第一話 花嫁に選ばれた男 16  -鬼哭の杜-

 俺は小雛に促されるまま直哉に会って、そして、大の男である俺がボロボロ涙を零しているのに少し絶句した直哉はでも、深い事情なんかは聞かずにホクホクと隠れられる場所に案内してくれた。
 涙に霞む目で通された場所は、何処をどうやって来たのか全然覚えていないんだけど、直哉の説明では、この場所は呉高木の禁域と呼ばれる場所で、その昔、蒼牙の母である桜姫が閉じ込められていた座敷牢なんだそうだ。
 物寂しい明り取りの行灯を除けば、生活には確かに困らない造りになっているけれど、それでも、こんな場所に閉じ込められたんじゃ、正常でも異常になるだろうなぁとぼんやり考えていた。
 直哉と小雛は、ぼんやりしたままで、まるで魂が抜けてしまったように惚けている俺を暫く見詰めていたけど、小雛が何か言おうと口を開きかけるのを素早く直哉が止めて、2人はそそくさと出て行ってしまった。
 ああ、これで1人になれた…

「…ッ、ふ…う……うぅ~ッ」

 俺は畳の上に敷かれた、つい最近まで誰かが使っていたんじゃないかって思えるほど新しい、緋色の布団に突っ伏して、人差し指を噛みながら声を殺して泣いていた。
 やっと、泣ける。
 俺はこんなに女々しくないはずだったのに、どうしてだろう?蒼牙の傍にいたら、忘れかけていた感情が一気に解き放たれたみたいに、俺は喜怒哀楽をちゃんと表現できるようになったんだ。
 誰かを愛しいと思うのは、きっと、驚くほど体力を使っちまうんだろうけど、それでも、誰かを愛しいと思えないことよりも何万倍も良いに決まってる。
 高い場所に設置されている窓から射し込む、そろそろ傾きかけてきた太陽の頼りない陽光を反射するように、キラキラと光る埃が舞い散る中で、俺は枕を濡らして泣いて、泣いて…このままだったらきっと、両目が溶けてしまうんじゃないかって思えるほど爆泣きしちまった。
 今頃、蒼牙は大好きな不二峰の胸の中で、もしかしたら一瞬の安らぎを求めて眠っているのかもしれない。
 そんなことが脳裏に閃くだけで、俺はまた、流れ出す涙を留めることができなかった。
 どんな思いで…いつも俺に自分の花嫁になれって言ってたんだ?
 心の奥深いところに不二峰への想いを隠して、ただただ、『楡崎の血』の為だけに娶る俺に、どんな気持ちで愛を囁いていたんだ。
 こんなのは酷いよ、蒼牙。
 俺の心をガッチリ掴みながら、握り潰すこともせずに、まるで生殺しで生かし続けるなんて…そんなの、お前じゃない、俺が可哀想だ。
 今だけ、俺は俺の為に泣くから…今だけは、蒼牙。
 お前を恨んでもいいだろ?きっと、晦の儀の時には、スッキリした気分で家に帰るから。
 お前のこと、恨んだりしないし、幸せだけを願い続けるから…だから。
 今だけ、俺は、可哀想な俺の恋心の為に泣いてもいいよな?
 ボロボロ零れる涙に限りなんかあるワケがない、と思えてしまうほど、俺の涙腺は持ち主の意に反して、後から後から透明な雫を零し続けていた。

『あらぁ?可愛らしい嫁御さまが、どうしてこんなところで泣いているのー??』

 ふと、座敷牢って言うぐらいだから、檻の役目をする格子の向こうから子供っぽい声が降ってきて、俺は突っ伏していた顔を上げて、声の主をぼんやりと眺めていた。

「…はは、笠地蔵の次は座敷童子か?」

『座敷童子は男の子よぉ』

 瑣末な着物を着て、オカッパ頭の5、6歳ぐらいの少女らしきその子は、子供らしいあどけない顔でクスクスと笑うから、俺もついつい、あんなに悲しいと思っていたのに、釣られるように笑っていた。

「じゃあ、座敷ッ娘か」

『ザシキッコ?ヘンなのぉ』

 オカッパ頭の少女が楽しそうに笑うから、なんだか、今までのことも全て忘れてしまえるような、不思議な気持ちでいっぱいになっていた。

『嫁御さまがこんな悲しい場所にいてはダメよぉ。早く、母屋にかえろ?蒼くんが心配しながら待ってるよぉ』

 その言葉にも、あまり傷付くこともなく、俺は俯くと散々泣き腫らした目で畳の目を見詰めながら、自嘲するように笑うしかなかったんだ。

「俺はもう、蒼牙の許には帰らないよ。やっぱり座敷ッ娘も呉高木家を見守る神様なんだろ?悪いけど、俺はもう呉高木になるつもりは…」

『ううん、違うよぉ。わたしは楡崎の護り手なのー』

 オカッパ頭の座敷童子もどきの少女は、勝気そうな黒目勝ちの双眸を細めて、照れ臭そうにエヘヘヘッと笑ったから、俺は思わずギョッとしていた。
 そんな…楡崎にも妖怪が棲みついていたのか!? 
 そう言えば昔、ばあちゃん家に遊びに行ったとき、絶対に何かいるって気配が充満していたあの古めかしい日本家屋を思い出したら、なるほど、座敷童子の1人や2人いたっておかしかないのか。
 と、妙に感心してしまった。

『わたしは楡崎のお家から、嫁御さまを護るためだけについてきたのぉ。だから、一緒に母屋にかえろ?』

「…せっかく、俺なんかについてきてくれたのに、ごめんな。やっぱり、俺は戻れないよ」

『どうして?』

 あまりにも澄んだ、汚いことなんか何も知らないようなあどけない子供の双眸で見詰められて、俺は自分勝手な悩みに打ちひしがれていたことを恥ずかしく思いながら、それでも、この小さな味方に秘密を囁くように呟いていた。

「蒼牙の心が俺にはないから。そんなヤツと、一緒に暮らせる自信がないんだ。蒼牙に必要なのは俺じゃない、『楡崎の血』だから」

『…そうねぇ。龍の子にとって『楡崎の血』は重要だからぁ、でも。それでわたしの嫁御さまを泣かせるのは許せないわぁ』

 少女は、まるで今にも取って喰らおうとする鬼のような形相に一瞬変わったけど、すぐにその表情を引っ込めてしまった。
 何故ならそれは、俺が格子から伸ばした腕で彼女の両腕を掴んでいたからだ。

「楡崎の血について…そうか、座敷ッ娘なら何か知ってるんじゃないのか?!」

『知ってるよぉ。あれぇ?嫁御さま、知らないのぉ??』

「ああ、知らない。だから、教えてくれないか?」

 俺は、真摯にオカッパの少女を見詰めていた。
 自分の体内に流れる血に纏わることを、少しでも知ることができたなら、いつかきっと、蒼牙にも笑って会える日が来るんじゃないかって…そんな、夢のような期待を胸に秘めて。
 オカッパの少女は、腕を掴まれたままで、どこか照れ臭そうにクスクスと笑って頷いた。

『いいよぉ。お話しするのは大好きだからぁ』

「…ありがとう」

 ホッとしたら、一粒、涙が頬に零れ落ちた。
 何もかも知って、それでどうなるってワケでもないんだけど…それでも、我が身に纏わることを少しでも知れば、何か解決策が見つかるんじゃないか。繭葵の受け売りを真っ向から信じるつもりなんかないんだけど、それでも、俺は知りたかった。
 蒼牙が心を殺してまでも、こんな俺に偽りの愛を囁いて、娶ろうとしたその真意を。
 この血に関わる、何かを…

『えーっと、何処から話そうかなぁ?んとね、まずは、嫁御さまは【天女伝説】を知ってるぅ??』

「天女…って言うと、あの羽衣のことかな??」

『うん、それ。そもそも、この日本には色んな場所にぃ、天女たちは舞い降りてるのねー。みんな、大事な羽衣を失くしちゃうおっちょこちょいさんばかりだからぁ』

 座敷ッ娘は楽しそうにクスクスと笑った。
 笠地蔵の時も思ったんだけど、いったいどれだけ日本各地に未確認生物が存在してるんだよ!
 まあ、目の前の座敷ッ娘だって、そう言われてみれば、本当は未確認生物なんだから気味悪くて当たり前なんだけど…でも、人間なんかよりもよっぽど、素直で優しい。
 どれほど、この不思議な住人たちに、俺は助けられてるんだろう…

『もともと、この土地を治めていたのは呉高木家ではなかったのぉ。遠い昔、呉高木の前にこの土地を治めていた若い当主さまの時代にぃ、お空を飛ぶために必要な、羽衣を失くしてしまったおっちょこちょいな天女が舞い降りたのね。当時、この土地を治めていた若い当主さまはあんまり綺麗な天女に一目惚れして、彼女を妻にしたのよー』

 良くある昔話なんだろうけど、この場合、これはきっと実際に起こったことに違いないんだろうなぁ。

『天女も若い当主さまを好きになって、もう羽衣なんか必要ないって思ったのねぇ。だって、天女はお空を飛ぶ羽衣よりも大切なものを手に入れてしまったんだものぉ、仕方ないわよねぇ。それで、子供が生まれるんだけどー、お空の上の権力者が、それを見咎めて怒り出しちゃったのねぇ。それで、連れ戻しに差し向けられたのが、龍の子。呉高木家のご先祖さまなのよぉ』

 確かに、俺たちの分家の連中はみんな噂していた。
 呉高木家には龍の子がいる。
 そんなのは何か、性質の悪い冗談だとばかり思っていたのに…まさか、本当だったのか?
 現実に目の前で不思議な生き物がペラペラと会話してるんだから、思わず笑っちゃうような内容なんだけど、俺は息を呑むようにして聞いていた。

『天女は必死に抵抗していたんだけどぉ…龍の子がねぇ。そんな天女に一目惚れしてしまって、若い当主を嫉妬して殺しちゃったのよぉ。それで、龍の子は天女を娶ってこの土地に棲みつこうとしたんだけどぉ…天女は儚く自害してしまったのー。龍の子はぁ、当主さまと天女の間に生まれた、天女の血を持つ子供を必死で探し出そうとしたんだけど、結局、ずっと見つからなかったのねー』

「…どうして、見つからなかったんだろう?」

 それはね、と囁くように呟いて、座敷ッ娘は双眸を猫のように細めて幸せそうに微笑んだ。

『わたしが隠していたからぁ』

「…そ…うだったんだ」

『うん。龍の子、呉高木は天女の血を持つ楡崎を娶ることによって、天女の持っていた御霊寄せの力を欲していたのよー。御霊寄せと言うのはぁ、口寄せのことで…って、嫁御さまにはどっちも意味判んないわよねぇ』

 そう言って、座敷ッ娘は粗末な着物の袖で口許を隠しながら、それはそれは楽しそうにケタケタと笑うんだ。その笑顔を見ていると、悲しみのどん底に落ち込んでいるはずなのに俺は、どう言うワケだか、心がスッと軽くなって同じように幸せな気持ちになっていた。

『恐山にイタコっているでしょー?舞い降りた天女は特殊な能力を持っていた、天の姫さまだったからぁ、そのイタコのように死者と交信できる力を持っていたのねぇ。その力は、この龍刃山に昔から巣食っていた亡者どもを鎮めるための、大切な儀式にも遣えるそれはそれは偉大な力だったのよー』

「??…どうしてこの鬼哭の杜の亡者たちを、天女を追い掛けて来ただけの龍の子が鎮めなければいけないんだ?」

 それは話を聞いてるうちに感じた疑問だった。
 呉高木の先祖の龍の子は、一目惚れした天女が欲しくて若い当主から奪い去ろうとしたのに、結局、特殊能力を持つ天女の血を求めていたってことになるんだろ?それって、正直に言っておかしくないか??

『だってー、鬼哭の杜の亡者どもは、龍の子がその昔惨殺した、忌衆の成れの果てだものぉ。その責任は取らなくてはならないのよー』

「え?龍の子は、天女を追って来ただけじゃないのか??」

『それはお空の上の権力者から命じられたからこの地に追ってきただけなのー。本当は、龍の子はもともと蛟龍だったから、ちゃんと地上で生活していたのよぉ。その時、当時は忌衆と呼ばれていた人間たちと戦って、この場所に怨念を葬ったのねぇ』

「そう…だったのか。じゃあ、最初から…天女に惚れたんじゃなくて、天女の力だけが欲しかったんだな」

 自分で言っておきながら、心の奥深い部分がズキリと痛んで、俺はソッと目線を伏せてしまった。
 今は、純朴な優しい笑顔を見られるほどの余裕がない。
 若い当主を愛していた天女の、その非業の死は、どこか自分に似通っているような気になったからかもしれないけど…どちらにしても、天女も俺も、きっと、呉高木家の身勝手な思惑に踊らされた被害者なんだろう。
 そうでも思わないと、天女と俺は、あまりにも可哀想だ。

『それは違うのぉ。たまたま、天女が特殊な力を持った天姫さまだったってだけで、龍の子には本当はそんなこと、なんにも関係なかったのよぉ。ただ、きっと何か正当な理由をつけて、天女の血を持つ子孫を傍に置きたかっただけだと思うのねー』

「でもそれは、遠い昔の話しだし、俺は天女の子孫じゃない」

 俯いたままでそう呟いたら、能天気な座敷ッ娘はケラケラと愉快そうに着物の袖で口許を覆いながら、唇を突き出して笑ったんだ。

『だからー、楡崎の血の話をしてるのにぃ。その若い当主が治めていたお家はー、楡崎って名前だったのよぉ。天女の血を持っているのはー、楡崎光太郎、唯一の天女の子孫なのー』

 それほど衝撃は受けなかった…と言うか、聞いている間にそうだろうとは思ったからなんだけど、それでも俺は、俄かには信じがたい話を、こんな村だったから、素直に受け入れていた。

「蒼牙は違う。天女の血が欲しいだけだ」

 座敷ッ娘は一瞬だけ、呆気に取られるほどキョトンッとしたけど、すぐに今まで通りニコニコと絶えない笑みを浮かべて俺を、自分で軟禁状態に陥っている格子に手をかけて、覗き込んできたんだ。

『天女の血を持つ者の宿命はー、必ず人と交わってしまうのぉ。龍の子がどんなに四方に手を尽くして捜し出したとしてもぉ、その時にはもう人間と結婚していて子供を生み、死んでいたりするのねぇ。だから、龍の子と交わった者はいないのよぉ』

 それはきっと、こう言う結末に天女の血を持つ者が拒絶反応を起こすから、最後の瞬間で逃げられるんだと俺は思うぞ。俺だって、実際、晦の儀までにはこの村を出ようと考えているぐらいなんだから…

「この村に生きる龍の子が、今度は人間に恋をしたんじゃないのか?それはきっと、永遠に結ばれないと言う運命なんだよ」

 自分でもそんな台詞が出るなんて思ってもいなかったのに、気付いたら、俺は自嘲的に笑いながらそんなことを言っていた。
 こんな小さな座敷ッ娘に、いったい何が判るって言うんだ。
 俺も、やっぱり今は、どうかしているんだろう。
 そもそも、あの不二峰もどうやら呉高木に関わっているみたいだし、人間かどうかもあやふやだってのに、なにセンチメンタルになってるんだろ、俺。
 う、果てしなく落ち込みそうだ。

『…楡崎の若い当主さまの呪いなのよー。でも龍の子は、天女の心を掴もうと必死なのねぇ。だから、蒼くんのいる母屋にかえろ?』

 屈託なく、座敷ッ娘はニコッと笑った。
 いや、だからの意味が判らんのだけど…

『ちゃんと、蒼くんの口から聞くべきなのよー、嫁御さま。楡崎の大切な嫁御さま』

「…俺は、弱虫なんだ」

 ポツリと呟いたら、座敷ッ娘は笑ったままで、不思議そうに小首を傾げた。
 鼻の奥がツンとして、気を緩めたら泣きそうだったから、俺は無理に笑いながら首を左右に振っていた。

「蒼牙の口から、改めて不二峰への想いを聞いてしまったら、きっと俺は、そのまま泣いてしまうと思うんだ」

 今は飛び切り情緒不安定だからさ、思わず、6歳も年下の男に抱き付いて、愛してるって告白しちまうかもしれないだろ?はは、そんなこと、絶対にお断りだ。
 そんな形で愛を告白するぐらいなら、このまま何も言わずに立ち去った方が随分とマシだと思う。
 その時ふと、俺は鬼に想いを告げることもなく死んでしまった、儚い巫女を思い出していた。
 十三夜祭りのあの鬼にも、もしかしたら想い人がいたのかもしれない。
 巫女は潔く、想いを断ち切れないから、せめて来世ではと願いを込めて死んでしまったんだろうなぁ。
 俺はまたしても、そんなことを考えてしまったせいで、意味もなくポロポロと涙を零してしまった。
 頬を伝う透明な雫を、笑みに細めた双眸で食い入るように見詰めていた座敷ッ娘は、徐に格子からか細い手を差し伸べて、頬を濡らす涙を拭ってくれた。
 その優しい温かい掌が、ゆっくりと俺の悲しみを吸い込んでくれているようで、こんな子供なのに、俺は座敷ッ娘の優しさにほんの少し、甘えてしまっていた。

『嫁御さま、涙は悲しみを癒すためのお薬なのよー。だからうんと泣いてもいいのぉ。でも、泣き終わったら母屋にかえろ?』

 座敷ッ娘は優しく頬を拭ってくれながら、十分、気を遣ってくれている様子でニコニコと笑ってそんなことを言うから、どうやら、どんなことをしても俺を母屋に帰らせて、蒼牙と話し合いをさせたいらしい。
 そんな仕種が、傍迷惑な元気娘を思い出させて、俺は思わずクスッと笑ってしまった。
 そうだよな、俺だってもういい大人なんだし、こんな小さな子供を困らせたってどうしようもないんだ。
 ここはあの巫女のように潔く、蒼牙に振られてくるかー
 豪い恥ずかしいけどな。

「判ったよ。今から母屋に帰るよ」

『嫁御さま!…それなら、早くした方がいいのよぉ。ここは禁域の奥に鎮座ます蒼くんの大切な場所。見つかっちゃったらー、きっと怒られてしまうのよぉ』

「え!?そうなのか!!?」

 嬉しそうにニコニコ笑っていた座敷ッ娘は、笑ったままで、酷く気難しそうに慎重に頷いてくれた。

「禁域を侵したら俺でも殺すって言ってたから…その場所って、もしかしてここだったのかも??グハッ!それなら蒼牙に怒られるどころか、殺されてしまうよ~」

 思わず小さな座敷ッ娘に、格子さえなければ抱き付いてしまっていたと思うんだけど、そんな無様な姿を晒さなくてよかった。

『それなら早く。嫁御さま…ッ』

 慌てて座敷牢の扉を開けようとしていた…って、扉はいつでもフリーで開くんだよな。なんせ、監禁されているってワケではないんだし、俺の意思で隠れているんだから、鍵なんか必要ないってのは当たり前か。
 やれやれと溜め息を吐いている俺の前で、唐突に座敷ッ娘はハッとしたように顔を上げると、忌々しそうな顔をして階下の様子に耳を欹ててるようだ。
 どうも、この座敷牢は2階建ての土蔵になっているようで、下は物置か何かで、上のこの僅かな空間に、誰かを閉じ込めていた名残を残す座敷牢がある。
 改めて見渡してみると、随分と高いところにポツンと小さな窓があるぐらいで、他には窓らしい窓もなくて、薄暗い室内には衣桁(いこう)と呼ばれる着物なんかを掛けておく道具にひっそりと掛けられた桃色の着物と、目に毒々しい朱色の布団、それから簡易トイレと小さな箪笥、ちゃぶ台に置かれた朱塗りの高価そうなのに控えめな茶器があるぐらいで、豪華なんだけど派手ではなくて、畳だけが年月の長さを物語っているみたいだ。
 自由さえ気にしなければ、外の光を恋しがらなければ快適かもしれないけど、閉じ込められるのだとしたら、俺はお断りだと思う。

『蒼くんの気配がする。後、何人かー…嫁御さまをどうするつもりなんだろぉ』

 怪訝そうに眉を顰めながら、もともと糸目なのか、口許に薄気味の悪い笑みを貼り付けた座敷ッ娘は、耳を欹てるようにしてするりと牢の中に入ってくると、小さな両腕で庇うように俺に抱きついてきた。
 訝しがる俺の傍らで、ヒシッと睨み据えるのは下へと続く古めかしい木製の階段。
 キョトンッとしている俺の耳にも届いてきたのは、何かの荒々しい声と気配で…思わず首を竦めてしまったのは、誰かの制止を振り払った何者かが、置いてある何かを激しく叩き割った鋭い音がしたからだ。

「な、何が…!?」

 思わず抱き付いている小さな座敷ッ娘に身体を寄せながら俺が呟いたとき、その荒々しい何者かは凄まじい音を立てて階段を駆け上がって来たんだ!
 凄まじく怒り狂ってるんだろうと容易に想像できるその足音にも怯みそうだが、間もなく姿を現すその気配に、思い切り俺のひ弱な心臓が縮こまりそうだ。
 ギュッと瞼を閉じて座敷ッ娘を抱き締めていたけど、肩で息をしている気配だけを感じさせて、凶暴そうに怒っているソイツは口を開こうとしないから、俺は恐る恐る、怯みそうになる瞼を開いて目の前に立っているだろう誰かを見上げたんだ。
 そこに立っていたのは…
 眦を吊り上げた、今までに見たこともないほど壮絶に激怒している、蒼牙だった。