4  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 ちっくしょう…
 どうやらここはどこかのマンションのようだ。それも、格別高い、高層マンションのようだ。
 どう言う仕掛けなのか、窓には鍵がかかってるってワケでもないのに、なぜか開かない。
 デュークはあの青いピエロと仕事があるからと言って出かけてしまった。
 ヒョイッと肩越しに振り返って《逃げようと思っても無駄だよ。ここは、人間的に言ったら結界?が張ってあるからね》と嬉しそうに言っていた。
 疑問形で聞かれたってなんて答えりゃいいのか判らない俺は、溜め息をついて、自称〝夫〟を見送ってやったさ。

「いってらっしゃい、あなた」

 そう言ったら、ちょっと驚いたような表情をしていた妖魔はすぐにニヤッと笑って、素直なのは好きだよ…とか言いながら肩を竦めると玄関に向かって、まあ、先のようなことを言ったわけだ。
 本気で言うワケがねぇだろ、バカ野郎。
 あの変態ピエロがいない隙に、どんなことがあったって俺は逃げ出さないと…
 アシュリーは…まだ戻ってねぇだろうな。
 アイツのことを思い出したら、俺は唐突に暗くなってしまった。
 俯いて、唇を噛む。
 俺は、けしてアシュリーを嫌っていたわけじゃない。アイツなりの挨拶にしても、キスされたって嫌じゃなかった。デュークにされた時のような嫌悪感が、端からなかった。
まるで昔から知っているような、そんな懐かしい感触が案外好きだったんだ。
 なんだろう、この気持ちは…
 いや、今はそんなことはどうだっていい。
 ここから逃げ出すことが先決だ。
 一晩中抱かれた身体は痛みを強かに訴えてくるが、そんなこともどうでもいい。
 俺は取り敢えず、無駄だと判っていても薄いただのガラスが嵌め込まれた窓に力任せに椅子を投げつけてみた。
 ガァンッと凄まじい音がして椅子が床に転がったけど、窓自体は別に平然と傷1つなく佇んでいる。いったい、どんな強化ガラスだよ。全く。
 何度したって同じだろうから、俺は椅子をサッサと諦めて周囲を見渡した。
 変態ピエロがいなくなって、よくよく部屋を見渡してみると、けっこう、高額を出さないと手に入れることはできないだろうってぐらい高級な、恐らく分譲住宅だってことは判った。
 調度品も添え付けで、マホガニーだとか、俺が咽喉から手が出るほど欲しかった事務用の重厚なテーブルが書斎に備わっていて…おい、なんだよこれは。書斎だと?
 ふざけやがって!
 どうせ俺のアパートはせいぜい良くて3DKだよ!
 クソッ。
 はっ!いやいや、自分の家と比較しちゃいかん。こんなものは、夢なんだ。
 俺が必死で働いて手に入れるなら現実になる、夢なんだ。
 逃げ出せないって判ってるんだろう、デュークは俺を自由にしている。
 服もあるし、財布も家の鍵もそのまんま置いてある。
 ふざけやがって…絶対に逃げ出してやる。
 人間さまを舐めるなよ!

◆ ◇ ◆

 クスッと魔物が笑う。

《デューク?》

 青い衣装に身を包んだピエロが不思議そうに背後の影に振り返ると、真っ赤な衣装の魔物は鮮血に彩られた衣装と同じく真っ赤な唇を優雅な笑みに象って首を微かに振った。
 それでも楽しそうだ。

《ヘンなヒト。デュークはあの人間を手に入れてから、牙が抜けた猛獣のよう》

 そう言って、青いピエロは惜しむように首を左右に振るのだった。

《まるで飼い猫》

 赤のピエロはその挑戦的な台詞にも肩を竦めるだけで何も言い返そうとはしない。

《でも、それもいいかも♪》

 結局、何が言いたいのか。
 青のピエロは蒼白の頬を上気させてクスクスと笑いながら宙に身体を踊らせた。クルンと逆さになって、それでも根性(?)で落ちない二股割れの帽子についたポンポンを揺らしながら、唆すような双眸で赤のピエロに口付けた。

《間接キス。あの人間の味がするよ。昨日は随分と楽しんだ?》

 唇を離した妖魔が嗾けるようにクスッと鼻先で笑って小首を傾げると、その時になって漸く赤い衣装の妖魔はニッコリと見る者の心を魅了してやまない美しい笑みを浮かべて口を開いた。

《アークってば、いつからそんなオヤジ?幻滅しちゃうよ》

 ガタガタと、二人の間で恐怖に震える綺麗な娘は、胸元と首筋から多量の鮮血を滴らせて、もう余命の灯火が消えかけていることを物語っている。恐怖に引き攣った蒼白の頬と、見開いた狂気を宿す双眸が、たとえ助かったとしても、彼女の心に巣食う残酷な悪夢が消えないこともまた、物語っている。

《酷い。オヤジなんて酷い。美味しいからあの人間に持って帰ってあげなよって言うつもりだったけど、もうあげない。デュークにもあげない。これはボクが1人で食べる》

《ご自由に》

 そんな阿婆擦れ…言外の台詞に気付いたのか気付かないのか、プイッと腹を立てたアークは逆さまのままニヤァッと不気味に微笑んで、ヒィッと怯える娘の長い髪を引き掴んでさらに高く舞い上がる。

「き、キャァァァッ!!あ…あ…願い、た、助けて…」

 長い髪を思い切り掴みあげられて、ブチブチと鈍い音を立てて皮膚ごと毟り取られながら無理矢理立ち上がらせられた娘が、無理なことだと判りきっているのに綺麗なピエロに救いの双眸を向けた。ボタボタと大粒の涙を零す娘を哀れむように見下ろしたデュークの金色の双眸には、凡そ感情と言うものは見受けられないが、人間に対するにしては哀れみのフリをしているのも珍しいことだ。

《デューク、骨抜き。うんざり》

 肩を竦めた青のピエロは憎々しげに吐き捨てて、忌々しそうに断末魔のような絶叫を上げる娘を闇の中に隠してしまった。顔だけを宙に浮かした奇妙な青のピエロを見据える深紅の妖魔に、彼はもう一度大きな溜め息をついた。

《あの人間。ヴァンパイアが狙ってるよ》

《ヴァンパイア?》

 不思議そうに小首を傾げると、青の妖魔は暫く何事かを考えているようだったが、ニッコリと笑って頷いた。

《うんとヤキモチを焼くといいよ。それと…イロイロ。あの人間、色んな妖魔が狙ってる。甘い血のせい?それとも…?》

 意味深に呟いて口許に笑みを浮かべたままで宙に浮いた頭を闇にスゥッと消した青のピエロを見送った妖魔、深紅の衣装に身を包んだデュークは暫く訝しそうに腰に手を当てて考え込んでいるようだったが、綺麗な面にうっそりとした微笑を張り付かせてつまらなさそうに思念の声で呟いた。

《アシュリー?》

 つまらなさそうな声音も微笑みも、全ては嫉妬の裏返しで、底知れない殺意が不可視のオーラとなって無気味に裏通りをドライアイスの煙が舐めるように立ち込めた。
 浮浪者は恐怖に溜め息をつき、売春婦は小さな悲鳴をあげて失神する。
 だが、やたらと嫉妬深い不気味な妖魔の姿を見た者は存在せず、彼は煙のような殺意の気配だけを遺して闇に消えた。
 娘の遺した皮膚のこびり付いた自慢の髪だけが、何事もなかったかのように生臭い風に揺れていた。

◆ ◇ ◆

「ああ、クソッ!」

 先ほどから繰り返している行為に、俺は疲れきったようにガックリと床に両手をついて項垂れてしまう。
 破壊された椅子の残骸が散乱して、その他も細々としたもので部屋中は引っ繰り返ったような騒ぎになっている。フンッ!構うもんか。
 俺はそれでも諦めきれなくて立ち上がると、大股で玄関に行ってノブに手をかけた。嫌味たらしく鍵すらもかかっていないそれは、ビクともしないからムカツクんだよな!
 ガチャガチャと回していると、あんなに重かったノブがふわりと軽くなって、俺は呆気に取られながらも慌ててノブに飛びついた、飛びついて回しながらその足で部屋の奥に逃げ出したくなった。
 なぜなら、この脳に直接響く不快な声とも言えない音は…

《おや、奥さん。わざわざお出迎え?》

 そう言ってニッコリと笑った綺麗な顔の不気味なピエロの衣装に身を包んだ妖魔は、人間ならざる金色の瞳をキラキラとさせて部屋に入り込むと、その手で俺を抱きすくめて来やがった!
 ひ、ひえぇぇ~…

《ありゃ、凄いね。逃げようと必死だったんだ?でも無理だった。もう、諦めた?》

 凄惨とした部屋を見渡した後、苦笑しながら覗き込んでくる金色の瞳をキッと睨みつけてやると、ヤツはやれやれと言うように俺をギュウッと抱き締めたままで器用に肩を竦めやがった。

《諦めてないみたい》

 それからクスッと笑う。
 訝しくて睨みつけようとしたら、唐突に、啄むだけの小さなキスをしてきた。
 キスされて…気付いたんだ。
 不意に口に一瞬だけ広がった鉄錆の味。
 思わず吐きたくなるこの味は…アリストアに殴られた時に口いっぱいに広がった、あの、血の味だ。
 コイツ…ッ!!

「人間を襲ってきたのか!?仕事って人間を喰うことなのか!?」

 よくよく見れば唇は真っ赤で、妖魔特有の金の目と、上気した頬は血を吸った後のアリストアに酷似している。俺は恐ろしくなって、その胸元を必死で掴みながら訴えた。
 殺したのか!?人間を…?
 アリストアはなんて言った?彼らの通った後に横たわる遺体は無残だと、確かそう言わなかったか?

「デューク…人間を襲ったのか?」

 見上げる俺を覗き込むようにして冷やかに見下ろしていた金の目の、けして陽気ではないピエロは胡乱な目付きのまま俺の抗議する口に貪るように口付けてきた。

「い、やだ!デューク!やめろッ!ん…むぅ」

 眉を寄せて、イヤイヤするように首を振ってもデュークはやめようとしない。俺の台詞にムカツイたのか、人間ごときに無駄口は叩かせたくないのか…俺は息苦しさと悔しさにギュッと目を閉じながら、生理的に目元に涙を浮かべてそれでも必死で抵抗しようとしていた。

《アリストアって誰?》

 唐突に、頭に響いてきた思念の声にギュッと閉じていた目を見開くと、デュークの剣呑とした不機嫌そうな金の目が間近にあってちょっと驚いた。…どうやらヤツは、俺の人殺し発言にでも、逃げ出そうとしていたことにでもなく、なぜか俺が考えていたアリストアという名前に嫉妬…そう、嫉妬してるんだ。
 口付けながら喋ることのできる思念の声って便利だよな、とか!そんなことはそうだっていいんだ!
 俺は口を無理矢理引き離しながら変態ピエロに喰らいついた。

「なんで、お前がアリストアを知ってるんだよ!?」

《今、考えたでしょ?名前のイメージがね、頭に響いたんだ》

 …ってことは、顔までは浮かばなかったってワケか。
 にしたって、イメージだと?妖魔ってのはなんだってこう…なんでもできるんだ!?

《ねぇ、アリストアって誰?コータローの友達?それとも…ボクの仲間?》

 どっちにしても許さないんだろうな。

「俺の友人知人、全員に嫉妬するつもりかよ?とんだ独占欲だな。そう言うことする野郎ってのはモテないんだぜ?しかも、ストーカーだと嫌われるんだ。判るか?」

《ストーカぁー?どちだっていいよ、別に。変態でもストーカーでも、コータローの好きに呼ぶといい。ボクたち妖魔って生き物はね、一度奥さんに決めたら、二度と手離さないんだよ。死んでも生まれ変わるまで待つんだ。キミたち人間は生まれ変わりを信じていないけどね、妖魔は死の仕組みを熟知してるから待つこともできるんだよ》

 アンビリバボーな発言に目を白黒させながら、俺はそれでも抱き締めてくる身体を精一杯両手を突っ張って引き離しながら睨みつけた。俺の抵抗を楽しんでるんだろう、じゃなきゃ、さっさと抱き締められてるからな。

「死んだ後まで追われるのかよ!?ゴメンだ!」

《契りはもう結んじゃったからね。その首筋の痕は、一生消えないって言ったでしょ?それがボクのものだと言う証。犬になっても猫になっても、ゴキブリになっても虫になっても。どんな姿でも必ず見つけ出して、ずっと一緒にいるから。ボクたちだけが使える、永遠だよ》

 胡乱な目付きをフッと和ませて、デュークは問答無用で俺を抱き締めてきた。俺の色気もない黒髪に頬擦りしながら、デュークは嬉しそうに呟くんだ。

《ああ、どうしてこんなに愛しいんだろう?人間なんて、ただの食餌でしかなかったのに》

 うっとりと呟くデュークに、青褪めた俺は聞かれても構わないと思いながらも、冗談じゃねぇと内心で思っていた。
 抱き締められながら、自由な片腕で首筋に開いている二つの穴を押さえた。
 この疵は、妖魔との永遠を誓う為の証であり、永遠に消えない罪の証でもあるんだ。
 アシュリー!
 俺は怖い!怖いんだ!
 俄かに震えだした俺の肩を慮るように抱き締めるデュークの、人間の血液に潤った温かな身体を感じながら、必死でここにはいないたった1人の名前を心で叫んでいた。
 俺は、俺は人間に戻りたいと思っていた…

◇ ◆ ◇

「アシュリー?」

 若い、16か17ぐらいの娘が細く華奢な腕を伸ばして首筋に抱きつきながら、甘い声音でその名を呼ぶと、物思いに耽っていた金髪の大男はふと思考を遮断されて小さく苦笑した。

「なんだい、エレーネ?」

 垂れた双眸はふとした事で酷く冷たくなることを知っている美しい娘は、クスッと微笑んでその鼻先をピンッと小さく弾いた。

「痛いな」

 困ったように笑うアシュリーに、エレーネは意地悪く鼻に皺を寄せて見せる。

「考え事ばっかり!ちっとも相手をしてくれないんだもの、怒って当然でしょ?」

 小首を傾げる仕種はまるで小動物のような愛らしさがあるが、アシュリーの視線は遠く、彼女を通して誰かを見ているようだ。それを知っているから、娘は鼻先に皺を寄せてツンっとわざと外方向くのだ。

「怒ってるワケ?愛情もないくせに、そうゆうことは一人前だね」

 意地悪く言うアシュリーに、エレーネは漸く調子を取り戻した相棒を嬉しそうに振り返ると、彼の傍から立ち上がった。

「仕事に支障をきたすからよ。人間に現を抜かすのもいいけど、仕事はバリバリこなしてよね」

「ババァは口うるさくていけないね」

「ババァって言ったわね?女性の年をとやかく言うってことは、あんたも立派なおじさんになったってことよ。そのうち、若い人間の坊やから捨てられるかもね。その時になって縁りを戻そうなんて言って来ても相手にしてあげないからね」

 それほど傷付いたのよと、思い知りなさいと言ってフンッと鼻を鳴らして機関銃のように言い募った相変わらずの相棒の仕種に、アシュリーは何年振りかに懐かしく思った。

「師匠に縁りを戻してくれなんて言えないよ。アソコをチョン切られる覚悟でもしないとね」

「言ってくれるじゃない」

 齢100歳は悠に超える若い娘は、ホットパンツから伸びた長い素肌の足を惜しげもなく晒し、誘うような釣り上がり気味の綺麗なアーモンドアイを細めて笑った。
 会えば憎まれ口しか叩かない師弟は、それでも案外気の合う相棒としてはピカイチだ。
 今度の仕事も、それなりに命を張らねばいけないものなんだろう。彼が誰よりも想いを寄せている愛しい人が就いている職業に、自分も似たり寄ったりのことをしているなぁと苦笑して内心で思っていた。
 今度の依頼はズバリ、人間の暗殺ではない。
 人間如きの暗殺なら、この世界から遠く離れていた彼の、この世でたった1人の師匠であり恋人だった娘がこうして傍にいるはずがない。

「今回はナニ?エレーネから逃げ出した男でも殺るワケ?」

「あたしから逃げ出した?冗談じゃないわよ、アシュリー。長らく人間の世界に漬かっていて脳みそまで人間臭くなっちゃったの?馬鹿をお言いでないよ。あのヒトはずっと傍にいてくれてるさ」

 クスッと笑って片手を腰に当てて小首を傾げるエレーネの、冷たい風に揺れる肩口でキッチリと摘み揃えられている黒髪がサラリッと風を孕んだ。
 …剥製にしたあの人間の恋人を未だに想っているのかと、その一途なまでの思いの深さにアシュリーは眩暈がしそうだった。二度と生まれ変わらないように、別の誰かを愛さないように、でも仲間にはしたくなかった人間の恋人を剥製にして自分の館に閉じ込めた哀れな生き物に…いずれ自分もなるのだろうかとアシュリーは溜め息をついた。
 目も開かず、語りかけてもくれない、そんな剥製を傍らに?

「冗談じゃない。オレには無理な話だよ」

 肩を竦める相棒に片目を眇めたエレーネは、それでもそんな仕種をまるで無視して全く別のことを口にした。

「逃げ出した妖魔を殺すのさ。まあ、今回は表の仕事じゃないことは確かだね。裏の仕事よ」

「妖魔ぁ~?面倒臭いなぁ。エレーネ姐さん1人で殺るってのはどう?」

 真夜中のベンチに腰掛けてうんざりしたように背凭れに長い両手を伸ばして凭れるオフホワイトのコートを着た男に、ホットパンツに今は懐かしいチビTに身を包んだ寒そうな娘は鼻先だけで笑って腕を組んだ。

「あたしだってそのつもりだったのよ。あんたがいたら足手纏いだもの」

 なぬ?っと胡乱な目付きで睨むと、エレーネは少し真剣な双眸をしてアシュリーを見た。

「でもね、上がいい機会だからって言うのよ。あんたも昇格するってワケよ。そうしたら、もうホントにあたしの手から離れちゃうのよねぇ。そう思うと、惜しい男じゃない?もう一発ぐらいしちゃおうかしらとも思うワケ」

 アシュリーの独特な物言いは恐らく彼女から引き継がれたものなのだろう、エレーネはまんざら嘘とも言えない口調でそう言うと、上体を屈めるようにして無愛想な表情をした大男に口付けた。

「まあ、一発犯るかどうかは獲物を殺った後の話よね」

 思ったよりも長いキスの後で、エレーネは濡れた唇を舐めながら何でもないことのように呟いた。

「逃げ出した獲物ってナニ?ナニ系の妖魔?」

 うざったそうに訊いてくるアシュリーに、エレーネは殊更何でもないことのようにあっさりと答えた。

「遠き異国の旅人よ。漸く捕まえたって言うのにね、逃がしてんの。馬鹿な連中よねぇ?」

 クスクスと気のない微笑を浮かべるエレーネに、小さく息を飲みながらアシュリーはニッと笑った。

「ゾッとしない依頼だね。俄然、やる気が出ちゃった」

「天邪鬼ね」

 クスッと笑うエレーネの、その夜の闇よりも深い、多くの謎を秘めた漆黒の黒曜石のように煌く双眸が微笑まなかったことを、アシュリーはちゃんと気付いていた。
 一週間で帰られるかなぁ…光ちゃん、怒るだろうなと呟く溜め息は、口中で噛み締めてエレーネには悟らせなかった。
 勤務地は日本。
 喜んでいいのか悪いのか、訝しそうな表情のエレーネを気にすることもなく、とうとうアシュリーは盛大な溜め息を吐くのだった。