ぴちゃん…と、やけにリアルな湯の跳ねる音が近付いて、俺の視界は湯の煙と奇妙な物体に遮られちまう。
「…は…」
溜め息のように息が零れて、ソイツはまるで何を興奮してんのか、無造作に俺の身体を気持ち悪く撫で回しやがるから、その時になって漸く混濁していた意識が現実の世界に嫌な音を立てて引き摺り戻されたんだ。
「…う。ッ、この、放しやがれッ!」
ボグッ!
嫌な音がして、ソイツ、あのサラリーマンだか大学生だか判らんヘンな野郎は、思い切り目を見開いて湯船にダイブした。
ふん!ザマーミロだ。
後ろを自分で後始末した後にダイレクトな刺激を敏感になった身体中に施されていた俺は、それでなくても逆上せてるってのに…ったく、肩で息をしながら石造りの縁に片手をついた。
「何を考えてんだが、しらねーけどな!礼儀を弁えやがれッ!」
…ん?そんな問題じゃねぇような気がするんだが…まあ、いいか。
「こんな、人がいつ来るか判らねー場所で何を考え…ぶっ!」
足首を掴まれて、そのまま水中に引き摺りこまれる!
逆上せてクラクラしている俺の膝蹴りを腹部に受けても平気ってこた…いまいち効いてなかったってことか。
いや!そんなこと今は問題じゃない!
うっわ、マジでヤベぇ!!
俺…俺…泳げないんだよ!!
思わず内心で声を裏返らせながら、咄嗟のことで口から大量の酸素を吐き出す俺をまるで覆い被さる様にして引き寄せてくるソイツに、溺れる者は藁をも掴む!の精神で思わず抱き付いちまったんだ。後から思えば冗談じゃねぇと鳥肌の1つも立てていたところだけど、その時の俺にはそんなこと、悠長に考えてる余裕なんかなかった。
口から洩れた肺の酸素を供給したくて、口付けて来るソイツに躊躇わずに俺は。
ああ、なんてこった。
俺は自分からキスしていたんだ。
貪るように、砂漠に投げ出されて干からびる寸前の旅人が命からがらオアシスに辿り着いて、そして溢れる命の水を口にするように…洋太だけがその権利を持っているはずの唇を、俺は見知らぬ男に許しちまったんだ。
それも、自分から、縋り付いて…
でも、必死の俺はそんなことには微塵も気付かなくて、口付けながらソイツが尻に指を這わせてくるのもお構いなしに、ただただ、恐怖に縮み上がっていたんだ。
ザバッ…っと浴槽をなみなみと満たす湯を蹴散らすようにして酸素のある場所に引き上げられた時でも俺は、ぐったりとしながらソイツの腕に凭れて、まるでキスの後のあの気だるげな気分に囚われているようだった…んだと思う。
アイツの目を見たとき。
驚いたように見開いたアイツの目を見たとき…
「…光ちゃん?」
よ、洋太…
□ ■ □ ■ □
でも俺は、最初その意味が判らなかったんだ。
洋太が、ただ洋太が俺を助けに来てくれたんだとばかり思っていた。
溺れて、とても苦しかった。
お前だけを俺…呼んでたんだ。
だから、何も知らずに笑っていた。
でも、洋太は違っていたんだ。
クッと少し厚めの下唇を噛んで、俺の大好きな洋太は、まるでともすれば地獄の業火のようにその黒く煌く両目の奥に光を閉じ込めて、俺とソイツ、サラリーマンだか大学生だか判らないヘンな野郎をゆっくりと見比べていた。
それからゆっくりと息を吐くと、俺の方を真っ直ぐに見て首を傾げたんだ。
「どうしたの?」
そのゾッとするような目付きに竦みあがっていた俺は、それから唐突に、そう、あまりにも唐突に自分の置かれている状況に気付いたんだ!
ああ、バカだ!大バカ野郎だ!!
ハッと気付いた。俺はそのヘンな野郎に抱き付いていたんだ!
苦しくて、頭が逆上せてグラグラする脳味噌が弾き出した答えは…誤解された。
たぶん、いやきっと、誤解してる!
「よ、洋太!ち、違うんだ、これはッ!」
「何が違うんだよ?アンタがしがみ付いてきてキスしたんじゃないか」
脳天直撃。
一昔前のゲーム機のキャッチフレーズが、爽やかに沸騰した脳味噌を貫いた。
このクソ野郎!
「なな、何を言いやがるんだッ、この野郎!放せ!放しやがれッ!」
「抱き付いたり離れたがったり…忙しい奴だなァ」
がーッ!!!
俺が胡乱な目付きで睨み付けていると、それまで黙って俺たちの遣り取りを窺っていた洋太は、それからまるで何事もなかったかのように溜め息を吐いたんだ。
「心配で…でも、何事もなくてよかったよ。それじゃあ、僕は先に部屋に戻ってるね」
呟くように洩れた声に、俺は愕然とした。
違う!洋太、何事か起こってるんだよ!!
平然とした口調の裏の動揺は…俺にくれる嫉妬?
嬉しさとか、焦りだとか、綯い交ぜした焦燥感に心が悲鳴を上げて…
「よ、洋太!待って…」
「なんだよ、アイツ。君が想っている以上には、彼は君のことを想ってはいないんだよ」
軽く鼻先で笑ってあしらうソイツに、俺はキレた…んだ。
裸で抱き合ってりゃ誰だって勘違いするじゃねぇか!
この野郎…元はと言えばお前さえ現れなきゃ…俺と洋太のラブリン旅行は恙無く進行する予定だったんだ!
浴室から出て行ってしまった洋太の大きな後姿が目の裏にバッチリ焼き付いていて、俺は一刻も早くその後を追いたくてソイツの腹部に膝蹴りをカマしてやった。
今度と言う今度は気合を入れて。
ふざけるなよ、この野郎。
俺の洋太の悪口を、後1回だって口にしやがったら今度は本気で殺してやる!
…とか嘯いて、本当は悪口とかそんなもんじゃなくて、その台詞に俺の中に常に燻っている疑問に火をつけたってだけのことなんだ。
蛙が轢き殺されたときのような声を上げて湯船に水没するソイツを無視して、俺は慌てて脱衣室に駆け込んだ。駆け込んで、その姿を捜したんだ。
「洋太…」
姿はなくて、俺は取り残された子供のように項垂れてしまった。
違うのに、別に好きだとか言って抱き付いていたわけじゃないのに…
苦しくて、死にそうで…だって、洋太だって思ったんだ。
そうだよ、ああ、そうだよ!
俺はいつだって洋太なんだ。洋太が好きなんだ。
だから…どんな時だって、たとえそれが洋太じゃないとしても、洋太であって欲しいと願うんだ。
だから、お願いだから俺を独りにしないで。
洋太の、あのふくふくした頬に触らせてくれ。大きな背中に両腕を回して、『好きだよ』って囁きながらその肩に頬を乗せて安心させてくれよ…
俺の中にどす黒く煙るこの不安が形を作る前に、お願いだから洋太、俺を安心させてくれ。
お前が思う以上に俺はお前が大好きだよ、洋太。
エッチがしたい、キスがしたい…抱き付いて、もう離れたくないと言って鼻先を擦りつけたい。
どうして…想いってのはこう、素直に相手に伝えることができないんだろう?
大きな鏡がある前に、休憩用に設置された椅子がある。俺はとぼとぼと歩いていくと、素っ裸のままでそれに腰掛けた。
「…はぁ」
溜め息を吐いて、前髪に片手を突っ込んだ。前髪を掻き揚げるようにして、空回る想いの虚しさに涙が出そうになる。
あのヘンな奴が言ったように、俺が想っている以上には、洋太は俺を想ってくれていないんだろうか…でも、洋太は俺に言ったんだ。
両想い…だって。
その言葉だけで嬉しい。
嬉しいのに…満足していない心が『違うだろ?』と唆してくる。
俺は、俺は欲張りなんだろうか…