第一話 花嫁に選ばれた男 17  -鬼哭の杜-

 片手に真剣の日本刀を携えた蒼牙は、どうも、息せき切って駆けつけたと言う風情だったけど、俺を見る目付きはとても憎々しげだった。
 だからこそ、俺の頑なになりつつあった心にさらに拍車をかけて、座敷ッ娘を抱き締める腕に力を込めながら、そんな蒼牙を睨み据えるぐらいの根性を発揮できたんだと思う。

「…何故、アンタがここにいる?」

 それは地獄の底から蘇った亡者が、腹の底から呻くような、忌々しい響きを俺の耳に残したけど、その質問に俺は気丈に口を開いていた。

「呉高木の花嫁は、何処にいてもいいんじゃなかったのか?」

「ここはダメだ。言わなかったか?禁域を侵すものは、たとえアンタでも許さないと」

 その気迫は、今にも俺を殺そうと身構える、蛇のような禍々しさがあった。
 全身総毛立って、それでも、震える腕で座敷ッ娘を抱き締めたまま、俺は蛇に睨まれた蛙の心境を嫌と言うほど味わいながら、乾いてくる唇をコソッと舐めていた。

「は?ここは禁域だったのか??」

「…ここが何処だか、知らないワケでもないんだろ?」

 蒼牙はシニカルに笑ったけど、その暗い光を宿す双眸は、驚くことに少しも笑っちゃいない。
 きっと、こんな目をして、蒼牙は高柳の息子さんに引導を渡したんだろう。
 誰かを殺すときに、憐れむ双眸をするヤツなんかいない。
 どんなに誤った感情でも、憎しみを宿して、忌々しそうに殺さなければ、きっと人を殺すことなんかできない。そんな風に、何故か脳内の冷静な部分が、そんなことを分析しているようだった。

「蒼牙!止めなさい、彼は…」

「蒼牙さん!」

 後から追い縋るようにして…今はこのペアを見たくなかったってのに、不二峰は酷く慌てたように蒼牙の腕を掴んだ。その背後で、綺麗な柳眉を思い切り顰めた、折角の美人が台無しになっている眞琴さんが、憎々しげにそんな2人を睨み付けていた。
 ああ、でもこれで…蒼牙の怒りは納まるかもしれない。
 不二峰が止めれば、きっと蒼牙は不機嫌でも、怒りは納まってくれるだろう。
 せめて、この腕の中にいる座敷ッ娘まで道連れにするのは、忍びないんだ。
 俺がホッとしている目の前で、蒼牙のヤツは、唐突に掴まれている腕を振り払うと、それでなくても狭い場所だと言うのに、閃く刀を一振りして不二峰たちを追い払ったんだ。

「アンタらに用はない!ここは禁域だ、アンタらでも入っていい場所ではない。失せろッ」

 その恫喝は、この土蔵に流れる重苦しい空気をビリビリと震わせて、その気迫に、あの不二峰が竦んだんだ!いつもは冷静な眞琴さんですら、ビクッとして着物の袖で口許を隠してしまう有様だった。
 俺はと言えば、やっぱり根っこのところじゃひ弱な都会育ちなんだよな、ビクッとして首を竦めてしまった。
 でも、座敷ッ娘は、俺の腕の中でそんな蒼牙をヒタと見据えて、怯える様子も見せずに厳かに口を開いたんだ。

『ここに嫁御さまがいることをぉ…誰に聞いたのー?』

 蒼牙のあまりの剣幕に、渋々と言った感じで立ち去った不二峰と眞琴さんのいなくなった土蔵は、何処か冷え冷えとしていて、夏だと言うのに俺は背筋が冷たくなるような錯覚に息を呑んでいた。
 座敷ッ娘の声はそんな土蔵の中を、淡々と響いている。

「直哉だ。それがどうした?アンタがついていながら、とんだ粗相だな」

 なるほど、どうやら俺は直哉に諮られたってワケだ。
 端から目障りな俺を、この村から出すつもりなんかなくて、できれば未練がないように蒼牙の手で葬らせる計画を練っていたってワケか。
 なんか、ムカついてきたな。

『…嫁御さまの気持ちをー、聞かないのぉ?』

「関係ない」

 その言葉で、俺の中の何かがプチッと音を立てて切れた…ような気がした。
 たぶんそれは、堪忍袋の緒ってヤツだ。

「…関係ないだと?」

「?」

 俯いたままで、搾り出すような低い声に、蒼牙が訝しそうに眉を寄せる気配を感じた。
 今の俺には、蒼牙の怒りや不機嫌なんかどうでもいい。それ以上に、きっと俺は怒っている。

「勝手に俺を花嫁にしたくせに、その心は、いつだって不二峰のもので。それでもお前を好きだと言う気持ちを未練がましく捨てることもできずに、想いを隠しながら生きていこうとしているこの俺を、関係ないだと…?」

「…何を言ってるんだ?」

「ああ、そうだよな。だから、今だってお前は俺を殺せるんだよ。テメーの心を殺すようなヤツだもんな?ここがどんな場所か知らないかだと?そんなの知ったことかよ。ただ、桜姫が軟禁されていた場所だったってことぐらいだろ。それだってどうでもいい。それこそ、俺には関係ない。そもそも、それがどうしたって言うんだ?なに、目くじら立ててんだよ。お前たち呉高木家の連中は、それが正当だとでも思っていたんだろ?それを今更『禁域』なんて都合のいいこと言いやがって!そんなに大事な場所なら、鍵でも掛けて机の中にでも仕舞っとけばよかったんだッ」

 青褪めるほど怒ってるってのに、こんな時なのに俺は、どうしてなんだろう。
 気付けば悲しくて悲しくて…涙こそ出なかったけど、それほど激しくは言っていなかった。
 淡々とした口調は、心が、もう諦めてしまったからなんだろうか?
 それとも…できれば蒼牙の心にまで届けばと願う思いからなのかな…

「あの場所だってそうだ…そうすれば、俺はお前と出会うこともなくて、平凡なサラリーマン人生を終えていたに違いないんだから」

 悔しいとか、恨めしいとか…不思議とそんな気持ちは少しも起こらなかった、それどころか怒りでさえ、俺の中から唐突に立ち消えてしまっていた。
 なんて言うんだろう、この気持ちは。
 ただ、切なくて…そして、寂しいんだ。

「お前だって、不二峰と歩む人生だってあったかもしれないのに…お前は馬鹿なんだよ。殺したければ殺せばいい、どうせ、俺の命なんてもう随分前に消えていたんだ」

 蒼牙の得も言えない感情を内に秘めた双眸を見上げたまま、笑って言うことができて、俺は何故か酷くホッとしていた。
 どうせ、蒼牙が救いの手を差し伸べなかったら俺は…きっと、一家心中していたに違いない。
 今よりももっと若い、高校の頃には親父の借金は億を超えていたから…仕方なかった。
 ガスも電気も止められて…このご時世に、水道だけがライフラインだった…なんて、いったい誰が信じてくれるんだ?
 そんな荒んだ生活の中で、当時まだ僅か12歳だった蒼牙の一存で、俺たち家族は救われたんだ。
 今なら、高柳家の息子の気持ちが判るような気がする。
 この命、くれてやってもいいよ。

『嫁御さま!いや、死んでしまわないでーッ』

 細目でニコニコ笑っていたはずの座敷ッ娘は、大粒の涙をボロボロ零しながら、決意を固めてしまっていることを、きっと誰よりも敏感に感じ取っているんだろう、小さな紅葉みたいな両手で俺に抱き付いてきた。その背中を優しく撫でながら…俺は楡崎を護ってくれる小さな神様に、心から「ありがとう」と呟いていた。

「天女の血をお前にやるよ」

 ニコッと笑ったら、あれほど怒り狂っていたのに蒼牙は、不意に顔を歪めて、ギリギリと悔しそうに歯軋りを始めたんだ。
 ど、どうしたって言うんだ…?!

「…アンタはそうやって、いつも俺を惑わすんだ。俺の中の迷いを掻き立てては、指の隙間からスルリと消えてしまうくせにッ!いい心掛けじゃないかッ、望みどおり殺してやる!」

 なんだと??
 蒼牙が望むのなら、この命ぐらい喜んで差し出すつもりだったけど、ちょっと待て。
 何か今、理不尽なことを言われなかったか??
 お前の中の迷いだと??

「お前の中の迷い…だと?それはきっと、不二峰への恋心だろ?確かに俺の存在が掻き立ててるのかも知れないけど、消えてしまうって何だ!?」

「龍雅への恋心だと!?何を言ってるんだ、アンタは!!?」

 蒼牙は忌々しそうに俺を見下ろして、その手にギラつく日本刀を構えたままで、心底、不貞腐れたように言いやがるから…

「見たんだよ!お前と不二峰が…でも、だからって俺は文句なんか言わない。お前はお前の自由に生きることが、俺が望む全てだから」

「…なんだと?」

 一瞬だけ、蒼牙は顔色を変えたけど、それでも、さすがは呉高木家の現当主だ。
 冷静さは保っているから天晴れだよな。

「俺たちを見た…と言ったな?なるほど、それで龍雅への恋心ね。それで?アンタは身を引こうとでも思ったのか??」

「当然だろ」

 不二峰を想う蒼牙の傍で、ただ、凡庸と暮らすには、俺はそれほどお気楽な性格じゃないんだ。
 蒼牙のヤツは、構えていた日本刀を下げると、忌々しそうに舌打ちしてから、やれやれと首を左右に振って息を吐いた。

「では、何故この禁域にいるんだ?夜ではないんだ、バスにだって乗れた筈だ」

 そりゃあ、まさに図星だったけど…悔しいから、ムスッとしたままで口は開かなかった。
 それをどう解釈したのか、蒼牙のヤツは日本刀の刀背で肩を叩きながら、呆れたように座り込んでいる俺を見下ろしてきた。

「この禁域を知らないアンタがどうして此処にいるのか…重要なのはその部分だろうがな。アンタの行動に首を傾げたいところだが…俺と龍雅へのあてつけか?」

 そんな風に言われるとは思っていなかったし、実際、そんなことを考えてもいなかったから…気付いたら俺は、外方向いたままでポロポロと涙を零していた。
 ギョッとした蒼牙が何か、また嫌なことでも言い出すんじゃないかと、口を開く前にギッと睨み付けて畳み掛けるように言い返していた。
 蒼牙の、不二峰を想う言葉なんか聞きたくない。

「未練だよ!…笑っても別に構やしないけどなッ、6歳も年下の男に惚れて、忘れられなくて…せめて、晦の儀までは同じ村にいたいって思っただけだ。お前と…不二峰の間を裂こうとか、そんなこと、考えてもなかった…クソッ、そんなこと言われるぐらいなら、初めから素直に帰っていればよかったよ。でも…もう少し、ほんの少しでいいから傍にいたいって思った、ただの未練だったのに…」

 やっぱり、帰っておくべきだったんだ。
 蒼牙の心はもうここにはないのに、どうして俺は、こんなに必死になってるんだろう。
 あんなに愛を囁いてくれていたときは、世間体だとかそんなものばっか気にして、いざ離れてしまうと知ったからって、その時になって追いかけても、もう遅い。もう、遅いのに…
 なんて俺は、未練がましいんだろう。
 これなら蒼牙に想われなくても、仕方ないのか…
 蒼牙の顔を見ているのは辛くて、俺は瞼をギュッと閉じて俯くと、そのまま畳にポタポタと涙を零していた。
 蒼牙の息を呑むような気配がしたけど、このまま放っておいてくれたらいいのに。

「…此処に来たのは、気付いたら土蔵の前に立ってたんだよ。そのまま、何処かに隠れたくて忍び込んだんだ。禁域なんて気付かなかった。殺したければ殺せばいい。俺には、呉高木も楡崎の血も、全部どうでもいいことだ。今更、生きることに未練なんかない」

 ポロポロ泣きながら、俺は畳に呟いていた。
 今更、直哉を庇ってもどうにもならないんだろうけど、これ以上、誰かを殺してしまうかもしれない蒼牙は見たくない。
 これ以上、蒼牙に罪を背負わせたくない。

「…俺には未練があるのに、生きることには未練がないだと?」

「ああ!そうだよッ、うるせーなッ!!さっさと殺すなり放っておくなりしてくれよ」

 これ以上俺に、恥をかかせないでくれ。
 もっと、身も蓋もないことを口走ってしまいそうで、俺はそれ以上は何も言わずにグッと唇を噛み締めていた。
 震える肩も、色気もない黒髪も、こんな風じゃなかったら、蒼牙はもう少し俺を…愛してくれたんだろうか?
 不二峰のように大人だったら、俺を…ああ、俺はどこまで女々しいんだ。

『嫁御さまに触らないでぇ!もう、呉高木の嫁御さまではないのよーッ』

 どうやら、蒼牙は腕を伸ばして俺に触ろうとしたようだった。
 その腕を、楡崎の守り手である座敷ッ娘が邪険に振り払ったんだろう、涙に暮れた双眸を開いて顔を上げたら、何処か痛々しそうな表情をした蒼牙が、日本刀を傍らに落として片膝をつき、蹲るようにしている俺を見詰めていたんだ。
 物言いたそうな顔を見ていたら、また涙が溢れてきて、胸がギュッと痛んだ。
 こんな、壮絶な別れ方をする為にこの村に来たワケじゃないのに…運命は恐ろしいほど残酷だと思う。

「光太郎…アンタは」

『蒼くん!私は貴方に頼まれたから、真剣な貴方だったから、嫁御さまのお輿入れに賛成したのよー。でも、嫁御さまを悲しませるのならぁ、このお話はなかったことにするのー。お仕舞いなのよぉ』

「…誰が仕舞いにするだと?楡崎の守り手よ、儀式は既に執り行われた。アンタもそれは知っているはずだ。今更…婚儀の取り止めなど有り得ない」

『でもー!』

 座敷ッ娘は食って掛かろうとしたけど、腕を伸ばした俺は、それを静かに止めていた。
 呉高木にとって、『楡崎の血』はどうしても必要なんだ。
 俺には恩義がある。
 だから、晦の儀までいることにしていたんだ。

「蒼牙…の、言う、とおりだ。俺は、蒼牙の花嫁に…なる」

 まるで狐にでも抓まれたような顔をした2人に、俺は泣きながら笑っていた。
 蒼牙だって心を殺したのなら、俺だって心を殺すことぐらいできるさ。
 甘く見んなよ、蒼牙!

「楡崎の血を…蒼牙にやるよ」

 その後、俺が何処に行こうと、もういいんだよな?
 この呉高木の家に俺の持っている天女の血を遺せば、蒼牙は、蒼牙の愛する人の場所にいけるんだよな?
 それなら俺は…ああ、最初からそうしていればよかった。
 それなら、あんな無様な告白までしなくてもよかったのになぁ。
 クソッ、俺って何処まで抜けてるんだか…トホホ。

「…今度はアンタが心を殺すのか?ハッ!冗談も大概にしろよ?誰が龍雅を好きだって??」

 それまで、黙って食い入るように俺を見詰めていた蒼牙は、やれやれと溜め息を吐いてから、これ以上はないぐらい苛立たしそうに吐き捨てたんだ。

「だって、お前は否定しなかった。『楡崎の血』の為だけに望まない婚姻を結ぶのかって不二峰に聞かれた時、お前は否定しなかった」

「…アンタは龍雅を知らなさ過ぎる」

「え?」

 蒼牙はこの上なく不機嫌そうに、俺の傍らで守るようにして両手を広げている座敷ッ娘を見下ろしてから、フッと寄せている眉間の力を和らげたようだった。

「…言うべきかどうか悩んだんだがな。教えてやるよ、呉高木家の真実を」

「蒼牙…」

 頬には、止まることを忘れてしまったかのように涙がハラハラと零れていたけど、それでも、俺は蒼牙から視線を外さなかった。
 心が少しでも届くなら…俺は蒼牙が好きだから。
 未練タラタラ…ッてさぁ、情けないほど、6歳も年下の男に惚れてしまったんだよ。
 俺が聞きたいのは呉高木家の秘密じゃない。
 蒼牙の心なのに…

 ポロポロと涙を零している俺の頬を指先で触れても、今度は座敷ッ娘は阻止しなかった。
 俺も、嫌だと言って首を振ることはしなかった。
 「こんなに泣かれてしまうとはな…」と、蒼牙はあれほど怒っていたくせに、現金なほど掌を返して、嬉しそうに頬の緊張を緩めたりするから、グズグズと泣いている俺の方が馬鹿みたいじゃないか。
 畜生。

「どうやら、アンタの身体に流れている血の秘密は守り手から聞いたようだな。では、俺たちの一族が蛟龍と呼ばれていた龍の末裔であることは知っているな?」

「…ああ」

 ヒクッとしゃくりながら頷いたら、蒼牙は、どうしてそんな目付きをするんだよって怒鳴りたいぐらい、愛おしそうに俺を見詰めて、できればこのまま抱き締めて、もう何処にも行かせないんだがなぁ…とでも言いたそうな顔をしやがるから、俺は悔しくてまた泣いてしまった。
 そんな顔、するなよ。
 不二峰を愛してる心を持ちながら、俺に嘘を吐くなんて酷いんだぞ。
 お前にとっては、どうでもいいことなんだろうけどな…

「龍の子と呼ばれる俺たちは、天女の血を持つ楡崎の人間を見つけるまでは、両性体でいるんだ。その間にセックスをしても、子供は生まれない。男であり女である。だが、そのどちらでもない中性体のままだからな」

 それは衝撃的な一言だったから、目をパチクリさせて、それでもどんな顔をしたらいいのか判らなくて、俺は訝るように眉を顰めることぐらいしかできなかった。

「楡崎の人間がどちらの性でも、婚姻できるようにな。龍の子の想いは、それほど楡崎の者に執着しているんだよ」

 勿論、俺もだが…そう呟いて、蒼牙は自嘲的に笑ったんだ。
 どうして、そんな顔をするんだよ?
 やっぱり、お前も楡崎の血に執着してるだけじゃねーか。
 なんか、やっぱり無性にムカツクんだよなぁ。

「…俺はまだ幼い頃、6歳ぐらいまでは女として育っていた。名も『葵姫(アオイヒメ)』と呼ばれていてな、龍雅の花嫁になるんだと思い込んでいたよ」

 遠い昔…と言うほどでもないんだけど、17歳の蒼牙はそんな風に、やはり自嘲的に笑いながら、そのくせやっぱり忌々しそうに呟いていた。

「ちょうど、6歳になるかならないかの時に…俺は母さんに呼ばれたんだ。その頃はまだ、母さんは調子が良かったり悪かったりを繰り返していたから、まだ、この座敷牢にはいなかったんだが…毬遊びをしていた俺は呼ばれるままに、母さんの許まで行った」

 その時の情景が何故か、鮮明に脳裏に浮かんでいた。
 肩の辺りまで伸ばした青白髪の髪をキチンと摘み揃えて、少し勝気そうな双眸をした可愛らしい少女が、嬉しそうに毬を持って、柔らかそうな優しい手に導かれるようにして駆けてくる姿。
 なぜ、こんな光景が視えるんだろう?

「その時、俺は1人の綺麗な人に会った。まだ、幼そうな顔立ちをしていたけれど、俺はその人を初めて見て、一瞬で恋をしていた。とても綺麗な人で、精霊妃がいれば、きっとこんな人だろうと思って、母さんに興奮して誰かと聞いたのさ。そうしたら母さんは、日傘を差したままで首を傾げながら、自分には普通の人に見えるのに、葵姫には特別に見えるのね…って笑った。そしてその人が、龍雅の花嫁になる人だと教えてくれた」

 毬を持ったままで遠くにいる誰かをジッと見詰めたに違いない蒼牙は、その時の視線のままで、憧れと燃え上がるような情熱と、はにかむような照れを隠した双眸で、俺を食い入るように見詰めてきたんだ。

「龍雅の花嫁になるんだろうと思い込んでいた俺は、母さんに聞いたんだ。龍雅の花嫁は自分じゃないのかと。そうしたら母さんは、日傘の下から涼しげな双眸を細めて、寂しそうに笑っていたよ。あの方は特別な人だから、龍雅の1番目の花嫁で、俺は2番目なんだとさ。そりゃあ、冗談じゃないと思ったワケだ。それに…」

 そう言って、蒼牙は何かを思い出すように自嘲的に笑ったんだけど、その顔は、何故かとても不敵なものだった。
 どうしてそんな顔をするんだろうと首を傾げていたら蒼牙は…

「花嫁なんてご免だと思ったんだ。龍雅と話しているその綺麗な人を…俺は、自分の花嫁にしたいと思った。まあ、簡単に考えても判るだろ?俺は両性体で、どちらの性にもなれるんだ。その人を見た時に、俺の性別は決まったも同じだった。俺は、男になる決心をしたのさ」

「…不二峰の花嫁を略奪するつもりだったのか?」

「つもりじゃない、略奪したんだ」

 キッパリと蒼牙は言い切ったけど…実は、涙の乾かない俺は、そんな突拍子もない話を聞きながらも、怪訝そうに眉を寄せて首を傾げてしまった。
 いや、だって。
 たぶん、蒼牙の雰囲気からも、その不二峰の花嫁は…俺だったんだと思う。
 でも、俺にはそんな記憶はこれっぽっちもないんだ。
 つーか、不二峰に会った記憶すらない。
 そのことを蒼牙に言おうとした時、唐突に、それまで黙って聞いていた座敷ッ娘がオズオズと俺の服の裾を掴みながら口を開いた。

『嫁御さまから龍雅の記憶を消したのは私なのよー。ごめんなさいぃ』

「え?」

 どうしてそんなことをしたんだろうと首を傾げたら、その疑問には蒼牙が答えてくれた。

「俺がそう、頼んだんだ」

「へ?…どうしてだ??」

「それは…」

 蒼牙は言い難そうに言葉を切ったけど、フイッと、それまで一度だって逸らしたことのない強い意志を秘めている双眸を伏せて、思い切るように閉じた瞼を開くと、俺を正面に見据えて話を続けたんだ。

「龍雅には龍の血が少ない。それ故に、両性ではなく、最初から男だったんだ。ヤツはそれを酷く恥じていて、呉高木の当主になる為に『天女の血』を持つ楡崎の息子を娶ることにしたのさ。連れて来られた光太郎を一目見て、龍雅は気に入ったようだった。当時、12歳のアンタと16歳の龍雅の、まるで茶番のような見合いに、両家はいたく乗り気だった。だから、俺はそれをぶっ壊そうと考えたんだ。アンタを娶るのは俺だと思っていたからな」

「蒼牙…」

 ふと、こんな時なのに俺は、それでも嬉しい…なんて、どうかしてることを思ってしまった。
 ポロッと頬に涙が零れて、俺は何処までも、この不遜な当主が好きなんだなぁと思う。

「俺はまだ子供で力なんかなかったからな、楡崎の守り手にお願いしたのさ…そんな俺たちが部屋にコソリと行った時には、アンタは龍雅に組み敷かれていた」

「ええ!?んな、馬鹿なッ!」

 見合いの席でイキナリ犯されてたのか、俺!?

『嘘じゃないのよー』

 焦ったようにオタオタと顔を覗き込んでくる座敷ッ娘をマジマジと、信じられないものでも見るようにして、それから改めて蒼牙を見ると、ヤツは珍しく不機嫌そうに目線を逸らしてしまった。
 だから、信じられないんだけど、それが真実なんだと思い知った。
 嘘だ…

「幸い、まだ純潔を奪われたと言うワケではなかったんだが、えらく動揺していてな。守り手と共に助け出したんだが、震えるアンタは、泣きながら幼い俺に縋り付いてきた。俺はそんなアンタを抱き締めながら、生涯、きっと護ろうと決意したよ。ただ、これに懲りてアンタが呉高木の家に来なくなったら元も子もないと思ってな、守り手に頼んで記憶を消してもらったんだ」

「そ…う、だったのか。それで、俺の蒼牙の記憶は、12歳の時からなんだな…」

「ああ。あの後、俺は『女』になる為に祖父や直哉から手解きを受けていたから、その手管と言うヤツで、怒り狂う龍雅を宥めたと言うワケだ。弱冠6歳の俺に翻弄される龍雅も見ものだったがな」

 ニヤッと笑う蒼牙は何処か、今までに見たこともない子供っぽいツラをしていて、俺は凄く好きになったんだけど、話の内容があまりに壮絶すぎて、いったいどんな顔をしたらいいのか判らないまま、複雑な表情で見詰めてしまった。
 そんな俺に、蒼牙は笑ったままで肩を竦めたが、すぐに不機嫌そうにムッとしたんだ。

「だが、その後がいけなかったな。龍雅はスッカリ俺が自分に惚れていると思い込んだようで、俺を娶ることで呉高木を継ぐ気になってしまったんだ。だから、俺は7歳の時に『蒼牙』と改名し、当主になることを条件に、龍雅を不二峰の養子に出すことにしたんだ」

「ゲ!アイツを不二峰家に養子に出したのって蒼牙だったのか!?爺ちゃんじゃなくて!!?」

「ああ、そうだ。目障りなヤツにはお暇願うのが当然だろう?」

 いや、ちょっと待ってくれ。
 じゃ、じゃあ、もともと蒼牙は俺を嫁にするつもりで、当主になったってことか?龍雅は、言わば恋敵だったから、爺さまに頼んで追っ払ったと、つまり、そう言うことなんだな?
 7歳のクソガキがそれを思い付いたって言うのか??
 ポカンッとする俺に、蒼牙は一瞬だけムッとしたけど、でも、すぐに自嘲的に笑ったんだ。
 アイツの男らしい頬に、一筋、頼りなげに青白髪が零れて、その面立ちは寂しかった。

「俺は…誇らしい生き方なんかしていない。アンタの夫になる資格なんか、本当は龍雅よりも持っちゃいないんだ。天女の血を持つ者は、必然的に人に惚れる。だからこそ、俺は龍雅の存在に怯えていた。正当に娶ることを告げれば、龍雅は納得した。だが、アイツはアンタに惚れていたから…今でも、アンタが龍雅のモノになるかもしれない危険はあるんだ」

 悲しげに笑う蒼牙。
 でも、それは…蒼牙のせいじゃない。
 両性であることも、女として生きなければならなかったことも…どちらも、呉高木の思惑と、そして、蛟龍がばら撒いた種なのに…どうして、こんなに蒼牙が傷付くんだろう。
 俺は、幼い蒼牙に守ってやるって約束していたのに…本当に守ってくれていたのは、蒼牙。
 お前だったなんて…
 俺はポロポロと、忘れていた涙が涙腺をぶっ壊して、またしても頬を零れ落ちていく。

「蒼牙…」

 両腕を差し伸ばせば、蒼牙は躊躇うこともなくそんな俺を引き寄せると、ギュウッと両腕に力を込めて、もう絶対に離さないんだと強い意志で抱き締めてくれたんだ。
 蒼牙の首に回した腕に力を込めて、背中に回された腕の力を感じて、俺はボロボロ泣きながら、蒼牙を心の奥底から愛してると感じていた。

「気付かなくて…俺は、馬鹿だ。守ってるつもりで…お前が一番、俺を守ってくれていたのに…」

「龍雅は俺がアンタに惚れていると知れば、どんなことをしてでも、横から掻っ攫って行くつもりだろう。龍雅とはそう言う男なんだよ。だから、俺は心を偽って、アイツに惚れているフリをした。抱かれても気にもならないからな。だが、アンタを妻として正式に娶ってしまえば、たとえ龍雅でも手出しはできなくなる。だからこそ、祝言の日まで呼ぶつもりなんかなかったんだ。それを直哉のヤツめッ!…アンタの純潔を龍雅に奪われることだけは避けなければならないんだ。俺は、心の奥底からアンタを愛している。天女の血なんか、どうでもいい。アンタが、ずっと傍にいてくれれば、もうそれだけでいいんだ」

 蒼牙は、俺が思っていることと、全く同じことを想ってくれながら、優しい愛を込めて抱き締めてくれる。
 不二峰の俺を見る、あの嫌な目付きは、そうか、俺が『天女の血』を持つ楡崎の人間だったからなんだ。
 蒼牙ではなく不二峰こそが、『天女の血』を尤も欲している、龍の子の末裔に成り損ねた呉高木の人間だったんだろう。

「アンタが…俺が女の方がいいと言うなら、俺は別に女になっても構わないんだぞ。どちらでも、光太郎の望むままに」

 クスッと、蒼牙は笑った。
 自然で言うのなら、俺は蒼牙の花婿になるべきなんだろうけど…何故か、この村の連中も、蒼牙自身も、俺を花嫁として迎えようとしている。
 その理由は判らなかったが、今更、蒼牙を女のようには見れないし、ましてや不二峰でもあるまいし、コイツを抱こうなんて気にはどうしてもなれなかった。
 でも…俺は一抹の不安を覚えるんだ。

「俺は、このまま蒼牙の花嫁になれるのか?」

 だって、俺は女じゃないから、蒼牙の子供を産んでやることもできないのに…

「決めるのは、アンタ自身だろう?」

「…え?」

 顔を上げて蒼牙を見ようとしたら、ふと、何故か眩暈がした。
 蒼牙の顔が、二重に三重にぶれてくる。

「アンタのこれ以上はない嬉しい愛の告白が聞けたんだ。俺はなんだってするさ」

 嬉しげに笑う蒼牙の声でさえ、鼓膜を刺激して、何処か遠くで聞こえているような朧げな頼りないモノで…なんだ、これ??

「あ、あれ…??」

 伸ばした指先でその頬に触れようとしたのに、指先は切なく空を切る。

「光太郎?…どうしたんだ!?おい!!」

 蒼牙の腕に抱かれたままで、俺は急速に身体が冷たくなるのを感じていた。
 俺の異変に気付いた蒼牙が俺の名前を呼んでくれているのに、今はそれに応えることもできない。
 まるで貧血のようにスッと血の気が引いて、もがこうと、足掻こうと必死で蒼牙の着流しを掴もうとするのに、指先に力が入らないから、そのままスカンッと腕が落ちてしまう。
 重くなる身体と瞼を持て余して蒼牙を見詰めれば、呉高木の正当な現当主は、まるで似合わない動揺した顔をしてそんな俺を支えてくれる。でも、その顔を安心させることができなくて、俺は悔しくて仕方なかった。
 少しぐらい、俺にも蒼牙を安心させてやるだけの力が欲しいのに…
 気持ちばかりが空回りして、大きな思惑に飲み込まれそうだ。
 俺だって…蒼牙の…傍に…いるだけで…
 …………
 ……
 …
 …幸せ…なのに…
 何処か遠くで、蒼牙の声がしたような気がした。