Act.43  -Vandal Affection-

 この先に、いったい何が待っていると言うんだ…
 俺は、それにしても変な感じの部屋だな、と思いながら周囲を見回していた。
 この空間の何処に、別の研究施設へと続く入り口があるって言うんだ?
 俺は首を傾げる…だが、幾ら考えたとしても、それを予感させる入り口がポンッと出てくるはずもないよな。
 それにしても、この作業員が休憩するような小部屋の何処にマクベル博士が話すような
施設があるんだ…?
 俺たちが辺りをキョロキョロしている間に、まるで観光客みたいに周囲を見渡す俺たちに呆れたような顔をしていたマクベル博士が薄暗い部屋の壁に手をかざすと、光の筋が扉のような形に繋がり、いきなりそこが内側に開いたんだ!

「ど、どうなっているんだ??」

 須藤が俺の横で言葉を漏らした。
 桜木もこれにはびっくりしたのか口に手を当てて目を見開いていた。
 そんなの、俺に聞かれたって判るかよ…が正直なところだが、俺も呆気に取られてポカンッと口をあけちまってたから、大層なこたなんにも言えないんだけどな。
 忽然と壁に扉のような光の枠が現れるとそこがスライドドアのように内側に入り込んだ後、横へと移動したってワケなんだけど、スライド式のドアがそこにあるという認識さえあれば俺たちだってこんなに驚きはしないだろうが、その扉は完全に壁と一体化していて、そこに扉が存在しているように見えなかったんだ。
 いや、違うな。
 『見えなかった』じゃなくて、『無かった』が正しい表現だろう。
 どこをどう見ても壁だった…本当に壁だったんだぜ。

「敵を欺くなら何とやらか」

 尻上がりの口笛を吹いてから、タユが皮肉気に呟いた。

「最高機密にされている研究なのでね。表の標本が暴れだしてこちらにこられては困るのだよ。それだけではない、もしもの時にもこの構造にしておけば厄介な連中にも知られずにすむと言うものだ」

 マクベル博士は僅かに双眸を細めただけで顔色ひとつ変えないからか、タユはうんざりしたように胡乱な目付きで睨みながらマクベル博士に言葉を吐いた。

「こんな凝った仕掛けまで作って隠さなけりゃならないモノかよ…」

「当然だ。何せ、この先には【地球上の全てを握れる力】があるのだからね」

 マクベル博士は一瞬強い目付きをしたものの、それでも両手を広げて俺たちを馬鹿にしたような顔で見ながらそんなことを言いやがった。
 そして、まるで手にしていることを忘れていたとでも言うような、今気付いたような顔をして、手にしているリモコンを軽く振ってみせた。
 畜生…そうなんだよな。
 マクベルの手に須藤と桜木の命が握られてるんだ。
 手にしているスイッチのついたリモコン…それは須藤や桜木に取り付けられた装置を作動させる為の遠隔操作用の端末だ。

「つまりは、この装置と同じことだ。この小さなスイッチに彼らの全てが握られている事とね」

「ケッ、何処までもムカツク奴だな!」

 タユの顔をククッと笑いながら見ると、博士はその端末を白衣のポケットの中にしまってしまった。
 …まぁ、できればだ。
 あのリモコンを奪えたら須藤たちが助かって、マクベル博士は孤立無援になるってワケで…いや、それはないか。問題は『cord:』の存在だよなぁ。
 直情的にしか物事を考えられない俺が何かを言ったって、どうせどうにもならないんだ、ここはマクベル博士とタユに任せるしかないか。
 やれやれと、小さく気付かれないように溜め息を吐いたつもりだったのに、同じ気持ちを共有していたのか、須藤と桜木もチラッと俺を見て頷いたんだ。

「この先にあるモノを君らに見せてあげよう。ついて来たまえ…」

 まるで途方に暮れたような仕種で立ち竦んでいたマクベル博士が、だが、促すように片手を振って歩き出すから、俺たちは一瞬顔を見合わせてからゆっくりとその後を追って歩き始めた。

「それにしても奇跡とは信じるものだね。まさか君らのような一般人がこの施設内を徘徊するモルモット達の餌にされていないとは…正直驚いた。まぁ、ノイス君が一緒だと言うことが生存率に多少の変化を及ぼしたとは思うがね」

 アンタがノイスって呼ぶな…とブツブツ悪態を吐いていたタユだったけど、少し考えて、それでタユと呼ばれるのもうんざりだと思ったのか、不貞腐れたような顔をして肩を竦めるに留めたみたいだ。
 そんなタユを端から無視して、心底そう思っているのか、溜め息を吐きながらマクベル博士は言いたいことだけを言って天井からいくつもの布がベールのように垂れ下がる空間へと足を踏み入れて行く。ここは他の研究室とは異なっていて、壁も床も継ぎ目がない一枚の光沢のある板で作られているような冷たい感じのする部屋だった。
 そんな部屋の奥に青白い光を空中で放つ物体に目が留まったんだ。
 あれは…なんだ?
 この位置から見ると2メートル程の高さで何かを入れているガラス状の容器に見えるんだけど…俺が首を傾げるよりも先に、誰よりも早く反応したのはタユだった。

「マクベル、あれはまさか…」

 タユは俺たちより2、3歩先に歩み出るとそのガラス管の中に入っている“モノ”を凝視しながら言葉を吐き出した。
 マクベル博士は、やはりこの部屋に踏み込むときに見せた、あの途方に暮れたような何ともいえない顔でタユを見ると、ゆっくりと言葉を発したんだ。

「君は私の研究を誤解しているようだが、この研究はそもそも君の父親と私の妻の分野だったのだよ。私はその研究に少し力を貸したまでだ」

「何をした?」

 タユが眉を顰めた。
 そしてマクベル博士の顔を睨む。

「そんな怖い顔をすると言うことは…この研究について何かを知っているようだな。だが、君が何を調べていようともそれは全て『過去』の出来事に過ぎない。そう、全てが始まったあの日だ」

 マクベル博士が何かのスイッチを入れると辺りは薄ぼんやりとした、間接照明のような光に照らされて、そのガラス管が発する光の強さを和らげた。
 そうなると俺たちにはガラス管に入れられたモノがハッキリとしてくる。
 次第に視界に入っているモノの正体が…どうやら女性である事が明らかになると、彼女の異様さに声を出すのも憚られるような気持ちになってきた。
 試験管のような大きな容器に浮かぶ彼女は、幾つものケーブルを身体に取り付けられながらも瞼を閉じて眠っているようだ。ただ、静かに呼吸を繰り返している。

「佐鳥。ここまで来ると俺たちは常識をどこまでも超えたんだなとかさ、何かとんでもなくデカい何かに飲み込まれちまうような気分になるよな」

 須藤がガラス管、それを支える機械のタワーの様な設備を何度も見上げながら呟いた。
 桜木は口に両手を当てたまま痛々しいガラス管の女性の姿に言葉も出ない様子だった。

「須藤、これは…なんだ?」

 正直、俺に聞くなよ…とでも言いたそうな須藤も、やっぱり返事に困っているようだったが、しばらく考える仕草の後にこの状況を理解したのか遅れて言葉を口にしてくれた。

「簡単に言えば俺たちの想像を超えた代物だろうが、それが何かと言われれば俺にもどう説明して良いか判らない。ただ、何かの装置に人体を利用しているんじゃないのか?」

 俺たちの会話が耳に届いたのか、マクベル博士が苦笑いをしながらタユに話し始めた。

「君のお友達は一般人だからな、当然、この施設が何のために作られているのかさえ想像することもできないだろうね。無論、ここまで深い施設の存在を知っている一般人は君らしか居ないのだから、この装置の存在理由を理解する事などできるはずもないだろう。ましてこの施設の存在を知れば此処を無事に出られたとしても…」

「それはどう言う意味だ?」

 タユが、不意にきつい双眸をしてマクベル博士に問う。
 マクベル博士は装置の傍らに凭れ掛かりながら俺たちを見渡してゆっくりと話し始めた。

「君も軍の一員なら国家の使う手段と言うものを知っているだろう?この施設は国が最高レベルで機密としていた施設の残骸だ。多くの国家機密事項に相当する書類を君らはここに辿り着くまでに幾つも目にしてきたのだ。意味が判る判らないなど、そんなものは言い訳にならない。何よりも、諸君が目にした未知の生物などは世に知られてはマズイ存在なのだよ。たとえ見ただけに過ぎなかったとしても、無事に君らを家へ送り返すと言う保障はないだろう」

 マクベル博士は瞼を閉じながらこちらへと歩み寄ってきた。

「それを証明したような事件を君も過去に味わっているだろう…ノイス君」

 ハッと目を瞠るタユの胸に、思い当たることがあるだろう?…とでも言いたげに神経質そうな指先を突きつけたマクベル博士の、あの男と同じ銀色の眼鏡の縁が光を反射した。そして、唇をキュッと引き結んだタユを見ながら、博士は突きつけた指先を引っ込めて、それから溜め息を吐くように言葉を続けたんだ。

「今から十数年前…私とエルディナは君のご両親と親しい関係にあったのだ。君は小さすぎて覚えていないだろうがね。それは妻の研究とアレン…マックスウェル博士の研究が政府の依頼で統合される話が持ち上がってきていたからだ。君の両親はね、その研究のために私たち夫婦を良く夕食に招いてくれていた。私たちには子供がいなかったから、週末毎に会う君の成長が楽しみだったよ…そんな幸せな生活は統合される日まで続くが、統合されてからの妻とマックスウェル博士の生活は驚くほど一変してしまったに違いない。なぜなら、彼らはこの半島の地下施設、つまりこの施設内へ軟禁されたからだ。研究の成果を出す為に閉じ込められてしまったんだ。その時の私には為す術がなく、遠く離れた妻が寝る時間さえも拘束されながら研究する姿を毎日のように思い浮かべるしかなかった…そもそもの発端は、この国の権力を行使する連中が君の両親の不和を引き起こさせたことからスタートしたのだ。この研究を持ちかけたあの日に…」

 きっと、大きく成長したタユを我が子のように懐かしんでいるんだろうマクベル博士は、だが、微かに動揺しているタユからふと目線を逸らせて、それから機械の頂点に置かれたガラスケースの中でたゆたうように眠る女性を見上げた。
 すると床がまるでリフトのように持ち上がると足元の床はそのまま広がり、博士を女性の入れられたガラスケースまで歩み寄れるように変化したんだ!
 …ったく、もうどんな仕掛けにだって驚かないぞ、俺は。
 俺の気持ちと全く同感だったんだろう、傍観者を決め込んでいる須藤と桜木も無言のまま驚きを飲み込んだみたいだった。

「彼女も…君のご両親同様、国家の犠牲者なのだ。彼女は生きているだけ…いや、生かされている。この、設備が彼女の頭脳を利用する為だけに」

 不意に、博士を見上げながらタユが叫んだ。

「ふざけるな!よくもそんな馬鹿げたことを言えたな!!貴様がオレの成長を楽しみにしていただと?両親と親しかった?大嘘吐くのもいい加減にしやがれ!!オレの家には貴様も、そこで浮いてる女の写真も何もない。何もないんだ!貴様がオレの家族を研究に巻き込んでおきながら、それを国の責任に摩り替えているだけだろ!!」

 迷わずベルトから銃を引き抜いて片手で構えながら上空の博士に詰め寄ろうとするタユに、慌てて俺と須藤が抑えようとするその光景を見下ろしていたマクベル博士は、淡々とした目付きで困ったヤツだとでも言いたげな仕種で首を左右に振って言った。

「まだ、判っていないようだな。確かに私は研究を助長させてしまったが、そもそもの事の発端を築いた張本人ではないのだ。理解してはもらえないだろうが、いや、今さら理解できはしないのだろうが、いずれにしてもそれが真実と言うものだよ、ノイス君」

 博士は感情も何もかもをどこかに置き忘れてきた人のような、静かな双眸でタユを見下ろしながらそう言うと、不意に暗闇に垂れ下がったベールの後ろへ言葉を投げかけた。

「さて、いつまでそこで隠れているつもりかね。そこに居るのだろう?ジャクソン博士」

 ジャクソン博士だと?!
 あの、奥さんを癌で亡くし、娘さんを飛行機事故で失ってしまった…アイツに良く似た顔の悲しい博士か…?
 タユもハッとしたのか、額に浮かんでいる血管はそのままで、今は取り敢えず落ち着くことにしたのか、俺と須藤の腕を引き剥がしながらマクベル博士の視線の先を追ったみたいだ。
 暗闇に垂れ下がったベールのような布の陰で、誰かがククク…ッと声を漏らした。
 やはりそこに、誰かいたのか。
 パン・パン・パンッ…と、わざとらしく音を立てて両手を叩きながら薄笑う白衣の男がベールの脇から姿を現した。
 その瞬間、俺の背筋に感じたこともない悪寒が走り抜けていく。
 アイツだ。
 あの男だ。
 金糸のように滑らかな金髪、全てを見限ったような冷徹な光を放つアイスブルーの双眸、そして、全てが嘘でしかないと思い込んでいるような、どこか空々しい、あの酷薄そうな唇…
どれを取っても見間違うはずがない。
 この男こそ、アイツだ。
 アイツなんだ。
 不意に、俺の目の前が暗くなった。

Act.42  -Vandal Affection-

 静かにマクベル博士に向けた銃口を俺たちは下ろしながら、ヤツの行動を見守っていた。
 ヤツは俺たちに『その気』が失せたことを確認してから、やれやれとでも言いたげな溜め息を吐いてから、手にしていた覚醒装置の起動モードを解除した。すると、辺りに広がる試験管の脇のランプが元の赤いランプに一斉に変わった。
 それまで静かに呼吸を繰り返す中に眠っている「史上最悪な生き物」は、どうやら再び静かな眠りへと戻っていったようだ。

「それで何から話をしようか?」

 マクベル博士は軽く肩を竦めるような仕種をしてから装置を白衣のポケットに放り込むと、脇に立っている水槽に凭れ掛かりながら惚けた口調で訊ねてきた。
 タユはそんな男の姿を睨みながら口を開いたんだ。

「手始めにどうしてオヤジがこのコンカトスに戻らなければならなかったのか、オレたちを捨ててまで来なくてはならなかったのか…と言う、基本から始めたらどうだ?」

 タユが軽い調子でそんなことを言ったけれど、その眼差しはタユらしくもなく真摯で、その表情は驚くほど真剣だった。
 長年、自分が捜し求めていた“答え”を知る唯一の人物であろうこの男の口から、長いことベールの向こうに見え隠れしていた疑問の答えが、今正に解かれようとしている、そんな雰囲気だった。

「そうだな。君にはそれを知る権利があるだろう」

 マクベル博士はゆっくりと双眸を伏せると、淡々とした口調で話し始めたんだ。
 俺はタユの横で静か呼吸を繰り返す。須藤たちは先ほどまでの緊張感は無くなってはいたが、俺たち以上にこの男と接していた時間が長かったんだろう、ヤツの動向から目を離そうとはしていなかった。
 ふと、そのことで俺は疑問を覚えた。
 須藤たちのこの行動は何だろう?今までの緊張感から来る恐怖心ならば既に解かれていてもおかしくはないはずなのに…それなのに二人の表情からは明らかに今まで以上に緊張をしているように見えるんだ。

「ノイス君の父親であるマックスウェル博士は『人』と言う生き物と人間が生み出したテクノロジーの融合に関する研究では、世界に類を見ない権威を有した人物だった…」

 俺の思考を遮るようにマクベル博士の低い、淡々とした声音が施設の壁に反響して響き渡った。

「この研究所での真の目的は飽く迄営利を追求することにあるのだ。つまり、金だよ。世界中を相手にこの『紫貴電工』というブランドが頂点に君臨し続ける為には、もちろん君たちも理解できるだろうが、絶対的な『力』を有していなければならないのだ。それには他と同じことをしていても特出する事は出来ないのだよ。となれば、この企業が他社の追随を押しのけられるものとは何だと思うかね?」

 淀みなく話すマクベル博士は、俺の良く知るあの男の癖を真似しているかのように口許をクッと釣り上げるようにして笑みを浮かべて見せた。
 …いちいち、癇に障るヤツだけど、それでも今は大人しく話を聞かなければ。
 もしかしたら、この研究施設に纏わる、何かとんでもない話を聞くことになるかもしれないからな。

「薬だよ。君たちがこの施設に迷い込んで暫くすると、恐らく目に飛び込んできただろう奇怪な生き物や研究そのものを支えている、あの薬…そう、『HR-9』を抱えているからなのだ」

 端から俺たちの答えなんか期待していなかったんだろう、マクベル博士はスイッチとは反対側のポケットから小さなカプセル状の黄色い薬を取り出して俺たちの方に放り投げたんだ。それは弧を描いてタユの方へと飛んでいった。
 その小さなカプセルを、タユは事も無げに空中でキャッチすると面白くもなさそうに眉を上げたんだ。

「それはサンプルだ、中身は抜き取ってあるよ。施設内とは言え、最高機密に値する薬品だからね。それを所有できる人物は限られているのだよ。さて、話を元に戻そう。その薬が何時からこの施設に来たと言う話まではする必要が無いので省くが、君の父親は私の妻であったエルディナの研究と深く関わる様になってから、この悲劇は急速な展開を見せたのだ…」

「悲劇?」

 俺が思わず声漏らすと、マクベル博士はその声に応える様にして頷くと、軽い溜め息を吐いて話をさらに進めた。

「エルディナは当時、君らの親しみ深い言葉で言うコンピュータの研究に秀でていたのだ。つまり、世界で最も賢いパソコンの産みの親だったのだが、そんな彼女も追い求める物への限界を感じ始めていた。研究とは一朝一夕にしてなるわけではないが、前にも言ったが営利目的を優先させる企業では『時間』との追いかけっこなのだよ。当然、今まで以上の成果や発明をひねり出し、世界のリーダーであり続けなくてはならないこの企業の研究所で、私の妻と君の父親はある結論に達してしまったのだ」

 男がそう言いながら奥に見える薄い青色のライトに照らされた扉に僅かに視線を向けた後、もう一度静かにその双眸を閉じて自分の記憶を呼び起こし始めたようだった。

「当時、私もおぞましい研究に魅入られていてね。まるでこの薬さえあれば自分が創造主にでもなったような気でいたよ。ある日、この『HR-9』と言う薬に成分が非常に良く似た『Υ(イプシロン)』と言う薬が我々研究者の間で流れ始めたのだ。この研究施設内の所員たちは、君らの想像を絶する極度のストレスと重圧がその肩に重く圧し掛かっていた。つまり、そんな人間たちを僅かな時間でも楽園に誘う為のもの…」

「簡単に言えば、そのイプシロンってのはドラッグだったってことだろう?」

 タユがそう言ってマクベル博士を睨むと、ヤツは伏せていた目を上げて、どこか決意しているような…何かを秘めた双眸をして、そんなタユを見詰めたんだ。

「そうだ。この『イプシロン』と言う薬物は麻薬に似た症状を引き起こさせる効果のあるものとして生み出されたのだ。だが、ある事件がその薬物には別の一面があると言うことを私に教えてくれたのだよ。その薬には『堆積量』と言うものがあってね、堆積量が100%になると何と『融合』という奇妙な能力を発揮するようになるのだ。私はそのイプシロンに魅入られて…人間が脚を踏み入れてはならない領域へと立ち入ってしまった。だがその頃、エルディナは機械の限界という壁に阻まれ、研究成果という高い壁に直面していたのだ。そのような日々を送るなかで、私はある日、イプシロンを投与し『融合』の力に目覚めたラットが他のラットとの融合、ではなく、自らが入れられた檻と融合を始めたことに奇妙な興味を覚えたのだよ。そのラットは檻という金属の物体と溶け合って体の表面に金属の毛を生やす奇妙なねずみへと進化したのだ。つまり、このことが生物同士では無くとも融合が可能であると言う明らかな証拠となったのだ。このことで私は人生最大の過ちを犯してしまった…エルディナが、彼女が立ち向かう壁はコンピュータの記憶装置という膨大な情報の渦をどう整理、保存していくかと言う課題で、彼女はその追求に頭を悩ませ、疲弊していたのだ。同じ頃、ノイス君の父であるマックスウェル博士は世界を統一化させるコンピュータのOSを完成させるに至っていた。だが、そのOSと呼ばれるプログラムには致命的な欠陥があってね。それは膨大な情報量を収められず複数のコンピュータがその役割を分担せざるを得ないと言うものだったのだ。君たちでは理解し難いだろうが、世界の情報を統括するには、複数の情報分割と言う手段ではリスクが大きいのだよ。この施設を守るセキュリティの目が分散していることとはわけが違って、極秘情報を含めたあらゆる機密は必ず一つの場所で厳重に保管している方が、より安全で狡猾にその情報のやり取りができると言うものだからな。ここまで話せば、概ねこの後の話の内容が粗方推測できるだろう?」

 男はそこまで一気に説明すると、俺たちの顔を見渡した。
 だが、この話で十分な理解が出来るのは渦中にいるタユ本人で、俺たちとしては『おいおい、ちょっと待ってくれよ』的な状況に追い込まれるような、正直、何かとんでもないことに首を突っ込んでしまっているような気がして、同じように考えてしまったのか、須藤と桜木が息を呑むように俺を見詰めてきたんだ。
 須藤たちの顔を見ている間に、ふと俺は、あることに気付いた。
 これは飽く迄も俺なりの考えなんだけど…タユの親父さんはそのOSって言うモノの完成でここへ呼び戻されてしまったってことになるんだよな?それはつまり、親父さんがタユたちを見捨てたんじゃなくて、残してこの地へ再び引き戻されたってことを言いたいんじゃないだろうか。
 それならタユの話にもあった、お袋さんが英語に不自由しているのならば、故郷のこの国に戻って暮らした方が幸せだとタユの親父さん程の人物なら気付いたんじゃないだろうか?
 俺がそう思考していた横で、タユのヤツがその疑問にまるで応えるように口を開いたんだ。

「オヤジがここへ来た理由は…オレたちの身の安全を考えてのコトだったってワケかい?」

「えっ?ど、どうしてそんな話しになるんだ??」

 タユは思わず声を上げた俺の方を、片方の眉を器用に上げて、まるで怪訝そうに見ながら説明してくれた。

「話しを聞いていて判らなかったのか?この男はここが金の為なら何でもする『企業』ってヤツだと言ったんだ。そうなるとオレのオヤジが仕事に没頭する為には家族は足枷にしかならないってワケだろ?だから、オヤジの意思とは関係なくオレたちをこの企業は迷うことなく始末するだろうってことさ…そうか、オヤジはオレたちに酷い仕打ちをしながらも、最も安全な打開策を選んでいたってワケなんだな」

 ほんの一瞬、悔しそうに目線を伏せたタユのその言葉に、マクベル博士は微かに溜め息を吐いたようだった。

「少し考えれば…ノイス君の頭脳で直ぐに答を見出せたものを。だが…私はそれを責めたりはしない。この私も、その要因を産んだ一人なのだから」

 少し疲れたような陰を落とす表情で、マクベルはさらに話の続きを聞きたいか?と言うような口調で僅かに首を傾げるから…タユは静かに「当たり前だ」とでも言うようにその先を促したし、俺たちも顔を見合わせてから頷いて見せた。

「いいだろう。君たちは…全てを知ってこの先に脚を運ばねばならないのだから。そうして、ノイス君以外の人間は、その証人となるのだ。さて、話の本題に入るが、私の研究と彼らの研究に奇妙な共通点が生まれるまでにはさほど時間は掛からなかった。私の研究報告とエルディナの研究、それにマックスウェル博士の研究を統合したプロジェクトを始めると言う結論を、雲の上の人物たちが下したのだよ。これだけでは話が解り辛いだろうが、簡単に内容を説明すればOSと言うプログラムを動かす為には、それを保管する場所が必要で、さらにはそれを動かすには円滑な動きをする機械が必要になる。そして、それを動かし操作するオペレーターが必要なのだ。その全てを一つにしたような物を作れと言うことになり、私の研究が必要とされる意味を考えると…」

「そんな…オヤジの研究を辿っているうちに聞いた、あの『ある研究』って言うのは、まさか…」

 タユが驚愕したような顔で、弾かれたようにマクベル博士を見た。
 博士は冷たい視線をタユに向けたまま、淡々とした、静かな声音で言葉を吐き捨てたんだ。

「その『まさか』だよ、ノイス君。ここには世にも恐ろしい人体実験を目的とした施設が存在しているのだ。君が考えているようなモノが存在していても、何ら不思議でないだろう?君もそう思わなかったのかね、ノイス・タユ・マックスウェル君」

「ま、まさか…いや、そんなはずはない。オヤジは既に殺されてその亡骸もオレは確認した。確かにオヤジのものだったはずだッ」

 博士は冷たい表情のまま、タユの混乱した頭にまるで水をかぶせるように言い捨てた。

「君の頭には全ての答えが詰まっているのだろう?研究とは何か、そしてこの施設で既に進められ完成したモノとは…」

「言うな!!」

 愕然としたタユが耳を押さえながら叫んでいた。
 でも、俺には、いやたぶん、その場にいた須藤にも桜木にも、その行動は理解できなかったに違いない。 
 ただ、俺たちには、タユのその動揺ぶりからして、話の内容が徒事ではないんだろうと思うことぐらいしかできず、固唾を飲んで見守るしかなかったんだ。
 畜生…ッ、悲しくなるぐらい、どれほど俺たちは無能なんだ。
 タユを、俺たちを守ってくれたただ一人の仲間すら、救うこともできず、その思いを共有してやることもできないなんて…ッ!

「い、言うな…その先は絶対に言うんじゃねー!」

「クククッ、何を今更?君は、君の親父さんが何を考えてそのOSを考案したのか、この長い年月の間に知ってしまったのではないのかね?だが…君は思い違いをしている。そうさせたのはこの冷たい楽園を私たちに与えてしまった『神』…つまり、この企業なのだからね」

 マクベル博士は、形容し難い表情を浮かべて、冷たい金属の天に向かって両手を広げて仰いで見せた。

「そうだ、ここは禁断の研究施設。何が起こっていようと、どんな過ちさえ問われない“楽園”なんだ」

 タユはまるで、何かに激しく抵抗するように一点を凝視すると、額に浮かんだ汗もそのままに、何度も渇いてしまうんだろう唇を舐めながらそんなことを呟いて、どうやら自分の精神に揺さぶり起こして、そうして、自分自身を取り戻そうとしているようだった。

「ここで『アレ』は完成していたのか?」

 漸く、本来のタユに戻ったのか、口調は既に十分冷静だった。
 タユのその言葉に応じるように、天を振り仰いでいたマクベル博士もゆっくりと目線を戻すと、思わず我が身を抱き締めたくなるほど冴え冴えとした口調で、その答えを口にしたんだ。

「勿論」

 短い言葉だったが、今の二人にはそれで十分だったんだろう。
 タユは額に汗を浮かべながら、じっと、食い入るように博士を見つめていた。
 その視線の先にひっそりと佇むアイツに良く似た男は、伏せていた双眸を上げると、俺たちに向かって短くたった一言だけ呟いたんだ。

「説明は…必要かな?」

「それはアンタが判断しろ。ここにいる連中は、この馬鹿げた企業ってヤツが仕組んだ物語の証人なんだろう?それに、アンタの描いたシナリオのキャストに選ばれているんだ、それなりに物語の粗筋ぐらいは知っておいたほうが都合がいいんじゃねーのかい、マクベル博士?」

 タユの言葉に博士は終始無言だったが、何かを考えているような仕草をした後で、両手を広げて俺たちに注意を促すようなジェスチュアをして見せた。

「いいだろう。だが、私の身の保障を約束する為には窮屈だろうが仲間の首に付いている物は外さないでおく。首に付けてあるものはスイッチ一つで僅か数ミリまで縮小する金属の輪だ。私に何かあれば遠慮なく装置が作動すると言う仕組みになっていることだけは、そこの日本人らしい君の頭の片隅に覚えておいておくといい。それでは…君たちを私たちが冒した“『神』を冒涜する楽園”に誘うことにしよう。さぁ、来たまえ…その答えはこの扉の先だ」

「ど、どう言うことなんだ!?」

 その時になって漸く俺は、須藤たちの首を締め付けているような金属の輪に気付いたんだ。
 桜木と須藤の眉が、困惑したように寄っている。
 蒼褪めた表情は、何かを物問いたげな焦燥を浮かべていたけど、唇を噛み締めた須藤が俺の肩を陽気に叩いたりするから俺は…

「心配すんなって!取り敢えず、この話の『答え』とやらを拝みに行こうぜ」

「そ、そうだよ!佐鳥くん、きっと、大丈夫だよ…」

 あれほどか弱いと思っていた桜木までが、強い意志を秘めた大きな瞳で俺を見詰めると、力強く笑ったりするから、俺は…何故か、泣きたくなっていた。
 何時の間にか俺を置き去りにして、須藤も桜木も強くなっている。
 それなのに、俺は…

「深く考え込むのは日本人の悪いクセだな。なるようにしかならねぇんじゃねーのかい?コータロー、一緒に『答え』を見に行こうぜ」

 タユがわざと派手に俺の肩を引き寄せると、そんな気分なんかになれるはずもないと言うのに、おどけたようにウィンクして笑ったんだ。
 タユも須藤も桜木も、みんな強くなった。
 俺は…俺は?
 俺はこの施設に来て、何か変わったんだろうか。
 いや、きっと変わった。
 須藤、桜木、そしてタユと言う、掛け替えのない仲間を手に入れたじゃないか。

「ああ、見に行こう。必然的にこの話の渦中に引き摺り込まれたんなら、最後まで見届けてやろうじゃねーか!」

「そうこなくっちゃなッ!」

「佐鳥くん!」

 須藤と桜木が笑うと、タユのヤツは尻上がりの口笛なんか吹いてくれる。
 そうだ、俺には仲間がいる。
 メソメソしていたって、物事は着実に進んでいるんだ。
 この施設の謎を探る…そう決めたじゃねーか。
 『答え』はもう、きっと目の前なんだ。
 話は済んだのかね?とでも言うように肩を竦めたマクベル博士は、それから俺たちについて来いとジェスチュアをして身を翻した。
 俺たちはまるで確認するように顔を見合わせると、タユを先頭に薄い水色のライトに照らされた鉄の扉を開いて、その先に待っているんだろう『神を冒涜する楽園』へと続く道へと足を踏み出していた。
 その先に、たとえ何が待ち受けていようと、俺たちは進むしかないのだから…

Act.41  -Vandal Affection-

 限られた電力しか供給されていないはずのこの研究エリア内の室温が、剥き出しの空調施設から吐き出される完璧なまでに調整された空気によって維持されていると言う事はどうやら間違いなさそうだった。上層階のあのアクアリウムエリアと互角か、僅かに広いかという研究室を『部屋』という表現が正しいのか、悩んでしまうほどだだっ広かった。
 流石にここまで来ると地上でこれだけの設備を整えるとなれば、世間の目をカモフラージュするにも骨が折れそうだ。
 この地下でこれだけの施設を建設するとなるとそれだけの精度が要求されるだろうだけど、その完璧さが嫌でも俺に恐怖心を覚えさせた。
 それはこの目の前に広がる試験管というよりもむしろ、水槽に近いガラスケースに灯る青白い光が、俺の中に蹲っている恐怖心を一層煽っているからだろう。
 さらにその事に追い討ちを掛けるのは自然では到底誕生するはずもない、このおぞましい生き物達が不気味な呼吸を繰り返していることだ。
 もし、この施設の事を全く知らないヤツがここにいきなり落とされたとしたら、俺はそんなもの見たことはないけど、この世には地獄のような果てがあると信じるんだろうな。
 それにしてもここを造ったヤツらは何考えてやがるんだ?

「おいおい…こりゃ、かなり過激な研究をなさってらっしゃるようだな」

 タユはゆっくりと額の汗を腕で拭った。
 この時のタユの心境を代弁するならば、『今度ばかりはアウトだぜ!』だったと思う。
 その思いは、変わらず俺の気持ちと一緒だったからだ。

「タユ、コイツらいったい…」

「ああ、多分『cord:(コード)』ってヤツだろうな。少なくともあのサルの化け物とはお仲間達だろうよ。一匹相手に流石の俺も死ぬところだったからなぁ。これだけの数が揃えば、世界中を敵に廻しての戦争だっておっぱじめられるぜ?」

 そう言って、額に汗したままニヤッと笑うタユの表情は、それが強ち嘘ではないことを物語っているようだ。
 ざっと数えても何処まで続いているのか判らない程の数だ、その何本かは何かしらの原因か、或いは時間が立ち過ぎてしまっているせいなのかは判らなかったが、茶色く濁っていたり緑色に澱んでいたりして内容物を確認することもできなくなっていた。俺の推測だと綺麗にLEDで照らされている試験管に入っている物だけが生存中なんだろうと思えた。ただ、そのガラス管の中身が生き絶えていようとそいつらが並んでいる以上は生きた心地なんか全くしないんだけど…当然だろうな、人間を殺す為だけの兵器なんだ。
 記憶に残る、あの一匹を除いてはの話だけどな。

「慎重に先を急ごうぜ。コイツらを刺激しないようにな…」

「ああ、一匹でも目覚めさせちまったら厄介な事になる」

 俺とタユは目線を合わせると、互いに頷いて見せた。
 辺りはやや柔らかめの天井ライトに照らされている他には、この実験体の管理用に青白く光るLEDの他には照明器具はなかった。それだけに、俺たちの行動は今までの半分程まで制限されるってことになるんじゃないかと思う。
 息を飲むようにして、注意深く周囲を探索していると、突然頭上からコンピューターの音声でアナウンスが流れたんだ。

『研究施設内の各担当者へ。当エリア内の電力供給路に異常をきたしました。メイン動力・電力共にバックアップへと切り替えられます。研究施設内の…』

 それはアレックス博士の修理した自家発電機の電力供給量低下を報せるアナウンスだった。タユの説明だと、俺が僅かに居眠りしている間にアレックス博士から自家発電機が送電できる供給量についての説明と、使用されていない経路での考えられるトラブルについて説明があったらしい。
 自家発電機からの供給量の低下を感知すると、このエリアのメインシステムが用意された『非常用バッテリ』へと自動的に切り替えるんだそうだ。勿論、非常用に切り替えられたとしても俺たちは限られた時間内に行動しなくちゃならないんだがな。

「あのポンコツ発電機のヤツがそろそろくたばりやがったのか?こうなっちまったらオレ達もぐずぐずしてられないぜ、コータロー」

 タユは真摯な表情で俺の方を振り返った。そして試験管から顔を背けている俺の肩を強く叩きながら言ったんだ。

「もう直ぐヨシアキ達にも会えるんだ、もっと元気出せよ!」

「そ、そうだったな…」

 俺は気を取り直して前を見ることだけを考えた。
 タユは好奇心からなのかその立ち並ぶ試験管を一つ一つ物珍しそうに調べ始めた。どれにしても試験管から飛び出してこられたんじゃひとたまりもないって言うタユの意見だった。時間のことは確かに気になっていたんだけど、こんな所で足元を掬われてちゃもともこも無いから俺も一緒に異常がないか調べることにした。

「こりゃあ、人形や作り物じゃなさそうだぜ。現に息をしているしな…」

 タユはふと、その試験管の側に貼り付けられている操作用のマニュアルを見つけたらしく、剥ぎ取りながら今の状況を説明してくれた。

「現状は安定動作中って事だ。ここのランプが青ランプに点灯すると…ん、『遠隔操作で検体を覚醒させる事が出来る』って書いてあるぞ、こりゃどう言うことだ?」

 剥ぎ取ったマニュアルを覗き込むタユの姿が映る試験管にその姿とは別に、唐突に銀色の縁を光らせた眼鏡の白衣姿の男が暗闇から浮き出したように映ったんだ。
 俺が気付くよりも先に逸早くハッとしたタユが咄嗟にマニュアルを投げ出して銃を構えようとしたが、その行動はどうやら端から予測されていたのか、その男の手はタユの腕を掴むと一気に腕を捻り上げやがったんだ!

「タユ!!」

 ゴトンッ。

「クッ…テメェ!」

 銃を取り落としたタユはそのまま力任せに横殴りされると、思わず声を上げた俺の足元まで吹っ飛ばされたんだ。

「クククッ、ようこそ。とでも言っておこうか?」

 金髪にうっすらと白髪の混じった男がニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて俺の方を見た。
 俺は…ハッと、息ができなくなるような胸に圧迫感を覚えて、思わずタユの上に雪崩れ込むようにして倒れてしまった。胸を押さえて息ができなくなる俺に、タユは素早い仕種で起き上がると、俺を抱えるようにして、目の前の男を威嚇しながら心配そうに覗き込んできたんだ。

「コータロー!?ヘイ!大丈夫かい??」

「クッ…カハッ!!」

 息ができずに涙を流す俺を、ニヤニヤと笑っていた白衣の男は無表情な顔をして、眉間に皺を寄せながら見下ろしているようだった。その顔を…どんなに忘れようと努力してもできなかったこの俺が、見間違うはずがなかった。

「お、おま…え、お前は!!」

 息も絶え絶えに胸元を押さえて睨みつけると、白衣の男はおやおやと眉を上げるような、あの憎らしい顔付きをしてニヤッと笑ったんだ。

「どうしたのかね、彼は?私の顔を知っているようだ…だが、残念ながら私は君を知らない」

「なんだと!?あんたは…ッ」

 そこまで言って、俺は唐突に気付いたんだ。
 そう、目の前の男は確かに、あの時俺に男としてこれ以上はないぐらいの屈辱を与えたアイツの顔だった。なのに、どこかヘンだ。何か、違和感がある。
 それに気付いた途端、現金なもので、俺の肺が正常に動き出したんだ。

「お前は…アイツじゃない」

「?」

 訝しそうに眉を寄せるソイツは、確かにあのときの男の顔をしていたのに、そう、何か違和感があると思ったそれは、コイツの方が老けているんだ。煌くブロンドには年波には勝てない白銀のものが疎らに混ざっていたし、目許にも草臥れた皺が刻まれている。生きてきた年月を物語る姿は、あの若々しい肉体を保持していたアイツとは、これほどよく顔が似ていながら全くの別人だったんだ。
 そうか、アレックス博士が言っていたジャクソン博士って言うのが、きっと彼なんだろう。

「アンタが、ジャクソン博士か?」

 あの、奥さんを癌で亡くし、娘さんを飛行機事故で亡くしてしまった、あの哀しい博士なんだろう。
 だが。
 白衣の男は一瞬訝しそうに眉を寄せただけで、途端に皮肉気に笑いやがったんだ。

「おやおや、ジャクソン博士を知っているのかね?残念だが、私は彼ではない」

「なんだって?」

 不意に、タユが怪訝そうに立ち上がる俺と一緒に身体を起こしながら、首を傾げたんだ。その反応は、そのまま俺にも反映されていた。
 彼がジャクソン博士じゃないって言うのなら、いったいここには、何人、あの男にソックリな顔のヤツがいるって言うんだ!?
 俺のことを薄っすらとは何かに気付いているようなタユも、俺を襲ったアイツが若いと言う台詞をそのまま信じてくれていたんだろう、同じように不審そうな顔をしてチラッと視線を寄越してきた。
 だが、タユの双眸にはそれだけではない意味合いも含んでいたようだ。
 不意に腰の辺りに隠し持っていたナイフを掴もうとした瞬間、目の前の白衣の男が目敏く気付いたようにニッと笑ったんだ。

「おっと、動くんじゃないぞ。このボタンを押せば君たちを襲ったあの生き物と同じ能力を持つペットたちが、君たちを八つ裂きにする為に目覚めてしまうからね…クククッ」

 その瞬間、隣の水槽に入った爬虫類のような頭部を持つ化け物の装置に動きがあった。それはタユの説明にもあった『遠隔操作での覚醒』を告げるランプが、音もなく赤く点灯したからだ。そのランプに反応するように中に入っている化け物の目がカッと見開くと、背筋が凍りつくようなおぞましい滑る双眸でゆっくりとこちらを見据えたんだ。だが、それ以上何も行動がない、と言うことは、ここまでは準備段階ってことになるんだろう。

「フンッ…そいつらを放せばアンタもただじゃ済まないんだぜ?」

 タユは口の端に付着していた血を拭いながら、殴られたときに口内でも切ったのか、口に溜まった血をペッと吐き捨ててニヤッと笑って言ったんだ。

「ハッ、よく知りもしないで物は言わない方が身のためだぞ?この研究施設は既に成熟された生物兵器の最後の試験施設、つまり出荷待ち状態の『cord:』達を保管している場所なのだからな。つまり、ここにいる彼らは既にただの生き物などではなく、高度な頭脳の持ち主たちだ。その彼らが私を襲うとでも思っているのかね?そう言えば、この状況を判断できるのではないのかな」

 その白衣の男はタユが床に落ちたハンドガンを拾うチャンスを窺っている事に気づいたのか、サッと水槽の陰に隠れた。
 チッと舌打ちしたタユが銃を拾い上げた時には気味の悪い『Cord:』と呼ばれる化け物が入れられた試験管を、まるで盾のようにして男は不敵に笑ってタユを挑発していた。

「このクソ野郎がッ!!」

 タユは大型口径のハンドガンを化け物の影に隠れて笑う男もろとも射抜く勢いで構えた。それを見た俺は慌ててタユの腕に飛びついて発砲を止めさせたんだ。

「何しやがるんだ!!」

「馬鹿野郎!こんな所で発砲してみろ、いたるところにあの化け物たちが眠ってやがるんだぞ!それにな、もしもお前が撃った弾がそれたらどうするんだ!?もっと、冷静になれって!!」

「そんなこた判ってるさ!オレの腕を甘く見るんじゃねぇよ。外すかッ」

 違うだろ!?そんな意味じゃねぇんだって…と、俺はイラついているタユの腕に縋りつくようにして引き止めようとする、その傍らで、こちらを睨んだままゆっくりと呼吸を繰り返すおぞましい実験体、いや生物兵器『Cord:(コード)』がニヤッとタユを見て笑った気がしてゾッとした。
 タユもどうやら同じ事を感じたらしく、息を呑むようにして悔しそうにその銃を下ろしたんだ。

「ほう、そっちの東洋人は賢い判断力を持っているようだな」

「畜生!てめぇは何が目的なんだよ!!」

 タユが忌々しそうに床を蹴りながら叫んだ。
 男の姿がぐにゃりぐにゃりと歪む円筒の水槽後ろを足早に移りながら、部屋の中央にある大型の水槽の裏側まで行きつくと、その後ろに身を隠しながら話し始めた。

「変な気を起こさない方がいいぞ。コイツは『cord:』の中でも尤も手に負えないやんちゃ者で、一度目覚めるとなかなか寝付いてくれないのだよ。まぁ、良い物を見せてやるから君らはそこで大人しくしている方が賢明だと思うぞ、ハッハッハ!」

 そう言うと俺たちを足止めさせたまま、その裏にある大型操作室の扉へと歩き始めたんだ。
 ヤツが扉に消えてからも俺たちはその場から一歩も動けないでいた。
 それは男の言った一番奥の水槽の生き物が恐ろしかったワケでも、ましてやその男の言いなりになったからでもない。俺たちの前後に並ぶ試験管のランプがオールレッド…つまり“起動態勢”という状況だったからだ。
 多分、この部屋にある数はざっと数えても100体は越えるだろう。
 見渡す限り施設内は倉庫のように試験管に埋め尽くされていたからだ。

「フン、生きた心地がしねーよなぁ?」

 タユは銃を仕舞うと諦めたように吐き捨てるようにそう言った。

「万事休すだな」

 俺は辺りを見回しながらそう呟いていた。
 どれぐらい待っていたのか…実際はそんなに長くは待っていなかったとは思うけど、暫くして聞き覚えのある声が扉の向こうから聞こえてきたんだ。

「痛い、放して!!」

「おい、ソイツに乱暴するんじゃねーよ!!」

 ハッとした。
 俺は咄嗟にその方向に振り向くと、その姿を確認する前に叫んでいた。

「須藤!桜木!!」

 そんな俺の声に、歪んだ顔をして暴れていた2人がパッとこちらを向いて同じように叫び返してきたんだ。

「佐鳥くん?佐鳥くんなの!?」

「佐鳥?そこにいるのは佐鳥なのか!?」

 やっぱり2人は生きていたんだ!!
 不意に俺の中の何かが吹っ切れたようで、漸く俺は本来の自分を取り戻せた気がしたんだ。
 俺の視線が目の前の男に向けられた。

「おや?どうしたことか2人の顔を見た途端に顔つきが変わったようだが?」

 タユもゆっくりと腰を上げると、俺と並んでヤツを睨みつけていた。

「2人を放せよ…」

 俺は静かにそう言って、不適に笑う白衣の男に足を踏み出したんだ。
 2人の姿を見た俺の頭にカッと熱い血が昇って、心臓がバクバクし始めると自然と足が前へ前へと動き始めていた。
 それに続くようにタユも銃のマガジンに残った弾数を数えながら歩き始めたんだ。
 ヤツとの距離は僅か数メートルしかなくなっていた。

「動くなと言わなかったか?」

 男の表情が冷たさを増すと、スッと腕を差し出して持っている何か小型の端末を俺たちに見せたんだ。それが何であるかって事は十分承知しているさ。それでも俺の足はお前の方へと動き出して止まらねぇんだよ!

「脅しはもう効かないぜ?」

 俺の言葉にタユも同意するような鋭い視線をヤツに向けたまま、ゆっくりと銃口をヤツの額に定めたまま近づいて行く。
 数秒後。

「引き金を引く勇気はできたか?」

「そっちこそ、ボタンを押す勇気はあるのかい?」

 俺たちは男の額に二丁の銃口を押し付けていた。
 その状況の中でもヤツは汗を掻く事もなく、まるで無表情のまま俺たちの間に『cord:』を覚醒させる装置のリモコンを差し出して、そのボタンに指をかけたままでいる。

「ダメよ!佐鳥くん!!」

「やめろ、佐鳥!タユ!!頭を冷やすんだ!!!」

 後ろ手に縛られた須藤たちが叫んだ。
 その顔には必死に、どこかぶち切れてしまっている俺たちに『頭を冷やせ!』と、訴えるような表情が浮かんでいた。

「どうする?お友達の言葉に従うか?それとも100を越す『Cord:』達を相手に遊んでみるか?」

 ただ、この男の何処にこんなにも余裕があるのか判らなかった。
 それでなくても、俺たちはこれだけ神経をすり減らしていると言うのに…
 だが、確かに。
 100を超す絶対的な力を従えているのならそれも頷けるが、かと言って、自分が死んでしまっては元も子もないんじゃないのか。
 なのに、何故だ?
 それともう1つ…
 須藤と桜木の首につけられている、あの銀色に鈍く光る鉄製らしいチョーカーの様なものはなんだ?
 男はニヤけた顔でゆっくりとタユの顔をマジマジと見ていたが…

「マックスウェル博士はそんなに馬鹿者ではなかったぞ」

「!?」

 その言葉に一瞬タユの双眸が見開いた。

「てめぇ…どうしてその名を知ってやがる?」

 搾り出すような低い声音でそう言って、タユがグイッと押し付けた銃口に抵抗する様子もなく、白衣の男はクックックッと咽喉の奥で笑ったんだ。

「やはり、君はマックスウェル博士の一人息子、ノイス君だったんだね。タユと聞いて君の顔を見たときにもしやとは思ったのだが…君は確か、特殊部隊にいたのではなかったのかね。いつから学生どものお守りをするレンジャーに成り下がったのかは知らないが、確か今も在籍していると聞いていたのだが?」

 なんだって?
 タユが、ノイス?特殊部隊??
 何を言ってるんだ。

「うるせーな。この研究施設を見つけ出すために休日を割いてレンジャーのバイトをしていたんだよ。漸く、見つけ出した。そうか、ここでオヤジは死んだんだな」

 タユ特有のジョークを言って口許に笑みを浮かべたが、そのくせ、その鋭い双眸はこれっぽっちも笑っちゃいない。それどころか、ギリッと奥歯を噛み締めて、タユは憎々しげに目の前の白衣の男を睨み据えている。
 白衣の男は怯むことなく、そんなタユの腹の底から湧きあがる怒りを真っ向から受け止めたまま、冷静に笑っている。

「じゃあ、アンタがエドガー・マクベルか?そんな面をされてちゃ全然気付かなかったぜ。オレはアンタの顔を拝んでやろうと、この手で殺してやろうとここまで来たってのにな」

 ニッと、顔こそ笑ってるくせにタユは、まるでその双眸だけは揺らぐことなく見据えている。

「…タユ、彼がマクベル博士だって?」

 ふと、憎々しげに一瞬も目線を外さないタユの横顔を見ているうちに、俺は冷静さを取り戻していた。
 いや、冷静を取り戻したんじゃない、頭をハンマーか何かでガツンと殴られた気分になっていたんだ。
 この施設に入ってから、もうずっと張り詰めていたはずの緊張が、こんな時に切れそうになるなんて俺はどうかしている。

「ど、どう言うことなんだ?」

 俺の言葉なんか耳には入っちゃいないだろうが、それでも俺は、タユがマクベルと呼んだ白衣の男に押し付けた銃口はそのままに、聞かずにはいられなかったんだ。
 だけど、タユのヤツは…ふと、そんな俺をチラッと見て、悔しそうにニヤニヤと笑っているマクベルを睨み据えた。

「…ああ、どうしてあんな面になってるのかオレは知らんが、奴は間違いなくエドガー・マクベルに違いない。オレのオヤジは…この施設の研究員だったんだ。お袋はこのコンカトスの人間でな。オヤジはお袋を連れてアリゾナの研究所に一旦戻って働いていた。だが、オレが5歳の頃、オヤジはこのコンカトスの施設に転勤しちまったんだ。お袋を残して」

 そこまで話して、タユは息を飲んだ。
 話したくて話しているんじゃないと、その姿を見ていれば一目瞭然だったけど、それでもタユは静かに語ってくれたんだ。別に、隠す話じゃない…と、思っているのかもしれないけど。

「お袋は英語に不自由だったから、幼いオレを抱えたまま独りぼっちになって、少しずつ精神を蝕まれていった。結局、オレたちにはワケの判らない理由でオヤジが死んだことが切欠になって、孤独に堪えられなかったお袋は療養所に入れられたまま首を吊って死んじまった…こんな、クソッタレな研究なんかの為に、オレの家族は崩壊したんだ!」

 吐き捨てるようにそう言ってから、タユは暗い光を宿した双眸でマクベルを睨み据えると、口許に薄ら寒くなるような笑みを浮かべた。

「探したよ。もう、ずっとな。オレはガキだったから、オヤジがどこで働いているのかも知らなかったし、お袋が療養所に入れられてから行く当てもなかったから、軍隊に入って気付けば特殊部隊に入っていたよ。それでもずっと探していた、オヤジが家族を犠牲にしてまでも没頭した研究とやらの、その成れの果てを見る為にな!」

 知らなかった。
 タユがそんなものを抱えてこの施設に入り込んでいたなんて。
 俺の知っているタユは、どこか抜けてて、それでも憎めなくて、そのくせ頼り甲斐があって…何故か絶対的に信用できるヤツだ。
 底抜けに明るいんじゃないかって思えて、だから俺も勇気付けられていたんだ。
 なのに、俺はタユのことをこれっぽっちも知っちゃいなかった。
 それが、凄まじいショックだった。

「その慣れの果てがこの施設だよ」

 そう言って、俺たち2人に銃を突きつけられたマクベルはふと、それまであんなにムカついていたニヤニヤ笑いを引っ込めて、目線を落としたんだ。

「聞きたいかね、ノイス=タユ=マックスウェル君。そんな、私怨だけの恨み言を?だが、今はそんなことは問題ではないだろう。それとも何かね、君は君の私情を最優先にして、共に戦ってきた仲間を見捨てるのかい?それは、君が憎んでいる研究と言うものと、あまりにも酷似しているではないのかな」

「…ッ」

 グッと言葉を飲み込んだタユは、それから、額に血管を浮かべたまま奥歯で歯軋りして握っていた拳を更にきつく握り締めたようだった。

「タユ…」

 ふと、それまで黙って俺たちを見守っていた須藤と桜木がその名を呼ぶと、弾かれたようにタユは、その鋭い双眸を見開いてゆっくりと、須藤、そして桜木、それからマジマジと俺を見たんだ。

「ああ、畜生ッ。そうだったな、オレには仲間がいるんだ」

 悔しそうに、歯痒そうに、タユは眉間に深い皺を刻んだまま、泣き笑いのような顔をしてマクベルを睨み据えたんだ。その決断が、どれほどの苦痛をタユに刻み込んでいるのか計り知ることなんかできないけど、それでもタユは、一瞬の迷いを残して俺たちの場所に踏み止まってくれたんだ。
 俺は…俺は冷たいヤツだから、タユの家族のことを思えばこの場でマクベルを殺っちまえ!…と言うべきなんだとは判っていた。でも、嫌だったんだ。
 タユが、この場からいなくなるかもしれないことを考えたとき、あの時もそうだった、それは酷く辛くて、心がもぎ取られちまうような、奇妙な感覚に泣きたくなっていた。
 ここにいて欲しい。
 傍にいて欲しい。
 そんな思いが、タユを残酷にも俺たちの場所に踏み止まらせてしまったんだ… 

「クックック…なんとも感動的な友情だね。まあ、いい。それでは少し、話をしよう」

「あぁ?」

 胡乱な目付きで睨みつけながらも、タユはマクベルの話に耳を傾けるつもりのようだ。
 そうだな、銃口が額を狙っているにも拘らず、微動だにもしないこの男がいったい何を考えているのか、そして…タユの親父さんが家族を顧みずに没頭した研究がどの様なものだったのか、聞いてみるのも悪くはない。
 いや。
 タユの為にはきっと、聞くべきなんだと思う。
 タユを引き止めてしまった俺たちは、そうして、タユと一緒に彼が抱えている計り知れない悲しみのほんの一欠けらでも共有しなくてはいけないんだ。
 そんなこと、タユは望んじゃいないんだろうけど…それでも、それが俺たちの、いや。
 俺の償いと言う、願いだった。

Act.40  -Vandal Affection-

 俺たちは負傷したカルロスを連れて細いメンテナンス用に作られた通路を走っていた。
 鉄製の金網の床を蹴る音はカンカンと通路に響いて俺たちの緊張感をさらに研ぎ澄ませ、神経はその一つ一つの音に対しても敏感に反応した。所々に出ている蒸気が顔に当たるのを避けながら最初の難関で俺たちは立ち止まった。

「ここを三人が降りるのに要する時間は?」

「俺の計算だと3分から4分、悪いが俺が最後に降りるぜ。梯子が血だらけになるからな」

 カルロスがそう言って手を見せた。

「オーケー、先頭はオレで二番手はコータローだ!」

 そう言うなりバッとタユが階段をおり始めた。俺たちは気づいていなかったがその鉄梯子の脇に設置されている振動感知センサーが働いて、化け物の檻の扉を開く準備を始めていた。一番先に床に脚を着けたタユは一目散に扉目指して駆け出した。少し遅れて俺がタユの後を追う形で作戦が開始しされた。
 既にタユの姿は見えない。薄暗い通路には配管が壁を這うといった事も無く、どちらかというと今までの研究施設にあった通路と同じ造りをしていた。

「タユがヤツと出会う場所が3分の1辺りならこちらにチャンスがある。それよりも少なくなればタユの生存確率がゼロに近づくだろう…まぁ、ヤッコさんだけじゃなくなるがな」

「タユが張り切り過ぎてもアウトという事なんだな?」

 その言葉にカルロスが首を振って答えた。

「俺たちが、戦うタユの横を無事に通り抜けられるかってことだって問題になるだろう?タユがしくじっても俺たちの作戦は終了してしまうんだぜ」

 そう言いながら走る通路の先が乾いた音と共に光始めた。

「タユとヤツが遭遇したようだな」

 激しい雄たけびと何かが壁にぶつかる音がこの先に起こっている光景を物語っていた。

「タユ…ッ」

「とにかくタユが足止めできる時間が突破するカギだ、気を引き締めて行くぞ!!」

 俺たちは床を蹴る脚に込める力を最大限に振り絞って、一気にその場所までたどり着いた。
 通りすがり様にちらっと視界を掠めた薄明かりの中で、タユと見たこともないような大猿が死闘を繰り広げていた。

「ぐあっ!!」

 タユが不意に化け物の腕に首を掴まれそのまま吊るし上げられたようだった。

「タユッ!!」

 咄嗟に俺は声を上げ、その足を一瞬止めてしまったんだ。

「馬鹿!」

 カルロスの声が早いか化け物の反応が早かったかはこの後の状況で一目瞭然だが、俺はかなりヤバイ失敗をやっちまったようだ。

「うぐぐぅう!!」

 ビュッと風のような動きで俺の喉元に手を差し出した化け物が一気にタユと俺を吊るし上げていた。

「ぐぐぅ…このバカ…ッ、なぜ…だ」

 タユが苦しそうにサルの腕から逃れようともがくが全く自由になれる様子も無く、その反面で締め付けられていく首の圧迫感に意識が朦朧としてきた時のことだった。
 パンッ!!
 音が響くのと同時に何者かが鉄の床を蹴りながらその場を走り去る音があたりに響いた。
 急に大猿は俺たちを放り出すと、その場で仰向けにもがき始めたんだ。

「おいおい、どうしちまったんだ?」

 大猿に放り投げられて床に転がった俺たちは突然のことに呆然としながらも、タユのヤツが首を押さえてゆっくり立ち上がって猿を確認するよりも先に周囲を見回しながら訝しそうに言っていた。
 俺はと言うと、カルロスに助け起こされながらいきなり絶命した大猿の側へ近付いて行ったんだ。
 既に言葉通り化け物はまるで彫像のように筋肉を硬直させて固まっていた。

「どうやら誰かがオレたちを助けたようだ……」

 すぐに俺の傍まで来たタユがどうやら絶命しているらしい大猿の傍らに片膝をついて屈み込んで、入念に調べていたが針の付いた小瓶を首筋から見つけ出すとそれを見ながらポツリと呟くように言ったんだ。

「一体誰だって言うんだ。そんな事をするような仲間がお前たちに居るのか?」

 カルロスが訝しげにタユを見て言った。可能性の話から言えばかなりの狙撃の腕が無ければこの暗がりで大きいとは言え標的の首を狙って薬品の入った弾丸を撃つなんて芸当は、到底出来ないだろう。
 だが、カルロスの問いにタユは首を縦に振って答えた。

「オレの仲間が生き残っていたのなら可能性はゼロじゃないだろうがな。だが、問題はコイツに打ち込まれたこの薬品の中身がそれを否定してないかい?」

 タユが小瓶を注意深く調べていると何かを見つけたようで、自分がポケットに仕舞い込んでいたペンライトを小瓶の底に向けて照らし出したんだ。

「瓶の底がどうかしたのか?」

「いや、コイツは面白い事になってきたんじゃないのか?」

 タユがニヤッと笑いながらそう言った。
 そうして差し出された小瓶の裏には一年前の西暦でその使用期限らしいものが刻印されていたんだ。

「小瓶にはその生産された年数が刻印されているんだ。この小瓶が量産された薬品である証拠はそいつが表記されている事から判るだろう。となればその数が多く…つまりだ、俺たちの今現在の年数に近い数字という事はこの薬品は最近誰かの手で持ち込まれたって事になる」

 そこまで言うと腕を組んで考え込んでいたカルロスがある仮説を持ち出した。

「そうなると何かしらの目的で俺たち以外の人間がこの研究施設に脚を踏み入れているって事になるな。そして、その人間は少なくとも俺たちの行動を継続させたいと考えているに違いない。その目的はサトリやタユが考えているような事じゃないだろうがな」

「おいおい、カルロス。そのくらいの事は中身の詰まってないコイツの頭でも、オレのコンピューター並みの頭脳でも良く判るってもんだ。それにだ、オレたちは誰かに助けられたのは今回が初めてなんだぜ?」

 中身が詰まってない頭ってな誰に言ったんだ?まさか俺とか言うんじゃねーだろーなーと、それこそ胡乱な目付きで睨んでやると、ニヤニヤ笑ったタユが肩を竦めながら床に小瓶を投げ捨てて俺の方を振り返ったんだ。
 まるで須藤と一緒にいるような錯覚に一瞬懐かしさを覚えたものの、なんだよ、この野郎と軽く睨んでやるとタユのヤツは笑えば憎めないってのに、憎たらしい目付きでそんな俺を覗き込んできたんだ。

「どうやら何かの企みにうまくオレたちは乗せられちまってるのかもしれないな。この先は今以上に別の『敵』に対しても警戒しておかないと生きてはここから脱出なんて出来そうにないだろうよ」

 タユはそう言うとクルッと背中を向けると、目的の場所へと脚を向けたんだ。

「タユ…」

 俺はそれ以上の言葉を口にすることができなかった。本当は『脳味噌空っぽ』発言なんかどうだって良かったんだ、そんなことよりも何がどうなっているのかと問い詰めたくて仕方なかった。でも、この状況をこれ以上タユに問い詰めたからと言ってタユがそれに答えられる事も、ましてやその答えを導き出せるはずもないんだ。
 ただ。
 今回の件で俺に判ることは俺たち以外の何者かがこの研究施設に入り込んでいるってのがこれで証明されたという事だ。それと、その何者かは俺たちの行動がたまたま利害関係と一致したって事で俺たちを助けたんだろう。タユや、カルロスは口にはしなかったがこの『何者』かにはきっと近いうちに遭遇するだろう。それは相手が自分の存在を俺たちに知らせた事で十分判ることだからな…

「それにしても何が目的なんだろうな…」

 俺は大きな電子ロック製の扉の前でそう呟いた。脇ではカルロスが基盤を差し込むインターフェイスを探していた。

「おいおい、まだそんなことに拘ってるのか?…って、カルロスさんよ。アンタの話じゃ簡単に済むんじゃなかったっけ?」

 タユは俺とカルロスの顔を交互に見てそう言うと、辺りを見回しながらさらに付け加えた。

「これじゃ、オレがどんなに頑張っても無理だったってことじゃないのかい?」

 その言葉を耳にしたカルロスがプチンと何かが切れたような険悪な表情をして立ち上がると、やれやれと首を左右に振っているタユにいきなり掴みかかって行ったんだ。

「おい、よせよ!」

 俺は必死に殴り合おうとするタユとカルロスを引き離しながら二人の間に割って入ったん
だ。
 おいおい冗談じゃないぞ、こんな場所で喧嘩するなんて子供以下じゃねーか!

「こんな所でケンカなんてするなよ!今は、俺の友達を助けることだけを考えてくれてるんじゃなかったのか!?」

「…」

 二人は言葉を詰まらせながらお互いを睨み合っていたが、カルロスの方が先に根負けしたのか俺の側から自分の持ち場へと戻って行った。その行動が少し気に入らなかったのかタユは床に唾を吐くと近くの壁に凭れ掛かりながら外方を向いたんだ。
 そりゃあ、タユが言わんとすることも判らないでもない。
 いつだって命懸けの戦いなんだ…それだって、本当は俺の我が侭が発端で引き起こしたことなんだけど、それでもタユは『仲間を救いたい』と言う俺の情熱みたいなものに根負けしたのか、或いはこの施設の異常さに興味を覚えたのか…どちらにしても、命を懸ける救出劇の片棒を嫌そうな顔もせずに引き受けてくれたんだ。
 タユを信じて着いて行く俺を、コイツはきっと、足手纏いだと思っているに違いないってのに…その上で今回の件だ、いつもは皮肉屋のタユだって腹を立てても仕方ない。
 扉はまだ開いていない。
 何よりも大切な仲間であるタユにしてもカルロスにしても、ケンカなんかで消耗できる体力なんて何処にも残ってやしない事は十分知っているはずだし、そんな事をしても無駄だってことも子供じゃないんだから判るだろう。きっと、二人がそんなに神経を高ぶらせている原因はこのドアを守る化け物の並外れた戦闘能力を肌で感じたせいだったんじゃないかって、俺は勝手に想像していた。それだけにカルロスの作業が進まないと『もしもの時』の考えが頭を過ぎって落ち着かなくなるんだろう。

「作業が遅れて悪いが最悪の状況だ。誰かが強制的に一度ドアを開けた形跡があってな、その際にインターフェイスをショートさせているようだ。これじゃ、ICチップのカードどころかボードを差し込むだけでも開けることは不可能だ」

 その言葉に俺たちは息を呑んだ。

「それじゃこの先には進めないってのか!?」

 その言葉は俺の口からではなく、噛み締めた歯の隙間から零れ落ちたように、タユの喉の奥から搾り出すように響いていた。

「厳密に言えばそうなる。現状で何処までマザーボードと言う部分がダメージを受けているか調べている時間も道具も無いからな。これ以上ここに居ても…」

 最悪だった。
 この鉄の先には桜木や須藤が待っているんだぞ。
 それなのに…こんな所で。
 俺はその感情にどうすることも出来ない気持ちを厚く閉ざしている扉にぶつけた。

「畜生!!なぜだ、なぜなんだ!!こんなにしてまでここまで来たんだぞ!!」

 俺は激しく扉を叩く。抑えられない感情が爆発しちまったんだ。
 ああ、どうして…

「どうして開いてくれないんだ…たとえ、桜木や須藤が最悪の状況であっても、せめてもう一度その顔を見せてもくれないって言うのかよ!俺は俺は…ッ」

 取り乱す俺の肩をタユがどうすればいいのか判らないと言う顔をしながら優しく抱きしめてくれた。
 ここまで行動を共にしてきたタユには、この俺の遣る瀬無い感情の昂ぶりを誰よりもよく理解してくれている。そんなことは厚い鉄の扉に額を擦りつけながら途方に暮れている俺にだって、嫌と言うほどよく判る。

「コータロー…アンタは十分に頑張ったじゃないか。それはヨシアキやヒトミも良く判ってくれているさ」

「でも、だけど…」

 俺の言葉を、タユにしては珍しく優しく止めたんだ。
 いつものあの、嫌味っぽさはなりを潜めている。
 ああ、そうだ。タユのヤツはいつもこう、コッソリと優しかったりする。
 俺がへこたれて、もう駄目だと思う度に切り開くように的確な助言をくれる。
 コイツがいて、本当に良かったと思う。

「その先の言葉は希望を捨てたヤツが言うセリフじゃないのかい?オレたちは最後まで諦
めずに悪あがきをするって決めただろ?」

 タユがそう言ってニコッと笑った。
 その笑顔が嬉しくて、俺は冷たい鉄の扉から引き剥がした額を、規則正しく上下する温かな胸元に張り付かせていた。
 タユのヤツは一瞬驚いたようだったけど、突き放すでもなく嫌がるでもなく、弱気になっている俺の背中を擦って抱き締めてくれたんだ。

「カルロス、別の手段はないのか?」

 俺の気の高ぶりが落ち着くまで、気が済むまでずっと抱き締めてくれていたタユが、ふと、『うわー、また野郎同士の濡れ場を見ちまったぜ』とでも言いたそうな蒼褪めた顔をしているカルロスに声を掛けたんだ。
 そうだ、別の手段か。
 俺はタユの胸元から顔を上げて身体を離すと、こんな絶望的な状況下でも僅かに残っている期待のようなものを込めてカルロスを見た。

「別の手段か…」

 気を取り直したカルロスは、だが、俺の顔をすまなさそうに見ながら考え込んだようだった。
 電子制御された巨大な扉を前にして、他の手段や方法を探せといきなり言われても考えられる全ての手を尽くした今となっては考えるだけ無駄なようにも思えたが…
 不意に彷徨わせていたカルロスの視線が壁の中に埋め込まれた配管の上で止まった。

「自動じゃ開けることが出来なくても手動ならどうにかなるかもしれないぜ?」

「手動!?気は確かか??」

 見ただけでも何トンもありそうな扉を手で簡単に開くように言うカルロスを見ながらタユが驚いてみせる。

「大丈夫だ。手で開けるったって俺たちがこじ開けるんじゃないさ。まぁ、ちょっと待っててくれよ」

 そう言うと、もう一度基盤を片手に別の場所に設置された配電盤のような場所にしゃがみこんで作業を始めたんだ。
 俺とタユは顔を見合わせたが、それでも何もないよりはマシだと判断して大人しくその作業を見守ることにした。

「コー・・タロー…」

 俺はハッとして目を開けた。
 疲れてていたせいか一瞬眠っちまっていたのかもしれない。

「疲れているのか?カルロスのヤツがやったぜ」

 瞬時にハッキリと目が覚めたのは、ここに来てから身についちまった癖だったけど、言葉に促されるようにして俺の顔を覗き込むタユの向こうに見える鉄製の扉に視線を向けていた。
 なんびとも通すつもりはない!…とでも誇示するような、いや、事実誰も通れないんじゃないかと思わせるような凄味のような圧迫感がある重々しい鉄の扉は、だがどんな魔法を使ったのか、僅かだが人が通れるくらいの隙間が開いていた。

「どうやってこれを?」

 あれほど頑なに口を閉ざしていた扉の、それは僅かな綻びではあったけれど、それでも今の俺たちにしては飛び上がらんばかりに喜ばしいことであるには違いなかった。 
 満面の笑み、ってのは出てこなかったけど、ただただ驚いて目を見開きながら振り返る俺にカルロスが答えたんだ。

「オートメーション化と言っても動きは機械だろ?メインフレームをコイツに切り替えて、後はアナログ調にエアーバルブを上げたり下げたりで動かしてやればご覧の通りさ」

 肩を竦めるようにしてそう言ったカルロスは、酷く梃子摺らせたに違いないはずの鉄の扉を見上げて、それでもなぜか満足そうに小さく笑っていた。
 ああ!でもやったぞ!!これで先に進めるんだな!

「…とは言っても、これ以上俺は着いていく程体力に余裕が無いからな、この先はお二人さんで行ってくれよ」

 感慨深そうに扉を見上げていたカルロスは、ふと視線を俺に戻すとそう言ってニヤッと笑ったんだ。

「すまないカルロス、ありがとう」

 俺はそう言ってカルロスと握手を交わした。

「いや、感謝するならアレックス博士にしてくれ。機械的な部分はあの博士の専売特許だからな」

 照れた様子は今までのカルロスからは想像もつかなかったが、どうやらアレックス博士からの依頼が完了できた事が彼にとって一番嬉しかったのかも知れない。
 酷く具合が悪そうな顔色をしていながらも、今の彼は充足感で満ち足りたように見える。

「じゃ、ぐずぐずしてないで先を急げ」

 ふと、眉を寄せる俺の肩を押すようにしてカルロスが言ったから、俺は慌てて口を開いていた。
 なんでそんなこと、言ってしまったのか今となっては判らないんだけど…

「まるで天の岩戸を抉じ開けたみたいだ」

「へ?なんだそりゃ」

 タユとカルロスが顔を見合わせたが、まあ、当たり前といえば当たり前か。

「いや、日本の神話にあるんだよ。天手力雄命(アメノタジカラオノミコト)と言う神様が開かない扉を抉じ開けたのさ」

「へぇ…神様ね。じゃあ、差し詰めお前たちには神がついてるんだろう。このクソッタレな施設内にカミカゼでも起こしてみろよ。さあ、早く行け」

 軽く笑いながら言ったカルロスに見送られて、彼に背を向けた俺たちはこの先に待っている仲間の姿を求めて混沌とした空間に踏み入ったんだ。一度は、ああ確かに一度は諦めかけた希望は、こうして通り過ぎていく仲間たちに支えられながら俺を今より先の所へと引っ張って行ってくれる。
 頑張ろう。
 今はその気持ち以外は何もいらない。
 後は自分が出来る事を見極めて失敗しない事だけだ。
 待っててくれ、俺は必ずお前たちの場所に辿り着いて見せるからな!!

Act.39  -Vandal Affection-

「だぁー!!最悪だ…」

 小さい事務所のような個室の中で折りたたみの椅子に座って話をしていたタユは、カルロスの話を聞いている間にだんだんと眉間に皺を寄せると、それから股に肘を付くと額に両手を当てて屈み込んだんだ。
 カルロスの説明は見えかけた俺たちの光を、一瞬にして消し飛ばすような話だった。

「おいおい。念を押してもう一度説明するがな……」

 カルロスの話は簡単に言えばこう言うことだ。
 俺たちが須藤や桜木が居ると信じている場所にそれらしい人物が連れて行かれる所をカルロスは目撃していた。
 これは俺にしてみれば重要でかなり期待の持てる有り難い情報だった。
 セキュリティもカルロス自身の設計によるもので、会社に教えていないパスワードでこの先にあるという大きな電子ロック付きの入り口に侵入することもできると言うのだから、アレックス博士が言うようにカルロスは出会わなければならない人物だった事もよく判った。
 問題はそこへ行くまでの経路を危険な生き物が守っていやがるって事だけだ。

「電子ロックが外せるのに何分掛かるんだ?」

 僅かに残るヤツの食料品の中で目敏く見つけ出した缶コーヒーをぶん取ったタユが、猫のように目を細めて美味そうに啜っていると、散乱した書類の中から白紙を見つけ出して、落ちていたペンでカルロスを指しながら聞いたんだ。

「特殊な装置は必要ない。このカード状のICチップをメンテナンスボックスの基盤に差せれば直ぐにでも…」

「時間だ」

「5分…それが限界だ」

「5分か……」

 そう言ってタユが白紙に『5』と書いた。

「ところで、アレックス博士は無事なのか?」

 そう言えば、忘れてた。

 俺は考え込むタユの横からカルロスにアレックス博士から渡された書類を差し出した。

「博士から預かった手紙と、エドガー・マクベルの資料…それに、このエリアの見取り図だ」

 俺から書類一式を受け取ると、カルロスはその中の博士の手紙を真剣な顔で読んでいた。

「おい」

 タユの呼びかけに気づいていない。

「おい、人の話をちゃんとちゃんと聞いてんのかい?」

「えっ?あっ、すまん……」

 タユの不機嫌そうな顔を見ながら、何かに焦る様子で書類と手紙を茶色い封筒に押し込みながら意識を集中させるカルロスの姿が、唐突に俺には不自然に思えた。
 ん?気のせいだろうか…まあ、いいか。

「この先にいる『コード』っていう生き物は何なんだ?」

 タユはそうか、その存在を知らないんだ。
 戦いが全てで、戦う事だけの為にこの世に産み落とされる生き物の存在。
 目を閉じればあの壮絶な戦いが、今だって鮮やかに俺の瞼に蘇ってくる。
 でも、もう一つの『コード』だったアイツは。
 最後の最後で戦い以外に大切なものがあるって事に気付いたんだ。
 それに気付いたことで、自分に刻み付けられた『コード』という烙印を消し去ったのかもしれないな。
 そう、アイツはもうコードじゃない。

「戦闘能力を極限まで引き上げた生物…ある研究薬品によって生き物を高等化させ、学習能力を上げる事に連中は成功したんだ」

「“連中”ってのは?」

 その言葉にカルロスが不思議そうな顔で首を傾げた。

「お前たちもここへたどり着く前に通ってきたエリアで見たんだろう?あんな研究をしている連中さ。ここにいる研究員だけでも刑務所がいっぱいになりそうなくらい、ヤバイ研究をしている連中達の事さ」

「はーん、だろうな」

「だろうなって、判ってんなら聞くなよ!」

 カルロスがあからさまにムッとした顔で、シレッとして目線を逸らすタユを軽く睨みながら先を続けた。

「ここの警備員を識別できていたのがいつまでの話か判らないが、施設が何かしらの“事故”でこうなってからはソイツは放置状態のままらしい」

 ムカムカしているらしい、案外子供っぽいカルロスは、同じく子供っぽく意地悪そうに嫌味を言うタユにそれでもその生き物の説明をする。
 自分は一度しか見た事はないと前置きをしてから、そいつがサルのような化け物である事。そしてその行動は機敏かつ敏捷で、的確な素早い状況判断ができ、知能もかなり高いということ。さらに言えば、戦う事に対するあらゆる訓練を潜り抜けていると付け加えた説明に、俺は背筋の辺りがゾワゾワするような感触を覚えちまった。

「その話を聞いた時点で、その怪物を倒せる手段はないってのがオレの結論だな」

 がっくり肩を落とすタユは、握っていた空き缶を握り潰しながら言った。
 だが、缶を握り潰してガックリしてるだけじゃないタユは、白紙だった紙にこれからの計画を書き始めたんだ。

「何があってもこの扉は突破するつもりだ。爺さんも言ってたが、オレたちのごり押しで開くようなもんじゃないってことは判っているから、カルロスにはそこまで来てもらわないといけないってワケだな」

「ああ、俺しか基盤を弄る事はできないだろうよ」

「で、オレはカルロスが工作している間の5分を持ちこたえるって作戦だ」

 そう言ってタユはニヤッと笑った。
 ん?ちょっと待てよ。

「おい、俺の出番は?」

「何言ってるんだ?アンタは開いたゲートの先に重要な仕事が残っているだろう」

 訝しそうに眉を寄せてタユの肩を掴んだ俺に、一瞬キョトンとしたタユは、それからニッコリ笑って俺の肩を叩きやがったんだ。
 そ、それってまさか…

「そうと話が決まれば先を急ごう、俺にもあまり時間がないようだしな」

 そう言って立ち上がるカルロスの椅子の下には血溜まりができていた。

「おい、止血できてねーじゃねーか!」

 俺が焦ってその手を掴もうとすると、カルロスは軽く笑って身を引いた。

「アンタ…悪い事しちまったな」

 そんなカルロスに珍しくタユが、すまなさそう眉を顰めて言ったんだ。

 もともと、そんなに性格の悪くないタユだ。心底からすまないと思っているんだろう。

「おいおい、こりゃぁ俺がしでかした事だぜ?気にすんなよ、それよりも先に進もうぜ!」

 よろけながらもカルロスのヤツは、俺たちの先頭にたって事務所の出口へと向かったんだ。

「まさか、お前ら…嫌な事考えてないだろうな!?俺だけ先に行くような事言ってるけどさ!」

 続いて立ち上がったタユの服の裾を引っ張って、俺は眉間に皺を寄せながらタユに詰め寄った。
 そんなのは嫌だぞ、それだけは絶対にゴメンだ。

「あん?」

 俺の気持ちを知ってか知らずか、タユのヤツは俺の鼻っ面を押しながらニヤッと笑ったんだ。

「状況次第だ、ジョウキョウ!」

 そう言うと銃を握り締めたタユが俺の腕を掴むと事務所の外へと連れ出した。

「ここから真っ直ぐ走って一つ目の梯子を下へ進む。そして梯子を下りきった時点でまたダッシュだ」

 カルロスが黄色い回転灯が照らし出す、蒸気が立ち込めた細い通路を指差して言った。

「ヤツはどの辺りでオレたちを察知するんだ?」

「詳しくは判らんが梯子をくだり始めたら察知されるだろうな。俺たちの存在、つまり侵入者を察知したヤツはゲート前から約5分程で俺たちと衝突するだろう」

 カルロスが目を伏せる。

「5分か。梯子は長いのか?」

「いや、3メートルもない。この床の真下だからな」

 俺はゴクリと唾を飲んで床を見つめた。
 この真下に、ヤツはいるのか。

「そいつを避けて通る手段は本当にないのか?」

 その問いに、カルロスは殊の外あっさりと首を左右に振ったんだ。

「そいつがいる限りゲートのロックを外せない。仮に外せたとしてもお前たちの後を追う事は必至だ。つまり、ここで倒せなかったら後が辛いんだ」

「と言うワケだ、判ったかい?」

 タユが俺の肩を抱きながら言った。
 こうなったらもう、やるしかないんだろう。
 命懸けの戦いなんか、もう何度も潜り抜けてきた。
 その一回一回が堪らなく恐ろしくて、本当は内心で震えていた。
 でも、ああそうだ、でも。
 いつも、それでも仲間を見つけて助け出して、みんなで帰るんだと須藤や桜木と約束してたじゃないか。
 たった独りきりになったってワケじゃない。
 俺にはタユがいる。

「…どんな状況になろうと、俺を独りにするなよ」

 どうしてそんなことを言ったのか、こんな状況でけして口にしてはいけないその言葉を、どうして俺は言ってしまったんだろう。
 でもタユは、そんな俺を見下ろしながら仕方なさそうに頬を緩めたんだ。

「お姫様のご要望とあれば」

 そう言って、いきなり俺の腕を掴んだタユがそのまま強引に引き寄せると、わざと派手に音を立ててチュッと額にキスしてきた。
 目を白黒させる俺と、ギョッとしたように眉を寄せるカルロスを前にして、タユのヤツは極平然とニヤニヤしながら肩を竦めやがったんだ。

「なんつってな」

 結局そんな風にはぐらかして、肯定も否定もせずに見下ろしてくるタユに一抹の不安を覚えながら、それでも幾分か緊張が解けた俺はヤツの向こう脛を軽く蹴飛ばして、それから唐突に気付いてしまった。
 タユに、冗談とは言え額にキスをされても別に嫌な気分にならなかった。
 触れられただけであんなに嫌悪感がしたって言うのに…タユには何か、不思議な力でもあるんだろうか?
 そこまで考えて俺はプッと笑ってしまう。
 タユがはぐらかすように、恐らくこれから待ち受けている現実はやっぱりそれほど生易しいものじゃないんだろう。
 カルロスに「やっぱりお前たちって…」と言いたそうな胡散臭い目付きで見られながらも、タユは別に気にした様子もなく、それどころか役得とばかりにニヤニヤ笑って外方向いている。そうして、そんな二人を見ていた俺は、不意に唐突にこの場からタユがいなくなることを想像してゾッとした。
 じゃあ、俺はどうすればいいんだ?
 決まっている。
 避けられない道は切り開くしか他に方法なんてねーじゃねーか。
 そうだ、そしてそのことを、俺はここで十分思い知らされてることになるんだがな!

Act.38  -Vandal Affection-

 6時間54秒。
 それが俺たちに残された時間。
 この時間を過ぎればセキュリティ機能が停止する上に俺たちをと須藤達をとつないでいるラインが切れてしまう。
 そうなれば助け出せる可能性が限りなくゼロに近付くってことだ…
 ただ、どうしてゼロ近付くってだけで完全にゼロってワケじゃないかと言うのは、メインフレームの原子炉からできる電力供給が可能なら “手動で引く事で救出ができるようになる”という手段がまだ残されているからだ。
 でも、この手段は今の俺たちが選択できるものじゃない。
 なぜならそれはアレックス博士の話でも判るように、主電源の原子炉自体がその機能を十分に果たせていないと言っている以上、その強大なエネルギーを何の知識も持っていないような俺たちが簡単に扱える代物じゃないって事は明白だからな。
 まぁ、それができるようなら自家発電機をわざわざ再起動させたりはしてないよ。
 何より一番心配しなくてはならない事は、須藤達に残されている“時間”がもっとも重要ってことだ。
 そんな考えが頭の中を駆け巡っていた時だった。

「なぁ、コータロー」

 俺の前方を注意しながら先に進むタユが不意に声を掛けてきた。

「なんだよ?」

「…ヨシアキやヒトミって本当にこの先のエリアに居るのかい?」

「はぁ?」

 俺はそんな拍子抜けしそうな台詞に、タユに向かって間抜けな声を上げてしまった。
 そんな俺に気付いたのか、タユも足を止めると肩を竦めながらなんとも言えない表情をして振り返ったんだ。

「アレックス博士の操作する監視カメラに二人の姿は映ってなかったからさ。いや、少なくともオレには見当たらなかったってワケだけど…」

 タユがなんとも言い難そうにしながらも、そんな風に素朴な疑問を俺にぶつけてきた。
 確かに、良く考えてみたら俺にしても、その疑問に答えられるような記憶がない。
 むしろ、どうしてこの先に二人が居ると確信しているかさえ不思議に思えるんだからどうかしてる。

「そ、そう言われれば俺も、どうしてアイツらがそこに居ると思っているんだろう?」

 一瞬、俺たちの間に微妙な沈黙が続いた。

「まっ、先に進むイコール生きてりゃ二人に会えるってことだ!」

 タユがそう言って気軽に俺の肩を叩く。
 深く考えても答えは出ない。
 それに…何よりもそのカメラに二人の『最悪な状況』を見たわけじゃないんだ。タユと上の階で再会できたって事も、先を見て進んだ結果だったんだしな。
 そう考えて、できるだけ思い込むようにした時だった。
 不意にタユが神妙な顔をして俯いている俺の肩を掴むと、いきなり引き寄せるようにして俺を抱き締めたんだ。

「た、タユ?」

 ギョッとして目を見開く俺の髪に頬を寄せて、タユは感情を押し殺したような口調で言った。

「たとえ二人が、どんな状況になっていても、オレ達の手で救い出してやろうな」

 一言一句を区切るようにして、それは俺に言っているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか、タユは静かな口調だった。

「タユ…」

 身体を離すようにして俺の顔を覗きこんできたタユの漆黒の双眸が、僅かな光を反射させて強い意思を物語っているようだ。
 ああ、そうだな。
 タユ、お前が言おうとしていることは俺にだって良く判る。
 たとえ、たとえどんな姿になっていようと俺たちの手で、それがどんな方法であっても、この手で助け出そう。
 そんな風に渦巻く感情を押し殺したような瞳で見られてしまうと、俺は気恥ずかしさも忘れて、なぜだろう?タユに身体を預けるようしてその肩に額を押し付けてしまう。
 その時だった。

「コイツはたまげたな!何をおっぱじめるかと思えば男同士でメロドラマかよ?」

 その声に俺とタユはバッと離れると素早く銃を構えた。
 パン!パン!!
 乾いた音がした直後に金属が弾かれるような音がして、俺とタユの手から銃が弾けるようにして落ちた。

「クッ!」

 タユが悔しそうに唇を歪めると、低い声の主は薄暗闇の向こうからクックックッと笑い声を響かせやがたんだ。

「まぁ、無駄な抵抗はよせよ。この先じゃ、そんな鈍い神経してると一時間も生きてられないぜ?」

 低い声で笑っていたソイツが、薄暗闇の中から姿を現した。
 暗い目付きをした男は平凡なジーンズにTシャツといった姿で、配管に凭れ掛かりながら俺たちに銃口を向けたままで何か面白いものでも見ているようにニヤニヤと笑っている。

「お二人さんはゲイか?クククッ…」

 チッ、ムカつくヤローだぜ!
 そう思いながらタユを横目で見ると、素っ気無いムッとしたような表情をしているくせに、その目付きはさり気ない仕種で油断なく相手の隙を窺っているようだ。
 タユのヤツ、何か考えがあるのか?
 そう思ったら俺は、できる限りヤツの興味がタユにいかないように注意を引くことにした。

「なんだよ、俺たちがそーゆー関係じゃマズイことでもあるのかよ?」

 一瞬、タユがチラッと俺を見た。
 その目付きは…って、何、お前が動揺してんだよバカ!!

「クククッ、めでたい連中だな。この状況を判ってんのか?」

 男が馬鹿にしたように笑ったその瞬間、銃口が下を向いたその僅かな隙をタユが見逃すはずがない。
 ビュッ!
 俺の横で風を切るような音がすると、鋭い光の矢が男の銃を握る手に突き刺さる。

「ギャッ!」

 すかさずタユは床に落ちたハンドガンを拾うなり、まるで猛獣が獲物を仕留める瞬間のような素早さで間合いを詰めたんだ。

「おっと、形勢逆転だな。アンタがカルロス・ヴァンジェリスかい?」

 タユが足元の銃を俺の方に蹴ると、手を抑える男のこめかみに銃口を押し付けながら片手で男の腕を捻り上げた。

「グッ、どうして俺の名を!?」

 こめかみに銃口を押し付けられて忌々しそうに歯噛みしていた男は、驚いたようにその痛みに歪む目を見開いてタユを、それから俺を交互に見た。
 だから、その質問には俺が答えてやった。

「アレックス博士に紹介されたんだ」

「アレックス博士に?」

 不意に男がキョトンとした顔で俺の方を見た。

「ああ、そうだ。それにしても、爺さんが言ってた男にしちゃ穏やかなヤツじゃないな」

 タユがそんな風に皮肉げに唇を歪めると、その腕をさらに捩じ上げた。

「イテテテテッ!あー、悪かった!博士の知り合いだって判ってりゃあんな事はしちゃいねーよ!」

 苦しそうに顔を歪めるカルロスが呻きながら喚くと、肩を竦めるタユに懇願した。

「頼む!もう何もしやしねーから放してくれッ!手のキズが痛てぇんだよ!!」

 カルロスが顔をめい一杯に歪めながら言うように、ヤツの手からは鮮血が幾筋もポタポタと流れ落ちていた。
 俺は男の手から流れてる血を見て、タユに目で合図を送ったんだ。
 素っ気無い素振りで肩を竦めたタユが掴んでいた腕を投げ出すようにして離してやると、カルロスは痛む腕を庇うようにして擦りながらブツブツと悪態を吐いた。

「たく…とにかくここから離れた方がいい。血を嗅ぎつけてヤツが来るかも知れないからな」

 不意に、憎々しげに吐き捨てるカルロスのその台詞に、何か引っ掛かった俺が口を開こうとしたが。

「ヤツ?何だそりゃ?」

 タユの方が一足早く反応して、下唇を尖らせながら胡散臭そうな顔をしたんだ。

「おいおい、何も知らないんだな。ここにはあらゆる状況試験に合格した『コード』っていう生物兵器が警備を任されている区画なんだ。つまり、簡単に言えば…」

「戦場と同じってワケか」

 タユが諦めたように溜め息を吐くと、すぐに銃からマガジンを抜くと残りの弾数を数え始めた。

「オレのオートに残り10発、アンタのハンドガンに良くて5発、コイツのオモチャに10発あっても…相手を確実に仕留められる自信はないな」

 やれやれと首を左右に振るタユのその言葉に、カルロスが小馬鹿にしたように鼻先で笑った。

「フンッ、冗談だろ?相手は殺しのプロだぜ。専門職を相手に俺たちに何ができると思う?ヤツにロックオンされれば倒すどころか逃げられもしねぇーよ」

 その説明を聞きながら俺の顔を見てヒョイッと眉を上げたタユが、手にしていた銃を腰に戻すとカルロスに振り返るなり言ったんだ。

「アンタだってこうして、今もここで息ができてるんだ。死ぬ事はねぇだろーよ」

 タユは「アンタのようなウスノロでも生きてられるんだ、大丈夫だろ?」とでも言うように軽に言って、肩を叩きながら意地悪そうにニヤッと笑う。そんなタユの考えが判ったのか、苦虫でも噛み潰したような顔をしたカルロスが俺たちの前に立った。

「とにかくここは危険だ。俺が隠れている場所まで案内するぜ」

「早くそうすりゃいいのによ」

 タユが肩を竦めながらボソッと俺に耳打ちした。
 その言葉を俺は聞き流したんだ。
 だって、それどころじゃないじゃないか!
 ここには桜木を…いや、結果的には俺たち三人の命を守ってくれたあの『仲間』と同じレベルの生き物がウロウロしてるって事だろ?
 全く、タユのヤツ。
 カルロスとイヤミの言い合いしてる場合じゃないんじゃないのか…?

Act.37  -Vandal Affection-

 アレックス博士の努力のおかげで闇雲に進んでいた俺たちに一遍の光が射した気がし
た。
 それは俺たちの進むべき道を指し示していたが、その光には後戻りできない覚悟が付いてくるってことも解っていた。
 だからと言って立ち止まることは出来ない。
 俺がそう決心を固め、冷たい金属製の銃身に手を掛けた時だった。

「お前さんたちがどうしてもこの先に進むというのには何かしらの事があってのことじゃろうから、ワシからのささやかな餞別代りにひとつ情報を教えてやろう」

 アレックス博士はそう言うと、一枚のコピー用紙を俺に手渡した。

「これは?」

 コピー用紙には一人の男の写真とその男についてのプロフィールらしいものと、アレックス博士のものらしい直筆の手紙、それにサインも書かれていた。
 博士はそのコピー用紙にクリップ止めされた写真の男を指差しながら、視線は今までにないくらい真剣な眼差しで話し始めた。

「その男はここで唯一のワシの知人じゃ。カルロス・ヴァンジェリスといってな、ここのエリア警備を仕切るシステムエンジニアじゃ」

「システムエンジニアが何だって言うんだ?」

 タユが俺の肩越しに男の顔を確認しながら怪訝そうに言った。
 その顔には『また新手の問題出現ですか?』という色がありありと出ていた。
 付け加えて言うなら『勘弁してください』と言いたげな顔にも見えた。

「カルロスは腕利きのシステムエンジニアで具体的な仕事内容はその資料にまとめておいたからの、そいつをじっくりと読んでからこの先の事を考えても遅くはないじゃろうと思ってな」

 博士の親心的な親切からだろうが、逆にそれはこれ以上こんな危険な場所で見ず知らずの人間と係わり合いになる事への警戒心を持つ俺たちには、新たな選択肢を投げかけられたような気がしたんだ。
 こんな場所で見ず知らずの人間を頼って……それも命を掛けてここから脱出してやろうなんて考えてる人間が、ほかの人間に協力なんてするはずがないだろう。
 それがこの時の俺の正直な気持ちだった。
 不意に横で俺の手にした資料をジッと見つめているタユの横顔に困惑に彷徨っていた俺の視線が辿り着いた。
 こいつはどうなんだろう?
 その気持ちが徐々に俺の心の中に不安さを広げていくんだ。
 こいつは生き残るためだけに戦ってきたんじゃないのか?
 最後まで一緒に俺たちの為に戦ってくれるだろうか?
 戦う?
 誰と?

「……だからオレたちには必要な人間だな」

 俺の心に訳の解らない気持ちが渦巻きだした時、タユの言葉でハッと我に返った。

「ん、何がだよ?」

 それまでボーッとしていた俺は慌ててタユの言った言葉を聞き返そうとした。
 そんな俺の肩に腕を掛けながら、タユのヤツが不真面目そうな口調で書類を指しながら言うんだ。

「おいおい、ちゃんと人の話を聞いてくれてるのかい?」

「ああ……すまない、ちょっと疲れがでたのかな」

 タユはその言葉と俺の動揺した態度から、考えていた事がどういったものだったのか勝手に判断して言葉を続けた。

「まぁ、心配するなよな。胡散くせぇヤツならコイツでズドンッて黙らせりゃいいってことだしな」

 銃口をアレックス博士に向けながらニヤッと笑って見せた。
 博士はその銃口の先をそらせながらタユに困った顔で説明を続ける。

「こらこら、その血の気の多さで彼を殺してしまっては、この先に進むお前さんたちが困るだけなんじゃぞ?それにな、この先は冷静さを欠かせば即死につながる危険な場所だという事は、今に解ってくるじゃろうからあまりとやかくは言わんが、とにかくカルロスだけは何としても説得して自分たちの仲間に入れておくんじゃ」

 博士がタユを睨みながら言った。
 アレックス博士の真剣な眼差しからも、このカルロス・ヴァンジェリスという男がこれからの俺たちの行動のカギを握っている事だけは、その場の雰囲気からも充分に判るような気がした。

「この男がそんなに重大な事でも知ってるのか?」

 俺は敢えてその言葉を口にしたみた。
 それに対する答えを、タユがアレックス博士に代わってその理由の説明する。

「カルロスって男はこの施設のセキュリティ関係全般に関わっている男みてぇだな。いわゆる「システム管理者」って事だ。で、ここからが重要なんだが、このエリアは警戒厳重度が『ランクAAA(トリプル・エー)』ってワケだ。ここじゃ、A・B・C・Dという警戒態勢にランク分けしているって言えば、その厳重度が凡そ検討がついただろう。つまり、この建物の中で一番警備が厳重だってこと」

「だから?」

 判る?とでも言いたげに肩を竦めて見せたタユは、俺の言葉にこめかみに指を押し当てながら話を続けた。

「簡単に言えばこのエリアが『施設内最高機密』って事だろう?そこにこれから行こうっていうオレたちは、ここのお偉いさん達にご招待でもされていたかい?」

「まぁ、冗談はそのくらいにしておいてな、佐鳥君。つまり、お前さん達はここで一番の厚いセキュリティの壁を突破しなくてはならんという事なんじゃよ。勿論、そんなセキュリティにそこの若造がいくらカラ元気を出したぐらいじゃ何の役にも立たん事は言うまでもないじゃろう?」

 タユはその言葉に肩を竦めながら首を振るジェスチャーを加えて見せた。

「いくらオレがその道のプロでも、コソドロのような真似事までは流石に出来ないからな」

「それじゃ…8時間のタイムリミット以内には須藤たちを助け出す事は出来ないって事になるんじゃないのか?」

 俺の言葉に一瞬の間を置いた後、口を開いたのはアレックス博士の方だった。

「いや、それは心配いらんじゃろう…」

 博士はこの施設内の監視カメラにアクセスをかけると、複数の場所に『動力不足』という赤いエラーコードが表示されているのを見せた。

「ここの全部を自家発では補えん。そうなると、緊急時には最高機密に値する場所にだけ必然的にエネルギーを集中させる仕組みになっておるんじゃ。ここまで話せばもう理解できるじゃろう?」

「つまり…今、そこの場所はもっとも重要な場所にだけ厳重なセキュリティがしかれているって事か?」

「そうじゃ。だが、もしマクレガーを使ったマクベルがお前さん達の仲間を何らかの理由で監禁しているというのならば、話はもっと厄介にはなるんじゃよ」

「えっ?」

 アレックス博士はこれから俺たちの行くエリア内のマップを表示させた。
 マップに映し出されたエリアは横向きに長く続き、僅かだけ地下に向かって伸びたような形をしていた。地下に伸びた分の横には、実験に必要な化学薬品庫やタンクなどが設置されているようで、それを含めた施設を1フロアとして纏めている様だった。

「マクベルがエリア総括責任者という事を忘れんでくれよ。奴ならどんな状況であってもエリア内を自由に移動できることが出来るからな」

 そこまで言うとマップの地下部分を大きく拡大させた。
 そこには上のフロアにはない広い部屋が一つ設けられていた。

「ワシもあまりよく知らんのだが、何かの実験室といったような感じのものじゃと考えてくれ。じゃが、ここは政府関係者、特に要人に分類される連中以外の入室を許されておらんエリアになっとるから、簡単には入る事はできんのじゃ」

「じゃ、須藤や桜木が捕まっていると考えるなら間違いなくこの実験室に?」

 アレックス博士は眉を寄せて頭を掻く仕草をしながら自分の考えを話し出した。

「まぁ、ワシが奴ならここ以外に完璧な“隠れ家”はなかろうな。全てのアクセスを拒否させる事も進入を許す事も、奴の指先一本で済ませられる唯一の場所じゃからの…」

「逆に言えば『袋のネズミ』って事だな?」

 タユが何かを企んでるような笑みをニヤッと浮かべて、何か自信ありげな顔をして見せた。

「本当にこの若造は真剣に物事を考えておるのかのう?良く画面を見るんじゃ、お前さんが考えている事は大方検討はついとるが、念の為に説明しておこう。袋のネズミはお前さん達にも言えることなんじゃぞ」

 アレックス博士はもう一度画面の見取り図を拡大させた。

「仮にマクベルがお前さんの友達をここに連れ込んでいたとして、万事うまく救出成功したとしても奴は『ハイそうですか』といって逃がしてはくれんじゃろう。この実験室の出入り口は一つしかない、しかもそれはエリアの入り口までの長い通路状の実験室を通らねばならんのじゃ。マクベルが実験室を封鎖すれば即厳戒態勢がエリア内全域に敷かれる。そうなれば4人揃っていよいよ身動きが取れない状態になりうる事は予想できるじゃろう?」

「おいおい、さっきはセキュリティが働くのはこの実験室だけみたいな事いってたじゃねぇかよ!」

 タユが話が違うじゃねーかよ!とでも言いたそうな勢いで叫んだ。

「お前は本当に率直な奴じゃな、『重要機密漏洩』を阻止しなくてはならんのに「セキュリティが働きませんでした」で事が済むと思っておるのか?アカデミーの雇われ警備員が見回りするような場所じゃない事は何度もワシが説明しておるじゃろうが!」

 そう言って博士が俺の顔を見つめながら言った。

「友情を重んじて真っ直ぐに進むお前さんのような日本人はワシも好きじゃ。じゃから出来る限り生存できる全ての手段を考えてこの先を乗り切って欲しいんじゃ。ワシも堅物の頭が生み出したいやらしいトラップの前に、よもやお前さん達が倒れることになるなど考えてはおらん」

 そう言って、アレックス博士はタユの方に視線を移した。

「お前さんにも良い所はある。こう見えても伊達に年を喰っておるわけじゃないんじゃぞ。見た目以上に訓練された者のニオイがお前からはする。少し短気さが心配じゃが、二人で力を合わせればきっと友達を救い出せるじゃろう…」

 そう言って博士は俺の肩を掴んで一言ポツリと洩らした。

「死ぬんじゃないぞ」

 それがアレックス博士の最大の気持ちの全てだったと、この時の俺には判らなかった。

「もう、時間じゃな…この部屋から出たら後戻りはできんから、行動はくれぐれも慎重に行うんじゃぞ」

 博士は後ろで腕を組むと、不意に背を向けて俺たちに言った。
 その肩は薄暗い部屋の光の中で、微かに震えているようにも見えた。
 それを見た俺たちが博士に掛ける言葉を探して声にしようとした時、爺さん博士が力強い言葉でその場を締めくくったんだ。

「行くんじゃ!」

 博士の決心したような、もう後戻りは出来ない事実を叩きつけるような、そのくせ力強いその声に、俺たちは後押しされるように部屋を飛び出した。
 そう、ここからが本当のクライマックスだ。
 須藤、桜木を助けたらその波に乗って教授と女史を一気に助け出す。
 そしてこの悪夢のような、こんな馬鹿げた物語に終止符を打つんだ。
 たとえ、そうたとえ、その先にどんなエンディングが待っていようと構うもんか!
 物語ってのは自分で作るもんだ、そうだろ?
 運命すらも変えて見せる勇気を、俺は信じて歩き出すしかない。

Act.36  -Vandal Affection-

 どれくらいの時間が過ぎたんだろう。
 カチャカチャ……
 キーボードを忙しなく叩く音と、聞き覚えのある声に俺は意識を呼び戻されたようだ。
 冷たい床に蹲るようにして座る俺の体温は床に吸われ、冷たくなった身体は今までのハードな行動から急激な休息に対応し切れなかったのか、節々がギシギシと音を立てるような錯覚を感じながら重く閉じた瞼をゆっくりと開いてみた。
 覚醒したばかりの意識はまだハッキリしていなくて、暫くぼやけた目で虚ろに周囲を見渡していたけど、景色が漸く輪郭を整え始めると、自分の置かれている状況を把握しようと脳がフルピッチで動き出し始めたからか、少し頭痛がしてきた。
 兎に角、この冷え切った尻を何とかしなくっちゃなぁ…
 冷たく凍りついてしまいそうな尻を持ち上げた俺はニ、三度頭を振って様子を見たが。
 よし、大丈夫そうだな。
 身体を起こして立ち上がると、少し眩暈を覚えたものの、そう軟にできちゃいない身体はすぐに環境に慣れたらしく、俺に考える力を取り戻させてくれたようだ。
 俺はハッキリしてきた視線を目の前に居る人物の方へと向けた。

「…電力の供給は全て整っておる」

 最初に耳に飛び込んできた声は、アレックス博士のようだ。 

「じゃぁ、“準備OK”って事でいいのかい?」

 せっかちに相手に答えを求めているタユが、どうやら俺の目覚めに気付いたのか後ろを振り返って確認すると肩を竦めて見せた。

「まぁ、そう言うことになるな。後はそこで休んどる相棒にでも…おお、目が覚めたかね」

 同時に博士も気付いて椅子から立ち上るとこっちを見ながら言ったんだ。

「ちょうど今、システムの起動に成功したようだぜ」

 タユはいつの間に覚えたのだろうか、モニタに映し出された分厚いあの扉の操作パネル部分にレンズを移動させると、そこを拡大して表示させた。
 博士の説明によると、このフロアから送られる電力は次のエリアの20%分しか補うことが出来ないらしい。しかも、設備を稼動させるにはタービンを回す為の火力を熾す燃料に時限があるというのだ。

「少なくとも8時間持てば良い方じゃろうな……」

 8時間。
 俺たちはその時間内に須藤たちを救い出せるだろうか…

「8時間だって?簡単に言ってくれるぜ」

 タユが諦めたように肩を竦めると、それを聞いて聞かないフリをしているアレックス博士が背後から声を掛けてきたんだ。

「さて、君らにはこの先のシステムについて話しておかねばならない事が幾つかある」

 薄暗い部屋にはモニターの光に照らされた俺たち三人の他に温かみを感じられるものは何もない。
 その空間の中でアレックス博士の落ち着いた声がやけにハッキリと俺の耳に響いていた。

「今度は何だよ?」

 タユはその雰囲気が苦手なのだろうか、いつもよりトーンの低い声でアレックス博士の方を見るなり子供のように下唇を突き出して促した。
 アレックス博士はそんなタユをチラッと一瞥しただけで、その視線は俺を見据えたまま言葉を続ける。

「ここの管理体制は複雑でややこしい面が多い…が、人間の手を煩わすような所は自動オペレーションシステムが賄っておってな。その分、システムは細分化されることが無い……」

 そこまで言った時、頭を掻いていたタユがその手で大振りなジェスチャーをしながらアレックス博士に急き立てるように言ったんだ。

「あー、そのややこしい説明は後回しでいいから単刀直入に説明してくれ!」

 タユの言葉に少しムッとしたようなアレックス博士だったが、所詮若造がとでも思ったのか、その事には何も言わずに俺たちの間に割り込んで端末の操作を始めた。
 この部屋の端末は各階のフロアに置かれたサーバーと直結されたオンラインを持っていた。
 それは、この部屋の操作室が各フロアの電力を補助する際の司令塔にもなれるように設計をされているからだった。
 どうやらそれが幸いして、俺たちに多くの情報を提供してくれそうだな。

「まずはコイツが必要じゃろう」

 アレックス博士が端末を叩くと、そこにはオンラインから呼び出されたここの所員名簿が表示されていた。

「誰か知り合いでも紹介してくれるのかい?」

 腕を組んだタユがヒョイッと、俳優が良くやるように眉を上げて博士に茶化すように言った。
 アレックス博士はそんな俺たちの顔を見るとニヤッと笑ってモニタを指さしたんだ。

「何を寝惚けた事を言っているんじゃ。ここから先に進むんじゃったら必ず知っておかなくてはならん相手の顔を、教えておいてやろうと言っているんじゃよ」

 そう言ってあるファイルを開くと、そこに映し出された男の顔を見て俺たちは身を乗り出した。
 博士の真剣さが、その人物の要注意度を割増させているようで、どうやら放っては置けないんだろうなぁ…またなんだかややこしい事にならなけりゃいいんだがな。

「エドガー・マクベル。このエリアの総責任者じゃ。お前さんたちがもしもこの先で出会うような事になった時、最も注意せねばならん人物でもあり、最も危険な男じゃろうからな」

 俺たちはモニタへと身を乗り出したまま食い入るようにその顔を見た。
 そこには何ともパッとしない、冴えない中年男が世の中の全てを恨みでもしてるかのようなしょぼくれた目付きをして映し出されていた。モニタの中に羅列されたバストアップの写真の中でも、ソイツはアレックス博士の言うように、ここの責任者なんだろう、一人だけ偉そうに一段上に一枚だけ貼り付けられている。

「へーえ?大したこたなさそうなおっさんぽいがな?コイツはどんな馬鹿げた研究をやらかしてたんだ」

 タユが腕を組んだままで馬鹿にしたように肩を竦めると、アレックス博士が素早い動作でキーを叩くと幾つかの情報がエドガーの顔写真の横に並べられていった、けど、思ったほど凄い情報は一つもないようだ。

「ワシの端末ではこの程度かのう…大元がロックされておるから、ワシのIDでは深層部までは立ち入れないんじゃ」

「ま、何もないよりはマシだな爺さん」

 タユがおどけたように肩を竦めながら気楽に言うと、アレックス博士も肩を竦めながら息を吐くだけだった。

「…博士の端末で特定の人物を割り出すこととかできるのかな?」

 暫く考えた末に、傍らにいるアレックス博士に俺がそう言うと、タユは俺の目を見ながら首を少し傾げて眉をヒョイッと上げて見せた。

「まあ、雇われ博士のIDで判る範囲でならの」

「それでいいんだ。苗字までは判らないんだけど、フィリップって言うんだ」

「フィリップじゃと?ホッホ…」

 何がおかしいのか、その名を聞いてアレックス博士は笑いながらキーボードで何かを打ち込んでいた。
 俺が何を言いたいのか判ったんだろう、タユは『ああ、あの変態野郎のことか』と思い当たったのか、肩を竦めて苦笑したんだ。

「コータロー、フィリップって名前だけじゃ、あんまり情報が少なすぎるんじゃねーのかい?」

 それを聞いて、俺はハッとして頭を掻いてしまった。
 ああそうか、それで博士のヤツは笑ったんだなぁ…フィリップなんてどこにでもある名前だ、この広い研究所でいったい何人いるだろうな。
 その答えを簡単に博士は導き出してくれた。

「これがこの研究所で勤務しておった”フィリップ”と言う名を持つ者のリストじゃ」

 200、いや300人はいそうなリストにうんざりして、俺は素直に博士に謝りながら、ヤツの身体的な特徴を言ってみた。

「ふむふむ、蠍との融合かね…なかなか興味深い話しではあるがワシの専門外じゃなぁ。そもそもワシは、外から召喚されて来たに過ぎん。今現在、この研究施設で何が起こっておるのかもよく判らんのじゃよ」

「逃げ出そうとは思わないのかい?」

 マシンの乗っているデスクに凭れながら腕を組んだタユが博士を見下ろして、からかうようにそう言うと、博士はご冗談をとばかりに両腕を上げて見せた。

「ワシはお前さんたちほど、もうそんなに活きが良くないんじゃよ。この年になると、無駄に逃げ惑うよりも大人しく時間が過ぎるのを待つ方が楽じゃからなぁ」

「なるほど」

 タユは肩を竦めながら頷いたけど、どうもこの博士を気に入っているようで、爺さん博士を連れて、さてどうやって逃げるかなとでも考えているようだった。

「まあ、そんなことをやらかす連中と言えば、恐らくマクベル博士の助手であるフィリップ・スタングレーのことじゃろうなぁ」

 独り言のようにブツブツと呟きながら、博士は検索欄を呼び出すと手早くその名前を入力した。
 ポンッと小気味よい音を鳴らしてモニタに映し出された顔写真は、こざっぱりと短く刈った金髪に、神経質そうな目付きをした男で、とてもあのフィリップを想像することはできなかった。

「へーえ!アイツ、結構男前な顔立ちしてたんだな。今じゃ見る影もなかったが、まあこんな状況じゃ仕方ないんだろう」

 タユが感心したように尻上がりの口笛を吹いてそんなことを言うぐらいだ、じゃあこの顔写真の男はフィリップに間違いないんだろう。
 あんまりにも相好が変わり果てていて、断定することができないでいたんだけど…そうか、フィリップはこんな顔立ちをしていたのか。

「フィリップ・スタングレー、エリアα(人体実験コードは全てα記載)勤務。実験体管理担当……と、なんじゃそれ以上は部外者のアクセスは拒否されておるのう」

「まあ、権限が決まってるIDなんだろ?じゃあ、仕方ないさ」

 タユが肩を竦めて俺を見たが、俺だってそんなに期待していたわけじゃないんだ。それに、取り敢えずフィリップが勤務していたエリアが判れば、その周辺のどこかに須藤たちがいるだろうと予想できるし、強ち博士の検索は的外れだったわけでもない。
 それに、検索できることが判ればそれでいいんだ…だって、俺が本当に知りたいのは。
 アイツだ。
 あの冷徹な眼差しをした、あの男だ。
 俺の勘が正しければ、この研究所のことを唯一まともに知っているのは、あの男しかいないんじゃないだろうか。

「…博士、名前が判らないと検索は難しいかな?」

「んー、やってできないことはなかろうが、人数が人数じゃからなぁ…特徴などを言ってくれれば、ワシが判る範囲でなら教えてやれんこともないぞ」

 タユが下唇を突き出すようにして首を傾げたが、そうか、タユには言ってなかったんだったな。

「金髪で、スカイブルーの眼をした、眼鏡の似合う結構ハンサムなヤツだった…でも、残酷そうなヤツだなとも思った」

 印象を率直に言うと、博士は渋い顔をして腕組みをして考えているようだった。
 やっぱりこれじゃ情報が少な過ぎるかな…

「ああ、そうだ。博士、あんたはラット事件ってのを知っているかな?その書類を見つけて、余計な物だって言って燃やされちまったんだ。どうも、その事件に関係している人物じゃないかなーと思うんだけど」

「ラット事件?…おお、あの事件のことか。あれは酷かったぞ。1990年の秋も終わる頃じゃった、この施設に妙な病が流行ってのう。だがそれは、通常の細菌に因る病ではなく、人為的なミスが招いた災いだったんじゃ」

「へえ?」

 タユは特別興味深そうに博士を見下ろして先を促したが、俺はその話しで漸く、あの書類に書かれていた内容を思い出していた。
 そうだ、あの事件で確か『HR-9』ってのが出てたんだよな。

「ワシは専門外じゃから詳しくは知らんが、ある研究部門で特殊な薬を扱っておってな。その薬には副産物のようなものがあって麻薬のような効果があったんじゃ。その効果を悪用した粗悪な薬が出回ったんじゃがな、当局は最初、それに気付かなくてのう。全てが水面下で取引されておったんじゃが、日を追うごとにそれが蔓延していって、とんでもないことになったんじゃよ」

「とんでもないことってのはなんだい?」

 タユが興味深そうに食い付いたが、アレックス博士は渋い顔をして首を左右に振ったんだ。

「死人が出た。ワシらの所にはそれぐらいしか回ってこんかったからな、詳しくは判らんのじゃよ。当局に談判に行ったのが…」

 そこまで言って、徐に博士はハッとしたような顔をして俺を振り返ったんだ。

「おお、そうじゃった。お前さんの言っていた特徴は、確かに彼に似ておるな」

「彼ってのは?」

 俺が尋ね返すと、博士は頷きながら何かを打ち込み始めた。

「直接談判に行った張本人じゃよ」

 博士がそう言った直後、モニタに映し出された顔写真を見て俺は思わず唸ってしまった。
 気にしていない、気にしていないとは思っていても、俺の中にある何かがヤツを拒絶しているのか、その顔を見た途端にガクガクと身体が震え出したんだ。

「ん?どうしたんだね、顔色が悪いようじゃが…」

 アレックス博士が肩に触れた瞬間だった、どうしたのか、俺はビクッとしてその手を振り払ってしまったんだ。
 何故かなんて説明はつかないけど、突発的な行動に何故だろう、怯えてしまったと言った方が早いのかもしれない…怯える?なぜ俺が??
 カタカタと震えながら博士を見上げたら、突発的な俺の態度に驚いたように眉を跳ね上げた博士の傍らで、タユのヤツは、ヤツにしては珍しく神妙な顔つきをして近付いてきた。

「彼は一体どうしたのかね?」

「…まあ、大方予想は付くけどな。何か恐ろしい目にでも遭わされたんじゃねーのかい?こんな場所だしなぁ」

 タユのヤツは曖昧に誤魔化すようにそんなことを言ったんだが…まさかお前、俺の身に起きたことを知っているんじゃねーだろうな。
 それは、嫌だ。
 あんなこと、犬に噛まれたんだって思って忘れようと思ってるのに、どうしてこんな、唐突に思い出しちまうんだ。
 蹲るようにしてへたり込んでいた俺が、唇を噛み締めて、震える指先で額に張り付く前髪を掻き揚げて動揺を誤魔化そうとしたその時、思ったよりも大きな掌で誰かが背中を擦ってくれたんだ。
 誰か、それはなんとも形容のし難い眼差しをしたタユが、アイツらしいお気軽そうな笑みを口許に浮かべて傍らにしゃがみ込んでいた。

「大丈夫だよ、コータロー。大丈夫だ」

 何が、とか、どうしてタユがそんなことを言うのかだとか、そんなことはどうでも良かった。
 タユが何気ない仕種で、俺の考えていることなんか大したことでもないだろ、こんな所で生き抜けているんだ、気にすんな、とでも言いたそうな眼差しで、多くを語らずに背中を擦ってくれていたら不思議とそんな風に思えてきた。
 タユのヤツがきっと、能天気だからなんだ。
 きっとそうだろう。
 だからこんな風に、落ち着けてしまうんだ。
 タユのおかげなんかじゃない、ヤツの能天気な性格のおかげなんだ。
 でもどうしてなんだろう、博士の手はあんなに恐ろしく感じたのに、タユの手を優しく感じるなんて…でもそのおかげで、俺は少し落ち着いてモニタを見ることができるようになった。

「こんな場所だじゃからなぁ、何があったのかとは聞かんでおこう」

 そんな俺の様子を見ていた博士は、それ以上何かを詮索するようなことはせずに、肩を竦めるだけだった。

「コイツだ、確かにコイツだ」

 モニタを覗き込んだ俺が呟くようにそう言うと、博士が頷いた。

「そうかね?やはりそうだろうと思ったんじゃ。彼はその当時、その薬の研究部門に招かれていた博士でな。癌研究の権威じゃよ。当時その薬の研究を反対していた彼は、当局に押し切られる形で口を噤むように言われてのう、悔しい思いをしたんじゃなかろうかね」

 博士は殊の外、あの男のことに詳しいようだった。
 古い記憶を思い出しているのか、その視線は壁に貼られた一枚の古惚けた写真に向けられているようだ。

「あの若さで権威か…でも、いったい何を考えているのか判んねーや」

 厳しい、世の中のことに冷めたような表情をしていたあの男の顔と、目の前のモニタに映し出された意志の強そうな眼差しで銀縁眼鏡の奥からひっそりと見つめている男の顔を比べながら、思わず呟くようにして俺が言うと、それを聞いた博士がちょっと驚いたような顔をして振り返ったんだ。

「若いじゃと?博士がまだ生きておるのなら、彼は今年で53になるはずなんじゃがな…」

「53歳だって!?そんなはずはないよ、どう見ても30代後半ぐらいにしか見えなかったけど…」

 そうだ、外国人は年齢よりも老けて見えることがよくあるのに、もしアイツが本当に53歳の男だとしたらあまりにも若過ぎるんじゃないか??

「ワシは老い耄れてはいても記憶力はいい方じゃぞ。彼がこの研究所に来た時が1984年で32じゃったからな、あれからもう20年以上経つからのう、どう計算しても30代後半は有り得んのじゃよ」

「嘘だ…」

 俺は思わず呟いて、フラフラと後退さってしまった。
 どう言うことだ?
 俺が見たアイツは過去の産物だったとでも言うのか?
 そんな馬鹿なことが…

「どうでもいいけど、その博士ってのは誰なんだ?」

 黙って事の成り行きを見守っていたタユが、不意に組んでいた腕を解いて頭を掻きながら面倒臭そうに聞いてきた。すると博士は、おおそうじゃった、とモニタに向き直ると手早く操作して弾き出したんだ。

「彼の名はアンディ・ジャクソン。ワシと同じように招待されて来た博士でな、癌の研究分野では世界に名の知れた博士じゃった。分野違いではあったが、ワシも会ってみたいと思っていた博士でなぁ。当時は奥方のマデリーヌが癌に冒されていて研究に没頭していたと聞いたが、その後はどうなったのか…」

「奥さんがいたのか…」

 別にどうでもいいことなんだけど、奥さんがいるのに、俺にあんなことするなんてのは…許せないとか言うのは偽善なのかもしれないけど、それでもやっぱり、なんだか納得いかないんだ。
 それともこの研究所にいる間に、徐々に精神を侵されていったのだろうか…
 あのフィリップみたいに。
 こんな、異常な場所では、やっぱり仕方ないのかな…

「彼にはラット事件の起きた当時、5歳になる娘さんもいたんじゃがな…ルビアと言う可愛らしい女の子じゃったが、彼女はそのラット事件とほぼ時を同じくして飛行機事故で亡くなってしまったんじゃよ」

「そうか、なんとも気の毒な話しだぜ」

 タユがしんみりしてそんなことを言った。
 気の毒…そうか、そんな風に大切な人を亡くしたのであれば、何もかも全てが嫌になって、あれほどまでに残酷そうな、冷徹な表情になっても仕方ないのか。

「マデリーヌの身体を気にしておってのう。この研究所に来るのを渋っておったそうじゃが…どう言う成り行きで来るようになったのかは、口の重いジャクソン博士から聞くことはできなかったんじゃ」

「…でもまあ、ソイツとコータローの言ってる男は別人なんだろうがな。良く似たヤツもいるんだろう。まあ、オレたちが東洋人の見分けがつかないように、西洋人の見分けもつき難いからな」

 タユが肩を竦めながらそんなことを言うから、俺は少し考えて、ああそうだったのかもしれないなと思うようになった。
 良く似ているし、本人に違いないとも思うけど…アレックス博士の言葉は嘘じゃないだろう。
 アイツはどう見ても50代には見えなかったし、大切な誰かを失って絶望に打ちひしがれているようにも見えなかった。なんと言うか、外界を無視しているような、ただただ冷酷に事の成り行きを見ているだけで、我関せずの態度はどこか空々しくて人間らしさを感じなかったからな。
 そうだ、アイツには、亡くなった娘さんを偲んで奥さんを気遣うような、そんな人間らしさはこれっぽっちもなかったじゃないか。

「タユの言う通りだ。俺の見間違いだったんだろう。だってアイツは、そんな家族を思うような生易しい感情を持ってるようには見えなかったし」

「そうかのう?まあ、ワシはここから然程出たことがないからのう、同じような顔をした者もいたんじゃろう」

 博士はそう言って納得したようだった。
 アンディ・ジャクソンか、この人はこんな迷宮のような異常で閉鎖的な空間で、何を思い何を考えていたんだろう…奥さんを想いながら、悔しさを噛み締めて死んでしまったのかな。

「まあ、その話しはそのぐらいでもういいだろ?そんなことより、今はヨシアキとヒトミの件が先じゃねーのかい?」

 タユが両手を上げるジェスチャーをしながら俺たちにそう言って、少し不機嫌そうな顔をすると顎をしゃくったんだ。

「この先のエリアについて、詳しく聞かせてくれよ爺さん?」

 そうだ、アイツのことは今はいい。
 俺たちには待ってくれている人がいるんだ。
 アイツを捜し出して俺は、いったい何をしようと思ったんだ。
 この研究所のことを聞くのか?それとも『HR-9』について?
 いいや、違う。
 俺は、なぜアイツが、俺を犯したのか聞きたいだけなんだろう。
 理由もなく、凶悪な捌け口に使われただけなのかもしれないけど…それでも俺は、アイツを捜し出して聞きたいんだ。なんだろう、この気持ちは…
 恐怖とか、憎しみが入り混じったこの感情は、いったい何なんだろう。
 事の最中でも冷めた声で俺の名を呼んだ、あのうそ寒い雰囲気を持った冷酷な男。
 会って聞き出して、それからどうするんだ?
 …殺そうと、思っているのか?
 不意に、自分の中で渦巻く凶悪でおぞましい感情に気付いた俺は、背筋が凍るような錯覚がして震え上がってしまった。

「コータロー?どうしたんだ…って、ハイハイ。オレは触ったりしないよ」

 わざとらしく大袈裟に両手を降参のポーズで上げて片目を閉じたタユは、そのくせ、ちょっと心配そうに眉を寄せて震える俺の顔を覗き込んできたんだ。

「本当に、大丈夫なのか?」

「タユ…」

 さっきは惚けたようなふりをして、そのくせ心配しているくせに…そんなタユを見て、俺はなぜか今凄くホッと落ち着いている。
 そうだ、この研究所の上にある、あの遺跡に入る時だって俺は、タユを目指していた。
 眠れないでいる俺に、気軽にコーヒーを勧めてくれて、見つかれば怒られることは判りきっていたのに、夜の遺跡にも連れ出してくれたのはタユだったじゃないか。
 コイツは俺の希望だった。
 なぜかは判らないけど、タユがいればいい、彼に会えさえすれば万事上手くいく…なんて、根拠もない思いだけを信じて、俺はこの研究所に来たんだ。
 照れ隠しにお気軽性格のおかげなんだとか思っちまったけど、俺ホントは、たぶんきっとタユが好きなんだ。
 アレだな、目が開いたばかりのヒナが初めて見たものを親鳥だって思い込む、アレなんだろうな。

「大丈夫だ、うん、ごめん。そうだな、タユの言う通りだ。俺たちは須藤たちを助けに行かなくちゃな」

「だろ?そうこなくっちゃな。なんせ相手は人間をモルモットにして研究してるような連中なんだぜ?弱みなんか見せたらこっちが食われちまうんだ。何はともあれ、そんなヤツは忘れちまえよ」

 無理かもしれないけどな、と一言いって、屈託なく笑うタユは、どこにそんな強さを秘めているんだろう。
 こんな常識離れした異常な研究施設でも、タユだけは変わってなかったじゃないか。
 そうだ、タユだけは変わってねーんだ。

「まあ、何かしらあるんじゃろうが、今は君の友人たちが心配じゃな」

 そうだ現実に戻れ、佐鳥光太郎!
 タユが言う通りだ、相手は人間をモルモットにして平気で実験しているようなヤツなんだ。あのフィリップがその助手を努めていたって言うんだから…須藤たちの身の保証は全くなくなったってことになるんだろうけど、そんなことで諦めるわけにはいかないだろ。
 どうせこんな命の保証なんてまるでない異常な場所なんだ、希望なんてのは自分で感じて信じるものなんだ。
 最後の最後まで、その絶望的なシーンを見ないうちは、たとえ1%の望みしか残っていないとしても、俺は必ず須藤と桜木のもとに辿り着いてやる。
 今はうだうだと考えている場合じゃない、須藤たちを見つけ出すためにも準備が必要だ。
 俺は、立ち竦みそうになる心を奮い立たせて自分に言い聞かせた。
 たとえそこが地獄だろうと、須藤と桜木にもう一度出会える場所は。
 もうそこしかないんだ…

Act.35  -Vandal Affection-

 タユと俺は格納庫のような場所を離れると、その先にあるはずの補助電力装置に向かって足を進めた。補助電力装置とは、何かしらのアクシデントが発生した時に限って起動して電力供給用の供給を行う装置…つまりは自家用発電機と同じような物だ。ここの地下施設の総電力の80%を地下に設置された原子力発電機から補っていて、その他の20%は表向きに公開されているらしい太陽光発電、ソーラーパワーで補われていると言うことだった。
 言うことだった…と付け加えたのには、ここまでに来る道中でタユが俺に話してくれたことを簡単に纏めたってだけのことなんだ。

「この発電機をどうやって動かすか…タユ、ちゃんと考えてるんだろうな?」

 前方を進むタユに声をかけると、ヤツは肩越しにちょっと振り返って肩を竦めるぐらいだった…ってことは、何も考えていないから全く期待なんかできないってワケなんだろう。やれやれだ。
 歩調をやめた俺たちの目の前に息を潜めて冷たく、ひっそりと佇む『鉄の箱』を見上げながら、俺は溜め息を吐きながらもう脂っぽくなってしまった頭を掻いた。

「…まあ、そんなことが判るぐらいだったらこんなとこには来てないか」

「そりゃ、そうさ…と、言いたいがそうも言ってられないようだな」

「!?」

 タユは振り返りざまに俺が持っている銃を押さえつけたんだ。
 俺たちの視線が眩しいライトの光の中に微かに黒光りした銃口を認識した瞬間、激しい衝撃が肩を襲ってきやがったんだ!!
 チュン!!

「痛…ッ」

 その銃口から飛び出した弾丸が僅かにタユの頬を掠ったが、続けざまに発砲された銃弾が当たる場所には既に俺たちの姿はなかった。

「ヘイ!誰だ、オレたちは化け物じゃないぜ!」

 タユは銃を握り締めて構えながら、飛び込んだ発電機の物陰から発砲してくる人影に向かって叫んだ。その人物はタユの流暢な英語を聞いて少し驚いたのか、すぐさま声を上げて叫び返してきた。

「ま、待て!もう、発砲はせんぞい!!」

 その声が響くとすぐに鉄の階段がカンカンと金属的な音を立ててその声の主が近づいて来ることを告げた。

「どうする?危険なヤツじゃないなんて保証は、これっぽっちもないぞ」

「でも、相手の方からやって来るんじゃこのまま逃げ出すことも出来ないし…」

 俺とタユが顔を見合わせて相談していると、両手を上げて白髪の老人が白衣姿で現れたんだ。
 薄暗い室内に姿を現したソイツは、白衣の下に水色のお洒落なワイシャツを着て、少しセンスの欠けたネクタイが解けかかるように首に巻かれていたし、ねずみ色のスラックスは所々にオイルでも付けたのかシミがまだらに出来ていた。
 どうやら、随分と長い間、この施設で働いていたんだろうってことは判った。

「ハハハッ…すまんね、年寄りになると何事にも臆病になってしまうんじゃ」

 声が僅かに震えていることに気付いたときには、白衣の爺さんの視線の先はタユが向けている銃口の先を捕らえていた。

「ジジィ、アンタは何者だ?」

 タユが油断なく顎鬚を蓄えている白髪の老人を見据えながら顎をしゃくると、爺さんは一瞬、タユの迫力に気圧されたのか、躊躇したようにジリッと後退ったんだ。
 そりゃあ、互いに油断の出来ない緊張した空間に居ることには間違いないんだし、俺たちも爺さんも、相手がどんなタイプの人間かも判らないんだ。ましてやヤツが、フィリップのような人種だったとしたらマジでヤバイじゃねーかよ。

「そんな怖い顔をするな、ほれ、ワシは銃も捨てるぞ」

 慎重にタユの動向窺いながらそう言うと、爺さんは殊の外あっさりと手にしていたハンドガンをガシャンッと重い音を立てながら鉄の床に投げ出した。
 この爺さんは、俺たちを油断させるつもりなのか?

「何を企んでやがる?」

「なーんにも、じゃ。それよりも、君たちの様子から察するに下層階からここに来たんじゃないのかね?」

 爺さんはわざとらしい惚けた顔に汗を滲ませながら肩を竦めてそう言った。

「…どうしてそう思うんだ?」

 タユが油断なく白髪頭の爺さんを見据えながら皮肉気に片頬を歪めて斜に構えて顎をしゃくると、白衣の爺さんは少し諦めたような表情をして首を左右に振って話し始めたんだ。

「ここの発電機は施設内の電力に異常をきたした時に自動運転を始めてそのトラブルを回避するよう設計されておるんじゃ。そして、ワシはこの施設内の動力源を生み出す装置の設計者でもあるから、君らがここに来たことによってピンときたんじゃよ…」

「じゃぁ、どうしていきなり発砲したんだよ?」

 タユは腕を組むと、白髪の爺さんに間髪入れずにさらに追求したんだ。
 爺さんはギョッとしたように瞠目したけど、すぐに肩を竦めながらそれでも消えるような声でゴニョゴニョと何かを呟いている。

「まあ、それは大目に見るとしてだ。ジジイはこの厄介な代物を動かすことが出来るってことなのかい?」

「無論じゃ。そもそも…」

 爺さんの語りが入ろうとするのを俺は焦ったように横から止めたんだ。
 冗談じゃない、長ったらしい説明なんか聞いてられっかよ!

「余計な説明は後で聞くから、とにかく早く起動させてくれよ!」

 俺はヒョイッと眉を器用に上げる爺さんの、その胸倉を掴みかかる勢いで詰め寄った。

「せっかちな奴等じゃのぉ。とにかく何をするにもあそこの制御室に行かん事には始まらんじゃろうよ」

 俺たちは爺さんが指差した方を見た。
 確かにこのフロアのどこにもこの装置を起動させるような端末は無い。

「まあ、お前さんがた。せめて自己紹介ぐらいはしてもいいんじゃなかろうかね?」

 肩を竦める爺さんに、どうやらその言葉に嘘は無いようだと思った。
 どうしてそう思えたかと言うと、俺たちに肩を掴まれた小柄なその爺さんは、背中を押されながら半強制的に制御室へと促されているにも拘らず、まるでとても嬉しそうに、そう心底嬉しそうに見えたからなんだ…

「で、どうして起動できないんだ?」

 汗を袖で拭きながら端末で必死に原因を調べる爺さんの背後から、低い声で唸るようにしてタユが苛々と腕を組んで首を左右に振っている。

「原因は起動プログラムに損傷があるようじゃのう…修正プログラムを呼び出してリペアさせるまでに時間が必要じゃよ」

「時間って、どのくらいかかるんだ?」

 矢継ぎ早の質問にも、爺さんが申し訳なさそうに言う。

「一時間から二時間と言うところじゃろうな」

「“じゃろうな”じゃねーだろ?早く何とかしろ!!」

 タユがしょぼくれた爺さんの襟首を掴んで持ち上げると、今にも食いつくんじゃねーだろうなと思うほどの胡乱な殺気を孕んでニヤニヤと笑ってその皺だらけの苦渋に満ちた顔を覗き込んでいる。いい加減、タユもキレそうなんだろう。
 いや、判らなくもないけど、それはちょっと爺さんの体力からして乱暴するのは拙いんじゃねーかなと…

「く、苦しい…若いモンはすぐに短気を起こしていかんな、人の話は最後までキチンと聞くんじゃ!!」

 そう言いながら苦しそうにしている爺さんを、俺は額に血管を浮かべてニッコリ笑っている不気味なタユから引き離したんだ。タユはすぐにそんなふざけた態度をやめると、まるで納得がいかないんだとでも言いたそうな顔をして俺を一瞬睨むとフンッと鼻を鳴らしてそのまま俺たちに背を向けて外方向いちまった。

「さっきも言っただろうが。ワシはこの施設の動力源を全て任されているアレックス・キーブスじゃ。こう見えてもその道のプロなんじゃぞい」

「ここで言うところの“ハカセ”ってヤツか?」

「ワシャ、専門家を博士と呼ぶかどうかまでは知らんがのう……まぁ、ワシのことはおいおい話すとして、先に起動方法を説明せんと後ろでヘソを曲げておる若造の機嫌が直らんじゃろうて…」

 そう言うとモニターにこの施設内の動力系統図を表示させた。

「このエリア以降と一部のセキュリティがメイン稼動している発電システムの太いラインで繋がっているんじゃよ。ここと…そう、ここじゃ」

 そう言うとビデオモニタにはその配線の詰まった管が何本も通っている先が映し出された。
 だが、何かしらのアクシデントでコンクリートの天井や壁が瓦礫となって配管を下敷きにしていた。それは素人の俺たちが見ても「こりゃ切断は免れないな」って思うような光景だったんだ。

「これが原因じゃろうなぁ。細かいセキュリティ系統は各フロアに別の手段で配管されているはずじゃから、電力を供給すれば…」

 アレックス博士がモニタを切り替えた。

「このゲートが開くと言うことじゃ。ここじゃろ?お前さんたちが進みたがっとる道と言うのは」

 背後のモニターには息を潜めた分厚そうな扉が映し出されていた。

「…」

 とても人間の腕だけじゃビクともしないんだろうなと思うその扉の、無言の威圧に言葉なく俺とタユは食い入るようにモニターを見つめていた。
 そうだ、でも。
 きっとあの扉の先に須藤と桜木が居るはずだ。一分でも、一秒でも早く出会う事を考えなくちゃな。
 そう、何もかもが手遅れになってしまう前に…
 息を殺して見守る俺たちの横顔を見ていたアレックス博士が、何かを感じたのか、それともこんな状況下からの当てずっぽうだったのか、目をショボショボさせながら呟いたんだ。

「…何やら事情がありそうじゃのう。どうしてもその先に進まなければならないことは痛いほど判る。判るんじゃが、ワシから言わせてもらえばこのまま引き返したほうが良かろうよ」

 アレックス博士はパッとモニタを制御画面へと切り替えると、呆然と、たぶん今の俺たちの姿って言えば迷子の子供みたいに頼りないに決まってんだろうけど、振り返りながら爺さんは俺の顔を見たんだ。

「引き返す?それはどういう意味で言ったんだ」

「この先のエリアがどういう施設かお前さんたちはちゃんと調べているんじゃろう?」

「うっ…」

 俺とタユは思わず顔を見合わせて、ほぼ同時に言葉を詰まらせた。
 正直なところ、殆どが『体当たり行動』ばかりで何も考えていない。
 考えている事と言えば単純に階を降りて行く事だけだったからなぁ…
 実際のところ、タユの行動には一連に洗練された部分があるから、きっとコイツは何か考えとかあって行動してるってことは判る。いや実際、もしかしたらタユにはアレックス博士が何を言おうとしているのか、本当は判っているんじゃないかとすら思える。今のタユは、ほとんどが俺に振り回されてるような状況だし…
 だが、そんな俺の視線をどう誤解したのか、タユは肩を竦めるだけで何も言おうとはしない。
 ああ、こんなことならタユの寄越した地図をもっとよく見ておくべきだったな。

「この先は、人体を使った試験…つまり、人間をモルモットに薬の研究を行うエリアに入るんじゃ。そこはな、映画や小説なんかで読むような甘いもんじゃないぞ。生きた人間が研究材料にされているんじゃからな。どうだ、ゾッとしない話じゃろう?」

「それでも…」

 俺は一瞬言い淀んで、それから首を左右に振ったんだ。
 人間をモルモット…そうか、あの時あの変態野郎が言っていた言葉は、強ち嘘ではなかったんだな。

「それでも、俺たちは進むしかないんだ」

 まるで遠くでも見るような、何かに思いを馳せるように双眸を細めた爺さんはやれやれと溜め息を一つ零した。

「危険を通り過ぎた場所に敢えて飛び込むようなマネが出来ると言うのも、若いうちだけの特権なのじゃろう」

 ついでのように苦笑いしながら、博士は俺たちの要望を満たすためにシステムの起動プログラムを修正し始めたんだ。

Act.34  -Vandal Affection-

 俺たちは結局、元来た道を戻らなければならなくなっちまった。
 タユは俺の速度に合わせてくれているのか、それともいつ化け物が出てくるか判らない…と言うか、あのフィリップがどうなっているのかも判らない場所に戻ろうとしているんだから、恐らく慎重に進んでいるに過ぎないんだろうけど、行きの速度じゃなかっただけ助かった。
 尋常な速さじゃないからな、タユの足は。
 階上に到着した俺たちは、須藤と桜木の姿を捜して漸く、もう見慣れちまったリノリウムの床が敷き詰められた通路にでたんだ。当時は真っ白だったに違いない壁も今は煤けていて、所々に茶色い染みが浮いている。それが何であるかなんて、なんとなくは理解していても、口にまでしたくはなかった。
 迷路のような通路を左、右へと曲がって走りぬけた俺たちの目の前に一つのドアが現れた。

 『資材庫通路入り口』

 俺とタユは顔を見合わせると、ゆっくりとドアの前に立った。喉が上下に動いて、お互いやけに緊張してるなとタユが自嘲めいた苦笑を浮かべて肩を竦めたりするから、なんだか余計に目の前にある新たな道への緊張感を駆り立てやがるんだ。
 ドアノブにタユの手が掛かる。

「ま、待てよ。無防備に開けたりすると大変なことにならないか?」

「…あのさ、コータロー。ここまで来てるんだぜ?何が出たってかまうかよ!」

 タユは一瞬、呆れたような顔をしてノブに手をかけたままで腰に空いてる方の片手を当てながら俺を振り返ると、馬鹿にしたようにそう言って慎重になっている俺を無視しながら一気にドアを開きやがったんだ!
 思わず身構えたけど、そこは研究室が幾つも並ぶ通路へと繋がっていて、両サイドには各部屋への入り口となっていたドアが顔を向かい合わせているだけだった。
 ホッ…としながらも俺は、ムッとしてタユを見た。

「いきなり化け物が襲って来たらどうするんだよ!?」

「いきなり化け物に襲われてるヒトミとヨシはどうしてるんだよ?」

 言い返されてウッと言葉を詰まらせていると、タユのヤツは肩を竦めるだけで腰に挿していたハンドガンを構えて歩き出した。
 予め、タユが手渡してくれていたハンドガンを握り締めながら、俺はその後を追うように一歩一歩、慎重に足を運んでいたが、緊張している感覚を刺激するような物音すら立つことはなかった。
 やがて俺たちの足がまたしても厚い鉄の扉の前で止まる。

「どうやらここがさっきの【資材倉庫】って場所の入り口のようだな」

 タユが俺の前に一歩踏み出して言った。

「ここに入れば須藤や桜木の情報が手に入るかもな…それに、武器の調達も忘れないようにしないと」

「全くその通りだと思うぜ、コータロー。賢いなお前」

 タユのヤツがニカッと白い歯を覗かせて嫌味っぽい笑い方をしながら、俺の方を軽く振り向いて頭をワシワシ掻き混ぜながらそう言うと、ドアのノブに手を掛けた。
 一々、なんかやたら気に障るヤツなんですけども…
 それでなくても髪の毛が脂っぽくなってるってのに、ワシワシされたままの形になっている髪を片手で払っていると重い音を立ててドアが開いた。
 ギッ、ギギィ…
 随分と時間が過ぎているのか、ドアは錆付いたような、軋んだ音を立てて入り口を開けると、意外にもそこは思っていた以上の広さと高さがある通路になっていた。さらに通路はその機能の特徴を生かしているのか、倉庫にもされているようだった。
 ま、資材倉庫って言うぐらいだから、倉庫になっていて当たり前なんだけどな。
 俺は通路に出てぐるっと辺りを見回したんだ。
 さまざまな物資が所狭しと貯蔵されていて、期待以上の収穫が物資面ではありそうだな。

「軽~くゾンビどもや怪しげな生物どもを蹴散らしてここまで辿りついた甲斐はありそうだぜ」

 ハンドガンを構えたままで、タユのヤツは自慢げにそう言った。
 まあ、タユがどんな経由を辿ってここまで来たのか、奴も教えてくれないから判らないけど、たぶん、俺たちと同じぐらいには、いや、もしかしたらたった一人だったんだから、コイツの方がよほど激戦を潜り抜けてきたんじゃないだろうかと思う。
 辛辣になっても仕方ないってことか?
 でも、辛辣ってワケでもないし…なんかこう、俺をからかってるような気がしなくもないんだが…

「アイツらの情報だけだな、タユ」

 俺が言うと「そうだな…」と、タユは突然トーンを落として呟いた。
 少し浮かない顔をしながら銃を腰に戻すと、タユのヤツはどこに隠し持っていたのか、周囲の気配に気を配りながら片膝をついて床にフロア構造図を広げてみせた。

「何だよ、それ?」

 タユの傍らに同じように片膝をついてしゃがみながら覗き込んでみると、ヤツが手にしているモノはどうやら設計図のようだと思えた。

「警備のゾンビが何かを握っていたからな、何かなってまあ、ちょっと拝借してきたのさ」

 ニヤッと笑って俺に答えるタユが、腕のポケットからペンを取り出して印をつける。

「これはここの地図だ。オレたちがまず目指す場所はこの自家発電機ってことになる。この図を見るかぎりだと、この先のフロアに設置されているらしい。少なくともコイツを稼動させない限り、ここ以降のフロアへ足を踏み入れる事が出来ない仕組みらしいぜ」

 そう言いながら地図を俺に寄越すと、スクッと立ち上がったタユが目を細めてその通路の先を見た。通路はストレートに伸びていて体育館などにある水銀灯のような照明ライトが規則正しい間隔で取りつけられている。その照明の光が広い通路で唯一の光源になっているのは誰が見ても明らかだったが、それにしたって明るさが足りないんじゃねぇのか?
 通常はここで多くの従業員達がストックされた薬品や資材などを大型のリフターやフォークリフトを使って取り出したり、収納したりしていたんだろう。だけど、今はそんな様子も人の気配も全くしない。ただ、シンと静まり返った雰囲気と冷たい空気が漂っているだけだ…

「いかにも何かありました…ってニオイがプンプンしてくるな。ここも相当ヤバイかも知れないぜ?」

「まぁ、こんな施設だし。何処に居たってヤバイんだろうけど…そんな事よりも『現場事務所』ってのがあるはずだ。そこに端末があれば何か判るかも知れないんだけど…」

 俺はそう言って近くの荷物に張ってある送り状を見ていた。普通ならば内部の人間に判るように現場事務所の場所が書いてあったりする。それを探っていると、タユが俺の腕を引っ張った。

「ヘイ!あそこに見えるあの小さいドアがそうじゃないのか?」

 確かに他よりも少し明るい感じの光がドアの隙間から洩れていた。
 答えを出すか出さないかと言う前に、タユは強引に腕を引っ張りながら歩きだしていた。
 確かに棚の1スペースをまるまる部屋のように仕切って造られたその空間は事務所の様になっていた。だが、事務所というにはさびしい感じだったがドアから覗いたその場所に置いてある物を見てその考えが消え去った。

「間違いない、ビンゴ!」

 タユはゾンビがいきなり襲いかかってこないか注意しながら、銃を構えたままでその部屋の中に入って行った。その後を追うようにして中に入った俺の目に飛び込んできた部屋の状況は…まるで突然何かにでも襲われたのか、机や部屋の床には書類が散乱していたし、壁には茶褐色の染みが大量に天井にまで飛び散っていてこびりついている。それは、誰が見ても血飛沫の跡だってのはよく判る、だが、どれも既に渇き切っていて生々しさは残っていなかった。

「この状況だと時間が随分経っているようだな…いったい何があったんだ?」

 タユが首を傾げながら辺りを慎重に調べ始めた。

「俺はこっちを調べる。アイツらのことや、武器が置いてある場所だけでも探っておかねぇと」

 俺はそう言って床の書類を拾い上げながら、その一枚一枚に目を通した。
 そして明かりの洩れるパーテーションで仕切られたスペースのドアを用心深く押し開けてみた。そこはシンと静まり返り、コンピュータのファンが回る音以外に存在をアピールしている物はなかった。正確には年代物の扇風機が首を振りながら、主の居ない点けっぱなしのデスクトップへと風を送る音もしていたが、何故だかそれがあまり気にならなかった。
 何気なく室内を見渡していると、その風に煽られてヒラヒラと数枚の書類が捲れ上がる姿が目に止まったから、俺はさほどそんなものは気にならなかったけど、まあ、何かの役に立つかもしれないと単純に考えてそれに手を伸ばしていた。

「何かの送り状みたいだな…【HR-9β版の搬出について】?」

 書類の見出しにはそう書かれていた。
 だが、どれを何個、箱数をどうすると言った指示書きしか載っていないその書類からはソレがどういった物で何に使われる物かなんかはまるでサッパリで、つまり、俺の知識ではそれ以上の情報をそこから検討することはできないってワケだ。

「これは関係無いだろうな…おっ、【弾薬庫への荷物移動依頼書】か、これだよ、これッ!」

 書類に書かれている文字は見出し以外に何も書かれていなかった。強いて言えば規則正しく並ぶ縦ストライプの線だけだったんだ。それに添付された小さな書類に扱い方が書いている。

『担当者各位

 新しい管理体制も導入された反面、入庫の品物も増えています。各人は別紙に記載された【バーコード】を各事務所に設置された端末で読み込ませ、書類を呼び出して作業を行って下さい。

                                                        資材部』

 書類の内容はこのバーコードをどう使うかと言うことだった。つまり、コイツは目の前の端末が使えないと意味が無いってことなんだろう。
 俺が机に置かれたスキャナでその書類に付いているバーコードを端末に読み込ませようとした、その時だった。
 カツカツカツカツカツカツ!!
 俺たちのいる事務所の横を何かが走り去るような気配を感じたんだ。
 いや、気配だけじゃない。
 そう、『音』がしたんだ。

「!?」

 咄嗟に俺は、パーテーションの上から顔を覗かせてタユを見た。
 音と気配。
 単純だがそれが却って今の俺の恐怖心を煽っていた。
 それでなくてもこんな状況下にいるんだ、研ぎ澄まされていく本能って奴が馬鹿みたいに警鐘を鳴らしやがるけど、それでも俺はできるだけ動揺しないようにタユを見たんだ。だが、どうやらタユもそうだったようで、涼しそうな顔をしているくせに額には薄っすらと汗さえ浮かんでいた。
 そりゃそうだろうな、その音は明らかに人間が複数で走ってるようなモノなんかじゃなくて、女のヒールから出る鋭い音の、いや、なんて言うかもっとこう、力が篭った音に似ていたからだ。

「今…何か通らなかったかい?」

 タユが暢気そうな口ぶりで俺に、そのくせ口許の端を引き攣らせて笑いながら聞いてきたんだ。
 俺はこんな音を以前、確か何処かで聞いているような気がしていた。
 だが、ここまでにあんまりにも色んなことが起こり過ぎていて、俺の頭はその音を思い出してくれないんだ。
 その問いは、なぜか俺の頭に浮かぶ僅かな可能性に光を灯していた。

「…いや、音しか聞こえなかった」

 そうだ、行方不明になっている博士たちに、そろそろ出会っても良い頃だ…とか、そんな夢みたいなことを考えていたからなんだろう。ただ、「根拠は?」とか聞かれちまうと答えに苦しむんだけど、俺はできる限りそうであって欲しいと考えていた。そうでなかったら、頭の隅で煩いほどがなり立てるこの警鐘の音を無視することができねぇんだ。
 だけどもちろん、俺には疑問があった。

<考えてみれば、女史はハイヒールを履いていたか…?>

 その言葉が、俺に新たな不安を抱かせやがる。

「タユは何か見たんじゃないのか?」

 タユのいる位置からなら何かが通った姿を、その下ろされたブラインドの隙間から視界に捕らえることができる筈だった。いや、だけど、それならタユは見たモノを説明するじゃないか。
 それに、それがなんであるかなんて判ればタユが即答で教えてくれるに決まってる。

「いや…まあその、何て言うかだなー…」

 奴は首を左右に振って見せる。
 だがその素振りから何かを目撃していることには間違いないってことが判る。
 タユ、何を隠してるんだ?
 やたら心臓の音が早くなって、俺は、一刻も早くこの場所から立ち去りたいような、奇妙な焦燥感に襲われていた。

「ああ、クソッ!冗談はよしてくれよな…これから、用が済んだらさっさと出ようって時に…ッ」

 俺は口ではそう言うものの、その時になってタユが手にしていたマシンガンの安全装置を外していることに気付いたんだ。
 完全に【気のせい】なんて言うおめでたいことはないんだな…

「今、データを…クソッ!急げ、急げッ…よし、メモした!」

 危険を感じていたんだろうタユの奴は、俺の傍に来ると、その言葉と同時に俺の手を掴んだ。だが、それ以上先には進まず、逆に今度はいきなり机の下に押し込めやがったんだ。

「なっ、何…ングゥ…ッ」

「シッ!静かにしてろッ」

 カツカツ……カツカツ……
 さっきの音がする。
 その音の主が僅かだが隙間の開いたブラインド越しに、確かに事務所の中を覗いているような気配を感じたんだ。咄嗟だったが、タユが俺を机の下に隠さなかったら今頃は鉢合わせになっていただろうと思う。パーテーションで区切られてはいるものの、端末の背面は通路に向かっていて、そこにある窓には他と同じようにブラインドが下ろされているだけだ。

「この直ぐ後ろに立ってやがるな…殺気がビリビリ肌を刺しやがる」

 引き攣った笑みを浮かべるタユの額には汗が浮かんでいて、呼吸も早くなっていた。
 俺が、タユを無条件に信頼してしまうのはこう言う時なんだ。
 実際、誰かの戦闘シーンなんてものにはお目にかかったことはねぇが、命懸けで戦う時、まあ映画の影響なんだけどな、人間て奴はこんな風に鼓動を早めながら息を殺して、相手の隙を伺いながら臨戦体勢に入るんじゃないのかな。その動作には無駄がなくて、たとえて言うなら野生の肉食獣が獲物を狙い定めている時のあんな感じ…と言えば納得のいく説明のなるのかどうか…よく判らねぇけど、まさにタユは今、完璧に臨戦体勢に入っているんだ。それこそ本能で相手の力量を感じているのか、やり過ごすにしろ戦うにしろ、どちらでも対応できる体勢に入っていたんだ。
 タユはもしかしたら、かなり場数を踏んだ奴に違いないって、俺の中の本能が教えてくれる。
 結構、嫌味な奴ではあるんだけど、コイツと一緒なら生き延びる可能性がジワジワと湧いてくる気がするんだ。
 タユと一緒なら助かる…そんな途方もない安堵感が。
 だけど、それでも今の俺にはとてもじゃないけど、口で説明できるような【冷静さ】なんて維持できる状況じゃなかった。
 薄い仕切りの一枚向こうに、どんな形状をしてるのかも判らないバケモノが獲物を求めて立っているんだ…想像しただけでもゾッとする。
 そのうえにだ、パソコンモニタ以外の照明が無い薄暗い部屋の壁に、ソイツの姿が影となって蠢いているのを見ちまった俺は、目を丸くして叫びたいのを必死に我慢して息を殺しながら無意識にタユの腕を掴んでいた。
 のっそりと現れたその姿は明らかに人間じゃなかった。
 しかも、それは人間の三倍は確実にデカイ。
 その影が獲物イコールたぶん俺たちを捜しているのか、ゆらゆらと左右に揺れていた。
 もちろん、生きている心地なんてしなかった。するワケがなかった。
 どんな生き物にしたって、その気で体当たりされちまえば俺たちに逃げ場なんかないんだからな。
 それでジ・エンドってこともありえるんだ。
 だからと言って俺とタユが持っているハンドガンなんかじゃ応戦もできないだろう。
 フィリップの落とした武器にしたって、タユが温存させていた武器にしても、弾数に自信がない。
 カツ…カツカツ……カツカツカツカツカツ!!
 息を殺して耐える俺たちとソイツが根気比べに入ってからどのくらい時間が経ったんだろうか、ソイツの方がシビレを切らせてこの事務所内を探ることを諦めたみたいだった。
 その瞬間、何事もなく事務所の前から離れて行く足音が耳に届いてきたんだ。

「ふぅ…行ったようだな」

「参った、突然だったから」

 タユの溜め息を項に感じながらガックリと脱力している俺の口許から手を離して、タユのヤツはやれやれと首を左右に振っているようだ。
 俺の心の奥に忘れかけていたここの常識的な恐怖心が蘇ってくる。
 不思議なことに闘っている時は自然にそういった感覚は麻痺しているんだけど、時間に間隔が空いたり、ほんの少しでも平和的な時間が過ぎてしまうと恐怖心がまた新鮮なショックを与えてくれやがるから参っちまう。
 そうだ、そうだった。
 ここはコンカトス半島で、でもってあの変態野郎のいるような研究所のど真ん中、化け物だってウジャウジャいるんだ。ああ、なんてこった。ここでは化け物が当たり前に徘徊しているってのに、俺って奴は…
 確かに仲間が増えたことで俺の心にゆとりができたことは否定しない。だけど、逆に須藤や桜木たちの行方が判らなくなっているんだ。それなのに、少なからずタユの奴が本格的な訓練を受けているような雰囲気を持っている人間ではないかと言う認識が、俺を危険な方向へと歩ませていたんだろう。
 それは傍にいることで俺の中に芽生えた『誰かに頼れる』と言う安心感。
 まるでタユに頼りっきりになろうとしているそんな気持ちで、まさか俺は、本気でこんな悪夢のような施設から生きて抜け出せるなんて、思っていたんじゃねぇだろうな。
 須藤たちを見つけ出せるって?
 ああ、そうか。
 何時の間にか【先頭に立つ人間が現れた】ことで、俺のなかに甘さが出てきちまったんだ。
 それが今回の一件でハッキリ判った気がする。
 立ち上がって額の汗を袖で拭いながら呼吸を整えるタユの、その横顔にはもちろん余裕なんて見えない。見えるはずがない。
 命の遣り取りに余裕があるなんて馬鹿なことを言うヤツだ誰だ?
 これからは、俺はもっと…

「…ヘイ!コータロー?何を考え込んでいるんだ」

 不意にタユが事務所のドアの前で外の様子を伺いながら俺に声を掛けてきた。

「あっ、えっと…いや…なんでもない」

「…なんだって構やしないが、考え事をしながらの行動はするなよ。命が幾つあっても足りなくなるぜ」

「あ、ああ、気をつけるよ」

 そう言って手に握っていたメモをジーンズのポケットに無造作に押し込んだ。いつのまにか床に置いていたハンドガンを片手に握り締めていた。

『佐鳥、コイツはお前が持ってろよ』

 須藤が不安を顔に出さないようにしながら俺に手渡した銃だ。

『お願い、最後は佐鳥くんしか頼れないから…』

『いや、俺は…』

 その銃に手を重ねながら桜木は俺の顔を見ていたが、彼女も敢えて不安の色を見せることなくニコッと笑うと『大丈夫、大丈夫!!』とガッツポーズをして見せた。
 須藤たちと一緒だった時の、きっとそれは比較的よくある光景。
 今思えば須藤たちに残してきた武器は僅かな弾数のライフルと、火災用に用意された斧と、もう、弾すらもないかもしれない小さなハンドガンだけだ。それだけであんな化け物がウロウロするこの施設の、しかもあの気が狂っていたフィリップが創り出したんだろう化け物どもと命からがらで戦っているのかもしれないんだ。
 そう思うと、急に胸が締めつけられる思いがした。
 奥歯をかみ締めながら拳を握り締めた俺は外の様子を窺っているタユに言った。

「タユ、先を急ごう」

「おい、今度はいきなり何なんだ?」

 俺は制止するタユを無視して事務所から飛び出した。

「やれやれだな。ホント、命が幾つあっても足りないってのはこう言うことだぜ」

 タユが呆れたように溜め息をつきながら首を左右に振って俺の後に続いて出てきたことなんか、まるっきり無視してその倉庫兼通路の長い距離を自家発電機のあるエリアまで走り出していた。こうなったらこっちから行動してやるまでだ。さっきまでここを何かがうろついていたなんてこた関係ないぜ。
 そう決心を決めた矢先に、小さく見える扉の前でヒョロッとした『何か』が立っていることに気付いて俺は、俺たちは足を留めたんだ。
 遠くで【カツカツ……】と言う音が響いている。
 その主は背骨がそのまま伸び出して長く尾のようになり、腕は昆虫さながらに4本へ増え、何よりも人間にはありえない体色がそれを証明していた。
 急にソイツがこっちに向かって走り出して来たんだ!

「ケケケヶ……誰かと思えばぁコータローじゃないかぁ…う、うひへへへ…ッ、さ、捜したよぉ、ぼ、ボクの可愛いおも、おもちゃぁ…」

 気色悪い笑みを浮かべたフィリップの顔がソイツの口からニョキと現れると、不気味に口許を歪めてヘラヘラと笑っていた。
 ただですら薄気味悪いフィリップのツラに粘液が滴っている様子は、遠く離れている場所から見ていても吐き気がしやがる。

「チッ!厄介な相手だぜ、全く。どうやら、あの蠍と融合したようだな」

 タユがそう言いながらハンドガンを構えた…けど、標的が近付くスピードと持っている弾数で仕留められないと判断したのか、タユのヤツは俺の首根っこをひっ掴んで逃げようとしたんだ。

「放せ、タユ!!」

 俺はタユの腕を振り払った。

「こ、このバカヤロウ!そんなオモチャで敵う相手じゃないんだぜ!!」

 タユ、悪いがここで後には引けないんだ。
 この先の発電機を動かさないと…武器輸送用コンベアが動かないってモニターに表示されていた。それに、先に進む道を塞いでいるオートロックも外せなくなるんだよ。
 どうしても…ここだけは譲れない!!

「ダメだ、タユ!!アイツを何とかしない限り、どっちにしたって俺たちは死ななきゃならなくなるんだ!それに須藤や桜木たちも自分を危険に晒しながら俺が来るのを待ってるに違いない!…何があっても、一歩だって引けるもんかぁ!!!」

 俺はフィリップを睨み据えてそう叫びながら走りこんで行く。

「んな…ムチャクチャだなッ、アンタ!」

 タユはそう叫ぶと尻餅を着くような勢いで反転して俺の援護にまわった。

「く、クククッ…馬鹿な連中だなぁ。この進化したボクの餌食にでもなりたいのかぁ~?ふ、くふふふ…いいよぅ、コータローぉ…!お、お前にはぁッ、人間と昆虫の融合が思っていたよりも悪くない事を教えてやるぅぅ!!」

 ヤツが持っているサソリ特有の鋭いハサミが俺を狙う。
 だが、距離を置いて援護射撃の準備をしていたタユが、ここぞとばかりに銃弾をフィリップの眉間目掛けて打ち込んだ。咄嗟に差し出した鋏で反射的に顔を庇ったことで、僅かだがこめかみを掠っただけでヤツの眉間を撃ち抜くことはできなかった。
 だけどそれで十分だ!

「オッサン、下がノーガードだぜ!!」

 難を逃れた俺は絶好のポジションでフィリップの股下へと滑り込んでいった。

「なっ、貴様ぁ!!」

 俺の勢いのある股の下への滑り込みに、フィリップは上から圧し潰そうとしたが、スピードの乗った身体が慣性の力でつんのめってくれた。

「くぎぃぃぃぃーーーッッ!!」

 甲高い悲鳴の様な声で叫ぶと勢い良く後ろから伸びた尾っぽの毒針を振り下ろしてきたが、構造上そっちには曲がらないんじゃないのか?
 思っていたように人間の構造で整形されたサソリの身体には欠陥が多いようだった。
 現に尾っぽも反対側に湾曲できない造りになっているし…結構、昆虫と人間の融合ってのもたかが知れてる感じだぜッ!

「ぐぞおおぉぉぉぉッ!!」

 するりと抜けた俺は一目散に後ろの扉へと駆け出した。

「ナイスだ、コータロー!!」

 ハンドガンをかざしてタユが尻上がりの口笛を吹くと、フィリップの眼光が俺からタユへと向けられたようだった。

「おのれぇ……お前らぁ…ぼ、ボクをバカに、バカにしやがってぇぇ…ッ」

「やっべ、今度はオレの番かい!?」

 ブンッ!!
 ガキッ!!!
 フィリップはジャンプする様にタユの前まで来ると、鋭いハサミの激しい攻撃でタユを仕留めようとしていた。タユは銃身で間一髪の所を受け流したがその威力まで防げずに後ろへと吹っ飛ばされる。

「おわぁっ!!!」

「タユッ!?」

 ゴロゴロと転がりながら後退するタユが口から赤い筋を零しながらゆっくりと立ちあがった。
そして俺に眉を寄せると【早く行け!!】と目線だけでジェスチャーを送って寄越したんだ。

「カーッ!!いいねぇ、いいぞぉ…お前たちぃぃ…!!実に美しい友情だ……実に……美しいぃぃぃ!!」

 フィリップは俺たちの間に立ちながら両手を真上にかざしてうっとりとした顔でそう言った。その間にヨロヨロしながらも、銃身をしっかりと構えたタユはチラッと横のレールに乗ったトロッコに視線を送っているようだ。そしてゆっくりとトロッコに背を向けたタユは銃でフィリップのヤツを狙う。

「死にやがれ、コンチクショウ!!」

 その弾はヤツの右側のハサミに当たっただけだった。
 それと同時に空いていた左側のハサミが鋭い勢いでタユを射ぬいた。
 …ようにこちらからは見えたんだけど、それは大きな間違いだったんだ。
 タユは咄嗟にバック転でハサミの突きをかわすと、そのままトロッコに飛び乗った!
 そして勢いのままフィリップがタユを乗せたトロッコを押し出す形になっちまったんだ。

「何だとぉ!?今度はお前までこ、このボクを利用するだとぉッ…ぐうぅ…許さんぞぉ!!」

 だがフィリップはそう言った後、ニヤッと笑いながら勢い良く飛び出したトロッコがずっと先まで進むのをジッと見ていた。やがて、タユを乗せたトロッコが終点まで着くといきなり車輪止めで止まり、勢いに乗っていたトロッコはそのままひっくり返ってタユを放り出しちまったんだ!
 な、何をしてるんだ、アイツは!?

「ひゃはははッ!一人、片付いちゃったぞぉ…」

 そう言って振り向くフィリップの足を何処からか現れた鉄のバーが薙ぎ払った。

「ウグッ!?」

 足を掬われたフィリップの呻き声が上がる。
 それと同時にモーターの回る音と機械の動く音が、広いが反響する室内に響き渡っていた。
 ウイィィィン!!ウイィィン!!
 俺の操る乗り物が床をワルツでも踊るように優雅に動くと、静かに後ろ向きにタユの方へと戻って行く。

「グググゥゥ……ッ」

 フィリップはまるで昆虫のような動きですぐさま起きあがると、耳障りな足音を響かせて俺を追いかけて来る。その形相は尋常じゃなかった…と言うよりも、既にヤツ自体の存在が異常なんだけど。

「クソッ、電動フォークじゃ追いつかれちまうぜ!」

 バッと俺を飛び越えたフィリップが行く手を遮るようにハサミを振りまわしたんだ!
 咄嗟に旋回してフォークリフトのアームでそれを払いながら後退した。
 フィリップの動きが速いお陰で、思った以上にヤツと張り合えそうだ。

「こ、このぉ…チョコチョコぉ…動きやがってぇッッ!」

 俺がチョコマカと小回りをきかせてヤツの右へ左へと動き回ると、ヤツが俺の動きを追いながらその大きなハサミを左右まとめて突き出すチャンスが訪れたんだ。
 待っていたんだ、この瞬間を!
 ドスッ!!
 アームに反らされたヤツの腕が、後ろの鉄板資材に突き刺さると抜けなくなっていた。

「この、この!!キィィィッ!!!」

 神経質な金切り声が上がる一方で俺は、フォークリフトに用意されていた端末であるモノを操作していたんだ。それはこの場所で、なくてはならないモノ。

「うまくいってくれよ…」

 ガコン!!
 ウィィィィィン!!
 聳え立つ棚の側面に据え付けられた移動式小型リフターが、レールを滑るように進みながらこちらへとやって来た。

「早く…頼むから早くッ!!」

 フィリップの動きを意識しながら祈るようにリフターを見上げる俺の耳に、嫌な予感を促す音が、まるで地獄の底から蘇える化け物の悲鳴のように聞こえてきたんだ。
 ズッ、ズズッ……
 フィリップの腕が僅かにだが抜け出そうとしている。

「抜けろ!!ぐぅうぅッ!ぬけろぉ!!!」

 狂っている…とは言ってもこの施設で働いていたエリートだったんだろうフィリップにも、俺の考えが読めたみたいで、その動きはいっそう激しさを増した。
 だが、その結果が訪れるまでに時間はそんなにかからなかった。
 ガッチャン、ゴクンッ!!
 フィリップの真上でリフターのゴンドラが止まったんだ。

「くぅ!よ、よせッ!うわぁ!よせ、よせぇぇぇッ!!」

 フィリップの声を無視するように俺は操作盤のキーを素早く押した。
 ガッ!
 【ヒュッ!!】という音と共にリフトのロックが解除され、レールが縦向きに変わるとストッパーの効かない荷台が落下してきた。
 そのスピードはジェットコースターより速い感じだった。

「ひいいいいぃぃぃぃぃっ!!」

 ズボッ!!
 瞬間に両手が抜けたフィリップが転がる様に床へと投げ出された。
 俺はどうなったのか一瞬理解できないでいたんだ。

「ウギャァァッ!!!」

 ヤツがヨロヨロと起きあがってその腕を見ながら悲鳴を上げている。
 両腕がスッパリと切断されていた。抜けたお陰で身体は無事だったが、代わりにハサミが犠牲になったってワケだろう…もしかしてチャンスなのか?
 ヤツの尻の毒針は左右から回り込める程のスパンはない。そのワケはフォークリフトのアームの長さが邪魔をして横へ回り込めないんだ。しかも、後ろから攻めようとしても戦車の様にその場で旋回できるこのフォークリフトのせいでヤツは後ろからの攻撃もほぼ封じられてしまっている。
 これなら、いけるんじゃねーのか?
 ドンッ!
 俺は勢い良くフィリップを突き飛ばした。
 そのままアームが刺されば良かったんだが、ヤツが残った腕でそのアームを掴んだせいで結果的には突き飛ばされた形になって床に転がった。
 俺はそのまま後ろ向きにタユが居るはずの場所へと全速力で戻って行く。

「タユのヤツ、死んでないだろうな…」

 ヒュッ!!
 俺の横を何かが通り抜けた。
 ソレはいきなり俺の眼前に迫る。

「や、ヤベェッ!!」

 俺はハンドルを回して急旋回しながら、レバーを動かしてアームを引き上げた。
 だがその動きを予測していたのかピョンとヤツがアームの上に登りやがったんだ!
 ズンッ!!
 ヤツの尾が俺の頭上にある天板に突き刺さるッ。

「クヒヒヒ…ッ!次はぁ、次はお前の脳天に突き刺してやるからなぁ~ッッ!!」

 ドンドンドン!!
 突然、フィリップの真後ろから銃声がした。フィリップの背中には数発の弾痕ができたし、それに驚いて戸惑った奴の隙をついて俺は急ブレーキを掛けてヤツを引き離すと、一気にレバーを戻して全速力でヤツのど真ん中に突き進んだんだッ。

「行けぇぇ!!」

「グギッ!?」

 フィリップは咄嗟に起き上がりながら両手を突き出して身構えた。だが、俺はアームを下げてヤツの足元に突き刺したんだ。

「なっ、なにぃ!?」

 グンッ!!
 フィリップは勢い良く掬い上げられると宙を舞うようにそのまま機械の上に用意された板の上へと落ちていった。

「何かと思えば…くくく、操作を誤ったかぁ?」

 何も知らないのかフィリップが余裕の顔で立ちあがる。
 だがその機械の本当の恐ろしさにヤツは気付いていなかった。
 俺はレバーを下げて動作範囲内にいる電動フォークを後退させた。その動きにフィリップも自分が立っている場所が、いったいどう言う場所なのかと言うことに、どうやら漸く気付いたようで、慌てて俺の方へ飛び出そうとしたんだ。

「タユッ!!」

 俺はそう叫んで機械の横に設置された操作盤の前に立っている人影に声を掛けた。
 その声に反応したフィリップの動きが、新たな敵の存在に一瞬だけ鈍ったようだった。

「さよならだな、オッサン!」

 俺の行動を予め予想していたのか、いや、あんな時にまさかこの機械を使うことまでは予想なんかしていなかったと思うんだけど…それでも何時の間にか現れていたタユが赤いボタンをガツンッと勢い良く叩くと、黄色い回転灯の光が騒がしく回り出して俺たちを交互に照らし始めた。
 ガコン……
 フィリップが我に返った時には既に鉄の柵が下ろされて、その場所から外へ出る事ができなくなっていたんだ。

「ま、まさか…こ、このクソガキがぁぁぁ!!」

 ウイィィン、ガッ!!
 機械のアームが瞬時にフィリップの身体を掴むと、別のアームがヤツの頭を掴んで天板の真ん中へと引き戻して行った。
 フィリップは足をバタバタとさせながら必死に抵抗を繰り返していたが、強引に抑え込まれるとゆっくりと天板ごと回転を始める。

「なっ、ヒッ、ヒィィイィィッ!!く、くそぉ~、コーダローぉ~ッッ!」

 そして、俺を睨み据えるフィリップの横から伸びたアームから、薄いラップが伸び出すのが目に入ると更にその悲鳴に悲痛さが加わった。

「アンタもこれでジ・エンドだ。まぁ、息もしないで生きていけるってのなら、話は別だがな…」

 タユが薄いビニールのラップを巻きつけられていくフィリップを見ながら呟くようにそう言った。
 俺はまるで繭のようになっていくフィリップを見ながらフォークリフトから降りたんだ。

「ウギュゥ……ギャァァ!!」

 ラップが終了すると、天板の溝にホースが刺し込まれて、内部の空気を抜き始めている。
 予想を反した動きだった。
 しかも、フィリップの身体が圧迫に耐えられずぶしゅぅ…っと身体中の体液と言う体液を撒き散らしてラップ汚していった…それだけでも中の様子が凄まじいことを物語ってるじゃねーか。
 もう、既に人間とも化け物とも見分けのつかなくなったフィリップの残骸…その、恐らく人間としての顔だった部分が萎んだラップにベチャッと張り付いて、どす黒い液体に濡れるラップにズルズル…ッと落ちながら目玉がギロッ…と俺を見た。
 …ような気がした。
 ギクッとして思わず片腕で自分を抱き締めたら、タユがそんな俺の肩を軽く掴んできたんだ。

「先に進もうぜ」

 気軽な調子でポンポンッと肩を叩かれて、俺は緊張と激しい動揺で詰めていた息を吐きだしながら、俺としては驚くほど素直にコクンと頷いていた。
 そうだ、こんな所で竦んでいるヒマは、俺にはないんだ。
 ヤツを倒したことで新しい道が開けた。
 これがここのルール。
 『生き抜く』と言う、それがこの厳しいゲームのルールなんだ…