グリフィンは仕事のない時はいつだって傍にいて、セックスをするか、或いは他愛のない会話を楽しもうとする。だが、その都度、あの天使のように清廉無垢な面立ちの死神は、身体を繋げていない時は決まって、ジョエルを大事そうに背後から抱き締めていた。
グリフィンがセックスをする時は即ち彼が何かに反応し昂ぶりが最高になったことを意味している。
たとえば、ジョエルがささやかな弱音を素直に漏らす時、強請られて、仕方なく愛の言葉を口にする時、その全てに於いてグリフィンはジョエルが抗おうと彼の全てを飲み干そうとするように抱くのだが…
(昨夜はそうか、怒らせてしまったな…)
ギシッとベッドを軋ませて立ち上がったジョエルは、自由の利かない左足を引き摺りながらあの鉄壁のように完璧な殺人劇を繰り広げた張本人とは思えないほど、無造作に物が散乱している床を確かめるように踏みしめて窓辺までのろのろと歩み寄った。
意のままにならなければ子供のように癇癪を起すグリフィンは、その怒りの衝動を破壊や殺しからジョエルの身体に激情を刻み込むことに変え、それに満足するようになっていた。
激しく抱かれた朝は腰の鈍痛が酷いが、今朝には壊れたような純真の微笑を浮かべていたのだから機嫌はどうやら良くなったようだ…が、それでも一抹の不安を覚えてジョエルは無意識に親指の爪を噛んでいた。
ほぼ全裸の出で立ちではあるが、窓辺に凭れて見下ろした先、件の花屋がけぶるような朝もやの中、早くから開店の準備を行っているようだ。市場から届いたばかりの瑞々しい花を黒髪のエキゾチックな面立ちの青年が並べているのが見えた。
『毎朝、何をそんなに熱心に見ているんだ?』
グリフィンは他愛のない会話を好んだし、ジョエルも彼の話を聞くのは不愉快ではなかった。
唐突な質問もいつものことだったが、何故かこの時、彼はその質問に答えたくなかった。 長らく彼の脳細胞を侵していた薬が齎す闇の指先は、清廉な朝の光も、蹲るような夜の闇も、世界の美しさも醜さも全て綯い交ぜした人間の惨たらしさも何もかも、とてもよく似合う殺人鬼の抵抗によって少しずつ破壊されていた。
だからこそ、説明のつかない感情をグリフィンは理解してくれなかった。
酷い癇癪を起して着ていたバスローブを無残に引き千切り、まるで嵐の中に捕らわれてしまったように激しく抱かれた昨夜を思い出して、ジョエルは微かに眩暈を覚えた。
ましてや、体内に残った血液混じりの残滓が素足に垂れてしまえば、そんな浅ましい自分の姿に舌打ちしか零れない。
(そんな風にされても、もうアイツを憎んでいない俺もどうかしている…)
腕を組んで溜め息を漏らし、そろそろ目覚め始めた街は朝靄の中で何事もない日常の顔を覗かせ始めていた。ジョエルは隔離されてしまったこの非日常の世界から、羨むようにそんな街並みを見下ろしていた。
血の匂いがする。
玄関の扉が開いて真っ先に感じたのはその思いだった。
「グリフィン…」
思わず口を開いてしまうと、気難しくて辟易するチャーミングなモデルのお相手にうんざりしたような顔で戻ってきた、この部屋の、いや、今やジョエルの支配者であるストイックでエキゾチックな美しさを持つ、痛々しい火傷の痕を惜しげもなく晒すグリフィンが形の良い眉をひょいっと上げて見せた。
「どうかしたのか?」
ただいまもなく、口元を歪めて嗤うその仕種に、図らずもFBI時代に培った捜査官の勘がむくりと不穏に首を擡げてきた。
「…どうかしているのはお前じゃないのか?」
清潔な淡い青色のリネンのシャツに洗いざらしのジーンズ姿のジョエルをグリフィンは物珍しそうに繁々と眺め、肩から下げていた機材の詰め込まれた重そうな鞄を床に降ろしながら首を傾げて見せる。
「オレが?どうしてそう思うんだ」
思惑の窺えない無表情で着ていたコートを先ほどジョエルが時間をかけて掃除した床に脱ぎ捨てながら、暗い色の髪を掻き揚げて、不穏に揺らめく淡々とした双眸で見つめられてしまうとジョエルは無条件でコクリと息を呑んだ。
だが、ここで怯むワケにはいかない理由がある。
「元FBI捜査官の勘だ」
脱ぎ捨てた闇色のコートを拾い上げながら呟けば、途端にグリフィンの剣呑とした表情が和らぐ…とは言え、それは一過性のもので、長身の美丈夫は相変わらずの無表情で肩を竦めて見せた。
「へえ、それで?オレがどんな具合でおかしいと思うんだ?」
あくまでもジョエルに答えを導き出させたいと考えているのか、グリフィンはヒントすら与えずに真摯に見つめてくる。
「お前は俺に嘘を吐いているだろう」
居た堪れなくなって目線を伏せながら呟くと、途端にグリフィンの感情が爆発してしまった。
「嘘だと?!」
突然のことに、漸く薬が抜けようとしている身体とは言え、長いこと心神耗弱状態にあった彼の思考回路はグリフィンの激情に追いつくことができず、まるで嵐にでも攫われるように突発的に激しく壁に押し付けられて両腕を拘束されてしまうと、その行動だけで呆気に取られてしまうしかない。
反撃する余地はないのだ。
「……ッ」
言葉を出すことができずに僅かに喘ぐように息を漏らすジョエルの顔を覗き込んで、グリフィンは忌々しそうに整っている柳眉を顰めている。その暗い激情を宿した狂気の瞳を見詰めれば、どうやら自分は踏み込んではいけない彼の地雷の上を踏み締めてしまったらしいと気付いた。
「このオレがお前に嘘を吐いていると言うのか?!…こんな、いつもは着ることもない服を着て、お前こそ何処に行こうと企んでいるんだ!!?」
「…え?」
ギリギリと掴まれている手首への力は抜けず、とは言え、ジョエルは驚いたように歯軋りするように癇癪を起す子供のようなグリフィンに首を傾げてしまった。
「花屋だろう!オレが知らないとでも思っていたのか?男を知らない身体だったくせに、オレに抱かれて他の男が欲しくなったんだろうッ」
思わずカッとくる発言であるはずなのに、長らく薬の虜になっていた脳みそはその言葉に反応することはなく、それどころか、ジョエルはグリフィンが斜め上の考えでもって嫉妬していることが不思議で仕方なかった。
ただ単に、いつものだらしないバスローブ姿でいつまでも仕事帰りのグリフィンを迎えるのも、それこそが何やら退廃的で陰鬱な気がして、部屋を掃除して小ざっぱりして、たまには元気に彼を迎え入れてやろうと考えた思いが、どの辺りでグリフィンの気に障ったのかさっぱり判らないのだ。
もしくはグリフィンとしては、ジョエルのバスローブ姿が気に入っていたのだろうか。
「…お前は何を言っているんだ。どうして俺がお前以外の男を欲しいなんて考えるんだ?」
「お前がッ!」
掴んでいた腕を離して、両拳を握りしめてダンッ!と力任せにジョエルの頭を挟んだ両脇の壁に打ち付ければ、ともすれば古いアパートの壁など造作もなく穴が開いてしまうのではないか。
恐怖に麻痺している脳は恐ろしさも感じず、ただただ、いつもは冷静沈着で飄々として、物事の機微になど一切関心を持たないグリフィンの、そのたまに起こる理解不能な癇癪、彼の唯一の感情の発露がジョエルには何故か嬉しくて、暗い焔の宿る双眸を見詰めながら眉を顰めていた。
「毎朝熱心に見ていただろう!だから今朝、花屋の話をしたんだろ?!花屋の男のどこがいいんだ!?さあ、言えッ」
唐突に顎を掴まれて凄むように覗き込まれても、ジョエルはやはり何にグリフィンが腹を立てているのかがよく判らないでいる。
しかし、息がかかるほど近くに、少し動けば容易にキスすらできる距離で凄まれるのは、その時になって漸くジョエルはグリフィンが本気で腹を立てて癇癪を起しているのだと言う事実に気付いて瞠目してしまった。
(そうか、本当はまだ昨夜のことを引き摺っているのか)
「馬鹿なヤツだな、お前は」
「なんだと?」
不意にワントーンは低くなった声音と、頬に火傷の痕が残るとは言え綺麗に整った面立ちには凡そ似つかわしくない不穏な表情を孕んで、グリフィンはジョエルの顎を押さえつけたままでますます剣呑と彼を睨み据える。
「あの花屋を見ていたのは…ッ」
「?」
そこで思わず息を呑んだのは、自分がどうしていつも花屋で懸命に働いているあの青年に興味を持ったのか、自覚してその事実に怯んでしまったからだ。
認めるには随分と勇気が必要だったが、今更、この壊れかけた心身を心から必要だと言うグリフィンに、自分が恥じることなどもう何も有りはしないと気付いてジョエルは思わず笑ってしまった。
その仕種に、グリフィンがますます憤りを持ったとしても、ジョエルは気にならなかった。それどころか…
「あの青年がお前に似ていたからだよ」
ふと、優しい気持ちになってジョエルは腹立たしそうなグリフィンの片方の頬を掌で包み込んだ。
「顔とか全然似てないんだがな。なんと言うか、直向きで、素直で…そんな仕草を見ていると、離れていてもお前を傍に感じているような気持ちになっていたんだ」
「…え?」
少し面食らったように双眸を瞬かせたグリフィンは、それまでの険悪な表情を引っ込めて、次いで、何が起こっているのかいまいち判らないと言いたそうな、少し不安そうな顔をして、握りしめていた拳を開くと恐る恐る苦笑するジョエルの頬を両手で包み込んだ。
「なんだって?」
「…ったく、とうとう言わされてしまったな。花と同じだよ。花屋に並ぶ花は先入観や思い込みでいつも同じだと思ってしまいがちだが微妙に違う、少しずつ変化がある。だが、根幹は一つなんだ。花は花。お前はお前だっていつも花屋を見て感じていたよ。彼を見てお前を思い出しても、彼はやはりグリフィンではなく彼なんだ。だから、お前が帰って来る度にそれは紛れもなくグリフィンで、だから俺は嬉しいと感じるんだろう」
ジョエルにしてはやけに長く話していたが、彼にとってそれは照れ隠しに過ぎなかったのだが、グリフィンには違うように感じ取れていた。
それは、彼がいつも強請って与えられていた上辺だけのものではない、ジョエルからの、真心の籠った、それは愛の告白なんだろう。
「オレを愛しているのか?」
ふと、身体を重ねる度に、他愛のない話の合間に、幾度となく確かめるように口にしていた言葉がグリフィンの唇から零れ落ちていた。
熱に浮かされて、或いは、冗談に紛れて曖昧に返されていた返事で、元は誰かのものになってしまっていたジョエルなのだから、その言葉だけで満足なのだろうと諦めていたグリフィンは、ジョエルには信じられないだろうが、否定される恐怖に戦きながら呟いてしまっていた。
真摯で、直向きで…凡そ狂気など垣間見ることもできない必死の双眸で覗き込まれて、ジョエルは胸の奥に蹲るやわらかい何か、グリフィンと暮らし始めてからずっと居座り続けていたものの正体を漸くハッキリと理解することができた。
「この胸の奥にある消すことのできない感情が愛だと言うのなら、俺はお前を愛しているんだろう」
瞼を閉じて照れ隠しに言い放つジョエルが震える唇に口付ければ、ああ…と、グリフィンは溜め息に似た吐息を零して、暗い狂気を秘めた双眸を閉じる。
求めていたものは炎のように揺らめいて輝く光だったはずだ。
闇の中でしか息をすることもできない自分だからこそ、ジョエルを光の中で輝かせることができると本気で考えていた。
だが、本当はそんなもの欲しくなどなかった。
リサを焼き殺したあの日、必死で自分を追い縋っていたあの一途な眼差しを手に入れて、彼の愛人でも他の誰でもない、自分だけをその深い海のような瞳に焼き付けたかった。
リサを求めて去っていく後姿を見た時の衝撃をジョエルは知らないだろう。
『行くな、オレを求めろ』と言ってその腕を掴んで、できればこんな風に閉じ込めてしまいたかった。
ポリー先生の所から盗み出した声を聴いて、カルテを見て、全てを手に入れてしまいたいと決意したことなど、誰も知らない。知らないはずだ。
だが…ああ、そうだ。
本当に欲しかったものは炎でも光でも彼がFBI捜査官として生きる意味でも彼の愛人でもポリーでも、ましてや都会の片隅で孤独に埋もれて生きる女たちなんかじゃなかった。
そんな全てが欲しいと思ったわけではなかった。
グリフィンが心から欲したのは、そう、ジョエルだけだったのだ。
息もできないほど抱き締めはしたものの、不意にグリフィンはその身体を離して、それから首を左右に振って見せた。
「?」
幾分か訝しそうに眉を顰めはしたものの、自分の言葉はグリフィンを傷付けたのか、もしくは迷惑だったのか…グリフィンは本当はジョエルが思っている感情ではない、何かもっと違うものを欲していたのではないか?
彼は稀代の天才で殺人鬼で、FBIの目などいとも容易く掻い潜って実に10年近く逃げ続けていた。自分とのことさえなければ、まんまと逃げ果せたに違いない。
いや、そう言った意味であれば、グリフィンは確かに完全犯罪を完遂してジョエルともども死者として生き続けている。
そんな天才が考えることなのだ、凡人のジョエルでは窺い知ることのできない感情の機微があったとして、何らおかしなことはないだろう。
「…すまない、グリフィン。今日の俺はどうかしていた。お前が迷惑なら俺は」
「迷惑だって?」
腰に片手を添え、額を片手で覆って俯いていたグリフィンは、不意に顔を上げて複雑な表情でどうやら笑ったようだったが失敗していた。
首を傾げるようにして苦しそうに笑う彼の、そんな顔を見たことがないジョエルは瞠目するしかない。
「嬉しいんだよ。これ以上はない程にな。オレは今とても幸福で幸せなんだ。ジョエル、オレは今、生まれて初めて、今日ここで死んでもいいとさえ思っちまったよ」
ジョエルの開いた目が、これ以上はないほど大きく見開かれた。
目を瞠るジョエルの仕草にもお構いなく、グリフィンは片手で自らの顎を掴んで瞼を閉じて苦しそうに微笑んだ。
「あのままお前を抱き締めていたら、オレはきっとお前を殺していた。これが夢だったら、オレの都合のいい幻聴だったとしたら、オレは自分が何を仕出かすか判らなくて怖くなったんだ」
「お前は…」
ふと、ジョエルは怯えて震えているまるで迷子になってしまった子供のような、迎えに来てくれた親に素直に喜びたいのに喜べない、そんな仕草で立ち竦む、身体ばかりが大きくなっているグリフィンを素直に抱き締めたいと思った。
「どうして俺は気付かなかったんだろうな?こんなに傍にいたのに」
ジョエルは微笑んで、古傷に自由の利かない左足を引き摺るようにしてグリフィンに近付くと、微かに震えながら自分を見下ろす身体ばかり大きな子供のような彼を、自分から抱き締めていた。
「ジョエル…」
安心させるようにその背中を擦ってやれば、グリフィンは殊の外、驚くほど素直にその仕種を受け入れ、そして小刻みな震えが消えると同時に、彼は彼の愛する人の身体を壊れ物でも扱うような優しさで抱き締め返していた。
「オレはきっと、このまま死んでも悔いはないんだろう」
冷静沈着で自分の都合のためなら人殺しなど意にも解さない、能面のような無表情で感情を隠してしまっていた殺人鬼の頬に、その時初めて光の粒が頬を伝い落ちていた。
「いや、それは困るぞ。漸く、これからお前の期待に応えられるように前向きに生きようと決めたのに、お前に死なれたら元も子もない」
ムッとしたように眉を寄せて、涙を流すグリフィンの顔を覗き込んだジョエルが言い放つと、グリフィンは呆気に取られたようにポカンッと口を開いてしまった。
「え?」
「そう言えば、グリフィン。花屋の青年は無事なんだろうな?お前は俺がお前のものになるなら殺人などしないと約束したんだ。ちゃんと約束は守っているだろうな?」
ジョエルが抱き着いたままで心配そうに眉を寄せて言うと、それまで涙を流していたグリフィンは、そのままの顔でムッとしたように唇を尖らせた。
「やっぱりお前は花屋の男のことが気になってるんだな」
ぎゅうっと抱き締めてくる腕の力強さに呆れながら、ジョエルは思わず苦笑してそんな子供のようなキュートなグリフィンに言い返すのだ。
「そうじゃない。変な嫉妬なんかするな」
初めて見るグリフィンの綺麗な泣き顔を見詰めながら、ジョエルは、グリフィンが求めて止まなかった最高の笑顔を浮かべて、その深い蒼の瞳に漆黒の殺人鬼を留めたままで苦も無く言い放った。
「俺は他の誰でもないお前が心配なんだ。お前のことだから捕まることはないだろうけれど、それでもできれば俺といる間は、危険なことをして欲しくはないんだよ」
心を込めた愛の告白にグリフィンは頬を染めて嬉しそうに破顔したが、すぐにムスッと殊更心外そうな顔つきをして唇を尖らせた。
「殺してなんかないさ。少しの金を掴ませたら、喜んで仕事を辞めてくれただけだ」
「そうか、辞めたのならそれは本人の意思だから、お前のせいじゃないな」
グリフィンの口調は不機嫌そうで、しかし、その声音に怯むところがないと言うことは、どうやら強ち嘘は吐いていないと言うことだ。
ホッとしてグリフィンの頬に口付けるジョエルに、長い年月を経て、漸く手に入れることのできた最高の宝物を抱き締めながら、これ以上はないほどの無垢なる極上の笑みを浮かべたグリフィンはこの世のどこかにいるかもしれない神と言う名の存在に心から感謝するのだった。