予め匠にも言っていたし、親にも泊まるとは言ってたんだよな。用意周到のつもりだったのに…
こんな形になるなんて悲しい。
熱に浮かされて、具合がすごく悪くて、目の前がいつもグルグルしてるような気持ち悪さで、何度か吐いたけど甲斐は嫌な顔もせずに看病してくれたんだ。
ブツブツ文句は言ってたけど、こう言う優しさが俺をメロメロにさせるんだ。
熱は夜になるともっと高くなって、甲斐は本気で医者に電話しようかどうしようか悩んでいるみたいだった。
俺はそんな気配を感じながら、それでも薬が効いたんだろうな、ウトウトとしていたんだ。
夢見がちで…具合が悪いときに、不意にひんやりした冷たいものが額に触れてぼんやりと目が開いた。
でも、それが何かなんて認識することはできなかった。
「少しは楽になったかい?」
ひんやりしたタオルを押さえるように、誰かの指先が額に乗ったようだった。
ギシッとベッドが軋んで、誰かが乗ったようだ。
揺らすなって、気分が悪ぃんだからさ!
「…?」
良く判らなくて眉を寄せると、ソイツは小さく笑ったようだった。
笑い事じゃないってのに…真剣、気分が悪いんだぞ!ったく…はぁ、苦しい。
少し喘いだら、冷たい指先が頬を滑り下りてきた。
間近に大好きな顔があって、それが誰だと脳が認識する前に本能が確認して、俺はダルくて死にそうなほど辛いんだけど、何かに縋り付きたくてソイツの胸元の服を掴んで引き寄せた。
鼻先が触れ合うほど近くに来た大好きな顔を、奇妙に歪む視界に映しながら眉を寄せたんだ。
「好き…だから。ぜったい…離れな…」
「うん。判ってるよ」
屈み込むようにして覗き込んできたソイツは、喘ぎながら辛い身体を起こして苦しそうに呟く俺の、背中に腕を回して負担にならないように抱き締めてくれた。
「判って…?じゃ…俺…傍にいてもいい?」
もう、ホントは何を言ってるのかも定かじゃないんだけど、誰かに認めてもらいたくて、甲斐の傍にいることを許して欲しくて気付いたら泣きながら聞いていた。病気になると人間ってのは弱くなるんだなぁ…いや、別に病気ってワケじゃないんだけど。
「いいよ。そんなに泣いたら駄目だよ…僕は君の泣き顔が好きなんだ。欲情しちゃうじゃないか、誘ってるの?」
クスクスと笑ってそんな恐ろしいことを言うソイツに、でも俺は泣きながら笑ってた。
それどころじゃないぐらい気分が悪いけど、あんたが、犯りたいってならしてもいいと思えた。
なんだろうな、俺はあんたが好きだと思う。とても、すごい好きだ…
「冗談だよ。身体が良くなったらセックスしよう」
クスクスと、ホントに冗談なのか本気なのか良く判らない声音で囁くソイツは、俺の目尻の涙を柔らかで繊細な唇で拭ってくれたんだ。
「愛…愛してる…好き」
俺はうわ言のように何度もその言葉を呟いて、夢の中の誰かに縋り付いていた。
甲斐のワケがない。
甲斐はこんなに優しくない。
だからせめて、甲斐の顔によく似たこの都合のいい夢の住人に、やっぱり都合のいい答えを求めたんだ。
「……」
ソイツは無言で俺を無表情な、冷めた目で見下ろしていた。
ああ…夢の中でもやっぱり甲斐は甲斐の性格なのか…そっか、そうだよな。こんな性格のコイツでも好きなんだよな、俺。だから、夢の中でも冷たくて当然なんだ。
でもせめて…
「嘘でもいいから…好きぐらい言ってくれたら嬉しいのに…」
涙が零れて、俺は遠くなる意識を必死に保ちながら、痺れたように感覚のない指先を伸ばして夢の中の甲斐の、温かい頬を触っていた。
「でも俺、甲斐のこと触ってるだけでもいいんだ。すごい、嬉しいよ」
涙腺がぶっ壊れたんじゃないかってぐらい涙が出て、それでもニッコリと笑えたから良かった。現実の甲斐にも、同じことが言えたらいいな。
今度、言おう。嬉しいからって、幸せなんだぞって…
甲斐も俺がいて嬉しいだろ、ぐらいは言ってやろうっと。嫌な顔するだろうけど、ははは。
はぁ…苦しい。
「嘘で…いいの?」
そんなこと言うなよ。
嘘で言いワケがないだろ。
いつだって、ホントの好きが欲しいさ。
「や…嫌だ」
「…きっと、僕の方が一目惚れだったんだよ。のめり込むのが怖くて、でも、けっきょく手放せなくなっちゃったな」
クスッと笑って夢の中の甲斐は信じられないことを呟いた。
ああ…なんて幸せな夢なんだろう。
甲斐が俺に一目惚れなんて言ってくれた…嬉しくて嬉しくて、言葉がすぐには出てこないよ。
たとえ夢でも、こんなに幸せな気分はない。
涙がボロボロ零れて、それでなくても涙腺が壊れてるみたいなのに…甲斐、俺も。
「俺も一目惚れだったんだ…ずっと好きで、でも、この恋はきっと叶わないと思ってたから。俺は…俺は…ああ、どうしよう。嬉しくて言葉にならないよ」
苦しい息遣いで喘ぎながら、それでも甲斐に、たとえ夢の中であっても嬉しいって伝えたかったんだ。
「…一目惚れって言うだけでそんなになったら、次の言葉を聞いたらどうなっちゃうんだろうね?」
次…?次なんかあるのか?
こんなに嬉しくて…幸せすぎて、目が覚めたときが辛いから、もういいよ。
俺の、都合のいい甲斐。
「あり…がと。もう…いい。うれし…」
そこで、多分意識は途絶えてた。
でも、遠ざかる意識のなかで、俺は確かに聞いていた。
これ以上はないってぐらい都合のいい、幸福な幻聴を。
夢の中の甲斐は少しだけ小さく笑って、俺の背中に回した腕に力をこめて抱き締めてくれたんだ。
「愛してるよ。もう、ずっと君に夢中だった」
夢の中の甲斐の、優しすぎる告白を聞きながら俺は混濁した世界に沈んでいた。
それでも、気分はこんなに悪いのに、サイコーだった。
サイコーに気分が良かった。
□ ■ □ ■ □
翌朝、俺の熱は下がっていた。
日曜の朝で、巷はまだ眠ってるような時間帯に目が覚めたのに、甲斐は床に直接座ってコーヒーを飲んでいた。結局昨夜は眠らなかったんだろう。
ちょっと疲れた目許がそれを物語っている。
いいヤツなんだよな、ホントは。
だから俺、コイツが好きなんだ。
甲斐が俺を好きってのは、俺の思い込みで、誰からも好かれてるコイツを独占したいって言う俺の子供染みた独占欲だったんだ。
ああ、昨日はいい夢を見たよな。
どんな夢だったか、ホントはいまいち覚えてないんだけど、すっげぇ嬉しかったのだけは覚えてる。あんまり嬉しくて、俺、夢の中で泣きっぱなしだった。甲斐の夢だってことだけは確かだったんだけど…あーあ、覚えてたらもっとハッピーなのにな。
「起きたの?…その、気分はどお?」
床にマグカップを置いて、はにかんだような、珍しい笑顔で聞いてきた甲斐のその顔に見惚れてしまった俺は、ハッとして慌てて頷いた。
内容もうろ覚えだから、夢のことは甲斐には絶対に内緒にするんだ。せっかくいい夢なのに、コイツに知られて嫌な顔されたら立ち直れないもんな。
「ああ、もうスッカリいいみたいだ!サンキューな、甲斐!」
朝っぱらから気分爽快で元気に返事をした俺を、甲斐はなんだか訝しそうな、呆気に取られた複雑な表情をして俺をマジマジと覗き込んできたんだ。
「な、なんだよ?そんなにマジマジと見られたら俺…」
ドキドキするじゃねぇか!
「…覚えてないの?」
「覚えてるって…何が?俺、もしかして寝込んでる時になんか迷惑をかけたか?あ、そう言えば吐いたような…悪い」
「そう言うことじゃなくてね…」
頭を下げると、甲斐は少し目を瞠って、それから信じられないと言うように首を左右に振ったんだ。
溜め息をついて、それから諦めたように呟いた。
「何となくは判っていたんだけど…期待した僕が馬鹿だったよ」
頬が微かに赤くなってる甲斐は、なんだか突然、苛々したように頭を掻いたんだ。
「期待って?え?俺、何かしたか?って、ちょ、甲斐!待てよ、どうしたって言うんだよっ」
唐突に立ち上がって部屋を出ようとする甲斐を追って立とうとした俺は、熱は下がっても身体はピクリとも動いてくれず、そのまま床にダイブしそうになっちまった。
ヤバイ!顔面直撃、床とキスしちまう!
…と思ったときには、甲斐の腕の中だった。
抱き留めてくれたんだ。
やっぱ、優しいよな、コイツ。
「ありがとう」
笑って見上げたら、ムチャクチャ不機嫌そうな顔の甲斐と目が合ってしまって、俺はギクッとしてしまった。
何か、何か怒らせるようなことを言ってしまったんだろうか…俺。
あ!…夢の内容を寝言で言ったのかな…うう、どうしよう。
「結城くんは、僕を振り向かせるんだったよね?」
唐突に甲斐に言われて、俺は慌てたように頷いた。
そうだ、俺は甲斐を振り向かせてみせる。
今回は迷惑ばかりかけて好感度はかなり下がったと思うけど、これから取り戻すつもりだ。
俺、幸せな夢も見られたから頑張れる!
「せいぜい、頑張りなよ。僕の心はとある人に奪われちゃったからね。頑張って、取り戻しなよ」
「え!?ええ!?…って、誰だよ、それ!俺が寝込んでる時に誰かにやったってのか!?」
クスクスと甲斐が笑う。
「笑い事じゃないって!ああ、クソッ!身体が言うことをきいてくれん!」
もがくように足掻く俺を一瞬だけ抱き締めてベッドに戻すと、甲斐のヤツは酷く飄々とした顔をして焦る俺を見下ろしてきやがるんだ!
待て!待ってくれよ、甲斐!
「その人に夢中なんだ。果たして、身動きの取れない結城くんに奪い返すことができるかな?」
何がおかしいのか、甲斐のヤツはクスクスと笑ってやがる。
ああ、そりゃ面白いだろうな!ああ、くそ!鉄壁の甲斐の心を溶かしたヤツってのはいったい誰なんだ!?
何をのん気に寝込んでたんだよ、俺!
あんな幸福な夢なんか見てる間に、甲斐はさっさと誰かのものになったんだ!
俺の馬鹿野郎!
「うう…クソッ!甲斐、俺は絶対にお前の心をソイツから取り戻してみせるからな!!」
「うん、頑張ってね」
クスッと笑う甲斐。
そんな綺麗な顔で笑いやがって!
そんな風に楽しそうに笑いやがって!…って、本当に恋をしたのか?
俺の知らない、誰かに?
ソイツは…どんなヤツなんだろう。甲斐の氷の心を溶かすのは俺だって決めていたのに。絶対だって思ってたのに…!
うう、俺もう泣きそう。
いや!泣いてるヒマなんかねぇ!!
俺は…俺はきっと甲斐の心を俺の方に振り向かせて見せるんだ!
絶対だ!
俺は甲斐が好きなんだ!
甲斐は俺のものなんだ!
俺はきっと、この冷血野郎を振り向かせて見せる。
絶対だ!
だからなあ、甲斐。
きっと、その綺麗な笑顔で振り向いてくれよ…
END