。

「まだまだだよ。だって、時間はいっぱいあるんでしょ?」

 ニッと笑う光太郎に、惟貴は一瞬呆気に取られたようだったが、やれやれと苦笑して肩を竦めて見せた。

「では役立たずの兄は読書を再開しようかな?何か用事があれば呼べばいい」

 軽く吐息して本を読もうとする兄に、光太郎はちょっと悪戯っぽい表情をしてエヘヘッと笑ったようだ。

「それじゃあ、兄ちゃん。早速なんだけど、俺、お腹すいちゃった」

 散々な報告書を読み漁っていると言うのに空腹を訴える光太郎に、惟貴はそれこそ本気で呆気に取られたような顔をした。自分でさえ、最初の頃は食欲を失くしていたと言うのに…
 ともすれば光太郎は思う以上に順応力があり、もしや尤もこの職に特化した性格の持ち主なのではないかと、惟貴ですら疑ってしまうほどの豪胆ぶりなのだから、兄は目を瞠り、それから可愛い弟の為に電話に手を伸ばした。

 光太郎がホテルに缶詰めになってそろそろ7日目に突入し、いよいよ件の容疑者との接見の日となった朝、惟貴のスマホに着信があった。
 惟貴がディスプレイを見ると発信者はヒュイット捜査官となっていたので、ちょっとした胸騒ぎに似た嫌な予感がした。
 何か拙いことでも発生したのだろうか?
 今まで経験したことのない事態の展開に、最近の惟貴は疑念ばかりに苛まされ、些か憂鬱になっている。その主な原因は他の何ものでもない弟の光太郎が、この事件に深く関わることになるからなのだろう…その場合、まずは捜査やその他、事件に関わることから自分は遠ざけられてしまうのが現在の司法機関の取り決めである。
 だが、今回は異例の事態が起こっていると言うことで、異例の処置が取られているワケだが、そうでなかったら惟貴は光太郎を差し出すことなど考えもしなかっただろう。

「はい?」

『ああ、アモウ博士!レビン・ヒュイットです。朝早くにすみません』

 耳元でホッとしたような、若干草臥れた口調の若い捜査官の声がして、そう言えば…と惟貴は思い出していた。
 レビンはマーカスの件の洗い出しをしていたはずなのだ。

「何か掴めましたか?」

『ええ、大収穫ですよ!既に…っと、失礼。既にサモンズ捜査官には伝えてあるんですが、マーカスはフェアリーキル連続殺人事件の容疑者…と言うか、ズバリ犯人でした』

「フェアリーキル連続殺人事件?」

 どうやら移動中に電話を寄越したようで、誰かにぶつかりつつ歩いているのか話の途中で障害物に断りを入れているが、歩きに合わせて声が若干弾んでいるもののレビンは大きく頷いたようだ。

『そうです。男娼や家出少年を対象にした連続殺人事件のことなんですが、その容疑者がマーカスではないかと狙いを付けたんです。しかし既に容疑者であるマーカスが死亡しているので確定的なことは言えないんですが、ある店が設置していた防犯カメラにバッチリ姿が映っていたんですよ』

 ああ、なるほど。
 惟貴はその報告を聞いて暗い気持ちになった。

『…これで、残念ながら名無しの殺人鬼の言っていたことは真実と言うことになりました。それからもうひとつ』

 レビンが言うように名無しが異常なまでに警戒していた言葉が事実となって、惟貴に重く伸し掛かってくる。事実であるのならば、光太郎はあらゆるシリアルキラーに狙われていると言うことになるのだ。
 奥歯を噛み締める惟貴に、レビンは申し訳なさそうに言葉を継いだ。

『マンハッタンのコータロー君のアパートに急行した現地の警官の話では…』

『おい、レビン!車が来たぞッ』

『ああ、判った。すみません!続きはボルチモアで報告します。それではまた後ほどッ』

 遽しく電話を切ったレビンの行動に呆気に取られつつも、惟貴は深い溜め息を吐いた。
 大方、光太郎のアパートに何者かが潜入でもしていたのだろう…こうなってしまえば、聞かなくても手に取るようによく判ってしまう。

「兄ちゃん、今のレビン捜査官だったんだろ。どうだったの??」

 粗方の書類を鞄に押し込みながら不安そうにこちらを見詰めてくる、夜空に点在する星を閉じ込めたような双眸を見返して、惟貴は困ったように苦笑するのだ。

「残念ながら杞憂だったよ…とは言えないんだ。おいで」

 ふと、昔のような仕草で手招く兄に素直に従って近付いた光太郎を、羽ばたかせたくないと日本に閉じ込めていたはずなのに…と惟貴は眉根を寄せて重く瞼を閉じながらその華奢な身体を抱き締めた。
 兄に抱き締められることに慣れている光太郎は、それでもその心の震えには気付いてしまうから、やはりとんでもないことが起こっているのだろうと言うことはよく判った。
 惟貴の腕をギュッと掴みながら、どうしてこんな風に取り返しのつかないことになってしまったんだろうと考えてみても、思い当たることは何もないし、自分が発言した言葉など実際はいちいち覚えているはずもないのだ。

「兄ちゃん、ごめん。本当は兄ちゃんが俺を日本に置いておきたいって知ってたんだよ。でも、どうしても兄ちゃんに逢いたくて…」

「馬鹿だなぁ、光太郎。そんなことはよく判っているよ」

 追い縋る手を離したのは惟貴だった。
 一度だって目を逸らすことなく、穏やかにやわらかく見詰めてくる光太郎の視線を、痛いと感じるようになっていたのも惟貴だったのだ。
 光太郎はあの日から本当に何も変わっていない。ドロドロした大人へと醜く変貌を遂げてしまったのは、哀しいかな、彼が一番信頼している兄である惟貴の方だった。
 咲き初めの花が早朝に物静かに朝露を零すように、頬に一滴零れた涙を唇で掬えるのなら、惟貴はきっと愛しい光太郎を日本になど置き去りにしたりはしなかった。
 手折ってしまえば呆気なく萎れてしまうと心の何処かに、この劣情は仕舞い込まねばならなかったはずなのに…運命は時にとても残酷で、心から大切な弟を悍ましい腕が手折ろうとしているのだ。

「…今日はいよいよ決戦日だぞ。準備はできてるのか?」

「うん!俺、ちゃんと名無しと話してくるよ。それで、どうして俺が殺人鬼たちに狙われているのか聞いてくる」

 そう、何時までもこのぬくもりに縋るように頼っていては駄目なのだ。
 きっと、名無しの殺人鬼の異名を持ってしまった容疑者…いやもう、犯人なのかもしれないけれど、彼も本当はただの話し相手として自分を求めたにすぎないのだから、だったらその特権を活かす方法がきっとあるはずだ。
 兄やいろんな人を巻き込んでしまって自分の不甲斐なさに唇を噛み締めながら、光太郎は抱き締めてくる兄の腕をギュッと掴んで決意するように力強く頷いていた。

7  -Forced Encounter-

 レビン・ヒュイットはマーカス・カーウェイの資料をもう一度読み直していた。
 彼の経歴、そして司法解剖鑑定書、その他現場に残されていた遺留品、証拠物件…等々、何れも事件発生時より何度も確認していたのだが、容疑者である名無しの殺人鬼が示唆するのであれば何らかの見落としがあってもおかしくないはずだ。
 ふと、この数週間のマーカスの足取りを追った報告書が目に付き、レビンは不味いコーヒーを飲みながら目線を落とした。
 よくある最新のマシンで管理しておけば判り易いとは思うが、レビンは昔気質のサモンズの下で多くを学んでいたため、捜査官の勘を信じて、思い立ったようにホワイトボードにマーカで報告書に基いた時系列を書き込んでみた。
 何が気になると言うワケではないのだが、書き込みを行っていると、不意に何かが引っ掛かった。
 暑苦しいスーツの上着は脱いでいて、カッターシャツの袖を捲った状態で、片手で腰を掴みもう片手にはマーカを指に挟んで顎を擦る。
 まんじりともせずに報告書と時系列を眺めていると、ふと、傍らで書類の整理をしていたらしい刑事から声がかかった。

「捜査官。なんだ、豪く難しい顔をしてるじゃないですか」

「俺はいつだって真剣さ」

 ニューヨーク市警察署内に捜査本部を構えて居座っているFBI捜査官を、誰しも遠巻きに眺めているものだが、この刑事はお喋り好きの陽気な性質なのか、物怖じしない彼の軽口など構っている暇のないレビンが軽くあしらおうとしたが、書類整理にうんざりしていたのか、彼は同じように不味いコーヒーを片手に肩を竦めて、邪魔にならない程度に離れたところから時系列が書き出されたホワイトボードを眺めながらポツリと呟いた。

「名無しの殺人鬼でしたっけ。ヤツはフェアリーキル殺人事件にも関わってんですか?」

「え?」

 報告書を手にしたレビンが目を瞠って振り返ったから、コーヒーを手にしている刑事は驚いたように眉を跳ね上げた。

「ああ、いや。この時系列は俺が担当している男娼殺しの事件を追ってるように見えましてね。まだ犯人は捕まっていないんですが…」

 言ってはいけないことでも言っちまったのか…と慌てたものの、だが、目の前のホワイトボードは確かに自分が追っている事件の軌跡を辿っている。

「なんだって?!その、その資料を見せてくれないかッ」

 素っ頓狂な声を上げたものの、レビンは慌てたように壮年の刑事に詰め寄った。

「へ?あ、ああ、そいつは構わないが。やっぱり名無しが事件に関わってるんですかね?」

「いや、まだ確信はないが。そのフェアリーキル殺人事件の犯人が見つかるかもしれない」

 カップを投げ出すように置いて、自らの散らかり放題のデスクから必要資料を漁りながら肩を竦める刑事に、レビンが厳しい顔つきで呟くと、一瞬キョトンとしたように仏頂面の捜査官を見詰めて手が止まってしまった彼は、だが、たははは…っと気のない風に笑った。

「それはそれは。またスゲーことですな」

 幾つかの資料を手にして、彼はレビンに振り返った。

「遺留品なんかは保管所に行かないとお見せできないですが…だいたいの資料ですよ」

「ああ、有難う!…っと、君の名前を聞いていなかった。俺はレビン、レビン・ヒュイットだ。できれば君に協力してほしい」

 はいよと手渡された資料を感謝して受け取ったレビンは、それから徐に自己紹介をして腕を差し出したが、ボサボサの茶髪にヘーゼルの瞳をした、随分と草臥れた出で立ちの刑事は差し出された腕を呆気に取られたように見下ろした。見下ろして頭を掻いている。

「?」

「いやまあ…ヴァル・シャンクリーだ。相方は別件で不在なんで、この件は俺だけになるけどいいですかね」

 軽い調子で差し出された手を握ってそれから溜め息を吐くヴァルに、レビンは頷いていたが、ふと首を傾げた。

「勿論!…この事件を独りで対応してるのか?」

「ん?ああ、連続殺人事件とは言え男娼殺しだからなぁ。若いモンはパッとしない事件にゃ興味がないんだと…おっと、これは失礼」

 やれやれと肩を竦めて呆れたように言ったものの、自分のうっかり失言に拙いと眉を寄せたヴァルの目線に、レビンはああなるほどと頷いて、それから同じように肩を竦めたみたいだった。

「いや、そう言うモンなんだろうな。大きな事件に繋がることもあるってのに、見極めるには経験が必要だ。アンタみたいにね」

 やれやれと溜め息を吐きながら、若く見える…いや、実際に年若いレビンは不満そうに洩らして、次いでニッと笑って目線を投げてくるので、ヴァルは相変わらず面食らったように呆気に取られている。

「よし!じゃあ、ヴァル。悪いがまずは事件の概要を簡単でいいから説明してくれないか?その後、証拠保管室まで付き合ってくれ」

 手にした資料で軽く肩を叩いてくるレビンの、その気さくさと勤勉さに内心感心し、ヴァルはこの若い担当捜査官を嫌いじゃないと思ったようだ。
 やれやれと、自分が受け持つ、殆ど誰もが見向きもしない男娼殺しに興味を持つ、短いブロンドが快活そうな印象を見せる緑の双眸の捜査官に、一旗揚げさせてやるのも悪かないかなと苦笑などしてみせる。
 本来自治体警察とFBI捜査官はあまり良好な関係にはないと噂されがちで、実際にそんな場面もあるワケだが、ことヴァル・シャンクリーに関してはそんなモノは何処吹く風で、たいして気にしている様子もない。
 長いこと市警の刑事をやっていれば嫌なことも反吐が出そうなことも、なんだって経験せざるを得ないのだから、自分が捜査を進めているフェアリーキル殺人事件の捜査権を持っていかれたところで、むざむざと逃げ果せた犯人が次の獲物を狙う機会を奪える挙句に、犯人が見つかれば惨殺された被害者の無念も晴れて万々歳だと思っているぐらいなのだろう。

「犯人は男娼や家出少年を狙って最低4人を殺害しているんだ。レイプ中に行われる異常性交で殆どの被害者は助かったとしても酷いことになってただろうが、致命傷はこの咽喉の創傷なんだそうだ」

 資料から取り出した被害者が遺棄された当時の写真を数枚見せると、ヴァルは咽喉元が大きく写された一枚のその部位を指先で示しながら説明する。
 だがレビンは、その一枚一枚を丁寧に確認した。
 大量の血液を失ったから…と言うワケではないのだろうが、この世ならざる者に変わり果ててしまった黄味を帯びた青白い全裸の少年は、自らの死に驚いたような、信じられないような…見開いた双眸に涙は零れていなかったが、ポカンと開いた口唇からは赤い血が零れて白い肌にこびり付いていた。
 全身の所々に殴られた痕跡のようにどす黒いうっ血が散らばり、身体は腫れ、腕は奇妙に捩じれ、足首は反対を向いている。
 最も酷い傷は下半身のものだろうか…傷だらけの両足の腿には尻から流れた乾ききっていないような血液がこびり付いていた。
 その人間だったはずのモノが、無造作に裏路地の汚らしい砂利とゴミだらけのアスファルトの上に転がされているのだ。

「レイプ後にナイフのような鋭利な刃物で咽喉を切り裂いて、絶命させるのがこの犯人の殺害方法だ。遺体は路地裏に放置。残念ながら体液の検出はなし」

 悍ましくも凄惨な遺体の有り様に唇を噛み締めて写真を戻すと、それから、レビンは頷いてヴァルのヘーゼルの双眸を見詰めた。

「なるほど。遺体を遺棄したとされる時刻と、この人物の取った行動、そして時系列が見事に一致してるんだな」

「多少の誤差はあるものの、そうだと思う」

 唇を噛んで苛々しているようにフェアリーキル殺人事件の資料と時系列を見比べるレビンに、直情的では先が思いやられるだろうにと内心で吐息して、だがヴァルはそんなレビンに苦笑しながら報告を続ける。

「血液の量がその場で殺したにしては少なすぎるから、恐らく犯行現場は別の場所だと考えて間違いないだろう」

 恐らくこの忌々しい男娼殺しの犯人は慎重な男なのだろう。
 遺体遺棄現場を散在させることによって捜査の目を撹乱させつつ、だが根本的な行動範囲は大袈裟に広いワケでもない。それどころか、散在しているわりには自分が危険にならない範囲に全て纏まっている。
 そして何よりも、誰もが見向きもしない…この大都会では日常で何人の少年たちが姿を消しているのか、その数は誰にも予想などできはしないだろう。その都会の闇を突いて、選んでいる獲物は社会から切り離された家出少年や男娼なのだ。

(慎重…と言うよりもこれは臆病って感じだなぁ)

 ふと、レビンはそう考えて首を左右に振った。

(この報告書がなければ誰もマーカスが容疑者など思いもしないだろう。だが、こうしてフェアリーキル殺人事件の資料を見てみると有名大学に通う学生の持つ、世間や、もしくは親に対する臆病な面が良く見える。報告書を見れば、確かに犯行はマーカス以外に有り得ないのだから)

 レビンは腹の底が冷えるのを感じていた。
 名高い大学に通い、両親は裕福で、誰もが男娼殺しの目など向けもしない上層階級のマーカス・カーウェイのその犯行を、名無しは短期間で狙いを定めて暴き出したのだろう。
 何故か彼が執着しているコータロー・アモウと言う少年のような日本人青年はシリアルキラーに悉く狙われているらしく、手始めにマーカスを殺したのだと嘯いたあの誰をも魅了するに違いない完全なる美貌を持つ名無しの殺人鬼は、ヒントをくれてやってるんだから自分の言葉を信じて行動しろと鼻先で笑っていた。
 これだけ慎重で臆病なくせに、どうしてマーカスはあの名無しの手にかかったのか?

「なぜお前はコータロー君に目を付けたんだ?」

「?」

 組んでいた腕を解いて腰に両手を宛がい、首を傾げるレビンを訝しげにヴァルが見遣った。
 これだけ慎重で、数週間の足取りの報告書がない限りは誰の犯行など判りもしない安全な場所にいたはずのマーカスは、どうしてあのお人好しの穏やかな日本人青年に危険を顧みずに目を付けたりしたのだろう。
 マーカスが獲物にするにしては、光太郎はとても危険な存在ではないのか?

「…それにしても、コイツはすごいな。まるで犯人の足跡を辿っているみたいだ。さすがFBIだなぁ。これだけで犯行現場もハッキリするんじゃないのかい?」

 ふと、数週間のマーカスの足取りを報告している書類を興味深そうに眺めていたヴァルが、感心したように皮肉めいた感じで苦笑して言った。
 他意などはなかったのだろうが、自分がコツコツと聞き込みをしたり物証を漁ったりしている傍らで、昨日今日携わったFBIはサラッと暴き出してしまうのだから…

(…ちょっと待て。この報告書はなんだ?!)

 ヴァルの感心した独り言に、マーカスの光太郎への興味に疑問を抱いていたレビンは顔を上げてヴァルを見た。そして唐突にハッとして、吃驚しているヴァルの手から書類を奪い取ると、その整然と緻密な文章が並べられている几帳面そうな手書きの報告書を見下ろした。
 最初に感じたあの違和感…そうだ、何故気付かなかったのか。

「これは手書きの報告書だ。タイプされていない」

「え?ああ、本当だ。なんだコイツは、豪く仕事熱心なヤツだなぁ」

「そうじゃない」

 額に浮かぶ汗を拭いもせずに、レビンは報告書をグシャリと握り潰した。
 証拠保管所になど行く必要はないし、サモンズ捜査官はその辺りが厳しいのだから、裏を取っておいた方が賢明だ。
 訝しがるヴァルの腕を掴んで、レビンは低い声で言った。

「よし、この報告書に沿って捜査するぞ。防犯カメラの確認が必要だ!」

「??…はあ、まあ別にいいけど」

 肩を竦めるヴァルを引っ張りながら部屋を後にするレビンは、この時漸く、自分が対峙している名無しの殺人鬼の底知れぬ恐ろしさのようなものを感じたのだった。

「光太郎!」

 院内は白を基調とした何処か心許無さを感じる、病院特有の落ち着かない雰囲気を醸していたが、それに似合わぬ厳しい声音に、看護師も患者も、ましてや医師ですら訝しそうな表情でこちらを見たものの、すぐに興味もなさそうに目線を逸らした。
 だが、そうはいかない黒髪の穏やかそうな面持ちの日本人青年は、自販機の前で吃驚したように兄を振り返っている。

「に、兄ちゃん?どうしたんだよ」

「なんで下に居なかったんだ?!」 

 切迫した面持ちで詰め寄る惟貴に、光太郎は酷く驚いた様子で困惑したように眉を寄せてそれに応えた。

「え?だって、グレンバーグ博士が時間がかかるから上で何か食べればいいって言ってお金をくれたんだよ」

「お前は…誰からでもモノを貰うんじゃないッ」

 あれほど毛嫌いしているように見えたグレンバーグもまた、光太郎の持つ穏やかな性質に絆されてしまったのか…だが、何れにせよ暢気に貰った小銭で自販機の菓子にあり付こうとしている弟は、ともすればシリアルキラーに狙われても致し方ないのではないかと惟貴は改めてゾッとした。

「俺、そんな子供じゃないってば。例の名無しのなんとかってヤツとの接見をボーッと待ってるだけじゃつまんないだろって言って、あのひと、なんか食べながら院内を散歩して来いってお金をくれたんだよ」

 プリッと腹を立てたような光太郎はグレンバーグに貰った小銭を自販機に投入すると、キャンディバーのボタンを押して、叩き出すようにして落ちてきたソレを取り出した。
 つまり、接見場面を見せてもらえない…いや、見せないように依頼していたから、見たがる光太郎に手を焼いての措置だったのだろう。
 とは言え、だからと言って易々と人から恵んでもらうと言うのは、年が年なのだから…と惟貴が言葉を噛み殺してやり場のない気持ちをどうしてくれようと歯噛みしていると、光太郎はキャンディバーのパッケージを開けながら唇を尖らせた。

「きっと、兄ちゃんが見せるなって言ったんだろうって判ったらからさ。だったら、あの場所に残ってても迷惑なだけだろ?だからお金をもらって上に来たんだよ」

「なるほど…だが、これからはもう少し大人らしい判断をして頂きたいものだな」

 えー、なんだよそれと、プリッと唇を尖らせて膨れっ面をする光太郎は、米国の甘すぎるキャンディバーを一口齧って、その甘さにニンマリご機嫌に笑った。
 無類の甘党である弟を、甘いものが苦手な兄はやれやれと、成長しているのかいないのかよく判らない、少年のようなあどけない光太郎の頭に手を置いてぽんぽんと軽く叩いた。

「光太郎、お前に話があるんだ。ちょっとそこに座ろう」

 精神病院だからなのか、それとも病院だからなのか、清潔な白で統一されている院内は、だが、いっそきっぱりと拒絶されているような潔さがあって、光太郎は少し居心地の悪さを感じながら消毒されている椅子に腰掛けた。

「兄ちゃんさ、眉間に皺が寄って難しい顔してる。何かあったんだろ?」

 ちょっと苦笑しながら首を傾げて見上げてくるその夜の闇のように点在する星が瞬く双眸は、遠い昔に離れてしまった時から少しも変わっていないように見える。身長こそ成長しているものの、幼さの残るあどけない面立ちも、見た目よりもさらりとした黒髪も、何処をどう見ても幼いぐらいで特段変わったところも、目を付けられそうなところもないと言うのに。

「何故、お前なんだろうな…」

「そっか、名無しのなんとかに何か言われたんだな…俺、あれからずっと考えているんだけど、やっぱりどうしても思いつかないんだよなぁ」

 甘いキャンディバーを齧りながら不満そうに吐息する光太郎の傍らに腰を下ろして、惟貴は困惑している横顔に語りかけた。

「どうやらお前は多くのシリアルキラーの標的になっているらしいぞ」

「ふーん。やっぱり、何かが原因だとおも…え?」

 気のない返事で頭の中を名無しの殺人鬼のことでいっぱいにしていたに違いない光太郎は、ふと、兄の言葉が漸くたった今脳裏に到達したようで、双眸を見開いて見詰め返してくる。

「ヤツは顔にも声音にも出さなかったが、それを強く懸念していた…これは私の憶測だが、ヤツはFBIにお前を護らせるためにわざと今回の事件を起こしたんじゃないかな」

「どど、どうしてそんな…ッ」

 明らかに動揺したように目を白黒させる弟には、恐らく事の重大さがあまりよく判ってはいないのだろう。だがその実、その重大な意味を唯一理解して先手を打っているのは、驚くべきことにあの悍ましい殺人鬼だけなのだ。

「お前、何か心当たりはないのか?アメリカに来て、何か変わったことをしなかったか?何かおかしなことを言わなかったか?なんでもいい、些細なことで構わないんだ。何か思い出さないか?」

 両肩を掴んで揺すりながら必死の表情で覗き込んでくる兄に言い募られても、光太郎はどうしてもピンッとくることは何も思い浮かばないのだ。
 兄たちに言われなくても、名無しの殺人鬼に面談相手として指名された時から、もうずっと何が原因で自分が殺人鬼に目を付けられたんだろうと考えていた。

「わ、判らないんだよ。ずっと考えているんだけど…此処に来て変わったことなんか、俺何もしていないよ。兄ちゃんにパーティーにも行くなって言われてたから、誘われても断ったし」

 困惑して不安そうな表情で首を左右に振る光太郎を見詰めても、答えは端から判っていた。一見、気弱そうに見えるが芯の強い光太郎ではあるのだけれど、兄の言いつけはよく守り、本当に勉学に勤しむだけにアメリカに来てしまったような弟なのだ。
 殺人鬼どもの理不尽な押し付けで、この可愛らしい弟は最大の窮地に追い込まれていると言うのに、何もしてやれない自分が歯痒くて仕方がない。

「…そうか。本当はヤツに関わらせるなど虫唾が走る思いだったんだが、こうなってしまえば、やはり何がそうさせてしまったのか殺人鬼自身に聞くしかないんだろう」

 惟貴はポツリと呟いた。
 弟の意思とは言え、実はギリギリまでまだ未練たらしくこのまま日本に帰してしまおうか?とすら考えていたのだが、事は命の危機ともなるとそうはいかない。
 レビンの答えを待ってもいいのかもしれないが、理知的な光を宿すシルバーグレーの双眸を持つあの血まみれの殺人鬼が、冷静且つ整然としたサイコキラーが、自分の量刑の軽減を求めるのでもない他者の為だけにこんな無茶をして…そう、ともすれば必死に光太郎を護れと訴えたのだ。
 それを考えるのならば、何処に居るのか顔も判らない殺人鬼どもが見守るなか、弟を日本に帰すことほどゾッとしないことはない。
 ともすればどんな酔狂を持ったシリアルキラー…いや、『自分が戻るまで』などと物騒な台詞を吐いた、弟に異常なまでに執着しているあのサイコキラー自身が、光太郎が日本に帰ると知ればどんなことを仕出かすか判ったものではない。剰え、名無しに感化されたシリアルキラーもいるかもしれない。
 そうなれば、空港は阿鼻叫喚にならないとは言い切れない。

「…俺は何をしてしまったんだろう」

 溜め息を吐く兄を見詰め、そして思い詰めたように俯いて呟く光太郎に、惟貴は何も言えなかった。
 何故人が人を殺すのか、その理由について名無しの殺人鬼は呆れたように『そうしたい欲求があるからだ』と嘯いた。そんなあやふやな動機の為に、弟は命を狙われていると言うのか。

「…勘違い、か」

 ポツリと呟いた兄の顔を見上げて、光太郎はソッと眉を寄せたようだ。

「お前はいったい、誰に何を勘違いされたんだろうな?」

 やわらかな黒髪に指を絡めながらわしゃわしゃと掻き混ぜて呟いたところで、光太郎には皆目見当もつかない質問であることは致し方ない。
 その優しい穏やかな笑顔を勘違いされたのか、困っている人をみると放っておけない性格を何か性質の悪い連中に勘違いされたのか…光太郎はお人好しで気が優しいから、勘違いされるとしたら全てなのではないかと惟貴は頭を抱えたくなった。
 ならば、毒を以て毒を制す…と言う諺の通り、毒には毒を、殺人鬼には殺人鬼で対抗するしかないのではないか。
 相手が単純なシリアルキラーであるのならば、こちらには、少なくとも光太郎に熱心な興味を持っているサイコキラーがいるのだ。我々のように正義に目が眩んでいる人間では見えないところを、闇に慣れた双眼を持つヤツならば全てを見抜くのではないか。
 何より、ヤツが光太郎に興味を持っているからこそ大事にしようと考えているその想いを、我々が利用したところで何が悪いと言うのだ。

「だがまあ、こちらにはFBIもついているんだ。ヤツがいれば鬼に金棒だな」

 クスッと惟貴は観念したように苦笑したが、相変わらず、ワケも判らず、まるで小動物のような心許無さで光太郎は小首を傾げている。
 今日から一週間、悪いモノも悍ましいモノも、何もかもをその脳裏に刻みつけて、彼はヤツと対峙しなければならない。その間に、その優しい心は何処まで蝕まれてしまうのか。
 真っ白で美しい、無垢なるものを護れるのだろうか…

6  -Forced Encounter-

 異例の処遇を受けながら、施設の者たちからは名無しの殺人鬼などと言う胡散臭い呼称で呼ばれている、赤みを帯びたブロンドが上等なアクアマリンのような青に近いシルバーグレーの瞳にややかかるほど伸びてはいるが、高い鼻梁に酷薄そうな薄い唇、その全てのパーツが狂いなく配置され、その適度な運動により嫌味じゃない筋肉質な体型が彼を完璧と言わしめるほど、誰もがハッとするほどの美貌を持ちながら件の事件の容疑者は、その無機質な冷たい鉄の扉が早く開かないかと、拘束衣で自由を奪われてはいるものの今か今かと期待に胸躍らせてワクワクしたように酷薄そうな唇に笑みを刻んで待ち構えている。
 先に入室してその様子を窺っているサモンズとレビンは、特にレビンに至っては、それまでの酷薄そうな冴え冴えとした陰鬱な表情からは読み取れないポーカーフェイスの悪魔の、そのガラッと変わった雰囲気に面食らっていた。
 そうして見ると、今までの陰湿で重苦しい雰囲気など何処吹く風とでも言うのか、今の彼を何も知らない者が見れば、恐らく取っ付き易くて人好きのする、是非とも知り合いになりたいと思わせるその絶対的な魅力に惑わされるに違いない。いや、どんな事件を起こしたのか理解している人間ですら、その魅力に惑って、一連の事件に本当に彼が関わっているのかと疑い始めるのではないかとさえ思わせるほど、ワクワクしているらしい彼は陽気で、人好きのする笑みには邪気がない。

(この悪魔め…)

 だが、サモンズはその雰囲気に騙されはしなかった。
 それがたとえ偽らざる本心の笑みだったとしても、この殺人鬼が何を仕出かしたのか、目の当たりにしたことのあるサモンズには全てが偽りとしか言いようがないのだ。
 鉄の扉が重苦しく軋む音を立てて開いた瞬間、拘束衣に戒められている身体の不自由さを内心で嘆きながら、漸く対面できるそのひとへ期待を向けた眼差しで見つめていたが───…不意に人好きのする笑みが引っ込み、全てに興味を失くしたようにシルバーグレーの双眸から光が消えてしまった。
 溜め息も吐かずに椅子の背に凭れるように座り直して、名無しの殺人鬼に戻ってしまった男は目線を外して外方向いた。

「コータロー・アモウじゃなくて悪かったね」

 書類を手にした惟貴が口角を上げて瞼を閉じながら笑って言っても、既にだんまりを決め込んだ彼は何か言うつもりもないし、勿論目線を向けるつもりもないらしい。

「心配しなくても来週には彼が接見しにくるよ」

 椅子に腰掛けながら言ったその言葉に、漸く双眸に光を取り戻した男はゆっくりと惟貴と目線を交えた。
 視線を合わせることなどただの一度もなかったし、惟貴にもその他の誰にも興味らしい興味など示さなかった男は、その言葉だけに反応して目線を合わせてきたのだ。

(これはこれは…それほど光太郎を待っていると言うのか)

 どれほどの期待と興味を持って天羽光太郎と言う存在を待っているのか…そこで漸く、惟貴は彼が、どうやらこの場所で光太郎と逢う為だけに本気でわざと逮捕されたのではないかと真剣に懸念した。

「その前に君に幾つか尋ねたいことがあるんだが…話す気はないんだろうね?」

 まんじりともせずに沈黙の檻に閉じ篭もるのだろうとやれやれと溜め息を吐く、と。

「知的な馬鹿は物事を複雑にする傾向があるな。それとは反対の方向に進むためには、少しの才能と多くの勇気が必要なんだぜ」

 不意に口を開いた名無しの殺人鬼にハッとして顔を上げたのは、何も惟貴だけではない。サモンズもレビンも同様に件の殺人鬼の顔に目を瞠って見詰めていた。
 低い声はともすれば心地好いとさえ思え、これで本当に完全無欠の美貌が完成してしまったのだが、一度、「ねえ、捜査官」と声を掛けられたレビンですら、改めて目を瞠ってしまうのはこの美貌の殺人鬼の成せる業なのだろう。

「俺はコータローくんに逢って話がしたいと言ったはずだ。そうじゃないなら、話す気なんかさらさらないね」

 身体を起こして暗い双眸で惟貴を見詰めながら、赤みを帯びたブロンドの男はその神秘的なシルバーグレーの双眸を細めて口角を僅かにクッと上げて、自分を騙して話を聞きたくないのなら、どうぞ存分に物事を複雑にしてくださいとでも言いたげだ。

「…なるほど、アインシュタインの言葉か」

 多くの勇気には、自分の弟を差し出す勇気が含まれるとでも言いたいのか。

「アインシュタインなんてどうだっていい。俺はアイツに逢いたいんだよ。逢って早く話がしたいんだ」

 ハァッと盛大な溜め息を吐いて背凭れに背中を預けて双眸を閉じた男は、どこか上の空で誰かを思い浮かべているようだ。

「今日はよく話すんだな」

 苦笑して煽ってみれば、そんなことにも一切の興味が失せてしまったような男は、不満そうに酷薄そうな唇を尖らせて呟いた。

「いつもは下らない話しかしないしさ…言葉が役に立たないときには、純粋に真摯な沈黙がしばしば人を説得するって言うじゃないか。条件を出して黙っていれば、いつかアイツは俺のところに来るんだろ」

(今度はシェイクスピアか…どうやら、随分と格言じみた言葉が好きみたいだな)

「別に好きじゃないさ」

 常にポーカーフェイスを意識している惟貴は、いとも容易く自分の思考を読まれたことに内心は動揺したが、それこそその動揺を表に出さないように一瞬だけ息を呑んで、それから探るように名無しの殺人鬼を見た。

「読んでいた本の内容が頭をグルグルしてるんだよ。気付いたら口から出てくるってそれだけのことだ」

 だが、そんな惟貴の思惑などまるで興味がないのか、彼は欠伸など噛み殺して瞼を閉じると既に退屈し始めたようだ。とは言え、こんな話にでも口を開いたのは、どうやらレビンが言ったようにその根底の話題に彼が渇望している天羽光太郎の存在があるからではないか。
 光太郎の存在がない会話なら、きっと今でも彼は純粋に真摯な沈黙を何日だって貫いて沈黙の檻から出てくることはないのだろう。

「お前は光太郎を何処で知ったんだ?」

 本当はこの契機にヤツの名前、年齢、殺人に関して等々、あらゆる情報をより多く聞き出さなくてはいけないのだが、惟貴はどうしてもその事実を何よりも確認したかった。
 あの穏やかで優しい弟をどこで見初めて、何故殺さず、そんなにも無性に逢いたがっているのかが知りたいのだ。

「…呼び捨てにしてるな。ああ、そうか。アンタはアモウ博士だったな。もしかして、アイツはアンタが言っていた大事な者なのか?」

 ふと、双眸を開いてゆっくりと惟貴を見た男は、何も掴めない無に近い感情で首を傾げている。以前、自分にも大事な者がいる…ようなことを匂わせた会話を思い出したのか、あの状況でも聞いていたのかと底知れない男の闇に眉を寄せると、不意に物言わぬ殺気のようなモノを感じてハッとした。
 その、シルバーグレーの双眸の奥深くにチラチラと燃えている光は狂気なのか、それともまさか怒り…?

「アイツはアンタのパートナーなのか?」

 兄弟…と言う認識よりも、ニューヨークでは同性婚が認められているのだから、この名無しの殺人鬼にとって問題なのはその部分なのだろう。

「パートナーだったとしたらどうするんだい?」

「…いや、違うな。そんなはずはない」

 不意に彼の台詞など完全に無視し自己完結して不貞腐れたようだったが、それから男は徐に挑むような双眸で自分の心理を分析する惟貴を見据えた。
 その双眸には数多の殺人鬼と対峙した惟貴ですら背筋を凍らせる、何か一種独特の凄味のようなモノがあった。
 それは光太郎のパートナーと言う信じたくない存在に対する猛烈な嫉妬なのか、はたまた全く別の何かなのか…いずれにせよ、男は惟貴を見据えたままで酷薄そうな薄い唇を開いた。

「なあ、何故人間は人間を殺すと思う?」

 唐突な、通常のサイコキラーらしい問答に一瞬、訝しげに眉を顰めてみたものの、何かの新たな前触れか、もしくは何らかの事件解決のヒントに繋がる遣り取りになるのではと思い直し、惟貴は机の上に両肘をついて指先を組んだ。

「…さあ、何故かな?」

「答えになってないなぁ…理由は簡単だよ。そうしたい欲求があるからさ。それと、勘違いだ」

 それまで一瞬たりとも視線を外さなかった、鳩尾の辺りがゾクリとする薄ら寒い狂気の色を宿していた双眸を瞼で隠すと、名無しの殺人鬼は肩を竦めて溜め息を吐いた。

「勘違い?」

 拘束衣によって身動きが取れないとは言え、隔てる壁も鉄格子も強化硝子も何もない、同じ空間に居ると言うだけで、他の犯罪者にはない冷ややかな空気が満ちているようにすら感じるのは、恐らく気のせいではないのだろう。

「アイツの部屋はダメだな。西の窓の鍵が壊れている。だが殺人鬼ならそんなチンケなところは狙わない。堂々と玄関から侵入するんだよ。俺みたいにさ」

「…なんだと?」

 ふと、シルバーグレイの神秘的な双眸を開いて、口角を上げて嗤う名無しの殺人鬼に、惟貴はハッとした。
 この男は既に光太郎の住居も知っていて、尚且つ、その室内にも足を踏み入れていたのだ。
 これだけ用意周到であるのなら、それぐらいは予想もできる…だが、だったら何故、コイツはすぐ目の前に居る光太郎を殺さなかったのか、執着している心臓を狙わないのか、それだけ執着しているのなら何処か遠くに連れ去らなかったのか…考えれば考えるほど、全てが闇の中に消えてしまう。
 答えは、そのアクアマリンのようなシルバーグレイの瞳の奥に横たわる、奥深い、覗き込んでしまえば二度と後戻りのできない深淵の底に蹲っているのだろうか。

「今はアンタの家に居座ってるからよしとしても、戻らせたらダメだ。俺が居る間は問題なかったんだけどさ、今はこんなところにぶち込まれてるんでね」

 やれやれと溜め息を吐きながらもニヤリと嗤う男の顔を、惟貴は忌々しそうに見据えて言い返した。
 何故か、咽喉の奥が渇いている。

「お前は何を言っているんだ?」

 ヒョイッと、映画俳優でも気取っているのか、しかしこんな場所に居ること自体が間違っていることのように、とても似合っている仕草で眉を上げた名無しの殺人鬼は、少し声を立てて笑ったようだ。

「ははッ…まあ、冗談だと思って聞けばいいさ。アイツの部屋に何人か警官を送り込んでみろ。恐らくクローゼット付近のドアの影にでも一匹ぐらい隠れているんじゃないか?」

 笑っているのだがさして面白くもなさそうに彼は言葉を続けた。

「本当は今日、俺が自分の口でアイツに伝えたかったんだけど…アパートを引き払って、俺が戻るまではアンタのコンドミニアムに居るように伝えてくれ」

 面白くもなさそうに瞼を閉じて肩を竦めると、まるで兎にも角にもどうでもいいからこれだけは伝えてくれよと言外に言い放つ男に惟貴は無言で睨み据えた。

「…」

「なんだ、此処まで言ってもまだ判らないのか?お偉い博士なのに頭の融通が利かないんだなぁ、コータローくんのお兄ちゃんはさ」

「!」

 呆れたように訊ねてから、当の昔に惟貴の正体など判っていたんだよ…とでも言いたげな、まんまと罠に嵌めたらしい名無しの殺人鬼のその馬鹿にした態度に苛々としたものの、やはり彼はそうして何かを伝えようとしているようだ。

「俺はアンタに随分と多くのヒントをくれてやった。それなのにどうだ。アンタはこんなところでのうのうと俺の相手なんぞしているんだからな」

 フンッと鼻先で笑ってから首を左右に振ると、まるで突き放すように吐き捨てる男を見据え、そうして惟貴は先ほどから目まぐるしく脳内で交差する考えを纏めようと双眸を細めた。

(光太郎が狙われていると言うのか?勘違いだと??何か勘違いされるような行動、もしくは発言をしたと言うのか?そのせいで、光太郎は殺人鬼どもに狙われていると言うのか、だがそれならばまず…)

「アモウ博士!マーカスを洗い直しますッ」

 傍らに黙して控えていたレビンが、サモンズに促されてそう叫ぶようにして言うと、そのまま脱兎の如く室内から駆け出して行った。
 どうやら、彼らも時を同じくして惟貴の考えと同じ考えを持ったようだ。
 さすが、選び抜かれた名無しの殺人鬼の担当捜査官である。
 だが、それよりも、そんなことよりも惟貴は確認しなければならないのだ。
 悍ましいが、彼が何よりも執着している心臓よりも興味を見せる光太郎の為に、その手をなぜ血塗れにしたのか、その理由を…

「お前は…マーカスを殺して、それをただの警官に発見させ、当局が事件を伏せるだろうことも予想したうえで、警官から仲間へ、そして家族、その恋人や友人へとひとの口伝てに噂を広めさせたのか?マーカスを利用して光太郎を狙うだろう殺人鬼どもに見せしめをしたと言うのか?!」

「質問にたどり着いたなら、答えはすぐそこだ」

 満足したようにニッコリと嗤う名無しの殺人鬼は、そうして、見る者を地獄に叩き落とすような、地獄に堕ちることも厭わないような、とても魅力的で蠱惑的な表情をして、慌てて立ち去る精神分析医とFBI捜査官を満足そうに見送った。

5  -Forced Encounter-

 マンハッタンから容疑者が収容されているメリーランド州ボルチモアの精神病院までは車で約3時間半の道程だった。
 大学の講義を休んでまで同行するように求められた光太郎は、兄の真摯な横顔に不安を抱きながら、初めてマンハッタンから出て遠方までのドライブだと言うのに、全く楽しめずに唇を尖らせるしかない。
 道中のガスステーションに隣接する売店で遅い朝食を摂り、日頃なら不味いジャンクフードに悪態のひとつでも吐いているはずの兄は、文句も言わずに光太郎の差し出したブリトーに噛り付いていた。

「…言えないこともあると思うから聞いちゃダメだとは思うんだけど、これから何処に行って何をするのかぐらい教えて欲しいよ」

 不味いコーヒーは早々に諦めて、甘ったるいコークで咽喉を潤しながら、重い沈黙に居た堪れなくなって光太郎は傍らの惟貴に訊ねていた。
 早朝、スマホで何やら喧々囂々と遣り合っていた兄は、叩き壊すような勢いで電話を切ると、寝惚け眼を擦りながら何事かと首を傾げる光太郎に旅支度をするように指示してきた。
 大学にも連絡を入れて、問答無用の態度に只ならぬモノを感じてはいたが、ムッツリと黙り込んでいる兄の機嫌の悪さは半端じゃないが、この状態があと1時間以上も続くかと思うと頭が痛くなってきたのだ。

「…ああ、すまないな。頭に血が昇ってお前に説明していなかった」

 ハッと漸く我に返った惟貴は、不安そうに自分を見詰めてくる弟の顔を見て、自分の不甲斐なさに溜め息を吐いてハンドルを掴んでいる手に力を込めた。

「昨日、話した容疑者だが…今はボルチモアの州立病院精神異常犯罪者病棟に収容されているんだが」

「容疑者なのに犯罪者の病院に収容されてるのか?!それっておかしくないかな…」

「極秘だと言っただろ?これは異例の措置なんだよ」

「…」

 なんとなく理不尽に感じているのか、少しムッとしたように唇を尖らせているあどけなさを残す弟に苦笑して、惟貴は話を続けた。

「名無しの殺人鬼と呼んでいるんだが、ヤツは収容されてから一切口を開かない。話せないのではなく、自らの意思で話そうとしないんだ。ソイツが昨日珍しく口を開いて面会者を指名したそうだ」

「ああ!それで兄ちゃんが行くのか…って、でも兄ちゃんは最初から話してるし、それに俺が行っても足手纏いなだけじゃないかな」

 精神分析医として名を馳せている兄は、そのハンサムな美貌から犯罪者に人気があるらしく、接見交通権を行使して面会者として指名されることが多いと日本の大学でも噂されていたから、事情は知らなくても合点がいったようだったが、ふと、最初から兄が接見していること、その職場に自分なんかが行っても邪魔にならないのだろうかと言う疑問が首を擡げて、光太郎は不意に困惑したような顔をした。

「ああ、職場訪問させてくれるんだ!」

 なるほどと頷こうとする弟の黒髪に片手を伸ばして、兄はその見た目よりもやわらかな髪をグシャグシャに掻き回しながら溜め息を吐いた。

「…その指名された相手が、天羽光太郎。お前だよ」

「ええーッ?!どど、どうして、俺ぇ?!」  最初は吃驚したように目を見開いていたが、次いで、スーッと青褪めた光太郎はすぐにバタバタと両手を振りながら激しく拒絶した。 「無理無理無理無理!!そんなの絶対無理ッ!犯罪心理学も学んでいないし、何より、俺はまだ臨床心理士の資格すら持っていない、ただの学生なんだよッッ!!」

 見たこともない凶悪なサイコキラーに本気で怯えたような情けない顔で眉は八の字になってしまっている。

「そう、だから私もそう言って断ったんだが、法の力を行使されてね。こうしてお前を連れて行かないといけないことになっているんだが、この件はどんなことになろうとも断ろうと思っている。名無しの殺人鬼の酔狂になど乗ってやる義理はないんでね」

 前方を睨み据えたままで素っ気なく、且つ、静かな怒りに内心打ち震えながら吐き捨てる兄を見て、恐怖に青褪めていた光太郎はしかし、すぐに申し訳なさそうに兄の横顔を見詰めた。

「…でも、そんなことしたら兄ちゃんが」

「構わんよ。そろそろ日本に戻りたいと思っていた頃だ。こんなクソッたれな申し出を引き受けるぐらいなら、平和な日本に戻る方が随分と楽しいしな」

 ともすれば氷のように冷たい美しさを持つ兄は、こんな風に二カッと笑っておどけて見せればナイスガイのハンサムにしか見えない。アメリカの食生活のせいなのか、10年前は頼りなげな細身の青年と確かに記憶していたはずなのに、袖を捲ったシャツからのびる腕も肩幅も記憶の中のそれとは大きく違い筋肉に覆われて随分とガッシリした体型になっていた。
 身長もかなり高くなっていて、オンラインでは何度も話していたはずなのに、久し振りに会った実物の兄は同一人物なのかと一瞬疑いすらしたぐらいだ。
 スーツ姿であれば昔の面影もあるものの、着痩せするタイプだったのだと知った時の衝撃は半端なかった。
 だが、だからこそ、兄はこのアメリカで伸び伸びと活躍しているのだろう。
 今更、窮屈な日本に戻って、あの傷付けられたような冷めた表情を浮かべる昔の兄に、できれば戻って欲しくないと光太郎は考えて、そして俯いてしまった。

「俺、どうして殺人鬼に名前を知られたのか判らないけど、俺がアメリカに来なければ良かったんだ。そうしたら兄ちゃんはもっともっと此処で活躍できたのに…」

「馬鹿だな。可愛い弟を犠牲にしてまで得る地位なんざクソ喰らえだ。まだ少し時間がある。朝も早かったから眠っているといい」

 悲しそうに俯いている弟をチラッと見やって、それから、彼は愛しそうにその頭を優しく撫ぜる。

「兄ちゃん…ごめんね」

 溜め息のように零れ落ちる声音に、この10年、どうして弟を独りにしてしまったのかと舌打ちしたい気持ちに駆り立てられていた。

 メリーランド州ボルチモアにある州立病院は最新の設備を備えて…いるワケではなかったが、名無しの殺人鬼が収容されている部屋は特別に設えられているのか、エレベータは惟貴と光太郎を地下に導いている。
 心臓の音が外からでも聞こえてしまうんじゃないかと懸念するほど、空調が整っていると言うのに光太郎は嫌な汗で前髪を額に貼り付かせて、それからドキドキと脈動を刻む胸元をギュッと掴んだ。

「顔色が悪いですね。大丈夫ですか?」

 心配そうに顔を覗き込んできた長身のスーツ姿の男は、レビン・ヒュイットと言う名のFBI捜査官だと紹介されたが、その屈託のない明るい性格には助けられているが、心配そうな表情に応えてやれるほど大人じゃない光太郎は困ったようにはにかんだ。
「だ、大丈夫です。たぶん…」
 顔色が悪くなるのも頷けるからこそ心配だなぁと眉を顰めるレビンに、同じくエレベータに同乗しているボルチモア州立病院精神異常犯罪者病棟の責任者である、暗いブロンドと蒼い瞳を持つディビッド・グレンバーグが整った眉尻を跳ね上げてそんな捜査官と名もなき大学生を見た。
 その鋭すぎる視線に思わず首を竦めたくなる光太郎は、ソッと傍らの兄に身体を寄せてしまった。

「彼に…心理学を学んでいるに過ぎない大学生を引き合わせるなど、私は歓迎しませんがね」

「全く同感ですよ、グレンバーグ博士!」

 何もかもが気に喰わないと言いたげな不機嫌な呟きに、傍らに立っている天羽惟貴は口角を吊り上げるようにして笑い、そして語尾に力を込めて言った。

「アモウ博士。あなたは確かに素晴らしい経歴の持ち主だ」

「いえ、まさか。グレンバーグ博士には遠く及びませんよ」

 謙遜に肩を竦める惟貴に、グレンバーグは不愉快そうに鼻で息を吐き出したものの、腕を組むと、殊更神妙な口調で言葉を続けた。

「彼はそんなあなたの弟だと仰るが、博士号もない、ましてや経験値の足らないただの学生なのです。コータロー君を彼に引き合わせて、どんな悲劇が待ち受けているか目に見えるようじゃありませんか」

「その通りです。グレンバーグ博士、私は弟をヤツに会わせる気などさらさらありません」

 薄笑いを口許に浮かべる冷たい美貌のアジア人を横目で睨み、だが、グレンバーグは面白くもなさそうに溜め息を吐くのだ。彼にとって表面上の美しさなど何の意味もなく、また興味すらない。
 そんなことよりも今心を占めているのは、あの無言の殺人鬼のことである。
 心理学を一通りマスターし、経験値も充分に積んでいるはずの自分にも、ましてや天羽博士にでさえ全く心を開かない、それどころか、そこに居る全ての人間に興味も関心も示さないあの名無しの殺人鬼が、初めて口にした人物は調べてみても、名前こそ立派な大学に所属しているものの、パッとしない日本人留学生だった。
 不愉快で不機嫌になったとしても致し方ない。

「正直、俺も反対ですよ。俺でもできれば勘弁願いたいのに君はとてもか弱そうだから、あんな化け物を相手にしたら寝込んでしますよ。俺からも無理だって言おうと思ってるんだ」

 コソコソと耳打ちしてくるレビンに、なんだそのか弱いってのはとムッとしたモノの、屈強なFBI捜査官ですらマジでビビると言うのだから、もしかしたらとんでもなくいかついおっさんなのか、はたまた、病的にヤバイ、目の逝っている精神異常者なのか…いずれにしても、日本ですらお目にかかったことのないヤバイ類の人物であることは間違いないんだろうと思わず身震いしてしまった。

「僕、きっとお役に立てないと思います。だから、兄が言う通り、断るのが妥当なんだと思います」

 身体を屈めて安心させようとしていた長身のレビンは、身長は175センチもないんじゃないかと思える小さい、ともすれば中学生ぐらいに見える少年のような光太郎を繁々と見下ろして、尊敬する天羽惟貴博士とは全く似ていない柔和な雰囲気に、やはりヤツに会わせるのは拙いんじゃないかと胸騒ぎを覚えた。

「役に立つ立たないは関係ない。お前には何も経験がない。こんな素人を玄人ですら手古摺る容疑者に引き合わせるなど正気の沙汰じゃないだけさ」

 しょぼんと俯く光太郎の頭に手を乗せ、元気付けるようにポンポンと軽く叩いてくる兄を見上げて少しホッとしている穏やかそうな青年と、あまりにもこの場所は世界が違い過ぎて、レビンは殊更光太郎が気の毒に思えた。

「だがね、アモウ博士。そうも言っていられないのが実情なのだよ」

 軽いベルの音を響かせてエレベータが重力を伴って目的地に着くと、開く扉から歩み出ながらグレンバーグは肩を竦めて見せたのだ。
 38人以上を殺害していると思われる猟奇殺人犯の容疑をかけられている男は、違法性はあるのだが異例の措置と言うこともあり、自白剤を使用したにも拘らず、驚くべきことに耐性があるのか、どんなことをしても口を開こうとしなかった。その名無しの殺人鬼が漸く重い口を開いて求めたモノが、21歳のほぼ素人とも言えるただの大学生で、だが、当局はその存在に藁をも縋る思いで賭けることにしたのだ。
 たとえ名声を誇る精神分析医の猛反対に遭おうと、そんなものは権力の元では風前の灯に過ぎないと言い切るように、レビンの上司であるサモンズ捜査官が強い表情で彼らを迎えた。

「ようこそお越し頂いた。ええと、君がコータロー・アモウ君だね」

 恭しく挨拶をしたものの、すぐに興味は優秀な精神分析医の傍らに居る光太郎に移されたが、惟貴が背後に弟を隠すように一歩踏み出し、ハッキリとした明朗な口調で言い切った。

「弟をヤツに会わせる気はないと電話でも言ったでしょう。今日は断りに来たのです」

「それは困ります、アモウ博士。既に段取りは整っている。ヤツも上機嫌で待っているんです。この機を逃したら未だ遺体さえ見つからない被害者の無念はどうするんですか」

 若干小太りのサモンズは暗い双眸で惟貴を見上げて、まるで咳き込むようにひっそりと吐き捨てた。
 たった独りの肉親である弟が可愛いのはよく判るが、その為に多くの家族の無念を犠牲にできるのか…と言外に語っているのだが、実際、惟貴にとってそんなことはどうでもいいことだった。
 彼にとって光太郎こそが全てで、光太郎独りの為に多くを犠牲にすることなど造作もないことだと認識していたのだ。
 だが…

「…遺体が見つかっていない人もいるんですか?」

 長身の兄の背後に隠されていた、傍に居る者が一様にホッとできる、不思議なやわらかさと穏やかさを持っている少年のような青年は顔を覗かせて、そして真摯な双眸でサモンズを見詰めたようだ。

「光太郎!」

 惟貴が鋭く叱責したが、感情の読めない暗い双眸のサモンズは、自分と身長があまり変わらない大学生と言うよりも中学生と言った方がしっくりくるような、光太郎の邪気のない双眸を見据えて頷いた。

「そうだよ、コータロー君。ヤツは身元も知れない被害者たちの情報に口を噤んで、一切何も語ろうとしない。だが、君になら話していいと言っているんだ。どうだろう?協力してくれないかね」

 躊躇うように一瞬目線を泳がせてしまう光太郎はだが、気弱そうな双眸に意志の強さを物語る光を浮かべて唇を噛んだ。
 彼がこの表情をする時、一途な思いはいっそ頑固とも呼べるほど決意が固いことを物語っているし、言い出したら聞かない表情であることも、幼い頃から傍に居た惟貴は嫌と言うほど思い知っている。

「お前は気が優しい。そんな情に流されていたら今に痛い目に遭うぞ」

「でも兄ちゃん、俺は人助けがしたくて臨床心理士になりたいと思ったんだ。これから酷いことだって経験すると思う、それなら、今必要とされているのなら協力するべきだと思うんだよ。お願い…」

 真摯な眼差しで必死に食い下がる光太郎を、あれほど怯えていたくせに、その身体の何処にそれだけの勇気が隠れているんだと惟貴は少し辛そうな表情で見下ろした。
 だが、惟貴の中にもまた奇妙な好奇心が芽生えつつあることを感じていた。
 あの何があっても決して口を開かない、そしてどんなに調べてもなんの痕跡すら見つけることもできない全くの透明人間のような、不気味な名無しの殺人鬼がただ独り求めている光太郎を、ヤツに引き合わせた時、一体何が起こるのだろうかと。

「…馬鹿野郎」

 日本語の会話であるため、居並ぶ連中は理解することができないでいるが、それでもどちらにともなく吐き捨てるように呟く惟貴の表情で、どうやら事態は彼らの思惑通りに進んでいるらしいことが判る。

「判りました。光太郎に接見させましょう。だが、条件がある」

 弟の肩に手を乗せ、思いを断ち切るようにして振り返った惟貴はサモンズ捜査官を見下ろして明朗な声音で宣言した。

「条件?」

 腕を組むサモンズに惟貴は頷いた。

「そうです。まず、ヤツの真意を確かめたい。光太郎にはヤツの資料を読ませる必要もあるので、一週間後に再度日時設定をして頂きたい。今日は私が会います」

 何の知識も入れずにライオンの檻にリスを放り込むような真似ができるかと、その険しい双眸が物語っているのは充分よく理解して、サモンズ捜査官は顎を擦るようにして唸ったが、渋々頷いて承諾した。

「ううーむ…だがそうだな、まるで丸腰で挑ませるには忍びない。その点は了解した」

「今日の面談でその件は私からヤツに伝えましょう。そしてもう一点、光太郎とヤツの接見に私も同席すること。以上の条件を飲んで頂きます」

 この2点は譲れない条件だった。
 たとえ今ここで光太郎が大丈夫だなどと言うふざけたことを言ったとしても、その口を捻りあげてでも黙らせて、サモンズには従ってもらうつもりでいた。
 幸い、光太郎の口が捻りあげられることはなかったし、サモンズもその条件に頷いて快諾することとなった。

「了解した。ヤツも2人きりでとは言っていなかった。その条件でいきましょう」

 惟貴はやれやれと溜め息を吐いたが、その傍らで申し訳なさそうに見上げている光太郎に気付いた。

「そんな顔をするな。ヤツが何を考えているのか確認してくるよ。お前の出番は後回しだが、楽しみにしていろ」

 コツンと拳骨で頭を叩いたものの、その痛くないお仕置きに泣きそうな顔で笑って、自分の我儘に付き合ってくれる兄に感謝した。

4  -Forced Encounter-

 マンハッタン57丁目にある瀟洒なコンドミニアムの一室、リビングルームからセントラルパークを臨む眺望には、この部屋がどれほど高価で贅沢であるのかを窺い知ることができる。
 よく磨かれたガラスに手形を残しながら、夕暮れのセントラルパークを見下ろして光太郎は目を真ん丸にして溜め息を零している。

「この部屋から見る景色が好きでね。お前もあんな安いアパートではなく、此処に住めばいい」

 コーヒーカップを手にして戻ってきた冷徹そうな東洋の面立ちを持つ壮年の男は、摩天楼をポカンと見詰めている青年の背後から苦笑しながら声を掛けた。

「そんな、兄ちゃんに迷惑ばかりかけられないよ」

 背後を振り返ってニコッと笑う光太郎に、BAUにも協力することがある権威ある精神分析医として名高い天羽惟貴(アモウ・コレタカ)は彼に近付くと、整った眉根を寄せて、ミルク多めの甘いコーヒーを手渡しながら不機嫌そうに呟いた。

「子供が余計な気を遣う必要はない。お前はたった一人の肉親なんだ。この物騒な街に独りで置いておくと思うと、胃が痛くて私は夜も眠れないよ」

 不満そうに吐息して片手で腰を掴んでブラックの濃い目のコーヒーを啜る兄を見上げて、光太郎は「俺はもう21歳なんだから子供じゃない」と唇を尖らせたものの、それでも申し訳なさそうにしょぼんと俯いてしまう。

「無理を言って留学してきてごめん。兄ちゃんのいるアメリカがどんなところなのか見てみたかったんだ」

 まだまだあどけなさの残る童顔の弟は、少し見ないうちに人一倍気を遣う、優しい青年に成長したようだった。昔はもっと甘ったれで何処に行くにも着いて来たがっていたと言うのに…いや、それは今もあまり変わってはいないのだろう。だから、こうしてへこたれずに遠い日本から自分を追いかけて来たのだから。
 可愛くないワケがない。
 だが、アメリカに行くことになった日も泣きながら一緒に行きたいと駄々を捏ねていたあの少年は、一緒に暮らさなくても独りで充分やっていけると豪語できるほど成長してしまったのか。
 カッターシャツの袖は捲っているものの、腕を伸ばして見た目よりも随分とやわらかい黒髪に指先を埋めて、わしゃわしゃと掻き回せば吃驚したように目を白黒させる光太郎に惟貴は溜め息を吐きつつ苦笑した。

「お前が杉浦教授を頼ったと知ってガッカリしていたんだぞ。どうして兄を頼らない?」

「う~。だから、兄ちゃんに迷惑かけたくなかったんだよ。それに、俺はちゃんと自分の力で此処に来たかったんだ」

 すぐに子ども扱いする12も年の離れた兄を見上げて、追いつけない身長差にも不平そうに唇を尖らせる弟に、日頃は冷徹だ氷のようだと陰口を叩かれている惟貴は窓際に置いてあるテーブルにカップを置くと、柔和な笑みを浮かべて首を傾げて見せた。

「それで、アメリカで何か面白いモノでも見つけたか?」

「ああ!俺、犯罪心理学を勉強してみようと思うんだ」

 パッと嬉しそうに双眸を輝かせる光太郎に、途端に惟貴の表情が険しくなった。

「犯罪心理学だと?お前には無理だ、やめておけ。臨床心理士になるんじゃなかったのか」

 両肩を掴むようにして顔を覗き込まれて、驚いたように目を瞠った光太郎はしかし、同じようにテーブルにカップを置くと、ムッとしたように唇を突き出して反論するのだ。

「もちろん、兄ちゃんのようにBAUに協力できるようになりたいとか、精神分析医になりたいだとかそんな大それたことは思ってないよ。ただ…リケット博士の講義に参加したら面白いだろうって思ったんだ。だからこっちに居る間は勉強したいなって思ってるんだよ」

「ああ、そう言うことなのか。だったら大丈夫だが、お前は気が優しすぎるからこう言った心理学には向いていないんだよ」

 そもそも、惟貴は臨床心理士…いや、光太郎が心理学に関わることにすら懸念を持っていて、できれば全力で阻止したいと思っていたぐらいなのだ。
 ましてや凶悪な殺人鬼たちに向き合うような犯罪心理学には何があっても携わらせたいとは思っていないし、ましてや関わることになろうものなら、それこそ持てる力を全て行使して防ぎたいとすら思っている。

「うーん、判ってるよ。俺はそう言うの全然向いていないからさ。その点、やっぱり兄ちゃんは尊敬しちゃうんだよな~」

 屈託なくえへへと笑って、却って双眸を覗き込まれた惟貴はその無邪気な発言に面食らったものの、溜め息を吐いて身体を起こし、やはり弟の髪をわしゃわしゃと掻き回してしまう。

「そーだ、今は何か事件に関わってる?シリアルキラーとかと面談してるの??」

 ワクワクと言った感じで聞いてくる光太郎の、その昔の面影を残しているキラキラした双眸を冷ややかに見下ろして、冷たい氷のような鉄面皮と言われる惟貴は片方の口角を吊り上げて腕を組んだ。

「守秘義務だ」

「ええ~…あー、そーか。残念だな~」

 曲がりなりにも心理学に携わる身の上としては、兄の言葉は尤もで、そろそろ夜の帳を下ろし始めるマンハッタンの夕景に気を取られながらガッカリと肩を落とす弟を、唐突にガバッと抱き締めて惟貴は嬉しそうに笑った。

「とは言え、私は弟には弱いからなぁ。少しぐらいなら教えてやらんでもないよ」

「ホントか?!兄ちゃん、やっぱ大好きだー♪」

 エヘヘと笑いあう兄弟、特に兄の姿を見た同僚がいれば、その普段との違いに腰を抜かして、今自分が目にしているモノが全て紛い物で、信じられるモノなど何もないと悲観に暮れて自殺でもしかねないほど、冷徹の仮面をするりと剥ぎ落している惟貴の姿に驚いて寝込むだろう。

「お前と同じ大学に通っていたマーカス・カーウェイが殺されたことは知っているな?」

「ああ…うん。今度犯罪心理学についてカフェで話そうって約束してたのに、殺されたんだよな」

 ふと、寂しそうに眉を顰めて俯く光太郎に、少なからずマーカスと縁があったのかと、兄はポンポンッと頭に乗せた手で軽く叩いた。

「その犯人と思われる容疑者と面会したよ」

「ええ?!容疑者の男が捕まったって聞いたけど、兄ちゃんが面会するほどの容疑者なのか?」

 吃驚する弟を見て、警察が隠しているマーカスの惨状、容疑者の異様な経歴などが未だに漏れていない徹底ぶり…とは言え、光太郎はどこかお人好しで天然な部分があるので、ただ単に彼が知らないだけなのかもしれないが。
 いや、そんなはずはない。
 今回の事件の凄惨さは公表するにはあまりに惨たらしく、現場に駆け付けた屈強なNYPDの警官と言えどもその場で吐き、未だにPTSDに苛まれていると言うのだからおいそれと公にもできないのだろう。

「これは極秘中の極秘だぞ。件の男は男女含む38人以上の人間を殺害したとの容疑がかかっているサイコキラーなんだが、これがなかなか手強いヤツで、我々はまだ彼の名前すら聞き出すことができないでいるんだ」

「サイコキラー…って、じゃあ、マーカスは酷い殺され方をしたんだな」

 兄は難解な事件であればあるほど協力のために駆り出されるのだが、マーカス1人の為に…と思っていたが、現在拘束中の容疑者は実に38人以上を殺害していると言う。しかも、兄の口からサイコキラーと言う言葉が出た以上は、シリアルキラーのように殺害行為を主目的として連続で殺人を犯しているのではなく、快楽のため、もしくは猟奇的な欲求を満たすために殺人を繰り返す殺人犯のことなのだから、光太郎は空調が整っている室内にも拘らず、何処か寒いように我が身を抱き締めてしまう。
 そんな光太郎にまさか殺害方法まで説明できるはずもなく、惟貴はふと、あの魅惑的な容貌を持つ底知れない悪魔のような男を思い出していた。
 当初、凶悪犯であるが故に口に拘束具を嵌められ拘束衣に動きを封じられていたものの、常に口許に微笑を浮かべている彼は、その実ちっとも愉快じゃないのだろう、その暗い光を宿す双眸は少しも笑ってなどいなかった。
 天羽惟貴と言う人間にすら興味がないようで、逮捕されてから現在に至るまで、驚くことにただの一言も言葉を発していないのだ。
 恐らく彼は、頭の中で常に目まぐるしく何事かを考えているのではないかと推測はできる…が、その根拠を糧に、その沈黙の檻から引き摺り出すことがどうしてもできないでいた。

「…すまない。電話だ」

 ブーブーッと無機質な機械音を響かせるスマートフォンを取り出してみれば、今回の事件に関わっているFBI捜査官からの連絡だと言うことが判った。
 若干、青褪めた顔をしている光太郎は素直に頷いて、少し温くなったカップを持ち上げると、夕闇の迫るセントラルパークを見下ろして甘いコーヒーに口を付けた。

『アモウ博士、レビン・ヒュイットです。既に帰宅されているところを申し訳ありません、例の容疑者の件なのですが…』

「ああ、ヒュイット捜査官。ヤツに何か変化でもありましたか?」

『それがですね、えーっと…その』

 背中を向けて表情の読めない弟を気にしながらも、先日面会した時は拘束衣に動きを封じられてはいたものの既に拘束具は取られていた容疑者の顔を思い浮かべながら尋ねると、電話口の捜査官は日頃の快活そうな態度とは裏腹の、要領を得ない酷く言い難そうな物言いに、惟貴はふと苛つくのを感じていた。
 何かあったのではと、必要ないかもしれない警戒心がグッと首を擡げるのだ。

「ヒュイット捜査官?」

『ああ!えーっと…それがですね、ヤツが口を開いたんですよ』

「なんですって?」

 その驚くべき返事に、惟貴は目を瞠った。
 あらゆる手段を高じて、時にはこちらの弱味すらチラつかせて見せたと言うのに、チラッと視線を向けるぐらいで、日頃感情を表に出さない惟貴でさえ激高したくなるほど、やるせないぐらい一切の興味をかなぐり捨てているような容疑者のあの強硬な心境に、いったいどんな変化があったと言うのか。

「ヤツは何を言いましたか?それが今回の事件の謎を紐解く切欠になるかもしれない…これからそちらに伺います」

『それが、博士』

 今までに感じたことのない高揚感を感じながらも、部屋を大股で横切りながら投げ出していた上着を片手に言葉を継ぐ彼を、電話口のヒュイット捜査官は慎重且つ緊張した声音で呼び止めた。
 その声音は、何か只ならぬことを口にする前兆の気配である。

『ヤツは面会相手を指名してきたんです』

「ああ…それはよくあることですね。ヤツは私をどうやら毛嫌いしているようですから…どなたですか?もしやジミー・ファロンとでも?」

 なんだ、そんなことかと溜め息を零す惟貴は、まさかあの理知的な光を宿す暗い双眸を持つ男が、よもやトーク番組の名司会者を指名するとは思えないが、過去にはそんな記録もあるので侮れないだろう…しかし、つい鼻先で笑ってしまう。

『…それが、その』

「要領を得ませんね。それではこちらには何も伝わりませんよ」

 ヒュイット捜査官はどうしたと言うのか。
 淀みのない物言いが好感のある青年だと言うのに、ひとつひとつ言葉を選んでいる様は、どうも不穏な気配を感じてしまう。ましてや自分の仕事柄、大体の予想は的中する。

『博士、冷静に聞いてください。ヤツが指名したのは現在コロンビア大学で犯罪心理学を学んでいる、コータロー・アモウと言う学生です』

「…なんだと?」

 ふと、兄のトーンダウンした声音に気付いたのか、摩天楼から目線を室内に戻した光太郎は不思議そうな顔をして惟貴を見返していた。
 その視線が不安に揺れていることに気付いて、その時漸く、惟貴は自分が光太郎を凝視している事実に気付いたようだ。

『何故、ヤツがコータロー君を知っているのか甚だ疑問なのですが、何度確認しても彼の名前を言うばかりで…彼を連れて来ないと何も話さないと言ってまただんまりを決め込んでいるんです。俺は反対したんですが上司の指示で…』

「いえ、ああ、すみません。だが、その申し出は断らせて頂きたい。明日にでもそちらに伺って正式に辞退させて頂きます」

『いえ、あのアモウ博士…ッ』

 電話口では焦ったように言い募ろうとする声が聞こえていたが問答無用で通話を切断し、日頃何があっても動じず、冷ややかな美しさを持つことから【アジアの雪の女王】と呼ばれている惟貴だったが、今回ばかりはその異名通りに冷静でいるワケにはいかない。

「兄ちゃん?」

 キョトンとする弟はいったい何時の間にサイコキラーに目を付けられていたのか、何時から狙われていたのか、そして何故名無しの殺人鬼はこんな容易い獲物を殺さなかったのか…光太郎はよく言えば鷹揚だが、悪く言えばかなり抜けているところがある。その気になれば38人もの人間を殺害しておきながらのうのうと尻尾も掴ませなかったヤツにとってみれば、それこそ光太郎を殺すことなど赤子の手を捻るよりも簡単だったに違いないはずなのだ。
 惟貴の見解では、恐らく今回の捕り物劇は名無しの殺人鬼が自ら仕組んだことに違いないと思っていた。
 どうして、ただの一度も姿を見せることもその存在自体を嗅ぎ取らせることもしなかったヤツが、【一連の殺人事件が自らの犯行である】と判らせるような、あんな判り易い殺害現場を仕立てあげ、ベタベタとあらゆるモノに指紋を残し、匿名で電話まで入れる念の押しようで捕まることを望んだのか。
 指紋とは言え、結果的には誰もヒットはしなかったのだから…その部分は、彼なりの皮肉だったのだろう。

(!…そうか、今回の被害者はマーカス・カーウェイだったな。光太郎は彼を知っていた)

 ヤツは早い段階で光太郎に目を付けていたのだろう。そうして、彼と親しくするマーカスに嫉妬したのか…しかし、それでは話がおかしいことになる。
 名無しの殺人鬼は典型的な秩序型のサイコキラーだと言って過言ではないほど、理知的で整然とした殺人を好んでいる。心臓に執着しているが、順序立てて正確に開胸術を行っていることから医学的な知識も有していることが判るし、麻酔を使用することでギリギリまで被害者を苦痛なく生かしていることも判っていたが、今回は麻酔を使用しておらず、どうやってそれを成し得たのか説明できない部分があるとは言え、ヤツはマーカスに極限の痛みと苦痛を与えて絶対的な絶望を感じさせながら殺害していた。
 そして何よりも最大の違いは、マーカスはレイプされていなかったと言うことだ。
 猟奇と快楽を兼ね備えたこのサイコキラーは、被害者の開胸術を行う前に、まるで儀式のように彼らをレイプしている。だがコンドームを使用した痕跡も、射精した痕跡もなく、口付けなどの唾液の痕もないことから、挿入はするが性的興奮は感じていない。被害者は一様に性的興奮で達していることが判ると言うのに、この名無しの殺人鬼は挿入に対して性的興奮を求めているのではなく、開胸術を前に、なんらかの儀式として性行為を行っていると考えるしかない。
 このことから窺い知ることができるのは、ヤツはマーカスに対して物言わぬ強烈な嫉妬を感じたことで、いつもの手順を踏まなかったのではないかと言うことになるのだが、それにしてもおかしい。

(光太郎にはマーカス以外にも仲の良い友人はいる。なぜ、マーカスは惨たらしい殺され方をしたのか?そしてこの名無しの殺人鬼はなぜ、今までの整然とした殺害方法を乱してまでマーカスに苦痛を与えようとしたのか…だが、いずれにせよ)

 小首を傾げる光太郎に近付いて、そして惟貴は瞬きする弟の顔を見下ろして、それから包み込むように、何者からでも護りたいようにその両腕の中に光太郎を閉じ込めた。

「兄ちゃん?どうしたんだよ」

 兄の行動に不安を覚えたのか、心許無い表情をしてその腕を掴み、見上げようとする弟の後頭部に回した掌に力を込めて、惟貴は冗談じゃないと虚空を睨みつけた。

(光太郎をお前にくれてやるワケにはいかない)

 何ものにも代えがたい大事な肉親を、どうしてあの悪魔のように不気味な名無しの殺人鬼の玩具にくれてやらなければならないのだ。
 たとえ職を失うことになったとしても、惟貴は全力で腕の中の宝物のような命を護ろうと誓うのだった。

3  -Forced Encounter-

「お前…アレに手を出すなよ」

 人気の絶えない大通りを抜け、少々治安の悪い下宿のアパートに向かう裏通りの道すがらで、帰宅途中のマーカス・カーウェイはふと呼び止められて振り返り、唐突にそう言われて面食らったようだった。

「…誰だ?」

「アイツは俺のモノなんだ。他の誰のモノでもない。勘違いされちゃ困るんだ」

 春まだ浅いとは言っても闇色のカシミヤのコートは冷たい風を孕んでいると言うのに、口許に薄気味の悪い薄ら笑いを浮かべる男の表情は冴え冴えとして、マーカスは一瞬怯んだように目を瞠ったが、次いで、すぐに口許を歪めるようにして笑ったようだ。

「それはあのカワイコちゃんのことかい?」

 身形も良く、品の良さそうなシックな出で立ちの男はだが、日常とは掛け離れた、どこか虚ろな寒々しさを宿した薄ら笑いをクッキリとした口許に浮かべ、そして小首を傾げてみせる。

「カワイコちゃん?」

「そうだ。彼はとても素敵だ。一緒に居るととても落ち着くし、そんな彼の怯えた顔を見てみたいとは思わないのか?」

 自分と同類の匂いを感じ取ったマーカスは、掌の中で怯えて恐怖に竦む人間の表情の、その性交渉よりも淫靡な悦楽を同じ嗜好とする者なら判るだろ?とでも言いたげに唇を歪めて肩を竦めた。
 男は静かに笑っている。
 何処か壊れている表情は、自分と通ずるものがあるとマーカスは思っていた。
 彼は既に4人の少年を殺していた。
 今までは家出少年や男娼と言った、世間の誰もが見向きもしない打ち捨てられたような哀れな少年たちを見繕っては、泣き叫ぶ彼らを犯し、散々に痛めつけたうえで咽喉を裂いて殺していた。
 だが、あの講堂で見た青年と言うにはまだ幼さを残す彼は、マーカスが悦楽の為に犠牲にした少年たちとは違う、何処か鷹揚としたやわらかさを持っていた。
 凡そ無垢とも呼ばれるその存在を散々汚して叩き堕として、その双眸から希望の光を奪いさったその瞬間に、生命を物語る真紅の血潮を撒き散らせばどれほど素晴らしい世界が広がるだろうか。
 だからこそ貴重で得難いモノであることを彼は知っていた。
 同じ殺人鬼の匂いを敏感に感じ取ったマーカスは、目の前の男が彼は自分のモノなのだとあからさまに主張しているところを見ると、あの存在を自分が思うのと同じように極上の獲物だと嗅ぎ取って目を付けたのだろう。
 マーカスは本来はとても臆病で、そして慎重なシリアルキラーだった。
 たとえば、こんな風に接触してくる人間は極力避け、自分の趣向などおくびにも出さない神経質な青年で、こんな場合は相手にもせずに先を急いだはずだ。
 だが、彼はそうすることができなかった。
 目の前の男の双眸の奥にちらちらと見え隠れする狂気が、自分の胸の内に眠る深い闇よりもさらに奥深く、覗いてはいけないと判っていると言うのに、どうしても覗かなければいけないような、そうしなければ目の前の化け物に喰い殺されると言うような、途方もない戦慄のような強迫観念に苛まれてしまったのだ。

「ああ、そうだ。彼は可愛いのさ。なあ、コータローくん?」

 男はうっそりと嗤った。
 そうして瞼を閉じて余韻に浸るようにその名を甘ったるく口にして、それから、徐に竦んで動けないでいる蛇に睨まれた蛙のようなマーカスの首の辺りに手を伸ばした。
 閉じていた瞼を開いて、彼はマーカスの首に腕を回して引き寄せると、その暗い深淵のような双眸を覗き込んだ。
 堕ち果てている彼にしてみれば、その戯れのような貧弱な闇は心地好いもので、取るに足らない玩具でしかなかったのだろうが、狂気を内包した暗い双眸に覗き込まれて、マーカスは声を出そうとして失敗した。
 いや、悲鳴のような声を上げたはずなのだ。
 だが、そうすることができなかったのは、首筋をチクリと刺した何かのせいで。

「鍼って知っているか?ツボをかなり細い針のようなモノで突く中国の古い治療法らしいぜ。だけど鍼には治療以外にも有効な使い道がある。身動き取れなくなるツボってのがあるんだってさ。しかも痛みも感じなくなるツボもあるらしいぜ。今、お前に刺したところが動けなくなるツボってヤツだよ。声も出せないだろ?」

 男はマーカスの首を抱きかかえるようにしてクスクス嗤うと、誘うような心地好い低い声音で耳元に囁いて、次いで彼の背中を労わるように支えると大袈裟に声を上げた。

「おいおい!だから呑み過ぎるなって言ったじゃないか。こんなところで吐くなよ?ああ、大丈夫だ。俺が家まで送ってやるよ」

 嫌な汗が背筋を伝い落ちていたが、彼が言うように、声はおろか指先だって動かすことができないのだ。
 最初から狙われていたのか…いや、あの少年のような日本人青年に目を付けた時から、マーカスはこうなる運命だったのではないかと引き摺られながら考えた。
 全身にじっとりと汗が噴き出し、見開いた双眸から涙が零れそうになる…だが、それすらも許されず、気付けば電気の点いた自分の安っぽいアパートにあるベッドに投げ出されていた。
 男は盛大に息を吐き出すと、暑苦しそうに高価なカシミヤのコートを脱ぎ捨てて前髪を掻き揚げたようだった。
 それから虚空を見詰めるマーカスを見下ろして満足そうに小さく嗤うと、ベッドを軋らせて傍らに腰掛け、手にした細い金属性の光を反射する鍼をチクリと刺した。

「そしてこれが痛みを感じさせなくするツボ───…とは言っても、これで本当に効いてるかってのは俺にも判らないけどね。でもまあ、ここには麻酔なんて洒落たモノはなくってさ。お前、獲物を嬲るのが好きみたいだな」

 この部屋で殺害したことはないのだが、血の匂いを嗅ぎつけたのか、もしくは薬剤の匂いがしないことに気付いたのか、どちらにしてもマーカスは男の洞察力に怯えてしまった。

「…ああ、大丈夫だ。お前が俺に心臓を見せてくれるまでは生かしておいてやるよ。だってそうじゃないと意味がない」

 シャツの袖を捲りながら嬉しそうに言う男の姿を捉えることができなかったが、そう言えば、とマーカスは気付いた。
 自分と対峙した時は確かに何も持っていないはずだったのに、自分の傍らにあるこの黒い鞄はなんだろう?
 そうして彼は眩暈を覚えるのだ。
 自分がまごまごとカフェで時間を潰したり図書館で本を読んでいる間に、この男はマーカスの部屋に入って物色し、全ての段取りを恙なく整えていたのだと。

「心配するなよ。ちゃんとその後で動けるようにしてやるさ」

 嬉しそうに嗤う男の手に閃くのは鋭利なメス。
 彼は医学的に言えば緊急開胸術を施すことに決めているようだった。そんなことを医学に無知なマーカスが知っているはずもなく、鋭利で冷たいメスが皮膚に喰い込む感触をまざまざと感じていると言うのに、彼は痛みを感じることはなかった。
 それが幸いしているとは到底思えないものの、大量の汗がドッと吹き出している時点で、彼は精神的に追い詰められ、そして気絶してしまいそうな恐怖と戦わなければならない。
 まるで死ぬことが判っているのか、或いは蘇生させるつもりなどさらさらないのか、嬉々として開胸術を行う男は、感染症を心配するでもなく、マスクもせず素手で全ての感触を確かめるように淡々と作業として進めているようだった。
 彼はまず、第4肋間に沿って皮膚切開をおき、肋間筋と壁側胸膜を切開・剥離、続いて開胸器を肋骨にかけた。

「…お前はさ、獲物の首を切り裂く時に性的興奮を覚えるんだろ。でもどうだ?自分が切り裂かれている今、獲物の気持ちを感じることはできているか?なあ、興奮するんだろ。冷たい刃が肉に喰い込んで皮膚も筋肉も胸膜すら切開されて、そして無機質な開胸器が肋骨を固定している感触を感じてみろよ…でも、俺はそんなことじゃ興奮しないけどさ」

 クックックッ…と咽喉の奥で嗤った男は、彼が尤も必要として、そして望んでいるモノが大きく開いたマーカスの胸元で剥き出しにされた事実に目を瞠り、そして落胆したような表情をしたのだ。

「ああ、また同じだ」

 大きく口を開いた胸壁には脂肪が黄色い粒として点在し、血に塗れたピンク色の肺、そしてところどころに黄白色の脂肪の点在が見られる脈打つ肉色の心臓…彼はその事実に落胆し嘆息していた。
 ガクガクと身震いするマーカスの涙すら零すことのできない双眸を覗き込み、男は残念そうに呟いた。

「お前の心臓は俺が喰うよ。こんな在り来たりの心臓はいらないんだ」

 遠くの方で緊急を告げるパトカーのサイレンが響いている。
 だが、この時マーカスは自らの死を覚悟していた。
 瞼を閉じることもできずに震える彼の心臓に手を伸ばした男は、その命の源を掴み引き摺り出しながら、彼の痛みを忘れている身体に本来の痛覚を取り戻してやった。
 マーカスの目玉がぐるんと回転し、そして白目を剥いたままで絶命するのを確認もせずに、血潮が滴り落ちる自らの手と死して尚力強く脈打つ強靭な筋肉の塊に舌を這わせ、血液だけではない人体から垂れ流される臭いが充満する室内で、彼は筋肉の塊に真珠色の歯を立て、そして血潮を溢れさせる肉色の心臓から筋組織を引き千切りながら口に含むとゆっくりと租借した。
 味も他のモノと大差ない…残念だと嘆息して項垂れる。
 階段を駆け上がるようなけたたましい足音が響いている。
 自らが連絡し、引導を渡す為に訪れるソレは、できれば派手にFBI捜査官が良かったのかもしれないけれど、制服警官でもこの際いいのかと彼は口許に鮮血を滴らせて嗤う。
 この異常な惨劇の目撃者になってくれるのなら、いっそ一般人でも構わないと思っていた。
 だが彼は、いずれにせよこの惨状を目の当たりにした人物は、当分の間悪夢に悩まされ、安穏とした睡眠を貪ることはできないのだろうと、やれやれと肩を竦めて嘆息したようだ。

2  -Forced Encounter-

 犯罪心理学とは犯罪者の特性や環境要因の解明を通して、犯罪予防や犯罪捜査、また犯罪者の更生に寄与することを目的とした心理学の一分野である。
 日本から心理学の先進国であるアメリカに留学している日本人青年、天羽光太郎が専攻している臨床心理学の専攻選択のなかに犯罪心理学がないワケではないが、彼は精神医学、産業心理学、臨床福祉心理学の分野を選択していたため、犯罪心理学は実はよくわからなかったのだ。

(こんなことなら選択しておけばよかったかなぁ…)

 自信のない面持ちで講堂の中頃の席に腰を下ろした光太郎は、それでも犯罪者自身の心理や犯罪に至る具体的な心理的プロセスなどに関しては興味がないとしても、被害者の心の支援や犯罪者の更生に関しては、少なくとも臨床心理学的な分野にも大いに役立つし、何より臨床心理士を目指す身のうえには重要な経験になるだろうと考えていた、その為、今回は初めてリケット博士の講義に参加させてもらったのだ。
 彼が纏めたレポートは、犯罪心理学を学ぶ者ならまず触れるであろう犯罪者側の心理には触れず、被害者の心の問題やその支援について記載されていたのだ。
 それは臨床心理士的な見地からのアプローチであるのだが、敢えて犯罪者ではなく被害者側に起こり得る問題について紐解いている。

(俺の場合、産業心理学とかだったら得意なんだけど…でも心理学ってのは統計学的な部分が重要だから、ここに居る人たちに比べたらまだまだヒヨッコなのに…今日は笑われるんだろうなぁ)

 図書館に通い詰て過去の犯罪記事などを漁り、その中の興味深い事件の被害者たちのその後をリサーチして、何が彼らに必要だったのか、また不要だったのかなどを書き出して、心のケアに関するレポートを書いてみたのだ。
 僅か一週間弱、しかも見知らぬ土地での見知らぬ事件に関する自己見解に過ぎない自己満足的なレポートは、本当にこれで良かったんだろうかと気恥ずかしくて仕方がない。
 そのことばかりに気を取られつつあったものの、実際にリケット博士の講義を受けてみて、光太郎は犯罪心理学の奥深さに興味を持つようになっていた。
 留学では致命的と言えるかもしれない未熟なヒアリング力ではあるものの、論文を仕上げるだけの語学力は持っている彼のことだ、その講義の内容はよく理解できたようだ。
 求められた質問へレポートを利用して発言してみたものの、多少の失笑は買ったものの、それでもそれほど悪い出来ではなかったようで、気恥ずかしさに頬を赤らめながらも大役にホッと安堵して光太郎は席に腰を下ろした。
 リケット博士の講義では珍しい日本人と言うこともあって、物珍しそうに遠慮なく見詰められることに慣れないでいる光太郎だったが、それほど酷い評価じゃなかったことに胸を撫で下ろした瞬間、背後の席からクスッと鼻先で笑うような気配がした…が、まあ、大半の生徒がそんな態度だったので、光太郎は振り返ることもなく照れ隠しにエヘヘッと頭を掻いていた。
 鼻先で笑われるぐらいでちょうど良いのだ。

(もっともっと、せめてアメリカに居る間は頑張って犯罪心理学も学んでみようっと)

 背後のひとの気配と、物珍しそうな周囲の眼差しに照れ臭そうに頬を染めながら、それでもひとつ、光太郎はこの異国の地で興味深いものと出逢えたことに感謝した。

「アモウ、コータローって言うの?」

 講堂から出て、春とは言えまだ肌寒い中庭でふと声を掛けられて振り返ると、そこには先ほどの講義に参加していたと思しき学生が佇んでいた。
 自分よりも随分と年嵩に見えるが、それでも実際は同じ年なんだろうと、ここに来た時に驚かされているので今は身構えるコツを掴んでいるから驚くことはない。

「はい…ええと、どなたですか?」

 ニコッと、はにかむように微笑むと、暗いブロンドの髪を持つ青年は吃驚したような顔をして、それから照れ臭そうに笑って頭を掻いた。

「さっきの質問の回答だけど、アレはちょっとよかったと思うよ。具体的に被害者の実情がよくわかるし、犯罪心理学はどうしても犯罪者視点になりがちだからとても興味深かったよ」

 自分が感じたことを思わず捲し立てて、キョトンッとしている光太郎にハッと気付いた彼は、それから慌てたように両手をバタバタと振っている。

「ああ、すまない!俺はマーカス、マーカス・カーウェイって言うんだッ。今までにない視点の話だったからつい興奮しちゃって…」

「いいえ、気にしないでください。犯罪心理学は日本では専攻していなかったので、僕のスピーチは粗末だったと思います。でも、そう言って頂けると嬉しいです」

 声を聞いているだけならなんて冷静な物言いだろうかと目を瞠るが、まるで咲き初めの花のように頬を染めて嬉しそうに感謝している表情を見てしまうと、決して嫌味の慇懃な口調ではないことがよく判る。
 それどころか、屈託ない表情は却って取っ付き易くさえあるのだから不思議だ。
 だからこそ、マーカスもこの随分と若そうな日本人青年を不愉快に思うよりも、彼の柔和な態度に絆されて、できればもっと話をしてみたいと思ってしまったようだ。

「君は犯罪心理学は専攻していないのかい?きっと面白いと思うよ。良ければこの後カフェで少し話せたらいいんだけど」

「あ、ごめんなさい。僕はこれからリケット博士に呼ばれているので」

 愛想など振りまいているつもりはないのだが、いつだったか教授からもう少し警戒心を持たないと危ないよと注意を受けていたものの、光太郎は気さくなマーカスの態度をすっかり気に入っていたし、犯罪心理学についてもっと知りたいと思っていたからその申し出は魅力的で是非とも受けたかったのだが、いかんせん、気難しいと噂のリケット博士のお呼びとあっては断るしかない。

「博士に?ああ、そうか。君は確か博士の知り合いの紹介でこの大学に留学して来たんだよね。でも、こんな時期に珍しいね」

 ややムッとしたような表情をしたものの、珍しい時期の物珍しい日本人留学生にも事情はあるのだろうと、少し溜め息を吐いて頷いたようだ。

「そうですね。ちょっと、僕の都合で無理を言ってしまって…」

「ああ、いいんだ!俺に気を遣わないで。日本人って本当に心遣いが素敵だね。それに君はとても素直でとても素敵だ」

 少し困惑して、しかし迷惑をかけてしまった恩師を思い出して微かに苦笑すると、マーカスは慌てたようにバタバタと両手を振って、それから心底からそう思っているように彼はニッコリと微笑んで光太郎の手を取って包み込むように両手で掴んだ。

「え?えーっと…」

(外国の人ってこう言うことガンガン言えるしこんなスキンシップもできるんだからスゲーよなぁ…こういう時、どう答えたらいいんだろ?)

 握手でもなくなんと言えばよいのかわからない態度と口調に、スキンシップに慣れていない日本人の光太郎はドギマギしたように頬を染めながら、それでもグルグルと回る頭で切り返しを考えていた…が。

「天羽くん?儂は時間がないんじゃがなぁ、お友達とは後でお話してくれんかね」

「あ、リケット博士!…じゃあ、マーカス。悪いけれど、僕はもう行かないといけません」

 天の恵みのような助けに感謝して、光太郎はソッとマーカスの両手から掌を奪還しようとしたが、それよりも逸早くパッと両手を離した暗いブロンドの青年は首を左右に振って笑った。

「ああ、うん。行ってくれ。引き留めてしまってすまない」

「ううん、いいんです。じゃあ、またあとで」

「今度カフェで話そう!」

 屈託なくニコッと笑う光太郎に、憎めない顔で二カッと笑ってウィンクなどするから、光太郎は釣られたようにやっぱり二カッと笑ってつい頷いてしまう。

「はい!」

 片手を振って別れを告げた光太郎は、心からこの大学に来てよかった、恩師の杉浦教授に感謝しなくてはと思って、サンタクロースのようなお爺ちゃん博士の元に駆け寄るのだった。
 春とは言えまだ冷たい風が中庭を吹きすぎてゆく。

1  -Forced Encounter-

「えっと、何度も言っていますけど、俺は英語で話すことが苦手なんです。それなのに講義で発言するなんて…あ!ダメですってば、切らないで博士ッ」

 虚しいかな、既に受話器の向こうは単調な機械音しか響いていない。
 ニューヨークに来て漸く1ヶ月が過ぎようとしている小春日和の午後、名立たるセントラルパークのベンチに腰かけた日本人の青年は困惑したように眉を顰めている。
 電話の相手は犯罪心理学の権威と誉れ高い博士ではあるが、本来、臨床心理士になるために勉学に勤しみ、こうして喋ることは不得手の英語に苛まれながらも留学までしているというのに、件の博士は自らが受け持つ大学の講義に参加しろと言う無理難題を言い渡して来たのだ。
 尊敬する博士ではあるけれど、彼にしてみれば犯罪心理学と言うもの自体に馴染みがないし、何より、今の日本ではその分野で活かせる職業など限られている。
(俺は別に犯罪者を見つけたいとか関わりたいとか全く思っていないんだ。BAUなんて雲の上だし…そう言う方向性じゃない方法でもっと社会の役に立つような仕事をしたいだけなのに)
 はぁ…っと溜め息を吐いて青い空を見上げると、小春日和だと言うのに時折吃驚するほど冷たい風が吹くベンチに腰掛けたまま、嫌になるほど真っ黒な髪がサラサラと風に踊っている。
 臨床心理士になるために心理学に先進的な米国を選んで留学したものの、苦手な英語に四苦八苦する羽目になっていると言うのに、その彼に発表の場を設けてあげるよと意地悪な博士は流ちょうな日本語で仰られた。

「クリミナル・マインドなんかに憧れてないですよッ」

 犯罪心理学も面白いよ、クリミナル・マインドみたいでしょうと言ってホッホッホッと笑った博士の電話越しの優しい声に、今更反論しても後の祭りではあるのだが、恩師の知り合いの博士を頼って来たのは自分なのだから、それはそれで仕方ないのかと諦めるしかない。

「ハックシュン!…っと、ごめんなさい」

 ビュッとまた冷たい風が吹きすぎて、思わず首を竦めながらくしゃみをしてしまった青年は、先ほど同じベンチに同席を求められて笑顔で応えた相手に、ハッと我に返ってすみませんと言うつもりでつい習慣で頭を下げてしまった。

「Gesundheit!」

 ストロベリーブロンドの髪を風に散らして、物静かに本を読んでいた青年は顔を上げると、ともすれば透明度の高いサンタマリア地方産のアクアマリンのような青に近い神秘的なシルバーグレイの双眸で僅かに微笑んだようだ。

「…え?Pardon?」

 その同じ人間とは思えない、有り得ないほど美しい面立ちに気を取られていた日本人の青年は、微かに首を傾げて悪戯っぽく肩を竦めた異国の、いやニューヨークに在って彼こそがこの街によく似合っているのだろう面立ちの青年が立ち上がり、さようならと片手を振るに至って、漸く英語で言う『Bless you!』を異国の言葉で言ったのではないかと思い至ったようだ。

「えっと、あの…Thank you」

 立ち去る後ろ姿に感謝の言葉を投げると、彼は振り返ることもなく、どう致しましてとでも言うように肩を竦めたようだった。
 博士との電話での攻防で声を掛けた人をよく見ていなかったし、あまりに物静かで気配を感じることもなかったせいで、彼の存在をすっかり忘れてしまっていた。
 しかし意識してしまうと、彼はとても鮮烈な印象を日本人の青年の心に焼き付けてしまったようだ。

(此処に来てまだ1ヶ月ぐらいだけど、あんな綺麗なひとは初めて見たな。凄いなぁ…世界にはあんな綺麗なひともいるんだな)

 あらゆる人種が集まる小さいのに巨大な都市であるニューヨークには光も闇も矛盾なく存在し、混沌とせめぎ合っているのに整然と行き交う人々の波…臨床心理士と言う仕事に就きたいと思い、心理学を専攻している身の上だと言うのに、それでも彼はこの都市が恐ろしく、そして苦しいほど魅力的に感じるようになっていた。
 彼は、僅か半年の滞在予定ではあるのだが、既に嫌気がさして逃げ出したいと思っていた。だが、不意に、こんな貴重な体験をできることはとても素晴らしいことだったのに…と思い直し、小春日和だが冷たい風が吹き抜けるセントラルパークの頭上、切り取られたような青空を見上げながら、よい思い出も悪い思い出も何もかも、確りと脳裏に焼き付けて日本に持って帰ろうと決めるのだった。

「天羽光太郎くん!」

 きちんとした日本語の発音で自分の名を呼ばれて、臨床心理士を志す日本人青年、天羽光太郎は少しはにかむようにして大柄のお爺ちゃん博士に振り返った。

「リケット博士…この度はお招き頂き有難うございます。拙いながらレポートを纏めてみました」

 目線はずっと上の方にあげなければいけないが、恰幅の好い、まるでサンタクロースのような好々爺はしかし、なるほど、犯罪心理学に心を砕いているだけあって双眸には鋭い光が宿っている。
 求められるままに握手を交わし、一週間、寝ないで書き上げた論文をたどたどしい英語とおずおずと差し出す日本人らしい奥ゆかしさに、リケット博士は鋭さを宿す眼光を和ませてしまう。
 心理学に長けている博士は、この日本から来た青年について初めて会った時から不思議な気持ちを感じていた。
 日本に戻ってしまった教え子が大事にしているのも頷けるのは、彼は傍に居る者を善しにしても悪しきにしても和ませてしまう独特の感性を持っているようなのだ。
 それは使い慣れない英語に四苦八苦しているせいで、慇懃な口調になっているからだ…と言うわけではないのだろう。

「ああ、どうも有難う。だがね、堅苦しい挨拶は抜きでいいんだよ」

 リケット博士は鷹揚に笑うと、はにかむ青年を見下ろしてざっと手渡されたレポートに目線を落とした。
 今回はただ単に犯罪心理学も面白いよと教えたくて講義に参加するように求めただけとは言え、それでなくとも時間がないうえに専攻しているわけでもない犯罪に関する心理学のレポートを纏めたと言うことは、この物腰のやわらかい日本人青年は少しは興味を持ったのだろうか…そんなことをリケット博士が考えているなど露とも知らない光太郎は、酷評あって然るべきとは判っているものの、恩師の杉浦教授がわざわざ預けてくれた博士なのだから少しは何か褒められたいとドキドキしたようにサンタクロースをまんじりともせずに見詰めていた。

「ああ、うーん…なるほど。なんとも面白いアプローチをするね」

「え?ええ??…あの、ダメでしょうか」

 髭のせいでよく聞き取れない、それでなくてもヒアリングとトークに自信がない光太郎は、リケット博士の奇妙な表情と聞き取り難い発音にまごまごしてしまって、おずおずと首を傾げるしかなかった。

「いや、これはこれで充分、面白いと思うよ。よし、このレポートを使用して午後の講義で発言してくれるかな?」

「あ、はい!了解しました」

 パッと嬉しそうに微笑む彼を見下ろして、リケット博士は思うのだ。
 黒い髪も黒い双眸もともすれば冷徹な印象を与えがちで、しかも彼はトークが苦手とみえて、とても慇懃な話し方をしてしまう。今時の若い子ならばクールかキュートで受け入れるかもしれないが、滅多に発言を求めない自分が依頼したとあっては、幾分かのやっかみでこき下ろされるかもしれない。
 だが、彼には独特な場を和ませる雰囲気を持っている。
 こうして話している今でさえ、慇懃な物言いが既に標準となって、少しも窮屈に感じなくなっているのだから不思議である。

(それは彼の、この柔和な表情なのだろう)

 日本人は感情表現が下手だと言う認識があったのだが、この青年はとてつもなく素直なのか、返してもらったレポートを両手で受け取ってホッと安堵したように嬉しそうに笑うのだ。
 ほんの一週間前、電話越しで切迫した声を聴いていれば、その安堵の表情も頷けるのだが、それ以上に、よく頑張ったと褒めたくなる愛嬌がある。

(ううーむ、教え子に厳しいこの儂が困ったもんだよ)

 ともすればその雰囲気のせいで若干幼く見えることも、気難しいリケット博士の庇護欲を掻き立ててしまっているのかもしれない。