始業まで、まだ暫く時間がある教室は今日も変わることなく賑やかだったけど、ひとつ何時もと違うのは、あの女子に囲まれてるのが当然だというツラをした兵藤が、今日に限って嫌なものでも見るみたいに顔を顰めやがって俺を見たことだ。
朝の挨拶もそこそこで、俺は慌てて兵藤の腕を掴むと廊下に引き摺り出していた。
背後で女子の「死ね、相羽」のドスの効いたブーイングに気圧されてたら、兵藤の「大事な用事があるんだ、ごめんねハニー」の台詞にブーイングは黄色い悲鳴に変わって朝から気が滅入っちまった。
「さすがエヴィルだな。なんか、魅力を撒き散らしてんのか?」
呆れたように聞いたら、兵藤のヤツは肩を竦めただけでそれには応えなかった。
「俺のことなんかどうでもいいだろ?ったくよー、まさか相羽がエヴィルハンターの女だったとは盲点だったぜ」
「ゲゲッ!その話こそどうでもいい!!それより、お前に訊きたいことがあるんだッ」
アワアワと慌てまくる俺を怪訝そうに眉を顰めて見下ろしていた兵藤は、それでもどうやら、朝はただの人間なのか、いや、人間の皮を被っているだけなのか…どちらにしても、特に気にしたようでもなく、どうでも良さそうに首を傾げて顎をしゃくった。
「なんだよ?」
「エヴィルってなんなんだ?!俺、あんな化け物とか、お前みたいなヤツだとか、今回初めて見たんだぞ!なのに、新聞とかニュースじゃ普通に話題になってるじゃないか。なんか、スゲー変だぞ」
「…」
兵藤のヤツは思い切り胡散臭そうな顔をして俺を見下ろしていたけど、次いで、すぐにハハーンッと何かを思い付いたみたいだった。
いや、なんでもいいから、判りやすく説明してくれ。
「お前さぁ、俺がエヴィルだからってバカにしてんだろ?どうでもいいけどよ、学校じゃ俺がエヴィルだってことは内緒にしておけよ。じゃねーと、警察とか出動されたら、俺、お前の傍にいられなくなるからな」
最後は嫌そうに顔を顰める兵藤は、そっか、あの時カタラギから絶対的な命令を受けたんだっけ。
『夜明けから夕暮れまでオレの女を護れ』…だっけ、ホント、あのバカは一度でも死ぬような目に遭えば目が醒めるんじゃないかと思うんだけど、ああ言う、妄想系のヤツに限って、一度だってそんな目に遭わないから不公平だよな。
「バカにしてるワケじゃねーよ!目が覚めたら、今まで気付きもしなかったことが当たり前に生活の一部になってるんだぞ?!これが驚かずにいられるかよッ」
「…カタラギってハンターに目を付けられるぐらいは、相羽って素直なヤツだからな。嘘は吐いてねーとは思うんだけどよ、それでも悪い。ちょっと保健室行くか??」
心底呆れたように眉を寄せながら、兵藤の方こそバカにしたみたいに腕を組んで俺を見下ろしてくる。
「…え?じゃぁ、エヴィルとか本当に普通にいるのか?」
信じられなくて、俺が不安そうに眉を顰めて見上げたからなのか、一瞬、信じられないとでも言いたそうな顔をした兵藤は、それでも組んでいた腕を解くと、ワケが判らないってなツラをして頭を掻いた。
「目の前にいるだろ。いや、でも相羽がそこまで言うってことは、本気なんだな。でも、変だな。あれだけ問題になって大騒ぎして、漸くエヴィルを害獣として認知する方向で普通の生活に戻ったってのに、あの騒動をお前は知らないって言うのか??」
「…う、うん。なんでだろ?スッポリと記憶がないみたいだ」
「はぁ?」
今度ばかりは兵藤も驚いたのか、ギョッとしたように俺を見下ろして、それから不審そうに唇を突き出したんだ。
「ああ、でもそうか。それでなんとなく判った。夕暮れから夜明けまでがエヴィルの出没する時間帯なんだ。だから人間どもはなるべく、その時間帯は避けるようにしてる。残業とかでも、会社に泊まるのが当たり前になってるだろ?なのに、どうしてお前は平気で夕暮れでも歩いて帰ったりしてるのかって不思議だったんだ」
俺の説明で、兵藤は納得したみたいだった。
納得して、途端に難しい顔をして腕組みをした。
「でも、だとすると、ちょっと大変だな」
「…ああ、エヴィルのこともハンターのこともまるで知らないんだ」
「エヴィルってのはさ、何処か別の次元から来た異形の生物だと、この間、専門家がそんなこと言ってたぜ。今の世の中、エヴィルの専門家ってな連中がいるんだ、普通にどうかしてるよな?ま、そんなこたどうでもいい。俺自身、気付いたらエヴィルだったワケだし、自分が何者かとか考えたこともねーんだけど。エヴィルには二通りあって、簡単に言えば人間の形をしてるかしていないかなんだが。俺は前者の方だ」
頷いて説明を始めてくれた兵藤は、自分の存在理由なんか考えたこともないのか、全くどうでもよさそうな口調で淡々と話してる。
つまり、エヴィルと呼ばれる化け物は、ある日突然、この日本に姿を現したってことだ。
別の次元…ってのは、異世界とか、そんなレベルの話なのかな?うぅ、なんかよく判らないぞ。
「普通に人間も襲えば家畜も襲う、共食いだってする悪食のエヴィルに手を焼いた各国の政府は…」
「せ、世界中にいるのか?!」
てっきり日本限定の特産物なのかと思っていたら、思わぬ兵藤の台詞に、俺は思い切り仰天してしまった。
「そこまで覚えてないのかよ…」
こりゃ、相当な重症だとでも思ったのか、それまで面倒臭そうに話していた兵藤は、何を思ったのか、少し身を入れて話すことにしたみたいだ。
それまでホント、遣る瀬無いほどテキトーに喋ってたからな、コイツ。
「勿論、日本に現れたとほぼ同時に世界中のいたる場所で目撃されるようになったワケだ。事態を重く見た各国の政府はエヴィル狩りをするために、特殊部隊だとか、軍まで駆り出したんだけど、俺たちには人間の武器は全く効かねーんだよ」
廊下の窓辺に凭れながら、兵藤はできるだけ詳しく話してくれているみたいだ。
エヴィル本人からエヴィルのことについて聞くってのもヘンな話しだけど、それでも、今、事情を知っているのは兵藤ぐらいだから、ここは悔しくともコイツを頼るしかないだろ。
「動きを止めて捕獲するぐらいはできるがな。でも、すぐに逃げ出す。靄とか霧に変化できるからさ。んで、世界中が知恵を集めて行ったのが【クリスタルガーディアン計画】ってヤツだ」
「…クリスタルガーディアン計画?」
そうだと頷いて、それから、兵藤のヤツはどうして自分がこんな歴史の勉強みたいなことを、本来なら知っていて然るべきヤツに話さなくちゃいけないんだ?と、唐突に思い出したみたいに不機嫌になった。
とは言え、もうすぐ授業が始まるんだから、最後までちゃんと話してくれよ!
「んな、喰いつきそうな顔で睨むなよ。えーっと、つまりだ、昨夜会ったあのハンターみたいな連中を創り出すって計画だったらしいぜ」
でも、実は自分もよく知らないんだと断って、兵藤は眉を寄せて頷いているみたいだった。
「ヘンだよな。人間の武器はどれも役に立たなかったのに、ハンターたちは平気で俺たちを狩れるんだぜ?よく考えたこともなかったけど、【クリスタルガーディアン計画】ってのは、いったい何だったんだろうな?」
「…何だったんだろうな、って、もしかしてもう、その計画は実行されていないのか?」
俺が首を傾げると、一瞬バカにしたみたいに眉間に皺を寄せた兵藤は、俺の顔を見てからハッとして、それから苦虫でも噛み潰したみたいな顔をしやがった。
「奇妙なモンだな。もう、何年も前に終わった出来事を、その時代に生きてるヤツに一から説明しなきゃいけないんだ。ま、相羽が必死な形相をしていなかったら、打ん殴ってやるところだけどな」
兵藤がそんな憎まれ口を言って、俺がムッと唇を尖らせたその時、間もなく授業が始まるぞってな予鈴が、教室に入れクソが、みたいな調子で流れてきた。
ああ、もっと訊きたいことは山ほどあるってのに!
「ちょうど10年ぐらい前かな。なんか、研究を行っていた施設が吹っ飛ぶような事件が世界中で起こって、それで【クリスタルガーディアン計画】は失敗とかで、そのまま中止されちまったんだ。言っとくけど、俺は原因までは知らないからな。その時の不用になった連中が、賞金欲しさのハンターってのになったんだろ?俺が知ってるのはそんなモンだ」
「そうだったのか…」
呟いて、これで全部だからもう話はないぞって感じで、肩を竦めて教室に入ろうとする兵藤を見て、俺は慌てて声を掛けた。
「そうだ。兵藤!俺を家まで送ってくれたんだろ?」
大変なことが起こり過ぎて脳細胞が死滅しそうだったけど、ふと思い出して、聞いてみることにしたんだけど…
「あ?アレはカタラギに押し付けられたんだよ」
「え?」
ちょっとドキッとした。
朝にヘンなこと考えたって、別にバレるワケじゃないんだが、カタラギの名前が出て、つい悪戯を見付かった子供みたいなバツの悪さで居心地が悪くなった。
「自分が行けば胡散臭いって疑われるから、お前行け…ってよ。どれほどエヴィル扱いが悪ぃんだ、あのハンター!…お前の母ちゃん、驚きすぎて卒倒するんじゃないかって思ったよ。なんせエヴィルに襲われたんだから、そりゃビビルよな」
「でも、服とか…」
シャツは切り裂かれていたし、下半身はドロドロになっていたはずだ。
うぅ…今日、母さんに会いたくない。
「だから、俺が呼ばれたんだろ?」
そろそろ本気で面倒臭くなったのか…って、まぁ、予鈴も鳴ったから、いつ先生が来てもおかしくないんだから落ち着いていられないのかもな。
「俺の服だろ?そんで、後は消毒、包帯、ウェットティッシュ。なければ買ってでも持って来いって言われて、仕方なくオレンジ頭の…スメラギとか言ったっけ?アイツに送ってもらったんだ」
じゃねーと、俺、他のエヴィルに狙われてるからなと、言って、兵藤は嫌そうな顔をして溜め息を吐いた。
「服って…お前が着替えさせてくれたのか?」
「は?んなワケないだろ。俺が行ったとき、お前意識がなくて。カタラギが嬉しそうに抱いてたっけ。確実に1回はイッてるみたいだったから、嬉しかったんだろ?お前、アイツに犯られたとき、萎えてイケなかったって言ってたモンな」
「ぎゃー」
思わず声を上げて両耳を押さえそうになる俺に、兵藤は何を泡食ってんだと馬鹿にしたような、どうでもいいような目付きをして見下ろしてきたけど、やれやれと溜め息を吐いたみたいだった。
「酷い状態だった下半身とか、アイツ、嬉しそうな顔してウェットティッシュで拭ってたし。綺麗にしてたぞ。腕にも包帯巻いてさ、ハンターのあんな姿、初めて見たよ。俺に手渡す時もかなり渋ってたけど、スメラギに諭されて渋々って感じだった。まぁ、お前も大変なヤツに見込まれたよな」
…その話を聞いて、俺、いったいどんな顔をしたら良かったんだろう。
あれだけ俺のことなんかお構いなしで自分勝手な男なのに、カタラギはどんな顔をして俺の世話をしたんだ。
意識のない俺を犯すなんてサイテーなヤツではあるけど…俺は手首に巻かれた包帯にソッと触れた。
「何はともあれ、一件落着だろ?じゃ、俺はもう教室に戻るぞ」
「あ、ああ!俺も一緒に行くよッ。それと、その、有難うな」
肩を竦める兵藤に礼を言ったら、ヤツはちょっとキョトンとした顔をしたけど、すぐにニヤッと笑うと「どう致しまして」と言って教室に入ろうとするから、俺もヤツの後を追うようにして教室に入ったんだ。
自分の机の上にスポーツバッグを投げ出しながら、俺は兵藤から聞いた、本当なら信じられないような話を思い出して考えていた。
10年前にそんな大騒動が起こったってのに…どうして俺は、覚えていないんだろう?
今の話を聞いたからって、コレが漫画とか映画だったら、チカチカッと脳裏に閃く朧げな映像だとか記憶だとかが意味深に思い出されるんだろうけど、そんなモンが全然浮かんでこないんだから…俺、忘れたとかそんなんじゃなくて、実は本当に知らないんじゃないかって気がしてきた。
エヴィルもハンターも、2日前に見た、あのOLの化け物と大型の化け物と、あとカタラギたちが初めてだったんだ。その気持ちは今も変わらない。
でも、なんなんだろう、この違和感は。
上の空で1時限目を終えた俺が、女子に囲まれてニヤついているなんちゃってエヴィルっぽい兵藤に呆れ果てて、手持ち無沙汰で机に懐いていると、不意に影が差したから不思議に思って顔を上げた。
そうしたら…
「あ、安河。その、っはよ」
エヘッと笑っても、安河はニコリともしない。
いや、勿論そう言うヤツだし、ボサボサにのびてる前髪の隙間から覗く双眸では表情とか判らないんだけど、それでも、安河は小さく「っはよ」と応えてくれた。
「昨日はごめんな。なんか、ゴタゴタしててさ」
「相羽…昨日、襲われたって?」
ハッとして、咄嗟に机に懐いていた上体を起こして安河の顔を見上げたら、案の定、ヤツはちょっと申し訳なさそうな表情で恐縮してるみたいだ。
「べ、別に安河のせいじゃないぞ。夜に呼びつける親父がクソなんだ」
「…でも。俺、後悔した」
ポツンと呟く安河に、なんつーのか、胸の奥が久し振りにじんわりと暖かくなって、俺は嬉しい気持ちでニヘラッと笑ってしまった。
「あの時、無理にでも引き留めとけば…って、ごめん」
デカイ図体のわりに、全然穏やかで、他人を気遣う優しさを持っている安河を、『キモイ変態』呼ばわりする女子の方が、俺には鬼に見えて仕方ねーんだけど、今はそんなこたどうでもいいか。
ただ、あのあんまり感情表現が上手くない安河が、言葉少なにポツポツと俺の身体を案じてくれてるなんか信じられるかよ。
そりゃ、スゲー嬉しいさ。
「だから、ホント、全然お前のせいじゃないんだって!それどころか俺、エヴィルを見たんだぜ」
この最後の台詞に、安河がどんな反応を示すのか、俺としてはドキドキの一瞬だった。
日常会話っぽく、ちゃんとみんながエヴィルの話をするのか純粋に知りたかったし、もしかしたら別の意味で襲われたとか言われたんだったら、今すぐダッシュで教室から逃げ出さねーと普通に嫌だろ。
「そっか。でも、相羽。2組の松崎とか…クラスメートも殺されたんだ。エヴィルは危ない」
真摯に呟く声を聞いて、うげ、やっぱマジでみんなエヴィルを知っているんだと思ったら、なんかますます取り残されたような気分になってムカついたんだけど…そうか、松崎たちはエヴィルに殺されたことになったのか。
その現場に俺はいたのに…どうして警察とか、事情聴取に来ないんだ?
そこまで考えて、俺は唐突にハッとした。
カタラギが言っていたあの言葉を思い出したからだ。
『オレたちが何を破壊しても、何を自分のモノにしても、誰も何も言わない。それどころか、喜んでソイツの人権すら無視するんだぜ』
もしかしたら、俺はそこに存在していなかったことになったんじゃないのか?
政府が雇っているハンターの特権で、カタラギは俺を自分のモノにしたから、たとえ凄惨な殺害現場に俺が立ち尽くしていたとしても、俺が罪に問われることはないし、ましてや保護してもらえることもないってワケだ。
その考えに、俺はゾッとした。
思わず青褪めて、カタカタと身体を震わせてしまう俺を見て、安河はエヴィルの恐怖を思い出させてしまったと誤解したのか、慌てて、不器用に俺を気遣おうとしてくれた。
そんな安河の態度に、やっぱり俺は絆されて、ああ、このささやかな幸せがあれば、どんな形でもこの学校に通えるのなら、それはそれでいいかとか、親父譲りの順応力で諦めることにした。
アイツに見初められた時から、俺の運命は捻じ曲がって、歪んでしまったんだ。
「安河さ、心配してくれたんだ?」
青褪めていたはずの俺が意地悪くニヤニヤ笑って見上げたら、下唇を突き出すような表情をして、見え難い双眸でじっと俺を見下ろしていた安河は頷いたようだった。
「ラーメン食いに行く約束したから…」
なんだ、ただ律儀ってだけかよ!
思わずガックリしそうになって、それから唐突に俺はハッとした。
何を考えてるんだ、俺。律儀にでも気遣ってくれてるってのに、感謝こそすれ、どうして期待外れにガックリしてるんだ。
って、期待ってなんだよ?!
「気を付けるよ。ありがと、安河」
連日の疲れもあってか、思い切り項垂れてガックリする俺を、安河は不思議そうに見下ろしていた。
何時もの日常が始まるのかもしれない。
ただ、日常に潜む非日常的な出来事に用心しながら、これからは生きていくべきなんだろう。
でも…ふと、俺は思う。
どうして、世界中の誰もが知っていることを、俺だけが忘れてしまっているんだろう。
どうして、今まで俺は無事でいられたんだろう。
カタラギと回り逢ったあの瞬間から、俺の世界は見事に反転して、安河と話すこのささやかな安らぎを噛み締めながら、夜の闇に怯えて生きていかなくてはいけないんだ。
エヴィルの存在を覚えていたら、もしかしたら、夜の行動は控えたかもしれないし、カタラギと出逢うこともなかったんじゃないかって思う。
これが運命なのだとしたら、それはとても過酷で、その運命を紡ぎ出す何者かを俺はひっそりと恨むに違いない。
ごく普通の、当たり前だった日常生活に戻りたいとここで叫んでみても、たぶんきっと、変な目で見られて病院送りになると思う。だって、この非日常こそが日常で、俺が普通だと思っていた日常が非日常になるんだから。
グルリと眩暈がする。
忘れているのなら、そのままがよかった。
気付かなければよかった。
絶望したみたいに、俺は溜め息を吐く。
こうして、俺の非日常的な生活は、目の眩むような痛みを伴ってスタートした。