孤独の棲み処 (番外編)  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 孤独はよき隣人。
 常に傍らにあるものの、けして近付けない溝があって、だからこそ心地好い存在である。
 何もいらない。
 たった独りで生きることには慣れているのだから。
 それに、空っぽの身体なら幾つだって転がっている。
 そう言うのを夜毎拾って抱き締めれば、幾らか癒されるだろう。
 たとえそれがまやかしであったとしても、血塗れのオレには上等のご褒美だ。

 男は苦い吐息を噛み殺した。
 もう、何度目になるのか…それは曇天の空から今にも零れ落ちそうな涙のように唐突に、だが消え入りそうな溜め息。
 息は白くたなびいて、男はまるで途方に暮れている顔を隠そうとでもするように、コートの襟を立てて冷気を遮った。
 身震いしそうなほど、今日は寒い。
 いや、もちろん…それだけではないのだ、この寒さは。
 寒気、と言うよりは寧ろ、悪寒めいた予感。

「参ったな」

 呟きとともに、溜め息が零れる。
 男は灰色の空には不似合いの金色の髪に、冷めたアイスブルーの瞳で突きつけられている受け入れ難い現実を凝視していた。

「参られても困る。俺だって、十分参ってるんだ」

 唇を、まるで子供のように尖らせているのは…一見すれば、学生にも見間違ってしまうほど、童顔の顔立ちをした異国の青年。
 ああ、だが…と、男は思う。
 ここは日本なのだから、自分の方がよほど異国の顔立ちではないか、と。

(オレ、微妙に混乱してるのかな?)

 そんなどうでもいいことしか思い浮かばないほどには混乱しているのだろうと、男は自らを冷静に分析して溜め息を吐いた。
 いや、なんにせよ…

「取り敢えず、重いし。退いてくれる?」

 流暢な日本語でやんわりと咎められて、青年はたった今気付いたとでも言うように、ハッとしたのか慌てて金髪碧眼の男の上から身体をずらそうとした…が、青年の身体が男の上から退くことはなかった。

「…ッ!?」

 驚いたように双眸を見開いて自らの顔を覗き込んでくる青年の、素直な性格を示すかのように、サラサラのストレートの黒髪に指先を伸ばして、男はその厚い胸に青年の顔を押し付けた。

「ちょっと黙っててよ。こっちも結構、切羽詰ってんだよね」

 突然、空から降ってきた日本人らしい青年は、順応性があるのか、適応力に優れているのか…何れにせよ、言われたことを素直に飲み込んでいるようだ。

(騒がないのか。ヘンな日本人だなー)

 明らかに切羽詰っていると言うのに男は、それでも暢気にそんなことを考える余裕はあるのか、相変わらず溜め息を吐いて、たった今、ビルから悠々と立ち去ろうとする漆黒のベンツを垂れた双眸で憎々しげに睨み据えた。
 恐らく、これだけ密着しているのだから、その胸元に隠し持っている日本では珍しいだろう兇器の存在に気付いているだろうに、日本人らしい青年は声も出さずに寡黙に抱き締められている。
 その従順な仕種が…いや、違うなと男は思う。
 血臭の染み付いてしまったこの穢れた腕の中にあっても、騒ぐことも、暴れることもない小さなぬくもりを、そんな馬鹿なことがあるわけないと言うのに、愛しいと感じていた。
 恐らく、怖ろしくて声を出せないに違いないと言うのに、いったい自分は、いつからこんなにセンチメンタルになったと言うのだ?

(やれやれ、本当に参ったな)

 老若男女問わずに遊び好きな自分の嗜好を恨めしく思いながらも、どーせ今日の仕事は空振りなんだし、折角だからこの飛んで火に入る日本人を美味しく戴いてしまおうか…などと考えて、またひとつ溜め息が零れ落ちる。
 少し早めとは言え、規則正しい心音を響かせる小さなぬくもりを、手離すのは惜しいんだけど…と、男は参ったとでも言うように両目を覆っていた片手を外すと、漸く青年の身体を押し遣ろうとした…が、今度は日本人の青年の方が身体を退かそうとしない。

「…?」

 訝しそうに眉を寄せれば、言おうかどうしようかと逡巡しているようだった青年は、それでも意を決したように真摯な眼差しで男の碧眼を見据えながら口を開くのだ。

「アンタ…殺し屋なのか?」

「…」

 なるほど、やはり胸元の兇器はバレていたと言うわけか。
 しかし、だからと言って、もちろん男が動揺することはない。

「だったら?どうするって言うの??警察でも呼ぶかい」

 それこそ、心臓が凍りつくような底冷えのする冷ややかな双眸で覗き込んでくる瞳を見据えれば、小動物よりもいたいけな、犯罪には無縁に違いないだろう平和ボケした日本人は震え上がるに違いない。十分、計算され尽くしたシチュエーションだったと言うのに、殊の外、青年は怯えてはいないようだ。

(…オレの眼力に怯まない日本人?まさか、嘘でしょ)

 有り得ない出来事に、男はいよいよ、今度こそ本当に動揺しているようだ。
 そんなことはお構いなしで、日本人の青年は、やはり少し悩んでいるような双眸をして目線を伏せてしまう。

(なんだ、コイツ。よく見れば結構可愛い顔してるじゃない。あ、睫毛長い)

 どうせ、時間は有り余ってしまった。
 本日の仕事が不発なら、チャンスは明日でも明後日でも…男にとってチャンスなどありはしない。常に作っていくものなのだから、毎日がチャンスだと思い込んでいる。
 だから、男は、この突然空から、正確にはビルから降ってきたこの日本人の青年をもう少し観察してみようと思ったようだ。
 いや、確かに、平和ボケしている日本人なら、ビルから降ってくることなどけして有り得ないのだが、如何せん男は、遠い国から来たばかりで、日本のことなど実は少しも判ってはいないのだ。

「人を殺すのは…その、辛くないのか?」

「はぁ?急にナニ、言っちゃってるワケ??辛かったら人殺しなんてできないでショ」

 まあ、もちろん普通なら。
 だが、垂れ目の男は呆れたような顔をするだけで、別段気分を害している様子はない。もっと、できればこの珍妙な生き物の動作を観察してやろうと、もしかしたら考えたのかもしれない。

「そうか…でも、俺なら辛いと思う」

「へーぇ。そりゃあ、日本人だし?仕方ないでしょーね」

 殊更、馬鹿にしたように言い放つ異国の暗殺者に、青年は暫く困惑したような顔をしていたが、それでも毅然とした表情をして頷いた。

「いや、悪かった。そうだな、それはアンタの仕事なんだ。よく知りもしないで、口出しして悪かった」

 男の上に馬乗りになった姿では迫力はないものの、それでも、その言葉は男の中で眠る何かに微かに触れたようだった。

「今日は本当に悪かった。仕事の邪魔をしてしまっただろ?その…死ぬなよ」

「…え?」

「日本には、袖触れ合うも他生の縁って言う言葉があるんだ。せっかく、俺はアンタに出逢ったんだし、死んで欲しいとは思わない」

 青年は、優しい双眸でクスッと笑った。
 そんな優しさを感じたのは、両親が死んでから一度もないと、男はまるで遠い気持ちで思い出していた。日本人だと言うのに、青年の双眸は、遠い昔に見た懐かしさに似ている、と男は思う。

「もう一回笑ってよ」

「え?」

 青年の滲むように優しい双眸がふと、真摯さを取り戻して、その時になって漸く身体の上から退こうとしたのに、またしても男の大きな掌がそれを引き止めた。
 そして、呟く。
 どうか…と。

「ダメ?もう一回、今みたいに笑って欲しいんだけど…」

 驚くほど真剣に、男が首を傾げると、日本人の青年は困ったようにソッと眉を顰めてしまう。

「ああ、違う。そうじゃない、そんな顔じゃないんだ」

 自分がどんな顔で笑ったのか、まるで理解できない青年が困惑したように動揺する腕を掴んで、まるで貪欲に餌に貪り付こうとする肉食獣のような獰猛さで噛み付くように言うと、男は唐突に寂しそうな顔をした。

「ダメか。そうだよな、誰だってオレにそんな笑顔はくれない」

 両親だけがくれた、あの幸福だった無上の笑みを、まさか行きずりの他人がくれるわけがない。今見たのは、たまに見る夢の延長、幻覚に過ぎないと男の唇から溜め息が零れた。

「…馬鹿だな。笑顔ぐらい、誰だってくれるさ」

 青年が笑う。
 まるで慈悲深い、滲むような優しさで。
 ああ…と、男は思う。
 それは、きっとこの青年の内面が滲み出ているのだろうと。
 きっと、この青年は怖ろしくお人好しで、だから、こうして闇でしか生きられない、自分のような殺し屋に目を付けられてしまうのだ。

「ねぇ、キスしてもいいかな?」

「へ?いや、ちょっと待ってくれ。どうしてキスなんか…あ、ああ、そうか。アンタ、外国人だもんな。キスは挨拶か」

 突発的なおねだりに動揺したように目を白黒させたのに、この日本人は、どんな思考回路をしているのか、だが男にしては好都合の誤解で納得したように瞼を閉じるから…震えるように、男はそのやわらかな唇に触れるだけのキスをした。
 まるで初心な少年のようなキスに、男は内心で動揺したように舌打ちしたが、瞼を開いた青年があんまり優しく笑うから、それはけして間違いではなかったのだと思った。

「また、逢えない?」

 それは、どんなにベッドを共にしても翌朝にはあっさりと忘れてしまう男にしては珍しい、誘い文句だった。
 自分のことを殺し屋だと気付いているのだから、きっと、断られると言うことは判っている。判っているのに聞いてしまうのは、このぬくもりと優しさを、どうしても手離したくないと言う身勝手な我侭だ。

「…」

 青年は僅かに戸惑ったように男の碧眼を見詰めていたが、下唇を突き出すようにして頷いた。

「そうだな。また、逢ってもいい。だってさ、アンタがちゃんと生きているかどうか、判らないってのも気分悪いしな」

 まるで行きずりの他人なのに、どうして、この日本人はそこまで男の生命を気にかけるのか…男は、この出逢いはきっと、運命なんじゃないかと、未だに信じたこともない胡散臭い言葉を信じかけていた。

(運命か…ああ、それも悪くないな)

 手離してしまった幾つかの大切なものたちを、この時になって男は、忘れ去っていた遠い記憶を鮮やかに思い出していた。
 あんなに優しかった人たちを亡くして、男の心には大きな穴がポッカリと開いていた。
 その穴からは、いつだって凍えてしまいそうなほど冷たい風が吹き出ていて、女たちを抱いては温かくしていると言うのに、寒くて寒くて…安眠することなんかまるでなかった。
 しかし、今…腕の中にこの青年がいるだけだと言うのに、ひとつに繋がっているわけでもないのに、どうしてだろう?男は今、満ち足りた幸福を感じている。
 じんわりと、開いてしまった穴を温めるように包み込んでくるこの感触をなんと言うのか…それを男は知っていた。
 どんなに望んでも、一夜限りの女や男どもではけして感じることはなかった、それは…
 『優しさ』なんだろう。

「俺は、槙村光太郎って言うんだ。アンタは?」

 あの大好きな笑みを浮かべる青年を抱き締めるようにして、男は呟いた。
 充足感に満ち溢れた笑みを浮かべながら…

「オレはアシュリー。アシュリー・シェラードだ。ヨロシク、コウタロウ」

 思いもしなかった。
 人間のぬくもりが、こんなに温かいなんて。
 オレの中には、確かに矛盾なく孤独が居座っている。
 開いた穴の奥底を棲み処にして蹲る孤独。
 だが、それでも。
 オレはきっと、忘れないだろう。
 この出逢いを、そして…あの優しさを。
 それがあれば、オレは生きていける。

─END─