第一章.特訓!20  -遠くをめざして旅をしよう-

「そもそも、この手の乗り物と言うのは無駄に魔力を食う。だから、格安で手に入るだろうと思ったのさ。ぶっ通しでガルハまで持てばいいだろうと思っていたんだが、まあ、カスタムリペア分は儲けたってことかな」

 森の中を吹きすぎる風に銀の髪を揺らしながら、ルウィンはそんなことを口にしていた。

《だったら別にトルンでなくてもヴィープルでも良かったのね》

 口先を尖らせるようにして言い募るルビアに、銀髪の賞金稼ぎは肩を竦めて小さく笑っている。

「ヴィープルは金が掛かるだろう?」

《守銭奴なのね》

「何とでも言え」

 魔力なら有り余っているからなと笑うルウィンと納得していないような表情を浮かべるルビアを交互に見比べながら、光太郎は聞きなれない単語を理解しようと勤めているようだ。

「トルンとヴィープルが判らないって顔だな」

 長時間かっ飛ばしたにも関わらず、物言わぬ機械仕掛けの乗り物は自分の働きに満足でもしているかのように、森の木々の隙間から差し込む陽光を銀の車体に反射させている。
 一行は、ガルハに続く道すがらの森の中で休憩していた。
 まるで熱砂の砂漠の唯一のオアシスのような森の中には、大きな湖が滔々と清らかな水を湛えている。

「うん。トルン、ヴィープル?判らない」

「トルンと言うのはな、そこにいる魔力喰いの機械仕掛けのことだ。ヴィープルと言うのは四足歩行の生き物だ。なかなか頑丈な体躯を持っていて、足も速い。だが如何せん利用料が高いのが旅人には痛いところだな」

「生き物?」

 首を傾げる光太郎を困ったなーとでも言いたそうに見下ろしていたルウィンは、肩を竦めて頷くだけだった。

「そうだ。まあ、そうとしか言いようがないのさ。実物がいたら、今度見せてやるよ」

「ホント?わーい、やった♪」

 嬉しそうに笑う光太郎に、思わずいつもはピンと立っている先端の尖った長い耳がくてりと下がってしまう。光太郎はなんと言うか、どうもルウィンの、いや、生きる者全ての頑なな心を解きほぐすような笑顔を浮かべる時がある。
 これが竜使いの持つ魅力なのだろうか?

《ルーちゃんは本当に光ちゃんには優しいのね》

 勝手にそんなことを考えていたルウィンの脳内に、不満タラタラのルビアの声音が響いた。

「うん、ルウィン優しい」

 余計なお世話だと言ってやる前に、光太郎が頷いてニコッと笑うから、最近ルウィンは小生意気な小さな紅い飛竜を嗜めることができなくなっていた。だがまあ、何事もあまり関心を抱かないハイレーン族の銀髪の賞金稼ぎにしてみたら、そんなことはどうでも良いのだろう。

《ちょっと聞きましたのね?今の健気~な光ちゃんの台詞!ルビアは感動なの》

 わざとらしく大袈裟に身振り手振りで表現する飛竜を無視して、ルウィンは集めてきた枯れ木で焚き火を起こしながら光太郎に言った。

「カークーは知ってるよな?最終的にトルンが手に入らなければソイツを考えていたんだが、如何せん奴等の足は遅い。カークーでの旅路ならガルハまで何日もかかっただろうよ」

「カークー、キーウィみたいな鳥。足が遅い?」

「そうだ」

 頷くルウィンの傍らに腰を下ろしていた光太郎は、焚き火が起こす炎を見つめながら首を傾げていた。

(キーウィみたいな姿でダチョウみたいに大きいから、共通点として足は速いって思ってたのにな~うーん、違ってたのか)

 ちょっと残念でガックリしていると、ルビアが欠伸をしながら光太郎の腕に舞い降りた。

《トルンはとっても便利なのね。魔力があるルーちゃんには持って来いの乗り物なの》

「うん、トルン凄い。ハイキガス出ない。自然が嬉しい」

「ハイキガス?」

 傍らで聞いていたルウィンは首を傾げたが、元いた世界の言葉なんだろうと勝手に理解してそれ以上追及することはなかった。

「トルンどこで生まれる?ガルハ?」

 これから赴こうとしている国の名前を口にしたものの、自分が今何処にいるのかさえ未だ理解できていない光太郎としては、できればこの会話を切っ掛けにこれから行くはずのガルハについて少しでも学べればいいと、そう思ったのだ。

《ガルハ…って言いたいところだけど違うのね。ガルハは確かに大きな軍事国家ではあるけれど、それは優れた魔剣士が多いからなの。魔剣士と言うのは魔法と剣技に長けている騎士のことなのね。もともと機械仕掛けを研究していたのは、すっごく遠い昔、世界中に散らばっていた【七賢者】と呼ばれる賢者の一人が創ったディアノスと言う国なのね》

「ディアノス?」

《そう。今はホントに七賢者の末裔なの?と疑いたくなるほど魔力とは無縁のゼノギア家が治めているのね》

「賢者、魔法スゴイに魔法使えない?面白いね」

 暢気に笑う光太郎の傍らで2人の会話を黙って聞いていた胡坐をかいて座っているルウィンは、呆れたように肩を竦めて枯れ木を1本炎の中に投げ入れた。

《今は確か、シャンテと言う女王様が治めているはずなの》

「女王様?ふーん、僕は他の国も見たい。でも、ガルハ行く、それが先」

 ね?っと小首を傾げて同意を促す光太郎に、小さな深紅の飛竜はこくりと頷いて短い指を1本だけ立てて左右に振って見せた。

《ガルハも凄い国なのね。光ちゃんが見たらぶっ魂消るの》

「ビックリする。ホント?」

《ホントーなのね!首都のラングールを見たら、その凄さに膝がガクガクして奥歯がガチガチするのね!》

「…」

 ルビアの台詞に本気で怯えたような光太郎は、青い顔をして無意識のうちにルウィンに擦り寄っていた。
 捨てられた子犬のような目で思わず振り仰いだルウィンの顔は、言わずとも明らかなように、大袈裟なルビアの言動に呆れ果てて、いつもはピンッと尖っている長い耳も下がっていた。

「奥歯がガチガチするほどには殺気立ってはいないがな、お前が目にした村にしてみればその繁栄に目を見張るくらいはするだろうよ」

「バザーよりも賑やか?」

「バザーか、はは。まあ見てからのお楽しみだ」

 ワクワクと好奇心旺盛な表情をして覗き込んでくる光太郎の顔を見下ろして、ルウィンは軽く笑いながら肩を竦めて見せた。
 よく晴れた透き通るような青空に見たこともない鳥が羽ばたいていくのを、ルウィンは遠くに眺めながら不意に思い立ったように立ち上がった。

「?」

 不思議そうにそんなルウィンを見上げる光太郎とルビアに、銀髪の賞金稼ぎは微かに吹く風に前髪を揺らしながら素っ気無く言うのだ。

「火も熾したことだし、お前たちこっちに来い」

 集めてきた枯れ木に短い術法を唱えて焚き火を熾していたルウィンに、長い旅の疲れを癒すように腰を下ろしていたルビアが口を開いたのだ。それに対するルウィンの回答が冒頭のようなものである。
 漸く火を熾して一息つけるはずだったのに、ホッと腰を下ろしていた光太郎は不思議そうな顔をして首を傾げながら立ち上がった。すると、同じようにチビ飛竜も舞い上がって黒髪の上に落ち着くのだ。

「ルウィン、どこ行く?」

 首を傾げながら長身のハイレーン族である銀髪の青年の後を追う光太郎に、彼は肩を竦めながら少し奥にある湖まで2人を導いた。

『うわー!綺麗だなぁ…ここ、すっごい綺麗!えーっと、ニブール、ルテナ』

「光る、月?」

『ナール』

「光る、月、面?…光り輝く月面?」

「みたい」

 ニッコリ笑って頷く光太郎の腕には、いつの間にか深紅の飛竜が抱えられていた。
 大きなエメラルド色の瞳には好奇心と不信感が綯い交ぜした、僅かな戸惑いが浮かんでいる。

「何をする気だと言う質問には見ての通りだと答えておこう。さ、さっさと服を脱いで飛び込め」

「ええ!?」

《やっぱりなのね…》

 ギョッとする光太郎と溜め息を吐くルビアを尻目に、言い出したルウィンがさっさと先に服を脱ぎ捨て始めた。

『わーわー!どうしよう、ルビア?』

《脱ぐしかないのね》

 それは見れば判るけど…と混乱した頭では判っているような判ってないような曖昧な気分だったが、目の前で既に全裸になってしまったルウィンが平気そうな顔をして湖に入って行くのを見ていると、居ても立ってもいられない心細さを覚えてしまう。

《脱ぐっきゃないのね!ルビアも行くの、光ちゃんも早くなのね》

 ハッとした時にはルビアは既に腕から擦り抜けるとクルンっと宙で一回転して人型に変身し、覆う場所の少ない衣服を惜し気もなく脱ぎ始めたのだ。それに感化されたのか勇気を持ったのか、恥ずかしさも多分にあるものの、気を取り直して衣装を脱ぎ始める光太郎だった。
 スィーッと泳ぐように湖の少し深いところを目指していたルウィンはしかし、腰が隠れるほどのところで立ち止まると自分に倣って派手な水飛沫を上げて飛び込んだ2人を呆れたように振り返る。

「つべた~いのね!」

「はっっクシュ!」

 賑やかにワイワイしている2人はどう見ても年の離れた兄妹ぐらいに見えるが…ん?兄妹??

「わわ!?ルビア、女の子!?」

 鼻水が出そうになっていた鼻を押さえていた光太郎は、ハッとしたように傍らで楽しそうに我が身を抱きしめる様にして震えているルビアに気付いてギョッとした…が、よくよく見ればなんのことはない、やはり普通に少年の姿をしている。
 だがあくまでも少女姿に気合を入れているのか、一見すれば女の子と見間違っても仕方ないのだ。
 しかし、ルビアがそうする理由を未だに光太郎は判らないでいる。

「それがどーしたのね?うっふんなのvあ、ルーちゃん待って~ん」

「こっち来んな、バカ飛竜」

 バシャンと飛沫を上げて水を引っ掛けるルウィンに、頭から水を被ってしまったルビアはムッとしたように下唇を突き出して腹を立てた。

「ひっどいのね!せっかくルビア様がサービスしてあげると言うのに!!」

「…いらんわい」

 呆れたように肩を竦めてしれっと言い放つルウィンに、ますますいきり立つルビアの背後で、光太郎が情けない声を上げていた。

「ルビア、どーしていつも女の子風なの~??」

 参ったと言うように両手で両目を覆って尋ねる光太郎に、腰に手を当ててムスッとしていた深紅の長い髪を水面に漂わせた少女もどきは、スィーっと泳いで行って光太郎に抱きついた。

「男所帯は辛気臭いのね!雑草の中に花があれば綺麗なの~」

「わー!」

 バシャバシャと水飛沫を上げてじゃれ合う2人を呆れたように見ていたルウィンは、やれやれと溜め息を吐いて手にしていた石鹸を泡立て始めた。

「光ちゃんもパッと見は女の子みたいに華奢なのね♪万が一の時は変装するといいのv」

「ふぇ?」

「お金がなくなったら身体で!稼ぐのね♪」

「ええー!?」

「踊り子踊り子♪」

 冷たい水飛沫を跳ね上げてはしゃぐ2人の姿は、真っ青な空に浮かぶ太陽の光を反射してキラキラと輝いてとても健康的だ。それだけに話している内容の酷さにルウィンがこめかみを押さえそうになったとしても、誰も文句は言えないだろう。

「下らん冗談はいいから埃を流せ」

 ポンッと放られた石鹸をタイミングよくキャッチしたルビアを見て、ここに来て漸く光太郎はルウィンが湖に自分達を誘った彼の思惑を知ったのだった。

(そっか、砂漠で埃だらけだったもんな。汗も流したかったし…ルウィンって案外気が利くんだよなぁ)

 泡立てた泡でもあもあと頭を覆ってしまって四苦八苦しているルビアの傍らで、光太郎は均整の取れた裸体を惜しげもなく晒して水浴びをしているルウィンの、その姿をぼんやりと見つめていた。
 頬に微かな傷を残しているが、身体中はその比ではない。
 傷だらけと言えば嘘になるかもしれないが、致命傷になりかねないような大きな傷もあれば、刺し傷も刀傷も至るところについている。なまじ筋肉質なせいで、痛々しさがないのが、却って彼を百戦錬磨を誇る賞金稼ぎであることを物語っているようだ。
 気持ちよさそうにふーっと息を吐きながら水を浴びるルウィンは、そんな傷さえなければどこか、気品さえ漂う優雅さがある。物語から抜け出してきたエルフのような神々しさがありながらも、彼が死闘を潜り抜けてきた存在であることを物語るのは、やはりその、意志の強さを秘めた未来を見据える青紫の双眸に隠された闘志のせいなのだろうか…

(俺のいた世界だったら、こんな仕事をしなくても、ルウィンならモデルとかにもなれたのにな…)

 外見を気にするだけでつけている筋肉とは違い、生き抜くために必要に応じてついている筋肉と言うものは否応なく美しかった。どこか空々しさを匂わせる見掛け倒しのムキムキとは違い、洗練された肉体はそのものが1つの芸術のようでその存在はまるで神秘的だった。
 男なら一度は憧れる完璧な肉体が目の前にいる。
 バシャバシャと水を顔に叩きつけるようにして洗っていたルウィンが、不意にその手を止めて、前髪からポタポタと水滴を零しながら訝しそうに眉を寄せると、ボーッと見蕩れている光太郎を見た。

「どうした、そこで溺れているチビ竜を助けないのか?」

 久し振りに息抜きができたのか、ルウィンもどこか気の抜けた調子で肩を竦め滴り落ちる水滴を空に散らしながら前髪を掻き揚げると、光太郎は慌てて我に返って傍らで半分溺れているルビアを助けることにした。

「わわ!?ルビア、だいじょぶ??」

「ひー、助けて欲しいのね!」

 長い髪が災いしたのか、ルビアが本気で溺れていると知って、光太郎はついつい美しいハイレーン族のルウィンに見蕩れてしまったことを反省した。

「くっくっく。このオレ様の美しさに見蕩れるのもいいが、ちゃっちゃと身体を洗っとけよ?」

 片手を腰に当てて意地悪そうに笑うルウィンの満更嘘とも言えないお茶目な(?)ジョークに、光太郎と命辛々で生還を果たしたルビアは顔を見合わせると思わず噴出してしまった。

「う、あからさまに笑うなよ。なんだ、これは。冗談のつもりが笑われるとやたら気恥ずかしくなるぞ?」

 雪白とも言える白い頬は殴られただけではない赤さを持っていて、それが不機嫌そうに眉を寄せて唇を突き出すルウィンを、腕を組んでいてもどこか子供っぽい仕種に見せていた。それが余計に光太郎とルビアのツボに入った。

「ちっ」

 不機嫌そうな、バツが悪そうな表情をしたルウィンは肩を竦めると、それでもクスッと笑ってスィーッと泳ぎだしてしまう。

「バツが悪いハイレーン族はちょっと深みまで退散するとしよう」

 グッバイと片手を振って潜ってしまったルウィンに慌てたようにザブザブと歩き出す光太郎を、ルビアが慌てたように止めた。それもそのはず、その先は少々の泳ぎの達人でも閉口するようなポイントがあるのだ。

『だってルビア!ルウィンが行っちゃったよ?』

「言葉がわかんないのね。んもう、仕方ないの!」

 そう言って水の中に潜ったルビアが飛び上がった時には、既にその身体は元のルビーのような美しい深紅の飛竜に戻っていた。

《ルーちゃんの行ったポイントには、おっきなお魚がいるのね。別に深追いをするお魚ではないけれど、泳ぐ練習にはもってこいなの》

『じゃあ、俺だって練習したいよ』

 ムッと唇を尖らせて反論する光太郎に、ルビアはちょっと困ったように小首を傾げてみせる。

《光ちゃんは人間なのね。そりゃあ、ルーちゃんには止められているけれど、光ちゃんは竜使い様かもしれないの。でも、人間であることには間違いないと思うの。そんな光ちゃんが、魔魚の追跡から逃れられるとは到底思えないのね》

 しかも相手は、竜使いの出現から均衡の崩れた魔力の増大で、その力は計り知れなくなっている。冗談が冗談にならなくて、照れ隠しに泳ぎに行ったわけではないルウィンは、実はその目で魔物たちの動向を観察しようとしていたのだ。

『魔魚…ってことは、もしかして魔物!?』

《もしかしなくても魔物なのね。足手纏いになっちゃうの》

 肩を竦めるルビアに、ブルブルッと震えて見せた光太郎は、慌てたようにその深紅の身体を裸の胸に抱きしめながらそそくさと湖を後にするのだった。

 そんな2人の気配を背後に感じたルウィンは小さく苦笑すると、息を大きく吸い込んで深みまで潜って行った。
 そもそもこの湖はひょうたん型になっていて、ちょうど光太郎が怯えたようにルビアを抱えて上がった岸からは見えない構造になっている。生い茂った木々が水面に浮かぶルウィンの姿を隠してしまうのだ。
 水面に突き出た大きな岩のある場所に、この湖の番人は深い眠りについている。
 10代の頃から城を抜け出してはこの湖に泳ぎの練習に来ていたルウィンにしてみたら、湖の番人とは既に10年来の付き合いである。ルウィンの『ちょっとそこまで』は、実に3日がかりの小旅行を意味していたりすることは城の者にも内緒だった。

《タオ老、起きているか?》

 水底に眠っているはずの怪魚の寝床に向かって、ルウィンは思念の声で語りかけた。
 均衡の崩れた世界に渦巻く魔力の波動は、水底にいてさえもルウィンの肌を貫く鋭敏さを持っている。この波動を、いにしえよりその営みを見据えて生き続けている老怪魚〝タオ〟が感じていないはずがない。
 どうか無事であるように…何事にも関心を示さないルウィンにしてみれば、光太郎のときと同じように、この怪魚に砕く心根は常に柔らかかった。
 遠い岸辺でその思念の声を感じたルビアが、《あッ》と声を上げて光太郎から不思議そうに覗き込まれていたちょうどその時、ルウィンが下唇を噛み締めると同時に水底の影がゆらりと動いた。
 湖に降り注ぐ陽光の煌きが銀髪に反射して、暗い水底から彼の姿を認めるのは容易いことだったのだろう、巨大な何ものかは大きな影を揺らして凄まじい速度で襲い掛かってきた。ルウィンの見極めが一瞬早く、それを避けなかったら鋭い牙で引き裂かれていただろう。

《元気そうで何より…と言いたいところだが、挨拶にしては物騒じゃないか?》

{喧しいわ、この若造ッ!!暫く顔を見らんと思ったが何をしておった!!}

 余程起こされたことに立腹しているのか、はたまた久し振りに会った愛弟子の来訪を歓迎しているのか、どうやら後者であるらしい大音声を張り上げて、ルウィンの眼前を悠々と泳いでいる。
 その健在の姿にルウィンが微かにホッとした気配を波紋で受け止めて、堂々たる巨大な姿を晒した怪魚は訝しげに口許に延びた長い鞭のように撓る髭をゆらゆらと動かしながら小さな目を眇めている。

{なーんじゃ、その顔つきは!?儂の健在に不満でもあると言うのか??フンッ!!}

 巨大な鯰のような姿でありながら、泳ぐ速度は敏捷なのか、外敵に見つかり易い大きさにも拘らず彼の肉体には自然にできた傷以外はない。それが誇らしいのか、巨大鯰の怪魚は瑞々しい裸体を晒すハイレーンの青年の前で悠々と泳いでみせる。その姿は、数年前に見た時と少しも変わっていないことに、ルウィンの口許に微かな笑みが浮かんだ。

《そうか、それならいいんだ》

{むぅ!?…なんじゃ、気味が悪いのう!!貴様らしくもなくやけに萎れておるではないかッ!!}

《タオ老…まあちょっと、話でもしないか?》

 暫く考え込んでいたルウィンはそう言うと、タオが着いてきているか確認もせずに水面に向かって浮上した。そして、彼がこの怪魚と対話する時にいつも座っている、あの突き出た岩に登って胡坐を掻くと水面に大きな波紋を描きながら半端ではない巨大魚がザバッと巨大な顔を覗かせたのだった。

{さてどうした、若造!?}

「淀みを感じないか?」

 水面を覗き込むようにして語り掛けるルウィンの端正な顔を見上げて、鯰顔をした怪魚は{ふむ}と頷くような仕種を見せて、ニィッと開いた口からギザギザに尖った牙を覗かせて見せた。

{フンッ!!竜使いとやらが現れてから、暗黒の瘴気が垂れ流しになっていると魔物どもが騒いでおるが…貴様の心配事とはそんなことか!!}

「そんな事かってな…爺さん。まあいいさ、あんたに影響がないならそれでいいんだ」

 相変らずの豪胆ぶりを見てひと安心だったのか、ルウィンが頷きながら呟くと、タオ老は暫く何事かを考えているような素振りを見せていたが…

{若造!!貴様、竜使いの出現に戸惑いでもしたんかのう!?}

「なぬ?」

 思わず耳慣れない台詞に眉を寄せるルウィンを、鯰の親分は良く見ないと判らない、長い付き合いのルウィンですら見落としてしまいそうなニヤリ笑いをして尾鰭で水面を叩いてみせる。
 大音声は森を通り越えて砂漠地帯にまで響き渡りそうだが、実際はそうではなかった。彼の思念の声はルウィンの頭の中でのみ響き渡っている。なので、たとえルウィンの思念の声をルビアに聞かれたとしても、タオ老の思念までは聞こえていない。だからこそ彼は、たった1人でこの湖の主に会いに来たのである。

{貴様、漸く立太子するそうではないか!!森の魔物どもが騒いでおるぞ!![ハイレーンの若い皇子が嫁を娶って国を治める、この森までも支配しに来るぞ]…となぁ!!}

 強国ガルハは隣国コウエリフェルとの長い戦をしている。
 今でこそ冷戦状態ではあるが、些細なことでもすぐに戦が勃発してしまうほど、2国の間の諍いの歴史は長かった。
 恐らく魔物どもが噂しているのは、新たな皇太子を迎える国はますます繁栄を誇り、皇帝は何れその勢いに乗って戦を始めるだろうと予言しているのだ。

「コウエリフェルのセイラン皇子が妻を娶る。その噂は流れないのか?」

 嫌気が差したように肩を竦めて溜め息を吐く若きハイレーン族の、ガルハ帝国を治めるバーバレーン家の皇子殿下のその様子に、タオ老は愉快そうに小さな目を細めた。

{コウエリフェルの若造のことか!?アレの立太子は既に済んでおるでなぁ!!対立国で、しかも強国ガルハの皇子の立太子ともなれば話は別じゃ!!知らぬ貴様でもあるまい!}

 面倒臭いなぁと思ったかどうかは別としても、後頭部をバリバリと掻きながら厳しい表情で暫く地面をジッと見据えていたルウィンはしかし、諦めたように溜め息をついて肩を竦めるのだった。

「オレは嫁を娶る気もなければ立太子する気もない。根も葉もない嘘を父上が流しているだけだ」

{ハッ!!貴様、面白いことを言うのぅ!!皇帝の言動は即ち事実ではあるまいか!?}

 転げるようにして笑っているのか、鯰の親分は水の中で優雅に踊っているようだ。

「何とでも言ってくれ。当の本人の与り知らぬ発言なんか、誰が認めてもオレが認めん!」

 フンッと鼻で息を吐いて外方向くルウィンを、転げるのを止めたタオ老は暫し見つめた後、気のない調子で思念の言葉を紡いだ。

{勇ましきハイレーンの皇子よ!!あの国を何れ治めるは貴様しかおるまい!!いい加減に駄々を捏ねずに立太子して、陛下を安心させてやるんじゃな!!それが孝行と言うものよ!!}

 呆気に取られたようにポカンとしたルウィンだったが、すぐに神妙な顔つきをして俯いた。
 誰かに言われるでもなく、それは重々承知していることだった。
 彼の美しい兄上は、既に将軍職を退き、ましてや立太子など永遠に望めない身体になっている。強国ガルハに在って、唯一国を背負える皇子は、もうルウィンしかいないのだ。
 立太子すれば、自ずと将軍職に就き、何れ魔物が噂するようにコウエリフェルとの長い戦を始めることだろう。
 些細な切っ掛けとは、たとえばそれが、ルウィンの立太子だったとしても過言ではないのだから。

{時に若造!貴様が連れている小僧、なかなか面白いではないか!!}

 神妙な面持ちのルウィンをそれ以上苛めるつもりはないのか、この湖を古くから守っている主は重苦しい雰囲気を払拭でもするかのように水面を激しく尾鰭で打ち立てながらそう言った。

「光太郎のことか…そうだな。タオ老にはアイツがどんな風に視える?」

 先見の術には長けていても、その者の本質を見抜けるほどには母の魔力を譲り受けていないルウィンとしては、今回この湖に立ち寄ったのはタオ老に光太郎を視て欲しかったからなのかもしれない。ましてやズシリと胸に響く老の台詞に怯んでいる身としては、話題を変えるのは有り難かった。

{織り成す色じゃ!!光は影を求め、影は光を求むる!綾なす色に惑わされぬようにのう!!フェッフェッフェッ!!}

「色??」

 時にこの鯰の親分はルウィンですらも理解し得ないことを言葉にする時がある。
 だがそれは、確実に今後のルウィンには必要なはずの言葉であって、遠い未来にその場に来て、タオ老の言っていたのはこう言うことだったのかと思うことがよくあったものだ。だが些かまだ若すぎるルウィンには、そのどれもをその場で理解することができないでいた。

{二対の色は混じりあい1つの色と成す!!求むるなれば離れよ!!}

 鯰の大将は大きな尾鰭でバシャンッと水面を叩くと、胡坐を掻くハイレーンの青年を見据えるように小さな瞳を瞬きしてニヤッとギザギザの刃のような歯をむいた。

「…織り成す色。二対の色か…アンタにはアイツの正体が視えているんだろうな」

{さてなぁ!!}

 バシャンバシャンッと勢い良く泳いで見せるタオ老に、ルウィンは仕方なさそうに笑って見せた。

(いずれにせよ、どうやらオレと光太郎が離れることは運命らしいな…)

{さて、若造!!貴様の下らん話とはそんなものか!?}

 その台詞は、タオ老がそろそろ退席を望む時に口にする言葉だった。

「ああ、悪かったな」

{フンッ!!今度は100年後にでも会いに来い!!}

「それはもう来るなってことかよ」

 呆れたように首を傾げるルウィンの眼下で、傍らを鮫ほどの大きさの魚が泳ぐのを小さな目で捉えた鯨ほどもある鯰の親分は、あっと言う間にバクリと一口で平らげてしまった。相変らずの健啖家ぶりを眼下に認めて、ルウィンはそれでも、なぜ自分が普通に笑えないでいるんだろかと吹き上げる風に前髪を揺らしながら吸い込まれそうな青空を見上げていた。

 バシャバシャと湖の冷たい水を蹴散らすようにして上がってきたルウィンを待っていたのは、薄水色の流れるような衣装を身に纏った小柄な少女だった。
 水の精霊の祝福を受けた衣装はスッポリと身体を包み、お揃いのベールが全体を覆って宛ら湖の精霊が現れたのだろうかと、ルウィンが一瞬錯覚したかどうかは本人のみぞ知るところだが、軽い溜め息を吐いて光太郎の頭部からベールを引っ手繰った。

「ルウィン、おかえり!お話、すんだ?」

 胸元に深紅の飛竜を抱えていれば、それが湖の精霊でないことは一目瞭然であるとは言うまでもない。  
 全裸で歩く青年の後を陽気に追いかけて行く光太郎をルビアは見上げながら、思念の声でルウィンに話しかけた。

《タオ老元気だったの?思念の声が聞こえたのね》

 ルウィンの、と付け加えた説明に、銀髪の青年はやっぱりコイツかと思いながら頷いて見せた。

「相変らずだったよ。あの爺さんを縛る魔力など、もうこの世にはないんじゃないか?」

 辛辣な嫌味を言うルウィンの態度に、これは何かあったんだなと感じ取ったルビアは、彼が焚き火のある場所まで来て買った服に着替えるところを無言で見守ることにする。ルウィンとルビアの会話で何やら只ならぬ気配を感じた光太郎も、話し出したいのをグッと堪えてルビアともども大人しく待っていることにしたようだ。

「…なんだ、お前たちは」

 漆黒の衣装を纏ったルウィンはベルトが幾つもついている風変わりな外套を掴みながら、岩のように押し黙っている飛竜と少年を訝しそうに交互に見比べながら首を傾げてみせた。

《不機嫌そうなのね。とばっちりはご勘弁なの》

 煌くような深紅になった紅い飛竜は、対照的な薄水色の衣装の胸に抱えられながら尖った口をパカッと開いて見せた。

「不機嫌?オレが?…冗談だろ。別になんでもないさ」

「ルウィン、だいじょぶ?」

 不安そうに見上げてくる漆黒の双眸を見下ろして、自分がそんなに不機嫌そうな顔をしていたのかと正直驚きながら、ルウィンは首を左右に振って見せる。

「そんな顔するなよ」

「う?」

 クシャッと黒髪を掻き回されて、光太郎はホッとしたように顰めていた眉を緩めた。
 そんな2人の動作を見ていたルビアは、光太郎の腕に掛けている小さな両手で頬杖をつくと、肩を竦めて溜め息をついた。

《タオ老が元気だったのならそれでいいのね。問題は何を話したのかと言うことなの》

 いつもなら、お前には関係ないとピシャリと言われて口を噤む。これがお決まりのパターンだったはずなのに、今日のルウィンは少し違っていた。

〔ガルハに戻る。ただそれだけのことだ〕

「!」

 ガルハ語の会話に、光太郎はルビアを抱きしめたままで見守っている。それはルウィンが仕事の話をしているか、重要な話をしているときの言葉だから光太郎は素直に黙っているのだ。そんな光太郎を見下ろしながら、ルウィンは少し寂しそうな顔をした。

「?」

《それだけのことでガルハ語を使うの?》

 ルビアの台詞に、ルウィンは小さく首を左右に振った。

「ガルハに戻る、ただそれだけのことなのにな。気が引けるのは、オレが…いや、どうかしてる。さあ、もう行くぞ」

 振り切るように砂を蹴って火を消すと、ルウィンは背後を振り返りもせずにトルンの許まで行った。その、いっそキッパリと断ち切ろうとするルウィンの心を、ルビアは慮って口を開けないでいた。ただただ、その背中を見つめていることしかできないでいる。
 そんなルビアとルウィンの沈黙の対話に、光太郎はなぜか、不意に大きな不安を感じて小さな飛竜の身体をギュッと抱き締めてしまった。

(なんだろう…今まではあんまり考えてなかったのに。どうしたんだろう、この気持ちは…)

 奇妙な形をした筒状のハンドルに腕を入れて、血圧の下がるような軽い眩暈を覚えながら、ルウィンは魔力を吸い取られる感じに相変わらず嫌気が差したような顔をしていたが、正面を見据えるように睨み付けてから自らの魔力を全開で放出した。その瞬間、一気に生気を取り戻した銀の車体を持つトルンは、走れる喜びを体現するかのような咆哮を上げて身震いするのだった。
 呆然と突っ立っている光太郎に気付いたルウィンは、怪訝そうに小首を傾げながら顎をしゃくってみせる。
 不安そうな表情をしていた光太郎はちょっと俯いて、それから顔を上げるとニコッと笑って慌てたように走って行くとルウィンの背後の座席に飛び乗った。

「どうしたんだ?」

 ちょっと驚いたようにルウィンが言うのと、同じように驚いたように見上げるルビアを交互に見ながら、光太郎は殊の外なんでもないようにニッコリと笑って見せたのだ。

「別に何も♪ガルハ行くの、すごい楽しみ」

 ルウィンは肩を竦めただけで何も言わずに、爆音を立てて走り出すことにした。
 ルビアは不思議そうな顔をしていたが、結局、ギュッとルウィンの背中に抱きついている光太郎の顔を見ることができずに大人しく目を閉じた。
 光太郎はルウィンの背中に頬を寄せながら、先程までの明るい表情とは打って変わった神妙な面持ちで、キュッと唇を噛み締めながら流れて行く壮大な自然を見つめていた。