5  -EVIL EYE-

 一歩、歩くごとに下半身に激痛が走るなんか、どうかしてるよな、全く。
 今は放課後で、クラスの連中はもういない。
 早く帰らないと夜が来ると判っているのに、身体が重くて、全身が火を噴いたように熱くなっていた。
 午後から体調は悪くなっていたから、たぶん、熱が出始めたんだと思う。

「馬鹿だよなぁ…俺。こんなとこでグズグズしてたら、あのエヴィルとかって化け物の格好の餌食だよ」

 頭では判っているのに、身体が思うように言うことをきいてくれないんだ。
 熱い息を吐いて、椅子から立ち上がることもできないなんて…ホント、どうかしている。
 まさか、今夜は学校で一夜を明かすとか…いや、それはダメだ。
 それでなくても学校ってだけでも早いところずらかりたいってのに、一夜を過ごすなんか冗談じゃねぇ!…俺をこんな身体にしやがって、覚えてろよ、カタラギ。
 復讐心をメラメラと燃やしながらも、カタカタと震える足には力が入らない。立ち上がることができれば幾らかマシになるんだけどさ、その瞬間の激痛を思うと、どうしても立ち上がる勇気が出ない。
 身体を真っ二つに引き裂かれるんじゃないかって痛みは、その、レイプされている時よりも痛いってのはどう言うことだ。
 ハァ…っと、吐き出した溜め息は熱っぽいから、たぶん、かなり熱が出てるんだと思う。

「エヴィルかぁ…なんだったんだろう、アレは」

「エヴィル?」

 誰もいないとばかり思っていた教室に響き渡った声に、教室の入り口からのびる長身の影に、俺の咽喉がヒクッと痙攣して、アレだけ悪態を吐いていたのに、いざカタラギ本人が目の前に来たら竦んで身動きが取れなくなっちう。

「エヴィルってさぁ、あの化け物のことか?」

 てっきり、カタラギが教室まで押し掛けて来たんだとばかり思っていたから、あの陰険なニヤニヤ笑いを思い出して震え上がったってのに、実際は兵藤がひょっこり顔を覗かせて、思案げにアイスクリームの棒を咥えたままで下唇を突き出していた。

「ひ、兵藤かよ…驚かすなよ」

「はぁ~?ああ、そっか。こんな時間にエヴィルとか考えてたんだ。そりゃ、ビビルわな」

 ひゃっはっはっと、日頃はそんな笑い方とかしないのに、おかしそうに笑う兵藤は咥えていたアイスの棒を掴むとチラッと見下ろして、どうやらはずれクジだったのか、眉間に皺を寄せてゴミ箱にポンッと放り込んだ。ナイスコントロールはバスケで証明済みだし、心配しなくてもアイスの棒はきっちりとゴミ箱に吸い込まれていった。

「兵藤!そう言えば、今お前エヴィルって言ったよな?何か、知ってるのか??」

「知ってるのかって…はぁ?何を言ってんだよ、相羽。ネットでジャンジャン写真が出てるじゃん。昨日もどっかにエヴィルが出て、特殊部隊が動員されたってのに退治できなくってさ、賞金目当てのエヴィルハンターが仕留めたんだろ」

 エヴィルハンター!…そうか、カタラギたちは実在する連中だったんだ。
 俺、ネットって言えばネトゲぐらいだから、そんな噂知りもしなかった。
 だから、そうか。
 母さんはあんなに心配して俺を待っていたんだ…くそぅ、あのクソ親父。

「エヴィルハンターって尋常じゃない身体能力とか持ってるらしくってさ、誰も姿を見なければ、写真すらないらしいぜ。そのわりには、初遭遇~とかってエヴィルの写真は出回ってるようだけど。ありゃ、どーせ合成かニュースからの転載だよ」

 俺のほうに向かって歩きながら面倒臭そうに肩を竦めて、それからニヤッと笑ったんだ。

「相羽もさぁ、んな寝惚けたこと言ってないで、ちゃんとニュースとか見て用心したほうがいいと思うぜ」

「う…だよな」

 俺が素直に頷いたら、兵藤のヤツは「おや」っと眉を上げて、やたら素直な俺を気持ち悪いものでも見るような目付きで覗き込みやがるから、なんだよ、その目は。

「じゃあ、兵藤はエヴィルとか信じていないんだな」

「は?まさか、信じてるに決まってるだろ」

「はぁ?」

 思わずキョトンッとして見上げたら、兵藤のヤツは馬鹿にした目付きをして肩を竦めた。

「だからさ。出回ってる写真は殆ど合成だって、言ったんだよ」

「ああ、なるほど…ってこた、お前はエヴィルを見たことがあるのか?」

 思わず納得しかかって床を見下ろした俺は、唐突にハタと気付いた。
 影が…教室に射し込む暮れなずむ夕日に伸びる兵藤の影が…ない。
 さっきは長身の陰が伸びて、俺はそれを見て思い切り怯えていた。てっきりカタラギだろうと思ったからだ。
 でも、この影のない兵藤は、もしかしたら、カタラギよりも性質が悪いんじゃないだろうか。
 そこまで考えて、唐突に静まり返った室内に恐怖を覚えた俺は、震えだしそうになるのを必死に我慢しながら、殊の外平然とした口調で尋ねていた。

「つーかさ、兵藤。どうして学校に残ってるんだ?お前さ、今日は確か3組の有沢とデートするって言ってたんじゃ…」

「何、怯えてるんだよ?確かにキョーコとデートも楽しいんだけどさ。なんか、やたら美味しそーな匂いがしてたからここに来たんだよ。そしたらお前が居たってワケ。相羽ってさぁ、美味そうなんだよなぁ」

 見詰めていた顔からふと、目線を逸らした。
 その態度はいけないと安河にあれだけ注意したんだけど、見たくない時だってあるさ。
 それでなくても、カタラギに痛めつけられた身体だと、満足に逃げ出すことだってできやしないだろうと思う。そんな、融通のきかない身体を持て余してるってのに…何を言ってるんだ、俺。
 きっと、これは悪戯好きの兵藤の、性質の悪い冗談に決まってるじゃねーか。
 ちょっと、イロイロと有り過ぎたから、何もかもを疑いすぎてよくないと思う。
 …いや、影を消すなんて芸当、どうやったらできるのとかは判らないんだけど。

「う、美味そうって…何を言ってんだよ。それなら有沢の方がもーっと美味そうだ」

 そう言って、冗談のつもりで笑いながら逸らしていた視線を向けて、俺はその場に凍りついてしまった。
 兵藤の顔が、あれほど整っていて、女子が王子様だと実しやかに囁いて喜んでいた、兵藤の自慢の顔が…ボタ、ボタ、ボタ…と、目とか鼻だとかが溶けるように落ちて、のっぺりとした顔なし状態になっているんだ。

「ひ、兵藤?」

「キョーコもちゃんと後で喰うよ。でもよぉ、ホントにさぁ…相羽、美味そうだよなぁ…」

「!」

 ベリッと顔の中央が破けたように開くと、そこにはビッシリと鋭く尖った細かい歯がヤツメウナギみたいに円を描くようにして並んでいて…あの耳障りな、ガチガチと歯を鳴らす音を響かせていたんだ。
 夕暮れ間もないから、まだ夜じゃないはずなのに…これは、きっとエヴィルだ。
 カタラギのヤツ!う、嘘なんか吐きやがってッ。
 ホント、後で覚えてろよッッ!!…って、俺が生きていたらの話なんだけど。
 目の前が真っ暗になる、どうしよう、こんな熱に浮かされたような痛む身体を抱えて、いったい俺に何ができるって言うんだ。
 見たくもない異形の化け物に変貌しつつある兵藤の顔を呆然と見上げたまま、俺は成す術もなくて、誰かに助けを求めるなんて考えることもできなかった。
 エヴィルは人間でも何でも喰うんだろう、現に、あのOLのお姉ちゃんみたいなエヴィルは俺を喰おうとした。だけど、巨大なエヴィルはそのOLエヴィルを喰って…でも、カタラギが来なかったらきっと、俺も喰われていたと思う。
 だから、兵藤だったエヴィルは俺を喰うつもりなんだろう。
 はぁーはぁー…と、顔全体が口になってしまった、それもヤツメウナギのように吸盤のついた、臭気を伴う滑る粘液が滴り落ちる顔をカク…カク…と首を傾げるように動かして、兵藤なのか化け物なのか、もうどちらかも判らない不気味なソイツは、身動きすらできないまま、椅子の上で精一杯に身体を退く俺に近付いてくる。
 ぼた、ぼた…ッと、制服を汚す粘液の塊が、化け物がもう、俺の目の前まで迫ってきていることを告げていた。
 ああ、誰か…誰か俺を助けてくれ。
 あれほど友達がいるんだと思っていた俺は、その時になって初めて、誰を呼んだらいいのか判らないことに気付いたんだ。
 だから、助けを呼ぶことができなかった。
 命を懸けて救いたいと思う友達も、命を懸けて救ってくれる友達も…誰も思い出せない。
 浅く広く…そんな当たり前の付き合いが、こんな時、致命的な結果を齎すなんて…そんなこと、考えもしなかった。
 生臭い息を吐き出しながら、近付く大きな口は、細かい歯を振動させてカチカチと音を鳴らしている。
 カタラギが言ったように、俺はエヴィルを呼ぶ体質になっていて、でもそれでも、カタラギに救いを求めるのはどうしても嫌で…死にたいとか思っていないのに、そんなこと思ってもいないんだけど、自分をレイプした男に救いを求めるさせるなんて、どれほどカタラギは、俺から男としての尊厳だとか、プライドとか…そんな大事なものを奪い取って、踏み躙ろうとしているんだろう。
 何もかも悲しくなって、俺、そんなに女々しいヤツじゃなかったはずなのに、閉じた目蓋からポロポロと涙の玉が転がり落ちていく。
 首筋に生臭い息を感じた時、ああ、これでもう終わりだと思った。
 カタラギは自分を捜して俺が走り回ると思い込んでいるみたいだったけど…それはあくまで、身体が自由で、動き回る体力があるとき限定の思い込みに過ぎないだろ。こんな風に散々痛めつけられた身体で、どうやってお前を探し回ればいいんだよ。
 学校にまでエヴィルなんて言う化け物が居る有様だってのに…そこまで考えて、俺はふと苦笑してしまった。プライドだとか何だとか、なんやかんや言いながら、確りこんな身体にしやがった責任は取って貰おうって、嘯きながら俺、カタラギに期待なんかしちまってるんだなぁ。
 あんな薄情なヤツ、俺が捜さないと姿も現さないような酷いヤツに、助けてくれなんて馬鹿な期待ばかりするから、化け物とかカタラギなんかに付け込まれるんだよ。
 ぬらりとした粘液が滴る長い舌が伸びて、びちゃっと首筋が粘るように濡れたから、頚動脈を食い千切られる錯覚を感じて、青褪めた俺は震える指先で机の上を探ると、それから、漸く辿り着いたシャーペンを握り締めたんだ。
 これを突き刺せば、少しでもエヴィルの動きを止めることができるかもしれない。

 それから、全力で逃げ出せば…火事場の馬鹿力を出せれば逃げ切れるかもしれない…そんな、途方もないことを考えながらギッと口だけの兵藤を睨み付けた。

「うぁ!」

 渾身の力で突き出した腕は、奇妙に捩れた腕に遮られて、反対に捩じ上げられてしまった。

「…う、うぅ……ッ」

 椅子の上で愈々身動きも取れないし、痛めつけられている身体は悲鳴を上げて、ドッと脂汗が噴き出した。
 ああ、もうダメなんだ。
 諦めたくなんかないんだけど、絶望感がゆっくりと頭上から爪先に浸透していくようで、唇を噛み締めながら俺が目蓋を閉じたその時…

「相羽?」

 聞き慣れた、何処か物静かな口調で声を掛けられて俺はハッと目蓋を開いた。
 額にはビッシリと汗が浮かんでいて、慌てて起き上がって周囲を見渡せば、間もなく日が暮れそうな午後の陽射しが射し込む教室が、何事もなかったように静まり返っていた。

「ひ、兵藤は?!」

「…?3組の女子と帰った」

 薄っぺらい鞄を片手に、長い前髪の向こうからじゃ何を考えているのか判らない安河が、首を傾げるような仕種で呟くように言ったんだ。

「…ぁ、ああ…そっか、なんだ。夢か」

 全身に嫌な汗をびっしりと掻いてしまった俺は、どうやら熱のせいで悪夢に魘されていたようだ。
 それにしても、選りに選って兵藤をエヴィルと思うなんて…俺、どうかしてるよ。
 まさか、男にレイプされてヤケッパチになったせいで、女子に大人気の兵藤に嫉妬してるのか?…うわぁ、考えたくないけど、なんか、それが本音だったらもうホント、死にたくなるよ、マジで。
 はぁぁぁ…っと、涙目で盛大な溜め息を吐いた俺を無言で見下ろしたまま突っ立っている安河に気付いて、俺は慌てて両手を振り回して顔を真っ赤にしてしまった。なんか、心の奥を見透かされたような気がして慌てたんだけど、そんなはずがあるワケもなく、安河は不思議そうに首を傾げるだけなんだ。
 当たり前だ、俺。
 確りしろ、俺!

「え…っと、へへ。居眠りしちゃったよ」

「…」

 頭を掻きながら顔を真っ赤にして照れ笑いをしていたら、口許が僅かに綻んだから…お?珍しく安河が笑ったみたいだ。
 なんか、どんな態度もやわらかいんだよなぁ、安河は。
 だから、俺は苛々させられるんだけど、兵藤から面と向かって陰口を叩かれても(それはそれで酷いヤツなんだからあんな夢を見られても仕方ない)、俺は安河のストーカーを辞められないんだ。

「ってか、安河、どうしたんだ?何時もは俺から逃げる為に即行で帰ってただろ」

 逃げるなんて…とでも言いたかったのか、モゴモゴと口篭りながら俯いた安河の黒い髪が、夕暮れの陽射しを受けてキラッと光った。

「ラーメン…食うって」

「へ?あ、ああ、言ったな、俺。でも、安河はパスなんだろ?」

 どんなに誘っても、何時もはぐらかして、気付いたらそそくさと帰っていた安河だから、俺は肩を竦めながら苦笑したんだ。
 毎度のことだし、もう慣れっこだよ。

「いや…一緒に食おうって。誘おうと思って…」

 小さな声なんだけど、オマケにくぐもっているからこう言うのが苛々するんだけど、それでも俺は、呆気に取られたようにポカンとしてしまった。
 あの安河が一緒にラーメンを食うだと?どんなアンビリーバボーだよ。
 ん?ちょっと懐いてきたのかな??
 そんな嬉しい気持ちに、思わずヘラッと笑ってしまったら、安河は照れたように頬を染めて俯いてしまった。
 でも、ちょっと口許が綻んでいるから、笑っているのかな。

「そっか、じゃ、一緒にッ!…って、悪い。そうだ、今日はダメなんだッ」

「…え?」

 ふと顔を上げた安河は、長い前髪の向こうからは窺えない表情で俺を見ているようだったけど、ああ、せっかく安河ともう少し距離を縮められるいいチャンスだってのに、俺は泣く泣く頭を掻きながら用事を思い出したふりをしたんだ。

「今日は親父の会社に届け物をしないといけなかったんだ。俺から言い出したのに、ごめん!この次、よかったら日曜にラーメン奢るよ」

「あ、…その、俺…日曜日は……」

 そっか、やっぱまだ日曜日の壁は高いのか。
 仕方ない、せっかくのチャンスだけど、これは諦めるしかないな。
 だって、俺…安河をエヴィルとか言う化け物に殺されたくないんだ。
 あんな思いをするのは俺ひとりで十分だ、安河まで巻き込まなくていい。

「そっか、じゃぁ…残念だけど。また、今度な」

 何時になるのか判らない約束の代名詞みたいな言い訳を呟きながら俺は、ガッカリして溜め息を吐いてしまう。できればもっと、色んな安河を見てみたいと思っているのに、残念だなー

「判った…」

 シュンッとしたように俯いた安河も、やっぱり残念だと思ってくれているみたいだ。
 ま、いいか。
 これだけ進歩したんだから、いつかカタラギだとかエヴィルだとか、そんな連中に見切りをつけることができた暁には、頑張って安河をもう一度誘ってラーメンぐらいは食いにいこう。
 それを希望に、明るくない学校生活をエンジョイでもしてみるか…ってんだ、畜生。
 そんな、内心で悪態を吐きまくっている俺に、やっぱり残念そうな顔をしていた安河は、言葉数少なにポツポツと一緒に帰ろうと言ったんだ。
 そりゃ、驚くだろ、普通に。
 何時もはサッサと帰ってる安河が、ヒッジョーに短い言葉ではあるんだけど、一緒に帰ろうとか言うなんて思わなかったから、椅子に腰掛けたままで近付いてきている安河の、その長い前髪に隠れる双眸を見上げながらポカンッとしちまった。

「俺…ヘンなこと言った?」

 呆気に取られる俺に、言い出したわりには弱気な安河は、既に後悔しているみたいだ。
 違う、そうじゃない。

「んなワケないって。いや、安河が俺のことを誘ってくれるとか思わなかったから、正直驚いてるだけ」

 顔を真っ赤にして喜んでいる俺に、安河はちょっと驚いたような顔をしたけど、すぐにホッとしたように息を吐いてから片腕を差し出してきたんだ。

「?」

 差し出された腕を見詰めて首を傾げていたら、手持ち無沙汰に疲れたのか、それとも、俺のそんな態度に戸惑ったのか、いずれにしても安河は、反射的に手を引っ込めてしまった。

「ごめん…その、具合、悪そうだったから」

「あ!ああー、それで立ち上がらせてくれようとしたんだな?うっわ、ごめん。でも、マジで嬉しいよ。んじゃ、遠慮なく」

 何時もは俺が引っ掴んで連れまわす腕を、また掴もうとしたら、すぐに引っ込めていた腕を差し出して、安河は伸ばした俺の掌を握り締めたんだ。
 ちょっと汗ばんだ手はしっとりしてたけど、俺のほうが何倍も(悪夢のせいで)汗を掻いていたから、別に気にならなかった。それよりも、安河って掌が大きいんだなぁと、ヘンなところに感心していたってのは内緒だ。

「今日、ちょっと具合悪くてさ。安河が来てくれて助かったよ。有難う」

「そんなの…俺は何時も相羽に助けてもらってるから」

「へ?そんなの初耳だな。ぜってー迷惑してるって確信してたもん。でも辞めてやらないんだよなぁ。悪魔だよな、俺」

 ヘヘヘッと笑いながら、本当は立つのも辛いんだけど、思ったより力強い腕に引き起こされて立ち上がった俺は、ちょっとよろけてしまって、安河の胸元にそのまま顔を突っ込んでしまった。

「グハッ!…とと、悪い。ちょっと足許がふらついて」

「…大丈夫か?」

 慌てて身体を起こした俺が手を離そうとしたら、安河はそれを許してくれなかった。
 でもま、そうやって手をつないでくれているほうが、俺には有り難いからいいんだけど。

「これが女子だったらよかったのにな」

 ウハハハッと笑って、頭ひとつ分上にある安河の顔を見上げたら、ちょっと頬を染めて照れているような表情をしたままで、もぐもぐと何かを呟いたみたいだった…んだけど、何を言ったのかよく判らなかったし、取り敢えず、俺は楽ちんだしでここは笑ってすっ呆けるしかないな。
 なんか、久し振りに充実してるような気がする。
 あんな悲惨な目に遭って、できればすぐにでも死にたいとか考えてたんだけど、死ななくて良かったって素直に思えるよ。死んでたら、こんなスゲー体験とかできなかったと思う。
 安河はあんまり人に関わるタイプじゃないみたいで、「牛乳買って来い」とか、命令されると無言のままのそのそと教室を出て行くのは、喚き散らされるよりも指示に従ったほうが気が楽だからなんだと思ってた。事実、本人もそう思っていたんだろう、殴られてもパシリにされても、殆ど口を開かずに黙ったままで、ボーっとしたり本を読んだりしていた。
 女子はそんな安河が不気味だって言って、陰湿ないじめとかもしているみたいだった。
 安河はガタイもいいし、タッパもあるんだから、その気になれば彼女なんか選り取り見取りに違いないのに、その異様な雰囲気が女子を遠ざけているんだと思う。
 兵藤みたいにあからさまなのもどうかしてるとは思うけど、安河はもっとお洒落に気を遣うべきだ。

「お前さ、今度髪とか切って、ちょっとお洒落とかしたらどうだ?」

「……」

 他愛なく呟いたつもりだったのに、俺の腕を引いて教室を後にした安河は、何か言いたそうな表情でそんなのほほんとした顔の俺を見下ろしてきた。

「顔立ちとかカッコイイし、ぜってー彼女とかできると思うぜ」

 エヘヘヘッと笑ったら、安河もはにかむように小さな笑みを浮かべて首を左右に振ったんだ。

「…女とか、面倒臭い。人付き合いは…苦手なんだ」

「そりゃ、見てりゃ判るよ。入学した時から見てるんだから、安河のぶきっちょさとか百も承知だぜ」

 ウハハハッと声を出して笑ってやったら、「そうか」と呟いて、それでも、安河は他の連中みたいに感情が豊かではない分、物静かに口許を綻ばせるだけだ。
 これが他の連中だと、気分を害せば大声で怒鳴って喧嘩になるし、その後はバツが悪くて嫌な気分を味わうことだってある。そんなの、安河の言葉を借りれば面倒臭いから、だから俺は安河を気に入ってるんだと思う。

「相羽は?……2組の斉藤と付き合ってるって…」

「ブハッ!…ったく、誰だよ。んな、根も葉もない嘘言ってるの」

「え?……本人」

「マジで?!」

 …って、斉藤のヤツ、何を考えてんだよ。
 本命は兵藤とか言って、ちゃっかりアイツの彼女のくせに、どうして俺を当て馬に使うんだ。

「ヒッデーよなぁ!アイツ、ここだけの話、兵藤の彼女なんだぜ。おおかた、シンパの目を撹乱する為にわざと俺の名前を出したんだよ」

「…」

「そんなのに利用されてるんだぜ?彼女とかいないっての」

 自分から話を振っておきながら、とんだ薮蛇にトホホな気分で溜め息を吐いたら、黙って俺の話を聞いていた安河は、「そうか」と短く呟いて、何時もどおり黙り込んでしまった。
 あんまり喋らないヤツなんだよな。
 黙っているくせに、それでも俺がペラペラとどうでもいいような話をしている間、下らない話を根気よく聞いてくれている。だから、何が楽しいんだと級友たちが呆れてるって判っていても、やっぱり俺は安河と話したいと思うし、ストーカーとか言われても友人でいたいんだよな。

「あ、そーだ。今度さぁ…ッ!」

 下駄箱で靴に履き替えながら先にいる安河を見た瞬間、俺の行動は完全に止まってしまった。
 だって、安河の向こう、玄関の外はすっかり日が暮れて、夜の闇が忍び寄っていたんだ。