第一話 花嫁に選ばれた男 18  -鬼哭の杜-

 ふと、俺は夢を見ているんだとばかり思っていた。
 蒼牙は何かを怒鳴りながら、意識が朦朧としている俺を抱き上げると、驚く座敷ッ娘を引き連れて、それでも心配そうに座敷牢のある蔵の外で辛抱強く待っていた眞琴さんと不二峰をまるで無視して、青褪めたまま走り出したんだ。
 驚いたような眞琴さんも不二峰も追ってきているようだったけど、俺は、必死な…ともすれば、泣いているようにも見える蒼牙の真摯な相貌を薄っすらとしか開けることのできない両目で見上げていた。
 何が起こったのかよく判らないんだけど、何故か、とても気分が悪いし、何より…ジーンズを濡らしている何かがとても気持ち悪かった。
 おいおい、もしかしたら俺ってば、失禁とかやらかしてんじゃねーだろうな?
 それだったら、6歳も年下の蒼牙にまたしても恥ずかしい場面を見られちまうワケなんだけども…それでも、そう思ったらクスッと笑ってしまっていた。でも、顔は笑っちゃいなかったんだろう。蒼牙は真摯な双眸そのままで、必死に母屋を目指しているからな…ああ、そうだ。
 こんな風に、俺はいつだって蒼牙には見っとも無い姿ばかり見せている。
 俺の方が年上なのに…蒼牙はいつでも、こんな俺を包み込んで大事にしてくれていたんだ。
 それなのに俺は、いつも自分は愛されていないんじゃないかって不安ばかりで、きっと、蒼牙よりも何歳も年下のような振る舞いばかりしてきたような気がする。
 こんなに幼いはずの蒼牙に…頼ってばかりで俺は…
 意識が遠ざかりかけて、もう少し、あと少しでいいから、もう少しだけ蒼牙の真摯で必死で生真面目な…この横顔を見ていたい。
 傾きかけた夏の夕日を浴びて、蒼牙の青白髪のはずの髪が真っ赤に燃え上がって、まるで山に棲むと言う伝説の鬼が具現化したような横顔には、焦燥の色がべっとりと張り付いていた。
 力なく垂れた腕が所在なげに揺れていても、蒼牙のガッシリした腕が、まるで何者からでも守ってくれているように俺を抱き締めてくれていたから、こんなに落ち着ける場所は他にはないと確信してしまったぐらいだった。
 もし、蒼牙が…俺ではない他の誰かを愛してしまったとしたら、やっぱり俺は、諦めきれずにグズグズ泣くんだろうなぁと、その横顔をぼんやりと眺めながら思ってしまった。そんな風に女々しくなってしまうのは、蒼牙にだけなんだけどな。
 そんなことを言えば、蒼牙はしてやったりの顔をして、フフンッと笑いながら俺を抱き締めてくれるんだろう。
 そんな幸福な夢を見ながら、俺はゆっくりと重くなる瞼を閉じていた。
 次に目覚める時はきっと、俺から告白しよう。
 俺は……お前を…

 俺の覚醒は案外早かったけど、やっぱりまだ夢の中にいるようにあやふやで、視界はぼやけたままだった。
 その時でも俺は、やっぱりこれは、何かの夢なんだろうとばかり思っていた。
 と、言うのもだ。
 あの蒼牙が泣き出しそうな顔をして、布団に横たわる俺の腕から脈を調べながら難しい顔をしている呉高木家のお抱えの侍医である、小林さんの様子をほんのささやかな変化すら見逃さないとでも言うように、真摯な顔をして見詰めているから…これが何かの夢だと思わなくてなんだと思うって言うんだ?

「小林!光太郎はどうなっているんだ!?」

 蒼牙がせっつくようにして随分と年を取っている小林さんを乱暴に揺すりながらそんなことを、まるで切羽詰ったように言うから、できれば俺は止めてやりたかったんだけど、どう言ったワケか腕がピクリとも動いてくれないんだ。
 あーあ、小林さんが困ってら。
 桂でも誰でも、早く助けてあげればいいのになぁ。

「どうと申されましてもな、蒼牙様。ご覧の通り、嫁御殿はご無事ですぞ?」

「そんなはずがあるものか!あ、足の間から、血が流れていたんだッ」

 蒼牙は信じられないとでも言うように一瞬だけど息を呑んだような仕種をして、それから普段から鋭い双眸に、さらに力を込めて小林さんを震え上がらせたんだけど、それでも流石に呉高木家代々からのお抱え侍医をしているだけはある。
 怯えた仕種も見せずに軽く咳払いをして、地獄の底から蘇った亡者のような胡乱さに磨きをかけて睨み据える蒼牙をあしらうように、小林さんは俺の腕を布団の中に隠しながらホッホッホッと笑うんだ。

「それはですなぁ…まあ、ワシよりも手当てをされた眞琴さんたち女人に聞くが宜しかろうがなぁ。簡単に申しますと、初潮でございますじゃ」

 は?

「…なんだと?」

「蒼牙様の御身体にも変化は生じましたじゃろうて。それと同じく、嫁御様の御身体も御子を授かるように変化なされたのですじゃ」

「…」

 双眸を見開いているような蒼牙の横顔をぼんやり眺めながら、俺はそんな信じられない話を聞いていると言うのに…それがどんな話なのか、いまいち判らないでいた。それどころか、話の中心が自分であることにすら気付けないでいるんだから…お目出度いよなぁ。
 トホホ…だ。

「そ、それは、つまり…禊の儀がうまくいったと言うことか?」

 あの蒼牙が…不遜が服を着ている若いくせに偉そうな呉高木家の当主が、まるで似合わない動揺したような声を出すから、余計に俺は呆気に取られちまって、やっぱり、こんな馬鹿みたいな話は夢なんだろうと思い込んでいた。

「そう言うことですな。おめでとうございます、蒼牙様!間もなく、お世継ぎ様のお顔をこの年老いた爺も見れますじゃ」

 ほぇほぇほぇ…っと、屈託なく笑う小林さんを、信じられないと言うように見詰めていた蒼牙は、それから、信じられないことに、ふと俯くと、まるで花が咲き綻ぶような力強さを秘めた笑みを浮かべたから…それはまるで、はにかんでいるようだった。
 嬉しくて嬉しくて…照れ臭くて、どんな顔をすればいいのか判らなくなる、あの一瞬だけどうしても浮かんでしまう、はにかむような嬉しそうな笑み…そんな馬鹿な。
 蒼牙がそんな顔をするのも吃驚だけど、何が一番驚いたかって…御子を授かる?
 それって、俺が子供を身篭るってことなのか?
 この、俺が??
 いや、確か23年間生きてきた間、ずっと鏡には野郎の顔しか映っていなかったし、風呂場で見た股間にも男のシンボルがぶら下がっていたと思うんだけど…それとも何もかも全ては夢で、本当は最初から蒼牙の為に用意されていた花嫁候補の光子ちゃんだった…って、そんなはずがあるくぅわッッ!!
 できれば今すぐにでも起き上がって反論したいところなんだけど、何故か猛烈な眩暈に頭がクラクラして、怒鳴るどころか起き上がることすらできないでいる。
 このままだと、俺が女にしか見えていないこの村の連中のことだ、きっと呉高木家の代々からのお抱え侍医の話を鵜呑みにして、これから顔を合わせる度に『跡継ぎはまだか』って言われるに違いないんだ。
 それは困る。
 大いに困る!

「そうか…光太郎は俺の花嫁になることを選んだんだな」

「勿論ですじゃよ、蒼牙様。こうして、ご立派な御身体にお成り遊ばしたのは、全てが呉高木の、いんや、蒼牙様の御為に他なりませんじゃて」

 小林さんはまるで芝居がかったような口調で蒼牙を煽りやがるから、どうしてくれるんだ、あの目付きは完全に信じ込んだに違いないぞ。これで、なんちゃって、ウッソーん♪…とか言ってみろ、綺麗に研ぎ澄まされた日本刀でスッパーン!と斬られちまうに違いないんだ。
小林さん、今のうちに逃げとけッ!!

「ですが、蒼牙様。今は嫁御様をソッとしておいておあげなされ。突然の変化に御身体も御心も驚かれておられるに違いありませんじゃて。何より、少し貧血も起こされておられるようじゃからなぁ」

「貧血か。それはいけないな。何か滋養に良いものを用意させておこう。小林!確り光太郎を診ていてくれよ」

「お任せあれじゃよ」

 ふぉっふぉっふぉっと笑う信頼ある侍医の小林さんに、蒼牙は会心の笑みを閃かせながら頷くと、まるで慌しく、いつもどおりの揺ぎ無い自信に満ちた足取りなんだけど、それでもどこか浮かれたように大股で部屋から出て行った。

「…さてと、嫁御殿よ。もう気付いておるんじゃろ?」

「……まだ、気分は悪いけど」

 以前、この小林の爺ちゃんとは話したことがあったから、もう気心が知れていたりする。 この間、プチ家出をしたときに足を痛めて(と言うか、ただの擦り傷だったんだけどなぁ)、大袈裟な蒼牙が小林さんを叩き起こして俺の往診をさせたんだ。その時に平謝りに謝っていたら、目を白黒させていた小林さんが、今みたいにふぉえふぉえっと笑ってくれたんだよなぁ。 

「然もあろうよ。立て続けに神経を草臥れさせて、ましてや子を身篭るよう、身体まで変化したんじゃ。気分ぐらいは悪うなろうて」

「んな、他人事みたいに…って、他人事か。やれやれだな。ところで、小林のじっちゃん。その、さっきも言ってたけど…子を身篭るってのはその…」

 瞼を閉じたままで話していた俺は、意を決したように双眸を押し開くと、ご機嫌そうに笑う好々爺の顔を見上げて眉間にソッと眉を寄せて尋ねていた。
 今は、他の誰でもない、呉高木家を代々支えてきた侍医である小林さんに話を聞かないで誰に聞くってんだ。

「ん?何も知らんのか??…じゃが、まぁ仕方ないのう。蒼牙様に無理に嫁御にされたと聞いたからの。禊の儀は済ませたんじゃろ?」

 まあ…無理に、って言われたらそう言うことになるんだろうけど、それでも、今は半分以上が俺の意思で『花嫁になる』って思ってるんだから、本当はもう無理やりってワケじゃないんだけどな。
 いや、そんな惚気は後にして(って、これって惚気なのか??)…禊の儀?って、あの朝、酒を呑んだ儀式のことだよな??

「禊の儀…って言われて眞琴さんが持ってきた桜色の酒を呑んだけど」

「ほぇっほぇっほぇ、それで十分じゃ」

 は?

「??…意味が判らんぞ、小林のじっちゃん」

「お主は禊の日に呑む御神酒のことも知らんのかの?」

 俺が横になったままで首を傾げていると、皺に埋もれてしまいそうなほど細い目を見開くようにして、一瞬驚いたような小林さんは、やれやれと呆れたように首を左右に振りやがるから…悪かったな、何も知らなくて。
 繭葵にも笑われたけどよ、こんな閉鎖的な村の行事のコトなんか、そんなに判ってるヤツなんていやしないっての!繭葵が異常に物知りってだけで、民俗学的なものに興味のないヤツってのは、きっと俺みたいな連中ばっかだって。
 そう言うこと、繭葵も小林さんも知らなさ過ぎるよ、全く。

「あ、ああ…」

 そんな内心じゃ天晴れなことを言ってるワリには口篭るようにして言いよどむ俺に、小林さんはゆっくりと皺に双眸を埋没させるようにして目を閉じると、ポツポツと教えてくれたんだ。

「禊の儀で呑む御神酒はのぅ、古から保管されとる呉高木家に代々伝わる龍の酒に、贄の血…そして、蛟龍の血を色濃く引いておる呉高木の御当主の血を混ぜて作られた、性別を変化させることのできる秘薬なのじゃよ」

「なんだって!?」

 思わずそんな荒唐無稽な話に声を上げてしまって、ハッと我に返った俺は、慌ててシーツを手繰ると口許を覆って小林さんの話の続きに耳を傾けた。
 どちらにせよ、桂と一緒で眞琴さんも嘘がうまいよなぁ。
 何が御神木の樹液由来の赤さだよ…あの『赤』は、あの時殺されたんだろう、高柳の息子さんと蒼牙の血液に因るものだったんじゃないか。
 うう…これが本当の話なら、なんか、更に気分が悪くなったような気がする。

「花嫁の禊の儀の前の晩に、蒼牙様も召し上がられた。性別を男に定めることは先々代との誓いじゃったから、蒼牙様は躊躇いもされなかった…じゃが、一抹の不安はあったようじゃの。お主が、はたしてどちらの性を選ぶのか、それは一種の賭けじゃったからなぁ」

「……」

 そうか、蒼牙は無性別…両性体でありながら中性なんだから、性別を固定しないといけないから、呉高木家の胡散臭い秘薬ってのを呑んだワケか。
 …って、あれ?でもちょっと待てよ。
 蒼牙は昨日、御神酒を呑んだことになる。
 …ってことは。

「蒼牙は今日にはもう、男になっていないとおかしいんじゃないか?」

 だって、不二峰と蒼牙は愛し合っていた。
 それも、男と女としてだから…ヘンだ。
 絶対におかしい。
 ああ、これはきっと壮大なウソなんだ。
 俺を担いでるに違いない、そんなの当たり前じゃないか。
 性別を変更できる薬なんか、この世にあるかっての。そんなモノが実在していれば、今頃ジェンダーに苦しんでる人なんかいないって。
 もう少しで完全に騙されるところだった。
 小手鞠とか座敷ッ娘とか見てきたから、つい信じてしまうところだった。
 危ない危ない。

「じゃから、蒼牙様にも一抹の不安があったようじゃと言うたではないか」

「へ??」

「迷いは即ち秘薬の力を弱めてしまう。強い意志こそが、秘薬の力を完全に発揮させる原動力になるんじゃよ。じゃが、蒼牙様は迷ってしまわれた。それは、お主の意志が判らなかったからじゃ」

 それはきっと、俺が蒼牙を愛しているのかどうか判らなくて、強引なくせにあの若き呉高木家の御当主さまは一歩手前で二の足を踏んじまった…ってことなんだろうなぁ。
 クッソー、やっぱ信じてしまいそうだよ。

「アイツはいつ、男になったんだろう?」

「今し方じゃよ」

「嘘ん!!」

「嘘などではない。蒼牙様がお主を抱きかかえて戻られたときには、既にワシには判っておったんじゃが、それでも呉高木家の侍医であるからにはお主を診た後に蒼牙様のお身体もちゃんと診察したんじゃ。蒼牙様がのぅ、お主を診ない間は自分の身体にも指一本触れさせん!…と怒り狂われたから、先にお主を診たんじゃよ。まあ、そんなことはどうでもよいのじゃが、いったい何が蒼牙様の迷いを消したのかは判らんが、蒼牙様は立派な呉高木家のご嫡男になられておったよ」

 蒼牙は…ふと、俺の脳裏に確信めいた答えが浮かんだような気がした。
 蒼牙はきっと、倒れた俺を抱き上げたあの瞬間、決意したんだろうと思う。
 何故、そんな風に考えたのか絶対的な自信とかはないんだけど、漠然と、でも何故だか確実にそう思うことができた。
 古い、幼い頃の記憶が蒼牙の中の迷いを消して、自らが進むべき、歩むべき道を見つけ出したんじゃないのかなぁ。
 俺の性が、男でも女でも…もう、どちらでもいいんだって思ったんじゃないかな。
 どちらであっても、俺は俺だし、蒼牙は蒼牙なんだ。
 たとえばきっと、このまま蒼牙が本当の男になっていたとしても、やっぱり俺はそんな蒼牙でも愛しているんだと思う。たとえ、外見や姿形が変わったとしても、俺は蒼牙の心の奥にある熱い想いを愛したワケなんだから、きっと、嫌いになることなんかできないと思うんだ。
 その思いを、蒼牙も感じたんじゃないかな。
 俺が男でも女でも、姿形が変わったとしても、俺の心は俺のままなんだから、蒼牙は全てを受け入れることにしたんだろう。
 だから、アイツは男になった。
 せめて…俺が女になっていたら、蒼牙を苦しませやしないのに。
 俺の身体はどこをどう見ても男だし、胸だってぺったんこのままだ。
 あんな薬は嘘で、蒼牙や俺を慰めようと、きっと小林さんが一芝居うったに違いない。

「俺が女だったら…こんなに悩んだりはしないのに」

「…はて?嫁御殿は外見こそ男じゃが、立派な女になっておるではないか」

 小林さんは俺を見下ろしながら、首を傾げて訝しそうに唇を尖らせた。
 は?どこをどう見たら、この俺が女に見えるんだ??
 確かに、この村に代々伝わる秘薬が実在するのだとすれば、村人や呉高木家の連中の『俺が女に見えている』んだろうと思われるあの発言も、百歩譲って信じられる。
 でも、この骨ばった指も咽喉仏も何もかも…股間にぶら下がっている男のシンボルでさえそのままだって言うのに、今の俺のどこが女に見えるって言うんだ。

「気休めはやめてくれよ、じっちゃん。俺だって、少なからずは蒼牙の為に女になれたらって思ってるんだから…」

「じゃから、お主は蒼牙様の為に女になったではないか」

「…」

 ホント、小林さん。
 1回殴るよ?
 俺はそれでなくても貧血を起こしてぶっ倒れてるって言うのに、そんなケロッとした口調の小林さんにニッコリ笑って、思わず本気で殴りそうになっていた。
 ヤバイ、ヤバイ。

「お主の中にも矢張り迷いはあったと見受けられる変化ではあるがのぉ。いやしかし、これで呉高木家も安泰じゃて」

「……言ってる意味が判りません」

「ほ?判らんとな!…まぁ、それも致し方あるまいて。お主は外見も内面も立派に男を残しとるが、確りと、子を生すべき部分は変化しておるんじゃよ。落ち着いたら、確認してみるもよかろうなぁ」

 子を生す部分が変化している…って、それってまさか。
 身体は見る限り何処も男を失くしてるってワケではないけど…まさか。
 まさか、子宮だとか、そんな部分が作られたって言うのか!?
 ま…まさか、俺に、あのAVで見た女の部分があるって、そんなこと、小林さんは本気で言っているのか!?
 思わずガバッと起き上がって、そのまま貧血にクラクラしながらも、俺は震える腕を伸ばすと、今では浴衣に着替えさせられてるんだけども…布団に隠れているその裾から忍ばせて、まさか、そんな馬鹿なことが起こってるはずないと確信しながらも、恐る恐る半信半疑の指先で触れてみた。
 触れてみて…

「小林のじっちゃん!!」

「うむ、丁度蟻の門渡りの部分にあるじゃろ?」

 何が…とは言ってくれないところがより現実的で、俺は呆気に取られたような、放心したような、それでいて動揺した表情をしていたんだろう、小林さんは落ち着かせてくれようと好々爺の顔つきで笑ってくれた。
 だからと言って、俺の感情が落ち着くはずがない。
 なんだ、これは??

「お主の身体は子を孕む為に一部分が変化したんじゃよ。それ故に、お主は高熱を出してのう。蒼牙様が豪く心配しておった」

 少しぬめる感触は、まるで身体の中央にポッカリと穴が開いたような…落ち着けない心許なさに、女はこんな気持ちをいつも味わってるのかと、自分の身体だって言うのに俺は、まるで他人事のように思っていた。

「俺…女になったのか」

「正確に言えば、両性具有体になったのじゃよ。嫁御殿の場合は、子宮を形成した時点で男である機能は逸してしまったのじゃから、両性具有と言うのも違うとは思うのじゃが、性器が残ってしまったからのぅ」

 ああ、そっか…俺は一部でも、ちゃんと女になったんだな。
 どうしてだろう、俺は…こんな常識では考えられない変化が自分の身体に起こったって言うのに、それを気味悪いだとか、勘弁してくれだとか、マイナスに考えてしまう要素がまるで沸き起こってこなかったんだ。それどころか、嬉しいような、照れ臭いような…はにかむような穏やかな感情がヒッソリと身体中を満たして、気付いたら小さく笑って腹を押さえていた。
 ここに…俺はきっと、蒼牙の子供を宿すんだろう。
 何故かな、それが凄く嬉しいと思ってるんだから…あーあ、どうやらあの秘薬とやらのおかげで、感情までもが女っぽくなったみたいだ。
 小林さんの声は聞こえていたんだけど、俺の脳みそはその内容までは理解していないようだった。
 それよりも俺は、不意に一瞬、一抹の不安に襲われていた。
 姿形が変わることなく、一部だけが変化してしまった俺を、蒼牙はどう思うんだろう?
 村人たちも、呉高木家の連中も、スッカリ俺が秘薬の力でもって完全な女になるんだと思っていたとしたら…それはそれで、ちょっと厄介だよなぁ。
 一難去ってまた一難…か。
 あーあ、やっぱり自然の摂理を無視したこの愛は、そう容易く成就するってワケでもなさそうだ。
 小林さんの、少し興奮したような饒舌な話が続く部屋の中で、俺はやれやれと溜め息を吐きながら開け放たれた障子の向こう、月明かりにぼんやりと浮かぶ日本庭園を見詰めていた。

第一話 花嫁に選ばれた男 17  -鬼哭の杜-

 片手に真剣の日本刀を携えた蒼牙は、どうも、息せき切って駆けつけたと言う風情だったけど、俺を見る目付きはとても憎々しげだった。
 だからこそ、俺の頑なになりつつあった心にさらに拍車をかけて、座敷ッ娘を抱き締める腕に力を込めながら、そんな蒼牙を睨み据えるぐらいの根性を発揮できたんだと思う。

「…何故、アンタがここにいる?」

 それは地獄の底から蘇った亡者が、腹の底から呻くような、忌々しい響きを俺の耳に残したけど、その質問に俺は気丈に口を開いていた。

「呉高木の花嫁は、何処にいてもいいんじゃなかったのか?」

「ここはダメだ。言わなかったか?禁域を侵すものは、たとえアンタでも許さないと」

 その気迫は、今にも俺を殺そうと身構える、蛇のような禍々しさがあった。
 全身総毛立って、それでも、震える腕で座敷ッ娘を抱き締めたまま、俺は蛇に睨まれた蛙の心境を嫌と言うほど味わいながら、乾いてくる唇をコソッと舐めていた。

「は?ここは禁域だったのか??」

「…ここが何処だか、知らないワケでもないんだろ?」

 蒼牙はシニカルに笑ったけど、その暗い光を宿す双眸は、驚くことに少しも笑っちゃいない。
 きっと、こんな目をして、蒼牙は高柳の息子さんに引導を渡したんだろう。
 誰かを殺すときに、憐れむ双眸をするヤツなんかいない。
 どんなに誤った感情でも、憎しみを宿して、忌々しそうに殺さなければ、きっと人を殺すことなんかできない。そんな風に、何故か脳内の冷静な部分が、そんなことを分析しているようだった。

「蒼牙!止めなさい、彼は…」

「蒼牙さん!」

 後から追い縋るようにして…今はこのペアを見たくなかったってのに、不二峰は酷く慌てたように蒼牙の腕を掴んだ。その背後で、綺麗な柳眉を思い切り顰めた、折角の美人が台無しになっている眞琴さんが、憎々しげにそんな2人を睨み付けていた。
 ああ、でもこれで…蒼牙の怒りは納まるかもしれない。
 不二峰が止めれば、きっと蒼牙は不機嫌でも、怒りは納まってくれるだろう。
 せめて、この腕の中にいる座敷ッ娘まで道連れにするのは、忍びないんだ。
 俺がホッとしている目の前で、蒼牙のヤツは、唐突に掴まれている腕を振り払うと、それでなくても狭い場所だと言うのに、閃く刀を一振りして不二峰たちを追い払ったんだ。

「アンタらに用はない!ここは禁域だ、アンタらでも入っていい場所ではない。失せろッ」

 その恫喝は、この土蔵に流れる重苦しい空気をビリビリと震わせて、その気迫に、あの不二峰が竦んだんだ!いつもは冷静な眞琴さんですら、ビクッとして着物の袖で口許を隠してしまう有様だった。
 俺はと言えば、やっぱり根っこのところじゃひ弱な都会育ちなんだよな、ビクッとして首を竦めてしまった。
 でも、座敷ッ娘は、俺の腕の中でそんな蒼牙をヒタと見据えて、怯える様子も見せずに厳かに口を開いたんだ。

『ここに嫁御さまがいることをぉ…誰に聞いたのー?』

 蒼牙のあまりの剣幕に、渋々と言った感じで立ち去った不二峰と眞琴さんのいなくなった土蔵は、何処か冷え冷えとしていて、夏だと言うのに俺は背筋が冷たくなるような錯覚に息を呑んでいた。
 座敷ッ娘の声はそんな土蔵の中を、淡々と響いている。

「直哉だ。それがどうした?アンタがついていながら、とんだ粗相だな」

 なるほど、どうやら俺は直哉に諮られたってワケだ。
 端から目障りな俺を、この村から出すつもりなんかなくて、できれば未練がないように蒼牙の手で葬らせる計画を練っていたってワケか。
 なんか、ムカついてきたな。

『…嫁御さまの気持ちをー、聞かないのぉ?』

「関係ない」

 その言葉で、俺の中の何かがプチッと音を立てて切れた…ような気がした。
 たぶんそれは、堪忍袋の緒ってヤツだ。

「…関係ないだと?」

「?」

 俯いたままで、搾り出すような低い声に、蒼牙が訝しそうに眉を寄せる気配を感じた。
 今の俺には、蒼牙の怒りや不機嫌なんかどうでもいい。それ以上に、きっと俺は怒っている。

「勝手に俺を花嫁にしたくせに、その心は、いつだって不二峰のもので。それでもお前を好きだと言う気持ちを未練がましく捨てることもできずに、想いを隠しながら生きていこうとしているこの俺を、関係ないだと…?」

「…何を言ってるんだ?」

「ああ、そうだよな。だから、今だってお前は俺を殺せるんだよ。テメーの心を殺すようなヤツだもんな?ここがどんな場所か知らないかだと?そんなの知ったことかよ。ただ、桜姫が軟禁されていた場所だったってことぐらいだろ。それだってどうでもいい。それこそ、俺には関係ない。そもそも、それがどうしたって言うんだ?なに、目くじら立ててんだよ。お前たち呉高木家の連中は、それが正当だとでも思っていたんだろ?それを今更『禁域』なんて都合のいいこと言いやがって!そんなに大事な場所なら、鍵でも掛けて机の中にでも仕舞っとけばよかったんだッ」

 青褪めるほど怒ってるってのに、こんな時なのに俺は、どうしてなんだろう。
 気付けば悲しくて悲しくて…涙こそ出なかったけど、それほど激しくは言っていなかった。
 淡々とした口調は、心が、もう諦めてしまったからなんだろうか?
 それとも…できれば蒼牙の心にまで届けばと願う思いからなのかな…

「あの場所だってそうだ…そうすれば、俺はお前と出会うこともなくて、平凡なサラリーマン人生を終えていたに違いないんだから」

 悔しいとか、恨めしいとか…不思議とそんな気持ちは少しも起こらなかった、それどころか怒りでさえ、俺の中から唐突に立ち消えてしまっていた。
 なんて言うんだろう、この気持ちは。
 ただ、切なくて…そして、寂しいんだ。

「お前だって、不二峰と歩む人生だってあったかもしれないのに…お前は馬鹿なんだよ。殺したければ殺せばいい、どうせ、俺の命なんてもう随分前に消えていたんだ」

 蒼牙の得も言えない感情を内に秘めた双眸を見上げたまま、笑って言うことができて、俺は何故か酷くホッとしていた。
 どうせ、蒼牙が救いの手を差し伸べなかったら俺は…きっと、一家心中していたに違いない。
 今よりももっと若い、高校の頃には親父の借金は億を超えていたから…仕方なかった。
 ガスも電気も止められて…このご時世に、水道だけがライフラインだった…なんて、いったい誰が信じてくれるんだ?
 そんな荒んだ生活の中で、当時まだ僅か12歳だった蒼牙の一存で、俺たち家族は救われたんだ。
 今なら、高柳家の息子の気持ちが判るような気がする。
 この命、くれてやってもいいよ。

『嫁御さま!いや、死んでしまわないでーッ』

 細目でニコニコ笑っていたはずの座敷ッ娘は、大粒の涙をボロボロ零しながら、決意を固めてしまっていることを、きっと誰よりも敏感に感じ取っているんだろう、小さな紅葉みたいな両手で俺に抱き付いてきた。その背中を優しく撫でながら…俺は楡崎を護ってくれる小さな神様に、心から「ありがとう」と呟いていた。

「天女の血をお前にやるよ」

 ニコッと笑ったら、あれほど怒り狂っていたのに蒼牙は、不意に顔を歪めて、ギリギリと悔しそうに歯軋りを始めたんだ。
 ど、どうしたって言うんだ…?!

「…アンタはそうやって、いつも俺を惑わすんだ。俺の中の迷いを掻き立てては、指の隙間からスルリと消えてしまうくせにッ!いい心掛けじゃないかッ、望みどおり殺してやる!」

 なんだと??
 蒼牙が望むのなら、この命ぐらい喜んで差し出すつもりだったけど、ちょっと待て。
 何か今、理不尽なことを言われなかったか??
 お前の中の迷いだと??

「お前の中の迷い…だと?それはきっと、不二峰への恋心だろ?確かに俺の存在が掻き立ててるのかも知れないけど、消えてしまうって何だ!?」

「龍雅への恋心だと!?何を言ってるんだ、アンタは!!?」

 蒼牙は忌々しそうに俺を見下ろして、その手にギラつく日本刀を構えたままで、心底、不貞腐れたように言いやがるから…

「見たんだよ!お前と不二峰が…でも、だからって俺は文句なんか言わない。お前はお前の自由に生きることが、俺が望む全てだから」

「…なんだと?」

 一瞬だけ、蒼牙は顔色を変えたけど、それでも、さすがは呉高木家の現当主だ。
 冷静さは保っているから天晴れだよな。

「俺たちを見た…と言ったな?なるほど、それで龍雅への恋心ね。それで?アンタは身を引こうとでも思ったのか??」

「当然だろ」

 不二峰を想う蒼牙の傍で、ただ、凡庸と暮らすには、俺はそれほどお気楽な性格じゃないんだ。
 蒼牙のヤツは、構えていた日本刀を下げると、忌々しそうに舌打ちしてから、やれやれと首を左右に振って息を吐いた。

「では、何故この禁域にいるんだ?夜ではないんだ、バスにだって乗れた筈だ」

 そりゃあ、まさに図星だったけど…悔しいから、ムスッとしたままで口は開かなかった。
 それをどう解釈したのか、蒼牙のヤツは日本刀の刀背で肩を叩きながら、呆れたように座り込んでいる俺を見下ろしてきた。

「この禁域を知らないアンタがどうして此処にいるのか…重要なのはその部分だろうがな。アンタの行動に首を傾げたいところだが…俺と龍雅へのあてつけか?」

 そんな風に言われるとは思っていなかったし、実際、そんなことを考えてもいなかったから…気付いたら俺は、外方向いたままでポロポロと涙を零していた。
 ギョッとした蒼牙が何か、また嫌なことでも言い出すんじゃないかと、口を開く前にギッと睨み付けて畳み掛けるように言い返していた。
 蒼牙の、不二峰を想う言葉なんか聞きたくない。

「未練だよ!…笑っても別に構やしないけどなッ、6歳も年下の男に惚れて、忘れられなくて…せめて、晦の儀までは同じ村にいたいって思っただけだ。お前と…不二峰の間を裂こうとか、そんなこと、考えてもなかった…クソッ、そんなこと言われるぐらいなら、初めから素直に帰っていればよかったよ。でも…もう少し、ほんの少しでいいから傍にいたいって思った、ただの未練だったのに…」

 やっぱり、帰っておくべきだったんだ。
 蒼牙の心はもうここにはないのに、どうして俺は、こんなに必死になってるんだろう。
 あんなに愛を囁いてくれていたときは、世間体だとかそんなものばっか気にして、いざ離れてしまうと知ったからって、その時になって追いかけても、もう遅い。もう、遅いのに…
 なんて俺は、未練がましいんだろう。
 これなら蒼牙に想われなくても、仕方ないのか…
 蒼牙の顔を見ているのは辛くて、俺は瞼をギュッと閉じて俯くと、そのまま畳にポタポタと涙を零していた。
 蒼牙の息を呑むような気配がしたけど、このまま放っておいてくれたらいいのに。

「…此処に来たのは、気付いたら土蔵の前に立ってたんだよ。そのまま、何処かに隠れたくて忍び込んだんだ。禁域なんて気付かなかった。殺したければ殺せばいい。俺には、呉高木も楡崎の血も、全部どうでもいいことだ。今更、生きることに未練なんかない」

 ポロポロ泣きながら、俺は畳に呟いていた。
 今更、直哉を庇ってもどうにもならないんだろうけど、これ以上、誰かを殺してしまうかもしれない蒼牙は見たくない。
 これ以上、蒼牙に罪を背負わせたくない。

「…俺には未練があるのに、生きることには未練がないだと?」

「ああ!そうだよッ、うるせーなッ!!さっさと殺すなり放っておくなりしてくれよ」

 これ以上俺に、恥をかかせないでくれ。
 もっと、身も蓋もないことを口走ってしまいそうで、俺はそれ以上は何も言わずにグッと唇を噛み締めていた。
 震える肩も、色気もない黒髪も、こんな風じゃなかったら、蒼牙はもう少し俺を…愛してくれたんだろうか?
 不二峰のように大人だったら、俺を…ああ、俺はどこまで女々しいんだ。

『嫁御さまに触らないでぇ!もう、呉高木の嫁御さまではないのよーッ』

 どうやら、蒼牙は腕を伸ばして俺に触ろうとしたようだった。
 その腕を、楡崎の守り手である座敷ッ娘が邪険に振り払ったんだろう、涙に暮れた双眸を開いて顔を上げたら、何処か痛々しそうな表情をした蒼牙が、日本刀を傍らに落として片膝をつき、蹲るようにしている俺を見詰めていたんだ。
 物言いたそうな顔を見ていたら、また涙が溢れてきて、胸がギュッと痛んだ。
 こんな、壮絶な別れ方をする為にこの村に来たワケじゃないのに…運命は恐ろしいほど残酷だと思う。

「光太郎…アンタは」

『蒼くん!私は貴方に頼まれたから、真剣な貴方だったから、嫁御さまのお輿入れに賛成したのよー。でも、嫁御さまを悲しませるのならぁ、このお話はなかったことにするのー。お仕舞いなのよぉ』

「…誰が仕舞いにするだと?楡崎の守り手よ、儀式は既に執り行われた。アンタもそれは知っているはずだ。今更…婚儀の取り止めなど有り得ない」

『でもー!』

 座敷ッ娘は食って掛かろうとしたけど、腕を伸ばした俺は、それを静かに止めていた。
 呉高木にとって、『楡崎の血』はどうしても必要なんだ。
 俺には恩義がある。
 だから、晦の儀までいることにしていたんだ。

「蒼牙…の、言う、とおりだ。俺は、蒼牙の花嫁に…なる」

 まるで狐にでも抓まれたような顔をした2人に、俺は泣きながら笑っていた。
 蒼牙だって心を殺したのなら、俺だって心を殺すことぐらいできるさ。
 甘く見んなよ、蒼牙!

「楡崎の血を…蒼牙にやるよ」

 その後、俺が何処に行こうと、もういいんだよな?
 この呉高木の家に俺の持っている天女の血を遺せば、蒼牙は、蒼牙の愛する人の場所にいけるんだよな?
 それなら俺は…ああ、最初からそうしていればよかった。
 それなら、あんな無様な告白までしなくてもよかったのになぁ。
 クソッ、俺って何処まで抜けてるんだか…トホホ。

「…今度はアンタが心を殺すのか?ハッ!冗談も大概にしろよ?誰が龍雅を好きだって??」

 それまで、黙って食い入るように俺を見詰めていた蒼牙は、やれやれと溜め息を吐いてから、これ以上はないぐらい苛立たしそうに吐き捨てたんだ。

「だって、お前は否定しなかった。『楡崎の血』の為だけに望まない婚姻を結ぶのかって不二峰に聞かれた時、お前は否定しなかった」

「…アンタは龍雅を知らなさ過ぎる」

「え?」

 蒼牙はこの上なく不機嫌そうに、俺の傍らで守るようにして両手を広げている座敷ッ娘を見下ろしてから、フッと寄せている眉間の力を和らげたようだった。

「…言うべきかどうか悩んだんだがな。教えてやるよ、呉高木家の真実を」

「蒼牙…」

 頬には、止まることを忘れてしまったかのように涙がハラハラと零れていたけど、それでも、俺は蒼牙から視線を外さなかった。
 心が少しでも届くなら…俺は蒼牙が好きだから。
 未練タラタラ…ッてさぁ、情けないほど、6歳も年下の男に惚れてしまったんだよ。
 俺が聞きたいのは呉高木家の秘密じゃない。
 蒼牙の心なのに…

 ポロポロと涙を零している俺の頬を指先で触れても、今度は座敷ッ娘は阻止しなかった。
 俺も、嫌だと言って首を振ることはしなかった。
 「こんなに泣かれてしまうとはな…」と、蒼牙はあれほど怒っていたくせに、現金なほど掌を返して、嬉しそうに頬の緊張を緩めたりするから、グズグズと泣いている俺の方が馬鹿みたいじゃないか。
 畜生。

「どうやら、アンタの身体に流れている血の秘密は守り手から聞いたようだな。では、俺たちの一族が蛟龍と呼ばれていた龍の末裔であることは知っているな?」

「…ああ」

 ヒクッとしゃくりながら頷いたら、蒼牙は、どうしてそんな目付きをするんだよって怒鳴りたいぐらい、愛おしそうに俺を見詰めて、できればこのまま抱き締めて、もう何処にも行かせないんだがなぁ…とでも言いたそうな顔をしやがるから、俺は悔しくてまた泣いてしまった。
 そんな顔、するなよ。
 不二峰を愛してる心を持ちながら、俺に嘘を吐くなんて酷いんだぞ。
 お前にとっては、どうでもいいことなんだろうけどな…

「龍の子と呼ばれる俺たちは、天女の血を持つ楡崎の人間を見つけるまでは、両性体でいるんだ。その間にセックスをしても、子供は生まれない。男であり女である。だが、そのどちらでもない中性体のままだからな」

 それは衝撃的な一言だったから、目をパチクリさせて、それでもどんな顔をしたらいいのか判らなくて、俺は訝るように眉を顰めることぐらいしかできなかった。

「楡崎の人間がどちらの性でも、婚姻できるようにな。龍の子の想いは、それほど楡崎の者に執着しているんだよ」

 勿論、俺もだが…そう呟いて、蒼牙は自嘲的に笑ったんだ。
 どうして、そんな顔をするんだよ?
 やっぱり、お前も楡崎の血に執着してるだけじゃねーか。
 なんか、やっぱり無性にムカツクんだよなぁ。

「…俺はまだ幼い頃、6歳ぐらいまでは女として育っていた。名も『葵姫(アオイヒメ)』と呼ばれていてな、龍雅の花嫁になるんだと思い込んでいたよ」

 遠い昔…と言うほどでもないんだけど、17歳の蒼牙はそんな風に、やはり自嘲的に笑いながら、そのくせやっぱり忌々しそうに呟いていた。

「ちょうど、6歳になるかならないかの時に…俺は母さんに呼ばれたんだ。その頃はまだ、母さんは調子が良かったり悪かったりを繰り返していたから、まだ、この座敷牢にはいなかったんだが…毬遊びをしていた俺は呼ばれるままに、母さんの許まで行った」

 その時の情景が何故か、鮮明に脳裏に浮かんでいた。
 肩の辺りまで伸ばした青白髪の髪をキチンと摘み揃えて、少し勝気そうな双眸をした可愛らしい少女が、嬉しそうに毬を持って、柔らかそうな優しい手に導かれるようにして駆けてくる姿。
 なぜ、こんな光景が視えるんだろう?

「その時、俺は1人の綺麗な人に会った。まだ、幼そうな顔立ちをしていたけれど、俺はその人を初めて見て、一瞬で恋をしていた。とても綺麗な人で、精霊妃がいれば、きっとこんな人だろうと思って、母さんに興奮して誰かと聞いたのさ。そうしたら母さんは、日傘を差したままで首を傾げながら、自分には普通の人に見えるのに、葵姫には特別に見えるのね…って笑った。そしてその人が、龍雅の花嫁になる人だと教えてくれた」

 毬を持ったままで遠くにいる誰かをジッと見詰めたに違いない蒼牙は、その時の視線のままで、憧れと燃え上がるような情熱と、はにかむような照れを隠した双眸で、俺を食い入るように見詰めてきたんだ。

「龍雅の花嫁になるんだろうと思い込んでいた俺は、母さんに聞いたんだ。龍雅の花嫁は自分じゃないのかと。そうしたら母さんは、日傘の下から涼しげな双眸を細めて、寂しそうに笑っていたよ。あの方は特別な人だから、龍雅の1番目の花嫁で、俺は2番目なんだとさ。そりゃあ、冗談じゃないと思ったワケだ。それに…」

 そう言って、蒼牙は何かを思い出すように自嘲的に笑ったんだけど、その顔は、何故かとても不敵なものだった。
 どうしてそんな顔をするんだろうと首を傾げていたら蒼牙は…

「花嫁なんてご免だと思ったんだ。龍雅と話しているその綺麗な人を…俺は、自分の花嫁にしたいと思った。まあ、簡単に考えても判るだろ?俺は両性体で、どちらの性にもなれるんだ。その人を見た時に、俺の性別は決まったも同じだった。俺は、男になる決心をしたのさ」

「…不二峰の花嫁を略奪するつもりだったのか?」

「つもりじゃない、略奪したんだ」

 キッパリと蒼牙は言い切ったけど…実は、涙の乾かない俺は、そんな突拍子もない話を聞きながらも、怪訝そうに眉を寄せて首を傾げてしまった。
 いや、だって。
 たぶん、蒼牙の雰囲気からも、その不二峰の花嫁は…俺だったんだと思う。
 でも、俺にはそんな記憶はこれっぽっちもないんだ。
 つーか、不二峰に会った記憶すらない。
 そのことを蒼牙に言おうとした時、唐突に、それまで黙って聞いていた座敷ッ娘がオズオズと俺の服の裾を掴みながら口を開いた。

『嫁御さまから龍雅の記憶を消したのは私なのよー。ごめんなさいぃ』

「え?」

 どうしてそんなことをしたんだろうと首を傾げたら、その疑問には蒼牙が答えてくれた。

「俺がそう、頼んだんだ」

「へ?…どうしてだ??」

「それは…」

 蒼牙は言い難そうに言葉を切ったけど、フイッと、それまで一度だって逸らしたことのない強い意志を秘めている双眸を伏せて、思い切るように閉じた瞼を開くと、俺を正面に見据えて話を続けたんだ。

「龍雅には龍の血が少ない。それ故に、両性ではなく、最初から男だったんだ。ヤツはそれを酷く恥じていて、呉高木の当主になる為に『天女の血』を持つ楡崎の息子を娶ることにしたのさ。連れて来られた光太郎を一目見て、龍雅は気に入ったようだった。当時、12歳のアンタと16歳の龍雅の、まるで茶番のような見合いに、両家はいたく乗り気だった。だから、俺はそれをぶっ壊そうと考えたんだ。アンタを娶るのは俺だと思っていたからな」

「蒼牙…」

 ふと、こんな時なのに俺は、それでも嬉しい…なんて、どうかしてることを思ってしまった。
 ポロッと頬に涙が零れて、俺は何処までも、この不遜な当主が好きなんだなぁと思う。

「俺はまだ子供で力なんかなかったからな、楡崎の守り手にお願いしたのさ…そんな俺たちが部屋にコソリと行った時には、アンタは龍雅に組み敷かれていた」

「ええ!?んな、馬鹿なッ!」

 見合いの席でイキナリ犯されてたのか、俺!?

『嘘じゃないのよー』

 焦ったようにオタオタと顔を覗き込んでくる座敷ッ娘をマジマジと、信じられないものでも見るようにして、それから改めて蒼牙を見ると、ヤツは珍しく不機嫌そうに目線を逸らしてしまった。
 だから、信じられないんだけど、それが真実なんだと思い知った。
 嘘だ…

「幸い、まだ純潔を奪われたと言うワケではなかったんだが、えらく動揺していてな。守り手と共に助け出したんだが、震えるアンタは、泣きながら幼い俺に縋り付いてきた。俺はそんなアンタを抱き締めながら、生涯、きっと護ろうと決意したよ。ただ、これに懲りてアンタが呉高木の家に来なくなったら元も子もないと思ってな、守り手に頼んで記憶を消してもらったんだ」

「そ…う、だったのか。それで、俺の蒼牙の記憶は、12歳の時からなんだな…」

「ああ。あの後、俺は『女』になる為に祖父や直哉から手解きを受けていたから、その手管と言うヤツで、怒り狂う龍雅を宥めたと言うワケだ。弱冠6歳の俺に翻弄される龍雅も見ものだったがな」

 ニヤッと笑う蒼牙は何処か、今までに見たこともない子供っぽいツラをしていて、俺は凄く好きになったんだけど、話の内容があまりに壮絶すぎて、いったいどんな顔をしたらいいのか判らないまま、複雑な表情で見詰めてしまった。
 そんな俺に、蒼牙は笑ったままで肩を竦めたが、すぐに不機嫌そうにムッとしたんだ。

「だが、その後がいけなかったな。龍雅はスッカリ俺が自分に惚れていると思い込んだようで、俺を娶ることで呉高木を継ぐ気になってしまったんだ。だから、俺は7歳の時に『蒼牙』と改名し、当主になることを条件に、龍雅を不二峰の養子に出すことにしたんだ」

「ゲ!アイツを不二峰家に養子に出したのって蒼牙だったのか!?爺ちゃんじゃなくて!!?」

「ああ、そうだ。目障りなヤツにはお暇願うのが当然だろう?」

 いや、ちょっと待ってくれ。
 じゃ、じゃあ、もともと蒼牙は俺を嫁にするつもりで、当主になったってことか?龍雅は、言わば恋敵だったから、爺さまに頼んで追っ払ったと、つまり、そう言うことなんだな?
 7歳のクソガキがそれを思い付いたって言うのか??
 ポカンッとする俺に、蒼牙は一瞬だけムッとしたけど、でも、すぐに自嘲的に笑ったんだ。
 アイツの男らしい頬に、一筋、頼りなげに青白髪が零れて、その面立ちは寂しかった。

「俺は…誇らしい生き方なんかしていない。アンタの夫になる資格なんか、本当は龍雅よりも持っちゃいないんだ。天女の血を持つ者は、必然的に人に惚れる。だからこそ、俺は龍雅の存在に怯えていた。正当に娶ることを告げれば、龍雅は納得した。だが、アイツはアンタに惚れていたから…今でも、アンタが龍雅のモノになるかもしれない危険はあるんだ」

 悲しげに笑う蒼牙。
 でも、それは…蒼牙のせいじゃない。
 両性であることも、女として生きなければならなかったことも…どちらも、呉高木の思惑と、そして、蛟龍がばら撒いた種なのに…どうして、こんなに蒼牙が傷付くんだろう。
 俺は、幼い蒼牙に守ってやるって約束していたのに…本当に守ってくれていたのは、蒼牙。
 お前だったなんて…
 俺はポロポロと、忘れていた涙が涙腺をぶっ壊して、またしても頬を零れ落ちていく。

「蒼牙…」

 両腕を差し伸ばせば、蒼牙は躊躇うこともなくそんな俺を引き寄せると、ギュウッと両腕に力を込めて、もう絶対に離さないんだと強い意志で抱き締めてくれたんだ。
 蒼牙の首に回した腕に力を込めて、背中に回された腕の力を感じて、俺はボロボロ泣きながら、蒼牙を心の奥底から愛してると感じていた。

「気付かなくて…俺は、馬鹿だ。守ってるつもりで…お前が一番、俺を守ってくれていたのに…」

「龍雅は俺がアンタに惚れていると知れば、どんなことをしてでも、横から掻っ攫って行くつもりだろう。龍雅とはそう言う男なんだよ。だから、俺は心を偽って、アイツに惚れているフリをした。抱かれても気にもならないからな。だが、アンタを妻として正式に娶ってしまえば、たとえ龍雅でも手出しはできなくなる。だからこそ、祝言の日まで呼ぶつもりなんかなかったんだ。それを直哉のヤツめッ!…アンタの純潔を龍雅に奪われることだけは避けなければならないんだ。俺は、心の奥底からアンタを愛している。天女の血なんか、どうでもいい。アンタが、ずっと傍にいてくれれば、もうそれだけでいいんだ」

 蒼牙は、俺が思っていることと、全く同じことを想ってくれながら、優しい愛を込めて抱き締めてくれる。
 不二峰の俺を見る、あの嫌な目付きは、そうか、俺が『天女の血』を持つ楡崎の人間だったからなんだ。
 蒼牙ではなく不二峰こそが、『天女の血』を尤も欲している、龍の子の末裔に成り損ねた呉高木の人間だったんだろう。

「アンタが…俺が女の方がいいと言うなら、俺は別に女になっても構わないんだぞ。どちらでも、光太郎の望むままに」

 クスッと、蒼牙は笑った。
 自然で言うのなら、俺は蒼牙の花婿になるべきなんだろうけど…何故か、この村の連中も、蒼牙自身も、俺を花嫁として迎えようとしている。
 その理由は判らなかったが、今更、蒼牙を女のようには見れないし、ましてや不二峰でもあるまいし、コイツを抱こうなんて気にはどうしてもなれなかった。
 でも…俺は一抹の不安を覚えるんだ。

「俺は、このまま蒼牙の花嫁になれるのか?」

 だって、俺は女じゃないから、蒼牙の子供を産んでやることもできないのに…

「決めるのは、アンタ自身だろう?」

「…え?」

 顔を上げて蒼牙を見ようとしたら、ふと、何故か眩暈がした。
 蒼牙の顔が、二重に三重にぶれてくる。

「アンタのこれ以上はない嬉しい愛の告白が聞けたんだ。俺はなんだってするさ」

 嬉しげに笑う蒼牙の声でさえ、鼓膜を刺激して、何処か遠くで聞こえているような朧げな頼りないモノで…なんだ、これ??

「あ、あれ…??」

 伸ばした指先でその頬に触れようとしたのに、指先は切なく空を切る。

「光太郎?…どうしたんだ!?おい!!」

 蒼牙の腕に抱かれたままで、俺は急速に身体が冷たくなるのを感じていた。
 俺の異変に気付いた蒼牙が俺の名前を呼んでくれているのに、今はそれに応えることもできない。
 まるで貧血のようにスッと血の気が引いて、もがこうと、足掻こうと必死で蒼牙の着流しを掴もうとするのに、指先に力が入らないから、そのままスカンッと腕が落ちてしまう。
 重くなる身体と瞼を持て余して蒼牙を見詰めれば、呉高木の正当な現当主は、まるで似合わない動揺した顔をしてそんな俺を支えてくれる。でも、その顔を安心させることができなくて、俺は悔しくて仕方なかった。
 少しぐらい、俺にも蒼牙を安心させてやるだけの力が欲しいのに…
 気持ちばかりが空回りして、大きな思惑に飲み込まれそうだ。
 俺だって…蒼牙の…傍に…いるだけで…
 …………
 ……
 …
 …幸せ…なのに…
 何処か遠くで、蒼牙の声がしたような気がした。

第一話 花嫁に選ばれた男 16  -鬼哭の杜-

 俺は小雛に促されるまま直哉に会って、そして、大の男である俺がボロボロ涙を零しているのに少し絶句した直哉はでも、深い事情なんかは聞かずにホクホクと隠れられる場所に案内してくれた。
 涙に霞む目で通された場所は、何処をどうやって来たのか全然覚えていないんだけど、直哉の説明では、この場所は呉高木の禁域と呼ばれる場所で、その昔、蒼牙の母である桜姫が閉じ込められていた座敷牢なんだそうだ。
 物寂しい明り取りの行灯を除けば、生活には確かに困らない造りになっているけれど、それでも、こんな場所に閉じ込められたんじゃ、正常でも異常になるだろうなぁとぼんやり考えていた。
 直哉と小雛は、ぼんやりしたままで、まるで魂が抜けてしまったように惚けている俺を暫く見詰めていたけど、小雛が何か言おうと口を開きかけるのを素早く直哉が止めて、2人はそそくさと出て行ってしまった。
 ああ、これで1人になれた…

「…ッ、ふ…う……うぅ~ッ」

 俺は畳の上に敷かれた、つい最近まで誰かが使っていたんじゃないかって思えるほど新しい、緋色の布団に突っ伏して、人差し指を噛みながら声を殺して泣いていた。
 やっと、泣ける。
 俺はこんなに女々しくないはずだったのに、どうしてだろう?蒼牙の傍にいたら、忘れかけていた感情が一気に解き放たれたみたいに、俺は喜怒哀楽をちゃんと表現できるようになったんだ。
 誰かを愛しいと思うのは、きっと、驚くほど体力を使っちまうんだろうけど、それでも、誰かを愛しいと思えないことよりも何万倍も良いに決まってる。
 高い場所に設置されている窓から射し込む、そろそろ傾きかけてきた太陽の頼りない陽光を反射するように、キラキラと光る埃が舞い散る中で、俺は枕を濡らして泣いて、泣いて…このままだったらきっと、両目が溶けてしまうんじゃないかって思えるほど爆泣きしちまった。
 今頃、蒼牙は大好きな不二峰の胸の中で、もしかしたら一瞬の安らぎを求めて眠っているのかもしれない。
 そんなことが脳裏に閃くだけで、俺はまた、流れ出す涙を留めることができなかった。
 どんな思いで…いつも俺に自分の花嫁になれって言ってたんだ?
 心の奥深いところに不二峰への想いを隠して、ただただ、『楡崎の血』の為だけに娶る俺に、どんな気持ちで愛を囁いていたんだ。
 こんなのは酷いよ、蒼牙。
 俺の心をガッチリ掴みながら、握り潰すこともせずに、まるで生殺しで生かし続けるなんて…そんなの、お前じゃない、俺が可哀想だ。
 今だけ、俺は俺の為に泣くから…今だけは、蒼牙。
 お前を恨んでもいいだろ?きっと、晦の儀の時には、スッキリした気分で家に帰るから。
 お前のこと、恨んだりしないし、幸せだけを願い続けるから…だから。
 今だけ、俺は、可哀想な俺の恋心の為に泣いてもいいよな?
 ボロボロ零れる涙に限りなんかあるワケがない、と思えてしまうほど、俺の涙腺は持ち主の意に反して、後から後から透明な雫を零し続けていた。

『あらぁ?可愛らしい嫁御さまが、どうしてこんなところで泣いているのー??』

 ふと、座敷牢って言うぐらいだから、檻の役目をする格子の向こうから子供っぽい声が降ってきて、俺は突っ伏していた顔を上げて、声の主をぼんやりと眺めていた。

「…はは、笠地蔵の次は座敷童子か?」

『座敷童子は男の子よぉ』

 瑣末な着物を着て、オカッパ頭の5、6歳ぐらいの少女らしきその子は、子供らしいあどけない顔でクスクスと笑うから、俺もついつい、あんなに悲しいと思っていたのに、釣られるように笑っていた。

「じゃあ、座敷ッ娘か」

『ザシキッコ?ヘンなのぉ』

 オカッパ頭の少女が楽しそうに笑うから、なんだか、今までのことも全て忘れてしまえるような、不思議な気持ちでいっぱいになっていた。

『嫁御さまがこんな悲しい場所にいてはダメよぉ。早く、母屋にかえろ?蒼くんが心配しながら待ってるよぉ』

 その言葉にも、あまり傷付くこともなく、俺は俯くと散々泣き腫らした目で畳の目を見詰めながら、自嘲するように笑うしかなかったんだ。

「俺はもう、蒼牙の許には帰らないよ。やっぱり座敷ッ娘も呉高木家を見守る神様なんだろ?悪いけど、俺はもう呉高木になるつもりは…」

『ううん、違うよぉ。わたしは楡崎の護り手なのー』

 オカッパ頭の座敷童子もどきの少女は、勝気そうな黒目勝ちの双眸を細めて、照れ臭そうにエヘヘヘッと笑ったから、俺は思わずギョッとしていた。
 そんな…楡崎にも妖怪が棲みついていたのか!? 
 そう言えば昔、ばあちゃん家に遊びに行ったとき、絶対に何かいるって気配が充満していたあの古めかしい日本家屋を思い出したら、なるほど、座敷童子の1人や2人いたっておかしかないのか。
 と、妙に感心してしまった。

『わたしは楡崎のお家から、嫁御さまを護るためだけについてきたのぉ。だから、一緒に母屋にかえろ?』

「…せっかく、俺なんかについてきてくれたのに、ごめんな。やっぱり、俺は戻れないよ」

『どうして?』

 あまりにも澄んだ、汚いことなんか何も知らないようなあどけない子供の双眸で見詰められて、俺は自分勝手な悩みに打ちひしがれていたことを恥ずかしく思いながら、それでも、この小さな味方に秘密を囁くように呟いていた。

「蒼牙の心が俺にはないから。そんなヤツと、一緒に暮らせる自信がないんだ。蒼牙に必要なのは俺じゃない、『楡崎の血』だから」

『…そうねぇ。龍の子にとって『楡崎の血』は重要だからぁ、でも。それでわたしの嫁御さまを泣かせるのは許せないわぁ』

 少女は、まるで今にも取って喰らおうとする鬼のような形相に一瞬変わったけど、すぐにその表情を引っ込めてしまった。
 何故ならそれは、俺が格子から伸ばした腕で彼女の両腕を掴んでいたからだ。

「楡崎の血について…そうか、座敷ッ娘なら何か知ってるんじゃないのか?!」

『知ってるよぉ。あれぇ?嫁御さま、知らないのぉ??』

「ああ、知らない。だから、教えてくれないか?」

 俺は、真摯にオカッパの少女を見詰めていた。
 自分の体内に流れる血に纏わることを、少しでも知ることができたなら、いつかきっと、蒼牙にも笑って会える日が来るんじゃないかって…そんな、夢のような期待を胸に秘めて。
 オカッパの少女は、腕を掴まれたままで、どこか照れ臭そうにクスクスと笑って頷いた。

『いいよぉ。お話しするのは大好きだからぁ』

「…ありがとう」

 ホッとしたら、一粒、涙が頬に零れ落ちた。
 何もかも知って、それでどうなるってワケでもないんだけど…それでも、我が身に纏わることを少しでも知れば、何か解決策が見つかるんじゃないか。繭葵の受け売りを真っ向から信じるつもりなんかないんだけど、それでも、俺は知りたかった。
 蒼牙が心を殺してまでも、こんな俺に偽りの愛を囁いて、娶ろうとしたその真意を。
 この血に関わる、何かを…

『えーっと、何処から話そうかなぁ?んとね、まずは、嫁御さまは【天女伝説】を知ってるぅ??』

「天女…って言うと、あの羽衣のことかな??」

『うん、それ。そもそも、この日本には色んな場所にぃ、天女たちは舞い降りてるのねー。みんな、大事な羽衣を失くしちゃうおっちょこちょいさんばかりだからぁ』

 座敷ッ娘は楽しそうにクスクスと笑った。
 笠地蔵の時も思ったんだけど、いったいどれだけ日本各地に未確認生物が存在してるんだよ!
 まあ、目の前の座敷ッ娘だって、そう言われてみれば、本当は未確認生物なんだから気味悪くて当たり前なんだけど…でも、人間なんかよりもよっぽど、素直で優しい。
 どれほど、この不思議な住人たちに、俺は助けられてるんだろう…

『もともと、この土地を治めていたのは呉高木家ではなかったのぉ。遠い昔、呉高木の前にこの土地を治めていた若い当主さまの時代にぃ、お空を飛ぶために必要な、羽衣を失くしてしまったおっちょこちょいな天女が舞い降りたのね。当時、この土地を治めていた若い当主さまはあんまり綺麗な天女に一目惚れして、彼女を妻にしたのよー』

 良くある昔話なんだろうけど、この場合、これはきっと実際に起こったことに違いないんだろうなぁ。

『天女も若い当主さまを好きになって、もう羽衣なんか必要ないって思ったのねぇ。だって、天女はお空を飛ぶ羽衣よりも大切なものを手に入れてしまったんだものぉ、仕方ないわよねぇ。それで、子供が生まれるんだけどー、お空の上の権力者が、それを見咎めて怒り出しちゃったのねぇ。それで、連れ戻しに差し向けられたのが、龍の子。呉高木家のご先祖さまなのよぉ』

 確かに、俺たちの分家の連中はみんな噂していた。
 呉高木家には龍の子がいる。
 そんなのは何か、性質の悪い冗談だとばかり思っていたのに…まさか、本当だったのか?
 現実に目の前で不思議な生き物がペラペラと会話してるんだから、思わず笑っちゃうような内容なんだけど、俺は息を呑むようにして聞いていた。

『天女は必死に抵抗していたんだけどぉ…龍の子がねぇ。そんな天女に一目惚れしてしまって、若い当主を嫉妬して殺しちゃったのよぉ。それで、龍の子は天女を娶ってこの土地に棲みつこうとしたんだけどぉ…天女は儚く自害してしまったのー。龍の子はぁ、当主さまと天女の間に生まれた、天女の血を持つ子供を必死で探し出そうとしたんだけど、結局、ずっと見つからなかったのねー』

「…どうして、見つからなかったんだろう?」

 それはね、と囁くように呟いて、座敷ッ娘は双眸を猫のように細めて幸せそうに微笑んだ。

『わたしが隠していたからぁ』

「…そ…うだったんだ」

『うん。龍の子、呉高木は天女の血を持つ楡崎を娶ることによって、天女の持っていた御霊寄せの力を欲していたのよー。御霊寄せと言うのはぁ、口寄せのことで…って、嫁御さまにはどっちも意味判んないわよねぇ』

 そう言って、座敷ッ娘は粗末な着物の袖で口許を隠しながら、それはそれは楽しそうにケタケタと笑うんだ。その笑顔を見ていると、悲しみのどん底に落ち込んでいるはずなのに俺は、どう言うワケだか、心がスッと軽くなって同じように幸せな気持ちになっていた。

『恐山にイタコっているでしょー?舞い降りた天女は特殊な能力を持っていた、天の姫さまだったからぁ、そのイタコのように死者と交信できる力を持っていたのねぇ。その力は、この龍刃山に昔から巣食っていた亡者どもを鎮めるための、大切な儀式にも遣えるそれはそれは偉大な力だったのよー』

「??…どうしてこの鬼哭の杜の亡者たちを、天女を追い掛けて来ただけの龍の子が鎮めなければいけないんだ?」

 それは話を聞いてるうちに感じた疑問だった。
 呉高木の先祖の龍の子は、一目惚れした天女が欲しくて若い当主から奪い去ろうとしたのに、結局、特殊能力を持つ天女の血を求めていたってことになるんだろ?それって、正直に言っておかしくないか??

『だってー、鬼哭の杜の亡者どもは、龍の子がその昔惨殺した、忌衆の成れの果てだものぉ。その責任は取らなくてはならないのよー』

「え?龍の子は、天女を追って来ただけじゃないのか??」

『それはお空の上の権力者から命じられたからこの地に追ってきただけなのー。本当は、龍の子はもともと蛟龍だったから、ちゃんと地上で生活していたのよぉ。その時、当時は忌衆と呼ばれていた人間たちと戦って、この場所に怨念を葬ったのねぇ』

「そう…だったのか。じゃあ、最初から…天女に惚れたんじゃなくて、天女の力だけが欲しかったんだな」

 自分で言っておきながら、心の奥深い部分がズキリと痛んで、俺はソッと目線を伏せてしまった。
 今は、純朴な優しい笑顔を見られるほどの余裕がない。
 若い当主を愛していた天女の、その非業の死は、どこか自分に似通っているような気になったからかもしれないけど…どちらにしても、天女も俺も、きっと、呉高木家の身勝手な思惑に踊らされた被害者なんだろう。
 そうでも思わないと、天女と俺は、あまりにも可哀想だ。

『それは違うのぉ。たまたま、天女が特殊な力を持った天姫さまだったってだけで、龍の子には本当はそんなこと、なんにも関係なかったのよぉ。ただ、きっと何か正当な理由をつけて、天女の血を持つ子孫を傍に置きたかっただけだと思うのねー』

「でもそれは、遠い昔の話しだし、俺は天女の子孫じゃない」

 俯いたままでそう呟いたら、能天気な座敷ッ娘はケラケラと愉快そうに着物の袖で口許を覆いながら、唇を突き出して笑ったんだ。

『だからー、楡崎の血の話をしてるのにぃ。その若い当主が治めていたお家はー、楡崎って名前だったのよぉ。天女の血を持っているのはー、楡崎光太郎、唯一の天女の子孫なのー』

 それほど衝撃は受けなかった…と言うか、聞いている間にそうだろうとは思ったからなんだけど、それでも俺は、俄かには信じがたい話を、こんな村だったから、素直に受け入れていた。

「蒼牙は違う。天女の血が欲しいだけだ」

 座敷ッ娘は一瞬だけ、呆気に取られるほどキョトンッとしたけど、すぐに今まで通りニコニコと絶えない笑みを浮かべて俺を、自分で軟禁状態に陥っている格子に手をかけて、覗き込んできたんだ。

『天女の血を持つ者の宿命はー、必ず人と交わってしまうのぉ。龍の子がどんなに四方に手を尽くして捜し出したとしてもぉ、その時にはもう人間と結婚していて子供を生み、死んでいたりするのねぇ。だから、龍の子と交わった者はいないのよぉ』

 それはきっと、こう言う結末に天女の血を持つ者が拒絶反応を起こすから、最後の瞬間で逃げられるんだと俺は思うぞ。俺だって、実際、晦の儀までにはこの村を出ようと考えているぐらいなんだから…

「この村に生きる龍の子が、今度は人間に恋をしたんじゃないのか?それはきっと、永遠に結ばれないと言う運命なんだよ」

 自分でもそんな台詞が出るなんて思ってもいなかったのに、気付いたら、俺は自嘲的に笑いながらそんなことを言っていた。
 こんな小さな座敷ッ娘に、いったい何が判るって言うんだ。
 俺も、やっぱり今は、どうかしているんだろう。
 そもそも、あの不二峰もどうやら呉高木に関わっているみたいだし、人間かどうかもあやふやだってのに、なにセンチメンタルになってるんだろ、俺。
 う、果てしなく落ち込みそうだ。

『…楡崎の若い当主さまの呪いなのよー。でも龍の子は、天女の心を掴もうと必死なのねぇ。だから、蒼くんのいる母屋にかえろ?』

 屈託なく、座敷ッ娘はニコッと笑った。
 いや、だからの意味が判らんのだけど…

『ちゃんと、蒼くんの口から聞くべきなのよー、嫁御さま。楡崎の大切な嫁御さま』

「…俺は、弱虫なんだ」

 ポツリと呟いたら、座敷ッ娘は笑ったままで、不思議そうに小首を傾げた。
 鼻の奥がツンとして、気を緩めたら泣きそうだったから、俺は無理に笑いながら首を左右に振っていた。

「蒼牙の口から、改めて不二峰への想いを聞いてしまったら、きっと俺は、そのまま泣いてしまうと思うんだ」

 今は飛び切り情緒不安定だからさ、思わず、6歳も年下の男に抱き付いて、愛してるって告白しちまうかもしれないだろ?はは、そんなこと、絶対にお断りだ。
 そんな形で愛を告白するぐらいなら、このまま何も言わずに立ち去った方が随分とマシだと思う。
 その時ふと、俺は鬼に想いを告げることもなく死んでしまった、儚い巫女を思い出していた。
 十三夜祭りのあの鬼にも、もしかしたら想い人がいたのかもしれない。
 巫女は潔く、想いを断ち切れないから、せめて来世ではと願いを込めて死んでしまったんだろうなぁ。
 俺はまたしても、そんなことを考えてしまったせいで、意味もなくポロポロと涙を零してしまった。
 頬を伝う透明な雫を、笑みに細めた双眸で食い入るように見詰めていた座敷ッ娘は、徐に格子からか細い手を差し伸べて、頬を濡らす涙を拭ってくれた。
 その優しい温かい掌が、ゆっくりと俺の悲しみを吸い込んでくれているようで、こんな子供なのに、俺は座敷ッ娘の優しさにほんの少し、甘えてしまっていた。

『嫁御さま、涙は悲しみを癒すためのお薬なのよー。だからうんと泣いてもいいのぉ。でも、泣き終わったら母屋にかえろ?』

 座敷ッ娘は優しく頬を拭ってくれながら、十分、気を遣ってくれている様子でニコニコと笑ってそんなことを言うから、どうやら、どんなことをしても俺を母屋に帰らせて、蒼牙と話し合いをさせたいらしい。
 そんな仕種が、傍迷惑な元気娘を思い出させて、俺は思わずクスッと笑ってしまった。
 そうだよな、俺だってもういい大人なんだし、こんな小さな子供を困らせたってどうしようもないんだ。
 ここはあの巫女のように潔く、蒼牙に振られてくるかー
 豪い恥ずかしいけどな。

「判ったよ。今から母屋に帰るよ」

『嫁御さま!…それなら、早くした方がいいのよぉ。ここは禁域の奥に鎮座ます蒼くんの大切な場所。見つかっちゃったらー、きっと怒られてしまうのよぉ』

「え!?そうなのか!!?」

 嬉しそうにニコニコ笑っていた座敷ッ娘は、笑ったままで、酷く気難しそうに慎重に頷いてくれた。

「禁域を侵したら俺でも殺すって言ってたから…その場所って、もしかしてここだったのかも??グハッ!それなら蒼牙に怒られるどころか、殺されてしまうよ~」

 思わず小さな座敷ッ娘に、格子さえなければ抱き付いてしまっていたと思うんだけど、そんな無様な姿を晒さなくてよかった。

『それなら早く。嫁御さま…ッ』

 慌てて座敷牢の扉を開けようとしていた…って、扉はいつでもフリーで開くんだよな。なんせ、監禁されているってワケではないんだし、俺の意思で隠れているんだから、鍵なんか必要ないってのは当たり前か。
 やれやれと溜め息を吐いている俺の前で、唐突に座敷ッ娘はハッとしたように顔を上げると、忌々しそうな顔をして階下の様子に耳を欹ててるようだ。
 どうも、この座敷牢は2階建ての土蔵になっているようで、下は物置か何かで、上のこの僅かな空間に、誰かを閉じ込めていた名残を残す座敷牢がある。
 改めて見渡してみると、随分と高いところにポツンと小さな窓があるぐらいで、他には窓らしい窓もなくて、薄暗い室内には衣桁(いこう)と呼ばれる着物なんかを掛けておく道具にひっそりと掛けられた桃色の着物と、目に毒々しい朱色の布団、それから簡易トイレと小さな箪笥、ちゃぶ台に置かれた朱塗りの高価そうなのに控えめな茶器があるぐらいで、豪華なんだけど派手ではなくて、畳だけが年月の長さを物語っているみたいだ。
 自由さえ気にしなければ、外の光を恋しがらなければ快適かもしれないけど、閉じ込められるのだとしたら、俺はお断りだと思う。

『蒼くんの気配がする。後、何人かー…嫁御さまをどうするつもりなんだろぉ』

 怪訝そうに眉を顰めながら、もともと糸目なのか、口許に薄気味の悪い笑みを貼り付けた座敷ッ娘は、耳を欹てるようにしてするりと牢の中に入ってくると、小さな両腕で庇うように俺に抱きついてきた。
 訝しがる俺の傍らで、ヒシッと睨み据えるのは下へと続く古めかしい木製の階段。
 キョトンッとしている俺の耳にも届いてきたのは、何かの荒々しい声と気配で…思わず首を竦めてしまったのは、誰かの制止を振り払った何者かが、置いてある何かを激しく叩き割った鋭い音がしたからだ。

「な、何が…!?」

 思わず抱き付いている小さな座敷ッ娘に身体を寄せながら俺が呟いたとき、その荒々しい何者かは凄まじい音を立てて階段を駆け上がって来たんだ!
 凄まじく怒り狂ってるんだろうと容易に想像できるその足音にも怯みそうだが、間もなく姿を現すその気配に、思い切り俺のひ弱な心臓が縮こまりそうだ。
 ギュッと瞼を閉じて座敷ッ娘を抱き締めていたけど、肩で息をしている気配だけを感じさせて、凶暴そうに怒っているソイツは口を開こうとしないから、俺は恐る恐る、怯みそうになる瞼を開いて目の前に立っているだろう誰かを見上げたんだ。
 そこに立っていたのは…
 眦を吊り上げた、今までに見たこともないほど壮絶に激怒している、蒼牙だった。

第一話 花嫁に選ばれた男 15  -鬼哭の杜-

「…判った。鬼哭の杜について、話してやろう」

 そう言った蒼牙の双眸は仕方なさそうで…どうしても話したくはなさそうだったんだけど、それでも、意を決したように掠めるキスをくれて、話し出そうとしてくれたってのに…クソッ、こんな時に限って、邪魔って入るんだよな。

「…話し声がしたのでね、失礼。お邪魔だったかな?」

 長身の、ともすれば青年になった蒼牙がその場所に立っているような、そんな奇妙な違和感を感じさせる男、不二峰は口許を僅かに歪めるようにして、チラリと俺を見たぐらいで、その双眸は真っ直ぐに蒼牙に注がれていた。

「邪魔じゃなかった…とは言えないが。何か用か?」

 あれほど、警戒しているようだった蒼牙だと言うのに、どこかホッとしたように俺を抱き締める腕の力を緩めて、縁側に立ち尽くしている不二峰に不機嫌そうに呟いた。

「用がなければ君に話すこともできないんだな。まあ、それはいいんだけどね。ところで、直哉さんが呼んでいらしたから、これから行けるかい?」

 肩を竦めながら酷薄そうな薄い唇で笑みを浮かべる不二峰に、蒼牙は仕方なさそうに首を左右に振って、それから、呆然としてしまっている俺を見下ろしてきたんだ。

「そう言うワケだ。鬼哭の杜の件は、今夜にでも話してやる」

「…判った」

 そんなのはズルイよ、と言えるのなら、どれほど天晴れか、それでも俺は、仕方なく目線を伏せて唇を突き出すしかなかった。
 聞き分けの良い花嫁に満足したのか、蒼牙は俺の頬に掠めるぐらいのキスをしてから、改めて不機嫌そうな表情をして、不二峰を促しながら客室を後にしたんだけど…その時、呉高木家の現当主を追おうとした不二峰が、ふと立ち止まって、ムスッとしたまま見送っている俺を見るなり、何やら意味ありげな含めた笑みを浮かべやがったんだ。

「な、なんだよ?」

 思い切り警戒して…って、それでなくても、肝心な部分を聞き逃してこの上なくムカついているってのに、さらに煽るように意味深な笑みを向けられれば悪態のひとつだって吐きたくなっても仕方ないだろ?
 なのに、俺と違って大人の不二峰の野郎は、事も無げに肩を竦めると「蒼牙を借りるよ」と、何食わぬ顔で言ってさっさと立ち去りやがったんだ!
 くっそー、なんか知らんが、思い切り胸糞悪いなぁ!!
 手当たり次第に物を壊してしまいたい凶悪な感情が沸き起こったものの、実際に実行に起こすとなると、それでなくても日頃からあんまり運動らしいものをしていない俺だ、思うだけで行動を起こせないまま溜め息を吐いて、仕方ないから小手鞠たちに愚痴でも聞いてもらおうと、裏山を目指すことにしたんだ。
 たとえば…ほんの僅かな嘘に、酷く傷付くことってあるんだろうか?
 その答えさえ知らない俺は、まんまと、何かの思惑が手繰り寄せる蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶のように、無駄に足掻きながら永遠の地獄のような苦しみを知ることになる。
 そんな未来を知りもしないで、俺は小手鞠たちに会いたくて山に登っていた。

 繭葵を誘おうかとも思ったけど、それでなくても民俗学的なモノに目のないアイツのことだ、小手鞠を見れば垂涎モノで学会とかに発表でもしやがるだろうから、忙しそうに立ち居振舞っているからと自分に理由をつけて、繭葵を誘うことは諦めた。
 だいたい、繭葵のヤツにはロマンがないんだよな。
 未知のもの…たとえばUMAだとかを発見しても、見られただけでもよかったと思ってさ、害がないのならソッとしておくべきだと思うんだよ。学会に発表してどうなるって言うんだ?
 大方、大勢の研究家たちが押し寄せて、荒らすだけ荒らして、自分たちが上だと言って言い争うぐらいで、ソイツらの為になんかこれっぽっちもならないんだぜ。
 それなら、見て見ぬ不利を決め込めることこそが、俺はロマンだと思うんだけどなぁ。
 繭葵はやっぱり、歴史に名前を残すことがロマンだと思ってるのかな?
 ハァ…どうでもいいことなのに、俺ってばどうしてこんなことに真剣になってるんだ。
 いや、何か考えていないと、せっかく蒼牙が話してくれようとしたことを邪魔しやがった不二峰に、果てしなく恨み言をブチブチ言いそうな気がするからなんだろう。
 俺、こんなに愚痴っぽくなかったし、物事にそれほど執着するヤツでもなかったんだけど…
 どうしたワケか、今の俺は、ひとつひとつがいちいち気になって、なんにでも当り散らしたくなるんだよな。そうかと思えば、急に泣きたくるし…どうかしてるよなぁ。
 まぁ、その辺のことも小手鞠たちに聞いてみようかな。
 いつもの登り慣れた山道をブラブラと歩いていたんだけど、ふと、小脇に入る、それこそ獣道のような細い道を発見して、どうせ何かすることもないんだ、興味本位だけでその道を探検するのも悪かないかな。
 高遠先輩たちの一行は、先ほどコソリと覗いた時には既に出発してしまった後だったのか、もう誰もそこにはいなくて、ただ忙しなく、珍しいことに眞琴さんが動き回っていて、その後を害がありまくるってのに、まるで無害な小動物みたいにクルクルと繭葵がついて回っているだけだった。
 だから、もう本当に、高遠先輩たちはあのまま、この村を去ってしまったんだと寂しくなっていた。
 蒼牙や繭葵が言うように、先輩たちは自分から好きでこの村に来て、取り返しのつかない罰を受けて帰っただけなんだろうけど、それでも、俺はそんな先輩たちを放ってはおけなかった。
 だからと言って、何ができるんだと聞かれても、やっぱり蒼牙たちが言うように、結局、何もできやしないんだ。
 溜め息を吐いたと同時に、ポロリ…ッと、頬を涙の粒が転がり落ちていった。
 何時の間にか涙腺まで弱くなっていて…まるで、自分自身が内側から奇妙に捩れて、変わっていくような錯覚がして不安になっていた。
 こんなのは俺らしくないって言うのに。
 はぁ…と溜め息を吐いていたら、ボソボソと何か声を潜めている話し声が聞こえた。
 大方、この山の聞かせる、お馴染みの空耳だろうと肩を竦めたんだけど…俺はその空耳が気になって、何処から聞こえているのか探ることにしたんだ。
 だって、その声が…俺が良く知っている蒼牙と、不二峰のものだったから尚更だってのは仕方ねーだろ?
 この辺りはどのヘンなんだろう?と、首を傾げながら藪を掻き分けるようにして進んでいると、空耳だとばかり思っていた話し声がだんだん近付いてきているのか、声が大きくハッキリ聞き取れるまでになっていた。

「…なんのつもりだ?直哉が待ってるんじゃなかったか??」

 蒼牙の声は低くて、少し不機嫌そうだった。
 それに相反するように不二峰の声は機嫌がいい。

「知っていて、来たのではないのかな?」

「…ふん」

 漸く藪を掻き分けて覗いた先、俺は、あまりの衝撃に声を上げることも、目を逸らすこともできなかった。
 そこにいたのは、確かに蒼牙と不二峰だった。
 でも、蒼牙は着流しの胸元を肌蹴た姿で太い木の幹に押し付けられて、そうしている不二峰は呉高木家の威厳あるはずの現当主の腰を引き寄せながら、その顎に指先を当てて口付けをせがんでいる。
 コンナノハウソダ。
 どこかで空ろな声が響いて、それが俺の頭の中で信じられないと叫ぶ自分の声だと気付くのに暫くかかっている間に、不二峰の唇は不貞腐れている蒼牙の唇を塞いでいた。
 それは挨拶で交わすようなライトキスだとは到底思えない濃厚なキスで、蒼牙はあれほど嫌がっていたくせに、蒼牙の面立ちに良く似ている不二峰龍雅の背中に両腕を伸ばすと、まるで縋り付くようにして抱き締めやがったんだ。
 吐き気がする。
 これは嘘だと、誰か肩を叩いてゲラゲラ笑ってくれよ。
 何が起こっているのか…もう、何がなんだか。
 いや、キスだけだったら、俺だってこんなに動揺はしないさ。
 蒼牙は…亡き祖父と養父に犯されていたんだと、眞琴さんの手紙で知っていたし、どうも不二峰とは只ならぬ関係だったんじゃないかって、鈍い俺だって邪推ぐらいしていたからな。
 実際に、2人のキスシーンを見てしまったからと言って、ここまで自分がショックを受けるとは思ってもいなかったんだけど…それでも、立ち直るだけの根性ぐらいはあったさ。
 その言葉を聞くまでは…

「…ッ、相変わらず色っぽいね」

「フンッ、貴様も相変わらず減らず口が多いな」

 蒼牙の双眸は濡れたように妖艶に煌いていて、その顔はまるで女のように艶を帯びていた。
 ともすれば蒼牙は、そのままそうして立っていれば、日頃のキリリとした男らしさがまるで嘘のように、憂いを秘めた妖艶な美女のようなんだ。
 これは…どう言うことだ?
 あの蒼牙が、女に見えるなんて!俺はどうかしてる。
 こんなシーンを見てしまったからかもしれないけど…

「こんなにも心も身体も私を求めているのに…そんなに、楡崎の血が必要なのかい?」

 不二峰は、横顔しか判らないけど、酷く寂しそうに呟いたんだ。
 …え?『楡崎の血』??
 濡れた唇を親指で撫でられて、まるで女のように誘う眼差しで蒼牙はうっとりと不二峰を見上げたけれど、その口調はまるで不似合いなほど厳しかった。

「もう決めたことだ。我が呉高木には楡崎の血は掛け替えのないモノだ」

「その為に、私を諦めて君は男であることを選ぶのか…?」

「…アンタが先に裏切った。あの日から俺は、呉高木の当主になることを決めた。今更だ」

 不二峰の指先を弄うように首を振ったけど、その指先は所在をなくしたまま、蒼牙の首筋をゆっくりと辿った。
 目尻を朱に染めている、この世のものとは思えないほど淫らで、妖艶な雰囲気を醸し出す蒼牙に、不二峰は押さえ切れないと言った感じで激しく掻き抱くと、その首筋に唇を這わせた。
 その感触を感じながら蒼牙は、淫らに濡れ光る双眸で天を仰いだまま、どこか痛そうな表情をして下腹に指先を這わせる不二峰の背中に回した両腕に力を込めた。

「…楡崎の血の為だけに君は、望まない婚姻を結ぶのか」

「光太郎は…」

 自分の名前が出て思わずギクリとしたけれど、蒼牙のなんとも言い表せない複雑そうな、自嘲的な双眸を見てしまったら、俺は泣きたくなっていた。

「思う以上に優しい。光太郎となら俺は、きっと生きていける」

 心を隠したままで?
 不二峰はそんなことは言わなかったけど、俺は、愛し合う2人を見つめたまま気付いたら両目から静かに涙を零してそんなことを思っていた。

「呉高木の為だけに、その生涯を捧げるんだな」

「それは大袈裟だよ、龍雅」

 蒼牙は自嘲的に笑ったけど、大袈裟じゃねーじゃねーか。

「これは、俺が心から望んだことだ」

 キッパリと言い切って、蒼牙は挑むような、えらく色っぽい双眸をして不二峰の頭をガシッと引っ掴んで言った。
 その言葉を聞いて、不二峰は、あれほど不遜そうに見えたあの蒼牙に良く似た面差しの男は、どこか痛いような顔をしてギュッと双眸を閉じると、蒼牙の身体をこれ以上はないほど愛おしげに抱き締めたんだ。

「これで最後だ。『女』としてアンタに抱かれるのは」

 ゆっくりと肌蹴られた着物の裾からすらりと伸びた足の付け根には、ちゃんと男としての象徴がぶら下がっていた…でもその奥に、俺は信じられないものを見ていた。
 蒼牙の下腹部には、『女』の器官もあったんだ。

 そうか、蒼牙は両性具有だったから、最後まで俺を抱かなかったんだな。
 そんなどうでもいいことを考えながら、気付いたら俺は、ボタボタと涙を零して山道を彷徨っていた。
 呉高木の家に帰る気にもなれないし、こんな顔で小手鞠たちに会う気にもなれない、だから、俺は時間なんか腐るほどあったから、トボトボと龍刃山を彷徨うことにしたんだ。

(楡崎の血の為だけに君は、望まない婚姻を結ぶのか…)

 不二峰の言った言葉が脳内にリフレインして、そうなると俺の涙は比例するようにさらにボタボタと零れ落ちる。
 あの言葉を聞いても蒼牙は、それを否定しなかった。
 蒼牙の心はきっと、十数年前から不二峰のモノだったんだろう。
 どう言った理由でかは判らないけど、不二峰は蒼牙を裏切ってこの村を出て行ってしまったんだろうな。
 だから蒼牙は、その胸の奥に不二峰への気持ちを隠して、当主になる為に…『楡崎の血』を持つ俺を娶って暮らすつもりなんだ。
 そんなのは悲しいよ、蒼牙。
 俺を愛してくれとは言わないけど、心を隠したまま、愛しているようなふりをされるのは、嘘を吐かれるよりも辛いよ。
 俺の血でよければ、そんなことをしなくても幾らでもくれてやれるんだけど、きっとあの意味はそんなことじゃないんだろう。
 どうしよう、俺は…こんな心のまま、蒼牙の花嫁にはなれない。

「きゃぁ!」

 涙で視界が滲んでいるせいで、何が起こったのかだとか、目の前に何があるかだとか、そんなことは気にもならない心境だったからか、俺は誰かに思い切りぶつかったって言うのに、そのまま無視して行こうとしちまった。

「こ、光太郎さん?!ど、どうなさったんですか!」

 俺の腕を、思うよりも強く掴んで引き留めたのは…声だけを頼りにするなら、きっと小雛だ。

「小雛?」

「そうですわ!光太郎さん、そんなにお泣きになって…どうかなさったんですか?」

 自分に蒼牙の子供をくれと言った、気丈で…そして可憐な少女。
 俺は、ずっと蒼牙の花嫁は小雛か繭葵だって思っていた。
 でも、蒼牙の心は不二峰のものだった。
 それでも、この可憐で気丈な少女は蒼牙を愛せるのかな…

「小雛…蒼牙は、不二峰を…」

 そんなこと言うつもりじゃなかったのに、俺の口は驚くほど油を塗りたくったようによく滑った。
 小雛が差し出してくれたハンカチで涙を拭いながら、そう声に出してしまえば何故か涙が溢れてくるから、必死で耐えて小首を傾げる小動物のように可愛らしい少女を見下ろしたら、彼女は殊の外、キッパリとした表情で力強く微笑んだ。

「ええ、知っていますわ」

「…知って?」

「はい。ほんの小さい頃、婚約者としてこの村に来たときに、ハッキリと蒼牙様に言われましたから」

「そう、だったん…ッ、だ」

 そうか、小雛は全てを知っていて、それでも蒼牙を愛しているんだ。
 俺には何一つ言わなかった蒼牙…お前にとって俺は、やっぱり借金の形ぐらいでしかなかったんだろうなぁ。
 俺は、彼女ほど割り切れないし、心を隠したままの蒼牙の傍にいられるほど、肝っ玉も据わっちゃいない。
 はは、なんだ、結局簡単な話なんじゃねーか。
 元鞘におさまるべきなんだよ、蒼牙。
 『楡崎の血』なんつー、得体の知れない迷信に振り回されて、生きていくのなんか味気ないだろ。
 だから、だから俺は…

「小雛…呉高木蒼牙の花嫁は君が適任だよ」

「え?」

 小雛は驚いたように、まるでお人形みたいな顔で信じられないとでも言うように長い睫毛が縁取る大きな双眸を見開いて俺を見上げてきた。
 大の大人の男が、ボロボロ泣きじゃくりながら言う台詞でもないんだけど。

「俺は降りる。晦の日に村を出るから、それまで隠れておける場所を直哉さんに教えて欲しいんだ…ッ」 

 涙が止まらないからいまいち信用がないだろうけど、このまま何処かに行ってしまいたいんだよ。
 何処かで静かに泣きたいし、アイツを諦めたいんだ。

「光太郎さん…」

 小雛には悪いんだけど、きっと俺じゃなかったら、蒼牙はこの『望まれていない』結婚を諦めるだろう。
 その時にこそ、なぁ、蒼牙。
 心なんか偽らずに、きっと、お前が一番好きなヤツと添い遂げるんだぞ。
 俺はチビのお前と約束したから。
 きっと守ってやるってさ。
 それがこの時なら、俺はお前を諦めることができる。
 蒼牙…
 きっと俺は、妙に大人びているくせに子供っぽい仕種が可愛かったお前を、愛していたよ。
 だから、今度はちゃんと、大人として俺が行動を起こさないといけないよな?
 今ならきっと言える。 
 さようなら、蒼牙…

第一話 花嫁に選ばれた男 14  -鬼哭の杜-

 食事を終えた連中は銘銘、好き勝手に広間を後にしたんだけども、俺と繭葵はその場に残っていた。
 この屋敷の主である蒼牙は、食事を終えるといつも決まって仕事部屋として遣っている離れに行ってしまうし、だからと言って部屋に戻るのも面白くないから、ただなんとなくブラブラと残っていたんだけど、繭葵のヤツも釣られたように残ることにしたようだった。

「ボクね、知っているんだよ」

「へ?何をだよ」

 つーか、突然どうしたって言うんだ?
 首を傾げる俺に、繭葵のヤツは女の子だってのに腕を組んで仁王立ちしたままで、フフンッと笑いながらチラリッと俺を横目で見ると肩を竦めやがったんだ。
 なんだよ、その態度はよー

「光太郎くんがここに残った理由。あの先輩が心配なんでショ?」

「…あー、まあな。やっぱ、高校の頃は世話になったし、あんなの異常じゃないか」

 そりゃあ、この村では尋常なことが異常であって、異常なことが尋常なのかもしれないけどなぁ…
 それでも俺は、このまま先輩を帰してしまうのは、なんだかとてもよくないことのような気がして、正直気が気じゃなかった。
 だから繭葵のヤツに、「んっとに、お人好しなんだから」と言われたとしても、反論するよりも先に足が勝手に動き出していた。

「待ってよ、大丈夫!この繭葵さまも一緒について行くよん♪」

 別についてこなくていいっての。
 お前の場合、そこに居るだけで蓮の花が咲いたような清廉でたおやかなイメージの小雛と違って、そこに居るだけで常に風が吹き荒れ、おっさんの鬘が吹っ飛んでいくようなイメージがあるんだよな。だから、厄介ごと以外の何ものでもないんだけど…でも、それでも俺が繭葵を連れて歩くのは、それなりにこの村にまだまだ馴染めていない証なんだろう。

「光太郎様」

 ふと、名前を呼ばれて振り返ったら、なぜか俺よりも遅くに歩き出したくせに少し先を進んでいた繭葵も、その凛と澄んだ、耳に心地良いバリトンの声音に足を止めて振り返ったようだ。

「光太郎様、どちらに行かれるのですか?」

「あ、桂さん…」

 そこには寡黙な面差しの桂が、淡々とした、感情の窺わせない表情をして立っていた。
 そう言われてみたら、桂とも長いこと会っていないような気になってしまったけど…あんまりイロイロなことが一度に起こるからさぁ、俺の、それでなくても自信がない脳みそがそろそろ悲鳴でも上げそうだ。

「えーっと、先輩たちが今日帰っちゃうからさ。その、挨拶にでも行こうかって」

「…左様でございますか。ですが、光太郎様。差し出がましいことを申し上げますが、高遠様は光太郎様を快く思われてはいないように存じます」

 確かに、桂の言う通りなんだけど、それでも俺は、無表情のままでも心配してくれているんだと判る桂の見掛けによらない饒舌な双眸を見詰めたままでニコッと笑ったんだ。

「ありがとう、桂さん。でも、これは俺の問題だし。何より、先輩には高校の頃にお世話になっているから、せめて最後に挨拶ぐらいはしておきたいんだよ」

 もう、この先いつ会えるか判らない…いや、恐らく俺は、この村から出ることなく、蒼牙と一緒にこの村の土に還るんだろうから、これがきっと最後になるだろう。それなら、あんなおかしな状態になっている先輩をそのままにして別れることなんて到底考えられなかった。
 俺の意志の強さを見て取ったのか、それでも桂は、無表情だったくせに眉根を僅かだがソッと寄せて、何か言いたげに開きかけた口を引き結んでしまった。
 完璧な執事の鑑のような桂は、余計なことなどは一切言わないんだけど、その微かに不機嫌そうな双眸が不平を雄弁に物語っている。
 いつもはこんな感情、絶対に見せない人なのに、どうやらよほど先輩は嫌われてしまったらしい。
 それも仕方ないか、あの人は村人の前でも平気で俺を罵るんだから、この村の絶対的君主である蒼牙の花嫁である俺を、悪し様に言う高遠先輩はこの村では嫌われて当然なのか。
 もちろんそれは、俺のためじゃない。
 蒼牙の心を慮っているのが手に取るようによく判る。
 桂にとって蒼牙は、やはりこの村と同じように、なくてはならない存在なんだろう。
 そんな蒼牙に愛されて俺は、心の辺りが擽ったくて思わず笑っていた。

「如何なさいましたか、光太郎様?」

 ふと、表情こそ変えないが、怪訝そうに訊ねてくる桂に、俺はなんでもないんだと首を左右に振って見せた。

「いんや、なんでもないよ」

「…申し訳ございません」

「へ?」

 突然謝られてしまって、俺は慌てて頭を下げる桂の腕を掴んでいた。
 一瞬だったけど、桂の身体が強張るのを感じて、俺は慌てて腕を離してしまった。
 …どうやら俺も、相当嫌われちまったのかなぁ。
 そ、そうだよな。蒼牙を罵る高遠先輩を気にかけてるんだ、桂に嫌われるのも無理ないのか。
 それはちょっと、いやかなり、嫌なんだけど…

「申し訳ございません」

 今度はもう少しハッキリと俺に謝る桂に、俺はもう、ワケが判らずに首を傾げてしまった。

「何を謝ってるんだよ、桂さん。俺、別に桂さんから謝られるようなことはされていないぜ?それどころか、俺の方がお世話になりっぱなしなのに!」

 桂の言いたいことが判らなくてその両手を掴んで顔を覗き込んだら、あの、いつもの無表情な顔のままで覗き込む俺の双眸を、ほの暗い双眸で見下ろしてきた。情熱だとか、感情だとか、そんな人間らしい気持ちを身体の内側に隠して、桂はどこか痛いような表情をしたままで目線を伏せてしまった。

「申し訳ございません、光太郎様。差し出がましいことを申し上げてしまいました、どうぞお聞き流しくださいませ」

 その台詞は、いつか聞いたことがある。
 あの時も、寡黙に黙り込んでいた桂は、無言のままで優しかった。

「だから、気にしてないって。桂さんはいつもそうだな」

「…はい?」

 俺は思わず笑ってしまった。

「そうやって、いつも陰ながら俺を見守ってくれてるんだよな。俺、きっとこれから先も、桂さんに迷惑掛けっぱなしで、それで、またそうやって謝らせてばかりいるんだろうな」

「とんでもございません、私はとても、とても…」

 無表情のままで慌てた様子さえ見せない桂は、それでも彼なりに精一杯慌てたように口を挟もうとして失敗した。だから余計、俺はそんな桂を好きになってしまう。

「とんでもないこともないんだ。これから、きっとずっとなんだぜ?それでも俺は、たぶんやめられないと思うし、桂さんを冷や冷やさせっぱなしかも知れない。だから、こんな俺だけどさ、見捨てずにこれからも宜しく頼むよ」

 そう言って離していた片手を差し出したら、桂はぼんやりと俺の差し出している手を見下ろして、それから何か、なんとも形容のし難い表情をして俺を見たんだ。

「…光太郎様。そのお言葉はもしや、この屋敷から、いいえ、この村から出て行かれないと仰っておいでだと認識しても宜しいのでしょうか?」

 恐る恐ると言った感じで訊いてくる桂に、ああそうか、俺はまだこの人に蒼牙と結婚する決意をしたんだと教えていなかったんだっけ?きっと、誰よりも喜んでくれるはずなのに、俺ってヤツは…大事な人を忘れるなんてどうかしてる。

「ああ、もちろん!桂さんや蒼牙が嫌だって言っても、ここから出て行くつもりなんてないよ」

「こ、光太郎様、それは、あの、蒼牙様の花嫁様にお成り遊ばすと…」

 こんなに動揺している桂を見るのは初めてだったし、そんな風に動揺されてしまうと、却ってヘンに緊張してしまうんだけども…うは。

「あれ?俺は最初から、蒼牙の花嫁だったんじゃないのか??」

「も…勿論でございますとも!も、申し訳ございませんッ」

 慌てて頭を下げる桂の動揺ぶりに、これ以上からかうのもなんだか気が引けてしまって、俺は深々と頭を下げようとする桂を慌ててとめて、それから、先輩たちの出発の時間が迫っていることを伝えてその場を後にすることにしたんだけど…桂は、それでも満足げに、それから嬉しそうに「お気をつけて」と言って見送ってくれたんだ。
 蒼牙の花嫁は俺しかいないと、熱っぽい眼差しで宣言してくれた桂は、今もそのつもり十分の歓喜に満ち溢れた無表情で頭を下げると、いつまでもその場に佇んでいるようだった。
 そのうち、鼻歌とか歌いだしたりして…う、それはちょっと…見てみたいぞ♪

「…プププ」

 不意に、思わずと言った感じで噴出した気配に、俺はそう言えば、繭葵のことを忘れていたとハッと我に返って傍観者に徹していた根性悪の妖怪奇天烈娘を見下ろして…思わず腰が退けそうになった。
 だって繭葵のヤツ、ニヤニヤ笑ってやがるんだ。
 コイツがこういう顔をする時ってのは、大概、何か良からぬことを考えているか、どうでもいいことに思いを廻らせているときだって決まってる。

「な、なんだよ?」

 だから、わざと不機嫌そうに唇を尖らせて促せば、繭葵は馬鹿にしたような目付きをしてフンッと鼻なんか鳴らしやがるんだ。
 うう…根本的な部分はきっと、嫌なヤツなんだろうなと眉を寄せれば、繭葵は肩を竦めて笑うんだ。

「あーあ、桂さんもお気の毒だね」

「は?何がだよ」

「気付かない?ふーん、それもいいけどさ。あんまり桂さんを苛めたらダメだよ」

 あ、ははーん。

「桂さんをからかったのは確かに悪いと思うけど、さっきは見て見ぬ振りしてたくせに注意するだけなんて性格悪いぞ」

「へ?からかう…って、なんだ」

 不意に繭葵のヤツがジトッとした目付きで胡乱に下から覗き込んできたもんだから、俺は思わずギョッとして仰け反ってしまった。
 な、なんだよ、その目付きは。

「性格悪いのは光太郎くんだよ。純情なオトコゴコロを弄ぶと、後でひっどい目に遭っても知らないからね」

 フンッと鼻を鳴らして冷やかに顎を上げるようにしながら俺を見上げた繭葵は、それはそれは冷たく言い放ってくれたんだけど、なんで俺が桂さんの男心を弄ぶんだよ。
 あの人の場合は、常に顔の筋肉なんざ動かしたことなどございません、ってな感じの完璧なポーカーフェイスだからな。それを引っぺがして、人間らしい素顔を見てみたいと思うのは煩悩抱えた人間なんだから仕方ないじゃないか。
 …って、ん?
 やっぱ、俺って性格悪いのか?そうか、そうだよな。
 トホホホ…

「なんだよぉ、別にただ単に、蒼牙との結婚を前向きに考え始めましたって伝えただけじゃないか」

 俺なりの凄い進歩なんだぞ。
 ブツブツと悪態を吐いていたら、少し前を歩いていた繭葵が呆れたように肩越しに振り返ったんだ。

「あっきれたなー、驚くべき鈍感!野郎だねぇ、君も。これじゃあ、蒼牙様は眉間に一本刻んだ縦皺を消すことなんて一生不可能だね」

「…どーして、俺はお前にそこまで言われなきゃならないんだ?」

 思わず胡乱な目付きでジトッと睨むと、繭葵のヤツは苦笑しながら肩を竦めて首を左右に振りやがる。まるで、俺はしょうがないヤツだなぁとでも言いたげに。
 くそー、ますますムカつくんですが。

「光太郎くんは早く蒼牙様のお嫁様になるべきだね。それで、蒼牙様にたくさん愛されて、それから、誰かを愛するってことを学ぶべきだよ」

「…はぁ?」

 こう見えても俺は、今はその、ちゃんと蒼牙をあ…あい、して…愛してるんだぞ!
 よし、言えた。でかした、俺。
 まあ、面と向かって本人とか繭葵とかには言えないけど…それでもちゃんと、誰かを愛することぐらいできるって!蒼牙以前に想っていた人たちはみんな、片思いだったってことはこの際内緒だけどな。

「光太郎くんは確かに優しいんだけど、その優しさが仇になることだってあるんだ。愛することを覚えればさぁ、優しさに思わず縋り付きたくなる人たちの気持ちとか、邪な想いを秘めて近付いてくる妖しげな連中の思惑にも少しぐらいは気付けるようになると思うけど?」

「…よく、意味が判らんのだけどな?」

「あーもう!ボクだって判らないってッ。どうしてこう、いつもボクは光太郎くんにレクチャーしなきゃいけないんだろうねぇ?花嫁候補と花婿よりも、一番年長さんなのにさッ」

「う!」

 思わずクリティカルヒット級のボディーブローを食らったような気分になって蹲りそうになった俺を、今度は本気で蹴りを入れてきながら「何してんだよ!?」と悪態なんか吐いてくれる。

「蹴るな!」

「うっさいなー!君は身体に教えないと判らないタイプだもんねッ」

「なんだとコンチクショー!!」

 クワッと、思い切り向こう脛を蹴られた痛みで本気の涙目になった俺が両目をむいて掴みかかろうとしたその瞬間、俺の背後で忍び笑いが響いたから驚いた。
 もちろん、繭葵とのこんなじゃれ合いは日常茶飯事で、繭葵自身はいつだって本気で蹴っては来るんだけど、その言動はどこか惚けてて、その表情は思い切り笑ってやがるからな。いや、そんなこた今はどうでも良かったんだ、それどころじゃない、いったい誰が盗み聞きしてたんだ?
 ハッとして振り返ったら、不意に繭葵のヤツがズイッと俺を庇うようにして前に出たから、更に吃驚してしまった。
 おいおい、俺ってばどれだけ弱いと思ってるんだ??
 一応、いくら妖怪爆裂娘とは言え、繭葵は女の子だから優しくしてるんであって、たとえもし先輩だったとしても容赦はしないってのになぁ!

「いや、失礼。話し声が聞こえたものでね」

 俺がムッとしながら繭葵に何か言おうと口を開きかけた時、ちょうど、廊下の曲がり角になっていて、死角だった場所から姿を現したのは、蒼牙の面立ちに良く似た不二峰だったから驚いた。

「ふぅーん?それでわざわざ隠れてずっと聞いてたの?」

「へ?」

 俺がキョトンッとして繭葵を見下ろすと、彼女は「そらみろ、やっぱり鈍感だ」とでも言いたそうな顔をして横目だけでチラッと見上げてきただけだった。

「おやおや…そこまで気付いていたのか」

「あっはっは。隠れてるつもりだったんだろうけど残念でした!ボクは勘だけはぴか一なんだ。光太郎くん、これってやっぱ、霊感・ヤマ勘・第六感?」

「はぁ?何言ってんだよ」

「…ククク、おっと、これはまた失礼。君たちはお似合いのカップルだね」

 何気なく不二峰に言われて、俺と繭葵は思わずと言った感じで顔を見合わせてしまった。
 蒼牙の顔に良く似た不二峰にそんなことを言われてしまうと、俺としてはなんだか、ちょっと納得できないモノがムクリと胸の奥に沸き起こるんだけどな。
 繭葵は繭葵で、蒼牙に似ているその顔から、蒼牙がけして言わないだろう言葉を、それこそ良く似た声で言われてしまって、どうも居心地が悪いような、嫌な気分に襲われたようだ。
 綺麗に整えている眉が露骨にキュッと、寄ってしまったからな。

「どうでもいいけど、ボクたち急いでるんだよね。用がないのならもう行ってもいいかな?」

「え?ああ、それは勿論だよ。引き止めてしまって悪かったね」

「どーいたしまして。さ、光太郎くん。行こう」

 そう言って強引に腕を引っ張って歩き出す繭葵に促されるままに、不二峰に、どうも一応はこの家に縁のある人物らしいから、仕方なく軽く頭を下げて行こうとした俺の背中に、ヤツは、蒼牙に良く似た声で言ったんだ。

「蒼牙は本当に君を愛しているのかな?」

 ブリブリと腹立たしげに歩いていた繭葵には聞こえなかったのか…でも、その声はちゃんと俺の鼓膜には届いていたし、慌てて首だけを回して肩越しに振り返れば、蒼牙に良く似た男らしい双眸を細めながら、意味有りげに口許を歪めて笑いやがったから…絶対に空耳なんかじゃねぇ!
 ムッとして遣り返そうとしたものの、繭葵の圧倒的な引きの強さに引っ張られちまって、結局俺は、仕方なく先輩の部屋まで引き摺られて行く破目になった。
 それでも俺の体内では、僅かに散った有毒な塵が、確かに少し降り積もっていた。
 それはほんの少しだけど痛みを伴って、それから、静かに鳴りを潜めてしまったんだけど…
 どうして不二峰が言ったぐらいの言葉を、あんなにここにいる間、一度だって会ってこともないヤツに言われたからって動揺してるんだろう。
 俺は…よく、判らない。
 こんな気持ちは初めてだ。

 自分でも侭ならない鬱陶しい気持ちを抱えたままで、俺と繭葵は帰り支度をぼんやりしている高遠先輩の部屋に声を掛けて入っていた。
 声を掛けた時点で、普段の高遠先輩ならけして俺たちを部屋に招き入れようとは思わないだろうに、そのときの先輩は抑揚のない声で「ああ」と言ったきりだった。
 やっぱり、おかしい。
 こんな先輩は絶対におかしい。

「先輩!いったいどうしたって言うんですか?俺です、楡崎光太郎です。ちゃんと、理解していますか??」

 そんな話、素面で聞けば馬鹿にするなと言って怒鳴られるに決まってるってのに、俺は覚悟してそう言ったんだけど、先輩は何処を見ているのか、少し虚ろな視線でサラッと俺たちを見てから、それから何事もなかったかのように機械的に荷物を片付け始めたんだ。

「せ、先輩。ど、どうしたって…先輩、俺ですよ!?楡崎です!」

 思わず先輩の肩を掴んで、あれほど、山男みたいだと言って俺が笑えば、満更でもなさそうな顔をして喜んでくれていたあの力強い高遠先輩は、まるで腑抜けた老人のような虚ろさで、俺が揺さぶれば素直にそれに従うような有様だった。

「先輩、嫌だ。どうしたって言うんですか!?いつもの、あの威勢を取り戻してください!俺のこと、ホモでもオカマでも構わないから、何か言って怒鳴ってくれよッ!!」

 その肩を掴んで、俺を見ようともしない俯き加減でぼんやりしている高遠先輩を見ていたら、いきなり急激に不安になって、俺は堪らずにその力すらも失くしてしまったかのような高遠先輩の身体を抱き締めたんだ。
 良ければ殴ってくれと、気持ち悪いと言って振り払ってくれと…この異常事態に、俺自身、不安に押し潰されそうで叫びだしたかった。

「…光太郎くん」

 言葉もない繭葵が、痛ましそうにそんな俺を見詰めてくる。
 ああ、繭葵。
 どうしよう、先輩が壊れてる。
 俺が抱き締めたら、先輩の肩が一瞬だけビクリと震えたから、突き飛ばしてくれるもんだとホッとしたってのに…先輩は、それ以上はなにもせずに、ぼんやりと背中を丸めて、胡坐を掻いたままで俺の成すがままになっちまってるんだ。
 こんなの、信じられない!

「ま、ゆき。どうしよう、先輩が壊れてしまった。こんな状態の先輩を、俺は帰せないよ」

「…こ、光太郎くん。でも、でも先輩は帰る用意だって1人でできてるし、反応こそおかしいけど『普通』に見えるんだ。どうしたらいいんだろう!?」

 繭葵も、俺の悲痛な気持ちを痛いほど判ってくれているから、目の前で起こっている異常な事態を理解して、なんとか解決策を練ろうとしてくれているようだったけど、やっぱりそれは無理だった。
 そりゃ、そうだよな。
 繭葵は俺より年下なんだ、なのに、年上の俺が泣いてるなんてのはおかしい。
 この村に来て俺、いったいどれほどこんな経験をしたんだろう…もう、俺の方がおかしくなりそうだ。

「せ、先輩を病院に連れ行く。蒼牙だって、少しぐらい村から出るのを許してくれるに決まってるさ」

 無理に笑いながら言ったら、繭葵は痛々しそうに眉根を寄せて何か言おうとしたんだけど、うまく言葉にならなかったようで、俺の名前を呼ぶぐらいでコクンと息を飲むようにして言葉を飲み込んでしまった。
 重苦しい沈黙に押し潰されそうで、俺は先輩を腕の中に抱き締めたままで、なんとか蒼牙を説得してみようと思い始めていた。
 その矢先に…

「病院だと?笑わせるな。鬼哭の杜の亡者に魂を喰らわれた人間が、病院なんかに行って治ってしまうなどと、まさか本気で思ってるワケじゃないだろう」

 スッと、音もなく障子を開けた青白髪の美丈夫が、高遠先輩の頭を胸に抱き締めたままで途方に暮れてへたり込んでいる俺を見下ろして、一瞬だがピクリと眉尻を震わせた。
 どうも、その眦の上がりようからは、かなり怒っているようだ。
 でも、今の俺にはそんなこと気にする余裕すらなかった。

「え?え、なんて?今、なんて言ったんだ??き、鬼哭の杜の亡者?に、魂を喰われた…?」

「そうだ」

 入り口付近にいた繭葵を押し退けるようにしてズカズカと入ってきた蒼牙は、眦を釣り上げたままで俺の腕を無造作に掴むと、そのままグイッと引き上げて先輩から引き離されてしまった。

「アンタはいつからそんなに誰彼無しに抱きつくようになったんだ?」

「なに、言ってんだよ!先輩が、高遠先輩が壊れてしまったんだッ。俺は彼を病院に連れて行くから、だから、お願いだから行かせてくれッ」

「ダメだ」

 俺は、俺なりにこれ以上はないってぐらい渾身の力を両目に込めて、蒼牙に縋るようにして見上げたままで懇願したって言うのに、青白髪のやたら男らしい浅黒い肌を持つ山から降りて来た鬼のような男は、そんな俺を冷めた双眸で見下ろしながら即答で却下しやがった。

「何度も同じことを言わせるな。その男はあの日、あの場所で鬼哭の杜の亡者どもに魂を喰らわれた懺骸者(ザンガイシャ)だ。医者や祈祷師などが束になって何かしようとも、最早、その男をこの世に連れ戻すことなどできやしないだろうよ」

「そ、蒼牙…俺にはよく、判らない」

「俺は、アンタにも、そしてそこにいる先輩とやらにも言わなかったか?この村の禁域には立ち入るなと。ましてや、鬼哭の杜を舞う日に、あの場所に来るなど狂気の沙汰じゃない。忠告したはずだ、なぁ?繭葵」

 キロッと、双眸だけを動かすような器用な真似をして、蒼牙は部屋の隅で、今までで一度だってそんな姿を見せたことがないって言うのに、蒼牙の圧倒的な威圧感に気圧されてしまった繭葵は、青褪めたままで怯えたように竦んでいたんだ。

「違う!あの場所に行こうと言ったのは俺だ!罰するなら、俺を罰すればいいだろ!?いつだって受けて立ってやるから、今は、そんなことよりも先輩を…ッ」

「ククク…相変わらずアンタはお人好しで優しいな。アンタのそう言うところが、俺は愛しくて堪らない。その優しさを、村人たちにも隔てなく分けてやるんだぞ」

 アンタは、俺の花嫁だから…まるで呟くようにそう言ってから、怖い顔をしたままの蒼牙は問答無用で容赦なく、都会育ちの俺の抵抗なんかものともせずに抑え付けるようにしてキスしてきたんだ。

「ん!…ぅ、うう…ぃ、嫌だ、蒼牙!こんな所で、こんな場所で!何を考えてやがるんだッ」

「特に何も?考える必要などなかろうよ。先輩はもう、お帰りの時間だ」

 キスの合間に馬鹿にしたように蒼牙がそう言うと、まるでその言葉にだけ反応したように、高遠先輩はふらりと立ち上がると、そのくせ、確りした足取りで虚ろなまま部屋から出て行こうとしたんだ。

「せ、先輩!んぅッッ!…ちょ、やめ、…ほ、本気でやめねーと婚約破棄するぞ!!」

 殴っても蹴っても俺を離そうとしない蒼牙に、業を煮やしてしまった結果として喚いた言葉だったんだけど、それが思う以上の効果を奏したようで、青白髪の鬼っ子野郎はムッとしたままでキスだけはやめてくれた。
 うん、キスだけは…って!この腕も離さねーか!!

「俺と先輩とやらを天秤にかけるつもりか?存外に強かだな」

 ムスッとしたままのクセに、口許だけはニヤリと笑って、怒ってるんだぞと蒼牙のヤツが底冷えするようなほの暗い、陰を潜めた双眸で睨み据えてくるから…思わず腰が抜けそうになったってことはこの際無視して、それでもその目を睨み据えたままで抗議できた俺も天晴れだ。
 6歳も年下相手にビビッてる段階で終了だとは思うけど…ガックリ。

「天秤とかそんなんじゃねーだろ!蒼牙は蒼牙で、先輩は先輩だ!それに、先輩は今はああでも、高校の時にはお世話になった人なんだ。こんなことで、先輩がどうかなるなんて…」

「だが、アンタのせいじゃない」

「で、でも…」

 蒼牙は強情に言い張ろうとする俺を呆れたように溜め息を吐いて見ていたけど、仕方なさそうにギリッと釣り上げていた眦と眉尻を下げてしまって、やれやれと俺を抱き締めたままで繭葵に振り返ったんだ。

「悪いが繭葵、高遠さんたちを見送ってくれ。香織とか言ったか、あの娘も懺骸者になっているからな。大方、由美子たちが手を焼いているだろう。眞琴に言えば大人しくなる」

「う、うん、判ったよ…でもあの、あんまり光太郎くんを責めないであげて欲しいんだ」

「…責める?この俺が??ハッ、おかしなことを言うな、繭葵。却って俺の心配こそして欲しいもんだな。さあ、行け」

 ほぼ、命令するように語尾を強めた蒼牙に恐れ戦いたのか、ビクッとして、まるで小動物みたいに踵を返した繭葵だったけど、チラッと、心配そうに振り返ってから、仕方なく行ってしまった。

「さて、これで2人きりだ。弦月の儀も終わり、禊の儀も終わった…残すところはあとひとつ、晦の儀だけだが…知っているか?晦の儀までの間は、花婿は花嫁の純潔を奪っても、最早咎められはしないんだぞ」

「そ、そんなこた知らねーよ!そんなことよりも、先輩を…ッ」

 思わずムッとして睨んだら、蒼牙のヤツから顎を思い切り掴まれてしまった。
 これで明日はまた、顎に痣ができちまうんだろうなぁ…

「そんなことだと?俺にしてみたら先輩こそ、そんなことよりも、だがな。彼は帰った。神聖なる神事を面白半分で覗き見したことに因る、大きな代償を抱えたままでな」

「だ、代償なら…俺だって抱えないといけないんじゃないか?俺も、あの場所にいたんだ…ッ」

 グイッと更に強く掴まれて、蒼牙は男らしい唇を歪めて笑うと苦しげに呻く俺を覗き込んできた。その目付きは、憎々しげ…というよりは寧ろ、苛立たしげだった。
 どうして自分の言っていることが判らないんだろう、きっと、蒼牙はそう思ったに違いない。

「あの場所にいて、アンタと繭葵は魂を喰らわれなかった。それがどう言う意味かまだ判らないのか?それは、鬼哭の杜の亡者どもが、アンタを呉高木家の花嫁として迎え入れたからだ」

「…鬼哭の杜は、呉高木家が代々護っている山だから?」

「そうだ。そして、繭葵はアンタの侍女だとでも勘違いしたんだろう。なんせ、千年も前の亡霊どもだ。いまさら常識を説いたところで理解などしやしない」

 壮大なのか、これはとんでもない茶番劇なのか…どちらにしても、俺には到底、そのどれもが納得のできる説明だとは受け止められなかった。

「判らない、蒼牙。もっと、もっと判り易く説明してくれ」

 思わず泣いてしまいそうになって、俺は蒼牙の着流しの胸元を掴むと、そんな情けない面のままで見上げていた。
 判らない、自分が何を考えているのかも、蒼牙が何を話そうとしているのかも。
 もっと、誰か、お願いだからこんな異常な状況を判り易く説明してくれ。

「…判った、この鬼哭の杜について、話してやろう」

 蒼牙は仕方なく呟いて、それから溜め息のようなキスをしてきた。
 掠めるだけのキスだったけど、どうしてだろう、俺は…その口付けに愈々泣きたくなっていた。
 もっとって、強請りたかった。
 それでも聞かないと。
 繭葵が言ったように、自分が嫁ぐ村のことぐらいはリサーチしないとな。
 せっかく蒼牙が話してくれるんだから、俺はこの村の一員として、この村で今何が起こっているのか、そして、先輩の身体に何が起こったのか…聞かなければいけない。
 その話を聞いたとしても、きっと俺は。
 蒼牙を愛して、この村に留まるんだろう…

第一話 花嫁に選ばれた男 13  -鬼哭の杜-

「むふふふ…」

 遅寝してしまった蒼牙が遽しく部屋を後にする直前、見送る俺を抱き寄せながら色気も何もない髪に唇を寄せて幸せそうにうっとりと瞼を閉じてキスしてくれてから、まるで夢見心地のまま別れて母屋に戻った俺を、不意に不気味な声が出迎えてくれた。
 な、なんだ!?
 慌てて振り返ったそこには、ジーンズに水色の爽やかなキャミソールを着ただけの繭葵が、ニヤニヤ笑いながら腕を組んで立っていた。

「離れから出てくるところバッチリ見ちゃったもんね♪…大丈夫みたいでよかったよ」

 強気で不気味に笑った繭葵だったけど、少しホッとしたように疲れの滲む暗い陰を睫毛の下に落とすようにして瞼を伏せると、小さく笑ったんだ。その顔を見ていたら、幸せな気分に自分だけ浸ってるのも悪いような気がして、慌てて昨夜のことを説明したんだ。
 だってさ、繭葵は聞く権利があると思うから。

「…そうだったんだ。うん、でもボクもその意見には賛成だよ。昨夜ね、眠れずにずっと考えていたんだけど、ボクも全く同じ気持ちで結論付いちゃったからそのまま眠っちゃったよ♪」

 あっけらかんと笑う繭葵に一瞬呆気に取られた俺だったけど、繭葵の吸い込まれそうなほど大きな瞳が潤んだように濡れているのを見てしまうと、同じような気持ちだと思い込んでくれている繭葵の気持ちが有り難かったし素直に嬉しかった。
 あんなこと、通常なら信じられずに、俺や蒼牙のことを気持ち悪いものでも見るような目付きになるって言うのに…繭葵のヤツは、そうはしなかったんだ。
 俺の弾き出した結論に一瞬の躊躇も見せずに、陽気に賛同してくれた。
 眠れてもいないくせに、眠ったんだと嘘まで吐いて。
 繭葵は強いと思う。
 力が強いとかそう言うことじゃなくて、精神的に、繭葵はきっと俺よりも強いと思う。

「俺、繭葵と出会えてよかったよ」

「ん?なに、当たり前のこと言ってるんだい?そんなの当然じゃないか!ボクを誰だと思ってるんだ、民俗学会期待の新星、大木田繭葵そのひとだぞ♪」

「あー、はいはい。俺が悪かった」

「はぁ?何で謝るワケ??」

 繭葵はキョトンッとしたようにうんざりしている俺を見上げていたけど、アイツらしい強気な笑みを浮かべると、フフンッと笑って嬉しそうにそんな俺の腕を飛びつくようにして抱き締めてきたんだ。

「やっぱ、蒼牙様には光太郎くんだよね!ボクさ、もうずっとそう思ってたんだ♪初めて光太郎くんを見たとき、違うか。光太郎くんを見ている蒼牙様を見たときピンッときたからね。やっぱ、アレでショ。恋する乙女の眼差しだったもん」

「ブッ!…ここ、恋する、お、おお、乙女ってッッ」

「…光太郎くん、動揺しすぎだよ」

 呆れたように笑いながらモチロン冗談だと見上げてくる繭葵を、顔を真っ赤にして見下ろしてしまう俺はどんな顔すりゃいいんだと泡食ってしまった。
 いや、冗談だってのはよく判ってるんだけど、笑えない冗談だって。

「でも、光太郎くん偉い!」

「…はぁ?」

 繭葵はウシシシッと笑いながら、勝気な双眸を細めてニヤニヤと笑っている。
 む、なんだよ?

「ボクね、悪いとは思ってたんだけど…きっとね、光太郎くんは逃げ出すんじゃないかって思ってたんだ」

「え?」

 ハッとして爆弾発言が大好物の妖怪娘を見下ろしたら、繭葵は仕方なさそうに笑ってから、申し訳なさそうにポツリポツリと語りだしたんだ。

「人殺し…には変わりないワケでショ?だから、普通の生活をしてきた光太郎くんにはキツイんじゃないかって思ってしまったワケだよ」

 うんうんと、1人で頷きながら言葉を重ねる繭葵に…って、おい。ちょっと待てよ。
 なんだ、その意味ありげな言い方は。

「まるで、普通じゃない生活でもしてきたような言い方だな」

「ククク…」

 え!?今、なんかヘンな笑い方しなかったか!!?

「…なーんつってね♪まあ、民俗学なんてものに携わっているとイロイロと起こってしまうワケですよ。そう言うことに慣れちゃってたからさぁ、ちょっとはビビッたけど、それでも一晩経てば冷静になれたんだ。でも、光太郎くんはそうはいかないでショ?」

「ああ、まあ、そうかな」

 だからね、と、繭葵は俺の腕に抱き付いたままで唇を尖らせるようにしてニヤニヤと笑っている。

「心配だったんだけど。でもまさか、光太郎くんが蒼牙様にプロポーズまでするなんて思わなかったから、偉い!って思ったってワケだよ」

「ああ、なるほど…って、おい!俺はプロポーズなんてッッ」

「あははは!しちゃってるクセに今更照れてるなんて大笑い♪」

 ぐはっ!
 思わず真っ赤になってしまう俺を意地悪く覗き込む繭葵だったけど、ちょっとっつーか、かなりホッとしたように勝気な双眸をやわらかく細めて、エヘヘッと笑いながらそんな俺を見上げている。
 ああ、でも本当に。
 俺はこの村で繭葵に出逢えて良かった。
 誰も知らない、何も頼れないこんな辺鄙な村で…唯一、最初から警戒心も無く接してくれたのは蒼牙と桂と繭葵だけだ。
 この3人には、ホントに感謝しないとなぁ…と思ってしまっても仕方ないんだろう。

「これから朝ご飯だよね?やっぱ、今日は玉子焼きとか出てくる…んん?」

「お前って食うことばっかな…ウワッ!?」

 和やかに談笑する俺たちの間に割って入るように、ふと伸ばされた腕はそのまま肩をやんわりと掴んできた。
 声は確かに似てるのに…

「君が蒼牙の婚約者なのかな?」

 少し大人びた声音は俺の頭上から降り注いで、腕に抱き付いていた繭葵のヤツはムッとしたように綺麗に整っている眉を顰めた。

「えーっと…どなた?」

 思わず、なんとも言えずにただただ訊ねることしかできない俺が胡乱な目付きで睨む繭葵を無視して背後を振り返れば、目線はもう少しズズィッと上に向けなければいけなくて、それでも見上げた先には朝陽を背にした美丈夫が静かな微笑を浮かべて佇んでいた。
 無造作に伸ばした髪は肩の辺りでキッチリと纏められているけど、蒼牙に良く似た眼差しを持つ男は、蒼牙にはないやわらかな栗色の髪と瞳だった。

「ああ、これは失礼。私は不二峰龍雅(フジミネ タツマサ)と申します。どうやら、朔の礼には間に合ったようですね」

 ニコッと穏やかに微笑まれてしまうと、ああ、蒼牙が大人になって落ち着きを持ったら…いや、今でも人前じゃあ充分落ち着いてはいるけど、こんな風に笑う大人になるんだろうと思える、本当に蒼牙に良く似た人だ。
 親戚なんだろうか?

「…ねね、光太郎くん。この不二峰さんってさ、蒼牙様に似てると思わない?」

 繭葵のヤツが全く俺と同意見をコソッと耳打ちしてくるもんだから、俺は思わず釣られて頷いてしまった。それを自分の質問の答えだと勘違いしたのか、不二峰と名乗ったこの美丈夫は、穏やかに双眸を細めて俺の顔をゆっくりと観察しているようだった。

「君は、蒼牙の理想にぴったりだね。子供の頃から話していた初恋の君にソックリだ」

「…え?」

 繭葵も獲物を見つけたハンターのように双眸をキュピィーンッと光らせて、「なんのこと?」と鼻息荒く次の言葉を待っているようだった。
 いや、不二峰さん。
 コイツにだけは蒼牙の知られざる過去話はしてやらないでください。蒼牙の為に、いや、繭葵自身の為に!!
 とは言え、俺だって知りたいじゃないか。
 蒼牙の初恋の相手が誰なのか…いや、たぶん。それは十三夜祭りの日に出逢った俺のことを言っているんだろうけど、それでも、人の口から聞いてみたいってのはただの惚気だったりするんだろうか??
 うっわ!俺、今何を考えちまったんだ。
 1人でアワアワしていたら、不二峰さんは婚約者の俺に余計な心配をかけてしまったかと一瞬眉を寄せたが、安心させようとでもしているかのように、困った顔で僅かに眉を寄せて笑ったんだ。
 そこら辺り、まだまだお子様の蒼牙とは全然違うんだけど…いつか、アイツもこんな風に、ジェントルマンな大人ってヤツになっちまうのかなぁ。

「ああ、これは余計なことを言ってしまったかな?どうか、気にしないでくれ。初恋の君とは言っても蒼牙がまだ5歳ぐらいのときに…」

「龍雅!…アンタ、呼んでもいないのに来ていたのか?」

 まるで余計なことは言うなとでも言うように、唐突に俺の背後から声がして、繭葵を腕にぶら下げたままで肩越しに振り返った先に青白髪の神秘的な髪を持つ、山から降りて来た鬼だってこんなに綺麗じゃなかっただろうって思えるほど、キリリとした男らしい面立ちの蒼牙が朝陽を浴びて立っていた。

「蒼牙…」

「やあ、久し振りだね。暫く見ないうちに大きくなった。だが、私を朔の礼に呼ばないとは悲しいじゃないか」

「アンタだから呼びたくなかっただけだ」

 あからさまに敵意を剥き出しにしている蒼牙のそんな態度は初めてだったし、仕方なさそうに微笑んでいる、蒼牙に良く似た面差しの不二峰さんがそれほど悪い人には見えないから、余計に蒼牙の態度が不思議で仕方なかったんだ。
 だから俺は、驚きを隠しきれずにチラッと繭葵と目線を交えてしまった。
 妖怪爆弾娘も吃驚していたらしく、俺の方をコソッと盗み見た後、何か面白い玩具でも見つけた猫科の猛獣のような獰猛さでニヤッと笑いながら事の成り行きを見守っているようだ。
 ううッ、悪趣味なヤツめ。

「蒼牙、君の愛しい婚約者に私を紹介してくれないのかい?」

「…光太郎に触るな」

 ムスッとしたような顔のままで、有無も言わさずに腕に繭葵をぶら下げた俺をそのままグイッと抱き寄せて、ただやんわりと肩を掴んでいる不二峰から引き離したんだ。
 嫉妬…と言うよりも、蒼牙にしては珍しい嫌悪感のような感じだと思うのは、間違いかな。

「おやおや…私も嫌われてしまったものだな。だが、これでも一族の端くれなのでね、君が好むと好まざるとにかかわらず朔の礼には列席するよ」

 両手を降参するようなポーズで持ち上げていた不二峰は、仕方なさそうに片頬を軽く上げるようにしてシニカルに笑っていたけど、不意にあからさまに不機嫌のオーラを立ち昇らせたままでムスッとしている蒼牙から目線を逸らすと、アワアワと、こんな状況ではどんな顔をすればいいんだと慌てふためく俺に向かって軽くウィンクなんかしやがったんだ。
 それはやっぱり、蒼牙を煽る…って魂胆見え見えの微笑だったんだろうけど。
 あまりの人懐こさに思わず俺も繭葵もヘラッと笑っちまったんだ。
 もちろん、それで蒼牙が更に不機嫌になるなんてこた、きっと不二峰には判りきっていたことで、最初から計算ずくだったんだろう。

「是非とも、蒼牙が惚れぬいている呉高木家の花嫁様の白無垢は拝まないとね。ここに来た意味がない」

 さらりとそんなことを抜かしたものだから、地獄の底から甦った亡者だってこんな顔はしていないだろうって思えるほど、眉間に深い縦皺を刻んだ蒼牙が殺意を込めてそんな不二峰を睨み据えたんだ。
 やばい、繭葵。
 不二峰が殺される!
 俺と繭葵はほぼ同時にそんな考えが脳裏に閃いたのか、お互い、慌てて顔を見合わせてしまったってのは内緒だ。

「10年以上も前に村を捨てたアンタに見せる義理はない」

「…ふふふ、そのことをまだ怒っているのか」

「いや、もう関係のないことだ。俺は光太郎とこの村で生きる。今更アンタの出る幕じゃないだろう?」

 まるで宣言でもするように、それまであれほどムスッとして不機嫌そうに威嚇していたはずの蒼牙が、不意に冷やかな眼差しになって、いっそキッパリと言い放ったんだ。
 蒼牙の声はそれでなくても深くてよく通る声だったから、朝の陽射しの中に、それでも未だまどろむ清廉な大気を震わせるようにして響き渡った。
 不二峰は一瞬、ともすれば見逃してしまいそうなほど微かではあったけれど、僅かに双眸を細めて、そんな蒼牙を食い入るように見詰めたんだ。
 …その瞬間を見てしまった俺は、ドクンッと胸の辺りが爆ぜるような、なんとも言えない奇妙な胸騒ぎのようなものを感じてしまっていた。胸元を押さえて、どんな顔をしているのか、それすらも気に留める余裕もない俺の目の前で、見たこともない蒼牙に良く似た呉高木の一族である男は静かに笑みを湛えている。
 蒼牙の声を聞けて、満足だとでも言うように。
 俺は急速に耳元でがなり立て始めた何かの音が鬱陶しくて、眉間に皺を寄せたままで俯いてしまった。

「…光太郎、どうしたんだ。具合でも悪いのか?大事な身体だ、用心してくれ」

 ふと、青褪めてしまった俺に誰よりも早く気付いたのか、蒼牙が眉間に皺を寄せて覗き込んできた。
 その双眸はどこまでも真摯で、何よりも心配そうだった。
 そんな蒼牙の顔を見ていたら、それまで胸の辺りで蟠っていた不安のようなものがまるでいきなり晴れた霧のようにパッとなくなるんだから不思議だよな。
 …あれ?俺、何を不安に思ってたんだ??

「いや、大丈夫だよ。ちょっと、腹減ったかなぁって」

 エヘヘヘッと笑って見せたら、心配そうに覗き込んできていた蒼牙がホッとしたように男らしい口許を軽く歪めて笑ったんだ。心配させるなよなーと、その双眸が安堵したように細められている。
 そうして、今までの蒼牙なら絶対にしなかったようなことを…えっと、つまり。額と額をコツンッと軽くぶつけてから、上目遣いに覗き込んできたんだ。
 ああ、心配させちまったなぁ…って思ったら、なんか擽ったくってさ。
 俺も思わず笑ってしまったんだ。
 そしたら…

「あーあ!朝っぱらから見せ付けられちゃったよ。えーっと、不二峰さんだっけ?ラッブラブの二人に水差すなんて、馬に蹴られてどうにかなる前に砂でも吐くんだからさ、さっさと退散した方がいいと思うよ」

 俺の腕にしがみ付いてコソコソと様子を窺っていた繭葵のヤツが俺から離れると、突然そんなことを大声で喚くなり盛大な溜め息を吐いて、呆気に取られている不二峰の腕をガバッと掴んで歩き出したんだ。

「んっじゃーね!朝食には遅れないようにね、お二人さん!」

 肩越しに振り返ってニッと笑った繭葵は、ボケッとしている俺に軽いウィンクを寄越してきた。そのウィンクに気を取られていた、だから気付かなかったんだと思う。
 腕を引かれる不二峰も肩越しに振り返って、何か物言いた気な双眸でソッと蒼牙を見詰めたことに。その眼差しを受け止めた蒼牙の双眸もまた、何か言いたそうに細められていたと言うのにな…

「…ったく!」

 不意に頭上で声がして、呆気に取られていた俺はハッとして蒼牙を見上げたんだ。
 そうするとヤツは、思い切り不機嫌そうに眉根を寄せて苛々しているように俺をギュウッと抱き締めてきたから…あの、俺ちょっと苦しんですが。

「蒼牙、苦しいよ」

「フンッ!誰にでも愛想を振り撒くから苦しい思いをするんだ。アンタは俺だけに笑いかけていればいいんだ」

「…なんだよ、それ。蒼牙は思い切り我が侭だなぁ」

 俺が呆れたように笑って、その胸元に頬を寄せれば、蒼牙は当り前だとでも言いたそうに色気もクソもない黒髪に頬を寄せてプリプリと腹を立てている。
 その態度が、最初はあんなに嫌だったのに、現金なもので俺は、それがたまらなく愛しいなんて思ってるんだからどうかしてるよな。

「当然だ。アンタの前では我が侭でもいいと言ったのは光太郎だ。言動には責任を持て」

「…」

 相変わらず、いつもの調子でフフンッと言い張る蒼牙のちょっとした子供っぽさに、その時になって俺は、やっとホッとしていた。
 あんな風に蒼牙に良く似た大人を見てしまうと、なぜだろう、蒼牙がどこか遠くに行ってしまうような予感がして不安になっていた。
 蒼牙はここにいるのに。
 俺の腕の中で、安心したように俺を抱き締めてくれてるって言うのにな…何を不安に思ってしまったんだろう。

「仕方ないよなぁ。蒼牙の子供っぽさは今に始まったってワケじゃないしさ」

「なぬ?この俺のどこが子供っぽいって言うんだ!?」

 ムムッとしたように俺の顎を引っ掴んだ蒼牙が顔を上向かせると、驚くほど胡乱な目付きで睨み据えてくるから思わずビビりそうになって引き攣り笑いをする俺に、ヤツは急に睨む双眸を甘ったるく細めてからチュッとキスしてきたんだ。

「…へへへ、蒼牙だ」

 俺はなんだか嬉しくなって、蒼牙の背中に腕を回したままでその悪戯みたいなキスにじゃれ付きながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
 蒼牙は躊躇いもせずに歯列を割ると、ゆっくりと肉厚の舌を挿し込んできて奥でノロノロしている俺の舌を絡め取ると、やわらかく吸ってきた。
 蒼牙とキスするのは大好きだ。
 一度自覚してしまえば恋なんて呆気ないもので、それはすぐに愛に摩り替わってしまうと思う。
 愛しいなんて俺、絶対に思ったりなんかするかよって高を括っていたのに、気付けばすっかり恋に落ちていた。
 カード破産するOLみたいなモンかなぁ…あの、雪ダルマ方式とか言う一気に膨らんでいくとかなんとか…いや、たとえが悪かったな、まあ、こんな時にそんな下らないことを考えていたら蒼牙のヤツが、息が上がっちまうほどの激しいキスの合間で苛立たしそうに言ったんだ。

「龍雅には近付くな、アイツと話をするな、アイツに笑いかけるな」

「…ぅ…ん、ふ…はぁ…って、そ…が?」

 唾液に唇を濡らしたままでトロンッと蒼牙の顔を見上げようとしたけど、すぐにキスの嵐に巻き込まれちまってそれどころじゃない。

「アンタは俺だけの花嫁だ。綺麗な、少しでも力を入れればきっと壊れてしまうんだろうよ。だから、龍雅には近付くな…いや、この俺が触れさせやしない」

「…ッ…?」

 思わずカクンッと膝が笑いそうになって腰砕けになり掛けの俺を抱き寄せたままで、蒼牙は貪るように久し振りの濃厚な口付けに俺を溺れさせてしまった。
 もう、何がなんだか…
 誰に見られたって、どうせ男で白無垢を着るんだ、いまさら捨てる恥なんかないっての。
 溺れるように蒼牙にしがみ付けば、応えるように力強い腕が抱き締めてくる。
 この腕に溺れて俺は、どこまで蒼牙に染まれるんだろう…

 クラクラするような強烈で濃厚なキスに半ば溺れていた俺を抱えるようにして、蒼牙は相変わらずの強引さで朝食の準備された広間まで連れて行ってくれたんだけど…
 正直言って、それだけは勘弁して欲しかった。
 こんな熱に浮かされたような面をしたまま、みんながいる大広間には行きたくなかった。
 捨てる恥なんかない…とか強がりを言ってしまったけど、さすがに小雛のいる場所にこんな顔を晒したくはないよなぁ。
 俺の決断が小雛を悲しませることは判っている、でも、小雛が子供を産むこともまた間違いようのない確信だと信じているから…却って、ホントは今の俺の方が滑稽なんだろうと思っちまう。
 小柄な、まだ少女のような小雛は、あんなにフワフワしている可愛い女の子だって言うのに、あれほど強い意志を秘めて俺を見据えてきた気丈なひとは、きっとそれでも幸せだと笑うんだろう。
 それはホントは喜ばしいことだと言うのに、俺は…嫉妬してる。
 そんな風に、ごく普通に当り前のように子供を産める小雛に、きっと醜い嫉妬をしているんだと思う。
 だから、ヘンなプライドがまたムクムク頭を擡げやがったから、広間と廊下を仕切る障子のところで俺は、蒼牙の腕を疎んで軽く振り払ってしまったんだ。

「…?」

 僅かに眉を寄せた蒼牙に、無理して浮かべた作り笑いには反吐が出そうだったけど、それでもそれが俺なりのプライドだとでも言わんばかりにニコッと笑って言ったんだ。

「今日の朝飯は魚じゃないことを祈ってるんだぜ、俺」

「…へえ?ならば、見てからのお楽しみってヤツだな」

「そそ!そう言うこと」

 蒼牙ってば冴えてるじゃん、とかわざとらしくおどけて見せて、サッサと障子を開けて広間に入ったところで、俺はそれまで忘れていたことにハタッと気付いたんだ。
 いや、その顔を見つけて思い出したと言った方が正しいのかもしれないけども。

「高遠先輩!」

 思わず驚いて立ち竦む俺の背後から入ってきた蒼牙は、別になんでもないことのように肩を竦めて、呉高木家の当主らしく堂々と一段高い、上座に用意されたお膳を前にどっかりと胡坐を掻いて座ったんだけど…高遠先輩がいる。
 悲鳴を上げて逃げ出したのに…そうか、あの後蒼牙は、きっと先輩たちに酷いことはしなかったんだ。
 禁域を侵した咎とか何だとかで、きっと何かされているに違いないってすげー心配していたんだけど、そうか、杞憂に過ぎなかったのか
 ああ、心配して損したぜ。
 蒼牙のヤツが殺すなんて威しやがるから本気で心配していたってのに…蒼牙も人が悪いよなぁ。
 やれやれと、それでも蒼牙の優しさに感謝しながら俺は先輩に声を掛けた。
 たとえ先輩から『ホモ』とか『オカマ』だと罵られたって、元気ないつもの先輩の姿を見たらホッとしてしまったってのは否めない。
 だから、声を掛けたんだけど…

「高遠先輩、無事だったんですね」

「…ああ」

 やけに張りもなく、と言うか、感情そのものがすっぽりと抜け落ちてしまったような、抑揚のない返事に俺は驚いてしまった。
 あまりの素っ気無さに呆気に取られている俺の腕を引っ掴んで、気付いたら傍らにいた繭葵がそのままいつもの席に促してくれたから、惚けたように呆然と突っ立っていた俺を怪訝そうな顔で見ていた他の連中もフイッと視線を外してしまった。

「あ、ありがと、繭葵。な、なぁ…」

「うん、言わなくても判ってるよ。先輩さぁ、なんかヘンだよね。ボクとぶつかっても反応がないんだ。まるでロボトミー手術でもしたみたいに不気味だよね」

 時折、この妖怪娘は難解な発言をかましやがるから、俺は眉間に軽く皺を寄せて首を傾げてしまう。

「ああ、ロボトミーってのはね、前頭葉白質の一部に切開を加えて神経繊維を切断する外科療法のことだよ。人格が変化したり、知能が低下したりするから日本じゃもう、行われていないんじゃないかな?今の先輩ってそんな感じじゃない?」

 そう言われてみれば、抑揚もないし覇気もない、まるであの山男みたいな先輩には似つかわしくない変貌振りだ。

「お、おかしいよな?」

「うん…でも下手なことは言えないよ。外見はちっとも変わっちゃいないんだ」

 思わず同感だと頷きかかった時だった。
 ガチャーンッと何かが割れる音がして、ハッと顔を上げたら、それまでは由美子の陰に隠れるような存在だった可愛い系の香織が般若のような相貌で突っ立っていたんだ。その足元には、散乱した、それはそれは伝統のある古めかしい食器がその上に乗っていた食い物たちを飛び散らして転がっている。

「ち、ちょっとぉ!香織ったらどうしちゃったのぉ!?」

「うっるさいわねぇ!何よ、由美子ったら馬鹿みたいに品作っちゃってさぁ。ここの飯なんかゲロまずだっつってたじゃん!何よ、今日もこんなモンなの??食べれないっての!あたし、今日でおさらばだし、後でファミレスに行くからこんなのいらないッ」

 言い切るなり、香織のヤツは憤然と腹を立てて広間から出て行ってしまった。
 その後姿を呆気に取られたようにポカンッと、朝っぱらからでもキッチリとメイクを決めている由美子が見上げていたけど、ハッと我に返って注目されていることに気付いたのか、彼女は泣き出しそうな心境だっただろうに、毅然とした態度で高遠先輩に肘鉄を食らわしたんだ。

「ちょっと、高遠くん!香織がヘンよッ!この場合、この場を収めるのは部長である高遠くんでしょッ」

「…ああ」

 抑揚もなく頷くだけで、尤もなことを言っているはずの由美子の方が、まるで肩透かしでも食らったようにポカンッとして、同じく信じられないものでも見ている望月と顔を見合わせたんだ。

「ち、ちょっと、望月。悪いけど、ここお願いできる?あたし、香織のところ行って来る!」

「あ、ああ!」

 蒼牙に頭だけ下げると、慌てて広間を飛び出す由美子の後ろ姿を見送ってから、望月は慌てて後片付けにかかるお手伝いさん達を手伝いながら、上座で胡坐を掻いて頬杖をついている蒼牙にしどろもどろで謝辞を述べたけど、呉高木の当主は緩慢な態度で寛容に許しているようだった。
 畳はヒッチャカベッチャカだけども、きっと、その余りある資産でもって畳なんてすぐにでも張り替えちまうんだろうなぁ…う、ちょっと貧乏根性が出てしまった。

「あら!龍雅さんじゃありませんこと。いつからいらしてたの?」

 不意に、まるでそんな一連の出来事など何処吹く風とでも言うように、薄黄緑色のカーディガンを羽織って烟管を燻らせている伊織さんがふらふらと広間に入ってくるなり、朝食の席に何時の間にか家族の一員としてすっかり馴染んでいる不二峰龍雅に声を掛けたんだ。

「昨夜晩くに着きましてね。皆さんを起しても申し訳ないと思い声を掛けなかったのですが…ご挨拶が遅くなりました」

「あら、龍雅さんなら何時でもこの屋敷にお戻りになっても宜しくてよ。ねえ、蒼牙さん?」

「…ふん」

 あからさまに無視を決め込む蒼牙を更に無視した伊織さんは、珍しく機嫌が良さそうに笑っている。
 いつもは何事にも無頓着そうな顔をしている伊織さんのその珍しい表情に、同じように吃驚したんだろう、繭葵と俺の頭からは先輩たちの不可思議な行動はシコリとなって残っていたけど、それでもその場では気にならなくなっていた。

「不二峰の伯母様たちはお元気かしら?」

「ええ、この度の朔の礼にも参列したがっていましたが、何分、高齢なものでして…私が不二峰の代表として参った次第ですよ」

「あらそう?お養父様も宜しかったわね、龍雅さんがお越しになって」

 伊織に話を振られた直哉は勿論だとでも言うように、大袈裟に頷いて意味深な目付きで俺を、そして花嫁候補たちを見渡した。その視線に気付いたのはどうやら俺と繭葵だけだったらしく、俺はムカムカしながら繭葵の腕を肘で突付いてコソッと耳打ちしたんだ。

「先代当主のヤツ、なんか言いたそうな顔してるよな?」

「ホンット!自分からボクたちを花嫁候補だとか迷惑な名目で招いておいて、あの不二峰龍雅だっけ?アイツが現れてから途端に目障りそうな顔しやがってさぁ。迷惑なのはこっちだっての!そうでショ、光太郎くん」

「どーかん」

 2人でコソコソ話していたら、直哉の突発的な馬鹿笑いが聞こえて、俺と繭葵が吃驚したように顔を見合わせて顔を上げたところに、年代物の陶器の水差しを抱えた眞琴さんが相変わらず朝っぱらからキチンと着物を着付けて楚々とした足取りで入ってきたんだ。

「お食事前に、花嫁候補の皆様方には御神酒を召し上がって頂きます」

 凛とした声音の眞琴さんがそう厳かに蒼牙に言うと、上座に座している当主は肩を竦めるようにして面倒臭そうに頷き、それから思わずと言った感じで口許がニヤけたようだった。
 それは見落としてしまいそうな変化だったけど、確かに、面倒臭そうな顔をしていたくせに一瞬、ニヤッと笑ったんだ。でも、それを発見したのはどうやら俺だけだったらしい。
 なんか、ラッキーなんだか何なんだか。

「それでは、まずは小雛さまからお召し上がりください」

「…はい」

 か細くコクリと頷いて、膳の上に用意されていた朱塗りの杯を両手でソッと持った小雛が杯を差し出すと、眞琴さんは無言でトクトクトク…ッと神酒を注いだ。小雛はそれを見詰めてから、息を整えて、それから一気に呑み干した。
 繭葵がその間に説明してくれた話だと、『晦の儀』に向けて『禊の儀』ってのがあるらしく、それはこの御神酒で身体に溜まっている悪しきモノを取り除き、綺麗な身体で当主に身を捧げないといけないらしく、その御神酒ってのは一気呑みしなきゃいけないんだと。
 …とは言っても、酔ってぶっ倒れるほどの量ではなく、お猪口に軽く一杯ってところかな。 小雛の次は繭葵で、「お酒だー」とニヤニヤ笑ってサッサと飲み干した酒豪娘の次が、俺だった。
 小雛ですら薄ら頬を染めて吐息なんか吐いてるってのに、全然呑み足りないとでも言いたそうな顔をした繭葵は、面白くもないだろうに杯に注がれた酒を見下ろす俺をのほほんと見詰めている。

「あれ?この酒…ちょっと赤っぽいな??」

「あら、気付かれましたの?この御神酒はご神木の幹より摘出した樹液を混合していますの。なので、樹液由来の赤みが差すのですわ」

「へー…あ、でもこれ、いい匂いだな」

「そうでございましょう」

 うふふふっと、眞琴さんがアルカイックスマイルなのに嬉しそうに見える笑みを浮かべて頷いたんだけど、ふと、何気なく上座に目をやったら、蒼牙のヤツが今か今かと、食い入るようにこちらを見ていたから思わずビビッてしまいそうになった。
 なんだってんだよ?!と眉を顰めれば、早く呑めと不機嫌そうな蒼牙の双眸が物語る。
 ああ、そうか。
 コイツを呑まないと朝食が始まらないってワケなのか。
 そっか。
 はたとその事実に気付いて、俺は慌てて一気に御神酒を呑み干した。
 咽喉を一瞬カッと焼いたけど、その後味はまるで桜餅とでも言うか、桜の味がしたんだ。

「この酒、美味いな?」

「うんうん、もう一杯!…って言いたくなっちゃうよ。ウッシッシッ」

 浮かれぽんちで笑う繭葵に釣られたように笑ったら、あれ?もしかしたら、この御神酒って結構、度が強いんじゃないのか?
 酔ってないって思っていた繭葵と俺の方が、すげー酔っ払ってんじゃないだろうな?
 お互いに浮かれて笑っていた俺は、何故か知らないんだけど、いつだって上座の蒼牙が気になって、気付いたら目線が呉高木の当主を追っていた。
 ふと、バッチリ目線がかち合ってしまった俺は、その時ほどハッとすることはなかった。
 蒼牙の顔が、あれほどうんざりするほど不機嫌そうだった蒼牙の顔が、まるで染み入るような、物静かな笑みを湛えていたんだ。その顔は、今まで見たこともないほど、幸せそうだった。
 御神酒に酔っ払った俺が見た、これは幻か夢なんだろうか?

「さて、皆さま。お食事を召し上がってくださいな」

 眞琴さんが晴れ晴れとした顔をしてそう言ったから、物静かな朝食タイムは始まったワケだけど、漸く大役を果たした眞琴さんが珍しく機嫌が良さそうに笑っていたんだけど…ふと、不二峰龍雅の前に差し掛かったところで一瞬だが立ち止まった。
 その瞬間、まるで大気中に稲妻でもスパークしたような錯覚さえ覚える、目に見えない攻防戦が繰り広げられたような気がしたのは、たぶんきっと、俺の気のせいじゃないはずだ。

(すっげ、こえぇぇぇぇッ)

 思わずガクガクブルブルしそうになった俺の傍らで、同じく絶句している繭葵が青褪めていた。
 いったい、眞琴さんと不二峰の間に何があったのか知らないが、お陰さまで普段通り、いやそれ以上の沈黙が圧し掛かる、なんとも気まずい朝食タイムは恙無く続行されるのだった。
 俺が嫁になったら絶対に、なんちゃら党をぶっ壊せってワケでもないけど、この風習だけはぶっ潰そうと固く誓ってしまった。
 …やれやれ。 

第一話 花嫁に選ばれた男 12  -鬼哭の杜-

 暫くぼんやりと日本庭園から月を見上げていた俺だったけど、いつまでもぐだぐだとここにいても仕方ない。意を決して、俺は歩き出していた。
 もちろん、母屋じゃない。離れだ。
 蒼牙がいつも仕事に遣っている仕事部屋で、最近はそうでもないけど、最初の頃はその部屋から出てこないこともあったりして、ほんの1日ぐらい俺は自由だった。
 あの頃は蒼牙の不在なんかへの河童で、一秒だって戻ってくるなって真剣に願っていたってのに…俺は。
 どうしてこんなに、アイツがいないと思うと心許無くて戸惑ってしまうんだろう。
 どうしてこんなに、寂しいんだろう。
 夏の夜の月明かりはよく晴れている証拠のように、俺の影をクッキリと白い砂の上に描き出している。
 月光と陰のコントラストの中をサクサクと足音を忍ばせて近付けば、母屋から少し離れた先にある蒼牙の仕事部屋は、月明かりに浮かび上がるようにして古い家屋が威風堂々とした面構えで佇んでいた。
 きっと、蒼牙は今、俺がここに立っていることにだって気付いているんだろう。
 アイツには何か、よく判らないんだけど勘が鋭いところがあるから、どんなに足音を忍ばせてもシレッと気付いてることが多いからドキッとするんだよな。
 だから、コソコソと近付いていくつもりなんか毛頭ない。
 爆弾娘がワケの判らんことを言ってたけど、男は度胸だ!
 俺は庭の砂を蹴散らすようにしてズカズカと蒼牙がいると判る部屋の前まで行くと、わざと乱暴にスニーカーを脱ぎ散らかして、縁側に上がるとその手でスパーンッと裁きを下す水戸のご老公が引き連れる助さん格さん宜しく障子を開け放ってやったんだ。
 蒼牙は俺に背中を向けるようにして文机に向かってキーを叩いていた。
 まるで過去と現代の融合はどこかアンバランスで、そのあやふやさを暴き出しているような蒼牙の背中の潔さは、見ているこっちが切なくなってくる。
 着流しで胡坐を掻いて、送られてくるメールの数は半端じゃないのか、常に受信ありの電子音が鳴り響いている。手際よく、あらゆるものを片付けている蒼牙は、エクセルで立ち上げている報告書らしきものを睨みつけながら、ついでのように言ったんだ。

「何をしに来た?」

「お構いなく、眠りに来ただけだから」

 眠った形跡なんかこれっぽっちもない、桂が丁寧にメイキングしている布団は太陽の匂いがした。
 俺は背中を向けたままで忙しなくキーを叩く蒼牙に軽く言って、本来ならコイツが眠るはずの整えられた布団の上を捲ってやれやれと腰を下ろしながら軽く言ってやった。
 すると、一瞬だけど、手の動きを止めた蒼牙が微かな溜め息を吐いて、パチパチとキーを叩くのを再開したようだ。

「俺はアンタに、自室で休めと言ったはずだ」

「は?そんなこと言ったっけか??俺は『ゆっくり休め』としか聞いちゃいないけどな」

 パチパチパ…また手が止まる。
 暫く何かを考えて、どうやらニヤニヤ笑っている俺の思惑通り、漸く自分の失態に気付いたのか、蒼牙は胡乱な目付きを隠さないまま肩越しに振り返ったんだ。
 その目付きの…空恐ろしいことと言ったらなかった。

「屁理屈は覚えたようだな。それで、ここに来て説教でも垂れるのか?」

「いや、俺さ頭悪いから。そんなつもりはないよ」

 肩を竦めてなんでもないことのようにそう言ったら、蒼牙は参ったとでも言いたげに頭を抱えるようにして文机に頬杖をついた。
 やけに疲れているように見えるのは…そうだよな、俺や繭葵なんかより、人の死に直接関わった蒼牙の方が、今夜は眠れないぐらい草臥れているに違いないってのに。
 蒼牙はバカだ。

「ただ、自分の旦那さまがどんな仕事をしてるんだろうなぁと思ってさ。俺だってこう見えても、サラリーマンだったんだぜ?仕事内容に興味ぐらいはある。まあ、平社員だったけど」

 努めて軽めの口調で言ってやると、蒼牙は頭を抱えるようにして頬杖をついたまま、呆れたように溜め息を吐いた。

「下手な嘘がうまいんだな。それで?」

 聞いてやるよとでも言うように肩を竦める蒼牙に、俺はゆっくりと膝でにじり寄るようにして近付くと、不機嫌そうに見下ろしてくる間近の蒼牙の顔を見上げたんだ。

「そうだなー…それから、意地っ張りな俺の旦那さまにお休みのキスでもしようかなってね」

「…!」

 蒼牙は頬杖をついたままで酷く驚いているようだった。
 そりゃ、そうだよな。
 今まで、散々嫌がって逃げていた俺が、不機嫌そうな蒼牙の唇に苦笑しながら口付けたりするんだから。
 瞼を閉じて、すこしかさついた唇、もう馴染んでしまって覚えてしまった蒼牙とのキスは、どんなに濃厚なセックスをしたって得られない、なんだかホッとするような快感がある。
 口に出して言ってしまえばあまりにも陳腐だけど、それでも俺は、蒼牙とのキスだけは魂を分かち合って対になれるのならそれでもいい…なんて、ワケの判らないことまで考えてしまえるほど好きだった。
 戯れに触れ合うだけだったキスは、なんとも言えない複雑な表情をした蒼牙の意思1つで、深くなるも浅くなるも決まってしまうんだけど…蒼牙は、暫く逡巡した後、思い切るように瞼を閉じて、甘えるようにキスを強請っている俺を抱き締めてきた。
 そのまま、肉厚の舌が歯列を割って、俺がそうして欲しいと願っていた激しい口付けをくれたんだ。
 舌と舌が絡み合って、吸い付いて離れて、また吸い付いて…魂までも吸い尽くしてしまいたいようなキスをする俺を、蒼牙は荒い息を吐きながら愛しそうに、深い深い深淵の底まで一緒にダイブするような、クラクラする口付けをくれるから、背中に回した腕に力を込めて、まるで溺れている人みたいに必死にしがみ付いていた。
 蒼牙、お前は独りぼっちじゃないよ。
 俺がここにいる、だから、なぁ…
 そんなに意地を張るなよ。
 こんな夜中に俺たちは二人きりで、まるで互いを庇いあうようにして抱き合って、溺れてもいいキスさえできるんだから…だから、蒼牙。
 泣いていいから。
 俺が、ちゃんと確り受け止めるから。
 だから、泣いていいんだ。

「…ッ」

 まるで俺の願いが通じたかのように、蒼牙は俺との深いキスを一瞬でも長く続けようとするように抱き締めながら、声を殺して泣いているようだった。
 背中に回した腕に力を込めて、どうか、どこかに行ってしまわないように。
 俺は気付かないふりをして蒼牙にキスをした。
 自分でも驚くほど、それは深くて濃厚で優しくて…そして、愛しかった。

 翌日、結局あの後、俺たちは何をするでもなく同じ布団で寝たわけなんだが…
 いつもは俺を抱き枕だと勘違いしているんじゃないかって腹立たしく思うほど抱き付いて眠る蒼牙を、その日の朝は、俺が抱き締めていたんだ。
 珍しく蒼牙は、今まで寝ていなかったとでも言うようにぐっすりと熟睡していて、揺すっても叩いても起きそうもなかったから、俺は寝起きでボーッとしながらもクスクスと小さく笑ってしがみ付くようにして眠っている美丈夫の顔を覗き込んでいた。
 目許が僅かに赤いのは…気のせいなんかじゃない、きっと昨夜泣いたせいだ。
 うん、少しでも泣いた方がいいんだ。
 鬱憤ってな溜め込むよりもだな、泣いたり喚いたり、みっともないことをしてだって晴らしちまうのがいいに決まってる。現に俺はいつだってそうだ。
 大声出して喚いてみたり、派手に泣いたりとかな…蒼牙の立場だと難しいんだろうけど、だから俺がいるんだ。俺の前でだけ泣けばいい。
 ん?でも、そう考えるとなんだか俺、ちょっと得してる気がするなぁ~
 あの泣く子も黙る呉高木蒼牙の泣き顔を世界でたった一人、この俺様だけが拝めるんだぜ?そいつは凄いなー…なんつって。
 朝の清廉とした日差しが障子を透かして入り込んできて、蒼牙の幻想的な青白髪をキラキラと光らせている。よくよく見ると、白髪だとばかり思っていたんだけど、少し輝いて見えるから…うーん、でもやっぱこれって青白髪だよなぁ。
 なんて、そんなどうでもいいことばかり考えている間に、ピクリッと青白髪の睫毛が震えて…って、そうか、蒼牙って睫毛も眉毛も青白髪なんだな。ゆっくり、顔を見ることもなかったから気付かなかった。
 そんな1人で「すげーな、おい」とか思っているなんて露知らずの蒼牙が、ふと、瞼の裏に隠れていた青味がかった黒い双眸を開いたんだ。

「…おはよう」

 まるで秘密を囁くように呟けば、蒼牙の腕が伸びて、上半身を起して覗き込んでいた俺は気付いたら後頭部にあてた手で引き寄せられるようにしてキスしていた。

「…ふん、なんだか照れ臭いな」

 鼻の頭をちょっぴり赤くした蒼牙が、ムスッと不機嫌そうに俺の顔を覗き込みながら、それでも俺がニコニコ笑っていたら気後れでもしたのか、仕方なさそうな苦笑を浮かべてもう一度キスしてきたんだ。

「朝日の中のアンタは綺麗だな…俺の花嫁になる覚悟はできたのか?」

「…当り前だろ?もともと、俺は蒼牙の花嫁になるために来たんだ。いまさらお前が嫌がったって居座ってやるからな」

 フンッと鼻を鳴らして知らん顔したら、蒼牙のヤツは偉く吃驚したように目を瞠ってマジマジとそんな俺を覗き込んできやがったけど、それでも俺は、慌てたりとか言い換えたりとかはしてやらなかった。
 本気だから仕方ない。

「たとえ、蒼牙が愛人を作ったって俺は文句は言わない…でも、これだけはお願いだから約束してくれ。何人愛人を作っても構わないから、男は俺だけにして欲しい。愛してくれとか言わないから、だから…ッ」

 驚いた。
 まだ言いたいことが山ほどあるのに、覚悟はこんなものじゃないのに、すげー勇気がいるってのに上半身を起していた蒼牙は、俺の言葉の半ばでいきなり抱き締めてきたんだ。
 不安で、どうしようもなく不安で、こんな寂しい山間の鄙びた村で、余所者は俺だけだから、それでもこの見知らぬ土地に骨を埋めようってんだから、不安になったってしょうがないだろ?なぁ、蒼牙…
 俺は泣きじゃくるようにして、抱き締めてくれる蒼牙の首に腕を回しながら抱きついていた。
 頼れるものも、信じられるものも、愛しいと想うものも…それは全部、蒼牙になるんだ。
 俺の世界はきっと、蒼牙になるんだから…だから、お願いだから蒼牙、他の誰でもない男は、男だけは俺だけにして欲しい。
 子供のために女を何人侍らせてもいいから、俺のところに来てくれなくなっても構わないから、だからどうか、男は俺だけにして…

「…人殺しの嫁になるのか?」

 本気でなれるのか?…と、俺を抱き締めたままでそんな下らないことを言いやがるから、俺はますます腕に力を込めて抱き付きながら言ったんだ。
 お前があの時、彼の咽喉を切り裂いてやらなかったら、彼はずっと地獄の苦しみを味わったままで生き長らえさせられるんだ。どんなに酷くて残酷か、激痛にのた打ち回るその姿をずっと見詰め続けてきたお前だから、あの瞬間に怯むこともなく苦しまずに逝かせてやったんだろう?
 俺は気付きもしなかった。
 そういう形でも、人を救っているんだってことに。
 安楽死すらできない、苦しみの淵に立つ哀れな魂。
 どんなに強烈な反動が返ってくるか知りながらも抱き締めることのできるお前だから、俺は腹を括ることができたんだ。
 もう、躊躇ったりしないからな。

「こんなの、嘘や冗談で言えるかよ!もう決めたんだ。俺は呉高木蒼牙の花嫁になる」

「…夢みたいだ」

 ポツリ…と、蒼牙が信じられないことを呟いた。
 思わず、呆気に取られてポカンッとしてしまいそうになった俺に、でもすぐに蒼牙はいつもの蒼牙に戻って傲慢不遜に言いやがったんだ!なんだ、ちょっと可愛いかなとか思って損したぜ。

「アンタにその覚悟ができたのなら、俺が妾を娶る必要なんかないだろ?アンタ、本当に頭悪いな」

「悪かったな!天才さまよッ」

 抱きついたままで悪態を吐く俺に、蒼牙のヤツはクスッと笑ったようだった。
 その顔が見たくて身体を起したら、蒼牙はそれでも俺を抱き締めるようにしたままで…そこらへん、まだ俺を離そうって気はないらしいんだけど、まあ俺も望むところだ!って感じだし別に構わずに見上げたら、俺の顔を見下ろして笑ってるんだ。
 思わず、その男らしい笑みを湛えた顔にドキッとしてしまった。

「恐らく俺は、アンタを永劫に離さないだろう。それでも、俺について来るんだぞ」

「…ああ、お前についていくよ。蒼牙」

 何が起こっても、この先に何が待ち構えていても…それでも俺は、きっとこの先もずっと、蒼牙の傍らにあり続けると思う。
 そう、夢の中のチビ蒼牙と約束したんだ。
 何よりも俺は、俺だけを見詰め続けるこの青白髪の鬼に、心を攫われてしまったんだから。
 初めてお前と会ったあの山の中で、幹に凭れた姿にドキッとしたのは、何も本気で鬼だと思ったからってだけじゃないんだぜ?
 蒼牙…きっと俺は。
 あの瞬間から恋に落ちていたんだ。
 嘗て、お前がそうだったように。
 俺たちは、清廉と昇る朝日の中で、逸早くではあるんだけど、気の早い誓いのようなキスを交わした。

第一話 花嫁に選ばれた男 11  -鬼哭の杜-

 月明かりに浮かび上がる純和風の家ほど怖いものはない。
 何故そう思うのか、俺には判らないけど、今目の前の状況を説明しろと言われればそんな答えしか浮かんでこない。まあ、今の心境がなんてこたない日本家屋に凄味を感じてしまってるだけなのかもしれないけどな。
 俺は溜め息を吐いてもう歩き慣れてしまった山道を下ると、特別に蒼牙の部屋に面した庭に続く抜け道から屋敷に戻ってきた。
 そう言えば繭葵のヤツはちゃんと戻れたんだろうな?確か、この家って夜は和風の厳つい木の門を閉めるんじゃなかったっけ。
 でも、繭葵のことだ。
 大方、子兎みたいにまたちょこちょこと秘密の抜け道でも見つけてるに決まってる。
 俺と違ってアイツは結構しっかりしてるからなぁ…まあ、問題は繭葵が推察したとおり、つまり『俺』ってワケだ。
 これから、あの血塗れの舞台で壮絶な笑みを浮かべて立っていた、あの鬼と対面しなくちゃいけない。
 ふと見上げたよく晴れた夜空に、下弦の月はどこか物寂しそうにぽっかりと浮いていて、その月を見上げていたら、どうして蒼牙はあんなことを仕出かしてしまったんだろうと不思議で仕方なかった。
 確かに、初対面はやっぱり蒼牙は鬼の出で立ちだったし、ただちょっとおかしいと言えば俺が巫女装束だったってだけなんだけど…それでも、あの時も、それからあの山で出逢った時だってお前、そんな恐ろしげな顔なんかちっともしなかったじゃないか。呉高木の当主と言う重圧にいつも凛と顔を上げていて、俺なんかじゃ到底、敵いっこないって思うほど、シッカリと未来を見据えた大人びたヤツだったじゃないか。
 ああ…でも、もしかしたら。
 その呉高木の伝統として何らかの事情で受け継がれてきた儀式だとしたら?
 蒼牙は何よりも呉高木を大切に思っているようだったし、まだたった17歳なのに、圧し掛かる責任を受けて立っちまったんだとしたら…それは果たして、本当に蒼牙だけの責任になるんだろうか。
 あんな子供に全てを任せて、安穏と胡坐を掻いている俺たち大人が、どうして平然としていられるんだ。
 だから俺は、さっき繭葵に「警察には…」って言われた時、ギクッとしちまったんだ。
 どうかしてるのかもしれないけど、警察には届け出たくなかった。
 俺はまだ、蒼牙のことを何も判っちゃいないし、この全てを蒼牙の肩にぶっつけて、それで平然と普通の暮らしに戻ることなんてできないと思ったんだ。
 もしかしたら、あの禁域に入るだけでも殺すと脅した蒼牙のことだ、今回の神聖な『弦月の儀』を穢した咎だとか何とか言って、俺も殺されるかもしれない。
 そう考えるだけで、鳩尾の辺りに何か冷たいものがヒヤリと落ちたような気がした。
 それでも、話を聞こう。
 蒼牙一人が抱えるにはあまりに事態は大き過ぎると思うし、そして何よりも、誰か一人ぐらいはアイツに「お前が悪いんじゃないよ」って大人がちゃんと伝えてやらないと。
 蒼牙はまだ子供なんだ。
 本来なら、両親の保護下で大事に大事に守られてるはずなのに…呉高木と言う大きな何か、得体の知れないものをその双肩に背負いながら、それでも毅然と立っていないといけない蒼牙の、その心は一体どこにあるんだろう?
 アイツの屈託なく子供らしく笑う顔を、俺は今まで見たことがあったかな。
 蒼牙を『鬼』に変えたのは一体誰だ?
 無頓着に放棄した身勝手な大人たち…なんだろうなぁ、やっぱり。
 俺はもう一度溜め息を吐くと、月明かりに照らされた庭を通り抜けて、明かりもついていない蒼牙の部屋に面した広縁に靴を脱いで上がった。
 上がったまでは良かったんだけど、さすがにやっぱり障子を開けるまでの勇気がない。
 俺の不在を、蒼牙はどう感じたんだろう。
 今、この部屋の中で、お前は何をしてるんだ?
 向かっ腹を立てて胡坐でも掻いて布団の上に座ってるのか?
 それとも…俺の不在に少しホッとしてたりするのか?
 疑問ばかりがグルグルと脳内を循環するくせに、これと言った答えは出てきちゃくれない。それどころか、実際は部屋に入りたくないもう一人の俺が、きっと往生際悪く偽善的に考え込んでいるフリをしてるんだろう。
 これじゃ、ダメだ。
 俺は意を決してへたり込んでしまっていた良く磨かれた廊下に立ち上がると、主を隠し込んでいるに違いない障子をスパーンッと思い切り小気味よく開け放ってやった。
 さあ、ジャでも蛇でも何でも来いだ!

「…?」

 勢い込んでいたくせにやたらあっさりと、その出鼻を挫かれてしまった俺はへたへたとよろけながら無人の室内に入り込んで、キチンと整えられている布団の上に座り込んでしまった。
 蒼牙はいなかった。
 俺を捜しに行ったとか?…いや、そんなはずはないな。それだったら、もっとこの屋敷が賑やかになってる。
 こんな風に静まり返ってるってのは、屋敷の中では今は何も問題が起こってないってことだ。
 じゃあ、蒼牙はどうしたんだ…

「あ!」

 そこで唐突に思い出したのは、食事の後、月を見る為に庭に出た時に桂に言われた言葉だった。

『蒼牙様は今夜、仕事部屋に篭もられるそうです』

 そうだ、蒼牙は今夜いないんだった。
 なんだ俺、あれだけ意気込んでたくせに、ホントはメチャクチャ緊張してたんだな~
 そのまま布団に倒れ込みながらハァ…ッと溜め息を吐いていたら、極度の緊張を強いられた俺の軟弱な脳細胞は、その太陽の匂いがする布団についウトウトとしてしまった。
 ここ最近、先輩の件だとか、花嫁の件だとか、弦月の事件だとか…あまりにもイロイロと起こりすぎてしまったせいで、それでなくても頭を使うのが苦手な俺なのに、よく今日まで持
ち堪えてると我ながら感心してるくらいなんだぜ。
 イロイロ…ホントに良く起こったもんだ。
 ウトウトと浅い眠りに沈みながら、それでも俺は考えていた。

(この村に来てから常識の範疇を超えたことばかり起こってる。そんな最中にいて、蒼牙は何を思ってるんだろう…)

 俺はふと、奇妙な夢を見た。
 暗い山の中、ともすればそれは裏山だったのかもしれないけど、とても珍しい青みがかった白髪の子供がトボトボと歩いていた。その手には、俺と蒼牙が初めて出逢ったあの場所に咲いていた、小さな白い花が握られていた。

(誰かにあげようとしたのかな)

 あれ、どうして俺、そんなこと思ったんだろう?
 不意に脳内に浮かんだ言葉に俺自身首を傾げていると、ふと、小さな男の子は立ち止まるとハッとしたように顔を上げて俺を見たようだった。

『こんな所で何してるんだ?お前は誰だ??』

 ちびでも相変わらず高圧的なものの言い方をするクソガキに、ムッとする俺はそのガキっぽさを必死で抑えながらたぶん、ニコッと笑いかけた。

『その花、綺麗だね』

 クソガキの質問には答えずに変態さん宜しくそう言ってやると、不思議な青い白髪の子供は自分の手の中にある花を、まるで今更気付いたとでも言うようにジッと見下ろしてから差し出してきたんだ。

『欲しいならやる。千切ってしまうのは可哀相だったんだけど、母様に差し上げようと思ったんだ。でも今日はお加減が悪いから…捨ててしまうのも可哀相だから、お前にやる』

 不貞腐れたように唇を尖らせるまだ本当に幼い子供は、年の頃、4つか5つぐらいで、そのくせ口調はまるで大人びていて…ああ、こんな時からお前、そんなに意地を張って生きてたんだなぁ。
 まだ、こんなに小さいのに。
 小さな手に握られていた花は、それでも瑞々しく咲き誇っている。
 この小ささで、花を『可哀相だ』と言えることができるお前は、なんだ、ちっとも鬼なんかじゃないじゃないか。
 差し出された花を『ありがとう』と言って受け取ったら、小さな青白髪の蒼牙は、不思議そうな顔をして俺を見上げてきた。

『お前は、この山に棲む精霊妃か?』

『…は?』

『なんだ、違うのか?この山は鬼哭の杜って言って、太古からの亡者たちが棲み付いてるんだ。ソイツらを管理してるのが呉高木家で、精霊妃と言うのは、亡者たちを統べる龍の花嫁のことだ』

 そんなご大層なものは知りませんし、全く違うと思います。
 第一、花嫁って言うんだからその人はきっと女性だと思いますよ、常識的に言ったら。
 だいたい、男の俺を花嫁に迎えようってのはな、やいちび蒼牙!ちょっと大きくなったお前ぐらいなんだぞ。
 思わず大人顔負けのクソガキにハハハ…と乾いた笑いを浮かべていたら、ちび蒼牙は『そうか、違うのか』と呟いて少しだけ俯いてしまった。

『…精霊妃ってひとに、何かお願いがあったのかい?』

 その姿があんまりしょんぼりしてるから、俺が声を掛けたら、小さな蒼牙はちょっとムッとして首を左右に振りかけたけど、まるで思い直したように俺を見上げてきた。
 相変わらず、今の蒼牙を思わせるような強い意志を秘めた、その青みを帯びた双眸には思わずドキッとしてしまう。こんなチビにドキッとする俺もなんだかな、ってとこだけど。

『母様の…お身体を直して欲しい。そして、母様の願いを叶えて欲しいんだ。もうずっと、山の神様にお願いしてるのに、ちっとも叶えてくれない。心優しい精霊妃なら叶えてくれるって思ったんだ』

 小さな蒼牙は、今のあの小憎たらしいほど世の中の酸いも甘いも知り尽くしてますってな見慣れた顔と違って、いや、子供なんだから見慣れてるわけはないんだけど、その一生懸命な表情に俺は思わず小さな蒼牙を抱き締めてしまっていた。

『どうしたんだ??』

 不思議そうに首を傾げるチビ蒼牙に、ひとこと『ごめん』と謝りながらも、それでも俺はそ
の身体から腕を離すことができないでいた。
 そうだ、お前。
 こんなに小さいのに、この頃にはもう、お袋さんは心を病んでお前のことが判ったり判らなかったりを繰り返すようになっていたんだよな?
 眞琴さんに聞いていた話を思い出したら切なくて、蒼牙の根性が捻くれてしまった大概の要因は、やっぱり大人にあるんだろうなぁと思っていた。

『ごめん、蒼牙。大人はみんな、お前に冷たすぎるんだよな。だからお前、あんなに大人びて、子供らしさを忘れてしまったんだ』

『…ぼくの名前を知ってるのか?』

 キョトンッとする、俺が見たこともない子供らしい表情の蒼牙の顔を覗き込んで、ああ、この時代が、お前にとってはきっと凄く辛かったに違いないけど、もう少し続けばよかったのに。それでもお袋さんは生きていたし、お前は花を摘む心のゆとりがあったのに。
 全部が切なすぎて、俺は気付いたらハラハラと涙を零していた。

『蒼牙。お母さんのことは俺にはどうしようもないけど、でも、できるだけ俺が一緒にいてやるからな。今は無理だけど、遠い未来に必ず、俺はお前の傍から離れないよ。だからこれだけは信じていてくれ、この世界中の全てがお前を見放してなんかいないから』

『…よく判らないけど、お前がぼくの傍にいてくれるのか?』

 ふと、俯きがちでどこか大人びた顔をしていたチビの蒼牙が、ほんのり頬を染めて嬉しそうな顔をしたのが俺の見間違いじゃないのなら、どれほどこの小さな身体は孤独や寂しさを知っているんだろうかと、自分の安穏とした子供時代と比較しても更に泣きたくなるだけだ。
 それでもお前は、花を摘んで心を病んでしまった母親を気遣うだけの優しさを持っている。
 それはきっと、矛盾なく、今の蒼牙の心の中にもあるんだろう。

『今は無理だけど、桂さんがいるから寂しくないだろ?』

『…うん、桂は大好きだ』

『そっか、よかった。じゃあもう少し、あともう少し大きくなったら、俺を見付けだしてくれ。俺は馬鹿だから、お前が見付けてくれないとここに来れないんだよ。もし見付けてくれたら、その時はもう、お前の傍から離れたりはしないからな』

 どうしてそんなことを言ったのかよく判らないけど、どうせこれは俺の都合のいい夢なんだから、せめて寂しそうに俯いている小さな蒼牙を励ましてやりたかったんだと思う。

『それ…ホント?』

 まるで子供のように、いや実際には夢の中の蒼牙は立派に子供なんだけど、子供らしいあどけない仕種で首を傾げながら不安そうに聞いてきた。

『ホントに、ホント?』

『ああ、約束だよ。忘れるんじゃないぞ』

 やわらかな青白髪が覆う小さな頭に掌を置いて、優しく撫でてやると小さな蒼牙は一瞬、本当に一瞬だったけど、極上の幸せそうな、子供らしい笑顔を見せてくれた。

『うん、忘れない』

 せめて、大人である俺ぐらいはお前を裏切ったりしないよ、蒼牙。
 だからどうか、花を労わるその優しさは忘れないでくれ。

 ふと、目が覚めたら枕が濡れていた。
 ああ、俺泣いてしまったのか。
 自分に都合のいい夢だったけど、やたらリアルで、あれがもしホントの蒼牙だったとしたら、俺はきっとアイツの上辺ばかりを見ていて何ひとつ気付いてやることもしていなかったんだなぁと、少し自嘲してしまった。
 大人だなんだと嘯きながら、一番、自分らしく生きていたはずの蒼牙を身近に感じたような気がして、俺は横になったままで小さく笑っていた。
 抱き締めた身体は驚くほど小さくて頼りなげで、掴んでいてやらないと壊れてしまうんじゃないかって思うぐらい、たくさんの感情を抱え込んでいるみたいだった。
 想像上の蒼牙だったけど、もしアイツが、夢の通りの子供時代だったとしたら俺は、蒼牙を見直してしまうかもしれない。
 村を思い、当主としての地位に甘えないあの蒼牙が、たくさんの感情をただ身体の内に隠してるだけで、ちゃんと人間らしく笑えるんだと思えば、俺はこの先ずっと、アイツの傍にいてやりたいとさえ思っていた。そんな感情の変化が自分でもすげー驚きなんだけど、幼さと大人と言う境界線上で揺らいでいるアイツをしっかりと、もう一度この腕に抱き締めてやれたらいいのにって…夢に感化されて豪くロマンチックになっちまってるな、俺。
 あんなのはただの夢なのに。
 人殺しの蒼牙をどうするかって言う、根本的に頭を痛ませる現実がかもん!と指先を振って挑発してくれてるってのに…はぁ、どうするかな。
 枕元に置いてある時計を見たらまだ午前3時で、どうやら一時間も寝ていなかったようだ。
 おかげで身体が酷くだるくて、倦怠感がガッチリと羽交い絞めにしてきてるみたいに腕を上げるのも億劫だ。
 辺りはまだ夜明け前で暗くて、このまま目を閉じていたらもう一眠りできるんじゃないかと思っていた矢先、静まり返っている空間に何かを踏み締めるような音を聞いたような気がした。

(あれ?もしかして、また小手鞠たちが来たのかな)

 ふと上半身を起こした俺は、ちょっとした好奇心も手伝って、障子を少し開けて庭にいるだろう小手鞠たちの様子を窺おうとした、窺おうとして、ドキッとしてしまう。
 そこに、月明かりに幻想的な庭に佇んでいたのは、不思議な青みを帯びた青白髪の蒼牙だったからだ。
 腕を組んで、静かに下弦の月を見上げている。
 その横顔は夢の中の小さな蒼牙と違い、大人びて、もう誰の手助けだっていらないんじゃないかって思えるほど毅然として、そして凛としていた。
 蒼牙…その手を血に染めて、手に入れようとしたのはなんだったんだ?
 盗み見ていることを知っているのかもしれないし、もしかしたら全く気付いていないのかもしれないけど、それでも俺はこのままただ呆然と月を見上げる蒼牙を見ているのもどうかしてると思って、意を決したようにソッと障子を開いて広縁に出ると、靴を履いて庭に降りたんだ。 その時ですら蒼牙が俺を見ることはなかったけど、同じように肩を並べて半月を見上げる俺に、引き締まっていた蒼牙の口許がほんの僅かに緊張を解いたのが見て取れた。

「目が覚めたのか?」

「おかげさまでね、庭に闖入者がいたからなー」

 俺を見ようともしないで話し掛けてくる蒼牙に、ああ、もしかしたらやっぱりコイツは、あの場所に俺がいたことに気付いていたんじゃないかって思ってしまった。
 その閃きは十中八九当たってると思う。

「月が綺麗だな」

 呟けば、蒼牙のヤツは少しだけ眉を上げてから、その口許に笑みを浮かべながら「そうだな」と頷いた。

「弦月の儀は済んだのか?」

「…見ての通りさ」

 あらゆる意味合いに取れる返事の仕方をしてから、蒼牙は仕方なさそうに肩を竦めて見せた。

「…俺を殺さないのか?」

 ポツリと呟いたら、その時になって漸く、蒼牙は俺を見た。
 その眼差しには何の感情も浮かんでいないくて、見詰め合ったままで弱気の俺は、言ってしまった言葉を取り消すことも出来ずに内心でどうしようとアワアワと七転八倒していた。まさか、そんな内情が判ったとか言うんじゃないだろうけど、蒼牙のヤツはもう一度肩を竦めてから、ゆったりと腕を組んで半月を見上げて言ったんだ。

「呉高木の神事は神聖だ。だが、これから花嫁になり、生涯を俺の傍らで過ごすアンタをどうして殺さないといけないんだ?」

「…」

 その言葉になんと言ったらいいのか判らなくて、いや違うな、ホントは聞きたいことが山ほどあったんだ。
 先輩たちはあの後どうなったんだ?
 どうして、人を殺めてしまったんだ…
 何か言いたいのに、さっきはあれほどスラスラと言葉が出てたって言うのに、重要な部分になると咽喉の奥に何か錘でも押し込まれちまったみたいに言葉が出てこない。

「…聞かないのか?」

 クスッと笑った気配がして、俯きがちになっていた俺が顔を上げると、下弦の月をバックに蒼牙が笑いながら俺を見下ろしている。
 その目が、どうしてだろう、まるで取り残された子供みたいに寂しげに揺れているような気がして、俺は居ても立ってもいられなくなっていた。
 思わず組んでいる蒼牙の腕を掴んで、不思議そうな顔をするヤツを、あの夢とダブってしまっているその顔を覗き込んで俺は言ったんだ。

「悪いのは蒼牙じゃない。こんな辺鄙な場所で、過去の因習に囚われてる大人たちが悪いんだ!」

 少しだけど、呆気に取られたような驚いたような顔をする蒼牙に、それでも俺は言わずにはいられなかった。
 人殺しだと、罵られるって思っていたんだろうその顔は、ほんのちょっと、ともすれば見落としてしまいそうなほどほんの僅かだったけど、ホッとしたように安堵を浮かべているようだった。
 お前にそんな顔をさせるのは、出来損ないの大人たちなんだ。
 まだたった17歳なのに、本当なら高校に通って、友達と試験の結果に一喜一憂しながらバイトの話とか、もしかしたら隣りの女の子の話とかで盛り上がってたってちっともおかしかないんだぞ。
 こんな辺鄙な村で、孤独ばかり抱えて、呉高木と言う重圧に耐えながら未来を見据える、そんな顔をする年齢じゃないんだ。

「蒼牙!一緒に警察に行こう。一から遣り直して、今度こそお前らしい人生を生きるんだ!」

 警察に行ってしまって、もう一度更正できるかどうかなんて判らないけど、でも、蒼牙ならきっと遣り直せる。それだけの強い意思を持っているんだから…

「警察?」

 ふと、蒼牙は笑ったようだった。

「駐在さえ認めない、起こってもいない事件に日本の司法が動くとでも思っているのか?アンタはお目出度いな」

「でも、あの子は…」

「高柳の息子は長らく癌を患っていた。今日、明日の命だったのさ。だから、医師の診断では『病死』だ」

 何もかもが、今日の為にお膳立てさせられていたような奇妙な違和感に、目の前が思わずぐにゃりと拉げてしまったような気がして、俺は蒼牙の腕を掴んだままで蒼褪めていた。

「長いこと延命に金をかけてきたが、それも限界だった。できれば助けてやりたかったんだが、今の医学では末期の悪性腫瘍は治らない」

 どこか言い訳でもしてるように呟いた蒼牙に、それで俺はますます、さっき感じた違和感が確固たるものになったような気がしたんだ。

「この日の為に、生き長らえさせたって言うのか?」

「…家族がそれを望んだ。俺が口を出す範囲の問題じゃない」

「どうして!」

 どうしてお前はそんなに冷静でいられるんだ!?
 ひと、一人の命をその手にかけて、病気だったからいいのか??
 悔しかった、ほんの少しでも蒼牙の気持ちを信じてみようと思っていた矢先に、こんな風に自分の為だけに人の命すらも利用しようとする蒼牙の気持ちが、判らなくなっていた。

「俺には理解できない。この村はどうなってるんだ?蒼牙、お前は一体何者なんだ!?」

 思わず掴んでいた腕に力を込めて、引き寄せるようにしてその顔を覗き込めば、屈託さもあどけなさの微塵もない冷めた双眸で俺を見詰め返した蒼牙は、唇の端をシニカルに捲りあげたんだ。

「俺は、俺だ。アンタが理解しようがしまいがそんなことはどうでもいい。アンタは俺の妻としてこの屋敷にいればいいんだ」

「俺の感情なんかお構いなしなんだな。呉高木家は人の命すらも自由にできる神にでもなったつもりなのか?」

 辛辣に言い放ったら、蒼牙のヤツは肩を竦めながら呆れたように笑いやがるから余計に俺の神経を逆なでしやがるんだ、畜生!

「…この世に神などいやしないさ」

 ふと、ポツリと呟いた蒼牙を、ギリギリと奥歯を噛み締めて睨みつけていた俺は、その人を喰ったような小生意気そうな顔が一瞬、物言いたげな表情に変わった気がして激しく憤っていた激情が消沈してしまった。
 神などいない、蒼牙の呟きには心情が篭もっていて、激しく責め立てたところで答えなんかきっと見付かりっこないってこと、俺だって充分よく承知してるはずなのに…
 俺は、蒼牙を大人として裏切らないって覚悟を決めていたじゃないか。

「いるとすればそれは、人の皮を被った化け物だ」

 毅然と言い放った蒼牙は、掴んでいる俺の腕を離させると、食い入るように、きっと泣き出しそうな顔をしているに違いない俺を見詰めてから、何かを思い切るように溜め息を吐いたんだ。

「もう、寝ろ。今日は何かと心身に負担をかけただろう。できるならゆっくり休め」

 そう言って、蒼牙は俺を振り返りもしないで離れに向かって歩き出した。
 その背中を呼び止めて、もう一度話がしたいと思ったけど、それを絶対的に拒絶する蒼牙の背中は言葉を掛ける隙すら与えてはくれなかった。
 そうしてまた、お前はたった独りで孤独を、永遠に拭い去れない罪を罰として心の奥深い場所に抱え込むんだろうな。生まれてから、いったいどれほどこんなことが起こっていたんだ?
 実の祖父と義父に抱かれていた過去すらも、お前は胸の奥に秘めて語ろうともしない。
 誰にも言わないし、誰も聞いてくれないと思ってるんだろ?
 俺は。
 蒼牙の立ち去った後の庭に佇みながら、両の拳が白くなるほど握り締めていた。
 俺は…
 夢の中で幼いお前に約束したんだ。
 きっと。
 お前を独りぼっちになんかしない。
 その腕を今度こそ、離したりはしない。

第一話 花嫁に選ばれた男 10  -鬼哭の杜-

 夕食に食いっぱぐれることなく主屋に戻った俺たちは、夕食までの時間をブラブラとして過ごしていたんだ。途中で高遠先輩にばったり会ったけど、気まずいのか、どちらも目を合わせずに通り過ぎようとして、擦れ違いざまに先輩から「このオカマがッ」と小さく吐き捨てられた時は正直少しショックだったけど、ムキィと腹を立てて牙をむこうとする繭葵の口許を押さえて、俺はサッサとその場を後にした。

「どうして黙ったままで逃げるんだい!?」

 向かっ腹を立てている繭葵が凄まじい形相で振り返るから、俺は肩を竦めて息を吐いたんだ。

「まあ、一般常識で考えれば仕方ないだろ?」

「ふん!判ったような顔してさ。それじゃ、蒼牙様だって馬鹿にされても仕方ないって、君はそう言うのかい?」

 繭葵が詰め寄るようにして俺を見上げてくる。
 言いたいことがよく判るから、俺は仕方なさそうに目を伏せた。

「そんなこと言っちゃいないさ。ただ、先輩は明日にはもう帰るんだ。こんなところで事を荒立てたって、却って蒼牙に迷惑をかけるだけだろ。今夜は大事な神事があるワケだし」

 な?っと目線を上げると、繭葵は納得がいかないとでも言いたそうな悔しそうな顔をして、高遠先輩が立ち去った方向に向かって思いっきりあっかんべーと舌を出したんだ。
 まるで子供みたいな仕種をした繭葵は、それでも憤懣やるかたないのか、俺に振り返ると。

「なんだよ、大人ぶっちゃってさ!臭いものには蓋をしろって?そう言う、事勿れ主義だから小雛に付け入られるんだよ!」

 俺の鼻面にビシィッと指先を突きつけてくる。
 う。
 なんだよ、繭葵のヤツ…

「話を…聞いてたのか?」

「ううん、別に。なんとなく、そうかなーって」

 思わずガックリしそうになった俺は、もういいから、飯に行こうぜと言ってプリプリと腹を立てている繭葵を促して広間に向かった。飯と聞くとこの、驚くほど好き嫌いのない健康優良不良爆弾娘は、コロッと今まで険悪だったムードを払拭すように機嫌がよくなるから…コイツってホント。
 広間に入って繭葵と顔を見合わせたのは、上座に蒼牙が面倒臭そうに胡坐を掻いて座っていたからだ。
 注目されることはとっくの昔に慣れているのか、気怠そうに片手で扇を弄びながら、肘掛に頬杖をついて立て膝で座っている蒼牙は、浴衣の裾から素足を覗かせていて、ガラにもなく俺はドキッとしてしまった。
 巫女装束の時もそう思ったけど、蒼牙は確かに綺麗だと思う。
 ただ綺麗ってだけじゃなくて、なんと言うか、危うさが常に漂っているような、傍にいて腕を掴んでいてやらないとどこかに行ってしまいそうな、そんな物憂げな雰囲気がある。
 まあ、どう言ったってよく判りゃしないんだけどなー

「光太郎くん!…蒼牙様、どうしているんだ?弦月の儀はどうしたんだろう。あ!まさかもう、終わったとか!?」

 メチャクチャ動揺する繭葵に、俺はいつもの席に繭葵と一緒に腰を下ろしながらコソッと耳打ちしたんだ。

「バッカだなぁ。飯時にいなかったらすぐに弦月の儀の時間帯が俺たちや先輩たちにバレちまうだろ?だから、食事とか風呂には入ると思うぞ。たぶん、ホントに弦月の儀が行われるのは…真夜中じゃないかな」

「…そうか、弦月の儀。つまり、呉高木家の神事は月に左右されるんだったね。月が真上に来る真夜中…そう考えれば合点がいくね。光太郎くん、あったまいーじゃん!」

 お前のことだ、俺の脳味噌なんかスカスカで、聞いた端から耳やら鼻の穴から零れ落ちてるとでも思ってやがってたんだろ。俺だってこう見えても、イロイロ考えてるんだぞ。
 繭葵は相変わらず失礼なヤツだなー
 そんなことを考えながらチラッと蒼牙を見たら、ヤツは扇で遊びながらこちらをジッと見詰めていた。
 だから、俺がドキンッとして顔を真っ赤にしたとしても何も問題はないと思うし、そんな俺を蒼牙がニッと笑う方がおかしいんじゃないかと思うんだけど。
 いつもは人目なんか憚りもせずにこっぱずかしい台詞をガンガン並べ立てるくせに、今日の蒼牙は殊の外静かだった。
 俺の大嫌いな魚料理に黙々と舌鼓を打っているし、半分以上残してる俺に対しても別に身体を気遣うようなこともなかった。まるで別人みたいだと思って眉を寄せながら庭に出ると、空にポッカリと下弦の月が浮かんでいる。月齢20歳、旧暦名だと二十一夜になる半月、今夜、何が起こるんだろう?
 弦月の儀とは、いったいどう言うものなんだろう。
 別に、それほど気にもしていなかった呉高木の神事が、唐突に気になりだしてしまったのは、それはたぶん、俺の中の本心が花嫁になることを受け入れてしまった証で、そして、小雛の言葉のせいなんだろうと思う。
 何より、桂の話では普通の朔の礼、つまり婚礼では『弦月の儀』は執り行われないんだそうだ。蒼牙のお袋さんで、桜姫のときも『弦月の奉納祭』しか執り行われなかったらしい。特別な時にだけ執り行われる神事は、呉高木家の歴史では遠い昔に、一度あったのを最後に現在までは誰も行っていない。昔は比較的よく執り行われていたらしいんだけど、現代に入ってすっかり鳴りを潜めていた『弦月の儀』を、蒼牙はどうして執り行おうなんて思ったんだろう…まあ、俺なんかが考えたって判るもんじゃないんだろうけどな。

「楡崎様。夜風はお身体に障ります。どうぞ、屋敷にお戻りくださいませ」

「桂さん。うん、でもさ。月が綺麗なんだよ」

 俺の身体を案じてくれる、蒼牙の影のように付き従う桂に振り返りながら、天空にポッカリと浮いている半月を指差しながら小さく笑った。すると桂は縁側に正座したままでハッとしたような顔をしたけど、すぐにもとのポーカーフェイスに戻って微かに頷いたんだ。

「月は時に人を惑わせてしまいます。楡崎様のお姿がお隠れあそばせば、蒼牙様がお気に病みますのでどうか、屋敷にお戻りくださいませ」

 そうか、今夜は大事な神事があるもんな。
 それでなくても大切な神事があって神経がピリピリしているときに、俺がウロウロしてたら気になって仕方ないんだろう。桂は表情こそ変えないけど、心配そうなその気配を、迷惑そうだと思い込むのは天邪鬼な俺の悪いクセだ。

「あー、はいはい。判りました、戻りますよ」

 桂が幾分かホッとしたような表情を見せたから、どうしてそんなに心配するんだと首を傾げてしまう。
 まあ、昨日逃亡としたときも、夜はヤバイと蒼牙も心配していたから、こんな妖怪でも徘徊してそうな村なら何が起こっても不思議じゃないんだろうがな。
 小手鞠の正体を知ってしまえば、素直に桂の言うことを聞くほうが賢明だとは思う。
 あ、それとも。
 昨夜俺が逃亡したから、また逃げ出すんじゃないかって心配してるのかな?拙いことをしちまったなぁとは思うけど、あの時はああするしかなかったんだ。それに!そもそも蒼牙が悪いんだ!勘違いするようなこと───…そう言えば。

「そうだ、今日の蒼牙はちょっとヘンじゃなかったか?桂さん、アイツ。本当に蒼牙だったのか??」

 首を傾げる俺に、はて?と言いたそうな顔をした桂は、ああ…と思い至ったのか、畏まって正座したまま首を左右に小さく振って答えてくれた。

「奉納祭を終えてから神事を執り行うまでは、嫁御さまと言葉を交わすのは禁じられているそうでございます。なので、蒼牙様は楡崎様がお食事を召し上がっておられなかったのを大層心配してお出ででしたが、お言葉に出来ないと悔しがっておられました」

「そうだったのか!…なんか、神事ってイロイロあって大変なんだなぁ」

「世にも得難い嫁御さまを娶られますので、それは致し方ない試練でございます。蒼牙様は喜んで臨まれてお出でだと思いますよ」

 蒼牙が言わなきゃ桂が言ってくれるこっぱずかしい台詞に、俺は頬が熱くなるのを感じながら困ったように苦笑してしまった。

「楡崎様。蒼牙様からの言伝でございます。今宵は仕事部屋に篭もられるそうですので、お先にお休みになってくださいとのことです」

「え?ああ、そっか。はい、判りました」

 俺が素直に頷くと、桂は小さな微笑を口許に浮かべて深々と頭を下げたんだ。
 この人のこう言うところって、なかなか慣れないんだけど、その微かに見せるようになった微笑は、案外お気に入りだったりするんだ。
 もっと笑ってくれたらもっと親しみ易くなれるのに、でもそれは、ポーカーフェイスが専売特許の桂としては、執事の鑑のような彼には無理なことなんだろうなぁとは思うから、無理強いはしたくないけどな。
 広間はお手伝いさんたちが片付けを始めていたし、不機嫌のオーラを漂わせていた高遠先輩は時折ギロッと蒼牙を睨んでいたけど頭から無視されて、さらに湯気でも出そうなほど腹を立てて民俗学研究部の仲間を引き連れて早々に部屋に引き揚げてしまっていたし、伊織さんも眞琴さんもさっさと部屋に戻ってしまったようだった。残されているのはお手伝いさんと、俺が食べ残してしまった魚を物欲しそうに見ていたら、見兼ねたお手伝いさんが台所にあったらしいお菓子をくれるのを喜んで戴いている繭葵ぐらいか…

「大概、食い意地が張ってるよな」

「うっさいね。魚を半分以上も残す光太郎くんには言われたかないね」

 フンッと外方向いてムシャムシャと饅頭を頬張る繭葵に、なんだと、この野郎と睨んでいると、クスクスと笑う声がして振り返ったら、手を止めてしまっていたお手伝いさんたちが慌てたように作業を再開するから、俺は肩を竦めながら意地汚い繭葵を指差して言ったんだ。

「コイツに餌付けしたら駄目だよ。懐かれるからな」

「えー、いーじゃん。いつも食後のお菓子は貰ってるもんね♪」

 繭葵が反論するように言うと、引っ込み思案なのか、それとも俺と口をきいてはいけないとでも思い込んでいるのか、お手伝いさんたちは顔を見合わせると、恐る恐ると言った感じで口を開いた。

「はい。繭葵様にはいつも、残り物で申し訳ないのですがお菓子を差し上げています。ですが、迷惑ではありません」

「え?そうなんだ。じゃあ、俺にも頂戴よ」

 エヘッと繭葵を見習って笑ってみると、妖怪娘は「むむ!?ボクの専売特許を取ったね!父さんだって取ったことないのに!!」と、どこかで聞いたことがありそうな台詞を言いやがるから、お手伝いさんたちは肩を寄せ合うようにしてクスクスと笑ったんだ。

「私たちのくわっしゃるもんで宜しければ、ようけありますから、嫁様もどうぞたべなっしてください」

 この村の方言なのか、蒼牙たちが標準語で話しているせいで少しも気付かなかったけど、聞きなれない言葉で話す彼女はニコニコ笑いながらエプロンのポケットから紙に包んだ饅頭を取り出して両手に包み込むようにして俺に差し出してきたから、俺は礼を言ってそれを受け取った。

「ありがとう。丁度甘いものが欲しかったら嬉しいなぁ」

 笑いながら早速口にすると、どうもそれは手作りのようで、合成甘味料の使われていない自然の甘さは、ほろほろと口の中で溶けていく。一言で言うなら、正直旨い!
 さすが、繭葵。食い意地が張っている分、旨いものは見逃さないと言うことか。

「旨いなー、これ。繭葵が内緒で餌付けされてるワケだ」

「む!人聞き悪いこと言うじゃないか。どーせ、光太郎くんもその味を覚えたらメロリンになるんだからねー」

「もうなってます」

「うは♪」

 俺たちの会話を聞いていたお手伝いのお姉ちゃんたちはクスクス笑ってるし、俺に饅頭をくれた子も嬉しそうに頬を染めながらニコッと笑った。

「それは私が作りましたけ、毎日ようけあります。嫁様にも差し上げます」

「ホント?いえー、やったぜ♪」

 そう言って親指を立てながら繭葵を見下ろすと、ヤツは胡乱な目付きで俺を見上げながら、クッソーッと言いたそうに歯を剥いていたけど、すぐにニシシシッと笑いやがったんだ。

「ね?食後に部屋にすぐ戻るんじゃなくて、ここにいたらこんな美味しいデザートに有りつけるんだよ♪新発見におっどろきだね!」

「だなー」

 そんな遣り取りをお手伝いさんたちは互いの顔を見て笑いながら、そろそろ部屋の片付けに取り掛かったから、俺たちは邪魔にならないようにお礼を言って広間を後にした。

「じゃあ、真夜中…そうだね、でもやっぱり確実に神事を見たいから、11時半に集合しようよ」

「ああ。一風呂浴びて、散歩がてら小手鞠たちのところに行ってみるよ」

「コテマリ?」

「ああ、あの地蔵さん…」

 そうか、繭葵は知らないのか。
 そりゃあ、そうだな。この民俗学のことしか頭にない爆弾娘に小手鞠たちの正体でもバレようものなら…うわ、想像しただけで鳥肌が立っちまった。

「地蔵がコテマリって名前なのかい?」

「…いや、ごめん。間違えた」

「んー?なーんか、怪しいなぁ。光太郎くん、ボクに何か隠してない?」

「いや?別になんにも」

 空惚けて知らん顔すると、繭葵は回り込むようにして俺の顔を見ようとしていたけど、どうしても外方向くもんだから悔しかったのか、「とお!」と言って向こう脛をまたしても蹴りやがったんだ!

「いってー!!」

「そりゃ、痛いよ。痛いように蹴ったんだ。だがまあ、今回の件は光太郎くんの痛がる顔を見られたから許すけど、この繭葵ちゃんに隠し事なんてナッシンよ!」

 お前はどこの何様だよ、くそぅ。

「じゃあ、11時半に絶対だからね!」

「はいはい、必ず行くよ」

 じゃないと、お前1人で行かせたら絶対!何か良からぬことが起こるって嫌でも予感がヒシヒシしてるもんな。絶対について行かないと、いや、ついて来るなって言われてもついて行きたい気分だぞ。
 最初は嫌だったんだけど、繭葵を1人ってのも怖いしなぁ。
 知ってて知らないふりなんて、やっぱり俺にはできないから。
 それじゃあね、と言ってから、繭葵はまるで野兎のような敏捷さでサッサと何処かに消えてしまった。
 アイツ、いつもどこに行ってるんだ?
 なんにせよ、ここは妖怪も住まう奇妙な屋敷だ。
 繭葵が調べたいことなんか山ほどあるんだろう。
 厄介なことにならなきゃいいんだが、とか思いながらも、何処かでワクワクと楽しんでいる自分がいることもまた事実だから…俺は、仕方なく溜め息を吐くんだ。
 俺も大概、野次馬だよなってさ。

 小手鞠たちがジーッと俺を見上げている。
 屈みこんで自分の腿に頬杖を付きながら見下ろす小手鞠たちは、小さな石の身体を寄せ合うようにしてニコニコと笑っている。でもよく見ると、その笑顔が困惑してるのか、月明かりの下だと劇画ちっくで不気味だ…

「今夜は喋ったらダメなんだぞ。繭葵のヤツが来るからな。そうしたらお前たち、あの妖怪娘に石の髄までしゃぶり尽くされて、学会で発表されたら一生見世物扱いだ」

『うぬ、嫁御よぉ』

『儂らを見世物にできる者など誰もおらんのじゃぁ』

『その妖怪娘とやらをのぉ』

『儂らが喰ろうてしまうぞぉ』

『ふぉっふぉっふぉ』

「だから、笑い事じゃないんだって」

 一部で聞き捨てならない台詞に眉を寄せながら、付いていた頬杖を解いて溜め息を吐いて立ち上がると、やっぱり小手鞠たちはジーッと笑顔で俺を見上げてくる。

『時にのぉ』

『嫁御よ』

 やれやれと眉を寄せながら、繭葵が来るまでになんとかこの判らんちんの小手鞠たちを言い包めようと企んでいる俺は、にこにこ…と言うか、困惑したような劇画顔でニタリと笑っている地蔵の群れを見下ろしていた。

「な、なんだよ?」

『こんな夜更けに散歩かのぉ?』

『桂の姿が見当たらんがのぉ』

 ギクッとした。
 そうか、昨夜も俺は逃亡して小手鞠たちに心配かけたんだった。
 あの時は頭が痛くなるほど泣いて、泣いて泣いて…もう、何もかもどうにでもなれって思ってたら、小手鞠がぴょんぴょん飛び跳ねながら上から降りてきたんだっけ。
 それで俺を取り囲んだんだ。
 何があったんだって、泣いてる俺を随分と心配してくれて…困ったな、また、小手鞠たちに心配かけてしまうんだなぁ。

『じゃがまぁ、今夜は泣いておらんのぉ』

 良かった良かったと言いたそうに顔を見合わせて笑う小手鞠たちに、俺は申し訳なく思いながら苦笑していた。何か言おうと口を開きかけた時だった、慌てたような足音が響いてその瞬間、小手鞠たちはまるで地蔵なんじゃないか!?と疑いたくなるほどコチンッと硬くなって、そのままムッツリと黙り込んでしまった。
 思わず突きたくなったが、肩で息をしながら大袈裟にゼィゼィ言ってる繭葵を見下ろしたら、小手鞠たちにちょっかいを出す気なんか失せてしまっていた。

「ご、ごめ!出掛けにさぁ…はぁ、疲れた。伊織さんから呼び止められちゃって。全力疾走で走ってきたよ」

「お前なぁ、そこまで飛ばさなくてもまだ充分、時間はあるはずだろ?」

 そう言って見上げた空には、下弦の月がポッカリと頂点に来ることもなく浮かんでいる。
 その姿は清廉な光に輝きながら、まるで無頓着に、俺たちなんか本当にちっぽけな存在だなぁと思わせるほど、淡々と浮かんでいるからちょっと哀しくなった。
 欲望の多い人間は、その高みに近付くことすら出来ないんだなぁ。
 月に降り立った宇宙飛行士は、その実態すらあやふやなんだから、人間は今一歩で立ち止まってしまうからいけないんだろう。

「…で、そうなるんだよ。ボクの狙いだとね」

「あ?あー、ごめん!聞いてなかった」

「グハッ!やっぱりそうじゃないかって思ったんだよね!なんか上の空っぽかったし、最近どうしたんだい?ボーッとしてることが多いみたいだけどさぁ」

「いや、なんでもないよ」

 そうは言ったが、良く考えるとホントにボーッとすることが多くなったような気がする。
 きっと、この村がいけないんだ。俺を花嫁として本気で迎えるなんて…誰か、誰かが反対してくれれば、今頃その傍らに寄り添っているのは小雛だったのに。
 あ、そっか。
 直哉は反対したってのになぁ。
 唇を噛んだら、呆れたように繭葵が溜め息を吐きながら見上げてきた。

「また下らないこと考えてるんだね。でも、今夜はもう相手にしないからね!今日は待ちに待った『弦月の儀』だよ!!ほら、ボサッとしてないでついて来るッ」

 ボグッと、何やら鈍い音を立てて背中を殴ってきた繭葵に、俺は思い切り咳き込みながら涙の霞む目であの健康優良問題児を睨み付けながら、サッサと山の中を掻き分けて入っていく唯我独尊娘の後を慌てて追ったんだ。
 その背後でふと、小さな声が聞こえたような気がした。

『嫁御が弦月の儀に向かう』

『なんたることか…いや』

『或いは罪深い龍の子』

『侮れぬ龍の子』

『致し方あるまい、見守るのじゃ』

 呟きは突風に吹き消されて、俺の空耳でしかなかったのかもしれない。
 いや、そんなことよりも、早いところ繭葵に追いつかないと。
 俺は暗闇の中、繭葵が持参した懐中電灯の明かりを頼りに奥へ、さらに深い山の奥へと、まるで永遠にぽっかりと開いている無限の闇の中に飲み込まれるような錯覚がして、思わず身震いしてしまった。

「ふふーん♪今から震えてたら吃驚することが起こったときに腰を抜かしてしまうよ」

「ふ、ふん!これは武者震いだ」

「へー、そう言うことにしといてやるよ♪」

 どうだかねーと言いたそうにニヤニヤと双眸を細める繭葵に、本当だってばと言い訳しながら、俺はひょっこりと毒蛇でも顔を出してくるんじゃないかと冷や冷やしながら歩いていた。
 ふと、躊躇いもなく真っ直ぐに進んでいた繭葵が、そのまま歩きながらポツリと口を開いたんだ。

「光太郎くん。今回は巻き込んでしまってごめん」

「へ?なんだよ、突然。急にしおらしくなったらビビッて腰抜かしちまうぞ♪」

 唐突な繭葵の声音の低さに、ふと、何か嫌な響きを感じたような気がして殊更俺は、明るく振舞ったんだと思う。
 繭葵はそんな俺に溜め息を吐いたけど、それでも毅然と前を見据えたままで言ったんだ。

「光太郎くんは何も知らないのに…ボクはきっと、蒼牙様に殺されてしまうね」

「な、何言ってんだよ?そんな、改まるなよ」

 繭葵の声音は低かったし、その言葉はとても慎重だった。
 こんな山の中でそんな物騒なこと言ってくれるなよ…と、俺が思わずにはいられないってのに繭葵のヤツは、それでも黙ろうとはしないんだ。それならいっそ、もっと楽しい話をして欲しい。

「あのね、光太郎くん。この山は通称、『鬼哭の杜』って言われてるんだ」

「山なのに、杜なのか?」

「うん、だってここは巨大な神社だからね」

 神妙に頷いて小さく笑う繭葵に、自分のボキャブラリーのなさにバツが悪く思いながら、俺はもう黙って彼女の話しに耳を傾けることにした。
 繭葵は少し言葉を詰まらせて、眉間に皺を寄せながら首を傾げている。

「その意味がどんなものなのか、ボクには判らないんだけど…『鬼哭』と言われるぐらいなんだから、何だか凄惨なイメージって浮かばないかい?」

 そう訊ねられても単純な俺の脳味噌だと、周囲を見渡しても、毒蛇だとか薮蚊とかさえ気にしないんでよければ、それほど陰鬱なイメージを感じることはできなかった。

「いや、言葉だけならそうかもしれないけど。俺はこの山は好きだけどな」

「好き嫌いの問題じゃないってば。うもー、ちゃんと言葉の意味判ってんのかい?」

 失礼なヤツだな!…と、俺は肩を並べて道とも言えない獣道を、ああスニーカーを履いてきていて本当に良かった!と心底思いながら、草木を揺らしてムッツリすると、繭葵のヤツは仕方なさそうに鼻先で笑いやがったんだ。
 とことん、失礼なヤツだ。

「この村は驚くことばかりだよ。ちょっと話せば親しみ易い人ばかりなのに、核心に触れた話しをすると途端に擦り抜けて行くんだ。まるで、そうだね。まるで、余所者には用はないって言われてるようで悔しいよ。その点で言うなら、光太郎くんはもう呉高木のお嫁さんだから、もしかしたらこんなことしなくても蒼牙様が弦月の儀について説明してくれたかもしれないのに。ごめん」

 繭葵は一気にそこまで話すと、申し訳なさそうに、まるで溜め息みたいに語尾を呟いたんだ。

「謝るなよ!ハッハ、最初からヘンな出会いなんだしさ。俺たち、どーせ悪さして見付かるのは運命共同体なんだぜ?グチグチ思い悩むのは繭葵らしくねーよ」

 そう言って軽くその背中を叩いてやると、繭葵はちょっとキョトンッとして、それからどこか痛そうな、ムスッとした顔をして俯いてしまったんだ。
 うわ、俺ヘンなこと言っちまったかな?
 慌てて弁解しようと言葉を探していたら、繭葵のヤツは子供みたいに唇を尖らせると、俺の背中を、俺が叩いた3倍にして殴り返してきやがったんだ!グヘェ!!

「イッテーなもぅ!お前は手よりも先に口は出せないのかよ!?」

「こう言う性格なんだ、仕方ないでショ?光太郎くんって凄い親しみ易いって思ってたんだ。話せば話すほど魅力的だし。強ち、ボクが朝に言ったことは嘘でもないんだよ」

 ん?朝に言ったことって…あの、俺を好きだとかなんだとか言う話か?
 また、コイツ特有の冗談が始まった。

「ボクは光太郎くんが好きだよ。でもそれは、友人としてなんだ。だって君は…」

「俺は?」

 いつもだ、いつもここで話が途切れてしまう。
 あの時もそうだった。
 繭葵が何か言いかけたとき、眞琴さんがさらりと止めてしまった。
 でも、いまは期待なんかしちゃいない。
 どうせ繭葵のことだ、だって光太郎くんは蒼牙様のお嫁さんだもんねーとかなんとか、そんなことでも言い出すんだろうと高を括っていたから。

「君は、欧くんにソックリだからね♪もうね、あの子も抜けてて困るんだよ。大事な資料とか平気で忘れてくるし、ボクがいないと今日からでも生きていけないんじゃないかって思ってさ。お人好しでどんなことにも心を砕いて…絶対、振り込め詐欺に引っ掛かるタイプだよ」

 ハァッと溜め息を吐いて頭を左右に振る悩める繭葵には悪いが、俺はその話題になっている欧ってヤツが可哀相になっていた。
 コイツといれば振り回されっぱなしなんだ、そりゃあ、随分とお人好しなんだろうなって思うよ。
 繭葵と一緒に行動ができてるぐらいなんだからな。

「…そんなに心配してるのに、欧ってヤツは置いてきぼりか?」

 ニヤニヤ笑ったら、繭葵のヤツはムーッと下唇を突き出すようにして俺の顔を見上げてきたんだ。

「ボクは曲がりなりにも花嫁候補だったんだよ?男である欧くんを連れて来るワケにいかないじゃないか。欧くんはついて来たがっていたんだけどね」

 その口調は、どうやら繭葵もついて来て欲しかったようだ。
 それでなんとなく、本当は繭葵のヤツは『生涯独身宣言!』なんて馬鹿なこと言ってたけど、その欧と言うヤツに惚れてるんじゃないだろうかと…勝手に妄想してしまった。
 そうして考えると、この勝気そうな瞳をした、真っ暗な闇が支配する山の中で、やけに物騒な『鬼哭』なんて発言する豪胆振りを窺わせはしているとしてもだな!…やっぱ、女の子なんだなぁと思ってしまう。
 よく見れば身体も小さくて、肩も驚くほど細いし…そんなことを俺が考えていたら、繭葵のヤツは軽く息を吐き出してフイッと視線を外してしまったのだ。

「くっそー、ここにアイツがいたら、光太郎くんを抱えさせてもっと早く進めるんだけどなぁ」

 ああ、利用してるだけなのか。
 そうか、少しでも繭葵に女らしさを求めちゃいけなかったのか。
 頑張れ、俺。
 ひっそりと笑いながら拳を握ったら、不意に足を止めた繭葵に思わずぶつかりそうになって俺は慌てて謝ろうとして、問題娘に「シッ!」と片手で制されてしまった。
 小さな身体ではあるがそのぶん小回りが利いて、フットワークのよさはぴか一だ。

「どうやら、本番には間に合ったみたいだね」

 そう言ってニヤリと笑った繭葵に倣って腰を屈めようとして、ふと、繭葵が草や木の影に隠れながら睨むようにして見詰めている先を見て驚いた。
 そこには、夕方に見た巫女装束とは違う、まるで平安時代の着物とでも言えばいいのか、真っ白なのに銀糸で彩られた着物は月明かりの下で幻想的だった。なのに、その顔をスッポリ覆ってしまった白頭(しろがしら)…まあ、能とかで蓬髪に般若の面(おもて)の、良くある赤い髪じゃなくて白髪バージョンのことなんだけど、専門用語は繭葵が興味深そうに教えてくれた。
 その目付きは爛々としていて、なんだか訊ねるのが申し訳なく思ってしまう。
 だってさ、すげー楽しそうなんだ。
 俺にしてみたら、こんな真夜中、篝火と月明かりだけで観客もいない舞台で舞を舞うなんかどうかしてると思うんだけどなぁ…

「違うよ、光太郎くん。あそこには、この村の龍神が舞い降りてるんだよ。だから、誰にも見せてはいけない能楽なんだ」

「へ?」

 コソコソと覗き見している身の上としては極力聞こえないようにひそひそと話してくる繭葵に、俺は眉を顰めながらその顔をチラッと見た。あそこのどこに、そんなご大層なヘビもどきがいるってんだ?

「祝言能にしてはヘンだね。高砂でもないし、あれは…岩船?それとも…春日龍神かな。どちらにしても、あの能楽の演目、ボクはまったく見たことがない。ってことは、あれが代々呉高木家に伝わる曲目なんだね」

「そ、そうなのか?」

 ポンポンッと聞き慣れない名前が次々と出て俺が戸惑っているからって、脳味噌がスカスカなんて笑うなよ?どうせ、今の繭葵の台詞を聞いてるヤツがいたとして、その半分だって理解してないんじゃないかって思うしな。

「曲目は『鬼哭の杜』。そんなの初めて聞くよ」

「あれ?その名前って…この山のことだよな」

「うん、たぶんそう。シテは蒼牙様だよね、やっぱり」

「シテ?」

「主人公のこと」

 軽く答える繭葵にそうかと頷いて能を舞う蒼牙に目線を移したとき、どうしたんだろう、俺はゾクッとしていた。
 蓬髪に埋まるように見える鬼の面をつけた蒼牙と、こんな草叢に身を潜めてビクビクしながら見ている俺の目が、まさか合うなんてことは…起こり得ないだろう。
 そんな有り得ない錯覚に冷や汗を浮かべた俺は、きっとアレだ、コンサートなんかで歌手と目が合うって言うあの現象だ。
 そうに決まってる。
 自分に言い聞かせるようにして気を落ち着かせた俺は、あの鬼の面の向こうからこんな所まで見えるわけがないんだと思い込んだ。
 だってさ、面に開いている視界のための穴って、驚くほど小さいんだそうだ。
 恐る恐る真剣に見ている繭葵に聞いたら、上の空でそう教えてくれた。

「そうか…流れはきっとあの舞が…」

 ブツブツと呟きながら眺めている繭葵を見ていると、どうやら、この『弦月の儀』は繭葵にとっては本当に興味深くて、どうしても見ずにはいられないぐらい魅力的なものだったんだろう。
 んー…この民俗学に於いては自分こそが神だとでも思っている唯我独尊問題児が、まるで知らない演目を蒼牙が舞っているんだ。そりゃあ、見たくて仕方なかったんだろうな。
 鬼哭の杜…か。
 それにしたって、ゾッとしない曲目だな。
 亡者の嘆き哀しむ声って意味だったよな、確か。
 亡者の嘆き哀しむ声のする杜…ってのも、なんか嫌な通称だなぁ。
 俺はこの山は好きなのに、こんなに清々しくて清廉とした静けさを持つ綺麗な場所なのにな。どうして呉高木の連中はこんな綺麗な場所で、そんな寂しい演目を舞うんだろう?

「…あ!子供が出てきたよ。ふーん、在り来たりといえば在り来たりなんだけど。時の帝が治める朝廷で叛乱が起こった。そこにいた近衛府の武士が、命辛々逃げ出して山村に下る。そこで鬼に間違われ斬り殺されたことを怨んで、とうとう怨念の塊に成り果てた武士が、村人たちを山中で惨殺していく。でもある時、村の娘が許しを請うんだけど。その時鬼になった武士は娘の胎にいた子を差し出せ、その子供の血を差し出せばなんでも一つ願いを叶えてやる。たとえば、村を救う…とか。そんな内容みたいだね。で、今、子供が元服を迎える年になったんだよ」

「…やっぱ、こう。お祝いの能なんだから、最後はその子供に助けられて、武士は救われる!…とかじゃなさそうだな、あの雰囲気は。うわ、俺見たくないなー」

 繭葵の長ったらしい説明をそれでも俺は興味深く聞いてたけど、僅かでもこの凄惨そうな演目に希望でもありやしないかと期待してみていたんだけど、怯えたような寂しそうな、そのくせ、覚悟すら決めているような気丈な眼差しをした少年が舞いながらシテ柱、えっと大きな舞台の向かって左奥にある柱の辺りに座り込んでしまったのを確認したら、どうも俺の考えは浅はかだったと思い知らされてしまった。

「なに、ホントに殺されるわけでもないのにヘンな顔してるんだい?光太郎くんがそんなに
感化され易いなんて───…ッ!」

「ッッ!!!」

 お互い、悲鳴を上げなかったのは天晴れだと思う。
 それもそのはずだ、気付けば俺たちは互いの口を押さえ合っていたんだ。
 悲鳴が息と一緒にコクンと咽喉の奥に嚥下されたとしても、俺たちは目の前の凄惨な光景から目が離せないでいた。
 覚悟を決めたように瞼を閉じた少年の頚にスラリとした、真珠色の月の光を反射させる綺麗な人殺しのための道具、刀が押し当てられていた。それで、演技なんだから終了じゃないのかよ!?って、思わず喚き散らしたくなったのは、蒼牙が躊躇いもせずに少年の頚をその刃で切り裂いたからだ!
 咽喉がパックリ割れて、鮮血が吹き零れた。
 頚動脈が断絶されて、止め処なく溢れる血液は蒼牙の真っ白な蓬髪と白い着物を真っ赤に染め上げていく。それでも蒼牙は何事もなかったかのように舞って、娘役の眞琴さんが至極当然のように、悲しげな女性の面をつけて舞いながら登場すると、その吹き零れる血を壷に受けて着物の袂で涙を拭うような仕種をしながらゆっくりと橋掛かりを渡って鏡の間に引っ込んでしまった。
 バクバクと心臓が飛び出しそうなほど動揺している俺がハッと繭葵を見ると、さすがに蒼褪めた彼女は額にビッシリと嫌な汗を浮かべたままで食い入るように舞台を睨んでいる。
 渇いてしまうんだろう唇を、何度も何度も舐めていた。
 きっと、今の俺もそうだ。

「冗談…だよな?」

「演技だって…信じたいね」

 少年の身体から生命の名残りのように流れ落ちていた血液でべったりと着物を真っ赤に汚したまま、彼はふらふらと何度か上半身を揺らして、それからガクリッと倒れ込んだんだ。ジクジクと板張りの床に染み渡るようにして流れて行く少年の生きた証は、まるで無情な鬼そのままのように、蒼牙は踏み締めて少年の周囲で扇を翳して舞っている。
 あまりに無頓着で、無関心な冷たい月のような姿は鬼の役としては上出来なんだろうが、見ている俺にとっては心臓がつぶされるような思いだった。
 そうして般若の形相で舞を演じていた蒼牙に、ふと、最後の名残りのようにガクガクと震える指先を伸ばした少年が、ヤツを見上げて何かを呟いたとき、蒼牙は微かに頷くような仕種をしていた。それにホッとしたような少年がガクリと倒れると、蒼牙は躊躇いもせずにその背中に留めでも差すように刀を突き立てたんだ!
 信じられない。
 ああ、とても信じられることじゃない。
 目の前が真っ赤になったような気がして、何か、これは遠い世界で起こっている非現実的な嘘なんじゃないかって…
 だって蒼牙が、人を…それも年端も行かない子供を…

「う、うわぁぁぁッ!ひ、人殺しだぁぁぁッッ!!」

「キャーッ!」

 俺たちとは反対の茂みに隠れていたのか、高遠先輩とあれは…確か香織とか言う先輩の連れだ。
 腰を抜かしたようにしてヘタれる彼女の腕を掴んで立たせながら、先輩は猛然と山の中に走って行った。その後ろ姿を…あれは、桂じゃないか!
 内容は知らないとか言いやがって!!
 桂が腰に差した鞘から抜刀でもする勢いで飛び出そうとしたが、ふと、鬼の面をゆっくりと外した蒼牙がまるで光の加減のせいなのか、それとも篝火を反射して?どちらにしても、まるで金色に見える双眸を細めながらニヤリと笑ったんだ。

「捨て置け、桂。今宵は『弦月の儀』、鬼哭の杜の亡者どもが魂までも喰らってしまうだろうよ」

「ですが、蒼牙様…」

「ククク…物見遊山の鼠などどうでもいい。愛しい妻に、滞りなく神事が終わったと報告をしてやらねばな」

「…出過ぎた真似を致しました。申し訳ありません、蒼牙様。光太郎様がお待ちでございます」

 桂が恭しく地面に直接膝を付きながら頭を垂れると、面と血塗れの刀を持った蒼牙は何がそんなに可笑しいのか、咽喉の奥でクククッと笑いながらゆっくりと背中を向けたんだ。

「高柳の息子の葬儀もしてやるんだぞ」

「畏まりました」

 平伏したままで桂が言うと、蒼牙はそれっきり振り返りもせずに仮設の舞台の橋掛かりを渡って鏡の間に姿を消してしまった。

「…た、大変だよ!光太郎くん、戻らないと」

「あ、ああ…判ってる」

 それでも膝が笑って思うように立ち上がれない、それは繭葵もそうだったのか、どれほど豪胆な気性の持ち主だとしても、繭葵も女の子なんだ。堂々とした殺人現場を見て気丈でいられるはずがない。
 ここは男の俺が確りしないと!
 笑い出す膝を叱咤しながら立ち上がった俺は、最後にチラッと舞台を肩越しに振り返ったけど、やっぱりあれが夢じゃないことを叩きつけるように、桂が事切れてぐったりとした少年を抱え上げて連れ出すと、他の呉高木の重鎮どもが舞台に飛び散ってしまった夥しい血痕を清め出していた。
 桂に抱えられた少年の、力をなくしてぶらぶらと揺れている血の気の失せた腕が、何故か脳裏に焼き付いて離れなかった。

「警察に…言うべきかな?」

 なんとか立ち上がってコソコソと山を降りる道すがら、繭葵がポツンッと呟いた。

「先輩たちが言うだろうから…明日には警察も来るさ」

「そっかな…さっき、蒼牙様が仰ってた言葉」

 覚えてる?と、眼差しだけで聞いてくる繭葵に、俺は息を呑みながら頷いた。
 もう慣れてしまっているはずの山道にそんなに息苦しくなるはずはない…から、きっとこれは、まだ動揺が収まっていないんだろう。

「鬼哭の杜の亡者ども…って、あれか?」

「うん。まさか、冗談だよね?」

 民俗学の中枢を担う期待の新星が、何を弱気な口調で言ってるんだよ!…って、励ましてやれたらよかったんだろうけど、ここは妖怪も棲みついてる奇妙な山だ。
 何が出てもおかしかないとは思うけど…それでも、一概には信じられない。

「なんとも言えないけど…取り敢えず、今夜は寝よう」

「う、うん。でも…光太郎くんは感情が顔に出易いから。蒼牙様に悟られないように気をつけるんだよ?」

「あ、ああ。任せとけ!」

 どこをどう歩いて下山したのかは判らないけど、俺たちは互いの顔を見合わせて必ず明日の朝日を見ようと約束し合った。どうしてそんなことしたのかは判らないけど、できれば、2人ともきっと、離れ難かったんだと思う。
 あんな場面を見せ付けられて、俺が平常で蒼牙の胸に抱かれて眠る…なんて器用なこと、きっとできないだろうと繭葵は心配しているんだろう。俺としては、トラウマにもなり兼ねないショックを受けたに違いない繭葵を、独りぼっちにするのが忍びなかったんだ。
 俺の空元気に一瞬困惑したような顔付きをした繭葵はしかし、それでも仕方なさそうに首を左右に振って溜め息を吐いたんだ。

「今夜はなんだかヘトヘトだね。眠れるかどうか判らないけど、眠れるんだったら、グッスリ眠ろう」

「あ、ああ。お前、大丈夫か?」

「なっ、に言ってんだよ、もう。ボクは光太郎くんの方が心配だよ。蒼牙様と夜明けまで一緒なんだからね?もうね、眠れるんなら寝る。それか、蒼牙様が来る前に寝たフリでもかましちゃえよ!」

 ウィンクされて、任しとけと反撃してやると、繭葵は少しホッとしたように溜め息を吐いて、それから名残惜しそうに別れたんだ。
 トボトボと歩いて行く繭葵の小さな背中を見送ってから、まだ動揺から立ち直れていない俺はそれでも、グッと拳を握り締めながら息を飲んでいた。
 きっと、大丈夫だ。
 そんな、途方もないことを考えながら、俺は鬼の寝室を目指すと震え出しそうになる両足を叱咤して歩き出していた。

第一話 花嫁に選ばれた男 9  -鬼哭の杜-

 『弦月の儀』を執り行うと言うことは、つまり『弦月の奉納祭』があるってワケで、俺たちのように遠い親戚にしかならない連中は『弦月の儀』にはお呼びじゃないそうだ。
 昨夜から異常に機嫌の良い桂が、本日の予定を事細かに説明してくれたが、肝心の『弦月の儀』についてはこれっぽっちも教えてくれない。だから、それとなくおねだりしてみたら、桂自身もその内容がどんなものであるのかは知らないとのことだった。
 うーん、怪しい。
 ムムムッと桂を睨んだところで、ポーカーフェイスが専売特許の桂にとってはどこ吹く風で、仕方なく俺は彼から聞き出すのを諦めることにした。
 裏山、まあ、龍刃山にでも散歩に行って、途中で小手鞠たちに会ったら昨日の礼でも言っておくかなーとか思いながら部屋を出ようとする浴衣姿の俺に、桂はやっぱり無表情のままで言ったんだ。

「蒼牙様にお尋ねになれば、或いは教えて頂けるかもしれません」

「うーん…今朝も試みたけど、怖い顔してダメだ!って切り捨てられちまったよ」

 トホホ…ッと眉を寄せる俺に、桂さんはソッと申し訳なさそうに眉を寄せて言った。

「漸く楡崎様がお心を開かれたのでもしやとは思ったのですが…申し訳ございません、浅はかな考えでございました」

 深深と頭を下げる桂に、俺は思いきり慌てて顔を起こしてくださいと言っていた。
 そんな、朝っぱらからこっぱずかしいこと言わないでくれよ~
 それでなくても今朝だって、目が覚めたら蒼牙のヤツがジーッと顔を覗き込んでいて吃驚したってのに。
 それも開口一番で。

「いつまで見ていても見飽きないな、アンタの顔は。一日だって見ていられる、愛しいからな」

 と、そんなふざけたことを言って俺を真っ赤にさせたんだ。
 耳まで赤くなっていたら、クソ意地の悪い蒼牙のヤツは、クスクスと笑ってそんな俺にキスをしてきた。啄ばむだけの、柔らかいキス。
 それはきっと、俺があの時、照れ臭いとか言いながら嬉しそうな顔をしたからだと思う。
 そう言うところは驚くほど素直なヤツだからなぁ…
 やれやれと溜め息を吐いていたら、無表情のままで桂がジッと見上げてきているのに気付いてハッと我に返った俺は、取り繕うように乾いた笑い声を出していた。

「…蒼牙様に愛されて、どうぞ、健やかなお子様をお授け下さいませ」

 ふと、桂が呟くようにそんな、おいおい勘弁してくれよ的な発言なんかするから、俺はますます顔を真っ赤にして俯かなきゃならなくなっちまった。
 子供なんて…本気で考えてるワケじゃないんだろうけど、それでも村人たちや、一族の願いは蒼牙の子供なんだよなぁと、あれほど馬鹿らしいと考えていたことを今は真剣に考えている自分が現金つーか、なんつーか、穴があったら入りたい気分かな。

「その、そ、それじゃあ、桂さん。俺、ちょっと朝飯まで裏山散策してくるよ」

「はい、お気を付けてお行きくださいませ。ご用がございましたら、いつでもお呼びください」

 一瞬、口許に笑みを浮かべたように見えたんだけど、確認しようとした矢先に、既に桂は頭を下げていた。
 蒼牙にしろ桂にしろ、なんか様子がおかしい。
 俺はなぁ、好きになる努力をするって言ったんだ、そりゃ、今度の晦の儀は覚悟は一応決めてるけど…
 いざその場にきたら、俺はちゃんと蒼牙を受け入れることが出来るんだろうか、なんて、この村に来てからあまりにも色々と起こりすぎたせいか、いや、この村自体がちょっとおかしいのか、俺の脳内細胞もちょっとずつおかしくなっているような気がしてならない。
 蒼牙を受け入れるってことはだな、あの場所に…ひー、俺ってば何を考えてるんだ!?

「光太郎くーん♪」

 派手に赤面してアタオタしている俺の腰に、いきなり背後から誰かがドシーンッと体当たりしてきて、そのまま腕を絡めやがったんだ。
 この村でこんな風に朝からハイテンションの高気圧娘は1人しかない…妖怪娘の繭葵だ。

「な、なんだよ、繭葵」

「んん?あれれ??今日は蒼牙様に抱かれてないね」

「グハッ!!」

 思わず、背後からひょこっと顔を覗かせて眉を寄せている繭葵の顔面を、許されることならぶん殴るところだった。

「なな、何言ってるんだ!?」

「えー、だってさぁ。君、昨夜逃亡したんでショ?」

 う!
 ギクッとして首を竦めそうになった俺に、繭葵のヤツは意地悪そうにニヤニヤ笑いながらんーっと顔を覗き込んできやがる。
 なんでコイツはこんなに耳聡いんだ!?どこかにスパイでも飼ってるんじゃねーだろうな。
 そう思わずにはいられないほど、この繭葵と言う妖怪娘は俺の行動の一部始終を熟知してやがる。もしかして、コイツが時々口にしている『同人誌』とかってのに、何やら俺たちのことを書くんじゃないだろうなぁ。
 侮れないから怖いんだよな。もういっそのこと、民俗学なんか辞めてレポーターとかジャーナリストになればいいのにな、コイツ。
 いや、待てよ。
 コイツがここまで知ってるってことはもしや…

「そそ、それは…」

「あー、みんな知ってるかって思ってるんでショ?たぶんね、知ってると思うけど。蒼牙様の想いが実ったってことも周知することになったと思うよ」

「なんでだ!?」

 愕然として聞き返す俺に、繭葵は腰に回していた腕を解くと、呆れたように肩を竦めて溜め息を吐いたんだ。

「そりゃあ、蒼牙様のあの態度を見ていたら誰だって気付くよー。ボクなんか、え!?誰コイツ!!?とか、真剣思っちゃったからね。いつも通りの顔をされてるけど、鼻歌でも歌い出しそうだもんね~♪」

 蒼牙の野郎…!

「ねね?それで、ちゃんと話せたの?キスは上手にできた??」

 どうして話しがそっちに…と考えて、そう言われてみたら、繭葵のヤツは昨日の夜もそんなことを言ってなかったかな。唐突に思い出して、このニヤニヤ笑いながらも、どこかホッとしているような妖怪娘が少なからず俺のことを考えて気を遣ってくれていたんだなぁと、なんだかちょっとだけ嬉しくなった。
 そんなことはたぶん、口が裂けても本人の前では言えないだろうけど。

「話しは…したな。まあ、そのえっと…」

 言葉を濁す俺に、繭葵はパッと表情を綻ばせると、朝の清々しい雰囲気に良く似合う笑顔を浮かべて俺に抱き着いてきたんだ。

「よかった!うん、ホントに良かったね!」

「…どうせ、お前。婚儀で浮かれている蒼牙に付け入って蔵開き狙ってるんだろ」

 あまりの浮かれ気味に、俺はコイツは~っと胡乱な目付きで見下ろしながら、ヤレヤレと溜め息を吐いた。それでも、もう覚悟は決めているつもりだ。なんだかんだ言ってもたぶん、俺は蒼牙を好きだと思う。
 結婚…なんて考えてもいなかったけど、あの6歳も年下のくせに妙に大人びた年齢詐称の鬼っ子蒼牙が、そんな風に嬉しそうにしているのなら、可愛いじゃないか。期待に応えてやっても悪かないかな…とか。

「でも、協力してやるよ」

 思ってしまう、俺もどうかしてるとは思うけどな。
 困ったように苦笑しながらそんな冗談を言うと、繭葵はムゥッと唇を尖らせながら俺から離れて腰に片手を当ててビシィッと指先を突き付けてきた。

「そんな情けは無用だね!このボクを誰だと思ってるんだい?民俗学会期待の新星!大木田繭葵様だよ!!ボクの辞書に不可能はなーいッ」

「判った判った、俺が悪かった」

 朝っぱらから嫌になるぐらいのハイテンションで宣言されても、思わず退いてしまう俺が悪いわけじゃないと思うぞ。
 だけど、この村にいる殆どの人が、凡そ低血圧なんて知らないんじゃないかってぐらい元気に早起きだ。蒼牙にしたってケロッと目を覚ますし…いや、アイツの場合は寝付きも頗るいいんだけどな。
 眞琴さんも伊織さんも、朝からばっちりメイクを決めてるしなぁ…
 陰気だ陰気だと思っていたけど、よく見りゃ、元気な村じゃないか。
 朝早くから農作業に勤しむ姿なんか…東京じゃ絶対に見られない風景だもんな。

「どーせ、光太郎くんも蒼牙様好きなくせに、意地っ張りなんだから。まあ、蒼牙様のあの表情を見れば、全部上手くいったんだってことは判るけどね。それでもボクは、ハラハラしてしまったよ」

 全く違うことを考えている俺の前で、ああ、良かったぁとで言いたそうにホッと苦笑する繭葵に、いったいどうしてコイツは、こんなに俺と蒼牙をくっ付けたがるんだろうと不思議になった。
 不思議に思ってそのまま直球で聞いてみたら、繭葵のヤツはキョトンッとして、それからすぐにケラケラと笑ったんだ。

「そりゃあ、ボクが光太郎くんを好きだからだよ!」

「はぁ!?」

 ギョッとして目を見開くと、繭葵は驚くほどニコニコして、突拍子もない愛の告白とやらをらかしてくれやがった。

「初めて見た時からビビビッときたもんね。ボク、絶対にこの人を手に入れてやろうって思ったんだけどさ。光太郎くん、驚くほど蒼牙様しか見ていなかったから」

 そそ、それは、いや、なんだって言うんだ!?
 俺が口をパクパクさせていると、繭葵はクスクスと勝気そうな大きな目を細めて笑いながら、嬉しそうに言ったんだ。

「ボクね、好きな人には幸せになってもらいたいんだよ。だから、蒼牙様とくっ付いてくれて良かったなぁって思うんだー」

 エヘへッと笑う繭葵に、でも…と、俺はそんなこと言ってどうなるってワケでもなかったんだけど、それでも言わずにはいられなかった。

「それだとお前は?お前の幸せはどうなるんだ?」

 尋ねる俺の顔をマジマジと見詰めていた繭葵は、それから困ったように眉を寄せて俯きながら笑う。その顔に、ほんの少しだけど、弾けるほど明るい、向日葵みたいな繭葵の顔に陰が差したんだ。
 拙いことを言ってしまったと唇を噛んだところで、一度吐き出してしまった言葉は消しゴムでゴシゴシ消せるってワケでもないから、俺は責任を持たないといけない。
 でも、繭葵は…

「ったくもう、相変わらず他人のことばっかり考えるんだから。それならどうするんだい?蒼牙様を諦めてボクと結婚してくれるの?…違うでショ。そうじゃないんだよ、こう言う時はありがとって言うんだ」

「え?」

 吃驚して、この小さな妹みたいな繭葵を見下ろしていたら、彼女はウシシッと笑って人の悪そうな目付きで俺を見上げてきたんだ。

「まあ、友人として好きってことだから。友達が好きな人と結婚できて幸せそうにしてる姿を見るのは大好物だよ♪」

「…ん?ってことはなんだ、俺のことをその、そう言う意味で好きってワケじゃ…」

「あったりまえじゃーん!そんな、蒼牙様に殺されるようなこと言うワケないでショ?それにボク、民俗学一筋だもんね~」

 弾けるようにゲラゲラと笑って、繭葵のヤツは力いっぱい俺の背中を殴りやがったんだ。
 思わず咳き込んでゲホゲホッと咽る俺に、繭葵はふふーんっと笑いながら腕を組んで見上げてくると、小憎たらしく言いやがるからぶん殴ってやりたくなった。

「そもそも君はさ、何度も言うようだけど他人のことを考え過ぎるよね。そんなだと、ボクはまた心配になってしまうよ。小雛に蒼牙様を攫われちゃうんじゃないか、ってね」

「そんなこと…」

 あるわけねーだろと言いそうになったら、繭葵はフーッと長く溜め息を吐いて、困惑したように綺麗に整えた眉をソッと顰めながら囁くように言ったんだ。

「蒼牙様だって若いんだよ?それに、呉高木は平気でお妾さんを貰っちゃうような家なんだし。安心してたら横からあ!っと言う間に攫われてしまうかもしれないんだ、気をつけなくちゃー」

 誰も聞いちゃいないってのに、声を低くする繭葵の言葉に、唐突に俺はドキッとしてしまった。
 そうだ、すっかり安心していたけど、そうして俺が安心していられたのは蒼牙が揺るぎ無く俺を愛してくれているって言う、そんな不確かな確信だけだった。
 そうだ俺…桂たちが言うように、元気な子供だって生めないって言うのに…結婚なんか。
 つい、黙り込んでしまう俺に繭葵は慌てたように、そんな俺の腕を掴んで顔を覗き込んできたんだ。

「だから!他人のことなんか気にしなくっていいって言ってるんだからね!蒼牙様は本当に光太郎くんを好きなんだし、他の人を不幸にしてまで俺は…なんて考えないでよねってことだよ。光太郎くんの味方である繭葵ちゃんが一緒だし、絶対に大丈夫って言い切れちゃうんだけど。光太郎くんがあやふやな態度だと、ボクが心配しちゃうんだよ」

 すっかり、俺のことをお人好しだと思いこんでいる繭葵に、俺はどんな顔をしたらいいのか判らなくなってしまった。だって、俺が考えているのはそんなことじゃない。
 もっと、もっと暗くて淀んだ…嫉妬だから。

「大丈夫だ。俺はそんなにお人好しじゃないって」

 クスッと笑って見下ろしたら、繭葵はホントかな?っとでも言いたそうに眉を寄せて、それでもやれやれとでも言うように肩を竦めやがったんだ。

「ちょっと脅し過ぎちゃったかな?でも、気を引き締めていないとここは海千山千、どんな化け物が眠っているか判らないからね。ボクは光太郎くんに、本当に幸せになって欲しいんだ」

「アンタが心配しなくても俺がいる」

 不意に声を掛けられて、途端に繭葵はギクッとしたように首を竦めて、それからエヘへッと誤魔化すように笑いながら背後を振り返った。
 ちょうど、俺からも死角になる場所に青白髪の蒼牙が腕を組んで不機嫌そうに立っていたんだ。

「蒼牙様!」

「…蒼牙」

 チラッと、それでも勝気な双眸で見詰める、全く怯む気配もないニコニコ笑っている繭葵を見下ろした蒼牙は、それから不機嫌そうにジトッと俺を睨み付けたんだ。
 繭葵と話したことに腹を立てているのか、さして反論もしなかった俺に腹を立てているのか、どちらにしろ今の蒼牙は、繭葵が言うほど鼻歌でも歌い出しそうなほどご機嫌と言うわけではなさそうだ。

「ったく、目を離せば何を話しているんだ。繭葵、晦の儀まで花嫁は気が立つんだろ?静かにしていろ」

「ぅはーい!…でもさぁ、蒼牙様。お妾さんとか貰って、ボクの光太郎くんを悲しませないでよね」

「当たり前だ。そもそも、お前のものではない」

 …と言うか、俺は俺のものだけどな。
 ムスッとして見下ろす蒼牙に、ムッとした繭葵も唇を尖らせて反論している。
 あの蒼牙が、ともすれば煩いと言って斬り捨ててしまいそうな短気も起こさずに、繭葵にはほぼ対等に話をしてやっている。
 もしかしたら蒼牙は、俺がいなければ、本当は繭葵と一緒になってたってちっともおかしくないんだよな…
 そうか、妾か。
 忘れてた、あの狸親父ですら2人も妾がいるんだ。
 蒼牙だって…

「むー!んじゃ、光太郎くん!ボクはもう行くね…あ、そーだ!今夜の弦月の奉納祭。一緒に行こうね♪」

「うん、判った」

 俺が頷くと、繭葵は嬉しそうに笑って手を振ったが、蒼牙はムッとしたようにそんな俺を見下ろしてくる。
 蒼牙の目付きは気になるけど、それ以上に俺は、繭葵が言った言葉が頭を占めていた。
 涼しげなスカートをひらひらさせて行ってしまった繭葵を見送っていたら、不意に、蒼牙のヤツが俺の腕を掴んでグイッと引き寄せたんだ。

「アンタは誰を見てるんだ?」

 その目付きは、俺がここにいるのに!…とでも、怒っているように見える。

「蒼牙に決まってるだろ?」

 ちょっと笑ったら、蒼牙のヤツは何とも言えない顔つきをして、困ったような、ムッとしたような、ヤツにしては珍しくまるで照れてでもいるかのように、その鋭い、男らしい双眸で覗き込んできたんだ。

「違うね。アンタは今、繭葵を見てたじゃないか」

「そりゃ、見送るぐらいはするさ。繭葵はああ見えても…なんか、お前たちは忘れてるようだけど、花嫁候補だろ?仲良くしないとな」

「花嫁候補だと?誰がだ。俺の花嫁はアンタしかいない。判らないなら、今すぐその身体に教えてやってもいいんだぞ」

 う!それはちょっと…思わず引き攣って笑ってしまった俺に、蒼牙のヤツは眉を寄せて、まるで子供っぽい仕種で俺の額に自分の額をコツンッとぶつけながら唇を尖らせた。

「アンタはやっぱり何も判っちゃいないんだ。俺がどれほど光太郎と言う人間を愛してるか…どう言えば、アンタは信じてくれるんだろうな?」

「信じてるよ」

 言葉に出せば呆れるぐらいアッサリとしているのに、言い出すまでが思い悩んでしまう難しい言葉を呟きながら、俺は不貞腐れている蒼牙の頬を確かめるように触れて、それから安心したように笑った。
 どうしたって言うんだ、俺は。
 こんな6歳も年下の男に惚れてるなんて、どうかしてる。
 でも、どうかしてるとは思っていない俺もいる。
 ただ、好きになったのが6歳年下の男で、蒼牙だったってだけだ…なんて、古臭いドラマの常套句みたいな馬鹿な台詞で、納めてしまうにはあんまり強烈な想い。
 心が痛くなる。
 事実は拭えない真実だからだ。

「だったらいいんだがな。光太郎はどこか掴み所がない。指の隙間からするりと抜けて、何処かに行ってしまうんじゃないかと不安で仕方ないよ」

「その台詞、そっくりお前に返してやる。昔ばなしから抜け出してきた鬼っ子のくせに」

「?」

 俺の言葉の意味が判らなかったのか、蒼牙はキョトンッとしてそんな俺を見下ろしてきた。その仕種があんまり可愛かったから、俺は笑いながら蒼牙の胸元に頬を寄せてその背中に腕を回していた。
 結構、積極的だったとは思うのに、蒼牙のヤツが何もしてこないから…いや、何かして欲しいってワケじゃないけど、ああクソ!そうだよ、本当は抱き締めて欲しいとは思ったさ。怪訝に思って眉を寄せながら顔を上げたら、蒼牙のヤツは…なんと言うか、薄っすらと頬を染めて、照れ臭そうに、嬉しそうに破顔して俺を見下ろしていたんだ。
 ドキッとした俺がこの場合は離れるべきなのかどうするべきなのか、メチャクチャ悩んでいると、蒼牙は、ヤツにして驚くほど柔らかく、恐る恐ると言った様子で戸惑っている俺を抱き締めてきた。

「アンタから抱き着いてくるなんて初めてだな。壊してしまいそうで怖いよ」

 どうして壊してしまうなんて発想になるのか判らなかったけど、俺は蒼牙に抱き締められたままで瞼を閉じた。
 まあ、いいや。
 微かに震えるようにして抱き締めてくる蒼牙がお妾さんを何人も迎えたって、俺は結局男なんだから、子供を必要とする呉高木家では仕方ないんだって、諦めてしまえば丸く収まることじゃないか。
 俺にしてはかなり譲歩してるんだ、そのぶん、いつかコイツには言ってやろうと思う。
 よくも俺に、お前を好きにさせやがったな!…ってね。
 そうしたら蒼牙のヤツが、フフンッとした顔をして、やっぱりアンタは俺を好きなのか…とか言ったとしても、その時はニッコリ笑ってぶん殴ってやる。
 この時俺は、この村に来て初めて当主と言う立場にいるはずの蒼牙の、子供のように一途で純粋な本心を知ることができたような気がしたんだ。
 俺は蒼牙を…好きなんだと思う。

 夕暮れ時の山道には先を急ぐ村人たちが、一日の仕事を終えて、それでも活き活きとしたように夜の挨拶を交わしながら歩いている。
 こんな閉鎖的な小さな村には、夏祭りだからって夜店もなくて、子供たちは退屈なんじゃないかなぁとは思うけど、それでも楽しそうに笑いながら登山道を走っていた。
 ともすればノスタルジックな懐かしさが胸に去来するような光景に、低いとは言え立派な山なんだから、登山用にジーンズにTシャツ、スニーカーと言う出で立ちの俺がボーッと突っ立っていると、突然背中に誰かが突進してきたんだ。

「グハッ!!」

 今日はしょっちゅう背中を痛めてるなぁと思いながら、胡乱な目付きで振り返ると、大方繭葵のヤツがわざとぶつかってきたんだろうと思いきり険悪な目で見たって言うのに、目線がやや高すぎたのか、そのまま下に向けると…村の子供だった。
 俺のあまりにも凶悪な目付きに怯えたように言葉をなくしているクソガキ、もとい、村の子供に、俺は慌ててニコッと笑ったんだ。

「走ると危ないけど、転ばないように気を付けて思いっきり走れよ」

 軽く言ったら子供はパッと明るい表情になって、大きく頷きながら俺を見上げてきた。

「呉高木のお嫁様!おめでとうございます!」

「なな!?」

 笑って手を振ると走って羨ましそうな顔をしている仲間の元に戻って行く子供の後ろ姿を見送りながら、思わず仰け反りそうになってしまう俺に、道をボチボチと歩いていたバアちゃんが気付いたのか、皺に埋もれてしまった顔に憎めない笑みを浮かべて恭しく頭を下げたんだ。

「おお、呉高木の嫁様。この度はおめでとうございますじゃ」

「は、はぁ…」

 なんと応えたらいいものか…今まで遠巻きにしか見ていなかった村人たちが、とても親しげに声をかけてくる。その誰もが、「呉高木の嫁様、おめでとうございます」と誰にも憚らずに口にするから、この人たちに世間で言うところの常識ってものはないんだろうか…?
 でも、蒼牙が神なんだから、ヤツが俺を花嫁にすると言えば、それが即ち常識になってしまうんだろうか?

「光太郎くん!…おっと、今日はダメだね」

「は?何がだよ、繭葵」

 後から声をかけてきた繭葵は、ジーンズの短パンに虫刺されを用心した長袖のシャツ、オーバーニーソックス、それから運動靴を履いている。
 いつもはこんなの山じゃないねと言って、可愛い女の子らしい服装をしてるって言うのに、今日の繭葵は俄然やる気を出したハンターの目付きをしている…ってお前、もしかして、何
か企んでるんじゃないだろうな?

「今日は呉高木家の朔の礼の神事の1つだから、ちゃんと光太郎くんのことをお嫁様って言わないといけないんだよ。今日で、本当にお嫁さんになるようなものだからね」

「ええ!?そうなのか??だって、晦の儀ってのが…」

「あははは♪それはだから、今日選ばれた花嫁に子篭りさせる為の神事でショ?今日のはこの人が現当主、蒼牙様のお嫁さんですよって言うお披露目の行事みたいなものだよ」

「そ、そうだったのか…知らなかった」

 知らなさすぎだよと大らかに笑う繭葵の傍を、物珍しそうに通り過ぎる村人が俺に気付くと、厳ついおっさんも柔和な笑みを浮かべて頭を下げて行くんだ。

 「呉高木のお嫁様、おめでとうございます」って言いながらな。

「うわぁ…じゃあ、先輩たちにバレるってワケじゃねーか!それで蒼牙のヤツ、あっさり承諾したんだな。あの野郎~ッ」

 ムキィッと歯噛みする俺に、繭葵のヤツはウシシシッと笑いながら口許に手を当てて笑いやがる。

「なんだよ?」

 ジロリと睨んだら、繭葵のヤツはふふーんっと笑って山道をゆっくりと歩き出した。

「きっとね、弦月の儀はこの村を守るって言う龍神様にご報告する神事じゃないかって、ボクは睨んでるんだよね。確かめたいって思うけど…きっと、同じことを君の先輩も考えてると思うよ」

 そう言った繭葵のヤツが、驚くほど冷ややかな、怖い目付きをして俺を振り返るとその背後を睨み付けたんだ。
 ん?っと思って振り返ろうとした矢先、唐突に背後から伸びてきた腕で肩を抱き寄せられてしまったんだ!
 だ、誰だ!?
 慌てて振り返った先に…

「よお、楡崎!」

 げげ、先輩!…うわぁ、どんな顔して挨拶したらいいんだよ?
 朝とか昼は、低血圧な連中らしくコソリとも起きてこなかったくせに、今は睡眠も足りて活き活きとしたように笑ってやがる。うう、どんな嫌味を言われるか。
 或いは蔑まれるか…考えただけで吐き気がしそうだ。

「驚いたぜ!まさかお前が呉高木の花嫁だったとはなぁ…どうなんだよ?毎晩犯ってんのか??年下の男に抱かれるなんて冗談じゃ…」

「煩いな!君に関係ないでショ?下品な人だなー」

 ムッとしたように繭葵が俺に絡まっている高遠先輩の腕を引き剥がしながら、軽く睨みつけて舌を出した。その小さな身体のどこにそんな力があるのか、俺が驚いていると、ムカムカしてそうな繭葵はフンッと鼻先で息を吐き出した。

「な、なんだとこの野郎!信じられるかよッ、俺の可愛い後輩がホモなんてな!!」

「ムッ!聞き捨てならない台詞だね。恋愛に偏見でも持ってんのかい?今時珍しいほど古臭い考え方だなぁ!人間が人間と愛し合うのにカタチとかあるワケ?そんなんじゃ、いつまで経っても新発見とか望めないね。恋愛でも、民俗学でも」

「なんだと、コイツ!楡崎も楡崎なら呉高木の当主も当主だ!どうかしちまってる、気持ち悪いッ!!そんなヤツを庇っているお前なんかにとやかく言われる筋合いはだなぁ…ッ!」

 先輩の台詞がそこで途絶えてしまった。
 なぜならそれは、俺が繭葵に対して振り上げた先輩の腕を掴んだからだ。

「先輩、それぐらいにしてください」

「ッ!…触るな、気持ち悪いッ」

 さっきまであんたが触ってたじゃねーか…とか、理不尽なことを言われながら腕を振り払われても、俺は溜め息を吐いて先輩を見上げたんだ。
 そりゃ、傷付いてないって言えば嘘になるけど、それでも、繭葵じゃないが、誰かを好きになることに条件なんかないと思うんだ。
 口汚く罵られるならそれでもいい、だが、蒼牙の悪口は言うんじゃねぇ。
 お前に何が判るんだ。
 この村の人たちが一心に信じている当主を、口汚く罵れるほど真っ当な人でもないでしょーが。

「俺のことをとやかく言うのは構いません。でも、蒼牙のことはけして言わないで下さい。貴方には理解できないこともあるんです。理解しろとは言いません、だが、理解してくれとも言いません。先輩のことをとやかく言わないんだ、俺たちのことも放っておいてください。先輩の目的は奉納祭なんだろ?奉納祭をご覧になって帰ってください!」

 いつもは先輩に引っ張られるようにして何も言えずに言うことを聞いていた俺…いや、あの当時は先輩がウザくて、他の連中も何も言わずに愛想笑いで軽く付き合っていた。生真面目ってのもなかなか鼻につくもんで、それが自己中な人なら尚更だ。
 今だって、何も言えずに振り回していたはずの俺の反撃に、驚いたように目を見開いている。
 自分がこれだけ言えば、俺が思い留まるとでも思ったんだろう。
 過ごしてきた時間が、もう違うって事にも気付かずに。

「お、お前…ッ」

「はーい、はいはいはい!高遠くんの負けぇ。それぐらいにしといたら?」

 思わずズイッと近付いてこようとした先輩を、まるで踏み止まらせるようにして、いつからそこにいたのか相変わらずナイスバディの由美子が鼻先でクスッと笑って、豊満な胸元を押し上げるようにして腕を組むと俺をチラッと見たんだ。

「相手がキミじゃ、勝ち目ないもんねぇ。あーん、仕方ないわ。あたしは神事でも楽しもっとぉ」

 残念そうに溜め息を吐いて、大袈裟に両腕を上げて伸びをしたら、由美子はサッサと高遠先輩の腕を掴んで立ち去ろうとした。…んだけど、先輩がそれを拒んだ。

「何を言ってやがんだ。お前は楡崎のことを知らないからそんな風に軽く流せるんだろうけどなぁ、コイツは…」

 先輩だってあれからの俺の生活なんか知らないじゃないッスか、どこから自分の発言に対してそれほどの自信が出てくるのか知りたいんですけど…

「うっさいなー。あたしはさぁ、恋愛なんてそこのお嬢ちゃんと一緒で、楽しければそれでいいのぉ!好きになったら仕方ないじゃん。ったく、高遠くんは昔っからナンセンスよね。昭和初期の大和撫子でもお嫁さんにしたらいいのよ。この時代に処女でも捜してね。そのうち、犯罪者名簿に名前が載ったりしないでよね!」

「ゆ、由美子!」

 由美子が高遠先輩の腕を振り払うようにして腹立たしそうに怒鳴ると、繭葵のヤツが「お、由美子ってば話せるじゃん」と言いたそうな顔付きをして、その通りだよばーかと、火に油を注ぐような発言をさらっとぶちかまそうとする繭葵の口を俺は片手で塞いで厄介の火種を寸前で止めてやった。

「むごごごごー!!」

 なんかやたら怒ってるけど、この際無視だ。

「で?部の部長がどうすんのよ。神事も見ないで昔の後輩の世話でも焼いとくのぉ?あたしはどっちでもいいわよ…でも」

 ふと、由美子は目付きだけは笑ってないくせに、鼻先でクスッともう一度笑いながら、グロスで濡れたように光っている唇を尖らせた。

「まるで、ここのご当主様。えっと、蒼牙ちゃんだっけ?彼に嫉妬してるみたいじゃん。あたしから見たら高遠くんも変わりなく見えるわよ。だったら、気持ち悪いのかしらね?」

 どうでもいいけどね、と吐き捨ててから、俺と繭葵に「じゃあね」とウィンクして豊満なバディを相変わらずくねらせるようにして行ってしまった。
 その、いつもよりも厳重に長袖のシャツを着て、スリムなジーンズを履いている由美子の後ろ姿を見送っていると、不意に高遠先輩が動揺したようにどもりながら何かゴチャゴチャと言ってから、腹立たしそうにどかどかと砂利を蹴って昇って行った。

「なんだったんだ…」

「…ウシシシ」

「…な、なんだよ?」

 唐突に口許から手が離れていた繭葵が、ニヤニヤと笑いながら高遠先輩の後ろ姿を見送っているから、そのあまりに邪悪な表情にゾッとした俺が青褪めて見下ろすと、「失礼だなー」とブツブツ言いながら、俺にヘッドロック紛いなことをされたままで腰に手を当てたのだ。

「あのクソ高遠のおかげでさ、光太郎くんの本心を垣間見てしまった♪蒼牙様に知らせなくっちゃー」

 お前はいつから蒼牙の手先になったんだ…と言うか、クソ高遠って…最早、お前の中では俺の先輩だと言う認識は綺麗さっぱり消えちまったんだな。
 ま、俺も一緒なんだけど。
 あんなこと、自分が言えるなんて思いもしなかった。
 先輩は、なんかウザいと言うよりも、反論できない威圧感みたいなものがあったから大人しく言うことを聞いてきたのになぁ…言い返せるなんて、まあ、これも蒼牙効果なんだろうけど。

「俺たちのことには口出すな…だって。ウシシシ!奉納舞の準備をされている蒼牙様が聞いたら、きっと舞に力が入って今夜は綺麗になるだろうなぁ」

 ウハハハと笑う繭葵に、俺はなんとなく嫌な予感がして、ヘッドロックをかまされても平然としているこの要注意爆裂娘にコソッと言ったんだ。

「蒼牙には言うなよ?じゃないと、高遠先輩がどうかされるかもしれないだろ」

「どうかって、どうされるんだよ?うもー、どうして蒼牙様が喜ぶようなこと言わせてくれないんだよ~。繭葵ちゃんはストレスで死んじゃうかも」

「ストレスで死ぬ前に俺の方が参っちまうよ」

 ウルウルと、口許を覆ってわざとらしく泣き真似なんかするから、お前はたぶん、殺したって死にやしねーよと呆れて繭葵から手を離した。

「光太郎くんがくたばったら大変だから、ボクは諦めるけどね。でも、一連の事情はもう、蒼牙様にはバレてるかもね~」

「え!?なんでだ??」

「バッカだねー、光太郎くん!ここは奉納祭に向かう村人たちが行き交ってるんだよ?誰かが伝えるに決まってるじゃん。君は呉高木のお嫁様なんだからね♪喧嘩ともなれば御身が危ういってさー、少なくとも桂さんにはバレてると思うけど」

 クスクスと笑う繭葵に、うわ!それじゃ大変じゃねーかと、俺は慌てふためいて登山道を昇りはじめた。
 こんなところでグズグズしてる閑はねーぞ!
 そんな俺の後ろ姿に肩を竦めた繭葵はでも、ニッシッシと笑いながら兎のような身軽さでついて来たんだけど、その時の俺は気遣ってやることもできなかった。
 だって、蒼牙ってヤツは、『神堂』と呼ばれる禁域に立ち入るだけで、本気で俺を殺すと言ってのけるようなヤツなんだ。
 先輩に何か遭ったら、先輩はいけ好かなくてもあの優しいお袋さんが悲しんでしまう。
 俺は、「呉高木の嫁様、おめでとうございます」と、ほぼ同じように登山している村人全員から挨拶されて、それに愛想良くニコニコ笑って応えながら山頂の舞の舞台になる神社を目指したんだ。

 弦月の奉納祭は宵宮で、夕暮れに行われる神事なんだそうだ。だから終わるのは17時過ぎぐらいかな…ってことで、もうすぐ始まりそうなのに俺は、慌てたように桂を捜していた。そんな俺の後ろからちょこちょこ着いて来ながら、俺を不安に陥れた張本人はのんびりと笑いながら言いやがる。

「もう、ムリだってば。桂さんは蒼牙様のお付きで宮の控え室にいるんだからね。まあ、光太郎くんなら入れろって言えば、喜んでお手伝いさんたちも入れてくれるだろうけど…神事が遅れちゃうよねぇ」

「判ってるよ、こん畜生!…もうな、一番見易いところを探してるんだ」

 とか、嘘を吐いてみてもバレてるんだろうけど。
 やっぱり判っていたのか、繭葵はぷぷぷ…っと笑いながら俺と繭葵はブラブラと見易い場所を捜すことにしたんだ。
 どうか、龍神様!高遠先輩が無事でありますように、とか柄にもなく願ってみたりしながら。
 奉納舞まで暫く時間が残っていたのか、手持ち無沙汰でもあったから俺はそう言えば…と、繭葵に首を傾げながら聞いてみた。

「そう言えば、繭葵さ。昼間はどこに姿消してたんだ?桂さんが水饅頭をご馳走してくれるって言うから捜したんだけどさ、お前、いなかっただろ」

「うは!水饅頭!!くっそー、食いっぱぐれちゃったよ!!」

 食い意地の張っている繭葵のヤツは悔しそうに地団太を踏んだけど、俺が呆れながらお前の分は取ってるよと言ったら、途端に機嫌を直してニコニコし始めるから…
 コイツって。

「ウッシッシ♪神堂を探していたのだよ、光太郎くん。賢明な君ならもう判ったと思うけど、夕食後に5体の地蔵さんがある場所、知ってるよね?そこに集合♪」

 口許に手を当てて、ニヤッと笑いながら俺を見上げたんだ。

「…って、はぁ!?もしかして弦月の儀を見に行くつもりか?」

 思わず声を潜める俺に、繭葵のヤツはニヤニヤ笑いながら大きく頷くんだ。

「あったりまえでショ?この繭葵ちゃんが何の為にこんな山奥のクソ田舎に来たと思ってるんだい。全ての祭りを見るためじゃないかぁ~♪」

 両手を祈るようにして組んで双眸をキラキラさせる繭葵は、もう俺の知っている繭葵じゃなくて、一般で言うところの変態さんに成り果てていた。
 そりゃあ、俺だって蒼牙とエッチしたりして変態さんの仲間入りだけども、繭葵はS級の変態さんだと思うぞ。ヤヲイ発言に始まって、民俗学では禁忌を冒そうとしてるんだからなぁ…はぁ。

「禁域に入り込んだらお前、殺すって蒼牙に脅されてるんだぞ」

「ふっふーん!脅しは所詮脅しでショ?脅すってことは何かが確実に隠されてるんだよ。綺麗なものには棘がある…って言う、アレと一緒さ!」

 ビシッと指先を突き付けられて、俺は思いきり呆れ果ててしまった。
 真剣を無造作にアッサリと扱う蒼牙のあの、なんとも言い難い気迫のようなものをお前は見てないからそんなこと言えるんだよ。

「いいよ、別に。そんな顔しなくても。光太郎くん、来ないならボク1人でも行くから」

 ツーンッと外方向いてから、繭葵は履きふるしているスニーカーで地面に転がる小さな石を蹴った。そんなお前、身体は小さいくせに言うこととやることと考えることと度胸だけは一丁前だな。
 こんな女の子を1人で行かせてしまったら、たぶん、一生後悔すると思う…はぁ。

「判ったよ!行きますよ、行きます。行けばいいんだろッ?」

 半ばヤケクソで言った俺が繭葵を見下ろすと、彼女は地面をつま先で弄りながらニッシッシと笑ってしてやったりのツラをして俺を見上げた。

「女は度胸、男は愛嬌♪」

 言葉の遣い方、あからさまに間違ってるぞ。
 俺が溜め息を吐いたのは言うまでもない。
 はぁ…

 そんな俺と繭葵の恐ろしい悪巧みが終了した時、もう村人たちも殆ど到着していて、人込みの中に伊織さんの姿を見つけたけど声を掛けられるような雰囲気じゃなかったから、取り敢えず無視することにしたんだ。
 山の上の神社はそろそろ日が落ちて星がポツポツと瞬きだしている。篝火が揺らめく荘厳な雰囲気はどこか空恐ろしくて、静まり返った村人たちの顔が見分けられないのが、余計恐怖心を煽りまくってくれる。
 十三夜祭りの時以来の光景だけど、あの時は昼だったからこんなに恐ろしかった記憶はないぞ。

「やっぱ夜店とかはないんだなー」

 ずっと思っていたことを口にしたら、繭葵が肩を竦めながらそれに答えてくれた。

「こんな山奥の村だよ?的屋さんも来ないんだよ」

 ああ、やっぱりそっかと思っていたら急に腕を引っ張られて、思わず転ぶところだったぞ!
 ムキッとして振り向いたら、ワクワクしている繭葵が高台を指差している。

「たぶん、あそこじゃないかな♪」

 村人にとっても久し振りの、つまり呉木家の当主が花嫁を迎える為に催される祭りだから楽しみにしていたのか、その高台の前ではワイワイと賑やかに集まって何か話していた。その一員になるべく俺と繭葵が行ってみると、楽しそうに何かを話していた村人は俺たちの姿を認めて吃驚したようだった。

「あンれ、呉高木のお嫁さまじゃ」

「ほお~、驚いたのう。別嬪さんじゃのう」

 ニコニコと人の良さそうなジィちゃんやバアちゃんが俺たちの顔を見上げながら話し掛けてきて、繭葵もニコニコ笑いながら俺を見上げてくる。確かに、山道を登ってくるときからずっと「お嫁様」とか「嫁様」と言われ続けてるから違和感も感じない俺もどうかしてるけど、それでも1人ぐらいは繭葵だって言うヤツがいてもおかしくないと思ったんだ。
 だってなぁ、繭葵だって花嫁候補なんだぞ。
 それに、別嬪さんとか言ってるんだし、きっと繭葵だと思っていた。
 そりゃあだって、誰が見ても繭葵のほうを花嫁だと思うだろう?
 それが正しいんだから、そんな顔したらダメだぞ。

「今宵の奉納舞は呉高木の嫁さまを村人たちとご神体に報告するためのもんじゃて」

「お嫁さまがいらっしゃらな意味がなかろうなぁ」

「今宵は蒼牙様も気合を入れて舞いなさる」

「さぁーさ、嫁さま。前へ出なされ」

 そう言ってジイちゃんたちは俺の腕を引っ掴むと、グイグイッと引っ張りながら最前列に連れて行こうとする。うを!?ち、ちょっと待ってくれよ、嫁さま…って、やっぱ俺なのかよ!?
 当然そうにエヘッと笑っている繭葵は、神事に隠された秘密とらやのことでも考えているのか、上の空で頬を紅潮させて…何を興奮してんだよ!?お前はッッ!
 農作業で鍛えている腕に掴まれて強引に前に引き出されてしまうと、集まった村人たちの視線を一身に受けてしまって、なんとも居た堪れない気分に陥ってしまう。それなのに、俺の横に並んできた繭葵のヤツはワクワク以上に興奮したように目をキラキラさせている。

「やっぱり、お嫁様の傍にいると役得だね♪」

「あのなー、お前はいつも俺を利用することしか…ッ!?」

 ポンッと、唐突に鼓の音が響き渡って、ハッと気付いたらそれまで俺を見つけてワイワイ騒いでいた村人たちが水を打ったように静まり返っていた。横笛の音が響くと、奥から姿を現した両手に扇を持った巫女が摺り足で登場したんだ。
 その顔を見て思わず声をなくしてしまう。
 打ち響く雅楽の音色に優雅に舞う巫女は、綺麗に化粧していても見間違えたりしない、キリリとした双眸のその美しい巫女は…蒼牙だ。
 俺はきっと、今夜の奉納舞はあの時のように、蒼牙は鬼の装束で舞うんだろうと思っていた。まさかこんな風に、巫女装束で踊るとは思ってもいなかった。巫女の衣装を身に纏って優雅に静かにそのくせ気迫満点の舞いは、思わず息を呑んで惹き付けられてしまった。それは繭葵もそうだったのか、それまであんなに大層なこと言って強気だった爆弾娘が、まるで憑かれたように食い入るように見入っている。
 一瞬の間を取って舞う蒼牙のヤツは、チラッと俺を見てから、それから神にその身を奉げる巫女のような清廉な表情をして、鼓や笛の音にあわせて優雅に舞う。その雰囲気に飲み込まれてしまうと、もう何も言えなくなってしまうし、行動すらも制限されてしまうような気分になるから…不思議な、不思議な時間だ。
 篝火に揺れ動く影が同じように舞を舞って、まるで光と影が交叉するような不思議な世界を垣間見たような気がした。
 それはまるで、神や精霊たちと対話しているような一瞬───…
 そうして俺は、暫く呆然と蒼牙が生み出すその世界に浸ってしまっていた。
 なんだろう…この胸の奥がざわめくような、懐かしい気持ちは。
 強烈な郷愁に涙さえ出そうになったときだった、不意に繭葵に腕を掴まれて、俺は唐突に現実の世界に舞い戻ったんだ。

「大丈夫?ボーッとしてたけど…」

「へ?あ、ああ。なんでもない…たぶん」

 ハッとして胸の辺りを掴んで俯いたら、繭葵はちょっと眉を寄せて俺の顔を覗き込んできた。

「たぶんてどう言う意味?全く…でも、なんかアッと言う間に奉納舞終わっちゃったね」

「アッと言う間だったか?俺にはそう感じなかったけど…」

 なんだか身体がドッと疲れたような気がして仕方ないけど、繭葵は言葉のようにケロッとしているから、どうやら長い時間に感じたのは俺だけだったようだ。

「でも、ちょっと儲けたって感じだよね♪蒼牙様の巫女さん姿が拝めたもんね~」

 ウキウキして上機嫌の繭葵に「そうかぁ?」と眉を寄せた俺は、それでも唐突にあることを思い出して首を傾げてしまった。

「そう言えば、眞琴さんは舞わなかったな」

「あー、それね。ボクもヘンだなって思ったけど…どうも、当主と巫子が踊るのは『弦月の儀』の神事のほうだったんだね」

「あ、そっちか」

「蒼牙様が巫女装束を着ていたってことは…これはあくまでもボクの想像なんだけど、弦月の儀のほうでは眞琴さんは白拍子の姿なんだろうねぇ」

 奉納舞が終わると全てが終了したのか、村人たちは『今回の奉納舞はいつにも増してよかった』とそれぞれが嬉しそうに笑って呟き合っては、それから俺たちに頭を下げながら下山を始めていた。

「みーたーいー!もう、ホント!!見たいよね?ね?弦月の儀ッ」

 ムキーッと興奮したようにヒソヒソと話してくる繭葵の言葉が聞こえたのか、帰ろうとしていたジイちゃんが立ち止まって俺たちを振り返ったんだ。

「娘さん、悪いこたぁ言わねぇがなぁ…弦月の儀は禁域で行われるだ。立ち入れば命だって保証はないで」

「…ええ?それってホントのことだったのかい??」

「当たり前だぁ。呉高木家の極一部のモンだけが入れる場所だで。いくらお嫁さまでもやめておいたほうがええ」

「は、はぁ…」

 それは確かに蒼牙があの迫力で言ったように、村人たちの間にも浸透していってるのか、その表情は固くて先ほどの柔和さがまるでない。それに気付いたのは俺ばかりでもないらしく、繭葵も少し青褪めてチラッと俺を見た後、やっぱりどうしようと考えているようだ。
 そーだ、思い直すなら今だ!

「蒼牙様が大事にしている花嫁である光太郎くんの命すら危ぶむってことは、やっぱボクの考えに間違いはないね!これはますます、今夜の弦月の儀が楽しみだねぇ」

 どうしてコイツはこんなに思い込んだら捻じ曲がって一直線なんだろう…いや、そうか。コイツは、コイツも唯我独尊なんだろう。この呉高木家に関係する連中はどうしてこう、自分勝手で我が侭なんだろう。
 ん?そう言えば親父も身勝手なヤツだったっけ。母さんは耐え忍ぶような性格で…そう
か、俺は母さんの性格を受け継いだんだろうな。
 だから亭主が蒼牙なのか…ハッ!?何言ってるんだ、俺。

「夕食後に5体の地蔵さんの前だからね!宜しく♪」

 バンッと背中を叩かれて、俺はそれでも嫌々頷いていた。
 どっちにしても繭葵を1人で行かせるわけにはいかないし、何か危なそうだったら助けないと…
 たぶんきっと、蒼牙は怒るんだろうけど。

「あ、そう言えば!ちょっと伊織さんに話があるんだった。ここで、ちょっと待っててくれる?一緒に下山しようよ。どーせ、蒼牙様は弦月の儀があるから一緒には戻れないと思うし?」

「あー、いいよ。じゃ、待ってるから急げよ」

「うは!ありがと♪」

 そう言ってから、繭葵は退屈そうにカーディガンを羽織りなおしている伊織さんのところまで、脱兎の如く走って行った。
 いや、誰もそこまで急げとは言ってないだろ?
 繭葵のヤツはもともとそう言う性格なのか、結構伊織さんと話していても落ち着きなくそわそわして話している。でも、伊織さんもそんな繭葵を嫌ってはいないのか、ちょっと笑いながら言葉数少なに聞いてるようだ。
 そんな風に伊織さんと話す繭葵を待っていたら、不意に、まだ祭りの余韻を味わう傍ら、宵の涼風に涼んでいる残った村人が、いや、ここにいた全ての人間のハッとしたような気配がして、それからザワッとざわめいたから俺は不思議そうに首を傾げた。と、唐突に背後から抱き締められてビクッとしてしまった。
 鼻先を擽るようなお香のいい匂いにハッとしたら、頭上にお雛様のような冠を付けた漆黒の長いカツラを被った巫女装束の蒼牙が、俺の顎を掴むと上向かせやがったんだ。

「そ、蒼牙!」

 そりゃ、吃驚するだろ、普通。
 綺麗に化粧した蒼牙は舞を終えて、着替えもせずに出てきたと言った風情なんだから、その顔は驚くほど綺麗だった。

「ちゃんと舞を見ていたか?アンタはボーッとしているようだったからな」

「ああ、見てたよ!すげー、綺麗だったッ」

 パチパチと、あの朝、蒼牙の朝稽古を見たときのように手を叩いて興奮したように俺が笑うと、蒼牙はニコッと笑って嬉しそうに頷いたんだ。

「じゃあ、いいんだ」

 なんだ、そんなことが心配だったのか。
 ヘンなヤツだなーと思いながら、俺は抱き締めて離そうとしない蒼牙に首を傾げたんだ。

「これから、弦月の儀か?」

「ナイショだ」

 クスッと笑う蒼牙が、どうしても綺麗な巫女さんにしか見えなくて、俺がギクシャクと目線を外しながらそうかとかなんとか言ってたら、不意にヤツは、人目なんか一向に気にしていないとでも言うように上向かせたままでキスしてきたんだ。
 うぎゃー。
 お雛様みたいな冠をつけている蒼牙の、その長い黒髪がサラサラと零れ落ちて、たぶんそんなに周りの人には見えなかったと思うけど、思わずギュッと閉じてしまった目を、蒼牙の触れていただけの唇が離れると同時にソッと開いたら、思ったよりも近くにあの綺麗な顔があった。

「紅がついてしまったな。アンタの方が似合う」

 口紅が似合うとか言われても嬉しくないんだけど、思わず拭いそうになったら、その手を蒼牙に掴まれてしまった。

「拭わなくていい。綺麗だ」

「だからな、蒼牙。何度も言うようだがその言葉をそっくり返してやるって。お前の方が綺麗だよ」

「当然だ。綺麗だから舞っているんだ」

 そんな馬鹿なと目を瞠ったら、蒼牙のヤツが楽しげにハハハッと笑った。

「冗談だ」

 なんだ、冗談かと、一瞬思いきり本気にしてしまった俺はバツが悪くてムッとしてしまう。そんな俺の唇にもう一度口付けたとき、不意に、脇に控えていたんだろう桂さんの低い声がした。

「蒼牙様、お召し替えを致しませんと…」

「ああ、すぐ行く。では光太郎、道中気を付けて戻るんだぞ。夜の闇は魅惑的だからな」

 名残惜しそうに俺から離れた蒼牙はそう言って、巫女装束のくせにやたら男臭い表情で笑うと、そのまま桂を従えて堂々と神社の方に戻って行ってしまった。
 残された俺はと言うと、まだ伊織さんとの話しが終わらない繭葵が何か言いたそうにニヤニヤ笑ってちらちらこちらを見ているし、気のない素振りで伊織さんには見られるし、たまたま居合せた高遠先輩には気持ち悪そうな目付きで見られるし、涼を求めて残っていた村人たちからは微笑ましそうな目付きで見られると言う、4重苦に苛まれていた。
 いくらなんでも遣り逃げはやめてくれ。
 できたら本人に言いたかった。

「…光太郎さん」

 不意に声を掛けられて、慌てて唇を拭っていた俺が振り返ると、こんな山には不似合いなんだけど、それを上回ってとてもよく似合うワンピースを着た小雛が立っていた。宵闇に篝火が揺れて、まだそんなに暗くなってはいなかったんだけど、ちょうど逢魔が時のような薄暗さで、だから小雛の表情はよく見えなくて、でも確かにそこに立っていたのは小雛だった。

「や、やあ、小雛」

 どんな顔をしたらいいんだと悩んでしまうのは、小雛の恋心を知っているから、たった今、その想い人とキスしてしまった俺としては居た堪れない。

「私、ちょっとお話があるんですけれど、お時間宜しいでしょうか?」

 嫌に改まった小雛は、それでも俯いたままだ。
 そうか、そりゃあ、あんな風にキスしてしまった場面を見せ付けてしまったもんなぁ…悪いことしたと思う。
 蒼牙は罪なヤツだ。
 繭葵を見ると、まだまだ話は続いているようだし、どうせすることもない俺は、小雛の憎まれ口ぐらいは聞かないといけないだろうと思ったから頷いていた。

「ああ、いいよ」

 ホッと息を吐くと、小雛は暫く逡巡していたが、思いきったように口を開いたんだ。

「光太郎さんは本気で蒼牙様とご結婚されるのですか?」

「え?」

 ドキッとした。
 そうして、そんな風に驚いている自分に、俺は、俺の中にはまだ迷いがあるのかと目線を伏せてしまう。そんなはずないって思ってるんだけど、どうしても引っ掛かってしまう、たったひとつの蟠り。

「私は…反対です」

「小雛…」

 そりゃ、当たり前だよな。
 なんと言っても、チビの頃からもうずっと、蒼牙しか見ずに生きてきた小雛が、こんなポッと現れた俺なんかに、しかも男なんかに大事な人が持って行かれそうなんだ、反対されて当たり前だ。
 繭葵、俺じゃない。
 ホントに蒼牙を掻っ攫われたのは、他の誰でもない、たぶん小雛だったと思う。

「だって、光太郎さんは子供を産めないじゃないですか」

「うん」

「私は産めます」

 その時初めて、漸く小雛が顔を上げたんだ。
 その顔は、どこか切なくて、痛々しかった。
 俺は男なのに、子供を産めて蒼牙に寄り添って、幸せの道を歩むのは小雛だったのに…彼女から永遠に蒼牙を奪おうとしているんだ。
 いや、この呉高木の血脈を途絶えさせようとしている…それは、俺の中にずっと根付いていた蟠りで、誰も言ってくれなかったら、どこかで大丈夫なのかなとか、馬鹿みたいに思い込んでしまっていた。

「晦の儀の時に、私と入れ替わって戴けないでしょうか?花嫁は光太郎さんでも構いません。でも、あの方の御子を私にください」

 小雛は泣き出しそうな顔をして必死だった。
 そんな顔、一度だって俺はしたことがあっただろうか…

「晦の儀の時に隠れる場所は、直哉小父様が用意してくれています」

 ポツリと、小雛が呟いた。

「私は蒼牙様を愛しています」

 溜め息のように呟いて、そして、小雛の大きな瞳からポロリと一粒、涙が零れた。
 こんな風に女の子を泣かせてはダメだと母さんが言っていた。まさか、1人の男を取り合うような形で女の子を泣かせることになるなんて思ってもいなかった俺は、なんか突然叫び出したくなって頭を抱え込んでしまった。
 ああ、クソ!なんで俺がこんなことで悩まなけりゃいけないんだ。
 ましてやこんな可憐な女の子を泣かせてまで,本当に俺は蒼牙と結婚したいのか?
 先輩が言うように、やっぱり俺はおかしいのかもしれない…
 またしても地団太を踏みたくなっていたが、小雛はそんな俺の態度をどう勘違いしたのか、ちょっと困ったように眉を寄せて俯いてしまったんだ。

「ごめんなさい。私、でしゃばってしまいました」

 そんな、一大決心をして話していたくせに、ハラハラ泣いているくせに、諦めたりするなよ。
 小雛は、俺の持っていない大切なものをちゃんと、持っているんだからさ。

「小雛!…俺はやっぱり蒼牙の花嫁は小雛か繭葵だって思ってるよ」

 小さな嘘を吐いた。
 蒼牙のことは、好きだけど。

「光太郎さん…」

 小雛は困惑したような、まだ信じられないとでも言うような心許無さそうな表情をして、俺を上目遣いで見上げてきた。
 愛しているのか判らないんだ。
 だから、こんな中途半端な想いのままで、俺は小雛を傷付けて、蒼牙を縛り付けられるはずもない。

「晦の儀までに考えておくよ」

 女々しい俺はすぐに断定的な返事ができずに、諦めたように呟いたら、小雛が俺の両手を掴むとソッと握り締めてきた。
 小雛の掌はとても柔らかくて、そして小さかった。守ってあげたくなるはずの彼女から守られているような錯覚を感じて、俺は途方に暮れたように苦笑してしまう。
 この村に来てから俺は、どこか女々しくなっている。花嫁なんて言われて、女扱いばかりされているせいなのかもしれないけど、このままこんな生活が続けばいつか性根まで女っぽくなっちまうんじゃないかと思ったらゾッとしてしまった。
 ハァッと溜め息を吐いた途端、背後から何かが高い声で嫌味ったらしく叫びやがったんだ。

「あっれー!?なーんか、怪しい現場を目撃しちゃったぞ!」

 もちろん、こんなことを言うのはついさっきまで伊織さんとくっちゃべっていた爆弾娘、繭葵に間違いない。

「何が怪しいんだよ。小雛はお前と違って俺のことを気遣ってくれてたんだよ」

 ツーンッと外方向いて言ってやると、繭葵は「なんだとぅッ!」っと言いながら向こう脛を蹴り飛ばしてくれた!いってーッッ!!
 思わず小雛から両手を離して脛を押さえていると、目を白黒させていた小雛がクスクス笑って、それからちょこんっと頭を下げたんだ。

「では、繭葵さん。それから光太郎さん、これで失礼します…光太郎さん、どうぞ、よくお考え下さい」

 切実な双眸で俺を一瞬切なそうに見詰めてから、小雛はもう一度頭を下げて踵を返してしまった。主屋の方に歩いて行く小雛の後ろ姿を、片手をまるで庇のように目の上に翳してムムッと眺めていた繭葵は、それから不審げな目付きをして俺を睨んできたんだ。

「な、なんだよ?」

 ムッとしながらも、なんだか悪さを見られた子供のような気分になってしまった俺が唇を尖らせると、腰に手を当てたまま繭葵のヤツはジロジロと不躾に見回しながら俺の周りを一周している。

「なんかねー、怪しいんだぁ。小雛と何を話してたんだい?考えてくれとか言っちゃってぇ…さては!小雛に告られたとか!?」

「んなワケない」

「うははは♪やっぱり当たり前だよね」

 なんだよ、そのあっさりとした肯定は。
 なんか、良く考えたらお前も大概俺に失礼なヤツだよなぁ。

「まあ、いいけどね。どうせ光太郎くんや小雛如きが何かしたって、蒼牙様には適わないだろうしさ」

「そりゃ、どう言う意味だよ?」

 ムゥッと眉を寄せてニッシッシッシと笑っている繭葵の小憎たらしい顔を覗き込んだら、彼女は小悪魔みたいにふふんっと笑ってそんな俺の鼻先を指で弾きやがったんだ。

「光太郎くんも小雛もどっか抜けてるもんね♪」

「…悪かったな、間抜けで」

「そこまで酷くは言ってないよ♪」

 言ったも同じだろうがよ、と鼻先を押さえてムスッとしていたが、繭葵のヤツが唐突に俺の腕を掴むと腕時計を覗き込んで慌てふためいた。

「やっば、やっべーッスよ!晩御飯に間に合わないッ」

「…繭葵さぁ、伊織さんと何を話してたんだよ?」

「ウッシッシ♪」

 慌てて、まるで小動物みたいに敏捷な仕種で小走りに歩き出した活発な繭葵のヤツは、ピタリと足を止めると、口許に手を当ててニヤッと笑いながら振り返った。

「神堂のことに決まってるでショ?ん、まあ。でも伊織さんもよく知らないんだってさぁ。呉高木家の神事だってのに誰も知らないなんてヘンだよねぇ?…まあ、いっか。さっき言ったこと忘れてないよね♪」

「…やっぱり、行くんだな?」

「あったりまえじゃん!」

「…お前さ、急がないと夕飯も食いっぱぐれるぞ」

 うはははっと笑う繭葵に頭を抱えたくなっていた俺が呆れたようにそう言うと、夕飯目当てで慌てたように山道を駆け下りる爆裂娘の後を追いながら、ふと、空を見上げた。
 煌く小さな星たちに囲まれて、月がぽっかりと浮いている。
 俺はどうしたらいいんだろう。
 まるで立ち竦んだように、答えが見つからなくてそっと眉を寄せた。
 答えのない問題なんかあるワケがないのに、その答えが見当たらない。
 月も、この村の人たちが信じている龍神も、あの可愛い呉高木の護り手である小手鞠たちも、まるで何もかもが答えを教えてくれない。
 暗中模索の手探りに疲れた俺は、溜め息を吐いてトボトボと山道を降りて行った。