ふと目を開けたら、心配そうに覗き込んでくる蒼牙の青味がかった不思議な双眸を見つけた。
「大丈夫か?」
すぐに返事をしようと思ったんだけど、何故か、声が咽喉に引っ掛かったみたいになって思うように言葉を出せないから、仕方なく頷くしかなかった。
大丈夫だって、こんなもんでちゃんと伝わるのかよ。
「そうか、だが、あまり無理はするな。暫くここで休もう」
そう言って、蒼牙は俺の前髪を掻き揚げてくれた。
それで唐突にハッと気づくワケなんだけど、おお、俺ってそう言えば蒼牙と遂に結ばれたんだ。
ずっとこの時を、本当は待っていたってのに、いざそうなるとやたら気恥ずかしくてどんな顔をすればいいんだよって、なー
顔を真っ赤にして、それでも、半裸の蒼牙の逞しい胸元とか見てしまうと、やっぱ惚れ惚れと見蕩れてしまう。
今更なんだけど、コイツが女の子だった時もあるんだから、もう何が起こったってちょっとやそっとじゃ驚かないだろうな、俺。
つーか、俺自身が一部とは言え女になってるんだ、信じないワケにいかないよな。
「蒼牙…」
ちょっと咳払いして、漸く声を出したら、夏なんだから寒くもないんだけど、あの傲慢不遜の化身みたいな呉高木家の当主様にしては珍しく、心配して布団を掛けようとしていた蒼牙がすぐに振り向いてくれた。
「どうした?具合が悪いのか??」
「いや、そうじゃないんだけど…その、汚しちゃったな」
言外に含んで言ったのは、その、蒼牙を受け止めた瞬間に俺の息子が腹筋が程よくついている蒼牙の腹に悪戯をしちゃったんだよなぁ。
顔を真っ赤にしていたら、蒼牙のヤツは「なんだそんなことか」と呟いて、ニッと笑ったんだ。
「気にするな。それだけ、アンタも感じたってことだろ?」
「うッ…ん、そうだな。我慢できなかった」
照れ笑いをしたら、蒼牙のヤツはまさか俺がそんなこと言うとか思ってもいなかったのか、ちょっと驚いたみたいだったけど、それでも嬉しそうに額にキスしてくれた。
「それから、もうひとつ」
呟くように言ったら、蒼牙は不思議そうな顔をした。
俺が何を言うんだろうと、その言葉を待っているみたいだった。
だから、俺はできるだけ心を込めて言ったんだ。
「あのな、その、ありがとう」
エヘッと笑ったら、蒼牙のヤツは少し面食らったような顔をしたから、思わず笑ってしまう。
「何を、言ってるんだ…?」
「だからさ、俺を選んでくれたじゃないか。俺さぁ、いつも自分って不幸だよなぁと思ってたんだ。あのクソ親父は見境なく借金とかするし、でも、こんな生活でも生きてるだけまだマシかって」
「…」
俺の傍らにうつ伏せになって両肘で上体を支えながら俺を覗き込んでくる、不思議な青白髪の美丈夫の顔を見上げて、俺はポツポツと話した。
「なのに、お前。借金の形だとか言って、俺をあそこから助けてくれただけじゃなくて、母さんたちにも普通の暮らしをくれただろ?それに俺、最初は花嫁なんか冗談じゃない。呉高木の当主は酷いヤツだってずっと思ってたんだ」
「…なるほど。その考えは当たっていたな」
ちょっとムッとしたように唇を尖らせて、蒼牙はそれでもそれ以上は何も言わずに、俺の話を黙って聞いてくれる。
忘れていたけど、コイツはまだ高校生で、なのに、その仕種も態度も、もう何もかもを知り尽くしている大人よりも大人に見えるから…頼り甲斐のある旦那様なんだろうけど、俺はちょっと寂しいなぁと思ってしまうんだ。
「ああ、そーだよ。問答無用で俺を女にして、とうとう奥さんにまでするんだからなー」
唇を尖らせたら、何故か蒼牙はクスッと笑って、そんな俺の唇をソッと啄ばむようにキスをした。
「だが、そんな酷いヤツに惚れてるんじゃないのか?」
ニッと笑ったりするから、ちょっと意地悪な気持ちにもなる、なるんだけど、それよりも今はもっと大事なことがある。
だから俺はニヘッと笑うんだ。
「ああ、スッゲー惚れてるさ!」
すると、俺の憎まれ口を聞くもんだとばかり思っていたのか、蒼牙は一瞬ビックリしたような顔をして、それから唐突に、本当に唐突に、顔を紅潮させたんだ。
耳まで真っ赤になってるんだぜ、信じられるかよ。
そんな顔をするとか思っていなかった俺は、俺のほうこそ驚いてポカンッとしてしまう。
「いや、まぁ、判った」
頬を染めて頷くなんて、今日の蒼牙はどうかしてる。
いや、違うな。
どうかしてるんじゃない、蒼牙の新しい部分を新たに発見したんだ。
俺、こうして、この村で暮らしながら、あとどれぐらい蒼牙のこんな風な新しい部分を発見できるんだろう。
これは、とても喜ばしいことなんだと思う。
俺は笑って、蒼牙の頬に片手を伸ばしたんだ。
「俺、お前にスッゲー惚れてるんだよ。こんなに誰かを好きになるとか思わなかった。そのお前が、他の誰でもない、俺を選んでくれたんだ。俺、今さ、スッゲー幸せなんだ。このたくさんの幸せをくれたから、だから、蒼牙に何度だってお礼を言いたいよ。ありがとう、蒼牙」
精悍な頬を包み込んで、愛しい肌触りを忘れないように、俺は心を込めてそう言った。
蒼牙は驚いたような顔をしていたけど、ふと、少し拗ねたような顔をして頬を染めた。
「アンタこそ、俺になんでもくれる」
「え?」
頬に触れていた俺の手を掴んで口許に寄せながら、蒼牙は、不思議な青白髪の前髪の奥から、神秘的な青味を帯びた双眸で真摯に俺を見詰めながら呟いた。
「少し、話をしてもいいか?」
「へ?あ、ああ、うん。いいよ」
そりゃ、その、心から好きなヤツに、その、女として抱かれたワケだから、男の部分が状況を理解しようと身体の何処かでフル活動してるんだから、身体はヘトヘトで草臥れてるんだけど、女の部分が満ち足りた幸せを噛み締めているから、頭はスッキリしてる。
なんつーか、ヘンな感覚ではあるんだけど、身体を休めがてら、蒼牙の話を聞くのは辛くない。
蒼牙、いったい何を話すつもりなんだろう。
「俺の両親について、アンタに知っていて欲しい」
「え?」
ドキッとした。
俺は、今日、やっと蒼牙のお嫁さんになれたんだ。
これからは呉高木家のことも聞くようになるんだろうけど、真っ先に蒼牙の親父さんの話を聞くとは思わなかった。
蒼牙の親父さんについては、誰も口を開かない。
それはまるで、この禁域と同じぐらい、触れてはいけないものなんだと認識していた。
だから俺は、俺の横で少し、ほんの少し思い詰めた双眸をしている蒼牙を見上げてしまう。
「俺の母さん…桜姫は、直哉の許婚だったんだ」
「へ?そうだったのか??」
じゃぁ、今の関係は当初の通りだったってことになるのか…と、そこまで考えて唐突にハッとしたんだ。
平気で聞いてしまったけど、桜姫は呉高木家の一族の掟みたいなものを破って、恋に生きたってことなんだな。
ふーん…なんだ、ロマンチックじゃないか。
「仕来りに縛られない、蒼牙のお母さんはチャレンジャーだったんだな。すげーロマンチックだ」
ヘヘヘッと笑っていたら、蒼牙は目線を伏せて口許に小さな笑みを浮かべた。
「アンタぐらいだな、そんなことを言うのは…ロマンチックかどうかは判らんが、桜姫はある日、この禁域の傍にある大きな池の畔で男に出会った」
確か、龍神池だっけ?
繭葵が得意そうに説明していたのを思い出した。
「ソイツは、青味のある真っ白な髪を腰まで伸ばした、青い目の男だったそうだ」
きっと、目の前にいる蒼牙のような顔をした男だったんだろう。
蒼牙は、お父さんの血をちゃんと受け継いでいるんだ。
実際に見ていないんだけど、なんとなく、判るような気がする。
だってさ、桜姫に似てねーもん、蒼牙。
「名を蒼牙と言って、龍神池に棲むこの村の護り神、蛟龍だった」
「…ソウガ?」
「そうだ。俺のこの名は、父から譲り受けた」
そう、だったのか。
ん?待てよ、護り神の蛟龍って…
「蒼牙は長い間、血を分けた一族が治める村の繁栄を龍神池から見守っていたんだが、ある日、桜姫を見つけたんだ。俺の父は、いてもたってもいられなかったんだろう、仮初めの姿で母の前に姿を現した。もともと、同じ血を持つもの同士だったワケだが、いや、だからこそ、桜姫も蒼牙に惚れたんだろう。桜姫は直哉との縁談を破棄した。腹に俺がいたからな」
少し照れ臭そうに話すのは、同じ名前だからなのか、それとも、両親の幸福だった日々を想像しているからなのか…どちらにしても、今まであんまり楽しい話じゃなかったから、俺としては、この話が一番好きだと思った。
でも、呉高木の掟はそんな2人を許しはしなかったんだろうなぁ…
「けして、起こり得てはいけない恋だった。蛟龍は天女の末裔を待ち続けていたし、桜姫は呉高木のなかでも、唯一、蛟龍の血を色濃く引いていた。だからこそ、彼らは楡崎を待たなければならなかったんだ。だが結局、蛟龍は罰を受け天に逝き、桜姫は直哉に嫁がざるを得なかった」
「…」
でも、蒼牙の親父さんとお母さんは、それぞれの存在を必要としたんだ。
親父さんを亡くして、ああ、だから、桜姫は心の奥深いところを壊してしまったんだな。
その気持ち、今の俺にはよく判るよ。
蒼牙がいなくなったら、そう考えるだけで心許無くて、まるで足許から地面がスッポリとなくなってしまうような不安感に襲われるんだ。
なんだ、この話も悲しいんじゃないか。
でも、ちゃんと、先祖の身勝手な妄執から逃れようとした人たちもいたんだなぁ。
紅河だけじゃない、その最も近い末裔の蛟龍本人ですら、そんな古臭い雁字搦めの鎖のような掟の戒めを引きちぎろうとしていたってのに。
「だが、その母さんも漸く、黄泉比良坂で父さんに逢えただろうよ…そんな二人の子だからな、俺は龍になるのさ」
「ああ、なんだ、そうだったのか。蒼牙の親父さんは龍だったんだな」
普通に聞けばおいおいってなモンだけど、俺の場合、目の前で龍の蒼牙をみたし、こんな身体にもなったワケだから、今ならそんな話でも素直に信じられる。
俺が合点がいったように言うと、蒼牙は「そうだ」と頷いて、それからほんの少し不機嫌そうに眉を寄せてしまった。
おや?っと首を傾げたら、蒼牙は俺の頭に手を置いて、ワシャワシャと撫でてきたんだ。
なんなんだ?
「…俺が、気持ち悪いと思うか?」
顔を上げようとしたんだけど、蒼牙の大きな掌がそれを阻んで、俺はやれやれと溜め息を吐いた。
できれば、ちゃんと顔を見て言いたいんだけどなぁ…
「ったく、何を言ってんだよ。ここは日本なんだぞ?そりゃ、伝説の龍の子供なんて聞けばビックリしたけどな。じゃあ、俺の愛する旦那様は神様ってワケか。俺こそ、釣り合うか不安だ」
天女の血っつってもなー、俺なんかこれっぽっちも片鱗を見せてないんだぞ?
畏れ多いんだけど…でも。
「俺、蒼牙が龍の子供だろうとなんだろうと、愛してるぞ。気持ち悪いなんか、思ったこともない。そんなこと思うんだったら、小手鞠たちを見た瞬間に逃げ出してる」
それまで俺の頭を押さえていた蒼牙は、その手の力を抜いて、それから、恐る恐ると言った感じで…って、信じられるか?あの蒼牙が、不安そうに恐る恐る俺の顔を覗き込んできたんだぞ。
俺がどんな顔してると思ったんだよ。
そもそも、眞琴さんの手紙で龍の子だって聞いてたし…いや、まさか、本当に龍の子だとは思わなかったけど、でも、それならそれで、いいかと思う。
「あ、でもさ。お前は紅河や蛟龍の蒼牙と違って、ちゃんと一族の掟を守ってくれよ?」
「…え?」
驚いたように俺を見下ろしてくる蒼牙の青味を帯びた神秘的な双眸を見上げながら、俺は思い切り必死に訴えたんだ。
だって、そうだろ?
「俺は楡崎の、天女の血を持ってるんだから、お前はちゃんとご先祖の気持ちを汲んで、俺を愛してくれないとダメなんだからな」
そりゃ、必死になるって。
だってよー、聞いていたら初代の蛟龍の気持ちを汲んでるヤツなんか、本当は殆どいないじゃねーか。
もしかしたら、蒼牙だっていつ心変わりするか判らない。
「疑うのかとか、蒼牙すぐ怒るけどさ。お前の親父さんだって楡崎なんかさっさと忘れて桜姫を愛したんだろ?俺の立場って非常に拙いじゃねーかよ」
呆気に取られたようにポカンとする蒼牙に、俺はムゥッと唇を尖らせて顔を寄せたんだ。
そりゃ、そうだろ。
一族の掟なんかなんのそので、桜姫をまんまと奥さんにしてしまった蛟龍の血を引いてる蒼牙なんだ。確かに、楡崎の血は関係ない、俺を愛しているんだとは言ってくれるけど、でも、やっぱり不安になるじゃないか。
「…はははッ」
蒼牙は思わずと言った感じで声を立てて笑いやがったんだ。
くそ、なんてヤツだ。
「笑うところじゃないだろ?!そもそも、楡崎の呪いか何だか判んねーけどさ。結局、掟に関係ないヤツに惚れてるのは蛟龍の末裔の方が多いじゃねーかよ。そんなの聞いて、俺が冷静でいられると思うのか?俺はこんなに必死なのにさ、なんだよ、蒼牙は酷いぞッ」
真珠色の歯を覗かせて心から愉快そうに笑う蒼牙に、漸く起こせる上半身を起こして詰め寄ろうとしたら、そんな俺に覆い被さるようにして抱き締めてきた蒼牙のせいで、またしても布団に逆戻りだ。
ムッとする俺の鼻先に、触れ合うように鼻先を擦り付けてくる蒼牙に、こりゃもう一言ぐらい言わないとコイツは本当に判っていないなと思っていたら…
「矢張り俺は、アンタを愛して良かったと思う。これからも随分と長いこと、アンタを心から想い続けるんだろう」
「へ?」
そんなこと言うから、俺はワケが判らずにポカンッと目を丸くした。
口許に幸せそうな笑みを浮かべたままで、蒼牙は俺に口付けてきた。
「お前なー、キスで誤魔化そうとしてるだろ?クッソー、先が思いやられる旦那様だなぁ」
やれやれと眉を寄せながらも、蒼牙の逞しい背中に腕を回して、それでもやっぱり愛しい旦那様のキスを受け入れてしまう俺は、どれだけ蒼牙にメロメロなんだよと恥ずかしくなる。
「光太郎、アンタ以外に、俺の心を奪えるヤツなんかいないさ」
「だったらいいけどなぁ。俺、頑張るよ」
頬に目蓋に、蒼牙の啄ばむような優しいキスを受けながら、俺は内心でガッチリと拳を握り締めていた。
蒼牙のヤツはそんな俺を抱き締めて、何故か幸せそうに笑っている。
そんな蒼牙の表情を見たことがなかったから、俺はムッとしながらも、まぁ、これはこれでいいかと溜め息を吐いて、この傍若無人なはずの呉高木家のご当主様に抱き付きながら笑った。
だって、俺だって、蒼牙に負けないぐらい幸せなんだから。
本当はそう伝えたかったのに、話が全然違う方向に行ってしまったんだけどさ、それで蒼牙がこんなに嬉しそうな、幸せそうな顔をしてくれるんだったらなんでもよし。どんと来いってんだ。
俺も大概現金だけど、今はまぁ、よしとしておこう。
うん。
◇
「光太郎くん!その、大丈夫かい??」
歩けるからと言っても頑として首を縦に振ってくれなかった蒼牙にお姫様抱っこをされて山を降りた俺を待っていたのは、ワクワクしてるような、大きな目をキラキラ輝かせたなんとも気持ちの悪い繭葵の元気のいい声だった。
蒼牙、気持ち悪いってのはこう言うヤツのことを言うんだぞ。
「ああ、その、心配かけたのか?」
こんな恥ずかしい姿を見られて赤面する暇も与えてくれない爆弾娘に呆れながら聞いたら、繭葵はすっ呆けた口調で言いやがったんだ。
「心配するに決まってんじゃーん!真夜中に抜け出しちゃってさぁ、朝まで帰って来ないんだから…うーん、蒼牙様の顔を見ればなんとなく判ると思ってたんだけど、ゲロバレで面白くもないね!」
「なんだ、それは」
流石の蒼牙もイラッとしたようだったけど、この村に来て唯一俺が心を許して仲良くしている繭葵を邪険にしても悪いと思っているのか、1万歩ぐらい譲って肩を竦めるぐらいに留めてくれたから…なんだ、前はちょっと嫉妬とかしてくれてたのに、もう繭葵は眼中にないんだな。
それはそれで、俺的にはちょっと寂しいかも。
「でもさ、本当に体調とか大丈夫?蒼牙様がいらっしゃるから、大丈夫だとは思うんだけどね」
「うん、もう大丈夫なんだ。だから降ろしてくれって言ってんのに、この心配性の旦那様は降ろしてくれねーんだよ」
上目遣いに睨んでやっても、平然と俺を抱き上げている蒼牙はシレッとした顔をして外方向きやがった。
ムムムッと唇を尖らせて口を開きかけようとしたんだけど、繭葵の盛大な溜め息に邪魔されてしまった。
「前は恥らう姿とかが面白かったのに、なんか、二人とも甘々でこっちが砂でも吐きそうだよ」
「甘々ぁ?!俺と蒼牙を見て、どこが甘々って言うんだよ!俺は思い切り意地悪されてるんだぞ」
人前で恥ずかしげもなくお姫様抱っこなんかするコイツと、俺の何処が甘々って言うんだ。
それでも、無理に降りようとしないから、甘いとか言われてんのかな、俺。
え?じゃぁ、結局俺が悪いってことになるのか??
「繭葵、光太郎を悩ませるな。アンタには後で話がある。俺の仕事部屋に来てくれ」
ん?繭葵に話って、なんだろう?
俺が首を傾げて蒼牙を見上げると、繭葵もそうだったのか、きょとんっと一瞬目を丸くしたけど、それでも興味深そうにニヤッと笑うんだ。
「へぇー!蒼牙様が僕にお話ってのも珍しいね!うんうん、すぐ行くよ」
「後でいい。今は、光太郎を休ませてやりたいからな」
「え?いや、繭葵に話があるんなら、俺はひとりで部屋に戻れるぞ」
もしかしたら、大木田家と何か大切な話でもあるのかもしれないと思ったから、俺が慌てて降りようとすると、蒼牙のヤツはガッチリ抱き締めた腕に力を込めて俺の動きを押さえつけやがったんだ。
なんなんだよ、いったい。
ちょっとムッとして見上げたら、蒼牙のヤツは目蓋を閉じて俺の額に頬を寄せてきたんだ。
「俺が独りになりたくないんだ。今はアンタとこうしていたい」
「うぇ?!」
思わずヘンな声を出して真っ赤になったら、繭葵は盛大に爆笑して手を振りやがった。
「はいはい。幸せな2人にちょっかい出すと馬に蹴られるから後にするよ。お昼頃でいいかな?」
「ああ、そうしてくれ。悪いな」
「あははは!」
蒼牙の比較的やわらかい態度に、事の真相を思い切り見抜いてしまっている、そう言うところだけは勘の鋭い繭葵は嬉しそうに爆笑して手を振ってさっさと何処かに消えてしまった。
蔵だ、きっと呉高木家の宝物庫だとか言ってた蔵に行ったんだろうなぁ。
蔵開きの前準備か…ってことは、バレてるんだろうなぁ、あの天然爆裂娘には。
「…繭葵に話ってなんだよ?」
思い切り気になりますって面して聞いたのに、蒼牙のヤツは「ちょっとな」と言って肩を竦めるぐらいで答えてくれなかった。
そうなると、俺は知りたくてウズウズしちまうじゃねーか。
だいたい、奥さんに隠し事って良くないんじゃないか?それってお前、あの爆裂娘と、けして有り得ないとは重々承知しているんだけど、浮気だって疑っちまうぞ。
…俺、なんか嫉妬深くなったような気がするなぁ。
これじゃ、流石にいかんだろ。
「話したくないなら別にいいけどな」
十分、気になりますって面して言っても真実味がないだろうけど、それでも、俺はそれ以上聞かないことにした。だって、なんか、蒼牙を縛り付けてるみたいで嫌な感じがしたんだ。
そんな俺を見下ろしていた蒼牙が何か言おうとしたとき、ふと、まるで陰のように佇んでいる人影に気付いた。
「桂さん!」
ああ、そう言えば、この執事の鑑のような人にもなんか、やたら迷惑をかけたような気がする。
あの時は気付かなかったけど、たぶん、あの禁域だとか直哉が言っていた桜姫の閉じ込められていた座敷牢のところにも、桂は来てくれていたに違いない。
だって、この執事の鑑のような人が、有り得ないことに、口許に静かな微笑を湛えているんだ。
それはまるで、ちょっとホッとしているように見える。
いつもは完璧なポーカーフェイスだってのに、俺を見る目付きが、まるで父親みたいに穏やかで温かい…うぅ、俺のホントの親父にも見せてやりたいよ。くそぅ。
「お加減は如何ですか、光太郎様」
「もう大丈夫です。あの、イロイロと迷惑をかけちゃって、俺…」
もう、この人には蒼牙に抱っこされてるところは何度も見られているから、そう言う意味では恥ずかしさとかなかったから、慌てて身を乗り出すようにしてお礼を言おうとしたんだけど、物言わぬ影のように物静かな人は、やわらかな表情で頭を垂れたんだ。
「いえ、とんでもございません。光太郎様さえご無事でしたら。蒼牙様もお疲れではありませんか?」
「いや、俺のことはいい。それよりも桂、お前に話がある。後で俺の仕事部屋に来てくれ」
「畏まりました」
ん?桂にも同じことを言ったな。
んん~、なんか、ますます気になるんだけどなぁ。
それでも蒼牙は俺には何も言ってくれないんだよな。
「それなのに、何が傍にいたいだよ」
ムスッとして独り言のように呟いたら、蒼牙のヤツは眉を上げて俺を見下ろしたようだったけど、俺はそれを華麗に無視してやった。
フンッと外方向く俺に何か言いたそうな顔をしたんだけど、深々と桂が頭を下げて「では、後ほど伺います」と言って見送るから、蒼牙はタイミングを外したみたいだった。
最後に、もうひとり、いや、正確には2人なんだけど、心配そうに俺たちの帰りを待っていた眞琴さんと座敷ッ娘が母屋の玄関、でも、土間って言ったほうが早い、旧家らしい作りの玄関に立っていたんだ。
「眞琴さん、それに座敷ッ娘…」
そうか、2人にも随分と心配をかけちゃったなぁ。
眞琴さんなんか、蒼牙の剣幕に圧されながらも、必死で食い下がってくれていた。どこをどうしたら、俺なんかを気に入ってくれたのか判らないんだけど、あれほど取り澄ました顔で冷やかに笑っていた眞琴さんは、今ではその長い睫毛の縁取る目許に憔悴したような翳りを浮かべて、それでもホッとしたように形の良い唇に笑みを浮かべている。
『嫁御さま、よかったぁ~。おめでとうございますぅ』
「え、座敷ッ娘?」
思わずギクッとして見下ろした小さな童は、細い目を更に細めて幸せそうにほっこり笑っている。だから、判るんだけど、やっぱりこの楡崎の護り手だって言う座敷ッ娘には、俺の身の上に起こったことは全部お見通しなんだなぁ…と妙に実感しちまった。
「たははは…ありがとう」
照れ臭くて真っ赤になりながらお礼を言えば、座敷ッ娘もエヘヘヘッと笑って眞琴さんの着物の裾を掴んだ。どうやら座敷ッ娘は、何故か眞琴さんに懐いてしまったようだ。
あ、そうか。
俺が呉高木家に嫁ぐってことは、座敷ッ娘もこの妖怪化け物屋敷の一員になるってことか。
ますます化け物屋敷に磨きがかかる一族だよな、呉高木家って。
「蒼牙さん、恙無く楡崎の方を娶られまして、喜ばしゅうございますわ」
思わずガクーリしそうになった俺の耳に、鈴を転がすような綺麗な声音で眞琴さんが呟いた。
まぁ、どう言うワケでこの人たちが知っているのか、その辺は恐るべし化け物一族呉高木!…ってところだけど、いちいち触れ回らなくていいだけ便利でよかったよ。
「ああ、これで我が一族も安泰だ。眞琴、楡崎の護り手と共に後ほど俺の仕事部屋に来てくれ」
「あら?わたくしとコトノハさんとでですの??」
「え?座敷ッ娘ってコトノハって言う名前なのか!?」
し、知らなかった…つーか、眞琴さんには教えて、どうして楡崎の人間である俺には言わないんだよ、座敷ッ娘!!
思わず胡乱な目付きで見てしまったら、座敷ッ娘ことコトノハは双眸を細めてほんわり笑いながらなんでもないことみたいに言いやがったんだ。
『嫁御さまは座敷ッ娘と呼べばいいのよぉ。嫁御さまは特別だからー、他のひとはコトノハと呼ぶのよー』
なんか、違った意味の特別みたいで嫌だけどなぁ…とは口に出さずに、そんなもんかよと唇を尖らせれば、コトノハは着物の袂で口許を隠しながら『そうなのよー』とケタケタ笑った。
「ああ、昼過ぎまでには集まってくれ」
その台詞で他にも来訪者があるのだと知った眞琴さんは、コトノハと顔を合わせてから、チラッと俺を見たんだ。
「光太郎さんは…少しお顔の色が優れていませんことよ?それでも、皆さんで集まりますの?」
切れ長の綺麗な双眸に不穏な気配を宿して見詰める眞琴さんの双眸を平然と受け止めながら、蒼牙のヤツはそれでも、俺の顔を覗き込んで頷いたんだ。
「顔色が悪い?ああ、本当だな。今日は随分と草臥れたな?早く部屋に戻ろう」
俺の顔色の悪さなんか端から知っていたんだろう。だからこそ、俺をけして歩かせようとしないんだから、そのくせ、まるで今気付いたみたいな口調ではぐらかそうとするんだから、いい根性してるよな。
俺がまたもやムッとしようした矢先、蒼牙は後に残した眞琴さんとコトノハを肩越しに振り返って肩を竦めたんだ。
「そう言う理由だ。光太郎は部屋で休ませる。集まるのは俺たちだけだ」
その台詞で、漸く眞琴さんはホッとしたように吐息して「判りましたわ」と了承した。
そんな2人を残して歩き出す蒼牙に、俺はちょっと苛々したようにその着流しの合わせ目を引っ張って口を尖らせてやった。
「あのさぁ、いったいなんで集まるんだよ。んで、俺だけ顔色が悪いから留守番かよ?」
説明もなしなんか酷いじゃないか。
あんまり頼りないんだけど、眼力で睨みつけて「さあ言え!」と脅す俺に、蒼牙のヤツは小馬鹿にしたような顔をして言いやがったんだ。
「ふん。女主人は堂々と部屋で休むものだ。雑用は主人に任せておけばそれでいい」
「いや、そりゃ違うだろ?呉高木のご主人が雑用とかするかよ、普通!」
ったく、なんだよ、その言い訳は。
まあ、俺に知られたくないからってヘンな言い訳まで考えやがってさぁ…だから、余計に不安になっちまうだろ?
ちゃんと俺にも説明してくれよ。
俺、蒼牙のお嫁さんなんだぞ。
不意に、俺の眼差しに不安が混ざったのに気付いたのか、蒼牙はやれやれと仕方なさそうに笑いながら、誰もいないことをいいことにやわらかく口付けてきたんだ。
絶対、キスで誤魔化すだろ、お前。
でも、そのキスに誤魔化されちまう俺も俺なんだけどなぁ…はぁ。
「…大事な身体なんだ。無用なことで思い悩まなくてもいい。俺は、俺がこの世で何よりも愛しい妻にそんな顔をされるのだけは辛い」
唇を離しても不安の色は消えていなかったのか、蒼牙はそう言いながら俺の額に口付けた。
辛いんなら理由ぐらい説明しろよなー…って、でも、それだけ俺に言いたくないってことは、俺には大して関係のないことなんだろうな。
そんな風に都合よく考えて、って、そうでも考えないとやってられっかよ。
「判った。もう、聞かないよ。俺には関係ないって思っとく」
仕方なさそうに笑ったら、一瞬だけど、蒼牙は少し寂しげな顔をした。
見ているこっちの方がドキッとするほど、真摯な双眸で、蒼牙は俺を見下ろしている。
…卑怯だよなぁ、そんな顔しやがって。
そのくせ、俺には説明とか何もしてくれないんだぜ。
夜が明けて間もない母屋は清々しい空気が溢れていて、お手伝いさんたちが朝の支度に追われている最中、俺たちはそのまま無言で宛がわれている部屋に戻った。
幸福で幸せで…別に蒼牙が隠し事をしたとしても、一族を束ねる長なんだから、秘密のひとつやふたつあったところで仕方ないんだ。ただ、願わくば、その輪の中に俺も入りたかったって言う、これは身勝手な願望だった。
だから、俺はこの幸せと幸福を噛み締めることに専念することにして、頭の中から蒼牙たちが何を話すのか、そんな疑心暗鬼は追い出してしまうことにした。
蒼牙のいなくなった部屋は広く感じて、ちょっぴり寂しかった。