Liar 3  -The Watcher-

「買い物に行きたいなら好きに行くといい。花屋でも、書店でも、何処へでも」

 翌日の少し遅めの朝、重い機材の入った鞄を肩に担ぎながら今日も仕事のグリフィンが呟くと、2人で飲むために淹れたコーヒーの満たされたカップを持ったままでジョエルはポカンとした。
 昨夜の子供っぽさはどこへやら、相変わらずの無表情でチラリとジョエルを見て、それからグリフィンは溜め息を吐くように淡々と続ける。

「綺麗なリネンのシャツでもネルシャツでも好きに着るといい。部屋の掃除も食事の用意も、なんでも好きにするといい」

「食事の用意は困るな。料理は下手くそなんだ」

 クスッと苦笑して、手にしていたカップのひとつを窓辺のテーブルに置くと、無表情のままで立ち尽くすグリフィンに、取り敢えずコーヒーでも飲めよとカップを差し出した。

「…迷えばオレが迎えに行く。オレを必要とするなら何時間でも付き合ってやるよ」

 温かなコーヒーを受け取って湯気を見詰めながら呟くグリフィンの申し出に、ジョエルは肩を竦めて素直に頷いた。

「もう、俺が逃げないと思っているのか?」

 意地悪く聞いてみると、グリフィンはムッとしたように眉を顰めはしたものの、不意に意地悪そうな顔でニヤリと苦笑してみせた。

「逃げたければ逃げればいいさ!ジョエル、あんまり傍に居すぎたせいでオレはすっかり忘れていたんだ。好きなだけ逃げるといい、オレは何処へだってお前を追いかけて行くだけさ」

「はははっ、そうだったな」

 スモッグに汚されているはずの清廉な朝日が室内を明るくするシカゴの朝。
 窓辺に凭れると腕を組んで声を立てて笑うジョエルの姿にグリフィンは双眸を細めて、それから、彼の淹れた苦いコーヒーに舌鼓を打つ。
 こんな素晴らしい日常の日々が訪れるなど思ってもいなかった。
 自分と居ることでジョエルすらも闇の世界に引き摺り込もうとしていたのに、彼は彼が持つ本質の部分で、確りと自我を確立していたではないか。
 グリフィンが必要ないと思っていたはずの光の中で、ジョエルは確りと踏み止まって、闇しか見えていなかったグリフィンを優しさと言う光で包み込んでいる。
 グリフィンはもう二度と、この存在を手離すことはないだろうと思った。
 たとえ死がジョエルから自分を引き離したとしても、地獄の底へ追いかけて行くのも悪くなければ、地獄の底で待ち続けるのもまた、悪くないと思ったのだ。

「じゃあ、またな」

 空になったカップを傍らの本棚の上に置いてから、グリフィンは機材の鞄を抱え直して、それから部屋から出て行こうとした。

「ああ、気を付けて」

 その背中にあれほど聞きたいと思っていたジョエルの声が響いて、グリフィンは冷たい外気を肺に吸い込みながら瞼を閉じて微笑んで扉を閉めた。

 グリフィンが立ち去った部屋は朝陽が射し込んでいると言うのにどこか寒いようで、ジョエルは少し温くなった苦いコーヒーを飲んで顔を顰めた。

「アイツはこんな苦いコーヒーをよく平気で飲んだな」

 自分で淹れたくせに、その不味いコーヒーに悪態を吐いて、それからふと、ベッドサイドに置かれている小さなテーブルの上の一輪の花に気付いた。
 それはグリフィンが数時間しか眠れない恋人に残したメッセージなのか、いずれにせよ、ジョエルは彼の気障な演出に盛大に照れてしまったようだ。

「俺は男なのに、こんなことをしてくれても意味がないと思うんだが…まぁ、嬉しいと感謝ぐらいはするだろうよ」

 頬を染めて苦笑したジョエルは、その黄色が美しいダッフォディルを手にして窓辺に赴くと、新しく入ったのか笑顔の可愛い少女が店先の花の手入れをしているのを見下ろした。
 エキゾチックな黒髪の青年はどこかグリフィンに似ていて、どうしても認めたくはなかったはずなのに、子供のように純真だからこそ人殺しと言う悍ましい行為を平気で遣って退けてしまうあの綺麗でこの上なくキュートな男がいない寒々しい部屋の中があまりに寂しくて、彼を見つめることが日課となってしまっていた。
 グリフィンが嫉妬するような感情は抱いていなかったが、ともすれば、グリフィンがジョエルに対する執着のような感情は微かにあったのではないかと自分に問いかけてみた。
 闇のようなグリフィンにはない陽気な青年は人当たりが好く、花もそこそこ売れていたように思う。グリフィンが抱えているような闇は持っていなくて、もし、そうだ、もしグリフィンが一抹の翳りもなく、あの青年のように陽気で暢気に暮らすことができていたとしたら…彼を見詰めながらそんなことをずっと考えていた。
 そんなことはもう有り得はしないのだが、それでもジョエルは考えずにはいられなかった。
 もしグリフィンが稀代の殺人鬼だなんだと噂されることもなく、どこかの田舎で平凡な人生を送っていたとしたら、他の青年たちと同じように笑って騒いで…そんな当たり前の生き様だったとしたら、彼と自分が出会うことなど有りはしなかっただろう。
 たとえば花屋の店先でエキゾチックな笑顔を浮かべて花を売っていたとしても、それはそれで随分様になるし、人殺しなどと言う悍ましい世界からは隔絶されて、彼の持つ独特な純真さで幸福な日々が訪れたのではないだろうか…そこまで考えて、ジョエルは途端にゾクリとした。
 いや、それは全てまやかしにすぎない。
 グリフィンは身内に悍ましい闇と滴るような狂気を抱えているからこそ、ディヴィッド・アレン・グリフィンと言う独りの人間として確固たる存在を主張しているのだ。
 そして必然と言う運命の中で、ジョエルとグリフィンが出逢うことは確定していたに違いない。そうしたのはグリフィンで、彼の絶対的な意志の強さがそれを具現化したのだろう。

(グリフィン、彼はその重大な部分が決定的に違ったんだよ。だからこそ俺は、彼を見続けてお前を想っていたんだ)

 まるで光と影のような二人の存在は同じ面差しを持っていると言うのに、グリフィンの持つ魔性の魅力も純真な面差しも何もかもが稀有だと言うことをジョエルに見せつけ、そうしてジョエルにとっても世界にとっても、彼がどれほど奇跡のような存在なのかを物語っているように思えていた。
 人間の持つ悍ましさも、世界に渦巻く醜さも、何もかもを内包していると言うのに、グリフィンは純粋で一途で子供のように真っ白なのだ。
 そんなグリフィンの強烈な印象を体内に刻み込まれていると言うのに、どうして自分があの青年に惹かれるなどと、あのグリフィンが嫉妬までして思い込んだのだろうか。
 全て、グリフィンの取り越し苦労だったと言うのに。

(グリフィンから見て、彼の存在はそれだけ脅威だったのか…ともすれば、自分にない光の部分に俺が惹かれて、いつか離れて行くと思い込んじまったのか)

 窓辺に凭れたままでジョエルは瞼を閉じて溜め息を吐いた。
 運命のようにグリフィンに絡め取られてしまったこの心神耗弱に喘ぐ身体も心も、どこを取ってみても光の入り込む余地などはないのだ。それどころか、隅々までグリフィンに浸食されて、そのまま、永遠の闇の中に堕ちてしまってもいいとすら思えている自分が不思議で仕方ないぐらいだ。

(いつからだろう、グリフィンを想うようになったのは…切欠はきっとあの青年だったに違いない)

 暗いブロンドの睫毛に縁取られた瞼を開いて、深い海のような蒼の双眸に黄色の可憐な花が映し出される。
 何事かを物語るように、いっそ何も語らないように。

「グリフィン、お前は知らないだろうけど。俺はお前を確かに愛しているよ」

 可憐な花びらにそっと唇を寄せて、清廉な朝の陽射しの中で、ジョエルは何かに祈るように口付けた。

 

『…未明にシカゴ川で発見された遺体は身元不明で…』

 喧噪の雑踏の中をジョエルとグリフィンは連れ立って歩いていた。
 キャブは客を取る気などさらさらないようにクラクションを鳴らして先を急ぎ、行き交う人は他人など気に留めている様子もない。街角のショーウィンドウの中では、今日もどこかの哀れな被害者の情報が垂れ流しとなっている。
 そんな大都会の中にあっては、既に死人と化した元FBI捜査官や殺人鬼の存在など誰も気にすることはないのだろう。

「今夜は何を食べるんだ?」

 グリフィンが紙袋を抱えているジョエルを見下ろして尋ねると、少し不安そうな面持ちで周囲を見ていたジョエルはハッとしたような顔をして、それからグリフィンを見上げると幾分かホッとしたように笑った。

「ああ、そうだな…できれば久し振りにベトナム料理が喰いたいよ」

「ベトナム料理だって?!」

 同じく紙袋を抱えていたグリフィンは素っ頓狂な声を上げるが、注目を浴びても浴びなくてもお構いなしなのか、うんざりしたように肩を竦めている。

「冗談はやめてくれ。あんな不味いものをよく好んで食べられるな」

 心底からうんざりしているのか、グリフィンは聞くんじゃなかったと言いたそうな表情で整っている眉を顰めている。彼がそれほどまでにベトナム料理を嫌っているとは思わなかったジョエルは、からかうつもりなどないのだが、いや充分そのつもりでつい興味本位で言ってしまった。

「案外、旨いんだぞ。そうだ、今度ベトナム料理の店に行かないか?」

「…それを本気で言っているのなら、例のベトナム料理店にはホリスが張り付いていると言ってやる」

 不機嫌そうに唇を尖らせるグリフィンから懐かしい名前を聞いて、ジョエルはそうかと頷いた。

「元気にしているんだな」

「殺したって死なないだろ」

 もちろん、グリフィンがその気になればホリスをも抹殺することは可能なのだろうが、敢えて必要のない殺人を犯すほど彼は暇ではない。但し、何らかの形でジョエルの気持ちが傾くのなら、それは見逃すことのできない罪なのだから、罰するのは致し方ないのかもしれないが。

「オレはあんな不味いモノを食べるぐらいなら、お前の作ったアンチョビとモッツァレラのパスタの方がいいよ」

「なんだって?!」

 6人中5人が不味いと言って吐き出したあのパスタを…そう言えばと、ジョエルは思い出した。
 グリフィンが料理上手の美食家であることは、彼と暮らし始めてすぐに判っていた。だが、気紛れにジョエルが作る料理の大半を文句も言わずにペロリと平らげるし、苦いコーヒーも好んで呑んでいるのだ。

「なんだよ」

 ムッとして見下ろしてくる長身のハンサムを、日頃は無関心で通り過ぎる老若男女問わずがこんな時ばかり振り返ると、その頬に酷い火傷の痕を認めて不意に憐れむような顔をするのがジョエルには気に喰わなかった。

「あんなモンは飯じゃない。ベトナム料理に失礼だ」

 本気で申し訳なさそうに言うジョエルに対して、グリフィンは本気で理由が判らないと言う顔をして首を左右に振っている。

「オレは旨いと思うけどな。まあいい、判ったよ。そんなに言うのならオレがフォーでもチャオでもバインセオでもなんでも作ってやる」

 買い出しに出ていてベトナム料理とは関係のない食材を購入していると言うのに、グリフィンの負けん気の強さと、その性格のせいなのか、思った以上に詳しいことも相乗効果で今更ジョエルは吹き出してしまう。

「お前は、ほんと負けず嫌いだよな…じゃあ、まずは何を買えばいいんだ?」

「スマートフォンを持っているだろ?ベトナム料理の材料を揃えている店を検索してみるといい」

 グリフィンが促すように言うとジョエルはそうだったと呟いて、それからグリフィンから迷子になった時に使うようにと渡されている、スマートフォンを取り出した。インターネットにも接続できて電話もできると言う優れものの機種に、あまり馴染めていないジョエルはもたもたとタッチパネルで操作しているが、別にグリフィンは焦ることもなくジョエルごと端に避けながら待っている。

「…こんな検索をしなくても、アーガイルに行けばいいんじゃないのか?」

 上手くタッチパネルで操作できない不器用なジョエルは、暗いブロンドの髪を掻き揚げながら苛々したようにグリフィンを見上げたが、長身の暗い色の髪を持つハンサムな青年は、そんなジョエルの手許を覗き込みながら意地悪く微笑んだ。

「ジョエル、判っていても慣れるために検索してみればいいじゃないか」

「俺はお前ほど利口じゃないんだ。ベトナム料理はもういいよ」

 さっさとスマートフォンをコートの内ポケットに仕舞ったジョエルが不機嫌そうに外方向くと、いよいよ楽しそうにグリフィンがにんまりと笑うのだ。

「なんだ、諦めが早いな。じゃあ、今夜はオレがフルコースでも作ってやるさ」

 からかうつもりが逆に丸め込まれてしまったジョエルは些か不機嫌そうではあるものの、最初からそのつもりだったくせにと内心で毒づきながら、それでも仕方なさそうに肩を竦めてみせた。

「ああ、その方が安心して帰れるな」

 片手に紙袋を持ったまま、片手でグリフィンの背中を軽く叩くと、彼は大袈裟に痛がるふりをしながらも楽しそうに声を立てて笑っている。

「そう言えば、ダッフォディルの花言葉ってなんなんだ?」

 楽しげに笑っているグリフィンを仕方なさそうに苦笑して見上げていたジョエルは、ふと、今朝置かれていた可憐な一輪の花を思い出して首を傾げた。

「え?そんなモノは知らないさ。綺麗な花だったから買っただけだ」

 稀代の天才殺人鬼と世の中を震撼させたグリフィンのことだから、何らかのメッセージを含ませて花を贈ってきたのだろうと思っていたのだが、どうやら今回はあの黒髪の青年を遠ざける片手間に気紛れで買ってプレゼントしただけのようだ。

「へえ…じゃあ、スマートフォンで調べるか!」

 とは言え、それだけで信じてしまうには、この純真が服を着ているような真っ白でキュートな、身内に悍ましい狂気を宿したグリフィンの狡猾さを充分思い知っている身としては一抹の不安が残る。

「…やめておけば?また帰りが遅くなっちまう」

 使い始めたばかりのスマートフォンに興味を示しているだけと思ったのか、やれやれと首を左右に振りながら肩を竦めるグリフィンの態度に、どうやら本当に他意はなかったのかとジョエルは素直に頷いた。

「ああ、それもそうだな」

 疑ってしまって申し訳なかったなと思いながら、ジョエルは話題を変えようとベトナム料理が如何に旨いかをとくとくと説いてグリフィンをかなりうんざりさせていたが、時折入るグリフィンのツッコミに彼は言葉を詰まらせて、そうしてそんな他愛ない話に二人は声を出して笑っている。
 二人を取り巻く喧騒は相変わらずで、大都会の中、まるで何事もないかのように既に死者となっている元FBI捜査官と殺人鬼は楽しげに連れ立って帰途についた。

『…今回の事件はシカゴを震撼させたシカゴの絞殺魔と呼ばれている、数年前に死亡したデイヴィッド・アレン・グリフィン容疑者を模倣した模倣犯であるとシカゴ警察本部は断定し、被害者の身元の究明を急いでいます。情報がありましたら下記の連絡先まで。続きましてハリウッドスターの…』

 ショーウィンドウの中の液晶ディスプレイからは、相も変わらず、身元不明の被害者の情報が垂れ流しになっているが、誰一人として足を止める者もなく、件のニュースでさえ電話番号も似顔絵も即座に消して、下らないゴシップニュースに力を注いでいる。
 そんな悍ましくも醜い光り輝く大都会の中で、グリフィンは大切なジョエルと共に生きてゆくのだろう。

 

「花が欲しいんだ」

 まだ夜明け前の朝靄の中から夢のように現れた、頬に火傷の痕がある、豪く整った綺麗な顔立ちの青年が指し示した指先にあったのは黄色いダッフォディルだった。

「ああ、何本必要なんだい?」

 自分と同じような黒髪のエキゾチックで綺麗な青年は、少し考えるような素振りをしてから、誰かを幸せそうに思い浮かべてでもいるのか、口許に小さな笑みを刻んで頷いた。

「1本でいいんだ。ただ、オレはこれから仕事だから指定の場所に配達してもらえるかな?もちろん、配達料も支払うよ」

「お安い御用さ」

「じゃあ、ここに。夕方頃に届けてくれると助かるよ」

 一枚のメモを寄越した彼が静かな笑みを浮かべたままで支払いを済ませて姿を消したのは午前6時前のことで、約束の暮れなずむ夕刻に黒髪の花屋の青年が訪れたのは崩れ掛けたアパートの前だった。
 あんな綺麗な青年が住むにしてはあまりにも不釣り合いなその風貌のアパートに一瞬怯みはしたが、生来の人の好さで、彼はあまり気にせずに階段を駆け上がって指示された部屋に辿り着くと、どうやら住人は既に在宅しているようだ。

「すみません!遅くなりましたッ、ご注文の花を持って…」

 彼がドアをノックして声を掛けていると、誰何の声もなくゆっくりと扉が開いて、どこか遠い場所にいる人のような雰囲気を持つ、朝とは打って変わって奇妙な色気を醸すあのエキゾチックな青年が、何か見てはいけないモノのような、退廃的な魔性の面立ちでニッコリと微笑んでいた。

「やあ、待っていたよ」

 部屋の中から不思議な音楽が聞こえている。
 注文主はお茶でもいかが?と彼を誘い、まるで魅力的な炎に群がる真夏の虫のように、一本のダッフォディルを携えた青年は導かれるままに室内に吸い込まれるようにしてふらふらと入って行く。
 ドアが閉まるか閉まらないかのところで美しい殺人鬼の声がした。

「ダンスを踊らないか?」

─END─

Liar 2  -The Watcher-

 気難しいモデルのお相手に向かったグリフィンを見送ったジョエルは、ふと、自分が昨夜の情事の名残りを濃厚に留めた素肌を晒していることに気付いて目を瞠った。
 グリフィンは仕事のない時はいつだって傍にいて、セックスをするか、或いは他愛のない会話を楽しもうとする。だが、その都度、あの天使のように清廉無垢な面立ちの死神は、身体を繋げていない時は決まって、ジョエルを大事そうに背後から抱き締めていた。
 グリフィンがセックスをする時は即ち彼が何かに反応し昂ぶりが最高になったことを意味している。
 たとえば、ジョエルがささやかな弱音を素直に漏らす時、強請られて、仕方なく愛の言葉を口にする時、その全てに於いてグリフィンはジョエルが抗おうと彼の全てを飲み干そうとするように抱くのだが…

(昨夜はそうか、怒らせてしまったな…)

 ギシッとベッドを軋ませて立ち上がったジョエルは、自由の利かない左足を引き摺りながらあの鉄壁のように完璧な殺人劇を繰り広げた張本人とは思えないほど、無造作に物が散乱している床を確かめるように踏みしめて窓辺までのろのろと歩み寄った。
 意のままにならなければ子供のように癇癪を起すグリフィンは、その怒りの衝動を破壊や殺しからジョエルの身体に激情を刻み込むことに変え、それに満足するようになっていた。
 激しく抱かれた朝は腰の鈍痛が酷いが、今朝には壊れたような純真の微笑を浮かべていたのだから機嫌はどうやら良くなったようだ…が、それでも一抹の不安を覚えてジョエルは無意識に親指の爪を噛んでいた。
 ほぼ全裸の出で立ちではあるが、窓辺に凭れて見下ろした先、件の花屋がけぶるような朝もやの中、早くから開店の準備を行っているようだ。市場から届いたばかりの瑞々しい花を黒髪のエキゾチックな面立ちの青年が並べているのが見えた。

『毎朝、何をそんなに熱心に見ているんだ?』

 グリフィンは他愛のない会話を好んだし、ジョエルも彼の話を聞くのは不愉快ではなかった。
 唐突な質問もいつものことだったが、何故かこの時、彼はその質問に答えたくなかった。 長らく彼の脳細胞を侵していた薬が齎す闇の指先は、清廉な朝の光も、蹲るような夜の闇も、世界の美しさも醜さも全て綯い交ぜした人間の惨たらしさも何もかも、とてもよく似合う殺人鬼の抵抗によって少しずつ破壊されていた。
 だからこそ、説明のつかない感情をグリフィンは理解してくれなかった。
 酷い癇癪を起して着ていたバスローブを無残に引き千切り、まるで嵐の中に捕らわれてしまったように激しく抱かれた昨夜を思い出して、ジョエルは微かに眩暈を覚えた。
 ましてや、体内に残った血液混じりの残滓が素足に垂れてしまえば、そんな浅ましい自分の姿に舌打ちしか零れない。

(そんな風にされても、もうアイツを憎んでいない俺もどうかしている…)

 腕を組んで溜め息を漏らし、そろそろ目覚め始めた街は朝靄の中で何事もない日常の顔を覗かせ始めていた。ジョエルは隔離されてしまったこの非日常の世界から、羨むようにそんな街並みを見下ろしていた。

 血の匂いがする。
 玄関の扉が開いて真っ先に感じたのはその思いだった。

「グリフィン…」

 思わず口を開いてしまうと、気難しくて辟易するチャーミングなモデルのお相手にうんざりしたような顔で戻ってきた、この部屋の、いや、今やジョエルの支配者であるストイックでエキゾチックな美しさを持つ、痛々しい火傷の痕を惜しげもなく晒すグリフィンが形の良い眉をひょいっと上げて見せた。

「どうかしたのか?」

 ただいまもなく、口元を歪めて嗤うその仕種に、図らずもFBI時代に培った捜査官の勘がむくりと不穏に首を擡げてきた。

「…どうかしているのはお前じゃないのか?」

 清潔な淡い青色のリネンのシャツに洗いざらしのジーンズ姿のジョエルをグリフィンは物珍しそうに繁々と眺め、肩から下げていた機材の詰め込まれた重そうな鞄を床に降ろしながら首を傾げて見せる。

「オレが?どうしてそう思うんだ」

 思惑の窺えない無表情で着ていたコートを先ほどジョエルが時間をかけて掃除した床に脱ぎ捨てながら、暗い色の髪を掻き揚げて、不穏に揺らめく淡々とした双眸で見つめられてしまうとジョエルは無条件でコクリと息を呑んだ。
 だが、ここで怯むワケにはいかない理由がある。

「元FBI捜査官の勘だ」

 脱ぎ捨てた闇色のコートを拾い上げながら呟けば、途端にグリフィンの剣呑とした表情が和らぐ…とは言え、それは一過性のもので、長身の美丈夫は相変わらずの無表情で肩を竦めて見せた。

「へえ、それで?オレがどんな具合でおかしいと思うんだ?」

 あくまでもジョエルに答えを導き出させたいと考えているのか、グリフィンはヒントすら与えずに真摯に見つめてくる。

「お前は俺に嘘を吐いているだろう」

 居た堪れなくなって目線を伏せながら呟くと、途端にグリフィンの感情が爆発してしまった。

「嘘だと?!」

 突然のことに、漸く薬が抜けようとしている身体とは言え、長いこと心神耗弱状態にあった彼の思考回路はグリフィンの激情に追いつくことができず、まるで嵐にでも攫われるように突発的に激しく壁に押し付けられて両腕を拘束されてしまうと、その行動だけで呆気に取られてしまうしかない。
 反撃する余地はないのだ。

「……ッ」

 言葉を出すことができずに僅かに喘ぐように息を漏らすジョエルの顔を覗き込んで、グリフィンは忌々しそうに整っている柳眉を顰めている。その暗い激情を宿した狂気の瞳を見詰めれば、どうやら自分は踏み込んではいけない彼の地雷の上を踏み締めてしまったらしいと気付いた。

「このオレがお前に嘘を吐いていると言うのか?!…こんな、いつもは着ることもない服を着て、お前こそ何処に行こうと企んでいるんだ!!?」

「…え?」

 ギリギリと掴まれている手首への力は抜けず、とは言え、ジョエルは驚いたように歯軋りするように癇癪を起す子供のようなグリフィンに首を傾げてしまった。

「花屋だろう!オレが知らないとでも思っていたのか?男を知らない身体だったくせに、オレに抱かれて他の男が欲しくなったんだろうッ」

 思わずカッとくる発言であるはずなのに、長らく薬の虜になっていた脳みそはその言葉に反応することはなく、それどころか、ジョエルはグリフィンが斜め上の考えでもって嫉妬していることが不思議で仕方なかった。
 ただ単に、いつものだらしないバスローブ姿でいつまでも仕事帰りのグリフィンを迎えるのも、それこそが何やら退廃的で陰鬱な気がして、部屋を掃除して小ざっぱりして、たまには元気に彼を迎え入れてやろうと考えた思いが、どの辺りでグリフィンの気に障ったのかさっぱり判らないのだ。
 もしくはグリフィンとしては、ジョエルのバスローブ姿が気に入っていたのだろうか。

「…お前は何を言っているんだ。どうして俺がお前以外の男を欲しいなんて考えるんだ?」

「お前がッ!」

 掴んでいた腕を離して、両拳を握りしめてダンッ!と力任せにジョエルの頭を挟んだ両脇の壁に打ち付ければ、ともすれば古いアパートの壁など造作もなく穴が開いてしまうのではないか。
 恐怖に麻痺している脳は恐ろしさも感じず、ただただ、いつもは冷静沈着で飄々として、物事の機微になど一切関心を持たないグリフィンの、そのたまに起こる理解不能な癇癪、彼の唯一の感情の発露がジョエルには何故か嬉しくて、暗い焔の宿る双眸を見詰めながら眉を顰めていた。

「毎朝熱心に見ていただろう!だから今朝、花屋の話をしたんだろ?!花屋の男のどこがいいんだ!?さあ、言えッ」

 唐突に顎を掴まれて凄むように覗き込まれても、ジョエルはやはり何にグリフィンが腹を立てているのかがよく判らないでいる。
 しかし、息がかかるほど近くに、少し動けば容易にキスすらできる距離で凄まれるのは、その時になって漸くジョエルはグリフィンが本気で腹を立てて癇癪を起しているのだと言う事実に気付いて瞠目してしまった。

(そうか、本当はまだ昨夜のことを引き摺っているのか)

「馬鹿なヤツだな、お前は」

「なんだと?」

 不意にワントーンは低くなった声音と、頬に火傷の痕が残るとは言え綺麗に整った面立ちには凡そ似つかわしくない不穏な表情を孕んで、グリフィンはジョエルの顎を押さえつけたままでますます剣呑と彼を睨み据える。

「あの花屋を見ていたのは…ッ」

「?」

 そこで思わず息を呑んだのは、自分がどうしていつも花屋で懸命に働いているあの青年に興味を持ったのか、自覚してその事実に怯んでしまったからだ。
 認めるには随分と勇気が必要だったが、今更、この壊れかけた心身を心から必要だと言うグリフィンに、自分が恥じることなどもう何も有りはしないと気付いてジョエルは思わず笑ってしまった。
 その仕種に、グリフィンがますます憤りを持ったとしても、ジョエルは気にならなかった。それどころか…

「あの青年がお前に似ていたからだよ」

 ふと、優しい気持ちになってジョエルは腹立たしそうなグリフィンの片方の頬を掌で包み込んだ。

「顔とか全然似てないんだがな。なんと言うか、直向きで、素直で…そんな仕草を見ていると、離れていてもお前を傍に感じているような気持ちになっていたんだ」

「…え?」

 少し面食らったように双眸を瞬かせたグリフィンは、それまでの険悪な表情を引っ込めて、次いで、何が起こっているのかいまいち判らないと言いたそうな、少し不安そうな顔をして、握りしめていた拳を開くと恐る恐る苦笑するジョエルの頬を両手で包み込んだ。

「なんだって?」

「…ったく、とうとう言わされてしまったな。花と同じだよ。花屋に並ぶ花は先入観や思い込みでいつも同じだと思ってしまいがちだが微妙に違う、少しずつ変化がある。だが、根幹は一つなんだ。花は花。お前はお前だっていつも花屋を見て感じていたよ。彼を見てお前を思い出しても、彼はやはりグリフィンではなく彼なんだ。だから、お前が帰って来る度にそれは紛れもなくグリフィンで、だから俺は嬉しいと感じるんだろう」

 ジョエルにしてはやけに長く話していたが、彼にとってそれは照れ隠しに過ぎなかったのだが、グリフィンには違うように感じ取れていた。
 それは、彼がいつも強請って与えられていた上辺だけのものではない、ジョエルからの、真心の籠った、それは愛の告白なんだろう。

「オレを愛しているのか?」

 ふと、身体を重ねる度に、他愛のない話の合間に、幾度となく確かめるように口にしていた言葉がグリフィンの唇から零れ落ちていた。
 熱に浮かされて、或いは、冗談に紛れて曖昧に返されていた返事で、元は誰かのものになってしまっていたジョエルなのだから、その言葉だけで満足なのだろうと諦めていたグリフィンは、ジョエルには信じられないだろうが、否定される恐怖に戦きながら呟いてしまっていた。
 真摯で、直向きで…凡そ狂気など垣間見ることもできない必死の双眸で覗き込まれて、ジョエルは胸の奥に蹲るやわらかい何か、グリフィンと暮らし始めてからずっと居座り続けていたものの正体を漸くハッキリと理解することができた。

「この胸の奥にある消すことのできない感情が愛だと言うのなら、俺はお前を愛しているんだろう」

 瞼を閉じて照れ隠しに言い放つジョエルが震える唇に口付ければ、ああ…と、グリフィンは溜め息に似た吐息を零して、暗い狂気を秘めた双眸を閉じる。
 求めていたものは炎のように揺らめいて輝く光だったはずだ。
 闇の中でしか息をすることもできない自分だからこそ、ジョエルを光の中で輝かせることができると本気で考えていた。
 だが、本当はそんなもの欲しくなどなかった。
 リサを焼き殺したあの日、必死で自分を追い縋っていたあの一途な眼差しを手に入れて、彼の愛人でも他の誰でもない、自分だけをその深い海のような瞳に焼き付けたかった。
 リサを求めて去っていく後姿を見た時の衝撃をジョエルは知らないだろう。
 『行くな、オレを求めろ』と言ってその腕を掴んで、できればこんな風に閉じ込めてしまいたかった。
 ポリー先生の所から盗み出した声を聴いて、カルテを見て、全てを手に入れてしまいたいと決意したことなど、誰も知らない。知らないはずだ。
 だが…ああ、そうだ。
 本当に欲しかったものは炎でも光でも彼がFBI捜査官として生きる意味でも彼の愛人でもポリーでも、ましてや都会の片隅で孤独に埋もれて生きる女たちなんかじゃなかった。
 そんな全てが欲しいと思ったわけではなかった。
 グリフィンが心から欲したのは、そう、ジョエルだけだったのだ。

 息もできないほど抱き締めはしたものの、不意にグリフィンはその身体を離して、それから首を左右に振って見せた。

「?」

 幾分か訝しそうに眉を顰めはしたものの、自分の言葉はグリフィンを傷付けたのか、もしくは迷惑だったのか…グリフィンは本当はジョエルが思っている感情ではない、何かもっと違うものを欲していたのではないか?
 彼は稀代の天才で殺人鬼で、FBIの目などいとも容易く掻い潜って実に10年近く逃げ続けていた。自分とのことさえなければ、まんまと逃げ果せたに違いない。
 いや、そう言った意味であれば、グリフィンは確かに完全犯罪を完遂してジョエルともども死者として生き続けている。
 そんな天才が考えることなのだ、凡人のジョエルでは窺い知ることのできない感情の機微があったとして、何らおかしなことはないだろう。

「…すまない、グリフィン。今日の俺はどうかしていた。お前が迷惑なら俺は」

「迷惑だって?」

 腰に片手を添え、額を片手で覆って俯いていたグリフィンは、不意に顔を上げて複雑な表情でどうやら笑ったようだったが失敗していた。
 首を傾げるようにして苦しそうに笑う彼の、そんな顔を見たことがないジョエルは瞠目するしかない。

「嬉しいんだよ。これ以上はない程にな。オレは今とても幸福で幸せなんだ。ジョエル、オレは今、生まれて初めて、今日ここで死んでもいいとさえ思っちまったよ」

 ジョエルの開いた目が、これ以上はないほど大きく見開かれた。
 目を瞠るジョエルの仕草にもお構いなく、グリフィンは片手で自らの顎を掴んで瞼を閉じて苦しそうに微笑んだ。

「あのままお前を抱き締めていたら、オレはきっとお前を殺していた。これが夢だったら、オレの都合のいい幻聴だったとしたら、オレは自分が何を仕出かすか判らなくて怖くなったんだ」

「お前は…」

 ふと、ジョエルは怯えて震えているまるで迷子になってしまった子供のような、迎えに来てくれた親に素直に喜びたいのに喜べない、そんな仕草で立ち竦む、身体ばかりが大きくなっているグリフィンを素直に抱き締めたいと思った。

「どうして俺は気付かなかったんだろうな?こんなに傍にいたのに」

 ジョエルは微笑んで、古傷に自由の利かない左足を引き摺るようにしてグリフィンに近付くと、微かに震えながら自分を見下ろす身体ばかり大きな子供のような彼を、自分から抱き締めていた。

「ジョエル…」

 安心させるようにその背中を擦ってやれば、グリフィンは殊の外、驚くほど素直にその仕種を受け入れ、そして小刻みな震えが消えると同時に、彼は彼の愛する人の身体を壊れ物でも扱うような優しさで抱き締め返していた。

「オレはきっと、このまま死んでも悔いはないんだろう」

 冷静沈着で自分の都合のためなら人殺しなど意にも解さない、能面のような無表情で感情を隠してしまっていた殺人鬼の頬に、その時初めて光の粒が頬を伝い落ちていた。

「いや、それは困るぞ。漸く、これからお前の期待に応えられるように前向きに生きようと決めたのに、お前に死なれたら元も子もない」

 ムッとしたように眉を寄せて、涙を流すグリフィンの顔を覗き込んだジョエルが言い放つと、グリフィンは呆気に取られたようにポカンッと口を開いてしまった。

「え?」

「そう言えば、グリフィン。花屋の青年は無事なんだろうな?お前は俺がお前のものになるなら殺人などしないと約束したんだ。ちゃんと約束は守っているだろうな?」

 ジョエルが抱き着いたままで心配そうに眉を寄せて言うと、それまで涙を流していたグリフィンは、そのままの顔でムッとしたように唇を尖らせた。

「やっぱりお前は花屋の男のことが気になってるんだな」

 ぎゅうっと抱き締めてくる腕の力強さに呆れながら、ジョエルは思わず苦笑してそんな子供のようなキュートなグリフィンに言い返すのだ。

「そうじゃない。変な嫉妬なんかするな」

 初めて見るグリフィンの綺麗な泣き顔を見詰めながら、ジョエルは、グリフィンが求めて止まなかった最高の笑顔を浮かべて、その深い蒼の瞳に漆黒の殺人鬼を留めたままで苦も無く言い放った。

「俺は他の誰でもないお前が心配なんだ。お前のことだから捕まることはないだろうけれど、それでもできれば俺といる間は、危険なことをして欲しくはないんだよ」

 心を込めた愛の告白にグリフィンは頬を染めて嬉しそうに破顔したが、すぐにムスッと殊更心外そうな顔つきをして唇を尖らせた。

「殺してなんかないさ。少しの金を掴ませたら、喜んで仕事を辞めてくれただけだ」

「そうか、辞めたのならそれは本人の意思だから、お前のせいじゃないな」

 グリフィンの口調は不機嫌そうで、しかし、その声音に怯むところがないと言うことは、どうやら強ち嘘は吐いていないと言うことだ。
 ホッとしてグリフィンの頬に口付けるジョエルに、長い年月を経て、漸く手に入れることのできた最高の宝物を抱き締めながら、これ以上はないほどの無垢なる極上の笑みを浮かべたグリフィンはこの世のどこかにいるかもしれない神と言う名の存在に心から感謝するのだった。

Liar 1  -The Watcher-

 午前5時、を幾分か過ぎたシカゴの朝。
 夜明けは遠く、まだ肌寒い。
 ベッドを軋らせて起き上がった男は、床に脱ぎ散らかしていたシャツを素肌に羽織って軽く伸びをすると、同衾している眠りの浅い愛しい人を起こさないようにコッソリとベッドを抜け出して狭苦しいユニットバスに消えた。
 今日は朝早くから撮影の予定が入っている。
 気難しいモデルがカメラマンは頬に火傷の痕が残るハンサムな彼じゃなきゃ嫌だと、駄々を捏ねたらしくうんざりしながらの出勤と相成った。
 右頬に火傷の痕を惜しげもなく晒す、彼こそモデルにでもなればスマートなのにと周囲に溜め息を齎せる美形のカメラマンは、哀しいかなその火傷のせいで輝かしい未来を完全に奪われてしまった…と、思い込ませる凄味のある青年、憂いを秘めた漆黒の双眸にチラチラと燃える狂気の焔など微塵も感じさせずに、鏡の中の自分に今日も優雅に語りかけている。
 彼の名はデイビット・アレン・グリフィン。
 嘗て、ニュージャージーを、そしてこのシカゴの町を震撼させた連続殺人鬼その人である。
 にも拘らず、あっさりと死亡説を流して自由を勝ち得た正真正銘の完全犯罪者は、こうしてのうのうと実名を晒しながら本日も優雅で醜いモデルたちのお相手の為にせっせと出勤の準備をしている有様である。
 それもこれも、彼が成し得た最後の殺人…チャーミングで小憎らしいポリーと心中してしまった愛しい人が、毎日恙無く過ごせるようにリアルな金を儲けなければならないからだ。
 凡そ、そのストイックでエキゾチック、そしてとてもミステリアスな美貌には『金』と言う俗っぽい文字など似合わないと思えるのだが、誰かを震えるほど愛してしまえば所詮人間など俗なもので、彼は喜んでその焔に飛び込んだのだ。
 オマケに、天職とも言えるカメラマンともなれば、それを利用して大金を儲けるのに躊躇いなどはなかった。
 睡眠時間が僅かに2時間しかない愛しい人は、それでも最近は良く眠れるようになったのか、朝早く目覚めるグリフィンのちょっかいにも僅かに厭うぐらいで、安らかな寝息を立てているほどだ。

「驚くべき進化!このオレの成せる業さ」

 そう思うだろ?
 鏡の中の、醜い火傷が右頬を舐めている青年は、仄暗い双眸を僅かに細めてニヤリと嗤う。
 手に入れてしまえば飽きてしまうだろうと高を括っていたのかもしれない自分の、その驚くべき進化を驚嘆したのか、はたまた、甘えるように口付けを強請れば、仕方なく付き合うようになったジョエルの態度の変化を感嘆したのか…どちらとも取れるし、どちらでもない曖昧な思考は彼の内に蹲る異常性を醸し出しているようでもあった。

「…出掛けるのか?」

 シャワーを浴びて清潔なバスタオルで漆黒の髪を濡らす雫を乱暴に拭いながら出てきたグリフィンに、彼が身体の一部だと、何よりも得難い家族のような存在であり恋人である、暗いブロンドの髪を掻き揚げて慢性的な頭痛に顔を顰めるジョエルが声を掛けた。

「目が醒めてしまったのか?」

 ベッドを軋らせて縁に腰掛けたジョエルは、グリフィンの顔を見ようともせずに片手で顔を覆いながら溜め息を吐いている。起き抜けで、下腹部を僅かに覆う程度で引っ掛かったシーツだけが身体を覆う全てであるジョエルの、その姿は朝の清廉なひと時には似つかわしくないほど淫らで扇情的だった。
 だが、もとより、少なくとも自分の魅力に少しも気付いていないジョエルがそれを理解して、まさか意図的に自分を誘ってるなんてことは、世界が明日終わると言われることよりも嘘っぽくて、その天然的な要素を持つジョエルをグリフィンは誰よりも愛しいと思っていた。

「今日は朝から撮影が入ってるって言っただろ?夜には戻ると思うから、夕食はオレが用意するよ」

「…あー、そうだったか?すまん、忘れていた」

「構わないさ」

 陽気に肩を竦めたグリフィンは、四方やこんな風に、極々当たり前な朝の会話をジョエルと迎えることが出来るなど思ってもいなかっただけに、どんな裏切りも、些細なミスでさえ許せない性格だったはずなのに、そのいちいちが全く気にならなくなっていた。
 それどころか、もっとジョエルが迷惑をかけてくれればいいのに…気兼ねなく、もちろん、このオレだけにと思うほど。
 まるで朝の光に似合わない、いや寧ろ、彼こそが何よりも似合っているのかもしれない退廃的で少し壊れてしまった純粋な微笑を浮かべるグリフィンに、漸く顔を上げたジョエルは一瞬言葉を詰まらせてしまった。

(また何か悪巧みをしてるんじゃないだろうな…)

「お前…本当に撮影なんだろうな?」

 自分がどんなあられもない姿でいるのかなど気付きもしないジョエルが、一瞬だが凄むように眉を寄せて、その深い海のように穏やかな蒼い瞳で覗き込めば、相変わらず純粋すぎる微笑を浮かべたグリフィンは無言で近付くと、微かに怯える腕を掴んで僅かに浮き上がる身体を抱き締めてキスをした。

「殺しなんてしないさ。もう、欲しいものは手に入ったからな」

「…お前が働いているところを想像できないんだ、仕方ないだろ」

 疑ったとしても。

「ちゃんと働いてるぜ。なんなら、これから一緒にスタジオに来るかい?」

「…冗談言うな」

 おはようのキスにしてはやたら長く、濃厚で、魂すらも溶けて交じり合ってしまいそうな深い口付けに息を弾ませながらそっと目線を逸らすジョエルに、グリフィンは満足そうに嗤って短いブロンドが漸く掛かる耳を啄ばむように優しく噛んだ。
 小さな溜め息を零すジョエルの身体を労わるようにベッドに下ろしたグリフィンは、言い付けを忠実に守ろうとする愛しい人の前に屈み込むようにしてフローリングに膝を着くと、不安に揺れる大好きな青い瞳を下から覗き込むのだ。

「この部屋から出るな…約束はちゃんと覚えてるようだな」

「…向かいに、花屋があるんだ」

「え?」

 貫くような狂気を秘めた仄暗い漆黒の双眸に居た堪れなくなったのか、ふと目線を逸らしたジョエルはポツリと呟くようにして言った。
 彼が言っているのは、この思うより瀟洒なアパルトマンの向かいにある、丁度部屋の窓から見下ろすことの出来る小さな花屋のことだろうと、グリフィンは仄暗い双眸を細めるようにして考えていた。

「花屋って毎日同じ花だと思うだろ?違うんだ。毎日、少しずつだけど違う花がある。同じだと思うのは、無駄な先入観と思い込みってヤツだな」

「…どうしてそんな話を?」

「え?…いや、なぜこんな話をしたんだろうな。すまない、時間じゃないのか?」

 ハッと我に返ったようにして気付いたジョエルが慌てて首を横に振ると、その顔を覗き込んでいたグリフィンが、病のせいでか、青白くなった頬に掌を添えて小首を傾げて小さく笑った。
 屈託のない、子供じみた笑顔で。

「謝る必要はないさ。その話、もっと聞きたいな…いや、お前の話はなんでも聞きたい。言わなかったか?オレはお前の全てが欲しいんだ」

 俺の全てなど、もう思う様自由にしているではないか…ジョエルは慢性化している頭痛すら一瞬忘れてしまったかのように、物憂げな青い瞳をしてそんなグリフィンを見下ろした。
 彼の唇や舌、その繊細な指先が辿っていない場所など、もうジョエルの身体にはどこにもなかった。
 まして心さえ、今では侭ならないほどグリフィンに支配されている。
 この完全犯罪を華麗にやってのけた希代の殺人鬼には、どうしても教えてやれないジョエルの儚い抵抗だった。
 どう言ったワケだか、グリフィンはこの破滅しか知らない壊れかけた心身を欲しいと言う。
 それをくれるのなら、もう殺しはしないだろうと約束までする念の入れようで。

「オレはね…」

 呟いて、グリフィンはまるで無防備なジョエルの足の間に身体を割り込ませると、その背中に両腕を回して抱き締めながら腹部にソッと頬を摺り寄せた。
 恐らくあの仄暗い漆黒の双眸は、長い睫毛の縁取る瞼の裏に隠れているに違いない。
 うっとりと囁くように呟くグリフィンの、その漆黒の頭髪を見下ろしながら、今更頭痛を思い出したジョエルはクッと眉間に皺を寄せた。
 慢性的な頭痛も、慢性的な睡眠不足も、何もかも、この目の前で幸せそうに瞼を閉じて縋り付いてくる殺人鬼が齎すものなのに…

(縋りつく?…何を考えているんだ、俺は)

 あの自信に満ちた笑みを浮かべる完全主義者のグリフィンが、まさか縋り付くなどと言う弱味を、既に囚われの身となってしまったジョエル如きに見せるはずもないと、彼をプロファイルしてその全てを知り尽くしているつもりになっている元FBI捜査官は浅はかにも思ってしまった。

「お前の声が好きだよ。お前の匂いも好きだよ。お前の肌触りも達する瞬間に見せる、あのセクシーな表情も…」

「馬鹿なことを」

 斬り捨てるように呟けば、グリフィンはクスクスと笑った。

「全て真実さ。言っただろう?これはオレたちを取り巻く運命なんだ。この世界でオレだけがお前を理解し、お前だけがオレを理解している。そう言うことだ」

 ジョエルには理解できないグリフィン流の愛の告白に、ズキズキと痛みだした頭を抑えながら、相変わらずつれない恋人は訝しそうに眉を寄せている。

「あの日々もオレにとっては掛け替えのないものだった。でも、今こうしてここにいるオレたちの過ごす時間も…ああ、なんて素晴らしいんだろう。この黄金の日々を守るためなら、オレはきっとなんだってするよ」

 そうして人を殺したと言うのか?

(いや、それは違うな。グリフィンが俺を知ったのはリサの事件の時だ…それ以前の殺しは、どんな理由で始めたゲームだったんだ?)

 グリフィンが大事な宝物を隠しているこの瀟洒とは言え小さなアパルトマンは、彼にとって唯一の弱点とも言える小さなお城、そのお城で大事な宝物、ジョエルと過ごす日々を守るためならば、そうきっと、グリフィンは冷たく凍った水底にすらその身を沈めることも出来れば、燃え盛る業火に飛び込む勇気すらあるだろう。そう思わせる狂気を孕んだ漆黒の双眸に覗き込まれて、ジョエルは図らずもドキリと胸を高鳴らせていた。

「だから、働いているところを想像できないなんて言わないでくれよ?」

 そう言ってクスクスと笑うくせに、その双眸だけは真実を物語って狂気に仄暗く揺れている。
 お前を手に入れるためなら、お前と過ごすためなら…何人だって殺してみせる。
 それがたとえ、お前が心を寄せる相手だとしても。
 そう物語る眼差しに気圧されて、ジョエルはソッと意志薄弱の青い瞳を瞼の裏に隠してしまった。

「さて、お仕事に行こうかな?さあ、ジョエル。オレにキスをしてくれ」

 徹底的に追い詰めるくせに、いざ逃げ出そうとするとやんわりと真綿で首を絞めるようにしてこの場所に留まらせようとするグリフィン。
 フッと頬の緊張を緩めて、狂気を揺らめかせる蠱惑的な双眸を閉じてジョエルのキスを待つグリフィンに、肉体を蝕まれて、とうとう心まで縛り付けられてしまったジョエルは苦い虫でも噛み潰したような顔をしながらも、それでもキスを待つ聖人君子の相貌を持つ殺人鬼に口付けた。
 或いは何かに置き換えることによって過去の贖罪から逃れようとでもするように、また或いは、殺人鬼の仮面の下に潜む正真正銘の闇に、自ら赴こうとでもするかのように…
 口付けるジョエルの顔を、グリフィンはソッと瞼を開いて間近にぼやける愛しい顔を盗み見ていた。
 確かに誰の目にも明らかなように、心と身体を薬でボロボロにした冴えない中年でしかないジョエルだけど、乙女を気取る阿婆擦れにない清楚なやわらかさがあることを誰も知らない。
 きっと、グリフィンは掠めるだけに触れ合わせる口付けに焦れたように舌で歯列を舐めると、ビクッと素肌の身体を揺らすジョエルにクスッと笑って、舌を絡めあってお互いの全てを飲み込もうとする深い口付けに酔い痴れながら思うのだ。

(オレだけが知るお前の顔。リサもポリーも知らない。知っていて欲しくもない。この顔はオレだけのものだ。お前を守るためならジョエル、ああ、オレはなんだってするさ。オレからお前を奪う者、たとえお前が恋しがる者だったとしても、オレはその全てを殺してやる)

 腹の底で蹲る執着と嫉妬の綯い交ぜした暗い感情にうっそりと嗤いながら、グリフィンは長らく欲して漸く手に入れた大事な宝物…身体の一部でさえある掛け替えのないジョエルを抱き締めていた。

 この声が届くのなら…ジョエル。
 ああ、どうか。
 願わくばオレを愛してほしい。
 罪深い心を、愛してほしい。
 オレと言うこの存在を、そのやわらかで綺麗な心に受け入れてくれ…

執着する者 2  -The Watcher-

 ジョエルの顔からは血の気が失せ、その顔色は悪かった。
 伏せた目蓋を縁取る睫毛が、電灯の明かりで青白い頬に影を落としている。
 その様を、グリフィンはジョエルの顔の脇に肘を突いて、ジッと覗き込んでいた。
 彼の知っている男は、こんな風に観念するヤツではなかった。ましてや自分に殺してくれと哀願するような、そんな弱い男ではなかったはずだ。
 何かが歯車を狂わせて、グリフィンの胸に焦燥感を掻き立てた。
 しかし…ふと彼は、睫毛を震わせながら唇を結んでいるジョエルを凝視し、フッとその口許を綻ばせた。
 ああ、なんだ。そんなことなのか。
 ジョエルのことなら何でも知っている自分だが、知らないことがあっても不思議ではない。だからこそ、彼を捕らえて、雁字搦めにして、自分だけを見つめる様に仕向けたのではないか。
 彼の近所に住む女も、遠い昔に彼を独占した小憎らしいリサも、そしてポリーでさえ彼を引き止める道具でしかなかった。
 殺してしまえば、もうけして逃れることの出来ない苦悩の闇に堕ち、助けを求める腕をさし伸ばすだろう。 
 それが狙いだったくせに。
 思い出して、思わず噴出しそうになった。
 手に入れたかった大事なものは、年を追うごとに自分自身を苦しめて、薬に溺れながら歪みを生んで壊れかけてきた。できることなら真綿に包んで、そう、誰にも心を見せないのなら、こんな風に大事にしてやりたかったものを。
 FBIと言う仕事に誇りを持って、溌剌と駆け回っていたあの姿が一番好きだった。足を撃ち抜いたとき、しまったと内心で歯軋りしたが、あの時はそうするしか他になかったのだ。
 炎は美しかったな。
 ポツリと心で呟いて、緊張のため冷たくなっているジョエルの頬を優しく片手で包み込んだ。
 大きくて熱い掌が頬に触れたとき、ジョエルはハッとしたように目蓋を開いた。戦慄くように睫毛がピクリと震え、青い双眸が思ったよりも近くにあったグリフィンの顔を捉えた。
 親指がジョエルの唇を擦り、戸惑うように視線を彷徨わせるジョエルをまるで無視して、少し渇いた唇に自らの唇を這わせると、グリフィンは問答無用でその口腔に舌を挿し込んだ。大して抵抗もせずに、ジョエルがそれに応えるように舌を絡めた。
 本当は判っている。
 ずっと見つめ続けてきたのだから間違いなどあるワケがない。
 ジョエルも少なからずグリフィンを愛しているだろうと言うことは。
 ほの暗い光を放つ双眸で、グリフィンはジョエルを見た。
 肘を付いた格好のまま、覆い被さる様にしてジョエルを組み伏せると、何年も水を与えられなかった人のように貪るようにキスを愉しんだ。口付けはだが、不意に離れたかと思うと、頬に舞い降りこめかみへと移り、顔中にキスの雨を降らせながら耳朶へと降りていく。
 そう、もうずっとこうしたかった。
 炎は官能的で、いつもグリフィンの情念を駆り立てていた。
 炎は美しかったな。
 もう一度ポツリと心で呟いて、グリフィンはジョエルの耳朶を唇で弄んだ。

「…ッ」

 熱に浮かされているジョエルにしてみたら、その一つ一つの動作は、この男が与える試練なのだと諦めて、そう思うことで自責を押し込めながら声を噛み殺していた。

「…オレは」

 突然、耳に心地好い低い声が聞こえて、熱に潤んだ青い双眸がグリフィンを見上げた。

「どんなお前でも全て知っておきたいのさ、ジョエル。その権利を与えてくれたんだろ?」

 怪訝そうに眉を寄せた彼の愛しい人は、諦めたように溜め息をついて、それから掠れた声で呟いた。

「俺に決定権なんかあったのか?」

 クスッと笑ったグリフィンは、伸び上がるようにして暗いブロンドが汗で張り付いた額にキスをする。
 上出来の答えに気を良くしたのか、指先で首の付け根を揉みしだいた。

「この手で、お前の肌の感触が知りたいし、オレの腕の中で乱れるお前の姿が見たい。歓喜に震えて悶える姿も、何もかもだ。お前の全てを飲み干して、お前の奥深くへオレを埋めて一つになる。その時のお前の顔を見たい…これはもう抑えられない欲求なんだ」

 ジョエルはぶるっと震えた。
 まるで今そうされたかのように、耳の奥に舌が潜り込んだからだ。

「…ッ、…ぁ」

 あくまでも声を殺そうとする愛しい人に、グリフィンは苦笑しながらカリリ…ッとその耳朶を甘噛みした。

「…ん!」

 ビクンッと身体を震わせて、ジョエルがむずがる子供のように首を竦めると、グリフィンは安心させるように頬にキスをした。官能的な指先が頬に触れ、それから意図したように下へと降りていくと、グリフィンの唇も同じように頬を滑って剥き出しの首筋へと降りていった。
 敏感になった肌はグリフィンの口付けを恐れ、戦慄くように震えたが、吸い上げられて噛み付かれてしまうと散らされた花弁のような痕をつけた。
 器用にシャツのボタンを片手で外しながら、グリフィンは官能的な指先と掌、そして唇でもってジョエルの全身を隈なく愛撫することにしたようだ。半裸に剥かれながらジョエルは、跳ね上がる息を噛み殺しながら、呆然と少し薄汚れた天井を見上げていた。
 これは、これはなんなんだろう…この感触はなんなんだ。
 一つ一つ、まるで罪が暴かれるように、グリフィンの舌と唇と指先で暴かれる性感帯がもたらす快感に、息を詰めながら怯えていた。
 ジョエルの身体をまるで地図を描くように隈なく探り、その快感の在り処や、その全てを脳裏に焼き付けようとでもするかのように、グリフィンは執拗に丹念に愛撫を施していた。
 鎖骨を確かめるように両手の親指で触れ、味わうように唇を落としてキスをした。
 熱い唾液が空気に冷えて冷たい軌跡を肌の上に描いていく様を、ジョエルは熱に浮かされた頭で感じていた。
 一旦灯された快感の焔は消えることなく、まるで全身を嘗め尽くすように広がっていき、身体の中心に到達すると抗えない衝撃を断続的に与えてくる。

「…ッ…ぁぁ…」

 もう駄目だ、このまま自分はグリフィンに食われてしまうんだろう。
 歪んだ陶酔に胸を震わせながら、グリフィンの漆黒の双眸に見つめられて、硬く尖った乳首に歯を立てられただけで、ジョエルのはち切れんばかりに立ち上がった欲望は精を吐き出しそうになった。散々愛撫して、たっぷりと時間をかけるくせにグリフィンは、そうして歓喜に震えながら涙を零す欲望には触れようとしない。 
 身も世もなく泣き出して、どうかイカせてくれと叫びだしそうになるジョエルの身体を、両足を、特に自分が銃弾で穿ってしまった傷跡を執拗に愛撫していたグリフィンは戻ってきて抱き締めると、欲情した双眸で射抜くように見つめてきた。

「お前は美しいよ。そんなこと、考えもしないんだろうな」

 何を馬鹿なことを…熱に浮かされた頭では判っていても言葉にできない。
 そんなことよりも、この浅ましい熱を開放して欲しいと、ジョエルは知らずにグリフィンに腰を擦り付けていた。まだジーパンを脱いでいない厚い生地に、トランクスに包まれた先端に甘美な快感がダイレクトに伝わってジョエルは悲鳴のような声を上げた。

「愛してるよ、ジョエル」

 不意に呟いて、やるせない熱に浮かされているジョエルが不思議そうな顔をするのと、グリフィンがその口唇を荒々しく塞いで窒息しそうなキスをするのは同時だった。
 口付けて、魅惑的な微笑を浮かべるとペロリと唇を舐めた。それは、待ち兼ねていた合図のようで…ジョエルは我知らずにうっとりと見つめていた。
 腰を突き上げるようにするジョエルの下半身からトランクスを剥ぎ取ったグリフィンは、今や開放を待つばかりの欲情には直接触れずに、意地悪でもするかのように付け根の辺りをきつく吸って花弁を散らした。

「…ヒッ!…ッ」

 酷い仕打ちに先端から涙を零しながら、ジョエルは剥ぎ取られかけていたシャツの袖を噛んで声を押し殺した。そしてグリフィンは、その時になって漸く長い責め苦の果てに、ジョエルが待ち望んだ快楽を情熱を込めて与えてやったのだ。

「ひぁ…ぁ…ああ!」

 熱く、驚くほど滑らかでねっとりした口腔で締め付けると、グリフィンは深々と飲み込んで根元に指を宛がうと弄り握ったりしながら吸い付いた。淫らな音を立てながら吸い上げ、リズミカルに輪にした指で扱き上げるだけで、ジョエルの身体はまるで、波打ち際に打ち上げられた魚のようにしなやかにビクビクと跳ね、身悶えた。
 女にしてもらってもこうは感じないだろう。
 なんと言う快感!なんと言う悦楽! 
 大きな波のうねりに飲み込まれそうになって、ジョエルは闇雲にもがいて足掻いた。どうしていいのか判らずに逃げ出そうとして、グリフィンに抑え付けられてしまう。

「う、…あ、…あぁあぁ…ッ」

 目の前がスパークするような快楽に腰が痺れ、気付いた時にはグリフィンの滑らかで熱い口腔に塞き止められていた欲情を吐き出していた。たとえ精を全て吐き出していたとしても、それでもグリフィンはまだジョエルを手放す気はないようで、射精の快感に打ち震える陰茎を思う様しゃぶり、残滓までも吐き出させようとするかのように吸い尽くした。
 目の前がクラクラするような快楽にぐったりと身体を横たえていたジョエルは、いつの間にかウトウトしていたのか、グリフィンの熱い掌が暗いブラウンの髪を撫で、肩口や首筋にキスをされてハッとした。
 気付けばしなやかでスマートなグリフィンの、絹のように滑らかな胸元に背後から抱き締められていた。
 驚いて振り返ろうとするよりも早く、グリフィンの熱い手に顎を攫われて、そのまま上向かされるようにして唇を奪われてしまう。恥ずかしいとか、どんな顔をしたらいいのかなど、そんなことを考える隙さえも与えない敏捷な口付けは、ジョエルに残る羞恥心をも奪い取ってしまった。
 グリフィンは口付けが好きなようだった。
 肌を合わせて感じたのは、グリフィンの執拗な愛撫と情熱的なキス。
 絡めた舌先から溶け出して一つに交じり合い、いつかグリフィンに飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚える濃厚で情熱的な、グリフィンだけが持ち得る魅惑的なキス。
 腰が一気に萎えて、意識すら砕けてしまうような…
 空いているほうの掌で胸元から腹部を撫で擦られて、ジョエルがビクンッと身体を震わせたとき、臀部にグリフィンの獰猛に滾る欲望が押し当てられた。その瞬間、ジョエルの身体中の血液が沸き上がったようになって、耳元でドクドクッと血流が波立つ音が聞こえくると、それでなくても逃げ出せないキスに蕩かされていると言うのにどうしたらいいのか判らなくなってしまう。
 そんな動揺を感じたのか、グリフィンはジョエルの震える耳元に唇を押し当てた。

「お前が欲しい、ジョエル。もう、限界だ」

 この男は、本気で自分を抱こうと言うのだ。
 ああ…目の前がクラクラして、そのくせその瞬間を待ち焦がれている自分の身体に今更ながら眩暈がした。
 耳元に吹き込まれたグリフィンの、欲望に掠れたセクシーな声音さえ、欲情に火をつける。
 臀部に入り口を求めて擦り付けられるグリフィンの欲望は、ドクドクと脈打ち、絹の滑らかさと灼熱の鉄を思わせた。
 甘い溜め息を洩らしたジョエルは、その誘いを受けるように身動きが取り辛い自分の身体を反転させて、グリフィンの口唇に自分から唇を押し付けた。男同士のキスにまだ慣れていないジョエルのキスはぎこちなく、それが却ってグリフィンの欲望を掻き立てた。
 口付けを交わしながら、グリフィンは潤滑油に濡らした長く繊細そうな指先を潜り込ませ、その衝撃で微かにジョエルの身体がずり上がった。
 離れかけた口許から溜め息が漏れて、グリフィンはジョエルを抱えなおすようにして抱き締めると、長い指先で宥めるように胎内を探っていた。その間に擡げるジョエルの欲望に愛撫を加えながら、甘やかすように囁くのだ。

「息を吐け。いい子だから身体の力を抜くんだ」

 どうしたらいいのか判らないで我武者羅にしがみ付いていたジョエルは、耳元に吹き込まれた低い声音に身体を震わせて、言葉通り身体から力を抜こうと息を吐き出した。ジョエルの身体が弛緩した途端、グリフィンの長い指先がズッと奥へと入り込んだ。

「ぅあ!…あ、ああ…ッ」

 何が起こったのか、青の双眸を見開いてグリフィンを凝視したジョエルは、身体の奥に隠されている快楽の在り処を刺激されて、そのあまりの強い衝撃に悲鳴を上げたのだ。グリフィンが宥めるように背中を擦ってやると、絶頂に身悶えて痺れたように快楽の波に浚われるジョエルは、それでも終わらない繊細な指先の愛撫に応えるように腰を揺らめかしていた。それは最早、細い指先の愛撫では満足していない証拠のようで、それを感じたグリフィンがズルッと指を引き抜くと、ジョエルはハッとしたように顔を上げてグリフィンを見た。深いほの暗い双眸に見据えられて、自分の浅ましさに羞恥しながら顔を伏せても、強請るように揺らめく腰は止めることができない。
 不意にグリフィンが圧し掛かってきて、揺らめく腰を掴むとグッと身体を押し進めてきた。

「…ッ!…グゥ、…ひぃ…ぅあッ」

 指の抜かれた身体が物欲しげに収縮を繰り返していたその部位に、唐突にめり込んできた強烈な衝撃は、ジョエルの背中にジットリと汗を滲ませて圧倒する。灼熱の棍棒に抉じ開けられるような痛みは、耐えようとして耐えられるものではない。恐怖と激痛にもう止めてくれと叫びだそうとしても、気付けばジョエルは自らグリフィンを受け入れようと腰を突き出していた。あまりにも巨大な欲望はゆっくりと穿ちながら、ジョエルの胎内を割り広げるように押し進んだ。
 だが、漸く全てを飲み込ませることができたのか、グリフィンは息を吐くと、胎内の奥深い部分で猛々しくも落ち着いたようだった。

「・・・ッ、…ん…ッ」

 ジョエルが挿入の衝撃と痛みに生理的な涙を零しながら抗っていると、グリフィンが抱き締めながらその顔中にキスの雨を降らし、首筋に口付けると、漸くジョエルの緊張が解けて落ち着いたようだった。身体が落ち着けば、グリフィンの与えてくれる愛撫に応えることができるようになって、気付けばジョエルの欲望も激しく滾っていた。
 全てを受け入れるようにジョエルが身体を開いたとき、グリフィンがもうずっと、長いこと待ち望んでいた瞬間が訪れたのだった。ゆっくりと律動を始めるグリフィンの動きに合わせるように、ジョエルの腰がゆらゆらと動き始める。
 もっと、もっと奥へ…強請るように腰を揺らして、もっと激しく、もっと強く、いっそ凶悪なほどの快感を望んで引き抜いては深く突き入れるグリフィンの欲望を、自ら身体を開いて迎え入れたのだ。
 既にグリフィンに身も心も預けてしまったジョエルに、どこにそんな自制心があるのか、愛するという者を抱きながらグリフィンは乱れずにジョエルの身体を思う様味わっている。2人の間にたゆたう快楽はそのうねりを増して、その波がもうそこまで迫っているのを感じたとき、既に溺れたように夢中になっているジョエルは何かに縋り付きたいように両腕を伸ばしてグリフィンを抱き締めていた。
 グリフィンはそんなジョエルの身体を押さえ付けると、その唇に口付けて、そして熱情をぶつけるように首筋に噛み付いた。大きな波に飲み込まれたその瞬間、ジョエルの掠れた悲鳴を覆い隠すように、グリフィンが獣のような咆哮を上げていた。
 身体の奥深い部分に溶岩のような精を注ぎ込まれた瞬間、ジョエルは脳内がスパークして、眩暈を覚えたようにゆっくりと奈落の底に堕ちていった。

 ジョエルが目を覚ましたとき、咽喉の奥がヒリヒリして、カラカラに渇いているのを感じていた。
 粘る唾液を飲み込んで、ゆっくりと覚醒を待っていると、不意にベッドが軋んでハッとした。
 そうだ、自分はグリフィンに抱かれたのだ。
 どんな理由にせよ、年下の、しかも殺人鬼に抱かれたのだ…
 目を開けて見上げると、床に投げ捨てていたシャツを拾って素肌に羽織っていたグリフィンが、そんな気配に気付いて振り返った。閉めたカーテンの隙間から、朝日が眩しいぐらい凶悪な光で射し込んでいる。

「目が覚めたようだな、腹減っただろ?」

「あ、ああ…」

 咽喉に引っかかった言葉を咳払いで直し、ジョエルは伏し目がちに頷いた。
 今更どんな顔をすればいいのか、急に現実に叩き戻されたジョエルは、ノロノロと痛む上半身を起こしながら頷いて見せた。
 そんなジョエルの態度などお構い無しに、グリフィンは機嫌が良さそうにキッチンに消えた。
 時折、鼻歌が聞こえて、お得意のダンスでも踊りながらブレックファストを作っているのだろうか…
 溜め息を吐きながら、ふと、ジョエルは自分が連れて来られた部屋を改めて見渡した。
 そこそこ、感じの良いアパルトマンだ。もちろん、ジョエルの住んでいた部屋に比べれば遥かにグレードは高い。ただ、部屋の散らかりようは自宅と互角だな、とそんなことを考えて苦笑した。
 ベッドには昨夜の情事の名残が嫌でも残っていて、出来るだけ見ないようにしながら、部屋を観察していた。ふと、あの時グリフィンがポリーの写真を持ってきた部屋に目が止まって、恐る恐る起き上がると、左足を引き摺るようにして真っ黒の垂れ幕がしている部屋に入った。
 そこは真っ暗で、手探りで探った先にスイッチがあって、パチンッと音を立てて電灯をつけると一面真っ赤で瞠目してしまう。だがそれは、電球自体が赤いようで、ホッとして辺りを見渡して思わずジョエルは後ずさってしまった。
 壁一面に貼られているのはあらゆる角度から撮られたジョエルだった。
 その殆どはFBI時代のものだったが、なかには牛乳の入った紙袋を抱えて、不安そうな顔をして交差点を横切っている今のまである。

「こ、これは…」

「ジョエル=キャンベルさ」

 ビクッとして振り返ると、片手にシャツを持ったグリフィンが立っていた。

「言っただろう?ずっと見ていたって」

 シャツをジョエルの肩にかけながらグリフィンはそう言うと、ふと目に止まったのだろう、寒そうにヨレヨレのコートの襟を立てて紙袋を抱えて道を急ぐ一枚を指差した。

「この時は2時間迷っていたな。あんな役にも立たない薬はもう飲むなよ?」

 慢性の頭痛はお前のせいじゃないか。
 言葉にしたくても言葉にできず、ジョエルは壁一面に無造作に貼られた写真を、不気味なものでも見る目つきで食い入るように見つめていた。
 確かに自分に固執していたことは知っていた、それは恐ろしいほどの執着心で、果ては自分を抱くほどだと今回で思い知った。

「…お前がいなくなるまでは、自分がこんなにもお前を大切に想っていたなんて思わなかった。いや、それは違うな。お前が掛け替えのない存在だって事は判っていたんだ。だからこそ、リサを殺した。オレたちの間に割り込む者は誰だって許すつもりはない。もちろんポリーも」

 そこまで言って、震えているジョエルに気付いてグリフィンは漆黒の髪を掻き揚げてから、愛しそうに背後からジョエルを抱き締めた。払い除けることもできたのに、その時のジョエルにはそんなことよりも、次々と出てくる贖罪の名前に耳を覆いたくなっていた。

「話が逸れたな。オレはお前が逃げるようにしていなくなったとき、初めて心底から思い知ったよ。オレにとってお前が、どれほど大切な存在だったかって事を」

 抱き締めた腕に力を込めて、グリフィンはジョエルの首筋に顔を埋めると血管の浮いた肌に口付けた。
 どれほど言っても言葉では伝わらないのか、グリフィンが焦れたように首筋を愛撫すると、ジョエルは震えながらグリフィンの髪に頬を寄せる。

「お前はオレの身体の一部なんだ。切って捨てられるもんじゃない。それは恐ろしいほど確実な真実で、オレたちを取り巻く運命と言うものさ。空虚だった日々にお前の存在が現れたあの瞬間、それからの日々はまさに掛け替えのない黄金の日々だった。お前がいなくなるあの瞬間までは…」

 ジョエルの身体を振り向かせて、呆然と立ち尽くしているジョエルを抱き締めながら、グリフィンは顎に手をかけると上向かせて口付けた。
 そう、彼は恐ろしかった。
 自分の住む世界に、”彼”がいなくなったのだ。忽然と、まるで風のように姿を消してしまったジョエル…

「だから追いかけた。追いかけて、シカゴまで来たんだ。ラッキーだったがな」

 濃厚な口付けにジョエルの腰が砕けかけたとき、グリフィンは唇を離してニッコリと笑った。形の良い唇は唾液に濡れて、妖艶に色気を醸し出している。
 だがその台詞は全て、彼のジョエルに対する”愛の告白”だった。
 炎が美しいように、グリフィンの身体の下でのたうつジョエルは炎のように美しかった。

「…それで?俺はお前の相手にはどうだったんだ?」

 抱かれる前に、違っていたら殺してくれと約束したことを思い出して、ジョエルは溜め息を吐きながら呟いた。
 そんなジョエルを、長いこと手に入れたくてできなかったその大切な存在を、グリフィンはこれ以上ないほど大事に抱き締めながら驚いたようにキョトンッとしてそれから笑った。

「そうだな、200%の確率で一致したよ」

 返ってくる答えは凡そ判っていたが、実際に耳にしても、なぜかそれほど嫌な気分はしなかった。
 グリフィンが言うように、200%の確率で一致してしまったのだろうか?
 そんなことを考えて、ジョエルは自嘲気味に微笑んだ。
 そんな、まさか…だ。

「さあ、腹が減っただろ?こっちに来いよ、美味いベーコンがあるんだ。卵はスクランブルでよかったよな?」

 グリフィンは上機嫌でジョエルを誘った。
 漆黒の髪に整った顔立ち、黒みがかった双眸を笑みに揺らしたデイビッド=アレン=グリフィンが差し出すその腕を、ジョエルはただひたすら息を呑んで見つめた。
 人懐こい青年の頬には醜い火傷の痕、笑えば女性を魅了するんだろう。
 朴念仁とも取られがちの元FBI捜査官の左足には、永遠に消えない傷痕。
 逃げ惑うだけ人が死ぬのなら、傍にいればどうなるのだろう?
 薬に犯されて既に破滅の道を辿るしかない、この身体でいいのなら、くれてやるのも悪くはないだろう。
 そうすることで人が死なないのであれば、ジョエルはグリフィンの差し出した手をゆっくりと掴んだ。
 グリフィンの顔がパッと嬉しそうに変わるのを見つめ、覚悟を決めて目蓋を閉じる。
 そうして自分は歩み出すのだろう。
 抱きとめられるその腕の中へ。
 もう二度と後戻りの出来ない、日常の世界へ…

─END─

執着する者 1  -The Watcher-

 長くジョエルを悩ませていた悪夢に終止符が打たれた夜、グリフィンはビルの崩壊と共にこの世を去った。
 心因性の精神異常と言うものは、その原因となる根本が打ち砕かれれば、僅かずつだが改善へと向かい始める…と言うことを、ジョエルはその身をもって知ることとなった。
 あの夜から彼を悩ませる悪夢は少しずつ鳴りを潜め、相変わらず通い続けている精神科の担当医ポリーも、改善の兆しにホッと胸を撫で下ろしているようだ。
 だがしかし、何かを得れば何かを失う、と言う普遍の原理に則るように、ジョエルは平穏な日々と引き換えに左足の自由を失うことになった。
 職場への復帰を望む声も多くあったが、あまりにも長い間グリフィンの執拗な執着に苛まれ続けた彼は、その引き金ともなった職場への復帰は断念せざるを得ず、その申し出を断った。
 今日も左足を引き摺るようにして出掛けた然して美味くもないベトナム料理店で遅い昼食を済ませ、ジョエルは街角のドラグストアで牛乳を買って帰途についた。長らく彼を煩わせていた病は彼の記憶を蝕み、思った通りの行動を起こさせないようにしていた。だから、決められた時間に家に戻ると言うことが出来ないでいた。

(おかしなもんだ。先生の所には迷わずに行けるってのにな…)

 年代物のアパルトマンの階段を足を引き摺るようにして昇りながら、彼は疲れたように溜め息を吐いてそんなことを考えていた。
 ポリーは、ここに迷わずに辿り着けるのだから、それは所謂改善の証で、全快に向かっているのだと安心させてくれている…が、どうも彼には何か胸に引っ掛かるものを感じて仕方なかった。

(なんだって言うんだ、畜生ッ…)

 不安感も彼の病の1つで、けしてそれは拭えるものではないのだが、時折こうして頭を擡げてはジョエルを苦しめていた。

(大丈夫だ、もうヤツはいない)

 思い込みは俺の悪い癖だ、そう考えて、まるで永遠にも続くかと思われた長い階段を(いや、実際には3階程度なのだが、足を傷めた彼にはその長さはまるで凶器にも等しく感じられたに違いない)、漸くの思いで昇って一息吐くと、傷む足を擦りながら扉の前に立った。
 ふと、安物のドアの下に何かが挟まっているのに気付いて、僅かに眉が寄る。
 こう言う時は、なぜか決まって良くない報せだったりするものだ。
 ジョエルは疲れきった頬に暗い影を落として、長いこと逡巡していたが、諦めたように双眸を閉じて震える指先で挟まっているカードを、それでも躊躇して迷いながらも乱暴に引き抜いた。

「ったく、なんだって言うんだ」

 カタカタと震えている自分の指先にか、それともその質素な白いカードにか、或いはその両方にか、どちらにしろ吐いた悪態は情けないほど弱々しかった。
 彼が思っている程には、心に受けた衝撃は改善への道になど進んではいないようだ。
 ことに、犯罪の匂いがするものに対しては特に。
 真っ白なカードは悪夢を呼び起こし、ジョエルは唇を噛み締めながら閉じられていたカードを開いた。
 開いて…

 ギクッとした。
 誰かの悪い冗談か、或いはこれは長く見続けた悪夢の後遺症で、まるで現実のように感じているだけで夢の続きを見ているだけではないのだろうか…
 その言葉を忘れたわけじゃない。
 忘れられるわけがない。
 その言葉の傍らに、ましてやポリー女医の写真などが貼られていたとなれば…
 ハッとした。
 錆付いた脳味噌をフル回転させて、ジョエルは何が起こっているのか理解しようとしていた。
 と、突然部屋の中からけたたましいベルが鳴って、抱え込みそうになる頭痛から逃れようとでもするかのように手探りで開けたドアに転ぶようにして入り込んだジョエルは、どんどん重くなる頭を抱えながら受話器に手を伸ばしていた。
 殆ど無意識のうちに誰何した受話器の向こうで。

『久し振りだな、覚えているか?』

 ゾワッと背筋に悪寒が走り、肌が泡立つような錯覚を覚えて倒れそうになる。
 半分以上腰が砕けたような格好で床にへたり込みながら、そのくせ受話器を握り締めた指先の力は抜けず、投げ出してしまうことも出来ないでいた。
 死んだはずだ。
 いや、それともそれは、それこそが自分に都合の良い夢だっただけではないのだろうか…
 ふとそんな嫌な予感がして、眩暈がした。

『まさか忘れたとか言うなよ。つれないヤツだ』

 受話器の向こうで含んだような笑い声。
 震える唇はかさついて、咽喉の奥は渇き切ってヒリヒリし、まともに声が出せないでいる。
 そんなジョエルの反応を知ってか知らずか、声の主は囁くように、唆すように嘯くのだった。

『元気にしていたかい、ジョエル?おかげさまでオレも元気かな』

「先生に何をした」

 言葉尻に被さるようにして絞り出た声は掠れて、あまりにも弱々しかったがそれに気付くこともないジョエルの動揺に声の主は何がおかしいのか、或いは嬉しいのか、クスクスと笑っている。

『別に何も。ただ、一緒にダンスを踊っただけさ』

 不意に人の気配がして、そうして、今更になってジョエルはハッとした。
 受話器から聞こえている声なのか、それともそれは…

「ッ!!…ぅ、ぐ、グリフィンッ」

 首の後に鋭い痛みを覚えて、ふと意識が遠ざかる。
 遠ざかる意識の中でクラクラしながら振り返った背後に、彼は立っていた。
 あの美しかった顔の、右の頬に火傷の跡を晒した青年は携帯電話を片手に握り締めて、口許に満足そうな笑みすら浮かべ、失神しようとするジョエルを愛おしそうに見下ろしていた。

「ちゃんと覚えているようだな。当たり前か」

 火傷の跡さえ彼の美しさを損なうことはなく、嫣然と微笑む地獄の底から甦った青年グリフィンは、恐れているのか、それともまだ過去の罪悪感に囚われているままなのか必死に腕を伸ばそうとするジョエルの、その傍らまで歩を進めるとその身体を抱え上げるのだった。

「今度こそ、ちゃんと話そうじゃないか」

 声にならない声で女医の安否を気遣うジョエルの耳元に語り掛けて、グリフィンはそのままアパルトマンを後にした。
 その腕の中に、手に入れたくて仕方なかった大事な宝物を壊さないように抱きかかえて、もう二度と戻らない部屋を一瞥することもなく来たときと同じように風のように姿を消してしまった。

 ピチャ…ピチャン…
 静まり返った部屋に聞き慣れない音が響いていた。
 耳を打つ水の音は、何処か遠くの方からなのか、それともごく近くから聞こえてくるものなのか、ジョエルはハッキリとしない意識を無理に覚醒させようと、重い身体を起こそうとして失敗していた。

(ここは…どこだ?俺はいったい…)

 上半身を両肘で支えるようにして起こしたジョエルは、両手で頭を抱え込むようにして自分の置かれている状況を理解しようとしたが、彼の病が強情にそれを阻んでいる。
 チャン…ピチャン…
 またしても耳を打つ水の音に、今度こそハッキリと意識を取り戻したジョエルは、不意に意識を失う直前に起こった出来事を思い出してハッとした。

(先生!…ああ、そうだ。グリフィンのヤツが生きていて、そうか、クソッ!ヤツが生きて…ああ、なんてこった)

 それでなくても弱ってしまっている精神に拍車をかけるような出来事に、ジョエルの頭は傍目からもハッキリと判るように錯乱してしまっていた。その耳に、追い討ちをかけるような水の音。
 水の音。
 水の音。

「やめてくれ!」

 思わず錯乱して叫ぶと、不意に耳障りな水の音が止んで、奥の部屋から誰かが姿を現した。
 そう、忘れたくても忘れられない、あの日、確かに自分が解放されたと思ったあの日、この目の前の男はこの世から去ったはずではなかったか?
 絶望した眼差しで見上げるジョエルの前で、長身の、えらくハンサムな顔に忌々しい火傷の跡が残る男は、いとも優雅に笑ってそんな彼を見下ろしている。

「目が醒めたのか?」

 見間違えることのないその顔立ちと、彼があの日、命辛々で逃げ出したことを物語るように頬にある火傷の跡を晒して、あの日がけして精神錯乱から見た幻覚ではないことを物語っていた。
 と言うことは、この目の前の光景も幻覚や幻と言ったものではないのだろう…
 ジョエルは眩暈を覚えていた。
 激しい頭痛は耳鳴りを伴っていた。

「口が利けなくなったわけじゃないんだろ?」

 おどけたようにグリフィンは笑って、それから思いついたようにパンッと掌を打ち合わせた。そう言ったいちいちの仕種にも、ジョエルはビクッとして身体を竦めてしまう。以前よりも良くなったはずの病は、驚くべきことに更に悪化して彼を苦しめているようだ。
 グリフィンが怖い。
 それはまるで無条件のようにジョエルの心を蝕み続けている。
 怖いはずはない。
 ”あの日”に全てを決別したはずだったのに…

「そうだ、お前にいいものを見せてやるよ」

「…グリフィン、生きて、生きていたのか…?」

 咽喉の奥がカラカラに渇いて、喜ぶ青年とは対照的に動揺を隠し切れていないジョエルが、ベッドの上で微かに震えながら言葉を吐き出していた。

「ご覧の通り。おかげさまで傷跡は残ったけど、ピンピンしているよ」

 鼻歌交じりに部屋の奥に消えながら呟いた言葉に、ジョエルは絶望感を覚えて目の前が真っ暗になるような感覚に陥ってしまった。
 あの悪夢が、また悪夢が甦るのだろうか…
 先生とダンスを踊っただけだと?
 そうしながらお前は、ただ俺の関心を惹きたいためだけに先生を、もしかして先生を殺したのか…?
 思わず身体の感覚がガクッと抜け落ちてしまったような気分を苦々しく味わいながら、ジョエルはそれでも渾身の力を込めて身体を起こした。身体を起こして彼は、グリフィンの消えた部屋にフラフラと重い左足を引き摺りながら歩いて行った。
 歩いて行って、突然姿を現したグリフィンにぶつかってよろけた所を、虫も殺せないような穏やかな表情をした殺人鬼が躊躇もなく抱き留めた。

「うッ、はな…せッ!」

「いいものを見せるって言っただろう?見ろよ、ポリー先生だ。素敵だろ?」

 グリフィンの差し出した写真を見て、見た瞬間、ジョエルはこれ以上にないほど目をむいて、それから顔を背けてしまった。
 グリフィンの差し出した写真には、両目を銀色のテープに覆われ、口許から真っ赤な血を溢し、身体中は鋭利な刃物で切り刻まれて腹部から内臓がはみ出した彼女は、大きな真っ赤な椅子に足を組んで座らされていた。
 真っ白なドレスが目に痛くて、それを汚すどす黒い血潮が、既に彼女がこの世ならざる者になってしまったことを物語っているようだった。
 赤黒い腸の断片がだらりと垂れ、その写真を見ただけで、噎せ返るような血の匂いが記憶の中にまざまざと甦ってきて吐き気を催したジョエルが、グリフィンの腕の中でもがいても彼が思うよりも強い力で抱きすくめたせいでガタガタと身体が震え出してしまった。

「ああ、こんな物はもういいか。さて、あの時の話しの続きをしよう」

「う…ぐッ…話しだと?なんの話しがあるって言うんだ!?」

 これ以上俺に何を求めると言うんだ?
 無残な最後を遂げてしまったポリーの断末魔の写真を投げ捨てたグリフィンが、クスクスと笑いながら睨みつけてくるジョエルの双眸を覗き込んだ。

「首の傷を見てみろよ。あの時は油断したけど、今度は大丈夫だ。さあ、話そうじゃないか」

 グリフィンの首には確かに、あの日ジョエルが隙をついて刺したナイフの傷痕が残っていた。
 不意にヒョイッと抱き上げられて、ジョエルはギョッとしたように目をむいた。

「やめろ!下ろせ、下ろしてくれッ」

 混乱する頭を抱えながら、無様に暴れるジョエルの身体を容易く抱え上げたグリフィンは、笑みの形を崩さない整った唇を歪めてそんな彼をベッドの上に投げ出した。

「なんでこんな…どうして俺なんだ?ポリー先生は関係ないじゃないか、これは俺とお前の問題じゃないのか?」

「うん、そうだな。それにいちいち首を突っ込んできたポリーが悪いだろ。あの時もそうだった…違うか?」

「うう…それをお前が言うのか?」

 ジョエルは、昔愛した女性を思い出して、汗で張り付いた前髪を掻き揚げることも忘れたようにグリフィンの飄々とした顔を見上げている。憎らしいぐらい飄々としていながら、そのくせ、子供のような癇癪を起こすこともジョエルは知っていた。
 なのに、どうして今、これほどまでにグリフィンに怯えているのだろう…
 それは自分が、FBIを辞めてしまっているからなのか?
 纏まらない思考に苛々しながら、胸を締め付けるような苦い思い出を思うジョエルの顔を、グリフィンは興味深そうにジロジロと覗き込んでくる。

「あの勢いはどうしたんだ?わざわざシカゴまで来てやったってのに、歓迎すらしないなんてつれないヤツだ」

 グリフィンが平然とした表情でそんなことをしゃあしゃあと言うのを、ジョエルは眩暈にも似た感覚を覚えながら俯いた。
 大丈夫だ、俺の部屋は仲間が監視してくれている、きっといなくなった俺をさがして、いや、グリフィンの姿を見て捜査するに違いない。そうすればポリー先生の亡骸も見つけ出して、今度こそ本当にグリフィンからおさらばできる…淡い願望だったのかもしれない。
 そんなジョエルの様子を見て、その心の内までも感じ取ったのか、グリフィンがニヤニヤ笑いながらギシリとベッドを軋ませて圧し掛かってきた。

「そうそう!FBIのお仲間は来ないぜ?同じ轍は踏む気がないんでね、ポリーと一緒にお前は吹っ飛んじまったことになってるからな」

「なッ!」

 思わずカッと見開いた双眸の先に、思ったよりも近くにある綺麗なグリフィンの顔にギクッとしてしまった。
 ベッドを軋らせながら押さえ付けるようにして圧し掛かってくる恐怖に、ジョエルの身体はガタガタと子供のように震えだす。

「驚いた?これでもう、お前は死人の仲間入りだ。はっはっは!おめでとう」

 やたら陽気に笑うグリフィンに、ジョエルは額にビッシリと汗を浮かべながらその顔を睨みつけた。
 ああ、お願いだから誰か…これは悪い夢なんだと言ってくれ。
 ポリー先生を…吹っ飛ばしたのか?
 それは恐らく、グリフィンなりの『仕返し』だったに過ぎないのだろう。
 だが、ジョエルにしてみれば…

「ポリー先生に酷いことをして、俺を死人に仕立て上げて、何が目的なんだ?お前は、何がしたいんだ」

 咽喉の奥が渇いて、思うように声が出ない。
 咳払いしようとして、唐突に首筋を強い力で掴まれてしまった。

「ヒッ!」

 図らずも声が漏れて、ジョエルは信じられないものでも見るような目をしてグリフィンの顔を見上げた。その顔は、あの車に乗っているときに見た、駄々を捏ねる子供のような仏頂面だった。

「ポリーに酷いことをした、だと?オレはどうだ!?この火傷を見ろよ!あの女を逃がすためにお前がつけたこの火傷の痕を!」

 グイッとベッドに押し付けるようにして首を締め付けてくるグリフィンの強硬な手を、それでもジョエルは外せずにいた。地獄から甦ったこの悪魔に、いっそ殺されてしまえば楽になれるかもしれない…そんな浅はかな思いが脳裏に浮かんだせいかもしれない。
 散々喚きながら首をグイグイと絞めていたグリフィンは、唐突に大人しくなって、労わるようにジョエルの咽喉許に頬を摺り寄せてきた。激しく咽込むジョエルの胸が苦しげに上下して、唇を歪めて喘ぐ姿を肩で息をしながら眺めていたグリフィンは気が済んだのか、不意に身体を起こして汗で額に張り付いた前髪を優しく掻き揚げてやりながら、ジョエルの鼻先に鼻が触れ合いそうなほど顔を近付けて囁くように言った。

「だからオレは考えたんだ。世界中でオレにとってお前がたった一人の存在であるように、お前にとってもオレはたった一人の存在だろ?」

 息が交じり合うほど近付いて話すのは、グリフィンにとって取って置きの秘密らしく、ジョエルはおぞましさに死にたくなっていた。

「そうだろ?」

 ”あの時”のようにしつこく聞いてくるグリフィンに、ぐったりして思考回路もまともに動かなくなっているジョエルに、反発する力など残っているはずがなかった。

「ああ、そうだ…」

「やっぱりな!だからオレは考えたんだ、オレも今は死んだことになってるからな。一緒に死んじまえば一件落着ってことさ」

 だからってポリー先生を…開きかけた唇は震えるだけで、思うように言葉にならなかった。
 満足そうに笑いながらジョエルの上から退いて傍らに寝転んだグリフィンは、首を絞められて窒息する金魚のようにハァハァと荒い息を繰り返す男を大事そうに見つめた。

「…この足は、オレが撃った銃弾が貫いた傷が原因?」

 ふと、太股に触れてくる熱い掌の感触に気付いて、ジョエルはだるそうに頷いた。熱い掌で暫く撫でるようにして擦っていたグリフィンは、ガバッと起き上がってジョエルをビクつかせると、子供のようにキラキラした目でベルトに手をかけたのだ。
 カチャカチャとベルトに手をかけて外されながら、もう逆らえないでいるジョエルは訝しげに眉を寄せてグリフィンを見上げる。

「何をするんだ?」

 俺を殺してくれるのか?
 声にならない願いを込めて呟いた言葉に返ってきた答えは、ジョエルをギョッとさせるには充分すぎるほど充分なものだった。

「傷跡を見せてくれ」

「なぜだ?」

 至極尤もなクエスチョンを、グリフィンはウキウキしたように無視して、いそいそとベルトを引き抜いてジッパーを下ろしにかかる。その手を慌てて止めようとして、ジョエルはグリフィンに首を押さえ付けられてしまった。

「ぐぅッ…」

 死ぬことなどもう怖くはないと言うのに、どうしてだろう、抵抗できないとは…それは恐らく、痛みの恐怖に本能が従っているに過ぎないのだろうが。
 チキチキ…ッと音を立ててジーパンのチャックが下ろされ、あっと言う間に咳き込むジョエルは下半身をトランクス一枚にされてしまう。
 左足の太股に残された傷跡は、グリフィンが撃った銃弾に穿たれて痛々しいケロイド状の引き攣れを晒している。その太股を、汗でしっとりと湿った熱い掌がゆっくりと撫で擦り、ジョエルはなぜかジッとしていることが出来ないような奇妙な感覚を覚えて目を閉じた。
 だがそうすれば、余計に五感が冴え渡りグリフィンの行動が逐一判ってしまう。
 もう雨の日ぐらいにしか痛みはないが、それでも傷口に直接触れて、指先でその窪んだ部分を擦られるように触られてしまうと、微かな疼痛を感じたような気になってジョエルの眉が寄った。

「痛いのか?」

 傷口から目を離さずに、もちろん、傷口から指先を離そうともせずに尋ねるグリフィンを、だるくてガックリと項垂れたように片手の甲を額に乗せてジョエルは奇妙な目で見ながら首を左右に振った。

「いや、もう痛まん」

「どんな気分だった?」

 矢継ぎ早に聞いてくる質問は、良く聞けばまるで脈絡が無いように感じる。

「何がだ?」

 恐らく尋ねられる内容は判っているが、この図体だけは大きくなっている心がまるでガキのグリフィンは、答えを先に言えば怒り出すだろうから、尋ね返すと言う懸命な手段に出た。

「オレに撃たれた時に決まってるだろ。オレが撃った銃から飛び出した銃弾がお前の肉にめり込んで、肉を引き千切りながら貫かれていくその時の感想は?」

「痛いし、打ん殴ってやりたいと思うに決まってるだろ」

 何を言い出してるんだコイツは?と、怪訝そうに眉を顰めたジョエルは、食い入るように窪みになっている傷跡に指を擦り付けているグリフィンの姿を見て、不意にゾッとした。
 そうだ、コイツは頭がおかしい。もう一度俺の足に弾丸を打ち込んでやろうとでも思い始めたのか?
 不安になって眉を寄せたままグリフィンを睨んでいると、彼はそんな気などないのか、それとも全く別のことを考えているのか、どちらにしろグリフィンは執拗にジョエルの足を撫で傷跡を指先で擦っている。

「そうだな、血がたくさん出るし。本来ならこんなところに何か突っ込まれるなんてことはないんだからな…」

「何を言ってるんだ?」

 不審に思って益々眉を寄せるジョエルの目の前で、不意にグリフィンが左足を持ち上げるといきなり形の良い口唇を傷口に押し付けたのだ。

「な、何をするんだ!?」

 突発的な出来事に、薬にやられた頭はすぐに対応できないでいる。
 それでも悲鳴のような声を上げたのは、このグリフィンと言う恐ろしい殺人鬼に股を食い千切られるのかと怯えたからだ。

「…うッ!?」

 ギクッとしたのは、動かない足の傷口を、まるで軟体動物のような、別の生き物のように滑った舌先で舐められたからだ。

「やめ…ッ」

 ろ、と言いたくて、言えずに必死で上体を起こしたジョエルはグリフィンの髪を掴むことぐらいしかできなかった。そんなあまりにもささやかな抵抗など何の効力も与えられずに、グリフィンは丁寧にケロイドの引き攣れ部分から窪みまでを舐めている。
 唾液に濡れそぼった傷口は電灯の明かりの下でヌラヌラと光っている。それだけ濡れそぼっていると言うのに、グリフィンは執拗にケロイドの一筋一筋を丁寧に舐めていく。

(こ、これはいったいなんなんだ?何かの儀式なのか…ッ)

 グリフィンは丁寧にケロイドの部分を舌先で舐めながら、指先で窪みをグイグイと押すようにして擦ってくる。すると、唐突になぜか、ジョエルの身体の奥にビリッと電流でも走ったような感覚が襲ってきて身体がビクンッと震えた。
 何が起こっているのか、萎えかけた脳味噌では理解できない。

「ぐ、グリフィン…」

 消え入りそうな声に漸く我に返ったグリフィンは、肩に担ぐようにして抱え上げた太股から唇を離すと、戸惑ったように見上げてくるジョエルの顔を見下ろして呆気に取られた様な顔をした。

「…勃ってるのか?」

「なんだと!?」

 ギョッとして自分の下腹部を見ると、トランクスを押し上げるようにして勃ち上がりかけたモノが見えた。それでなくてもグリフィンの突拍子もない行為に動揺していたと言うのに、今度は自分の身の上に起こった事態に戸惑わなくてはならなくなった。

「なぜだ、こんな…ッ」

 女を抱かなくなって久しいとは言え、どうしてあんな奇妙な行為で欲情してしまったのか?薬のせいで、その辺の部分はスッカリ萎えているもんだとばかり思っていただけに、ハンマーで頭を殴られたぐらいには驚いている。
 慌てたように両手で隠そうとするジョエルの腕を掴んで、グリフィンは何か面白い玩具でも見つけた子供のように双眸を輝かせて圧し掛かってきた。

「判っていたんだ。この世界中でお前だけがこのオレを受け入れることができるってな!はっはっは、こんな早く実行に移せるなんて、ありがとう神様!」

「な、何を言ってるんだ…お、俺は、俺はちがッ」

 悪魔のような殺人鬼が神を語るとは甚だ馬鹿らしいことではあるが、今はそんなことを暢気に考えている場合ではない。なぜならそれは、グリフィンの口唇が自分の唇を塞ぐようにして降ってきたからだ。
 まるで男と女が交わすソレのように、肉厚の舌に歯列を割り開かれて情欲をそそるような口付けにジョエルは怯えたような目をして、反射的にグリフィンに抱きついていた。どうしてそんなことをしたのか理解できなかったが、ジョエルのそんな態度に気をよくしたグリフィンは益々濃厚に舌を絡めては吸う仕種を繰り返して深いキスを愉しんだ。

「こ、これは…ぅ…なんだ…ッ!?」

 口唇を無理に引き剥がしながら呟くジョエルの頭には、男同士でキスはおかしいとか、年下の男にいいように扱われている事実だとか、その相手がなぜ殺人鬼のグリフィンなんだとか、そう言った実に現実的な観念が抜け落ちていた。今目の前で繰り広げられているこの行為自体に、ジョエルの頭はバーストしてしまいそうになっているからだ。
 そんなジョエルの甘く濡れて戦慄く唇に舌を這わせながら、グリフィンは今まで見たこともないような上機嫌で、差し詰め墓場で会ったあの時、素直に従ったときに見せた嬉しそうな表情を浮かべて、足の間に割り込んでいた身体をずらしながらトランクスに手をかけた。

「セックスだよ!もうこれは、生まれる時から決まっていたことなんだぜ。だからオレは、女どもを殺しながらずっと考えていたんだ。オレを受け入れても壊れない存在を!」

「セ…何を言っているんだ、お前は。俺は男だ、受け入れるべき対象じゃないだろう」

「傷口を舐められて感じたのはその証拠じゃないのか?」

 グッと言葉に詰まって息を呑むジョエルの狼狽えたように揺れる瞳を覗き込んで、グリフィンはしたり顔でその首筋に舌を這わせる。咽喉仏は唾液を嚥下して上下に動き、その動きを舌で追いながら浮き上がった鎖骨に這わせると、女を知っている身体が快楽の在処を知ってヒクリと戦慄いた。
 男の即物的な欲求は即ち形となって現れるが、未だに事の重大さを理解できないでいるジョエルは溜め息を零しながらグリフィンの黒い艶やかな髪を引っ張った。

「やめろ…お前の相手は俺じゃない」

「そうか、じゃあ実行してみよう。それで違っていたらそれまでだ。うん、簡単なことじゃないか」

 少し顔を上げたグリフィンは、どうでもいいことのように眉をヒョイッと上げて、肩を竦めるとそんなことを軽い口調で言った。

「…違っていたら、俺を、俺を殺してくれるのか?」

 あの時、死を感じたあの時は確かに、生きることに目覚めていた。
 薬漬けの毎日にうんざりして、それでも、こんな自分でもまだ何かの役に立つことはあるんだと、皮肉にもグリフィンを追いかける日々で生気を取り戻していた。
 だが今は、頼るべき女医も死に、仲間たちは既にジョエルの葬式も済ませているかもしれない。
 そんな絶望の中で、どうして生きていけと言うのか…ましてや、この冷酷で頭のおかしい殺人鬼に犯されるというのに。

「…」

 顔を上げていたグリフィンは不意に、その切れ長の美しい双眸を細めて、まるで残酷な遊びに取り憑かれた子供のような目をして見下ろしてきた。そして、ふと馬鹿にしたような苦笑を浮かべてジョエルにキスをしたのだ。

「ああ、殺してやるさ」

 そんなはずがある訳ないと確信している双眸は揺らぐこともなく、グリフィンは上体を起こして膝立ちになると、着ていたシャツを引き千切るようにして脱ぎ捨てた。その身体は、何をしてそこまで鍛え上げたのか、程よくついた筋肉に覆われて驚くほどスタイルが良かった。

「オレが教えてやる、男同士も捨てたモンじゃないぜ?」

 ニヤッと笑った頬の引き攣れが、痛々しく歪んで、その顔に兇悪の影を落とした。
 グリフィンが怒っているんだろうと、ジョエルは観念して瞼を閉じた。