甘い嬌声が響き渡る室内で、ヘッドホンをかけて音量をフルに上げてそれを平然と聞きながら勉強をする立原を、琴野原はしゃがみ込んで机の端に両手を添えながら見上げている。シャカシャカと洩れ聞こえる音楽に、鼻に皺を寄せた少女のように愛らしい琴野原は思い余ったようにヘッドホンを外してしまった。手許にあっても音が鮮明に聞こえてくる。
どんな耳をしているのだ、立原よ!
「何をする」
ムッとしたようにジロリと琴野原を見る双眸は、それでも口調ほどには抑揚がない。
まるで完全にどうでもいいと無視しているのか、そう思わざるを得ないほど、立原は無表情だ。
何を考えているのだろうと、琴野原はほんの少しゾッとした。
「僕の相手をしてよ!少しぐらいはいいじゃないッ!いっつも柏木くんの所ばっかりに行って…」
しかし、彼の情欲を煽ろうと謀る琴野原にとってはそんなことはどうでもよくて、ムスッとして言い返すと立原は少し考えるように彼を見つめていたが、鼻先で笑ってノートに視線を落とした。
「だったらどうだって言うの?お前には関係ないでしょ」
シレッと言い返す立原に、キーッと癇癪を起こした琴野原は無理やり立原の顔を引き寄せて口付けた。舌を絡めて煽ってみると、立原は殊のほかあっさりとそれに応えてくる。応えてくるが、それ以上は何もない。
抑揚もなく、無感情に交わす口付けは、琴野原が遊んだどんな男のものよりも冷たく、無頓着に突き放している。
「もうッ!…サイテー」
頬を上気させて、潤んだ瞳はじゅうぶん誘っているが、立原は無感情でそれを見つめている。濡れた瞳に力を込めて睨んでみても、まるでどこ吹く風と相手にもしてくれない。
「…相手をしてくれないと、柏木くんと寝るよ。それでもいい?」
言った瞬間、琴野原はしまったと唇を噛んだ。
立原の地雷原。
他にはこんな言い方もある。
立原の逆鱗…に触れてしまったのだ、琴野原は。
「柏木と…寝る?」
ゆっくりと首を巡らせて琴野原を見上げる立原の瞳に、この時、漸く感情らしいものがチラリと窺えた。チラリとだが、その威力は琴野原を竦みあがらせるには充分だった。
「俺の姫君に手を出すって言うの?ねぇ、琴野原くん。君、何か勘違いしてないかい?」
ゆらりと立ち上がると、琴野原よりも高い長身の立原は、獰猛そうに双眸を細めて覗き込んでくる。
琴野原はビクッとして細い肩を竦ませた。
「君はあくまでこの寮の均衡を保たせる為の道具なんだよ。判りやすく言えば性欲処理機。俺の大切な姫君に手を出させない為の防波堤でしかないんだ。ね?この犯ることしか考えてない脳みそにそう言うこと、ちゃんと叩き込んでおきなさい」
ゆっくりと柔らかな猫っ毛を掻き混ぜるようにして撫でると、琴野原は青褪めた顔で頷くことしかできない。彼の言葉は、この寮…いや、学院にあっては絶対の威力を持っているのだ。そして彼は、罰の恐ろしさを誰よりも良く知っていた。
その年のたった1人の外部生である柏木光太郎だけ知らない、立原俊介の真実の顔。
どこにでもいそうな極平凡な顔立ちをした、お世辞にも女の子には到底見えない柏木を愛し、彼をいつか自分のものにしようとその無表情の仮面の下で企んでいることなど、当の本人である柏木には知る由もなかった。
そしてそんな自分が、『硝子宮殿の姫君』と呼ばれていることなど…全く、これっぽっちも知らなかったのだ。それなりに名の知れた財閥などの子息が通う名門の男子校で、柏木よりも見目麗しい少年がわっさりいると言うのに、彼はこの学院の王者…いや、魔王が愛する姫君なのだ。
無理に自分のものしようと思えばいつだってそうできるのに、彼は姫を大事にしていた。恐らくどんなに泣き喚いても、いつかは立原のものになるのだろうが、今は彼の好きにさせてやっている。寛大な部分をアピールしているつもりなのだろうが、もちろん、そんなこと知ったことかの柏木には通用しない。
琴野原は息を飲みながら、それでも、そんな哀れな柏木に嫉妬していた。
保・幼・小・中・高・大・大学院まであって、海外にも分校のある名門校を取り仕切るこの無表情の魔王を、大抵の生徒は畏怖と敬意と、そして恋愛の対象として見ている。だが誰も落とせない。
陥落できるのはただ1人、名もない中学からひょっこり現れた『硝子宮殿の姫君』だけなのだ。
ある者は嫉妬と羨望の入り混じる複雑な視線で、ある者は憧れと微かな欲望の視線で見つめていたが柏木にはそれら全て蚊が止まった程度の認識しかない。
近頃よく睨まれてるんだよなぁ、自意識過剰かな?と悪友…と言っても、これも立原の息のかかった生徒なのだが、に不貞腐れたように言い立てる柏木の姿を見たことがある。
案外、自分で思っている以上に、柏木光太郎は鈍感な男なのだ。
そしてその愚鈍な姫君は気付かない。
どうして無表情の魔王が今度の登山大会にあんなに乗り気でウキウキしているのかと言うことに。
張り切ってるなぁ…ぐらいの認識しかない。
さすが愚鈍王。
今度の登山大会が自分の初夜になることを彼は知らない。自分の周りの全てがそれを知っていることにも、もちろん気付いてもいない。
だからこそ、琴野原が言葉だけで何のお咎めもないのだ。そこにはそんな理由があった。
魔王が浮かれている。そんな理由が。
「俺の愛する姫君は、真綿に包んで大切にしないと…何れ大学まで連れて行かないといけないからね。結婚をするのなら、やはり大学まで遊ばせてやらないと。それから先は、永遠に俺のものになってもらうから」
そう言って、この私立璃紅堂学院玻璃寮に君臨する、陰の支配者である立原俊介は満足そうにニッコリと笑うのだった。
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…へッきしっ!
柏木がクシャミをする。
自室で優雅な夕べを過ごしながら、何れ自分の愚鈍さを嘆くことになる姫君は、風邪でも引いたかなぁ…今日はもうねよぅっと、と、のん気に呟いてベッドに潜り込んでいく。
今夜見る夢が、幸福であるように…