どんな魔物がそこに住まうのか、この国の人々の大半はそれを知っていた。だからこそ、その悲しい主のことを悪く言う者はただの一人も居ない。
近くの村に住む人々はこの城を〝眠れぬ森の孤城〟と呼んで、遠巻きに眺めているだけだった。
「皇子が婚姻する…と?まさか、あの腕白小僧が?」
森を見渡せるバルコニーに佇むその人影は、背後から囁かれた秘密の噂に少しだけ驚いたように柳眉を上げて微笑んだ。
「お相手はファルーン・フィエラ国の第二王女だとか…」
密やかな声音は脇に控えた麗しい女戦士の口許から零れ落ちている。
「そうですか。あの国の第一王女は既に身篭られてお出でだとか。惜しいでしょうね、年の頃はちょうど見合うと言うのに。第二王女と申せば、まだ年端もゆかぬ子供ではないですか」
「今年で漸く十を数えられるかと…」
困ったように柳眉を顰めた絶世の美姫は、腰までもありそうな長い黒髪を悪戯に入り込む風に遊ばせながら、首を左右に振って遠くに煙るように見える優美な城を眺めていた。
「確かにゾッとしない計画ではありますね。しかし、陰謀と呼ぶにも浅はかな…あの方もアスティアの行動には随分と参っておいでのようで」
クスクスと悪戯を楽しむ子供のように微笑んだこの世のものならざる美貌の人は、不意に振り返ると、傍らに片膝をついて控える女戦士を困ったように苦笑して見下ろした。
優美で美しい、女でも男でも引き寄せられてしまう柔和なやわらかさを持った美貌の主に、彼女は少し頬を染めた。
女戦士は何も言わずに頭を垂れる。
「わたしの息子であり、弟でもあるあの子は、それほど軟な性格はしていませんからね。面白くなりそうです」
にっこりと微笑まれた、この国の麗しき皇后陛下にして前皇位継承者であった彼は優雅に口許に触れると、青紫の双眸を不敵に細められた。
「我が国ガルハにとっても良い縁談かもしれません。しかし、お互いに望む道もあるでしょうに」
ふと、女戦士が物言いたそうな双眸で后妃を見上げると、それに気付いた彼は口許に当てていた片手を下ろし、柔らかな微笑を浮かべた。繊細そうな手首に嵌められた高価な二対の腕輪がシャラン…と儚い音を立てる。
「わたしの道ですか?わたしは、こうして躊躇いながら進むこの道が案外好きなのですよ」
運命と同じ重さで揺れる腕輪を愛しむように彼は見下ろした。
女戦士は悲しげに眉根を寄せたが、皇子の持つ性格は母譲りなのか、それほど気にした風もなく后妃はゆっくりと室内へと歩を向ける。
この世の美しさを集めて鏤めたような后妃と言葉数の少ないこの護衛の女戦士、そしてあと何人かの使用人が居るぐらいで、この孤城は酷く静かにひっそりと佇んでいた。
城内に世にも得がたいと世界中から賞賛を浴びた生きた宝石を隠しながら、この城は誰の目にも触れながら干渉されることはない。
世界中から隔離されたこの空間は、国王が与えた最大の罰であり、そして愛でもある。
愛する妻を誰の目にも触れさせたくないという国王のその我が侭は、絶対的な権力として后妃を縛り付け、彼の愛する我が子から引き離すことになった。
それを嘆くこともなく彼が受け入れるのは、生まれ落ちたその瞬間から、教え諭されていたからだろう。彼は皇位継承者としてではなく、継承者を生み出す母として育てられてきた。
そう、この哀しい孤城でひっそりと世界中から隔離されて暮らす、ガルハ帝国の皇后陛下であるヴェルザ=ライト=バーバレーンは将軍として国を守り、何時の日かこの国を支える皇子を生むという行為でも国を護ると言う、悲しい使命を受けた後継者だったのだ。
ある意味、最高の被害者であるはずの彼は、それでも待望の世継ぎを生して日々を恙無く暮らしている。
ただ一つ惜しむべくは、愛する子供たちと暮らせないと言うこと…しかし、それも最愛の子供たちの為であるのならば、彼は腕に下がる烙印の証しさえ愛おしくなるのだろう。
呪われた血を疎むでもなく世界中を駆け巡る見えない自由の翼を持った、この広い世界の何処かにいる最愛の皇子を、后妃は遠く想いながらふと微笑んだ。
「熱いお茶がいいですね。身体がゆっくりと休まるように」
華奢な意匠を施された椅子に腰を下ろし、后妃は内心を悟らせぬ微笑を浮かべて女戦士に促した。
「畏まりました、ヴェルザライトさま」
女戦士は恭しく一礼すると、サッと部屋から出て行った。その後姿を見送っていた后妃の相貌から不意に笑みが消え、感情の窺えない能面のような、ともすればゾッとするほど美しい彫刻のような面持ちだけがそこに残る。
小さな円卓に頬杖をついて、繊細そうな人差し指を口許に当てて何やら考え込んでいたヴェルザライトは、マントルピースにある小さな額に視線を留めると暫くそれを眺めていた。
銀髪の赤子を抱えた自分の姿が描かれている肖像画は、男としてはあまりに優しすぎる表情をしている。いや、男…とその性別を言ってしまうのも憚れるような清楚で美しい面立ちだ。
「自分の道が正しかったか…だと?そんなこと、誰も判りはしない。ただ、一つだけ言えるとすれば、王として生きる道よりも随分楽だし、幸せだと言うことは確かかな。ルウィンには申し訳ないけどね」
立ち上がってマントルピースまで行ったヴェルザライトは片手で額を持ち上げると、キョトンッとした大きな瞳の愛らしい我が子に独り言のように呟いて微笑みかけた。
「竜使いがお出座しするらしいよ、ルウィン。気をつけて、そして必ず生きて帰るように。君はわたしの、大切な息子なのだから…」
愛しそうにクリスタルの嵌め込まれた額を撫でるヴェルザライトの表情は、海のように深い愛情で満たされている。それは、誰も知らない彼の本当の素顔だ。