アリストアは淡々と語り、蒸気は勢いを増して薬缶から吹きあがる。
それだって隙間だらけの事務所だとなんの役にも立っていなくて、暑くなんかないはずなのにやけに汗が額を濡らすんだ。
「彼らの通りすぎた後に横たわる死体は無残だそうだよ。残念ながら私は見たこともなければ、見えたこともないのだがね。しかし、一度は会ってみたいと思っているよ。とても魅力的だからねぇ」
「魅力的だと…?」
俺は乾いた唇を何度か舐めて、搾り出すように呟いていた。
「全く…相変わらず君は偽善者だね」
「偽善者で悪いかよ?人が死ぬのを笑っていられるほど冷たくないんでね」
俺は人間なんだ。冗談じゃねぇ。
「君の、相棒だと言ったかな。彼は殺し屋だろう?死臭と血の匂いがプンプンとしていたよ。本人にその気さえあれば、ここいらの人間はひとたまりもないんじゃないのかな。そして、君もそのことは知っているのだろう」
気障なヴァンパイアはそう言うと、色素の薄い瞳を金色に煌かせて真っ赤な唇をニヤッと釣り上げた。
「それでも離れることをしない君は、充分、冷たいのではないのかね?」
息と一緒に言葉を飲み込んだ。
震える拳を握り締めて、俺は唇を噛みながら金色の双眸を睨みつけた。
何がおかしいのか、アリストアは人ならざる者の表情でうっとりと微笑みやがる。
「君は本当に…いや、そんなことはどうでもいいね。君の追うべきターゲットは『遠き異国の旅人』だ。捜し出せるものなら捜し出してみるといい」
「お前がその一員じゃないと言う証拠がない限り、お前だってターゲットだ」
俺は漸く、そんな憎まれ口を言った。
いまいちどころか、全然効いていないんだろう、アリストアは一瞬だけ呆気に取られたような間抜けな顔をしたが、次いで、すぐにおかしそうに笑ったんだ。その時はもう、人を食らう時に見せるあの尋常じゃない妖魔の顔じゃなく、しっかりと人間に化けてやがった。
「わたしは人間を殺さないよ。大切な食餌だからね。愛おしんで、悦楽も苦痛も長引かせてあげるのが愛の深さだ…」
ちゃっかりと不気味なことまで嘯いて、ヴァンパイアは牧師の顔に戻って慈悲深く微笑んだ。
「さあ、わたしの情報はこの程度だよ。もう行きなさい、ここにいても時間の無駄ではないのかね?」
「…なんであんたは、俺に教えたんだ?狙われたりとかしないのかよ?」
アリストアは面食らったような表情をしたが、すぐに牧師の慈悲深い表情で俺をまっすぐに見つめてきながら呟くように言った。
「言わなかったかね。わたしも会ってみたいのだよ。その姿なき来訪者に」
相変わらず気障な台詞を吐いたヴァンパイアの双眸はどこか真剣で、口ほどには茶化してるわけじゃないことを俺は感じたんだ。
と言うことは、これから俺が駆け回って探す情報の先々にコイツが現れるってワケなんだが、それでもいいかと思った。俺の邪魔をしなければただの牧師だ。
そう自分に言い聞かせる、とんだ偽善者面に吐き気がしながら。
目の前にヴァンパイアがいるのに、若い娘の咽喉を食い破る異形の化け物がのうのうと腕を組んで立っているって言うのに、俺はソイツの胸に杭を打つどころか、まるで負け犬のように教会を後にしたんだ。
俺はいったい、何がしたいんだろう…
◆ ◇ ◆
指の隙間から零れ落ちる砂のように、儚くも脆い人の魂の逝きつく先を見つめながら、寄せては返す時の波に想いの深さを感じていた。
遠く愛した日々を口の端に浮かべたところで、物笑いの種にされることは仕方がない。
死に逝く者が見せる一瞬の輝きのようなこの愛は、闇の底で膝を抱えて蹲る、気弱な生き物に落とされた情けのようなものだったから、いまさら恨む気にもなれなかった。
今一度、あの輝く姿を見るまでは。
暗い暗い深淵の底から見上げた空に似た、あの笑顔をみるまでは…
◆ ◇ ◆
俺はトボトボと街路樹のある歩道を歩いていた。
冬の匂いを散らつかせる冷たい風に首を竦めながら、微かな温もりをくれるマフラーで口許を覆った。そうでもしないと、噛み締めて白くなってる唇を訝しそうに見られてしまうからだ。
この街路樹のある通りは恋人たちにけっこう人気があって、肩を寄せ合う連中は不躾な目付きで俺を見るんだ。
だから俺は顔を隠す。
たぶん、酷く憔悴してるんじゃねーかな?
季節は冬だし、痛めた身体はあちこち痛いし…
「あれ、光太郎くん?」
不意に聞き慣れた声に気付いて振り返ると、真っ白なコートに身を包んだ野崎勇一が茶色の紙袋を抱えて嬉しそうに立っていた。
「良かった、ここで会えて。すみれちゃんに聞いてお見舞いに行ったんだけど誰もいなくて…」
小走りで近付いてきた勇一の口許には弾む息が白く空に舞いあがってる。
「勇一…ごめん、ちょっと用事でさ」
「もう仕事してもいいの?身体、まだ本調子じゃないんでしょ?」
眉を顰めて小首を傾げる仕草は、すみれとは違った可愛らしさがある。高校の時も不埒なヤツに告白なんかされてたっけ。俺にとっては冗談じゃないけど、何となくヤツらの気持ちも判らんでもないよ。
「ああ。でももう動ける。ほらなっ!」
そう言って腕を振り上げて見せると、勇一は少しホッとしたように顰めていた眉を和らげて、小さく微笑むんだ。うん、やっぱりヤツらの気持ちが判る。
なんか、抱き締めてやりたくなるからな。守りたくなる、うん、そんなカンジ。
「じゃあ、もう大丈夫なんだね。それじゃ、これ。果物。身体にいいと思って」
「おお!サンキューな。あれ?お前、もう帰るのか」
「うん。ちょっと用事もあるし…それじゃあね」
ニコッと微笑んで勇一は手を振った。
小さな仕草も可愛くて、女連れの野郎だって振り返ってる。
あーあ、彼女に耳を引っ張られてるよ。なんつー古典的なことを…
俺は思わず笑って、それから白くなった息が薄暗くなった青空に吸い込まれて行くのを見上げながら、これからどうしようかと思った。
依頼人…吸血鬼に娘を殺された未亡人に、なんて報告しよう。
相手が悪いです。警察には逮捕なんてとても無理でしょう…とか言えねぇしな。
ああ、どんより。
俺が肩を落として歩き出した時だった。
不意に何か、声のようなものが聞こえたんだ。
勇一が消えた街路樹の通りを折れた裏道、突き刺さる視線のようなもの。
ゾクッとした。やばい。
この気配はヤバイんだ!
条件反射で走り出していた。手にした紙袋がガサガサと耳障りな音を出すけど、俺はお構いなしに通りから入った裏道をめざす。
「こ、光太郎くん!」
悲痛な勇一の声は、その真っ白なコートに包まれた身体を抱きすくめられた腕の中で不安に鋭く尖っている。恐怖が、可愛い顔を歪めさせていた。
抱きすくめてるのは変態か…それとも。
◆ ◇ ◆
《あれぇ?獲物が向こうからやってきたよ》
声じゃない、思念。
笑ってるように揺れて頭に響いてくる。ハッキリ言って不気味だ。
《面倒臭いなぁ…》
唐突にすぐ近くで思念の声がして、ハッとした時には遅かった。
持っていた紙袋が乾いた音を立てて地面に落ちると、中からミカンとネーブルが転がり出てしまう。
腕を凄まじい力で捩じ上げられ、苦痛に歪む顎を掴まれて上向かされた。
2人…だったのか!
覗き込んできた金色の目と俺の目が合った。それは明らかに人間じゃなくて、面倒臭そうな、不機嫌そうな表情をしたピエロは奇妙な化粧を塗りたくった口許を歪めている。チラッと覗いてるのは、牙かもしれない。
蒼白の顔は化粧で誤魔化して、二つ割れの先端にポンポンの付いた帽子を被って…なるほど、これなら昼間に行動してもバレないって手筈なんだろう。遊園地とか…
獲物は山ほどいるってワケか。クソッ!
《この子の方が好み~。そっちはデュークにあげるよv》
勇一を捕まえてる青いピエロが笑ってそう言うと、睨み付ける俺を奇妙な目付きで見下ろしていた赤いピエロが唐突に口付けてきた。
ぎゃあ!
《デューク!?》
ギョッとしたように青いピエロが名前を呼ぶと、赤いピエロは暫くして唇を離してペロリと呆然としている俺の口許を舐めてきた。そして、ペコちゃんみたいに自分の唇を舐める。
アシュリー以外にされるのは初めてだった俺は、目を白黒させて呆気に取られ、恐怖に青褪めている勇一も何が起こったんだと涙に濡れた目で俺たちを見てる。
一番驚いてるのは青いピエロで、なんで人間なんかに興味を持ってるんだよとでも言いたそうな表情をしてる。人間はただの食餌なのに、とでも思ってるんだろう。
《アーク。ボクはコイツを気に入ったよ。ソイツはキミが楽しむといい。ボクはコイツを可愛がる》
《ヘンなの。デューク、それはヘンだよ》
《ヘンじゃないよ。ボクはこの人間を手許に置きたいんだ。大丈夫。キミの仕事もちゃんと手伝うよ。でも、可愛がるのはコイツだけでいい》
《まるで一目惚れ。デュークらしくもない》
《うん。そうかもね》
ゾッとする会話をしながら赤いピエロは俺の髪に頬摺りをしてきた。
そう言えば、あのアリストアも俺を伴侶にするとか気持ち悪ぃこと言ってたよな。なんだって言うんだ、俺よ!いったいどうなってるんだ。
「じ、冗談じゃねぇ!離せッ、離しやがれ!」
俺が思いきり暴れると、赤いピエロは殊の外、あっさりとその手を離しやがった。
《あらら、デュークったら優しい。ホントにメロメロ?》
《うん。可愛い。ボクを睨んでるよ》
反動でよろけながらもすぐに態勢を整えて身構える俺を、いつの間に傍に寄ったのか、勇一を片手に抱きかかえた青いピエロが赤いピエロの肩に腕を回してそう言うと、赤いピエロは腕を組んで笑った。
可愛いとか言うな、気持ち悪い!
アシュリーにしろ、アリストアにしろ、このピエロにしろ!いったい、コイツらは俺のことをなんだと思ってるんだ!俺は男で、こう見えても20歳になる健康優良児なんだぜ!そりゃ、確かに学生さんですか?と聞かれるぐらいに童顔だけどよ、だからって女に見えるはずもないだろう。俺の顔は立派な男だ!男なんだ!ただ童顔ってだけなんだよう!
ああもう、泣きそうになるぜ。ちっくしょう!
《人間の男なんか対象外だけど…コイツは違う。あの目付きが腰にくる。食べるだけなんて勿体無い》
《女だったらいいのに。そしたら気紛れデュークの子が見られる》
《うん。初めての子はコイツに産んで欲しかった》
「なに、人を無視して気持ち悪ぃこと言ってやがる!俺は男だ!!」
そもそも子供だと?
この化け物たちは子供を作る事ができるのか?
恐るべし…だ。
《判ってるよ。見れば判る。ねえ、名前はなんて言うの?どんなモノが好き?欲しいものを言って、ぜんぶ集めてあげるから…》
瞬きしている間に近付いた赤いピエロに抱え上げられて、うっとり細めた金色の双眸で見上げられた俺は声を失った。気持ち悪いし、できることなら思いきり暴れたい。
でも、その金色の目を見た途端、まるで腰砕けにでもなったように身体に力が入らなくて…声すら出せねぇ。なんてこった…
「ゆ…ゆう…勇一を…はな……し、やがれっ!」
根性でそう言うと、赤いピエロは驚いたように双眸を見開いて、それから嬉しそうに笑って青いピエロを振り返った。
《聞いた?ボクの力で押さえこんだって言うのに、喋るんだよ!すごいよ、この人間ッ》
《でも危険。やっぱり食べて殺そうよ》
《イヤだ。ボクはコイツを連れて行く》
《判らず屋。相変わらず判らず屋》
《なんとでも》
ニッコリ笑って赤いピエロは睨み付ける俺の顔をうっとりと覗き込んで来る。気味が…悪いはずの顔はハッとするほど綺麗だ。アリストアもいい顔をしてたけど、人間じゃない連中ってのはどうしてこう、いい顔をしてるんだ?コレで人間を誑かすのか。そうなんだろうな、きっと。
《ボクをきっと、好きになってね。大丈夫。ボクはキミを幸せにするよ》
《まるでプロポーズ。デュークったらご機嫌。珍しい》
青いピエロは肩を竦めると、ガタガタ震える勇一を胡乱な目付きで見下ろした。
ヤバイ!助けなきゃ…ッ!
《食欲が失せちゃった。可愛いけど、お前はいらない。ボクは古巣に戻ってる》
そう言って勇一を突き放した青いピエロは赤いピエロをチラッと見ると、もう一度、肩を竦めて首を左右に振った。
《あんまり犯り過ぎないようにね。人間はすぐに壊れるから》
《うん。大事にする》
《どこかに愛の巣を作って…旅人にはもう戻らないの?》
《ボクは旅人。でも、コイツは仲間にしない。だって、ボクのお嫁さんだから》
《ふぅん。旅は道連れ、世は情け…》
クスクス笑って青いピエロは闇に消えた。
呆然とへたり込んでいる勇一には何が起こったのか判っていないみたいだった。
実際、俺にだって今の状況なんか判らないって!つーか、なんか凄くヤバイ状況のような気がするんですけど…
ガクガクと震えて、見開いた大きな双眸からは大粒の涙が零れ落ちている。
こんな時だけど、勇一の方が遥かに可愛い。なのに、どうして俺なんだ!?
《そこの人間は気が触れたか、或いは恐怖に怯えてるだけ。ほら、助かった。だからキミはボクを好きになるんだ》
「どう…どう言う理由からそうなるんだよ?そう言うのを人間は変態って言うけど、わかるか?」
喋られるようになって、俺は抱き締めてくる赤いピエロを憮然とした表情で見下ろしながらそう言った。なんか、こいつの雰囲気には覚えがあるんだ。凄く身近にいた、誰かの雰囲気にそっくりだ。そう。
アシュリーに。
《変態?上等だよ。ねえ、なんて名前なの?教えて。キミの口で教えて》
教える気なんかなかった。
コイツが、この赤いピエロがその気にさえなればアッサリと口を割らされる事は目に見えてるからな。
《だんまりする?ソイツを殺しちゃうよ。それでもいい?》
「光太郎。俺は光太郎だ」
《コータロー?可愛い名前。ボクはデューク。キミはボクの特別なヒトだから、デュークって呼んでもいいよ》
「判ったよ、デューク。勇一を助けてくれ」
諦めたように呟くと、ピエロはニッコリ笑った。
どこから出したのか、真っ黒の外套でフワリッと俺を包んだデュークはその上から抱き締めて、耳元に小さく囁いてきた。本当は声なんか出していない、思念なのにな。
《大丈夫。ボクは愛するヒトの言うことには忠実だから。もっと我が侭を言ってね》
そのまま、クラリと意識が遠退いた。
「光太郎くん!!」
悲痛な叫び声を聞いたような気がしたけど、あれは誰の声だったんだろう?
勇一?
俺?
それとも、違う誰かだったのか…
◆ ◇ ◆
暗闇に湿った音がする。
俺は両足を大きく割り開かれて、掴まれた足首をギュッと握り締められると、苦痛に少し眉が寄った。
何時間、そうして受け入れさせられていたのか…もう判らない。
初めのときは絶叫した。
身体を裂かれてるような気がして、怖くて怖くて…断末魔のような絶叫を上げた。
でもピエロは、デュークは許してくれなかった。
それでも何時間も身体の奥に受け入れてる間に、俺はゆっくりと慣れていった。
快感も覚えた。
でも、心だけがとても追い付いてこなかった。
デュークにキスされて、それに応える。
愛してると囁かれて、眉を寄せた。
何が起こってるんだろう?これは夢だ。
酷い悪夢なんだ。
俺は信じたくなくて、そのまま気を失った。
◆ ◇ ◆
気付いたら見知らぬ部屋のベッドの上だった。
酷い倦怠感が襲ってきて、腰が鈍く痛んだ。
ああ、そうか。俺、男に犯られたんだ…
クソッ!
上半身だけ起こしてシーツを握り締めて悪態を吐くと、忌々しくて舌打ちした。
脳裏に浮かぶのはアシュリーの顔で、あの垂れた双眸が懐かしかった。
(この一週間だけは絶対に危険なことに関わっちゃダメだからね)
あの台詞を守っておけば良かった。さすが後に悔いると書いて後悔ってだけのことはある。すっげぇ落ち込みまくり。溜め息ばっかりが出るよ。
犬に噛まれたと思って…それだって膿んで腐る重症だけど。
諦めたかった。
不意に、窓に映った自分の姿にギョッとする。
全身に散らばる小さな鬱血にもギョッとしたけど、この咽喉もとの小さな二つの傷はなんだろう。恐る恐る触ろうとした腕を背後から掴まれて、思いきり引き寄せられた。
《ごめんね。ムリさせちゃったみたい》
あの、人を馬鹿にしたような二つ割れの帽子は今は脱いでいて、ディープブルーの髪がほの暗い常夜灯に微かに煌いている。奇妙な、変わった髪の色と金色の瞳は、やっぱり人間じゃないんだろう。
しかも、化粧が落ちた顔立ちは恐ろしく整っている。釣り上がり気味の鋭い双眸が、俺を写して少しだけ和んだようだ。化粧なんかしなきゃいいのに…と思ってハッとした。何を言ってるんだッ、俺!
組み敷かれながらキスを強要されても、今度はそれに逆らった。
もう、冗談じゃねぇ!勇一もいないんだ、なんでコイツの思い通りになってやらなきゃいかんのだ!?
キュッと真一文字に唇を引き結ぶと、デュークは舌先でチロリッとそんな俺の唇を舐めるだけでそれ以上は何もしなかった。
けど。
《…ねえ、アシュリーって誰?》
酷く静かな淡々とした思念で語りかけてくる。
「うえ!?」
しまった、俺は無意識の内にアイツの名前を呼んでいたんだ!
思わず変な声を洩らしてしまうと、デュークは面白くなさそうに唇を尖らせた。
《ボクに抱きつきながらキミ、ずっとその名前を呼んでいた。だからムカツイて首筋を噛んじゃった。悪いコトしたとは思ってないよ》
口許を覆って目を見開く俺を、冷めた目で見下ろしていたデュークはしかし、すぐに俺の鼻先にキスして身体を起こした。
「噛んだって…じゃあ、俺も吸血鬼になったのか!?」
《吸血鬼!?》
ギョッとしたように俺を振り返ったピエロは、それからすぐに噴き出すと、首を左右に振って両手を降参するように軽く上げながら肩を竦める。
《よして。吸血鬼になんかするワケないでしょ?》
「噛んだって…」
言ったじゃねぇかよ。
胡乱な目付きで睨み付けると、そんな俺を見下ろしたデュークは小さく笑った。
《噛んだよ。ボクのお嫁さんって意味でね。その傷痕、消えないよ。アシュリーはなんて言うだろう》
そのやけに冷やかな双眸は、内側で何かを秘めている。
暗くて根深い…それはきっと、嫉妬だ。
アシュリーがヤバイ!
「ち、ちょっと待てよ!俺はあんたのよ、嫁さんにだってなってやる!でも、俺の仲間には手を出すなよッ」
上半身を起して思ったよりもしっかりと筋肉のついている腕を掴んで必死に言うと、妖魔は感情を窺わせない表情でニッコリ笑って頷いた。
《我が侭を言ってもいいって言ったのはボクだから、光太郎の気持ちを最大限に優先するよ》
チリッと空気が震える。
見たことも感じたこともない殺気が空気を焼いてるんだ。
俺は思わず息を飲んで、握り締めた拳は爪が皮膚に食い込んだ。
妖魔の腕を掴んでいる腕が震えて、俺は自分の咽喉がこれ以上はないってぐらい渇き切っているのを感じた。ああ、コイツは妖魔なんだ。
しかも、もしかしたら【遠き異国の旅人】だと呼ばれる集団の1人。
いやたぶん、絶対にその1人だ。
自分でも言っていたじゃないか、自分は旅人だと。
《バカな光太郎。キミが震えることなんて何もないのに。ボクはキミをきっと守る。妖魔の約束だけど信じてね》
震える俺に気付いたのか、デュークはすぐに抱き締めてきた。
俺が震えてるのは、お前のせいなんだ。
そんな、無条件で殺気を散らつかせながら抱き締めるなよ。
俺はお前が怖い。
いや、この時になって漸く俺は【遠き異国の旅人】を心底から恐ろしいと思ったんだ。こんなヤツがあと何人いるんだ?
そんな連中を相手にするのか?
《ボクの大事なお嫁さん》
コイツは知らない。
俺は、お前たちを狙ってるんだ。
妖魔のくせに温かな身体を持っているデュークの背中に腕を回す気にはなれなかった。
ああ、ここにお前がいたらいいのに…
お前は知っていたんだな。
俺は目を閉じて、ただ一人の名前を噛み締めるように思っていた。
アシュリー。
助けてくれ。