Papa dont’t cry me! 1  -たとえばそれは。-

『故に現在、我が国の少子化は深刻な問題となり…』

 生真面目にサイドに掻き揚げたオールバックに冷徹そうな縁無し眼鏡の父さんは、居並ぶ幹部たちを前に怯むどころか、この上なく無愛想に巨大モニターの前で講義している。
 いつもの白衣姿ではなく、今日はスーツをビシッと着ていて付け入る隙なんかないんじゃないかって思っちまうけど…こうしたいつものだらしない白衣姿とは違う一面を見てしまうと、ああ、この人はやっぱり世界に名立たる天才博士なんだなぁと思うことができる。
 いや、いつものズボラで無頓着な親父の方が、ホントはどうかしてるんだ。
 この人のこの姿こそ、本来癌の権威と謳われる日本が誇るサイエンティスト、沖田蛍杜その人なんだろう。

『Endocrine Disrupting Chemicalsの影響は世界各地でも問題となり、各国の詳細な報告も届いております。お手元にある資料、S-32をご覧ください。これによると少なくとも日本は…』

 父さんが示した資料に、居並ぶ連中は一斉に意識を集中したようだ。
 完璧に整えているはずの頭髪の何が気に食わないのか、父さんは髪を掻き揚げるような仕草をして手にした資料の説明を始めたようだった。
 何がなんだか…聞いてる俺は、さっぱりだ。
 今日は学会…ってワケではなく、現在、この研究所、製薬会社『レッドロータス』で行われている重要な研究の報告発表のようなものを、100%出資会社である『紫貴電工』の幹部たちが定例で開いているのに参加しないといけないから…と言う理由で、今週は帰れないから研究所においでと言われて足を運んだワケなんだけど。
 助手さんだとか、主要な研究から外れてるチームの面々などが、今後の参考のために傍聴できる、囲うように硝子張りで出来た2階の薄暗い部屋で腰を下ろしたまま聞きながら、俺はどうも耳慣れない話に欠伸すら漏らしてしまう有様だ。

『問題となっている重篤な【生殖異常】の現われはほんのささやかなものであったかもしれません。イボニシの【インポセックス】をはじめ、雌の牡化、牡の雌化…また1980年代にイギリスで発見された雌雄同体の「ローチ」にいたっては、それらが具現化した警鐘の現われであったのではないでしょうか。失礼。さて、このEndocrine Disrupting Chemicalsが齎す影響はそれだけではなく、動物実験の結果等によりヒト精子及び精子形成に悪影響を
与えていると言うことは既に認識されている事実です。また、野生生物で報告されている甲状腺の機能異常、妊娠率の低下、生殖行動異常、生殖器の奇形、脱雄性化、雌性化、免疫機能の低下といった生殖・発生影響は、実験動物においてもこのEndocrine Disrupting Chemicalsの投与によって引き起こされています。もちろん、少量のEndocrine Disrupting Chemicalsの投与により、ヒトに対する影響が現れていることは、学会に於いては既に明らかとなっています』

『ドクター、貴方はEndocrine Disrupting Chemicalsに於ける影響を鑑みて、この「Twelfth」を発表するわけだが、この薬によってどう言った可能性が認められるか説明してもらいたい』

 テーブルに頬杖を着いていた初老の男が、資料を振りながら鋭い双眸で父さんを軽く睨んでいるようだ。
 それがその人の癖なのか、俺はムッとしたけど、父さんはそこら辺は全く無視して、軽い溜め息をコソリと吐きながら頷いて傍らにあるノートパソコンに何かを打ち込んだ。
 モニターに出された俺にはよく判らない図解だとか、数式だとかを指し示しながら、父さんは今携わっている研究について、それが齎す結果を細かく説明しているようだった。

「はぁ~、素敵ねぇ。沖田博士♪」

 ハートマークが飛び散るような溜め息交じりで背後から声を掛けられて、俺は肩越しに振り返ると呆れたように肩を竦めて見せた。

「…美鈴女史。貴女は出ないんですか?」

「出ないんじゃないの。出たいけど出してもらえないの」

 もう!…っと、唇を尖らせた白衣の美人に鼻先を弾かれて、俺は首を竦めながらウハハハッと笑ってしまう。
 この人は、もうずっと、父さんを狙っていたりする。
 俺よりも10歳ぐらい年上なんだけど、実際の年齢は「女性に年齢を訊ねるのはご法度よ」とクスクス笑いながらはぐらかされてしまって、本当の年齢を実は知らないんだよな。

「親父は何を研究してるですか?俺、聞いててもちんぷんかんぷんだ」

「あはは!当り前じゃない。一般人には知らされていない内分泌撹乱化学物質の影響について研究し、その成果としてある薬を発表されてるのよ」

「内分泌撹乱化学物質?」

「ええ」

 綺麗に塗られたグロスに煌く唇はセクシーだし、頭の良さだって女だてらにぴか一だってのにさ、父さんは彼女を後妻に迎えればいいんだ。俺なんか、もう放っておいてさぁ…

「Endocrine Disrupting Chemicalsって言うのはね、内分泌撹乱化学物質のことなんだけど。まあ、一般的には『環境ホルモン』って言った方が判り易いわね」

「ああ、それならニュースで聞いたことがある」

 美鈴女史はクスクスと笑ってから、やっぱりね、とでも言いたそうに肩を竦めて手にしている資料を椅子の上に放り出した。

「凄いわよね、沖田博士。あの『Twelfth』がこの『レッドロータス』から販売されれば、向かうところ敵無し!…って感じだわよ」

「へー、そんなに凄いのか?」

「凄いわよ!なんたって、ホルモン関係の病に爆発的な効力を発揮するの。ううん、なんて言うんだろう?つまりね、地球に全く優しくない化学物質の垂れ流しに因る病気や生殖異常、簡単に言えばインポテンツや甲状腺癌乃至は乳癌、精巣癌なんかを悉く治してしまうのね。応用すれば、あらゆる癌に効いてしまうという夢のような薬ってワケ」

「そ、それは凄いかも」

 思わず呆気に取られて見上げると、腕を組んだまま眼下で繰り広げられる遣り取りを見下ろしている美鈴女史は、どこか興奮でもしているように薄暗い中で、頬を紅潮させて父さんを見詰めているようだった。

「かもじゃないわ。世紀の大発見よ」

「…親父がまた有名になるのかぁ」

 見上げていた視線を床に落として、思わずボソッと呟いたら、組んでいた腕を解いた美鈴女史が小首を傾げながら近付いて来た。

「あら、博士が有名になるのは嫌なの?パパを独占できないから??」

「いや…そう言うんじゃないけど」

 どうしてこう、父さんにしろ美鈴女史にしろ、高圧的に上からモノを言うのかなぁ…思わず反発したくなっても仕方ないと思うんだけど。
 ああ、この人が後妻になったらたぶん俺、家に一秒だって帰りたくなくなるだろうなぁ。
 父さん+美鈴女史だぜ。
 どこの研究施設よりもおっかないと思う。

「心配しなくてもいいわ。この研究はあくまでもまだまだ未完なのよ。今は『レッドロータス』内のみで沖田博士によって研究されているだけの極秘的な薬なの。だから、今回の発表は途中経過の報告のようなものね。それを見学することができる研究員、もちろん私も含めてだけど、彼らはみんな、今後の『レッドロータス』を担うと目されているエリートたちよ。それで判るでしょう?どれほど秘密裏かってこと」

「そうだったのか…」

 美鈴女史は口許に薄っすらと微笑を浮かべたままで、腕を組みなおすと、食い入るように一連の質疑応答を終えて退場しようとしている父さんを息を潜めて見詰める連中を眺めながら、よく聞けば度肝を抜くようなことをサラッと言ってくれたんだ。

「あら、博士の発表が終わったようね。見てみなさいよ、光太郎くん。あの紫貴電工の幹部連の満足した顔…これで、博士のこの研究所での地位は確立したも同然だわ」

「…よく判らないんだけど。親父は副所長だし?別に地位はもうあるんじゃ…」

「甘いわね」

 クスッと鼻先で笑われてしまうと、25だって言うのに適当に子供扱いされてるよなぁとガックリしちまうよ。
 そりゃあ、ここにいる連中はトップクラスのエリートさまたちですよ?俺なんかじゃ、到底お呼びにもならない秀才揃いだろうけど、それでも俺は、父さんのようにこんな場所で働きたい…なんてことは、これっぽっちも思わない。
 美鈴女史を見ていても判るように、どこか狂気的に、研究なんて言う地位に固執しているようで気味が悪い。

「副所長の次は所長になることじゃない。沖田博士は、紫貴電工から来たお飾りの所長なんかとは比べものにならないくらい、確固たる実力を兼ね備えた方よ。それなのに副所長なんて…どうかしてるって思わないの?」

「はぁ…俺は別に、胡散臭い研究に没頭できるんなら副所長でも所長でも、親父には一緒じゃないかって思うけど」

 それになんてたってあの人は、莫大な給料を貰ってるし。
 そのおかげでまあ、今頃は薄給でピィピィ泣いてるはずの俺が悠々自適にDVDとか借りて、大型テレビの前に寝転んで映画が観られてるんだ…文句は言えないけどさぁ。

「んもう、光太郎くんには野心ってものがないのね。男としての魅力がなくなっちゃうわよ?博士の息子さんだって、どうしても思えないんだけどなぁ」

「…う」

 男としての魅力がない…いくらオールドミスの美鈴女史、と、これは失礼か。それでも女性に言われてしまうとやっぱり自信がなくなっちまうなぁ。
 それってやっぱり…その、男に抱かれてるせいだからだとか…うわ、俺ってば何を考えてるんだ。
 思わずしょんぼりしそうになった時だった、ふと、ふんわりと嗅ぎ慣れた優しい白檀の匂いがして、ハッとした時には背後から父さんが俯きがちになる俺の肩を掴んでいたんだ。

「待たせてしまったかな?」

「…親父」

「沖田博士!」

 俺の言葉尻に被るようにして美鈴女史が割り込んでくると、父さんはやんわりとした優しげな微笑を浮かべて、まるで今気付いたとでも言うように首を傾げたんだ。

「ああ、橘くん。これから瀬口の研究発表がある。君と似たようなテーマを扱っているようだし、是非とも見ておく価値はあると思うがね?」

「あ、ええ。でも、博士の研究にも感銘を受けましたわ。宜しかったら、この後、私に講義して下さらないかしら?」

 さらりとあしらおうとする父さんに食らいつく美鈴女史に、冷徹な怒りを縁なし眼鏡の奥に隠しながら、ちょっと困ったように笑って肩を竦めている。
 獲物に食らいつく女の怖さを知らなさ過ぎるよ、親父。
 女って生き物はな、一度決めたら諦めない、兎角美鈴女史なんて鑑のような人なんだぞ。
 諦めて今日は女史に付き合うべきだ。

「何事にも関心を持つのは良いことだよ。だが、君の分野は比較行動学に基づくものだろう?せいぜい、精進したまえ。光太郎、おいで」

 そんなことを考えていたら、父さんはにっこりと魅惑的な微笑で美鈴女史を釘付けにしてから、何事もなかったようなアッサリした調子で俺の腕を掴んで薄暗い部屋を後にしたんだ。
 うわ、なんか、親父の知られざる一面をまたしても垣間見たような気がする。
 こんなに面白いんなら、意地なんか張らないで高校の頃からここに来てればよかった。
 あれじゃあ、美鈴女史は振られても振られても、猛然とアタックしちまうわな。

「親父は罪なヤツだ」

「…え?」

 俺が何を言ったのか理解できないとでも言いたそうな顔付きをした父さんは、それまでちょっとだけ寄っていた眉をふと和らげると、やっと面倒臭い会議から解放されたとでも言うように安堵した顔をしたんだ。
 そんなに嫌なのか。
 ああ、でもそうだよな。
 父さんは研究に没頭したい人なんだ、人前で偉そうに舌を振るうのなんかお呼びじゃないんだよなぁ。
 疲れたように、小さく溜め息なんか吐いてるのを見ていると、やっぱり父さんは所長とかに野心は持っちゃいないよと、美鈴女史に言ってやりたくなる。

「なぁ、そう言えば。瀬口さんってどんな研究をしてるんだ?美鈴女史と似たような研究って言ってるし…あ、でも俺が聞いても判らないけど」

 ポリポリと腕を引かれたままで頭を掻きながら訊いたら、父さんはいつものように小さく笑いながら答えてくれるとばかり思っていたのに、今日の父さんは違っていた。

「…瀬口の研究が気になるのかね?」

「は?あー、うん。そりゃあ、まあね」

 瀬口さんの研究ってのは人間行動学に基づく…って確か父さんが言ってたし、その名称はちょっとだけ聞いたことがあるから、どんなものか興味もある。
 人間をボーッと観察でもしてるんだろうか…ってね。

「父さんの研究はわけが判らないと言って聞こうとしない、お前がね」

 嫌味ったらしく見下ろしてきた父さんの、そのいつもと違う髪形だとか服装だとかが奇妙な凄味になって、思わず俺は立ち止まりそうになってしまった。
 双眸を細めて、俺の中にある真意でも見定めようとしているその目付きが、鳩尾の辺りをゾワゾワさせるから…つい溜め息が出てしまう。

「俺を両性具有体にしようとしてる親父の研究なんて、ワケが判らなくて当り前だろ?あの『Twelfth』って薬の実験だったんだろ、俺に飲ませてたし」

「いや、違うよ」

 父さんはムゥッとしながらも、それでもふと笑って、俺と肩を並べながらポツポツと語ってくれたんだ。

「あんなモノは連中の目を晦ます下らないお遊びに過ぎない」

 頬を紅潮させた美鈴女史がその薬を天才の産物だと褒め称えていたって言うのに…いや、俺だって女史から聞いた時には純粋に『スゲー!』と思っちまったんだ。なのに、父さんは、この面倒臭そうにネクタイを緩めているこの人は、その世紀の大発明だと女史に言わしめた薬を、ただのお遊びだと言い放ったんだ。
 環境ホルモンと言った人為的なモノが齎せたあらゆる病気を、悉く治してしまうと言う薬。
 いったい、どれだけの人がそれを待ち望んでると思ってるんだ!

「親父…!」

「私が本当の目的で研究しているのはね、そんな容易いものではないよ」

 抗議しようとした途端、不意にガクンッと力強く腕を引かれてしまって、思わず父さんの胸に倒れ込むような形で空き部屋らしき場所に連れ込まれてしまった俺は、呆気に取られたようにその顔を見上げてしまう。

「あの『Twelfth』は『K-12』の副産物に過ぎないのだよ。私はね、『生殖異常』に着眼したんだ。そこで、見つけ出した原因物質を解明し、『K-12』を発見した。驚いたよ。その矢先に母さんが亡くなって…これはもう、天啓だと思ったのさ」

「…『K-12』ってなんだよ?」

 話が見えなくて首を傾げていると、俺をやんわりと抱き締めてきた父さんがやわらかくキスしてきた。その口付けはうっとりするほど優しくて、俺は嬉しくて忍び込んでくる舌に舌を絡めてそれに応えていた。
 上手にはぐらかす父さんのいつものことだから、これは言いたくないことなんだろうな、まあいいか、今はこの優しいキスに騙されてやろうって思ったのに…俺を追い詰めることもなく離れる濡れた唇は、俺が知りたがったことをキチンと教えてくれたんだ。

「以前にも話したように、遺伝子レベルで両性具有体になることのできる物質だよ」

 いつも嘘ばっかり吐く父さんの唇は、どうやら今度ばかりは本当のことを言っているようだと理解できたけど、その言葉の意味までは判らなかった。

「…俺は『Twelfth』の方が社会に充分貢献できると思うんだけどな」

「社会に貢献?そんなつまらないことの為に私は研究をしているのではないよ。お前を、光太郎を愛しいと思い始めたのはお前がまだ2歳の時だった」

「へ?」

 なんか、混乱してきたぞ。
 俺が3歳の頃に死んだ母さんを想って泣いている父さんを叱ったことで、この人は俺を愛するようになってこんなワケの判らん研究を始めたんじゃなかったのか…?

「可愛らしくてね。でも、お前が女の子だったら…などとは、これっぽっちも思いはしなかったよ。そのままのお前で、私の子を孕んでくれればと思ったら、癌などどうでも良くなった」

 いや、寧ろ子供を孕むとかそっちの方がどうでも良くなるんじゃないのか、普通は。

「き、切欠は…」

「弥生が亡くなる前からどうしようもなく、お前を愛してしまっていて…だから、私はこの研究を始めたのだよ。光太郎に苦痛を与えずに具有体になる方法。20年以上も費やしてしまったが」

「だって、親父は母さんを愛してたから…無気力になって、それで…」

 もう、何がなんだか。
 いきなり、こんな告白をされるとは思っていなかっただけに、免疫もなければ身構えることもしていなかったから、俺は熱を出した人のようにグラグラと天井が回るような錯覚を感じていた。

「愛しているよ、もちろん今も。だがね、それ以上に愛しいと思う人を見つけてしまったのだよ」

 父さんはそう言うと、混乱している俺の耳の下あたりに唇を寄せて、やわらかく吸い付いてきた。

「…ッ」

 思わず上がりそうになる声を噛み締めて、俺は抱き締めてくる白檀の香りに酔いながら、その背中に腕を回してしがみ付くようにして抱き締め返していた。

「弥生が亡くなったとき、これは天啓だと思った。あまりにも幸運なことが起こり過ぎて、私は少し自失してしまっていた」

「ッ!…こ、幸運?母さんが死んだのにッ!?」

 父さんの愛撫に流されそうになっていた俺は、その言葉にハッと我に返ると、思わずその胸倉を掴むようにして覗き込んでくる感情を窺わせない冷たい双眸を見上げたんだ。

「幸運だよ。これでもう、弥生は私から離れないし、彼女があれほど懸念していた年を取ることもない。老いの恐怖から離脱した彼女の空っぽな肉体は滅んでも、弥生はもう、私以外の誰をも愛することができなくなってしまった。もちろん、お前のこともね」

「…お、親父」

 ハッとした時には遅かった。
 冷徹に無表情に見下ろしてくる父さんは、電光石火のような素早さで足を払うと、そのまま床に倒れ込んでしまう俺に圧し掛かりながらクスクスと笑うんだ。

「彼女もね、お前を愛してしまっていたから、私たちはお互いに恋敵でもあった。不思議だね、恋焦がれた者同士だと言うのに、私たちは反目するようにお前を取り合っていたのだ」

 忙しなく這い回る熱い指先がシャツの裾から忍んできて、俺はヒヤリと冷たい空気に晒された胸元に、今更ながらハッとして抵抗を試みようとしたんだけど…できるはずもない。
 だって、俺の身体で父さんが触れてないところなんてもう、どこにもないんだ。
 感じる場所も、うっとりするほど気持ちよくなることも…愛しいと想うことさえ全て、俺の世界は父さんなんだから、抵抗なんて出来るはずもない。知っていたけど、妙な世間体とかが邪魔をして、俺はいつだって父さんを素直に受け入れることができないでいる。
 こんなに、病んでしまっている俺の父さん。
 でも、愛してくれていることに間違いはないのかな。

「だから、弥生よりも分の悪い私は考えてしまったのだよ。とても、下らない、他愛のないことではあるんだが…私も必死でね。お前が成長するたびに、急がなければと気を揉んでしまった」

「年を食ったら役に立たないって?」

 憎まれ口を叩きながらもその頬にキスしたら、もう乱れてしまった前髪の隙間から、光を反射させる眼鏡が父さんの感情を隠してしまっている。
 こんなモノで何もかも隠したまま、それが真実なんて認めてやらない。
 そんなつもりで伸ばした指先で弾くように眼鏡を外したら、心臓が高鳴るって言うのはこういう状況のことを言うのか…と、馬鹿みたいに考えている俺を、男らしい野性的な目付きをしているはずの父さんの、その驚くほど優しさを秘めた双眸が見下ろしていたんだ。

「そうじゃないよ。光太郎が誰かを愛しはしないかと不安で仕方なかった」

「親父が?不安??…信じられないよ」

「私はロボットじゃないよ。感情もあれば、不安だって感じる。だから、私はお前を抱いたのだ」

「…それが、信じられないんだよ」

 信じられるかってんだ。
 いきなり12の夏に、少年自然の家から戻ってくるなり犯されたんだ。
 犯された…ってのは語弊があるかもしれないし、俺は父さんを犯罪者にしたくはない。いや、もう充分、立派に犯罪者ではあるけども。
 ガキの頃から下腹部を悪戯されていたし、帰るなり死人みたいな面をして抱き締めてきた父さんの、そのあまりにも悲愴が漂っている姿には、なんだか凄く悪いことをしてしまったような気がして、ついつい、促されるままに全てを許してしまっていた。
 流されたのかもしれないけど…それでも、まるで溺れている人みたいにすがり付いてくる父さんの熱い指先も、侵入されたときの激痛も、忘れたワケじゃないけど、思い出せばいつだって胸の辺りが苦しくなっていた。
 だって俺、本当は嬉しかったからな。
 でもそのあと、父さんがあの微かな嬉しそうな笑みを浮かべて「してやったり」みたいな顔をしやがったから、騙されたと思ってガックリしてしまったってのに…今更、アレが全部本当のことだったなんて言われても信じられるかよ。
 俺の純潔を易々と奪ったくせに、全てが不安だったって?
 父さんのそれが不安なら、俺なんか七転八倒してあまりの不安に恐怖すら覚えてるに違いないっての!

「信じておくれ。私は、もうお前なしでは生きることすらできない。確かに、弥生が亡くなったときにも感じたように、いやそれ以上に、全てが無意味で、明日の光すら見えなくなってしまうのだから」

 父さんはまるで切実だとでも言わんとばかりに、悪戯しているはずの俺の身体をぎゅうぅっと抱き締めてきたんだ。息苦しさに耐えながら見上げたその顔は、長い睫毛の縁取る瞼の裏にあの鮮烈な双眸を隠したまま、切迫した雰囲気が頬を緊張させていた。

「…親父は、俺を、俺のことを愛してるのか?」

「もちろんだ。愛しているよ、光太郎。この心を見せてあげられたらいいのに…もうずっとね、お前に夢中だよ」

 囁くように呟いて、父さんはゆっくりと俺にキスをしてくれた。
 母さんを愛している父さん。
 その想いは確かに変わってはいないんだろうけど、それ以上に、俺を好きだと言う父さんは…心を壊してしまったのかな。
 息子を愛してしまう父親なんかいない。
 娘だったら、判る気もするけど…そんなの、どちらにしてもヘンだ。
 俺の父さんはきっとおかしい。
 どこかで何かを履き違えてしまったに違いないんだろうけど、それでも。
 ああ、それでも。 
 俺、嬉しいって思ってる。
 俺だって、すげーおかしいのかもしれない。
 でも、俺も。
 俺だってもうずっと、父さんのことしか考えていなかった。
 俺の全ては、父さんだったのに。

「…嬉し、俺…う、うぅ…」

 父さんの首に腕を回して、抱き付くようにして泣きじゃくってしまう俺を、父さんは無言で抱き締めてくれた。でもその腕が微かに震えていて、俺と同じ気持ちを共有してくれているような錯覚に陥ってしまった。
 震えるように抱き締めて、泣きじゃくる俺の背中を宥めるように擦ってくれる父さん。

「お、俺も…父さん、俺も…貴方を愛してる」

 ヘンな家族かもしれない。
 それでもいい、世間が何を言ったって、俺は最初から父さんのものだったんだ。

「光太郎?それは、ホントかい?」

 父さんが震える声で、嬉しそうに囁いた。
 溶けて、このまま自分の中に取り込んでしまいたいとでも思っているような父さんの腕はきつく抱き締めてきて、それだけでも窒息してしまいそうな気がするのに、初めての愛の告白に動揺してしまう俺の気持ちを知っているのか、父さんは囁くように呟いた。

「もう、嘘だと言っても駄目だよ。私は、お前を離さない」

「うん、父さん。俺を離さないでくれ…俺、俺は」

 ヒクッとしゃくり上げて、俺は思い切りぎゅうっと抱きつきながら、これ以上はないってぐらい必死に…後で思い出したらきっと、赤面モノだってことは判っているんだけど、愛の告白とやらをやらかしてしまったんだ。

「俺は…具有体になるよ。それで、父さんの子供を産むんだ」

 だって、それが。
 愛の証ってヤツなんだろ?
 俺にはよく判らないけど、それが間違っているのならせめて、父さんの研究を成功させたくなったんだ。俺の身体で試せばいい、もう俺、たとえ壊れてしまった父さんでも、母さん以上に俺を愛してくれた父さんになら、俺の人生の全てを捧げても、もういいやって思ってしまったんだよ。
 なんだかそれは、早くに亡くなってしまった母さんの想いでもあるような気がして…どうしてそんなことを考えたのかよく判らないんだけど、生きてたら母さん、もう1人ぐらい産めたよなぁ…とか、単純に考えてしまったからなのかもしれないけど。

「お前がいなくなってしまったら、私はどうなってしまうのか判らない。たとえその胎に子供を宿して、その子が産まれたとしても私は、やはりお前を亡くしてしまったら、今度は立ち直れないだろうと思うよ。それほどに、この愛は必死で、より深いのだ」

 父さんはまるで夢遊病者のような心許無い口調で、ポツリ、と呟いた。
 その言葉が何を意味しているのか、頭の悪い俺じゃあ到底理解できないけど、俺の身体をこれ以上はないぐらい激しく強く抱き締めながら、父さんは虚ろに何かを凝視しているようだった。
 その胸の内に渦まくものを混沌とした闇が飲み込むように、何もかもが幸せだと感じて浮かれている俺の、そのささやかで浅はかな想いすらも、何もかも全てを飲み込もうとでもしているように…
 父さんは俺を抱き締めたままで、虚空を睨み据えていた。

1  -たとえばそれは。-

 俺はいつも思うことがある。
 たとえば、そう、たとえばだ。
 俺はもう25歳になるし、平凡なサラリーマンでもある。こう言う感じで日々を恙無く暮らしているわけだが、父親と同居していない姿を想像してみよう。
 …できない。
 研究室に篭って自分の妻を実験体に遣い、挙句の果てに死なせてしまったような愚か者の父は以来、惚けた研究にどっぷりとのめり込んでいる。
 実の息子ですらその研究がどんなものか理解できないって言うのに、ましてや赤の他人が理解できようはずもない。
 だからこそ、こんな『たとえば』は俺たち父子には必要ないんだ。
 溜め息を吐きながら今日も俺は、ほかほかのご飯をランチジャーに詰め込みながら、日曜日が休日と言う願ってもない偶の休日を、父さんの勤める研究室までバスに揺られて行くんだから…大概どうかしていると思うよ。
 電話口の瀬口さんの話じゃ、昨日から何も喰っていないと言う。
 俺が渡した弁当が切れてから、丸々1日以上も何も喰っていないと言うことか…確りして欲しいと思っても罰は当たらんと思う。
 まあ、1日ぐらい何も喰わんでも死にはしないだろうけどな…
 ニヤリと笑って玄関でスニーカーを履いていると、居間にある電話がけたたましく鳴り響いた。
 何だってんだよ、いったい。
 やっと弁当の用意を済ませて、後は届けるだけだってのにな。
 面倒くさそうに引っ掛けていたスニーカーを蹴るようにして脱ぐと、ランチジャーを床に置いてそのまま居間へと後戻りした。

「はい、沖田ですけど」

 電話口の向こうから聞こえる声はやけにくぐもっていて、あまり良く聞こえない。

「どちらさんですか?」

 何度か尋ねてみると、電話口の向こうにいる男は咳払いして、少し不機嫌そうに呟くような独特の言い回しで名乗ったんだ。

『沖田さん家の蛍杜さんですが、光太郎さんはいらっしゃいますかな?』

「…なんだ、親父か。どうしたんだよ?今から弁当持って行くところだったんだぜ」

 漸く空腹を思い出して、腹の虫でもぐうと鳴いてるのか、父さんはちょっと息を呑んでるようだった。
 不機嫌そうな独特の言い回しは父さんの癖で、3歳で母さんが死ぬまではそれを受け応えるのは母さんの役目だったんだけども…今は22年間その役目は俺が引き継いでいる。
 下手すれば母さんよりも長いかもしれない…そんなゾッとしないことを青褪めて考えていた俺の耳元に、相変わらず不機嫌そうな呟きが溜め息のように聞こえてくる。

『ああ、有無。実験が粗方片付いたのでね。今日はそっちに戻ろうかと思っているんだよ』

 どうだ嬉しいかと言わんとばかりの父さんの今の面が、見ていなくても浮かんできそうでうんざりした。
 そしてこの父さん、帰宅時には必ずと言っていいほど真っ赤な薔薇の花束を抱えて帰ってくる。まるで最愛の妻を待たせている夫のようなウキウキぶりで…思わずガックリと肩を落としそうになる俺だけど、仕方ない。相手はあの親父なんだ。
 母さんが死んでから、天才博士と謳われていた父さんは、まるで魂が抜けた抜け殻みたいになっていた。何日も飲まず喰わずで、同じく博士であり友人でもある瀬口さんが、感情を死なせてしまった父さんを説得し続けても駄目だった。なのに、まだ3歳になったばかりの俺が魂を母さんのところに忘れてきてしまった抜け殻のようなあの人の白衣の裾を掴んで、「とーたん、泣くだめよ?かーたんぷんぷん」と言って笑ったのが、父さんの中の何かに火をつけたのかそれからすぐに復活したんだそうだ。
 でもそれ以来、今までは癌の権威と謳われるほど新薬の開発に勤しんでいた父さんは、何やら得体の知れない研究へと没頭し出しちまった。
 以上は瀬口さんの話で、にっこりと笑って天使みたいだったよとウットリ夢見心地の気味悪い父さんの台詞が本当かどうかは、既に記憶のない俺としては半信半疑以外の何ものでもない。

「ふーん?んじゃあ、今日はもう行かなくてもいいってことか??」

『それはいけない。せっかくのお前の手料理だ。一緒に食べようじゃないか』

 どこをどう聞けばそんな結論に到達するのか、いまいち天才を理解できていないごく平凡なこの俺さまは、眉を少し寄せてんー?と首を傾げてしまう。

「別に家で喰えばいいんじゃないのか?」

 どーせいつも一緒なんだし、家事もできない父さんが料理なんか作ってくれるはずもないし、いつだって俺の手料理じゃないか。何を言ってるんだ、このあんぽんたんジジィは。
 ちぇッ、父さんは『こう』だと言い出すとけして持論を曲げるようなことはしない…ってことは、このワガママ野郎に本日もまた振り回されると言うワケか。せっかくの休みだってのになぁ。
 なんか、コイツってば、俺の休みを常にチェックしてるんじゃねーだろうなぁ…最近、もうずっと独りで休日を過ごしたことが無いぞ。
 父さんの『息コン(息子コンプレックス)』なんて、今やもう、誰だって知ってるから何も言われないけどさぁ、やっぱこの年だぜ?いい加減にして欲しいとは思うけど…彼女もできねーじゃねぇか。

『おいで』

 ブツブツと悪態を吐いている俺の耳元で、低くて、聞けば誰でも腰萎えになっちまいそうな甘い声音で父さんが囁けば、思わず腰砕けになりそうになった俺がへなへなとフローリングにへたり込んでしまう。
 この人はどうしてこう、いつもどこかに行くって時にはこんな風に俺を誘うんだろう??
 瀬口さんに言わせれば、父さんは俺を亡くなった母さんだと思い込んでいるらしいから、ついつい、愛する人に愛を語るように話してしまうんだろうって言ってたけど、俺としてはいい迷惑だ。
 こんな父さんが始終、幼稚園の時からもうずっと、ベッタベタに付き纏ってるんだ、そういう理由から恋愛の機微とか全く判らないこの俺が、父さんの声に不覚にも腰萎えになっちまったとしていったい誰が笑えるって言うんだ?笑ったヤツは表へ出ろ。
 それなのにこの人は、思わず泣きたくなる俺の気持ちなんかこれっぽっちも考えずに、俺の向こう側で微笑んでるに違いない母さんに向かって囁きかけやがるから…一緒に外出するのが毎回苦痛で仕方ない。
 それでも。
 俺が父さんに付き合うのは…この世でたった一人の肉親、心を壊してしまった父さんを見捨てるのがどうしても忍びなくて、気付けば結婚もせずに寄り添うように一緒にいてしまった。
 それが父さんの心の病に効いてるのかどうかは判らないけど、やっぱ、どうしても『たとえば』父さんと同居していない日常を考えると、靄がかかったみたいに答えが見つからない。
 そんな俺も、重症なのかもしれないけど。

『お弁当を持って、父さんのところまでおいで。一緒に食べよう』

「…はぁ、判ったよ」

 いつも必ず先に白旗を振る息子を、父さんが満足そうに受話器の向こうで笑っている。
 『おいで』と、誘うように呟きながら。

■ □ ■ □ ■

 バスを幾つか乗り継いで行く、郊外に構えられた白亜の研究施設はこの町のシンボルにもなっている。噂では国が援助して何やら胡散臭い研究をしているとかなんだとか、B級ホラー好きの連中が実しやかに話してるのを聞いたことがあるけど、少なくともそこの副所長を父に持つ息子としては、詳細は家族にも知らされいないんだから、その噂は強ち嘘でもないんじゃないかって言ってやりたい。
 ランチジャーと味噌汁の入った水筒を肩に提げた俺を見て、顔馴染みの警備員のおっさんが出入り口で笑いながら挨拶をしてくれた。
 この研究施設では車から厳しくチェックされてるようで、広大な敷地の出入り口は一箇所しかなくて、その門のところに警備員が睨む警備室が設置されていたりする。
 ますます怪しい研究しかしていないんだろうと、自分の実の父親が勤める研究所を疑いまくっている息子に、警備員のおっちゃんは気のいい好々爺のような顔をして言ったんだ。

「お父さんに差し入れかい?」

「ええ。全く、世話の焼ける父で」

「はっはっは!ワシにも息子がいるんだが、光太郎くんぐらい親孝行ならよかったんだがなぁ」

 豪快に笑う、警察を定年退職したおっちゃんが頬杖をついて笑ってくれたけど、たぶん、一般常識ではこの年になって父さんの世話を小まめに焼いていないおっちゃんの息子さんの方が、充分、常識的だと俺は思うけどなぁ。
 それでも、父親にしてみたら、息子がこんな風に甲斐甲斐しく構ってくれるってのは嬉しいんだそうだ。
 家庭の事情が俺に酷似している、奥さんを早くに亡くしている警備員のおっちゃんはニコニコとご機嫌そうに笑いながらそんな風に説明してくれた…けれどもだ、ひとつ誤解がある。
 俺が父さんを構っているんじゃない。
 父さんが異常なほど、俺が構うように仕向けているんだ。
 それでも、社会的地位が俺よりもある父さんの弁の方が信じられる確立は高くて、セダンの高級外車の運転席から顔を覗かせる父さんが、わざわざ回り込んで通行書をチェックする警備員のおっちゃんに「私の息子は寂しがり屋でね。いつでもここに来てしまうけれど、そのまま通してくれて構わないから」と言いやがったのを、この警備員のおっちゃんは忠実に守ってくれているようで、いつだって顔パスで通過することができる。
 いつでも後生大事に持っている俺の写真を何十枚も焼き回しして、主要な人物全員に渡しているから、取り敢えず俺のこの研究所での立場は悪くない。それどころか、どこだってフリーで歩き回ることができるから、まあ楽と言えば楽なんだが…誰が寂しがり屋だ。
 最初、その話を聞いたときは額に血管が浮いちまって、思わずランチジャーと水筒を投げ出して帰るところだったけど、おっちゃんが実に羨ましそうに溜め息なんか吐いて。

「それはそれは幸せそうに、嬉しそうに笑っておられたよ」

 なんてほっこり笑って言ってしまったから、怒り出す切欠ってのを見失っちまって、そのままズルズルと父さんの飯配達係に成り果ててしまっていると言うワケだ。
 おっちゃんにああ言われて、怒ってたら了見の狭いヤツだと俺が悪く言われる。
 それは嫌だ、言われるなら親父が言われりゃいいんだ。
 俺は陽気に話してくれる警備員のおっちゃんに別れを告げて、広すぎる敷地内にででんと聳え立つ3階建ての中央棟の後方部に位置する研究棟に向かって歩き出した。
 本当は『臨床なんちゃら実験棟』とか呼ばれてるらしいんだけど、父さんの仕事に全く興味の無い俺としては、父さんが居座って何やら怪しげな研究をしている施設なんかはどうでもいい。早いところ、飯を届けてさっさと家に帰りたい。
 借りてるDVDが今日までなんだよなぁ…
 季節は初夏と言うこともあってか、Tシャツにジーンズ、パーカーって出で立ちでもそれほど寒くないし、比較的過ごし易いこのいい天気の日曜日に、なんだって親父に付き合ってこんな無機質な施設に来なきゃいけないんだ。

「あれ?光太郎くんじゃないか!」

 思わず溜め息を吐いていたら、背後から声を掛けられて思わず立ち止まってしまう。
 この声は…

「瀬口さん!」

「いやぁ、毎度毎度電話で呼び出して悪いね。今日はお休みだったんじゃないのかい?」 

 瀬口さんは父さんと同期で、それでも役職ってのを嫌って自由気侭に研究に没頭している、やっぱり父さん同様、たいそう変わり者なんだけど…大らかな性格で、あの我が侭を超越した父さんの世話を焼いてくれる唯一の貴重な人でもある。

「いえいえ!俺のほうこそ、いつも瀬口さんにはお世話になってスンマセン」

 慌てて頭を下げると、目尻に優しげな笑いジワのできる瀬口さんはヒョコヒョコと首を左右に振りながら、それでもなんでもないことのように言ってくれるから、変人の多いこの施設の、父さんの知り合いの中でも唯一大好きな人だったりする。

「いやいや、まだ若いんだからそんなこと気にしなさんな。悪いのは沖田なんだから」

 カカカッと笑う瀬口さんも、どうやら一週間も研究室に篭っている父さんのことは言えない生活をしていたのか、ボサボサの髪をして、よれた白衣のままでジーッと俺の肩に下がる荷物を見つめている。

「…沖田はいいよなぁ、いつも愛息弁当で。俺なんか、これからコンビニまでチャリをかっ飛ばすんだぜ」

 案の定、指を咥えた子供っぽい仕草でジーッとランチジャーを見下ろしていた瀬口さんは、眉を寄せて笑いながら首を左右に振っている。
 そう言えば、瀬口さんはバツいちの独身だっけ。

「ここで瀬口さんに会えてよかった。実は日頃の感謝を込めて…」

 父さんが一緒に喰うと言ってきかなかったんで、用意していた自分の分を手にしていたカバンから取り出しながらニッコリ笑ってそれを差し出した。
 そうしたら、瀬口さんは目をぱちくりさせて、次いですぐに嬉しそうに笑うと弁当ごと俺を抱きしめてきたんだ。10年以上も海外にいた人だけあって、なんにしてもジェスチャアの大きな人だ。何日も風呂にも入っていないのか、無精髭が痛い痛い。

「光太郎くん!なんていい子に育ってくれたんだ!父さん、嬉しいよ♪」

 母さんが死んだ日から、父さんが二人いることは内緒だ。

「うははは。残さず喰ってくださいよ。んで、空箱は親父にでも預けておいてください」

「りょーかい♪」

 嬉しそうにホクホクと弁当を抱えて中央棟…メインセンターとでも言うのか、手を振りながらそっちの方に立ち去っていく瀬口さんの後姿を見送ってから、俺はやれやれと笑ったままで溜め息を吐いた。
 瀬口さんには本当に世話になってるからな。
 俺の作るもの以外は一切口にしない父さんが、研究室で倒れそうになっているのを確りと報告してくれる。今回も、瀬口さんが報告してくれなかったら研究室でぶっ倒れてたに違いない。
 父さんは常習犯だからな、瀬口さんがいつも目を光らせてくれてるから一応安心なんだけど…

「飯で釣られてくれる人でよかった。本当によかった」

 なんてヤツだ俺、とか、一人で悪態を吐きながら父さんが待ち構えている研究室のある建物に溜め息を吐きながら歩き出していた。

■ □ ■ □ ■

 SEMとか言う、まあ簡単に言えば電子顕微鏡ってヤツなんだけど、白衣姿の父さんはガラスで仕切られた専用の室内で面倒臭そうに操作しているようだった。
 室内は幾つかの部屋に区切られていて、電子顕微鏡ってのは、俺たちが理科の実験とかで使っていたあの小さなヤツとは違って、大掛かりな機械みたいだ。
 …天才科学者の息子ではあるけど、平凡なデパートの従業員から主婦になった母さんの血を色濃く引いている俺が見たって、まあ、判る代物じゃないんだけどな。
 椅子に座って小難しい顔をしている父さんは俺がいることに気付いていないのか、深い縦じわを眉間に寄せてモニタリングしながら頬杖を着いている。
 その横顔は、とても45には見えない。
 やっぱ、日頃から頭を使ってるから老けないのか、父さんは巷の同年代より5~10歳は若く見えるから、年齢を言えば吃驚されることも屡だと悪態を吐いていたっけ。
 そのくせ、日本が誇る癌の権威なんだからすげーよな。
 いや、その父さんが、教授の娘ってワケでも研究に関係あるってワケでもない母さんに、容姿だって10人並ぐらいだってのに、一目惚れして猛アタックしたってんだからそっちの方がスゲーのかもしれないけど。
 このまま放って置いたらいつまでも研究に没頭して俺に気付くこともないだろうから、俺は溜め息を吐きながらガラスをコンコンと叩いてみた。
 研究の邪魔をすれば地獄のような目付きで睨まれる…と、父さんの助手の人とか瀬口さんとかが言ってたけど、確かに一瞬、『邪魔をするのは誰だ!?』とでも言いたそうに眼鏡のフレームに光を反射させながら振り返りはしたが、それでも俺が来ることをちゃんと認識していたのか、すぐに頬の緊張を緩めて、そのくせ、口だけはムッとしたままで頷いたんだ。
 研究をそのまま放り出して椅子から立ち上がった父さんは、博士と言うよりもスポーツマンと言った雰囲気を持っていて…と言うのも、この研究施設には研究員たちの体調管理を名目に、専用のジムが設立されてるんだよな。どうしても抜けられない会議のときに、ぼんやり父さんを待ってるだけってのもヒマだったんで使用させてもらったことがある。
 どんな研究をしてるのか…聞いたって判るワケはないけど、国が援助してるってのもなんだか本当のことのように思えてきて仕方ないんだがなぁ。
 そろそろ髪を切らないと、長く伸びすぎた前髪を掻き揚げながら、父さんは不機嫌そうに、そのくせ大股で颯爽と室内を横切ると外で待機している俺の所まで歩いてきたんだ。

「待たせたかね?」

「いや、今来たとこ。さっきさぁ、瀬口さんに会ったよ」

「ほう?」

 父さんは双眸を細めるようにして俺を繁々と見ているが、どうやら話している内容にはさほど興味を示してはいないようだ。

「親父にしろ瀬口さんにしろ、少しは風呂とか入って、喰うものはキチンと喰えよ」

「なに、私はお前の手料理があるから充分だ。だが、お前が瀬口の世話をしてやる必要はないよ。アレも充分年を取っているからな」

「俺より賢いって?そんなこた知ってますよ」

 俺からランチジャーと水筒を受け取ると、興味深そうな、嬉しそうな顔をして見下ろしながら「そんなことは言っていないよ」と言って肩を竦める父さんに、俺は「どうだかな」と意地悪く言って笑ってやった。

「こっちにおいで。私の部屋で一緒に食べよう…ん?お前の分がないようだが」

「あー…作ってくるの忘れた」

「お前が?そんなはずはないだろう。さては、そうか。瀬口か」

 ぐはっ!ホント、何だってこの人はそう言うことには鋭いんだろう。
 だが、ここで素直に「はい、そうです」とか言ってやるのも癪だしな、都合のいい嘘を吐いてやろう。

「んなワケないっての。あの人、今日もコンビにだ!とか言ってチャリに乗って行っちまったんだぜ?」

「…ほう」

 父さんは威圧的な目付きで、上から見下ろすようにして俺を冷ややかに見詰めてきた。
 思わずグッ…と息を呑んでしまうのは、身長差がムカツクからだ。
 何もかも10人並の母さんから遺伝子を受け継いでいる俺には、父さんの持つ優秀さは微塵もない。オマケに、親父のヤツはいつだってそんな俺の事なんか一切お構いなしなもんだから、仕事を辞めてずっと一緒に研究室にいて欲しいなんて言いやがるから、思い切りその向こう脛を蹴ってやったことがある。
 そりゃあ、親父の収入を考えれば俺一人なんか余裕で養っていけるだろうがな、ふん。
 でも、俺はもう25なんだ。
 親父の脛を齧って生きるには年を取りすぎてる。
 そう言うこと、この心を母さんの棺に置き忘れてきた父さんには判らないんだろうけどさ。

「疑ってるだろ?」

 ムッとして唇を尖らせれば、それまであれほど冷ややかだった双眸がフッと和らいで、何が楽しいのかクスクスと笑いながら父さんが俺の眉尻を親指で擦ってきやがった。

「お前はね、嘘を吐くとすぐに顔に出るんだよ。特に眉尻が僅かに動くからすぐに判る」

 げ、そうだったのか。
 流石は生まれたときから俺を知る唯一の人だ、なんでもお見通しってところはムカツクけどなぁ。

「瀬口さんには世話になってるだろ?お礼になんてならないけど、それぐらいはお返ししておかないと」

「…アレは自身の興味で行動を起こす男だ。何もお前が気遣う必要などないのだよ」

「とは言うけど、常識的にはお礼をするのが当たり前だろ。こんな閉鎖的な施設じゃ非常識なんだろうけどな!」

 眉から頬、頬から首筋を確かめるように辿る父さんの、いつものその仕草を疎んで手を振り払えば、おやおやと眉を微かに上げて外国の俳優みたいな仕草をする父さんは肩を竦めて笑った。
 白い歯を覗かせるほど爽やかではないけど、静かな微笑は、とても変態気質に目覚めたマッドサイエンティストには見えないから不思議だ。
 たぶん、今父さんに殺されたとしても、誰もこの人が犯人だなんて疑いもしないだろう。 物静かな微笑は、どこか壊れてしまった父さんの心のように穏やかに見えるからな。

「非常識…などと言ってはいないだろう?さあ、こんな所で立ち話をしていても仕方がない。私の部屋に行こう」

「…へいへい」

 もうそんな話はどうでもいいとでも言いたそうにまるで幼稚園児の手を引くように、父さんは俺の腕を掴むと颯爽と歩き始めた。その後姿を追いながら、俺は無機質な白色電灯が照らす冷たい通路を、やっぱりいつものように少し怯えながら足早に歩いていた。

■ □ ■ □ ■

「玉子焼きは光太郎が好きだったね。お食べ」

 ニッコリ笑って器用な指先で操る箸に挟んだ黄色い物体を、思い切り俺の口に押し付けてくる父さんに半分以上苛立ちながら、俺はその手を丁重に押し戻してやった。

「俺は抓み食いでたらふく喰ってるんだ。全部親父が喰ってくれ」

 押し戻す俺の顔をマジマジと見詰めながら、少しだけしょんぼりしたような、いや、実際には顔色一つ変わっちゃいないんだが、長年の勘で判るその反応に俺は少しだけ呆れて溜め息を吐いた。
 まるでデカイ子供と一緒にいるようだ。

「アンタ、丸一日以上何も喰ってないんだろ?この間みたいに倒れたらどうするんだよ」

 あの時は確か、3日間飲まず喰わずだったんだけどな。

「そうすればまた、お前が看病してくれるじゃないか」

「…あのなぁ、どこをどうしたらそんな結論で納得できるんだよ」

「薬は飲んでいるのか?」

 ふと、何の脈絡もなく話題を変えられて、俺の口元にしつこいぐらい押し付けていた黄色い物体を口に放り込んでゆっくりと租借している父さんを見たら、ヤツは別に何も考えていなかったのか、どうして俺がそんなに驚いているのか判らないと言いたそうに僅かに眉を寄せて飯を喰っている。
 …そりゃあ、驚くに決まってるだろ。
 あの得体の知れない試験薬を俺に試せとか、そのせいで最愛の妻を失った男が息子に差し出したんだぜ。それを飲んでるって信じてるところに驚きを通り過ぎて、呆れ果てたとしても誰も文句なんか言わないと思う。

「確か今日で終わりだろ?一週間、ちゃんと飲んだけど、あのビタミン剤全く効かなかったよ」

「…そうかね?軽い眩暈と、微熱、だるさと筋肉痛は?」

「それそれ!飲みだした方が調子が悪いってどう言うことだよ??」

 悪態を吐きながらもちゃんと飲んでやってる俺も俺だけどな。
 今まで、父さんから渡されたビタミン剤は確かに調子も良くなったし、朝起きるのも苦痛じゃなかったんだけど…今回は少し違う、父さんが言うようにまるで初期の風邪のような症状に悩まされてるんだよな。

「そうかね。では、順調だと言うことだ」

「はぁ?」

 水筒から注いだ味噌汁が湯気を上げるその向こうから、キラリと光を反射させる眼鏡に阻まれて、父さんがどんな表情をしているのか判らなかったけど…あれ?
 不意にぐにゃり…と、視界が歪んだような気がした。
 胸の動悸が少し早い。
 …なんだろう?
 ふと、父さんを見たけど、別に何も変わった様子なんかこれっぽっちもなかった。

「あ、あれ…?」

 平衡感覚が狂ったように、椅子に座っているのもままならなくなった俺は、何かに救いでも求めるかのように椅子の背を掴みながら、立ち上がろうとして失敗した。

「どうしたのかね?」

 やけに、冷静な父さんの声。

「…なんか、眩暈が…」

 くらりと揺れる視界の中で、その時になって漸く、父さんが会心の笑みを浮かべていることに気付いたんだ。
 しまった。
 なぜか俺は不意にそう思ってしまった。
 ガキの頃、父さんが仕掛けた悪戯にまんまとはまっちまった時に見せたあの笑顔に…なぜだろう、薄ら寒さのようなものを感じたのは。

「俺に…何をしたんだ?」

 アンタってヤツはテメーの息子に…いったい、何をしてくれちゃったんだよ。
 歪む視界に映る親父の笑みは、それこそマッドサイエンティストの称号がふさわしいと思ってしまうのは、きっと、俺だけじゃないはずだ。
 三半規管が完全に狂ったのか、もう座っていることも覚束なくなった俺を、弁当箱をテーブルに置いてゆったりと立ち上がった父さんは、冷たい眼鏡の奥にその感情も表情も隠してしまって、そのくせ、喋らない唇が雄弁な動きで笑みを形作っている。
 やめろ…と言った筈の声は言葉にならなくて、あんなに頼り甲斐があると思った父さんの腕が、なぜか今は怖かった。

「どう…」

 して、と続かない言葉に苛立ちを覚える俺を抱き上げた父さんは、眼鏡に隠しきれない喜びを滲ませて呟いたんだ。

「おやおや、貧血でも起こしたのかな?さあ、私の仮眠室に連れて行ってあげよう…愛しい、光太郎」

 ゾクッとした。
 自分の父親なのに、そんな言葉、いつだって聴いてるはずなのに…どうしてだろう、今の俺は随分と弱気になっている。それは、驚くほど身体が言うことを利かないからなんだろうか。
 こんな風に、俺は父さんに抱き上げられて大人しくなんかしていない。
 なのに、眩暈が…
 頭が、グラグラするんだ。

「お、やじ…やめ…」

 掠れた呟きと同じように、俺の意識も掠れて、深い闇の中に落ち込もうとしている。
 何をやめてくれと言っているのか、判らないんだけど、せっかく父さんは俺を休ませようとしてくれてるってのに…どうしたってんだ?
 きっと、昨夜遅くまでDVDを観てて、そのまま朝早く起きたから睡眠不足で父さんが言うように、ああそうだな、きっと貧血でも起こしちまったんだろう。
 この不安は身体が熱いせいだ。
 風邪でも、引いちまったのかな…
 ふと、意識がなくなる寸前、俺の唇に少しかさついた、それでも柔らかな感触がそっと触れてきた。
 その感触は、もう随分長いこと眠る前に感じていた感触だった。
 不安を和らげるように、宥めるように触れる感触にホッとして、俺はとうとう本格的に意識を失ってしまった。

■ □ ■ □ ■

 ふと、意識が覚醒したような気がする。
 と、言うのも、まだ頭がグラグラしていて、思うように意識がハッキリしないからだ。
 熱を帯びた溜め息を吐いて、うっすらと開いた瞼の向こうの景色は…薄暗い仮眠室だった。
 一度だけ、父さんの仕事に興味を持って、学生時代に泊まったままの雑然とした、一見すれば潔癖症にも見えるホントはズボラな父さんらしい室内の荒れように、俺は思わずクスッと笑ってしまった。
 一心不乱で研究に没頭して、倒れるようにして眠っている…と、確か瀬口さんが言ってた。
 実際、そうなんだろう。
 仮眠用の、それでも通常のモノよりは寝心地のいいベッドから、嗅ぎ慣れた父さんの匂いがした。
 ガキの頃はよく抱き締められていたから、懐かしいタバコの匂いだ。
 ギシ…ッと、ベッドが軋む気配がして、その時になって漸く俺の意識は完全に覚醒した。

「…あんた、何してんだ?」

 彷徨っていた視線が覚醒してハッキリすれば、自分に覆い被さるようにして覗き込んできている父さんの姿を見つけたってちっとも不自然じゃない。いや、不自然と言えば、意識を失った息子の上に覆い被さるようにして顔を覗き込んでいるこの『息コン』親父の方がよほど不自然を通り越して怪し過ぎるだろう。

「大切な息子とのスキンシップだよ?いつもそう言っていなかったかね」

「…あのな、親父。俺は今、猛烈に具合が悪いんだよ。スキンシップもクソもあるか」

「ああ、それは大丈夫だ。今の症状は薬が齎せているものであって、何かの病気と言うわけではない。つまり、私の大切な愛息は至って健康体と言うことだよ」

 いつの間にか眼鏡を外していて、見慣れたとは言えいつだってムカツクそのハンサムな顔立ちに、俺はムッと眉を寄せながら、それでも父さんを払い除けようと思って起き上がろうとした…のに、それができなかった。
 何かに阻まれて。

「…ホント、あんた何してんだ」

「何をしていると思う?」

 いつもは滅多に見せないくせに…いや、俺に見せないってことは他人には一切見せていない、微かな、その嬉しそうな微笑に、不意に俺は思い切り不安になっていた。
 ああ、そうだ。
 親父はなんて言った??
 俺のこの症状は薬のせいだって言ってなかったか?
 毎度の態度にうっかり見過ごしていたけど、今の俺は非常にヤバイ状況だ。
 父さんがこんな笑みを浮かべるときってのは…大概、俺にとってはあらゆる危機に晒されている。いや、あらゆる危機に既に陥っている状況ってことだ。
 あらゆる危機…には、貞操だって含まれている。
 俺の精通を促したのは父さんだった。

「身体が、火照るだろう?」

 肛門に何かを咥えてイくことを教え込んだのも…この人だ。
 それはプラスティックの玩具だったり、ゴム製の何か…父さんは、ここで、この研究所の誰が来てもおかしくない父さん専用の仮眠室で、俺を抱こうとしているのか?

「や!嫌だぞ!親父、それだけは嫌だっていつも言ってるだろ!!」

「ほらね。暴れるだろうから手首を縛っただけだよ」

「…ま、マジかよ」

 愕然として目を見開いても、父さんはあの、鬱陶しいほど嬉しそうな微笑を浮かべて俺の頬に唇を寄せてくるだけで。擽るような掠める口付けに、そのキスが何よりも好きな俺は、結局、すぐにその腕に陥落しちまうってのに…今更、縛る必要なんかないのにさ。
 それとも、これも親父特有の変態プレイの一種なのか??
 縛られたことはないけど…なんか、酷く嫌な予感がする。

「私はいつでも、お前には本気だよ」

 呟いて、それからソッとキスしてくる。
 普通、父親にキスされて喜ぶ野郎なんかいない。
 ただ無償の愛で祝福のキスをされるのなら、俺だってこれほど後ろめたい、罪悪感なんか感じずに笑いながらその口付けを受けるんだろうけど…実際は違う。
 このキスは、性欲を煽る情愛のキス。
 舌で、指先で、俺を煽ってその気にさせて、奈落の底に叩き落すような快楽に翻弄させる為に施す、泣きたくなるぐらい素っ気無いキスだ。
 母さん、ああ、母さん。
 俺、きっと死んだら地獄に堕ちるんだろうな。
 いつだって、思い出すのは母さんのあの優しかった笑顔。
 写真の中で微笑んでいるあのひとは、俺と親父のこんな排他的な行為を、いったいどんな思いで見ているんだろう。
 或いはもう、死んでしまえば思いなど消えてしまうんだろうか。
 母さんを想う、この人のキスは、いつだって情熱的で甘くてエロティックだけど…でも、どうしてこんなに悲しくなってしまうんだろう。

「…ッ…ハッ」

 思わず息が上がって、口付けの合間に溜め息を吐けば、父さんの指先がたくし上げたシャツの裾から忍び込んで、まだ素直に反応できない胸元の敏感な部分を弾きやがるから…クソッ。

「ん!」

 キュッと鮮烈な刺激に瞼を閉じれば、唇を離れた柔らかな感触が、そのままやわやわと耳朶を噛んでクスッと笑った。
 …悔しいなぁ。
 ふと、瞼を開けばすぐそこに、昔と変わらない切れ長の双眸が見詰めてきていた。
 文句なく、同じ男でも見惚れて嫉妬して自己嫌悪に陥りたくなっちまうほど、男前の顔を見上げていたら…どうしてだろう、本気で泣きたくなっていた。
 それはいつものことで、全く勘違いしている俺様至上主義の親父のヤツは、それが毎度毎度のセックスに対する恐怖心だとでも思っているのか、まるで処女でも扱うような仕草で俺を抱き締めてくる。
 それが遠い昔、処女だった母さんを抱いた時と同じなんだよ、と笑って教えられたときはハンマーで後頭部をガツンと一発、強烈に殴られたような気がして吐いちまったけど、今はもう大丈夫だ。
 どんな扱いでもいいんだけどな…俺は、こんな親父だけど。
 やっぱり、この心を壊してしまった、今でも母さんしか愛していないこのひとを、放ってはおけないんだ。

「…父さん」

 ポツリと呟けば、父さんは嬉しそうに双眸を細めて首筋にキスをする。
 指先の悪戯は忘れずに、思うよりも繊細なその仕草で、器用にバックルとジーンズのジッパーを下ろした父さんに促されるまま、俺は腰を浮かして下半身を惜しげもなく晒してやる。

「父さん…」

 いつもならそうして、大胆な姿のままで腕を伸ばして、噛み付くようなキスをお見舞いしてやるってのになぁ…今日は腕を縛られているからそれも侭ならない。
 父さんに施される甘ったるい快楽に、頬を染めながら感じるしかない。
 こんなのはヘンなんだけど、閉ざしてしまった心が少しでも取り戻せるのなら…俺は、俺を母さんだと勘違いしている父さんに身を委ねるしかない。

「…ん…」

 研究所にはうんざりするほどイロイロと便利な品が転がっているのか、父さんはいつの間に濡らしたのか、滴るローションが絡まる指先で硬く窄んだ肛門にゆっくりと指を挿し込んできた。
 羞恥に目元が染まるけど、それだってこの人には計算され尽くした結果なんだろうけど。

「…くぅ…ん、は…アァ」

 口付けを交わしながら、ヌチッと音を鳴らして直腸内を掻き回す父さんの、研究に没頭しすぎて節くれだった、それでも繊細な仕草を見せる中指を知らずに締め付けていた。
 欲しい刺激はそんなもんじゃない。
 泣きたくなるけど、俺は我武者羅に世間体だとか倫理だとか、あらゆるものから逃げ出したいみたいに目を閉じて追い詰められる侭に身を任せていた。
 父さん…その言葉は、俺の最後の抵抗。
 そんなの、日毎夜毎実の息子を抱いている親父にしてみたら、鼻先で笑っちまうようなちっぽけな免罪符でしかないんだろうけど。
 それでも、父さん。
 俺は、息子なんだよ。
 俺は、母さんじゃないんだ。
 ねえ。
 父さんが愛してるのは、ホントはどっちなんだ?

「弥生…愛してるよ」

 呟く親父に微笑んで、俺はその頬にキスをした。

「私もよ、あなた」

 泣き笑いでこんな擬似の夫婦を演じて…イッちまってんな、お互いにさぁ。
 微笑んでキスをすると、まるでそれが合図のように、父さんはさほど潤ってもいない俺の肛門に熱く滾る灼熱の杭を挿入してくる。
 滾る血脈は、確かに一緒の遺伝子なのに。
 滑る舌を突き出すようにして舌を絡めながら、挿入の衝撃で僅かに強張る両の腿を抱えあげる父さんの動きに追いつけずに眉を寄せても、許してなんてくれない嫌なヤツだ。
 ギシギシッと、嫌な音を立ててベッドが軋んでも、気に留める余裕なんか俺にはなくて、ただ必死に父さんが翻弄する荒々しい波に乗ろうと我武者羅になってしまう。
 追われて、追って、追い詰められて…こんな関係、早く終われと願う俺と、このままでも仕方ないかと諦めている俺がいる。そのどちらもホントの俺なんだけど、そのどちらも、まるで他人事みたいだ。

「あ、あ、あ…ぅあ!…ん…~…ひぃ」

 突き上げられる度にギチギチと父さんを咥え込んだ部位が悲鳴を上げて、それでもお構いなしに踏み込んでくる傍若無人な蹂躙者に、背中に腕を回すこともできずに俺は、ギシギシッと手首に食い込む縄に縋り付くようにして身体を支えながら、あられもないほど両足を大きく開いて迎え入れている。
 父さんの熱い掌が、労わることもせずにエロティックに支えている筈の腿に愛撫を加えて…それだけで俺はイッちまいそうになる。

「…ココがきゅうきゅうと締め付けてくるよ、弥生。どうしたの?いつからそんなに厭らしい身体になってしまったんだ」

 アンタが仕込んだんじゃねーか。
 そう言ってやりたいけど、唇を噛み締めようにもグイグイと一番感じる急所を突かれちまえば、悲鳴のような嬌声を上げることしかできない。
 こんなとこ、誰かに見られでもしたら憤死モンだけどなぁ。

「だが、私には具合は好い。貞淑な淑女の君も好きだけれど、淫乱な娼婦のように誘う君は…溺れるには充分だ」

「ひぁ!?」

 そう言って、父さんを咥え込んでいる肛門に指を無理やり押し入れてグイグイと掻き回そうなんてしやがるから、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「あ、あぅ!や、やめて…」

 涙目で懇願しても許してくれない親父に、俺はヤケクソで腰を摺り寄せながら、こうなったらもうさっさとイッて欲しいと本気で思っていた。父さんの変態セックスに、もう何度も泣かされてきたんだ。
 明日にはもう、擦り切れて痛々しい鬱血になるんだろう、手首を戒める縄を両手でギュッと掴んで、押し上げられる身体を引き戻されては悲鳴を上げる俺に、父さんはクスクスと嬉しそうに笑っている。
 室内にクチュクチュと厭らしい音が響いて、相乗効果のようにギシギシとベッドの軋む音。
 あの白い扉の向こうでは、もしかしたら、休日返上で研究に借り出された研究員たちがいるかもしれないってのに…この人には地位や名誉の大切さとか判ってるんだろうか。
 まあ、倫理に反した研究とやらをやらかしている親父にしてみたら、まだお日様も眩しい昼間っから、実の息子と擬似夫婦ごっこをしながらドロドロの性行為に耽っていたとしてもおかしなことじゃないのかもしれないけどな。
 もう、尻だけでイくことを覚え込まされた身体は、触れてもいないのにいきり立った俺の陰茎の先端から、先走りがたらたらと糸を引くようにして後から後から零れている。
 触って欲しい、できれば思い切り扱いて欲しいのに…
 してくれるわけないよな、この世で誰よりも愛しい女である母さんに、こんなにおっ勃った野郎のナニなんかついてるワケないっての。
 せめて腕を放してくれたら…いつもみたいにコッソリと、父さんに尻を犯されながら思い切り扱けるのに。

「…んふ…ぅ…アア……ッ」

 強弱を付けて腰を揺する父さんに翻弄されながら、イかせて欲しいと甘く強請れば、見る者を魅了せずにはいられない完璧な笑みを浮かべた父さんは、まるで意地悪く快楽の熱に浮かされて朦朧としている俺に覆い被さって来ながら、その耳元で囁くんだ。

「愛してると言いなさい」

「あい…ッ」

 呟きそうになった言葉は、どうしてだろう、いつも咽喉の奥に引っ掛かって言葉として出てこない。
 『愛してる』と言われて『私もよ』と応えることはできるのに…自分から愛してると言うことができないんだ。
 だって。
 父さんが愛してるのは母さんで、俺じゃないだろ。
 俺が愛してるって言って、なぁ父さん、ホントに嬉しいのか?

「なぜ、言わない?」

 初めて父さんを受け入れてから13年間、一度も言えないでいるその言葉に、父さんは相変わらず不機嫌そうにソッと眉間に皺を寄せて静かに激怒しているようだ。
 この場合、ホントは父さんの病気の為には最後まで母さんを演じる方がいいんだろうけど、この段階でいつも俺は誤魔化してしまう。
 母さんのふりをして、愛してると言わないまま、愛してるふりをする。
 そんな俺だったのに、今日はどうかしていた。
 いやきっと、あの薬のせいだったんだと思うけど…今日の俺は、そして父さんも、どうかしていたんだと思う。

「…な…ぜ?…ん、…ッは……だって、父さんが愛してるのは母さんなんだろ?俺じゃないのに、どうして俺にその言葉を言わせたいんだよ…ッ」

 親父の陰茎を尻に咥え込んだ、こんな浅ましい姿で言ったって迫力も説得力もないってのに、どうしてそんなことを言ってしまったんだろう。
 そらみろ、父さんが困惑してるじゃねーか。
 僅かに寄った眉、心配そうな不安そうな、なんとも言えない複雑なその表情に、子供ながらにドキッとした俺は、それ以来、外泊なんかできなくなってしまった。
 たった一度、親父に反抗して飛び出した一泊二日の家出だったけど。
 アレを家出…なんて言うのはこの人ぐらいだ。
 ただ単に、夏休みに友達の家に遊びに行っただけだってのに…はぁ。
 そんな顔付きをしたって駄目だ、もう、俺の中で唯一頑張っていた感情の為の防波堤が、ポロポロとひび割れた隙間から零し始めてしまったんだから。

「お、…俺は…ッ、母さんじゃないんだ。と、…ん!……父さん、俺、光太郎だよ。光太郎としての俺なら、父さんに『好き』だって言えるけど…母さんの身代わりとしての俺なら…ぅあ!……父さんに『愛してる』なんて言えるワケがない」

 心を崩壊してしまった父さんに何を言っても無駄かもしれなかった。
 それでも俺は、どうか、ほんの少しでもいいから、その心の中に『息子』も入れて欲しかったんだ。
 俺は…父さんが好きなのに。
 こんな形じゃなくて、普通の親子でも充分、俺は満足だったのに。
 悔しいけど、もうずっと、父さんしか見ていないのに…父さんは、もうずっと、幻の中の母さんを見詰め続けている。
 寂しいのに、泣けもしない俺もどうかしてる。

「…」

 ふと、父さんが動きを止めて、マジマジと組み敷いている俺を見下ろしてきた。顔を近付けて、覗き込んできながら、その表情はなんとも言えない、何か不思議なものでも見つけたときのような、実に不可思議な顔をしている。
 何を言っているのかね、弥生?君は弥生じゃないか。
 そんな台詞が脳裏を巡って、泣きたいのに泣けない俺は、まるで睨めっこでもしているように覗き込んでくる父さんの双眸を睨み返していた。
 額に薄っすらと汗が浮かんでいて、少し伸びすぎた前髪の隙間から、年のワリには若く見える男らしい、野生の雄の匂いを漂わせる切れ長の双眸が…綺麗だった。
 事の最中はいつだって、俺は『弥生』と言う名の冴えない女になる。
 もう、20年以上も前に死んだ、この野性的な双眸を眼鏡の奥に隠した完璧な男が惚れた、たったひとりの女になるんだ。

 瀬口さんに相談したとき、その時はもう既に父さんに抱かれていたけど、さすがにそこまでは相談できずに『親父が付き纏ってウザい』と言ったら、人の好い瀬口さんは『沖田は、君のお父さんはね、心を病んでしまったんだよ。お母さんのことが大好きだったから、お母さんがいないことが信じられずに死んでしまった事実を認めていないんだ』なんてことを教えてくれた。
 それでなくても10人並の冴えない母さんの遺伝子を色濃く受け継いだ俺だ、そんな素っ頓狂な話には目をパチクリするしかない。と言うよりも、その言葉の意味すら理解してはいなかった。
 母さんが俺に遺してくれた能天気と言う名の特殊技のおかげで、それでも笑いながら『じゃあ、俺が母さんになればいいんですね』とか言えたぐらいだからな。
 そう決めたのは自分だったのに、それでも、俺を見ようとしない父さんに心は張り裂けそうだった。
 こんなに身体はぴったりと密着しているのに、溶けて融合しても構わないとさえ思っているってのに、汗まみれでキスしながらも、その情熱を湛えているはずの双眸を覗き込めば、驚くほど空虚な闇が俺を通り越した、どこか遠くを見詰めていた。
 俺ではない、誰か別の人をひっそりと見詰める、身体だけのひと。

「ッ…から、言えるはずない」

 突っ込まれたままで身動きもできない、そのジワジワと這い上がるような、むず痒い快楽に知らずに腰が揺れていて、俺は濡れそぼった陰茎の先端で父さんの逞しさを物語るような腹筋を突付いていた。
 沈黙が嫌で口を開いたら、何事かを考えていた父さんの虚ろな双眸にふと、生気が戻ってきたような気がした。
 …事の最中にそんな器用なことができるってのは、まあ、俺ほど父さんはこのセックスに夢中にはなってないってことなんだろうな。
 やっと我に返った父さんは、グイッと身体を倒すようにして強かに俺を喘がせてから、その顔を愉しむように覗き込みながら呟いたんだ。
 あのゾクゾクするような低い、セクシーな声で。

「何を言っているのかね、光太郎?そうだよ、お前は光太郎であり母さんじゃないよ」

「…え?」

 思わず両目を思い切り見開いて、ぼんやりと覗き込んできてクスクスと笑っている父さんの顔を見詰め返してしまった。そんなビックリしている俺なんかお構いなしで、父さんは繋がったままの奇妙な体勢で笑いながら、俺の頬に口付けて両手で柔らかく頭を抱き締めようとするんだ。

「何を驚いているんだ?最初からそうだったじゃないか。お前は沖田光太郎。私の可愛い独り息子だ」

「だって!親父はいつだって俺のこと…ッ!うぁ!!」

 グイッと腿を掴まれて、父さんの抽送が思ったよりも激しさを増して再開されたから、俺はそれ以上何も言えずに、ただただ、この押し寄せてくる快楽のうねりをなんとかしたくて腰を振るしかなかった。

「あ、あ、あ…もう、ひ…ィ~ッッ」

 もう、言葉にすらならなくて、まるで壊れた人形みたいに繰り返し「あ」と言うことしかできない様は、見ていてどれほど滑稽だろうかと、事が終わった後にはいつだって罪悪感と羞恥に苛まれてしまう。
 そんなことも知らないくせに…判っていたのか?
 俺が息子だって、ちゃんと理解していたのか?

「お、オヤジ…」

 溜め息のように呟けば、父さんは応えるようにキスをくれる。

「お、父さん…」

 泣きたくて泣けなくて…でも、気付いたらポロポロと涙が零れていた。
 ああ、父さん。
 やっと、やっと俺を見てくれるのか?
 俺は、ここにいるよ。
 許しを請うように挿し込まれた肉厚の舌に舌を絡めれば、魂さえも吸い取られちまいそうな熱いキスに頭はクラクラする。
 ギシッギシッ…と、耳障りなベッドの軋みと、縛られた手首が擦れてぬるりとした感触に、皮膚が破けたんだなと脳裏にチラッと過ぎっても、そんなことは気にならなかった。

「可愛い息子。なんだい、光太郎は母さんになりたいの?」

「ちが…!俺は、俺として父さんを…」

「うん、知っているよ。お前はお前。大切な息子」

 一瞬、脳裏がスパークして、まるで甘い睦言のように繰り返される父さんの声が耳元を擽って、それでなくても一番感じる前立腺の部分をグリグリと先端で押擦られてるんだ、もうどうすることもできずに早々にイッてしまっていた。
 ビシャッと、父さんの逞しい腹筋に吐き出した白濁が滴ってポタポタッと俺の腹に零れると、その感触にも感じて暫くヒクヒクと肛門が戦慄くのが判って真っ赤になってしまう。
 何度犯っても、慣れるもんじゃない。

「…あ」

「ッ…」

 絶頂の余韻に収斂を繰り返す括約筋の動きに、父さんは激しく腰を打ち付けて、結果、俺の胎内に余すところなくビシャビシャとマグマのように熱い精液を吐き出したようだった。
 俺の胎内で死滅しようとしている兄弟に、どんな顔をしたらいいんだろう。
 そんな馬鹿なことを考えていたら、キュウキュウッと締め上げる余韻を充分に愉しんで残滓まで吐き出そうとしていた父さんは腰骨を押し上げるようにして肛門から糸を引く陰茎をズルッと引き抜くと、身体を屈めるようにして俺の腹に散った白濁をペロペロと舐め出したんだ。

「お、親父…俺も」

 いつものように、身体を反転させて俺の胎内で汚れてしまった陰茎が目の前にきて、俺はそれに唇を寄せて舌を這わせた。
 父さんも同じようにして俺の白濁に滑る陰茎の鈴口から根元の部分まで舐め清めてくれるけど、でも、絶対に尻までは舐めない。俺が始末することも許さないときもあるから、何度腹を壊して最悪な目に遭ったか判らない。
 だから、一度聞いてみたら父さんは…

『お尻がヒクヒクしててね、そこからトロッと私の精液が零れる姿はとても美しいよ。何より、ここに。私の子供を孕まないといけないからね』

 と、そんなふざけたことを言って本来なら子宮のある辺りをゆっくりと擦られたことがある。突っ込んでるのは肛門なのに、そんなところに子供を宿すワケないだろ、バカ親父。
 そう思って呆れたんだけど、俺を母さんだと思い込んでいる親父は結局、その信念を曲げることなく、俺はいつだって腹を壊したままだった。
 なのに…俺が母さんじゃないって、気付いてたって?

「今日も素敵だったよ」

 呟いて、満足した父さんはそのまま俺に覆い被さるようにして眠ろうとした。
 そうだ、眠ろうとしやがったんだ。
 こんな状況で眠れるか、普通!!

「つーか、こら!このクソ親父!!腕の縄を解けッッ」

「んー…ふふ、それは駄目だよ。縄を解いたら帰ってしまうじゃないか」

「…はぁ?」

 アンタ、今日は帰るって電話で言ってたじゃないか。

「…研究が長引いてるのか?」

「まあね、そんなところだ」

 あー…それでムシャクシャして俺を抱いたのか。
 明日は月曜日だから、俺はこのまま帰ってしまう。子供のように我が侭な父さんはそれが嫌で、こんな形で引き止めてるんだろう。大方、そんなとこだ。

「俺、明日仕事なんだけど。普通の親父だったらさズル休みするなって怒るのが当り前で、ズル休みを推奨するアンタはどうかしてると思うけどな」

「…ならば、私は普通の父親にならなくて結構だ。もう、一分でもお前と離れるのは嫌なのだよ」

 父さんは頭の上で両手首を縛られている俺に覆い被さるようにして、感極まったように頬に、顎に、こめかみに、そして額にキスの雨でも降らそうとしているようだった。

「弥生が死んでしまったとき、私はもう二度と、この腕の中から大切なものを失いはしないと誓ったのだ。弥生が残した遺伝子。光太郎、お前だけが私たちの全てを知っている唯一の人間だ」

 キスしながらゆっくりと俺の顔を覗き込んできたその双眸は、鳩尾の辺りがゾワゾワするような、1分だってこの場所にいたくない、逃げ出してしまいたいと思わせる底冷えする冷ややかさを持っていて、ほんの少し光が見えたような気がしたのはただの錯覚で、やっぱり父さんは狂っているんだと寂しくなってしまった。
 そうだよな、狂ってでもいないと実の息子を抱こうなんて、普通は思ったりしないよな。

「だからね、光太郎。今夜はもう、ここに父さんと一緒に泊まりなさい。食事は大丈夫だ、自炊できるように店舗が入っているからね」

 そうだ、ここは小都市のようになっている。
 恐らく、何ヶ月閉じ篭っていてもいいように、あらゆる店舗が地下1階に軒を連ねていて、地下2階は駐車場が完備されている。下手をすれば地下3階とかあって、家族の為のテーマパークがあるとかなんとか…ジュラシックパークみたいなヤツだったら面白いかもなぁ。

「地下1階?」

「ああ、そうだよ」

「地下3階にはジュラシックパークとかあるのか?」

「それはないけれど…映画館ならあるよ」

 俺の面白みもない黒い髪を弄びながら、2人で寝るには少し狭いベッドに横になると、クスクスと笑っている。何が嬉しいのか、今日の父さんは上機嫌だ。

「それじゃ駄目だ。俺は恐竜が見たいからなー」

「…甘えてるのかね?では、父さんが面白いものを見せてやろう。それで納得しなさい」

 ムッとして、指先で弄んでいた俺の頬をグイッと掴むと、無理矢理顔を自分の方に向けて、父さんは不機嫌そうに眉を寄せながら、素知らぬ顔で唇を突き出して目線だけ外方向いてる俺の唇にキスしてきた。
 触れるだけの戯れのキスは、どんな濃厚なセックスよりも大好きだった。
 子供の頃、誉めてくれる時に父さんが俺にくれた優しい、愛が溢れていたキス。

「何を見せてくれるんだ?」

「見てからのお楽しみだよ…身体の具合はよくなっただろう?」

 鼻先が触れ合うほど間近で見詰め合っていた俺は、父さんの台詞でハッと我に返ってしまった。
 そう言えば、あの風邪のような症状がなくなっている。
 …ってことはもしや。

「あの薬ってまさか…欲求不満増強剤じゃねーだろうなぁ?」

「はは!…何を言い出すのかと思ったらそんなことかね?いや、そんな生易しいものではないよ」

 ギクッとした。
 この人が薄ら笑いながら何か言うときは、決まって何か、大変なことがその裏側に隠れているんだ。
 唐突に不安になった俺は、鼻先にある父さんの頬に自分の額を擦り付けるようにして上目遣いで覗き込んだんだ。
 俺の身体に何をしたんだ?

「あの薬、なんだったんだよ!?」

 態度と裏腹の言葉遣いの悪さにも、別に怒るでもない親父失格の父さんは、そんな俺の頬を擽りながら不安に怯える俺を組み敷くようにして言った。

「どうも、私の可愛い独り息子は母さんになりたがっているようだったからね。その願いを叶えてあげようと思ったのさ」

「…は?なんで俺が母さんになりたがってるんだよ!?アンタがずっと俺のことを!母さんだと思い込んでたんじゃないか!!」

「…何を言っているのかね?私は一度だって、お前を弥生だと思ったことなどないよ」

 事の最中はいつだって母さんの名前を呼んでるじゃねーか…何がなんだか…頭が混乱し始めたそのときだった。
 ああ、そうか。
 父さんは狂ってるんだ。
 なに、まともに受け答えしてるんだよ、俺。
 この人はいつだって、おかしなことばかり言ってる。家の中に母さんなんかいるワケがないのに、帰って来るときはいつだって薔薇の花束を抱えて、俺のことを『弥生』と呼んでキスをする。それから一瞬息子に戻って近況を報告しあったら、『最愛の妻』として一緒に風呂に入って夜明けまで抱き合って眠る。そんなことの繰り返しだったじゃないか。

「…あー、ハイハイ。それで?それと薬にどんな関係があるんだよ」

 不貞腐れてぶっきら棒に言ったら、父さんは嬉しそうにクスクスと笑ってから、思い切り大胆に舌を絡める濃厚なキスをしながら、今まで父さんを咥え込んでいたせいでとろとろに蕩けている肛門につぷんっと中指を挿し込んでぐるりと円を描くように回しやがったんだ!

「んぁ!…って、な、に…すんだ!!も、や…嫌だってばッッ」

「光太郎とのセックスは甘い果実よりも魅惑的で、私はこのままでも構わないんだがね…お前が望むのなら、何だって叶えてあげたいと思ってしまうのだ」

「俺が?…ん…何を望んでるって??」

 ぐちゅぐちゅと厭らしい音を響かせて中指を腸内を抉るように蠢かす父さんは、そんな俺の耳朶を甘噛みして耳の穴に舌先を挿し込んでくる。その行為だけでも、敏感になっている身体は素直に反応してしまう。

「弥生になることはできないけれどね、お前を女にすることはできる」

「…はぁ?つーことは、アレを切って人工で女の部分でも作るってか??」

 悪戯されながらも呆れたように言ったら、親父のヤツは片方の眉を器用に上げて、シニカルな笑みを浮かべながらとんでもないと鼻先で笑ったんだ。

「この私がそんな単純なことをすると思うのかね?」

 いや、アンタのは複雑過ぎてどうかしてくれってぐらい問題がデカいんだ。できれば単調且つ単純であってくれれば問題もさほど気にならないんだけどなぁ…ははは、無理な話か。 この人だもんな。

「じゃ、どうするんだよ?」

「遺伝子レベルで女になれば済むこと。勿論、私は息子であるお前を愛しているからね、外見上の変化は何もない。ただ、身体のある部位が変化し、なかったものが造り出され、あったものが形を残したままなくなるだけのことだよ」

 思わず目が点になる。

「何を言ってるのか判りません」

「…実に簡単なことではないか。人工的な両性具有者になると言うことだよ。だが、その言葉にも語弊があるね。私は他所の女にお前の子を産ませる気など毛頭ない。お前が産める身体になるのに産ませる必要などないだろう?故に、男である証明は要らないということだ」

「…精嚢がなくなるのか?」

「それは違う。精管を切除して縛る方法もある。所謂パイプカットのことだが、お前の場合は遺伝子レベルから身体が造りを変えてしまうんだよ。つまり無精子になると言うことだ。陰茎、陰嚢、睾丸…つまり、男である部分はそのままだが、会陰の部分、そう、ちょうどこの辺りに女性器が造られる。胎内で子宮ができれば、出入り口を造ってやる必要があるだろう?それには手術を要するだろうから、執刀は私が責任を持って行う予定にしている。身体は…あの薬で随分と整っているからね」

 まるで悪魔のように笑って、父さんはずるりっと肛門から指を引き抜くと、俺の後頭部に枕を押し込んで見え易いように上体を起こさせ、説明するようにグイッと俺の両脚を持ち上げてグイッと押し開くと、呆然としている俺の陰茎と陰嚢を軽く持ち上げて医者か学者のように説明を始めたんだ。
 あ、そっか。
 親父は博士だった。
 陰嚢の付け根辺りから蟻の門渡りにかけてツゥーッと父さんの指先が辿る、その感触に身体がフルッと震えて反応してしまう。
 嫌なのに、今はそれどころじゃないってのに。

「男性の身体は女性とは違う。だから、出産の際は帝王切開になるのは確実だ。安心しなさい、その時は私が取り上げる」

 ポンポンッと聞いたことはあるけど、直接俺には関係のない名称が飛び出してきて、頭上で腕を縛られたままどんな顔をしたらいいのか判らなくなってきた。

「なんで親父が産婦人科医の真似事なんかできるんだよ?そもそも、俺…誰の子を産むんだ??」

 半泣き状態で中途半端に質問すれば、父さんはなぜ俺がそんなに悲しんでいるのか判らないと言うように首を傾げて覗き込んできた。それでもすぐに、俺が喜んでいるんだと勘違いしたのか、いや思い込んだのか、どちらにしろどこかがぶっ壊れてしまった父さんが自分勝手に受け止めることは判りきっていたのに…どうして俺はこんなに泣けてくるんだ。
 それは…きっと、父さんが本気だからだ。
 俺がどんなに嫌だと泣いて喚いても、この人はきっとやり遂げちまうんだろう。
 父さんは俺に、誰の子を産ませようとしてるんだ…瀬口さん?いや、まさか。
 俺は結局、アンタにとってただのモルモットだったんだな。
 それが、胸が張り裂けるように辛い。

「真似事ではないよ。知らないのかね、光太郎。医学に従事する者は全ての科を習得しているんだよ。私はどの分野にも秀でてはいたがね」

 クスッと笑って、絶望してしまっている俺の目尻に浮かぶ涙を唇で拭ってくれた。

「誰の子を産むかだと?決まっているではないか。無論、この私の子だ」

「…!!!」

 あまりのことに絶句して言葉が出てこない。
 いや、確かに。
 実の息子である俺を抱くことすらできる人だ、研究の為なら息子に子供を産ませる事だってへっちゃらなんだろうとは思った。でも、よりによって…実父の子を身篭れと言うのか?

「…ゃ、嫌だ!なんで俺が父さんの子を産まないといけないんだよ!?俺は…俺は、アンタの息子なのにッ」

 思わず、あれほど泣けないでいたのにボロボロと涙が零れて止めることができない。
 止まれ止まれと、思えば思うほど涙は後から後から溢れてきて、まるで涙腺がぶっ壊れたんじゃないかって思っちまったぐらいだ。
 父さんはギョッとしたように、あられもない姿をさせていた両足から手を離すと、あのマッドサイエンティストにしては珍しく、オロオロしたように泣きじゃくる俺の顔を覗き込んでくるんだ。

「わ、私の子だから泣くほど嫌なのか?」

 なに、こんな時に的外れな質問をしてくれてるんだよ!
 そんなんじゃない、俺の胸が張り裂けそうなほど痛いのは…

「ちがッ……うぅ…、じゃ、じゃあ、親父は?親父は俺の気持ちをちゃんと考えてくれてるのか?」

「え…?」

 今までは何をされても黙ってきたし、大人しくだってしてやっていたんだ、それでも、もうこれ以上の非常識には堪えられない。
 研究の為なら最愛だなんだと言いやがるくせに、妻を犠牲にして、今また息子である俺さえも犠牲にしようとしてるんだぞ?
 俺のことは?

「アンタはいつだってそうだ!母さんの時だって、得体の知れない研究の実験体にして、それで最愛の妻なんて笑わせるな!心が壊れただって!?最愛の人を亡くしたって懸命に生きてる人はいっぱいいるんだ。甘ったれるな、親父!アンタには息子である俺がいるのに、それなのに、心を壊したなんか言うなよ…うぅ…アンタにとって家族ってなんだよ?俺って、なんなんだよ…」

 手首を縛られてるせいで思うように身体を動かすこともできないけど、それでも呆気に取られたように見下ろしてくる親父に喰い付くような勢いで喚いた後、俺は強烈な眩暈と吐き気で涙はボロボロボロボロ…それでなくてもセックスのあとで見られたもんじゃないってのに、更に輪をかけて恥ずかしい格好になっていた。
 それでも、言いたかった。
 狂ってるって知ってるけど、判って欲しかったんだ。
 俺はここにいるのに、もうずっと、ここにいたのに。

「研究に遣うだけのモルモットだったのか…」

 自分で言って情けなくなってるって言うのに、それでも言わないでいられない台詞は、俺の涙腺をとうとう完全に壊してしまっていた。
 鼻の奥がツキンツキン痛んでいたけど、それすらも気にならないほど、俺の胸は痛かった。
 実の父に、使い捨てのティッシュみたいに捨てられる息子の気持ちを、ほんのちょっとでいいから、他の誰に知って貰わなくてもいいから、父さん、アンタにだけは知って欲しかった。

「違う!…何を言っているのかね?母さんを研究の実験体にした??何を勘違いしているのか知らないが、お前のお母さんは、弥生は交通事故で亡くなったのだよ」

「…へ?」

「確かに私は癌の権威ではあるけれど、人体に癌細胞を植え付けてまで研究しようなどとは思っていないし、やるのなら自らの身体に植えるに決まっているじゃないか。どうして弥生や、光太郎の身体に植え付けたりするんだ!弥生はもとより、お前を、光太郎を研究のモルモット?冗談じゃない、二度とそんなことは口にするんじゃないッ」

 父さんは、俺の涙と同じぐらい、見たこともないほど怒っているようだった。
 苛々と頭を掻き毟って、腹立たしそうに乱れた前髪を掻き揚げてから、まだボロボロ泣いている俺の脇に乱暴に寝転がるとそのままソッと抱き締めてきた。
 痛々しく腫れてるに違いない手首の縄を解くと、父さんはバツが悪そうな顔をして頬を摺り寄せてきたんだ。

「弥生が死んだとき、確かに私は落ち込んだ。もう、希望すらもない世界が明日から訪れるのかと思ったら、生きているのさえ鬱陶しかった。いや、呼吸をしているかどうかすら判らないでいた。その時、お前が、私の膝に乗ってきたお前が、泣いていることにさえ気付かないでいた私の涙を小さな掌で拭ってくれてね。今のように叱ってくれたんだよ」

 そんなガキの頃のことなんか、覚えてるはずないだろ。
 止まらない涙を気にもせずに、俺は懐かしい匂いのする父さんに甘えるように抱き付いていた。

「愛しくて、愛しくて…この子の為に生きよう。この子の為なら命すらいらないと思ったよ。お前を抱いたことを瀬口に言ったとき」

「い、言ったのか!?」

「…?ああ、殴られたがね。だが、私には判らない。こんなに愛しい人間が、他にどこにいると言うんだ?私は我が子を平気で手離せる普通と呼ばれる父親たちの方が信じられないよ」

 ああ、それで。
 ふと、これまでのこんがらがって霞に隠れていた全てのことが、鮮やかに一直線に繋がったような気がしていた。
 瀬口さんは、知っていたんだ。
 だから、俺を傷付けないように、父さんはちょっと心を病んでいると嘘を吐いたんだ。だから、許してやって欲しいと、他人事なのにあの人は、恐らく強姦されたと思っているに違いないから、免罪符のように嘘を吐いた。父さんにも、そして勿論、俺の為にも。
 あまりに幼すぎて、母さんが死んだ理由さえ覚えていなかった俺に、事故死→研究の失敗と言ったのか…あれ?でも確か、瀬口さんも父さんも、他の人たちも確かに『事故死』と言っていた。俺はてっきり研究の失敗だと思っていたけど…それは、思い込みだったのか?
 なんだ、俺。
 俺も、思い込んでいたのか。
 なんだか一気に脱力しそうになって、いや、それじゃいかんと思い直して父さんの着乱れたシャツを掴んで睨みつけたんだ。

「それで?母さんが交通事故死なのは判った。でも、俺の場合は違うだろ?俺こそ、実験体だったんだろ…」

 アンタは母さんを愛してるから。

「…何を聞いていたのだね?私はお前を愛している。弥生の遺伝子を持ちながら、全く性格の違うお前を、誰よりも愛しいと思っているよ。弥生が生きていても、それは変わらないだろう」

「母さんが生きてても、親父は俺を抱いてたのか?」

 呆れて聞いたら、父さんは軽く肩を竦めて、至極当然だとでも言いたそうな顔をして頷いたんだ。
 なぜ、そんな当たり前のことを聞くんだろうと、半分以上愕然としている俺を訝しそうに見詰めてくる父さんに…ああ、瀬口さん。俺に嘘を吐いたってずっと後悔してるに違いない、重い十字架を背負っている瀬口さん。そんな十字架は発泡スチロールとなんら変わりないから圧し折って投げ出してくれて構わないよ。貴方の言うとおり、父さんは狂ってる。

「勿論、離すつもりもない。お前の身体の準備は整っている。メンタルの部分で納得できれば、いつでも具有体にしてあげるから、私に言いなさい」

「…それは、実験じゃないのか?」

「お前を手離したくない私が、長い時を費やして行った研究の成果だ。動物実験しかしていないからね、実験と言われれば仕方ないかもしれないが、それでもこれは、私の長い夢であり、希望の結晶なのだ」

 どちらにするも、お前次第だよ…と、父さんは囁くように抱き締めながらそう言ったんだ。
 もともと、父さんにとって本当は、その研究結果を俺に使用するかどうかなんてことは、考えていなかったんじゃないかと思った。俺が傍にいるよと言えば、父さんは安心して、こんな奇妙な研究はしていなかったんじゃないかな…だってさ。

「…だから、今日はもう、ここにいなさい」

 何が『だから』なのか判らないけど、命令口調の癖に父さんは、どこか心許無い迷子のような目をして、いつもの人を見下すような高圧的な雰囲気なんか一切なくて、俺がどんな結論を出すのか不安そうだったからな。

「…こんな格好で帰れるか。しょーがないから、今夜はここに泊まってやるよ」

「それは本当かね?」

 まだ疑うのか、この人は。

「だから、思うさま胡散臭い研究に精を出していっぱい稼いでくれよ。でも、会社は辞めないけどな」

 それだけは譲れないプライド…それに、両性具有体になるかどうかなんて、今は考えられない。
 そりゃ、俺だって父さんの傍にいることに苦痛なんか感じてないし、もう25だって言うのにしつこく傍にいるワケだから、実際にそうなる必要があるのかどうか判らない。

「取り敢えず、考えてやるよ。結論は、もっとずっと後だ」

「それでいいよ。その間は、お前は私の傍にいるのだから」

「…俺がいることが、そんなに嬉しいのか?」

「当り前だ」

 父さんはそう言って、ちょっとムッとしたままで俺を抱き締める腕に力を込めた。
 俺は…俺は。
 ここにいるよ。
 その想いが、今やっと、父さんに届いたような気がしていた。

 嬉しくて、嬉しくて…ごめん、母さん。
 貴女が愛した人を、俺も好きになっている。
 その人はとても独占欲が強くて子供っぽい人だけど、それでも、まるで風のように自由な人でもあるから、俺もその風に乗ってみたいって思ったんだ。
 行き着く場所がどこかは判らないけど、その先に、行けるなら一緒に生きたいと思う。
 貴女ができなかったこと、代わりに俺がしてやるよ。
 普通じゃない家族かもしれないけど、俺たちがそれでいいのなら、俺たちはこんな家族でもいいよね。
 母さんのくれた幸せが、じんわりと胸に広がってくる。
 母さん、俺は貴女のことも大好きだよ。

「…ところで、誰に母さんが実験の失敗で死んだなんて吹き込まれたんだね?」

「へ?ああ、いや。それは俺の思い込みだったんだ」

 今日はイロイロあってヘトヘトに疲れていたせいなのか、うとうとしてたら頭の上でポツリと父さんの呟く声が聞こえてハッと覚醒した。

「なぁ、じゃあどうして、親父は俺のことをたまに『弥生』って母さんの名前で呼んでいたんだ?」

 ずっと気になっていたから、父さんに聞いてみることにした。
 だって俺は、そのせいで瀬口さんの言った言葉を信じちゃったんだからな。

「お前が…母さんがいなくて寂しがっていると瀬口に聞いたから、どうしていいのか判らなくてね。母さんが息を引き取る前に言っていた言葉を思い出したんだよ。あの子が物心がついて、物事を理解できるようになるまではどうか、自分が生きているように振舞って欲しいと。弥生は最後まで、お前の心配ばかりしていたから…そうすれば、寂しさが紛れるかと思ったんだよ」

 ややこしい!!…けど、母さんが言ったんじゃ仕方ないよな。
 それから俺は、クスクスと笑って父さんの胸元に擦り寄った。

「母さん、父さんの心配はちっともしてくれなかったんだな?俺ってば愛されてる♪」

「当り前だ。私も母さんも、お前が産まれたとき、嬉しくて嬉しくてね。何度もありがとうって言って産まれてくれたことに感謝したよ」

 その言葉は、まるで母さんが生きてそこにいて、そう言ってくれたような気がした。
 やわらかで優しい気持ちが、このむさ苦しい仮眠室に一瞬、溢れ返ったような気がしたんだ。
 ああ、そうだ。
 俺はここにいると父さんに訴えながら、俺も忘れていた。
 母さんはいつだって、ここにいたのに。
 ありがとう、ありがとう。

「産んでくれてありがとう、母さん。育ててくれてありがとう、父さん」

 思わずポロポロ泣いたら、父さんは面食らったようにキョトンッとして、泣いている俺の顔を覗き込んできた。

「親が我が子を愛するのは当り前のことじゃないか」

「それに胡坐をかいてちゃ駄目なんだ。俺も、いつかきっと、恩返しができるように頑張るから。だから…」

 父さんはクスクスと笑って、縋るようにして抱き付く俺の背中を宥めるように優しく叩きながら、俺のボサボサの髪に唇を寄せてやわらかいキスをくれた。

「楽しみにしているよ」

 俺は、父さんのことをもうずっと、勘違いしていたし誤解していた。
 本当はこんなにも、俺のことを考えてくれている人だったのに…幼い俺を抱えて、まだ若かった父さんはどれほど苦労をしたんだろう。
 まだ平の研究員にしたら足手纏いでしかない俺を片時も離さないようにして、それでも業績を積み上げていくことは大変な苦労だったと思う。
 優秀だから…そんな言葉で片付けられる問題じゃない、それだって、どれほどの努力があって成し得たものなのか、考えれば少しぐらいは想像できる。
 …ちぇ、結局俺の空回りだったのかな。

「親父が俺のこと『弥生』とか呼ぶからさ、てっきり、瀬口さんが言ってたことがホントなのかと思っちまったんだ。ちぇ、心配して損したぜ」

 ついつい、ひとりで考えてバツが悪くなって、そんな憎まれ口を叩いちまう。

「瀬口がお前になんて言ったのかね?」

 父さんの声は冷静だったし、抱き付けばやんわりと抱き締め返してくれたから、これはもう嘘でも幻でもなくて、本当に父さんは俺の存在を認めてくれた、父さんになってくれたんだろうと信じられた。
 もう、疑わなくてもいいんだ。
 もう25なのに、子供っぽいのは俺かもしれないなぁ。

「親父が、母さんのことを本当に愛していたから、亡くなった時に心を少し壊してしまったんだって。ホントは、親父は俺のことを心配してただけだったのにさ」

「…愛していた部分は確かに間違ってはいないが。そうか、なるほど。瀬口の魂胆が読めたぞ」

「…へ?」

「いや、なんでもないよ。さあ、もうお眠り。今日は疲れただろう」

 そう言って、父さんは昔そうしてくれたように、ゆっくりゆっくり、労わるように俺の頭を撫でてくれる。そうされると、条件反射のように俺は夢の世界に旅立ってしまうんだ。
 もう随分昔から、誰よりも父さんが好きだった。
 たった2人きりの親子で、学校に行く前まではこの研究所で、ほぼずっとべったり一緒にいたのを覚えている。研究員から何を言われても、父さんはどこ吹く風で、きっと陰口とか言われて辛かっただろうに、それでも飄々と一緒にいてくれた。
 母さんがいないことの切なさを、父さんなりに必死にカバーしてくれたんだと思う。
 その、異常なほどの愛情が、いつしか歪んだ形になってしまったのだとしたら、それは父さんだけのせいじゃないと思う。
 異常な父さんだし、異常な俺かもしれないけど、でも。
 俺は、沖田蛍杜と沖田弥生の子供として産まれて良かった。
 今なら胸を張って言えるよ。
 本当に良かったって。
 だってさ、きっとこんな風な形にしても、これほど両親に愛されてるのって俺ぐらいだって思い込めるじゃねーか。
 いや、実際はそうだと思う。
 どーだ、へへん!羨ましーか…なんてな、誰もいないってのに威張ってみたり。
 みんな、きっと誰かに愛されてる。
 そう思える人間に生まれてよかった。
 まだまだ、考えなくちゃいけない厄介ごとは多いけど、それでも今はこのハッピーを身体いっぱいに感じていようと思ったんだ。

 翌日。

「それじゃあ、親父。もう帰るよ」

「ああ、お行き」

 元気に手を振って別れを告げる光太郎が、定期バスのステップに足をかけたところで、アッと何かを思い出したようにチラッと沖田を振り返った。

「?…どうしたのかね」

「あのさぁ、面白いもの見せてくれるって言ったのに…結局、見られなかったな」

「…まるで永の別れのようなことを言う」

「え?」

 ふと、呟いた沖田の言葉にドキリとしたように光太郎は目を瞠ったが、それから途端にムッとしたように眉を寄せて唇を尖らせた。

「じゃあ、もう一日お休み。おいで、見せてあげるから」

「いい。どーせ、いつだって会えるんだし。また、今度の土曜日に来るよ…親父が、帰って来られないんなら」

 不機嫌そうに外方向きながらも、普段は言わなかった台詞をぶっきら棒に呟く息子を、沖田は心の奥底から愛しいと思っていた。
 ビーッと出発を促す合図にビクッとした光太郎に、沖田は名残惜しそうに少しだけ、長年の付き合いである瀬口か、或いは愛息しか気付かないほど僅かに眉を寄せて笑ったのだ。

「さあ、お行き」

「ああ。じゃあ、親父!ちゃんと飯食って風呂入れよッ」

 慌てて車内に乗り込んでバスの後部座席に座った光太郎が、初夏の日差しに弾けるような目映い笑顔で手を振りながら、見送る父親に別れを告げて行ってしまった。
 光太郎を乗せた定期バスを見送った、一見すれば全く冷静に澄ました顔をしているような沖田は、悲しみに暮れた心境で砂埃に消えるバスを食い入るように見詰めている。

「そのうちバスに穴でも開いて、光太郎くんが転げ落ちたりしてな」

「瀬口。貴様よくも私たち親子を実験に使ったな」

 ヨレヨレの白衣を初夏の風にたなびかせた無精髭の男は、ニヤニヤと笑いながら、同じくよれてしまった白衣のポケットに無造作に両手を突っ込んでいるボサボサ頭の、この研究所の副所長の地位にいる男に肩を竦めて見せたのだ。

「バレたか」

「だが、あまり役には立たなかっただろう?ふん、それが罰だ」

 だが、さほど怒っていないような沖田の態度に、瀬口は意表を突かれたような顔をして、思わず組んでいた腕を解いてしまう。

「怒らないのか?」

「…怒ってはいるが、だがこちらとしても役得だったんでね」

「はぁ…お前が悪魔だってことはよく判っているがな。光太郎くんも25だ。そろそろ自由にしてやったらどうだ?」

「余計なお世話だ」

 ズバリと斬り捨てる沖田に肩を竦める瀬口は、それから唐突にハッとしたような顔をした。

「まさか、お前あの薬を…」

「使ったよ。やっと成功したのでね。好むと好まざると、光太郎は私のものになる。もう、誰も手離したりしない。私はあの日、そう誓ったのだ」

「…俺を利用したな?」

「なんのことだ?」

 飄々とした口調に寒気を覚えた瀬口は、相変わらず涼しい顔の沖田を食い入るように見詰めている。
 自分の実験にコソリと巻き込んでいたつもりが、沖田の壮大な実験の道具でしかなかった事実に、瀬口は絶句したのだ。

「…」

 瀬口の言葉に偽りなどなかった。
 妻である弥生を失った瞬間から、少しずつ人生の歯車が狂い出して、沖田の心は壊れ始めていた。
 幼い息子に劣情を抱きだしたのもその頃で、異常な執着を愛情とはき違え、瀬口が宥め賺しても聞く耳も持たずに、保育園に預けることもなくべったりと縛り付け、とうとう研究所内にある幼稚園に通わせて手元に置いたほどだった。

「25年間も観察し続けて…お前こそ、光太郎くんをどんな実験に使っているんだ?」

 ふと、瀬口が思い余ったように口を開くと、沖田は胡乱な目付きでジロリと肩越しに振り返ったが、すぐにフッと鼻先で笑うのだ。

「思い込み、だよ。人間と言う生き物はね、瀬口。あまりに滑稽で面白い。思い込ませてやれば、ご覧のとおり、25になっても私から離れようとはしないだろう?」

「解放された今、離れて行ったらどうするんだ?」

「甘いなぁ、瀬口は」

 初夏の風に正面を見据えた沖田は薄っすらと笑った。
 あまりに感情の窺えないその冷たい微笑みは、背中しか見られない瀬口には幸いだったのか、見ることはなかった。

「第2の思い込みさ」

「…ッ、この悪魔め」

「なんとでも」

 呆気に取られて言葉もない瀬口だったが、それでも我が息子を掌中に閉じ込めようとする沖田のその、異常なまでの執着心にはいっそ、哀れさと言うよりも寧ろ感心さえしていたのだ。
 呆れたように笑えば、沖田は肩を竦めて見せた。

「…妻に似たのかな?アレは単純な子でね。だが、お前のおかげですんなりと全てを受け入れようとしているよ。私はね、瀬口」

 ふと、薄ら寒いものを感じた瀬口は初夏だと言うのに、まるで何かから自分を守ろうとでもするかのように腕を組んで首を竦めていた。
 そんな、一種異様な、不気味な微笑を浮かべた沖田は肩越しに振り返り、ニヤリ…と笑ったのだ。

「寧ろお前に感謝しているぐらいだよ。輝かしき未来を、ありがとう、とね」

「…お、沖田」

 ハッと息を呑む瀬口をその場に残し、沖田は勝ち誇ったような笑みを浮かべて歩き出す。
 未来を見据えた、強かな眼差しで。
 初夏の風が、取り返しのつかない片棒を担いでしまったのではないかと、立ち尽くす瀬口と、振り返りもせずに迷いのない足取りで立ち去ろうとする沖田の白衣をはためかせていた。

 たとえばそれは、偽りの私だとしても。
 それでもお前は、私を、愛してくれるのだろうか…

─END─

1  -冷たい星-

 ずっと友人だと信じていた。
 もうずっと、コイツなら信じていられると思っていた。
 俺の幼馴染みで、4つも年下の並木岳。
 誰も知らない俺の秘密を暴く…最大の脅威になるなんて。
 この時の俺は、まるで考えてもいなかった。

■ □ ■ □ ■

 神妙な顔つきで、たぶんきっと、コイツなりに悩んだに違いない表情をした岳は、夕暮れ時の公園のジャングルジムの前で俯いていた。もうじき斜めに光が差す太陽は、オレンジを空いっぱいに広げて、黄色と赤の微妙な混ざり合いを映し出している。
 こんな人気もまばらな公園の片隅で、まさか、そんな冗談言うなよと、俺は岳の顔をマジマジと見つめていた。

「…好きなんだ」

 ポツリと、ともすれば些細な風にも紛れてしまいそうな、よく聞いていないと聞き落としてしまいそうな掠れた声で岳はもう一度繰り返した。空耳だろうとか、聞き間違いであって欲しいとか俺が願ったその言葉を…

「…つっても俺、男だし。見て判らないのかよ?」

 内心の動揺を悟られないように、わざと不貞腐れた態度でそう言うと、岳は困ったように小さく笑って、それから真摯な双眸をして俺を見た。それは凝視のような鮮烈な眼差しで、どうしてだろう?その目つきに一瞬だが、不覚にも俺は怯えてしまった。
 なぜか…なんてこた判らないけど、俺は敢えてその眼差しを無視すると、怯えを悟られないようにわざと呆れたような口調で首を左右に振ったんだ。

「顔だって普通だ。なぁ、お前さぁ。目でも悪くなったんじゃねぇのか?つーか、たぶんそれは病気だ。病院に行ってよし。話はそれから聞いてやる」

「オレは病気じゃないよ、むしろ…」

 言いかけて、岳は俺を見つめてきた。
 そんな思いつめた表情は、女の子の前でやればいい。
 チビの頃から俺の後をついて回っていたあの並木岳が、まだ中学2年なんだぜ?そんな未来ある、バリバリ優等生でクラスの人気者な並木岳さまがだ、男なんかに惚れるのはおかしい。どうかしてる。俺の推察通り、お前は病気だ。病院に行け。

「なぁ、コウタロ兄ちゃん。オレのこと、おかしいって思う?本当に、オレが好きだって言ったら気持ち悪い?」

 思いつめた表情で首を傾げる岳のその顔に、俺はなぜかドキッとして、本来ならこういう場合は穏やかに、やんわりと断らなければってのは良く判ってるってのに…この時の俺はどうかしていた。
 幼馴染みの、いつも俺の後を弟のように追っかけ回していた岳が、そんな男の顔をして見つめてくるもんだから…どうかしたんだろう。

「気持ち悪いに決まってんだろ!?お前が異常じゃなくて正常だってのなら、やっぱどっかおかしいんだよ。病院行って出直して来い」

 たぶん、岳は傷ついた。
 恐ろしく不快そうに傷付くように言ってやったから、ヤツもすっぱりとこれで諦めて、何もかも忘れて元通りの岳に戻ればいい。
 軽くそんなことを考えていた。
 岳は大人しくて優等生で、俺はどちらかと言うと拗ねたタイプだったから、多少の身長差とウェイト差は別としても、たぶん軽く見ていたんだと思う。
 風が吹いて、誰もいない、昼だって人通りの少ない公園はどこか寒くて、初夏だって言うのに俺は肌寒さを感じて知らず拳を握り締めていた。
 岳もそうだったのか、思いつめた表情で俯き加減に視線を伏せたヤツは、唇をキュッと噛んで、噛み締めて無言だった。

「…オレのこと、嫌いなのか?」

 いつにも増して強い口調で呟く岳の、その真に迫った双眸で上目遣いに見つめられて、俺は膨れ上がる不安をどうすることもできなくて、呆気に取られるほど明るく言ってやったんだ。

「バッカだな!別に嫌いになんかなるわけないだろ?俺は近所の優しいお兄さんだぜ。幼馴染みで弟のように可愛いお前を嫌ったりなんかするかよ。ま、その程度ではあるけどな。もう判っただろ?はい、終了!あの同級生の子とでも大人しく付き合ってるんだな」

 …普通、たぶんこれが精一杯の答えなんじゃないかと思う。
 異常か正常かなんて、そんなのは俺の計り知れない部分の問題だから、取り敢えず、今は岳のその強烈な視線から逃げ出したくて、俺はそう言い残して足早にジャングルジムを後にした。
 でもたぶん。
 それが拙かったんじゃないかと思う。
 特に最後の件のところなんか、よりによって俺は、逃げ出したい為だけに岳が告白されて困っていると言っていた、あの副委員長の名前を出したんだからな。
 救いようがない。
 もうじき夕暮れがくるし、それでなくても人通りが少ないんだ。
 岳の双眸の中に見え隠れするあの揺らめきを、俺は別の学校の連中と喧嘩をするたびに見てきた気がする。もしかしたら…アイツは優等生だからそんなことはないと思うけど、アイツの暗い光を放つあの揺らめきは…何かヤバイことが起こる前兆かもしれない。
 俺は、岳が好きだ。
 小さい頃から弟のように慕って懐いてくる岳を疎ましいと思ったこともないし、嫌うだなんてとんでもないことだ。ただ、たぶん、同性愛者…ってことには魂消たけど、それでも岳が好きなんだ。可愛い俺の弟を、ぶん殴りたくはない。
 喧嘩なんかしたいワケがない。
 だから俺は、精一杯にアイツを遠ざけるつもりでそう言ったんだ。
 何が間違えていて、何が正しいのかなんて、俺に判るはずがない。
 誰かを好きになる気持ちを…誰にとめられるって言うんだ?

「…ッ!?」

 ガクンッと身体が一瞬ぶれて、気付いたら俺は岳に引き寄せられていた。
 わき目もふらずにサッサと暗くなる公園を足早で通り抜けようとしていた俺に、岳は敏捷な動きで近付いてきて、背後から腕を引っ張りやがったんだ!

「な!?…が、岳?」

「酷いよ…」

 ポツリと呟いた。
 風が吹いて、誰もいない公園、岳は俺の身体を愛しむように抱き締めて、悔しそうに呟くんだ。

「ずっと、小さいときから好きだったのに…光太郎の何もかも、俺のモノになればいいって」

「んなこと!できるワケがないだろう!?何を言ってんだ、岳!おい、しっかりしてくれ…」

「うるさい!」

 必死で逃げ出そうと抗う俺をギュッと、どこにそんな力を隠してたんだと瞠目するような力強さで拘束して、岳は耳元で怒鳴りやがった。
 ビクッとして、その見上げた双眸の暗い煌きに一瞬でも怯えた俺に、岳は悟ったようにニヤッと笑った。あの嫌な、暗い笑い顔で…

「言うこと聞かないよね。こんなに好きなのに…だったらもう、強硬手段しかないんだ」

「なに言って…ッ」

 口付けられた。
 口唇を重ねて触れるような、あんな生易しいキスじゃなくて…誰に見られたって構うものかと、岳はそんな決意をしていたんだろう。俺がどんなにもがこうと足掻こうと、一向に構う気配すら見せずに押し付けた唇の、その口唇の隙間から舌を捻じ込んできて、深く、もっと深く吸い尽くそうとでもするようなキスをした。

「…んッ、…ふ、…んぅ!」

 逃げ惑う舌を肉厚のソレで追い回し、絡み付いて、ねっとりと唾液を混ざらせる。濃厚なキスは、想像していたよりも強烈で、腰の力がカクンッと抜けるような錯覚…或いは現実だったのか、朦朧とする意識で俺は岳に縋り付くようにして抱きついていた。

「…ぅあ…、ッ、…はぁ」

「光太郎、やっぱり綺麗だ…」

 唾液に濡れて、公園に設置されている街灯に浮かび上がる俺の唇を舐めながら、岳のヤツが堪り兼ねたようにそんなことを呟くから、俺は唐突に現実に戻って慌ててそんな岳の身体を引き剥がそうと試みた。

「…ッに!バカなことを抜かしてるんだ、お前は!!こんなことしやがって…!いくらお前で

も許さないぞ!」

 キッと睨みつけたところで、岳に動きを封じ込められたように押さえつけられている情けない姿じゃ迫力も半減以下で、なんの効果もないだろうけど…岳は見透かしたようにニヤッと笑うと、俺の足の間に膝を割り込ませて耳元で囁いた。

「ココをこんなにしてちゃ、真実味に欠けちまうぜ。なあ、光太郎?オレが本気でいい子ちゃんのままでいると思ってたのか?オレは…この時をずっと待っていたんだ。この時のために、親父を丸め込むよう優等生でいたんだぜ」

 …コイツは何を言ってるんだ?

「何を…」

「何をだって?笑わせるなよ、光太郎。何もかも知ってるって言ったら…お前はどんな顔をするのかな?」

 ギクッとした。
 ギュウッと抱き締めながら膝でグリグリと悪戯をする岳は、街灯の明かりの下で、今まで見たこともないほど凶悪なツラをしてニッと笑いやがったんだ。その表情は雄弁で、何も言わなくても、何を伝えようとしているのか手に取るように判って、俺は胃が痛くなった。
 優等生で可愛くて、デカイ図体のワリには大人しくて、なんでも俺の言うことを聞いていたあの笑顔の岳が…そんな表情を浮かべないでくれ。
 何もかもが崩れ去るような違和感を覚えて、俺は思わずその場に倒れそうになってしまった。
 いや、もしかしたら、俺がそんな態度さえ取らなかったら、全ては杞憂で終わっていたのかもしれない。
 でも、紛れもなくソレは、足音を立てて近付いていたんだ。

「お…とと。こけるなよ、バカだな。オレがいないと立っていられないのか?まあ、そりゃそうだな。これから夫になる相手だ、頼ってくれてもいいんだぜ」

「…な、…何をバカなこと…」

「バカだって!?」

 不意に大声でそう言って、コイツは参ったと大笑いしながら岳は俺の身体を引き寄せると、嫌がって背けようとする俺の頬に手をかけて無理矢理上向かせやがるんだ。

「…ッ」

「…イイ顔するよな、マジで。チビの頃に聞いたんだよ、お前のお袋さんと親父さんがオレんちの両親に話してるところを…で、その時に決意したね。絶対に、光太郎をオレの嫁にするってな」

 …バレ…てたのか?そんな、いったい、いつから…
 信じられないものでも見るように瞠目する俺の双眸をキッチリ捉えて、岳は覗き込んできながら呟くように囁いた。

「両性具有なんだろ?それも極めて珍しい、男のナリをしてるくせに子宮の方が発達してるんだってな。既成事実…って知ってる?」

 もう、俺はバカみたいに、酸欠の魚か何かみたいに口をパクパクさせるだけで、言葉らしい言葉も言えずにいた。そうすると岳は、そんな俺にお構いなく、いきなり俺の手を引いて歩き出しやがったんだ。

「が、岳。も、もちろん、その、冗談だよな?俺はどうみたって男だし、その日はエイプリルフールか何かで、お前、ただ担がれただけなんだよ。な?」

 歩きながら、俺はできるだけ気分を落ち着けて、唐突に弟だと思って可愛がっていた幼馴染みに突き付けられた『現実』ってヤツを、どうしても受け入れ難くてそんな馬鹿げたことを言ってみたりした。岳はほんの少し鼻先で笑っただけで、前を向いた視線を戻そうとしない。その横顔は、付き合ってくれるまでずっと待つから…と言って、ほぼストーカー状態のあの副委員長があれだけのめり込むのが判るほど、男の表情をしていた。優しいだけじゃなく、どこか皮肉げに見えるのは、こんな状況じゃなかったら男前になったなと誉めてやりたいぐらいだった。
 そんなことを考えながらあれやこれやと模索していると、どうやら岳の目的地に着いたようで、俺はその場所を見て改めてギョッとした。
 ラブホにでも連れて行かれた方がまだマシだったか…いや、それと同じぐらいには衝撃的な場所だった。

「初夜はホテルのベッドで…とか夢を持ってたけどな。あれから月日が経って光太郎も聞き分けのないヤツに成長しちまったから、ま、初めてはどこでもいいよな。それこそ女じゃあるまいし、手っ取り早く、公衆便所で用を済ませようぜ」

 そこらでコーヒーでも飲もう…ぐらいの感覚で、岳のヤツは俺の腕を引いて、いつ掃除したとも判らないような汚れた公衆便所の中に入って、鼻を突くアンモニアに顔を顰めながら俺を個室に向かって突き飛ばした。

「…ッ」

 こんな公園なら蓋とかないだろうに、運が良かったのか悪かったのか、俺は埃が積もって汚れきった便座の蓋の上に腰掛けるような形で座り込んでしまった。ハッとして、慌てて立ち上がろうとした時には、もう岳が狭い個室に身体を滑り込ませて、後ろ手で鍵をかけているところだった。
 ま、マジかよ…
 男2人で入るにはあまりにも狭いそこで、岳は俺に覆い被さるようにして文句を言おうと開きかける口にキスをして塞いでしまう。

「…ッ、…う、…く…ッの野郎!」

「…ッ!」

 舌を割り込ませてきたその瞬間を狙って噛み付いてやると、岳のヤツは顔を顰めて、それから嬉しそうにニヤッと笑うんだ。うう、コイツ絶対に狂ってる!

「が、岳!こんなのはおかしい!絶対に間違ってるッ。今なら元に…」

「戻られるとか思うワケ?そんなことあるワケないだろ。これが、本来の並木岳なんだぜ?」

 舌を噛まれて、そりゃ、結構力を入れたんだから痛かっただろうに、岳のヤツは殊更なんでもないかのようにサラッとそんな恐ろしいことを抜かして、極上の笑みを浮かべながらペッと床に血液混じりの唾液を唾棄したんだ。

「ずっと手に入れてやろうと思ってたんだ。どうしてやろうか…って、それを考えながらマスかくのって結構気持ちよかったぜ。お前の泣き顔とか想像して…ケツマンやマン●にたっぷりとぶち込んでやれるって思ったら、3発は余裕で抜けたもんな」

 そんなゾッとする台詞を余裕で吐けるお前もどうかしてるけど、あの喧嘩上等で中指立てていたこの俺が、どうしてこんな変態野郎に怯えて竦んでいるんだ?強姦されるって言う、初めての恐怖に『女の部分』が怯えてるとでも言うのか?
 ふざけるな!

「いい加減にしやがれ、岳!俺は男なんだ!おーとーこ!俺の家族が悪ふざけしたことは悪かったって謝ってやる。でもこれは、こんなことは絶対に許してやらん!」

「悪ふざけ?何をバカなこと言ってるんだ。光太郎の両親は男でありながら、女の器官が発達しているお前の今後についてかなり悩んでいたんだぜ。当時、母さんは大反対したけどな。ソイツも死んでいなくなったワケだから、今は完全に俺主体で動けるんだ…」

 その先は聞きたくなかった。
 おおかたコイツのことだ、厚顔無恥の顔をして、屈託なく笑いながら俺の両親に言ったんだろう。『コウタロ兄ちゃんをオレにください』…ってか?戸籍上、俺は長女だから別にさして問題もない。
 でも!この18年間、ただの一度だって疑ったことなんかなかった。
 俺は男だ、男なんだってな!
 こんなツラして、誰が女だなんて思うかよ。
 実際、当の本人だって鏡を見ても何度も首を傾げて、風呂に入ったって疑ってるくらいだ。
 そりゃ、月に一度は股座からたらたら血が流れることがあって、それがたまらなく気分が悪くて貧血起こしてぶっ倒れそうになったけど、それでも、それが終わる頃にはやっぱり俺は男なんだって思っていた。
 それを、よりによって弟だって可愛がっている岳から『嫁になれ』なんて言われるとは思ってもみなかった。正直、かなりヘコみそうになる。
 一人でさめざめと泣きたい気分になって唇を噛み締めていると、気付いたらいつの間にか岳のヤツが覆い被さったままで股間に手を伸ばしていたんだ。
 ギャーッ!

「や、やめろ!岳、嫌だ、やだって!やめ…ッ」

「うるせーな。もうギャアギャア言うなよ。それでなくてもくせーんだ、さっさと終わらせて帰ろうぜ」

 なんでそんな風に平然としていられるんだ?それはやっぱり、犯られてるのが俺で、犯ってるのがお前だからか…とか、そんなどうでもいいことばかりを考えながら、俺は岳が伸ばしてきた腕から逃げようと、必死で便座の上で無駄に足掻いていた。
 と。

「…ッ!」

 バシッと頬が鳴って、激痛が走る。
 岳に殴られたんだと気付いたのは、ヤツの空いている腕がシャツの裾から滑り込んできて乳首を弄んでいる時だった。

「うるせーつってんだろ?聞き分けがないとそのまま突っ込むぞ」

 恐ろしかった。
 初めて、生まれて初めて『男』が怖いと感じた。
 口調は酷く冷静で、俺を見る双眸もどこか感情の窺えない虚ろなものだったから、それが却って恐ろしかった。
 このままだと、本気で犯される!
 いまさらになって身体が硬直して、俺は恐怖に震えながら岳から逃げ出そうと懇親の力でもがきながら振り払おうとした。すると、今度はもっと強い力で頬を叩かれて、ゴツッと鈍い音を立てながら汚らしい唾とか、なんか奇妙な液体が茶色いシミになっている壁に強かに頭を打ち付けてしまった。目から星が出るような衝撃を受けてクラクラしている間に、岳は俺のズボンのジッパーに無造作に手をかけた。
 キチキチ…っと音を立ててジッパーが下がるのを感じて、俺は、なんて言うか、本気で女にでもなったかのようにハラハラと泣いてしまった。

「怖がるなよ。大丈夫だ、最初は優しくしてやるから。お前がご主人さまに奉仕するのはそのあとからでいい。達く方法だとか、どうしたらオレが気持ちよくなるのかとか、片っぽは同じ男なんだ。よく判ってると思うけどな」

 奉仕の仕方を軽く説明されても、ハイそうですか、なんて言えるワケがねぇ…涙腺は馬鹿みたいに壊れてるし、なんか急に身体に力が入らなくなって、俺はグイッと岳に両の頬を片手で掴まれて強引に口をこじ開けられた。顎の蝶番の部分を強く押されれば、誰だって口が開く。そんなこと、賢い岳なら知ってて当たり前だ。

「うう…」

 苦しそうに眉を寄せると、岳のヤツは自分のズボンのジッパーをこれ見よがしに引き降ろして、トランクスから半勃ちしている陰茎を取り出したんだ。

「苦しいだろ?待ってろって、まずは慣らしとかないとな。なんだってスムーズにはいかないさ。取り敢えず濡らすだけでいいから咥えろよ」

 軽く扱いて、涙目で必死に首を左右に振って嫌がる俺をクスッと鼻先で笑った岳は、端からやめる気なんか毛頭ないだけに問答無用で捻じ込んできやがった。

「ふーん、思ったよりも滑らかで気持ちいいモンなんだな。こう見えてもオレ、きっちり純潔は守ってるんだぜ?」

 クスクスと嫌味ったらしく笑いながら、そんな嘘をサラッと言ってしまえる岳は、俺の何の取り柄もない黒い髪を指先で梳きながら頭を押さえつけて、空いてる方の手で小器用に肌蹴させた胸元に戯れかかるから…俺は思わず咽そうになった。
 男の陰茎を咥えたことなんかモチロンなかったし、ましてや胸元を触られたこともない。必死に舌先で鈴口の辺りを舐めたり吸ったり、それこそ早くこんな苦しみからは解放されたくてありとあらゆる、AVで見た真似事をしていたんだ。突然、何の前触れもなく素肌の乳首なんか弄られたら咽て、もうちょっとで窒息しちまうところだった。いや、マジで。 恨みがましく涙目で見上げると、頬を上気させた岳のヤツが、何が嬉しいのかうっとりと双眸を細めて俺を見下ろしていた。切れかけたような電灯が浮かび上がらせる岳の姿は、それこそ間抜けなんだろうけど、その顔立ちは獲物を狩り終えて満足している野生の獣のような雰囲気がある。ここが便所じゃなかったら、きっと、女はこう言う部分に惹かれるんだろう…

「……ッ、…ぅ、……ん」

 舌先で必死に陰茎を舐めてる自分の姿の方が、いっそ間抜けなモンだけど…そう考えたらまた泣きたくなって、こうなったらもう涙腺は本気で蓋をする気はないようだと思えた。

「泣いてんのかよ?ったく、だらしねーな。濡らすだけ、とか思ってたけどさ。結構、気持ちいいからこのまま出しちまうぞ…今から泣いてたら、この後はどうなるんだろう?」

 さらに、何が可笑しいのか咽喉の奥でくく…っと笑う岳が、今更ながら怖かった。
 亀頭の一番太いところが一番厄介で、かと言って、それを飲み込んでも高々半分ぐらいが収まった程度だった。それでも咽喉の奥を突くような圧迫感は拭えなかったし、わき起こる吐き気も我慢しないといけない。嘔吐に必死で耐えていると生理的な涙が目尻に浮かんで、舌を動かすことを怠ると岳は短気を起こして俺の頭を股座に押し付ける。

「ぅぐッ!!……ぅ、…ッ…!」

 舌の表面のザラッとした部分が滑り込んでくる陰茎を撫で上げ、無理に飲み込まされた先端が問答無用で咽喉の奥を突き上げるから、粘膜が押し込まれるような感触がして、俺はまた吐きそうになった。身体を支えていた手がズルッと滑って、慌てて岳の太腿を掴むと、この息苦しさから逃げ出したくて身体を引き離そうと腕を突っ張ろうにも背後はすぐに汚れて埃の被ってるタンクだし、逃げ出すこともできなくて、俺は岳の手が促すに任せて瞼を閉じた。
 目を閉じたって嘔吐感は拭えないけど、そうして諦めることで、岳は気を良くして押さえつける手の力を緩めてくれた。嗚咽のように咽喉を鳴らして、それから咽喉を突き上げる肉の塊にほんの僅かでも退去してもらおうと奥の方で外に押し出すように舌を動かしていたら、口許から唾液が零れて顎を伝って胸元を濡らしやがった。

「近所のお兄さん…ね。ホント、あんたって笑わせてくれるよ。いつオレがあんたのことを『近所のお兄さん』なんて目で見たって言うんだ?いつだって犯して、オレだけのモノにしてやろうって企んでたってのにな」

 馬鹿にしたように鼻先で笑って、岳は俺の苦しそうな表情を楽しむように見下ろしてくる。
 男の逸物で口腔を穿たれて、そりゃあ、面白いだろうよ!…うう、クソッ。

「ホラ、早く舌を使えよ。さっきみたいなチロチロじゃちっともカンジねーんですけども」

 クスクスと笑って髪をグッと掴まれて、もう条件反射でビクッとした俺はそれでものろのろと舌を這わせて裏筋の辺りを舐めてみた。硬度を増すソレを持て余して、口いっぱいに頬張ってはみたものの、唾液の嚥下が思うようにいかなくて、気付いたら口の端からたらたらと含みきれなかった唾液が零れていた。
 尿道口に先端を尖らせた舌先を突き入れて、ぐにぐにと愛撫してから、唾液をねっとりと亀頭に塗り込める仕種をすると、岳は少し切迫したように荒い息をついた。
 …バーカ、俺だって野郎なんだぞ。
 どこをどうすれば感じるのかぐらい、半分女でも判るんだ。
 両性具有をなめんな。

「…ふ、……ッ、………んぅ」

 眉を寄せて、自分が舐めてるモノを見る気にもならなかったから双眸を細めていたら、肩で息をついたらしい岳が俺の髪を撫で梳きながら少し、なぜかムッとした口調で呟いた。

「…あんた、巧いんだな。どこで覚えた?もしかして、オレ以外のヤツとヤッたことあるとか?」

 …こう言うところが、子供なんだよ。岳は。
 俺はただひたすら岳が達ってくれることを願いながら奉仕を続けて、それでも首を左右に振ってそれを否定しておいた。もちろん、こんな行為は初めてだったから、嘘じゃない。ただ、岳の語尾に孕んだ剣呑な雰囲気が、後で厄介なことになるのはどうしても避けたかったから…ってのが、正直な理由だ。

「だよな。見てくれもイマイチだし、オレ以外にあんたを抱きたいなんて酔狂は他にいないだろうから…」

 呟いて、でもまだ信用ができないのか、胡乱な目付きで見下ろす岳は、テメーの逸物を咥えて必死にご奉仕している俺の姿を見ても、そんなこと抜かせるだけおめでたいヤツだと思うよ。
 無駄なことを詮索されてこの状態を長引かせられるのも嫌だし、持て余すほど膨張してきたその若い肉の塊を、先走りの苦味に眉を寄せながら俺はできる限り敏感な亀頭を集中的に舐めてみた。その刺激がどれぐらい強いのか、実際に誰かにしてもらったことのない俺には判らないけど、岳は気に入ったのか、フッと溜め息をついて少し情けない声を出した。
 慣れない愛撫がどれだけヤツを刺激してるかなんてこた判らないけど、その調子から、もうじき岳が達くんだなと言うことは判ったんだ。

「イイ感じじゃん。じゃ、出すよ」

 息をついて、それから俺の頭に置いていた手に力を込めて注意を促す岳にビクッとなる。当たり前だ、同じ男として生きてきた俺が、どうして野郎のモノなんか飲まなきゃいけないんだ?動きを止めて口に咥えたままで上目遣いに見上げると、やけに色っぽい目付きをした岳がニッと笑った。薄っすら滲んだ汗で前髪が額に張り付いて、少し厚めの唇が形良く笑うと…それだけでなぜか俺はドキッとした。
 そんな風に気を取られていた俺が悪いんだけど、ハッとした時には咽喉の奥に灼熱の飛沫が叩きつけられていた。

「…ん!……ぅ、…ッ、……」

 口の中に注がれた灼熱の体液は、苦くて火傷しそうで、その青臭い匂いだけで吐き気がした。

「…ふ」

 低くうめいて、岳は俺の髪を掴んで小刻みに腰を前後させると、最後まで出そうとしているようだった。その匂いと味に、俺は嗚咽して体積が減らない膨張したソレが引き抜かれたとほぼ同時に、薄汚れた便所の床に吐いていた。

「ぅ、おえぇ…」

 吐き出した体液は白く濁っていて、口許と胸元、床にボタボタと零れ落ちて汚していった。

「あーあ、失礼だなぁ。まあ、いいか。別に飲んだからってどうなるってワケでもないし…」

 ゲホゲホッと酷く咽て便座の上で身体を縮こめて蹲る俺に、肩で息をしていた岳は前髪を掻き上げてそう言うと、言葉も終わらない間にヤツは俺を抱き寄せるようにして引っ繰り返したんだ!…つーのはつまり、便座を跨いでタンクの方を向くってカタチで…

「ぅあ!…ててて…」

 グイッと強引に腰を引かれて、俺は狭い個室の中で岳に尻を差し出すようなカタチでこけてしまった。いつ掃除したのかも判らない、少し黄ばんだタンクに縋りつくようにして抱きつきながら、俺は恐怖の色を隠せずにヤツを振り返っていた。 

「が、岳…」

「怖い?まあ、心配するなよ。痛いのは最初だけ、って言うだろ?案外、最後は自分から腰振ってねだるって言うしな」

 どこのAVビデオでそんな台詞を覚えたんだと頭を抱えたくなったけど、それよりも現実は目の前に押し迫っているワケで、岳の股間部に猛々しく反り返ってるソレは少しも硬度を失っていないし、ましてや膨張率も下がっていない。その気になれば、一気に貫くことだってできるだろう。

「岳、やめ…頼む、もうやめてくれ」

「やめる?」

 俺の素肌を確かめるようにシャツを捲り上げて腰を撫でていた岳は、獰猛そうな目付きで俺を見ると、グイッと覆い被さるようにして俺の耳元に唇を寄せてきた。熱く猛った灼熱の塊が、俺の唾液と先走りに濡れたままで尻の割れ目を撫で上げた。

「…ッ」

「やめるだと?あんたバカか?これから既成事実ってヤツを作って、あんたを縛り付けるんじゃないか。妊娠しても、ご愛嬌だな」

 そんな恐ろしいことを…俺は絶望的になって泣いてしまった。タンクに縋りつきながら、もう、恥も外聞もなく声を出して泣いてしまった。
 どうして、どうして岳はそんなに俺を追い詰めようとするんだろう。そんなに俺のことが…嫌いだったのか?だったらいっそ、殴って喧嘩でもしてくれたほうが今よりも何倍も救われるのに。こんなのは卑怯だ。

「お、俺を嫌いなら、嫌いって言ってくれよ。こんなのは嫌だ…うぅ…どうせ卒業していなくなるんだ…こんなことしなくたって…」

 しゃくりあげながら首を振る俺に、岳は、なぜか耳元に唇を寄せたままで動こうとしなかった。俺は怯えていたし、岳のちょっとした動きにだってビクビクしていたから、その些細な変化に気付かなかったんだ。小刻みに震えて、岳が怒り出したんじゃないかって、それに対してもビクついていた。でも。

「嫌いだって!?…ったく、救いようのないバカだな、あんたは。さっきから何を聞いてるワケ?なんだってこのオレが嫌いなあんたのケツマンとマン●に執着してるってんだよ。オレはそんな変態じゃないって」

 小刻みに震えていたのは怒ってるってワケではなくて、笑っていたんだ。岳は声を立てて笑うと、ズボンを膝まで下ろされて無防備に尻を晒す俺に圧し掛かりながら、前に萎えたままでぶら下がっている陰茎を握ってきた。

「ひぁ…ッ!?」

 ビクッとして身体を竦ませると、岳はクスクスと笑いながら握った陰茎を丹念に扱き出して、微かに潤んでいる女性器に唐突に熱く猛った陰茎を擦り付けてきた。

「ホントに女があるんだな。話だけだと信じられなかったけど…あんた、男性器の方の機能は殆どしてなくて、無精子なんだって?だから、オナッても自分の精液で受精することはないんだってな。てことは、ココを弄りながら女を弄ったりしてたワケ?」

 クックッ…と咽喉で笑いながら、岳は俺の陰茎を弄びながら女性器に這わせた雄をグニッと押し付けてきた。しっとりと濡れていた女の部分は、その刺激で岳を受け入れようと愛液を漏らして雄を包み込んでいる。そんな浅ましい行為に、正直慣れていない俺は、それが恥ずかしくて恥ずかしくて唇を噛み締めて両目を閉じているしかなかった。

「ん?けっこう、濡れてないか?」

 そう言われて、俺は多分、耳まで赤くなっていたと思う。
 そう、俺は濡れている。だって、俺は別に、岳を嫌いじゃないから…アイツが男らしく笑うと、俺の女の部分はそれに惹かれていた。男の俺が岳を可愛い弟だって認識していても、女の俺が岳を1人の男だと認めてしまっていたら、女の部分は岳を受け入れようとしてもおかしくはないだろう。
 でも!俺はこの18年間、男として立派に生きてきたんだ!たとえ半身が認めたとしても、半身の俺がそれを否定したら終了なんだ。俺は岳には、岳にだけは抱かれたくない!

「男と女か…両方あるってのはどんな気分なんだ?どっちの快感も味わえるワケなんだろ。羨ましいとは思わないけど、オレとしても得した気分にはなれるよな」

 冷たい台詞をズバリと言って、岳は俺をその気にさせようと亀頭の部分を揉み解すようにして尿道口に爪を立てると、ビクンッと身体を震わせて唇を噛み締める俺の、無防備になっていた尻に唐突に陰茎を突き入れてきたんだ!

「…ッ!!」

 声にならない悲鳴を上げて仰け反ると、岳のヤツも予想していなかった俺の反発に眉を寄せて顔を顰めているようだった。でも、その時の俺はそんなことにまで気を使っている余裕もなくて…つーか、あ、当たり前だ、そんな突然、なんの前触れもなく、ましてや潤ってもいない、本来出すべき器官に硬い灼熱の棍棒を捻じ込まれたんだ。俺じゃなくても苦痛の絶叫を上げただろうと思う。
 声は咽喉の奥に引っかかって奇妙な感じで拉げると、咽喉を潰した蛙みたいなうめき声しか出せなかった。全身にビッシリと嫌な汗が浮かび上がって、縋り付いていたタンクから指が滑って額を強かに強打してしまう。でも、その額で身体を支えていないと崩れ落ちてしまいそうで、括約筋は岳の陰茎を捻じ切るような力強さで縛り付けたみたいだった。

「…ッ!あんた、バカだろ?ちったぁ、緩めないと進めないよ」

 バカはお前だ!
 ゆ、緩められたらとっくの昔にそうしてるッ!!

「が…岳、お願いだから、ちょ、抜いて…くれ…じゃないと、し、死ぬ…」

 ガクガクッと身体を震わせて全身で拒絶している俺に、岳のヤツは諦めたのか、仕方なく身体を引いて悲鳴を上げる肛門からずるりと陰茎を引き抜いてくれた。微かにてろ…っと生温かい何かが内股を伝って、肛門が切れたんだと思った。
 肩で息をしていると、不意に冷たい何かがヌトッと尾てい骨の付け根に落ちて、それは滑るようにして収縮を繰り返す熱を持った蕾に流れていくと、微かにその部分を疼かせた。

「!?」

 ギョッとしたら、岳の少し太くて、でもピアノを弾いたりと繊細な動きを見せる人差し指が滑りに助けられるようにして蕾を穿って入り込んできた。

「やっぱり潤滑剤が必要なんだな。女の場合は自分で潤ってくれるけど、尻は潤わねーもんな」

 グチュグチュッと人差し指をクの字に曲げて、抉じ開けようとするように縦横無尽に動かされると、切れた部分が沁みて疼いても岳はやめてくれようとしなかった。萎えた陰茎にも指先が這わされて、気付いたら俺は、岳が施してくる陰茎の刺激と後孔を穿つ指先が触れる前立腺の辺りへの刺激にビクンッと身体を震わせていた。

「……ぅ、…ッ、……ぁ」

 捏ね繰り回されて、いいように弄られた陰茎は体温よりも幾分か高い熱を帯びていて、腰の動きを岳の指の動きにあわせて揺らめかせていることに、我に返った瞬間にそれに気付くと恥ずかしくて俯いてしまった。岳はその姿が可笑しかったのか、咽喉の奥でくっくっ…と、あのちょっと特徴のある笑い方をして、さらに指を奥に進めて前立腺の辺りの、こりっとしたシコリのような部分を指先の腹で押し上げた。そうしたら、陰茎が固さを増して、俺は小さく喘いで首を左右に振っていた。
 ネトッとしていたモノは岳の指が腸壁を擦る摩擦に温もって潤いを増したのか、何時の間にか後孔には指が2本に増えて押し開くような動きをしても、先ほどのような痛みは起こらなかった。それどころか、ねだるように絡み付いて収縮を繰り返すと、指を突き入れる動きにあわせるようにして尻が微かに浮いていた。

「イイ感じになったきたみたいだな。まあ、後ろぐらいは血を見ないですむようにしないとね」

 『血』と聞いてギクッとしたけど、首を捻って見た先には、少し腫れて熱を持つ蕾から引き抜いた指で自らの陰茎を扱いている岳の姿があって、俺はそれを挿れられるのかと観念して俯いた。尿道口に人差し指の爪を食い込ませるようにして、親指と中指の腹で亀頭の括れを揉み解すようにされてしまうと、それまで考えていたことが真っ白になっちまうような快感に脳みそがスパークしそうになる。
 岳は、最初から俺を犯そうと思ってこの人気もない公園に呼び出したのか…とか、ローションまでご丁寧に用意していたってことは、話し合いなんか端から考えてもいなかったのか…とか、そんなどうでもいいことは、やっぱりどうでもいいことなのか、綺麗さっぱりと俺の脳みそから剥離されてしまった。
 わざとらしく陰茎の先で尻の割れ目を擦り上げた岳の仕種に、俺は唇を噛み締めて耐えていた。カリの部分が蕾の襞に引っ掛かったりして、奇妙な快感を呼び起こしては、俺の腰を淫らに揺らめかせて岳のヤツを喜ばせたりする。
 俺は…何がしたいんだろう?
 クソッ!こうなったらもう、早いところ突っ込んでくれたらいいのに。そうしたら岳も、それで2発目なワケだから、俺に飽いてアッチまでは犯したりしないかもしれない…
 そんな、浅はかな考え事をしている間に、陰茎がツプッ…と後孔に挿入された。

「…ッ、あッ!」

 でも、それはスムーズに挿入されたワケではなくて、一旦飲み込んだものの、亀頭の一番太い部分でちょっと引っ掛かって、岳は焦れたように腰を前後に揺するようにして小刻みに陰茎を前に押し進めたんだ。
 ハアハア…と、男2人分の荒い息が狭い個室に響き渡って、強烈なアンモニア臭に麻痺したおかげで匂いに気を取られない分、周囲の気配が凄く気になっていた。たった一つある小さな窓から覗く月が、そろそろ夜を迎えることをポッカリと浮かんで教えていた。
 こんな場所で、4歳も年下の、ましてや中学生で、それまで弟のようだと可愛がってきた幼馴染みに犯されるなんて夢にも思っていなかった。
 何時の間にか成長していた岳は、大きくて太い陰茎で、擦り上げるようにして排泄にしか使ったことのない後孔を貫いて少し息をついている。
 一番太い先端部分のカリ首を突っ込まれると、腸壁の抵抗に俺は低く呻いて、吐き気がして眉を寄せた。

「…ッあ、……ぁう!…ん、……ッ、が、……岳…」

 涙目で懇願するように振り返ろうとすると、岳はなぜか俺の首を掴んでタンクに押さえつけると、無理に腰を押し進めて、それまで弄んでいた陰茎から手を離すと圧し掛かるようにして俺の背中に上体を預けてきた。岳の下半身が俺の尻にぴたりと密着して、幾度か落ち着けるように腰を揺らめかした後、満足したようにその腕が首筋から離れていった。

「全部、入ったよ。凄いな、光太郎のケツマン。思った以上に熱くて…よく締まるし。泣き顔もサイコー」

 はあ…と息をついて、岳は少し引き抜いた陰茎をグイッと突き入れて俺を喘がせると、今度は満足したように笑ったんだ。

「気持ちいいんだろ?ホントのところは。嫌よ嫌よも好きのうち…か。ところでどお?バージン犯られるってのは。これが終わったらホントのロストバージンになるワケだけど、心の準備としてはOKってカンジ?」

 咥え込むことで必死の俺はそんな台詞に気を留めることもできなくて、岳の陰茎の先端がシコリの部分をグイッと押し上げる刺激に首を左右に振って、その奇妙で強烈な快感から逃げ出そうとして夢中でもがいていた。
 前立腺を集中的に攻撃するように抜き差しされて、のっぴきならないところまで追い詰められて、俺はバカみたいに開けっ放しの口許から唾液を垂れ流していた。そんな俺を、もう、何がなんでも満足しきっている岳のヤツは心ゆくまで視姦すると、不意に腸壁の弾力を楽しむ余裕も忘れたかのように激しい勢いで抜き差しを始めやがったんだ!

「…ん!……ぁ、…う、……ひぁ!…ぁ、……は、ぅあ!…ッ、……あぁ…」

 腫れぼったく熱を持った粘膜が擦れて快感を脳天に叩きつけると、前立腺を突き破るような突き上げに悲鳴のような声を上げる俺を押さえつけて、岳のヤツはグイグイッと腰を突き動かして快楽を追っているようだ。汚らしいタンクに何度目かのキスをしたとき、俺は我慢できずに喘ぎながらビクンッと身体を震わせていた。緊張したように身体を強張らせて、それから痙攣するように小刻みに身体を震わせながら俺が吐精すると、後孔がギュッと強張るように収縮して括約筋が岳を締め付けた。その締め付けを楽しむように腰を前後させていた岳は、それから勢いよく俺の体内に精液を吐き出したんだ。あまりの勢いを受け止めた俺がひくんっと身体を震わせて、ヒクヒクと後孔を収縮させると、岳はその余韻を味わうように小刻みに腰を動かしていたが腰骨を押し上げるようにして陰茎をずるりと引き抜いた。便座の上で脱力してタンクに凭れるように額を押し付けた俺の、ヒクついている後孔はまだ岳を咥え込んでいるつもりだったのか、暫く閉じることも忘れているようにとろ…っと体内に吐き出された白濁を便座の蓋に零していた。
 ハァハァ…と肩で息をして呼吸を整えていると、いきなり顎を掴むようにしてグイッと身体の向きを無理矢理変えられて、俺は痛みに眉を寄せて岳を見た。こんな狭い場所で無理はしてくれるな…と口を開きかけたら、頬にグイッと陰茎の先端を押し付けられてギョッとした。

「舐めて綺麗にしなよ。あんたのケツマンで汚れたんだよね。コレでマン●に突っ込んで病気とかになられたら困るし」

 ガツンッと脳天をハンマーか何かで殴られたぐらいの衝撃的な台詞に、俺は眩暈を覚えながら、それでも抵抗したところで頬を叩かれるだけだと学習していたから、震える瞼を閉じて岳の陰茎に唇を寄せたんだ。

「ふーん、素直だな。あんたもやっぱりその辺のこと心配してるってワケだ」

 クスクスと笑って、岳が素直な俺の頭を撫でながらそんなことを言うから、俺は今更ながらまた泣きたくなっていた。精液とか汚物とか、確かに汚れた陰茎に舌を伸ばして舐めて清める俺の姿が、この、チビの頃から可愛がってきた弟分にはどんな風に映っているんだろう?そんなことを考えていたら、涙が頬を伝い落ちていた。

「泣くほどムカツクって?怒ってもいいよ、いまさらだ。別に怖くもねーしな」

 頬に零れる涙を掬い取って、指先を濡らすソレを舐めながら、岳は凶悪なツラをして俺を見下ろしてきた。上目遣いに睨みつけながら、その胡乱な雰囲気を孕んだ双眸を見返してやると、狙った獲物は逃がさない、鋭い爪で引き裂いて、内臓を引き摺り出したら骨までしゃぶり尽くしてやる…野生の肉食獣のような獰猛さで、俺を震い上がらせた岳。俺はきっと、岳に負けるんじゃない。
 …『女である俺』に負けるんだ。
 諦めたように双眸を閉じると、達くまでは舐めさせる気はなかったのか、ある程度綺麗にしたら岳は自分から陰茎を引き抜いた。双眸を閉じていた俺はそれに気がつかなくて、口腔から抜け出した陰茎を追うように伸びた舌には唾液が名残のように糸を引いていた。

「えっちぃ顔しちゃって…ドキドキするね。可愛くってさ、滅茶苦茶にしたくなる。こう言うの、嗜虐心を煽るって言うんだぜ?光太郎は罪なヤツだよな」

 クスクスと、嬉しそうに笑う。
 俺は絶望したように岳を見上げた。
 相容れない俺たちは、食い違う思いに翻弄されて、きっと、冒してはいけない禁断の境界線を踏み越えてしまうんだろう。
 岳は、さてと…と呟いて、俺をまたしてもタンクの方に向けようとした。

「ちょ、待て、岳!」

 でも俺は、今度はそう簡単には言うことを聞いてやるもんかと、力の限りで抵抗しながら岳を睨みつけてやった。

「お前、ちょっと冷静になって考えてみろ!」

「オレはいつだって冷静だよ」

 シレッと言い切る岳に、その通りだけど、俺は必死で食い下がったんだ。

「お前はまだ中学生なんだぞ!?俺がに、…妊娠するってことは、お前は中学生で親父になるってことで…ああ!クソッ!責任とかそう言うことはどうでもいいんだ!…お前、まだ若いんだ。他にもっとイイ奴とか現れたら…」

「何、親父臭いこと言ってるワケ?光太郎以外はいらないって言ってるでしょーが」

 鼻先で笑って、岳は呆気に取られる俺を引き寄せて、唐突にキスしてきたんだ。

「んぅ!」

 舌先が触れ合うようなキスから、段々と深く唾液が交じり合う濃厚な口付けに変わって、キスなんて岳ほどには女とも付き合ったことのない俺は、ただ促されるままに舌を絡めているので精一杯だった。そのせいで、息をすることを忘れていたらしい。
 岳が言うように馬鹿な俺は肩で荒く息をしながら、酷く咽て、驚いた岳の肩口に額を押し付けながら酸欠の金魚か何かのようにパクパクと新鮮な空気を求めて口を開いていた。

「オレを心配する前に、自分の身の上を心配したらどうなんだ?高3…いや、もうすぐ社会人か。社会人1年生でもうママになるんだぜ」

 酸欠状態で縋るようにして抱きつく俺の頭に頬を摺り寄せながら、岳はニヤけた調子の声でそう言って、それから抱き起こすように俺の腰を浮かせたんだ。

「あ…ダメ…だッ!」

 ハッとした時には一瞬遅くて、その時を待ち侘びたように、絶倫野郎の岳の逸物は既に先走りを零しながら、ねっとりと愛液を漏らす女性器に陰茎の先端を押し付けてきたんだ。

「ナニがだめ?言ってる意味が判んないよ」

 クスッと笑って、さらに深い部分まで捻じ込もうとする岳の、その背中を思い切り叩いたり爪で引っ掻いたりしても眉を寄せるぐらいで別に怒ったりはせずに、そろそろと忍び込ませようとしていた。だがすぐにそれにも焦れて、無理矢理捻じ込み始めたから大変なのは俺だった。
 まだ女としては未熟らしいその器官は、突然の硬くてグロイ逸物の進入に悲鳴を上げて、受け入れようと努力するように愛液を溢れさせていた。粘るそれが潤滑剤になったのか、まだ入り口付近で右往左往している陰茎の進入を助け、そのくせ、進入を拒むように収縮を繰り返す器官は許しを請うように閉じようとして無理矢理抉じ開けられた。悲鳴が、咽喉の奥に引っかかって奇妙な呻き声しか出せなかった。

「…ひぐッ、……ぐぅ!……ぅ~ッ!!」

 痛烈な痛みに唇を噛み締めて、もう岳を殴るとか引っ掻くとか言う芸当はできなくなっていた俺は、息も絶え絶えにその苦痛をもたらす張本人である目の前の陵辱者に縋るように抱きつくしかなかったんだ。
 ただ、痛みを堪えるために立てた爪が、岳のシャツ越しの背中に鋭い痕を残したことを、後にヤツは、ちょっと嬉しそうにフフンッと胸を張ったりして喜んだ。
 だが現実は未熟な子宮に中学生にしては立派な陰茎をグイグイと押し込めるようにして突っ込んでくる岳の、その座位のような体位にそれでなくてもセックスをしたことのない俺の身体が悲鳴をあげる。

「……ッ!…ぅ、……あ、アァ……、や、嫌だ…ッ…い、痛えぇぇッ!!」

 やたらめたら突っ込んでは定位置を探していた岳は、不意に一瞬動きを止めて、それからさらに奥を目指すようにして嫌な汗でジットリと濡れている俺の身体を抱き締めながら、身体をもっと交じわらせようとでもするように密着させてきた。
 その瞬間、胎内の奥深い部分で何か、繊細で壊れてしまいそうな硝子細工が弾けたような、実際にはそんな音はしなかったかもしれないのに、奇妙な視覚を伴うような音が違和感として胎内に響いた気がしたんだ。
 岳の陰茎が突き破ったその辺りから、不意に溶岩か何かのような熱さを持った粘り気を帯びた液体が洩れ始めると、大切にしてきた何かが、儚い音を立てて崩れてしまったような…その奇妙な焦燥感に一瞬だけど痛みを忘れた俺は、岳から身体を離すようにして恐る恐る下腹部を見てしまった。

「…」

 内部から伝い落ちたその流れは、熱を持って俺の内股を濡らしていた。
 岳にもソレはすぐに判ったらしく、上気した頬に汗の雫を零しながら、軽い尻上がりな口笛を吹いて具合を確かめるように腰を揺らめかしやがったんだ。

「やっぱ処女だったな。破瓜の血なんてオレ、初めて見たよ。犯った女ってみんなヤリマンでさ、ガバガバなのね。でもさすが『近所のお兄さん』、なんでも教えてくれてありがとう」

 おどけたように言われて、でも、俺はそれに傷付いたんだろうか?それとも、失ってしまったものの重要さが、今更ながら圧し掛かってきて怖いだけなのか…ただ、無性に泣きたくて、泣いてしまっていた。

「なんだよ、泣くこたねーだろ?オレは、最高に気持ちいいのに…」

 お前が気持ちよくてもこっちは死ぬほど辛いんだ!
 それでなくてもケツを犯されたばっかりで、まだジーンと沁みるように痛んでるってのに、今度は女の方なんだぞ!?どうかしてるって叫びたいよ。
 しかも、辺りはアンモニア臭が漂う便所の個室だし、こんなところで純潔を失って、ここで身篭ってしまうだろう子供が真剣に可哀相な気になってきた。

「…が、岳…ッ、……願い…だから、…ッ、……う、…外に、……外に出してくれ…」

 嘆願だったと思う。
 コンドームでも付けてりゃ中出しされても諦めるしかないけど、今はダメだ。俺はきっと、女の遺伝子の方がなぜか発達しているから、強い意志を持っているこの並木岳の子供を残そうと腹に宿すだろう。そんなの、岳や俺が良くても、子供が可哀相だ。
 尻に放たれた白濁が、岳の動きに合わせるようにしてたらたらと垂れ落ちては真っ赤な鮮血と交じり合うようにして便座の蓋を汚していた。その体液がたまに岳の腿に飛んだりして、それがニチャニチャと厭らしい音を立てている。

「バーカ!ホント、なに考えてるんだよ?子供作ってるんでしょ?妊娠しなかったら意味ないじゃん」

「…バ!…ッ、……ああ!!…ぃ、…ヒィ!」

 オブラートで灼熱に焼かれた鉄を包み込んでいるような先端が、破瓜されたばかりの胎内を思うさま蹂躙するのは気持ちのいいもんじゃなくて、でも岳は恍惚とした顔をして俺の締まりを堪能しているようだった。
 それが悔しくて、俺は痛みに霞む目で岳の肩を見つけると、そこに口付けるようにして噛み付いてやった。

「…ッ!」

 俺の痛みはそんなモンじゃないんだぞ!もっと大事なモノを失って…ああ、子供を作るときってのは、女は大事なモノを失って、さらに大切なモノを手に入れるんだな。
 それは凄く荘厳で神秘的な行為のはずなのに…うう、俺ときたら、やっぱ両性具有という禁忌を冒している罪なのか、こんなところで無理矢理犯されてその大事なモノを失って、可哀相な子供を作ろうとしてるなんて…

「…ぁうッ!」

 激しい突きをくれられて、俺は悲鳴に近い声を上げていた。
 突き解すように腰を揺すって激しく動く岳の、その動きにはどうしても追いつけなくて…そのくせ、岳の尻上がりのふざけた口笛にビクッとしてギュッと閉じていた双眸を押し開いていた。

「なんだ、感じ出したんじゃん。気持ちよくなった?」

 そんなはずはない!
 叫びたくて、でも、岳と俺の腹の間で擦れている陰茎は確かに熱を持ってガチガチに筋だっている。よく見りゃ快感に先走りの雫まで零していて…精神的な場所で感じる女の部分はこんなに悲鳴を上げてるってのに、本能と直感で感じる男の部分は男を受け入れた女性器のヌメリにあわせるように屹立している。感じているのか?こんな状況下で!?
 …俺、確かマゾじゃないはずだけど…
 そんな馬鹿らしいことを考えながら痛みをやり過ごそうとする俺の陰茎を、岳が興味深そうに握りやがったから、ギクッとしてヤツの顔を見上げてしまった。
 上気して興奮している濡れた双眸の、匂うように雄を感じさせる岳の鋭い視線に射抜かれてビクつきながらも、俺は広げさせられた腿を必死で閉じようと今更ながら画策したがもう後の祭りだった。

「女を犯されながらチン●を弄られたら…どんな感じ?400字詰め原稿用紙2枚分ぐらいで説明してよ」

 興奮したように上ずる語尾に、半分以上嫌気がさして涙ぐんで岳を睨むと、ヤツは殊の外あっさりと『冗談だよ』と呟いて鼻先にキスしてきた。そのくせ、ちゃっかり掴んでいる陰茎には悪戯を嗾けてくる辺り…嫌なヤツだと思うよ。
 でも双方を弄られていると、さすがに頑固な女の部分も蕩けたように受け入れる方を選んだらしく、頭の中がボウッとしてきて、痛みよりも違う何かが生まれてきた。
 たぶん、快感だと思う。
 下腹部と性器が蕩けるように脳みそも崩れ始めて、思考回路もままならない。
 子供のこと、ちゃんと岳に説明しないと拙いってのに…俺は惚けたみたいに快楽を追うことに専念してしまった。…痛いのはもう、嫌なんだ。
 岳の背中に限界まで広げさせられた足を絡めて、首には両腕を回してしがみ付くように抱きつくと、岳は俺の身体を支えるようにして抱え直すと挿入を深めてきた。ゴツゴツした先端が胎内で擦れるような感触は痺れるような快感を呼び起こしたし、たまに忘れたように鮮烈な痛みが襲ってきて、それがまた俺を興奮させた。痛いし、気持ちがいい。
 泣きながら、もうどっちの感情に犯されてるのか判らなくなった。
 岳の荒い息に自分のソレが重なると、どこまでも深く落ちていくような気がして、俺は必死でしがみ付いていた。

「好きだよ…なんて、今更だな」

 呟くような岳の声がよく聞き取れなくて、俺は泣きながら首を左右に振って溜め息をつく。岳の陰茎が一瞬胎内で膨れ上がったような錯覚がして、詰めた息を吐き出すように白濁としているだろう体液が奔流のように注ぎ込まれたんだ。

「…ッ、……ぅあ、……ぁ、…い…ッ!」

 土石流かと思うような激しくて熱い流れが子宮を叩きつけ、その熱は俺にダイレクトな衝撃を与えるには充分だった。愛液と混ざり合ったソレが、とろり…っと岳と俺の素肌を汚して零れたとき、とんでもないことをしてしまったと重罪に後悔してしまった。
 岳が達くのとほぼ同時に俺も果てていたワケだから、まざまざと女性器を濡らして漏れる体液を感じることができてしまう。
 岳は荒く息をつきながら俺をギュッと抱き締めていたけど、便座に2人して腰掛けるように座ったままで互いに向きあっている格好だったからか、まだ繋がったままで余韻にヒクヒクしている自分の性器と収縮を時折繰り返す俺の女性器を見下ろして、何を思ったのか突然その部分に触りやがったんだ!

「…ッあ!」

「…すげ、マジで、スゲーよ。ここヒクヒクしてる。オレの咥えて、オレの精液を零しながら…胸も平らだけど思ったよりも柔らかいし。女なんだな、光太郎…」

 感動したように呟いて、クチュクチュと粘液を擦りつけるように女陰に塗り込める岳の指先を、俺は慌てて制しながら軽く睨んでやった。

「も、もうやめろよ!早く、早く抜いてくれ…」

「妊娠したかな?」

 不意にギクッとするようなことをサラッと呟いて、岳は抜く気がないように陰茎を具合よく収め直してから息をついて、ニッと底意地が悪そうな顔で笑って俺の顔を覗き込んできた。

「もう一発ぐらい犯っとかないと、まだ安心できねーんだけど…ま、光太郎がオレの嫁さんになるって約束するなら抜いてやってもいいよ」

「…お前が18になったら考えてやるよ。それまでは成長…ッん!」

 グリッと先端を動かされて、俺は突然襲ってきた快楽に怯えて慌てて岳にしがみ付いた。

「そんな答えを待ってるワケじゃないっての。男は18からしか結婚できない…なんて法律なんかクソ喰らえだ」

「…俺はお前のモノに…」

 何を言ってもダメなのかと諦めて、溜め息のように呟いたら…

「オレのモノに?」

 岳は期待にキラキラと双眸を輝かせて、ワクワクしているように俺の次の言葉を待っている。そう言うところが子供っぽくて…俺は好きなんだよ。

「なるつもりはない」

 断言すると、それまでキラキラしていた子供のような輝きは一瞬でナリを潜め、あの凶暴で獰猛そうな、俺を犯すために公衆便所に引き摺り込んだあの時の双眸に取って代わった目付きで覗き込んできたんだ。

「なんだと?」

「何をされたって、これから何度犯されてもお前のモノになる気はない、って言ったんだよ」

 キッパリ言い切ると、一瞬、躊躇うように眉を寄せて切なそうな表情をした岳は、それでもすぐに負けん気の強いあの凶悪な双眸をして俺の胎内から荒々しく陰茎を引き抜いて立ち上がった。
 狭い個室の便座に腰が抜けたようにへたり込んでいる俺を冷やかに見下ろしながら、軽く身繕いをする岳は鼻先でフンッと笑ったんだ。

「別にどうだっていいよ、そんなこと。結局、オレはあんたの初物を頂けたらそれでいいワケだし。股から血ぃ流してさ、いい格好じゃん。腰抜けてんだろ?帰れないならこのままココにいればいい。物好きが口コミで何人でも来てくれるよ」

 クスクスと残酷な子供の浮かべる悪魔みたいな笑いに、俺はゾッとした。
 そうだ、確かに岳の言うように俺は腰が抜けて暫く立ち上がれない、こんなところを物好きな変態が見れば犯されるかもしれない…口コミ、と言った岳の台詞は、そのままココに俺がいるってことをコイツが吹聴するって言ってるようなモンだ。

「が、岳…」

 それはやめてくれ、と伸ばしかけた手は軽く払われて、よろけたところをグイッと顎を掴まれて強引に上向かされてしまった。

「頑張って逃げ惑えよ」

 ククッと笑った岳に突き放すように突き飛ばされて、俺は馬鹿みたいに下半身丸出しでタンクにぶつかってしまう。そんな俺を一瞥しただけで、岳は何も言わずに鍵をかけないままで出て行ってしまった。
 ああ、どうしよう…
 岳だけなら、アイツの子供を妊娠したんだったら…俺がなんとかして育てる気にもなれる。でも、他のヤツは…嫌だ!絶対に嫌だ!!
 立ち上がって逃げ出そうにもやっぱり腰が抜けていて、へなへな…っと便座の蓋の上にへたり込んでしまった。ついでのように下腹部がズキッと痛んで、俺はボウッと霞む頭を左右に振ってアンモニア臭が漂う汚い便所の小さな窓から無情に輝きを落とす冷たい月を見上げていた。
 岳が好きだ。
 アイツが好きだ。
 …でも俺は、こんな俺は…
 岳と結婚なんてできるはずがない。
 誰かを好きになる場合、いつだって何某かの条件は必要になってくるわけで…
 その条件すらもクリアしていない俺が、前途ある岳を愛していいはずがない。
 いっそ殺されるなら、その方が楽かもしれないな…
 ずいぶんと待ち焦がれていた深い闇が訪れて、俺は何時の間にか意識を失っていた。

■ □ ■ □ ■

 ふと、温もりを感じて目が覚めた。
 誰かに犯される!…恐怖にビクッとして飛び起きたつもりだったけど、身体中が痛くて、気持ちしか起き上がれなかったようだ。
 ビクビクしながらよくよく辺りを見渡してみたら、薄暗いそこは見慣れた部屋で、ちょっと染みがある天井も見慣れた本棚も…ここ、俺の部屋だ。
 ホッとしたのも束の間で、ハッと我に返ってタオルケットの下にある自分の身形を見てパジャマ姿であることを確認すると、そこで漸く本当に詰めていた息を吐き出した。
 ゆ、夢だったのかな…?
 まさか、そんなはずはないと下半身の痛みが如実に物語っているし、俺自身、まだ幾分か胎内に残っている残滓を感じて吐き気がした。
 岳に犯された…その事実は救いようがない真実で。
 タオルケットをギュッと握り締めると涙が出そうになって、俺は唇を噛んでその感情を押し留めた。
 どこをどう歩いて帰ってきたのか、そんな俺の姿を見た母さんがどう思ったのか…考えればキリがないことだったけど、何もせずに鬱々と寝てるワケにもいかなくて、身体が落ち着くのを待って起き上がることにした。
 股間部に違和感があって、歩き方がぎこちない蟹股だったとしても気に留める気にもなれなくて、仕方なく階下に下りていくと、柱に掛かった時計を見たらまだ9時を回ったばかりで、それほど長く寝ていたわけではないと言うことが判った。リビングに行ったら父さんが新聞を読んでいて、母さんはお茶の用意をしていた。

「…っと」

 どう切り出したらいいんだろうと悩んでいたら、母さんがそんな俺に気付いて声をかけてくれたんだ。

「光太郎!…寝てなくて大丈夫?」

「ああ、目が覚めたのか。貧血だってな、大丈夫か?」

 新聞を読んでいた父さんもそんな俺に気付いたのか、気遣うように眉を寄せて新聞を片付けた。
 この人たちはこんな風に、両性具有という稀有な体質に生まれた俺を心配して、それから放っておいてくれた。恨んだりなんかしてないけど、たまに『ごめんね』と謝る母さんの涙はさすがにちょっと辛い。
 貧血?…と首を傾げながらも頷いた俺に、母さんはホッとしたように人数分のお茶の準備をしていそいそとソファーに腰掛けた。

「お隣の岳ちゃんがね、公園で貧血を起こしたからって言っておんぶして連れてきてくれたのよ。あの子、ちょっと見ない間に大きくなって男らしくなったわね」

 母さんが、弟分のように俺が岳を可愛がっているのを知っているから、ニコニコ笑って説明してくれた。でもその時の俺は、アイツの名前が出てきただけでもビクッとして身体を強張らせてしまったんだ。

「岳が…そう、それでアイツ、何か言ってた?」

 居心地が悪くて居住まいを正しながら、できるだけ気のない素振りで呟く俺に、母さんは父さんと目線を合わせて…拙い。この合図は、何か悪いことの前触れだ。俺が両性具有について尋ねたときも、この人たちは2人で目線を合わせて人生最大級の引導を渡してくれたんだ。
 ハラハラして、次の言葉を待っていたら…

「岳ちゃんがね」

 口火を切ったのは母さん。

「まだ中学生なのに…光太郎、あなた学校を卒業してから地方に就職するじゃない?」

「…ああ」

 掠れた声で頷いたら、もう一度困ったようにチラッと父さんに目線を送った母さんの言葉尻を受けて、今度は父さんが口を開いた。

「岳くんがね、お前について行きたいと言い出したんだよ。あちらのお父さんも近々再婚なさるそうだし、今度のように誰もいないような公園でお前が1人で倒れるのが心配なんだと言っていてね。何よりも、岳くんのお父さんも岳くんを1人にするよりは、お前に預けた方がいいと仰っているんだ」

 咽喉がカラカラに渇いて、俺は何度も舌で唇を濡らしながら、誰もいない公園に俺が1人でいたことよりも岳が俺について来ると言う話に重点を置く辺り、なんとなく両親の魂胆が見えたような気がした。
 両親も…そして岳の親父さんも、実は俺と岳をくっつけたいのかもしれない。
 1つ屋根の下にいれば、嫌でもいつか俺が両性具有だと岳のヤツが気付く…いや、知っていることを端から両親は知ってたんじゃないだろうか?それで、そうこうしてる間に俺たちがくっつけば、この人たちは一安心ってワケなんじゃないだろうか…そこまで考えて、俺は眩暈がした。
 結局、何も知らなくてボサッとしていたのは俺だけで、岳も岳の親父さんも両親も、端からこの計画を立てていたんだ。
 まさか岳が俺を犯したことまでは知らないだろう2人は、俺が就職で地方に行くと言ったとき、一度は困惑して反対したけれど、何時の間にか賛成してくれていた。それはきっと、あの小狡賢い岳が裏で手を回したんだろう。

『地方の方が、コウタロ兄ちゃんを手篭めにしやすい』とかなんとか、そこまで直球ではなかったにしろ、そんな感じの言葉で両親を誑かしたんだろう。
 俺は小さな溜め息をついて、薄いレースのカーテン越しに見える隣家の灯火を見つめていた。
 腹には受精した卵子が眠っているかもしれない…なんとか両親に内密で、父さんの知り合いが院長を務めている俺の主治医のいる病院に行って、先生に調べてもらわないと。
 悩み事は沢山あるし、このまま妊娠していれば地方への就職は断念せざるを得ないだろう。もし妊娠していなくても、地方に行けば岳がついてくる…嫌だと言っても、両親を味方につけたアイツは強い。
 にも関わらず、アイツが俺を抱いたのは…きっと、もし自分の父親の気が変わって、止められた時のことも想定していたんだろう。賢いアイツのことだから、離れた先で悪い虫が付く前に、自分の手で強烈な印象を、たとえば俺が岳を怖がって誰にも近寄らないようにするだとか…これには離れなくても充分な理由があるし、或いはセックスに恐怖を覚えるようにとか…そんな理由でアイツはアイツなりに中学生と言うハンデを消し去ろうとしていたのかもしれない。
 詳しいところまでは岳じゃないから判らないけど…1つ判ることと言えば、それは、岳が強い執念でもって絶対的に俺を手放さないと言うことだ。
 溜め息をついて、腹を擦った。
 心配そうに俺の様子を窺う両親の肩越しに見える隣家の灯火、まだ見ぬ未来を指し示す冷たい星のようなそれを、俺は下腹部に当てた手に力を込めながら暫く無言で見つめていた。

─END─

後編  -あなたのとりこ-

「うは~、ここが北条さんの家なんだ」

 嬉しそうに俺の後をついて来ていた虎丸は、ごっちゃごっちゃに散らかっている俺の部屋を見渡しながら、その人一人ぐらい平気で射殺せるんじゃないかと思う鋭い双眸をキラキラさせて室内を見渡してやがる。

「散らかってるからな。座れるようにそこらヘン片付けとけよ」

「あ、うん。判った」

 壁に掛けてあるエプロンを引っ手繰りながら指示すると、虎丸はハッとしたようにして急いでしゃがみ込むとテキパキと片付けを始めたんだ。
 コイツはなんか、こう言うところが敏捷なんだよなぁ。
 ヤレヤレと溜め息をついて、俺は狭いキッチンに入ると適当に夕食の準備を始めたんだ。
 今夜は何を食うかなぁ…そーだ、昨日の残りがあったな。
 ブツブツと献立を考えながら冷蔵庫から卵やら何やら、材料を取り出して下準備に入る頃、ふと、視線を感じてキッチンの入り口を振り返って思わずへたり込みそうになっちまった。

「…虎丸。何してんだ?」

「お!俺の名前を呼んでくれた♪えっへっへー、片付け済んだから手伝おうと思ってさぁ」

 ニコッと笑って見上げてくる虎丸は、どこをどう見たら手伝う体勢なんだと聞き返したいぐらい、しゃがみ込んだ姿勢で壁の向こうからジーッと見てやがったんだ。
 何を考えているんだか…
 溜め息を吐くと、虎丸はヨッと立ち上がって腰を叩きながら俺の傍までいそいそと寄って来た。

「なになに?今夜は何を作るんだ??」

「そーだなー、麻婆豆腐と昨日の残りとサラダでどうだ?」

「うっそ!マジ、うまそー♪」

 嬉しそうに虎丸が笑うと、それに応えるように腹もグーと返事をする。
 見た感じ、24、5歳といったところだが、言動や仕種は子供っぽさが抜け切れていないのか、どこか憎めないところがある。その並のヤンゾーなら裸足で逃げ出すような、凶悪な双眸さえなければどこかで立派なサラリーマンでもやれそうなのに…ニートっつーのもなぁ。
 そうの上、オマケにホモってのもあるから、コイツがこの先、明るい未来を歩めるのかどうか不安で仕方ない。

「…手伝うんじゃないのか?」

 俺がフライパンを片手にやれやれと笑ったら、虎丸はちょっと頬を赤くして、それからはにかむように笑ったんだ。

「うん、手伝うよ」

 鼻歌交じりで豆腐に包丁を入れる虎丸は、楽しそうに料理をしながらまるで大型犬が嬉しくって仕方がないと言いたげに転げまわるようなイメージすら浮いてくるほど、ご機嫌な様子だった。
 包丁で豆腐を切りながら嬉しそうに俺に擦り寄ってくる虎丸の、そのでかい図体を片手で押し遣りながら邪険にあしらう俺のことなんか、今の虎丸にはなんのダメージにもなっていないようだ。

「危ねーな、近寄るな」

「北条さん、冷たいなぁ。こうしてると俺たち、まるで新婚の夫婦みたいだね♪ぜってー、北条さんには裸エプロンしてもらうんだ」

「ブホッ!」

 思わず咳き込んでしまってシンクに片手を付いた俺を、慌てたように虎丸が覗き込んできやがるから、俺は思わずフライパンでその頭を勝ち割ってやろうかと思った。

「なな、何を突然お前は…」

「ええー?だってさっきもさ、こっち見ろこっち見ろ~!ってテレパシー送ったら、北条さん、ちゃんと見てくれたじゃないか。俺たちはもう、相思相愛なんだよ。これはもう、結婚するしかないね♪」

 咳き込む俺の背中を擦りながら、虎丸のヤツは事も無げに平然とそんなことを言いやがるから、開いた口が塞がらない。コイツはいったい、どんな教育を受けてきたんだ。

「…はいはい、もう判ったからこれ持ってあっちに行ってろ」

 レタスを手で千切って、プチトマトを乗っけただけのいたってシンプルなサラダらしきものを手渡しながら追い払うと、素直に受け取った虎丸はそれをジーッと見た後に笑って首を傾げた。

「ツナ缶ない?俺、シーチキン大好きなんだ」

「シーチキン?そう言えば買い置きがあったな…」

 屈み込んでシンク下の扉を開くと、ストックしておいたはずのツナ缶を探してみた。
 確か、この辺に置いていたはずなんだが…

「…北条さんて優しいよね」

「んー?」

 ふと、ポツリと呟いた虎丸の、それまでとは違った雰囲気の声色に俺は気付けなくて、バカみたいに無邪気に喜んでいる犬のようなヤツの為にツナ缶探しに没頭していた。
 それが、いけなかったのか。

「素性も知らない俺をさ、家の中に平気で上げるもんな」

「何言ってんだ。毎日毎日、コンビニに押しかけてきちゃ好きだ好きだ言いやがって!常連さんの間でお前を知らないヤツなんていやしねーよ」

「そっか…へへ、嬉しいな」

 ワントーン落ちている声が少し震えていることに、その時になって漸く気付いた俺が振り返ろうとした時だった。不意に、覆い被さるようにして虎丸が背後から抱き付いてきたんだ。

「北条さんさ、絶対信じてないよね?俺がこんなに、毎晩眠れないほどあなたを愛してるってこと」

「お前なー…ッ」

 ツナ缶探してやってるのに何を言い出すんだと言い掛けたその言葉は、虎丸が首筋に口付けたことで途切れてしまった。
 首筋に口付けながら器用に背後から回した手でシャツのボタンを外そうとする虎丸に、顔を茹でタコよりも真っ赤にした俺は慌てて振り解こうとしたが…なぜか、腕に力が入らない。
 これじゃあ、自慢の柔道の腕前もみせられないじゃないか…
 そんなどうでもいいことを考えているうちに、虎丸の指先はどんどん有り得ない場所まで潜り込んでこようとして、とうとう俺は顔を真っ赤にしたままで言葉で抵抗する他に手段がなくなってしまった。

「や、やめんか!このバカが、俺は男だって何度も言ってるだろうがッ」

「知ってるよ、ずっと見てたし。北条さんは全く気付いてないみたいだったけど、俺、ちゃんとずっと見てたんだ」

「…ッ」

 背後から被さるようにして俺を抱き締めてくる虎丸の体温は、シャツを通していてもダイレクトにその熱さを伝えてくるから、その時になって漸く俺は、虎丸が強ち嘘は言っていないんじゃないかと思うようになっていた。
 恋や愛だなんて、厄介だとかなんだとか、まるで硬派でも気取るように嘯いて過ごしてきたこの28年間、本当は恋だ愛だに怯えていたのかもしれない。
 こんな風に必死にしがみ付くようにして、縋るように愛を囁く虎丸は、その子供染みた仕種とは裏腹に、素直な分だけ大人なのかもしれないなぁ。

「俺、初めて北条さんが叱ってくれた時、頭の上で鐘が鳴ったみたいな、ハンマーで頭を打ん殴られたようなショックを受けてさ。最初はうるせー、このジジーとか思ったんだけど、北条さん凄い必死でさ。こんな猛毒を吸って何が楽しいんだって、自分の身体をもっと大事にしろって…母ちゃんが死んでから、もうずっと誰も言ってくれなかった言葉を、北条さんはすらすら言っちゃったんだよね。その時から俺、もうずっと北条さんしか見ていないんだ」

 一気に捲くし立てた虎丸は、それから震えるような溜め息を一つ零して、真っ赤になって口をパクパクさせていることしかできない俺をそのままギュッと抱き締めてきた。まるで、長いこと欲しくて、やっと手に入れた何か、凄く愛しいものでも抱き締めているような、そんな優しい仕種だった。

「ねえ、北条さん。どうしたら、信じてくれるのかなぁ?俺、どうしたら北条さんと結婚できるのかな」

 震えるように呟いて、この図体のでかいきかん気の強そうなガキは、抑え難い衝動に突き動かされたようにしてそのまま俺の首筋に顔を埋めるようにして口付けてきたんだ!

「…ッ、め、ろ…そんなことして…ッぉまえ!」

 半分以上脱がしたシャツの開いた部分から指先を滑らせて、何もない平らなだけの胸元を辿るようにして触っていたが、ふと、胸にある突起物に気付いたのか、その部分をキュッと抓んできたんだ。

「ッ」

 舐めるように首筋に口付けられるその感触は、長いこと交渉のなかった身体には、ダイレクトな刺激を与えるには充分だった。
 ゾクゾクする背筋を持て余して、声すらも出せずに唇を噛み締めて俯くと、少し息を弾ませた虎丸が耳朶を噛むようにしてポツリと囁いてきた。

「北条さん。今、すげー…エロい顔してるよ」

「!」

 顔を真っ赤にした俺が、いったいどんな顔をしてるかなんてそんなこたどうでもいいんだ。この絶体絶命的なピンチをどう乗り切るかが今後の課題だと思う。
 空いている方の手を滑らせて、ジーンズのベルトを器用に外した虎丸は、そのままチャックまで下げて手を突っ込んでこようとするから、こればっかりは抵抗しないと本当に貞操の危機だぞ。

「や、めろ。やめないと…お前を嫌いになるからな!」

「!」

 不意にビクッとして、虎丸は唐突に悪戯を仕掛けていた手をバッと離したんだ。
 一瞬、こっちがポカンッとなるほどの素早さで、慌てたように身体を離した虎丸は、そのくせ、今にも泣き出しそうな、捨てられた犬のような目付きをして俺をジッと見詰めてきた。

「イヤだ、俺を嫌いにならないでよ」

 震える声で呟く虎丸に、狭いキッチンだってのに、なんで男二人でゴチャゴチャしてなきゃいけないんだと内心で吐き捨てながら俺は、体勢を整えながら振り返ったんだ。

「…お前ってヤツは」

「嫌いにならないでよ!俺、北条さんに嫌われたらどうしていいか判らなくなる…ッ」

 俺の言葉を遮るようにして、虎丸は片手で顔を覆いながら壮絶な目付きをしてキッチンの床を睨みつけたんだ。爆発しそうな感情の波を、いったいどうやって押し殺したらいいのか判らない、まるで駄々を捏ねる子供のような態度が、俺の内に凝り固まっている世間だとか常識だとか言った厄介なものを解きほぐしたのかもしれない。
 こんなさらな感情を剥き出しにするようなヤツが、冗談や遊びなんかで男を、それも年上のおっさんを口説こうなんか思ったりしないんだろう。恋愛ごとの駆け引きもよく判らない、ただただ、真摯で一途な思いだけを判ってくれとぶつけてくる。
 俺が女だったら…そんな馬鹿げた思いが一瞬脳裏に閃いたが、俺はそれを溜め息と一緒に吐き出していた。

「俺なんかを、北条さんは家まで上げてくれて…コンビニでも、ちゃんと婚約者だって言ってくれた。俺のこと、突き放そうとしたら絶対できるのに、でも、北条さんは優しいから付き合ってくれてるんだよね?俺、そう言うことちゃんと判ってたから、このささやかな幸せだけでいいって思ってた。でも、やっぱりダメなんだ!俺、俺は…やっぱりちゃんと、北条さんに好きになってもらいたい」

 努力するから…と、今にも人を食い殺しそうな強烈な双眸を持つ虎丸は、まるで怯えた猫のように身体を丸めて、そのくせ、縋るように俺を見上げてくる。
 そんな目付き、するもんじゃねぇ。
 お前はもっと、自信に溢れたように堂々と笑ってろ。
 それが一番、お前らしい姿じゃないか。
 俺が好きになった虎丸は、そんな死にそうな目付きをしたひ弱な猛獣じゃないだろう?
 気付いていなかっただと?
 毎日、コンビニの前で煙草をふかしながら、何をするでもなくボーッと突っ立てたお前に、この俺が気付かなかったとでも思ってるのか?
 そしてお前の、あの眼差し…

「…やれやれ」

「北条さん!俺は…」

 ビクッとして、俺の口を開かせないようにでもしようとしているのか、虎丸は必死にタイミングを計って口を開いているようだ。
 バカなヤツだ、それじゃあ何も聞けないじゃないか。

「俺を、薔薇色の世界に連れてってくれるんじゃなかったのか?」

「!…北条さん?」

 吃驚したように目を見開いた虎丸は、それでも不安そうに首を傾げてきた。

 何を言い出したんだろう?これは自分に都合のいい、ただの幻聴なのだろうか…とでも思ってるのか、虎丸は不安と微かな期待の入り混じる不思議な目付きをしてジッと見詰めてきた。
 この強い眼差しを、俺が忘れられるわけがない。
 気付いていたからこそ俺は、どんな時でもお前の視線だけは判っていたんだ。

「ったく、物好きもいいところだ。こんなおっさんなんか好きにならなくても、可愛い女の子はたくさんいるのに」

「女なんていらないよ。俺は、北条さんが傍にいてくれたらそれでいいんだ…それだけで良かったはずなのに、俺は」

 愛されたいと願ってしまった。
 言葉にならない思いを溜め息と一緒に呟いた虎丸は、キュッと唇を噛み締めて俺を見詰め続けている。そんな強い激情を、俺はいったい、何時頃から忘れてしまったんだろう。
 こんな風に震えるほど誰かを、俺は愛したことがあっただろうか…

「いいか、虎丸。結婚て言うのはな、お互いの心が寄り添いあって初めて成立するもんなんだぞ」

「…わ、判ってるよ」

 俺の言葉を否定だと受け止めたのか、虎丸は切なそうに俯いた。
 お前は、見かけ以上にバカなヤツなんだな。

「だから、初めはお付き合いするんだろ?」

「え?」

「それからだ!まあ、婚約して結婚するんだろ?まずは付き合ってみないとな」

「北条さん…」

 虎丸は、その時になって漸く、俺が何を言いたいのか気付いたようだった。
 渾身の力を込めて言ったんだぞ?
 さあ、あの自信に満ちたお前らしい顔をして笑うんだ。

「俺と付き合ってくれるの?」

「…そう言わなかったか?」

 俺は…虎丸は何かを呟きそうになって、それから、不意にこれ以上はない極上の笑顔をみせた。
 俺の好きな、あの自信に満ち溢れた男らしい笑顔だ。

「じゃあさぁ、北条さん!キスしていい?」

「グッ!…直球だな、おい」

「ずっと、我慢してたんだぜ。俺、北条さんとキスしたい」

「…ダメだ、っつってもするんだろ?」

 ポリポリと、キッチンの狭苦しい床に腰を下ろしたままで照れ隠しに頭を掻く俺に、虎丸はワクワクしたような顔をして同じように跪いままで頷いた。

「うん、だって俺」

 そうして身を乗り出してきた虎丸の、思った以上に柔らかい唇が少しかさついた俺の口許に押し付けられてくる。

「北条さんの恋人だから」

 嬉しそうに笑って虎丸は、それから深い深い口付けをしてきたんだ。

 煙草を取り上げたあの時から、恋に落ちたのはお前だけじゃないんだぜ。
 とっくの昔に俺はお前の、その眼差しのとりこだったのさ。
 そんなこと、お前には教えてやらないけどな。

おまけ。

  

 後日。

「北条さん!俺、やっぱり正規でバイトするよ。募集してる?」

「へ?ああ、いいけど。ニートはやめたのか?」

 少し伸びてきた前髪を、100円均一で売ってるようなファンシーなゴムで留めた虎丸は、はぁ?とでも言いたそうな顔付きをして首を傾げた。

「俺、高校生だよ。バリバリの17歳!宜しくね♪はい、履歴書」

「!!」

 手渡された履歴書の生年月日を見て俺は、11歳も年下の恋人からニコニコ笑いながら頬にキスされるのだった。
 ああ、それで。
 動作も敏捷なら、仕種も子供っぽかったわけだ。
 目の前がグルグルする。

「あれ?北条さん??大丈夫か!?」

 くらりと眩暈がしたことは言うまでもない。

─END─

前編  -あなたのとりこ-

 一目惚れって言うのは、きっと本当にあるんだと思う。
 たとえそれに全く縁のない俺だったとしても、ある日突然、まるで落雷するように襲い掛かってくるに違いない。
 恋だ愛だってのは、そんな風に凶暴で、ハッキリ言って迷惑以外のなにものでもない。
 いわば交通事故のように偶発的に、1人の人間と1人の人間がすれ違い様に思い切りぶつかるような、そんな確率なのかもしれないが…俺にはよく、判らない。
 ただ、迷惑で厄介なものだと言うこと以外は。

「…は?」

 思わず呆気に取られて聞き返すと、ソイツは小生意気そうな顔付きをしてニコッと笑った。
 笑えば少し子供っぽくなる双眸が、ともすればチャーミングなんて言うのなら、冗談じゃねぇ。
 剃った眉は細く、その下で煌く強い意思を秘めていそうな釣り上がり気味の双眸はいつでも喧嘩を売ってるような鋭さで、外見も見事な今時のヤンゾーってヤツだ。
 大方、ニートだとかしてるんだろう、俺より2、3コぐらい年は下なんだろうがな。
 こんなヤツとは一秒だって一緒にいたくはないのに、なんだって言うんだ。

「なんだと?」

 難聴でも起こしたか、はたまた、ただの空耳だったのか…どちらにせよ、耳に届いた言葉がするりと抜けて、鼓膜までは届かなかった。
 困惑して顎を掻いていると、ソイツはまた、勝気な双眸を細めるようにして笑いやがった。

「だから、俺のお嫁さんになってよ」

「…黙れ」

「はー?なんだと聞いてみたり黙れって言ってみたり、北条さんってばヘンな人だな」

 クスクスと、そのくせ全然気にした風でもないくせに、ソイツは呆れたように笑いながらカチリと音を響かせて、煙草に火をつけた。
 空に吸い込まれるようにして、猛毒の紫煙が立ち昇るのを目線で追うソイツの手から、気付いたら俺は煙草を?ぎ取っていた。
 こんなの吸いやがって!金と健康の無駄遣いだ!…ハッ、そうだった、それどころじゃなかった。
 親の仇でもあるように靴底で煙草を踏み消しながら、唐突に俺は自分の置かれている現状に気付いた。

「…ふふ、北条さんらしいや。煙草、相変わらず嫌いなんだ」

 ゆったりと、人影のない路地裏のビルの壁に凭れかかりながら、ソイツは鼻先で笑うように呟いて俺をジッと見るんだ。

「まあ、騙されたと思って俺と付き合ってみなよ」

 ふざけるなと食って掛かろうとしたその矢先、ソイツは凭れていた上半身を起こすなり、グッと下から俺の顔を覗きこんでニッと笑ったんだ。

「薔薇色の世界に連れてってやるからさ」

 ソイツはまるで小悪魔みたいにニヤッと笑ったが、どんな悪い夢なんだと頬を抓りたくなった俺の行動が言葉通りに伴わないのは、その射竦めるような双眸に、もしかしたら…完全に囚われていたからなのかもしれない。
 全く、冗談じゃないんだが。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「北条さーん!」

 それから毎日のようにソイツは、俺のバイト先に現れては元気よく名前を連呼してくれた。

「ねね、まだバイト上がらないの?」

 ウキウキしたようにしゃがみ込んでレジに頬杖をつきながら覗き込んでくるソイツは、初めて声をかけて来たときの様に、クソ生意気な顔をして笑いやがるから…殴りたくなっても仕方ないよな。

「…あのな、俺はここの雇われ店長なんだよ。上がるのは夜だ」

「へー、夜か。んじゃ、それまでお店手伝ってやるよ」

 ヨッと、まるでおっさんのような掛け声をわざとらしく上げて、ヤツは敏速に立ち上がりながら伸びをして笑うんだ。

「はぁ!?そんなの構わん!いいから、帰れ」

「酷いなー…どうせ、バイトもいないんでしょ?独りじゃつまんねーでしょうし、別に俺、バイト料なんていらないよ」

「そんな問題じゃないだろ?…って、おい!」

 どんな問題だよ、とでも言いたそうに笑ったソイツは、そのくせ俺の言葉など聞いちゃいないんだな。
 勝手にレジの奥に続く部屋に入って行くなり、制服を引っ掴んで戻ってきた。
 その速さと言ったら…追いつけない俺のこの伸ばした手をどうすりゃいいんだ。

「よーし、じゃあ店長さん?まずは店内でも掃除しましょーかね?」

「…なんで、お前」

「なんでって…愛する婚約者が頑張ってるのに、夫になる者がボーッと見てるわけにいかないじゃん」

 思わず、ガックリと項垂れてしまいそうになった俺は、それでも只管落ち込んでいく思考を引き戻しながら、キョトンッとしているソイツの肩を掴んで溜め息を吐いた。

「…あのな、ちょっと頭に春が来てるのはよく判る。でも、これだけは言っておいてやるよ。俺は男でお前も男だ。男同士で結婚なんかできるわけないだろ?学校で習ってこなかったのか??」

「…情報遅れてんね!北条さん。外国には男同士でも結婚できる州があるんだぜ?大丈夫、ちゃんと俺、リサーチ済みだし。なんだ、北条さん。もしかしてそんなこと心配してたの?可愛いなぁ~」

 ニコニコと嬉しそうに笑うソイツの頭を、蒼褪めたままでニッコリ笑いながら打ん殴れたら少しは溜飲も下がるんだろうけど。仕方なく俺は、渇いた笑い声を上げながらソイツの肩をポンポンと叩いてやったのだ。

「は、はははー…そーかそーか、まあそんなこたどうでもいいんだがな。先月、煙草を吸ってるのを見咎めて勝手に取り上げたのは謝る。大方、それが原因なんだろ?」

 この嫌がらせは。

「はー?ああ、うん。あの時かな~、一目惚れしたのは♪」

「ブホッ!」

 思わず吐きそうになって、咽た俺はよろけながらキャッシャーの向こうにある椅子に腰を下ろした。

「…あのなぁ、冗談も大概にしろよ?お前、見た目なかなか男前っつーのにな、そんなバカみたいな冗談ばっか言ってると女の子にモテないぞ」

「はぁ?別に女にモテなくても関係ないし?だって俺、北条さんだけ!見ててくれたら満足だもん♪」

 ニコニコ笑いながらそんなふざけたことを抜かすソイツに、ズキズキするこめかみを押さえながら思い切り溜め息を吐いちまった。

「お前なぁ、だいたいどこで俺の名前を知ったんだ?」

 俺のことを嫁にすると言ってきかないそのふざけた野郎は、一瞬パチクリと目を見開いてから、キョトンッとしたままで俺の胸元を指差したんだ。

「ネームプレート。北条ってちゃんと書いてるじゃん」

「…あ」

 自分の胸元を見て、ああ、これだったのかと一人納得する俺を見ながら、ソイツは不意にケタケタと笑い出したんだ。

「やっぱ、すげーや。北条さんは♪」

「あぁ?」

 ムッとして眉間に皺を寄せて見上げると、唐突にソイツは抱き付いてきやがったんだ!

「なな、何を…ッ!?」

「無敵の可愛いさだもんな♪だから俺、もうメロメロなんだよ」

 嬉しそうに頬にチュッチュッとキスしてきやがるソイツの態度に、一瞬凍りついてしまった俺は愕然としたままで動けずにいたが、唐突にハッと我に返って慌ててソイツの身体を突き飛ばそうとして…ギクッとした。
 そう、思った以上にガッシリとした身体つきのソイツは、柔な外見とは裏腹に随分と身体を鍛えているようだ。学生時代に柔道で腕を鳴らしたこの俺が、さっさと払い除けることもできないんだ。 

「あ、そーか。北条さん、俺の名前知らないんだっけ?あんまり可愛くて大好きになっちゃったもんだから、一番大事なこと忘れてた。迂闊だな、俺!」

 ギュッと俺の首に抱きついたままでハタと自分の失態に気付いたとでも言うように呟いたソイツに、俺は蒼褪めたままで頬を引き攣らせながら見た目より逞しいその背中をポンポンッと叩いてやった。

「はははー、そうだったな。名前も知らなかった!ところで、俺は仕事に戻りたいんだが…」

「もー!そう言う大事なことは、北条さんもちゃんと言ってくれよなー」

 身体を起こして顔を覗き込んでくるソイツは、上目遣いに甘えるような仕種をする。
 瞬間、ドキンッと胸が高鳴ったのはたぶん気のせいだ。
 ドキドキするのは悪寒に違いない。
 顔が暑いのは熱が出たんだろう。
 そうだ、これは風邪なんだ!!
 …早く帰って寝よう。

「俺は南條虎丸!北と南で何か縁を感じるよね。これはもう、運命なんだよ♪」

 ニコ~ッとまるでガキみたいに笑ってそんなワケの判らんことを言いながら、虎丸と名乗ったソイツはまたしてもギューッと抱きついて来た。
 動悸も早いし、頭も暑い。
 こりゃ、いよいよ風邪だなと思いながら俺は、いつまでもコイツに抱き付かれていて、もしお客でも来たら事だなと思うとヤレヤレと溜め息を吐きながら背中を軽く叩いたんだ。

「…判った、なんか良く判らんが、判った。取り敢えず、仕事に戻らせてくれ」

「あ!そーだね、愛する婚約者の仕事の邪魔をしちゃいけないね。俺、手伝うとか言いながらごめん」

 エヘヘヘッと笑いながら身体を起こした虎丸は、その反動を利用するようにして俺の腕を掴むとグイッと引っ張って引き起こしやがったんだ。余計なお世話なんだが、立ち上がる気力もなかった俺には正直少し、有り難かった。
 そうして俺は、精神的にヘトヘトになりながら仕事に取り掛かったのだが、箒を持って軽く掃きながら店内をウロウロしている虎丸と、事あるごとに目が合うたびにドキドキしてしまって仕事が手につかない。なんなんだ、これは!?
 ふと、虎丸の姿が見えなくなったと思って店内を見渡して、防犯用の鏡を見たときだった。

「!」

 座り込んだままこちらをジーッと見ているキツイ双眸の男と目が合って、俺が見ていることに気付いた虎丸がパッと嬉しそうに笑って立ち上がったんだ。それから、レジをしめてる俺の許へバタバタと走って近寄って来やがるから、なぜか照れ隠しにぶっきら棒になってしまう。

「お前は何をやってんだ」

「えへへ。テレパシーだよ」

「…は?」

 いや、聞き返しちゃいけないとは判っていたんだが、虎丸のヤツはその凶暴そうな外見とは裏腹で、ニッコニッコと嬉しそうに笑いながら俺の手を取ったんだ。

「こっち見ろ、こっち見ろ、こっち見ろ~!…ってね。こっちを見たら、俺と北条さんは相思相愛だって思ってさぁ」

「…勝手に思ってろ」

 蒼褪めながらレジしめをしようとしたけど、気付けば虎丸のヤツから手を掴まれたままだった。

「離せよ」

「…嫌だ」

 ハァ、と溜め息を吐いて首を左右に振った。

「レジがしめられんぞ。婚約者を手伝うんじゃなかったのか?」

「!」

 バッと鋭い双眸で見詰めてきた虎丸の視線に、一瞬、怯んでしまった俺だったが、虎丸がどんな思いでそうやって俺を見たのかいまいちよく判らない。

「えへへ…俺ね」

「んー?」

 取り敢えず片手でレジしめをすることにした俺の、その握っている手に瞼を閉じてソッと口付けながら虎丸は幸せそうにうっとりと呟いた。

「北条さんのこと、ホントに好きだよ」

 腕を離してくれぇぇ…と、鳥肌を立てている俺の気持ちなんかまるで無視しやがって、虎丸のヤツは口付けたまま上目遣いで俺を見上げてきやがるのだ。
 その真摯で一途な目付きは、本気で俺のことを好きだとか言ってるのか。
 切なそうに双眸を細められても、それに応えられるほど俺は寛容な男じゃねぇ。
 もしコイツが、俺がその気になった途端に「ウソだよん!あったり前じゃん。キモイなぁ、バカじゃねぇ」とか言い出さないとも限らない。
 信じられるかそんな話。

「あー、判った判った。判ったから手を離せ」

 振り払おうとしたら余計強く握られてしまって、俺はムッとしたように眉を寄せながら虎丸を軽く睨んだんだ。そんな俺の目力なんか、悔しいが虎丸のキツイ双眸に比べれば牙のないライオンぐらいなんだろうがな、それでも虎丸はビクッとしたようだった。

「なんにも判っちゃいねーよ、北条さんは。俺がどれほど、アンタを好きなのか」

 判れと言うのか?
 28年間、男として暮らしてきたこの俺に?

「だって、俺は北条さんのこと───…ッ」

 語尾を言い終わらない間に、まるで被さるようにして虎丸の腹がグーッと盛大な声を上げて鳴いたんだ。

「…ぷ。そう言やお前、昼から何も食ってなかったな」

「…くそー、カッコつけてたのに」

 ブツブツ言ってるその間も、虎丸の腹はグーグーッとまるで田舎の蛙の合唱のように鳴り響いてる。仕方なさそうに溜め息を吐いた虎丸は、情けなさそうに眉を八の字にして上目遣いに俺を見上げてきた。

「北条さん、俺バイト料はいらないからさ。その、弁当貰って帰っていい?」

「…家で用意してるんじゃないのか?」

 あーあと、決め所を逃したとでも思っている虎丸は頭を掻きながら、なんでもないことのように言いやがったんだ。

「ウチ、母ちゃん死んでいないんだ。親父は今夜も夜勤だし。これから帰って飯作るの面倒臭いんだよなぁ」

 でも、弁当が貰えないなら仕方ないけどと、そのキツイ双眸の男はまるで待てと言われたワンコのようにジッと俺を見上げてその判断を待っているようだ。
 恐らくこの男は、その外見通り喧嘩っ早くてきかん気の強いヤツに違いないんだろうけど、俺の前ではまるで従順な犬のように静かで人懐こい。初めて煙草を取り上げた時は、何しやがるんだとそれはそれは恐ろしい目付きで睨みつけてきたのになぁ。
 あの迫力はどこにいったんだ。
 ははは、まさか本気で俺のことを好きだなんて言うよな。

「ダメかな?んー、じゃあ仕方ねーや。帰って…」

「弁当なんか身体に悪いだろ?今日は客も多くて手伝って貰って助かったし、よかったら俺んちで飯を食ってかないか?」

「…ッ」

 どーせ、いつも1人で食ってるんだ。どうせなら二人分作ったほうが旨いに決まってるからな…ん?
 どうして虎丸のヤツはこんなポカンとしてるんだ?

「あ、そっか嫌だよな。じゃあ、弁当持って行ってもいいぞ」

「あ、あ、いや。その、いいの?北条さん家に行ってもいいの??」

「ああ!いいに決まってるだろ?ヘンなヤツだな。味に保障はねーけどよ」

 ハハハッと笑ったら、虎丸のヤツはまるで極上の笑みを浮かべて、嬉しそうに首を左右に振ったんだ。

「俺、誰かの手料理なんて久し振りだ。久し振りが一番好きな人の手料理なんて、俺って幸せ者だよね?嬉しいなー」

 ニコニコと笑いながらそんなことを呟く虎丸に、またしてもドキッとしてしまう俺もどうかしてると思うが、それでも、たかが俺なんかが作る飯をこんなに喜ぶ虎丸もどうかしてると思うぞ。

「そうと決まれば早く帰ろうよ!俺、腹ペコペコだよ」

 嬉しそうにまたしても俺の腕を掴んだ虎丸は、着ていた制服を脱ぎながらいそいそと帰り支度を始めやがったんだ。
 なんだ、そんなに腹が減ってたのか。
 バカなヤツだな、あんなワケの判らんことをしてないで、パンでも食ってりゃいいのによ。
 俺はそんな暢気なことを考えながら、この虎丸と言う風変わりな男に促されるままに帰り支度を始めるのだった。

9  -狼男に気をつけて!-

 あれから辻波は俺の部屋に一泊して次の日の朝に帰った。俺はその日1日大学を休んでゴロゴロして体力を取り戻したから、次の日から大学に出ることができたんだ。
 殆ど熱を出して辻波は起きっぱなしだったけど、あんまり気にした風も、疲れた様子も見せずにヘンな言い方だけど元気に帰っていった。
 店長とは…あれっきりだ。
 来ても今度は撃退してやる!…と意欲満々の俺の殺気を感じてるのか、姿すら見えない。
 バイトは…辞めた。
 あの日は店長も休んでいたから、代理のバイト君に伝えてもらって、それで終了。
 そんなもん。あっさりしてら。
 が、あっさりしていないのは俺の日常で、店長のおかげで唯一の現金支給所を失ってしまった俺は、それでなくてもちょっと苦しくて家賃を貯めていたってこともあるからアパートを追い出されてしまった。
 なぜか?
 暴れたからだよ。店長との大立ち回りは安アパートだと壁も薄くて乱闘の音が筒抜けだったんだ。
 で、隣人と下の階の住人から苦情が大家にいって、アパートも終了。
 ああ、くそッ!

「なッ、桜沢!頼むよ、この通りだから!暫くでいいから置いてくれねーかな?」

 土下座せんばかりの勢いで両手を擦り合わせて拝む俺に、桜沢は困ったように眉を寄せている。

「でもなぁ、東城。俺、彼女と同棲してんだよなぁ」

「ゲ!彼女とかいたのかよ!?」

「失敬な!一昨日から一緒に住んでるんだよッ」

「えええ~」

 ガックリと肩を落として項垂れた俺は、隣に座っている枕崎に同じように拝んでみたがヤツの場合は狭い部屋に兄貴と二人暮しなんでペケだと抜かしやがった。他にも数人に頼み込んだがどいつもこいつも二人暮しだの実家だので無理だった。
 はぁ、今夜から野宿だなぁ…
 なけなしの生活用品一式は大家に預かってもらってるからいいけど、今夜は野宿だからもう少し預かっててもらうしかないか。

「東城」

 溜め息を吐いていると、不意に声をかけられて俺は驚いた。
 桜沢たちもそうだったみたいだ。
 なんせ、いつもは俺が追い駆けましてばかりいたあの辻波が、反対に俺を呼んだんだから、そりゃあ、みんなビックリもするだろうさ。
 講堂の出入り口になる扉の前で立っていた辻波は俺を人差し指でクイクイと手招きして、そのままそのドアから出て行った。

「辻波!」

 俺は慌てて辻波を追ってその後ろに追いついた。
 あれから辻波とは話していないから、なんかちょっと気恥ずかしくもあるけど、でも無視されるよりは随分幸せだから取り敢えずは現状の悪夢は忘れて辻波と歩きながら楽しく話をしよう。

「アパート追い出されたって?」

 ウゲッ、のっけからその話しかよ。
 どうやら現実は忘れるなと言ってるみたいだ、畜生。

「うー…まあな!」

「…東城さ、あの晩に言った言葉を覚えてるか?」

「へ?」

 えーっと、俺何か言ったのか?
 あの晩と言うと、きっと熱出して寝こんでいたときだよな?
 えーっと、えーっと。
 …思い出せん。
 まあ、でもここは話しを合わせておこう。

「あ、ああ。覚えてるさ!」 

 適当な返事で頷いてみたものの、いったい何を言ったんだ、俺よ!

「じゃあ…あの言葉は本当なんだな?」

「あの言葉って…う、うん」

 何か徒ならぬ雰囲気だけど、俺は辻波と肩を並べて歩きながら頷いたんだ。

「そうか…それなら、俺の家に来いよ」

「へ?いいのか!?」

 思わぬ方向転換した話しに追いついていなかった俺は、それでもここはチャンスだと思いきり食らいついたんだ。
 すると辻波は…まるで今まで見たこともないほど満面の笑みを浮かべて俺の好きな、あの呟くような低い声で言い放ったんだ。
 まるで宣言でもするように。

「もちろんだろ?東城は俺のモノになったんだから」

 …俺は何を言ったんだ?
 愕然としながらも、でも、それもいいかと思った。
 なぜか知らないけど、俺はずっと辻波が気になっていたんだ。これが恋なら、俺はそれを受け入れよう。
 どうせ俺にとってはいい方向に進むんだ。
 赤頭巾ちゃん、狼男には注意しなよ。
 と、辻波に言ってやらないとな。
 ニコッと笑って少し高い位置にある辻波の鬱陶しい前髪から覗くキリリとした双眸を見上げた。

「これから宜しく、東城」

 何も知らない辻波は微笑んで…そんな嬉しいことを言ってくれるから、俺も笑わずにはいられないじゃないか。
 だって、そうだろ?
 俺はきっと、もうずっと、辻波櫂貴のことを好きだったんだから…
 付き纏って付き纏って…この恋が成就するんだ。
 飛び切り最高の笑顔で笑わないでどうるすんだよ?
 なあ、辻波。
 そうだろ?

ところで、いったい誰がストーカーだったんだ?

***END***

8  -狼男に気をつけて!-

 グラグラ揺れる頭ではあんまり意識がハッキリしていなくて、何が起こったのか判らなかった。
 ただ、俺の視覚が状況として捉えたのは、藤沢が下半身丸出しの状態で鼻血を出して寝転がっているってことだ。
 限界まで開かれた足はだらしなくそのままで、切れた部分からはたまに何かぬるっとしたモノが零れるような感覚がある。な、何が起こったんだろう…?
 上半身を起こそうとして、眩暈を覚えた俺はそのまま吐きそうになった。

「…その、大丈夫か?」

 不意に頭上から聞き慣れた声が落ちてきて…落ち着いて、でも無愛想なこの声は…

「つ、辻波!?」

 あ、大声出したから頭がグラグラする。

「…桜沢に全部聞いた。おかしいと思ったからさ、その、来てみたんだ」

 遅くなってごめん、と呟いて俯いた顔は、下から覗き込んだこととかなかったから、長い前髪の隙間からいつも覗いていたあのキリリとした双眸が心配そうに俺を見下ろしていた。

「辻波!俺、酷いこと言って…ッ!」

 起き上がろうとして、腰に鈍痛が走った俺は奇妙な声でうめきながらズルズルとまた辻波の腕の中に凭れ込んでしまった。

「ムリするな。その、けっこう酷いことになってるから」

 だいたいどんな状況なのか、驚きで意識がハッキリしてきた俺は理解していたから、バツが悪くて唇を噛むしかできなかった。
 薄っぺらい毛布を被せてあったけど、でも下半身の不快感はある程度なくなっていた。痛みはまだあるけど、あのグチュグチュとした嫌なカンジはない。
 もしかして…コイツが始末してくれたのか?
 う!それはちょっと…どころかかなり恥ずかしいぞ!?
 あうあう言いながら真っ赤な顔をして辻波を見上げると、ヤツはほんの少し頬を赤くしていたけど、思ったよりも俺が元気そうだと思ったのか、安心したように小さく笑ったんだ。

「…アイツ、どうしようか?警察に突き出してもいいけど、だったら東城が…」

 辻波は俺の体裁を慮ってくれたのか、それだけ言って口を噤んでしまった。

「外、放っておいてくれてもいいけど…メンドイよな」

 チッ!あの野郎、よくも人をお、犯しやがって!!身体がまともになったら殴り飛ばしてケチョンケチョンにしてやるからな!…っと、今はそれどころじゃねぇな。
 どうしよう、アイツ。

「…外に出してもいいのか?一発殴ったらすぐに伸びたし、大丈夫だ」

 頷いた辻波が俺の頭をゆっくりと下ろして枕に置くと、立ち上がって伸びている藤沢をヒョイッと肩に担ぎ上げて部屋から出て行ってしまった。
 生ゴミに出しててくれ…
 でも辻波、こんな狭い部屋で余裕だな。
 意外だ、辻波って強かったのか。俺よりも弱いと思ってたのに…
 ああ、俺、辻波になんて言おう。
 ストーカーとか、みんながいる前で言っちゃったんだよなぁ。
 そんなことを考えているとドアが開いて、暗くてボーッとしてるように見える辻波が入ってきた。
 黒いタートルネックのセーターを着ていて、良く見ると男前なのにな。どうしてモテなんだろう。
 ハッ!だからそんなことじゃなくて!!

「辻波…その、ごめん」

「え?」

 首を傾げる辻波に、俺はなんとか上半身だけを起こしてヤツを見上げたんだ。

「みんなの前でさ、ストーカーとか言ったりして…あの」

「ああ、なんだそんなことか…」

 ホッとしたように軽く吐息を吐いた辻波は、狭い室内だけどなんとか胡座を掻いて座り込みながら首を左右に振ったんだ。

「俺の方こそ…疑われるようなことしたし。それに、謝らないとな」

「…?」

 俺が首を傾げると、辻波は小鼻の脇を人差し指で掻いて視線を泳がせた。
 何か…隠してんのか?

「なんだよ、辻波。言えよ」

「…その、あのテープを…」

「観たのか!?…みんなの前でとか?」

 自分はへっちゃらでなんでもしたくせに、いざ自分の番になると恥ずかしがる典型的な自己中野郎としては、ホントにどうしようかと考え込んでしまった。明日から、大学中の噂になってるだろうな。
 東城光太郎は変態ホモ野郎だって…自分じゃないのに、やたら似てるせいで自分のことみたいに思えてしまうんだ。あの男優。

「いや。俺1人で観たよ」

 ホッとしたのもつかの間。

「ち、違うんだからな!アレは俺じゃないから!!俺はあんな変態行為なんてしてないからな!!」

「…うん、判ってるよ。あれは東城じゃない」

 言い切られて、拍子抜けしてしまった。

「へ?」

「冒頭だけ観て、東城じゃないって思ったらホッとした」

「う、うん」

 モジモジしながら頷く俺に、辻波は不機嫌そうな仏頂面で首を左右に振ったんだ。

「確かに、俺は差し入れとか電話とかしてたし。ストーカーまがいだと思うよ。ただ、どうして東城がそんな俺の行動を受け入れてるのか判らなくて…きっと意地になってたんだと思う」

 そんな風に淡々と語る辻波の少し伏し目がちのキリリとした目が好きで、俺は思わず見惚れてしまっていて、訝しそうに眉を寄せた辻波と目があってハッと我に返った。

「や、いや!ほら、辻波さ。入学して間もない頃、俺親の反対押し切って上京したわけだから極貧でさぁ。飯もまともに食ってなかったとき、腹が鳴って。みんなクスクス笑ってんのに、お前だけ仏頂面で、無愛想にオニギリを2個くれただろ?あのとき、真剣嬉しくてさ。コイツ、いいヤツなんだって思ったんだ」

 辻波は呆気に取られたようにニコッと笑う俺を見下ろしていた。
 たぶん、そんな単純なことで?と思ったに違いない。
 そう、こんな単純なことで、俺は辻波を好きになったんだ。
 …ん?好きになった?
 不意にドキンと胸が鳴ったんだけど、俺はその意味が判らなくて胸元にかかる毛布を掴んで首を傾げていた。

「…東城って変わってるな。俺はそんなところが…」

 何か言おうとして、辻波はまた黙ってしまった。
 いつか、確か大学のあの並木道で見せたときのような、何か言いたそうなあの顔だ。

「辻波?」

「いや、それじゃあ俺は…」

 そう言って立ち上がりかけた辻波のズボンを、俺は無意識の間に掴んでいた。

「…東城?」

 不意に、ホントに唐突に、いきなり腰が抜けたと言うかなんと言うか、感覚がなくなったような気になって不安になったんだ。
 行かないでくれ…そう言いたくて、でも言えないから、俺は縋るように眉を寄せて辻波を見上げていた。立ち上がりかけていた辻波は再び腰を下ろすと、俺の手をズボンから離そうとした。でも、今更恐怖に全身を震わせている俺の手にはヘンに力が入っていてなかなか離せなくて、辻波は仕方なく諦めた。でも、そうしたらスッと力が抜けて、俺は思わず辻波の服を掴んで額をその胸元に押し付けていた。
 辻波はちょっと驚いたようだったけど、それは俺も同じことで、どうして自分がこんなことをするのか判らないんだけど、怖かったんだ。
 なんか、無性に怖くなって。
 独りぼっちになるって思ったらホント唐突で…

「辻波…俺…辻波…」

「コンビニに…その、何か栄養のつくものとか薬とか買ってこようかって思ったんだ。大丈夫、どこにもいかないよ。たぶん、夜から熱が出るだろうから…安静にしないと」

 呟く辻波に、俺は嫌々するようにギュッと両手で辻波の胸元の服を掴んで顔を埋めた。
 ええい、恥をかくならとことんだ!

「大丈夫だ。俺はここにいるよ…だから、安心して」

 呟く辻波に安心して、力の抜けた俺はそのまま意識を失ってしまった。

7  -狼男に気をつけて!-

「辻波か?」

 繰り返してもう一度聞くと、朝でも薄暗い俺の部屋の中央で腕を組んでる長身の男は、まるで何か面白そうに笑いやがった。

「辻波ってのは確か、君の同級生だったよね?」

 クスクスと笑いながら玄関から射し込む明かりに姿を現したのは…

「店長!?」

 ギョッとする俺にニヤッと笑った店長は、ゆっくりと近付いてきた。
 なんでここにいるのか、とか、さっきまで店にいたじゃないかって思いがグルグル脳内を回るけど、結局うまい表現が弾き出せずに、俺は思わずそのまま蹲って頭を抱え込みそうになってしまった。
 あ!…そうか、この人、バイクを持ってたんだっけ。
 混乱してパクパクと酸欠の魚みたいに肩で息をしながら立ち竦む俺に腕を伸ばすと、店長は人の良さそうな笑顔を浮かべて肌の質感でも確認するように少し汗ばんだ手で撫でてきた。背筋に冷たいものが走る。
 なぜか…なんてことは判らない。
 ただ漠然と、コイツはヤバイと本能が訴えてくる。

「て…店長!ど、どうしたんスか?なんか俺…」

 漸く吐き出した言葉もそんなもので、店長は小馬鹿にしたように鼻先で笑ってグイッと撫でていた手で顎を掴んで俺の顔を上向かせたんだ!

「しらばっくれるなよ。判ってんだろ?ったく、突然帰ってくるんだもんな、ビックリしたよ。でもま、それで良かったかも♪…コレで何回ヌけた?」

 ギリギリと掴んだ腕に力を込めやがるから、俺は痛みで眉を寄せながらい壁を角で軽くコツコツと叩く店長の手元を見たんだ。
 それは、その黒いケースは…

「ヌ…けるわけねーだろ!?この変態野郎!!」

 今更だけど自分が情けなくなった。
 そうか、あのストーカー行為はコイツがしていたのか。俺は馬鹿だから、てっきりあの電話だけで全部が辻波のしてくれてることなんだと思い込んでいたんだ。
 クッソ!なんて間抜けだ!!
 俺は自分の顎を掴む店長、藤沢の腕をバックを投げ出して両手で掴むと引き剥がしにかかる。
 と。

「ッ!?」

 ガツッと鈍い音がして、俺はビデオケースの角で思いきり頭を殴られてしまった。
 鈍い音がしたと気付いたときは、もうこめかみを何か熱いものが零れ落ちていて、一瞬だけ起こった立ち眩みで藤沢のヤツに引き倒されるようにして万年床に投げ倒されちまったんだ。
 クラクラする頭を振りながら見上げた藤沢は、ニヤニヤ笑いながら羽織っていたパーカーのジッパーを引き下ろしている。

「全く、いけない子だなぁ。あんな得体の知れない男にでもすぐに尻尾を振ったりして…僕の愛を疑ってるの?もっと、もっと身体に教え込んであげないとねぇ」

 クスクスと笑う。
 女どもがお付き合いしたいと黄色い声を上げる甘いマスクで。
 でも…コイツは狂ってる。

「な、何を言ってんだよ!何が愛だ!気持ちわ…ッ!!」

 鈍い音を立てて頬が鳴る。
 引っ叩かれたんだと知ったのはすぐで、それでなくても気分が悪いってのに…ったく、ホントに今日はツイてねぇ。
 遠退きそうになる意識の中で、藤沢の執拗な両手が服を次々に引っぺがしていくのを感じていた。ああ、これはもう貞操の危機だと本能が警鐘を鳴らしても、頭部に受けた打撲で身体が弛緩しきってる俺にはなす術もない。
 …スマン、辻波。
 勝手に俺の勘違いでストーカー呼ばわりとかして、迷惑しただろうな…
 助けてくれってのは無理な話だから、せめてお前のあの仏頂面とか見ておきたいなぁ…
 首筋に吸い付かれて、気持ち悪さに鳥肌が立つ。
 まだ誰にも触られたことのない部分を執拗に撫でまわされて、緩やかに、強弱をつけて扱かれると嫌でも気分が盛り上がる。
 片足を割開くようにして藤沢の肩に担がれて、それがどんな姿勢になってるのかとか理解できない俺の尻に、唐突に何かぬるっとしたモノが押し当てられた。
 何かを塗りたくった指先で、それはすぐに尻の中に挿し込まれて…思わず唇を噛み締めた。
 グリグリと乱暴に掻き回されて、俺は嫌がるように肩に担がれた足で空を蹴りながら、もう一方でもメチャクチャ暴れまわったんだけど…なぜか全く力が出ないで、それどころか挿し込まれてる指をギュッと締め付けてその感触をまざまざと味わってしまった!馬鹿だろ、俺!!

「…う…ぅぅ…」

「そんなに締め付けて…もう欲しいのか?」

 何がとか、そんなどうでもいいことは聞けなくて、それどころか掻き回す指の疼痛に眉を顰めて首を左右に振るのが精一杯だった。

「あのビデオはあんまり役に立たなかったのか。まだまだ狭い。コレだと裂けちゃうけど…ま、いいだろう」

 それが何を意味するか、昨夜のビデオが嫌と言うほど思い知らせてくれてるから、俺は懇願するように首を左右に振って泣いていた。
 未知の苦痛が尻を穿ってる。
 それだけだってこんなに痛いのに、あの、目の前にあるあんなモノが入り込んできたら…

「あ…あ!や、嫌だ!やめ…ひぃ!」

 必死で抵抗しても力の入らない腕だとなんの役にも立たなくて、引き抜かれた指の代わりにもっと太くて硬くて、灼熱のような棒がグリグリとソコに捻じ込まれてきたんだ!

「や、い、いてッ!痛い、いッッッつぅーーーッ」

 グッと歯を食い縛りでもしないとどこにこの痛みの矛先を向けたらいいのか判らなくて、俺はメチャクチャに暴れてみた。暴れても、腕を伸ばしてみても、掴むのは空ばかりで。
 捻じ込まれて、ガクガクと身体全体を揺するようにして腰を遣われて…
 誰か…こんなのは嫌だ。
 嫌なんだ!
 誰か…誰か助けてくれ。
 ふと、脳裏に過ぎるあのぶっきらぼうな仏頂面。
 ああ、俺…今更になって気付くなんてな。
 俺…俺は。
 辻波…ごめん。

6  -狼男に気をつけて!-

 ムカムカしながら木製の安っぽいドアを開けた俺は、足音も荒々しく老朽化した階段を駆け下りてバス停に向かっていた。
 結局昨日は、一睡もできなかった。
 まんじりともせずに考えていたのは辻波の真意だ。
 100円ショップで買ったバッグの中には、昨夜のビデオテープが黒いケースに入って収まっている。
 あの野郎…俺のことをなんだと思ってんだよ。
 俺はなぁ…エッチなホモビデオに出てアンアン言ってる趣味はねぇんだ!
 バスに揺られながら降り積もる怒りを深々と胸に溜め込んでいた。
 バスは俺の怒りなんかどこ吹く風でガタゴトと揺れながら大学まで一路のんびりと進んでいた。
 その途中でバイト先のコンビニを通りすぎた。
 お、店長だ。
 相変わらず女の客に人気があんなぁ。タレ目の長身ってのは何かとモテるんだろう。
 きっと、憎めない笑顔が人気の秘密だと俺は見た。
 俺だってあんな顔で笑いかけられたらそれまでの怒りが一気に萎えちまうもんなぁ。だから仕方なく夜番も引き受けちまうんだ。
 茶髪も悪い。ひよこみたいにほえーっと見えるからな!
 …。
 いや!そんなこた今は関係ない!!
 ったく、なんだってこんなことになっちまったんだ?
 俺は…無愛想で仏頂面の辻波のこと、けっこう好きなんだ。
 ちょっとした些細なことにもよく気がつくし、本を静かに読んでいるくせに妙な存在感とかあってそれなりに目立つヤツで、でも、なぜか『暗い』ってイメージだけで誰も近寄らないってのが不思議だった。
 でも…みんなが言うように、やっぱりアイツは陰湿なヤツだったのかな?
 こんな陰険なことで、『嫌いだ』って意思表示なんかすんなよ。
 バッグからチラッと覗く黒いケースを、何か汚いものでも見るような目付きで見ていたんだと思う。俺の横に座ったおばちゃんが胡散臭そうな目つきをしてるからな。
 なんか、もうマジでムカツク!
 俺はブスッとした膨れっ面で窓の外を緩やかに流れる景色を目で追っていて、思わず気分が悪くなった。
 全くついてねぇな!
 朝っぱらから車酔いかよ!?
 くそぅ!!ほんっとに覚えてろよ、辻波!
 全ての元凶がまるで辻波とでも言うように、俺は近付いてくる大学を睨みつけていた。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「辻波!」

 いつも通り出入り口に近い場所に陣取っているヤツの前に立ちはだかって眦を吊り上げる俺を、辻波は読みかけの本から鬱陶しそうに目線を上げて頬杖をしたままで見上げてきた。

「…なんだよ」

 俺はその冷静な態度にますますムカツキながら、ギリッと奥歯を噛み締めてバッグの中から黒いケースを取り出した。

「?」

 訝しそうなものでも見るような目付きで俺の手元を見る辻波の野郎、何を空々しいことしてやがるんだ!

「お、おいおい。どうしたんだよ、東城…?」

 俺の剣幕に桜沢のヤツが驚いたように飛んできて、慌てたように腕を掴んできた。その腕を振り払いながら、講堂の連中が注視するのも気に留めずに苛々と怒鳴っていた。

「コレ、見覚えもねーのかよ!?ちっくしょう!お前は信じられるヤツだって思ってたのに…これじゃまるっきりストーカーじゃねぇか!気持ち悪ぃんだよ!!」

 持っていた黒いビデオケースを投げつけて、驚いたようにポカンッとする桜沢をその場に残して、俺はさっさと講堂を後にしようとした…けど、俺の耳に飛び込んできたのはポツリと言ったカンジで零れ落ちた一言。

「…ストーカー?」

 訝しそうな顔がチラついてもいたけど、それがなんだって言うんだ!?
 ホンット!コイツってばいつからこんな空々しいヤツになっちまったんだよ?
 ブスくれた俺はこのまま授業に出る気にもなれなくて、やっぱり、と言うか案の定そのまま家に帰ることにしたんだ。バイトは夕方からだし…なんかそれにも出る気になれないけど、バイトは俺のライフラインだ。クビにでもなったら大変だ。
 でもなんとか頭も冷やしたいことだし、まずはアパートに戻ろう。
 クソッ!逝っちまえ、辻波!!
 悪態を吐きながらバスに揺られて戻ってきたアパートは、やっぱり泣きたくなるほどボロっちくて、なんか唐突に怒りの萎えた俺は郵便受けを覗くことにしたんだ。
 信じていたヤツに裏切られるのはやっぱりちょっとツライ。
 古ぼけて半分以上壊れかけた郵便受けから請求書だとかダイレクトメールの束を取り出しながらそんなことを考えていて、階段を上りながら確認していた俺の足取りが唐突に止まった。
 コピー用紙にカラーで刷られたそれは、SMかなんかの広告だった。
 ただし。
 縛られてしなる鞭で打ち据えられているソイツの顔は俺で、デジカメかなんかで隠し撮りした写真を切り取って貼りつけただけの粗雑なモンだったけど、中傷誹謗の書きたてられた紙は見るのもおぞましくて気付いたらグシャグシャにしていた。
 なんなんだ、これは!?
 俺は慌てて束にしているゴムを取ってバラバラに見てみると、カラーコピーされたそのチラシが何十枚もあった。最後になっている1枚に、まるでバカにしたような丸字のフォントで
『ご近所にバラまいちゃうぞ!』と書いてあった。
 洒落になんねぇよ、これは。
 いったい何十枚コピーしてんだよ!?
 苛々しながらそれらを全部グシャグシャに丸めて、俺は階段を一段抜かしで駆け上がってから安アパートの扉を引き開けた。
 くそ!ムカツク…って、あれ?なんでドアが開いてるんだ?
 鍵を…そう思って怒りで我を忘れていた俺はハッとして室内を見渡した。
 程なくして鍵を開けて上がり込んでいるヤツの正体が判った。
 そこにいたのは…
「…辻波?」

5  -狼男に気をつけて!-

 市販のビデオをダビングしただけの粗悪な代物は画質も悪かった。なけなしのモザイクがお義理程度に隠してる部分は目を細めたら見られそうなほど薄いし、でも、チラチラ見える顔は、あの顔は…俺だ。
 もしかしたらただの勘違いかもしれない。それだったら俺だって救われるってのに…俺のアイコラなんじゃないかって思うほど良く似た男は、同じ野郎に犯されながら恍惚とした表情を浮かべている。両手を縛られて、まるで無理やり咥え込まされてるようなのに、なんだってそんな嬉しそうな顔してるんだよ!
 まるで自分が犯されてるような気分になって、吐きそうになった。
 開きっぱなしの口元からは唾液が溢れてて、ボリュームを絞った向こうで相手の野郎が何か言っている。
 良く聞き取れなくて…聞き取りたくもなくて、でも嫌でも画面から目が離せないでいる自分に驚いた。
 消しちまえ!こんなモンッ!!
 なのに、リモコンを握る手が動かない。
 画面の中では何かを懇願するように目許から涙を零す男の、その口元に凶悪な光を放つ無機質なものが押し当てられていた。
 子供の手首ぐらいはありそうな…バイブ?
 や、やめてくれ。
 ビデオの中の男と、一瞬だけどシンクロした。
 無理やり押し込まれて、嗚咽しながらその醜悪な代物に舌を這わせる男は、これから自分を責め苛むであろうその玩具に、何かを期待してるとでも言うんだろうか?潤んだ目付きで、俺には背中を向けている野郎を食い入るように見ている。
 俺の顔で。
 グロテスクな形を持つプラスチックのそれを舐めながら、誘うように目を細めて、野郎の腰遣いが激しくなっても男はそれをやめようとはしなくて…結局叩かれた。
 小さく悲鳴を上げた男の口が切れたのか、口元から血を流す男を野郎は問答無用で繋がったまま身体を反転させて、やっぱり男に悲鳴を上げさせていた。
 ギチギチに野郎を含んでいる部分がアップで映されて、思わず目を覆いたくなるような出来事が展開されたんだ!おぞましくて…でも目が離せない。
 なんだって言うんだ…
 ギチギチで、その部分は野郎のソレだけでも一杯だってのに、その脇から、男の口から落ちた唾液まみれのバイブを挿入しようとしている。
 嫌がって首を振る男の項を押さえ付けて、限界よりもさらにめい一杯押し開きながら入りこんで行く無機質の塊に、男の絶叫が響き渡る。その瞬間、ピシッと裂ける音が聞こえたような気がして、男のその部分は野郎とバイブを飲み込んでいた。
 ぬらぬらと血を纏わりつかせた野郎の不気味な性器は、別の物体に犯されて悲鳴を上げている部分に捻じ込まれては律動を繰り返す。
 なのに男は、俺の顔をした男は…恍惚とした顔をして射精していた。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 たぶん俺は、呆然としていたに違いない。
 ザーッと砂嵐が流れる画面を、いったいどれぐらい観ていたんだろう。
 ハッと気付いたときには、無意識にビデオを止めてテレビを消していた。
 股間が熱くて、驚いたことに…俺は勃っていた。
 アダルトなんか中坊の頃に悪友どもと腐るほど観ていた。耳年増ってだけのことだけど、あの頃のビデオは女の裸体とモザイクだらけの部分を想像することだけが精一杯で、それをおかずに夜を過ごしていたんだ。
 そりゃあ、勃ったさ。
 でもあれは、当たり前のことなんだ。
 女の身体に素直に反応することのナニが悪いって言うんだよ?
 でも、これは違う。
 男が、同じ男に犯されてる…ホモビデオじゃねーか!
 …俺は正直な話、辻波の趣味に驚いていた。
 アイツ…いつもこんなことを想像してたのか?俺に似たヤツのビデオを観て、お前もオナッてたって言うのかよ!?
 それとも…本当はやっぱり、ただの嫌がらせなんだろうか。
 熱を持て余して勃ち上がっている息子を撫で付けるようにして扱きながら、俺はその味気ない快感を手持ち無沙汰で追いながら、ぼんやりと考えていた。
 辻波はしつこく付きまとう俺を嫌っていた。
 だから、あんな風にストーカー紛いなことをして、本当は俺を遠ざけようとしていたんだろうか…?
 どっちにしても、ムカツクんだよ!
 半ば投げやりに扱いてさっさとイっちまうと、俺はティッシュで自棄っぱちに掌に零れた濃厚な白濁を拭うとゴミ箱に投げ捨てた。
 それでなくても汚れているんだから、ゴミ箱がどんな役に立っているのかはこの際無視して、俺は万年床の布団にダイブした。
 問題は辻波が何を考えているかってことだ。
 俺に彼女が数年間いないことと同じぐらい重要だぞ。
 悶々とした思いを一杯に抱えながら、俺は早く朝が来ることを望んでいた。
 明日は1限から授業だ。
 ちっくしょう!待ってろよ、辻波!!