Level.11  -冷血野郎にご用心-

 結局その日、俺は高熱を出して甲斐の家に泊まることになった。
 予め匠にも言っていたし、親にも泊まるとは言ってたんだよな。用意周到のつもりだったのに…
 こんな形になるなんて悲しい。
 熱に浮かされて、具合がすごく悪くて、目の前がいつもグルグルしてるような気持ち悪さで、何度か吐いたけど甲斐は嫌な顔もせずに看病してくれたんだ。
 ブツブツ文句は言ってたけど、こう言う優しさが俺をメロメロにさせるんだ。
 熱は夜になるともっと高くなって、甲斐は本気で医者に電話しようかどうしようか悩んでいるみたいだった。
 俺はそんな気配を感じながら、それでも薬が効いたんだろうな、ウトウトとしていたんだ。
 夢見がちで…具合が悪いときに、不意にひんやりした冷たいものが額に触れてぼんやりと目が開いた。
 でも、それが何かなんて認識することはできなかった。

「少しは楽になったかい?」

 ひんやりしたタオルを押さえるように、誰かの指先が額に乗ったようだった。
 ギシッとベッドが軋んで、誰かが乗ったようだ。
 揺らすなって、気分が悪ぃんだからさ!

「…?」

 良く判らなくて眉を寄せると、ソイツは小さく笑ったようだった。
 笑い事じゃないってのに…真剣、気分が悪いんだぞ!ったく…はぁ、苦しい。
 少し喘いだら、冷たい指先が頬を滑り下りてきた。
 間近に大好きな顔があって、それが誰だと脳が認識する前に本能が確認して、俺はダルくて死にそうなほど辛いんだけど、何かに縋り付きたくてソイツの胸元の服を掴んで引き寄せた。
 鼻先が触れ合うほど近くに来た大好きな顔を、奇妙に歪む視界に映しながら眉を寄せたんだ。

「好き…だから。ぜったい…離れな…」

「うん。判ってるよ」

 屈み込むようにして覗き込んできたソイツは、喘ぎながら辛い身体を起こして苦しそうに呟く俺の、背中に腕を回して負担にならないように抱き締めてくれた。

「判って…?じゃ…俺…傍にいてもいい?」

 もう、ホントは何を言ってるのかも定かじゃないんだけど、誰かに認めてもらいたくて、甲斐の傍にいることを許して欲しくて気付いたら泣きながら聞いていた。病気になると人間ってのは弱くなるんだなぁ…いや、別に病気ってワケじゃないんだけど。

「いいよ。そんなに泣いたら駄目だよ…僕は君の泣き顔が好きなんだ。欲情しちゃうじゃないか、誘ってるの?」

 クスクスと笑ってそんな恐ろしいことを言うソイツに、でも俺は泣きながら笑ってた。
 それどころじゃないぐらい気分が悪いけど、あんたが、犯りたいってならしてもいいと思えた。
 なんだろうな、俺はあんたが好きだと思う。とても、すごい好きだ…

「冗談だよ。身体が良くなったらセックスしよう」

 クスクスと、ホントに冗談なのか本気なのか良く判らない声音で囁くソイツは、俺の目尻の涙を柔らかで繊細な唇で拭ってくれたんだ。

「愛…愛してる…好き」

 俺はうわ言のように何度もその言葉を呟いて、夢の中の誰かに縋り付いていた。
 甲斐のワケがない。
 甲斐はこんなに優しくない。
 だからせめて、甲斐の顔によく似たこの都合のいい夢の住人に、やっぱり都合のいい答えを求めたんだ。

「……」

 ソイツは無言で俺を無表情な、冷めた目で見下ろしていた。
 ああ…夢の中でもやっぱり甲斐は甲斐の性格なのか…そっか、そうだよな。こんな性格のコイツでも好きなんだよな、俺。だから、夢の中でも冷たくて当然なんだ。
 でもせめて…

「嘘でもいいから…好きぐらい言ってくれたら嬉しいのに…」

 涙が零れて、俺は遠くなる意識を必死に保ちながら、痺れたように感覚のない指先を伸ばして夢の中の甲斐の、温かい頬を触っていた。

「でも俺、甲斐のこと触ってるだけでもいいんだ。すごい、嬉しいよ」

 涙腺がぶっ壊れたんじゃないかってぐらい涙が出て、それでもニッコリと笑えたから良かった。現実の甲斐にも、同じことが言えたらいいな。
 今度、言おう。嬉しいからって、幸せなんだぞって…
 甲斐も俺がいて嬉しいだろ、ぐらいは言ってやろうっと。嫌な顔するだろうけど、ははは。
 はぁ…苦しい。

「嘘で…いいの?」

 そんなこと言うなよ。
 嘘で言いワケがないだろ。
 いつだって、ホントの好きが欲しいさ。

「や…嫌だ」

「…きっと、僕の方が一目惚れだったんだよ。のめり込むのが怖くて、でも、けっきょく手放せなくなっちゃったな」

 クスッと笑って夢の中の甲斐は信じられないことを呟いた。
 ああ…なんて幸せな夢なんだろう。
 甲斐が俺に一目惚れなんて言ってくれた…嬉しくて嬉しくて、言葉がすぐには出てこないよ。
 たとえ夢でも、こんなに幸せな気分はない。
 涙がボロボロ零れて、それでなくても涙腺が壊れてるみたいなのに…甲斐、俺も。

「俺も一目惚れだったんだ…ずっと好きで、でも、この恋はきっと叶わないと思ってたから。俺は…俺は…ああ、どうしよう。嬉しくて言葉にならないよ」

 苦しい息遣いで喘ぎながら、それでも甲斐に、たとえ夢の中であっても嬉しいって伝えたかったんだ。

「…一目惚れって言うだけでそんなになったら、次の言葉を聞いたらどうなっちゃうんだろうね?」

 次…?次なんかあるのか?
 こんなに嬉しくて…幸せすぎて、目が覚めたときが辛いから、もういいよ。
 俺の、都合のいい甲斐。

「あり…がと。もう…いい。うれし…」

 そこで、多分意識は途絶えてた。
 でも、遠ざかる意識のなかで、俺は確かに聞いていた。
 これ以上はないってぐらい都合のいい、幸福な幻聴を。
 夢の中の甲斐は少しだけ小さく笑って、俺の背中に回した腕に力をこめて抱き締めてくれたんだ。

「愛してるよ。もう、ずっと君に夢中だった」

 夢の中の甲斐の、優しすぎる告白を聞きながら俺は混濁した世界に沈んでいた。
 それでも、気分はこんなに悪いのに、サイコーだった。
 サイコーに気分が良かった。

□ ■ □ ■ □

 翌朝、俺の熱は下がっていた。
 日曜の朝で、巷はまだ眠ってるような時間帯に目が覚めたのに、甲斐は床に直接座ってコーヒーを飲んでいた。結局昨夜は眠らなかったんだろう。
 ちょっと疲れた目許がそれを物語っている。
 いいヤツなんだよな、ホントは。
 だから俺、コイツが好きなんだ。
 甲斐が俺を好きってのは、俺の思い込みで、誰からも好かれてるコイツを独占したいって言う俺の子供染みた独占欲だったんだ。
 ああ、昨日はいい夢を見たよな。
 どんな夢だったか、ホントはいまいち覚えてないんだけど、すっげぇ嬉しかったのだけは覚えてる。あんまり嬉しくて、俺、夢の中で泣きっぱなしだった。甲斐の夢だってことだけは確かだったんだけど…あーあ、覚えてたらもっとハッピーなのにな。

「起きたの?…その、気分はどお?」

 床にマグカップを置いて、はにかんだような、珍しい笑顔で聞いてきた甲斐のその顔に見惚れてしまった俺は、ハッとして慌てて頷いた。
 内容もうろ覚えだから、夢のことは甲斐には絶対に内緒にするんだ。せっかくいい夢なのに、コイツに知られて嫌な顔されたら立ち直れないもんな。

「ああ、もうスッカリいいみたいだ!サンキューな、甲斐!」

 朝っぱらから気分爽快で元気に返事をした俺を、甲斐はなんだか訝しそうな、呆気に取られた複雑な表情をして俺をマジマジと覗き込んできたんだ。

「な、なんだよ?そんなにマジマジと見られたら俺…」

 ドキドキするじゃねぇか!

「…覚えてないの?」

「覚えてるって…何が?俺、もしかして寝込んでる時になんか迷惑をかけたか?あ、そう言えば吐いたような…悪い」

「そう言うことじゃなくてね…」

 頭を下げると、甲斐は少し目を瞠って、それから信じられないと言うように首を左右に振ったんだ。
 溜め息をついて、それから諦めたように呟いた。

「何となくは判っていたんだけど…期待した僕が馬鹿だったよ」

 頬が微かに赤くなってる甲斐は、なんだか突然、苛々したように頭を掻いたんだ。

「期待って?え?俺、何かしたか?って、ちょ、甲斐!待てよ、どうしたって言うんだよっ」

 唐突に立ち上がって部屋を出ようとする甲斐を追って立とうとした俺は、熱は下がっても身体はピクリとも動いてくれず、そのまま床にダイブしそうになっちまった。
 ヤバイ!顔面直撃、床とキスしちまう!
 …と思ったときには、甲斐の腕の中だった。
 抱き留めてくれたんだ。
 やっぱ、優しいよな、コイツ。

「ありがとう」

 笑って見上げたら、ムチャクチャ不機嫌そうな顔の甲斐と目が合ってしまって、俺はギクッとしてしまった。
 何か、何か怒らせるようなことを言ってしまったんだろうか…俺。
 あ!…夢の内容を寝言で言ったのかな…うう、どうしよう。

「結城くんは、僕を振り向かせるんだったよね?」

 唐突に甲斐に言われて、俺は慌てたように頷いた。
 そうだ、俺は甲斐を振り向かせてみせる。
 今回は迷惑ばかりかけて好感度はかなり下がったと思うけど、これから取り戻すつもりだ。
 俺、幸せな夢も見られたから頑張れる!

「せいぜい、頑張りなよ。僕の心はとある人に奪われちゃったからね。頑張って、取り戻しなよ」

「え!?ええ!?…って、誰だよ、それ!俺が寝込んでる時に誰かにやったってのか!?」

 クスクスと甲斐が笑う。

「笑い事じゃないって!ああ、クソッ!身体が言うことをきいてくれん!」

 もがくように足掻く俺を一瞬だけ抱き締めてベッドに戻すと、甲斐のヤツは酷く飄々とした顔をして焦る俺を見下ろしてきやがるんだ!
 待て!待ってくれよ、甲斐!

「その人に夢中なんだ。果たして、身動きの取れない結城くんに奪い返すことができるかな?」

 何がおかしいのか、甲斐のヤツはクスクスと笑ってやがる。
 ああ、そりゃ面白いだろうな!ああ、くそ!鉄壁の甲斐の心を溶かしたヤツってのはいったい誰なんだ!?
 何をのん気に寝込んでたんだよ、俺!
 あんな幸福な夢なんか見てる間に、甲斐はさっさと誰かのものになったんだ!
 俺の馬鹿野郎!

「うう…クソッ!甲斐、俺は絶対にお前の心をソイツから取り戻してみせるからな!!」

「うん、頑張ってね」

 クスッと笑う甲斐。
 そんな綺麗な顔で笑いやがって!
 そんな風に楽しそうに笑いやがって!…って、本当に恋をしたのか?
 俺の知らない、誰かに?
 ソイツは…どんなヤツなんだろう。甲斐の氷の心を溶かすのは俺だって決めていたのに。絶対だって思ってたのに…!
 うう、俺もう泣きそう。
 いや!泣いてるヒマなんかねぇ!!
 俺は…俺はきっと甲斐の心を俺の方に振り向かせて見せるんだ!
 絶対だ!
 俺は甲斐が好きなんだ!
 甲斐は俺のものなんだ!
 俺はきっと、この冷血野郎を振り向かせて見せる。
 絶対だ!

 だからなあ、甲斐。
 きっと、その綺麗な笑顔で振り向いてくれよ…

END

Level.10  -冷血野郎にご用心-

 まず始め、インターフォンで少しだけ驚いたような声を出した甲斐は、玄関のドアを開けて、飛び込むように入って来た俺を条件反射で抱きとめながらさらに驚いたような顔をした。
 声が出なくて、普通ならすぐに突き飛ばすくせに、甲斐はそうしなかった。
 背後で静かにドアが閉まって、オートロックのドアはカチャリッと鍵を下ろした。
 全くの密室で、俺は泣きたくなるほど大好きな甲斐の背中に伸ばした両腕で、その温かな身体を抱き締めた。もう離れるもんか、絶対だ!

「…身体は、辛くないの?」

 的外れな言葉が漸く、よく響く玄関の壁に反響して床に零れ落ちた。

「甲斐に会えたら、身体なんてなんともない」

 それに答えてギュッと抱き付くと、甲斐は最初、躊躇っているようだった。
 何が起こったのか、そのパソコンみたいに正確な答えをはじき出す頭脳で考えているみたいだ。
 それから、唐突にハッとしたんだろう。
 慌てたように俺から身体を引き離したんだ。

「何をしに来たんだい?」

 まるで冷たい声音は取り繕うように響いて、心の秘密に気付いてしまった俺は、ああ、なんでもっと早くこんな簡単なことに気付かなかったんだろうと後悔した。
 だってさ、ほら。こんなに甲斐の冷たい声の動揺が判るんだ。
 一瞬見せた、幻のような真実の姿が、俺に鮮烈な衝撃を与えたのは確かだ。
 甲斐はきっと、俺のことが好きなんだろう。
 でもな、お前よりも100倍も好きなんだぜ、俺は。

「忘れ物を取りに来たんだ」

「忘れ物?ふぅん、いいよ。上がりなよ」

 俺の言葉を疑うような表情で聞いていた甲斐は、それでも肩を竦めると部屋に入れてくれたんだ。
 まあ、疑うのも仕方ないか。俺がこの部屋を出た後、コイツはさっさと掃除したに違いないからな。忘れ物があったら目障りだ、きっとそう考えていたに違いない。
 あう、そう考えるのはまだ辛いな、俺。
 自分で落ち込みそうになってハッと思い直して、あの時は酷く辛くて泣きそうになりながら後にしたフローリングの部屋に腰を下ろした。

「…ッ」

 それでも身体は限界なのか、悲鳴を上げるように軋んで声が出そうになった。

「本当は辛いんじゃないのかい?わざわざすぐに来なくても、明後日学校で言ってくれればいいのに」

 面倒臭そうにそう言って、甲斐は青いグラスに冷たいコーラを入れて持ってきた。
 熱いお茶もいいけど、熱を持った身体を冷やすように気を遣ってくれたんだろう。こんな風に、ちょっとした優しさに気付かなかったなんて、ホント、俺はいったい何をしていたんだ!
 甲斐は、俺が熱を出していることに気付いたんだろう。

「それで?忘れ物はなに?」

「…甲斐」

「え?」

 コーラの入ったグラスの中で、犇めき合った氷が窮屈そうにカランッと小気味良い音を立てた。
 甲斐は訝しそうに眉を寄せて、その綺麗な顔で、俺が何を言いたいのかを見極めようとしているみたいだ。俺は緊張で渇いた唇を何度か舐めて湿らせながら、握っていたグラスを床に置いて立っている甲斐を見上げたんだ。

「俺、甲斐を忘れたんだ」

「…笑えない冗談は嫌いだよ。何をしに来たって?」

 不機嫌そうに俺を見下ろして腕を組む甲斐を見上げて、いつもは怯んでばかりいる俺はニッと笑って見せた。

「冗談じゃない。俺は甲斐を取り戻しに来たんだ」

「僕を?そんな傷付いた身体で?」

 クスッと笑った。
 でも、その両目は笑っていない。
 きっと、動揺してるんだろう。判らないけど、俺はなんとなくそう思っていたんだ。

「お前は俺じゃないと駄目なんだ」

「…やれやれ」

 不意に甲斐は溜め息をついて首を左右に振った。
 その一連の動作をドキドキしながら見守る俺を、甲斐は呆れたような、酷く冷めた目で見下ろしてくるんだ。

「たいした自信だね。でも知ってる?僕はね、そんな台詞、何人からも聞いてるんだよ。うんざりするほどね」

「でも…ソイツらはお前を見ていなかったじゃねぇか。俺も人のことは言えないんだけど、でも、俺は気付いたから」

 恋心にも、お前のその冷めた目の奥で動揺に揺れてる激情の欠片にも。
 好きだよ、甲斐。
 気持ちってのは不思議だよな、気付いちまうともう止められなくなるんだ。

「何に気付いたの?」

 甲斐はまるで馬鹿にしたように笑いながら、それでも興味を示したように俺に近付いてきて顎を掴んだ。クイッと仰向けながら、興味深そうな面白そうな目をして、ドキドキする俺を覗き込んでくる。

「お前の恋心だよ」

 ニコッと笑ったら、甲斐は面食らったような顔をして、それでもクスクスと楽しそうに笑いながら俺の前で屈み込んだ。

「全く…君は本当に面白い。予想外の行動ばかりして…だからかな?手放す時になって、急に惜しくなるんだ」

 急に真面目な顔をして、甲斐は唇を舐めた。
 もしかしたら、コイツも緊張してるんだろうか?
 珍しいな、人を馬鹿にしてばかりいるお前が、緊張するなんて…それって、俺のせい?だったら、すごく嬉しいな。
 俺を、やっと個人として確認したってことじゃねーか。
 その他大勢から、ちょっとした格上げだ。

「惜しいんだろ?だったら、モノは験しにもう少し傍に置いてろよ」

「だったら、結城くん。ずっと僕の傍で言い続けるつもりなのかい?」

 クスッと鼻先で笑うだけで、まるで無駄なのに、とでも思ってるみたいだ。

「うん。ずっと言うよ。俺は甲斐が好きだよ。甲斐も俺が好きだってさ」

「ヘンな人だね、君って」

「ずっと傍にいて気付かなかったのか?」

 俺だって甲斐のことは言えないんだけど…

「気付かなかったよ。ってことは、このまま傍にいても同じじゃないのかい?」

「気付いただろ?今、気付いたじゃん。少しずつでいいんだ。俺を見てくれたら…」

「冗談じゃないよ」

 不意に馬鹿にしたように掴んでいた顎をきつく握って、甲斐は苦しそうに眉を寄せた俺の顔を冷めた双眸で覗き込みながら冷たく言い放ったんだ。
 ドキッとしたけど、そんなことぐらいで諦めるもんか。
 俺はお前が好きなんだ。
 いつもなら怯んでいるけど、俺は甲斐から目を逸らさなかった。
 ジッと見つめていたら、マジマジと覗き込んでいた甲斐が、唐突にキスしてきたんだ。
 ビックリしたけど、俺はその口付けを素直に受け入れた。嫌がることなんて何もない。嬉しい誤算に甲斐の服を掴んで引き寄せるようにしながら、俺は目を閉じた。
 甲斐は閉じていなかったけど、でも、俺は閉じた。
 いいんだ、どんなことだって受け入れてみせるから、試したいだけ試すといい。
 俺はけっこう、チャレンジャーなんだぜ?

「…って思ったんだけどな。いいよ、傍にいるといい。でも、僕は君を見ないよ。それでも僕を振り向かせるだけの自信があるなら、ずっと僕の傍にいるといい」

 唇を離して、俺の唇を微かに舐めた甲斐はそう言った。
 よく感情を窺わせない表情だったけど、俺は嬉しくてニコッと笑ったんだ。

「覚悟してろよ、甲斐。絶対に振り向かせてみせるからな!」

「それは楽しみだ」

 冷たく笑って、もう一度キスしてきた。
 どんな意味が含まれてるのかよく判らないけど、俺は舌を受け入れながらその口付けに身を任せていた。
 まずは第1歩を踏み出したってワケだ。

Level.9  -冷血野郎にご用心-

 匠はそれからすぐに来た。
 息せき切って、俺が倒れたんだと聞いたと言ったけど、本当は何をされたのか知ってるんだろう。俺が甲斐に抱かれてることを、匠は知っているからな。
 シーツは既に綺麗なものに取り替えられていたし、俺の顔も髪も、温かな湯で綺麗になっていた。ただ、風呂上りの上気した頬を見られたら、それがナニをした後だって言うのは嫌でも判るだろうから、これが甲斐流の嫌がらせなんだろう。
 倒れたってことは酷くされたんだと思っている、実際に酷くされたんだけど、匠は甲斐の方は見ようとせずに俺の肩を抱くようにして瀟洒なマンションを後にした。
 甲斐は無言で俺を見送ったけど、その目にはもう、何の感動も抑揚もなかった。壊れた玩具にさようならを言ってるみたいで、匠がいなかったら縋りついて泣いていたと思う。
 匠がいなかったら…きっと、俺の気持ちなんてそんなもんだったんだ。
 家族にも誰にも知られたくない、そのくせ、甲斐には全てを望んでいたような気がする。
 これは罪なんだろうか。
 甲斐の心を開かせる努力もせずに、どうして自分を見てくれないんだろうと身勝手なことを願っていた俺の、よく物事を考えもしなかったこの俺の…罪。
 まさか、こんな形であのマンションを後にするなんて思ってもみなかった。
 身体が辛い。
 甲斐の傍らで、きっと明日も目を覚ますんだと疑いもしていなかった。

「あ、兄貴!?」

 不意にしゃがみ込んで両腕の中に顔を隠してしまった俺の突拍子もない行動に、道を行く仕事帰りのおネェちゃんだとかサラリーマンのおっさんだとかがジロジロ見て、すまん。きっと匠に恥をかかせている。
 でも俺、すっげぇ辛いんだ。胸が痛くて痛くて…身体よりも辛いんだ。
 どうしたら、どうすれば…そんなことばかりが脳裏を駆け巡っていて、きっとお前のことを思いやる余裕がない。こう言うことが響いて、甲斐のことを思いやることをしなかったから、こんな結末になったのか。きっとそうかもしれない。
 俺は泣いた。
 オロオロする匠と、道を行く顔のない人たち。
 俺が認識できる全ては甲斐…お前なのに。
 思いが先走って心が追いつけない結果は、どうしていつもこんな風に、唐突な結末を呼び起こすんだろう。
 自分を偽って、でも、それ以上に相手を偽って。
 心が見えなくなって、身体ばかり求めて…そう言う関係でもいいと思っていた。
 甲斐は誰も愛さない。
 甲斐は恋をしない。
 甲斐は望まれれば誰とでも寝る。
 甲斐は。
 甲斐は…
 その中に隠されているお前の素顔を、俺は見ようとしていたっけ?
 嫌われることばかり怖がって、俺は、お前をよく見ていたか?
 お前を好きだと言いながら、冷めた双眸の奥に確かに存在するはずの情熱の欠片を、俺はいったい何度見過ごして…いや、見ないフリをしてきたんだろう。
 このままじゃいけない。
 きっと、いや絶対!
 このままでいいはずがないじゃないか!

「兄貴!」

 身体の痛みに堪えて立ち上がった俺を、匠が慌てたように腕を掴んで引き止めた。

「お願いだ、匠!行かせてくれ。このままでいいはずなんてないんだッ」

「兄貴…俺は行かせないよ。言わなかったっけ?俺は兄貴が好きだ。あんなヤツ、兄貴を無駄に傷付けてるだけじゃないか!」

 往来で言う台詞でもないが、それでも俺は腕を振り払って叫んでいた。

「それでも俺は甲斐が好きなんだ!それに…アイツを傷付けていたのは俺なんだ。そう言うことに気付いたから、もうダメなんだ」

 匠は伸ばしかけていた腕を唐突に引っ込めて、どこか痛いような顔をしながら腹立たしそうに外方向いた。

「行ってどうするんだよ?アイツは…兄貴を愛してなんかいない」

 それは、いつも俺が思っていたことで、なのにどうしてだろう?こうして他の人間の口から聞いているのに、どこか笑えてしまうのは。

「ああ、判ってるさ」

「それなのにどうして…?」

 口許が震えていて、コイツの恋心を知っているから辛くなった。
 そうなんだ、俺も匠も素直に感情を剥き出しにする術を持っている。
 でも、甲斐は…アイツは本当は驚くほど不器用なヤツだから、きっと今ごろ仕方なさそうに溜め息をついてるんだろう。
 俺は自惚れる。
 手離した玩具を後悔しながらアイツは、膝を抱えて別の玩具に慰められるんだ。でも、心に開いた穴は滅多なことで埋まるもんじゃなくて、隙間風に凍えながらぬくめてもくれない温かなベッドで眠るんだろう。
 匠は、俺たちは兄弟だ。
 どうして、この隙間を埋めるだろう?
 忘れるまで自棄になって…それで結局ちゃんと消化して新しい恋を見つけることができるんだろう。
 俺の弟なんだけど、そう考えると少し笑えた。
 俺のように一途な匠、だからきっとお前もそんな風に恋に恋してる状況から抜け出せる相手を見つけ出すことができる。
 大丈夫、俺たちの性格はきっと最愛の相手を見つけ出すさ。
 でも甲斐は、アイツはダメなんだ。
 アイツは無理して忘れようとする。
 想い出にかえる術を持っていないから。
 そうしてアイツは、忘れる為に傷付いていくんだろう。
 それを当然のような当たり前の顔をして、まるで傷付いてることに気付きもせずに、今まで通りの冷血の仮面を被って生きていく。瞳の奥に燻っている、情熱の欠片を抱き締めながら。

「匠…俺は甲斐じゃないとダメなんだ」

「でも兄貴。アイツは俺に言ったんだぜ?もう用無しだから、さっさと引き取りに来てくれ。迷惑だって」

「言うだろうな」

 クスッと笑うと、匠は訝しそうな顔をした。
 いつもの俺ならその言葉に動揺して、落ち込んで、二度と甲斐の傍には近寄らないだろう。
 アイツがそれを望むのなら、俺はきっともう二度と傍には近寄らない。
 でも違う。
 キスマーク1つで顔色を変えるアイツが俺を嫌いだって?
 なぜ、こんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
 自分より、弟を選んだんだって、アイツは勘違いしたんじゃないだろうか。アイツに嫌われたくなくて黙っていたことが、甲斐にとっては愛してるヤツを守っていると言う風に取ったのだとしたら…?
 アイツはきっと誰も愛さないだろう。
 アイツはきっと誰とも恋をしないだろう。
 でも、請われればいつだって誰とでも寝る。
 アイツはだって、俺を愛してるし。
 アイツはだって、俺と恋をしてるんだし。
 アイツはだって…それに気付いていないから。
 誰とでも寝ることができるのは、アイツは心の中にいる誰かを捜しているんだろう。
 手探りで、かつて俺がそうしたように。
 俺は自惚れるよ、甲斐。
 きっとその相手は俺なんだ。

「兄貴…クソッ!もういいよ。行っちゃいな!その代わり、泣かされて帰ってきたらもう、どこにも行かせないんだからなッ」

 拗ねた子供が駄々をこねるように下唇を尖らせた匠に、俺は思わず抱きついていた。ああ、俺はなんていい弟を持ったんだろう。
 甲斐に出会って辛かった。
 でも、損なうことのない喜びがいつだって傍に佇んでいた。
 脳裏に閃いたあの一瞬のスパークが、俺の運命を鮮やかに変えてくれたんだ。
 甲斐に出会えてよかった。
 本当は一度だって後悔したことなんかない。
 匠のことを理解する余裕をくれたのも甲斐なんだ。
 往来で、奇異の目に晒されながらも、俺は初めて味わうこの心底の喜びを匠に伝えたかった。
 アイツの掌の上で守られていたのは…きっと俺なんだ。
 俺はきっと、もう間違えたりしない。
 仕方なさそうに俺から身体を離した匠のヤツは、呆れたような溜め息を1つ零して、俺の背中をグイッと押した。

「甲斐ってヤツは冷たいから。きっと兄貴はこれからもずっと泣くんだろう。でもそれが幸せなら、俺はもう何も言わないよ。でもな、兄貴」

 そう言った匠を肩越しに振り返る俺に、弟は困ったような心配そうな複雑な表情を浮かべたままで笑いながらウィンクするんだ

「冷血野郎にご用心!くれぐれもなッ」

 俺はそれに笑った。
 久し振りに心底から笑えた。
 もうじき季節は巡り初夏が訪れようとしている。
 俺は未だ春すら来ない、氷の城に眠る冷たい美貌の主の居城に赴くことにしたんだ。
 俺が愛する、たった1人の冷血野郎。
 きっと俺は、お前を目覚めさせる。

Level.8  -冷血野郎にご用心-

 ひんやりとした何かが額に触れて、俺はぼんやりと覚醒した。
 どこかで見たことのあるような、でも全く知らない天井と、虚ろな目が映し出すのは見知らぬ部屋だった。
 やや大きめの、シルクの肌触りをした…ああ、きっとシルクなんだろう。黒いシーツに包まれて、俺は痛むこめかみを押さえながら悪態をついた。
 ここは…どこだ?
 ぼんやりと彷徨っていた両目が唐突に誰かの顔を映し出し、その上で視線が止まる。
 霞んでいた脳裏に幾つかの記憶が鮮明に浮かんできて、俺は唐突にハッと完全に目を覚ました。
 そうだ!
 甲斐と一緒にヤツのマンションに来たんだった!
 そこで、匠につけられたキスマークで問い質されて…別れるって言われそうになって、俺焦って。
 焦って…?
 そっか、気を失ったんだ。
 ああ、あれは夢じゃなかったんだ…

「気が付いた?」

 不意に頭上から声が降ってきて、俺は弾かれたようにその声の主を見上げた。
 綺麗な、ハンサムな双眸が見下ろしている。
 ベッドサイドに腰掛けて、いったい、何時からそんな風に俺を覗き込んでいたんだ?
 お気に入りの玩具を捨てようかどうしようか、悩んでる子供の目だ。
 壊れてるから…でも、捨てがたいんだよね。
 そんな感じで。

「俺…」

 声が咽喉に絡んで、ひっくり返るような、なんとも奇妙な発音になっちまった。
 一つ咳払いをして搾り出そうとする言葉を、甲斐はひんやりと冷たい指先で俺の唇をなぞってそれを止めるんだ。言いたいのに…こんなに、言いたいのに。

「喋らないで。まだ身体も辛いだろう?酷くしちゃったから…でもまさか」

 そこまで言って、甲斐のヤツは抑揚のない声で笑う。
 やけに乾いた苦笑は、部屋の張り詰めた空気を微かに震わせた。

「こんなことぐらいでダウンしちゃうなんてね。君は思ったほどタフじゃなかったんだ」

「甲斐…ッ!」

「しー」

 嫌だ!嫌なんだ!
 そんな、いつもより冷たい顔をするなよ!
 いつものように馬鹿にしてもいい、蔑んだっていい。
 でも、お願いだから、そんな感情のない顔をしないでくれ!…俺を、嫌わないでくれ。
 俺を黙らせた甲斐は鼻先が触れ合うぐらい深く覗き込んできて、暫く、なんとも言えない表情を浮かべてマジマジと俺を見つめていた。
 ドキドキと、もしかしたら外に聞こえるんじゃないかと思うほど心臓が高鳴って、ドクドクと血流が耳元で破裂しそうなほど早く流れている音が聞こえる。甲斐に見つめられて、口許にその息を感じるだけで、俺はいつだってこんな風に処女の女の子みたいに胸をときめかせるんだ。
 甲斐の覗き込んでくる目をまともに見つめ返すこともできなくて、俺はギュッと両目を閉じた。
 顔なんか茹でて真っ赤になったタコみたいに上気してるに違いねぇ。
 キスしたい…
 嘘だって、今までのことは全部悪い夢だったんだって言って、甲斐は乱暴でもいい、キスをしてくれないだろうか?
 俺は淡い期待を胸元に抱えて、震える瞼を押し上げて甲斐の目を見つめ返した。
 真っ赤になって、馬鹿みたいに動揺しながら、俺は甲斐がくれるかもしれないキスに胸をときめかすんだ。
 甲斐は少しハッとしたように目を瞠ったけど、感情を見せたのはそれぐらいで、まるでついでのように口付けてきた。
 驚いたことに、キスしてくれたんだ。
 口唇を合わせて、舌と舌がぶつかり合って、まるで喧嘩でもするように絡めて吸って深く突き入れて…舌に犯されてる気がして苦しく喘ぎそうになるけど、甲斐は許してくれない。
 それでもいい。
 キスしてるんだ。
 俺の目尻から涙が零れた。
 生理的なものか、それとももっと違った、複雑な感情が流れさせたのか…

「…ぅ…ふ…」

 長く貪るような口付けを唐突に切り上げて、甲斐は自分の唾液で濡れた唇をペロリと舐めながらクスッと鼻先で笑った。喘ぐ俺を見下ろして、ゾッとするほど妖艶で綺麗だ。

「このまま突っ込んじゃおっかな?傷口もそんなに癒えてないから、きっとまた新しい血が出るよ。今度こそ、本当に医者の世話になるかもね。…それでも、俺としたいんだろ?光太郎」

 唆すように、上体を倒して耳元に囁いてくる甲斐は、滅多に名前で呼んでくれないくせにその時はそう言って、俺の首筋に口付けてきた。
 痕を残すように強く吸われて、ビクッと身体が跳ねる。
 声だって出る。
 全てに感じる…

「したい…したいよ、甲斐。俺を抱いてくれよ」

 縋りつくように腕を伸ばしても、甲斐はそれを振り払わなかった。それどころか、背中に腕を入れて抱き起こして、そして抱きしめてくれたんだ!
 嬉しかった!すごく嬉しくて…涙が出た。
 これが、本当はこっちの方が夢なんじゃないかって思うと、俺はいてもたってもいられずに甲斐の背中に伸ばした腕でギュッとヤツを抱き締めた。消えないでくれ!
 幻なら、もっと長く…

「苦しいよ、光太郎。やっぱり、突っ込むのはやめるよ。いろいろと面倒臭そうだし…」

 そう言って少し身体を離す甲斐にもっと縋り付こうと伸ばす手を取られて、俺は不安そうに少し上にある双眸を見上げるとヤツの次の言葉を待った。

「だから、ね?口でして」

「え?」

「できない?まださせたことなかったからな…欲情したんだよ、誘うような目をするから」

 俺は少し目を瞠って逡巡したけど、すぐに腕を放して甲斐の股間に手を伸ばした。

「してくれるの?…ホント、聞き分けの良い玩具だよね」

 馬鹿にしたように鼻で笑われて、俺はホッとした。
 いつもの甲斐に戻ってる。
 あれは、きっと聞き分けのない俺に苛ついて脅しただけなんだ。
 それなら、俺はできるだけ甲斐の言うことを聞こうと思う。
 甲斐のモノなんだ。舐めるのなんか全然平気だって!
 ジッパーを下ろして、センスの良いトランクスからその姿を現した灼熱の杭は、既に確かな形を作って隆起してる。
 熱気を孕んで、ムッと男の匂いがした。
 俺は目を閉じると、美味い菓子を貪るようにヤツの股間に顔を埋めたんだ。

□ ■ □ ■ □

「…くっ…上手だね。どこで覚えたの?」

 労わるように、灼熱を頬張った俺の頬を撫でながら、甲斐は小さく笑った。

「キスマークの相手?」

「…んぅ…!」

 グイッと唐突に咽喉を突かれて吐きそうになったけど、俺は必死で舌を動かしながらそれに堪えた。
 生理的な涙で頬を濡らしながら、甲斐のそれを舐める。
 別に経験があるわけじゃない。当たり前だ。
 甲斐が教えてくれたことを忠実に反芻することしかできない俺なんだ、上手いのは、きっと俺の身体に教え込んだ甲斐が上手いってだけだ。
 でも、キスマークの相手、匠に対して疑っている甲斐にしたら、そんなこと考えてもいないんだろう。グイグイと押し込んできて、咽喉の奥を突いてくるから、吐かないようにするので精一杯になっちまう。もっと、もっと楽しんで欲しいのに。
 柔らかく撫でていた手で俺の髪を乱暴に掴むと、まるでエッチする時にそうするように、腰を使ってもっと奥まで入れようとするから…俺は咽ながらそれに堪えるしかないんだ。

「…ん…んん……ぅ…ッ」

 それでも必死に舌を絡めていたら、突然口の中からそれを引き抜かれてしまった。
 名残惜しそうに舌が追おうとするけど、唾液に濡れたその先端から唐突に白濁が飛び出して、予想し忘れていたことにハッとした時にはもう顔にぶちまけられていた。
 粘るそれが頬や鼻や顎や、いたるところに飛び散って、とろり…っと垂れる熱い飛沫に思わず声が漏れてしまう。
 突然、甲斐がクスッと笑った。

「綺麗だよ。頬が上気して…僕の精液と綺麗なコントラストができてる。まるで芸術品だよね」

 肩で息をする甲斐は、イッたばかりでまだヒクついて震えている灼熱を俺の口許に擦りつけながら、そんなことを抜かしやがった。…それでも、俺は幸せなんだ。
 寄せられた、まだほんの少し零しているその先端に唇を寄せ、舌先で舐めながら甲斐を見上げた。
 捨てられるんだろうか…まだ、そんな不安に揺れ動いてる俺の心。

「捨てられた玩具みたいな目をして…僕を誘うの?」

 顎に手をかけられて、上向かされる。
 灼熱をトランクスの中に収めて、欲情の名残を頬にだけ留めた甲斐が、ジッパーをわざとらしく上げながら首を左右に振った。

「でもダメだよ。早く顔を拭いなよ。ああ、それとも。弟にその顔を見せる?きっと欲情するだろうね。酷くされるのは好きだもんねぇ、結城くんは」

 弾かれたように目を見開く俺に、氷でできてるんじゃないかと思えるほど冷たい冷めた双眸で見下ろしながら、甲斐は妖艶で綺麗で、酷く危うげな微笑を嫣然と浮かべた口で言葉を続けた。

「電話をしたんだよ。迎えに来いってね。相当泡食ってたから、君に惚れぬいてるって暴露してたよ。犯ったのは、弟だったんだね」

 咽喉の奥に何か冷たいものを押し込められて、うまく嚥下できないそれに苦しげに眉を寄せながら、俺は震えながら甲斐を見上げていた。
 ば、バレた…
 潔癖症のヤツのことだ、今度こそ本当に捨てられてしまう。

「なんだ、本当だったのか。ふぅん。面白くないね」

 ハッと目を瞠ると、俺は自分が暴露したんだと唐突に気付いて舌打ちしたかった。
 馬鹿な俺は、否定すればよかったのに全身でその通りですってゲロってたんだ!
 ああ、眩暈がする。

「ち、違う。違うんだ、甲斐」

 漸く搾り出した台詞にも、面白くなさそうな表情をした甲斐は俺を突き放しながらベッドから降りてしまう。ああ!待ってくれ!そうじゃないんだ…でも俺は、いったい何を言おうとしてるんだ?
 どっちにしろ甲斐の言う通り、匠と寝たのは確かじゃねぇか!
 俺は、俺は…何してるんだ。

「弟が迎えに来るってのはホントだよ。早く、顔にこびり付いてるソレ、始末しなよ。弟に見せたいって言うのなら話は別だけど」

 冷めたように言い放って部屋から出て行く甲斐を引き止めることができなかった。
 匠が迎えに来る、用意しないと。
 甲斐が行ってしまう、引き止めないと。
 引き千切れるように矛盾した考えが脳裏を侵し、それでも行動しなければと何かに急き立てられる身体に心が追い付かなくて、俺は黒のシルクに飛び散ってもう乾いてパリパリになった白濁を呆然と見下ろしていた。
 どうしよう。
 どうしたらいいのか、もう判らない。
 ガタガタと震える俺はたぶん、信じられないモノでも見るような目をしてシーツを握り締めているだろうと思う。
 誰か。
 ああ、誰か。
 甲斐佑介、俺にどうすればいいのか教えてくれよ…

Level.7  -冷血野郎にご用心-

 「血と精液が混ざり合って綺麗なマーブル模様だよ」

 上半身を起こした姿勢でクスクスと笑って、横たわる俺の尻に指を這わせた甲斐がねっとりと絡みつくソレで指を汚しながら、快感の余韻に小刻みに震えてる俺の耳元に囁いてきた。

「…ん」

 ふるふると震えながら甘えるように擦り寄る俺を、甲斐はもう一度クスクスと笑う。

「最高に感じたって顔してる。痛いのが好きなの?隠し事して責められるのも好きそうだよね。結城くんって、もしかしてマゾ?」

 羞恥にサッと頬が赤くなるけど、悪態をつけるだけの体力が残っていない俺は恨めしそうに甲斐を睨むだけが精一杯で、悔しいから嫌がると知りながらわざと抱きついてやった。…と言っても、ガバッとってワケじゃなく、緩慢な動作で伸ばした腕をゆっくりと背中に回すんだ。
 コイツは俺が抱きついたりすることを嫌うんだ。
 エッチの道具に終った後まで馴れ馴れしくされるのは嫌いなんだとはね除けながら、前にそう言われたことがあるからな。おかげで、その夜は涙で枕を濡らして徹夜した挙句、翌日には真っ赤になった目を匠に訝しそうに見られたし、甲斐からは笑われた。
 クソッ!よくよく考えたら散々じゃねーか、俺よ!
 上半身を少し起こさないといけないんでけっこう辛いんだけどな、それでも抱きついてやった。
 へへん、どうだ?嫌だろう、ざまーみろ。
 ニッと笑うと案の定、嫌そうな顔をして引き離そうとする。
 離れてやるもんか。
 ウザそうに眉を寄せる姿もハンサムだ。
 ギュッと抱きついて離れようとしない俺を暫く見下ろしていた甲斐は、珍しく諦めたのか、無理に引き離そうとはしなくなった。
 俺はホッと安心して、甲斐の温もりを感じようと素肌に頬をすり寄せた。
 俺はやっぱり、コイツになら何をされてもいいって思えるぐらい好きなんだろうな。
 甲斐の温もりと規則正しく繰り返される呼吸にゆっくりと上下する身体に頬を寄せて、すごく安心していた。安心すると人間って言う生き物はどうしてこう、墓穴を掘っちまうんだろう。俺の滑りやすくなった口も、その安心に余計なこと吐き出した。

「甲斐…好きだ」

 ふと呟いて、俺は唐突にしまったと思った!
 や、やべぇ!ずっと胸にしまいこんでいた想いなのに!こんな時に口を滑らせちまうなんて…ああ、バカな俺よ!
 恐る恐る顔を起こすと、甲斐のヤツは俺が温めていた、大事に大事に抱き締めていたこの思いを鼻先で笑いやがったんだ!

「結城くん、僕を好きだったの?」

「す、好きでもなきゃ、誰が野郎なんかに抱かれるかよ!」

 俄かに取り戻した意地で身体を起こした俺は、甲斐を見下ろしながら顔を真っ赤にして怒鳴るように言った。するとヤツも面倒臭そうに起き上がって、ウザそうに頭を掻きながらチラッと俺を見る。

「ハッキリ言って迷惑だね。だから予め結城くんには言っておいたはずだけど?」

「…わ、判ってるよ。これは契約であって、俺たちの間には恋愛感情なんて言う気味の悪いもんはない」

 判ってるけど…ずっと好きだったんだ。
 嘉藤には悪かったけど、コイツに見つけられたあの瞬間、本当は最初に心臓が固まった。
 瞼の裏で思い浮かべていたソイツが、目の前に呆れたような表情をして立っていたんだ。
 蔑まれるだとか、笑われるだとか、そんなことはどうでも良かった。ただ、俺がいちばん怖かったのは、嫌われるってことだったんだ。でも、その後の命令に天にも舞い上がるほど嬉しかった。俺は見つかったことに感謝した。その日の晩、ラッキーと叫んで飛び上がった。泣くほど嬉しかったんだよ。
 好きだった。
 この学校に入学して、お前と隣同士になったあの時から。
 男らしい横顔も、長い睫毛も、誰にでも優しい笑顔を向ける優しさにも。いや、その部分にはちょっと語弊があるけど、全部がチカチカしたんだ。
 目の裏がスパークしたようなあの瞬間、きっと恋に落ちていた。

「判ってないよ、結城くん。僕は誰も愛さないんだ。そう言う、面倒臭いことは嫌いなんだよ。君があんまり面白かったから気が向いたら抱いていたけど…関係を長く続けすぎちゃったかな?」

 不意にその口から漏れた言葉に、俺の心臓が痛いほど脈打った。
 ドキンッ…じゃなくて、ドクンッと。

「君は僕の言うこともきかなくなってきたし…面倒臭い感情を押し付けようとする。もう、いいかな」

「嫌だ!」

 面倒臭そうに言う甲斐の語尾に被さるように叫んで、俺は恥も外聞もなく甲斐に詰め寄った。腰が痛くてそれどころじゃないんだけど、それでも、その口に最後通告を言わせるワケにはいかないんだ!

「…俺は、俺は嫌だ。お願いだから、俺、もうそんなこと二度と言わないようにするから。だから…これで」

 俺はそこで息を飲んだ。
 自分で言うのだってこんなに辛いのに、どうして、甲斐の口からその言葉を平気で聞けるって言うんだ!
 判ってたんだ、こうなることは。
 だから言えないでいたのに、どうしてあの時、この口は言っちまったんだ!?

「これで終わりなんか言わないでくれ…」

 ハラハラッと涙が零れた。
 それを拭うことも忘れて、と言うか、自分が泣いていることにも気付かずに、俺は食い入るようにうんざりした表情を浮かべる甲斐を見つめたんだ。
 甲斐の口はそれでもなかなか動かなかった。
 重い沈黙に押し潰されそうで、俺は気付かない間に拳を握り締めていた。
 お願いだから…
 一瞬、目の前が揺れて、甲斐が驚いたような顔をした。
 でも、俺には判らなかった。なぜ、甲斐がそんな表情をするのか。
 ただ、自分の身体の異変に気付いた時には床に倒れこんでいたんだ。
 その後の記憶はない。
 俺はきっと、何か悪い夢を見ているんだと思う。

Level.6  -冷血野郎にご用心-

 「う…あ、…んぅ…ッ…あぁ」

 甲斐の部屋は閑散としているせいかやたらと声が反響して、自分の上げる、顔を覆いたくなるような甘い嬌声が響き渡っている。
 背後から抱きすくめられて、今では前で縛られている拳を握る指を噛みながら、声を殺そうとする俺からその手を取り上げた甲斐のヤツは、うっすらと血が滲んだ歯形のついているその部分に口付けた。

「ねえ、気持ちいい?」

 うっとりと囁いてくる甲斐の吐息を耳元に感じながら、俺は躊躇いもなく頷いた。
 ブンブンッと首を縦に振って喘ぐ俺を見て満足そうにクスッと笑う甲斐のヤツは、約束通り、けしてエッチをしようとはしない。指先で、唇で、言葉で俺を犯すんだ。
 背後から伸びた繊細そうな長い指先で、さっきから弄られて物欲しそうに涎を垂らす俺自身を絡め取りながらクスクスと笑う甲斐を、俺は肩越しから恨めしそうに睨みつけることぐらいしか反逆の方法を知らない。もっとも、顔を真っ赤にして下半身まる裸で凄むことが反逆って言うのなら、の話だけどさ。

「あッ、あぁ……ぉねがい…もぅ…ッ」

 淫猥と言う言葉がいちばん似合う水音を響かせて、弄っている長い指先に先走りで濡れる下半身を擦り付けるようにして哀願する俺に、甲斐は首筋に口付けながらソコに歯を立てた。

「っう…んん」

「ダメだよ。これはお仕置きだから。結城くんが独りで気持ちよくなったらお仕置きにならないでしょ」

 やけに甘ったるい、唆すような口調で囁いてくる甲斐が仕掛ける底の見えない罠に、俺は自分から飛び込むことを選ぶ。好きだ、好きだよ…甲斐。
 熱に浮かされたように潤んだ双眸を、俺は満足してうっとりと閉じる。

「ん…じゃ、…ッ…いっしょに……おねがい」

 息も絶え絶えに甲斐の柔らかな髪に頬をすり寄せながら溜め息をついても、ヤツは鼻先で笑うだけでいちばん欲しいものはくれようとしないんだ。

「挿れてあげてもいいけど。誰がコレをつけた?答えるなら、ご褒美をあげるよ」

 誘うように、悪魔の甘い誘惑で耳朶を軽くあま噛みする甲斐の言葉にゾクゾクしながら、ここで口を割ってしまったら甲斐に嫌われてしまうんだと訴えている本能が口を噤ませようとする。ああ、でも俺の意気地のない精神はうっとりと口を開きそうになるんだ。
 いかん!
 そこでようやく正気に戻った俺はハッとして口を噤むと、火照らせた頬に苦痛の表情を浮かべて小さくイヤイヤするように首を左右に振った。

「強情だね。僕の玩具のくせに」

 双眸を冷たく細めた気配にハッとした時にはもう遅いんだ。

「ぐ…ッぅあ!!」

 それまでやんわりと握って弄んでいた甲斐の繊細そうな指先が、どこからそんな力が出るんだと言うほどの力強さで握り締めてきたんだ!いてぇ!冗談じゃなくッ!
 欲情に濡れていた双眸は一気に見開いて、痛みで浮かんだ涙がポロッと頬を零れ落ちていく。
 握り潰されると言う恐怖と、爪先にある凶器の気配に快感なんかアッと言う間に萎えてしまった。

「痛い?」

 まるで人形でも見るような冷めた双眸で背後から覗き込んできた甲斐は、思い切り暴れようとする俺を押さえ込みながら鼻先で馬鹿にしたように笑いやがる。

「…たいっ!痛いよ!!」

 快感のソレから一転して涙に潤んだ目で睨み返すと、甲斐のヤツは興味もなさそうにもう少し力を込めて握りこんでくる。このままあと少し力を入れられたら…俺のソコは潰れるだろう。
 悲鳴をあげる大事な部分に、俺はもう少しで失神しそうになる。

「おかしいな、玩具は痛いなんて言わないよ」

 脳天をかち割るような痛みで指先は冷たく萎え、ブルブルと震える内股をゆっくりと空いている方の腕で擦りながら、甲斐のヤツは摺り寄せるように硬いジーンズに覆われた下半身を無防備に晒された素肌の尻に押し付けてくる。

「そうだ、このまま突っ込んでみようかな?締まりすぎて、僕のモノが食い千切られちゃうかもしれないけどね」

「あ、あ…やめ。…ぉねがいッ……だから…」

 反響する室内にジッパーの下りる無機質な音。
 まだ、潤ってないし、開かされてもないって言うのに…あんなでけぇモンを捩じ込まれたら死んじまう!
 以前の時よりも酷い。
 こんなのは酷い。
 握り潰される恐怖に怖気づいているのに、濡れてもいない尻に捩じ込まれる苦痛が相乗効果で、俺は身も蓋もなく泣き喚きながら逃げようとバカ力を発揮した…にも関わらず、甲斐のバカ力は必死の俺をさらに凌駕した。
 コイツ…ぜってぇ人間じゃねぇ!

「ぐ…ぎぃ…ッあああああああ!!!」

 潤ってもいないし、慣らされてもいない。アソコは力の限りで握り潰されそうになって、尻には灼熱に焼け付いた杭を捩じ込まれ…
 ボタボタ…ッと音を立ててフローリングの床に鮮血が零れ落ちた。
 断続的に断末魔のような悲鳴をあげる俺の口を煩そうに片手で覆った甲斐は、問答無用で腰を突き進めてくる。まるで、壊れても別に構わないんだとでも言うように。

「…ふ…ぐぅ…ぅぅ…」

 悲鳴は全て甲斐の手の中に吸収されて、俺は壊れた人形のように、もう何もできずに揺すられていた。
 ただ、悲鳴だけがときおり思い出したように甲斐の掌に零れ落ちる。

「気持ちいい?」

 クスクスと笑いながら覗き込んでくる甲斐が俺の頬に流れる涙に口付けながら、そんな恐ろしいことを聞いて来た。霞む目でハンサムな双眸を見返してみても、別に甲斐の瞳の中に狂気の陰を見つけることはできなかった。
 それでも、慣らされた身体ってのは現金なもので、何かのついでのように萎えてしまったモノを擦り上げられると、途端に痛みを快楽にすり替えようとするんだ。
 強引に突っ込まれて悲鳴を上げたアソコは切れて、真っ赤な血を流しながらもうやめてくれと哀願しているのに、身体の奥ではもっと…と貪欲にねだる何かが蹲っているんだ。

「感じてきたみたいだ。良かったね。腰を振れよ」

 グイッといちばん感じるところを灼熱の杭で突き上げられて、俺はもう嬉しさに涙を零しながら言われるままに腰を振った。

「気持ちいいでしょ?」

 さらに問われて、いつの間にか口許から離れた手が胸元の飾りに這い回り、空いた手では俺自身を無造作に、乱暴に扱き上げる。
 俺は口許から唾液を零しながら何度も頷いて、甲斐の下半身に尻を擦り付けた。
 鮮血が切れた場所からもう少し溢れて、スムーズに出入りしている。

「んあ…はぅ…ん」

 現金な俺よ!…ああ、でもやっぱり嬉しい。
 甲斐に抱かれると、どんな酷いことをされても幸せなんだ。
 きっと明日は足腰が立たなくなって起き上がれもしないだろうけど、俺は甲斐が与えてくれるこの快楽を、いつもとある感情にすり替えて考える。そうすると今よりももっと感じて、もうどうにでもなれって思えるから。
 この瞬間だけが、甲斐を独占できる。俺だけを見て、俺だけを貪ってくれる。
 愛されてる…って思ってしまう一瞬だ。
 イく瞬間が近付いて、俺は背後から抱き締めるように覆い被さっている甲斐が、無理に首を上向かせてキスしようとするのに応えながら、幸せに目を閉じた。
 ああ、好きだ。
 好きだよ、甲斐…

「くっ」

 小さく呟くように溜め息をついてギュッと抱き締めてくる甲斐のその灼熱から迸った白濁が、熱い本流となって最奥に叩きつけられた。ソレを感じてゾクゾクした俺も痛めつけられた股間のモノから熱い飛沫を噴き上げる。
 最高に感じられる瞬間。
 俺がいちばん好きな…

Level.5  -冷血野郎にご用心-

 その日、俺はウキウキしながら甲斐の後を追ってヤツの暮らすマンションに向かっていた。
 何度もコッソリ来ては躊躇して、溜め息を吐いて帰った道を甲斐と連れ立って歩けるなんて…
 これは夢じゃないだろうな?
 良いところで唐突に目が覚めて、枕を濡らしてもう一度ギュッと目を閉じるのなんて絶対に嫌だぞ、俺は!経験あるからな、悔しいことに。
 今日の俺はボロボロだった…らしい。
 授業中でもボーッとして、数学の田宮に睨まれてもヘラヘラ笑っていた俺を、クラスメイトの宮下は気味が悪そうに眺めては退いていたっけ。
 ヘンだよとあっさり言いやがって、アイツ、一発だけ殴っておいた。
 ヘン…か。
 いいんだよ、それでも。
 これが夢じゃないんだと判るのなら、両頬を洗濯バサミ5個で挟まれても構わないんだ。んで、それを同時に引っ張って、無理に外されたって笑ってるだろう。
 痛みを感じるのならオッケーだ!

「気持ち悪いねぇ。ニヤニヤして…僕のマンションに来ることがそんなに嬉しいのかい?」

 肩越しに振り返って呆れたように呟く甲斐の口許は、微かだけど笑っていた。
 暫くそうして、俺の様子を窺っていたんだろう。
 う…悪趣味だぞ。

「う、うるせーな、仕方なく!行ってやってるんだ」

「ふーん?」

 クスッと笑う。
 その顔がすごく好きだと思うんだ。
 肩を竦めてもう前を向いてしまった甲斐の背中を眺めながら、ムズムズと、口許がまただらしなく緩んでしまう。
 間もなく見えてきた、夕暮れの中でも悠然と佇む瀟洒なマンションを見上げながら、俺は、確かに幸福を噛み締めていた。甲斐と一緒にいられるってだけでも嬉しいけど、あんなことがあったから家で会うのも引け目を感じていたんだ。それでも会えるのならそれはそれで良かったけど…今日は甲斐の家に行けるんだ!
 ああ、マジで嬉しい。
 甲斐は無言でオートロックを外し、中に入ってエントランスホールを抜けてエレベーターに乗り込むと、階数のボタンを押して、そして突然俺を抱き締めてきたんだ。ギュッと、驚くほど力強く。
 いつもは気が向いたように腕を引っ張ってそのままエッチに傾れ込むか、キスだけで終って抱きしめてもくれないのに…こんなチャンスを逃す手はねぇッ!
 俺は躊躇わずに甲斐の背中に腕を回した。
 本当は、途中で誰かが乗り込んでくるんじゃないかとドキドキしたけど、構うもんか!

「…あっ」

 不意に甲斐のヤツは俺の首筋に口付けてきたんだ。
 グイッと押されて磨き上げられたエレベーターの壁に押しつけられたまま、貪るようにキスをした。俺は縋りつくように甲斐の背中を必死で掴んで、まるで溺れている奴のように空気を求めるみたいに甲斐のキスにのめり込んでいた。
 チンッ…と音を響かせて、甲斐の押した最上階から3番目の階数で止まったエレベーターは静かに扉を開いたけど、甲斐はキスを止めようとはしなくて…でも、漸く離れた唇はもう一度俺の首筋に吸いついて、痕を残すつもりで吸い上げた。
 ゾクゾクする…嬉しい。
 マジで、嬉しい!
 どうして、今日の甲斐はこんなに優しいんだろう?
 俺には、そっちの方が心配になったんだ。
 そう、唐突に俺の中で不安の雲が膨れ上がってきた。
 甲斐の縁なし眼鏡の感触が肌にときおり触れてドキッとするけど、嬉しいけど…なんだろう、この不安は。
 嫌だ…本当に嫌だ。

「甲斐…俺…」

「しー」

 眼鏡の奥で濡れたように煌く双眸を悪戯っぽく細めた甲斐は、口許に小さな笑みを浮かべて言いかけた俺の口許に人差し指を押しつけてきた。
 普通のヤツがこんな仕草をすれば躊躇いなく殴りつけて、鳥肌を立てた身体を抱き締めながら逃げ出していただろうけど、甲斐がやればなんだって様になる。
 うっとりと見惚れる俺を複雑な表情で笑った甲斐は、そうやってエヘラ~ッと笑う俺の腕を引いてエレベーターから降りたんだ。向かう先はひとつ。
 いちばん奥の、突き当たりにある好条件のマンションの一室。
 甲斐が暮らす、俺の知らない秘密の部分だ。

□ ■ □ ■ □

 甲斐の部屋は驚くほど広くて、そして閑散としていた。
 無機質と言うか、生活臭のない…ベッドだけが寝てるんだと物語ってるだけで、整然と片付いていた。フローリングの床にはチリ1つなくて、なんだか尻がムズムズするような、妙な居心地の悪さがあった。
 そうか、もしかしたら甲斐がこの部屋に誰も連れ込まないのは、この寒さを見せたくないのかもしれない。

「いつも通いの手伝いが来てくれるんだ。汚れはしないが、ウザいことは確かだな。だから寝室には入らないように言い付けてるのさ」

 微かに開いていたドアから覗き見していたことがバレたんだろうかとギクッとして振り返ったら、紅茶の入ったマグカップを二つ持って立っていた甲斐が不貞腐れたように笑っていた。目線を少し下げた顔には、まるでトレードマークのようなあの縁なし眼鏡がなかった。

「何をヘンな顔をしてるんだ?ああ、家ではコンタクトにしてるのさ」

 紅茶にマグカップかよ…と呆れながらも、こんなギャップを見つけうだよられたことにニンマリしながら、苦笑する甲斐の言葉に浮かれあがる。
 ああ…今日は本当にどうしたって言うんだ?
 甲斐の知られざる顔を垣間見られるなんて。

「なあ、本当に何かあったんじゃないのか?なんか、俺…」

 俯く俺の傍らに屈むようにして腰を下ろした甲斐は、俺の顎に繊細そうな指先を掛けてクイッと上向かせる。

「不安なのか?いったい、何がだ」

「甲斐…」

 何がなんて聞くなよ。
 全部だよ。
 不安なんだよ、すごく。
 冷血野郎のくせに…急に優しくなんかするな。

「男同士に不安も何もないだろう。所詮、こんなものはお遊びだ。お前も判ってるんだろう?」

 不意に、それまで柔らかく細めていた双眸を冷たく凍りつかせた甲斐は、まるで憎々しげにそう呟いて、息を飲む俺の顎をグッと強く掴みやがった!

「…ぅ…」

「痛いか?フンッ、男好きには似合いの顔だな」

「何…」

 がなんだか…甲斐のヤツは唐突に酷く怒っているようだ。
 思った以上の力強さに顔を顰める俺を覗き込みながら、甲斐は冷やかに、冷めた双眸で見下ろしながらニッと笑ったんだ。

「首筋のキスマークは誰がつけたんだ?」

「首…?甲斐が…お前がさっき…」

 甲斐はクスッと笑った。
 でもそれは、さっきみたいな優しい笑顔じゃなかった。だからと言って、今までの人を小馬鹿にしてる表情でもなくて、切羽詰ったような、悔しそうな…今までで一度も見たことのない複雑な表情だった。
 俺の好きな…甲斐の顔は、それでも綺麗だった。
 下唇を軽く噛んだ口許には白い歯が覗いていて、細めた眉の下の男らしい双眸も、こんな時なのに惚れ惚れするほどかっこいい。

「甲斐…」

「誰につけられた?」

 もう1度、念を押すように聞いてくる声音は低くて…俺はない知恵を絞りながら首を傾げた。
 舐めるように首筋に口付けたのは甲斐だ。
 軽く吸い上げて、痕を残したのもお前じゃないか…
 他に誰が…

「…あ!」

 唐突に思い出して、俺は見開いた目で甲斐を見て、それから慌てて視線を逸らしたんだ。
 でも、甲斐はそれを許さなかった。グイッと加減なく引っ張って俺の顔を自分に向けると、痛みに生理的現象で浮かぶ涙で潤ませた双眸を覗き込んでくる。

「やっぱりな。心当たりがあるんだろう…嘉藤か?」

「違う!」

 即答で答えた。
 きっと、甲斐が舐めるようにキスをした首筋には、最初からキスマークがついてたんだろう。
 俺が知らない内につけてしまっていた…たぶん、匠の口付けの痕だ。
 や、やべぇ!弟と致しました…なんかぜってぇに言えねぇってば!
 そうか、コイツの奇妙な態度はキスマークだったんだ!
 俺のバカ!
 どうして家を出るときに確認しなかったんだろう!?このままだと、絶対にヤバイ。
 くそう…匠のヤツ、覚えてろよ!

「違う?そうか、じゃあ誰だ?」

「い、言えない…」

「言えないだと?お前が?へえ、庇いたいヤツなのか」

「そう言うワケじゃないけど…」

 口篭もる俺を見下ろしていた甲斐は、不意にズボンの尻ポケットから何かを取り出してニコッと笑った。何かを企んでいる時の、いっそ爽やかなほど綺麗な顔で。

「言うことを利かない奴にはお仕置きが必要だよな?」

 言うなり、甲斐はあっという間に取り出した紐で俺の腕を拘束してしまった。それも外しにくいように背後で。ついでのように両方の足首も拘束してくれる。暴れて倒れてしまった俺を見下ろしながら、甲斐はゆっくりと立ち上がって、それこそ嫣然と微笑んだ。
 うっとりするほど綺麗な顔をして、形の整った唇から漏れた言葉に愕然とする。

「大人しく言うことを聞くまでは…帰らせないからな。幸いなことに、ここは防音だし。明日は土曜だ」

 俺は甲斐を見上げながら息を飲んだ。
 それでも、嬉しい…と思ってしまう俺は、やっぱり変態なんだろうか?

Level.4  -冷血野郎にご用心-

 煌煌と明かりが照らすどこにでもある平凡なキッチンで、全然平凡じゃない態勢で弟に抱きついてる俺。
 下半身に指を這わせて、でも初めてって言うぐらいだから、コイツは女の子との経験もないんだろう。いきなりテンパッてて、もう入れたくてしかたないとでも言うように、匠は濡れた先端を俺に押し付けてくる。

「ま、待て。匠。女の子と一緒なんだから、いきなり突っ込まれれば痛いんだよ。判ってくれ!」

 俺はその激痛を知っている。
 1度、甲斐のヤツに止められていたにも関わらず、アイツよりも先にイッて、翌日なんの潤いもないソコにいきなり突っ込まれたんだ。切れて血が出て、暫くはまともにクソもできなかった。正直、それだけは勘弁して欲しい!
 頬を上気させて、欲望に濡れた瞳で食い入るように覗き込んで来る性急な匠を押し留めるようにそう言いながら、俺は何か、滑りの良くなるものを探したんだ。1回出して、それを使うって手もあるんだけど、初めてのヤツにそんなこと言えないし…つーか、恥ずかしくて言えねぇっつの!
 オトウト…なんだぜ。
 俺の態度に気付いて上体を軽く起こすと、匠もキョロキョロする。その目が何かを捉えて細められた。手を伸ばす。

「なぬ!?おま…ッ!そんなの使うのかよ!?嫌だぞッ」

「イヤって…だって痛いのは嫌なんだろ?洗えば綺麗になるって。汚れるのは一緒なんだからさ、いいだろ?」

 そう言って、まるで見せつけるように片手で空けたキャップを弾き飛ばし、細い口に指を突っ込んで逆さにすると、サラダ油は匠の長い指に絡み付くように垂れていく。

「大丈夫。…俺が綺麗に洗ってやるから」

 耳元で囁かれて、ゾクッとする。
 そう思ったときには、ぬるっとした指先が入り口を抉じ開けて入ってきた!
 あううう…

「…う…」

「うわ…絡み付いてくる。す、すげぇ。熱い!」

 いちいち説明しながら指を動かすんじゃねぇ!あう…き、気持ち悪い。

「うぁ…んん…ぁ」

「アニキ、す、すげぇ色っぽい!俺、もう…」

 あ?
 うわっ、待て!待ってくれ!
 まだ…

「あうッ!」

 グイッと押し入れられて、俺は思わず匠の大きな背中にしがみ付いた。
 久し振りの衝撃は唇を噛み締めて遣り過ごしたけど、それでもコイツ、ち、ちょっと大きくないか?

「あ…あ…ッ」

 いきなり激しく揺さぶられて、燻っていた熱は全身を火照らせると匠を含んでる部分をキュッと締め付ける。す…すげぇ。
 我が弟ながら…なんてヤツだ!

「あ、アニキ!す、すげぇ!…うッ」

 匠は驚くほど呆気なくイッた。
 灼熱の飛沫がいちばん深い部分に打ちつけられて、久し振りの快感に俺はぶるぶると震えながら匠に縋りついた。ヤツも俺をギュッと抱き締めて胴震いすると、最後まで出しきろうと小刻みに腰を動かす。
 うう…初めてだけに溜まってたのか、その量は半端じゃない。
 含みきれずに零れ落ちた。

「…あ」

 眉を寄せて溜め息をつくと、むしゃぶりつくようにキスされる…でも俺、イッてないんスけど。
 そう思ってたら、まだ身体の中で形を潜めてる匠が、固さを保持してることに気付いてやっぱりかと思った。甲斐も俺に突っ込んだあと、簡単には終ってくれなかったからな。
 俺は匠に縋りつきながら、その日は促されるままに気を失うまで抱かれていた。

□ ■ □ ■ □

 正直俺は、今日ほど学校に行くのが嫌だったことはない。
 確かに匠のヤツはあの後、ぐったりしてる俺を浴室まで運んで行って丁寧に洗ってくれたさ。自分が汚し尽くしたあのナカまでもご丁寧にな。
 でも甲斐のヤツは俺の変化なんかすぐに気付くヤツだから、バレたらむちゃくちゃ怒るだろう…つーか、弟と犯ったなんて知れてみろ、潔癖症のヤツはまるで汚いものでも見るような目をして無視するかもしれない。
 それは嫌だ!
 俺は甲斐に抱かれたい。アイツがいい。アイツだけが好きなんだ…
 それをネタに一生強請られるならそれでもいい。
 でも無視されて、傍にいることも許されないのは絶対に嫌だ。
 アイツの所有物になると決めた時から、おもちゃにされることは判ってた。それだっていいと思ったんだ。
 大好きだったから。
 溜め息が零れる。
 縁なし眼鏡の奥の冷めた双眸を思い出して、俺は泣きたくなった。
 傍にいたい、声が聞きたい、触っていたい…そんな簡単なことなのに、どうして俺は甲斐になるとそれができないんだろう?甲斐だからこそできそうなのに。
 匠のことは、ほんの成り行きだった。今でもアイツが好きかと聞かれたって、躊躇いなく弟としてならって言うだろう。
 甲斐に、いちばん好きなヤツに散々煽られた後だったから、匠とだってエッチができたに過ぎないだけで、あれが素面だったら殴りつけて蹴倒してただろう。今だって、今度アイツが迫ってきても顔面パンチとハイキックをお見舞いしてやるつもりではいる。
 …いる、けどどうしよう。
 ああ、学校が。悪魔の学校が迫ってくる。
 嫌だと言って竦む足を叱咤しながら震えてる瞼をギュッと閉じて、観念したように開くと、俺は覚悟を決めて顔を上げた。
 そうだ、平然としてればバレることなんかねぇ。何を怯えてるんだよ、俺!
 わっはっは。そう考えたら気が楽じゃねぇか!バッカだな、俺!

「結城くん。往来で百面相かい?」

 ギクッとした。

「ひ、ひえぇぇ~ッ!か、甲斐!?」

 訝しそうに眉を寄せた縁なし眼鏡をかけているハンサムは、いつものことだけど心なしか不機嫌そうに、馬鹿にした目で首を傾げた。
 ああ…でも、どんな顔をしても様になってる。カッコイイよなぁ。くうッ、大好きだ!

「なんて声を出してるんだ。どうかしたの?顔色が悪いようだけど…」

 そう言ってすっと伸ばした綺麗な手が、俺の真っ赤になってるに違いない顔の、額に添えられた。
 ギュッと目を閉じて、それでも嬉しくてニヤけてしまう。
 甲斐が俺に触ってくれる。

「熱はないみたいだね」

「うるせーよ、甲斐!気安く触るんじゃねぇッ!」

 その手を払いのけて、自己嫌悪。
 ああ、なんで俺ってこうなんだろう。
 せっかく!せっかく甲斐が俺を触ってくれてるってのに!!

「ふぅん。僕に触られるのは嫌ってワケだね」

「違う、アレとこれは話しが違う」

「アレ?アレってなんのこと?」

 クスクスと笑いながら横目で俺を見て歩き出す甲斐の後を追って小走りに歩き出しながら、俺は何となくホッとした。良かった、甲斐にバレなかった。
 その足が不意にピタリと止まり、ニコッと笑った表情で甲斐は見惚れてる俺に振り返った。

「今日は僕の家においでよ。安心して。まだ4日過ぎてないからね、セックスはしてやらない」

 俺はキョトンッとした。
 今…なんて言ったんだ?
 家に、お前の家に?

「い、いいのかよ?俺なんか行っても…」

 ドキドキして聞き返す俺に、不意に上辺だけの表情を消した甲斐のヤツは、いつも通りの人を小馬鹿にしたような顔で怪訝そうに片方の眉を小器用に釣り上げて鼻先で笑った。

「別に構わないさ」

 口調も冷たい。
 でもこれが甲斐の本性。
 上辺だけの優等生ぜんとした顔立ちはニセモノで、いつもこんな風に人を馬鹿にしてるのが甲斐なんだ。
 だからこんな顔をしてくれた方がホッとする。
 甲斐が俺だけに見せる、本性だから。
 愛されてるんじゃないかって勘違いできる一瞬だから。
 俺は嬉しくなるんだ。
 バッカだな俺、絶対にそんなことなんかないのに…何を期待してるんだ。
 溜め息をついて、歩き出した甲斐の後を追いかけた。
 追いつけない、大好きな背中。

Level.3  -冷血野郎にご用心-

 いや、俺はアイツとエッチできてキスできたらそれでいいんだ。多くを望んだら、いつか全部失ってしまう。
 つーか、俺!
 なんかすっげぇ暗いぞ!暗すぎる!
 溜め息を吐く自分にハッと気付いてぶんぶんと首を左右に振ると、気を取り直してカバンを引っ手繰るように掴んで教室から出ようとしたら、夕暮れのオレンジの光が射し込む廊下に嘉藤が立っていた。両手にノートを抱えて、そうか、甲斐に押し付けられたんだな。

「…お互い、なんか情けねぇよな」

 俺に気付いた嘉藤はポツリと呟いて、バツが悪そうに苦笑した。
 両手が開いていたら、コイツの癖で腰に片手を当てて鼻の脇を掻いていただろう。
 長身だし、猫ッ毛の柔らかな髪を持ったコイツもけっこう女子にモテるのにな、何が悲しくて級長の下働きなんかしなきゃいけねぇんだろう。黙ってて欲しい…ってのが理由だけどさ。
 里野のように開けっ広げに好きが全開にできたらいいんだけど、嘉藤も俺も、別に好き合ってるってワケじゃねぇから、言い触らされたら堪らんわけだ。
 現に嘉藤には彼女がいる。

「すまん」

 俺が謝ると、嘉藤はちょっと驚いたように眉を顰めて、それから労わるように笑う。

「なんでお前が謝るんだよ?アレはお互いさまだろ。でもせめて、イッてから見つけろよなってカンジかな」

 そう言って冗談っぽく笑った嘉藤はじゃあなと言った。必要以上に傍にいるところを甲斐に見られでもしたら大変だからな。
 甲斐の条件に、嘉藤に近付くなと言うのがあった。嘉藤も、結城に近付くなと言われている。
 だからこの、小学校の時からの友人とはあの一件以来必要以上に近付いたことはない。
 甲斐と言うか、アイツの情報網は凄くて、俺の1日の行動をなぜか全て知っていたりするから不思議なんだ。それを知っている嘉藤も近寄らないようにしてくれている。 旧知を知ってる友人たちは、急に仲が悪くなったと噂してたけど、それ以上は何も聞いてきてくれない。いい友人を持ったとホッと胸を撫で下ろしたもんさ。

『あのままボクが君たちのことを見つけていなかったら、今みたいにこうして光太郎の足を抱えてるのは嘉藤だったかもね…』

 エッチの最中にまるで思い出したように甲斐はそう言ったけど、そんなことがあるワケないと俺は笑った。
 アイツには彼女がいるし、アレはただの火遊びみたいなものなんだよ。
 いつまでも持続するわけがねーだろ。甲斐にしては頭の悪ぃこと言ったよな。
 もう、だいぶ薄暗くなってきた帰り道を辿って家に帰った俺は、部屋の暗さに舌打ちした。今日も親父たちはいないんだ。出張とか言ってたっけ、夕飯はまた俺が作るのか…
 うんざりするって、マジで。

「クソ兄貴」

 不意に暗いキッチンから声を掛けられてギクッとした。

「な、なんだ匠か。驚かせるなよ」

「遅かったじゃん。ガッコ、とっくに終ってんじゃねぇの?」

 いつものように何かをつまみ食いでもしてたんだろう、匠のヤツはアイスキャンディを片手に胡乱な目付きで俺を見る。顔がいいだけにちょっと凄みがあるよな。
 コイツ、何を怒ってるんだ?

「しかたねーだろ?居残りだよ、い・の・こ・り!」

「へぇ」

 信じたのか信じていないのか、電気をつけて椅子に薄っぺらいカバンを投げ出す俺を、匠は壁にもたれるようにして腕を組むと、アイスの棒で手遊びしながらじっと見る。
 なんだって言うんだよ、いったい!?

「兄貴、最近さ、妙に色っぽくなったよな」

 ギクッとした。
 何を言い出すんだ、コイツは。

「クラスの連中からさ、言われるまで気付かなかったんだけど…あんた、自分が思ってるよりもずいぶんとモテてるんだぜ?知ってた?」

「知るかよ!可愛い子にモテるんなら大歓迎だけどな。今度紹介しろよ」

 冗談っぽく笑って冷蔵庫から牛乳を取り出すと伏せてあるコップを手に振り返って、思わずコップを取り落としそうになっちまった。
 頭1つぶん背の高い匠は、冷蔵庫に片手を付いてアイスの棒を弄びながら俺を覗き込んできたんだ。ちょ…マジでたまげた。
 いったい、いつの間に近寄ってきてたんだ!?
 コイツ、足音もさせずに忍び寄る、忍者のような特技をどこで身に付けたんだ。もしかして、幽霊!?ひ、ひえぇぇ…って、あんまり驚いて何をバカみたいに動揺してるんだよ、俺!

「な、何だよ?邪魔くせぇな。退けって」

 動揺してるのを悟られないように努めて平静を装う俺は、牛乳を持った手で押し退けようとして逆にその手を掴まれてしまった。

「牛乳、もう飲んできたんじゃないの?それとも、足りなかったのか?」

 最初、意味が判らなかった。
 眉を顰めて、首を傾げる俺に『いまさら純情ぶってんの?』と笑った匠は上半身を屈めて耳元に口を寄せてきた。

「甲斐ってヤツとヤッてんだろ?」

 チリッと頭の隅が痛んで、目の前が真っ赤になる。
 なに…言ってんだコイツ…
 俺は突然襲いかかってきた眩暈に足許をふら付かせながら、支えるように腰に回ってきた腕を力なく振り払おうとしたんだけど…失敗した。

「ほっせぇ腰、してるよな。男と犯るのってどんなカンジだ?教えてくれよ、お兄ちゃん」

 その言葉で、たぶん、どこかキレたんだ。
 そんなにキレやすい方じゃねぇけど、すっげぇブチギレたのは確かだと思う。
 なぜかって言うと…気が付いたら匠を殴ってたんだ。

□ ■ □ ■ □

「ふざけるなよッ!どこの世界に兄貴が弟に男とのエッチをレクチャーするって言うんだ!?」

「…ッ、てぇ」

 唇か、口の奥が切れたのか血のついた口許を拭いながら、それでもいまいち効いてないんだろう、匠のヤツは俺を睨みながら離れなかった腕で腰をグイッと引き寄せたからだ。
 落ちたコップは割れなかったけど、牛乳は白い水溜りを足許に作っている。
 トクトク…ッとある程度流れたら、それは止まった。関係ないけど、それをジッと睨みつけた。
 次の言葉が予想できるから。

「認めるわけだ」

 やっぱり。
 俺は諦めたように目を閉じて、それから力なく開いて匠を見上げた。

「…ああ、俺は甲斐が好きだからな。それでお前がキモイっつーんならしかたねぇと思う。これで満足かよ?」

 本当は実の弟にキモイなんか言って欲しくなんかなかったけどよ、ギュッと抱き締められた腰が妙な熱を呼んでヤバイからな。甲斐のヤツに散々煽られた身体はしっかり熱を覚えてるし、まだまだ冷める気配だってねぇ。こんな状態だと、弟に欲情してるみたいでぜってーに!嫌なんだ。
 コイツが気付いていないうちに、早く…

「…なんでだよ、兄貴。アイツ、あんたのことなんか惚れてるわけじゃねぇんだぜ?俺のクラスの女子とも付き合ってるんだ。あんた、アイツに遊ばれてるだけじゃねーかよ」

 匠は、睨み付けていた目をどこか痛いような表情に変えて、ちょっと辛そうに見下ろしてきた。
 コイツは俺を心配してるんだ。キモイと言ってはね付けようと思えばできるのに、そりゃそうだよな。実の兄貴が男におもちゃにされてるなんか思ったらムカツクに決まってら。気持ち悪い前にやめてくれッて…俺でもたぶん叫んでたと思う。実際、甲斐以外のヤツと犯るなんて、もうホント、冗談じゃねぇって思うから。

「好きだからしかたねぇよ」

 溜め息をつくように呟いたら、弟は暫く何も言わずに唇を噛み締めていた。
 それから、徐に空いていた片手を伸ばして俺の頬を包み込むと俯いている顔を上げさせるんだ。少し汗ばんだ掌は温かくて、しっとりと肌に馴染んでくる。甲斐はこんな風に優しくしてくれないから、ちょっと溜め息が出た。

「でも、辛いんだろ?…なあ、俺じゃダメなワケ?」

「へ?」

 投げられた言葉を理解できなかった俺は間抜けな声を上げたけど、匠は別にそれを笑うわけでもなく、奇妙な目付きで覗き込んできた。…いや、違う!覗き込んだんじゃない!それなら顔はとっくに止まってるはずだからな!…って、何を冷静に説明をしてるんだ、俺よ!
 これは、まさか…

「やめ…ッ!」

 抗おうとしたけど匠は思った以上に力が強くて、俺は為す術もなくギュッと目を閉じるしかなかったんだ。
 でも最後の抵抗で歯を食い縛ると、絶対に口を開いたりなんかしてやらん!実の弟とキスだと?ふざけるのも大概にしろよッ!!

「アイツにはキスさせるのに…俺じゃダメなんだ」

「当たり前だろ!?お前はバカか…ッ!んんっ」

 しまった!…ああ、俺のバカ!
 怒鳴った時に口が開いて…匠の熱い、熱を持った舌が滑り込んできたんだ。
 うう…弟の舌に煽られるなんか、気持ち悪いだけだ。

「あッ…やめ…んん」

 何度も角度を変えながら口付けられて、それでなくても甲斐に煽られた身体が奥の方からズンッと何かを訴えてくる…ダメだ!弟に発情するなんて、絶対にダメだ!!
 必死の抵抗も空しく俺の身体は本人の意思をまるで無視して、カッと、まるで 熾火 のように身体の奥で 燻 っていた何かに勝手に火を付けやがった!

「…う、…ううッ…ん」

 俺のあからさまな変化にすぐに気付いた匠のヤツは、ゆっくりと口を離すと、唾液で濡れている唇をペロリと舐めた。その仕草はちょっとセクシーで…う、何を考えて…
 たぶん、エッチなことだよ。
 ああ、そうだよ!その通りです!
 俺は弟に欲情してるよ、畜生!コレと言うのも甲斐のヤツが悪いんだ!
 1週間も放っておくんだからな。慣れすぎてる身体にはキスの刺激だって辛いんだ。すぐに反応しちまう。
 これじゃインランじゃねーか。畜生!

「アニキ…感じてるんだ?」

 ニヤッと匠が笑う。

「ああ、そうだよ!畜生ッ!どうしてくれるんだ!?」

 言って、自分がどれほどバカなことを口走ってしまったのかにハッと気付いたときはもう遅かった。キョトンとした匠は次いで、すぐにプッと噴き出しやがる。ああ、顔が熱い。
 俺のバカ…熱が出そうだ。

「大丈夫。俺、初めてだけど、ちゃんと兄貴が気持ちいいようにしてやる…」

 そう言って抱き締めてきた匠のヤツは、俺を引き摺るようにしてキッチンにあるテーブルの上に押し倒したんだ。やけに散らかってないと思ったら…まさか 端 からこうなることを想定してたんじゃねぇだろうな?…こいつ、抜け目ないのか。もしかして。
 抜け目ねぇんだ!

「こんなところで犯るのか!?冗談じゃねぇ!嫌だッ、ぜってぇにヤダ!」

「もう、我慢できねぇよ、兄貴。1発目はすぐに終らせるから、な?」

 そう言ってグイッと腰を押し付けられて、匠の欲望の在処を知った俺は思わず顔を背けてしまう。
 うう…やっぱ兄弟でなんて、嫌だよう。

「どうしても犯るのか?」

「犯る!」

 もう興奮しきってる匠は、日頃女の子が黄色い声を上げて追っかけ回す美貌もどこへやら、切羽詰った表情で俺の首筋に顔を埋めてきた。

「アニキ…ずっと好きだったんだ。あんなヤツよりもずっと前から…」

 熱い息が首筋を掠めて…うう、どうしようもなく身体が熱を訴えてくる。
 伸ばして、ガクランの下に着ている薄いT-シャツの裾から手を忍ばせたその指先に、俺は、女の子なら感じてもしかたねぇって頷ける場所に触れられて小さな声を上げた。それに気を良くした匠はぎこちない手付きでそこをキュッと抓んでくれる。

「うう…い、嫌だ。匠、そこは…」

「イヤだってことはイイってことなんだろ?なあ、アニキ…」

 熱に浮かされたように耳元に囁いてきた匠は、俺たちの荒い息遣い以外は静まり返ったキッチンに何かの金属音と鈍い音を響かせたんだ。それがなんであるのか知っている俺は、不意に下半身を締めつけていたものが緩んだ感じに目を閉じる。バックルを外されてジッパーを下げられたんだ。
 それだけじゃ、指を突っ込むのだって苦しいだろう…うう。
 うう…
 ううう…
 クソッ!

「いいか、匠!今日は大人しく犯られてやるッ。だがな、2度目はこうはいかないし、してもやらん!判ったか!?」

「う、うん。でも!今日のが良かったら、次のチャンスぐらいはくれるんだろ?」

 いつもは俺をバカにしたように見下ろす双眸が、今日は必死に食い下がってきやがる。いつもこうなら、この図体ばかりが大きく成長しちまった弟だって可愛いのに。
 俺はふと笑って、真剣に覗き込んで来る匠の首に腕を回して、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしているヤツの口許に触れるだけのキスをした。こんな格好じゃ決まり悪いけどよ。
 俺だって男だ、腹を括ってやらぁ!
 兄弟っつったって、男と女じゃあるまいし、妊娠もしなきゃ一夜の過ちで簡単に終る。
 匠の目はそれを完全に否定してるけど、俺はそう思い込むことにして腰を浮かした。
 ズボンが引き下げられて、下半身にひんやりした風が触れると、それでも堪らずにギュッと目を閉じて俺は匠の首に 齧 りついた。これから訪れるだろう快楽に、少なからずも期待してるんだ。
 俺ってヤツは…

Level.2  -冷血野郎にご用心-

 ああ見えても、強引なエッチを好む甲斐のヤツは、その気になれば学校でも犯ろうとする。もちろん、俺は拒むことなんかできず、喜んでアイツに足を開く。でもさすがに、授業中に気分が悪いと言って俺を連れだして、そのまま屋上で犯られた時は抵抗したけどな。
 家だって、本当は弟がいたって犯る気はあったんだろう。
 でも、弟が気に入らないんだ。
 なんでか知らないが、甲斐は匠のことを毛嫌ってる。
 自分よりも背が高いせいかもしれないけど、いまいちよく判んねぇ。
 あれから3日が過ぎたけど、言い出したら絶対の甲斐は悲しいかな、約束通りちっともエッチをしてくれない。誘うつもりでわざと放課後に二人きりになってみたりしたけど、まるで無視。
 そりゃあ、気持ちがいいほど無視してくれた。
 それも丸きり無視なら俺だって悲しくて涙を流すだけで、残りの4日をカレンダーを睨みつけながら過ごすだろう。でも、甲斐の嫌がらせはそんな生易しいもんじゃねぇんだ。
 今日だってわざと委員会から戻ってくる甲斐を待ち構えていたって言うのに、横スライドのドアを開けて入って来たアイツは、一瞬だけ俺の存在に足を止めたけど、すぐに何事もなかったように自分の席に戻っちまった。

「甲斐!俺…」

 キッチリと詰襟を乱していない甲斐と、学校でも札を貼られてるだらしない格好の俺と。夕日の射し込む教室には奇妙な沈黙があって、俺はそこまで言ったものの、二の句が告げられなくてぎこちなく視線を外してしまう。
 やっぱり、最初に口を開くのは甲斐なんだ。

「どうしたんだい?顔色が悪いよ、結城くん」

 知ってるくせに…畜生ッ。

「ああ、こんな日だったね。君が嘉藤と犯ってたのって…」

 思わず顔を上げると、さして興味もなさそうな表情の甲斐が俺をまっすぐに見ていた。
 縁なしの眼鏡がキラリッと夕日を反射して、その奥にある綺麗な目をガラスの壁で隔ててる。
 うッ…ヤバイ。
 俺は甲斐の顔が好きなんだ。たぶん、入学した時からずっと。
 嘉藤と犯ってる時だって、瞼の裏には甲斐の顔があったし、俺のモノを掴んでる指先は甲斐の手だった。
 でも、まさか本物に抱いてもらえるなんて思ってもなかったけど…
 すっげぇ、嬉しかったんだ。
 本物の甲斐の腕は、思ったよりも逞しかった。
 着痩せするんだろうな、コイツ。

「聞いてるの?」

 ハッとした。
 間近に甲斐が迫っていて、顔を真っ赤にして思わず俯くと、ヤツは何を思ったのか突然俺の顎に手をかけてクイッと上向かせたんだ。
 驚いて目を見張る俺に、甲斐の綺麗な顔が近付いてくる。
 思わずギュッと目を閉じた。
 キスしてくれるんだと、すっげぇ喜びながら。
 胸がドキドキする。
 甲斐とエッチする時も、こんな風に気紛れでキスしてくれる時も、いつも俺はドキドキして目なんか開けてられないんだ。恋する乙女も真っ青になるほど、俺は従順な処女みたいに震える。
 口許に甲斐の息がかかって、あともうちょっと…

「ぷっ」

 ん?
 目を開けると、口許を手の甲で押さえて笑う甲斐の顔があった。
 こ、コイツまた…!
 俺をからかいやがってッ!

「そんなにキスして欲しいのかい?でもダメだよ。言っただろう?」

「わ、判ってるさ、畜生ッ!」

 顔を真っ赤にして吐き捨てた俺は、思わず泣きそうになりながら外方向いた。
 うう、くそう。コイツはいつだってそうだ。
 俺に期待させるだけさせて、結局掌を返して放置する。そうして諦めてしまう俺を見て笑うんだ。
 学校でもけっこう喧嘩が強いから、ヤンゾーとも殴り合ったりしてそれなりに名前が売れてる俺が、自分のキス1つで浮かんだり沈んだりするのを見るのが好きなんだろう。
 とんだ趣味を持った坊ちゃん野郎だ!

「…でも」

 不意に間近で声がして、訝しそうに振り返った俺に突然、甲斐が覆い被さってきた!

「なッ…んんッ」

 ガタガタッと椅子や机を薙ぎ倒すようにして手近な机に俺を押しつけた甲斐は、深く口唇を色んな角度から合わせながら舌を絡めてくる。
 キスだ。
 ああ、キスしてくれたんだ。
 俺は嬉しい誤算に躊躇わずにその背中に腕を回して抱きつきながら、アイツのくれるキスの快楽を夢中になって追っていた。俺は、俺は甲斐とのキスが大好きだ。
 エッチも好きだけど。いや、大好きだけど。
 キスはなんだか身も心も溶けてしまって、いつか全部甲斐の物になっていくような錯覚がするんだ。どうしたってそんなことできるはずもないんだけど、だからこそ、キスだけが夢中になれる。溶けあって解けあって…心まで解れていくような。
 ああ、甲斐が好きだ。
 暫くして、俺を貪り尽くした甲斐の唇が離れて、とろんと潤んだ目を必死で開きながらアイツの顔を見上げる俺。甲斐は、不意に下半身に自分の足を割り入れて少し隙間を作ると、そのまま摺り寄せるように腰を進めてきた。
 そして、俺と自分の唾液に濡れた唇を妖艶に釣り上げて、身体を倒して覗き込んでくると耳元に溜め息のように囁いてくる。
 うッ!ゾクッとする!!
 下半身の如実な変化もバレちまってるだろうし…エッチしてくれないかな?

「キスまでは止めなかったからね。これは3日間我慢していたご褒美さ。たまんないね。キスだけでそんな顔するなんて…光太郎、このままここでセックスしたい?」

 学校だっていいんだ。コイツがしてくれるなら、南校舎の2階の奥にある、あの幽霊が出るからって誰も使ってない便所の個室で思う存分犯られるのだって嫌じゃねぇんだよ。放課後に、誰か来るんじゃねぇかとビクビクしながら犯られるのも好きだ。
 本当は、言いたい。
 この学校で一番の頭脳明晰、眉目秀麗な男らしい甲斐佑介は俺とエッチしてるんだ!俺のモノなんだ!
 …ってな。
 でも、それは絶対にムリだから。
 俺たちは別に付き合ってるワケでもないし、ハッキリ言って俺はただのダッチワイフだし。
 なんかすっげぇ悲しくなって、俺は夢中で頷いていた。
 いいんだ、淫乱だって思われたって。

「したい。当たり前じゃねぇかよ、畜生!俺はいつだって甲斐と犯りたいんだ!」

「ダメ」

 ピシャリッと言い放って、甲斐のヤツは酷く優しげな、学校中を虜にする微笑を浮かべてついでのように掠めるキスをすると、あっさりと身体を離してしまった。
 あう。この火照った身体、どうしろっつーんだよ!?

「じゃあね、光太郎。あと4日、頑張るんだよ」

 そう言ってクスッと笑った甲斐は自分の机からカバンを取り上げると、一緒に置いていた眼鏡をかけてさっさと教室から出て行こうとする。その後姿を見送りながら身体を起こした俺は、バカだよな。ホントにバカだよ。
 甲斐だって散々煽られてるはずなんだ。腰に当ったアイツの下半身だって変化はしていたし…
 その熱を冷ます相手には、そっか、事欠かないんだったよな。

「甲斐先輩!」

 弾む声で呼びかけた可愛い女の子は、下級生だ。前から甲斐の周りをウロウロしてた子だけど、そっか、やっと念願が叶うんだな。嬉しそうに笑って。甲斐のヤツ、ホントに酷いヤツだ。
 そんな酷いヤツに惚れてる俺って…いや、よそう。考えてたら果てしなく落ちこんじまう。
 俺は溜め息をついて立ちあがった。

□ ■ □ ■ □

 教室の散乱した机を片付けていたら横スライドの扉が開いた。
 甲斐じゃないことは判っていたから胡乱な目付きで睨みをくれると、隣りのクラスの長崎洋太とか言うデブが驚いたような、それでいてビクついたように立っていた。

「なんだよ、洋太?どうした」

 その後ろからヒョイッと顔を覗かせたのは、この界隈きっての喧嘩野郎。俺もまだ勝ったことのねぇ半端じゃなく強いと噂の、巷では地獄の狂犬とか呼ばれてる里野光太郎だった。俺と同じ名前だから、嫌でもその顔は覚えていたんだ。
 どこがどういいんだか、この里野と言うヤツは長崎にムチャクチャ惚れてるらしい。
 もう学校中の噂で、どうも、エッチもしてるらしいんだ。
 そう思ってよくよく見ると、里野の頬は上気して、なんとなく、今まで犯っていたような色気みたいなものが漂っているような気が、しなくもない。う~ん。
 …と言うことは、俺も?
 や、ヤバイ。

「あれ?お前、確か俺とおんなじ名前の結城とか言うヤツだっけ?どうしたんだ?誰かと喧嘩でもしたのかよ」

 その場の惨状を見渡した里野は驚いたように眉を上げたが、さして興味もなさそうに肩を竦めると、さり気なく長崎の腕に自分の腕を重ねた。その一つ一つの仕草が、どうも噂は本当らしいことを教えている。う~ん…羨ましいな。クソッ!

「ちょっと洋太のヤツが貸してた本を取り戻したいって言うんだよな。いいか?」

「こ、光ちゃん。別に取り戻すだなんて…返してもらいに来ただけだよ」

 慌てる長崎にどっちも一緒だと言って眉を寄せた里野は、でもすぐに幸せそうに笑って長崎の暑苦しい顔を見上げた。額に汗が浮かんでて、ホントに暑苦しいヤツだ。

「ご、ごめんね、結城くん」

 慌てる長崎には俺の雰囲気なんか判らないんだろう、ホッと息をつきながら肩を竦めた俺は、好きにしろよと言って机を片付ける。
 甲斐は自分のしたことは全部、俺に片付けさせる。それができていないと臍を曲げて、口を利いてくれない時もあるから、俺はいつだって後片付けをするんだ。
 もう、習慣になっちまった。

「えっらいよなー」

 不意にボソッと里野が呟いたから、俺は怪訝そうな顔をしてそんな里野を見た。

「あぁ?」

 里野は噂のわりには優しい顔立ちをした、けっこう整った顔をしてる奴だと思う。笑うと覗く八重歯が可愛いといえば可愛いかもしれない。子供のような無邪気さがあるんだ。
 いや、体付きも顔も立派に成長してるんだけどな。

「教室だよ。喧嘩で散らかしたってさ、俺だったら放っておくもん。洋太はすぐ怒るけどな」

 この里野に怒ることができる奴なんかいるのかよ!?
 じゃあ、やっぱりあの噂はマジなんだ。

「こ、光ちゃん!ほら、本はもう返してもらったから行こうよ!」

 長崎はさっきからずっと慌てっぱなしだ。なんか、胡散くせぇなコイツ。

「…あッ」

 腕を掴んで引っ張ろうとすると、里野はやけに色っぽい声を出した。
 俺と長崎はギョッとしたけど、長崎にはその意味が判ってるんだろう、自分の腕にいる里野のやわらかく潤んだ、誘うような目を見下ろして咽喉を鳴らしたからな。顔を真っ赤にして泡食って引き摺って行くあの様子だと、これからどこかでエッチするんだろう。
 慌ててた理由が何となく判って溜め息が出た。
 あーあ、幸せな奴っているんだ。
 俺みたいに男なんかに惚れた奴ってのは、報われない気持ちに悩んでる奴ばっかだと思っていたのに、同じ名前を持つ里野が少し…いや、かなり羨ましいと思った。
 幸せそうに笑ってた。
 見てくれがどうあれ、好きだと思える奴の傍にいて、いつだってキスしてエッチできるなら幸せだよな。ソイツも自分を好きなら、天にも昇るほど嬉しいに決まってる。
 いいな。
 ボソッと呟いて、なんか凄く自分が惨めな気持ちになった。
 いつか…いつかこの恋は報われるんだろうか?