第一章.特訓!25  -遠くをめざして旅をしよう-

「ガルハ帝国で立太子の儀式が執り行われるだって?」

 デッキチェアに長々と寝そべる獰猛そうな肉食獣を思わせるレッシュの台詞に、耳を欹てる彰はデッキブラシを杖代わりに振り返った。

「へい。物見鳥が言うには、同時に賞金稼ぎの選抜大会も行われるらしいですぜ」

「へー、ルウィン野郎め。とうとう年貢を納めるときがきたか」

 クックックッと楽しげに笑うレッシュの態度から、口にされたルウィンと言う人物とは少なからず交流があることは窺われる。しかし、憎まれ口のわりにはそれほど快く思っていないことはないのだろう。
 ヒースの肩で羽根を休めている物見鳥…美しいエメラルドの羽根と長い尾を持つ見たこともない鳥を暫く物珍しそうに見詰めた後、彰は興味深そうにレッシュに視線を戻し、その視線をそっくり朝焼けの太陽のような髪を持つ獅子のような男に絡め取られて吃驚したように目を見開いた。 

「好奇心丸出しだーってツラして可愛いヤツだな」

「ぶっ!」

 頬杖をついたまま、ニヤニヤと隻眼を細めて海賊見習いの少年を眺めて冗談のように言うレッシュに、彰は思わず噴出して、それから、呆れたように肩を竦めるのだ。

「物見鳥?綺麗だなーと思っただけだ」

「ふん?海の上だと情報も少ねーからな。渡り鳥に聞いてもいいんだが、それだと偏った情報になっちまうだろ?その為に、世界中に物見鳥を飛ばしてるってワケだ」

 渡り鳥に聞くと言うのも不思議な表現だが…と、彰は思ったものの、パイムルレイールと言う空を飛べる種族もいるぐらいなのだ。鳥の言葉を操れる人間がいても少しもおかしくはない世界だろうと納得していたから、敢えてそれは無視を決め込んだ。

「ガルハってどこだ?」

「あん?気になるのか。そーかそーか。じゃあ、まずはそのデッキブラシをヒースに預けてここに来い」

 レッシュは面白そうな表情をしてデッキチェアの、寝そべっている自分の腹の前の空いた場所をポンポンッと叩いてから手招きをする。
 今は眠りについている件の鳥人の皇女ならば喜んで座っている場所だが、デッキブラシに体重を預けている彰は胡乱な目付きをしてレッシュを睨んだ。

「どうして話を聞くのに、レッシュの傍に行かないといけないんだ?」

 そりゃそうだと、ヒースもお頭の性質の悪いジョークにヤレヤレと内心で溜め息を吐いたものの、一度これだと言い出したら聞かない暴れん坊である、ヒースは肩を竦めながらやはり内心で彰にご愁傷様だと呟いていた。
 しかし、彰がこの泣く子も黙る『女神の涙』号に乗船してからと言うもの、レッシュの関心は常に彰にあるから、船内はこの上ない平穏な日々を保っている。
 レッシュの気紛れで鼻を圧し折られる連中もいなければ、寝起きが魔物のように悪いレッシュの毒牙にかかって前歯を折る連中もいなくなった…と言うのも、彰が起こしに行くようになってから、レッシュは魔物のような仏頂面はするものの、飼い慣らされたライオンか何かのように大人しく起きるようになったのだ。おかげで、彰が前歯を失くすことはないようだ。たとえ、世界中が畏怖する竜使いだとしても、今のヒースたちにしてみればこれ以上はないファタルの御使い様様である。

「どうしてだと?そんなの決まってるだろ、俺が来いと言ってんだ」

「…暴君だ」

 それ以外に言葉が思い付かない彰は、ムスッと唇を尖らせて悪態を吐いた。
 それはそれで十分、レッシュを満足させているのだが、それでも今は邪魔をするシュメラもいないのだから、思う様、彰をからかいたくてウズウズしているレッシュはさらに追い討ちをかけるようにポンポンッと自分の腹の前の空いた場所を叩いてウィンクする。

「ほら、来いよ?じゃねーと、お前の知りたい話は何もしてやらんぞ」

「…」

 彰はムッツリと唇を尖らせたまま、ヒースに乱暴にデッキブラシを預けた。
 その様子を見て、レッシュは素直に自分の言うことに従おうとする彰の態度が嬉しかったのか、隻眼を細めてニヤニヤと笑っている。
 兎に角、レッシュは彰が素直に従うとこの上なく嬉しそうにするのだ。
 それがヒースに一抹の不安を植えつける。
 いや、彰の教育係であるヒースだけではない。この『疾風』の意味を持つゲイルのメンバーの副船長を筆頭に誰もが、性質の悪いジョークだと思い込んでいるレッシュの彰に対する態度が、もしや本気だったとしたら…と一抹の不安を抱えているのだ。
 オマケに、それならそれでも別に構わないとさえ思い始めているのだから、自分たちで自分たちの頭を悩ませていると言うことに気付きもしない。
 このまま、彰がレッシュの傍にいるのなら、パイムルレイールの皇女が傍にいるよりも遥かに自分たちには有益だと考えているのだ。
 しかし、世界が欲する竜使いである彰が、このままずっとこの船に在る、はずなどないと言うことを、また、知らない彼らでもないのだが…
 ワクワクしているレッシュに眉根を寄せてムッとしている彰は、不意にニヤッと笑った。

「別にいーよ。俺、コック長にお話ししてもらう♪」

 お頭の休憩命令が出たのだ、どうして素直にレッシュの傍に行かなくてはいけないのか。
 もちろん、彰はウキウキした気分で踵を返そうとしたが、思わず呆気に取られていたレッシュが、ハッと我に返ってその細い背中に鋭く声を掛けた。
 そうでもしなければ、彰はすぐにでもコック長である、あの寡黙なネロの許に飛んで行ったに違いない。
 レッシュは何故か、それが面白くなかった。

「こらこら、待て!誰が食堂に行けと言った。ここに来いと言ったんだぞ」

「…」

 確かに、このゲイルではレッシュの言葉が全てであり、たとえ創造主が降臨したとしても、やはり、レッシュの意思に従わなければならないのだ。
 見習い海賊如きでは、それは絶対的な命令でもある。
 ムッと唇を尖らせて振り返る彰は、暫し逡巡して、それから諦めたように溜め息を吐いてからトボトボとレッシュの傍に行き、仕方なさそうに腰を下ろした。

「どんだけ嫌そうなんだ、お前は」

 当たり前のように腰に太い腕を回すレッシュの腹に背中を預けて、こうなってしまうと、彰はもう大人しくレッシュに身体を預けてしまうのだ。
 それは、一番最初にレッシュが彰に教え込んでいた行為で、その為、レッシュの傍に行ってしまうと彰はすぐに警戒心を解いてしまう。
 それすらも可愛いと思っているのだから…ヒースはうんざりしたような、彰、ご愁傷様の表情をして物見鳥を空に帰すと、青い顔をしたままで船の舳先に行ってしまった。

「嫌なモンは嫌なんだから仕方ないだろ」

 寄り添うように座っているくせに、可愛くないことを口にしてプイッと外方向く竜使いの顔を覗き込むようにして、それでもレッシュは隻眼でニヤニヤと嬉しそうだ。

「だが、話は聞きたい。そうだろ?」

「うー…まぁ、うん」

 ガックリしたように頷く彰の腹の辺りに背後から抱き締めるように回している腕に、彰は無意識でソッと手を置く。それは嫌だからと拒絶する意味ではなく、何か、心の拠り所を求めているような、それは自然と不安を持つ彰が覚えた行為のようだ。

「ネロに懐いてるみたいだが…」

 思わずと言った感じで口を開いたレッシュを、彰は訝しそうに眉を寄せて見下ろした。
 真っ青な空には雲ひとつなく、ピーカンの太陽を受けて生まれつき色素の薄い髪がキラキラと輝いて、きょとんとした表情が影になる顔を見上げたまま、レッシュは隻眼を眩しそうに細めたが、それ以上は何も言わずに首を左右に振った。

「まぁ、いい。ガルハだったな?あの国は竜騎士の流れを汲むハイレーン族が支配しているんだが…ハイレーンってのは、もともとはエルフと同じ種族だったのが魔族の介入で袂を分かれたんだよ。その一族の現在の皇子が、いい年をしてるくせに立太子もせずに放浪の旅をしやがってんのさ」

「へー。放浪の旅って…なんか、スゲー皇子さまだ」

 思わずと言った感じで彰が噴出すと、レッシュはやれやれと言いたげな顔付きをして溜め息を吐いた。

「まぁ、彼の国では笑ってもいられんだろうがな。なんせ、たった独りの皇子が賞金稼ぎなんかしてるんだぜ。海賊となんら変わりねーんだし、皇帝は頭を痛めてるだろうよ」

「賞金稼ぎ?…なんと言うか、ホントにハジケた皇子さまなんだな」

 そこまで聞いて、彰は心の底から呆れてしまった。
 どんな経緯があるのかは判らないのだから、あまり酷いことも言えないのだが、一国を担うべく生まれたはずの皇子が、国を省みずに海賊と同じようなヤクザな仕事をしながら放浪の旅をしているのだ。自分たちが生まれ育った世界では考えられない要人の行動に、彰は呆れを通り越して、一種の感動すら覚えていた。
 それだけハジケた皇子ならば、庶民の気持ちを理解する心を持ち合わせているのではないだろうか。

「現皇帝が存命の間は何でもする、ってのが、ルウィンの考えなんだってよ」

「ハジケた皇子さまの名前はルウィンって言うのか」

 彰が興味を示したように呟くと、レッシュは海よりの風に真っ赤な髪を弄ばせて、どうでもよさそうに首を左右に振る。

「正確には違う。賞金稼ぎには通り名ってのがあってな。ルウィンは通り名だ。本名はアスティア…なんて優しい名前をしているくせに、やることは守銭奴で、名は体を現していないヤツさ」

「へー…王族なのに守銭奴って、面白そうな人だな。俺、逢ってみたいなぁ」

 放浪しながら世界を旅している存在なのだから、恐らく、この船の住人たちよりも物事を理解しているのではないか…もしかすると、何処かで泣いているかもしれない兄弟のような少年の居場所を、或いは知っているかもしれない。
 ウルフラインの国に寄港した際に逃げ出したら、真っ先にその人を捜してみようかと思い、彰は諦めたように自嘲的に微笑んだ。
 容姿も何も判らない相手を、どうやって捜せると言うのだ。
 日頃はダレたライオンのようなレッシュは、直感力…と言うか、非常に勘の良いところがある。根掘り葉掘り、そのルウィンと言う賞金稼ぎのことを聞けば、ヘンな疑いを持って、漸く自由になった行動を見張られかねないのだ。

「アイツは世界中を旅しているからな。何時か会うこともあるだろうが、今は立太子するんで国に帰っているのか。あの国は今は立太子の式典から、ハイレーン族の賞金稼ぎのギルドが選抜大会を行うとやらで、随分と賑わってるんだろうな…お前がウルフラインの神竜と逢うのが遅くなってもいいってんなら、ガルハに寄り道してやってもいいんだぜ?」

「ホントか?!…あ、でも。また何か条件があるんだろ??」

 ワクワクと双眸を輝かせて自分を見詰めていた顔にパッと嬉しそうな微笑を浮かべた彰だったが、すぐに笑顔を引っ込めると、胡散臭そうな目付きをしてジトッとレッシュを見下ろした。
 それほど自分は彰に不信感を与えるような真似をしてきたのかと、今更、下唇を尖らせて面食らったレッシュは、空いている方の手で隻眼の目を覆った。

「…そうだな。今夜から俺の横で寝るんなら考えてやる」

 だが、ついつい口が滑ってしまうのは、拗ねたように眉を寄せる彰の顔が可愛いからだ。
 覆っているはずの指の隙間から盗み見れば、彰は困惑したように眉を寄せはしたものの、暫く逡巡して、仕方なさそうに頷いたのだ!

「判った。ガルハとか興味あるし。そのひとにも逢ってみたい。この世界のこと、少しでも知りたいからな」

 ムスッと不貞腐れる彰の腰を唐突に引き寄せて、レッシュは倒れそうになる彰の背中に顔を寄せた。
 あたたかな温もりを何故か必要だと思うようになって、気付けば手離し難い想いに駆られることもある。
 何時か、ウルフラインに行けば確実に手離さなければならない温もりなのに、どうしてこんなにも焦燥感に駆られてしまうのか。何時から自分は、温もりを必要とし始めたのか…
 レッシュは何も言わなかった。
 たとえば、どうしてそこまで彰がルウィンに興味を示したのか、気にならないと言えば嘘になるが、好奇心に双眸をキラキラと煌かせているのを見れば、自ずと答えは判るような気がしたし、何より、手離し難い衝動に駆られている自分は、ウルフラインまでの道のりを、ほんの少しでも遅れさせようと画策しているのだから、彰の行動を訝るよりも、自分自身の行動に瞠目しなくてはいけないのだ。
 レッシュは目蓋を閉じたまま想う。
 ある日、天から降ってきた少年は世界の運命を変える存在であったはずなのに…まるでその手始めだとでも言わんばかりに、炎豪だ、海の死神だと恐れられるゲイルの頭領の心すら変えて、気紛れな海のような底知れぬ穏やかさで興味も何もかもを掻っ攫ってしまった。
 恐怖と畏怖、そして偉大な実力を持ったファタルの御使いは飛び切りの美姫か、山のような大男だと信じて疑っていなかったと言うのに…振ってきた少年は何処にでもいる平凡な、レッシュにだけは警戒心丸出しで威嚇するくせに、些細なことで好奇心に双眸をキラキラさせて、胸の奥に久しく忘れていた少年の心を思い出せた非凡な存在だったのだ。
 手離せるか?と自分に問う。
 心の奥深いところで『否』と言う声を聞く。
 ウルフラインに連れて行くと約束した竜使いを、手離せずにいる自分のままならない心に戸惑って、立ち竦んだまま身動きも取れないレッシュは、傍らの温もりに縋るように両腕で抱き締めていた。
 少年はあまりに小さくて儚くて、力強く抱けば壊れてしまいそうなほど華奢だったが、それは彼が190センチはありそうな長身で体躯のガッシリした海賊だからだと、彰は鼻に皺を寄せて悪態を吐くだろう。
 それが楽しくて…やはり、心の声は『否』だと言う。
 海よりも冷やかで冷徹なはずの海賊の頭領は、燃え上がる情熱の焔に苦しんで、突然の出来事で目を白黒させて、不思議そうに小首を傾げる彰を抱き締め続けていた。
 海を渡る風が彰とレッシュの身体を一瞬包んで、そして何事もなかったかのように吹き過ぎていった。

第一章.特訓!24  -遠くをめざして旅をしよう-

「ルウィン、酷い。ウソツく」

「別に嘘なんか吐いちゃいないさ。現に、モースが魔物だなんて一言も言っていないぞ、オレは」

 それはそうなんだけどもと、光太郎はカウンターに腰掛けたままでムッツリと俯いてしまった。
 そんな様子を見詰めていた緑の魔物…と、光太郎が勘違いしたラドン族のモースは、ニコニコと憎めない笑みを浮かべたままで、冷えたアルシュのジュースをカウンターに置いた。
 カランッと氷が小気味良い音を立ててグラスを冷やしている。

「まぁまぁ、そんなに喧嘩しないで下さい。せっかく、仲が宜しいのに」

「うっ!…べ、別にオレは仲なんかよくしていないぞ」

 ムスッと怒るルウィンに、モースはさらにニコニコと微笑んだ。

「僕、仲良くする。ルウィンのこと、好き。うん」

 物珍しげにアルシェの満たされたよく冷えているグラスを興味深そうに見詰めていた光太郎は、今ではもう、ちっとも怖くないラドン族のお喋り好きなモースを見上げてニコッと笑った。
 屈託のない笑みは、モースの心を温かくしているようだ。
 それでなくても、外見とは裏腹の人の好いモースである。彼が光太郎を気に入るのは当たり前のことではあったが、まさかモースに仲良しなどと言われるとは思ってもいなかったルウィンは、照れ臭さ半分の不機嫌さでクスコの酒が満たされたグラスを引っ掴むとバツが悪そうに呷るのだ。

「あははは、これは素直な方ですね。こう言っては失礼ですが、ルウィンさまのお連れさまだと言うのにお可愛らしいですね」

「オレの連れだと可愛い輩はいないってのか?」

 自分で言っておきながらルウィンは、ふと、首を傾げたが更にバツが悪そうに、苦虫でも噛み潰した顔をするから、話の展開に追いつけない光太郎は少し動揺したようにオズオズと不機嫌な銀髪の賞金稼ぎの顔色を伺ってしまう。
 それが更に拍車をかけるのだが、気付けない光太郎の屈託のなさにルウィンはつんっと先端の尖っている長い耳を伏せて、同じく眉まで八の字にしてやれやれと溜め息を吐くしかない。
 ルウィンの連れで、正真正銘に可愛い存在など、モースが言うように居た例などないのだから。

「わたしはラドン族のモースと申します。この酒場、『アンカー』で給仕の仕事をしています」

 そんなルウィンを爽やかに無視して、モースは物珍しいお供を細い目を更に細めてニコニコ笑いながら丁寧な自己紹介をした。
 光太郎はどんな顔をしたらいいのか判らずに、取り敢えず、水滴の浮いたグラスを掴んで咽喉を潤しながらルウィンの横顔を見上げていたが、モースの満面の笑みにニコッと頬の緊張を緩めると、たどたどしい共通語で答えた。

「僕は…えーっと、カタ族です。そして、コータロー、言う」

「コータローさまですか!珍しいお名前ですね。でも、カタ族ならそんな名前があったとしても、けして不思議ではありませんね」

 カウンターの向こう側で忙しなく酒やジュースの準備をするモースが、幾度か反芻して頷きながら、自分を指差して一生懸命に自己紹介している光太郎に微笑んだ。
 自分の言葉が少しずつではあるが通じているのだと安心した光太郎は、ホッとしたように笑う。
 そして、すっかり安心しきった様子で、傍らで呆れたように眉をヒョイッと上げて微かに首を傾げたような仕種をしたルウィンを見上げるのだ。

「ルウィン、よかた。僕の言葉、通じるね」

「そうだな。もう、不自由はしないな」

「うん」

 頷く光太郎の、罪のない漆黒の髪を見下ろしながら、ルウィンは青紫の神秘的な双眸を、何か眩しいものでも見た人のように細めてしまった。

「?」

 不思議そうに光太郎が首を傾げた丁度その時、やたらハイテンションな音声が響き渡って、驚いたなんちゃってカタ族の少年はビクッとしたように首を竦めたが、銀髪の賞金稼ぎは慣れてでもいるのか、いや、光太郎がよくよく見渡してみれば、その音声に驚いている者など誰もいない、ましてや、待っていましたとばかりに様々な種族の人々が嬉しそうな顔をしているのだ。

(な、なんなんだろ??)

「あっらぁ~、ルウィンさまじゃないのぉ。お元気でしたぁ??」

 うっふんと、大柄な体躯をビチビチのボディコンで装備した、やたらゴツイおねぇさんは、何やら野太い声で叫ぶようにそう言うと、憎めない垂れ目の下の泣き黒子のセクシーさに光太郎が声も出せないほどぶっ魂消ていることはさらっと無視で、不機嫌そうな銀髪の賞金稼ぎに思い切りタックルするのだ。

「…まあな」

 そうなることは予め判っていたのか、同じように先端の尖った耳を有する、どうやらルウィンと同じ種族であるらしい強烈なゴツイおねぇさんを首に噛り付かせ、テカテカのグロスが塗りたくった唇でぶちゅぶちゅと頬にキスの歓迎を受けながら、銀髪の賞金稼ぎは不機嫌そうに呟いた。

(でも、けして嫌がりはしないんだな)

 不機嫌そうではあるけれど、もう慣れているのか、それとも、ルビアがルーちゃんと呼ぶことに対する違和感のなさと同じなのか…いずれにしても、ルウィンは嫌がることなく受け入れているのだ。

(普通なら、これだけ美形の人だと、変なことされたとか、嫌なこと言われてるって思って口もきかないと思うんだけどなぁ…)

 アルシュのジュースを飲みながら光太郎は、まるで全てが当たり前で、自然なことだとでも言わんばかりに雪白の頬にベッタリと熱烈なルージュの痕を残したままで肩を竦めるルウィンを見上げていた。

「ルウィン。うん、最強」

「…は?」

 嫌そうに頬を拭うでもなく、ゴツイおねぇちゃんの熱烈な歓迎をそのままで、酒の入ったグラスを傾けるルウィンに、慌てたようにモースが綺麗な布でその頬を拭うのも、やはりルウィンは、当たり前のことのように受け止めている。
 恐らく、目の前で繰り広げられている一連の出来事は、彼がすっかり馴染んでしまうぐらいには、日常茶飯事で起こりえることなのかもしれない。

(それなら納得できる…ってことで、ルウィンは最強だよ)

 納得だと頷いてる光太郎を、不思議そうに見下ろすルウィンの傍らで、漸く思いの丈を込めた歓迎が終わったのか、口許に笑みを浮かべたままのゴツイおねぇちゃんが嬉しそうにそんな少年の身体を思い切り抱き締めた。

『うわぁ!』

 問答無用で抱き締められてしまって、嫌がって逃げるどころか、どう対応していいか判らずに硬直してしまった光太郎は、ああそうか、と思うのだ。
 きっと、ルウィンも硬直してるんじゃなかろーかと。
 まさか、そんなはずはないのだろうが、肩を竦めるルウィンに、ビチビチボディコンのゴツイおねぇちゃんがウィンクする。

「可愛いお連れさんね。ルウィンさまの新しいお小姓さん?」

「ぶっ」

 思わずと言った感じで噴出すルウィンのテーブルに腰掛けた深紅の飛竜が、面白そうにその顔を覗き込んでいるのは愛嬌だろう。

「違う、僕は…コータロー」

 お小姓の意味などこれっぽっちも判らなかったが、明らかにルウィンの態度と面白がっているルビアの様子から、どうやらあまり宜しくない発言なのだろうと受け止めた光太郎は、抱き締められたままでブンブンッと首を左右に振って否定した。

「あらん~、違うのねぇ。じゃあ、コータローちゃんはなぁに??」

「カタ族」

 頷きながら応えると、ボディコンのパッツンパッツンなおねぇちゃんはニヤッと口許に笑みを浮かべたままでルウィンを凝視していたけれど、すぐに身体を離して不吉だと噂される黒髪と黒目のカタ族を名乗る少年を見下ろした。

「あたしはキティよ、コータローちゃん。この酒場『アンカー』の女!主人よ。あなた、気に入ったわ♪」

 女に微妙な力加減を感じ取ったものの、思い切りゴツイ頬で頬擦りされてしまうと、綺麗に処理しているはずなのにそれでも消しきれない男臭さにか、それまで緊張していた肩の力が抜けて、ああなんだ、ここの店主さんなのかと光太郎はあからさまにホッとしたようだった。

《ホッとするのはヘンだと思うの》

 鋭いルビアの突込みではあるが、今の光太郎にはもちろん通用しない。

「ドンちゃん、キティ、会うが楽しみでした」

 ニコッと笑って、その時になって漸く、ルビアは光太郎がホッとした理由が判ったのだ。

《なんなのね、てっきり気に入られてホッとしたのかと思っちゃったのね》

 つまらなさそうに元から尖っている口先をさらに尖らせるようにして呟くルビアに、不吉だとされる漆黒の髪と瞳を持つカタ族の少年を大切そうに抱えた、ガルハ帝国の首都ラングールの中心部に位置する無国籍の酒場『アンカー』の店主にして、元王宮近衛隊の隊長であったドン・バロモアはニヤリと笑ってグロスの塗りたくられた厚めの唇を窄めた。

〔ルウィン様がこの少年をこのバーにお連れになったと言うことは、それなりに何か理由があるのですね?〕

 不意に、口調を改めてガルハ特有の言語で語るバロモアをルウィンは見遣った。

「…」

 言うべきなのか、それともいっそ、このまま連れ去ってしまうべきなのか…拾った異世界の少年は、長く傍に在れば在るほど、離れがたい何か不思議な力を持っているようだった。
 バロモアに促されても即答できない自分に驚くと同時に、意味深な眼差しで心の内側までも見透かしてしまいそうな旧い付き合いの師匠に、その全てがばれてしまわないかと不安にもなる。

(どうかしている、不安になるなんて…)

 仄暗い店内に燈るオレンジの蝋燭の明かりは、ルウィンの頬に暗い影を落とした。

「?」

 バロモアに抱き付かれたままで不思議そうに見詰めてくる光太郎の、そのきょとんっとした漆黒の瞳を見つけて、この国の第一皇子は自らの立場を思い出したようだった。

〔すまないが、バロモア〕

 同じくガルハ特有の言語で語るルウィンを見上げて、光太郎の眉がソッと寄った。
 この言語が飛び出す度に、何故か、自分を拾ってくれた銀髪の賞金稼ぎは何か言いたそうな、もどかしい表情をしたままで口を噤んでしまう。
 何か言いたくて、言えなくて…

(それがなんなのか、俺は凄く知りたいのに)

 一抹の不安がまたしても胸を過ぎった。
 思わず唇を噛む光太郎に気付くことなく、ルウィンの問いかけに、バロモアはふと神妙な顔をした。
 それが余計に、光太郎を不安にさせていた。

〔暫く、コイツを預かってくれないか?〕

〔暫く…と申しますと、皇子、もしやまた城を空けられるおつもりですか?〕

 まさかその部分を指摘されるとは思わなかったのか、思わず呆気にとられそうになったルウィンだったが、気を取り直したように咳払いをして眉間に皺を寄せた。

〔当たり前だ、用事が済めばとっとと出て行くさ。父上の治世が続く限り、オレが国に留まる必要はない。オレは、多くをこの目に焼き付けて、この国をさらに発展させなきゃならないんでね〕

 悪戯っぽく苦笑するルウィンを見詰めて、そうして、バロモアは小さく溜め息を吐いた。

〔…皇子、あなたはそうして、御身の宿命を受け入れる旅を続けられるのですね〕

〔それは関係ないさ〕

 さらにクスッと笑うルウィンに、どうしてと、バロモアは考える。
 この美しく気高い、そして下世話さをも併せ持つこの国の国民の誰もが愛する皇子に、運命はこれほどまでに過酷な試練を与えるのだろうか…と。

〔それなのにあなたは、さらにこの少年の運命さえも背負おうとしているのですか〕

 呆れたような、なんとも言えない表情で見詰めてくるバロモアに、ルウィンはやれやれと言いたそうに、長くピンッと立っている先端の尖った長い耳を伏せて、大人しく『アンカー』のママに抱かれている光太郎を見下ろした。

〔仕方ないさ。拾ってしまったんだ、最後まで面倒をみないとな〕

 それでも、僅かに覗く嬉しそうな表情に、バロモアはおや?と眉を顰めた。
 ルウィンのそんな表情は、彼が子供の頃から剣の師範をしていた自分が、初めて見る表情だった。

〔…判りました。ご安心ください〕

 バロモアはニッコリと笑って快く承諾した。
 どうせなら、この国が何よりも大切に考えている第一皇子のたっての願いだし、何より、火吹き竜と恐れられた彼にこんなやわらかな表情をさせる、不吉の象徴でしかない筈のカタ族の少年を傍で見守りたいと思ったのだ。

「すまないな、キティ」

「あらぁ、ルウィンさま♪この子ったら可愛らしいから、客受けバッチリですわよ」

 うふふふ…ッと不気味に笑うバロモアを光太郎が不安そうに見上げると、その仕種にルビアが顔を顰めた。

《光ちゃんはダンサーには向いてないのね!》

『ダンサー!!?』

 ルビアのとんでもない発言に、素っ頓狂な声を上げた光太郎は、あわあわと慌てふためきながら首を左右に振って、今にも泣き出しそうな表情でルウィンに両腕を差し出した。

「ダメ、僕…踊るしない。ルウィン、ごめんちゃい。置くしない、連れて行く」

 一抹の不安…それは、置いて行かれるのではないかと言うこと。
 光太郎が何よりも心配していたのは、この場所に、いや、何処でも、ルウィンのいない場所に置いて行かれることだった。
 だから、必死にごめんなさいと謝るのだ。

「何を謝ってるんだ?馬鹿だな、仕事が入ってるんでね。その間、バロモアに面倒を見て貰うように頼んだのさ。別にダンサーにするなんて言っちゃいないだろ?」

「でも!…ルウィン、戻ってこないかもしれない。僕、心配。連れて行くッ」

(何か悪いことをしたんだったら謝るから、だから、お願いだから置いて行くなんて言わないでくれよッ)

 日本語で言えないもどかしさに、どう話せばルウィンが理解してくれるのか、それが判らなくて光太郎は頭を掻き毟りたい衝動に駆られるのだ。
 もしかしたら、もうこのまま会えなかったらどうしよう。
 光太郎の頭は、傍目からでも判るほどグルグルしていたから、ルウィンは驚いたように眉を跳ね上げて、それからバロモアに腕を放すように促して光太郎を解放させた。
 不意に抱き付いてくるその行動を、ルウィンは予め予測していたのか、驚いた風でもなくやれやれと溜め息を吐く。

「別に、迎えに来ないとは言っていないだろ?一仕事終えたら、ちゃんと迎えに来てやるさ。キティにそれほど迷惑もかけられないからな」

「ルウィン、仕事危険。ダメ、僕も行くッ」

 光太郎が何より心配しているのは、置いて行かれること。
 何故なら、ルウィンの仕事がどれほど危険で、そして、命懸けであるかを知っているからだ。

「…ああ、お前。別にダンサーになるのが嫌なわけじゃないんだな」

(いや、十分、それも嫌だ!)

 突然、ルウィンが何を言い出したんだろうかと、光太郎はあわあわしながら銀髪の賞金稼ぎを見上げていた。
 ルウィンはクスッと笑った。

「オレは泣く子も黙る銀鎖の賞金稼ぎなんだぜ?ちょっとした仕事ぐらいで死ぬか。ただ、今回は時間がかかるからバロモアにお前を頼むんだ」

「…でも」

 それならどうして、ルウィンはあんな表情をしていたんだ?
 それならどうして、共通語で話してくれないんだ?
 どうして…俺は共通語を上達できないんだろう。

「でも…」

 言葉が出ずに俯いてしまった光太郎をルビアが心配そうに見詰め、それから、意を決したように背中の翼を羽ばたかせて舞い上がった。

《大丈夫なのね!光ちゃんの傍にはちゃーんと、このルビアさまが一緒にいるのね♪》

「ルビア…?」

 ふと、眉根を寄せるルウィンに、ルビアはツンッと外方向きながら、光太郎の漆黒のやわらかい髪に舞い降りた。

《それなら大丈夫なのね。ルウィンがちゃんと戻ってくるって思えるの》

「でも、ルビアいない。ルウィン危険です」

《このルビアさまが行かなくてもいいって言ってるのね。大丈夫ってことなの》

 ふふーんっと頭の上で胸を張るルビアの言葉を聞いて、漸く、混乱していた光太郎の頭が落ち着いてきたようだった。

「うん、ルビアの言うとおりだね」

「オレの言葉は信じないくせにルビアは信じるのか」

 ちょっとムッとするルウィンに、光太郎はエヘヘヘッと笑って見上げた。

「だってルウィン、無理するから。ルビア言う、大丈夫」

 なんだよそれは、と、子供のように唇を尖らせるルウィンに、光太郎は嬉しそうに笑った。
 ルビアと待つのなら銀髪の賞金稼ぎを待つことができる、それは、言外に彼の身を案じている黒髪の少年の精一杯の譲歩なのだろう。

(これは、なんだか面白くなりそうだな)

 バロモアは腕を組んで、そんな奇妙な3人連れを見遣った。
 あの、何に関しても無頓着で無関心だった皇子のこんな姿は初めて見るし、その姿をさせる少年は、絶対的に皇子を信頼している。少しでも傍を離れると、不安で仕方ないのだろう。
 その精神安定に、ウルフラインの皇太子がいる…と言うのは。

(どうのような構図がこの短い期間で築き上げられているんだ?)

 前にルウィンがこの酒場を訪れたときは、草臥れた装束に身を包んだ姿は今と同じだが、全く雰囲気は違っていた。
 無関心で無頓着で、傍らにウルフラインの皇太子がいることすら気付かないような、此処ではない何処か遠くを見詰めているような、掴みどころのない雰囲気だったのだ。
 それなのに、今のルウィンはどうだろう。
 ささやかなことに腹を立て、だが、その行為を喜んでいる。
 国民が愛している皇子は、その愛される要素をさらに深めているではないか。
 何が皇子を変えたのか…バロモアはその秘密を知りたいと思うようになっていた。

第一章.特訓!23  -遠くをめざして旅をしよう-

 広大な自然に突発的に現れた整然とした町並み…遠くに見える白亜の城は、晴天から降り注ぐ陽光に煌き、本来持つ要塞としてのイメージを払拭していた。
 光太郎がトルンから見た、大パノラマのガルハ帝国首都ラングールは、煌く城を中心に石造りの壮大な街並みを築いた、自然と共に共生している…まさにお伽噺から抜け出てきたような荘厳にしてどこか懐かしい街だった。

「…」

 ポカンッと口を開けたままでキョトキョトしている光太郎に、ルウィンは快調にかっ飛ばしながらニヤニヤ笑っている。
 今まで見てきた小規模な町を想像していた光太郎が、『街』と言うものを見てどれほど驚いているだろうかと、今すぐその顔が見られないのが残念だとさえ思っている。

「どーだ、凄いだろ?」

 すっ飛んでいく周りの風景と同じように風に千切れ飛ぶ言葉に慌てたようにその背中にしがみ付きながら、光太郎はうんうんと思い切り頷いて大声で叫んだ。

「すっげー!!まるでRPGの世界、いるようッ」

「アールピージィ?そりゃまた、よくワケの判らんことを」

 ルウィンは思わずと言った感じで噴出しながら、軽く前輪を浮かせて更に速度を増せば、光太郎とルウィンの間でヒーッと悲鳴を上げるルビアがヒョコンッと頭を覗かせて喚き散らした。

《飛ばしすぎなのね!いっくらお家が恋しいからって子供っぽいのねッ》

「うるせー!別にオレは家が恋しくて飛ばしてるわけじゃないッ」

《じゃあ、なんなのね!?》

 背後で悪態を吐くルビアにルウィンは、普段は掛けないのだが、かっ飛ばすときにだけは着用するゴーグルの奥でニヤニヤと笑っている。
 銀の髪が切れそうなほど吹き付けてくる風に飛び散るように舞い、それが綺麗だと思うのは賞金稼ぎを生業としているハイレーン族の青年の背中に守られている光太郎ぐらいで、件のルビアは苛々と押し潰されていた。

「そりゃあ、もちろん!」

 そこで一旦バウンドした車体に振り落とされないようにハンドルを握り直したルウィンは、にやぁっと笑って猛然と吹き付けてくる風に挑むようにトルンに魔力を注ぎ込んだ。

「光太郎にもっとRPGとやらの世界に浸ってもらう為だろッ?」

「ええー!?」

 いきなり名前が飛び出て吃驚する光太郎を他所に、ルビアは《それなら仕方ないのね~》と納得してしまっている。それにも驚く光太郎だが、彼は知らなさ過ぎるのだ。
 ルビアが過保護すぎるほど大事にしていると言うことに。

「もっとって…街凄い??」

 語彙に乏しい光太郎が必死に尋ねると、ルウィンは速度はそのままで肩を竦めている。

「さぁな。見てからのお楽しみでしょ」

 そんな2人の会話をムッツリしながらも聞いていたルビアはふと思うのだ。
 最近のルウィンには感情がある、と。
 別にまるっきり感情がなかったわけではないのだが、このハイレーン族の高貴なる王族の血を色濃く受け継いでいるルウィンと言う通り名の賞金稼ぎは、どこか飄々としていて何事にも関心を示さない無関心な男だった。
 それが光太郎を弥が上にも養うようになってからと言うもの、無関心であり続けることができなくなったのか、そもそも本当はこれが本来のルウィンの性格だったのか、今の彼は光太郎と付き合っている間に饒舌にもなった。
 ちょっとした冗談も言えば、根気良く言葉覚えに付き合うような面倒見のよさがうかがえる一面すらあるのだから、ルビアが嬉しそうにふふふっと笑っても仕方がない。

「なんだ?思い出し笑いなんかして気持ち悪いぞ」

《んふふふ♪だって、ルーちゃんがいい感じなのね》

「はぁ?」

 相変わらずワケの判らない相棒である深紅のチビ飛竜の思惑など与り知らぬルウィンは、どうでもよさそうに肩を竦めて一路ガルハの首都、ラングールを目指すのだった。

 すっ飛ばしたおかげで夕暮れ前にラングールに無事到着した一行は、取り敢えず今夜の宿を決める為にトルンを引きながら徒歩で大通りに入った。
 本来ならトルンに乗っていても別に気になるほど狭い道ではなく、下手をすれば光太郎がいた世界の4車線ある車道をゆうに超える広さがあるのだが、今は何か祭りでもあるのか所狭しと露店が軒を連ね人込みも半端ではない。

「ルウィン、お祭りする?」

「…ああ、この国の皇子が結婚するんだとよ」

「ええ!!?」

 ルウィンの台詞に驚いたように声を上げたのは、深紅のふんわりふわふわのクルクル巻き毛をツインテールに結んで、それだけが爬虫類の名残を思わせる縦割れの瞳孔を持つエメラルドの瞳を大きく見開いた少女の口から発せられていた。

「?」

 迷子にならないようにと光太郎はルウィンの服を、ルビアは光太郎の服を掴んでゾロゾロついて歩いていたのだが、その飛竜族の皇太子にして賞金稼ぎ見習いは吃驚したように目をまん丸に見開いている。
 そんな目付きに凝視されて、居心地が悪そうにトルンを引くルウィンは不機嫌そうに外方向いている。

「皇子さま、ケコンする?よかたね」

 ニコッと、状況を良く掴めていない光太郎が笑いながらルウィンを見上げると、これ以上はないほど眉を寄せてうんざりしているルウィンがそんな自分を複雑そうな目付きで見下ろしていることに気付いてドキッとしてしまう。
 でも、よくよく見れば、彼の先端の尖った長い耳はへにょりと垂れてしまっている。
 どうやら『参った』の気持ちのようだ。

「おっどろいたの!だから、ガルハに戻るって言ったのねッ」

 ムスッとしたように眉を寄せて鼻に皺を寄せる美少女に、銀髪の賞金稼ぎはフンッと鼻を鳴らして外方向く。

「あー、そうだよ。こんなことでもなきゃ、オレは国には戻ってこないからな」

「…あ!」

 その台詞だけで、小さな頃から常に一緒にいた幼馴染のようなルビアは気付いたのだ。

「あー、なるほどなのね。早く言ってくれればいいの」

「言ってどうかにかなる問題かよ。やれやれだ」

 うんざりしたようにトルンを引きながら人込みを掻き分けるように進む銀髪の賞金稼ぎと、あの王様もよくやるなぁと思っているような美少女を交互に見ていた光太郎が、ポツンと疑問を投げかけた。

「…どして、ガルハ皇子さまのケコンでルウィン戻る?」

「え!?」

 思わずギョッとしたように自分を見上げる漆黒の双眸を見下ろしたルウィンは、微かに動揺したように目線を泳がせてから、どう言う対応をするんだろうと楽しみそうにワクワクしているルビアの目の前でニコッと笑ったのだ。

「そりゃあ、お前!オレがガルハの皇子と知り合いだからさッ」

「なぬ!?」

 思わずギョッとするルビアの足を軽く蹴って問答無用で話を進めるルウィンに、光太郎は驚いたように眉を跳ね上げたのだ。

「ルウィン、すごいね!皇子さま知り合い?」

「あ、あー、そうなんだ!賞金稼ぎでもランクSになると特別でさ。王族とも良く顔を合わせることが多いんだ。オレなんか優秀だから、引っ張りだこで参っちゃうね!あっはははー」

(ゲロばれなのね)

 いやぁ参ったなぁと片手で頭を掻きながらしどろもどろで下手糞な作り笑いをするルウィンを信じられないものでも見るような目付きで凝視しながら、ルウィンがガルハ帝国の皇位継承者である皇子だと光太郎に内緒にしているだけに、ルビアが内心でハラハラしながら見詰めていると…パチパチと瞬きをした光太郎はちょっと考えるように小首を傾げたが、それでもニコッと太陽に似た花が咲くような笑みを浮かべて頷いたのだ。

「やっぱ、ルウィンはすごいね!」

「え!?ばれないの!!?」

「そこ、煩いよッ」

 ルウィンが天然で嬉しそうな顔をする光太郎に突っ込みを入れるルビアの頭を軽く殴ると、光太郎はニヘッと笑ったままで不思議そうだ。

「じゃあ、ルウィンは皇子さま会う?僕も会える?」

「…お前は会えないよ」

 ワタワタと慌てふためいていたルウィンはだが、ふと神秘的な青紫の双眸を伏せて微かに俯くと、少し伸びた銀色の前髪に表情は隠れてしまう。

「そっか。RPG、滅多に王様に会えない。無理しない」

 素直に頷いた、妙なところで理解力のある光太郎を呆気に取られたように見下ろしたルウィンが内心で、「グッジョブ、RPG!」と思ったかどうかは別として、そんな2人を見詰めていたルビアが少しだけホッとしたように肩を竦めた。

(ホントは目の前にいるのね、光ちゃん。もう会っちゃってるの。…ルウィンも言っちゃえばいいのね。ヘンなの)

 別に隠すほどのことでもないだろうにと肩を竦めるルビアの傍らで、トルンを引きながらルウィンが顎をしゃくるようにして光太郎を見下ろした。

「その代わり、オレの知り合いに会わせてやるよ。酒場を経営しているんだが、宿屋も兼ねているからな。今夜の宿はそこにする」

「ドンちゃんのところなのね?嬉しいの!久し振りに会うのね♪」

「そうだな、キティから国に戻ったら立ち寄ってくれと言われていたんだが…なかなかチャンスがなかったから今回は助かるよ」

 パッと嬉しそうな顔をするルビアに肩を竦めたルウィンが少し嬉しそうに笑うと、どうやらその「ドンちゃん」と「キティ」はルウィンとルビアの親しい知り合いだと光太郎は認識した。
 ルウィンたちの知り合いに、この世界に来て初めて会う興奮に光太郎の中から既に「皇子」と言うキーワードは消えていた。

「ドンちゃん、キティ。会うが楽しみ♪」

「あっは♪光ちゃん、違うのね」

「え?」

 キョトンとする光太郎をルウィンもクスクスと笑っている。
 ウッキウキしているルビアといつもより少し楽しげなルウィンのその姿を見ると、よほど、その2人は近しい人に違いないと言うのに、何が違うんだろうと光太郎は首を傾げてしまう。

「ドンちゃんもキティも一緒なの♪愛称なのね」

『あ、そうなんだ!なんだ、俺てっきり違う人の話をしてるのかと思った』

 ホッとした安心感からか、光太郎は思わず日本語で話してしまってハッと口許を押さえてキョロキョロと周囲を注意深く見渡した。

「別に、ニホンゴだっけ?いいぞ、喋っても。お前は逸れカタ族だからな」

「なんなのね、それ」

 呆れたようにルビアが銀髪の賞金稼ぎを見上げると、彼はフフーンッと胸を張るように口許に笑みを浮かべて言うのだ。

「それに、少しだがニホンゴとやらも判るようになったしな。語源が全く違うから難しかったけど、最初は『そうだ』…いや、これは違うな。こうだ、『そうなのか』って言ったんだろ?」

「…る、ルウィン!ホンット、すごい!!」

「え?え?当たっていたの??うっわ!ルビアも吃驚なのねッ」

「ふふん♪」

 今までただ単に判らないと言って放っていたわけではなく、ルウィンは根気良く言葉覚えに付き合いながら、光太郎の世界の言葉も吸収していたのだ。
 さすが、好奇心で城を抜け出して、世界の不思議の全てを知ろうと貪欲に旅を続けているだけのことはあると、ルビアは驚きを通り越して感心してしまった

「伊達に聞いてるだけじゃないんだぜ?光太郎に言葉を教えながらオレも覚えていたのさ。まだある。『ルウィン、あれは花。色がたくさん、キレイ』だろ?それから『これは石、小さな石』だ」

 実際にトルンを引きながら片手で露店の店先に並んだ色とりどりの花を指差して見せると、次は大通りにある砂利を指差しながら的確に言うから、光太郎はますます目を丸くしてしまう。なぜならそれは、光太郎よりも発音が完璧だからだ。
 そのうちルウィンは、もしかしたら日本語すらマスターし、自在に操ってしまうのではないか。

「…ルウィン、日本来れる。すごい」

「お、そうか?じゃあ、いつか行けたらいいな♪」

 あはははと、珍しく声を出して笑うルウィンに、光太郎は本当に感動したようにその雪白の綺麗な顔を見上げていた。
 上機嫌でふふんっとトルンを引いているルウィンから目線を逸らせば、確かに彼が産まれて育った街であるだけに、同じ種族の人が道を行き交っている。先端の尖った耳と雪白の肌、綺麗な人もいれば浅黒い肌にガッチリとした体格の人もいて…だが、その人々の中に在っても、出で立ちこそ長い旅に草臥れた衣装だったが、独特な異彩を放っているように見えるのは光太郎の目の錯覚ではないはずだ。
 もしや、世界中を旅していると言っていたのだから、この異世界アークの言語の全て習得して、それでもなお、もっともっとと知識を蓄えようとしているように思えるルウィンは、同じ種族の中でもひょっとしたら秀でた方なのではないかと光太郎は納得した。

(きっと、彰と一緒なんだ。彰も語学力が高いって先生が誉めてたからな)

「ルウィン!えーっと…頭たくさん!すごいッ」

「…ははは、オレはお前の共通語の方がある意味凄いと思うけどなぁ」

 たまに何を言ってるのかさっぱり判らないこともあるが、やはりもとの姿に戻ったルビアとだけ通用する会話をされるのも気持ちのよいものではなかったし、何より、この不思議な人間が大事そうに使う母国語と言うものに興味を示したのだ。

「異世界の言葉も面白い。発音が不思議だ」

「それはホーゲン。仕方ない」

「ホーゲン?へぇ、何れ日本語をマスターしたら、今度はホーゲンでも覚えるかな?」

「今度は僕、センセイ?」

 エヘヘヘと笑う光太郎に、ルウィンはそうだなと頷いた。

(すげー、ホントにルウィンて人は凄いなぁ。俺でも共通語に四苦八苦してるってのに、この人ってホントはどんな人なんだろう?)

 さすがに最高クラスの賞金稼ぎだなぁと光太郎が感心していると、彼の服の裾を掴んでいた美少女がクスクスッと笑って服を引っ張るのだ。

「ルビア、なに?」

「面白いことを考えたの。ヘンなホーゲンを教えるのね。それでルビアが竜に戻ったら意味を教えてもらうの。一緒に笑ってしまうのね!うっぷぷぷ」

「あ、それいいね」

 コソコソと2人で囁きあって声を殺して笑う光太郎とルビアを、全て筒抜けで聞こえてるんですけども…と、ルウィンが先端の尖った長い耳をへにょっと垂らして呆れたように笑っていると、前方に見慣れた看板が見えて、彼は悪巧みしている相棒どもの頭を軽く小突いて注意を促した。

「そら、着いたぞ。バー【アンカー】だ」

「アンカー…」

 軽く小突かれた頭を撫でながら見詰めた先には、派手なネオンも装飾もない、木製の扉にロゴの入った看板が軽く揺れていて、そろそろ暗くなってきたせいでたった今、店内から出てきた緑色の物体が、手にしたシェードがついていない火付け用のランプから下がったランタンに炎を燈すところだった。

『ま!!魔物ッッ!!ルウィン!街に魔物がッッ』

「…さすがに早口で何を言ってるのか判らんが、モースを見て驚いてるってこたよく判る。と言うことは、魔物がいるって言ってるんだな?」

「落ち着くしない!魔物、おそう。怖い!!」

 思わず抱き付いてぎゃあぎゃあと喚く光太郎の傍らから、走り出したルビアがクルンッと人込みの中で一回転して飛竜の姿に戻ると、嬉しそうに緑色の物体に抱きついたのだ。

「る、ルビア!?ああ、どしよ」

 グルグルなっている光太郎を観察するのも大変面白くもあるが、このままでは大変なことまで口走りそうだと思って、ルウィンは恐慌状態に陥っている光太郎を片手に掴んだままで道の端に避け、トルンをその場に停めると慌てふためく光太郎を抱え上げて緑色の人物のところまでスタスタと歩いて行った。

「わわ!?え?え?もしかして、る、ルビアさま!!?」

 ちょうど、ルウィンがやれやれと溜め息を吐きながらパニック状態の光太郎を小脇に抱えて歩いてくる途中で、思い切りドーンッとぶつかった小さな飛竜に抱き付かれてガサリとした緑色の皮膚を持つ、頭頂部にひと房だけある毛らしきものを華奢な意匠の施された髪留めで1つに纏めた、腰布だけの出で立ちの魔物らしき生き物が驚いたように声を上げている。

「よう、モース。元気にしていたか?」

「へ?あ、ああ!ルウィンさまぁ~!!」

 思わずと言った感じで細い両目を更に細めたモースと呼ばれた緑色の生き物の、嬉しそうな甲高い声に光太郎はビクッと身体を竦めたが、それでも親しげに話しているルビアとルウィンを見ているうちに、どうやら彼が魔物ではないとやっと理解したようだ。

「お元気でおられましたか?キャサリンさまが大層心配されておいででしたッ。ああ、でもご無事で何よりです!ささ、早く店内へ」

「悪いな」

 ルウィンが親しそうに話をしているのだから、まさか彼が人を襲う魔物などではないはずだと、光太郎は深紅のチビ飛竜を抱きとめてニコニコ笑っているモースを見上げながら、ハラハラしたようにジーッと観察している。
 と。

「おや?これはお可愛らしいお連れさまですね」

「!!」

 ヒョイッと、腰を屈めたモースにゴロゴロと懐くルビアを抱き締めたままで細い目を更に細めてニコニコ笑いかけられると、怯えて竦んだ光太郎はそれでも、恐る恐る引き攣ったままでニコッと笑うのだ。

「こ、こにちは」

「おお!これはカタコトでご挨拶ですか。本当にお可愛らしいお連れさまですね♪ささ、立ち話もなんですし、ルウィンさまもルビアさまも、そしてカタコトの可愛らしいお連れさまもお入り下さい」

 微かに震えながらも頷いていた光太郎はふと、人の悪い笑みを浮かべながら自分を見下ろしているルウィンに気付いて眉を顰めた。

「だいじょぶ。もう、怖がるしない」

「だと、いいんだがな」

 語尾に力を込めながらこれ以上はないぐらいの邪悪な笑みをニヤァッと浮かべるルウィンの凄味に、今度は完全に度肝を抜かれてしまった光太郎はヒクッ…と、咽喉に言葉を詰まらせて目を見開いたまま何も言えなくなってしまった。
 光太郎がそんな恐慌状態に陥ってることなど露とも知らぬルビアとモースは、久し振りの再会にお互い嬉しそうに積もる話をボチボチしながら店内へと姿を消した。
 その後を追って、嫌々と首を左右に振って儚い抵抗をする光太郎を小脇に抱えたままで、えらく楽しげにククク…ッと笑うルウィンは未知なる木製の扉を押し開いて、このガルハ帝国で尤も混沌とした場所に足を踏み入れたのだった。

第一章.特訓!22  -遠くをめざして旅をしよう-

「へっくしょいッ…とくらぁ…風邪でも引いちまったかぁ?」

 盛大なクシャミをしたレッシュは鼻を啜りながら間抜けな調子で呟いた。だがそれを笑う者などここにはいない。
 いや、恐らくこの果てない海原のどこか遠くにもいやしないだろう。
 そう思いながら、彰は甲板で気持ち良さそうに長椅子に横たわる獰猛そうな肉食獣を横目で盗み見ていた。そんな彰の本日のお勤めは『甲板掃除』である。
 平凡な高校生だった彰にとって、甲板をデッキブラシで磨いていくのは容易なものではなかった。おかげで毎晩筋肉痛に魘されながら、今では殆ど寝不足状態である。
 フワーッと吐き出したい欠伸を噛み殺しながら比較的真剣にゴシゴシと床磨きに励む彰のそんな後ろ姿を、いつも船長室でダラダラしているくせに珍しく今日は甲板で休んでいるレッシュが面白そうに眺めていた。
 暫く見ない間に、どうやら彰はこの海賊船『女神の涙号』の乗員である疾風のメンバーと親しくなっているようだ。つい先ほども、レッシュがいることを知らない下っ端が気安く声を掛けては、馬鹿話に一頻り花を咲かせて、余った菓子を手渡してから立ち去っていった。
 そうして今も、気軽に「お疲れさん」と声を掛けたヒースが頭領のお出ましに驚いたように眉を上げて、遠見鏡で肩を叩きながらニヤニヤと笑っている。

「お頭、どうしたんでやす?パイムルレイールのお姫さんに追い出されでもしたんでやすか?」

「うるせー、ヒース」

 軽く流して欠伸をすると、彰は掴んでいるデッキブラシを杖代わりに、小休止を取りながらそんなレッシュとヒースを見比べている。

「なんだよ?」

 レッシュがそんな彰に気付いて、目尻に浮かんだ涙を拭いながら顎をしゃくって問えば、その傲慢な態度にムッとしたように眉を寄せた少年はフンッと鼻を鳴らした。

「別になにも!」

 外方向く小生意気な下っ端に、それでもレッシュはクスクスと笑っている。
 日頃それほど寛大ではないレッシュだったが、こと、彰に関しては随分と甘くなると…遠見鏡で口許を軽く叩いていたヒースはコソリとそんなことを考えていた。

「あー、そうだ。アキラ、お前これから俺を起こす係りに昇格な」

「…はぁ??」

 何を言い出すんだと目を見張る彰に、レッシュが何か言うよりも早く、ヒースがその背中をバシンッと叩いて祝福してくれた。そう、海賊たちが喜んだり祝福したり、お祝いする時は必ず手が出るのだ。

「良かったじゃねーか!一人前まであと一歩だ。おめでとさん」

「へ?そうなのか??」

 キョトンとする彰にレッシュは思わず腹を抱えて笑いそうになった。
 いや、勿論昇格と言えば昇格なのだが、何も知らない彰が眉を顰めながら動揺している姿はどこか初心で可愛らしくもある。ヒースにしてみたら、寝起きが魔物のように悪いレッシュを叩き起こす係りなのだ、良くて青痣、悪くて前歯を折るぐらいで終わればいいんだが…と、心の中では合掌しながら、それでもこの『疾風』のメンバーなら誰でも一度は通った試練の道に、チャレンジできるだけでも有り難いのだと彰の無事を祈りながら祝福していた。

「なに?朝起こしに行けばいいのか?」

「そーだな。だが忘れるんじゃねぇぞ。俺は目覚めはいい方だからな」

 何かを暗喩する物言いに、アークに来て間もない彰が理解できるわけもなく、いや、これだけまともに会話しているだけでも驚異的なのだから、その点は人が悪いのはレッシュなのだ。

「ふーん…判った」

 ちょっとはにかんで頷く彰は、どうやらそれでも嬉しいようだった。
 ここに来てもう随分になるが、未だに下っ端扱いだったのだ。どんな内容にせよ、昇格できることは正直に言って嬉しかった。まるで解けなかった問題がいきなりスラスラ解けるような、なんとも言えない達成感のようなものが沸き起こったのだろう。

「俺、頑張るよ」

 あんまり彰が嬉しそうに笑うから、不意にその場にいた大人たちは自分たちが蒔いた種にバツが悪そうに視線を逸らしてしまう。
 よぉし、一人前まで後一歩だと両拳を握り締めた彰が、今夜でもその嬉しい報告を、まるで父親のように寡黙に自分の話を聞いてくれる、あの老コックに報告しようとウキウキしていた。

「が、ガンバレよ」

「?…なんだよ、ヒース。汗掻いてるけど??」

 ギクッとしたヒースは、嫌な汗の浮かぶ額を拭いながらなんでもないんだと首を振って、それから物も言わずに持ち場に戻ってしまった。その背中が、「すまん!アキラ。取り敢えず、逝って来い!」と物語っているかどうかは定かではないが、彰はキョトンとして首を傾げてしまった。

「なんだ、ヒースのヤツ。ヘンなの」

 呆れたように肩を竦めた彰が看板掃除を再開するのを、獰猛な肉食獣のように隻眼を細めて眺めているレッシュは、木桶に満たされた水の中に薄汚れたモップを突っ込むと、引き出す反動で派手に木桶をこかしてしまった彰が、慌てて拭こうとしてスッ転ぶのを、それこそ複雑な表情をして笑っていた。

(まるで道化だな)

 デッキチェアに長々と寝そべったレッシュが思わず笑ってしまうと、水浸しのモップを頭から被ってしまった彰は、途端にムッとしたように顔を上げてそんな海賊の頭領を睨み付けた。

「わ、笑ってんじゃねーよ!船室行っとけッ」

「誰に向かってそんな口を利いてるんだ、アキラ。竜使いでも容赦なく犯すぞ」

「!!」

 冗談だと判っているから余計腹立たしくなる彰は、「畜生ッ!」とブチブチ悪態を吐きながら頭からモップを引き剥がすと空っぽになった木桶に叩き込んだ。
 髪も瑣末な服も、何もかも水浸しになってしまった彰は、良く晴れた青空にぽっかり浮かぶ太陽を見上げるようにして額に張り付く前髪を、水飛沫を飛ばしながら掻き揚げた。
 それはまるで無頓着に良く晴れていて、見上げていた彰は不意に泣きたくなっていた。
 そんなに感傷的な性格じゃなかったはずなのに…異世界に吹く風が彼を涙もろくしているのかもしれない。彰は、太陽の匂いを嗅ぐと必ず思い出すものがあった。
 それは、光太郎の髪の匂い。
 いつも日向の匂いがしていて、自分が何処に連れ回しても嬉しそうについて来てくれていた。本当は迷惑だろうに、仕方なさそうに笑いながらも、最後は一緒になって盛り上がるから、心の底から彰は光太郎を大事に思っている。
 テントで一緒に電池式のランタンの明かりを頼りに、ワクワクしながらオカルト本を読んでいたとき、ウトウトしていた光太郎が寝入ってしまって、想像以上に柔らかい髪はいつもお日様の匂いがしていた。

(アイツ…大丈夫かな。語学力とか乏しいからなぁ、困ってなきゃいいんだけど)

 モップの柄を握り締めながら心配そうに溜め息を吐いた時だった、ふと、自分の背後に気配がしてハッと振り返えろうとした時には彰はレッシュに腕を掴まれていた。

「なにすんだよ!」

「ボーッとしやがって。なんだ、またもとの世界を恋しがってるのか?」

「アンタに関係ないだろ?」

 両手を掴まれたまま身動きできない彰は、背中に覆い被さるようにして自分の顔を覗き込んでくる大男に苛々したように声を荒立てた。いつもはそれで終わるのに、今日のレッシュは昨日の酒でも抜けていないのか、やたらしつこく絡んでくる。

「関係あるさ、おお!大いにな」

「ワケわかんね」

「お前は、この世界に落ちてきた竜使い様じゃねぇか。俺の願いを叶えてくれよ」 

 腕の自由も足の自由も奪われてしまった彰は、耳元で囁かれて、背筋がゾクッとするのを感じた。何か、とても嫌な予感がしたのだ。彰の嫌な予感は、本当に嫌になるぐらい良く当たる…と、学校帰りに光太郎が笑っていた。
 懐かしい顔を思い出していたら、レッシュがふと、彰の肩に顔を埋めるような仕種をした。

「どうか、竜使い。俺の願いを叶えてくれ…」

 その声が何故か、とても寂しいような気がして、からかいやがってと腹を立てていた彰は肩口にある燃え上がるように真っ赤な髪を訝しそうに見詰めていた。

「…俺は、竜使いじゃない。そんなの知らないってもう何度も言った」

「いいや、お前はファタルの遣わした竜使いだ。俺が拾ったんだ、間違いねぇよ」

 掴んだ腕ごと抱き締めてくるレッシュの仕種は、驚くほど優しくて、彰は少なからず目を瞠っていた。
 どうしたんだろうか、この凶暴なはずの猛獣は、昨夜何か、コック長の作った料理以外に落ちたものでも拾って食べて、腹でも壊しているんじゃないかと彰が怪訝そうに眉を寄せていると、レッシュがニヤニヤと笑ったのだ。

「お願いだ竜使い。今夜は俺のベッドでお休みください」

「~アンタはぁ!そうやって俺をからかってばっかだ」

 むかつくなーと溜め息を吐くと、レッシュは腹立たしそうな彰の頬に派手な音を立てて口付けると、大らかに笑いながら目を白黒させている彰を解放してやった。

「じゃー、アキラ。甲板掃除は後回しにして、さっさと水でも浴びて来い。臭くて敵わんぞ」

「む!臭いんなら抱きついてくるな、へんたいレッシュ!」

 いつもながらの悪態を吐いて歯をむく彰に声を立てて笑いながら船室に姿を消すレッシュの後ろ姿を見送ってから、彼は何やら違和感を感じてソッと眉を潜めていた。
 この船を、そしてこの広大な海を支配する海賊の頭領は、まるで何かに怯えでもしているかのように彰を抱きしめてきた。その腕には躊躇いもなく、却って驚くほど素直で必死だったように思うことが自分の間違いでないのなら、レッシュは何かに縋りたいほど叶えたいものがあるんだろうか。
 あれほど自分は『竜使い』と呼ばれるものではない、と何度も言っているのに、自分の審美眼を信じて疑っていないのか、傲慢で我が道一直線のレッシュに妥協など求める方がどうかしているのだが、それでも唇を噛み締めてしまうのは彰が特別な存在じゃないと判り切っているからだ。
 この世界が呼んだのは、恐らく、どこか違う場所に落ちてしまったに違いないあの双子のような幼馴染みなのだろう。

(俺は巻き込まれたに過ぎないんだろうけど…それなのに、レッシュは俺を『竜使い』って言う。そりゃあ、勇者に憧れないこともないけど。そもそも、『竜使い』ってなんなんだ??)

 この船に降って来たときから、この船の住人たちはすんなりと彰を『竜使い』と言って受け入れてくれた。それは言葉を覚えることに役に立ったが、彰の胸にずっと疑問としても蟠っていた。

(そうだ。今夜、ネロに訊いてみよう)

 料理の仕度を手伝えと言って、通常の海賊の仕事をさせてくれない老齢のコック長は、それでも今は誰も利こうとはしない昔ばなしをポツポツと語ってくれて、彰にとっては丁度良い息が抜ける場所なのだ。
 風向きが変わったような気がして、ふと鼻先を掠めた異臭に眉を寄せた彰は、レッシュが言っていたことも強ち嘘ではないようだと認識して、慌てて隻眼の頭領を追うようにして船室に姿を消してしまった。
 凪いでいる海上を凄まじい豪風が駆け抜けて、渡り鳥が怯えたいように啼いている。
 甲板で海上を見張るヒースは、ふとそんな海鳥たちを見上げて僅かに眉を寄せた。
 どうか何事もないように…柄にもなく海の神に頭を垂れたヒースは気付かない。
 鳥たちのざわめきを。
 哀しい予言を。
 鳥たちの声を理解できるはずの隻眼の頭領を船室に隠した『女神の涙号』は、白波を蹴りたてるようにして一路ウルフラインを目指して疾走していた。

第一章.特訓!21  -遠くをめざして旅をしよう-

 砂漠地帯を抜けて漸く緑深い森の中を縦断する、現代社会のようには舗装されていない砂利道の石を跳ね上げながらルウィンたち一行を乗せたトルンは疾走していた。ルウィンの余りある魔力を糧に、長い間放置されていたトルンにしてみれば久し振りの長旅なのだ。気持ち、どこか嬉しそうに陽光を銀の車体に反射させている。

「このままいけば、2日後にはガルハに入れるな」

 漆黒のコートの裾をはためかせながら、背中に必死でしがみ付いている光太郎に言ったのか、或いはルウィンの背中と光太郎の身体に挟まれて押し潰されそうになっている苦しそうな顔をした深紅の飛竜に言ったのか、はたまた誰に言ったでもなくただ呟いただけなのか、ルウィンは突き刺すように流れる風に銀髪を舞い上げながらさらに魔力を注ぎ込んだ。

 歓喜の咆哮を上げたトルンがさらに速度を上げようとしたその時…

「クッ!」

 ルウィンが反射的に魔力を弱めてブレーキをかけると、砂利を跳ね上げながら後輪を振ったトルンがなんとか静止した。その突然の衝撃に目を白黒させていた光太郎が恐る恐る顔を上げると、苛立たしそうに片足をついて車体を支えるルウィンが眉を顰めている。神秘的な青紫の双眸で睨み付ける先には、蠢く何かを引き連れた下卑た笑みを浮かべる薄汚い男が立っていたのだ。

「…」

 ルウィンが無言で見詰めていると、男はどこか拉げたような、咳き込むような奇妙な声を上げて笑った。

「そんな旧式のカラクリに乗った連中を、簡単に通すわけにはいかねぇなぁ」

 もうすぐ死にそうだったルビアがピョコンッと顔を出すとムッとしたように、金切り声のような耳に不快感しか与えない声に被さるようにして怒鳴ったのだ。

《煩いのね!どーしてルビアたちがいちいち断って通らなきゃならないの!?》

 それでなくても不機嫌だったのか、ルビアの剣幕に一瞬怯んだ魔物の群れに、ルウィンはやれやれと溜め息を吐いた。
 だがすぐに態勢を持ち直した魔物たちは、そのリーダー格らしい薄汚い男がキヒキヒと笑いながら舐め上げるように風変わりな旅人を、自分たちの獲物を品定めしているようだ。

「ここを通るには俺たちの許しが必要なのさぁ…ヒヒヒ」

《魔物の盗賊なんてムカつくのね!》

 ムカッと牙をむくルビアをハラハラしたように抱き締めている光太郎は、困惑しながらルウィンを見上げた。その横顔は、双眸を細めて少し顎を上げる、まるで小馬鹿にでもしているかのような仕種をしている。その表情を見た光太郎は、そうか、ルウィンなら大丈夫かもしれないと安直に考えてしまった。

「金目のモノを置いていけばぁ…そうだな、許してやってもいいぜぇ」

 ニヤニヤと笑う下卑た薄汚い男が言い終えた瞬間、不意にトルンが凄まじい咆哮を上げた。
 ドッドッドッと腹に響くような音を立てて身震いするトルンに跨ったまま、その時になって漸くニヤッと笑ったルウィンが口を開いた。

「生憎と貧乏なモンでね。金目のモノと言えばコイツぐらいかな」

「ケッ!そんな旧式のガラクタなんかにゃ用はねぇ!お前の耳にしているピアスを寄越しやがれッ」

 それはルウィンにしてみれば自らを縛る王家の証で、できればくれてやってもいいのだが、流石にこれからガルハに帰るのに無くしましたでは済まされないだろう。ましてや、言い訳など考えるだけでもうんざりする。何より、王家の証を外せないようにと聡明な母が施した、母譲りの強い魔力を制御する為のピアスでもあるのだ。だがもちろん、魔物にくれてやるモノなどたとえあったとしてもないのだが。

「嫌だね」

 いっそハッキリと言ってニッと笑うルウィンのその、どこか馬鹿にしたような口調に魔物の群れはいきり立ったようだ。

《挑発しちゃってどうするのね?》

「お前ってヤツは…自分のことは棚に上げるんだな」

 背後の声に呆れたように肩を竦めるルウィンに、ルビアは当然だとでも言わんばかりにツンッと外方向く。そのいつもながらの遣り取りに、どうやら心配することはなさそうだと判断した光太郎は詰めていた息を吐き出した。

「畜生!やっちまうぞッ」

 薄汚れた男の合図で、それまで蠢いていたオークなどの魔物たちが一斉に咆哮を上げた。まるでそれを合図にでもしたかのように、左右の森の中から身を潜めていたすばしっこい魔物が次々と襲い掛かってきたが、予め気配を感じて予測していたルウィンは腰に履いた銀の鎖が巻きついた鞘から剣を引き抜いて薙ぎ払うように斬りつけた。
 ぼうっと発光する妖剣に切り裂かれた腹部はグズグズと焼かれたように燻って、断末魔を上げる魔物に長い責め苦を強いるのだ。その光景を見て怯んでいた魔物どもを、閃くようにして飛んできた撓る鞭が急き立てる。

「ふん、魔物使いか」

 襲ってきた魔物を薙ぎ払っても刃毀れ1つ、ましてや返り血すら浴びていない銀鎖の妖剣の血溝がハッキリしている腹で肩を叩きながら、ルウィンはやる気がなさそうに誰に言うともなく呟いた。

「ケケケ…俺様をただの魔物使いと思うなよ」

 一瞬、濁った目玉が赤く光って、ルウィンがハッと気付いた時には遅かった。

『え!?わぁっ!!』

《光ちゃん!》

 魔物使いが撓る鞭で思いきり地面を打ちつけた瞬間、一瞬気を取られたルウィンの背後で声を上げた光太郎の姿が忽然と消えてしまったのだ。腰にしがみ付いていた感触が消えて、焦ったように顔を上げた先に魔物使いが操る、まるで生き物のような鞭に絡めとられた光太郎が半べそで謝っていた。

「ルウィン、ごめちゃい」

《何やってるのね!ルーちゃん、早く助けるの!!》

 呆気に取られて目をみはっていると、先端の尖った耳を引っ張りながら急き立てるルビアによって漸く気を取り直したルウィンは溜め息を吐いた。その仕種で、また迷惑をかけてしまう自分が情けなくて、光太郎は唇を噛み締めてしまった。
 強くなりたい、そう思った瞬間。

『あぅッ!』

 ギリッと締め付けられて全身の骨が折れるような錯覚に、光太郎は悲鳴を上げてしまった。
 ムッとしたルウィンはハンドルから片手を引き抜いて上体を起こすと、ふと、ギャーギャーと喚くルビアをまるで無視して銀鎖の妖剣をビュッと振って何もない中空を指し示した。

《んもう!何をやってるのねッ》

 その訳の判らない行動に苛々したルビアが頭に噛り付くようにして耳を引っ張っても、ルウィンは微動だに動かない。それどころか、却って不適にニヤッと笑うのだ。

「まあ、これでお互い様と言うことかな?」

「くぅッ!」

 何もない中空を指し示していると言うだけなのに、魔物使いは悔しそうに歯噛みしたのだ。
 そう、ルウィンが指し示しているその場所に、世にも珍しい姿を消せる魔物がルウィンの妖剣の切っ先に捕らえられて身動きできずにいたのだ。怯えたように声にならない声でキィキィと主に鳴いている。

「ち、畜生ッ!ソイツを殺せばコイツがどうなっても知らんぞ!!」

 金切り声を上げて喚き散らす魔物使いに、ルウィンは待ってましたとばかりにニヤッと笑って言うのだ。

「殺したければ殺せばいい。その後、どうなっても知らんがな」

 微妙に語尾のニュアンスを低くするルウィンの意図するところが読めたらしく、魔物使いはキィキィと喚き散らしながらも、苛立たしそうに親指の爪を齧りながら注意深くルウィンの様子を窺っている。だが諦めたのか、魔物使いは濁った滑るような双眸でルウィンを見据えながら、苛立たしそうに高い声で喚いたのだ。

「判ったよ!離してやる…」

 そう言って語尾を切って締め上げていた光太郎の身体から鞭を緩めると、小柄な少年はホッとしたように慌ててトルンに跨る銀髪の賞金稼ぎの許に走り出そうとした。その様子を見ていたルウィンがハッと目を見開いた瞬間、風を切った撓る鞭が凶器となってその背中に襲い掛かったのだ。

《光ちゃん!》

 ルビアが悲鳴を上げた瞬間、鋭い鞭の先端で服を裂かれて、その上皮膚まで切り裂かれた光太郎はヒュッと息を飲んで、それから声もなく倒れ込んでしまった。薄い水色の上着がジワジワと滲み出した鮮血に染まっていく。
 鞭の先は、さしずめ鋭利な刃物のように鋭かった。

「ひゃぁーはっはっは!この馬鹿どもがッ!!プリントなんか腐るほどいるわ!ソイツを殺したけりゃ殺せばいいんだ。その代わり、俺はこの生意気な人間を殺してやる!!」

 ヒッヒッヒッと笑いながら撓る鞭を振り上げた瞬間、それまで黙って倒れたまま痛みの為に息もできずに蹲っている光太郎を食い入るように見詰めていたルウィンの、その結んでいた唇がゆっくりと開いた。

「なんだと?」

 低い、ともすれば聞き逃してしまいそうな…いや、だがけして聞き逃せない圧倒的な威圧感で零れ落ちた言葉の殺気に、魔物使いは怯んで上手い具合に鞭を振るうことができなかった。あと、もう一撃でも打たれてしまえば、恐らく光太郎の軟な背骨はへし折れていたに違いない。

《光ちゃん!》

 ルビアが両手で口を押さえながら、それでもその大きなエメラルドの瞳に涙を一杯に浮かべて両手を差し出して飛び出そうとした瞬間、その足を掴まれて、そのままグイッと無造作に振り払われてしまった。

《ルーちゃん?…ッ!》

 風に揺れる鬱陶しく伸びた前髪の隙間から、まるで怒りがそのまま噴き出したかのような紅蓮に濡れ光った双眸が、じっとりと魔物使いとその背後でニタニタ笑っている魔物どもを捕らえている。まるで雷にでも打たれたような衝撃で固まってしまった魔物たちの前に、ゆっくりとトルンから降り立ったルウィンが片手に妖剣を掴んでゆらりと立ちはだかった。
 投げ出されてあわや地面に叩きつけられそうになったルビアは空中でくるんっと回転すると、ハッとしたように陽炎のような殺気を漂わせて立つルウィンの背中を見詰めて震えてしまった。

(ヤバイのね!)

 慌てたルビアは低く飛んで揺らぐように立つルウィンの脇を弾丸のような素早さで擦り抜けると、痛みで半ば失神している光太郎の水色の服を掴んでサッと木陰に隠れてしまった。もちろん、魔物たちにそんなことを気付けるほどの余裕もない。

「殺すだと?お前たちが?…ッ」

 低く呟いて俯いたルウィンの双眸と、その表情が見えなくなる。
 何か、言いようのない恐怖が襲ってきたが、それでも魔物使いは怯える魔物どもを鞭を振るって叱咤するのだ。

「何をしてるんだ!この能無しどもがッ!!やっちまえ!やっちまえぇッ!!」

 鞭の恐怖を何よりも知っている魔物たちは、気が狂いそうになる怯えから抜け出そうとでもするかのように咆哮して、ゆらりと立っている長身の青年に襲い掛かったのだ。
 震える肩が、恐怖しているのか…?
 一斉に飛び掛った魔物でルウィンの姿が消えてしまうと、魔物使いは注意深くその様子を窺っていたが、咆哮を上げて襲う魔物に手出しもできないようでいる口ほどにもない青年にホッとしたように、ニヤッと笑って脂汗が滲む額を拭った。

「ケッ!驚かせやがって。せいぜい、魔物どもの腹を満たしてやるんだなッ」

 腕を掴んで引き千切っているのか、ルウィンの2倍はありそうな魔物がモゴモゴと蠢いている。悲鳴を上げない獲物に興醒めはするものの、どんな有様になるのか見るのはとても楽しい。あの、憎らしいほど綺麗で生意気なヤツが死ねば、今度はあの人間だ。飛竜もいた。
 人間と飛竜は美味しく俺が戴いてやろう…そんなことを考えていた時だった。不意にモゴモゴと蠢いていた魔物の身体が弾け飛んだのだ。

「!」

 ギョッとして目を見開いた先に、妖剣を肩に担いで倒れ込んでいる魔物の頭を容赦無く踏みつけたルウィンが肩を振るわせながら立っていた。

「こ、これは…どど、どう言う…ッ」

 言葉にならず、かと言って喚くこともできないでいる魔物使いの前で、漸くルウィンが声を出したのだ。

「…クックック…ふ、はーっはっはぁ!バッカじゃねぇのか。お前たち雑魚がこの俺を殺すだと?」

 まるで雰囲気がガラリと変わって、木陰に避難していたルビアがアチャッとでも言いたそうに両手で目を隠すと、痛みに漸く慣れた光太郎が息も絶え絶えにそんな様子を覗き込んだ。

『あれ…ルビア、ルウィンの様子がおかしいよ?』

《シッ!喋っちゃダメなのッ。見つかっちゃうのね》

『え?』

 ワケが判らずに眉を寄せる光太郎の耳に、突然引き裂かれるような断末魔が響き渡った。
 それは、対の瞳を紅蓮に染め上げたルウィンがニヤッと笑いながら足蹴にしていた魔物の頭を踏み潰したからだ。

『!』

 怯えたように、でも、どこか信じられないものでも見ているような気持ちになって、光太郎はその光景から目が離せないでいる。
 興味の失せた魔物の身体を蹴り飛ばして、漆黒の外套に身を包んだルウィンは、まるで死神のようにぼうっと発光する妖剣を肩に担いだままで一歩、また一歩と怯えて竦む魔物使いに近付いた。

「寝言はあの世に逝ってから愚痴るもんだぜ?」

 怯えて声も出ない魔物使いを、それでも主と信じているのか、魔物が咆哮しながら襲いかかったが、ルウィンは容赦無くその身体を一刀両断した。ブシュウッと噴き出す返り血を浴びながらも、それでもルウィンは嫣然と嗤うのだ。そのくせ、手にある銀鎖の剣には一滴の血痕も付着していない。

「そーらかかって来いよ?雑魚どもが」

 そう言って差し出した片手を上向きにクイクイと手前に振って挑発するようにニヤッと笑ったルウィンの顔には、愉悦のようなべっとりとした狂気が張りついている。その顔を見て光太郎は理由もなくゾッとした。
 チャキッと柄を握り直したルウィンは、歩くことももどかしそうに、まるで血に飢えた強暴な肉食獣の敏捷さで走り出していた。その素早い動作に追いつけない魔物たちは、自分たちの身体の半分もない銀髪の青年にまるで踊るような仕種で悉く斬り倒されてしまう。しかし、もともとが殺戮を好む魔物たちだ、それでも自我を思い出したのか、咆哮を上げると応戦してくる。その反応が、よりルウィンの狂気を深いものにしているなど、命懸けの戦いでは気付きもしない。
 声を上げて嗤いながら襲いかかってくる魔物を斬ったその手を返して、後方の魔物の腹に妖剣を突き立てると、軽くジャンプして前に現れる魔物の頭部を蹴り飛ばした。鈍い音がして千切れ飛んだ頭が地面に転がると、ルウィンは楽しそうに笑ってその頭を魔物使いに、まるでサッカーでもしているように蹴って寄越したのだ。

「う、うわぁあぁぁぁ!!」

 呆気に取られていた両手に飛んできた断末魔の形相の頭を投げ出した魔物使いが、もう何もかもを捨てて滅茶苦茶に逃げ出そうとすると、追いついたルウィンが声を上げて笑いながら吐き捨てるのだ。

「はっはぁ!甘ぇーんだよ」

「ヒッ!?…ッ!!」

 耳元で聞いた低い声に一瞬ビクッと身体を竦ませた魔物使いは、そして唐突に鈍い衝撃が背後から身体を襲ったことに気付いたが、それでも何が起こったのかすぐには理解できないでいた。
 ただ、自分の胸から突き出た血塗れの雪白の腕が、身体から無数の血管を伸ばしながらドクドクと脈打つ何かをゆっくりと掴んでずるりと引き抜くその感触に呆然と突っ立ていることしかできなかった。
 ブツブツと、血管が千切れる音がダイレクトに鼓膜に響いた。

「ひ、ヒィ…ひ・ひ、ぎぃやぁあぁぁッッ…ッ!」

「煩い」

 呟いて、心臓を引き抜いたルウィンは銀鎖の妖剣を振って断末魔を上げる魔物使いの首を跳ね飛ばしてしまった。噴き上げる返り血を浴びて、だらりと垂れた掌に脈打つ力が弱くなった心臓を握ったままで、ルウィンは妖剣を愛しそうにべろりと舐めた。そして狂ったように笑っている。

「ルウィン!」

 不意によろけながら立ち上がった光太郎が、ルビアが止めるのも聞かずによろよろと木陰から出てそんなルウィンに近付いていく。真摯な双眸を受け止める虚ろな紅蓮の瞳は、俄かに新たな獲物を見つけて禍々しいほど邪悪に細められた。

「はっはっはぁ!なんだよ、小僧?」

 よろよろと近付いてくる弱った獲物に、ルウィンは声を上げて笑いながら無造作に血を欲しがる妖剣を突き出した。
 ヒュッと咽喉が鳴って、薄皮一枚のところで止まった発光する切っ先を恐々と見下ろした光太郎は、それでもニヤッと笑うルウィンを困ったように眉を寄せて見上げたのだ。

「ルウィン、だいじょぶ?」

「大丈夫じゃねーのはお前の方だろ、ああ?ククク…それとも、死にたいってか?」

 小首を傾げる仕種をする少年にニヤッと笑って無造作に妖剣を振り上げるルウィンを見上げたままで、光太郎は少し考え込んでいる様だったが眉を寄せると首を左右に振ったのだ。

「嫌だ」

 一瞬、ちょっと眉を寄せた紅蓮の双眸を持つルウィンは、ぺろりと返り血を浴びて濡れている唇を舐めながら馬鹿にしたような目付きで見下ろしてきた。

「だって、死ぬするとルウィンと旅できなくなる。それは、嫌」

 尤らしく言って一人で頷いた光太郎は、妖剣を振り上げたままで止まっている、血塗れで佇むルウィンに向かって小さく笑ったのだ。

「ルウィンと旅したい。ずっと一緒、いたい」

「下らねーな」

 素っ気無く呟いて、ルウィンは煩わしいものでも追い払うかのように妖剣を振り下ろした。ルビアがもうダメだと両目をギュッと閉じて両手で顔を覆う。
 助けに行きたいけれど、ルビアはその殺気に凍りついて身動きができなかったのだ。
 風を切る音がしたが、鈍い、あの骨を断つ音が聞こえなくて、ルビアは恐る恐る凄惨になってしまった砂利道の様子を窺った。

「ルウィン…?」

 光太郎の首の皮一枚のところで、またしても妖剣の切っ先が止まっている。
 呆然と立ち尽くすルウィンの顔を覗き込みたいのに、光太郎は銀鎖の剣が邪魔して動くことができなかった。だからせめて、その名を口にしたのだが…

「…あれ?」

 不意にルウィンの口から驚くほど気の抜けた声が漏れて、既に神秘的な青紫の双眸に戻っている彼は一瞬だけ困惑したような顔をしたが、素早く状況を飲み込んだらしく、光太郎の首筋から銀鎖の剣を引っ込めた。

「オレはどうしたんだ?…頭が熱くなって…耳元で煩いぐらい脈打つ音がして…それから、何かがブツって切れたんだよな」

 ふと、額に伸ばした掌に、未だに握られている冷たくなった肉隗に気付いて、眉を寄せたルウィンは憎々しげにそれを捨ててしまった。

「それから記憶がない…と言うことは、ルビア。オレはキレたのか?」

《うん、ぶち切れてたのね》

 漸く動けるようになったルビアが茂みから飛び出すと、小さな飛竜と光太郎を見比べていたルウィンが脱力したようにガックリと項垂れてしまう。

「あー畜生!それで血の匂いがするのか」

 思いきり不満そうにポタポタと、未だに浴びた血液の雫を零す前髪を掻き揚げながら、気持ちが悪そうにルウィンの眉間に皺が寄った。その様子を見て、漸く光太郎はルウィンがもとのルウィンに戻ったと感じたのか、嬉しそうに抱き着こうとしたのだ…が。

「わーい!ルウィンだ…ぶっ!」

 片手で頭を掴まれて、ルウィンの腕のリーチぐらい近付けなかった。

「抱き着くな。オレは汚れてるからな」

 その言葉で、ルウィンが全身に血を浴びていることに気付いて、光太郎の眉が寄った。さすがに今回はきつかったのだろうと、ルウィンは溜め息を吐きながら掴んでいた手を離した。

「せっかく買った服。残念」

 言うことはそれだけかなのか?とルウィンがちょっと面食らって、だが、光太郎らしい返答にルウィンはなぜか、少しホッとしたように笑っていた。

「ルウィン、傷ない?だいじょぶ?」

 心配そうに見上げてくる黒い瞳に、ルウィンはちょっと驚いて、それから小さく苦笑した。

「オレよりも光太郎、お前の傷は大丈夫なのか?」

「へ?」

 キョトンッとした光太郎は、それから徐に背中がジクジクと疼いていることに気付いて、それから改めて鋭い痛みを感じたのだ。

『アイタタタ!!…うぅ、気付かせて欲しくなかった』

 あうあうと痛がって情けなく呟く光太郎に、ルビアが少しだけホッとしたように溜め息を吐いた。

《痛くて当たり前なのね!もう、無茶するの》

 痛みすら忘れてしまうほどルウィンを心配していた光太郎の頭に、ふと、掌を乗せてそのサラサラの髪を撫でた。その手に気付いた光太郎が顔を上げると、ちょっと心配そうな表情をしたルウィンが首を微かに傾げて見せる。

「痛むか?」

「ちょっと。でも、ちょっとだいじょぶ」

 本当はかなり痛むくせに、額に脂汗を浮かべながら光太郎はニコッと笑った。その陽光を反射させる汗に気付かないはずもないルウィンは、少し苦笑してトルンへと戻った。背中の痛みで思うように歩けない光太郎は、足を引き摺るようにしてそんなルウィンの後を追おうとするが。

「お前はそこにいろ」

 肩越しに振り返って制止され、光太郎は困惑したように眉を寄せたが、だがホッとしたようにそのまま地面にへたり込んでしまった。
 ルウィンは魔物の血をたっぷりと吸収して重くなった外套を脱ぐとトルンの座席に引っ掛け、その手で掛けてあった荷袋を掴んだ。内部を軽く探ってお目当てのものを見つけたのか、それを掴んでへたり込む光太郎の許まで戻ってきたのだ。
 片膝をついて屈みこんだルウィンの顔を、痛みで朦朧とする眼差しで見上げる光太郎は、その男らしい綺麗な顔立ちにあの時感じた狂気を重ねようとして失敗した。
 バシャバシャッと水筒の水で掌を洗ったルウィンは、手にしていた練薬を掬うと水色の上着を捲り上げて無残に走る血の滲んだ蚯蚓腫れに静かに塗った。だが、恐ろしくその薬は傷に染みる。

『!!!!!※△×!』

《なに言ってるのか判らないのね》

 声にならない声を上げて思わず砂利の敷き詰められた地面を拳で殴っていると、ルウィンが呆れたように溜め息を吐いてその手を掴みながら口を開いた。

「今度は手にも傷を作るつもりか?」

「あう…でも痛い。浸かる」

「浸かる?」

 またしても解読不明の言葉を言って、半泣きで見上げてくる光太郎を見下ろしながら、ルウィンは眉を寄せて首を捻っていた。

「薬、浸かる。すごく痛い」

「…ああ、なるほど」

 頷くルウィンに、同じく合点がいったルビアが口をパカリと開けて言うのだ。

《染みるのね》

「うん」

 涙目で頷く光太郎にちょっと噴き出したルウィンは、酷いなぁと抗議する漆黒の双眸を無視して立ち上がった。だがその顔は、思った以上に曇っている。

「?」

 首を傾げていると、腕を組んだルウィンがそろそろ乾いて張り付いてくる血糊にうんざりしたような顔をして、前髪を掻き揚げた。まるでディップでも塗りつけているかのように、見事な銀髪は微かに色付いて後へと張りついた。気持ちオールバックになったルウィンの相貌を日の光の下で初めてマジマジと見た光太郎は、いつも前髪の隙間から覗くだけの神秘的な青紫の双眸が、どれほど強い意志を秘めて輝いていたのかと言うことを知ったのだった。
 そして、思うよりも随分と、ルウィンは男らしい顔立ちをしていた。ふとすれば女性とも見紛う美しさは、その銀髪が彼の輪郭を淡く暈していたからこその成せる業だったのだろう。

「さて、どうしたものかな?このまま順調に行けばガルハまで2日の行程だったんだが…まさかこの姿で国には戻れないだろう」

 肩を竦めるルウィンにハッとした光太郎は、見惚れていたことに気付かれないうちに照れ隠しのようにエヘへと笑う。その姿をジッと見守っていたルビアには、どうしていつも光太郎がルウィンに見惚れるたびに照れているのか、そのことが判らないでいた。

《この近くに湖があるのね》

「そうか?じゃあ、まずは水浴びをするべきだな。臭くて適わん」

 べっとりと染みついた鉄錆のような金臭い匂いに生臭さの混ざったような、なんとも形容のし難い腐臭にうんざりしたルウィンが頷くと、光太郎はパタパタと羽根を動かしながら一定の場所に浮いている深紅の飛竜を見上げて首を傾げている。

《なんなのね?》

 不思議そうに見上げてくる光太郎に、ルビアが気付いて首を傾げると、少年は眉を顰めて疑問を口にするのだ。

『ルビア、どうして湖のある場所が判ったの?ここに来たことがあるのかい』

《まっさかなの!光ちゃんやルーちゃんには判らないかもしれないけれど、ルビアたち飛竜族は自然の声が聞こえるのね》

『ほ、ホント!?』

《本当なの》

 ニコッと笑うルビアに驚いたような顔をした光太郎は、それでも表情をパッと明るくして興奮したように両の拳を握ってワクワクと口を開いた。

『スゲー!ルビア、凄いよ!!』

《ふふーんなの♪》

 小さな飛竜がやはり小さなその鳩胸を張ってふふんと威張ると、感嘆する光太郎が尊敬の眼差しでそんなルビアを見上げている。その一種異様な光景に思わず呆気に取られていたルウィンだったが、もともと感応術に優れている飛竜族だ、その流れは自然の仕組みと深い関わりがあるんだろうぐらいにしか考えてもいなかった。光太郎のように、ましてや目を輝かせるようなことではないだろうと思っていたのだ。

『わー、彰にも教えてあげたいな~。きっと、ルビアに絶対会いたがると思うんだ』

 オカルト好きの幼馴染みは、超常現象も然るものながら、想像上の生き物の存在を徹底的に容認しきっている。人間が生きていて、どうして架空だと言う生き物が生きていないなどと言えるのか?それが彰の持論であった。

《その時はこんにちはって、ちゃんと挨拶するのね》

 ニッコリ笑う飛竜に微笑み返す光太郎たちの会話が、どうやら一段落したことを感じ取ったのか、腕を組んでいたルウィンはその手を解いて上体を屈めながらへたり込む少年の身体を掬い上げるようにしてヒョイッと抱き上げてしまった。

『わわわ!?』

「歩けるのか?だったら下ろしてやるが…」

 その背中だとまだムリだろ?と、その神秘的な双眸が物語っている。
 思うよりもずっと近くにルウィンの顔があって、今までずっと一定の距離でしか見ることのできなかったその神秘的な青紫の双眸を目の当たりにして、光太郎はなぜか赤面してしまう。
 訝しそうに眉を寄せるルウィンに光太郎は慌ててうんうんと頷くと、それでもやはり痛む背中を抱えてはまだ歩けないと認めているのか、大人しく甘えることにした。
 心臓の音がバクバクして、どうかルウィンに聞こえませんようにと祈りながらギュッと閉じた目を、ふと開いた光太郎はよくよく考えて、どうせならせっかくなのだからその整った面立ちを十分堪能しようじゃないかとちゃっかり思ったようだ。
 眉を上げて小首を少し傾げながら小さく笑ったルウィンが、あの狂ったように笑いながら次々と惨殺していった人物と同じ人などとは、光太郎には到底思えないでいた。
 何よりも、ルウィンの腕は確りしていて、不安など微塵も感じなかったのだ。

 ルビアの案内でトルンに光太郎を乗せたまま、鈍い銀の光を放つ車体を押しながら道なき道を進む彼らの前に、程なくして澄んだ水を湛える湖が姿を現した。
 光太郎は別に血を浴びたわけではなかったし、ルウィンに手渡された予備として購入していた草色の衣装に着替えれば済むだけだったが、そうもいかないルウィンは血を吸って重くなった外套を片手にそのままざぶざぶと湖に入っていった。

『ルウィン、どうして服を脱がないんだろう?』

《どうしてって、服も洗っちゃおうと一石二鳥なの》

 ああ…と頷きかかって、それでもやっぱり納得がいかない光太郎は首を傾げながら腕に抱いたルビアの顔を覗き込んだ。

『でも、乾かす時には脱ぐんでしょ?』

《あったりまえなのね!湖の中で洗いながら脱いじゃうの》

『はぁ…でも、なんか悪いね。俺の服は予備を買ってくれてるのに、ルウィンはあれ一着なんてさー』

 しょぼーんと眉を寄せて溜め息を吐く光太郎に、ルビアは嬉しそうにクスクスと笑っている。その顔をムーッとしたように覗き込んだ光太郎に、ルビアは少年の腕を両手で掴みながらブラブラと足を振って振り仰いだ。

《光ちゃんはルーちゃんのこと好きなのね》

『うん』

 光太郎がニコッと笑って頷いたら、遠くの方でルウィンが思わず転びそうになって、胡乱な目付きをして背後を振り返っている。恐らく、「ルビアのヤツ、また余計なこと言ってやがるな」とでも思っているのだろう。ルビアの感応術は、少し離れた人にも聞こえてしまう…わけではないのだが、ルウィンたちハイレーン族の鋭敏な聴覚には届いてしまうのだろう。

《普通の人は、ルーちゃんのトランスモードを見てしまうと思いきり退いちゃうの》

『トランスモード?それってなに?』

 首を傾げる光太郎に、ルビアは頷きながら説明した。

《ルーちゃんのあれはトランスモード中なのね》

 言外に先ほどのことを言っているのだと気付いた光太郎は、そうだったのかと感心したように頷いた。

『なんか、アクション系のゲームみたいだね』

 何かのゲームで、確かそんな言葉を聞いたことがあるような気がした光太郎が笑いながら言うと、ゲームと言う単語がよく判らないルビアは小首を傾げながら先を続ける。

《?よく判らないけれど、ルビアはそう言ってるの。もともと、ルーちゃんはバーサーカーなのね》

『え?ってことは…あれ?でも、確かバーサーカーって自分の血を見たら自我を忘れるんじゃなかったっけ?それってゲームの受け売りなんだけど…ルウィンは自分の血を見てもバザーの時は変化が無かったよ』

 光太郎の素朴な疑問にルビアは頷きながら、それから説明を続けた。

《ルウィンの場合は、自分の血がキーワードじゃないのね。キーワードは怒りなの》

『え?』

 光太郎が首を傾げると、見上げていた顔を正面に戻して、キラキラと光る水面で気持ち良さそうに水浴びをしているルウィンを見詰めながらルビアは口を開く。

《極限に怒りが達した時、ルーちゃんはあんな風に、ちょっとおかしくなっちゃうのね。でも、その間は痛みとか致命傷とかが全部キャンセルされるから、ほぼ不死身なの》

 キャンセルと言うのは語弊があるのだが、事実、傷の治癒が通常の100倍はあるのだから斬り付けられると同時に治るような感じで、恐らくルビアが説明したかったのはそのことだったのだろう。

『そうなんだ!』

《なんなのね、その嬉しそうな顔は。喜んでばかりもいられないの。ルーちゃんはああなってしまうと見境がなくなるから、取り敢えず生きて動いているものはなんでも殺しちゃうのね》

 嬉しそうに笑って頷く光太郎に、ルビアは呆れたように溜め息を吐きながら、問題はそんなことじゃないんだと唇を尖らせた。

《性格も180度変わっちゃうから厄介なの。もともと、ルーちゃんって自分のことにも容姿のことにも、もちろん、生きることにも無頓着な人なのだけれど、トランスモード中のルーちゃんは全く別人で、殺すと言う行為に凄まじい執着を持っているのね。性格もおバカになるし…そもそも、バーサーカーは怒りの塊だから、怒りに支配されてしまうと前後の見境がなくなって、情け容赦がない殺し屋になっちゃうの!》

 何とも気になる台詞をさり気なく言って、小さくて短い人差し指を左右に振って説明するルビアに、光太郎はうーむと眉を寄せながら下唇を突き出して呟いた。

『うーん…それは困るね』

《おーいに困るのね!で、本人は正気に戻ったときにはその時のことを綺麗さっぱりに忘れちゃってるの。でも、あんなことは珍しいの。動いて目の前にいる光ちゃんを、ルーちゃんは殺さなかったから!正気に戻るのって動くものがなくなってからだから、ルビアはいつも木陰に隠れて待っているの》

 新鮮な驚きに表情を緩めて見上げてくる小さな飛竜を見下ろしながら、光太郎は驚いたように眉を上げて小首を傾げて見せた。

『そうだったのか。でも、俺。ホントはそんなに怖くなかったんだ。ただ…』

《ただ?ただ、どうしたと言うの?》

 魂の深層まで見透かしてしまいそうなほど澄んでいるエメラルドの綺麗な双眸を見下ろしながら、光太郎はどう説明していいのか判らなくて苦笑しながら自分なりに答えてみる。

『ルウィンがどこかに行ってしまうんじゃないかって思って…そっちの方が怖かったんだ』

《ルーちゃんはどこにも行かないのね》

 ルビアが判らないと言いたそうに首を傾げて見上げてくるのを見下ろしながら、光太郎は照れたように少し笑ってそんな小さな飛竜をギュッと抱き締めるのだ。
 ぬくもりがじんわりと染み入ってきて、光太郎はなぜか凄くホッとする。

『うん、そうなんだけど…えへへ、俺っておかしいのかな?』

 照れ隠しついでに呟く光太郎に、ルビアは《光ちゃん、おかしーの》とケラケラ笑っている。その憎めない小さな飛竜を抱き締めながら、面倒臭そうに湖で魔物の血液を洗い流しているルウィンを見詰めて、光太郎はふと不安に駆られていた。

(でもあの時、俺は確かに感じたんだ。ルウィンの心が、どこか遠くに行ってしまうような…掴んで引き戻さないとって真剣に考えてしまったら、身体が自然に動いていた。どうしてだって聞かれても、たぶん説明なんてできないんだけど…)

 どうしてそう思ったのか、今にして思えば光太郎には十分な説明ができないことに思い至って、首を左右に振った。紅蓮の双眸を憎々しげに歪めながら自分を見下ろしてきた狂戦士を見ていたら、胸が締め付けられそうなほど、どうしてだろう、悲しくなっていた。だから、ルウィンの正気に戻った顔にあの悲しい狂戦士の顔を重ねようとしたけれど、どうしても食い違ってしまって失敗したのだ。

「ルウィンどうして、バーサーカーになったのかな…」

 それは素朴な疑問だったが、青空を見上げながら呟いた言葉にルビアが不思議そうに見上げてきた。何か言おうと口を開きかけた時、濡れた前髪を掻き揚げながら戻ってきたルウィンが片手に持っていた荷袋を地面に置きながら、何でもないことのようにそれに答える方が先だった。

「銀鎖の剣を持っているからさ」

「え?」

 光太郎が驚いたように顔を正面に戻すと、仕方なく着古した衣装を着用しているルウィンが肩を竦めて木の枝に漆黒の衣装を引っ掛けながら先を続ける。

「賞金稼ぎにランクがあるのは教えただろ?特になぜ、ランクSの賞金稼ぎがこの世に少ないのか、それは手にする魔剣に秘密があるからさ」

 肩越しに振り返ってニッと笑うルウィンに、光太郎はルビアを胸に抱えたままで立ち上がると、その傍らまで歩いて行って首を傾げて見せた。

「どの剣にも、それなりの力があるワケなんだが。こと、銀鎖の剣に関して言えば、魔族が鍛えた妖剣として有名だからな。常に血を求めてさ迷う妖剣は持ち手の魔力にも感化され易い。オマケに魔剣は倒した生き物の血を啜るから、魔剣の方が力をつけて持ち手の魂を喰らい尽くしちまうのさ」

「ルウィン!それはとても危険ッ」

 木の枝に洗った衣装を引っ掛けたあと、地面に放置していた銀鎖の絡まる鞘に収まった剣を掴み上げ、ルウィンは鎖をベルトに掛けながら光太郎を見下ろすと頬の緊張を緩めて肩を竦めて見せたのだ。

「まあ、だからそれだけランクSの賞金稼ぎはいないってことだ」

「持つするのダメだ。ルウィン、賞金稼ぎやめる!」

 光太郎の言葉に一瞬キョトンとしたルウィンは、どうやらツボに入ったのか、プッと噴き出してしまった。その横顔を、真剣なのに!とムッと眉を寄せる光太郎が覗き込むと、ルウィンは悪い悪いと片手を振りながら腕を組んで木の幹に凭れた。

「辞めるのは簡単だがな。ここに辿り着くまでにオレも結構苦労したんだぜ?」

 その言葉に、一概にすぐ辞めろと、ルウィンの過ごしてきた時間を知らない光太郎が安直に言えるものではないと知っているから、言葉の詰まった光太郎はうーんうーんっと悩んでしまう。

《安い代償ではないけれど、でも、ルーちゃんはそれでも気持ちが強い方だからそんなにいつもキレるワケではないのね》

 黙って成り行きを見詰めていたルビアが、光太郎の腕に頬杖をつきながら助け舟を出した。もちろん、ルビアのことである。乗った瞬間に沈まないとは限らないが。

「…でも、魂食べられる」

「オレの場合は、魂を差し出す代わりに精神を手放したのさ。その方が自制心が強ければ崩壊は免れるからな」

 意外と頭がいいんだぜ?と、冗談半分でニヤッと笑うルウィンにルビアが呆れたような溜め息を吐いた。

「ルウィン、バーサーカーになる。辛くない?」

 光太郎が首を傾げて見上げると、その顰めた眉の下の漆黒の双眸を見下ろしながら、ルウィンは思いもよらなかった台詞に眉を顰めてうーんっと考え込んだようだ。

「…考えたことはないな。魔剣に乗っ取られている間は意識がないからなぁ…ただ」

 そこで言葉を切ったルウィンは、不思議そうに小首を傾げる光太郎に視線を移した後、心底嫌そうな顔をして吐き捨てた。

「その後がいけない。あの血生臭い匂いにはうんざりだ」

《もともと、消滅系の攻撃しか好きじゃないのね》

 尤らしく言うルビアにそうだなと呟いてルウィンが肩を竦めて見せると、それで光太郎はハッとしたのだ。そう言われてみると、これまでの戦いではどれを見ても死体は全て消滅していたように思う。それに、あんな風に血飛沫が飛び散ることもなかった。先ほどの戦闘で光太郎が覚えた違和感は、ズバリそれだったのだ。
 そうだったのかと考え込むようにして俯いてしまった光太郎を見詰めながら、唐突にルウィンは少し顎を上げるようにしてポツリと呟いた。

「オレのことが怖いんじゃないのか?」

「え?」

 ふと見上げると、神秘的な青紫の双眸とかち合って、光太郎は不思議そうに首を傾げて見せた。なぜルウィンがいきなりそんなことを言ったのか、他のことに気を取られている光太郎には別に問題ではないように思えるのだが。

「いつキレるかってビクビクするんじゃないかと思ってね」

 口許に笑みを浮かべるルウィンの他意のない正直な気持ちに、光太郎はニコッと笑って思い切り首を左右に振ったのだ。勿論、そんなはずはない。

「ルウィン、キレたら判るよ。その時は逃げる♪」

「…賢い判断だ」

 屈託なく笑う顔を見下ろして、やはり何故か少しホッとしたルウィンは、よくできましたとその返答に花丸を与えるのだった。その様子を見ていたルビアは、思ったよりも物怖じしない光太郎のあっけらかんな性格に感謝しながら、その時になって漸くホッと張り詰めていた息を吐き出していた。
 ルビアはルウィンを好きだったし、空から落ちてきた光太郎のことも大好きだ。
 たくさんの厄介事を抱え込んでいるルウィンは、その容姿とは裏腹に、苦労の絶えない人生を歩んでいる。それは勿論、自分が望んで敢えて歩き出した荊の道ではあるけれど、たった独りで歩かせるにはあまりに辛過ぎてルビアは放っておけなかった。
 ルウィンがめざすその遠くに、何があるのかルビアは知らない。
 ただ、遠くを。さらに遠くをめざして旅を続けるルウィンのその存在が、いつか突然消えてしまうのではないかと不安で仕方なかったのだ。

《あ…》

「?」

 そこまで考えて、ルビアは漸く光太郎が話していた言葉の意味が理解できたような気がした。
 光太郎自身、恐らくその気持ちの深層部分までは理解していないにしても、彼は本能でルウィンの持つ危うさを感じ取ったのだろう。紙一重で揺れ動くルウィンの精神は、それでもルビアが見てきた限りでは揺るぎなく思えた。
 だが、それもどこまで持つのか…ルビアでさえ言えなかった真正面からの否定の言葉に、ルウィンはどんな思いを感じて光太郎を見つめたのだろう。
 自分の容姿は勿論のこと、他人にも何事にも、ましてや生きることにさえ無頓着で関心を示さないルウィンが、ルビアが駄々を捏ねて拾った人間の、この世を滅ぼすかもしれない『竜使い』を気に掛けている姿には小さな深紅の飛竜も驚いていた。
 或いは竜騎士としての使命から?
 まさか、とルビアはひっそりと言葉を飲み込んだ。
 面倒臭そうなルウィンがまさか、そんなことの為に旅を共にしているわけではないと、ルビアには確信めいた自信があった。
 約束は、神竜の許に光太郎を連れて行くこと…
 だがルビアは、あれほど望んだはずの光太郎を神竜に逢わせることを、何故か今は躊躇っていた。
 光太郎はもしかしたら、神竜に逢うことよりも、こうしてルウィンの傍で旅を続ける方が幸せなのではないかと、そこまで考えてルビアはギュッと大きな双眸を閉じてしまった。
 飛竜族でありながら、けして思ってはいけないことなのだから。
 何れにせよ、このままガルハに行って光太郎を手放してしまって、それでルウィンは大丈夫なのだろうか。今はそのことだけが心配で仕方ない。無論、ルウィンに言えるはずもないのだが…

「ルウィン。膝の裏に何かあったよ」

 黙り込んでしまったルビアに気付かずに他愛のない会話を交わしていた光太郎が、ふと、この間水浴びの際に見たルウィンの右足の膝の裏にあった痣を思い出して尋ねていた。
 奇妙な紋様は、何かの形に似ていたような気がする。

「ん?ああ、生まれつきの痣でね。目立たないから気にしてはいないんだが…お前は気になるのか?」

 クスッと笑って聞き返されてしまうと、身体的なものに対する指摘はよくないのだとハッと思い出した光太郎は、慌てて首をブンブンッと横に振って謝った。

「ち、違うよ!ごめんなたい。そんなつもりじゃ…」

 じゃあどう言うつもりだと聞かれても返答に苦しむだけだが、ルウィンはあたふたと慌てる光太郎に眉をヒョイッと上げて不思議そうに首を傾げている。

「ヘンなヤツだな。何をそんなに申し訳なさそうな顔をしているんだ?ただの痣じゃないか」

「えーっと…」

 確かに、ルビアが言うようにルウィンは頓着しないことが多いようだ。
 恐らくそれは、本人に限ってのことではないだろう。
 だから、そんなルウィンがどうして自分の面倒を見てくれるのか、有り難くないなどと言うことはけして言わないが、それでも不思議で仕方なかった。
 ヘンなヤツだと笑うルウィンを見上げて、いつものルウィンにホッとした光太郎は釣られたようにエヘへと笑った。それでもやはり緊張はしていたのか、剣を揮えば向かうところ敵なしのルウィンの手を無意味に掴んで、嬉しそうに握手する。
 お帰りなさいと、冗談ではない精一杯の気持ちを込めて。
 手を握られたルウィンにしてみればそんな意味不明の行動に眉を寄せながらも、だが彼は嫌がりもせずにしたいようにさせることにしたようだ。
 そうして笑う光太郎の頭には、既にルウィンの膝の裏にある痣のことはどうやら微塵も残ってはいないようだった。

第一章.特訓!20  -遠くをめざして旅をしよう-

「そもそも、この手の乗り物と言うのは無駄に魔力を食う。だから、格安で手に入るだろうと思ったのさ。ぶっ通しでガルハまで持てばいいだろうと思っていたんだが、まあ、カスタムリペア分は儲けたってことかな」

 森の中を吹きすぎる風に銀の髪を揺らしながら、ルウィンはそんなことを口にしていた。

《だったら別にトルンでなくてもヴィープルでも良かったのね》

 口先を尖らせるようにして言い募るルビアに、銀髪の賞金稼ぎは肩を竦めて小さく笑っている。

「ヴィープルは金が掛かるだろう?」

《守銭奴なのね》

「何とでも言え」

 魔力なら有り余っているからなと笑うルウィンと納得していないような表情を浮かべるルビアを交互に見比べながら、光太郎は聞きなれない単語を理解しようと勤めているようだ。

「トルンとヴィープルが判らないって顔だな」

 長時間かっ飛ばしたにも関わらず、物言わぬ機械仕掛けの乗り物は自分の働きに満足でもしているかのように、森の木々の隙間から差し込む陽光を銀の車体に反射させている。
 一行は、ガルハに続く道すがらの森の中で休憩していた。
 まるで熱砂の砂漠の唯一のオアシスのような森の中には、大きな湖が滔々と清らかな水を湛えている。

「うん。トルン、ヴィープル?判らない」

「トルンと言うのはな、そこにいる魔力喰いの機械仕掛けのことだ。ヴィープルと言うのは四足歩行の生き物だ。なかなか頑丈な体躯を持っていて、足も速い。だが如何せん利用料が高いのが旅人には痛いところだな」

「生き物?」

 首を傾げる光太郎を困ったなーとでも言いたそうに見下ろしていたルウィンは、肩を竦めて頷くだけだった。

「そうだ。まあ、そうとしか言いようがないのさ。実物がいたら、今度見せてやるよ」

「ホント?わーい、やった♪」

 嬉しそうに笑う光太郎に、思わずいつもはピンと立っている先端の尖った長い耳がくてりと下がってしまう。光太郎はなんと言うか、どうもルウィンの、いや、生きる者全ての頑なな心を解きほぐすような笑顔を浮かべる時がある。
 これが竜使いの持つ魅力なのだろうか?

《ルーちゃんは本当に光ちゃんには優しいのね》

 勝手にそんなことを考えていたルウィンの脳内に、不満タラタラのルビアの声音が響いた。

「うん、ルウィン優しい」

 余計なお世話だと言ってやる前に、光太郎が頷いてニコッと笑うから、最近ルウィンは小生意気な小さな紅い飛竜を嗜めることができなくなっていた。だがまあ、何事もあまり関心を抱かないハイレーン族の銀髪の賞金稼ぎにしてみたら、そんなことはどうでも良いのだろう。

《ちょっと聞きましたのね?今の健気~な光ちゃんの台詞!ルビアは感動なの》

 わざとらしく大袈裟に身振り手振りで表現する飛竜を無視して、ルウィンは集めてきた枯れ木で焚き火を起こしながら光太郎に言った。

「カークーは知ってるよな?最終的にトルンが手に入らなければソイツを考えていたんだが、如何せん奴等の足は遅い。カークーでの旅路ならガルハまで何日もかかっただろうよ」

「カークー、キーウィみたいな鳥。足が遅い?」

「そうだ」

 頷くルウィンの傍らに腰を下ろしていた光太郎は、焚き火が起こす炎を見つめながら首を傾げていた。

(キーウィみたいな姿でダチョウみたいに大きいから、共通点として足は速いって思ってたのにな~うーん、違ってたのか)

 ちょっと残念でガックリしていると、ルビアが欠伸をしながら光太郎の腕に舞い降りた。

《トルンはとっても便利なのね。魔力があるルーちゃんには持って来いの乗り物なの》

「うん、トルン凄い。ハイキガス出ない。自然が嬉しい」

「ハイキガス?」

 傍らで聞いていたルウィンは首を傾げたが、元いた世界の言葉なんだろうと勝手に理解してそれ以上追及することはなかった。

「トルンどこで生まれる?ガルハ?」

 これから赴こうとしている国の名前を口にしたものの、自分が今何処にいるのかさえ未だ理解できていない光太郎としては、できればこの会話を切っ掛けにこれから行くはずのガルハについて少しでも学べればいいと、そう思ったのだ。

《ガルハ…って言いたいところだけど違うのね。ガルハは確かに大きな軍事国家ではあるけれど、それは優れた魔剣士が多いからなの。魔剣士と言うのは魔法と剣技に長けている騎士のことなのね。もともと機械仕掛けを研究していたのは、すっごく遠い昔、世界中に散らばっていた【七賢者】と呼ばれる賢者の一人が創ったディアノスと言う国なのね》

「ディアノス?」

《そう。今はホントに七賢者の末裔なの?と疑いたくなるほど魔力とは無縁のゼノギア家が治めているのね》

「賢者、魔法スゴイに魔法使えない?面白いね」

 暢気に笑う光太郎の傍らで2人の会話を黙って聞いていた胡坐をかいて座っているルウィンは、呆れたように肩を竦めて枯れ木を1本炎の中に投げ入れた。

《今は確か、シャンテと言う女王様が治めているはずなの》

「女王様?ふーん、僕は他の国も見たい。でも、ガルハ行く、それが先」

 ね?っと小首を傾げて同意を促す光太郎に、小さな深紅の飛竜はこくりと頷いて短い指を1本だけ立てて左右に振って見せた。

《ガルハも凄い国なのね。光ちゃんが見たらぶっ魂消るの》

「ビックリする。ホント?」

《ホントーなのね!首都のラングールを見たら、その凄さに膝がガクガクして奥歯がガチガチするのね!》

「…」

 ルビアの台詞に本気で怯えたような光太郎は、青い顔をして無意識のうちにルウィンに擦り寄っていた。
 捨てられた子犬のような目で思わず振り仰いだルウィンの顔は、言わずとも明らかなように、大袈裟なルビアの言動に呆れ果てて、いつもはピンッと尖っている長い耳も下がっていた。

「奥歯がガチガチするほどには殺気立ってはいないがな、お前が目にした村にしてみればその繁栄に目を見張るくらいはするだろうよ」

「バザーよりも賑やか?」

「バザーか、はは。まあ見てからのお楽しみだ」

 ワクワクと好奇心旺盛な表情をして覗き込んでくる光太郎の顔を見下ろして、ルウィンは軽く笑いながら肩を竦めて見せた。
 よく晴れた透き通るような青空に見たこともない鳥が羽ばたいていくのを、ルウィンは遠くに眺めながら不意に思い立ったように立ち上がった。

「?」

 不思議そうにそんなルウィンを見上げる光太郎とルビアに、銀髪の賞金稼ぎは微かに吹く風に前髪を揺らしながら素っ気無く言うのだ。

「火も熾したことだし、お前たちこっちに来い」

 集めてきた枯れ木に短い術法を唱えて焚き火を熾していたルウィンに、長い旅の疲れを癒すように腰を下ろしていたルビアが口を開いたのだ。それに対するルウィンの回答が冒頭のようなものである。
 漸く火を熾して一息つけるはずだったのに、ホッと腰を下ろしていた光太郎は不思議そうな顔をして首を傾げながら立ち上がった。すると、同じようにチビ飛竜も舞い上がって黒髪の上に落ち着くのだ。

「ルウィン、どこ行く?」

 首を傾げながら長身のハイレーン族である銀髪の青年の後を追う光太郎に、彼は肩を竦めながら少し奥にある湖まで2人を導いた。

『うわー!綺麗だなぁ…ここ、すっごい綺麗!えーっと、ニブール、ルテナ』

「光る、月?」

『ナール』

「光る、月、面?…光り輝く月面?」

「みたい」

 ニッコリ笑って頷く光太郎の腕には、いつの間にか深紅の飛竜が抱えられていた。
 大きなエメラルド色の瞳には好奇心と不信感が綯い交ぜした、僅かな戸惑いが浮かんでいる。

「何をする気だと言う質問には見ての通りだと答えておこう。さ、さっさと服を脱いで飛び込め」

「ええ!?」

《やっぱりなのね…》

 ギョッとする光太郎と溜め息を吐くルビアを尻目に、言い出したルウィンがさっさと先に服を脱ぎ捨て始めた。

『わーわー!どうしよう、ルビア?』

《脱ぐしかないのね》

 それは見れば判るけど…と混乱した頭では判っているような判ってないような曖昧な気分だったが、目の前で既に全裸になってしまったルウィンが平気そうな顔をして湖に入って行くのを見ていると、居ても立ってもいられない心細さを覚えてしまう。

《脱ぐっきゃないのね!ルビアも行くの、光ちゃんも早くなのね》

 ハッとした時にはルビアは既に腕から擦り抜けるとクルンっと宙で一回転して人型に変身し、覆う場所の少ない衣服を惜し気もなく脱ぎ始めたのだ。それに感化されたのか勇気を持ったのか、恥ずかしさも多分にあるものの、気を取り直して衣装を脱ぎ始める光太郎だった。
 スィーッと泳ぐように湖の少し深いところを目指していたルウィンはしかし、腰が隠れるほどのところで立ち止まると自分に倣って派手な水飛沫を上げて飛び込んだ2人を呆れたように振り返る。

「つべた~いのね!」

「はっっクシュ!」

 賑やかにワイワイしている2人はどう見ても年の離れた兄妹ぐらいに見えるが…ん?兄妹??

「わわ!?ルビア、女の子!?」

 鼻水が出そうになっていた鼻を押さえていた光太郎は、ハッとしたように傍らで楽しそうに我が身を抱きしめる様にして震えているルビアに気付いてギョッとした…が、よくよく見ればなんのことはない、やはり普通に少年の姿をしている。
 だがあくまでも少女姿に気合を入れているのか、一見すれば女の子と見間違っても仕方ないのだ。
 しかし、ルビアがそうする理由を未だに光太郎は判らないでいる。

「それがどーしたのね?うっふんなのvあ、ルーちゃん待って~ん」

「こっち来んな、バカ飛竜」

 バシャンと飛沫を上げて水を引っ掛けるルウィンに、頭から水を被ってしまったルビアはムッとしたように下唇を突き出して腹を立てた。

「ひっどいのね!せっかくルビア様がサービスしてあげると言うのに!!」

「…いらんわい」

 呆れたように肩を竦めてしれっと言い放つルウィンに、ますますいきり立つルビアの背後で、光太郎が情けない声を上げていた。

「ルビア、どーしていつも女の子風なの~??」

 参ったと言うように両手で両目を覆って尋ねる光太郎に、腰に手を当ててムスッとしていた深紅の長い髪を水面に漂わせた少女もどきは、スィーっと泳いで行って光太郎に抱きついた。

「男所帯は辛気臭いのね!雑草の中に花があれば綺麗なの~」

「わー!」

 バシャバシャと水飛沫を上げてじゃれ合う2人を呆れたように見ていたルウィンは、やれやれと溜め息を吐いて手にしていた石鹸を泡立て始めた。

「光ちゃんもパッと見は女の子みたいに華奢なのね♪万が一の時は変装するといいのv」

「ふぇ?」

「お金がなくなったら身体で!稼ぐのね♪」

「ええー!?」

「踊り子踊り子♪」

 冷たい水飛沫を跳ね上げてはしゃぐ2人の姿は、真っ青な空に浮かぶ太陽の光を反射してキラキラと輝いてとても健康的だ。それだけに話している内容の酷さにルウィンがこめかみを押さえそうになったとしても、誰も文句は言えないだろう。

「下らん冗談はいいから埃を流せ」

 ポンッと放られた石鹸をタイミングよくキャッチしたルビアを見て、ここに来て漸く光太郎はルウィンが湖に自分達を誘った彼の思惑を知ったのだった。

(そっか、砂漠で埃だらけだったもんな。汗も流したかったし…ルウィンって案外気が利くんだよなぁ)

 泡立てた泡でもあもあと頭を覆ってしまって四苦八苦しているルビアの傍らで、光太郎は均整の取れた裸体を惜しげもなく晒して水浴びをしているルウィンの、その姿をぼんやりと見つめていた。
 頬に微かな傷を残しているが、身体中はその比ではない。
 傷だらけと言えば嘘になるかもしれないが、致命傷になりかねないような大きな傷もあれば、刺し傷も刀傷も至るところについている。なまじ筋肉質なせいで、痛々しさがないのが、却って彼を百戦錬磨を誇る賞金稼ぎであることを物語っているようだ。
 気持ちよさそうにふーっと息を吐きながら水を浴びるルウィンは、そんな傷さえなければどこか、気品さえ漂う優雅さがある。物語から抜け出してきたエルフのような神々しさがありながらも、彼が死闘を潜り抜けてきた存在であることを物語るのは、やはりその、意志の強さを秘めた未来を見据える青紫の双眸に隠された闘志のせいなのだろうか…

(俺のいた世界だったら、こんな仕事をしなくても、ルウィンならモデルとかにもなれたのにな…)

 外見を気にするだけでつけている筋肉とは違い、生き抜くために必要に応じてついている筋肉と言うものは否応なく美しかった。どこか空々しさを匂わせる見掛け倒しのムキムキとは違い、洗練された肉体はそのものが1つの芸術のようでその存在はまるで神秘的だった。
 男なら一度は憧れる完璧な肉体が目の前にいる。
 バシャバシャと水を顔に叩きつけるようにして洗っていたルウィンが、不意にその手を止めて、前髪からポタポタと水滴を零しながら訝しそうに眉を寄せると、ボーッと見蕩れている光太郎を見た。

「どうした、そこで溺れているチビ竜を助けないのか?」

 久し振りに息抜きができたのか、ルウィンもどこか気の抜けた調子で肩を竦め滴り落ちる水滴を空に散らしながら前髪を掻き揚げると、光太郎は慌てて我に返って傍らで半分溺れているルビアを助けることにした。

「わわ!?ルビア、だいじょぶ??」

「ひー、助けて欲しいのね!」

 長い髪が災いしたのか、ルビアが本気で溺れていると知って、光太郎はついつい美しいハイレーン族のルウィンに見蕩れてしまったことを反省した。

「くっくっく。このオレ様の美しさに見蕩れるのもいいが、ちゃっちゃと身体を洗っとけよ?」

 片手を腰に当てて意地悪そうに笑うルウィンの満更嘘とも言えないお茶目な(?)ジョークに、光太郎と命辛々で生還を果たしたルビアは顔を見合わせると思わず噴出してしまった。

「う、あからさまに笑うなよ。なんだ、これは。冗談のつもりが笑われるとやたら気恥ずかしくなるぞ?」

 雪白とも言える白い頬は殴られただけではない赤さを持っていて、それが不機嫌そうに眉を寄せて唇を突き出すルウィンを、腕を組んでいてもどこか子供っぽい仕種に見せていた。それが余計に光太郎とルビアのツボに入った。

「ちっ」

 不機嫌そうな、バツが悪そうな表情をしたルウィンは肩を竦めると、それでもクスッと笑ってスィーッと泳ぎだしてしまう。

「バツが悪いハイレーン族はちょっと深みまで退散するとしよう」

 グッバイと片手を振って潜ってしまったルウィンに慌てたようにザブザブと歩き出す光太郎を、ルビアが慌てたように止めた。それもそのはず、その先は少々の泳ぎの達人でも閉口するようなポイントがあるのだ。

『だってルビア!ルウィンが行っちゃったよ?』

「言葉がわかんないのね。んもう、仕方ないの!」

 そう言って水の中に潜ったルビアが飛び上がった時には、既にその身体は元のルビーのような美しい深紅の飛竜に戻っていた。

《ルーちゃんの行ったポイントには、おっきなお魚がいるのね。別に深追いをするお魚ではないけれど、泳ぐ練習にはもってこいなの》

『じゃあ、俺だって練習したいよ』

 ムッと唇を尖らせて反論する光太郎に、ルビアはちょっと困ったように小首を傾げてみせる。

《光ちゃんは人間なのね。そりゃあ、ルーちゃんには止められているけれど、光ちゃんは竜使い様かもしれないの。でも、人間であることには間違いないと思うの。そんな光ちゃんが、魔魚の追跡から逃れられるとは到底思えないのね》

 しかも相手は、竜使いの出現から均衡の崩れた魔力の増大で、その力は計り知れなくなっている。冗談が冗談にならなくて、照れ隠しに泳ぎに行ったわけではないルウィンは、実はその目で魔物たちの動向を観察しようとしていたのだ。

『魔魚…ってことは、もしかして魔物!?』

《もしかしなくても魔物なのね。足手纏いになっちゃうの》

 肩を竦めるルビアに、ブルブルッと震えて見せた光太郎は、慌てたようにその深紅の身体を裸の胸に抱きしめながらそそくさと湖を後にするのだった。

 そんな2人の気配を背後に感じたルウィンは小さく苦笑すると、息を大きく吸い込んで深みまで潜って行った。
 そもそもこの湖はひょうたん型になっていて、ちょうど光太郎が怯えたようにルビアを抱えて上がった岸からは見えない構造になっている。生い茂った木々が水面に浮かぶルウィンの姿を隠してしまうのだ。
 水面に突き出た大きな岩のある場所に、この湖の番人は深い眠りについている。
 10代の頃から城を抜け出してはこの湖に泳ぎの練習に来ていたルウィンにしてみたら、湖の番人とは既に10年来の付き合いである。ルウィンの『ちょっとそこまで』は、実に3日がかりの小旅行を意味していたりすることは城の者にも内緒だった。

《タオ老、起きているか?》

 水底に眠っているはずの怪魚の寝床に向かって、ルウィンは思念の声で語りかけた。
 均衡の崩れた世界に渦巻く魔力の波動は、水底にいてさえもルウィンの肌を貫く鋭敏さを持っている。この波動を、いにしえよりその営みを見据えて生き続けている老怪魚〝タオ〟が感じていないはずがない。
 どうか無事であるように…何事にも関心を示さないルウィンにしてみれば、光太郎のときと同じように、この怪魚に砕く心根は常に柔らかかった。
 遠い岸辺でその思念の声を感じたルビアが、《あッ》と声を上げて光太郎から不思議そうに覗き込まれていたちょうどその時、ルウィンが下唇を噛み締めると同時に水底の影がゆらりと動いた。
 湖に降り注ぐ陽光の煌きが銀髪に反射して、暗い水底から彼の姿を認めるのは容易いことだったのだろう、巨大な何ものかは大きな影を揺らして凄まじい速度で襲い掛かってきた。ルウィンの見極めが一瞬早く、それを避けなかったら鋭い牙で引き裂かれていただろう。

《元気そうで何より…と言いたいところだが、挨拶にしては物騒じゃないか?》

{喧しいわ、この若造ッ!!暫く顔を見らんと思ったが何をしておった!!}

 余程起こされたことに立腹しているのか、はたまた久し振りに会った愛弟子の来訪を歓迎しているのか、どうやら後者であるらしい大音声を張り上げて、ルウィンの眼前を悠々と泳いでいる。
 その健在の姿にルウィンが微かにホッとした気配を波紋で受け止めて、堂々たる巨大な姿を晒した怪魚は訝しげに口許に延びた長い鞭のように撓る髭をゆらゆらと動かしながら小さな目を眇めている。

{なーんじゃ、その顔つきは!?儂の健在に不満でもあると言うのか??フンッ!!}

 巨大な鯰のような姿でありながら、泳ぐ速度は敏捷なのか、外敵に見つかり易い大きさにも拘らず彼の肉体には自然にできた傷以外はない。それが誇らしいのか、巨大鯰の怪魚は瑞々しい裸体を晒すハイレーンの青年の前で悠々と泳いでみせる。その姿は、数年前に見た時と少しも変わっていないことに、ルウィンの口許に微かな笑みが浮かんだ。

《そうか、それならいいんだ》

{むぅ!?…なんじゃ、気味が悪いのう!!貴様らしくもなくやけに萎れておるではないかッ!!}

《タオ老…まあちょっと、話でもしないか?》

 暫く考え込んでいたルウィンはそう言うと、タオが着いてきているか確認もせずに水面に向かって浮上した。そして、彼がこの怪魚と対話する時にいつも座っている、あの突き出た岩に登って胡坐を掻くと水面に大きな波紋を描きながら半端ではない巨大魚がザバッと巨大な顔を覗かせたのだった。

{さてどうした、若造!?}

「淀みを感じないか?」

 水面を覗き込むようにして語り掛けるルウィンの端正な顔を見上げて、鯰顔をした怪魚は{ふむ}と頷くような仕種を見せて、ニィッと開いた口からギザギザに尖った牙を覗かせて見せた。

{フンッ!!竜使いとやらが現れてから、暗黒の瘴気が垂れ流しになっていると魔物どもが騒いでおるが…貴様の心配事とはそんなことか!!}

「そんな事かってな…爺さん。まあいいさ、あんたに影響がないならそれでいいんだ」

 相変らずの豪胆ぶりを見てひと安心だったのか、ルウィンが頷きながら呟くと、タオ老は暫く何事かを考えているような素振りを見せていたが…

{若造!!貴様、竜使いの出現に戸惑いでもしたんかのう!?}

「なぬ?」

 思わず耳慣れない台詞に眉を寄せるルウィンを、鯰の親分は良く見ないと判らない、長い付き合いのルウィンですら見落としてしまいそうなニヤリ笑いをして尾鰭で水面を叩いてみせる。
 大音声は森を通り越えて砂漠地帯にまで響き渡りそうだが、実際はそうではなかった。彼の思念の声はルウィンの頭の中でのみ響き渡っている。なので、たとえルウィンの思念の声をルビアに聞かれたとしても、タオ老の思念までは聞こえていない。だからこそ彼は、たった1人でこの湖の主に会いに来たのである。

{貴様、漸く立太子するそうではないか!!森の魔物どもが騒いでおるぞ!![ハイレーンの若い皇子が嫁を娶って国を治める、この森までも支配しに来るぞ]…となぁ!!}

 強国ガルハは隣国コウエリフェルとの長い戦をしている。
 今でこそ冷戦状態ではあるが、些細なことでもすぐに戦が勃発してしまうほど、2国の間の諍いの歴史は長かった。
 恐らく魔物どもが噂しているのは、新たな皇太子を迎える国はますます繁栄を誇り、皇帝は何れその勢いに乗って戦を始めるだろうと予言しているのだ。

「コウエリフェルのセイラン皇子が妻を娶る。その噂は流れないのか?」

 嫌気が差したように肩を竦めて溜め息を吐く若きハイレーン族の、ガルハ帝国を治めるバーバレーン家の皇子殿下のその様子に、タオ老は愉快そうに小さな目を細めた。

{コウエリフェルの若造のことか!?アレの立太子は既に済んでおるでなぁ!!対立国で、しかも強国ガルハの皇子の立太子ともなれば話は別じゃ!!知らぬ貴様でもあるまい!}

 面倒臭いなぁと思ったかどうかは別としても、後頭部をバリバリと掻きながら厳しい表情で暫く地面をジッと見据えていたルウィンはしかし、諦めたように溜め息をついて肩を竦めるのだった。

「オレは嫁を娶る気もなければ立太子する気もない。根も葉もない嘘を父上が流しているだけだ」

{ハッ!!貴様、面白いことを言うのぅ!!皇帝の言動は即ち事実ではあるまいか!?}

 転げるようにして笑っているのか、鯰の親分は水の中で優雅に踊っているようだ。

「何とでも言ってくれ。当の本人の与り知らぬ発言なんか、誰が認めてもオレが認めん!」

 フンッと鼻で息を吐いて外方向くルウィンを、転げるのを止めたタオ老は暫し見つめた後、気のない調子で思念の言葉を紡いだ。

{勇ましきハイレーンの皇子よ!!あの国を何れ治めるは貴様しかおるまい!!いい加減に駄々を捏ねずに立太子して、陛下を安心させてやるんじゃな!!それが孝行と言うものよ!!}

 呆気に取られたようにポカンとしたルウィンだったが、すぐに神妙な顔つきをして俯いた。
 誰かに言われるでもなく、それは重々承知していることだった。
 彼の美しい兄上は、既に将軍職を退き、ましてや立太子など永遠に望めない身体になっている。強国ガルハに在って、唯一国を背負える皇子は、もうルウィンしかいないのだ。
 立太子すれば、自ずと将軍職に就き、何れ魔物が噂するようにコウエリフェルとの長い戦を始めることだろう。
 些細な切っ掛けとは、たとえばそれが、ルウィンの立太子だったとしても過言ではないのだから。

{時に若造!貴様が連れている小僧、なかなか面白いではないか!!}

 神妙な面持ちのルウィンをそれ以上苛めるつもりはないのか、この湖を古くから守っている主は重苦しい雰囲気を払拭でもするかのように水面を激しく尾鰭で打ち立てながらそう言った。

「光太郎のことか…そうだな。タオ老にはアイツがどんな風に視える?」

 先見の術には長けていても、その者の本質を見抜けるほどには母の魔力を譲り受けていないルウィンとしては、今回この湖に立ち寄ったのはタオ老に光太郎を視て欲しかったからなのかもしれない。ましてやズシリと胸に響く老の台詞に怯んでいる身としては、話題を変えるのは有り難かった。

{織り成す色じゃ!!光は影を求め、影は光を求むる!綾なす色に惑わされぬようにのう!!フェッフェッフェッ!!}

「色??」

 時にこの鯰の親分はルウィンですらも理解し得ないことを言葉にする時がある。
 だがそれは、確実に今後のルウィンには必要なはずの言葉であって、遠い未来にその場に来て、タオ老の言っていたのはこう言うことだったのかと思うことがよくあったものだ。だが些かまだ若すぎるルウィンには、そのどれもをその場で理解することができないでいた。

{二対の色は混じりあい1つの色と成す!!求むるなれば離れよ!!}

 鯰の大将は大きな尾鰭でバシャンッと水面を叩くと、胡坐を掻くハイレーンの青年を見据えるように小さな瞳を瞬きしてニヤッとギザギザの刃のような歯をむいた。

「…織り成す色。二対の色か…アンタにはアイツの正体が視えているんだろうな」

{さてなぁ!!}

 バシャンバシャンッと勢い良く泳いで見せるタオ老に、ルウィンは仕方なさそうに笑って見せた。

(いずれにせよ、どうやらオレと光太郎が離れることは運命らしいな…)

{さて、若造!!貴様の下らん話とはそんなものか!?}

 その台詞は、タオ老がそろそろ退席を望む時に口にする言葉だった。

「ああ、悪かったな」

{フンッ!!今度は100年後にでも会いに来い!!}

「それはもう来るなってことかよ」

 呆れたように首を傾げるルウィンの眼下で、傍らを鮫ほどの大きさの魚が泳ぐのを小さな目で捉えた鯨ほどもある鯰の親分は、あっと言う間にバクリと一口で平らげてしまった。相変らずの健啖家ぶりを眼下に認めて、ルウィンはそれでも、なぜ自分が普通に笑えないでいるんだろかと吹き上げる風に前髪を揺らしながら吸い込まれそうな青空を見上げていた。

 バシャバシャと湖の冷たい水を蹴散らすようにして上がってきたルウィンを待っていたのは、薄水色の流れるような衣装を身に纏った小柄な少女だった。
 水の精霊の祝福を受けた衣装はスッポリと身体を包み、お揃いのベールが全体を覆って宛ら湖の精霊が現れたのだろうかと、ルウィンが一瞬錯覚したかどうかは本人のみぞ知るところだが、軽い溜め息を吐いて光太郎の頭部からベールを引っ手繰った。

「ルウィン、おかえり!お話、すんだ?」

 胸元に深紅の飛竜を抱えていれば、それが湖の精霊でないことは一目瞭然であるとは言うまでもない。  
 全裸で歩く青年の後を陽気に追いかけて行く光太郎をルビアは見上げながら、思念の声でルウィンに話しかけた。

《タオ老元気だったの?思念の声が聞こえたのね》

 ルウィンの、と付け加えた説明に、銀髪の青年はやっぱりコイツかと思いながら頷いて見せた。

「相変らずだったよ。あの爺さんを縛る魔力など、もうこの世にはないんじゃないか?」

 辛辣な嫌味を言うルウィンの態度に、これは何かあったんだなと感じ取ったルビアは、彼が焚き火のある場所まで来て買った服に着替えるところを無言で見守ることにする。ルウィンとルビアの会話で何やら只ならぬ気配を感じた光太郎も、話し出したいのをグッと堪えてルビアともども大人しく待っていることにしたようだ。

「…なんだ、お前たちは」

 漆黒の衣装を纏ったルウィンはベルトが幾つもついている風変わりな外套を掴みながら、岩のように押し黙っている飛竜と少年を訝しそうに交互に見比べながら首を傾げてみせた。

《不機嫌そうなのね。とばっちりはご勘弁なの》

 煌くような深紅になった紅い飛竜は、対照的な薄水色の衣装の胸に抱えられながら尖った口をパカッと開いて見せた。

「不機嫌?オレが?…冗談だろ。別になんでもないさ」

「ルウィン、だいじょぶ?」

 不安そうに見上げてくる漆黒の双眸を見下ろして、自分がそんなに不機嫌そうな顔をしていたのかと正直驚きながら、ルウィンは首を左右に振って見せる。

「そんな顔するなよ」

「う?」

 クシャッと黒髪を掻き回されて、光太郎はホッとしたように顰めていた眉を緩めた。
 そんな2人の動作を見ていたルビアは、光太郎の腕に掛けている小さな両手で頬杖をつくと、肩を竦めて溜め息をついた。

《タオ老が元気だったのならそれでいいのね。問題は何を話したのかと言うことなの》

 いつもなら、お前には関係ないとピシャリと言われて口を噤む。これがお決まりのパターンだったはずなのに、今日のルウィンは少し違っていた。

〔ガルハに戻る。ただそれだけのことだ〕

「!」

 ガルハ語の会話に、光太郎はルビアを抱きしめたままで見守っている。それはルウィンが仕事の話をしているか、重要な話をしているときの言葉だから光太郎は素直に黙っているのだ。そんな光太郎を見下ろしながら、ルウィンは少し寂しそうな顔をした。

「?」

《それだけのことでガルハ語を使うの?》

 ルビアの台詞に、ルウィンは小さく首を左右に振った。

「ガルハに戻る、ただそれだけのことなのにな。気が引けるのは、オレが…いや、どうかしてる。さあ、もう行くぞ」

 振り切るように砂を蹴って火を消すと、ルウィンは背後を振り返りもせずにトルンの許まで行った。その、いっそキッパリと断ち切ろうとするルウィンの心を、ルビアは慮って口を開けないでいた。ただただ、その背中を見つめていることしかできないでいる。
 そんなルビアとルウィンの沈黙の対話に、光太郎はなぜか、不意に大きな不安を感じて小さな飛竜の身体をギュッと抱き締めてしまった。

(なんだろう…今まではあんまり考えてなかったのに。どうしたんだろう、この気持ちは…)

 奇妙な形をした筒状のハンドルに腕を入れて、血圧の下がるような軽い眩暈を覚えながら、ルウィンは魔力を吸い取られる感じに相変わらず嫌気が差したような顔をしていたが、正面を見据えるように睨み付けてから自らの魔力を全開で放出した。その瞬間、一気に生気を取り戻した銀の車体を持つトルンは、走れる喜びを体現するかのような咆哮を上げて身震いするのだった。
 呆然と突っ立っている光太郎に気付いたルウィンは、怪訝そうに小首を傾げながら顎をしゃくってみせる。
 不安そうな表情をしていた光太郎はちょっと俯いて、それから顔を上げるとニコッと笑って慌てたように走って行くとルウィンの背後の座席に飛び乗った。

「どうしたんだ?」

 ちょっと驚いたようにルウィンが言うのと、同じように驚いたように見上げるルビアを交互に見ながら、光太郎は殊の外なんでもないようにニッコリと笑って見せたのだ。

「別に何も♪ガルハ行くの、すごい楽しみ」

 ルウィンは肩を竦めただけで何も言わずに、爆音を立てて走り出すことにした。
 ルビアは不思議そうな顔をしていたが、結局、ギュッとルウィンの背中に抱きついている光太郎の顔を見ることができずに大人しく目を閉じた。
 光太郎はルウィンの背中に頬を寄せながら、先程までの明るい表情とは打って変わった神妙な面持ちで、キュッと唇を噛み締めながら流れて行く壮大な自然を見つめていた。

第一章.特訓!19  -遠くをめざして旅をしよう-

 レセフト王国に赴く道すがら、リジュとデュアルの一行は巨大な橋の袂にあるロジン村で休んでいた。
 深い渓谷に、誰がどの様な業をもってして創り上げたのか判らない、人々の記憶よりも古い時代からその姿を留めている石造りの巨大な橋は、小さなロジン村を遠い時代の彼方より見守ってきたのだろう。
 賑やかな村は石橋のおかげで世界に広く知られているのだが、その分、旅人の往来も激しく、なかなか村内はピリピリとした緊張感も漂っているようだ。
 まるで毎日が祭りの時のように賑やかで、露天商の声音も高らかに青い空に響き渡っている。旅のついでに店を広げる行商人の姿もあり、それほど住民数の多くないはずの村は、だがなかなか活気に満ち溢れていてデュアルのような人間には比較的過ごし易い空間のようだった。

「機嫌がよさそうだな」

 鼻歌交じりでご機嫌の旅芸人の後ろ姿に、アークでも1、2位を争う大国の王宮騎士団の団長とは思えない、草臥れた旅人の出で立ちをしたリジュが呆れたように苦笑している。

「そりゃあね、お祭りはいつだって好きだよ。ウキウキするじゃない?あれ、お堅い団長さんはお祭りとかは好きじゃないの~?」

 クスクスと笑いながらまるでステップでも踏み出しそうな仕種の、腹に一物も二物もありそうな企み顔のデュアルの双眸はひと波瀾含んだ輝きを秘めてにやりと揺らいでいる。
 余計なことを言うんじゃなかったとでも言いたそうなバツの悪い顔をして、シッシッと片手を振るリジュに、デュアルは良く晴れた陽光を金髪に反射させながら空を仰いで頭を掻く。

「んー、でもこれってお祭りとかじゃないんだよね~?こう言う雰囲気は嫌いじゃないけど、毎日がこんなカンジだと疲れちゃうだろうね」

 そう言われてみればと、不意に周囲を見渡したリジュは、賑やかで明るい町中の反面、暗い影のように疲れた表情をしている村人に気付いて少し驚いた。
 暢気にぶらぶらと散策しているだけではなく、この奇妙な出で立ちのただの道化師のような男の観察眼は、毎度の事ながら平伏されるものがあるとつくづく感心して先を行くデュアルの背中を見つめていた。

「だがそれが生きていく上での糧であるならば、致し方あるまい」

 不意に背後から声音がして、リジュは驚いたように足を止めた。そんなリジュに気付いたデュアルも歩調を止めて振り返ると、相変わらずの涼しい顔には少しの動揺もなかったが、内心では眉を寄せていた。

「いや、これは失礼。お二方の会話に聞き耳を立てるつもりはなかったのですが…これは失礼した」

 言い回しほどには年を重ねてはいないのか、フード付きの外套に身を包んだ旅人の足許は、長い旅を物語る編み上げの靴が砂利で汚れていた。

「今しがたこの村に着きましてね。お二方もそうですかな?」

(話し相手が欲しくて声をかけた…ってワケじゃないんだろうねぇ)

 それほどあからさまに見ていたつもりもないのだが、どうも、自分が思う以上にこの旅人は一癖ありそうだ、ここは1つ無視していようと考えていると、お人好しのリジュが愛想良く答えている。
 本来のその役割は無愛想なリジュではなく、陽気が売りの自分であるはずなのだからどうしたことかとあからさまに驚いていたが、リジュはどこ吹く風と言った感じでそんなデュアルを無視している。

「いや、他愛のない話ですよ。気にされますな」

 デュアルのおかげで多少なりとも建前を覚えた実直で無骨なリジュは、違和感を覚えながらも、出来得る限り不審な人物とはこれ以上関わらないように努め、その結果軽く流して立ち去ろうとデュアルを促そうとしたのだった…が、相手は何に興味を示したのか、そんな風変わりな二人連れの旅人を引き留めたりするのだ。

「このまま旅立たれるのかな?」

「? いや、明日発とうと思っているが…」

 あちゃ、この馬鹿…とデュアルが思ったのかどうかは定かでないが、お人好しのリジュをチラッと見て肩を竦めると溜め息を吐く。

「名立たる方とお見受けしましたが、宜しかったらそこの酒場で旅の話など聞かせてはもらえますまいか?」

(こちらからしても不審人物だと思うぐらいなんだから、向こうだって不審なヤツって思うワケでしょ。まあね、それはよしとして。さて、団長さんどうするかな)

「いや、実はまだ宿を取っていないのでね。これから探さねばならないんだ」

「おお、それならご安心を。その酒場の上が宿屋でして。私も取っているので融通も利くでしょう」

 水を得た魚のように生き生きと話す旅人の不可思議なほどの執拗さに、デュアルが漸くムッとした顔をしたが、リジュはその一言でホッとしたような顔をしたから旅道化の珍しい気概が逸れてしまった。

「おお、そうですか!それは助かる、なぁ?」

 嬉々として振り返ると、デュアルが額に血管を浮かべてニッコリと微笑んでいる。

「いやぁ、ホントに助かるねぇ」

 だが、やはりどこか抜けているリジュはそんなデュアルの真意などまるで気付いているような様子もなく、風変わりな旅道化は珍しく肩を落とすのだった。

「おお、まだ名乗ってもいませんでしたな。私はルシード、両眼を傷めておりますれば頭巾のままにて失礼致す」

 リジュは素直にその台詞を間に受けているようだったが、デュアルはそうでもなさそうである。だが、奇妙な縁で旅を供にすることになったこの、本来なら一生涯を王宮で、ともすればガルハとの戦が起こるのなら王宮騎士団の団長として毅然と戦に赴いただろう、この実直でお人好しで少し間抜けな男を気に入っていた。だからこそ、こんな退屈な旅に出ることを了承したのである。
 仕方ないなぁと肩を竦めたものの、さて団長がこの状況を今度こそ掻い潜ってくれるんだろうかとワクワク期待したように腕を組んでニヤニヤ高みの見物である。
 既に腹を立てる気力を失ってしまっていたデュアルとしては、この状況を楽しむことにしたのだ。もちろん、そっちの方が楽で何より自分が楽しい。

「名、ああ、俺の名は…」

 リジュ・ストックは世界に名立たるコウエリフェル王宮騎士団団長の名前である。
 その名を辺境とは言え、旅人の行き交うこのような村で口にすれば、確かに最初は嘘だと笑われて終わるだろう。それならそれで構わないが、噂とは困ったもので、根も葉もない嘘も誠のように吹聴されてしまう。そんなことがガルハにでも知れてしまえば、すわ何事かといらぬ波風を立たせてしまうではないか。
 そんなことはけして起こしてはいけない、自分を信用して任せて戴いた皇子に合わす顔がなくなってしまう。リジュは決意した。

「俺の名はヴィラ、こいつは…」

 さて困った。
 自分の名はどうにかなったとしても、彼には腕を組んで意地悪そうにニヤニヤと笑っている、良くも悪くも目立ってしまう相棒がいるのだ。
 今も俺はやったぞと内心で拳を握っているだろうリジュが、自分の存在にハッと気付いて困惑したように眉を寄せている状況を楽しんでいるかもしれない…いや、確実に楽しんでいるだろう相棒が。

「ボーンて言うんだ。どうぞ、よろしく」

 ニッコリ笑って漸く助け舟を出したデュアルに、リジュがもちろん胡乱な目付きをしたことは言うまでもないが、フード被りの男、ルシードは然して気にした様子もなく僅かに覗く口許に笑みを浮かべた。

「旅の道中、これは良い出会いができた」

 どうもデュアルが好きになれないルシードが、軽い挨拶のように腕を差し出して、リジュが反射的に握手をしていた。
 その時、デュアルは見逃さなかった。
 外套の袖から覗いた彼の腕にある痣、それはまるで何かに焼かれたような酷い火傷の痕のようにも見えたのだが…そんなさり気ないデュアルの視線に逸早く気付いたのか、ルシードはサッと腕を引っ込めて何食わぬ顔で彼らを酒場の方に促した。

(やれやれ、レセフト国に着くのはいつになることやら…でも)

 時間に余裕のない旅ではない。
 できれば退屈じゃないことに越したことはないのだから、本当はもっと凄いことが起こってくれてもいいとさえ考えているなんてことは、リジュには秘密である。
 言えばこの実直で無骨な騎士は湯気を出して怒りかねない、それを見るのも悪くはないのだが今はそれどころじゃないだろう。

(ま、いーや。なんか、これは面白いことになりそうだもんねぇ~♪)

 内心でワクワクしながら、顔はいつも通りの飄々とした表情を崩さずに、今度はリジュの背中を追って歩き出したデュアルに、初めて上出来の嘘をついた王宮騎士団の団長は、それでも些かの不安を抱いていた。
 なぜか、決まっている。
 この日頃はお喋りな男が、特に今日などは上機嫌なのにあまりにも静かだからだ。
 何かあるのか…いや、確実にあるんだろう。
 何もない平和な旅路を期待しながらも、ガックリと肩を落とすリジュの気持ちなど我関せずに、デュアルはニヤニヤと笑いながら歩いている。
 ロジン村の空は、リジュの心よりも遥かに驚くほど澄み渡っていた。

 しかし、デュアルが期待してワクワクしていたような出来事は全く起こらず、滞りなく談話をしただけで思ったよりもスムーズに宿も取れた。だから、本来なら2人は機嫌良くなるはずなのに、なぜか風変わりな旅道化がリジュの腰掛けているベッド、つまりリジュの為のベッドに胡座を掻いて座ったままで不機嫌になっていることに、彼が眉を寄せて首を傾げたとしても仕方がない。
 風変わりと言えばこのロジン村で出会ったあのルシードも、彼らの旅の目的などには触れず、ただ石橋を越えた先にあるクロパラ村には世にも珍しい香木があると言う話しをしただけだったのだ。

「このような時勢に旅も危ういものがありましょう。この村の石橋を越えた先にあるクロパラ村には、魔物をも寄せ付けぬと言う香木があると言われています。私もそれを求めて旅をしているのですが、急ぐ旅でないのなら貴方がたも寄ってみると宜しい」

 最後にそう言って席を立ったルシードに別れを告げて、部屋に戻ったは良いがデュアルが不機嫌になったのはそれからだった、が、そのくせ今度は上機嫌でベッドに腰掛けてきたリジュの肩に腕を回しながらパクパクと酒場からもらってきたサンドに食いついている。
 酒には強いのか、あれほどハイピッチで杯を干していたにも関わらず、ほろ酔い気分といった感じで別に酒に呑まれているという雰囲気ではない。

「団長さん、良くあんな機転の利いた名前が思いついたね。あれは何?誰かの名前?」

 ケラケラと笑いながら顔を覗きこまれて、あれだけ飲んだり食ったりしたにも関わらず、どこにまだそのサンドが入るのかと呆れたような顔をしていたリジュはしかし、それでも苦笑しながら首を左右に振るのだった。

「ヴィラは弟の名前だ」

「弟?ああ、そっか。団長さんって弟がいたんだったねぇ」

 日頃は口の重い無骨で物静かなリジュだったが、長い旅の間に、それでなくても胡散臭くて本当は信頼などまるで求めることなどできない正体不明のこの道化師に、だがなぜか、コウエリフェルの王宮騎士団の団長ともあろうリジュはポツポツと自分のことを話していたのだ。

「城から戻ることがなかなかできなくてな、弟には苦労ばかりかけている」

「んー、弟なんていないから良く判んないけどねぇ…ヴィラは団長さんが大好きだよ♪」

「…」

 思わず呆気に取られたようにポカンと見返したリジュに、ちょっとムッとしたように唇を尖らせたデュアルはツンと外方向いてゴロンとリジュのベッドに寝転んだ。

「そんなこと言うなんておかしいと思うんでしょ?まあね、酔っちゃってるかもね」

「いや、純粋に驚いているだけだ」

「純粋ってのが引っ掛かるけど…まあ、いいや。チビの頃に家を出てから家族なんていないもの。その点で言えば団長さんが羨ましいなって思うよ」

 これまた呆気に取られる言葉にリジュがますます眼を丸くすると、デュアルはムッとしたように頬杖を付いて上体を起こした。
 リジュにしてみたら、この長い旅の中であっても自分よりも口が重く、己のことを口にすることのないデュアルの唐突な告白に驚いていたのだ。

「なんですか、その眼は」

「あ?ああ、いやすまん。別におかしいとは思わないんだがな、お前がそんな台詞を吐くとは思えなかったからまた驚いてるだけなんだ」

 フォローになってないんですがと思いながらも、デュアルは後頭部で両手を組んでゴロンと仰向けになりながら、年を重ねた天井の染みを見つめて唇を尖らせた。
 だが、内心では自分でも驚いているのだ。
 長い付き合いが余計な感情を生み出しているのかもしれない、それはある意味、クラウンで生きる自分には不要の長物に過ぎないのだ。そんな感情を持ってはいけない、持ってはいけないと判ってはいるのだが不思議とリジュはそんな思い込みさえ忘れさせてくれる。
 それは、忘れられない少女と同じで…

「リジュは何にでも一生懸命なんだね。こんな下らない任務も、悪態もつかないしさ…そう言うこと、判らないからねー」

「いや、十分腹立たしいがな」

「おお!?団長さんにしては珍しい発言!すごーい」

 思わず飛び起きて大袈裟に驚いた振りをしてから、ケラケラと笑いながらもう一度ベッドに倒れ込んだ。倒れ込んで、腹を抱えて笑っている。

「…俺だって別に何も感じない機械仕掛けとは違うぞ。ただ、任務は必ずしも遂行してこそ価値があるのだ」

 フンッと鼻を鳴らして外方向く子供じみた仕種をして腕を組むリジュに、デュアルはやっぱりこのコウエリフェルの王宮騎士団なんかには勿体無い竜騎士を気に入っている自分に気付いた。

「ホントにそう思うワケ?」

 他人様のベッドで思うが侭の縦横無尽ぶりに、然程腹を立てている風でもないリジュは、むぅーっと下唇を突き出してデュアルがそうしたように天井を仰いでみた。
 答えなど有りはしないのだが…

「俺の意志など…いや、どうかな。価値でも思わんことにはこんな任務にいつまでも関わっていたいなどとは思えないだろうからな、そう思い込んでるだけかもしれんぞ」

 うん、と、1人で考えて1人で納得したように頷いているリジュを横目に、デュアルは気のない返事をして欠伸をした。話を振りながら、既にその内容に興味を失ってしまったようだ。

(全く、自分勝手なヤツだな)

 既にウトウトしているデュアルを肩越しに憮然として睨んでいたリジュはしかし、不意にあの奇妙な旅人の言った言葉を思い出していた。

「香木か…竜使いには関係ないかもしれんが、持っていて損もないだろう」

「あっれぇ!?団長さん、あんな話信じてるの?」

 それまで相手にもしようとせずに眠そうにしていたデュアルは唐突にガバッと起き上がって眼を丸くすると、呆れたように眉を上げて盛大な欠伸をしながら首を左右に振るのだった。

「ただの噂話だよ。それに、旅の目的は香木じゃないでしょ」

「むぅ?どうせ旅の途中で立ち寄る村じゃないか。息抜きにもなる」

 唐突にポカンとしたデュアルは、呆れたように目を寄せて瞼を閉じた。瞼を閉じてバタンッと本来ならリジュのベッドに仰向けに倒れ込んだ。

(なんだ…団長さんってばただの世間知らずだったのか)

 そう思って片手で両目を覆うとクスクスと喉の奥で笑い始めた。

(なーんだ、だから面白いのか~♪)

 いつもならこんな面白い話に乗るのは自分で、リジュはそれを止める役割であるはずなのに…まさかこんなところで団長さんが納得してくれるとは思っていなかったので、嬉しい誤算である。

「なんだ?呆れたと思ったら笑うのか?本当に変なヤツだな、お前は」

(ヘンなのは団長さんも一緒♪でもそれは言わないけどね)

 内心で呟いて、デュアルは笑いながら横になったままでフフンと胸を張った。

「良く言われるんだ~」

「威張れることか?…ったく」

 呆れたように肩を竦めて首を左右に振るリジュをニヤニヤと見つめながら、デュアルは内心で企てるような笑みを浮かべて考えていた。

(香木の件は団長さんのひろぉ~い心のおかげで、言い出さなくても行けることになったし、それはいい。さてさて、問題はあの謎の旅人さんだねぇ…)

 デュアルが下の酒場でくすねてきたサンドを訝しげにジロジロと観察して口に放り込むと、中々の味に眉を寄せたままで頷いているリジュの傍らで、自分こそ謎多い旅道化はルシードの目深に被ったフードの奥の微笑を思い出してワクワクした。

「…ん?そう言えば、なぜお前まで偽名を名乗る必要があったんだ?」

 不意に思い出したように口を開くリジュに、思わず起き上がってしまったデュアルはポカンとしたようにマジマジと仏頂面の竜騎士を見つめてしまった。

「起きたり寝たりと忙しないヤツだな」

 天下のクラウンは泣く子も黙る旅道化の一行、確かに泣いている子供でも笑い出す陽気さがある、が、本来の性質はそんな表向きのものとは少し違う。いや、大いに違う。
 世に名立たる暗殺集団があるとすれば、まずその筆頭に掲げられるのは『CROWN』の輝かしき名前だろう。クラウンのデュアルと言えば誰もが知っている、お互いに有名人同士なのだと言うことを、この朴訥とした武人に今更ながら説明しなくてはいけないのかと、デュアルは気が遠くなるのを感じていた。

「もー!!団長さん、ぶっ殺すよ」

 駄々を捏ねる子供のように唇を尖らせたデュアルは、付き合いきれないとでも言いたげにゴロンと横になって背中を向けてしまった。
 物騒な台詞にリジュがポカンとしたのは言うまでもない。

「…なるほど、噂に違わずたいしたお方だ」

 酒場に残されていたルシードは既にその場を後にして、往来の激しい高い石橋から眼下に広がる深い渓谷を見下ろしている。

「しかし、はて?見覚えのない顔もあった」

 谷から吹き上げる風がフードの中で冷徹に煌く双眸を僅かに歪ませた。
 ソッと欄干に手を添えて、外套の袂から覗く腕に醜く残る痣に気付いて静かに袖を引き下ろした。

「どうやら、思った以上に世界はあの方の掌の上で踊ってはくれぬと言うわけか…」

 クックックッと喉の奥で楽しそうに笑ったルシードは、袂から掴み出した妙なる芳香を放つ木片を谷底に投げ落とした。木片はハラハラと夕暮れの谷に音もなく落ちていったが、それを見ていた名もなき旅人が残念そうな顔をしていたが何も言わずに立ち去った。
 出で立ちは旅の行商人と言った風情で、どうやらあの木片の正体を僅かながら気付いていたのだろう。

「欲しければどうぞクロパラ村へ。旅人は多ければ多いほうが良かろうよ」

 クックックッと笑いながら、リジュとデュアルに泊まると言ったはずの村を後にして、まるで風のようにルシードは石橋すらも後にするのだった。

第一章.特訓!18  -遠くをめざして旅をしよう-

 海よりの風を受けて、明るい色の髪を潮風に揺らしながら照りつける陽光の下で彰は重い銅剣を振るっていた。荒削りな血溝が陽光を照り返してギラつくが、そんなことはお構いなしだ。
 下っ端も下っ端、未だに剣技も教えてくれないレッシュに業を煮やした彰は、船底にある倉庫を徘徊して漸く見つけ出した安っぽい銅剣を持って一人で練習することにしたのだ。
 昼下がりの甲板は、自分たち以上に強い海賊のいない平和な海を、ぼんやりと遠見鏡で眺めているヒースが物見遊山でそんな彰をからかう以外に人影は疎らだ。

「飽きないねぇ、アキラは」

 見張りと言っても別にする仕事なんかないくせに、だからと言って暇を持て余していても彰の剣の相手に付き合ってくれるということもない。恐らくはあのレッシュのことだ、彰の剣の相手をすればその次は俺だと思えvとか言っているのだろう。

(…あの野郎)

 額に汗しながら、暇な時は剣を振るう。それだって見様見真似なんだから、バットでスイングしているようなレベルだ。

「そんなイヤミ言うヒマがあるんなら、俺に付き合ってくれよ」

 肩で息をしながら横目で睨むと、ヒースはわざとらしく肩を竦めて見せるものの、どうやらその場から立ち去るつもりはないらしい。

「やだね。お前の相手をしたらお頭の相手もしなきならねぇ、俺だって命は惜しい」

 やっぱりな…と彰は思ったとおりの反応に悔しさを通り越して呆れていた。

(何を考えてんだろ、アイツ)

 肩を竦めて、もう一度重い銅剣で練習を始めると、何が楽しいのかヒースが海から吹く風に猫のように目を細めてまどろみながらその様子を眺めている。最近、『女神の涙号』の甲板でよく見かける光景である。
 重たい剣を振ってばかりいても筋肉痛になるぐらいで、練習にはさほどなっていないことぐらいは嫌でも判る。ヒースに言われなくても我ながらよく飽きないもんだと感心していた。
 ただ、何かしていないと居ても立ってもいられなくて、ただただ我武者羅に剣を振るっているのだ。
 不可思議な出来事は好きだったし、こんな貴重な体験、恐らくはもう二度とできないだろう。
 ここに光太郎が一緒にいれば、きっと別にこんなに必死にならなくて、それなりに今の状況を楽しんでいたに違いない。彰は湧き起こる焦燥感と苛立ちを、吐き出すこともできずに奥歯を噛み締めて腹の底に捻じ込んだ。
 光太郎に会いたい。
 元気な姿が見たい。
 アイツが笑ったあのホッとする笑顔が見たい…
 一緒に来ていないかもしれない…そんな思いは念頭にも起こらなかった。
 それはまるで、光太郎が感じているのと同じように、生れ落ちた時間まで一緒の、双子のような幼馴染みだから伝わる以心伝心のようなものなのか。彰は確信にも近い思いで、この世界に光太郎が居ることを感じていた。

(俺が行くまで、絶対に死ぬんじゃないぞ)

 願いにも似た思いで剣を振るっていた彰は、ふと、のほほんと海風に髪をザンバラに揺らしながら惚けているヒースに、いつも聞こうと思って聞けないでいる質問をしてみることにした。
 どうせこうして素振りをしていても、明日の朝には後悔する羽目になるんだ、それならばもっと有り余って苛々するこの無駄な時間を有意義に遣うのも悪くない。そう考えて、それこそこんな無駄な体力の消耗を彰はさっさと手放すことにした。

「ちょっといいかな、ヒース」

 肩で息をしながら顎に滴る汗を腕で拭う彰に声をかけられて、まどろんでいたヒースは欠伸をしながら横目でチラッと様子を伺ってきた。

「お頭に叱られねぇことならちょっといいぜ」

 どんな返事だと思いながらも、彰は溜め息をついてヒースが頬杖をついている縁まで歩いていき、どっかりと両足を投げ出して腰を下ろすと首を傾げて気を取り直したように尋ねることにした。

「あのさぁ、ヒースは何かとよくしてくれるんだけど、他のみんなはどうしてあんなにソッケナいんだろう?」

「そりゃあ、お前。お前がお頭のお気に入りだからに決まってんだろ」

 何だそんなことかとでも言いたそうに、ヒースは遠見鏡で肩を叩きながら呆れたようにチラリと彰を見下ろしてそう言った。相変わらず猫のように目は細めているから、あまり真剣には取り合っていないのだろう。

「…はぁ、そんな理由かよ」

「そんな理由ってな。お前には判らねぇだろうけど、あの人は本当に恐ろしい人なんだぜ?今でこそ平和ボケしてるけどよ、そりゃあお前、炎豪のレッシュって言やぁ泣く子も黙って震え上がるんだぞ」

「ふーん」

 いつもダラダラと長椅子に寝そべっているだけが取り柄の牙のないライオンのようなあの男が、ここに居並ぶ屈強な男たちを統括できているってだけでも驚きなのに、その上に震え上がらせているのだから信じられない。

「そしてチビるんだ!」

「…なんだよソレ」

 確信に満ちた思いでグッと遠見鏡を握り締めるヒースに、とうとう彰はプッと噴出してしまう。
 軽いジョークは、この船に乗っている連中がみな心得ている退屈の潰し方なんだろう。遠目からチラチラと無関心そうな風体で眺める癖に、本当は興味津々の船員たちは、話してみれば案外付き合いやすい連中が多い。海賊と言う割には、気の知れた酒飲み仲間がただ集まっていると言う印象しか彰は感じなかった。
 目の前にいるヒースだってそうだ。
 頬にざっくりと走る刀傷さえなければ、酒場に屯しているちょっと悪いヤツぐらいにしか思えないだろう。

(…でも)

 彰はしかし、キュッと腹を引き締めてソッと笑っているヒースを盗み見た。
 間違いなく彼らは壮大な海を股に駆けて暴れる海賊なんだろう。
 ちょっとした身のこなしも、実戦で培われた殺気のようなものを孕んでいる。ウカウカしていたら彰など、恐らく秒殺でこの世に立ってはいないだろう。そう思わせる凄みのようなものがあった。
 それはレッシュにも言えることで、傍にいる時は実のところ、緊張のしっ放しだった。
 こうして下っ端海賊になって、少しでも傍から離れられるとホッとしている自分がいることに気づく。
 認めたくはないが、彰は確実にレッシュに怯えていた。
 太い二の腕が腰に絡むと、腰骨なんか砕かれてしまうんじゃないかとハラハラしていた。そんなこと、けして表面上には出してやらなかったが、ダラダラしているくせに抜け目の無いレッシュのことだ。恐らく気付いていてわざとそうしていたんだろう。そう思うと、知っていながらからかわれていた自分の立場に自尊心が傷つけられて思わず唇を噛み締めると。

(絶対にこんなオンボロ船から脱出してやるんだ!!)

 熱く決意してしまう。
 物思いにふける自分をじっと観察しているヒースに気付いて、ハッとした彰は、照れ隠しのつもりでへへへと笑った。ヒースは変なヤツだなーとでも思っているのだろう、肩を竦めるだけだ。
 そう言えば、彰は長らくこの船にいるが、レッシュについて『海賊のお頭』と言うこと以外は何も知らないと言うことに今更ながらにふと気付いた。

「海上を震え上がらせる海賊の王様なのかい?」

 ぼんやりと遠くに霞んで見える島を眺めながら頬杖を付いているヒースに気を取り直して尋ねると、彼は肩を竦めながら頷いて見せ、暇を持て余した体でポツポツと語り出した。

「お頭って人はよ、今ではもう珍しい種族の出身なんだけどな。別に地位だとかそんなモンを持ってるってワケじゃねぇ。ただ俺たちが純粋にあの人の人柄だとか、強さに惹かれて集まったんだ。そう言う荒くれた連中がお頭を慕ってただ集まったっつーだけで、いつの間にか世間の連中はそんなお頭や俺たちを海賊だと呼ぶようになって恐れ始めたってワケさ」

「…現に悪さしてんだろ?」

 ご名答、と笑って頷くヒースに、彰はほんの少しだがレッシュを見直してやってもいいかと思うようになっていた。別に、ただの好奇心かもしれないし、あんな怠け者のライオンのことを尊敬するように親しみを込めた瞳をして語るヒースの、その気持ちをほんの少し、感じてみたいと思っただけなのかもしれない。
 レッシュは悪党だし、隙さえあればちょっかいを出してきて、気を抜けば頬にキスをしてくるような変態だ。
 何が楽しくて自分なんかの相手をしているのか判らないが、あんなに恐ろしくて本能が逃げろとがなり立てているはずのレッシュからは、不思議なことに悪意を感じない。またそれが厄介だとは思うのだが、怯えて腹を立てているくせにそれを憎めないでいる自分の感情の方がもっと厄介だな…と彰は苦笑していた。

「珍しい種族かぁ…そう言えば、あの強気なお姫様もレッシュのこと、【スレイブ族】とか言ってたっけ」

「ああ、パイムルレイールも随分と珍しい種族だけどな。あの種族の場合は国がきちんとあって王様とかいるんだがなぁ、スレイブ族は山間民族の末裔のような存在で、だがもう殆どは息絶えてるような貴重な戦闘部族なのさ」

 ポツリと呟いた独り言に応えるように頷いたヒースの言葉に、異世界に本当は興味津々の様子の彰はそれでも不思議そうに、波間を漂うカモメを見下ろして鼻先で笑う海賊の手下を見上げるのだ。

「山間民族?ってことは、レッシュは山に強い部族だったのかい?それが海にいるのかぁ…ヘンなの」

 はははっと突然笑い出したヒースに驚いたように目を見張る彰に、彼は肩を竦めてくるりと甲板の方を向くと縁に背中を預けて腕を組んだ。

「少数民族なんてのはみんなそんなモンさ。俺だってお頭ほどじゃねぇが、やっぱり山間で暮らしていた民族の出なんだぜ?でも今はこうして海の男だ。運命なんてのはな、てめぇで見つけて掴むモンだと俺は思ってるぞ」

「そっか」

 彰は、普通に高校を出て、大学に行ったり社会に出たり、それは全て自分の手で掴んで自分で一人前になった証だと思っていたし、それは全ての人間が平等に持っている権利だと思っていた。だが、どこかに甘えを持っていて、何かあっても親がいる、親に頼ればいいなんて甘えを確かに持って生活することが当たり前になっている世界で生きていたのだ。
 何もない無から、レッシュはたった一人でこの世界を創り上げたんだろうか?
 海賊だと震え上がらせて、レッシュはこんな途方もなく広い海に出て、孤独に癒されでもしているのだろうか…そこまで考えて、彰は首を左右に振った。

(何を馬鹿なこと考えてるんだろ。孤独に癒される?海の上にいて俺、ヘンにロマンチックになっちまったのかな)

 見渡す限りの海原に、救いを求めて伸ばした腕を掴んでくれるものなど何もない。
 あるのは己自身。
 レッシュの不遜なまでに豪胆なあの自信は、長い年月をかけてこの海が育んだものなのだろうか。
 逃げ出す前に、ほんのちょっと、レッシュについて観察してみるのも悪くないかななどと、温室育ちの彰が安易に考えたとしても悪いことではない。仕方のないことなのだ。

(どこか…確かウルフラインだっけ?そこに寄航した隙に逃げ出すんだ。その航海の間、無駄に腕力つけたってたかが知れてる。レッシュの身辺を探って隙を見つければ、案外あっさりと抜け出せるかもな。おお、俺ってば頭いいじゃん!)

 教師たちが挙って褒め称えた世紀の頭脳の持ち主は、どうしたことか、こと神秘的なものに対してだけはその能力を十二分に発揮できない性質を持っているようだ。そこが、光太郎が愛すべき彰の彰たる所以なのかもしれないが。

「まあ、暫くすりゃお頭も本当の王様になるんだろうがな」

「え?」

 ポツリと呟いたヒースの何気ない独り言に、彰は気付いてそんな暇を持て余した見張り役を見上げた。
 ヒースはあまりの暇さに凝った肩を遠見鏡で叩きながら、何でもないことのように言ったのだ。

「見てて判らねぇか?あのパイムルレイールのお姫さんだよ。ありゃあ、絶対にお頭に惚れてるぜ。じゃなきゃ、どうしてこんなムサい男所帯の船に乗るなんて言い出すかよ」

「お姫様が言い出したのかい?」

「ああ、お頭は近くの港で降ろすって言ったんだけどなー。海賊が戦利品を手放してもいいのか?国に帰ったら言い触らすぞと脅しやがってなぁ。じゃあどうしろって言うんだとお頭が聞いたら、あのお姫さん、別嬪な顔でにっこり笑って賓客扱いで国まで送ってちょうだいときた」

 この船で賓客扱いだぞ!?と、やたら『賓客』の部分を強調して言うヒースに、ふと、彰は眉を寄せて穿った考えを躊躇いながら口にした。

「えっとその、国まで送らせて捕まえるなんてことは…」

「有り得るし、有り得ねぇかもな」

 即答ははぐらかすようなニュアンスで、わざとらしく明るいものだった。
 ヒースもそこのところは懸念しているのだろうか、いや、どうもそうではないようだ。

「お頭は間違いなく捕まるだろうよ。もともとパイムルレイールとスレイブは縁故関係にあるようだからな。一つの種族から袂を分かれたのがこの二つの種族なんだよ。まあ、簡単に言やぁ根っこのところが一緒ってことだな。パイムルレイールの王さんは第五皇女に手を焼いていて、さっさと嫁がせたがっているなんて噂は港に寄りゃぁ嫌でも耳に入るからなぁ…まあ、そう言うこった」

 肩を竦めるヒースに、彰はなんだそうなのか…とどこか拍子抜けしたような気がしていた。
 何もウルフラインで逃げ出さなくても、下手をすればパイムルレイールの国、バイオルガン国で易々と逃げ出せるのではないだろうかと考えたのだ。レッシュとて、進退窮まるその時に、まさか彰のことまで考える余裕などないだろう。

(…なんだ、俺。馬鹿みたいじゃん。ヤキモキしてさ!結局レッシュは、バイオルガンまで退屈凌ぎに俺を乗せたに違いないんだろうし…)

 シュメラ姫はバイオルガン国の第五皇女で、地位も身分もあって武力もある。
 それに比べたら自分などは…たかが知れている高校生だ。
 いやそれ以前に、何の役にも立たないが付く高校生だが…
 不意に胸の辺りがツキンと傷んで、彰は身に覚えのない痛みに首を傾げた。
 筋肉痛が悪化したのか…今日は最悪だなと思いながら見上げた空はどこまでも澄んでいて、スモッグに淀んだ見慣れたあの空ではなかった。もう一度、できるなら光太郎と見上げたいスモッグの空。しかし、できればこのどこまでも澄んだ空を一緒に見上げたいと思う。
 胸の痛みは僅かなもので、すぐに彰は忘れてしまったが、その痛みは小さな棘を心の奥深い所に残してしまった。その事実を知ることなく彰は、この広い空の下のどこかで、或いは泣いているかもしれない幼馴染みの安否を気遣っていた。
 風が、少年の不安と胸の痛みを擽りながら、船上にある数多の思いを飲み込んで旋風している。
 やがてそれは大きな竜巻となって海上を荒れ狂うかもしれない予感に、船長室の奥で紅の獅子がひやりと背筋を撫でる風にくしゃみをしていた。
 海は静かで、どこまでも穏やかだった。

第一章.特訓!17  -遠くをめざして旅をしよう-

 中空に真珠色の月が浮かび、大気は冴え冴えと澄んでいる。
 四方を森に囲まれているその湖は、人に知られることもなくひっそりと存在を隠していた。
 と。
 不意に孤独の森に物悲しげな音色が響く。
 異種族の民が奏でるシュラーンを爪弾きながら、湖の脇に据えられた天然の玉座のような岩に腰を下ろした少年は、瞼を閉じて月夜にまるで歌うように指を躍らせていた。
 湖は澄んでいて、あまりにも清らかである為に生物の姿はなかった。
 切ない旋律が湖面を揺らすと、透明度の高い湖の底に揺蕩うように横たわる青年の瞼が水の揺らめきに反するようにピクリと戦慄いた。
 ふと、少年は閉じた瞼を開き、滴るような鮮紅色の双眸で青白く浮かぶ月を見上げて銀に煌くシュラーンの弦を掻き鳴らす。調べはまるで目に見える風のような厳かさで少年を取り巻くと、何事もなかったかのように森の奥に消えていった。
 ぴしゃん…
 水面が揺れて、何もかも覆い尽くすかのように何枚もの色とりどりの異国の布を幾重にも頭部に巻きつけた少年は、深紅の双眸を閉じると闇夜に溶けてしまいそうなひっそりと切ない旋律を滑る指先で奏でながら何かを待っているようだった。

「ごらん」

 不意に背後で声がして、少年は虚ろな深紅の視線を背後から伸びた指が指し示す先に彷徨わせているようだったが、声の主は気にした様子もないようだ。

「儂のめしいた双眸では認めることもできまいよ」

 少年の声にしては嫌にしゃがれた、ゾッとするような陰鬱な響きを宿した声音に怯むこともなく、声の主はシトシトと真の闇にはあまりにも清らかな雫を零しながら中空に留まる真珠色の月を見上げていた。

「のう、主。魔族の権力は相変らず揺るぐこともあるまい」

 しゃがれた声の少年は、爪弾くシュラーンの音色には程遠い奇怪な声を上げて小さく笑った。

「真実を映し出す鏡の傍ら、深紅の星が吉兆を予言する…だがしかし、それが果たして我ら魔族にとっての吉兆と出るか否かは気まぐれな風次第」

 冷たい微笑を薄い唇の端に浮かべた主のその澄んだ、しかしそのもの自体に魔力でも宿っているかのような冷やかな声は、温かな血が流れる者が耳にしたのならたちまち魅了され、破滅へと溺れて逝くだろう。

「巷に溢れる竜使い光臨の噂ぐらいは知っている。だがね、我が師よ。まさかそれが真実であるなんてことを本気で信じているわけではない。おおかた、何処ぞの低級魔導師が異世界より召喚した素性の知れぬ輩を竜使いに祭り上げたんだろうよ。人智の浅はかさを物笑いに目覚めてやっただけのこと」

 頭部を布で覆い隠した盲目の少年は、虚ろな深紅に濡れ光る双眸で声の場所を追うように、何時の間にか傍らに立つ青年を見上げているようだった。
 月が零した涙のように流れ落ちる銀の髪は、先ほどまで冷たい湖の底に横たわっていたとは思えないほど、主に忠実な夜の大気の力でもって、刹那のうちに風を孕む軽やかさを取り戻していた。漆黒の衣装に鏤める金銀の財宝さえも見劣りしてしまうほど高貴な顔立ちはしかし、どこか禍々しく、傍にあれば落ち着かなくなってしまうだろう。そして、魔族の証しである先端の尖った細長く伸びた耳には、静かに射し込む淡い真珠色の月の光に鈍く輝く三日月型の耳飾が揺れている。
 陰を宿した鋭い双眸は、月の傍らに密やかに瞬く小さな希望の光を鼻先で笑っているようだった。

「竜使いは死んだ」

 いっそキッパリと言い放ったにも関わらず、どこか漫ろな物言いに、少年は吐息しながらシュラーンの弦に指先を滑らせた。

「…だが、我らの与り知らぬところで運命の歯車とは廻るもの。其方の時がそうであったように」

「竜使いは魔族の主たる貴様が殺したではないか。何を怖れることがある?」

 間髪いれずに少年がしゃがれた声で呟くと、何か言いたげに口を開きかけた青年はしかし、淡々とした禍々しいほど美しい横顔は無感動で、彼が今何を考えているのか計り知ることはできなかった。

「ファタルの聡明な使いは愚かではない。何やら愚挙の匂いもする。どうやら城に戻らねばなるまいよ」

 少年の光を失ったはずの双眸がチカリと瞬いた。
 それはまるで月の傍らでひっそりと姿を隠している赤い星のように。

「予言の星が現れたとなると、悠長に眠っているわけにもいくまい。この手で殺したはずの竜使い、されど僅かな情けが命取りにならないとも限らん。ブルーランドに戻る」

 銀糸のような髪がふわりと舞い上がり、青年は当然のように岩に腰掛けてシュラーンを大事に胸に抱えた少年を漆黒の外套の内側に隠してしまった。

「風が運ぶ吉凶の匂い、優雅に舞う白い鳥…」

 大きな漆黒の鷲禽に姿を変えた青年が森を飛び立ち遥かな大地へと飛んでいく。
 残された森には風に乗ってシュラーンの爪弾く切なく儚い旋律が、物悲しげな歌を掻き消している。
 孤独の森に沈黙が戻っていた。

「そもそもさー、なんかヘンな話だよねぇ?予言の竜使い様があの地下都市に姿を現すって言ったのはファルちゃんなんだよ。なのに、今更になってそれが違うとか言っちゃったりしてさー…結局、じゃあどこに現れるのさ?」

 真剣な双眸で睨まれても、やはり同じく気落ちしているリジュに相手をしてやれるほどの気力はない。
 脱力したようにトボトボと歩いているリジュの肩に豪快に腕を回した派手なピエロを、道行く旅人が物珍しそうに見ているからと言って、良識あるコウエリフェルの王宮竜騎士団の団長は振り払うほどの体力も残っていないようだ。

「どこ行く~?うーん、もういっそのことガルハにでも行ってみようか?」

「どうしてガルハに行く必要があるんだ?」

 はぁ、と溜め息をついて、漸く少し気力を取り戻したようなリジュはデュアルの腕を振り払いながら胡乱な目付きでふざけたピエロの顔を軽く睨んだ。
 それでもやはり、どこか眠ってでもいるように見えるのは否めない。

「なんとなくかな~?竜騎士の流れを汲む一族もいるしさぁ、もうね、こうなったら直接聞いてみるとかってどう?…なんかやたらとワケが判らなくなってるね!」

「…」

 ブスンとしたままで口を開かないリジュに、デュアルは結局、やっぱり面白くもなさそうに盛大な欠伸を洩らした。

「まあ、俺たちは結局、国に踊らされているんだろう」

 ポツリと呟く意外なリジュの台詞に、噛み殺すこともしない欠伸を途中で止めてしまったデュアルは、驚いたように竜騎士団の団長の顔を凝視した。

「なんだ、その目は。お前がいつも言っている台詞じゃないか。俺が言うと驚くのか?」

「や、そりゃ驚くでしょうよ。あの実直堅固の鎧を着て歩いているようなリジュ団長が、まさかそんな台詞を口にするなんて…今日はちゃんと晴れるのかなぁ?」

 おどけたように肩を竦めるデュアルはしかし、それでも楽しそうにニコッと子供のように笑っている。
 そうか、とリジュは呆れるほど破天荒な旅道化を、自分がそれほど嫌いになっていない理由を思い当たって内心で頷いていた。
 どこか憎めないのは、デュアルがあまりにも開放的な性格で、辛辣なくせにその辛辣さがどこか子供じみた素直さがあるからなのだろう。
 嫌いだと嘯く王宮の人間どもの大半は、彼の素直な開けっ広げの性格を疎ましく思いながらも、本当はどこかに羨望があったからではないのか?人間と言う生物は見栄で生きているようなものだ、デュアルの奔放な行動や言動は、良識ある者ならば誰しもが世間を憚り口にできない…いや、してはいけないことだと認識しているから、遠ざけようと無意識に背を向けようとしているに過ぎないのだろう。そのくせ、その良識が世界の全てなのだと諦めて、奔放に生きる者を妬み陰口を言っては自己満足しているのか…ふと、そこまで考え込んで、リジュは自分もそれまではそんな人間だったんだなと改めて思い直した。
 不思議と、始めはあんなに嫌だった得体の知れない道化との旅を、今の自分はどこか楽しんでいることに気付く。そうすると、なぜだか今までの自分が滑稽にすら思えてしまうのはどうしてだろう。

「…恐らく、馬鹿らしく思うからだ」

「へ?」

 自分の心中の台詞に自分で答えて、リジュの自問自答に首を傾げるデュアルに向かって団長は事も無げに言った。

「お前といると真面目ぶるのが馬鹿らしく思うと言ってるんだ」

「え?何それ、ひっどいな~」

 子供のように唇を突き出すデュアルをフンッと鼻であしらって、ウルフラインの首都を出たリジュは何時の間にか夜の明けた蒼穹の空を見上げていた。

「そうだな。俺もどこをうろつけばいいのか皆目見当もつかん。カタ族でも捜して彷徨うか…」

「そんな、気の遠くなるような途方もないことは、お願いだから計画しないでよ」

 間髪入れずに眉を顰めるデュアルに冗談だと肩を竦めて、リジュは軽く溜め息をついた。

「取り敢えずだ、レセフト王国のコウ家でも尋ねてみるか」

 こんな闇雲の状況でぶらぶらと彷徨うにはアークは広すぎる、半ば投げ遣りに言ったリジュの言葉に派手なピエロの眉間の皺が思ったよりも深くなった。

「コウ家?ああ、あの七賢者の血筋だって謳われているお偉い魔導師さまのいらっしゃる国か。でも、あの国はエル・ディパソに匹敵するぐらいの宗教国家だし、どこよりも余所者を嫌う種族だよ?大丈夫なのかな」

 日頃はそんな気弱なことなど口にしないデュアルの予想外の台詞に、リジュは肩を竦めて首を左右に振るのだった。

「コウ家には俺の姉が嫁いでいる。その縁を頼っていくしかないだろ」

「うっわ。お偉かったんだね、団長さんって」

「馬鹿にしてるだろ?」

「べっつに~」

 明らかに馬鹿にしているように見えるのだが、結局はリジュの言うように何かを頼って行動しないことには、この広い世界で砂漠に落ちた一粒の砂を見つけ出せと言うような無茶な要求に応えることなどできないだろう。皆目見当がつかないのならば、竜使いに所縁のある竜騎士の家系であるコウ家の住まう王国に見当をつけてみるのも悪くはないだろう。
 もともと、馬鹿らしいほど壮大な要求を突き付けられてしまったのだ、何をしても過ぎると言う言葉はないだろう。何をしても足りなさ過ぎると言う言葉はあってもだ。

「コウエリフェルの竜騎士団の団長さんが尋ねたとなると…この時期だし、すわ何事!?って思われないかな?」

「…やけに慎重だな。お前らしくもない」

「らしくないって?別にね、いいんだけどさ。大事になると面倒臭いワケ。それでなくてもクラウンの連中にも振り回されてるのに、国家の陰謀なんかに巻き込まれるのは真剣にご免だって思ってるだけだよ」

 デュアルが腰に両腕を当てて悪態をつくと、リジュはなるほど、そうかと納得したようだ。
 しかし、だからと言ってそれを受け入れてまた思い悩むのもご免じゃないかと呟くと、デュアルはうんざりしたように双肩を落としてしまう。

「どちらにしてもお前は、既に殿下に申し付けられたあの時点で国家の陰謀に巻き込まれているんだ。今更、そんなことで嘆くなんてのはやはりお前らしくないと俺は思うぞ」

 リジュがこの時ばかりはしてやったりのしたり顔でニヤッと笑うと、デュアルはムッとしたように唇を尖らせたが口応えをする気にはなれないようだった。つまり、デュアル自身もリジュの言う通り、やはりあの時に断っておけばよかったと後悔しているのだろう。

「でもね。やっぱ断るのは良くなかったと思うワケ。あの時断ってしまったら、団長さんは独りぼっちじゃない。旅は道連れ世は情け…ってね♪2人で行けば危険な道中もあら不思議、とっても楽しくなりますとさ」

 おどけたようにそう言って、デュアルは実直なリジュの肩に大袈裟に腕を回して機嫌よく鼻歌なんかを披露して見せた。
 ウルフラインの首都から郊外に出る舗装された街道は、旅路を急ぐ旅人の通り道にもなっていて案外賑やかだ。そんな場所で男2人で肩を組んで歩くのも奇妙に目立つし、ハッキリ言って見っとも無い。夜と言うなら酔っているですまされても、ましてや今は明け方だ。いつも通り、リジュは陽気なピエロの腕を振り払いながら、そんな道中にも慣れてきている自分にゾッとしていた。
 コウエリフェルきっての大神官であり王宮魔導師にも見放されてしまったリジュとデュアルの一行は、宛てのない旅路を一縷の望みを賭けてレセフト王国に向けて旅立つことにしたのだった。

第一章.特訓!16  -遠くをめざして旅をしよう-

 巨木の根元に溜め息をついて腰をおろすルウィンに、光太郎とルビアは顔を見合わせて首を傾げていた。酷く疲れたような相貌には疲労が張り付いていて、心配になった光太郎はその傍らにルビアを抱き締めたままでしゃがみ込むと、綺麗な横顔を覗き込んだ。

「ルウィン?どしたの」

 ひょいと顔を覗き込まれて、心配そうな漆黒の瞳を見つけたルウィンは、小さな溜め息を零して首を左右に振ると苦笑する。その見慣れた苦笑にも覇気がなく、何事かを考えているようで上の空の返事だった。

「いや、別に」

 ルビアと顔を見合わせた光太郎は、ちょっとだけ困ったような顔をしたが小さく苦笑すると、銀の前髪を鬱陶しそうに掻き揚げるルウィンに言うのだ。

「あのね。ルウィンの【いや、別に】は何かあるんだって、ルビア言ってた。だから、何かあった。僕にも、何かあったよ」

 自分を指差してニコッと笑う光太郎に、ルウィンは驚いたような、ギョッとした表情をして反対に顔を覗き込んで訝しげに問い質した。

「何かあったって…何があったんだ?」

 自分のいなかった間に何かあったのだろうか…砂漠のバザーは得てして素行の悪い連中が多いときている。ルビアがいるとは言え、残して行ったのは失敗だっただろうかと、ルウィンが一抹の後悔を覚えていると…

「いや、別に♪」

 ニコッと笑う光太郎に、なんだ冗談か…と彼が小さく溜め息をつくと、それまで黙って2人のほのぼのちっくな会話に耳を傾けていたルビアが、光太郎の腕の中で呆れたようにぼやいたのだ。

《ルーちゃんって光ちゃんには優しいのね!…ま、そんなことはどうでもいいの。何かはあったのね》

「…ハイハイ、オレはルビアには冷たいですよ。で?何があったんだ」

 うざったそうに軽くあしらって、ルウィンは胡乱な声音であからさまに不機嫌そうに呟いた。
 するとルビアは、軽い溜め息をついて首を左右に振るのだ。

《ルーちゃんってば、最近すっごく小慣れてきてしまったのね。おっもしろくないの~》

「いや、お前とは一度、ジックリと話し合う余地があると、オレは常々考えてるんだけどな。ルビア?」

《おーいに結構なのね、ルーちゃん》

 額に血管を浮かべてニコッと笑うルウィンに、ルビアも負けじとニコッと微笑み返した。沈黙の攻防戦を理解できない光太郎は、この2人ってホントに仲良しだよな~と全く違う方向の解釈をしながらニコニコ笑って口を開いた。

「銃を持ったえっれーハクイねーちゃんと話したよ」

「…」

《…》

 途端にルウィンとルビアの攻防戦は鎮火して、そんなことよりも、光太郎の口にした言葉に2人は二の句が告げられないでいるようだ。

「?」

 そんな2人の突然の豹変振りに、光太郎は唐突にハッとした。

(やっばい!俺、なんかマズイことでも言っちゃったのかな?でもでも!確かに隣りにいたおっちゃんはそんなこと言ってたんだ!あう、失敗だったかな~)

「ええっと!その、あの…」

 慌てて弁解をしようと試みる光太郎はしかし、やはり語彙の少なさに言葉が詰まってしまう。

「いや、だいたい判った。で?なんだったんだ、ルビア?」

 全く判ってくれなかったのかとガックリする光太郎の腕の中で、ルビアがツンと外方向きながら投げ槍に返事を寄越した。

《銃魔使いなの》

「ああ」

 なんだ、そんなことかとルウィンが気のない返事をして巨木の根元に凭れるのを、光太郎は小首を傾げて見つめていた。
 銃魔使いと言えば、こんなバザーに一人や二人いてもおかしくはないし、見るからに風変わりな旅人を見つければ商売っ気を出すのも仕方がない。彼らは懸賞金目当てのシビアな賞金稼ぎと違って、実に好奇心の旺盛な連中が集まっているのだ。

「その銃魔使いがどうしたって?」

 チラッと、光太郎なのかルビアなのか、どちらともつかない調子で尋ねるルウィンに、小さな紅い飛竜は答えてやるつもりなどないらしく外方向いたままで知らん顔だ。

「ええっと、紙くれたよ。白い、真ん中に“薔薇姫”書いてる。横に印…えっと」

 光太郎が説明しようとするのをルウィンは止めなかったし、それよりも先を聞こうと促しすらしたのだ。もともと、彼は光太郎が言葉を覚えようとする努力を買っていたし、それに付き合うことにも覚悟はしていたのだから、当たり前といえば当たり前の反応なのだが。
 気のない素振りのルウィンにどう説明しようかと思案していた光太郎は、それでも、何某かの興味を持った彼に事の顛末をうまく説明しようとして失敗していた。

「えっと、その…印…」

 チラッとルビアに助けを求めても、この紅いルビーのような飛竜は相手にもしてくれないのだ。いつもなら助け舟を出してくれるのだが、言葉覚えのゲームを始めた時から、ルビアはルビアなりに、教えてやりたくなる衝動をグッと堪えながら知らん顔を決め込むようになってしまった。
 とうとう光太郎は、助け舟が出ないと知って、紙片を掌に乗せるような仕種をすると、その揃えた指の付け根の辺りに唇を押し付ける、そんなジェスチュアをして見せたのだ。
 ナイス、光ちゃん!…と、ルビアが内心でグッと拳を握り締めて前後に振ったことなど、当たり前だが気付きもせずに、ジッと見下ろしてくる青紫の神秘的な双眸を見上げながら光太郎は首を傾げてみせた。

「印?…ってのは、キスマークのことか?」

「うん」

 身体を起こして、唇を窄めるとチュッと音を鳴らすルウィンの仕種にパッと表情を綻ばせた光太郎は頷いて、俺はやったよと言いたそうにルビアを抱き締める腕に僅かだが力を加えたのだった。

「なるほど。レスポンスカードをもらったんだな」

「レスポンスカード?」

 光太郎が首を傾げると、後頭部で腕を組んで巨木の幹に凭れかかりながらルウィンは頷いて見せた。

「ああ、銃魔使いが良く使う連絡手段だ。オレたちのように妖精を使えるほどには発展していないギルドだからな。高額を稼ぐ銃魔使いたちは魔法効果の高いレスポンスカードを使っているのさ。銃魔使い特有のそのカードは息を吹きかけた人物が主となり、その命じた主の許に名前が書かれた人物はどこにいても引き戻されてしまうと言う結構便利な代物なんだが、いかんせん、仕事中は引き戻せない、無効効力が発動してしまからな。持っていても、ここぞという時には役に立たないかもしれないだろう。まあ、レスポンスカードは高額の品だ。それを使用できるってことは、レベルの高い銃魔使いだったんだろうよ。で?そのカードはどこにあるんだ」

 聞き返されて、光太郎は思わず言葉を詰まらせてしまった。
 素直な性格はなんにしても裏目に出てしまうから、全くもって嘘はつけない。
 素知らぬ振りをしながらもほんの僅かにルビアを見てしまったその瞬間を、もちろん、目聡いルウィンが見逃すはずがない。

『あ!』

 ニッコリ笑って光太郎の腕から小さな飛竜を奪い取ってしまった。

「で、そのレスポンスカードはどこですか?教えてくださいなvルビアちゃん」

 あからさまに不気味な丁寧語で尋ねるルウィンにビクビクする光太郎の前で、ルビアは人を食ったような仏頂面でヘンッと鼻を鳴らして下顎を突き出した。

《破っちゃったの!ルーちゃんがいるのに、銃魔使いのレスポンスカードなんて必要あっりまっせんのね!!》

「お前ってヤツは!それをもらったのはコータローなんだろーがよ?」

《光ちゃんにはもーっとひっつようないの!》

 あくまで言い張るルビアをムゥッと睨み据えているルウィンに、光太郎はクイクイと服の裾を引っ張って慌てて割り込んだのだ。

「ルウィン、これ。ルビア悪くないよ?必要ない、ホント」

 俺はルウィンがいれば別に他の誰かに何かをお願いする必要なんかないんだと、やはりルビアと同じような強い意思を含んだ双眸で覗き込んでくる黒い瞳を見返しながら、ルウィンは仕方なさそうに溜め息をついて不貞腐れている紅い小さな飛竜を解放すると、光太郎の手にある小さな紙片の切れ端を引っ手繰った。

「ふん。どうやら特殊な術法を仕掛けてあるようだな。コータロー以外のヤツが使用したとしても、単なる紙切れだろうよ」

 ルウィンはその紙切れを、さして興味もなさそうに光太郎のポケットに押し込んだ。

「?」

「せっかくもらったんだ。持っておけよ」

 やれやれと疲れた表情を浮かべながら胡座に頬杖をついて顎をしゃくるルウィンに、光太郎は護り粉と一緒にクチャクチャで押し込まれた紙を見下ろしていたが、うんと頷いてポンポンとポケットを叩いた。

《ところで、ルーちゃん。服は見つかったの?》

 深紅の飛竜はまるで何事もなかったかのように翼を羽ばたかせながら目の前まで舞い降りると、不機嫌そうな相棒の顔を覗き込んだ。

「いや、残念ながら。まあ、代用品は手に入れたからな。暫くはそれで対応しておくさ」

 ふーんと気のない返事をするルビアを見つめていたルウィンは、唐突にその小さな身体を引っ掴んで、光太郎とルビアを驚かせた。

〔ルビア、話がある〕

 耳慣れない言葉に首を傾げる光太郎を横目に、ルビアが表情を険しくして訝しそうに口を開いた。
 声は出ないが、あくまでも仕種に拘る飛竜なのだ。

《ガルハ語なのね、何かあったの?》

(ガルハ語?…って、それは聞かれてはいけない話なのかな)

 今、光太郎が必死に習得しようとしている共通語とは別に、この広いアークには幾つかの言語があって、ルウィンの故郷の言葉は遠くエルフの流れを汲むせいか、かなり難しいガルハ語だと、以前ルビアが教えてくれたことがある。その言語を使用して話すとなると、自分に聞かれたくない話なのか、それとも他人に聞かれたくない話かのどちらかだろう。

(きっと、仕事の話なんだな)

 恐らく後者だろうと推測した光太郎は、大人しくルウィンの傍らに座り込んで、ルビアが洩らす思念の声に耳を傾けることにした。賞金稼ぎと言う、耳慣れない職業にはあらゆる秘密がある。だからルウィンも、何かしら大切な話の時にはこうして光太郎に理解のできない言葉で話すこともあるだろうと、ルビアはそうも言っていた。

〔どうやら、国に帰らなければならなくなったんだ〕

《ええ!?だ、だってウルフラインに行くって言ったのね…》

〔そうだったんだが、予定はあくまで未定だ。父上がどうも一芝居打ってるらしくてな、放って置いても厄介なことにならんとも限らんし…オレの進退に関わることなんでね、しかたない〕

 ルウィンの腕の中で思案するように深いエメラルドの双眸を細めていたルビアは、銀の前髪が風に揺れる綺麗な顔立ちをしたガルハ国の皇子を見つめていた。
 困ったもんだと皮肉げに笑うルウィンの表情と、困惑しているルビアの表情は光太郎を不安にさせるには充分だった。オマケに事の成り行きがわからないのだから、その不安は余計に大きなものになっているに違いない。ソッと眉を寄せる光太郎に気付かないまま、ルウィンは話を続けた。

〔取り敢えず、コータローのことなんだ〕

 自分の名前が出てきたことにドキッとして、光太郎は唇を噛んだ。
 自分のことがまた、この綺麗な賞金稼ぎを困らせているんだろうかと、申し訳なく思いながらその横顔を見上げていた。

〔オレは…ガルハには連れて行こうと思っているが…王城にいれるつもりはない〕

《身分を明かすつもりもないのね》

 間髪入れずに口を挟むルビアに肩を竦めると、その時になって漸く、不安そうに眉を寄せて自分を見上げている光太郎に気付いた。思ったよりも柔らかい黒髪は、暑い地方には恵みの風を受けてさらさらと揺れている。心配そうな、不安そうな…複雑な感情を秘めた双眸がキラキラと太陽の光に輝いていた。意志の強そうな双眸は、それでも案外脆くもあるのだと言うことを、知らないルウィンではない。
 困ったように苦笑して、彼は光太郎の黒髪に手を伸ばした。

「そんな心配そうな顔をするなよ。別に置いて行ったりはしないさ」

 え?と、不思議そうな顔をした光太郎は堪り兼ねて口を開いた。

「どこ行く?」

(確か、ウルフラインって国に行くって言ってたはずだけど…)

 心中で呟きながら首を傾げる光太郎の髪をクシャッと掻き混ぜて、ルウィンは困惑の表情を浮かべている小さな飛竜を見た。

〔仕方ないさ。オレがガルハの皇子だとしても、コータローには何の関係もないからな。いや寧ろ…〕

 呟きかけて、ルウィンは口を噤んだ。
 【竜使い】を初めて拾った晩も、焚き火の前でルウィンはこんな表情をした。
 そうしてあの村で光太郎を怒鳴ったときも、そんな表情をしていた。
 何も言うなと、厳しい表情をしながら、どこか辛そうな…
 ルビアは何か言いかけていた仕種をしていたが、不意に黙り込んでしまった。
 だからこそ、光太郎はその雰囲気を読み取れなくてハラハラしてしまうのだ。

〔コータローは知り合いに預けるよ。暫くは国を空けられないかもしれないし…まあ、こんな時のことも考えて、端からそのつもりではいたんだが〕

《言い訳にしては長ったらしいの。ルーちゃんは意地っ張りだから…でも、仕方ないのね》

 フンッと鼻を鳴らしたルビアはしかし、仕方なさそうに溜め息をついた。

《で、それをどう、光ちゃんに説明するの?》

「そりゃあ、お前の役目だ。ルビア」

《ええ!?ズルイのね!!》

 思わず目をむくルビアを尻目に、ルウィンは喚く小さな飛竜を放り出すと、困惑した表情で見守っている光太郎を促して小さく笑いながら立ち上がった。

「取り敢えず、座っていてもしかたない。必要なものがあるから、行くぞ」

 顎をしゃくって促すルウィンに、とうとうワケが判らないままで頷いた光太郎は、腹を立てて飛んでいるルビアを捕まえて抱き締めると、その後を追って歩き出した。
 何が起こるのかなんて判らなかったが、ルウィンを信じるのだと決めた自分の言葉に責任を持って、不安に駆られながらトボトボと足を進めていた。

 ルウィンが目指そうとしていた場所は、市場の中央を離れた、ガラクタ市が立ち並ぶそれこそ闇市のような野蛮な雰囲気のある区域だった。
 実はまさにこの区域こそが、この町外れのバザーの醍醐味のような場所で、他では滅多にお目にかかれないようなレアなアイテムをゲットすることだって不可能ではない。ただ、あまりに粗野な連中が屯しているため、普通ではけして立ち入ることのできない危険区域でもあるのだが…賞金稼ぎがそんなことで泣き言を言っていてはお話にならないこともまた、確かなのだ。

『る、ルビア~。ここってなんか、ヤバそうじゃない?』

《ヤバイのね。だって、人身売買もしているような連中もいるの。光ちゃん、ルーちゃんから離れたら売られてしまうのね!》

 先ほどまでの不安もどこへやら、違った意味でビクビクしている光太郎はルビアに脅されて慌てたようにルウィンの腕に抱きついた。

「歩き難い」

 一言、素っ気無く言って腕を無下に振り払うルウィンに、もう慣れている光太郎はしつこくその腕に抱きつこうとしていたが、不意に何かに目を留めて思わず立ち止まってしまった。

《光ちゃん?》

 片手で抱き締められているルビアが怪訝そうに声を掛けると、光太郎はゴソゴソと道具の入っていない反対のポケットを探って何かを取り出していた。
 それは、ルウィンが何かの時の為だと言って渡していた金貨だった。合わせて5ギールあるが、果たして光太郎が目にしたものが手に入る金額だろうか。
 この世界は有り難いことに十進法が用いられているおかげで、光太郎でもそれほど苦もなく買い物が出来るようになっていた。その事実を知ったルウィンが、仕事でいない間の留守番時に腹が減ったり咽喉が渇けば、何か買うといいと言って渡していた金貨なのだ。

《何か買うのね?》

『うん。ほら、ルビア。アレってルウィンが耳にしてるピアスの色違いだよ』

 光太郎が指差した先にあったのは、ボロの布が広げられた粗末な露店で、日除けさえ侭ならないような砂地に腰を降ろした老婆が、どうやらその店の店主のようだった。
 その店とも言えないただの布っ切れの上に、雑然と並べられている装飾品はどれもどこか禍々しい雰囲気があるものの細工は見事で、足を留めている者も数人はいるようだ。その禍々しい装飾品の中で、なぜか1つだけ清楚な煌きを宿したピアスが片方だけ並べられていた。
 光太郎が指差したのは丁度その品で、青い石がキラリと太陽の光を反射している。
 まるで対のようなピアスは、離れてしまった片方を待ち続けているかのようにひっそりと佇んでいた。

《5ギールじゃとてもムリなのね。諦めて早く行くの》

 もちろん、ルビアにもこの市場の決まりはよく判っている。
 目利きも自分なら値切るのも自分なのだ。だが、光太郎の侭ならない言語では、安いものでも高く吹っ掛けられるのがオチだと言うこともまた、抗えない事実なのだと判っていたから敢えて止めるしかない。我が侭で利かん気のルビアでも、光太郎には甘々だったりする。
 自分が交渉しても構わなかったが、それでは光太郎の特訓にはならないだろうと思い直したルビアは、心を鬼にして断腸の思いで引き止めたのだ。

『うーん、残念だな~』

 あーあ、と残念そうに溜め息をつく光太郎の腕の中でルビアが下顎を突き出すような仕種で急かしていると、人込みの中にあっても目立つ黒髪の少年は、小さな溜め息を零して少し先で待っている、自分の不在に気付いた銀髪の賞金稼ぎの許に足を踏み出した。
 と。

『わぁ!』

 人込みの中で目立つのは何も光太郎に限ってではない。彼を拾って面倒を見ている銀髪の青年、先端の尖った耳を有する異形の種族である美麗な賞金稼ぎも頗る目立つ存在だ。だからなのか、光太郎は真っ直ぐに彼を見詰めていたに違いない。
 さもなければどうして、物見遊山で野蛮な区域に立ち入っている、金持ちの道楽息子とぶつかってしまうのだろう。

「痛い!いたーい!!何するんだッ、下賎の者が!ボクはロシディーヌ家の子息だぞ!?」

「ご、ごめんひゃい」

 ジャラジャラと、これでもかと言うほど飾り立てている男の胸板に思い切り鼻をぶつけてしまった光太郎は、うっすらと涙を浮かべながら鼻先を押さえて頭を下げた。

《光ちゃんが謝る必要がどこにあると言うの!?悪いのはそっちなのね!》

 光太郎の腕の中からいきり立つルビアが抗議に口を開くと、初めはビックリしていた男も、元来こんなバザーに来ているだけあって珍しいものに目がないのか、ルビアと、その稀有なる飛竜を抱き締めている光太郎を物珍しそうに交互に見遣っていたが、何を思ったのかパチンッと指先を鳴らして嬉しそうに高らかに言い放ったのだ。

「うん、ボクはこれを気に入った!屋敷に連れて帰るぞ」

《は!?何を言ってるの、バカなのね》

 ルビアが呆れたように、馬鹿にしたような溜め息をついていると、いきなりの事の展開に追いつけないでいる光太郎の腕が道楽息子を護衛するようにぴったりとついて来ていた男が捩じ上げたのだ。

『う、いたたたた…ッ!』

《光ちゃん!!》

「へーえ!言葉が違うのか、ん?これの飼い主はどこにいるんだ?」

 目尻に涙を浮かべる光太郎の顎を掴んで楽しげにキョロキョロと周囲を見渡す道楽息子の腕が、唐突に脇からぬっと伸びてきた掌に攫われてしまう。

「な、何者だ!?」

「失礼。ソイツらはオレの連れでね。生憎と奴隷じゃないんで飼い主はいないんだ…と言うことで、離してくれないか?」

 やれやれと溜め息をつくルウィンが掴んでいた腕を離しながらそう言うと、目の前に立っている夢のように綺麗な存在に目を白黒させていた男はなぜか顔を赤らめながらいきなり喚きだしたのだ。

「ぼぼ、このボクに!?め、命令するのか!?ボクはロシディーヌ家の独り息子なんだぞ!」

 賞金稼ぎを生業としながらも行く末は一国を担う皇子としては、近所の村の領主の息子に威厳を振り翳されても困るだけで有り難くはない。
 はいはいと簡単にあしらって引き下がる手合いじゃないのは十も承知だが、だからと言って光太郎とルビアを飼われても大変困ってしまう。いや、別に飼ってくれるのなら生活費の困難な現段階では非常に有り難いのだが…もちろん、そんなことを言うワケにはいかない。

「ロシディーヌ家が素晴らしい家系だと言うことはよく判った。だが、残念ながらそうだと言ってオレたちに何か関係があるワケではない。ってことで、離してくれ」

 腕を組んで面倒臭そうに言うルウィンの態度に、蝶よ花よと可愛がられて育った温室育ちの放蕩息子が黙って引き下がるわけがない。自分も全く同じような生い立ちであるから、ルウィンにはだいたい次の行動も予測できていた。

「ば、馬鹿にしたな!?くそうッ!!おい、お前たち!!何をボサッとしているんだッ、用心棒らしくこんなヤツはこてんぱんにしてしまえ!」

 光太郎の腕を捻じ上げていた男はさっさと掴んでいた手を離すと、大柄の体躯から滲み出すように殺気をちらつかせて指を鳴らしながら近付いてきた。
 次の瞬間だった。
 思わず目を見張って口許を覆った光太郎の前で、ルウィンの美しい銀髪がパッと虚空に舞い上がると、鈍い、骨を砕くような重い音を響かせた男の拳が力任せに彼の頬を殴りつけていた。

(ルウィンが死ぬ!)

 叫びそうになった声は声にならなくて、咽喉の奥で引っかかったまま出てこようともしない。そんなもどかしさを味わいながら、光太郎は倒れてしまうだろうルウィンの許に駆け寄ろうとして、何時の間にか腕から抜け出していたルビアの小さな手で引き止められてしまう。襟首を掴んでパタパタと飛んでいるルビアの、どこにそんな力が潜んでいるのかと言えば、それはやはり曲がりなりにも飛竜なのだから当たり前と言えば当たり前のことなのだが。

「ルビア!離してッ。ルウィン、死んでしまう!!」

《ルーちゃんは死なないのね》

「…え?」

 ルビアを見ながらジタバタと暴れていた光太郎は、突然、物騒な出で立ちの男が息を飲む気配を感じてルウィンを振り返った。

「…ったく」

 呟きは微かだったが光太郎の耳には届いていた。投げ遣りな、面倒臭そうな舌打ち。
 通常の人間なら、あれほど鈍くて重い音を出す拳を頬に喰らえば、脳震盪ぐらいは余裕で起こしてぶっ倒れてしまうだろう。だが、ルウィンは倒れるどころか、揺らぐこともなく両足の力で踏みとどまっていたのだ。
 光太郎がホッとしているのも束の間、驚愕に目を見開いた金持ちの坊ちゃんの目の前でヒュッと、風を切る音がしたかと思うと、あっという間に荒くれ者の胸倉が掴み上げられた。

「用心棒ってこた、お前、賞金稼ぎだな?あんな蚊の止まったような拳で殴りやがって!賞金稼ぎ、舐めてんじゃねぇぞ!!」

 そう言った途端、銀髪の賞金稼ぎの拳がストレートで顔面に減り込んだ!ルウィンよりもタッパもウェイトも2倍はあろうかと言う巨漢の男が、まるで木の葉のように傾ぐのを、だが、ルウィンは許そうとしなかった。
 後方に倒れようとする男の胸倉を力任せに引き寄せるなり、2発目が顔面を強打する。

「ひ、ひぃぃぃ…も、もう勘弁、カンベンしてくれぇええ!!」

 懇願するように哀れな悲鳴を上げる男を覗き込みながら、ルウィンはチッと舌打ちをして、口に溜まった血液混じりの唾液を吐き捨てた。

「いまいち効いてねぇようだな。賞金稼ぎと言うからには覚悟してんだろーがよ?まさか、2、3発殴られてはい、終了。とか思ってんじゃねーだろうな!?用心棒の仕事を受けたんなら命懸けで雇い主を護るんじゃねーのかよ!ああ!?」

 言っている間にも既に拳が風を切り、男の顔から鈍い音がする。徹底的に叩きのめさなければ賞金稼ぎ同士のタイマン勝負にケリはつかない。そうしている間に、彼の雇い主がもう止めてくれと懇願すれば、話はそれで終了となるのだ。だが、大概の場合、雇い主もおいそれとは『止めてくれ』とは言わないのが、この世界のルールである。
 止めろと言って止められてしまったら、次は自分なのだ。
 既に泡を噴いて白目をむく男の胸倉をなおも引き戻そうとした時、ルウィンの腕に縋りつく何かがあった。

「る、ルウィン…もう、やめる。このひと、もう戦うしない」

 おどおどしながら、それでも懸命に腕に縋り付いて自分を見上げてくる光太郎の瞳を見下ろして、ルウィンは胸倉を掴んでいた腕を殊の外あっさりと離してしまった。まるで殴ることにとり憑かれているかのように執着していた獲物は、既に失神して起き上がってくる気配もない。

「で?ロシディーヌ家のお坊ちゃま。オレはまあ、中途半端にだがアンタの雇った用心棒に勝ったワケだ。オレの連れは返してもらっていいんだな?」

 ゆらり…と、暑い地方特有の陽炎のような殺気を滲ませて見下ろす銀髪の賞金稼ぎに、道楽息子は声にならない悲鳴を上げている。

「ひ、ひぃぃぃ…」

 既にへたり込んで腰を抜かしていた道楽息子は、乾いた砂利が敷き詰められている道路に水溜りを作りながらブンブンと首を縦に振っていた。声も出せない情けない姿は、笑うよりも、いっそ悲愴ささえ感じてしまう。
 自分がもし同じ立場だったら、間違いなく彼のように腰を抜かしていただろうとそこまで考えていたが、不機嫌そうにフンッと鼻を鳴らして歩き出すルウィンにハッと気付いて、光太郎は慌ててその後を追いかけた。
 正直、何が起こったのか未だにとろい脳細胞は理解においついていない。

「…なんだよ。オレが怖くなったかよ?」

 ニッと、意地悪そうな笑みを浮かべたルウィンに見下ろされて光太郎は、その腕を抱き締めながら眉をそっと寄せていた。
 これで嫌われるなら、それもいいのかもしれないとルウィンはひっそり思っていた。
 懐かれたままで預けてしまうのは、縋るような目をされたら置いて行けなくなってしまうとも思っていたからだ。
 嫌われるなら、しかたない。これも何かの運命なのだろうと溜め息をついたとき、光太郎が困惑の面持ちのままでギュゥッと腕を抱き締めてきた。

「僕、何か起こった。わからない。考える、疲れた」

 はぁーっと長く息を吐いて緊張していた身体から力を抜いた光太郎は、呆気に取られたように見下ろしてくるルウィンに向かってニコッと微笑みかけたのだ。

「でも、よかた。悪者退治した。ルウィンえらい!えーっと…怖くないよ?」

 そう言えば、唐突にルウィンの言った台詞に気付いて光太郎は首を傾げてしまった。
 それでなくても初めて見る実践の喧嘩に度肝を抜かれて緊張していたのに、どうしてそれが怖いに繋がるのだろうかと考えながら、光太郎はまたしても徐にハッとするのだ。

「ルウィン!頬、痛い!?」

「はあ?あ、いや別に。構わなくていい」

 触れてこようとする指先を払い除けながら、ルウィンは切れた口中に溜まる血液混じりの唾液をペッと吐き出した。
 喧嘩に無敵はない。
 殴れば殴り返される、殴られた場所は痛いのだ。
 だが賞金稼ぎと言う職業に就いた以上、それは日常茶飯事のことで、これぐらいの傷で大騒ぎしていたら命が幾つあっても足らないだろう。だが、そのことを異世界から迷い込んできた光太郎がもちろん知っているはずもなく、不安そうに、心配そうにハラハラしている姿はどこか胸の奥がくすぐったくなってしまい、ルウィンは奇妙な感覚に眉を寄せてしまう。

(…なんだ、この感じは?)

『ルビア~、ルウィン痛いだろうね?あいつ、物凄く殴ってきたから!!』

《ルーちゃんはその2倍、ううん、5倍は返してると思うからいいのね》

 あの状況を見れば、ルウィンの頬ぐらいの傷は可愛いものだろう。
 あの用心棒、再起不能になってなければいいのね…と、ルビアが相手の心配をしたとしても仕方のないことだった。

「ここだ」

 ルウィンの服の裾を掴んで頭に深紅の飛竜を張り付かせた光太郎は、立ち止まった彼が指し示す店を見てアッと声を上げてしまった。
 その店先に無造作に置かれていたその物体は…ハンドルこそ奇妙な形だったが、明らかに元いた世界で極簡単に見慣れているものだったのだ。

「こ、これ…」

 光太郎があんぐりしたままでルウィンを見上げると、その反応を訝しく思いながら眉を寄せた銀髪の青年は、転がったドラム缶に腰掛けてナイフでハムのような物を切って直に食べている仏頂面の髭面に声をかけた。

「店は開けてるのか?」

「ご覧の通りさ…って、おー!すげぇな、その顔!」

「まあね」

 見ても判らない返事とともに、ルウィンの頬の傷をビックリしている男に光太郎がポカンとしていると、自分の都合の良いほうに受け止めたルウィンは肩を竦めながら店先に無造作に放置されている1台のバイクの前に行った。
 そう、光太郎が唖然として凝視していた物体は、銀の車体が美しい1台のバイクだったのだ。

「…コイツは、カスタムリペア(改造修理)はしてあるのか?」

「んー?ああ、それね」

 ボサボサの長髪を鬱陶しいそうに掻き揚げながら、男はナイフと食べかけのハムを投げ捨てて立ち上がると、ポケットに両手を突っ込んでぶらぶらと近付いてきた。
 喋るのも億劫だと言いたげにいちいち溜め息をついて、彼は銀と黒のコントラストが美しい、流線型のフォルムを持つ風変わりなバイクの座席部分をポンポンと叩いてチラリとルウィンを見た。
 身形で値段を決めようと企んでいるようにも見える。

「とんだ旧時代の遺物だよ。今頃こんなモンを欲しがるヤツなんざいねーだろうと踏んでたんだがなぁ…」

「ほら!あたしの勝ちじゃない」

 少し大きなテントの入り口から飛び出してきた小さな少女が腰に手を当てて、胸を張ってフフンッと鼻先で笑うと男を見上げた。

「チッ!はいはい、ほらよ」

 忌々しく舌打ちした男はポケットから数枚の金貨を取り出して少女に手渡した。ウェストに工具の入ったポーチを装着して、顔はオイルで汚れている少女はニッと勝ち誇ったように笑っていたが、黙って事の成り行きを見守っているルウィンの一行に気付くと慌てたように愛想笑いを浮かべて居住まいを正した。

「いらっしゃい。その子を気に入ってくれたの?ありがとう!旧時代の産物だから、無駄に魔力を食うのよね。今の時代、そんなに強い魔力を持った魔導師もいないし…ま、いてもこんな古臭い乗り物は使わないでしょ?だから、弟に必要ないって言われちゃったんだけど。あたしがね、どうしても生き返らせてみたくって…」

 ペラペラとよく喋る少女の口から飛び出した色んな言葉よりも、店先で遣る瀬無いほど適当に店番をしている青年が、この少女の弟だと言う事実の方に驚いている光太郎を無視して、ルウィンは同じ質問を繰り返した。

「カスタムリペア済みってことか?」

「そーね、砂漠地帯を46週間走り続けても大丈夫だと思うわ。よかったら、試してみて?」

 クスッと笑った少女が肩を竦めると、ルウィンはしゃがみ込んで車体を丁寧に調べているようだった。元いた世界でもそれほど…と言うか、全く興味のなかった乗り物の詳しいことなど理解できない光太郎は、それよりも、この世界にそんな乗り物があったのかと純粋に驚いて観察している。

「あの」

 光太郎が声を掛けると、ルビアと少女がほぼ同時に光太郎を見た。

「えっと。食べる、なに?」

「食べる?ああ、燃料のこと?」

「うん」

 頷く光太郎に、少女は腕を組んで物珍しそうに彼を見ていたが、クスッと笑って口を開いた。

「魔力よ。それも膨大な。一昔前には科学と術学の見事な融合だ!…とかって持て囃されたんだけどねぇ。今じゃ、無駄に魔力を食うガラクタだって言われてるのよ。失礼こいちゃうわよね!」

 ケラケラと豪快に笑う少女を呆気に取られたように見ている光太郎たちの前で、ボサボサの髪をした男がルウィンに肩を竦めていた。

「ま、姉貴がリペアしてっから、ポンコツよりはマシだと思うぜ。5000ギールでどうだ?」

「5000か…悪くないな。それでいい」

 珍しく値切ることをしなかったのは、その値段が妥当よりも幾分か下回っていたからだ。
 ガラクタ屋の姉弟としては余程の物好きでない限りはけして売れることのないだろう商品を置いておくよりも、カスタムリペア代を差し引いてもお釣りがくるぐらいの値段で売りつけられれば御の字だし、ルウィンにしてみたら歩きやカークーよりも早い乗り物が予想していた値段よりも遥かに低い価格で手に入れば助かる…そう言った相互利益が合致したことで、交渉はスムーズに成立した。

「あら!アンタの連れが買ってくれたみたいね。ありがとう」

 少女が嬉しそうに頬を上気させてウキウキと礼を言うと、なんだか嬉しくなってしまった光太郎もニコニコ笑ってそれに応えていた。

「あ、ねね。あたしたち姉弟は旅の商人なのよね。どこかでまた会ったら、声を掛けてよ。お安くしとくから!」

 少女にどーんっと背中を叩かれて、光太郎はよろけながら判ったと頷いた。コロコロとよく笑う少女は、見ていて楽しくなってしまう。この商売がよほど好きなんだろうと、光太郎は感じていた。

《パワフルなのね》

 ルビアが呆れたように呟くのを聞いて少女は高らかに笑っていたが、テントの奥で何かがピーッと機械音を響かせたのにギクッと飛び上がって慌てたようにテントに戻ろうとした。しかし、不意に思い止まったようにルビアと光太郎を振り返ると、オイルで汚れた頬を拭いながらウィンクしてみせたのだ。

「あたしはファンデリカ・ルシーナで、弟はトランディサール・ルシーナよ。ファニーとリックって言えばこの世界じゃけっこう有名なんだから、覚えておいてね!」

 そう言い残してピュッとテントの内に戻ってしまったファニーを呆気に取られたように見守っていたルビアと光太郎の背後で、交渉が成立して支払いと改造された部分や取り扱いの説明を済ませたルウィンが不思議そうに首を傾げてそんな2人に声をかけた。

「何してるんだ?行くぞ」

「あ、はい!」

 異世界に落ちてきて色んなものを見てきた光太郎だったが、今回ほど驚いたものは初めてだった。
 なぜならそれは、幻想から抜け出してきたエルフのように美しいルウィンが、無機質な銀と黒のコントラストが美しい流線型のフォルムをしているバイクを押していると言う姿は…やはり、光太郎でなくても驚くし違和感を覚えても仕方がない。

「なんだ?何を笑ってるんだよ。ヘンなヤツだな」

 本日の収穫品を肩に下げ、大収穫品を押しながら呆れたように肩を竦めて苦笑するルウィンに、光太郎はニコニコと笑って服の裾を掴んでいた。
 色々なことがあったが、光太郎にしてみたらルウィンが頬を腫らしていること以外には、命に関わるような重大事件が起きなかっただけよかったと思っていた。
 何か重要なことを忘れて幸せそうに笑っている光太郎だったが、その傍らでルウィンとルビアは複雑な思いを抱えていた。
 素直に喜ぶこの少年を。
 彼らは手離さなければいけないのだ。
 暑い地方に吹く風が銀の髪を舞い上げて、それを不安そうにルビアは見上げていた。