不思議な龍が、恐らく蒼牙であることは判ってるんだ。
ただ、あれほど何度も『龍の子』だと聞いていたのに、どうして俺は、その存在をこれぽっちも疑わなかったんだろう。
今は、気付けずにこんな失態を仕出かしちまった自分の態度に、死ぬほど腹立たしくて仕方ない。
「…蒼牙、だよな?」
そんな、第一声がありふれた質問だってことにも、頭の芯が痛くなるほどムカツクんだ。
《そうだな。驚いたか?》
頭に直接語りかけてくるような、膜の張った向こうから聞こえるような、どこか違和感のある声音は、それでも仕方なさそうな苦笑を滲ませていた。
「少しな…でも、怖くなんかないからな」
それだけは言っておかないと。
俺は、それこそ不思議なんだけど、死ぬほど魂消たってのにさ、驚くことに少しも怖くなんかなかった。
それどころか、この空想でしか有り得ないだろうと思っていた伝説の龍を見られたことが、どこかちょっぴり嬉しかったりするんだから…現金なモンだよな。
「まぁ、俺が天女の末裔なんてのも有りなワケなんだから、蒼牙が龍であったっておかしかないんだろう」
漸く最初の衝撃から落ち着けたのか、俺はホッと息を吐いて、今や近寄り難い存在となってしまっている蒼牙を見上げて笑ってそんなことを言っていた。
《…光太郎らしいな》
ボソッと言った感じで、蒼牙であるはずの龍は呟いたようだった。
「へ?」
首を傾げながらも、今や見上げていないとその顔すらも見られないほど大きな龍に間抜けな返事をしていたら、青白い龍は不意にグイッと巨体をくねらせて、微かに青白く発光している不思議な鱗に覆われた鼻面で俺の頬にソッと触れてきた。
それで、俺が本当に怖がっていないのか、或いは、怖がらせないように免疫を付けさせようとでも思ったのか、どちらにしてもその行為こそ、蒼牙らしいと笑えちまうんだけどな。
《小手鞠どもの真実の姿を見たときでさえ、アンタは怯えもしなかった。だからこそ、俺はそんなアンタを愛してるんだ》
「あ!そう言えば地蔵さんたちも龍だったな!!そっか、そうだよな。なのに、気付かなかったなんて…俺ってば迂闊すぎだ」
頬にスリスリされて擽ったいんだけどさぁ、今の俺はそれどころじゃない。
そうか、地蔵さんたちだって龍だったんだし、ここには座敷ッ娘だっているってのにな、どうしてこんな簡単なことに気付けなかったんだろう。
トホホ…っと、思わず項垂れてしまう俺に、龍の姿になってるとは言っても、根本は確り蒼牙なワケだから、青白い龍は落ち込むなとでも言いたそうに鼻面をさらにスリスリと摺り寄せてくる。
《気付かなくて当たり前だ。現代の日本では、既に俺たちの存在など時の流れの中で風化しているのだから》
仕方ないんだと苦笑しているような声音に、俺は励まされでもしたのか、それとも、その台詞があんまり寂しそうだったから、落ち込んでることをサッパリと忘れちまったのか…どちらにしても、現金な俺は龍の顔にソッと触れていた。
「じゃあ、俺は幸運だったってワケだな。みんなが忘れているはずの連中に、悉く会えてるワケだし♪」
その、冷たいとばかり思っていた温かい顔に触れたままで、エヘヘッと満足そうに笑えば、蒼牙のヤツは一瞬呆気にでも取られたのか、綺麗な真珠色の牙が羅列する口をポカンッと開けた、龍にしては間抜けな顔をしやがったんだ。
《きっとアンタは、悲しい巫女にはならないだろう》
「え?」
それは、鬼を愛して、でも報われない愛だったから死を選んだあの巫女のことか?
《いや、正確には違う》
まるで俺の考えていることを読み取ったかのような台詞にドキッとしたものの、鬼と巫女の昔話を教えてくれとせがんだんだから、俺の考えてることなんか判って当たり前じゃないか。
《それに、ソイツは巫女じゃないし、鬼は鬼じゃない》
「??…どう言うことだ?」
青白い神秘的な龍は、まるで俺に背中に乗れとでも言うように長い胴体をくねらせる様にして低くしながら、首を傾げている俺の背中を鼻先でつつくんだ。
《大飢饉の年、龍刃山の守護龍は生贄を要求した。勿論、食う為じゃない。子孫を残すためだ》
よっこらしょと、まるでおっさんみたいな掛け声を反動に龍の背中に乗りながら…って、おお!案外乗り心地がいいじゃないか。
なんか、もっとこう、ゴツゴツしてて背中の突起物が刺さるかと思ってたんだけど、驚くことにヒレのように柔らかいんだ。
そんな風に、龍の背中に感動している俺を乗っけたまま、蒼牙は《落ちるなよ》と一言注意してから、上体を起こすようにして天高く飛翔したんだ!
「うっっわぁぁーーーーーーー!!」
それは、たぶん。
現実的にはけして有り得ない体験だったと思う。
大きな満月は小さな山村を照らし出していて、青っぽい陰影が何処までも続く世界は息を呑むほど綺麗なんだ。こんな御伽噺、どうして俺が経験できるんだろうと、気付いたら泣いていた。
きっと、天女の羽衣がなければ寒さに凍えて凍死していたに違いないんだろうけど、風も月も龍も、何もかもが優しく温かく俺を包み込んでくれていた。
日本はとてもちっぽけなんだけど、こんなに素敵な存在を懐に抱いているんだ。
どうして、ああ、本当にどうしてこんな簡単なことに、俺たちは気付けないままなんだろう。
自然の僅かな隙間にだって、こんな風に転がっているに違いないのに…田舎を忘れてしまうほど、何に追い立てられて毒されているんだ。
《お気に召したか?》
冗談っぽく蒼牙がそんなことを言うんだけど、今の俺は悪態をつけるような状態じゃない。 恥ずかしいんだけど、まるで子供みたいに素直に感動していたんだ。
「もっちろんだ♪有難う、蒼牙!」
《俺の妻が喜ぶのならば、何度でも飛んでやるさ》
「そうか?だったら、何度でもおねだりするだろうな♪」
どんな台詞だって、こんな素晴らしい景色を見せて貰えるんなら喜んで聞くに決まってる。 俺が蒼牙の背中のヒレ(?)のようなモノにしがみ付きながら笑っていたら、青白い龍はたぶん、雰囲気で判るんだけど、どうも照れているようなんだ。
《おねだりか、それも悪くないな》
そのくせ、しみじみとそんなことを言ってくれるから、今度は俺の方が顔を真っ赤にしてしまう。
なんなんだ、俺たちは。
まぁ、まだ祝言は挙げてないワケなんだけど、心の中では俺はもう、蒼牙の嫁だと思っているワケなんだから、気分的には新婚なんだし、こんな2人でも別にいいんだよな。
と、自分に言い聞かせてみて、さらに盛大に照れてしまっている俺をサラリと無視して、蒼牙はどうやら本題に入ってくれたようだ。
いや、そうじゃないとたぶん、困っているのは俺だ。
《そんな風に、おねだりをされていたのだとしたら、紅河は見誤ることなどしなかっただろうにな》
「こうが…?」
《そうだ、大飢饉の年に花嫁を要求した龍刃山の守護龍にして呉高木家の10代目の当主だ》
俺の幻想は、強ち外れていたワケではなかったのかもしれない。
ほっそりした白い手で逃してしまった小魚を、愛しそうに見詰めていた不思議な雰囲気の存在を、真っ赤な髪の男は切なそうな眼差しで見詰めていた。
愛されているのか、愛されていないのか…もしかしたら、天女の末裔ではなかった人間を、最初で最後に惚れ込んでしまった蛟龍の子孫だったのかもしれない。
もしも俺が、天女の末裔ではなかったとしたら、それでも蒼牙は俺を愛してくれたんだろうか。
千切れてしまいそうな心を持て余してでもいるようだったあの、深紅の髪の男のように。
呉高木紅河。
呉高木家の10代目の当主の悲恋を、どうして俺は、こんなに聞きたいと思ってしまったんだろう。