く見ていなかったんだ。
弟はそんな僕の背中を片手で抱くようにして身体を潜めながら、興味深そうにその一連の行動を見守っていたから、その時の様子は実は匡太郎に聞いたんだ。
は、早く終わってくれないかな?とか、もし、遺体が動いたらどうしようとか、目の前に動く死体である匡太郎がいるってのに、僕はその恐怖の対象にだってなり得る弟に抱きつきながら、こんな時に限って遅々として進まない時間や恐怖と戦っていた。
僕よりも年下の弟である匡太郎はこんなに平然としてるのに!ホントはちょっと恥ずかしいんだ。ううん、きっと凄く恥ずかしい…でも、それよりも僕は、真新しい棺桶の中で眠っている国安の友達のお姉さんの死体が動き出しませんように!と、真剣に祈っていた。そん
な僕の気配を感じたのか、匡太郎は安心でもさせようとしているように、軽く僕の背中を叩いてくれたから…どうしてだろう、それだけで少しホッとできたんだ。
それで、唐突にハッとした。
今までは死体とか、毛布の向こうから聞こえてくる奇妙な唸り声だとか…あとでその声は読経だったって教えてもらったんだけど、僕はそんなものに怯えて竦んで、状況を把握することなんか丸っきりできる状態じゃなかったんだけど、匡太郎が励ますように上からギュッと抱き締めるようにしてくれてホッとしたもんだから、唐突にその事実に気付いたんだ。
毛布の向こうの様子を伺いながら僕の心配をしている匡太郎の、普通の人間の体温よりも低い、冷たい肌の感触を薄いTシャツ越しの背中に感じたら、心臓の音が伝わらない不自然な感覚に早鐘を鳴らすように鼓動が早くなった。
ドキッと、心臓が跳ね上がる。
僕は…こんな時なのに、弟に怯えているのかもしれない。
そんな僕の馬鹿な考えなんかお見通してなのか、匡太郎は覆い被さるように抱き締めてきながらふと、笑ったみたいだった。
今まではスッカリ忘れていたんだ。
匡太郎は、身体はたぶん死んでいるんだろうけど、なぜか呼吸している。
それはきっと匡太郎が生きていた時の記憶が無意識の行動として起きている現象に過ぎないんだろうけど、そのおかげでまるで生きているように見えるんだ。だから僕は、きっと忘れていたんだ。
その上に僕は、その弟に怯えてるんだから…僕と言う人間は…なんて、なんて無責任なヤツだろう。
キュッと唇を噛んで、冷たい船底に頬を摺り寄せるようにして瞼を閉じたら、笑った匡太郎の吐息が首筋を掠めたんだ。
コッソリと真上から僕を見下ろしているんだろうな…今の僕は、いったい匡太郎にどんな風に写っているんだろう?
「…光太郎、怖い?」
毛布が阻んだ匡太郎の声は、もちろん外に聞こえるはずはないんだけど、それでなくても負い目に苛まされて竦んでる弱虫な僕の耳には思った以上に近くで聞こえたその声は予想以上に大きかったみたいで、ビクッとして振り返りそうになってしまった。でもそれはすぐに匡太郎の大きな掌に遮られて、どうやら毛布を動かして外の人たちに僕たちの存在を知らせないで済んだみたいだ。
「…ごめん」
コッソリと謝ったら、大丈夫だとでも言うように頭に何か柔らかいような固いような感触が触れてきて、それが匡太郎の頬だと言うことに気付いた。
温もりがあれば…すぐに頬だって気付けたはずだ。
僕は…僕があの公園に約束通り行っていたとしたら、たぶん、弟があの暑い熱帯夜の公園で殺されることもなかっただろうし、こうして蘇えることもなかったんだと思う。そう思うと、やっぱり罪悪感が襲ってきて、僕は息苦しくなる。ましてや毛布なんか被っているからもっと息苦しくて…でもそれが、匡太郎がこの暑いのに抱きついてきているから…なんてことはないよね?
さっきまで抱きついていたのは僕のほうなんだし、安心させてくれようとしている弟に…弟に安心させてもらってる兄貴ってのも情けないんだけど…振り払うのも申し訳ないし、と言うよりも、安心しきってる僕からこの柔らかな締め付けを奪うのは酷だと思う。
さっきまで怖がっていたのに…僕ってばホントに現金なヤツだ!
「こちらこそ。怖がってるって知ってたんだけど…」
匡太郎がクスクスと笑う。
囁くと耳元に微かな息が触れて…こうしてると、本当に生きてるみたいなのにな。
匡太郎の身体は冷たいままで、心音も背中に伝わってこない。
どうしよう…泣きたくなってくる。
鼻の奥のほうがツンとしてきて、じわりと目の縁に何かが盛り上がる感触がしたら、やけにご機嫌な弟の声が聞こえてきた。
「こうして抱き締めてると、アニキは温かいね。オレは冷たいけど、ほら、アイスノン代わりになって暑い夜には最高だろ?」
何が楽しいのか、今夜の匡太郎はすごくご機嫌だ。
僕は申し訳なくて泣き出しそうなのに、僕の様子にホントはちっとも気付いていなかった弟は陽気に笑って抱き締めてくる。
冷たい身体がアイスノン代わりだって!?どこからそんな発想が浮かんでくるの?
どこに自分の身体を代用品に喩える人がいるんだよぅ…
泣きたいし笑いたいし…僕は本当にこの弟に救われてるんだと思う。
どうして僕は、こんなに優しくて楽しくて、頼りになる弟をあんなに嫌っていたんだろう?
きっと、他の誰よりも理解のできない苦痛に責め苛まれながら、日々を怯えて過ごしているに違いない、まだたったの17歳で、人生にけして訪れることのない最大級の災難に見舞われている弟の、その苦痛を理解してやることもできずにただ甘えてばかりいて…最低のお兄ちゃんでごめんね。
僕は、抱き締めてくる弟の腕に縋り付くようにして頬を寄せながら、小さく笑ったんだ。
「ホントだ。気持ちいいね…」
呟いたら、匡太郎はそうだろ?とでも言いたそうに嬉しそうに笑ったみたいで、その仕種が僕にはとても切なかった。でも、今の僕には切ながったり悲しがったりばかりしているワケにはいかないんだ。
…と言うことを、今更ながら匡太郎のウキウキした声音で思い出させられてしまった。
「ホラ!国安さんだ。そろそろ未知の船出に出航…道中、お気をつけて」
まるで他人事みたいに意地悪く呟く匡太郎の一回りは大きな身体の下で、僕は恐怖に竦んでしまっていた。
これから赴く場所は死体が消えちゃう未知の島で…わーん、国安が乗り込むまではへっちゃらだったのに、僕は途端に怖くなって匡太郎の腕に今以上に強い力でしがみ付いてしまった。
「…では、渡し守。本日、滞りなく…」
外でボソボソと話し声が聞こえると、渡し守の役をしている国安が礼をしてから、ギシッと小船を軋ませて乗り込んできた。そうして、彼はオールで砂浜を押し遣るようにして海へと漕ぎ出したんだ。
潮風を感じたのは匡太郎がソッと毛布を捲って顔を外に出したからだった。
バックンバックン高鳴る心臓を押さえながら一緒に顔を出してみたら、忘却の川の渡し守のような格好をした国安がフードの奥からボソッと呟いたんだ。
「期待してくれるのは有り難いんだけど、もう少し隠れててくれよ。あと少し漕いだら、村人はそれぞれの家に帰るから…」
「OK」
軽く呟いてから、匡太郎は僕の頭を押さえるようにしてまた船底にへばりついたんだ。
これから行く波埜神寄島にはもしかしたら、ゾンビがうじゃうじゃいたらどうしよう…
匡太郎みたいに生きてる人と体温とか肌の色とかが少し違うぐらいで、まるで生きてるのとちっとも変わらない姿なら僕だって耐えられる…でも そこまで考えていたら、頭上から匡太郎の声が降ってきたんだ。
「大丈夫。アニキはオレがちゃんと守るから…いや、アニキに守ってもらうんだっけ?」
クスクスと笑って、匡太郎の鼻先が僕の頭に触れてくる。
馬鹿にされてるってことは判るけど、それでもそんな匡太郎が傍にいてくれてるって思うと強くなれるのは、現金な僕の性格の成せる業だと思うよ。
「ぼ、僕が守るに決まってるだろ!」
声が裏返っていまいち様にならないんだけど…バツが悪くてモジモジしていたら、国安が声を押し殺したような低い声で笑っているのが聞こえてきた。
「どっちもどっちだって。大変なことなんてなんにも起こらねーよ。文献探しに時間がないってだけさ」
「言えてるね」
匡太郎が爆笑するから、僕はムッとしてその腹に肘鉄を食らわせたんだ。
怖がってるのは僕だけって言いたいんだろ!?くぅ~!!!
僕は負けないぞ!
絶対に匡太郎を守ってみせる!!
僕は決意しながら、波に揺れてゴツンッと船底を叩く棺桶に怯えながら匡太郎の腕にしがみ付いた…ってこれじゃ、ちっとも説得力がないよ。
肩を揺らして笑う匡太郎の気配に国安も気付いたのか、波の音に混じって笑い声が聞こえてくる。
僕って…いや、こんなことじゃもう落ち込まないぞ。
波頭を蹴って走る小さな船は、そんな三者三様の思いを乗せて波埜神寄島に向かって進んでいた。
僕たちは…いや、この僕は。
本当に匡太郎を救ってあげられるのだろうか…?
一抹の希望のような思いは、波音に消される匡太郎の呼吸のように儚いように思えていた
。