17.手探りの気持ち  -Crimson Hearts-

 『タオ』の本部がある地区から戻ってきたスピカの顔色は悪かった。
 土気色とか、病気の顔色じゃない。
 何処か青褪めていて、僅かに震えているような…
 
「血の匂いがする。どうして、アタシが出掛けた後は決まって血の匂いがするの?」

 当たり前か。
 どんなに綺麗に片付けたとしても、何よりも血の匂いに敏感な『タオ』のメンバーであるスピカが、あの惨劇を想像しないはずがない。
 怒ってるんだ、激しく。
 そうだ、那智は一度怒られた方がいい。
 絶対、反省なんかしないだろうけど。

「さぁ?何故だろうなぁ。判らんなぁ」

 すっ呆ける那智なんか初めて見るから、俺がポカンとして、同じように立たされている傍らのご主人さまを見上げたら、お黙んなさいとでも言いたそうに、チラッと目線をくれただけで視線は『Voyage』の女主人に戻った。
 いやまぁ、あの浅羽那智が立たされてるってのもヘンな話しだけど、その那智を立たせている、小柄なスピカの度胸も大したモンだと思う。
 最初は新参者の俺が残飯でも撒き散らしたと思って呼び付けたんだろうと高を括っていたってのに、実際は俺を呼びつけた後、スピカは苛々したように那智すらも怒鳴りつけたんだ。
 スピカにとってこの店は、それほど大事なんだろうと思う。
 でも、それだと那智を雇っている時点で終了だと思うぞ。

「出たわね。ニヤニヤ笑うだけかすっ呆けるか、いずれにしてもアンタがここで人を殺したってのだけは判るわ」

「…」

「はぁ…そこで呆れてるぽちちゃん!」

 ニヤニヤ笑う那智の姿を見て、スピカは俺のご主人をよく理解してるなぁと呆れてしまった。
 でもすぐに鋭い声で名前を呼ばれ…って、もう、俺の名前はぽちで定着しちまったのか。自分の本当の名前も忘れちまいそうだ。

「はいッ」

 思わず背筋なんか正してしまうのは、脳内で考えているのとは裏腹で、小柄で女性だとは言え、スピカが撒き散らしている怒気のオーラは、チンケなコソ泥では到底太刀打ちできないほど、身の引き締まるような厳しさがあった。

「アンタがついてれば少しでも大人しいと思ったのに。ちゃんと、手綱は握ってないと駄目でしょう」

「へ?」

 手綱…って、思い切り握られてるのは俺の方だってのに、思わずヘンな声を出してしまったら、俺の傍らで退屈そうにニヤニヤ笑っている那智は、ふと、俺の腰に腕を回してきて、ハッとした時にはまるで荷物でも扱うような気軽さでヒョイッと小脇に抱え上げられてしまった。

「どーでもいーけどさぁ。ちゃんと掃除はしたし?スピカ、怒りすぎ。ワケ判んねっての」

 俺を小脇に抱えたままで黒エプロンを脱ぎながらニヤァ~ッと笑ってそんな身勝手なことをほざく那智に、スピカの額にビシッと血管が浮き上がる。口許は笑っている分、それが凄みを増してやたら怖い。
 どうして、『タオ』のメンバーはみんな笑って怒るんだろう。
 那智もそうだ、最近はめっきりと鳴りを潜めちまったけど、最初に出会った頃はモノは投げるは部屋は破壊するは…でも、そんな時ですらニヤニヤ笑っていて、だから余計に不気味だったし恐ろしかった。
 こうして見てみると、どうも、『タオ』の連中は笑って怒るクセがあるみたいだ。
 あれ?でも、俺たちのボスは笑いながら怒らないよな。
 ただ無表情に怒ってるんだ。
 それはそれで、腹の底が冷えあがるように怖いんだがな…

「で、すぐゲロするんだから。ったくもう、この店で人殺しはするなって、条件に入れておけばよかった」

 2人の会話を片手で抱えられたままで聞いている俺の前で、気だるそうに木製の椅子に腰掛けているスピカは溜め息を吐いたけど、『Voyage』の女主人の頭痛の元凶である俺のご主人は、相変わらずニヤニヤ笑いながら肩なんか竦めて見せた。

「もう条件変更はできません」

 こんな時ばっかりやたら丁寧語を使う那智には、そりゃぁ…もし俺が那智ぐらい強かったとしたら、思わず回し蹴りしたくなるほどには、イラッとするけどな。
 勿論、スピカもそうだったのか、眉根を寄せて胡乱な目付きで睨みはしたが、次の那智の台詞で驚くほどキョトンッとしてしまった。

「だいたいさぁ…敵が多すぎるスピカが悪い。オレ、ちゃんと用心棒もしてるワケよ?」

「…ふぅん、そうだったの。お腹が空いてるから殺ってるワケじゃないのね」

「違う。ちゃーんと、用心棒をしてるってなぁー?だからさぁ…」

 呆気に取られているスピカに、ニヤニヤ笑う那智はここぞとばかりに言ったんだ。

「牛乳をくれ」

「また牛乳を追加しろって?いいわ、好きなだけ持って行きなさい。それと、カウンターの下に今日の報酬を置いてあるわ」

 シュッと風を切るような音をさせてマッチを擦ったスピカは、細長い煙草に火を点けると、何処か痛いような表情をして口に咥えたまま片手でマッチを消して、片手で髪を掻き揚げながら溜め息を吐いた。
 どうも、もうどうでもいいと思ったようだ。
 まぁ…那智の耳に念仏とでも言うか、自分がこうだと思うと梃子でも意思を変えない『タオ』のお客さんネゴシエーターの気質を十分熟知しているんだろう、無駄な時間の浪費を避けたんだな。
 俺なんかの場合だと、那智と言い合ってしまって、気付いたら何時間も押し問答をすることもあった。
 苛々して夢中になっている俺が時間を忘れるのはよしとしても、どうして、ただニヤニヤ笑ってるだけで、別に話の内容なんかこれっぽっちも気にしていない那智まで、時間を忘れて言い合ってるんだ?!
 …と驚いたこともあったけど、那智の場合、俺が納得するまで何時間でも話に付き合ってくれるんだよな。
 大抵の人間がイラッとして喧嘩をするか、黙り込むかで話は決着するってのに、那智の場合は違う。  俺が納得するまで話を聞くくせに、かと言ってお喋りかと言えばそれも違う。
 今は独りになりたいと思っていたら、突然、ふらりと町に出て行ってしまったり、傍にいて欲しいと思うと、驚くことに、しつこいぐらい構ってくれる…よくよく考えると、もしかして浅羽那智って気の利くヤツなんじゃないかって最近はよく思う。
 そう言うのって嫌いじゃないから、ちょっと蛍都が羨ましいよなぁ。
 いや、ちょっとじゃない。
 凄く羨ましい。

「やった。今日はコレで終わりだってさー。んじゃ、ぽち。帰るかー?」

「おわり?!へ、俺は何もしてッッ…ふぐぐぐ」

「したよな?ちゃーんと用心棒の手助けをしたよなぁ?何言ってんだか判んねーよ、ぽち」

 那智は相変わらずニヤニヤ笑ってるけど、焦ってスピカを見たら、彼女はどうでも良さそうに頬杖をついて鼻先でクスクスと笑っていた。
 どうも、女主人がよしと思ってるんなら、俺がとやかく言っても仕方ないか。
 口を塞ぐ那智を胡乱な目付きで睨んでも、俺のご主人にしてみたらそんな飼い犬の不平なんか屁でもないんだろうなぁ。

「いいのよ。ぽちちゃんは店の掃除をしてくれた。誰かさんと違ってちゃんと働いてくれたじゃない」

「スピカは酷いしー」

 ニヤァッと笑って不機嫌そうな那智をまるで無視するスピカの、そのまるで見ていたような言い方に俺はギクッとした。
 だって、スピカはこの店よりも随分と離れた地区に行っていたはずだ。
 それなのに、掃除のことを知っているのはおかしい。
 確かに、那智も重いテーブルを運んだりと手伝いはしたものの、それは食餌が終わってからだ。解体後の目を覆いたくなる光景と匂いに吐きそうになりながら始末する俺を、なんとも不思議そうに見ていたのが印象的だったけど…それを、スピカは知らないはずだ。
 すわ、盗聴器、もしくは監視カメラがあるのかと、そっと店内を見回した時、彼女が事も無げに秘密を暴露した。

「酷くない。アンタの場合、血痕がいたるところに残ってて、その分、いつもアタシが大変だったんだよ。今日は綺麗になってるじゃない。それは偏にぽちちゃんの功績よ」

 なるほど、そうだよな。
 今日が初めてなワケがないんだから、以前も殺して、それなりに掃除はしてても散らかし放題にしてた前科があるんだな…って、でも待てよ。
 那智は食餌に関して以外は潔癖じゃないかと思うほど、綺麗好きなんだぞ。
 ニヤニヤ笑いながら掃除する姿に何度俺が青褪めたか判らないけど、それでも、陰鬱が支配しているような灰色の町で、那智はいつも鼻歌なんか歌いながら、楽しそうにニヤニヤ笑って掃除したり洗濯したりしているのに…

「俺…じゃないよ。那智は綺麗好きだ」

 ポツリと呟いたら、少し気になる咳をしたスピカは、那智の小脇に抱えられたままの俺を物珍しそうに見ていたけど、やっぱりどうでも良さそうに鼻先で笑うんだ。

「じゃあ、ウチでは手を抜いてるのね」

「家は綺麗にしないとぽちが病気になるだろ~?」

「へ?」

「犬は弱いし~?ここに来る連中にそんな繊細なヤツなんかいないワケよ」

「だからって誰が手を抜いていいって言った?」

 気が短いのか長いのか、よく判らないスピカは煙草をふかしながら胡乱な目付きで睨んだみたいだ。
 そんなの、やっぱり屁でもない那智はニヤニヤ笑ったままで、特に気にした様子はない…ってか、少しは気にしないといけないだろ。曲がりなりにも、雇い主なんだぞ。
 俺がハラハラしていると、スピカはそれ以上の問答はやっぱり避けるつもりなのか、苦笑するように鼻先で笑ってから、小脇に俺を抱えたままで、殆ど何もかも完全無視で…って、用は全て終わったとでも思っているんだろう、鼻歌なんか歌いながらカウンターの下に置いてある…そうか、こうやって調達してたのかと感心する俺すらも無視して紙袋を抱えてスタスタと歩いて店内を横切って出て行こうとする那智に、やっぱり気になる咳をして言ったんだ。

「久し振りに本部に顔をお出しなさいってさ。下弦が誘ってたわよ」

「…はーん」

 気のない返事…なのかどうか判らない、曖昧な態度の那智に、スピカは呆れたような顔をしたものの、どうでも良さそうに長い年月を物語るような光沢のあるテーブルに片肘をつくと、掌に側頭部を押し付けて疲れたような溜め息を吐いたみたいだ。

「…蛍都が退院するんでしょ。処分を考えてるから、アンタに話があるんじゃない?」

「…」

 ふと、足を止めた那智は身体ごとスピカに振り返って、相変わらずのニヤニヤ笑いの双眸をスッと細めると、キッと睨んだみたいだった。
 みたいだ…と俺が言うのは、どうも荷物みたいに抱えられてるんじゃ、どんな展開が起こっているのか詳細に見ることができないんだよ。

「アタシを睨んでもどうしようもないわ。ドジを踏んだアンタの相棒が悪いのよ。足まで失くして、この碌でもないクソッタレな世界で、せいぜい、守ってやるといいわ」

 嫌味なのか本気なのか…スピカは咳をして、それからジリジリと燃えた灰をポトリと床に落とすと、双眸を細めながら片手に持っている煙草を咥えて深々と毒の煙を吸い込んだ。
 身体中を侵す灰に満たされて、まるで満たされることなんかこれっぽっちもないと思い込んでいるような目付きをして那智を見詰めたけれど、俺のご主人はそうして、暫く立ち尽くしているみたいだったけど、まるで諦めたようにニヤニヤ笑いながら袋を持っている片手を挙げて、シンと静まる店内にまるで置き去りにされたみたいにして取り残されたようなスピカに別れを告げだ。
 物言わぬ別れは、何故か物悲しさを漂わせていた。

「…那智」

 俺がポツリと、忘れたみたいに小脇に抱えたままでいる那智を見上げて呟いたら、物思いに沈んでいたんだろう、俺のご主人はハッとしたようにニヤニヤ笑って見下ろしてきた。

「なに?ぽちは腹でも減ったかぁ??」

「そうじゃない。スピカ…」

「蛍都のこと?ぽちは蛍都が気になるのか~??」

 それはアンタだろ…とは言わずに、一旦グッと堪えた俺は、見下ろしてくるニヤニヤ笑いを見上げて首を左右に振りながら言ったんだ。

「蛍都じゃない。スピカ…何処か身体が悪いんじゃないか?」

 そりゃ、蛍都のことだってスッゲー気になるさ。気になるな、って方がどうかしてるだろ。
 それでも、あの湿ったような咳の方が気になる。
 あんな寂れた、誰も訪れないんじゃないかと思うほど寂しい店で、独りぼっちで切り盛りしているあの女主人は、気になる咳をしながら煙草をふかしていた。そうして、物言わぬまま死ぬんだろう。
 この世界ではそれが当たり前で、だから、誰も他人の身体のことなんか気をつけることもない。それどころか、自分自身が生きていくのも必死な世の中なんだから、こんなこと考えている俺の方がどうかしてるんだろうなぁ…
 でも俺は、あの寂しそうな目をしていた、俺たちの雇い主を嫌いにはなれないから、その身を気遣ってしまうんだ。

「…」

 思わず溜め息を吐いた俺を、那智はニヤニヤ笑いながら見下ろしている。
 それに気付いて、俺は訝しそうに眉を寄せて那智を見上げた。

「ぽちはさぁ~、ちょっとヘン。でも、オレはそれでいいと思ってるんだぜー」

「…はぁ?」

 思わず呆気に取られてポカンとしたけど、那智のヤツは咽喉の奥でクックックッと笑いながら、目蓋を閉じて首を左右に振ったんだ。

「スピカはビョーキだし」

「病気?…もう、治らないのか??」

「それはオレが関与する問題じゃないだろ。だってさぁ、スピカが自分で決めてることだし?口出しできないワケよ」

 なんだか、良く判らないんだが、そこには『タオ』に関わる連中だけが知る決まりがあるのか、或いは、スピカを想うからこそ、ソッとしておこうとする、それは那智の優しさなのか…いずれにしても、その中に俺が立ち入れる領域はないってことだ。
 となれば、俺が言うべきことは1つしかないだろ?

「そうか。じゃ、どうでもいいけど降ろしてくれ」

 そろそろ抱えられてるのもうんざりだぞ。
 と言うか、どれだけ力持ちなんだ。
 片手には物資のしこたま入った袋だろ?片手には俺だ。
 それでなくてもまだ夕暮れではないのか、それにしたって、人影がないワケじゃないんだ。
 両手が塞がってて、あの浅羽那智を殺れるって、絶好の好機だとか思って無謀な誰かがバカみたいに襲ってこないとも限らないだろう。
 俺はそれが不安で仕方ないんだ。
 あの浅羽那智に限ってそんなこと、有り得ないとは思っているんだけど…用心に越したことはない。

「はーん?どうしてぽちを降ろすんだぁ??」

「…どうしてって、決まってるだろ。俺は歩けるんだ」

「ぽちは二足歩行できるもんなぁ」

「…」

 噛み合わない会話にはもう慣れっこなんだけど、恐らく俺を下ろす気なんかこれっぽっちもないんだろう。那智は鼻先で笑うようにして、ニヤニヤしてる。

「蛍都もさぁ、昔は二足歩行できたのに。今は歩けないんだぜー?笑っちゃうよなぁ」

「…」

 いや、笑い事じゃないだろ。
 真剣にどうかしてるぞと見上げると、那智は感情を窺わせないニヤニヤ笑いを浮かべたままで、殆どどうでも良さそうに肩なんか竦めている。
 コイツの場合、本当に蛍都を愛してるんだろうかと心配になる。
 そう言えば、ベントレーもそんなことを言ってたっけ。
 恋人同士だってのにさ、何処か一本、線を引いたみたいに割り切った関係…そのくせ、毎晩身体を求め合って、愛を確認しているのか、それとも、ただのスポーツだとでも思っているのか、得体の知れない那智らしく、その愛し方もやっぱり不思議で、得体が知れないんだよな。
 それでも、心の奥で何時も思い浮かべてるに違いないほど、そんな愛し方でもきっと心から大切に想っているんだろう、そんな存在である蛍都を、俺はまた暗い嫉妬を胸の奥にひっそりと隠しながら、羨ましいと感じていた。
 どんな愛し方でも、スピカが言ったように、こんなクソッタレで碌でもない世界ではどうってこたない、その愛し方でもいいから、心の何処か片隅に、俺を入れてくれないかな。
 犬、としてではなく、ひとりの人間として…そこまで考えて、俺は那智の横顔を盗み見ながら、自嘲的に笑うしかなかった。
 負け犬として生き長らえた人間には、那智の扱いは当然なのかもしれない。
 犬、でもいいから、その心の中に俺を入れて、どうかほんの少しでも長く、忘れないでいて欲しい。
 妹と、義理の両親を死なせてしまった俺のこれは儚い夢なんだ。
 あのオレンジパーカーの男を捜して、いや、そうじゃなくても…蛍都が帰ってくるその前までに、何処か決意を秘めた双眸を持つ、あの悲しい女のように、俺もヒッソリと死のう。
 その時、ほんの少しでも那智が、寂しいと感じてくれたら、きっとそれだけで俺は満足できる。
 そしてそれは。
 あの日この世界に引き留めてくれた…希望だ。

 この想いは空回りしてあなたに届きません。
 この声はこんなにもあなたに届くのに。
 この心だけ取り残されたように独りぼっちです。