街の明かりは細かな金粉のように眩い金髪を闇夜に浮かび上がらせて、男がこの世ならざる者の美しさを隠し持つ、得体の知れない存在を際立たせていると彼女は感じている。
「おかしいわよ、アシュリー」
ポツリと呟く少女の方に、ビルの屋上から恐ろしげもなく地上の光を見下ろしていた男、巨体をオフホワイトのコートに包んだアシュリー=R=シェラードが視線を動かした。
「エレーネ?」
「おかしいのよ。どうしたって言うの?今日のあんたはおかしいわ」
少女はまるでダンスでも踊るかのように屋上のフェンスにヒョイッと飛び乗ると、心許無い足取りでふらふらと細い柵の上を歩く。
「なにかしら?あの人間の坊やかしらね。そうね、きっとそうだわ」
考え事をするようにふらふらと柵の上を行ったり来たりする少女エレーネは、漠然としない答えを導き出して首を傾げている。そんな彼女を何か言いたそうに、しかし言葉が見つからないのかアシュリーは苦笑しながらただ見上げていた。危なっかしい少女の行動を咎めるでもなく、アシュリーはポケットに両手を突っ込んで手持ち無沙汰に立っているだけだ。
「鈍感な坊やだものね。あんたが殺し屋だって知っていても離れない。それってまるで恋みたいじゃない?」
クルクルとダンスを踊るような足取りでフェンスを行き来する小柄な影が、コンクリートで固められた冷たい地面に微かな影を落としている。
「でも違う」
即座に否定したエレーネは鼻先でクスッと笑って、苦笑する相棒の微かな苛立ちに気付いていた。
「ねえ。どうするの?この世は不思議がいっぱいで戸惑っちゃうのよね。たくさんのことに押し潰されて、人間は何に変化しようとしてるのかしら?その人間を守るために生きてるあたしたちの存在って何かしらね」
星すらも見えない都会の夜空を振り仰いで、エレーネは白い息を吐き出す自分を不思議そうな顔をして首を傾げた。両手を広げて深呼吸したとしても、その肺は黒く霞むだけだと言うのに。
「ねえ!あんたがただの殺し屋じゃないって知ったら、あの坊やはどうするのかしら?」
「…さあ」
アシュリーは広い肩を竦めて見せると、ほんの少し、自嘲的に笑ったようだ。
「殺し屋に“ヘン”の文字がオマケにつくだけじゃない?光ちゃんのオレに対する認識なんてそんなモンだし」
「ヘンな殺し屋?もう、ホント、鈍感にもほどがあるわね」
エレーネはまるで自分が貶されでもしたかのように見事な柳眉を吊り上げると、不意に悲しそうな双眸をしてアシュリーを振り返った。
「でも…妖魔の殺し屋、よりは幾らかマシね。愛する人間に、怯えられてしまうことほど哀しいことはないもの」
きっとあのヴァンパイアも…途切れた言葉の先を追うようにエレーネを見上げたアシュリーは、彼女が諦めたように溜め息を吐くのを見た。幼い少女の面影を宿す整った風貌には疲れが見え、彼女が年端もいかぬ小娘の表面を持つだけの大人の女だと言うことを物語っているようだ。
「人間に恋をするなんておかしいのよね。あたしもあんたも、だからこんな仕事に就かざるを得なくなっちゃうのよ。妖魔からは爪弾き、でも恋い慕う人間は全くの無頓着…ねえ、それってホントは幸せなことなのかしら?」
「100年考え続けた姐さんに判らないことを、どうしてオレが判るワケ?まあ、なんにせよオレは、光ちゃんが鈍感だろうとなんだろうと、傍にいられたらそれだけで幸せだなんて思わないけどね」
腕を組んでどうでもよさそうにストーカー紛いの執着心を見せるアシュリーを、エレーネは目を丸くして見ていたが、不意に夜空に木霊するほど高らかに笑った。
「あっははは!同感よ。それ、同感!」
暫く笑っていたエレーネは肩で息をしながら目許の涙を拭って、夜空に瞬く小さな星の影を見上げて白い息が消えるのを見送った。
「モノにしなくっちゃね、意味はないわ」
「…エレーネ。オレたちが追っているヴァンパイアってのは…最近騒がせてるアレ?」
言い難そうに訊ねるアシュリーを見下ろしたエレーネは、安定感のない柵の上に腰を屈めた中腰の態勢で座ると、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべてアシュリーの頬を指先で擽った。
「あらあら。あの坊やが追ってるのも確かヴァンパイアだったわね?」
「…」
頬を弄ぶ指先をそのままに、アシュリーは無言で、ただ口元に皮肉げな笑みを浮かべただけで反論や言い訳を試みる様子はない。
情報収集は相変わらずヘタで、しかしエレーネにはいつまでも愛おしいアシュリーの仕種だ。
無口な少年が凶悪な双眸を抱えて自分の前に現れたのは、彼が人間の歳で言うところの8歳の時だった。
傷だらけで、まるで野生の獣が傷付きながら、敗北に打ちひしがれている…そんな雰囲気を持つにはあまりに幼くて、一度は母として我が子を抱き締めたことのあるエレーネには痛々しくすらあった。
何に立ち向かい、何がこの少年をこれほどまでに打ちのめしたのか、そしてどう言う経緯でギルドに拾われたのかエレーネには知らされていない。ただただ、途方もなく立ち竦む凶悪な殺意を内に秘めた少年を見守ることしかできなかったと言うのが、ことの次第なのだ。
現在でさえ、今だ癒えない傷を身内に隠し持つアシュリーの双眸が時折、抑えきれない狂気を覗かせて殺意を滾らせることもあるが、不思議とあの槙村光太郎と言う人間に出会ってからは忽然と鳴りを潜めてしまっている。
牙を抜かれた野獣の本性は今だ計り知れないが、エレーネはその方がいいのかもしれないとも思うようになっていた。光太郎の性格の愚鈍さが、アシュリーの何かを溶かしているのなら、それは以前の自分に酷似しているから安心と不安が綯い交ぜになる。
先立たれたら…マイナス思考は身の破滅を暗示する。
エレーネは心中で首を左右に振ると、ささやかに苛立つアシュリーにうっとりするほど極上の笑みを見せた。
「さあ、どうかしらね?あたしを追ってきて捕まえな。そうしたら、飛びきり上等な情報を教えてあげる」
スクッと立ち上がったエレーネは吊り上がり気味のアーモンドアイをうっすらと細めて笑うと、徐に両手を広げ、そしてトンッとフェンスを軽く蹴って宙に身体を踊らせた!
圧倒的な風圧に怯むこともなく空中で一回転したエレーネは、まるでそこに何かあるかのようにスムーズに行動した。ビルの壁に器用に両足をついた彼女は、グッと力を込めてその壁を蹴った。その反動のまま凄まじい勢いで対面するビルの屋上に飛んでいく。
踊るように舞う彼女は対面のビルの屋上に着地すると、ホットパンツから伸びる素足を惜しげもなく晒しながら腰に片手を当てて、遠目に見えるアシュリーに投げキッスを送る。ウィンクはオマケだ。
そんな彼女を冷ややかな碧眼で見送っていたアシュリーは小さな溜め息を吐くと、それでも一瞬脳裏を掠める笑顔を思い出して首を左右に振った。
「飛びきり上等の情報を抱えて帰れば、あるいはキス以上の期待ができるのかな…」
呟いて、なんとなく情けなくなったアシュリーは泣きたくなった。
「ああ。オレってばつくづく働くお兄さんだなぁ…ってマジで思っちゃうよ。尻尾振る狼ってのも悪くないかもね」
狼に成り下がってもいいと思えるほど、光太郎のどこにそんな魅力があるのか…ハッキリ言って彼には判らなかった。また、判らなくてもいいと思っている。
敢えて『犬』と言わないところが、彼の下心を如実に物語っている…などと言うことはどうでもいいのだろう。
アシュリーにとって光太郎は、自分以上の何かなのだ。
それでいい。
「さってと。エレーネ姐さんをサッサと捕まえて、ヴァンアパイアを召し取ったら極上のご褒美をもらおう」
今夜はきっと、いつもよりも生臭い夜になるだろう。
そうして明け方に帰るあのマンションで、少し眠たそうな双眸をした最愛の相棒は、仕方なさそうな顔をしてバスタオルと大き目のシャツを手渡すんだろう。
風呂に入ってスッキリすれば、嫌なこた全部忘れるって。
憎めない笑顔のオマケ付きで、そのことを教えてくれたのは光太郎。
あどけない顔立ちをした、最愛のひと。
明日の朝、もたらす筈の最高に上等なお土産に、光太郎は飛びきりの笑顔をくれるだろうか?
どんな顔をするのかな、あのヒトは。
それは考えただけでもウキウキする、俄然、この後の仕事にヤル気を起こさせてくれるちょっと危険な妄想だ。
命の重みよりもアシュリーにとって重要なのは、まさにそのことだなどと光太郎が知るのは、もう暫く後のことで、エレーネすらも開いた口が塞がらない間抜けな状況も彼にとってはどこ吹く風で。
カシャン…と柵を微かに鳴らせて身軽に飛び乗るアシュリーの重さをまるで気にした風もなく、フェンスは細やかに振動している。確かに何かが乗ってはいる様子だが…
「やれやれ。オレってばなんてケナゲ」
軽く肩を竦めたアシュリーのふざけた独り言は吹き上げる風に掻き消されて夜空に吸い込まれて行く。だがそれよりも一瞬早く、アシュリーの巨体がゆっくりと眼下の小さな光の河にダイブした。
恐ろしい風圧を心地よさそうに双眸を閉じるアシュリーの見る一瞬の幻がなんであるのか。
確認できるのは彼本人。
光の河に吸い込まれて、エレーネは遠い別のビルの屋上で苦笑いしていた。