翌日の少し遅めの朝、重い機材の入った鞄を肩に担ぎながら今日も仕事のグリフィンが呟くと、2人で飲むために淹れたコーヒーの満たされたカップを持ったままでジョエルはポカンとした。
昨夜の子供っぽさはどこへやら、相変わらずの無表情でチラリとジョエルを見て、それからグリフィンは溜め息を吐くように淡々と続ける。
「綺麗なリネンのシャツでもネルシャツでも好きに着るといい。部屋の掃除も食事の用意も、なんでも好きにするといい」
「食事の用意は困るな。料理は下手くそなんだ」
クスッと苦笑して、手にしていたカップのひとつを窓辺のテーブルに置くと、無表情のままで立ち尽くすグリフィンに、取り敢えずコーヒーでも飲めよとカップを差し出した。
「…迷えばオレが迎えに行く。オレを必要とするなら何時間でも付き合ってやるよ」
温かなコーヒーを受け取って湯気を見詰めながら呟くグリフィンの申し出に、ジョエルは肩を竦めて素直に頷いた。
「もう、俺が逃げないと思っているのか?」
意地悪く聞いてみると、グリフィンはムッとしたように眉を顰めはしたものの、不意に意地悪そうな顔でニヤリと苦笑してみせた。
「逃げたければ逃げればいいさ!ジョエル、あんまり傍に居すぎたせいでオレはすっかり忘れていたんだ。好きなだけ逃げるといい、オレは何処へだってお前を追いかけて行くだけさ」
「はははっ、そうだったな」
スモッグに汚されているはずの清廉な朝日が室内を明るくするシカゴの朝。
窓辺に凭れると腕を組んで声を立てて笑うジョエルの姿にグリフィンは双眸を細めて、それから、彼の淹れた苦いコーヒーに舌鼓を打つ。
こんな素晴らしい日常の日々が訪れるなど思ってもいなかった。
自分と居ることでジョエルすらも闇の世界に引き摺り込もうとしていたのに、彼は彼が持つ本質の部分で、確りと自我を確立していたではないか。
グリフィンが必要ないと思っていたはずの光の中で、ジョエルは確りと踏み止まって、闇しか見えていなかったグリフィンを優しさと言う光で包み込んでいる。
グリフィンはもう二度と、この存在を手離すことはないだろうと思った。
たとえ死がジョエルから自分を引き離したとしても、地獄の底へ追いかけて行くのも悪くなければ、地獄の底で待ち続けるのもまた、悪くないと思ったのだ。
「じゃあ、またな」
空になったカップを傍らの本棚の上に置いてから、グリフィンは機材の鞄を抱え直して、それから部屋から出て行こうとした。
「ああ、気を付けて」
その背中にあれほど聞きたいと思っていたジョエルの声が響いて、グリフィンは冷たい外気を肺に吸い込みながら瞼を閉じて微笑んで扉を閉めた。
グリフィンが立ち去った部屋は朝陽が射し込んでいると言うのにどこか寒いようで、ジョエルは少し温くなった苦いコーヒーを飲んで顔を顰めた。
「アイツはこんな苦いコーヒーをよく平気で飲んだな」
自分で淹れたくせに、その不味いコーヒーに悪態を吐いて、それからふと、ベッドサイドに置かれている小さなテーブルの上の一輪の花に気付いた。
それはグリフィンが数時間しか眠れない恋人に残したメッセージなのか、いずれにせよ、ジョエルは彼の気障な演出に盛大に照れてしまったようだ。
「俺は男なのに、こんなことをしてくれても意味がないと思うんだが…まぁ、嬉しいと感謝ぐらいはするだろうよ」
頬を染めて苦笑したジョエルは、その黄色が美しいダッフォディルを手にして窓辺に赴くと、新しく入ったのか笑顔の可愛い少女が店先の花の手入れをしているのを見下ろした。
エキゾチックな黒髪の青年はどこかグリフィンに似ていて、どうしても認めたくはなかったはずなのに、子供のように純真だからこそ人殺しと言う悍ましい行為を平気で遣って退けてしまうあの綺麗でこの上なくキュートな男がいない寒々しい部屋の中があまりに寂しくて、彼を見つめることが日課となってしまっていた。
グリフィンが嫉妬するような感情は抱いていなかったが、ともすれば、グリフィンがジョエルに対する執着のような感情は微かにあったのではないかと自分に問いかけてみた。
闇のようなグリフィンにはない陽気な青年は人当たりが好く、花もそこそこ売れていたように思う。グリフィンが抱えているような闇は持っていなくて、もし、そうだ、もしグリフィンが一抹の翳りもなく、あの青年のように陽気で暢気に暮らすことができていたとしたら…彼を見詰めながらそんなことをずっと考えていた。
そんなことはもう有り得はしないのだが、それでもジョエルは考えずにはいられなかった。
もしグリフィンが稀代の殺人鬼だなんだと噂されることもなく、どこかの田舎で平凡な人生を送っていたとしたら、他の青年たちと同じように笑って騒いで…そんな当たり前の生き様だったとしたら、彼と自分が出会うことなど有りはしなかっただろう。
たとえば花屋の店先でエキゾチックな笑顔を浮かべて花を売っていたとしても、それはそれで随分様になるし、人殺しなどと言う悍ましい世界からは隔絶されて、彼の持つ独特な純真さで幸福な日々が訪れたのではないだろうか…そこまで考えて、ジョエルは途端にゾクリとした。
いや、それは全てまやかしにすぎない。
グリフィンは身内に悍ましい闇と滴るような狂気を抱えているからこそ、ディヴィッド・アレン・グリフィンと言う独りの人間として確固たる存在を主張しているのだ。
そして必然と言う運命の中で、ジョエルとグリフィンが出逢うことは確定していたに違いない。そうしたのはグリフィンで、彼の絶対的な意志の強さがそれを具現化したのだろう。
(グリフィン、彼はその重大な部分が決定的に違ったんだよ。だからこそ俺は、彼を見続けてお前を想っていたんだ)
まるで光と影のような二人の存在は同じ面差しを持っていると言うのに、グリフィンの持つ魔性の魅力も純真な面差しも何もかもが稀有だと言うことをジョエルに見せつけ、そうしてジョエルにとっても世界にとっても、彼がどれほど奇跡のような存在なのかを物語っているように思えていた。
人間の持つ悍ましさも、世界に渦巻く醜さも、何もかもを内包していると言うのに、グリフィンは純粋で一途で子供のように真っ白なのだ。
そんなグリフィンの強烈な印象を体内に刻み込まれていると言うのに、どうして自分があの青年に惹かれるなどと、あのグリフィンが嫉妬までして思い込んだのだろうか。
全て、グリフィンの取り越し苦労だったと言うのに。
(グリフィンから見て、彼の存在はそれだけ脅威だったのか…ともすれば、自分にない光の部分に俺が惹かれて、いつか離れて行くと思い込んじまったのか)
窓辺に凭れたままでジョエルは瞼を閉じて溜め息を吐いた。
運命のようにグリフィンに絡め取られてしまったこの心神耗弱に喘ぐ身体も心も、どこを取ってみても光の入り込む余地などはないのだ。それどころか、隅々までグリフィンに浸食されて、そのまま、永遠の闇の中に堕ちてしまってもいいとすら思えている自分が不思議で仕方ないぐらいだ。
(いつからだろう、グリフィンを想うようになったのは…切欠はきっとあの青年だったに違いない)
暗いブロンドの睫毛に縁取られた瞼を開いて、深い海のような蒼の双眸に黄色の可憐な花が映し出される。
何事かを物語るように、いっそ何も語らないように。
「グリフィン、お前は知らないだろうけど。俺はお前を確かに愛しているよ」
可憐な花びらにそっと唇を寄せて、清廉な朝の陽射しの中で、ジョエルは何かに祈るように口付けた。
『…未明にシカゴ川で発見された遺体は身元不明で…』
喧噪の雑踏の中をジョエルとグリフィンは連れ立って歩いていた。
キャブは客を取る気などさらさらないようにクラクションを鳴らして先を急ぎ、行き交う人は他人など気に留めている様子もない。街角のショーウィンドウの中では、今日もどこかの哀れな被害者の情報が垂れ流しとなっている。
そんな大都会の中にあっては、既に死人と化した元FBI捜査官や殺人鬼の存在など誰も気にすることはないのだろう。
「今夜は何を食べるんだ?」
グリフィンが紙袋を抱えているジョエルを見下ろして尋ねると、少し不安そうな面持ちで周囲を見ていたジョエルはハッとしたような顔をして、それからグリフィンを見上げると幾分かホッとしたように笑った。
「ああ、そうだな…できれば久し振りにベトナム料理が喰いたいよ」
「ベトナム料理だって?!」
同じく紙袋を抱えていたグリフィンは素っ頓狂な声を上げるが、注目を浴びても浴びなくてもお構いなしなのか、うんざりしたように肩を竦めている。
「冗談はやめてくれ。あんな不味いものをよく好んで食べられるな」
心底からうんざりしているのか、グリフィンは聞くんじゃなかったと言いたそうな表情で整っている眉を顰めている。彼がそれほどまでにベトナム料理を嫌っているとは思わなかったジョエルは、からかうつもりなどないのだが、いや充分そのつもりでつい興味本位で言ってしまった。
「案外、旨いんだぞ。そうだ、今度ベトナム料理の店に行かないか?」
「…それを本気で言っているのなら、例のベトナム料理店にはホリスが張り付いていると言ってやる」
不機嫌そうに唇を尖らせるグリフィンから懐かしい名前を聞いて、ジョエルはそうかと頷いた。
「元気にしているんだな」
「殺したって死なないだろ」
もちろん、グリフィンがその気になればホリスをも抹殺することは可能なのだろうが、敢えて必要のない殺人を犯すほど彼は暇ではない。但し、何らかの形でジョエルの気持ちが傾くのなら、それは見逃すことのできない罪なのだから、罰するのは致し方ないのかもしれないが。
「オレはあんな不味いモノを食べるぐらいなら、お前の作ったアンチョビとモッツァレラのパスタの方がいいよ」
「なんだって?!」
6人中5人が不味いと言って吐き出したあのパスタを…そう言えばと、ジョエルは思い出した。
グリフィンが料理上手の美食家であることは、彼と暮らし始めてすぐに判っていた。だが、気紛れにジョエルが作る料理の大半を文句も言わずにペロリと平らげるし、苦いコーヒーも好んで呑んでいるのだ。
「なんだよ」
ムッとして見下ろしてくる長身のハンサムを、日頃は無関心で通り過ぎる老若男女問わずがこんな時ばかり振り返ると、その頬に酷い火傷の痕を認めて不意に憐れむような顔をするのがジョエルには気に喰わなかった。
「あんなモンは飯じゃない。ベトナム料理に失礼だ」
本気で申し訳なさそうに言うジョエルに対して、グリフィンは本気で理由が判らないと言う顔をして首を左右に振っている。
「オレは旨いと思うけどな。まあいい、判ったよ。そんなに言うのならオレがフォーでもチャオでもバインセオでもなんでも作ってやる」
買い出しに出ていてベトナム料理とは関係のない食材を購入していると言うのに、グリフィンの負けん気の強さと、その性格のせいなのか、思った以上に詳しいことも相乗効果で今更ジョエルは吹き出してしまう。
「お前は、ほんと負けず嫌いだよな…じゃあ、まずは何を買えばいいんだ?」
「スマートフォンを持っているだろ?ベトナム料理の材料を揃えている店を検索してみるといい」
グリフィンが促すように言うとジョエルはそうだったと呟いて、それからグリフィンから迷子になった時に使うようにと渡されている、スマートフォンを取り出した。インターネットにも接続できて電話もできると言う優れものの機種に、あまり馴染めていないジョエルはもたもたとタッチパネルで操作しているが、別にグリフィンは焦ることもなくジョエルごと端に避けながら待っている。
「…こんな検索をしなくても、アーガイルに行けばいいんじゃないのか?」
上手くタッチパネルで操作できない不器用なジョエルは、暗いブロンドの髪を掻き揚げながら苛々したようにグリフィンを見上げたが、長身の暗い色の髪を持つハンサムな青年は、そんなジョエルの手許を覗き込みながら意地悪く微笑んだ。
「ジョエル、判っていても慣れるために検索してみればいいじゃないか」
「俺はお前ほど利口じゃないんだ。ベトナム料理はもういいよ」
さっさとスマートフォンをコートの内ポケットに仕舞ったジョエルが不機嫌そうに外方向くと、いよいよ楽しそうにグリフィンがにんまりと笑うのだ。
「なんだ、諦めが早いな。じゃあ、今夜はオレがフルコースでも作ってやるさ」
からかうつもりが逆に丸め込まれてしまったジョエルは些か不機嫌そうではあるものの、最初からそのつもりだったくせにと内心で毒づきながら、それでも仕方なさそうに肩を竦めてみせた。
「ああ、その方が安心して帰れるな」
片手に紙袋を持ったまま、片手でグリフィンの背中を軽く叩くと、彼は大袈裟に痛がるふりをしながらも楽しそうに声を立てて笑っている。
「そう言えば、ダッフォディルの花言葉ってなんなんだ?」
楽しげに笑っているグリフィンを仕方なさそうに苦笑して見上げていたジョエルは、ふと、今朝置かれていた可憐な一輪の花を思い出して首を傾げた。
「え?そんなモノは知らないさ。綺麗な花だったから買っただけだ」
稀代の天才殺人鬼と世の中を震撼させたグリフィンのことだから、何らかのメッセージを含ませて花を贈ってきたのだろうと思っていたのだが、どうやら今回はあの黒髪の青年を遠ざける片手間に気紛れで買ってプレゼントしただけのようだ。
「へえ…じゃあ、スマートフォンで調べるか!」
とは言え、それだけで信じてしまうには、この純真が服を着ているような真っ白でキュートな、身内に悍ましい狂気を宿したグリフィンの狡猾さを充分思い知っている身としては一抹の不安が残る。
「…やめておけば?また帰りが遅くなっちまう」
使い始めたばかりのスマートフォンに興味を示しているだけと思ったのか、やれやれと首を左右に振りながら肩を竦めるグリフィンの態度に、どうやら本当に他意はなかったのかとジョエルは素直に頷いた。
「ああ、それもそうだな」
疑ってしまって申し訳なかったなと思いながら、ジョエルは話題を変えようとベトナム料理が如何に旨いかをとくとくと説いてグリフィンをかなりうんざりさせていたが、時折入るグリフィンのツッコミに彼は言葉を詰まらせて、そうしてそんな他愛ない話に二人は声を出して笑っている。
二人を取り巻く喧騒は相変わらずで、大都会の中、まるで何事もないかのように既に死者となっている元FBI捜査官と殺人鬼は楽しげに連れ立って帰途についた。
『…今回の事件はシカゴを震撼させたシカゴの絞殺魔と呼ばれている、数年前に死亡したデイヴィッド・アレン・グリフィン容疑者を模倣した模倣犯であるとシカゴ警察本部は断定し、被害者の身元の究明を急いでいます。情報がありましたら下記の連絡先まで。続きましてハリウッドスターの…』
ショーウィンドウの中の液晶ディスプレイからは、相も変わらず、身元不明の被害者の情報が垂れ流しになっているが、誰一人として足を止める者もなく、件のニュースでさえ電話番号も似顔絵も即座に消して、下らないゴシップニュースに力を注いでいる。
そんな悍ましくも醜い光り輝く大都会の中で、グリフィンは大切なジョエルと共に生きてゆくのだろう。
「花が欲しいんだ」
まだ夜明け前の朝靄の中から夢のように現れた、頬に火傷の痕がある、豪く整った綺麗な顔立ちの青年が指し示した指先にあったのは黄色いダッフォディルだった。
「ああ、何本必要なんだい?」
自分と同じような黒髪のエキゾチックで綺麗な青年は、少し考えるような素振りをしてから、誰かを幸せそうに思い浮かべてでもいるのか、口許に小さな笑みを刻んで頷いた。
「1本でいいんだ。ただ、オレはこれから仕事だから指定の場所に配達してもらえるかな?もちろん、配達料も支払うよ」
「お安い御用さ」
「じゃあ、ここに。夕方頃に届けてくれると助かるよ」
一枚のメモを寄越した彼が静かな笑みを浮かべたままで支払いを済ませて姿を消したのは午前6時前のことで、約束の暮れなずむ夕刻に黒髪の花屋の青年が訪れたのは崩れ掛けたアパートの前だった。
あんな綺麗な青年が住むにしてはあまりにも不釣り合いなその風貌のアパートに一瞬怯みはしたが、生来の人の好さで、彼はあまり気にせずに階段を駆け上がって指示された部屋に辿り着くと、どうやら住人は既に在宅しているようだ。
「すみません!遅くなりましたッ、ご注文の花を持って…」
彼がドアをノックして声を掛けていると、誰何の声もなくゆっくりと扉が開いて、どこか遠い場所にいる人のような雰囲気を持つ、朝とは打って変わって奇妙な色気を醸すあのエキゾチックな青年が、何か見てはいけないモノのような、退廃的な魔性の面立ちでニッコリと微笑んでいた。
「やあ、待っていたよ」
部屋の中から不思議な音楽が聞こえている。
注文主はお茶でもいかが?と彼を誘い、まるで魅力的な炎に群がる真夏の虫のように、一本のダッフォディルを携えた青年は導かれるままに室内に吸い込まれるようにしてふらふらと入って行く。
ドアが閉まるか閉まらないかのところで美しい殺人鬼の声がした。
「ダンスを踊らないか?」
─END─