これから、集金した金をタオに届けるんだそうだ。
どうやら戻れるのは夜半になりそうだと言って、『Voyage』の女主人だと言うのに、今日は那智と俺に任せるからと彼女はふらふら出て行ってしまった。
こんなウェイターなり立ての俺と那智とで、どうやって店なんか切りもりできるってんだ?
正直な話、俺はウェイターなんかしたことがない。
今まではしがないコソ泥で生計を立てていたし、まともな仕事なんかしたことがないから、俺は不安そうに那智を見上げていた。
当の那智はと言えば、慣れたものなのか、別にどうってことない面でニヤニヤ笑っていて、それどころか、非常に嬉しそうにさえ見える。
「お、俺は何をしたらいいんだ?」
結局、根負けして口を開いたら、仕込んでいた料理を一通り作り終えて一段落着いていたのか、満足そうな那智は目線だけ動かして俺を見下ろしてきた。
「ん~?ぽち、ミルク好きだろ。お座りして飲めばいい」
「は?」
思わず呆気に取られてポカンとしたら、背後の棚に無造作に置かれている酒瓶のひとつを引っ手繰って、那智は勝手に無造作に瓶のまま呷ったんだ。
う、それは不味いんじゃないか?
動揺して目を丸くしていたら、那智は呆然としている俺に気付いて、それから「ああ…」と呟いたかと思うと、カウンターの下にちんまりと置かれているらしい、旧式の冷蔵庫から涼しげな音を響かせて瓶入りの牛乳を取り出して差し出してきたんだ。
さぁ、これを飲めと言いたいんだろうけど…いや、だから、そうじゃないだろ。
「売り物に手を付けていいのか?」
呆れたような、訝しそうに眉を寄せて聞いたら、那智こそニヤニヤ笑いながら訝しそうに首を傾げやがったんだ。
「はーん?ここ、スピカのお店だし?別に、何がどうなろうと知ったことかよ。スピカに雇われる時にさぁ、自由にしてていいって契約したんだよ。だから、オレが良ければ何でもいいんじゃね?」
「そう言う問題だろうか…」
「どーゆー問題がお気に入りなワケ?どうでもいいけどさぁ、ご主人さまがお座りって言ってんだ、ぽちは大人しくお座りすれば?」
ニヤニヤ笑ったままでカウンター越しに牛乳瓶を押し付けてくる那智の手から、俺は恐る恐るその真っ白な液体を満たす瓶を受け取った。
確かに牛乳は好きだけど、だからと言って、こう毎日飲まされてもなぁ…は、いかん。
那智菌に頭を侵されるところだったが、そう言う問題じゃない。
「コーヒー以外も飲めるんだな」
牛乳の白い液体を眺めながら、そう言えばと、普通のモノはコーヒー以外口にできないとニヤニヤ言っていたのを思い出して聞いてみた。
「はぁ?これもコーヒーだし?酸化したコーヒーは酒と同じになるみたいなんだよなぁ」
オレにとってはと那智がどうでも良さそうに答えたから、どうやら売り物に手を付けているのは俺の牛乳だけだったのか…
てことは、古くなったコーヒーを飲めば酒を飲んだ時のように酔うってことなのか。とか、そんなどうでもいいことを考えてガックリしたことは言うまでもない。
「開店はいつなんだ?」
お座りと言われて、家にいる時みたいに床に直に座るのも気が引けて、俺は咎められるだろうとは思ったけど椅子に腰を下ろした。
だが、那智は俺が考えている以上には、お座りにたいした意味を持っているワケではなかったんだろう。何故なら、俺にとってお座りってのは床に直で座るんだとばかり思っていたんだけど、那智はお座り=ただ座ると考えているようなんだ。
だから、お叱りはなかった。
それどころか、カウンターに両肘を着いて、「んー?」と俺の顔を覗き込んできたんだ。
もちろん、ニヤニヤ笑いながら。
「ぽちはさぁ、開店が気になるワケ?」
「…当たり前だろ」
何の為の店番だよ。
たまに那智は、やっぱ、どっかおかしいんじゃないかと思うようなことを言う。
「そーなのかぁ?ま、どうでもいいんだけどさぁ。お客は気が向いたらそのうち来るでしょ?」
「…」
どれほど適当に店番しているんだ、コイツは。
俺がいない時は、こんな調子で勝手に酒を呑んでぶらぶら時間を潰してたのか?
それで、あの気だるそうなスピカはよく怒らないなぁ。
瓶の牛乳を飲みながら…うん、やっぱり本物の牛乳は美味いな。毎日飲まされてるから、骨太になってて骨折とか滅多にしないんじゃないかと思うぐらいだけど、毎日でもいいかもしれない。
「なんだよ?」
ふと、ニヤニヤ笑っている那智と目が合った。
相変わらず胡散臭く笑うんだけど、なんとなく、いつもとは違うような気がして首を傾げたら、那智はなんでもないようにニヤーッと笑って酒瓶を呷ったんだ。
「別にぃ?ただ、ぽちはさぁ。牛乳飲む時、本当に嬉しそうな顔をするなぁって思ったワケ」
「え?」
目蓋を閉じて笑う那智を見ていて、俺はふと思う。
もしかして、毎日牛乳を飲ませていたのは単なる嫌がらせだとかそんなものじゃなく、俺が嬉しそうに飲んでいたから、よほど好きなんだろうと気を遣っていた…とか?
はは、いや、そんなまさか。
この浅羽那智様が、俺のご主人さまと豪語する、この天下のネゴシエーターが俺なんかに気を遣うだと?
ホント、冗談も大概にしやがれってんだ。
でも、冗談にならないのが那智の、那智たる所以なんだよなぁ。
「う…嫌いじゃないし。それに、アンタがいつもくれるじゃないか」
「はーん?そりゃそうでしょーが。ぽちが大好きなら、好きなものを与えるのがご主人さまの醍醐味なんじゃね?」
ニヤァ~ッと笑っているところを見ると、やっぱりかと思ってしまう。
最強のネゴシエーターのくせに、こんな寂れた酒場でバイトしたり、自分こそ犬みたいに無頓着なくせに、那智はそこそこ、俺を大事にしてくれているんだ。
面映いような、胸がくすぐったいような気がして、俺は思わず俯いてしまう。
「その、有難う」
で、口をへの字にして礼を言うんだ。
そんな俺の態度を理解できない鈍感なご主人様がニヤニヤ笑いながら首を傾げたその時、古い扉だと言うのに唐突に扉が蹴るようにして開けられた。
バターンッと大きな音が店内に響いて、思わず反射的に椅子から飛び降りて身構えてしまう俺の傍らに、何時の間にか来ていた那智がニヤァ~ッと、何か邪な笑みを浮かべて入り口を見た。
「スピカ!そろそろ店をたたむ準備はできたかよッ!!」
巨体を重そうにのっしのっしと歩く大男を先頭に、どやどやと下卑た野次を飛ばしながら数人の男たちが店内に雪崩れ込んできた。
気だるげな双眸の女主人を捜していた大男は、那智と俺の存在に気付いてピクリと眉を震わせた。
そうだ、那智がいる。
那智に気付けば誰も何もできない。
思わずホッとする俺の耳には、ゲラゲラと笑う耳障りな声が響いていた。
「なんだ、スピカのヤツめ。恐れをなして用心棒でも雇ったのか?それもこんなふざけたヤツをッッ」
「ギャハハハ!バッカじゃねーの?見ろよ、胸にぽちって書いてあんぜ!」
「かっわいいじゃん!コイツ、貰ってこうぜ」
那智なんかよりもっと性質の悪いニヤニヤ笑いを浮かべて…いや、那智以上に性質の悪いニヤニヤはないんだけど、それでも、嫌悪感が背筋を走る嫌な笑い方をして、男たちが口々にそんなことを言いやがるから、向こうっ気なんかこれっぽっちも持ち合わせちゃいない、ケチなコソ泥の俺だってムッとしたよ。
「おいおい、睨んでるぜ?こんなチビとそっちの細っこいのを雇って、スピカのヤツは何を考えてるんだ?」
ギャハハハッと笑う男たちは、ニヤニヤ笑いながら一歩踏み出して、自然と背後に俺を庇うように前に出た那智に気付いていないようだった。
エプロンをしてしまうと邪魔になるベルトに差した二対の鞘から覗く柄が、よく見れば左右に突き出しているんだけど、頭からバカにしている男たちは気付いてもいないようだ。
「…」
那智が無言でニヤニヤ笑っているのを、気に障ったのか、仲間の一人がペッと床に唾棄して額に血管を浮かべた。
どうも、こう言う手合いに多い、血の気の多いヤツみたいだな。
「なんだぁ?お前、ニヤニヤしやがって。舐めてんのか?」
「…」
それでも那智はニヤニヤ笑っている。
けして美味そうではないけれど、今夜はご馳走だなぁ…とでも思っているのか、その笑みは早く戦いたくてウズウズしているように見えるんだけど…どうして仕掛けないんだろう。
そこまで考えて、漸く俺はハッとしたんだ。
那智が、那智らしくもなく間合いを取っている。
その理由は、きっと俺なんだと気付いた。
那智は殺戮を好むけど、そうなると見境がなくなるのか、気付けば血の海になるから飼い犬である俺を汚すと面倒だと考えているに違いない。
「ああ?なんだ、コイツ。気に喰わねぇなぁ…」
「殺っちまえ。スピカの腰抜けが用意した用心棒なんざ、たかが知れてる。ちょうどいい、暇潰しになるだろ?」
スピカが帰って来るまでここで待つ気でいた男たちは、ニヤニヤ笑って無言で立ち尽くしている、脱色し過ぎで茶色になっている髪の、前髪から覗く仄暗い光を宿した双眸を持つ男を、暇潰しに遊んでやろうとでも思っているんだ。
その相手が、誰だかも知らないで…
俺は、那智の身体から気付かない程度で漏れ始めた殺気を感じ取って、思わず立ち竦んでしまった。
その態度が、大男たちには自分たちに怯えていると受け取ったんだろう。
下卑た声を上げて、仲間と目線を交わしながら馬鹿笑いなんかしやがった。
その瞬間だった。
風を切る音をさせただけで、薄暗いランプの明かりを反射させて、煌く人殺しの刃が閃いた。
音もなく、ともすれば身動きすらしていないのではないかと思わせる那智の両手には、何時の間にか日本刀が握られていた。
その日本刀は2本とも、鮮血を滴らせている。
…と言うことは。
「なんだ、なんだ…な、ん?」
一瞬の出来事は、何時だってやられた相手には、自分の身の上に起こった出来事を理解する暇など与えないんだ。
那智に喧嘩を吹っ掛けていた男もそうだったんだろう。
その身体に、そう、その巨体に…真っ赤な何かで大きなバツ印が浮かび上がった。
浮かび上がると同時に、意識するよりも早く、クロスするようにしてズ…ッとずれた。
そう、ずれたんだ。
こんな碌でもない世界で生きていながらも俺は、喧嘩や人殺しに弱くて、思わずギュッと目蓋を閉じてしまった。
何が起こったのか、見なくても判る。
断末魔は仲間の息を呑む気配に勿論消されるワケもなく、店内に響き渡っていた。
「こ、れ…ぎゃあああああぁぁぁッッッ!」
一瞬の出来事だった。
たった一瞬の出来事で、顔に返り血を浴びてニヤニヤ笑っている浅羽那智は、あの屈強そうな大男の身体を二刀で両断していたんだ。
ピクピクと動く腕を踏みつけて、その時漸く那智が行動らしい行動を起こした。
刀から滴る鮮血をべろりと舐めたんだ。
「あのさぁ、舐めるってのはこういうことを言ってんのかぁ??」
「野郎…よくも弟をッ」
中でも一番の巨体の大男が、ゆらりと殺気を纏って身を乗り出した。
その腕には既に武器が装着されているんだけど、文字通り、鉄のグローブを改造している、スパイクだらけで肘までもありそうなそれを装着して、醜悪な顔で憎々しげに那智を見下ろしたんだ。
他の仲間も血に飢えた猛獣みたいに興奮して、それぞれの武器を手にして那智を睨み据えた。
その時、それまで潜んでいた狂気のような殺気が噴出して、慣れていない俺と、相手の何人かがビクリと竦み上がってしまった。
流石は奴らのボスなのか、スパイクグローブの男だけはギクリとしたものの、面白うそうにニヤッと笑ったんだ。
「どうやら、腕に覚えはあるようじゃねーか。弟の仇、存分に取らせて貰うぞッ」
「…ぽちさぁ」
一瞬、思わず呆気に取られるほど暢気な口調で尋ねてきた那智に、俺は思わず頷いていた。
声の調子とは裏腹の殺気に、凍り付いて動けないんだ。
「な、なんだよ?」
「これからコイツら始末するワケじゃね?だったらさぁ、オレ、また店内を汚しちまうワケ。掃除、一緒にしような?」
ニヤニヤと那智が笑う。
その態度を、無謀な男たちは挑発と受け取ったようだった。
いや、確かに挑発に見える…見えるんだけど、那智の場合、これは真剣そのものの発言なんだ。
「…ッ、バカにしやがってッッ」
案の定、男たちは一斉に飛び掛った。
天井こそ高いがこの狭い店内で、大男4人に囲まれて、しかもそれぞれ腕には凶悪な武器を持ってるんだ。
流石の那智だってヤバイ、これはヤバイぞ。
チンケなコソ泥の俺に何ができるってワケでもねーんだけど、それでも何かしないと、このまま那智が殺られるのを黙ってなんか見てられるかよッ!
カウンターの向こう側に回って武器になりそうな肉切り包丁を引っ掴んで、囲まれた那智を助けようと振り返った俺の目の前で、惨劇は繰り広げられていた。
「ぎゃッ!」
短い悲鳴を上げる男のナックルを装着した腕が肩から吹っ飛んだかと思うと、もう片方で殴りかかっていた男の顔半分が弾け飛んだ。
血飛沫が吹き上がる中を、那智は絶命の断末魔を上げる男たちの身体を蹴りながら、ニヤニヤを猛烈に凶悪な笑みに変えて、振り下ろされるスパイクだらけのグローブを片方の日本刀で受け止め、羽交い絞めにしてくる背後の男を逆手に持った日本刀で貫いた。
耳を劈くような金属音を響かせた防御は、拳の重さを物語っていると思う。
戦うことが嬉しくてしょうがないと言った感じで、声を立てて笑う那智を見て、肉切り包丁を両手で持ったままの俺は、心底から、ああ、那智は本当に浅羽那智なんだなぁと実感していた。
今までが今までだったから、呆気に取られて見入っている目の前で、那智は貫いた日本刀の柄を持ち替えて、そのまま上に引き裂きやがった。
あらゆる動脈を引き裂いた結果、夥しい血飛沫が吹き上がり、断末魔を上げた男がふらふらとよろめくと、生きていた名残のように、鼓動するように鮮血が吹き上がったけど、そのまま仰向けに倒れてしまった。
その時でさえ、平然とガッシリした体躯の大男の渾身の一撃をたった一本の細い日本刀で受け止めたままで、ニヤニヤと笑ってるんだ。
「…き、貴様、いったい何者なんだ!?」
「あっはっは!知らなくていーよ、うぜーなぁ。どーせ死ぬんだし?お前には必要ないってワケ」
久し振りに爽快に笑う那智が、背後の役目を終えた日本刀を返す手で振り下ろそうとすると、一瞬早く大男は那智の身体を弾いて背後に飛び退いて危険を回避した。
その一連の出来事は、僅か数秒の出来事だと言って、いったい誰が信じてくれるんだ。
「…なんだかなぁ、あんまり役に立たねーな。コイツらさぁ」
那智は肉塊に、或いは身体の一部を欠損した死体を踏み躙りながらそう言うと、片手に持つ日本刀から滴るまだ熱の冷めない鮮血を目蓋を閉じて舐めた。その隙を突いて大男が一撃を繰り出したが、那智は造作もなくそれを片方の日本刀で受け止め、それから受け流した。
そうして、隙を作る大男の腹を思い切り膝蹴りしたんだ!
あのガタイのおっさんに比べれば細い足だし、いまいち効いちゃいないだろうとハラハラしながら、肉切り包丁の柄を握り締めて見守る俺の前で、大男は巨体をくの字にして「ゲェッ」と胃液を吐き出した。
腹には鎖やら鉄板やらで防御してるってのに、那智のクリティカルがヒットしたって言うのか?
それとも、わざと蹴り上げて、あの鉄板やら鎖やらでクリティカルを狙ったのか…?
「アンタもあんまり役に立たねーなぁ?なに?スピカに金でも貸したのかぁ??」
じゃぁ、返ってこねーよと笑って、那智は体勢を崩すおっさんに日本刀を振り下ろした!…んだけど、おっさんも素直にやられる気はないらしく、スパイクの腕で受け止めた。
鋭い金属音で、どれだけの力が圧し掛かっているのか判るような気がする。
あくまで喧嘩に無縁の俺の感想だから、気がするだけなんだけどな。
形勢逆転の状態で受け止める日本刀をギリギリと押し遣りながら、大男は眼前に迫る悪魔に目を見開いた。
「お、お前は、もしや…浅羽那智か?!」
「ぽちは那智って呼んでんだぜー」
可愛いよなぁと、どうでもいいことをケロッと言いながら那智は、一旦、巨体を押し遣って体勢を整えると、ニヤニヤと笑って身構えた。
頬の返り血が顎から零れ落ちている。
「あれ?ぽち、なに包丁とか持ってんだぁ??」
顎を拭いながらニヤニヤ笑って俺に気付いた那智は、そんなどうでもいいことを、戦いの最中だって言うのに言いやがるんだ。
どうだっていいだろ!…と口に出す前に、大男のグローブが那智に振り下ろされるけど、那智はそれを難なく受け止めた。その攻防に足技まで繰り出すんだけど、見ているうちに、どちらが優勢かよく判る。
これは喧嘩に疎い俺にだってよく判った。
何故なら、おっさんは肩で息をしているのに、那智は少しも呼吸を乱していないんだ。
驚異的な体力に俺が更に呆気に取られていると、ブンッと風を切るようにして繰り出される拳を僅かに避けた那智はニヤニヤ笑いながら、その場でいきなり飛び上がると、空中で一回転するようにして驚く俺の傍らのカウンターに降り立ったんだ。
「ぽちさぁ、それ危険だから。だから、オレに寄越せってば」
「この店の天井が高かったからよかったものの、アンタ、戦う時は状況をよく考えて…」
「はぁ?ちゃんと目測はしてたぜ~」
そう言われてみればそうかと、現に、ちゃんと俺の目の前のカウンターの上に着地してんだからいいのか。
屈み込みながら首を傾げる那智に、そんなことを考えながら俺は言われるままに、差し出された手に肉切り包丁を渡したんだ。
「ち、畜生…ハァ、ハァッ」
既に肩で息をしてる時点で、この戦闘の勝敗は判り切っているような気がするのに、ニヤニヤ笑う余裕の那智は許してやる気なんかさらさらないみたいだった。
「畜生じゃねーよ。それはこっちの台詞だし?あーあ、またスピカに怒られる」
うんざりしたように、日本刀で肩を叩いてニヤニヤしている那智は、まるで何かのついでのように肉切り包丁をヒュッと投げたんだ。
ハッとした時には、回転を早めた包丁は凄まじい早さで、おっさんの首を刎ねていた…と思う。
鮮血を吹き上げて、大男はきっと、何が起こったのか判らないまま死んだに違いない。
暫くふらふらと動いていたけど、グルンッと目玉が上を向くと同時に首が転げ落ち、頚動脈を切断した首から生命の名残りすら吹き飛ばすように鮮血が迸り、その反動で巨体は大きな振動を起こしてぶっ倒れてしまった。
あんまり速度が速かったから、避けることも逃げることも考える余裕さえないんだから、首も刎ね飛ばされなかったんだと思う。
「スピカに内緒でさぁ、掃除しよーぜ?」
あまりの出来事に声すらも上げ忘れて呆然と立ち尽くす俺なんかお構いなしに、那智のヤツはカウンターから血塗れの床にゆっくりと降り立つと、振り返ってニヤッと笑った。
木製の床にじくじくと広がる血の海と、累々と横たわる死体、鼻を突く異臭に眉を寄せる
俺の目の前には、返り血を浴びてニヤニヤ笑う那智がいる。
「…その死体はどうするんだ?」
まさかゴミ捨て場に投げ捨てるワケが…あるか。
だいたい、この町にあるゴミ捨て場はいつも何かしらの死体が投げ込まれているから、一種独特の死臭が染み付いている。いまさら、それが4体増えたところで、誰も機動警備隊に通報しようなんて物好きはいないからな。
「喰える分は喰いたいかなぁ~、腹も減ったしさぁ」
言うが早いか、まだ温かさを残す腕を拾い上げて口に持って行くと、那智は歯を立てて肉を食い千切って租借した。
何度見ても、慣れるもんじゃねーよなぁと思う。
俺が青褪めて見詰める先、租借していた那智が急にヘンな顔をしたかと思ったら、ぶぇっと吐き出してしまった。床に吐き出して、噎せたように咳き込むその口許が、ニタッと笑ったから、やっぱり反射的にゾッとしてしまう。
「コイツ、薬やってたな。薬はダメだ。これはもう喰えねーなぁ」
口許にこびり付く血を片腕で拭いながら、ふと気付いたように、両手に持っている日本刀に付着した血液をビュッと風を切るようにして振り落としてから、腰に佩いている鞘に納めたんだ。
「…じゃ、もう用無しってことか?」
「とは限らないし?オレさぁ、すげー腹が減ってるんだよなぁ」
「人間以外に喰えないのは辛いな」
ポツリと呟いたら、他に良さそうな死体を選んで口に運んでいた那智は、「ん?」と言いたそうな顔をして俺を振り返ったんだ。
「別に普通の飯が喰えないってさぁ、苦労したこたないし?お、これはイケる。今の時代、人口は増える一方で、喰うのに困ることもないってワケ」
那智は、そんなに観察とかしたくはないんだけど、食餌をするとき、肉を喰うと骨の周りにある筋や健なんかも綺麗に喰って、それから、どれほど歯が丈夫なんだか判らないんだが、骨まで噛み砕いてしまう。かと言って、それを夢中で貪るってこともなく、何かのついでのように片手に持って別のことをしながら喰うんだ。
小さな部位、たとえば指なんかは無造作に口に放り込んでしまう。
「那智は増え過ぎる人口を抑えるために、そう言う身体になってしまったのかもしれないな」
取り敢えず、那智の食餌が終わるまで、その辺の片付けを始めながら言ったら、黒エプロンのネゴシエーターは片手に人体の一部を持って、しかもそれを喰いながらニヤニヤ笑うんだ。
血溜まりに立ち尽くして人肉を喰らいながら笑うんだから、悪夢…のようだとは思うけど、何故か、それしか喰えない身体になってしまっている那智を、怖いとか気持ち悪いとか思えないでいた。
却って、悲しいとすら思ってしまうんだ。
俺も大概、どうかしてるとは思うけどな。
「はーん?よく判らねーなぁ。気付いた時には人間を喰ってたんだから、何故こうなったとか、考えたこともないワケよ」
「そうか」
調理場に回ってゴミ箱用のビニール袋を見つけた俺は、カウンターを回って店内に戻ると、そこら中に飛び散っている、嘗ては大男たちだった亡骸を拾い集めた。
比較的大きなビニール袋が10枚分になりそうなソイツ等は、那智が喰い易いように壁に突き刺さっていた肉切り包丁を取って来て勝手に解体を始めてるから、余計に数を増やしている。
そうか、なんとなく判った。
那智が開店時間を全く気にしないワケが。
気にしていないんじゃない、こんな連中が来るもんだから、オープンしていても客の方が来ないんだ。
那智にしてみれば、これは絶好の食餌タイムだし、うっかり足を踏み入れた客は、たとえ開店時間だったとしてもダッシュで逃げ出すだろうから…那智が言っていたように「気が向いた客がそのうち」来るんだろう。
…なんつーか、その、先が思いやられると思うのは、俺だけなんだろうか。
足許に広がる闇は何処までも暗くて。
その先を見ようとしても無理だった。
無理ならそれで諦めればいいものを。
どうして覗き込みたいと思うのか。
不思議だと首を傾げれば。
闇なんか見なくてもいいと笑う声がする。
光が満ち溢れるように心を満たすから。
オレは。
暫くその笑い声を聞いておこうと思う。
いや、違う。
ずっと、永遠でもいいから聞いていたいと切望する。
足許にある無限のような闇が。
気にならなくなっていた。