Prologue.旅立ち2  -遠くをめざして旅をしよう-

 漆黒の闇が支配するような、黒天鵞絨の垂れ幕が覆う室内には緊張した空気が流れていた。
 大きな机を囲むようにして着席した一同の表情も、どこかぎこちなくソワソワとしている。

「殿下がまたもや城を抜け出されたそうで…」

 堪りかねた誰かが口を開くと、まるでそれを待っていたかのように集められた主要家臣の面々は、一様に頭を抱えて意見の交し合いを始めるのだった。
 どこからともなく入り込む風に、明り取りの蝋燭が一瞬、酸素を得て燃え上がる。

「王家の威信にも関わるお振るまい。もうこれ以上は、黙って見過ごすわけにもゆきますまい」

 ことは王位の問題とあって、居並ぶ重臣たちは上座に御する渋面の、先端の尖った異形の耳を有する老齢な主に注目した。

「皇位継承権の剥奪か。ふむ、皇子は泣いて喜ぶじゃろうな」

「陛下。殿下は事実上の皇太子であられる、このガルハ帝国にとって命にも値される尊いお方。その殿下が賞金稼ぎ如き下賎の職に御身を貶められておいでなどと、他国に知れようものならばそのお命も危ぶまれましょう。これ以上にない、由々しき事態ではありますまいか」

 安穏と口を開く王に、同じく異形の耳を有する重臣が本当はそんなこと望んではいないのだと言うように窘めたとしても、彼の主はやれやれと首を左右に振るばかり。

「賞金稼ぎとな!…下賎にその身を貶め、いったいその先に何があるというのか。いや、判っておる。判ってはおるが、あやつの思惑は皇位継承の剥奪、まさにそれなのじゃ。あれの意思は、あれの母に似て強い。知恵も頗る聡明じゃ。あれ一人に百万の護衛をつけたところで、翌朝には姿もなかろう」

「…」

 一同は言葉もなく顔を見合わせる。
 さすがは皇子の父上であられる、彼の性格を誰よりも心得ているのではないか。

「…我らが如何に口を閉ざそうとも、噂と言うものは野に荒れる風の如き素早さで瞬く間に国中に知れ渡ることでしょう。時期に各国にも流れてゆきます。このままでは、まさに殿下のお命に関わるのではないでしょうか」

「殿下の今のお立場は常に危険と背中合わせです。賞金稼ぎと言う職に乗じて、刺客を送り込む国もないとは言いきれません。ましてやこの時期です」

 控え目に口を開く年若い重臣に大きく頷いて、幼い頃から件の皇子の指南役として共に成長してきた将軍が心持ち憂鬱そうな表情をすると、こめかみを押さえる国王に意見した。

「若輩であるにもかかわらず、あれの行動には躊躇いがない。恐れすらないのではないかと思わせるほどじゃ。いや、年若い故の愚かさか…いずれにせよ、皇子は縛られることを疎んでおる。皇位すら例外ではないのだろう」

 吐息して、老齢の王は暫し瞑目する。
 この場に居並ぶ重臣の、いったい誰が唯一無二の皇子から継承権を剥奪したい、などと考える者がいるだろうか。
 意外に、破天荒で寂しがり屋の皇子には重臣たちの熱い人気があるのだ。国民も然りで、だからこそ国王は皇子の少々の我侭にも目を瞑り、慈しんで育ててきた。
 出生が誰よりも複雑だと言うのに、彼はいまいちそう言うことは気にしている風でもなく、却ってどう言うわけか、身分と言うものに酷い嫌悪感を持っているようだ。
 ある意味では、それが父親である王に対する最高の抵抗なのかもしれないが…
 驚くほど気品のある面立ちには不似合いの、親しみやすいその下世話さが、あるいは国民や一部を除いた重臣たちからの不動の信頼を勝ち得ているのかもしれない。
 しかし、それにも限界はある。
 重い沈黙が暫く続き、瞑目していた王がゆっくりと双眸を開いた。

「しかし、特権を得る王族の制約とはそれほど生温いものではない」

 王はたっぷりと蓄えた顎鬚を緩慢な動作で扱きながら、遠い空の下で奔放に飛び回っているのであろう銀髪の生意気な青年の母譲りの美しい顔を思い浮かべ、眉間に皺を寄せながら首を左右に振るのだった。

「特権などいりませんよ」

 不意に凛とした、居並ぶ誰もが一度は耳にしたことのある聞き慣れた声音が、静まり返った広間に波紋を投げかけるように響き渡った。その場にいた一同は、驚愕したように今朝方、抜け出したばかりの声の主を凝視した。
 王がゆっくりと首を傍らに巡らせると、いつからそこにいたのか、天鵞絨の垂れた壁際から姿を現した噂の青年は、長い旅を物語る草臥れた漆黒の外套に身を包んで立っている。

「旅に出る前にご挨拶でも…と思っていたのですが。まだこんな下らない閣議を開いておいででしたか」

 王族として、当たり前のように宮殿内で大切に守られている他国の皇子や、戦しか知らない身勝手な何処かの国王たちのような甘えを持ってはいない強い光を放つ双眸が、優しげな口調のわりに、皇子が見つめてきた厳しさを静かに物語っている。

「アスティア」

 国王が静かに放蕩皇子の名を口の端にすると、彼はそれに応えるように口許に笑みを浮かべたが、その青紫の神秘的な双眸は揺るぎ無く淡々としている。

「それなりの制約があるからこそ、身分と言う特権もあるのだぞ。そなた、何が不服と申すのか」

「その身分と言う砂上の城に胡座をかかれた父上には、わたしの意志などお判りにはなりませんよ」

 皇子の行き過ぎた言動を咎めようと立ち上がりかけた家臣を片手で制し、王は頑なな息子の双眸を見つめ返して小さく嘆息した。

「何が言いたいのだ、そなた」

「あるいは何も…思惑など、どうでもいいことなのかもしれません。ただの私事なれば、父上のお気を揉むことでもありますまい。貴方の治世が恙無く続く限り、わたしは放蕩皇子がよいのです」

「ふむ、されば。そなたの治世となれば、今までの言動を悔い改め、恙無く王位に属すると言うのだな?」

「まさか!ご冗談を」

 本気で声を立てて笑う皇子を、居並ぶ一同は固唾を飲んで見守るしか術がないようで。

「なるようにしかなりませんよ、陛下」

 誰にともなく呟く皇子の、銀色の頭髪に燭台の灯りがオレンジの光を燈す。

「わたし如き若輩者の下らない行為に、御身の貴重なる時を割かれますな。どちらにせよ、わたしが大人しく城に留まるはずもないことを、貴方が一番良く存じているではありませんか。学ぶべきものはまだ、星の数ほど散らばっています。この世界はとても魅力的だ」

 言葉尻の通り、とても魅力的な微笑を浮かべる皇子に、頭を抱えたくなった王は肘掛に肘をつき、こめかみの辺りを押さえながら首を左右に振る。

「世界の魅力も結構だが、そなたはこのガルハ帝国の皇太子になるべく皇子ぞ。何処の馬の骨とも判らぬような執着など棄て、国の行く末を少しは考えてみてはどうじゃ。そなたの想う、世界ほどにな」

「それは父上のお役目です。貴方の治世は、貴方が望まざるともまだ続く」

「…先見の術も、衰えてはおらぬようだの」

「恙無く」

 母譲りの魔力は計り知れないが、皇子は何でもないことのように静かに微笑んだ。

「貴方の治世が続くと言うのに、今から身分に縛られるなんて真っ平だ」

「皇子!」

 語尾を吐き棄てるように言い放つ皇子に、一同はいつものことにまたしても頭を抱えるが、王はついに高血圧らしくカッと頭に血を昇らせた。

「いい加減にせぬか!そなたに王族としての誇りはないのかっ」

「ありません。人としての誇りはありますけどね」

 悪戯っ子のように少しだけ舌を覗かせた皇子は、次いですぐに微笑むと、見事に優雅な一礼をした。

 身に纏うものがどれほど草臥れていたとしても、その仕草は王族たる所以のように堂々として、如何なる者の視線をも全て釘付けにしたであろうと思わせるほど美しかった。

「わたしがここにいますと、どうも貴方のお身体に障るようだ。それではこれにて失礼します」

「殿下!」

 慌てたように幾人かの将軍が制止しようとしたが、皇子は聞く耳など持ってはいないとばかりに無視して踵を返そうとしたが、ふと立ち止まり、怒りに打ち震えながら玉座に腰を落ち着けた王を振り返った。

「父上と母上の息子としての誇りも、もちろんあります。掛け替えのない、名誉だと」

 激昂していた王が、不意にその怒りを静め、遠くを見るように双眸を細めて何かを言おうとする皇子を眺めると、彼は暫くその双眸を見つめ返していたが、結局何も言わずに口許に小さな笑みだけを残してその場から立ち去ってしまった。

(でた、皇子の必殺親殺し)

 物騒なネーミングではあるが、家臣の間では実しやかに流れている言葉の愛称なのである。皇子がその言葉を口にすると、国王がどんなに火蜥蜴の主のように怒り狂っていても一瞬のうちに沈下させてしまうと言う必殺技なのだ。
 皇子を溺愛している国王にだからこそ効く必殺技なのだが。
 水を打ったように静まり返る広間で、誰ともなく目線を交えた重臣たちはしかし、何も言えずに困惑した面持ちで玉座に鎮座ます王を仰いだ。
 老齢の王は暫く瞑目していたが、やがてゆっくりと双眸を開くと、やれやれと吐息するのだった。

「予言の竜使いも間もなく現れようと言う今、あれを野放しにしておくわけにもいかんだろう。王族の制約を忌み嫌うのなら、あれが尤も気に入るようにしてやろうではないか。後宮に后でも迎えれば、あやつとて立太子せずにはいられまい」

 咳き込むようにそう言って、王は一息つくと重臣の一人に言い放った。

「各国に触れを出すのじゃ。剣豪王ブラジェスカ=ハイン=バーバレーンの次代後継者であるアスティア=シェア=バーバレーンが正妃ほか側室を迎えるとな。我こそはと思う各国の姫君を集めるのじゃ!」

 一同は驚きに瞠目して国王を凝視した。
 ご乱心召されたのでは、と思ったのだ。
 火噴きドラゴンよりも狂暴なあの皇子を政略結婚させようと言うのだ。有力な姫君と婚姻することによって国は勢力を得て、皇子は家族を得ることで玉座に縛り付けられる。案外、優しい性格の皇子だから家族を得ればフラフラと国外逃亡などはしないだろう。これ以上にない名案だが、一同は困惑と恐れが矛盾なく入り混じる複雑な表情をして、眉間に深い皺を刻む老齢な王に注目した。
 無理だろう…と、誰もが心中で思っていたが、もしやと言う希望もある。
 こうして、国王の下した決定はすぐに国中に広がり、野を渡る風のような密やかさで世界中に流れていった。
 皇位継承権を何とか放棄したい皇子の、その預かり知らぬ婚姻話は予言の竜使いの出現と並行するように大きな噂となって広がっていくことになる。

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