死人返り 1  -死人遊戯-

 暑い夜だった。
 その年の異常気象を物語るような蒸し暑い夏の夜、僕の大切な弟は通り魔に殺された。
 死体は無残に切り裂かれ、犯人の異常性を物語るようなこの上ない惨い殺され方だったと、近所の口さがない非常識な大人たちが噂話で教えてくれた。
 判別もできないほどグチャグチャに引き裂かれた顔には何重にも包帯が巻かれていたらしいが、僕はどうしても大好きだった弟の最後の顔、包帯のぐるぐる巻かれたその顔を見てやることができなかった。
 それは辛くて悲しいばかりだけが原因じゃなかったんだ。
 半分以上、罪の意識だった。
 1ヶ月も前から一緒に映画を観に行こうと約束していた。
 高校のクラスでも人気者で、運動神経も抜群で頭も良くて、顔だって誰に似たんだと言いたくなるぐらいのハンサムな、誰からでも好かれる弟とは対照的にスポーツもできない、取り柄と言えば物覚えの良さぐらいの僕には勿体無い彼は、そんな僕を何かと気にかけてくれていた。
 心配だったのかもしれない。
 自分の兄が、いつも優柔不断でふらふらしていたから、きっとすごく心配していたんだと思う。
 あの日の朝も、僕に2枚のチケット見せながら何事もないような爽やかな笑顔をしていた。
 僕なんか誘わずに、気に入ってる女の子もいるんだから彼女を誘えばいいのにと言うと、拗ねたような不機嫌そうな表情をして怒ったっけ。
 その怒りに拍車をかけるように、あの日の朝、僕は弟にこう言ったんだ。

「友達と約束したんだ。だから今日は行けないよ」

 そのチケットの有効期限がその日までだと知っていたから、僕はわざと数少ない友人を誘って無理やり用事を作った。
 怒るだろうな、と思った。
 兄である僕は、いつだって弟の言う事を1番に優先していたから。
 兄弟でもこんなに違うんだと両親に言われ続け、可愛い弟は彼らの期待と愛情を一身に受けて、ある意味、我が侭に育っていた。
 だから僕のそんな行為にもすぐにキレて、チケットを破り捨てると家から出て行ってしまった。
 それでもすぐに携帯に電話がかかってきて、『ごめん』と謝るんだ。
 悪いのは僕なのに。

『高校生にもなって弟と一緒に映画を観てランチして、仲良くお買い物して帰るんだろ?まるでデートじゃねぇか、気持ち悪ッ』

 後で聞いて知ったんだけど、そう言ったクラスメートは、実は彼女を弟に取られて悔し紛れにそう言って僕をからかったんだそうだ。
 知っていたら後悔なんかしていなかったのに…たぶん、それでもやっぱり後悔するような事はしていただろうな。

「遊園地のナイトチケット持ってるんだ。友達と遊んだ後でもいいから、一緒に行こうよ。俺、いつもの噴水の前で待ってるから」

 どこで手に入れてくるのか、弟は魔法使いのように色々なものを持っていては、屈託なく僕を誘う。家に何度か連れてくる彼女や、小学校の時からの親友と行けばいいのに、どうして僕を誘ってくれるんだろう、とそんな風に思い出したのは中学の後期からだった。
 ヘンだと指摘され出したのもちょうどその頃からだったと思う。
 クラスメイトの女の子たちのやっかみ半分の中傷や、彼女を取られて苛々している男子の揶揄も本当は羨ましいだけだって知っていたけど、高校受験で気分のすぐれなかった僕にとっては煩わしいばかりだった。だから、弟離れをしようと思ったんだ。
 でも、弟は離れなかった。
 もう1ランク上の高校だって望めば合格できたのに、わざわざ僕と同じ高校に来て、わざと避けている僕に何かと懐いてきた。いつも通りに。
 あの日も、そうだった。
 いつも通りに懐いてきただけだったんだ。
 そして僕は、いつも通りに彼を邪険にした。
 約束の7時を過ぎても公園の噴水の前には行かなかった。彼は10時過ぎまで待っていたらしくて、諦めたように帰途に着いたのは10時半過ぎだったらしい。
 僕は、何も考えずにいつも通りに突き放した。
 そして、弟は死んだ───…

◇ ◆ ◇

 あれから1年以上が過ぎて、僕は大学生になっていた。
 今は一人暮しをしている。
 弟が死んだあの日から、まるで火が消えたような我が家にいることがとても苦痛だったから、大学から程近い安アパートに転がり込んだ。荷物なんて何もない、殺風景な室内が不思議なほど落ち着く。僕の聖域だ。
 僕は両親たちの反対を押し切って、三流大学の民俗学部に入学した。
 数少ない友人の国安壱太と一緒の大学は、別に示し合わせて受験したわけじゃない。たまたまお互いの希望学部が同じだっただけってことで、まあ、だからこんな性格の僕とでも長く友人を続けてくれているんだろうけど。

「佐伯!おい、佐伯光太郎ってばよ」

 不意に声を掛けられて、僕はハッとしたように傍らで不機嫌そうに眉を寄せて立っている国安を見上げた。

「え?ご、ごめん。どうかした?」

「どうかした?…じゃないって!だから、今度の夏の休みにさ、俺の田舎に行くんだろ?」

「あ、うん。悪いんだけど、お邪魔させてもらおうって思ってる」

「ウチは全然、悪くなんか思ってないって。その代わり、弟妹たちのお守は必須だぜ?」

 国安は腕を組んでニヤニヤと笑ったけど、不意にハッとしたように口を噤んで、バツが悪そうに顔を顰めた。小さな声で「ごめん」と言う。

「気にしないでよ、国安。もう、1年以上も前のことだよ…」

 忘れるには、まだ日も浅い月日だ。だからと言って、国安に失言だと言って腹を立てる気にはなれない。いや、些細なことにも気を遣ってくれるこの友人が、誰よりもありがたいと思った。

「ありがとう、国安」

「何がだよ」

 訝しそうに唇を子供のように突き出す、弟が良くしていた子供染みた仕草に苦笑しながら、不思議と憎めない友人を見上げて僕は笑った。

「国安の実家に泊めてもらうこと。神寄憑島の民俗的な言い伝えにはずっと興味があったんだ。弟さんたちの面倒はもちろん見るよ!」

 僕がニコッと笑うと、国安は幾分かホッとしたように表情を緩め、偉そうに胸を張りながらよしよしと僕の頭を撫でた。

「聞き分けが大変宜しい。そうでなくっちゃね」

「何を言ってるんだか」

 僕が笑うと、国安は人の悪そうな笑みを浮かべて行ってしまった。

 この友人と話をしていると、僕は良く笑う。
 弟と一緒にいるときは、いつも俯いてばかりいるのに…
 でも、僕は良く考えてもいなかった。そんな風に、俯いてばかりいた僕のことを、弟はその時、いったいどんな表情をして見つめていたんだろう。
 彼のことを省みることもせずに俯いてばかりいた僕、それはきっと、この罪を背負うには充分な理由だったのかもしれない。
 殺風景な部屋に戻った僕は電灯を点けると、コンビニの袋を小さなコタツ兼用のテーブルに投げ出して、センベイ座布団の上に胡座をかいて座った。
 午前1時過ぎだといいテレビもしていないけど、適当なチャンネルに合わせて旧式の冷房のスイッチを入れた。ガタガタと音を立てて動き出す冷房の風も、あんまり役に立ちそうもない蒸し暑い夜だった。
 この安アパートは、安いくせに風呂とトイレだけはちゃんと常備されているんだ。そういった物件を探した賜物かな。
 その代わり、築年数はかなりいってたりする。
 いいんだ、住めればそれで。
 バイトはハードでキツいけど、それでも何もせずにジッとしているよりも時間が有効に過ごせる。親に頼り切ることもできたけど、条件として実家から通うのだけは勘弁して欲しかったから、2・3件のバイトぐらいなんてことはなかった。
 風呂に入ろうか、それとも先にコンビニの弁当にしようか…僕がそんなことを考えていたちょうどその時、突然、ドアがノックされた。
 ドキッとする。
 こんな真夜中にいったい誰が来るんだろう?
 薄いアパートの木のドアにはスリ硝子が嵌め込まれていて、切れかけた電灯にチラチラと人影が浮かび上がっては消える。

(人…?)

 どうやらちゃんとした人間のようで、僕は幾分かホッとして立ちあがった。
 そうこうしてる間でも、ノックは続く。
 気短い人なのか、だんだんと大きくなっているような気がする。
 こんな安アパートだと音が響くし、追い出され兼ねないから僕は慌ててドアを開けた。開けて…固まってしまった。

「よ。元気してたかい?光太郎」

 弟は、あの頃と少しも変わらない屈託のない表情をして笑っていた。

「わっ!?光太郎!?」

 これは酷い悪夢なんだと、僕は後ろに倒れながらぼんやりと考えていた。

◇ ◆ ◇

 それでもすぐに意識を取り戻した僕は、弟の腕に抱き上げられていることに気付いてギョッとした。これは誰かの悪い冗談じゃないのかと叫びたかったけど、彼のやわらかな特徴のある猫っ毛や、色素の薄い瞳の色は、確かに懐かしい弟だった。
 死んだはずなのに…でも僕は死体を直接見ていない。
 母さんたちは見たけれど…あれは人違いだったのか?
 そんな、まさか…

「お、目が醒めたか?突然だったからさ、驚いたんだろ」

「き、匡太郎?」

「うん、そうだよ。どうしたんだよ?弟の顔を見忘れちゃったのかい?薄情だなぁ」

 愉快そうにクスクスと笑って鼻先を僕の頬に擦りつけてくる。弟のこの癖は、あの頃からちっとも変わっていない。

「ひ、一先ず降ろしてくれないか…?」

 部屋の中央まで来たのに降ろしてくれようとしない弟に、僕は慌てたようにそう言って降りようとした。

「やだよ。せっかく光太郎を久し振りに抱き締めてるのに…もう少しこのままでもいいだろ?」

 お姫さまのように横抱きにした僕の身体を抱き締めるようにして頬を摺り寄せてくる弟に、不思議と気持ち悪いとか、怖いと言った感情は湧いてこなかった。幽霊や、超常現象にめっぽう弱い僕だというのに。

「…生きていたのか?」

 恐る恐る訊ねると、弟の茶色い瞳が一瞬だけ影を落とした。

「判らないんだ。気付いたら包帯が顔中に巻かれていて、ドライアイスとか入った棺桶の中だった」

「あの日。生きかえっていたのか!?じゃあ、どうして黙って出て行ったりしたんだ!」

 思わず大きな声で怒鳴って、僕は慌てて口を噤んだ。真夜中の1時を過ぎているのに、大声なんか出していたら隣りの住人から怒鳴り込んで来られる。ここが壁の薄い安アパートってことを忘れないようにしないと…

「普通なら棺桶の周りに人がいるもんだけど、あの日はちょうど皆いなくてさ。こっそり出ていったんだ。サンドバックを身代わりにして」

 淡々と語る弟に、僕は開いた口が閉まらないほど唖然とした顔で覗き込んだ。
 逃げるように家を出て行ったのか?なんで、そんな必要があったんだ!?
 いや、ちょっと待てよ。
 確かにあの日、僕は家族で弟の骨を拾ったんだ。アレは夢でも幻でもない…サンドバックが身代わりなんかになるわけがない!

「嘘だ!僕はお前の骨を拾ったんだよ!?白木の箱に収まった骨壷はあたたかくて、まるでお前のぬくもりが腕の中に帰ってきたみたいで凄く不思議だった。あんな思い、もう二度としたくないって思ったんだ。だから、僕の記憶違いであるはずがないよッ」

 僕が必死で見上げると、弟は少しだけ驚いたような、切ないような…とでも複雑な表情をしながらも、嬉しそうにはにかんだんだ。

「スゲーな。光太郎がちゃんと俺の顔を見て話してるなんて、どんな奇跡より嬉しいよ」

 そんな、ささやかなことぐらいで嬉しそうな顔をして、はぐらかそうとしたってダメなんだからな!僕は、いったい誰の骨を拾ったんだ!?

「えーっと…まぁ、本当は病院の霊安室で目が覚めたんだよね。ちょうどその時、院内を徘徊していたら解剖用に身元不明の死体があってね。その、拝借したと言うかなんと言うか…」

 歯切れの悪い弟なんか初めて見るけど、僕はポカンッとしてあんぐり口を開いてしまった。

「じ、じゃあ、あの日病院が騒いでいて…暫くニュースになったあの事件の犯人って…」

「そ、俺」

 匡太郎はバツが悪そうに肩を竦めて溜め息を吐くと、観念したように頷いたんだ。
 え…でも、生きてた??
 生きていたんだったら…

「どうして、素直に生き返ったって言わなかったんだ!?」

「…ねえ、アニキ。俺の心臓の音を聞いてごらんよ」

 僕の凄い剣幕に少し圧倒されたような弟は、それでも酷くゆっくりとした口調で、僕の嫌になるぐらい重いイメージしかない黒髪に口付けてそう言った。
 心臓?
 僕は慌てたように抱き上げられたままで弟の心臓のある部分に耳を当てた。
 心音が───…しない。
 どう言うことだ?

「ね?これじゃ、嫌でも出て行かざるを得ないだろ?心音がしないなんて、よくて何かのモルモットにされちゃうよ」

「一理あるかも…でも、どうして…?」

 それ以上言葉の続かない僕に、匡太郎は苦笑を洩らして首を左右に振った。

「俺にもよく判らないんだ。この1年、色んな事をしながら、たぶん、生きてきたんだけど…なんの情報も得られなかった。風の噂で光太郎が一人暮しを始めたって聞いて、逢いたくてさ…いや、正直アニキを頼ろうって思ったんだ」

「僕を?」

 一瞬だけ思い詰めたように視線を伏せた匡太郎は、それでもすぐにいつものお調子者のような陽気な笑顔で頷いて見せたんだ。

「うん。ほら、光太郎って大学で民俗学を研究してるんだろ?死人返りとか、そんな話が言い伝えでないかと思ってさ。四国辺りとか…」

「僕の大学なんて高々知れた三流大学だよ…って、そう言うことも調べたんだね」

 まあ、当然と言えば当然だけど…誰かを頼る時、その人の身辺調査を欠かさないのが匡太郎の癖だった。
 滅多に誰も頼らない匡太郎だから、変なところで慎重になってしまうんだろう。

「…別に、だからって調べたわけじゃないよ。この1年、アニキのことはずっと見てたんだ」

「え…?」

 ドキッとした。
 僕が落ち込んで、自暴自棄になりながらあの大学に入ったことも、逃げるようにして実家を飛び出したことも、全部見ていたのか?

「光太郎…俺が死んだのは自分のせいだって自分を責めてただろ?違うよって言ってやりたかったけど…こんな身体だし、光太郎はオカルトに弱いしで、ずっと出てくるのを躊躇っていたんだ」

 匡太郎は俺の髪を懐かしむように頬摺りをしながら、抱き上げている腕に力を入れた。そう言えば、そろそろ疲れないんだろうか?
 いくら僕が匡太郎よりも身長が幾分か低いと言っても、体重自体は平均的な重さを持ってるんだ。普通の男だってそろそろ疲れてくるだろうに、匡太郎は極めて平然とした表情をして、この狭い部屋の中央で僕を抱え上げている。

「でもさ、アニキ。今度、あの国安とか言うヤツと旅行に行くんだろ?いても立ってもいられなくてさ、出てきちゃったんだ」

 不貞腐れたように唇を尖らせる、いつもの拗ねた表情を見上げながら僕は困惑した表情をした。
 国安は、あの日、匡太郎との約束をすっぽかして遊んでいた友人だ。
 匡太郎にとって、もしかしたら天敵みたいに思ってるんじゃないだろうか。

「最初の方は倒れたけど、もう大丈夫だろ?心臓さえ気にしなかったら俺は佐伯匡太郎だし。ゾンビみたいに腐ってるわけでもない」

「あ、ああ。でも、国安にはなんて言おう?今度行くアイツの実家のある神寄憑島には興味深い言い伝えがあるんだよ。だから、絶対に行かないと…」

 お前を見れば、なおさらだ。

「言い伝え?どんな?」

 匡太郎が不満そうに眉を寄せたが、声音の裏には好奇心がちらついている。

「死人返り」

「ビンゴ?」

 僕の言葉にニヤッと笑った匡太郎は、躊躇わずに頬に唇を押し付けてきた。

僕の大事な弟が地獄から蘇ったのは。
あの日の夜のように、やけに蒸し暑い熱帯夜だった。