Liar 1  -The Watcher-

 午前5時、を幾分か過ぎたシカゴの朝。
 夜明けは遠く、まだ肌寒い。
 ベッドを軋らせて起き上がった男は、床に脱ぎ散らかしていたシャツを素肌に羽織って軽く伸びをすると、同衾している眠りの浅い愛しい人を起こさないようにコッソリとベッドを抜け出して狭苦しいユニットバスに消えた。
 今日は朝早くから撮影の予定が入っている。
 気難しいモデルがカメラマンは頬に火傷の痕が残るハンサムな彼じゃなきゃ嫌だと、駄々を捏ねたらしくうんざりしながらの出勤と相成った。
 右頬に火傷の痕を惜しげもなく晒す、彼こそモデルにでもなればスマートなのにと周囲に溜め息を齎せる美形のカメラマンは、哀しいかなその火傷のせいで輝かしい未来を完全に奪われてしまった…と、思い込ませる凄味のある青年、憂いを秘めた漆黒の双眸にチラチラと燃える狂気の焔など微塵も感じさせずに、鏡の中の自分に今日も優雅に語りかけている。
 彼の名はデイビット・アレン・グリフィン。
 嘗て、ニュージャージーを、そしてこのシカゴの町を震撼させた連続殺人鬼その人である。
 にも拘らず、あっさりと死亡説を流して自由を勝ち得た正真正銘の完全犯罪者は、こうしてのうのうと実名を晒しながら本日も優雅で醜いモデルたちのお相手の為にせっせと出勤の準備をしている有様である。
 それもこれも、彼が成し得た最後の殺人…チャーミングで小憎らしいポリーと心中してしまった愛しい人が、毎日恙無く過ごせるようにリアルな金を儲けなければならないからだ。
 凡そ、そのストイックでエキゾチック、そしてとてもミステリアスな美貌には『金』と言う俗っぽい文字など似合わないと思えるのだが、誰かを震えるほど愛してしまえば所詮人間など俗なもので、彼は喜んでその焔に飛び込んだのだ。
 オマケに、天職とも言えるカメラマンともなれば、それを利用して大金を儲けるのに躊躇いなどはなかった。
 睡眠時間が僅かに2時間しかない愛しい人は、それでも最近は良く眠れるようになったのか、朝早く目覚めるグリフィンのちょっかいにも僅かに厭うぐらいで、安らかな寝息を立てているほどだ。

「驚くべき進化!このオレの成せる業さ」

 そう思うだろ?
 鏡の中の、醜い火傷が右頬を舐めている青年は、仄暗い双眸を僅かに細めてニヤリと嗤う。
 手に入れてしまえば飽きてしまうだろうと高を括っていたのかもしれない自分の、その驚くべき進化を驚嘆したのか、はたまた、甘えるように口付けを強請れば、仕方なく付き合うようになったジョエルの態度の変化を感嘆したのか…どちらとも取れるし、どちらでもない曖昧な思考は彼の内に蹲る異常性を醸し出しているようでもあった。

「…出掛けるのか?」

 シャワーを浴びて清潔なバスタオルで漆黒の髪を濡らす雫を乱暴に拭いながら出てきたグリフィンに、彼が身体の一部だと、何よりも得難い家族のような存在であり恋人である、暗いブロンドの髪を掻き揚げて慢性的な頭痛に顔を顰めるジョエルが声を掛けた。

「目が醒めてしまったのか?」

 ベッドを軋らせて縁に腰掛けたジョエルは、グリフィンの顔を見ようともせずに片手で顔を覆いながら溜め息を吐いている。起き抜けで、下腹部を僅かに覆う程度で引っ掛かったシーツだけが身体を覆う全てであるジョエルの、その姿は朝の清廉なひと時には似つかわしくないほど淫らで扇情的だった。
 だが、もとより、少なくとも自分の魅力に少しも気付いていないジョエルがそれを理解して、まさか意図的に自分を誘ってるなんてことは、世界が明日終わると言われることよりも嘘っぽくて、その天然的な要素を持つジョエルをグリフィンは誰よりも愛しいと思っていた。

「今日は朝から撮影が入ってるって言っただろ?夜には戻ると思うから、夕食はオレが用意するよ」

「…あー、そうだったか?すまん、忘れていた」

「構わないさ」

 陽気に肩を竦めたグリフィンは、四方やこんな風に、極々当たり前な朝の会話をジョエルと迎えることが出来るなど思ってもいなかっただけに、どんな裏切りも、些細なミスでさえ許せない性格だったはずなのに、そのいちいちが全く気にならなくなっていた。
 それどころか、もっとジョエルが迷惑をかけてくれればいいのに…気兼ねなく、もちろん、このオレだけにと思うほど。
 まるで朝の光に似合わない、いや寧ろ、彼こそが何よりも似合っているのかもしれない退廃的で少し壊れてしまった純粋な微笑を浮かべるグリフィンに、漸く顔を上げたジョエルは一瞬言葉を詰まらせてしまった。

(また何か悪巧みをしてるんじゃないだろうな…)

「お前…本当に撮影なんだろうな?」

 自分がどんなあられもない姿でいるのかなど気付きもしないジョエルが、一瞬だが凄むように眉を寄せて、その深い海のように穏やかな蒼い瞳で覗き込めば、相変わらず純粋すぎる微笑を浮かべたグリフィンは無言で近付くと、微かに怯える腕を掴んで僅かに浮き上がる身体を抱き締めてキスをした。

「殺しなんてしないさ。もう、欲しいものは手に入ったからな」

「…お前が働いているところを想像できないんだ、仕方ないだろ」

 疑ったとしても。

「ちゃんと働いてるぜ。なんなら、これから一緒にスタジオに来るかい?」

「…冗談言うな」

 おはようのキスにしてはやたら長く、濃厚で、魂すらも溶けて交じり合ってしまいそうな深い口付けに息を弾ませながらそっと目線を逸らすジョエルに、グリフィンは満足そうに嗤って短いブロンドが漸く掛かる耳を啄ばむように優しく噛んだ。
 小さな溜め息を零すジョエルの身体を労わるようにベッドに下ろしたグリフィンは、言い付けを忠実に守ろうとする愛しい人の前に屈み込むようにしてフローリングに膝を着くと、不安に揺れる大好きな青い瞳を下から覗き込むのだ。

「この部屋から出るな…約束はちゃんと覚えてるようだな」

「…向かいに、花屋があるんだ」

「え?」

 貫くような狂気を秘めた仄暗い漆黒の双眸に居た堪れなくなったのか、ふと目線を逸らしたジョエルはポツリと呟くようにして言った。
 彼が言っているのは、この思うより瀟洒なアパルトマンの向かいにある、丁度部屋の窓から見下ろすことの出来る小さな花屋のことだろうと、グリフィンは仄暗い双眸を細めるようにして考えていた。

「花屋って毎日同じ花だと思うだろ?違うんだ。毎日、少しずつだけど違う花がある。同じだと思うのは、無駄な先入観と思い込みってヤツだな」

「…どうしてそんな話を?」

「え?…いや、なぜこんな話をしたんだろうな。すまない、時間じゃないのか?」

 ハッと我に返ったようにして気付いたジョエルが慌てて首を横に振ると、その顔を覗き込んでいたグリフィンが、病のせいでか、青白くなった頬に掌を添えて小首を傾げて小さく笑った。
 屈託のない、子供じみた笑顔で。

「謝る必要はないさ。その話、もっと聞きたいな…いや、お前の話はなんでも聞きたい。言わなかったか?オレはお前の全てが欲しいんだ」

 俺の全てなど、もう思う様自由にしているではないか…ジョエルは慢性化している頭痛すら一瞬忘れてしまったかのように、物憂げな青い瞳をしてそんなグリフィンを見下ろした。
 彼の唇や舌、その繊細な指先が辿っていない場所など、もうジョエルの身体にはどこにもなかった。
 まして心さえ、今では侭ならないほどグリフィンに支配されている。
 この完全犯罪を華麗にやってのけた希代の殺人鬼には、どうしても教えてやれないジョエルの儚い抵抗だった。
 どう言ったワケだか、グリフィンはこの破滅しか知らない壊れかけた心身を欲しいと言う。
 それをくれるのなら、もう殺しはしないだろうと約束までする念の入れようで。

「オレはね…」

 呟いて、グリフィンはまるで無防備なジョエルの足の間に身体を割り込ませると、その背中に両腕を回して抱き締めながら腹部にソッと頬を摺り寄せた。
 恐らくあの仄暗い漆黒の双眸は、長い睫毛の縁取る瞼の裏に隠れているに違いない。
 うっとりと囁くように呟くグリフィンの、その漆黒の頭髪を見下ろしながら、今更頭痛を思い出したジョエルはクッと眉間に皺を寄せた。
 慢性的な頭痛も、慢性的な睡眠不足も、何もかも、この目の前で幸せそうに瞼を閉じて縋り付いてくる殺人鬼が齎すものなのに…

(縋りつく?…何を考えているんだ、俺は)

 あの自信に満ちた笑みを浮かべる完全主義者のグリフィンが、まさか縋り付くなどと言う弱味を、既に囚われの身となってしまったジョエル如きに見せるはずもないと、彼をプロファイルしてその全てを知り尽くしているつもりになっている元FBI捜査官は浅はかにも思ってしまった。

「お前の声が好きだよ。お前の匂いも好きだよ。お前の肌触りも達する瞬間に見せる、あのセクシーな表情も…」

「馬鹿なことを」

 斬り捨てるように呟けば、グリフィンはクスクスと笑った。

「全て真実さ。言っただろう?これはオレたちを取り巻く運命なんだ。この世界でオレだけがお前を理解し、お前だけがオレを理解している。そう言うことだ」

 ジョエルには理解できないグリフィン流の愛の告白に、ズキズキと痛みだした頭を抑えながら、相変わらずつれない恋人は訝しそうに眉を寄せている。

「あの日々もオレにとっては掛け替えのないものだった。でも、今こうしてここにいるオレたちの過ごす時間も…ああ、なんて素晴らしいんだろう。この黄金の日々を守るためなら、オレはきっとなんだってするよ」

 そうして人を殺したと言うのか?

(いや、それは違うな。グリフィンが俺を知ったのはリサの事件の時だ…それ以前の殺しは、どんな理由で始めたゲームだったんだ?)

 グリフィンが大事な宝物を隠しているこの瀟洒とは言え小さなアパルトマンは、彼にとって唯一の弱点とも言える小さなお城、そのお城で大事な宝物、ジョエルと過ごす日々を守るためならば、そうきっと、グリフィンは冷たく凍った水底にすらその身を沈めることも出来れば、燃え盛る業火に飛び込む勇気すらあるだろう。そう思わせる狂気を孕んだ漆黒の双眸に覗き込まれて、ジョエルは図らずもドキリと胸を高鳴らせていた。

「だから、働いているところを想像できないなんて言わないでくれよ?」

 そう言ってクスクスと笑うくせに、その双眸だけは真実を物語って狂気に仄暗く揺れている。
 お前を手に入れるためなら、お前と過ごすためなら…何人だって殺してみせる。
 それがたとえ、お前が心を寄せる相手だとしても。
 そう物語る眼差しに気圧されて、ジョエルはソッと意志薄弱の青い瞳を瞼の裏に隠してしまった。

「さて、お仕事に行こうかな?さあ、ジョエル。オレにキスをしてくれ」

 徹底的に追い詰めるくせに、いざ逃げ出そうとするとやんわりと真綿で首を絞めるようにしてこの場所に留まらせようとするグリフィン。
 フッと頬の緊張を緩めて、狂気を揺らめかせる蠱惑的な双眸を閉じてジョエルのキスを待つグリフィンに、肉体を蝕まれて、とうとう心まで縛り付けられてしまったジョエルは苦い虫でも噛み潰したような顔をしながらも、それでもキスを待つ聖人君子の相貌を持つ殺人鬼に口付けた。
 或いは何かに置き換えることによって過去の贖罪から逃れようとでもするように、また或いは、殺人鬼の仮面の下に潜む正真正銘の闇に、自ら赴こうとでもするかのように…
 口付けるジョエルの顔を、グリフィンはソッと瞼を開いて間近にぼやける愛しい顔を盗み見ていた。
 確かに誰の目にも明らかなように、心と身体を薬でボロボロにした冴えない中年でしかないジョエルだけど、乙女を気取る阿婆擦れにない清楚なやわらかさがあることを誰も知らない。
 きっと、グリフィンは掠めるだけに触れ合わせる口付けに焦れたように舌で歯列を舐めると、ビクッと素肌の身体を揺らすジョエルにクスッと笑って、舌を絡めあってお互いの全てを飲み込もうとする深い口付けに酔い痴れながら思うのだ。

(オレだけが知るお前の顔。リサもポリーも知らない。知っていて欲しくもない。この顔はオレだけのものだ。お前を守るためならジョエル、ああ、オレはなんだってするさ。オレからお前を奪う者、たとえお前が恋しがる者だったとしても、オレはその全てを殺してやる)

 腹の底で蹲る執着と嫉妬の綯い交ぜした暗い感情にうっそりと嗤いながら、グリフィンは長らく欲して漸く手に入れた大事な宝物…身体の一部でさえある掛け替えのないジョエルを抱き締めていた。

 この声が届くのなら…ジョエル。
 ああ、どうか。
 願わくばオレを愛してほしい。
 罪深い心を、愛してほしい。
 オレと言うこの存在を、そのやわらかで綺麗な心に受け入れてくれ…