第一章.特訓!9  -遠くをめざして旅をしよう-

 白波を蹴立てて水面を行く一隻の船は、その名の由来の通り、美しき涙を零しながら滑走している。その美しい名を持つ船の主は、気性の激しさから『炎豪のレッシュ』と怖れられていた。

(炎豪…ねぇ。どう見ても 怠惰 な肉食獣みたいだけど。まあ、どちらにしても、あんまり関わり合いにはなりたくないタイプだな)

 色素の薄い髪を潮風で戯れに揺らしながら、彰は愛用のデッキチェアに長々と横たわる海賊【ゲイル】の頭領を呆れたように見上げていた。
 それなりに下っ端どもが磨き上げた床に直接腰を下ろした彰が、腰に巻かれた布製のベルトを下敷きにされて身動きも取れない状態で溜め息を 吐 いていると、肌を覆う部分の少ない衣装に身を包んだ小柄な少女が船室から飛び出してきた。

「シュメラ。どうした?」

 片手で古めかしい羊皮紙の巻物を持って腕を組む少女シュメラは、 胡乱 な目付きで自分の名を呼ぶ主を見据えた。次いで、傍らに座る彰には目もくれず、彼女は海賊船【女神の涙】号の船長であるレッシュ=ノート=バートン愛用のデッキチェアに上がると、鼻先が触れ合うほど間近にその顔を覗き込んで鼻に皺を寄せる。

「どうしたもこうしたもないわよ!何時の間に航路変更しちゃったの!?」

「寝ているお前が悪い」

「なんですって?あのね、レッシュ=ノート。こんなことは言いたくないんだけど、どうしてこう、スレイブ族って嘘吐きが多いのかしらね」

 シュメラが悪態を吐いたとしても、どうやらレッシュにはどこ吹く風で、却って彼女をいきり立たせているようだ。

(シュメラ?今度は誰だよ…)

 落ち着いて事の成り行きを見守る彰にしてみたら、この船に拉致されてから一ヶ月以上も経つと言うのに、何故か見知らぬ顔が後から後から出てくるため、この状況に既に慣れていたとしても仕方がなかったりする。
 今度顔を覗かせた美少女は、こんな海賊船にはまるで不似合いで、奇妙な違和感すら感じていた。

「鳥人よりはマシなんじゃないか?睡眠時間二ヶ月は嘘だろう?」

「失礼ね! パイムルレイール は大地に足をつけて歩いてると凄く体力を使うんだから!私なんて回復力が早い方なんですからねッ」

 レッシュの伸ばした足を跨ぐようにして正面きって膝立ちしているシュメラは、可愛らしく唇を尖らせてレッシュに食って掛かる。その光景を無言で見守っている彰は、初めて聞く単語に首を傾げていた。

(〝パイムルレイール〟?)

「そんなことはどうでもいいわ、レッシュ=ノート!約束が違うじゃない。私をパイアラードの都に帰してくれるって言わなかったッ!?」

「言ったさ。言ったが、誰も今すぐとは言ってないだろう」

 間髪入れずにのんびりと否定されたシュメラは頬にカッと血を昇らせたが、精一杯の強がりで鼻先で笑い、デッキチェアから身軽に飛び降りると尻が見えそうなほど短いズボンに包んだスラリと長い足でキュッと磨かれた床を蹴って腰に手を当てた。

「竜使いに現を抜かすのもいいけど。せいぜい食われないように注意することね」

「お気遣いなく」

 肩を竦めるレッシュに行儀悪く舌を出したシュメラは羊皮紙の巻物を投げつけると、後は振り返りもせずに船室に姿を隠してしまった。
 しかし、彼女はとうとう最後まで彰を見ることはなかった。

「やれやれ」

 軽くレッシュが溜め息を吐いていると、荒々しく蹴散らして行く美少女に「おっと」と言いながら入れ替わる様にして甲板に姿を現したヒースが、シュメラの剣幕に肩を竦めながら日光浴中の頭領とその囚われ人を振り返った。

「ありゃあ、どうしたんでしょうかね?お姫さんの剣幕は今に始まったワケじゃありませんが、どうも【ゲイル】の連中はお頭の耳に念仏を唱えたがる奴が多いようでいけやせん」

 どう言う意味だと軽く睨むレッシュに肩を竦めたヒースは、遠見鏡で肩を叩きながら持ち場へブラブラと歩き出した。その道すがら、仕方なさそうにレッシュに進言する。

「お頭ぁ。女の機嫌は海よりも深い部分で決まるらしいッスよ。早いところご機嫌を取っておかないと沈まない船も沈んじまいますぜ?ましてやパイムルレイールのお姫さんとなりゃ尚更ですぜ」

「わあってるよ」

 相変わらずヒースも【念仏唱え隊】の一員だよなぁと彰はクスッと小さく笑った。彰は意外とこの、ひょろりと背の高いモヤシのようなヒースが好きだった。何がしかの理由でレッシュ以外は当たり障りなく遠巻きに眺めているなかで、このヒースだけは変わりないように接してくれるのだ。
 面倒見が良くてお人好し…と言うのが、彰のヒースに対する第一印象だった。
 一ヶ月以上も経つ月日の中で、今のところはその第一印象は 覆 されてはいない様だ。
 ハッキリしないお頭の態度に溜め息を吐いて肩を竦めたヒースはしかし、仕方なさそうに彼らを残して持ち場に行ってしまった。その後姿を見送る彰に気付いたレッシュは、眠そうに欠伸をしながらグイッと紐のベルトを引っ張った。

『おわッ!?』

 思わずグラッと背後に倒れそうになった彰は、デッキチェアから降りていた長い足に凭れるようにして受け止められると、驚いたようにレッシュを振り返った。

「なにすんだ!」

「いやなに」

 短く言って欠伸を噛み殺したレッシュは、後頭部で腕を組んで面白くもなさそうに隻眼でチラリッとそんな彰を見下ろした。
 怒っているようだが、どこか好奇の光にキラキラと漆黒の双眸を煌かせる彰に、レッシュは珍しくご機嫌そうに口許に笑みを浮かべる。豪快な笑いなら良く見る彰も、こんな風に何気なく笑われてしまうと怒る気が失せてしまう。
 なぜならそれは、案外、レッシュが男前な顔立ちをしているからだ。
 自然に伸びた髪が潮風に揺れ、燃えるような赤毛はしかし、夕暮れの海に似ていて綺麗だと思った。灰色の瞳はたった1つしかないのに、ドキッとするほど鋭利な刃物に似ていてその研ぎ澄まされた感覚にハラハラする。
 本当に、海のような男だと彰は思っていた。

「シュメラが気になるんじゃねぇかと思ってな」

 図星にムッとする彰はしかし、好奇心がプライドに勝って大人しく頷いた。

「気になるよ。で、彼女はだれ?」

「アイツは【鳥人族】の第5皇女だ。バイオルガン国の首都パイアラードに護送中の身分でね、商船を襲ったらオマケで付いて来たのさ」

 どう言った理由で商船のオマケを首都まで護送することになったのかという詳しい理由は判らないが、彰はこの世界に来て新しい種族の名を覚えることだけに集中した。

(バイオルガン国の首都パイアラードに住んでいるのがパイムルレイールと言う【鳥人族】なんだな。鳥人…ってことはあの気の強そうな子は空を飛べるってことか?)

 彰の関心は、自分には全く関係のない護送の理由だとかそんなものからは遠く離れ、自分たちの世界では空想上でしか聞いたことのない種族の名に注がれることになる。
 迷惑そうなレッシュの態度に気付かない彰は、良く晴れた透明度の高い空を見上げ、この世界のどこかに必ずいるはずの友人を思った。
 見つけ出さなくては…きっと自分がいないと泣いているだろう、大切な幼馴染み。
 案外、タフで順応性があって怖いもの知らずの性格だが、泣き虫で寂しがり屋だと知っているから、優しい幼馴染みの安否が自分よりも気遣われるのだ。

(大丈夫だろうか、アイツ…)

 心配そうに空を見上げる背中を、レッシュの細めた灰色の眸が物言いたげに見つめていることに、彰が気付くことはなかった。