とは言え、身体の方は2日で元気を取り戻したんだけど、心配性のルシフェルと灰色猫がそれを信じてくれなくて、結局、未だに魔城にいるってワケだ。
何もすることもなくて手持ち無沙汰でブラブラしていたら、何時の間にか誰もいない食堂に来ていたらしく(迷ったなんて絶対に言わないんだけどな)、シンッと静まり返った厨房を覗いてみたんだけど、やっぱり誰もいなかった。
誰もいないんだから断る必要もないよなと、自分で勝手に解釈して、俺は我が物顔で厨房内を勝手に見回っていたんだけど…あれ?ここの食材って俺たちの世界で使ってるのとソックリじゃないか。
ジャガイモに似た野菜に、何の肉か判らないけど牛肉らしい肉、調味料も何でもござれ…って、これならアイツが好きな肉ジャガだってできるな~
「そうだ、どうせレヴィには食ってもらえないだろうけど…世話になってるルシフェルや灰色猫に俺特製の肉ジャガでもプレゼントするか!」
今の俺にできることと言ったら…これぐらいだもんなぁ。
それでも久し振りに包丁を握って調理支度を始めると、何故かウキウキしてしまって、ああ俺ってホントに主夫だよなぁ…と、思わず情けなくてトホホホッと笑っちまった。
心の奥深い部分では…いや、違うな。
頭では判っているんだ、いますぐにでも飛び出して行って、レヴィの記憶を取り戻すことができるって言う【約束の花】を取りに行きたい。
でも、と、俺の頭の中で別の声が逸る気持ちに抑制をかけてくる。
ホントウニソンナハナハソンザイスルノカ?
…自信なんかこれっぽっちもなかった。
灰色猫が、ルシフェルが、アスタロトが言うから、信じてみようと思っているだけだ。
きっと、俺のこんな部分が、ルシフェルに言わせれば『悪魔に身包み剥がされる性格』ってヤツなんだろうな…それでも、何かに縋っていないと、今の俺は満足に立っていることすらできないんじゃないかって思うほど、草臥れていた。
ヴィーニーと睦まじく姿を消す白い悪魔の背中を見詰めた時、ハンマーで頭を殴られたような衝撃があって、それ以来、なんだかあやふやな水の中を呆然と歩いているような、奇妙な違和感が纏わりついて離れてくれない。
それが、今の俺の心境だったから、せめて大好きな料理でストレス発散しよう…って思うのは、やっぱり普通の男子高校生としてはおかしなことだよなぁ。
ムムム…ッと、包丁とジャガイモを握り締めて眉根を寄せていたんだけど…あんまり馬鹿らしいんで、俺は適当な皮むき器も見つからないことだし、仕方なく、手にした良く磨かれて鋭く光る包丁を使うことにしたんだ。
「肉ジャガ肉ジャガ…ジャガジャガジャガ♪」
適当に作った鼻歌なんか歌って、思い切りリラックスしていたもんだから、俺は気付かなかった。
厨房の入り口に佇む影のように静かな存在に…
別に、気配を感じたとか、そんなつもりはなかったんだけど、なんとなく振り返った先に、物言わぬ影のようにヒッソリと立っていたらしいソイツは、フンッと鼻で息を吐き出してから、うっそりと凭れかかっていた壁から身体を起こすと、組んでいた片方の腕を腰に当てて軽く睨むようにして俺を見返したりするから吃驚した。
『こんなところでアスタロトの奴隷が何をしているんだ?』
聞き覚えのある…いや、聞き慣れ過ぎていて、そのくせ、今はとても懐かしい声音に俺は、思わず泣き出しそうになってしまって、慌てて俯きながら首を左右に振って見せた。
「も、申し訳ありません!勝手に厨房に入ってしまって…ただ、ルシ…主人に食事をご用意しようと思いまして」
『食事だと?』
ゆっくりと腕を組んで小馬鹿にしたように、丸い木の椅子に座って途中まで剥いたジャガイモと包丁を握り締めている俺を見下ろしていた白い悪魔は、もう一度鼻先で笑ってから、やっぱり馬鹿にしたように肩を竦めて見せたんだ。
どんなに馬鹿にされても、どんなに皮肉を言われたとしても、やっぱり俺は、そこにそうして佇んでいる古風な中世の貴族のような出で立ちをしている白い悪魔の、肩に一房だけある飾り髪も、ジャラジャラの装飾品も何もかも、全てを愛しいと思ってしまうんだなぁ…
その事実に、眩暈がした。
眩暈がして、それから、途方に暮れてしまった。
ああ、どれだけ俺、この白い悪魔を好きなんだろう。
『人間如きが作る瑣末なモノを、四方やアスタロトが口にするとは思っていないんだろ?』
「い、いいえ。アスタロト様にお持ちするんじゃありません…」
『なんだと?オレはお前を、アスタロトに渡したはずだが??』
そこには事情があるんだよ…って、いつもの俺ならかるーく噛み付いてやるところなんだろうけど、悪魔としての威厳を取り戻しているレヴィには、けして逆らってはいけないと、灰色猫から拝み倒すようにして約束させられたから、仕方なく忠実にその誓いを守ってるってワケだ。
オマケに、ルシフェルにまで睨まれてるんだ、反抗なんかできるかよ。
「…えっと、それは。あ、そうだ。どうですか、レヴィアタン様。結構、俺の作る料理は美味いんですよ。一度、召し上がってみませんか?」
ニコッと、精一杯の愛嬌を振りまくつもりで笑って見上げたら、懐かしい白い睫毛に縁取られた黄金の双眸が一瞬、僅かに一瞬ではあったんだけど、らしくもなく、動揺したように揺れたように見えたのは、俺の都合のいい錯覚だったんだろうか。
レヴィはうんざりしたように眉間に皺を寄せていたけど、それでも溜め息を吐いみたいだった。
『人間如きの瑣末な代物を口にするなど、甚だ不愉快なんだがな。お前の主人とやらが口にするとなれば、少しばかりは期待できるんだろうよ』
「レヴィアタン様、美味しいですよ。是非、召し上がって下さい」
それが何を意味しているのか判らなかったから、俺が失礼は承知で丸椅子に腰掛けたままで不機嫌そうな白い悪魔を見上げて精一杯食い下がると、レヴィはツンッと外方向いて言い放ったんだ。
『仕方ない。そこまで言うのなら、毒味をしてやろう』
どうやらそれは、単なる照れ隠しだったようだ。
思わず、俺はクスッと笑ってしまった。
大悪魔様のご悪友にして、海を統べる絶対的統治者であるリヴァイアサンの知られざる側面を見たようで、俺が嬉しそうに笑っていたら、白い悪魔はほんのちょっとだけど、面食らったような顔をしたみたいだった。
「判りました。では、超特急で作りますね♪味の保障は任せてください」
クスクスと笑ってジャガイモの皮むきに取り掛かる俺に、腕を組んでいたレヴィはバツが悪そうな顔をしたんだけど、それでも、やれやれと腕を解いて厨房に設置されている、恐らくは人間の奴隷たちが賄い食でも食べる場所なんだろう、粗末な木製の椅子を引き出して腰掛けると、油とかで汚れているテーブルに頬杖なんかついたんだ。
『超特急で作らなくてもいい。オレは味に煩いんだ。十分、心して作るんだな。時間なら、まだまだある』
「…はい」
でも、アンタはヴィーニーと大切な時間を過ごすんじゃないのか…とか、そんな憎まれ口を叩きたくなったんだけど、ふと、顔を上げたら、俺の調理風景を楽しそうに眺めていたあの頃のレヴィのように、テーブルに頬杖を付いて俺を見つめてくる白い悪魔を見た瞬間、俺は思わず泣きそうになっていた。
だから慌てて俯いたんだけど、レヴィは気付いてはいないようだ。
そんな風に、口許に薄っすらと笑みを浮かべてお前、俺が料理するところを楽しそうに見ていたんだぞ。なぁ?少しも思い出せないのか??
あんな風に幸せだった日々を、本当にすっかり忘れてしまったのか?
なぁ、レヴィ…そんなに、俺たちが過ごした時間は呆気なかったのかな…
頬をポロッと涙が零れた。
一番、考えたくないことを、こんな風にレヴィと穏やかに過ごす時の流れの中で考えてしまうと、両手で抱き締めているはずのものが、呆気なく指の隙間から零れ落ちてしまいそうで、緩んだ涙腺をとめることができなかった。
一粒、ポロリと零れてしまうと、次から次からポロポロ涙が零れて、胸の奥が痛くなって、俺は初めて、切ないと言う気持ちを感じていた。
滲む手許に必死に集中していると、ふと、溜め息が聞こえてドキッとした。
見られないように俯いていたはずなのに…
『オレに喰わせるのがそんなに辛いのか?』
全く的外れだよ、レヴィ。
どうして、不遜な海の君主はこんなに鈍感な野郎なんだ!
「とんでもありません、レヴィアタン様!ちょっと、目に沁みて…」
『…ふん。そう言うことにしてやってもいいんだが、お前の新しい主はアスタロトより酷いのか?』
服の袖で慌てて涙を拭いながら、ジャガイモもどきの皮むきを再開しようとした俺は、ちょっとだけハッとしたようにレヴィを見返して、不機嫌そうな、そのどうでもよさそうな黄金の双眸と目があった途端、弾かれたように俯いてしまった。
まぁ、そうだよな。
まさか、記憶をなくしているレヴィが、俺の心配なんかしてくれるはずないよな。
「そ…うでもありません。とても、お優しい方です」
ルシフェルなんかを誉めるのも癪だったけど、いや、めいいっぱい世話になってるんだから癪とか言ってられないんだけど、俺は冴えない灰色の猫を思い出して呟いていた。
その返答に興味があるのかないのか、レヴィは『フンッ』と鼻を鳴らしただけでそれ以上は何も言わなかった。
本当はもう少し煮込んで味をしみこませたかったんだけど、さすがに時間は有り余っているかもしれないレヴィをこれ以上待たせるのも気が引けたから、俺はできたての肉ジャガを木製のボゥルによそって恭しく待ち兼ねているレヴィの前に箸と一緒に置いたんだ。
スゲーよな、魔界。箸とかあるんだぜ、信じられるかよ。
レヴィは、驚くことに、嬉しそうに頬を緩めてちょっと匂いを嗅ぐと、キチンと両手を合わせて『いただきます』なんて言ってくれるから、思わず、お前絶対記憶を取り戻してるだろ!?んで、俺をからかってるんだろ!…と詰め寄りたくなったんだけど、白い悪魔は唐突にハッとしたようで、自分が何をしたのか良く判らないような顔をして怪訝そうに首を傾げるから、やっぱりそれは、俺の心が願っただけで現実にはありえないことだったんだなと思った。
『うん、旨い』
口にして、レヴィの第一声はそれだった。
初めて肉ジャガを口にした時のレヴィは、『ご主人さま!これ、凄く美味しいですね』と、ちょっと興奮したように黄金の双眸をキラキラさせて俺を見た。その光景を、俺は全部覚えてる。
こんな風に、何かの品評会に嫌々参加しているような、頬杖を付いたままで『旨い』なんか言うヤツじゃなかったし、そんな風に言われても少しも嬉しくなかった。
それでも…
「有難うございます」
と、素直に口が開いたのは、やっぱり、レヴィが美味しいと思ってくれているのは、とても嬉しかったんだ。
だから思わず、エヘヘヘッとはにかんでいたら、つまんなさそうに頬杖を付いて肉ジャガをつついていたレヴィは、呆れたように、器用に箸の先で俺を指しながら言ったんだ。
『まぁ、見てくれは悪いが喰えないワケじゃないから、及第点だ』
そんな憎まれ口を叩いてから、ボゥルの半分を平らげて、レヴィは満足したように立ち上がった。
これで…また暫くお別れなんだろうなぁ、と思ったら、やっぱり切なくて、ヴィーニーの許に帰ってしまう白い悪魔を引き止めたかった。
でも、今の俺にはもう、そんなレヴィを引き止める術とか何もないんだ。
ヴィーニーと愛し合う姿を目の当たりにしないだけ、まだマシなのかもしれないんだけど。
はぁ…と溜め息を吐きながら、立ち去るレヴィの背中に頭を下げていたんだけど、物も言わずに立ち去ろうとしていた白い悪魔は、ふと立ち止まって、それからついでのように肩越しに振り返ったんだ。
「…?」
顔を上げて不思議そうに首を傾げていたら、何かを考えるように目線を逸らしていたレヴィはそれから、口角を微かに吊り上げて、どうやらニヤリと笑ったようだった。
『また作るなら、気が向けば毒見してやる。今度は別なモノを作れよ』
暗に、次も作れと言ってくれてるような気がして、もう一度ここで、レヴィに逢えるんだと嬉しくなった俺はスッゲー嬉しくて、思わず笑って何度も頷いてしまった。
「勿論です、レヴィアタン様!次も必ず美味しい食事を作りますねッ」
思わず両方の拳を握ってのガッツポーズで宣言すると、フンッと鼻先で笑ったレヴィは、まるで仮面でも被るようにスッと冷徹な顔付きに戻って、今度こそ本当に振り返りもせずに立ち去ってしまった。
……。
ほんの僅かな逢瀬だったけど、レヴィのいなくなった空間は肌寒いような寂しさが残り香のように漂っていたけど、俺は自分の身体を抱き締めながら、それでも、久し振りに嗅いだ白い悪魔の桃のような甘いあの匂いに包まれて幸せを感じていた。
なんでもない、気紛れなレヴィらしい演出だったんだけど、俺は嬉しかった。
この薄ら寒い魔界で、記憶を失くしてしまっているレヴィとこんな風に、会話できるとか思っていなかったから本当に嬉しかったんだ。
俺は、どうしてだろう?
意味もなくレヴィに、キスしたいと思っていた。