1.導かれし者  -永遠の闇の国の物語-

その世界は悪の力に支配されていた。

 暗黒の空には薄紫の霧が立ち込め、暗雲は当たり前のように陽光煌く太陽を隠していた。
 木々は立ち枯れ、鳥は悲鳴のような絶叫をあげ、小動物は息を潜めて怯え暮らす、鵺が支配する森。
 その森を抜けた霧深い湖の傍ら、蔦絡まる不気味な城壁を晒すその城こそが、この世界を闇に変え、絶対的なる悪の権力を司る魔王の住まう居城である。
 魔王は漆黒の外套に身を包み、華奢な意匠を施した額飾りで留めた艶やかな黒髪は、世界の不安を塗りこめて、より一層美しく輝きを放っているかのようだった。高い鼻梁に、紡げば虚構と甘美な嘘だけが言の葉となる唇は薄く、ただ、憎悪が渦巻く煌く瞳だけが、彼が確かに生ある者の証の如く紫紺に輝いている。
 バルコニーから吹き込む瘴気の風に、緩やかに長い黒髪を揺らし、魔王は満足したかのように世界の全てを見通す眼力でもって、己が領土を見渡していた。
 その足許で、憎々しげに魔王を見上げる少年が、唇を噛み締めて座り込んでいる。
 魔王よりも明るい自然な黒髪は、人間の持つ生気に溢れて見た目よりもふわりと軽く、少年らしい意志の強そうな黒い瞳も、未だ希望を捨てずに煌いていた。
 彼の名は光太郎。
 この世界に本来在るべき者ではなく、己が力を増力するために魔王の力で持って異世界より誘われた贄である。

『何を睨む?其方の世界に関わることでもあるまい。この世のことなど、其方が案ずるに及ばぬこと』

 魔王は生あるものが見れば忽ちにその命の灯火を吹き消されてしまうだろう微笑を浮かべながら、氷のように冷たい声音で座り込んでいる光太郎を一瞥することも無く呟いた。

「もう関わっているのに気にするなって?そんなの無理だ。取り敢えずここはどこなんだよ…ッ」

 キッと、怖いもの知らずな人間は、意志の強そうな瞳をキラキラと煌かせて、魔王が喜ぶ向こうっ気の強い口調で遣り返す。遣り返したものの、近付こうとして、首に嵌められた首輪から繋がる鎖にその動きは封じられてしまった。

『何、其方が逃げ出さぬなら態々鎖になど繋がぬのだがな…』

 逃げ出せるなどとは思ってもいない魔王の、その白々しい台詞に光太郎はムッと唇を尖らせた。
 初めて召喚されたとき、光太郎は夏休みに入ったばかりで夜更かしをして、牛柄のお気に入りパジャマのままだった。きっとこれは夢なんだろう、寝る前にハマッていたネトゲのせいなんだろうと自分に言い聞かせていたが、それが見当違いだと判ったのは夜の闇に溶け込みそうなほど静かな、この世の者ならざる美しい魔王の相貌から紡がれた氷の言葉だった。

『ようこそ、我が永遠の闇の国へ…』

 ゾッとした。
 身体中の毛穴と言う毛穴が一気に開いて、嫌な汗がびっしりと背中を濡らす。
 逆らえない力のようなものを感じて、たかが中学生の彼に刃向かえるほどの勇気などあるはずもなかった。
 だがしかし、元来から向こうっ気の強い光太郎のこと、ワケの判らないまま軟禁されて黙っているわけもなく、さっさと部屋を抜け出して探検さながら城内を徘徊して回ったのだ。
 魔王の居城には、彼の配下の魔物が警備をしていて、そんな人間の小僧などはあっと言う間に捕まってしまい彼らの主の元に引っ張り出されてしまう。そんなことを数回繰り返すうちに、王でありながら随分と寛大だった魔王は、そんな彼の首に自分で外すことの出来ない首輪を嵌めてしまったのだ。
 それからはこうして、彼の足許に座り込む日々が続いている。
 徘徊していて気付いたことは、かなり広い城であることと静けさ。魔物は至る所で警備をしているのに、賑やかさといったものがまるでない。そして、魔物は位が高くなるにつれて人型に近くなっていくということ。
 よほど魔力が強いのか、魔王は美しさこそ人間離れしているが、確かに人間らしい姿をしている。

『…何を考えている?』

 ポツリと、バルコニーから下界を見下ろしていた魔王が呟くと、光太郎はハッとして、自分がボーッと美しい横顔に魅入りながら考え事をしていたことに気付いてバツが悪そうに眉を顰めた。

「この鎖が外れたらなーとか、ここはどこなんだろうなーとか、あんたの名前はなんて言うんだろうなーとかイロイロ」

 不意に魔王の酷薄そうな口許に微笑が浮かぶ。
 彼の影のように付き従う腹心の配下が、ムッとした様に小生意気な少年を睨みつけた。
 さすがにそれには光太郎もビクッとしてしまう。

『恐れながら魔王、少々口の過ぎる贄でありますれば早々に儀式を済まされては如何かと…』

 腹心の、より人型に近い魔物が憤懣やるかたなさそうに腕を組んでムッツリと口を噤んだ。
 なぜならそれは、魔王の機嫌が思ったよりも良かったからだ。

『私は気にならんよ、シュー。この私を前に恐れ気もない人間など却って珍しいではないか。儀式などいつでもできよう。今暫くは楽しむとしよう』

 シューと呼ばれた腹心の魔物は、多少苛々したように眉根を寄せてはいたものの、魔王の言葉が絶対なのか片膝をついて頭を垂れた。

『仰せのままに…』

 そんな二人の遣り取りを黙って眺めていた光太郎は、今もってもこれが本当に夢じゃないのかと無言のままで頬を抓ってみた。

「イテテテ…」

 どうやら夢じゃなさそうだと、生理的に浮かんだ涙をそのままに溜め息を吐いていると、そんな自分をいつの間にかじっと見つめている紫紺の瞳に気付いてドキッとした。
 それでなくても人で在らざる者の持つ眼光だ、思わず心臓が飛び上がってドキドキしたとしても光太郎が悪いわけではない。だが、光太郎はもちろん気付いているはずもない。魔王がその気になれば、彼の心臓が飛び上がる前に一睨みで凍えさせ、その動きを停止させてしまえることになど…
 不意に音もなく近付いてきた長身の魔王は、長い黒髪をサラサラと肩から零しながら腰を屈め、長い兇器のような爪を有する繊細そうな指先でパチンと首輪の留め具を外してやった。

『多少は懲りたであろう。城内は自由に出歩いても良いが、城外にはけして出るでないぞ。飢えた魔物は見境がないからな。其方の臓腑など忽ち食い荒らされるだろうよ』

 やっと自由になった首の辺りを触りながらホッと溜め息を吐いていた光太郎は、そんな魔王の言葉にギョッとして顔を上げた。思ったより間近にある紫紺の双眸にドキッとする光太郎に、満更冗談でもない強い光をその双眸に宿した魔王が身体を起こすついでに少年の腕を掴んで立ち上がらせながら更に言葉を継ぐのだった。

『ここは常しえの闇に支配された名もなき世界。私はこの世界を統べる魔王ゼインだ、光太郎よ』

 魔王、ゼイン…

「ふーん?じゃあ、俺はあんたのことをゼインって呼んだらいいのか?」

『貴様…ッ!!』

 これにはさすがにシューも立腹したのか、思わず腰に挿した奇妙な形の鞘から抜刀して光太郎に斬りかかりそうになった…が、魔王が軽く片手を上げただけで、思わず目を閉じて頭を抱え込む光太郎の頭上に振り下ろされかかったカトラス剣がピタリと留まる。
 思わずギュッと閉じていた目を恐る恐る開いた光太郎は、腕をぶるぶると震えさせて、額にびっしりと汗を浮かべた恐ろしい形相のシューを驚いたように見上げた。

『シュー、気は落ち着いたか?』

『お…許しを…』

 上げていた手を下ろすと、魔王よりも大きな身体をした魔物であるシューはドサリとその場に倒れ込むと、ゼェゼェと荒く息を繰り返した。

『光太郎よ。私のことは好きに呼ぶといい。其方のこれからの世話は、そうだな。シュー、お前に頼むとしよう』

「ええー!?」

 思わずギョッとしたのは光太郎ばかりではない、荒い息を肩で繰り返すシュー自身も片膝をついて畏まりながらも信じられないと言いたげに双眸を見開いている。

『王よ、それは…』

 魔王は人ならざる妖艶な微笑を浮かべて、それこそ驚くほどニッコリと笑って言うのだ。

『人間嫌いは重々承知している。私の大切な贄なれば、其方以外に預ける気にはならぬからな。頼んだぞ』

『うぅ…』

 シューはガックリと項垂れながらも、声にならない声で渋々と承知した。
 こうして、光太郎とシューの奇妙な関係が始まるのであった。

Ψ

「なーなー、やっぱホラ、この世界にも人間ているんだろ?その人たちは今、何をしてるんだ?勇者とかいるのかな?」

 なぜか光太郎は、最初ほどシューに対する恐怖感を感じなくなっていた。
 と言うのも、さすがにこの世界を暗黒に叩き落した魔王と四六時中一緒にいたのだから、それ以上の恐怖などありはしないし、既に恐怖と言うものに麻痺していたのかもしれない。
 そんな光太郎は元気真っ盛りの中学生だ。
 身体の大きなシューは身体こそ人間みたいで二足歩行だが、見た目はライオンのような風貌である。いや、頭はライオンそのものであると言っても過言ではない。ただ、ライオンと違うのはタテガミの中から突き出した2本の角と、鎧から見える鞣革のような褐色の肌が人のそれと同じであることだ。その、鎧を押し上げるように筋肉の盛り上がった肩からヒョイッと顔を覗かせて、大きなシューによじ登ろうとしている光太郎の質問を、魔王の信任厚い腹心の魔物は眉を寄せて不機嫌そうに鼻息を荒くしている。

『人間はいる。勇者など俺は知らん』

 苛々しながらも、最大の忠誠を誓っている魔王からの直々のお達しである『贄の世話』を忠実にこなすために、そんな小煩い光太郎にも辛抱強く相手をしている。
 シューの涙ぐましい努力を、仲間の魔物たちがソッと同情していた。

「そっかー。勇者とかいたらゼインが大変なんだな…でも、俺は人間だし。なぁ、シュー。俺は”贄”って呼ばれてるけど、贄ってどんな意味があるんだ?何をするんだ?」

 鎧に覆われた肩に顎を乗せて、噛り付くように片足は片腕に、片手で首にしがみ付きながらとんでもない姿で尋ねる光太郎に、シューはうんざりしたようにそんな小猿じみた少年を乗っけたままでズカズカと長い回廊を大股で歩きながら肩を竦める。

『それは魔王に聞くといい。俺が答えられる問題じゃねぇ』

「…そっか。ごめん、シュー」

 気を悪くした魔王の腹心の、その端からの態度に今更ながら気付いたように光太郎はしょんぼりとして項垂れてしまう。
 暫く無言のままで長い回廊を行くシューと光太郎だったが、同じく忙しなさそうに回廊を行く1人の魔物がそんな2人に気付いて声をかけてきた。

『シューではあるまいか?』

 誰何の声に驚きもせずに、ましてや光太郎と言う人間を肩に乗せたままで振り返るシューに、気圧されることもなく腕を組んだ魔物、と言うには語弊がありそうな姿形は全く人間のなりをしたスラリと長身で、シューに比べると華奢な魔物は何やら物珍しいものでも見付けて楽しそうな表情をしている。
 光太郎はその魔物がシューと、或いはそれ以上の力を秘めている魔物であることに何となく気付いていた。何故ならそれは、シューに比べるならば遥かに人間らしく、また魔王の存在に近しい気配を持っていたからだ。

『おお、矢張りシューであったか。何やら珍しい飾りをつけておるようだが…何処より連れ参ったのだ?』

『ゼィじゃねぇか。西の都はどうだったんだ?』

 お互い勝手に質問しながら、そのくせ意思の疎通は見事なものだ。
 光太郎はそんなチグハグな魔物の会話に耳を傾けながらも、交互に見比べては首を傾げている。

『相見えはしたがしくじった。この私がな、腹立たしきことよ』

『王の計らいで授かった贄だ』

 返答もやはり互いに行うのは、どうやら彼らのくせらしい。

『魔王の贄だと?ほほう!彼の地より馳せ参じたが、どうやら刻限には間に合わなかったと言うことか。これはまた口惜しい』

『良ければくれてやりたいところだが、生憎と王の命令じゃ仕方ねぇ。お前がしくじったってことは、相手は沈黙の主だったと言うことかい?』

 ゼィと呼ばれた青紫の風変わりな色合いの髪を持つ、思慮深い面立ちの青年は、そのくせ忌々しそうに「チッ」と舌打ちした。

『此度こそは捻り潰してくれたものを!人間は幾許か小賢しく出来ているらしい』

『沈黙の主じゃ仕方ねぇな。相手が悪かったと王に報告しとけや』

『そう致そうかな、ふん。シューもせいぜい人間の世話を小まめにすることだ』

 はははっと笑って手を振るゼィは、一方的に会話を打ち切って立ち去ってしまった。
 優雅な身のこなしにシューとまるで相反する魔物であるゼィに目を奪われていた光太郎は、荒々しい鼻息と共に歩き出したシューのタテガミの中からちょこんと覗く耳を引っ張って首を傾げた。

「今の人は誰?シューより人間っぽく見えたけど…シューよりも怖そうだった」

『俺より怖いぞ。だからヤツの前では決して”人間っぽい”なんて言わないこったな』

 ギロリと睨んでニヤッと笑うシューに、光太郎はちょっと考えてからブルブルッと身体を震わせてシューの耳から手を離すと、肩の飾り物のように大人しくした。

『高等魔族に有り勝ちのアンチ人間なゼィと言う魔物さ。俺と同じく魔王の左腕だと謳われている将軍で、怒らせると何処にいてもソイツを八つ裂きにしちまう怖いヤツだ。あれでお前の世話がしたいなどとほざいているんだから、魔王も他の連中も目を白黒させたって仕方ねぇんだよ』

 他人事ではあるのだが、まさしく他人事だとでも言わんばかりに肩を竦めたシューに対して、光太郎はそうなのかと頷いてそれから徐に首を傾げる。

「そう言えば、ずっと気になっていたんだけど…シューたちに俺が人間だってことはバレてるんだよな」

『…』

 不意にピタリと立ち止まった魔物は、呆れているのか怒っているのか、恐らく前者の気持ちで肩に乗っかる珍妙な生き物を睨み付けた。

『お前は俺たち魔族をバカにしてるのか?あのな、光太郎。俺だって人間は嫌いだ。何を考えてるのかも判らんし、同族を裏切ってもへの河童みてーな連中には吐き気だってする。そう言う連中は臭いで判るんだ。くせー臭いがプンプンする』

「匂い?ふーん、匂いかー」

 そう言って徐に自分の腕に鼻を擦り付けてスンスンと匂いを嗅いでみる光太郎に、シューは肩を竦めて首を左右に振ると溜め息を吐きながら歩き出した。

『大方お前たち人間には判らねーよ。特にお前みたいな能天気な人間には月が100万回昇ったって気付きゃしねー』

 悪態を吐く魔物に、それでも光太郎はニコッと笑って見せた。

「魔族は人間が嫌いなんだなー…でもそうか。それでもシューは俺と一緒にいてくれるんだよな?だったら俺、あんまり寂しくないや」

 唐突な光太郎の台詞に面食らったかのように一瞬前のめりになったシューは、慌てて体勢を持ち直すと、今度こそ本当に呆れたような目でニコニコと笑っている小さな人間を見つめてしまった。

『…人間は魔物を怖がるんだがなぁ。なんと言うかお前は、ちょっと変わった人間のようだ』

「へ?そうかな。んーと、それは多分俺に順応力があるからだと思うよ。この間さ、友達と山にキャンプに行ったんだけど、これが傑作で!案の定と言うか、俺たち見事に道に迷っちゃってさー。山ムカデとか蛇とかいて、それでも冒険だーとか言って華麗に下山して見せたよ。でももう少しで行方不明とかなるところだったんだけど、サバイバル状態に順応していたんだと思わないか?」

 ある意味では自慢しているようにも聞こえる話をペラペラとしながらも、いや待てよと思い直したのか、後半は少し不安そうに眉を寄せて尋ねる口調に変わった光太郎を、最早珍妙な生き物以外の何ものでもないと判断したのか、シューは今度こそ関わり合いにならんぞと意志を固めて吐き捨てるのだった。

『…何を言ってるのか全く判らん』

Ψ

 シューに案内された部屋は、当初軟禁されていた魔王の部屋に比べると段違いに狭く調度品も安っぽいものになっていた。どちらかと言うと、元の世界で住んでいた部屋を洋風にしたような感じである。
 いや、もしかしたらパソコンなどがあったのだから、自分の部屋の方が豪華なのかもしれない…と、光太郎がそんな思いに駆られているその時、シューが荒々しく鼻息を吐き出して腕を組んで言ったのだ。

『さて、どうしたものかな?』

 こうして瘴気によって厚いベールを掛けられてさえいなければ、南に面した窓からは心地の良い日差しが射し込んだだろうに違いない部屋は、王城の南に位置する尖塔にあった。そこは魔物の居住区になっているのか、並ばれた部屋の各々に、それぞれ魔物が生活している気配がある。
 魔王の居城を隈なく探索した光太郎は、その構造を熟知とまではいかなくとも良く知ることができていた。だがここが何処で、どんな場所であるのかと言う事までは判るのだが、何を行うための場所…と言う事は未だに判らないでいる。
 ただ、そろそろ地下にある調理室では今夜の食事の用意が出来ていることだけは確信していた。
 既に肩から強引に半ば叩き落されていた光太郎は、グーと腹を鳴らしながらちょっと照れ臭そうにシューを見上げて腹を擦っている。
 腕を組んで思案に暮れていたライオンヘッドの魔物は、自分を見上げている恐れ気のない風変わりな人間を、それはそれは奇異の眼差しで見下ろしたことは言うまでもない。

『そうか、腹が減ったのか…まずは飯の調達だな』

「うんうん♪あ、それからシュー。俺、ずーっと不思議に思ってたんだけど、シューたちもやっぱりご飯は食べるんだな。でもやっぱアレなのかな。食材はやっぱその、えーっと…捕まえた人間をその、うーんと、調理したりとかその…」

 小躍りしそうなほど喜んでシューの申し出を受け入れた光太郎だったが、やはり後半から何か不安を感じたのか、それともずっと抱えていた不安だったのか、陽気な性格には珍しく眉を寄せて小首を傾げている。
 その仕種を黙って見ていたシューは、ムクムクと湧き起こる悪戯心を抑え切れなかった。

『まあ、そうだろう。今夜、調理室にいるベノムに聞いてみるといい。案外ヤツは、魔族には珍しく人間好きなヤツだからなぁ…』

 クックックと笑うシューに恐れをなした光太郎は、調理室で何でも話を聞いてくれたり、昔話を聞かせてくれたりする年老いたベノムと言う名の調理長を思い出して、あんなにいい魔物が!と思いながらも怯えて震える自分に気付いて嫌になった。
 その魔物の料理を口にしてしまっていた自分が、その時になって物凄く浅ましく、先ほど言ったシューの言葉を思い出して死にたくなってしまうのだ。

[同族を裏切ってもへの河童みてーな連中]

 それはまさしく自分に言われた言葉だったのだと、今更ながら気付いて、光太郎は大きな目に涙をいっぱいに溜めてそれをボタボタと零しながら泣いてしまった。

『うお!?なんだ、いったいどうしたって言うんだ!?』

 まさか泣かれるとは思っていなかったシューは、能天気であっけらかんとしてる光太郎の、その突然の涙に恐れをなしてしまった。それも号泣と言うのではなく、俯いたままボタボタと涙を零しながら「どうしよう、どうしよう」と呟いている姿は滑稽と言うよりも、何とかしてやらないと本当にどうにかなってしまいそうな危機感さえ漂っていた。
 さすがに慌てたシューは、それでも意地悪く尋ねるのだ。

『その涙はなんだ?喰らった人間に対する懺悔の気持ちか?それとも喰らった自分を哀れんでいるのか?』

「判らないよ!両方かもしれないけど、でも今、俺、すげー生きたいと思ってる。人間を食べるなんて信じられない、うッ…でもそんな、ベノムがそんなこと…でも魔物には仕方ないことで…ッ…ぅ…どうしたらッ…俺は…」

 頭を抱え込んで座ってしまった光太郎を、シューは先程とは少し違う視線で見下ろしていた。
 人間は同族を裏切ってもへの河童で、ましてや魔物の身の上の心配などしない、冷酷を絵に描いたような【沈黙の主】のような偽善者だろうと思っていた。
 しかし、今目の前に居る小さな人間は、自分は生きたいと純粋に訴え、偽善的な気持ちもあるし信頼していた魔物の裏切りを信じられずに泣いてもいる。その姿は、不思議なことに、この長い年月を生きてきたシューにとっては当に初めて目にする体験だった。

(魔物を信頼している人間だと?)

『…クッ。ゼィの前じゃ言えねー台詞だぜ、全く』

 どうしよう…と震えながら俯いて座り込んでいる光太郎の傍らに立ったシューは、小さな人間の脇腹を抱えてまるで荷物か何かのようにヒョイッと肩に担ぎ上げてしまった。ぶらんっと両手と両足を投げ出すようにしてなすがままになっている光太郎は、虚ろな目をして床を見つめている。

「俺、ご飯要らない。食べなくても大丈夫だから…うん」

 まるで言い訳のようにブツブツと呟く光太郎に、シューは溜め息をつきながら、まさかこの能天気な人間がここまで繊細に物を考えるとは思ってもいなかったとでも言いたそうな、心外そうな表情で鼻息を荒々しく吐き出した。

『俺たち魔物も人間も、喰うモノはみんな一緒だ。人間なんか喰えるかって。それでなくてもくせーのに、その肉を口にするのかと思うとゾッとするぜ。そんなモンを喰えるのは低級な魔物ぐらいだ。森ならいざ知らず、この城にそんな低級魔物はお呼びじゃねーよ』

 心底嫌そうに眉を寄せるシューに、それまでカタカタと震えていた光太郎の、虚ろな双眸に俄かに生気の光が戻ってきた。

「…ってことは、魔物も普通にご飯を食べるってこと?」

 シューの肩の上でバッと顔を上げた光太郎に、シューはフンッと鼻を鳴らして外方向いた。

『当たり前だろーが。お前本気で魔族をバカにしてるだろ?』

「ううん、そんなことないよ!そうか、魔物でもやっぱり普通の食事なんだ。良かったー、俺人間を食べてなくて。そんなことしてたらもう、本当に生きていく自信がないもんなぁ…ってことは、ベノムはやっぱり普通に俺と会話してくれる良い魔物だったんだ」

 嬉しそうにシューの肩の上で喜ぶ光太郎を、ライオンヘッドの魔物は複雑そうな気分で黙り込んでいた。

(…良い魔物ってお前)

 なんと返事をするべきなのか…それすらも疲れたようにシューはガックリと項垂れたくなる気持ちを引き締めて部屋を出た。肩の上では鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌の光太郎の腹が、主の代わりにグーグーと大合唱している。
 現金なものだが、今時の中学生を知らないシューにとって、それは当に青天の霹靂の出来事だったことは言うまでもない。

『シューじゃねーかよ。暫く見ない間に人間を飼い馴らしてんのかい?』

『バッグスブルグズ、お前は呼んじゃいねーよ』

 フンッと鼻を鳴らすシューに、馬面の魔物は肩に担がれている光太郎の顔をニヤニヤと笑いながら覗き込んできた。その馬面に、光太郎が屈託なくニコッと笑いかけるから、シューとしては面白くない。
 バッグスブルグズを追い払うようにシッシと手を振りながら、光太郎から遠ざけようと身体を捻るシューに、馬面の魔物はニヤニヤ笑いを顔面いっぱいに広げながら、何か面白いものでも見つけたような表情で今度はシューの顔を覗き込んだ。

『お呼びじゃねーとはひでーな。チビの人間を連れてどこに行こうって言うんだ?ええ、御大将さまよ』

『バッグスブルグズ、その馬面をペシャンコにされたくなかったらとっとと立ち去ることだ。判ったか?』

 シューは本当にこのバッグスブルグズと言う魔物が苦手なのか、褐色の鞣革のような皮膚に覆われた隆々の筋肉質な腕に産毛を逆立てて、不機嫌そうに威嚇でもするかのように唇の端を捲り上げている。どうやらシューの天敵のようだと見て取った光太郎は、大人しく口を噤んで事の成り行きを興味深そうに見守った。

『お前さんの行動は逐一判ってんだ。大方余程大事な人間なんだろうなぁ。お前さんが肩に担ぎ上げてるところを見れば一目瞭然だぜ』

 不意にシューの眦がギリッと釣り上がった。

 その全身から立ち昇る陽炎は、まるでドライアイスに水をかけたときに出る煙のように、静かにしかし確実に噴出す怒りのオーラのようであった。

 その気配にバッグスブルグズはブルブルッと身震いし、光太郎は肌を焼くようなチリチリとした感触に背筋が凍るような、あの魔王を見たときに感じた嫌な汗が背中に滲み出て首を竦めてしまう。

『おお、おっかねぇなぁ!はいはい、俺は潔く退散することにしますよッ!』

 さすがにシューの凶悪なほどの機嫌の悪さに気付いたのか、バッグスブルグズは両手を降参したように挙げて愛想笑いを浮かべながら後退さると、そのままヒョイッと駆け足で姿を消してしまった。
 思ったよりも小心者の魔物のようだ。
 しかし、たとえ小心者でない魔物だったとしても今のシューには誰もが怯えてしまうだろう。その気持ちは今の光太郎にも充分良く判る。
 だが、バッグスブルグズが立ち去ると同時に消えた怒りの後は、光太郎が良く知るシューの気配が戻ってきて光太郎は俄かにホッとした。

『チッ!いちいちと目障りな野郎だ。魔王の命が出れば一瞬で捻り殺してやるんだがなぁ』

 そんな物騒なことを言ってズカズカと歩き出したシューに、肩の上からバッグスブルグズの消えた回廊を見送っていた光太郎が、燃え上がるような鬣をグイグイと引っ張りながら笑った。

「魔物ってホントに色んなヤツがいるんだなぁ。人間もそうだけど、よく考えたら俺たちって良く似てるな!シューはそう思わないか?」

『思うか』

 即答はしかし、然程苛ついた様子もなくて、調子に乗った光太郎はまたしてもペラペラと話し出す。

「俺が住んでいた世界だと、こんな風にRPG的な世界観だと必ず同じ台詞が出るんだよなぁ。”どうして魔物と人間は争わずに暮らせないのでしょうか”とかね。それはやっぱり価値観の違いだと思うんだけど、どうかな?人間同士だって価値観の違いで戦争とかするんだよ?ましてや考え方が違う魔物と仲良くしようなんて言うのは、やっぱり人間の方がまずは人間同士で仲良くしてお手本を見せないといけないんじゃないかって俺は思うけど。シューはそう思わない?」

 古びた石造りの階段を、壁に掛けられた松明の明かりを頼りに、いや、そもそも夜目には慣れている魔物は敏捷な足取りで下っている。普通の人間よりも、そして下級の魔物よりも、高等であるが故に全てに於いて秀でているシューにとって、城内は目を瞑っていてもスイスイと行動することができるのだろう。

『人間同士は無駄にベタベタしていると俺は思うがなぁ…そのくせ平気で裏切ることができる。そこが俺たち魔族には判らないところだ』

「魔族って裏切らないのか!?」

 驚いたように尋ねる光太郎に、シューはちょっとムッとした様な顔をして唇を尖らせた。
 光太郎が暮らしていた世界の常識では【魔】と名がつくモノに良いものなどいないし、ましてや魔の根源たる【魔族】でありながら裏切りと言う行為を平気でしていないと言うのは、それこそありえない状況ではないのだろうか?
 光太郎が驚いたとしても、それは仕方のないことである。

『全くない!…などと清廉潔白なことは言わん。そりゃあ、裏切るヤツもいれば寝返るヤツだっているさ。だが、魔族は掟を決めてそれを取り締まっている。余程悪行をこなしたヤツなら話は別だがな』

「んー、どう言うこと?」

 首を傾げる光太郎に、シューは肩を竦めながら言葉を続けた。

『悪行をこなした連中はそれなりの位がつくのさ。位と言うのがまた厄介な話なんだが、俺たち魔物はそれぞれに魔力と言うものを生まれながらにして持っている。その強さは外見に反比例して備わっているからな、ゼィのように弱っちそうに見えても力は強いぞ。まあ、アイツも俺も昔は相当悪さをしていたからなぁ…』

「シューは悪い魔物だったのか」

 光太郎が笑ってそう言うと、頭部がライオンそのものの魔物はその時になって初めてプッと吹き出した。

『光太郎は本当にヘンなヤツだな。人間から見れば魔物はみんな悪いんだろーがよ?』

 どの世界でもやはり人間は魔物を毛嫌いして、魔物は人間を毛嫌いしているのだろう。そこは光太郎には判らない歴史の流れと言うものがあるのだから、それ以上は何も言わないでいたが、こうして触れ合ってみると、然程魔物が悪さをする…とは思えず、それどころか案外親しみ易い気のよい連中だと言うことに気付けるのになぁ…と思っていた。
 ヤンキーと呼ばれる不良少年達が、意外と良い性格をしていて優しかったりすることを悪友を見ていて知っている光太郎は、いつかこの世界の【人間】が【魔物】の優しさに気付けるとしたら、もう少し平和な世界が訪れるんだろうと思った。
 でもそれは【人間】だけの努力じゃどうにもならないことで、【魔族】も共存の道を歩むことを真剣に考えて歩み寄れればの話なのだが…恐らくそうしたことが無理だったからこそ、この世界の空は暗いのだろうと光太郎は内心で小さな溜め息をついていた。

「でも、悪い魔物だったシューは今は良い魔物になってるってことなんだろ?」

 ニコッと笑う光太郎に、シューは呆れたような困ったような表情をしながら、やれやれと耳を伏せて首を左右に振った。
 閉じた瞼の裏の鋭い双眸を見たとき、光太郎だって最初からシューに懐けたわけじゃない。
 【魔王の贄】と言う存在で特別視される状況に於いて初めて、シューと関わりを持つことができたのだ。もしこれがこの世界の普通の住人として出会っていたのであれば、シューは当たり前のように光太郎を殺すだろうし、光太郎も当たり前のようにシューに戦いを挑むか逃げ出すかのどちらかだったに違いない。
 長年培われてきた習慣を拭い去ってなお歩み寄ることなど、社会のことに疎い光太郎でも知っている、歴史問題でざわめく日中の関係となんら変わりはないのだろう。
 いつか判り合える時が来たときこそ、本当の平和に辿り着けるのかもしれない。

(難しいんだろうな。シューだって、ホントは俺のこと迷惑だって思ってるにちがいないんだから…)

 人間などに関わる事など、本意では決してないのだろう。
 魔王の命令でなければ、それこそ、バッグスブルグズのように八つ裂きにされているのかもしれない。

(それでも)

 光太郎はふと思う。

(シューしか頼れる人はいないんだ。殺されてもいいから傍にいたいって思うことは、ヘンなのかな?)

 無造作に担いでいるシューのともすれば愛嬌のある横顔をチラリと見た光太郎は、子供のように下唇を突き出してフイッと視線を逸らしてしまう。なんだか、とんでもなく恥ずかしいことを考えてしまったのではないかと思ってバツが悪くなったのだ。

『良い魔物かどうかなんてこた、そんなものが果たしてこの世に存在しているのかどうかを問うようなもんだな。そんなこた俺には判らねぇってのが返事さ』

 律儀に答えてから、そんな自分がおかしかったのか、肩を竦めたシューがヘッヘッと鼻先で笑った。
 そんなシューに、光太郎は大きく頷いてまるで宣言するように言ったのだ。

「じゃあ、シューは良い魔物なんだよ。俺はそう思うよ」

 照れ隠しついでにエヘヘと笑って見せると、シューは何やら不機嫌そうに鼻を鳴らしてフンッと外方向いてしまう。
 そんなシューに首を傾げる光太郎を見向きもせずに、ライオンヘッドの魔物はわざとらしくズカズカと乱暴に石造りの階段を足早に下りて、小さな人間の身体を大きくバウンドさせてしまった。

「わッ、うッ、わ!」

『魔物が良いヤツなんて言われて喜べるかよ』

 そんなシューのそれが、実は照れ隠しなんだと言うことに、光太郎が気付くのはもう少し先のことになる。
 腹の虫が大合唱を始めだす頃、シューと光太郎は魔王の居城の名料理長ご自慢の食事が並ぶ食堂に辿り着いていた。