「肋骨三本、両腕の骨、その他数箇所の骨折だってさ」
相変わらずの仏頂面で帰って行った医者を見送ったアシュリーは、両手に氷の入ったボウルを持って、つまらなさそうに不貞腐れてそう言った。同居しているせいか、俺の保護者と言う形で医者と話をしたらしい。
「どれぐらいかかるって?」
「少なくとも二ヶ月は安静にしてろって…でも、光ちゃんのことだから、仕事があれば無理するだろうから見張ってろとも言われたよ」
不服なのは看病することに対してなのか、医者の言うことを端から無視しようとしている俺に対してなのか…恐らく、やっぱり後者なんだろう。
「見張ってなくてもいいって。無茶はしないから…」
「嘘だね。顔にそう書いてあるよ。熱が続くだろうから、頭を冷やさないと…」
カランッ…と小気味良い音を立てて、アシュリーの長い指先が冷え切った氷水に浸けられた。タオルがしっとりと水分を含んでいく。
あれから、アシュリーは何も言わない。
俺から聞くことを待っているのか、聞かれることに怯えているのか…
俺としては、それら全てのことが嘘のように思えて仕方ないんだ。あの、アシュリーが困惑してるんだからな、驚かない方がどうかしてるって。
いつも飄々として掴み所のないアシュリー、殺し屋と言う職業も卒なく淡々とこなしてる。
あのヴァンパイアの言った一言が、いったいどれぐらいアシュリーを困らせているんだろう。
『遠き異国の旅人ってなんだ?』
簡単に聞けそうなのに…う~ん、なんか聞き辛いんだよなー。
「あ!そう言えば翔太からメールがきてないか?たぶん、添付ファイルで送ってくると思うんだけど…」
すみれにだけは秘密にしているメルアドは、専ら仕事専用に開放してある。すみれの奴に教えたら最後、訳の判らん画像やメールを送ってきて大変なことになる。
そんなことはないと思うけど、開発したばかりの新型ウイルスでも送信されたら取り扱いに困ってしまう。俺はそれほど、ネットに詳しいわけじゃないんだ。
『これは本当に優れていてね、送信者のアドレスを判らなくしちゃうのよ!それで、着信と同時に勝手に開いてパソを壊しちゃうから、嫌な奴に送っちゃえ~』
と、あっけらかんと翔太に言って渡したことがある。でもって、翔太がそれをどうしたかと言うと、それは想像次第だから敢えて何も言わないでおく。うん。
「翔太ぁ~?また、アイツか」
俺の額に濡れたタオルを置きながら憮然とした口調のアシュリーは、眉間に皺を寄せて唇を尖らせた。
どうしてこう、翔太とアシュリーは馬が合わないんだろう。きっと、生まれながらの犬猿の仲って奴なのかもしれない。
「たぶん、きっとアレだろうね」
不服そうにそう言ったけど、極めて平常心を保つようにしてるんだろう、アシュリーはヒョイッと長い腕を伸ばしてサイドボードから小さなモバイルを取り上げた。
「はい。身体に負担がかからないように小さい方に移しておいたよ。こっちの方が早そうだしね」
殺し屋のクセにパソコンが全く判らないと言うアシュリーは、見様見真似で覚えたから少しぐらいは扱えると威張って弄りたがる。笑っちゃうような奴だ。
「サンキュ」
「お礼なら言葉じゃなくて態度で欲しいね」
これだよ。
「礼を言ってもらえるだけありがたいと思え」
「つっめたいねー。そんなだったら嫌われちゃうよ?」
肩を竦めて苦笑したアシュリーは、起ち上がった画面に写し出される新着メールの表記を興味深そうに目で追っている。翔太からのメールは、〝情報〟のタイトルで内容は何も書かれていない、極めてシンプルなものだ。
「…メールってもっとこう、何か書くもんじゃないの?」
あまりのシンプルさに納得がいかないのか、アシュリーは不服そうに唇を尖らせている。
「いいんだよ、これで。あいつはこう言う性格だから」
「ふぅん」
いまいちの表情で腕を組んだが興味はもう内容に移ったらしい。ジッとちっこい画面に見入る大男というのは、何となく笑えるから不思議だよな。
「これって、例のヴァンパイアの情報なんでしょ?」
思わずドキッとした。
添付ファイルを開こうとマウスを動かす手が一瞬だけ強張ったように止まる。
「?」
訝しそうに俺の顔を覗き込んでいたアシュリーは、それから何だか不機嫌そうな顔をして何かを納得したように勝手に頷いて立ちあがった。
「オレがいると迷惑だね。そっか、守秘義務ってヤツだ」
別にそんなつもりはないのだが、勝手に勘違いしたアシュリーは何となくその垂れ目を冷たく細めて俺を見下ろすと、憮然としたままでせまっ苦しいキッチンの方に姿を消してしまった。コーヒーでも煎れるんだろう。
俺はそんな後ろ姿を無言で見ていた。
◇ ◆ ◇
結局俺は、何となくファイルを見ることができなかった。
確かに依頼のヴァンパイアのことだから、何を差し置いても早く見ないといけないんだけど、同じヴァンパイア関連でも【遠き異国の旅人】のことで頭がいっぱいだったんだ。
それを感じ取っているのか、アシュリーは俺の額に額を擦りつけながら、熱を測るついでに覗き込みながら聞いてきた。
「何か聞きたいって顔してるよ」
「ええ!?」
ドキッとした。
そうだ、こいつには俺の考えてることが判っちまうんだ!…う~、厄介なヤツめ。
「べ、別に俺は…」
「ん~、どうなのかなぁ?」
鼻先を合わせるような近さで覗き込みながら動揺に視線を逸らす俺の顎を掴んで、負担にならない程度にクイッと上げてキスするように問いかけてきた。
「本当は聞きたいんでしょ?あのヴァンパイアの言った【遠き異国の旅人】のことを」
長い睫毛に縁取られた綺麗なエメラルドの瞳が、どこか寂しそうに、奇妙な光を宿している。
何でそんな目をするんだ。
あのヴァンパイアと会話をしていたときも、こんな奇妙な目をしていたっけ。
聞いてもいいけど、本当は聞いて欲しくない。
まるでそう言ってるような表情が、なぜか酷く胸を苦しくさせた。
「聞いてもいいよ」
俺の唇に額を押し付けて、ヤツはうっとりしたように双眸を閉じると、まるで呟くようにごく簡単にそう言った。
「そのかわりキスして」
唇から俺の胸元に額を落として、心音を聞こうとしているように頬を寄せるアシュリーに俺はいよいよ息苦しくなって、動かせない腕で思いきり突っ撥ねようとしたけど無駄だった。
当たり前だよな。
広辞苑四冊分の重さの辞書を平気で三冊軽々と持ち上げるヤツだ、俺が押したぐらいで退けるはずもない。判ってるけど、息苦しいんだっ!
…でも、それなのに折れた肋骨が疼かないのはどうしてだろう。
アシュリーの体温は薄いパジャマを通してこんなにハッキリと伝わってきてるっていうのに、不思議とそれほど重さを感じない。
こいつ…ったく。
「いい加減にしろよ、アシュリー!お前に聞かなくても知りたいことがあれば自分で調べるさ。だから何で俺が…その、き、キスなんかしなくちゃなんねぇんだよッ」
ふんっと強がって鼻で息をしてやると、アシュリーはちょっと面食らったような顔をして上目遣いに俺を見上げてきたけど、顔を起こすと照れたようにはにかんだ。
その表情が嬉しそうに見えるのは、やっぱ聞いて欲しくないんだろうな。
「ごめんね、光太郎」
そう言って、ヤツは頬に口付けた。
掠めるだけの、ほんの一瞬。
「バーカ」
俺は敢えて憎まれ口でそう言って、でもそれ以上は口を開かなかった。
◇ ◆ ◇
医者は二ヶ月だと言ったが、俺は根性で一ヶ月半で身動きが取れるまでに回復させた。まだ動かせば胸は痛むけど、これ以上寝てられるか。
「オレとしてはもう少しベッドにいて欲しかったんだけど…でも、やっぱり元気な光太郎の方が嬉しいよ」
アシュリーは早速朝刊に目を通してる俺に、ちょっと呆れたような苦笑を洩らしながらそう言った。あったりまえだろ、俺は元気が取り柄なんだ。
「あ、そうだ。これから暫く仕事で家を空けるけど、いいかな?」
「仕事って…」
ハイネックの黒のセーターを着たアシュリーは捲くっていた袖を下ろしながら、ソファに無造作に投げ出していたオフホワイトのコートを取り上げてあっさりと言った。
「殺しだよ」
酷く、無頓着に。
「けっこう、面倒な相手でね。時間がかかりそうだから、もしかすると一週間はかかるかもしれない。だからさ、この一週間だけは絶対に危険なことに関わっちゃダメだからね」
前科のある俺としては思わず言葉を詰まらせたけど、だからってコイツがいない一週間を何もしないで過ごせる訳がない。と言うか、煩いのがいない、丁度いい絶好のチャンスじゃないか!
「そうか!そりゃあ、大変だな!頑張ってこいよ!」
俺が盛大に激励をしてやると、アシュリーのヤツは憮然とした表情をして大丈夫かなぁ…と言いたそうな目で見下ろしてきた。
キッチリとコートを着込んだアシュリーは玄関まで歩いていき、不意に、コロンボのようにひょいっと俺を振り返える。
気にしている垂れ目は、どうかすると優しく見えるから不思議だ。
殺し屋なのにな。反則だよ。
「これからって…これから行くのか?すぐに?」
「そうだよ。寂しい?」
「バカ言ってんな」
投げやりに返すとアシュリーのヤツはクスッと笑って、じゃあね、と言って出ていった。
アイツは、仕事に行く時は必ず【じゃあね】と言う。
じゃあ、また後でね…の短縮形なんだと本気で信じてる。流暢な日本語を話すくせに、どこか抜けてるヤツなんだ。
でも俺は、そう言うアイツが嫌いじゃない。
きっと好きなんだと思う。この【好き】がどんな感情なのかは判らないけれど、俺はきっと、あの殺し屋のことが好きだ。
俺はアシュリーの出ていったドアを暫く呆然と眺めていたが、唐突に鳴った携帯にビクッとして、慌ててソファに投げてあるダッフルコートから旧式の携帯電話を取り出した。
「もしもし?槙村だけど…」
『光太郎?あったしよ、あたし。すみれよ』
鈴が転がるように可愛らしい声音でコロコロと呼びかけられて、俺は何故かホッとしたように吐息した。
『どうしたのよ?溜め息なんか吐いちゃって…なぁに?あたしでガッカリしちゃったってカンジね』
すみれが受話器の向こうでクスクスと笑っている。
「どうしたんだよ?」
『どうしたんだよ…じゃないわよ!一ヶ月ちょっとも連絡を寄越さないで!心配したんだからね。電話しても、あのアシュリーって言うフィンランドの恋人が出るだけじゃない。何かあったんじゃないかと思ってたのよ』
「ん、まあちょっとな。それだけか?」
恋人の部分を思い切り無視した俺が端的に問い返すと、受話器の向こうのすみれは、きっとあのピンクのグロスにてかってるだろうぽってりした下唇を尖らせながら、怒ったように溜め息を吐いているようだった。
『ねえ、翔太のファイルはもう見たの?』
「あ、それがまだなんだ」
仕方ないわねぇと、すみれがあの可愛い仕草で小首を傾げている様子が浮かんだ。
『じゃあ、もうそれって用無しだと思うのよね。時間も経っちゃってるし…ねえ、あたしってば知り合いに聞いたんだけど、ヴァンパイアハンターとエクソシストをしている牧師さんがいるらしいのよ。ねぇ、その人とお話したらどうかしら?』
「マジで!?教えてくれよ!その牧師の住所!」
俺は唐突に現実に戻った。
そうだ、【遠き異国の旅人】のことだって判るかもしれない!この事件に深く関わってる気もするけど、そのこともその牧師なら知ってるかもしれないし…
すみれが教えてくれた住所をメモ帳に書き留めて、俺は短く礼を言うと携帯を切ってダッフルコートを片手に家を飛び出した。
◆ ◇ ◆
彼女の匂いがしていた…
遠い昔、記憶が覚えている彼女の匂い…
もう間もなく、この腕に抱ける。
あの懐かしい身体。
温かくてぎこちない。
甘い血の流れる、あの身体…
◆ ◇ ◆
俺はすみれに教えてもらった住所を手掛かりにその教会を探した…けど、それは案外すぐに見つかった。俺の家から車で数分のところにある、こじんまりとした質素な教会だった。前庭も狭くて、マリア像も建ててない。
貧乏なのかな。
貧乏探偵の俺としては妙なところに共感が持てて、早速薄い木のドアを叩くようにノックして反応を待った。
「はい」
ガチャリッ、ギギギィーーーっと、軋らせながら扉が開いて、年の頃、俺よりも1つか2つぐらい上と思うひょろりとした男が顔を覗かせた。
痩せた顔は青白くて、まともに飯を食ってるんだろうかと心配になるほどだ。
「え、えっと。あの、わたし立原氏よりご紹介されて来ました、槙原と申します」
「ああ、話は伺っています。さ、お入り下さい」
そう言って、ひょろりとした男は俺を教会の中へと促した。
ひんやりとした空気の流れるそこは、神聖で厳かな…と言うイメージはあまりなかった。と言うのも、この教会が清貧だって判るからだ。
辛いだろうなー、うう、その気持ち判るよ、俺。
細長い、教会に良くある椅子が対で3列しかない狭い講堂を抜け、懺悔の為の小さな小部屋があるその脇の扉から応接室…と言うか、事務所になっている部屋に通されて待っているように促された。
どうやらあの牧師がここの主ではなさそうだ。
雑然とした室内は狭く、俺としては懐かしさでいっぱいになる趣だけど、一般人に言わせると汚くて狭いと言う表現になっちゃうんだろうなぁ、この場合。
取り急ぎの書類でもあるのか、使い古した旧式のタイプライターで何かを打ち込んでいる先ほどの牧師の使っている机も、古い蔵書が無造作に並べられている埃の被った本棚も、まるで一昔前の映画から抜け出してきたような光景だった。
「どうかいたしましたか?」
ぼんやりと室内を不躾に見渡す俺の気配に気付いたのか、縁無しの眼鏡をかけた牧師が怪訝そうに声をかけてくる。
「あ、いえ。なんでもないです」
俺は取り繕うように笑って、傍らでシュンシュンッと蒸気を上げている薬缶と、暖かな温もりを燈す旧式のストーブを何となく見た。
その時、先ほど俺が入って来た扉が開いて、誰かが室内に入って来たのが判った。座っているのも失礼だろうと思った俺は、慌てて立ち上がるとローマンカラーシャツにジャケットを羽織っているこの教会の主でありエクソシスト、そしてヴァンパイアハンターも兼任していると言う凄い人に挨拶をした。
「あ、この度はお忙しいところを時間を頂いてしまって。私は槙原光…」
そこまで言ったら、牧師さんは低く笑ったようだ。
俺は訝しく思いながら顔を上げた。上げて、アッと驚いた。
そこにいたのは、深夜の裏路地で俺の肋骨と両腕をへし折ってくれた、あのヴァンパイアだったんだ。
◇ ◆ ◇
「とうとう、こんなところにまで来るとはね。光太郎くん」
「あ、あんたは…!」
俺は上ずる声をなんとか正常に戻そうと努力しながら後退さると、警戒しながらクックッと咽喉で笑うヴァンパイアを睨み据えた。
まずいな…腕も肋骨も完全ってワケじゃない。こいつと、まともな時でさえ互角じゃなかったこいつと、どこまで渡り合えるだろうか。この身体で。
「ああ、気にしなくてもいいよ。更科くん。君は仕事を続けなさい。光太郎くんも、そんなに力まなくてもすぐにどうこうしようとは思っていないから心配しなくてもいい」
気障ったらしいヴァンパイア野郎は優雅な身のこなしでそう言うと、手に持っていた聖書と十字架を散らかった机に置いて、警戒している俺に向き直った。
「座りなさい。身体に響くだろう」
ちっ、やっぱり不調ってヤツはどんなに隠していてもバレるってことか。
なんてこった、このヴァンパイア野郎はこの日中に外に出ていたって事か?
不意に、窓から射し込む陽射しに気付いて俺は瞠目した。
…十字架と聖書と教会と太陽、もしかしたらニンニクも平気だとか言うんじゃねーだろうな。恐るべし、ヴァンパイア。弱点なんかあるのかよ?
「自己紹介がまだだったね。私はアリストア=レガーシル。この教会の牧師をしている」
そんなの見りゃ判るって。
「おおかた、遠き異国の旅人について聞きに来たのだろう?あの、美しい野獣は何も教えてくれなかったのかい?あれほど、大事にしているように見えたのだがねぇ…」
「大きなお世話だよ。あんたが牧師なんてな、世も末だぜ」
漸く乾いた口から声を絞り出して、俺は額に嫌な汗を浮かべながら笑ってやった。
「くくく…この世に神がいると、君たち人間は本気で信じているのかい?私は神にはあったことはないが、悪魔にならあったことはある。そう言う世の中だよ、光太郎くん。私が牧師であったとしても、なんら驚くほどの事でもないだろう。さて、君の用件を聞こうか」
俺はカサカサになった唇を何度も舐めながら、緊張で冷たくなる指先を感じて握り締めていた拳を開いた。
本気でそんなこと言っているのか?コイツは…
いや、魔物の言うことだ。
「信じる信じないは君に任せよう。聞きたい事があるのなら早く言うといい。私もそれほど閑ではないのでね」
人間を食らいに行くのかよ…と聞きそうになったが、俺は敢えてその言葉を飲み込んだ。もし、コイツが本気で『遠き異国の旅人』のことを喋る気なら、それを聞くのも手だ。嘘だとしても、何かしら得るものはあるだろう。
机の端に軽く腰掛けた姿勢のアリストアは器用に眉を上げると、映画俳優か何かのように口許に薄い笑みを貼りつかせて、促すように片手で椅子を勧める。
俺は、俺は賭けてみようと思った。
無言で腰掛けながら、油断なくヴァンパイア野郎の様子を窺う。
なんでもないことのように、ヤツは肩を軽く竦めた。
その口から漏れた言葉に、俺の顔色が変わるのはそれからすぐのことだった。