14.秘密  -Crimson Hearts-

 那智はそれから、機嫌よくニヤニヤ笑いを浮かべたままでジャンクフードとドリンクの入っている紙袋俺から引っ手繰って投げ捨てると(あーあ、相変わらず勿体無いことをするヤツだ)、俺の手をまたしても握り直すと、問答無用でどこかを目指すような足取りで歩き出したんだ。
 それこそ、うっかりしていたら鼻歌でも歌いだすんじゃないかと思うほど、ご機嫌の那智に、俺は呆れながらその背中を追って首を傾げるしかない。

「これから何処に行くんだ?家とは反対方向みたいだけど…」

「はーん?散歩だろー、楽しもうぜ~♪」

 全く意味不明の言葉にだって、そろそろ慣れればいいのに、俺は相変わらず溜め息を吐きながら那智に付き合ってしまうんだろう。それでも、存外、嫌な気分でもないのは俺も那智ウィルスに感染してしまったのかもしれないなー
 那智に連れられてどこまでも歩いていると、何故か、過去がフラッシュバックして俺は眩暈がした。
 那智、アンタは俺に、この町のことを知らないだろうと言った。確かに、俺はこの町のことなんざ、これっぽっちも知らなかったし、知ろうとも思っていなかった。
 でもな、アンタは知らないだろうけど、俺はこの町のことをよく知っているよ。
 ボスに拾われた日も、こんな薄曇の日で、雨が降らないだけでもラッキーだなんて、お目出度いことを言っていたなぁ…
 俺をメチャクチャにした頭領は、妹がゴミ屑のように死んだ日に、ゲラゲラ笑いながら俺をゴミ屑のように捨てた。散々犯された身体はどこも傷だらけで、尻からはまるで女の生理みたいにたらたらと血が零れていた。ボロボロになった上着一枚で放り出したのは、できればそのままくたばっちまえばいいと思っていたんだろう。そんな姿でも俺は、抜け殻…とまではいかなくても、ただただ、妹の死体であったとしても、会いたくて、ただ会いたくて、曇天の空が広がる灰色の町をフラフラと歩いていた。
 ああ、今日は雨が降らなくてラッキーだなぁ…とか、馬鹿みたいに暢気に思いながら。
 薬に溺れたジャンキーだとでも思ったのか、そんな俺を、町に巣食う荒くれどもは笑っていたし、中には、連れ込んで犯そうとしたヤツもいた。
 俺がソイツらに散々輪姦されなかったのは、偏に、スバルのおかげだった。
 ボスは、俺を連れ込んだヤツの部屋のドアを、堂々と蹴破って入ってきた。
 ベッドの上でぼんやりしている俺の目の前で、ボスはソイツを殴り殺したんだ。
 その姿を見て俺は、どうして…このまま死なせてくれないんだろうと恨んだもんだ。
 この汚い身体を、汚らしく強姦されて殺されるなら自業自得じゃねーかと、無表情で見下ろすスバルに半ば自棄っぱちに叫んでいた。
 どうして助けたんだ、死にたかったのに!…ってな。
 そうしたらボスは、憐れむでもなく嫌悪するでもなく、握った拳にじっとりと付着した鮮血を拭いながら溜め息を吐いて、それから、まるで無表情の淡々とした双眸で俺を見下ろすと、「俺の場所に来るか?」って聞いてきたんだ。
 コイツは何を言ってるんだ?頭がおかしいのかと思ったよ。
 そうしてボスは、「全て、自分の意思で動け」と言い放ったんだ。
 踵を返して歩き出したボスに、俺は暫くポカンッとしていたんだけど、壊れた人形みたいに思考回路とかまともじゃなかったから、どんな気持ちの変化だったのか、俺は釣られるようにしてボスの後を追っていた。
 コイツなら、もしかしたら、この地獄のような世界から開放してくれるかもしれない…そんな馬鹿げた妄想に突き動かされて、腕を差し伸べるでもなく、救い出してくれるってワケでもないのに、俺はボスの後を追って行ったんだ。
 ボスの部屋に入って、俺の抱えていた願いのような思いが、全くの幻想で、意地汚い妄想だったと思い知ったのは、それからすぐだった。
 ボスは俺の襤褸切れのようになった上着を引き剥がすと、そのまま、セミダブルのベッドに突き飛ばしたんだ。覆い被さってくる男の体臭に、こうなることは判っていたくせに、俺はめいいっぱい両目を見開いて、それからガチガチと歯の根が合わないほど震えて、ボロボロ泣きながらボスに抱かれていた。
 まだ、傷だってうまく塞がっていなかったから、俺の尻はボスのモノに耐えられなくて、また真っ赤な血をタラタラと零していたけど、ボスは、スバルはその行為をやめてはくれなかった。
 そこで俺は、なんだ、この身体を差し出せばなんでも思いのままだったんじゃねーかと、激しく身体を揺すられながら、ボロボロ泣いて死んでいった妹に申し訳なくて申し訳なくて、このままスバルが俺を殺してくれたらいいのにと思っていた。
 でも結局、俺はボスに飼われることになったんだけど…はは、ボスはおかしなことを言ったよな。
 犬ではなかったかもしれないけど、アンタだって十分、俺を人間扱いなんかしていなかったじゃねーか。
 犬扱いではあるけど、那智の方が余程、俺個人の感情を尊重して人間らしく扱ってくれている。
 ああ…だから。
 俺は那智とのこの甘ったれた生活が不思議で、そうして、守りたいと思ってしまったんだろう。
 那智だけが、俺を人間として扱ってくれていたんだ。

「今更、気付いたって遅いのに」

「はーん?何が??」

「いや、なんでもないんだ。那智、ありがとう」

「はぁー??」

 言っておかないと、人間は驚くほどあっさりとどうにでもなってしまえるから、言える時に伝えたい気持ちは伝えておかないと。
 たとえちょっと、ニヤニヤ笑いの那智が呆気に取られたようにニヤニヤしていても、だがな。

「ぽちはさぁ、たま~にヘンなこと言うのな?まぁ、オレは別に気にならないんだけどさー」

 大いに気になっていそうな台詞に、思わず笑いそうになったら、唐突に那智の足が止まって、思わずその漆黒のコートの背中に鼻をぶつけるところだった。

「ど、どうしたんだ!?」

 いったい何事が起きたのかと首を傾げていたら、ニヤニヤ笑っていた那智がチラッと目線だけで俺を見下ろして、空いている方の腕を伸ばすと、古惚けた店を指差したんだ。
 風化しそうなほど寂れてしまった木製の看板は、歳月の風雨に晒されて、今にもボロボロと壊れてしまいそうなほど痛んでいて、漸く読めるのは『Voyage』の文字だった。

「この店がどうしたんだ?」

「入ってみれば判るし?」

「…そうか」

 入れと言われれば、入るしかないだろうな普通は。
 別に特に変わった店、と言うワケでもないんだが…その、雰囲気が、確かにニヤニヤ嬉しそうに笑っている那智が贔屓にしているだけあって、雰囲気があまりにもやばそうだったんだ。
 チンケなコソ泥の勘、とでも言えばいいのか、取り敢えず、ここはヤバイから逃げろと、俺の脳内の警鐘は喧しいぐらいがなりたてている。
 それでも、ウキウキしたように俺の腕を引いて那智が行くのなら、こんなクソッタレで禄でもない町から唯一、腕を差し伸ばして救い上げてくれた那智が行くのなら、俺だって行かないワケにはいかないだろう。
 ゴクッと、息を呑んで重い足を引き摺るようにして、那智が開けた木製の扉から中に入ってみたんだ。

「いらっしゃい、悪いけどまだ…って、なんだ、那智か」

「何だってのは何だ。スピカは酷いしー」

「あっははは!遅刻寸前のあんたに言われたかないわよ」

 気さくに名前を呼び合う仲なのか、退廃した町に良く似合う、気だるげな美女はぽってりした可愛らしい唇を尖らせて、それでもクスクスと笑っている。

「遅刻寸前?何か約束でもあったんじゃ…」

「あら?可愛い連れね。この子が噂の『ぽち』ちゃん?」

「あー、まあ、そう」

 いつもより歯切れが悪く頷いた薄ら笑いのネゴシエーターに、黒のエプロンを差し出したスピカと言う美女に気を取られてる間に、那智はコートを脱ぐとそのエプロンを身につけたんだ。
 何をしてるんだ?
 思わず動揺したって罰なんか当たりゃしないとは思うんだが、それでも俺は、目を白黒させてそんな、気だるげな美人のスピカと、漆黒のエプロンに派手なTシャツ、古惚けたジーンズ姿のネゴシエーターを交互に見遣るぐらいしかできなかった。

「どうってことない、どこにでもいそうなワンちゃんねぇ」

「んなのは勝手だし?それよりスピカ、開店までまだ時間あるぜ~?取立て行ったら??」

 気のない薄ら笑いの那智はカウンターの向こう側に入り込むと、シンクに煙草の灰を捨てる、どうもかなり行儀が悪いらしいスピカを追い出そうとでもするように肩で押しやると神経質そうにジャブジャブと水で手を洗い始めたんだ。
 どうも、あのアンティークな砂岩色のビルでよく見掛けるその行為から、那智のヤツは本格的な料理を始めるようだ…けど、なぜ?
 呆気に取られてポカンとしていると、煙草を指先で挟んだままの手で、取れかけた緩やかなパーマの髪を掻き揚げるようにして、面倒臭そうにカウンターから追い出された豊満なボディのスピカは、そんな俺に気付くと、面白い玩具でも見るような見定めるような、強かな目付きをしてクスッと鼻先で笑いやがったんだ。
 だから俺も、思わずムッとするしかなかったと、思うんだけど。

「何が起こったのかちっとも判らない…ってツラしてんのね。那智さえ良ければ、この子はあたしがお世話してもいいんだけどなぁ♪」

「ダメ、スピカはお呼びじゃねっての」

「んま!酷い言われようね。…でも、那智がそこまで肩入れしてるのなら、そうね。あたしはお呼びじゃないわ」

 スピカは鼻先でクスクス笑うと、面倒臭そうに髪を掻き揚げてふらふらと渋みのある木製のドアからクソッタレで碌でもない町に、まるで無頓着に出て行った。
 ど、どう言う事なんだ?
 いや、それよりもまずはだ、あのふらふらしてる美人をこんなクソッタレな町に放り出してもいいのか!?

「那智!彼女、出て行ったけど…大丈夫なのか!?」

「はーん?タオのメンバーの中でも凄腕のスピカが外を歩いたからってさぁ、襲い掛かるのは潜りの余所者ってワケ」

 それにオレ、別にソイツらが殺られたって興味ねーし…と、何故か不気味なほど嬉しそうにニヤニヤ笑いながら仕込みに勤しむ那智に絶句しながらも、それでも俺は、オロオロとそんな那智とスピカの出て行った木製のドアを交互に見詰めてしまった。

「説明が欲しいんだけどよ…」

 そりゃ、そうだろ。
 いきなり散歩に連れ出されて、いきなりヘンな店に連れ込まれて、その店の(どうやら)女主人らしいヤツはふらふら出て行くし、俺の飼い主様は至福の顔をして仕込みに勤しんでるんだ、誰かこの状況を説明してくれと、叫び出さないだけ天晴れだと思ってくれ。

「はーん?まぁ、簡単に言えばさぁ…バイトしてるんだ」

「…は?」

 はい?
 それこそ『タオ』でも最強と謳われる、泣く子も黙る浅羽那智様が…こともあろうにバイトだと?
 恐らく、金も物資もうざるほど持ってるに違いない、あの浅羽那智が…バイト?
 誰か、悪い夢だと言って起こしてくれ。

「そうやってまた、俺を騙すんだろ?騙されてやらないからな」

 思わず青褪めてその場にぶっ倒れそうになりながらも、いや、ちょっと待て、これは那智特有の悪い冗談に違いないと思い至った俺は、ちょっとムッとしたように眉を寄せて言ってやったんだけど、俺の飼い主様は平然としたニヤニヤ笑いで肩なんか竦めて下さった。

「はぁ?どーしてオレがぽちを騙すワケ??」

「…」

 ああ、そうだ。
 那智は今までで俺を騙したことなんか一度もない。
 却って、俺に騙されてるぐらいなんだから、この一番有害なはずなのに無害な姿でジャガイモの皮を剥いているこの『タオ』最強のネゴシエーターは、本気で自分はバイトをしているのだとゲロってるんだ。
 許されるなら俺は、その場にガックリと跪きたくなっていた。

「…うん、まぁ、そう言うことにしてだ。どうしてアンタともあろうヤツがバイトなんかしてるんだ?」

「んー?ぽちの餌代稼ぎ」

「え?」

 突然、話題の中心が自分になって、俺は動揺したように那智を見上げた。
 件の飼い主様は、鼻歌なんか歌いながら、綺麗に剥いたジャガイモをシンクに置いてあるザルの中に投げ込んで、返す手でニンジンを掴んだりしやがるから、相変わらずあの砂岩色のビルで見慣れた光景に、雨にずぶ濡れで紙袋を抱えて帰ってくる那智の姿がオーバーラップして、俺は眩暈がしていた。
 俺の…ためだって言うのか?
 そんな、馬鹿な。

「だって、アンタは凄腕のネゴシエーターだから…わざわざ餌代なんか稼がなくても」

「そうも言ってらんないんだよね。だって、オレは人間喰っときゃ生き長らえるけどさぁ。ぽちは違うでしょ?飯を喰わないと死んじまう。それは嫌だし~」

 那智はニヤニヤ笑いながら、スライサーで綺麗にニンジンを裸に剥いていく。
 そのこなれた手付きを見ていると、どうやら随分と長いこと、調理に携わっていた経験があるように思える。
 ああ、なるほど。
 こうしてバイトしながら那智は、蛍都と一緒に生きてきたんだろう。

「嘘だな。アンタの手付きは昨日今日のモノじゃない…蛍都のためなんだろ?」

「蛍都?いやぁ??アイツはなんでも自分で喰うよ。たまにはオレも作るけどさぁ、オレの作る飯は不味いっつって、だいたいここに来てたみたいだし」

「…」

 那智の飯は旨い。
 きっと毎日食べていたに違いない蛍都に、俺は少なからず嫉妬していた。それなのに、当の蛍都は那智の飯を不味いと言って、外に出ていたって言うんだから…自己嫌悪だ。

「オレがさぁ、持って帰ってた材料とかガスボンベとか…出所はココってワケ」

「あ、ああ。そうだったのか」

「ぽちが可愛い顔して知りたいってさぁ、珍しく付いて回ってたし?だから連れて来た。ストレス発散できたか??」

 ニヤァ~ッと笑う顔さえなけりゃ、ああ、那智は俺のことをちゃんと考えてくれていたのかと感動もできるんだけど、いまいち、その顔があるばっかりに感動が半減しちまう。

「う…まぁな!」

 …つって、本当はかなり照れているんだが。
 那智はまるで、遠い昔に義母さんが読んでくれた絵本に出てきた魔法使いみたいだ。
 魔法の杖を一振りすれば、あら不思議、望んだものは思いのまま…そんなこと、あるはずがないと知ってしまった汚れた俺が、こんなことを言うのもなんなんだけど。

「やっぱり、魔法なんかないんだな」

「魔法~??ぽちは面白いこと言うんだなぁ」

 はっは…っと瞼を閉じる、あの独特の笑い方をする那智を見詰めながら、俺は心から思っていた。

「ああ、魔法なんかない。いつだって、望むものは努力しないと手に入らないって判ったんだ」

「へぇ?」

 アンタでさえ、俺のために無駄に身体を動かして何かを勝ち得ている。
 俺は、ずっと、強くさえあればなんだって願いは叶うと思っていたんだ。
 でも、そうじゃない。
 そうじゃないことを、たった今、俺はアンタに教えてもらった。
 誰もが恐れる浅羽那智…それがアンタの素顔であるはずなのに、俺は…
 俺は…那智が好きだ。
 そんな那智を、好きだと思う。
 許されない想いに唇を噛んだ。
 苦い味がパッと、胸の奥に広がっていた。

 どうか…言葉に惑わされないでください。
 どうか…この胸の奥に蹲る想いを感じてください。
 どうか…忘れないでください。
 どうか…僕を傍に置いてください。
 どうか…