俺は首輪をしたままだし、このままブラブラ突っ立っていてもなんだし…ってことで、勝手にカウンター席に腰掛けたんだ。
頬杖をついて、砂岩ビルでいつも見ている見慣れた光景をぼんやり眺めていたら、那智のヤツがニヤァ~ッと笑って目線だけを向けてきやがったから…う、また何かとんでもない事実が飛び出すぞ。
なんか俺、だいぶ身構えるのが上手くなったような気がする。
いや、身構える必要なんかないんじゃないかとか、脳内で突っ込む自分を軽く無視して、ハラハラしながらそんな那智を見返した。
「な、なんだよ?」
「なんだよじゃねっての。ぽちはさぁ、ご主人さま働かせて、自分はお座りしてんのかぁ??」
「は?」
それがあんまり間抜けな顔に見えたんだろ、那智のヤツはハッハッ…と声を出して笑ってから、首を左右に振って漆黒のエプロンで両手を拭う…ワケもなく、ヘンなところで潔癖症っぽいコイツは、キチンと布巾で手を拭いながら言ったんだ。
「だからさぁ、は?じゃねっての。ぽちはさぁ、今日からウェイターになるんだぜー」
それがもう、本当に嬉しいんだろう。
何がそんなに嬉しいんだよと聞きたくなるほど、那智のヤツは盛大にニヤニヤ、ニヤニヤ笑って喜んでるから…俺はその思考回路にやっぱり追い付けずに呆気に取られてしまうんだ。
つーかさ、やっぱり、那智の方が全然犬っぽいと思うんだけどなぁ。
「わ、判った。でも、犬でも雇って貰えるのか?」
まぁ、働かざる者喰うべからずだし?
バイトでもさせて貰えりゃ、何もせずに一日中家にいるよりは遥かにマシってモンだから、俺は歓迎なんだけどよ。
あの気だるげな美人のねーちゃんがOKしてくれるのか、問題はその辺りにあるワケだし、どーせまた那智の行き当たりばったりの思い付きだとは思うんだけどさ。
「はーん?…どだろね、どーせスピカの趣味のお店だしぃ??別にいーんじゃね」
「…なんだよ、その遣る瀬無いほどのどーでもよさそうな口調は」
思わずガックリと年月を物語る床に膝を着きそうになりながら突っ込むと、泣く子も黙る天下の浅羽那智様は片手を腰に当てて、ニヤニヤ笑ってどうでも良さそうに唇を尖らせやがる。
どうでもいいけど、器用な表情をするよなぁ。
「実際、どーでもいいでショ、んなこと。オレがバイトしてんのにー…ぽちが傍にいなくてどーするワケ?」
「…今まで、家にいたけどよ」
「そんな言い訳聞きません」
「……言い訳じゃない。事実だ」
ああ、なんだこの不毛な会話は。
取り敢えず判ることと言えば、仕込みなんかとっくの昔に終わってて、開店準備も恙無くすませちまった那智が、どうしても俺をウェイターにすると決めてるってことだな。
しない?…とか聞くんじゃないんだ、コイツの場合は。
オレがバイトをする⇒ぽちが家にいる…いや、そりゃいかん。
オレがバイトする⇒ぽちも一緒にいるべき…うん、それだ!
実際、那智の脳内なんかそんな単純明快な答えしかないに違いない。
実際に聞いてみた。
「はぁ?んなこと、当然だろ」
いや、聞くなよって気もするけど、案の定の返答に、もう、那智の性格にすっかり馴染んじまった俺の反応なんか決まってら。
両拳を握って、『ヨシ!』とガッツポーズだろ。
「…つまり、これはアンタなりのジョークだったんだな?」
「??」
「散歩だとか言って連れ出して、蛍都に会わせるふりをして、詰まるところ、ウェイターにするのが目的だったんだな」
途端、那智がニヤァ~っと笑って俺を見た。
うん、たぶん、この反応は図星だったな。
でも嘘が下手な那智は、ニヤニヤ笑いながら瞼を閉じて肩なんぞ竦めやがった。
「まぁね~。半分は当たり。でも、蛍都には本気で会わせる予定だったんだけどさぁ。クソ看護師」
最後の一言はホント、さらっとした口調で本音を言って、那智はそれでも嬉しそうだ。
犬なんか冗談じゃない…って思ってたんだけど、俺はどうしてかな、那智が「ぽち」と呼ぶのはそれほど嫌な気がしない。
それは、このクソッタレで碌でもない街の中で、唯一、しゃがんで俺を見下ろして、ニヤニヤ(それはそれで十分怪しいんだけどな)笑いながら嬉しそうに拾い上げてくれた、この理解し難い思考回路の持ち主を、俺がそれほど嫌っていない証なんだろうけど。
まるで貼り付けたような笑みはいつも絶えないから、那智の感情の起伏がよく判らない。
こんな風に偶に、全開で嬉しいそうにしている時だとか、強烈に激怒している時ぐらいしか、那智の感情は判らない。
微妙な感情のニュアンスを見事に隠して、この灰色の街に溶け込んでしまった那智のあやふやな実体を、チンケなコソ泥上がりの犬の鼻なんかじゃとうてい嗅ぎ分けることなんかできるワケないか。
諦めて肩を竦めたら、いつの間に傍まで来ていたのか、那智のヤツがガバッと抱きついてきたりするから俺の心臓は跳ね上がっちまった!
いちいち、動作が静か過ぎるくせに派手なんだよなぁ。
「で、ウェイターぽちはこれからお客さんのさぁ、皿を片付けるワケよ」
「あ、ああ。判った」
バクバクする心臓を抱えたままで、間近まで迫っているニヤニヤ笑いに頷くと、脱色を重ね過ぎて傷んだ前髪の間から、心の奥底まで覗き込んでしまうんじゃないかと思えるほど、一途な目付きをしていた那智は嬉しそうにニヤニヤニヤニヤ笑った。
どうやら、愛犬が素直に指示に従ったのが嬉しくて仕方ないようだ。
…つくづく、ヘンなヤツだ。
「楽しみだなぁ~、ぽちに手を出そうとするヤツがオレの晩飯ね♪」
「は!?」
「殺すか殺されるかなんだから、別にいいけどね。いつからぽちちゃんを雇うことになったの?アタシじゃなくてアンタが」
咥えタバコの気だるげなねーちゃん…こと、スピカが、呆れたように古めかしい木製のドアを軋らせて店内に入りながらぼやいた。
どうやら、集金は恙無く終わったようだ。
膨らんだ黒いバックを、年月の経過とともに染み込んだ食べ物の染みとか飲み物の染みとかで、奇妙な光沢を放つテーブルに投げ出して、疲れたように椅子に腰を下ろすと髪を掻き揚げながら溜め息を吐いた。
「はーん?そりゃ当たり前でしょ?オレがバイトをするってこたぁ、イコールぽちが傍にいて当然。そう決まってるってワケ」
アンタの脳内完結の方向でな。
抱き付かれたままで口からエクトプラズムでも吐きそうなほどうんざりしている俺と、これ以上はないほど嬉しそうにニヤニヤ笑っている那智を交互に見ていたスピカは、ただただ、どうでもよさそうに咥えていた煙草を指先で挟んでふぅーっと紫煙を吐き出した。
「那智は一度決めると煩いからねぇ。いいわよ、ぽちちゃんウェイター決定ね」
「早ッ!」
「そうでなくっちゃなぁ、スピカ」
やっぱり那智は嬉しそうだ。
何がそんなに嬉しいんだろう?
「那智さぁ、アンタ、何がそんなに嬉しいんだ?」
それは素朴な疑問だった。
俺が傍に居ようといまいと、那智はあんまり気にしている風には思えなかった。
仕事を見せてやるとか、犬には自由がないとストレスが溜まるとか、ワケの判らん理由で俺を連れ回すのは好きなようだけど、傍に居ると嬉しいとか、そんな場面は一度も見たことがない。
だから、俺は首を傾げるしかないワケだ。
「決まってるだろ~?ぽち、ウェイターなんだぜ??ワンコでウェイターでぽちなんてさぁ。楽しいじゃねーか♪」
「…はぁ??」
それはそれは嬉しそうにニヤニヤニヤニヤァッと力いっぱい笑われて、俺は思い切り後ずさってしまった。
だって、なんだよ、その理由は!?
勿論、那智の腕に阻まれてるワケだから、気持ち後ずさった程度なんだけどよ、それでも俺は、どんな顔をしたらいいのか判らずに、呆気に取られてポカンッと自分の飼い主を見上げていた。
すると、クックック…っと、咳き込むように気だるげなスピカが静かに笑ったんだ。
煙草を指に挟んで髪を掻き揚げながら、何が面白いのか、困ったように笑っている。
那智は、そんなスピカを華麗に無視して(それはそれでなんてヤツだ)、どこから取り出したのか、嬉しそうに唖然としている俺にお揃いらしい黒のエプロンを着せやがった。
ひとつ違うのは、その胸元に黄色のアップリケで『ぽち』と書いてあることだ。
ご丁寧に犬の顔付きだ。
恐るべし、天下の浅羽那智!
…はぁ。
目に見える全てが。
幸福の欠片なら。
きっと、この瞼が閉じてしまったとしても。
その在り処が判ることでしょう。
私は手探りでその欠片を集め。
ひとつずつ嵌め込んで。
大切なあなたに贈ります。
散らばってしまった私のこの心を。
大切なあなたに贈ります。