俺の唯一の楽しみなのは、安河が重い口を開いて話をしてくれることなんだ。
それなのに、エヴィルが跋扈する闇は、もうすぐそこまで迫っていて、俺は眉を寄せると唇を噛み締めて俯いてしまった。
「…相羽?」
ふと、玄関を一瞬振り返った安河は、何も見当たらないことに首を傾げてから、硬直したように立ち止まっている俺に振り向いて首を傾げてきた。
長い前髪に覆い被さった双眸が、何時の間にか点いている電灯の光を受けてキラッと光ったみたいだ。
「…ごめん。俺、急用を思い出したんだ。先に帰ってくれ」
「え……、待ってるけど」
「いや、いいんだ。遅くなると思うし。悪いから」
断固とした決意で安河を見上げる俺に、物静かな友人は一瞬だけ表情を固くしたみたいだったけど、何時もはクラスメイトが唖然とするぐらい付き纏う俺のその変貌振りに、どう対処していいのか判らないってさ、動揺したような態度が伝わってくる。
そうだよな、さっきまではあんなに喜んでいた俺が、いきなり掌を返したみたいにして突き放したんだ。何が起こったんだって、ビビッても仕方ねーよな。
「ごめん」
一言だけ呟いて、俺はぼんやりと突っ立ったている安河をその場に残したまま、呆然と突っ立って見送る安河に何時ものように片手をグルグルと振り回して別れを告げると靴のままでダッシュしながら廊下を引き返していた。
裏門から帰ればいい。
そんなこと、判ってるけど…やっぱりちょっと寂しいよな。
こんな性格だと、きっと安河も、もう呆れたに決まってる。
長い前髪に隠れた双眸からは表情を読み取ることなんか不可能に近いんだけど、でも、あの安河が少しでもいいから残念がってくれたら…俺の日頃の行いも少しは報われるんだけどなぁ。
ははは、んなこたないか。
走って、走って、それから、歩調を緩めて、ピタリと立ち止まった。
裏門に続くガラスのドアの向こうに逢う魔が時の夕日が沈む。
きっと、道路は薄暗くて、何が潜んでいるのか判らない恐怖がある。
でも今は、そんな夕暮れ時よりももっと恐ろしい、夜が来るんだ。
俺はそれでも、随分と回復した身体を引き摺るようにしてガラスのドアを押し開けていた。
裏門から突っ走って、取り敢えずすぐに大通りに出る、それからバスに乗って…いや、それよりも電車がいいかな。人を巻き込まないようにするなら徒歩なんだけど、そうすると、途中で薄暗い公園を突っ切らなきゃいけなくなる…それは絶対に避けたい。
やっぱりバスかな…とか、脳内を凄まじい早さで考えが駆け巡って…って、俺、今までにこんなに考えたこととかたぶん、一度もないんじゃないかと苦笑しちまった。
裏門の鉄の格子に手を掛けて開こうとしたその時…
「よう、相羽。今、帰り?」
それまで誰もいないと、あんなに何度も確認したってのに、背後から声がして俺は振り返っていた。
だってさ、その声には聞き覚えがあったから。
「あれ?どうして、兵藤がいるんだ??さっき安河が、お前は有沢と帰ったって言ってたのに…」
あんな悪夢を見たせいか、なんとも居心地の悪い気分を味わいながら、俺はそれでも罪悪感みたいなものを感じていたから、薄暗いなかで笑っている私服の兵藤を見ていた。
「決まってるだろ?お前を待ってたんだ」
「は?」
間抜けな声を出して眉を顰める俺に、兵藤はゆっくりと近付いて来ながら笑っている。
「だからさ、さっきの続きをしようぜ…」
「?!」
ハッとした。
その異常な口の大きさが、やたら目立ってアンバランスに眉を寄せていたんだけど、違う、この違和感はそんなモンじゃねぇ!
ヤバイ!…と、直感が身体を動かして、踵を返して逃げ出そうとした俺の首に、衝撃を伴った痛みが走った。その瞬間、フッと目の前が暗くなって、身動きが取れないまま地面にダイブしてしまった。
スローモーションのように地面にぶっ倒れる俺が見た光景は、制服のスカートの裾をひらひらさせた…それは、確か2組の松崎って言う女子だ。
彼女の、氷のように冷たい、禍々しさを宿した双眸が冷めたように見下ろす姿だった。